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Monday, January 21, 2013

the testimony of ex-comfort woman,So Shindo

http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/1064469/



慰安婦になるまで【宋神道①】証言と慰安所
2009/06/02 17:30

신의주시(新義州市) Sinuiju city in North Korea
※現在の新義州?ソン・シンドは仲介業者に誘われ、この地の「紹介所」へ赴く。



my life until to be a comfort woman, Ms.Song Shindo,her testimony and comfort station

※ today's Sinuiju city, Son Sindo was invited from brokers, she went to the "agency" of the land.

Q: when did the term of your marriage decide?
A: it was at my age of just 16.

(Snip)

Q: you were still playing with beanbags usually around the time.
A: yes,that's right,even in my home,i played it. i was playing house or blowup.

(Snip)

Q: why did you run away from your house?
A: since i had not known "man".

(Snip)

Q: then you had ran away (from husband house), and back to your parents' house.
A: yeah, I went back.

Q: when you got back,were you able to stay in your house?
A: no,i could not. there was a rule that married once, the woman could not back her house in korea.
anyway,when i went back to my house,my mom was angry,she hold wooden stick and hit or kicked me.i could not stay there,then i got out again.





Q 結婚の話が決まったのはあなたが幾つの時ですか。

ちょうど16歳のとき。

(中略)

Q 普段もまだお手玉して遊ぶような年頃だったんですか。

そうなんです。うちにいてもそうなんです。ママゴトしたり喧嘩したりさ。

(中略)

Q 逃げ出したのはどうしてですか。

やっぱり何だか知らないから。男知らないから。

(中略)

Q それで逃げて実家に戻ったんですか。

はい戻ったの。

Q 実家に戻ると実家にそのままいさせてもらうことは出来たの。

いや、朝鮮ではいったん嫁にくれたら3年の間は自分のうちに帰れないような規則なんですよ。それでとにかく実家に行ったらお母さんが怒って棒を持って、何だか嫁御に行った者が逃げてきたとか何だか言って殴りかかって足で蹴ったりするから、どうしようもないから、そこにいられなくて出たの。

(中略)

Q そういうふうにしているときに戦地に行かないかというふうに誘われたんですか。

戦地に行かないかと言われたんだけれども、その戦地というのが分からないから。

Q 戦地へ行かないかと誘った人はどんな人だったんですか。

やっぱり朝鮮人で歳は42,3歳ぐらいのばあさんで、それでああいうところさ行けば国のために働くにもいいし。何だかんだとかうまいこと言ったためにその口車に乗ってそのババとくっついて行ったわけですよ。

Q そのおばさんに宋さんが子守をしているときに会って誘われたわけですね。

はい。

(中略)

Q 戦地へ行けば結婚なんかしなくても食べていけるからと。

はい、はい。

Q それでそういう話を聞いて宋さんはどういうふうな気持ちから戦地に行って働こうと思うようになったんですか。

それは行ってみないことには分からなかったし、まだ子供だし、どういうふうにするんだか分からないので、手任せ足任せ。そのおばあさんを信用して北朝鮮の平壌だか何だか連れていかれたの。

Q その女の人は宋さんの例えばお母さんとかと知り合いだとか、そんな話はしなかったですか。

それは言いましたけれども、それはお母さんとそのおなごが友達か何だか分からないけれども、私には全然見たことがないおなごだから心配はしました。

Q ・・・そのおばさんは宋さんのお母さんを知っていると言ったんですか。

おばちゃんがかあちゃんのことを知っていると言いました。(中略)出身が同じ北朝鮮だからとか、なんだとかかんだとか。

結局、北朝鮮の平壌というところがあるのよ。そこに人間ブローカーみたいな看板かけてやっているところがあったのよ。

Q その場所なんだけれども平壌というのと陳述書録取書では。

新義州。

Q 新義州でいいのかな。

いいよ。

Q 看板の話を聞きますが、看板には何と書いてあったんですか。

ブローカーって朝鮮語でソーゲンソー(紹介所)って書いてある。日本語だと何だか分からないけれども。

Q ソーゲンソーって日本語で言うと紹介所という意味。

うん、紹介所。

(宋は新義州にあった紹介所から、業者に連れられて天津、漢口、武昌と移動する) 

Q ・・・それは誰と一緒に行ったんですか。

とにかく武昌とか漢口というところはコウさんという朝鮮人の男に連れていかれたの。


裁判における宋神道の本人尋問(1996-1997)より [間接引用 要確認]


これを読む限り、少なくとも宋神道(ソン・シンド)のケースでは、慰安婦の希望者を探していた(芸娼妓?)紹介所の委託を受けた口入屋がソンに調子のいい話を聞かせて紹介所に連れて行き、契約後(ソンには契約の事実は知らされていないらしい)慰安所の関係者(コウさんは慰安所の使用人)に伴われて中国の慰安所へと赴いたということらしい。

Japan's Kem pei tai political police and their collaborators tricked or abducted females as young as eleven years old and imprisoned them in military rape camps known as "comfort stations,"
日本の政治警察「憲兵隊」とその協力者たちは女性を騙したり誘拐したりして、11歳からの女性をアジア中に設置された「慰安所」という名で知られる軍用強姦所へ監禁した。(ネットに見る外国人の感想【Comfort Women Speak】 参照)

海外でしばしば語られている上のようなイメージとは大分違うようである。  

慰安婦となった娘【宋神道②】証言と慰安所 へ続く。

http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/1064908/

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慰安婦となった娘【宋神道②】証言と慰安所
2009/06/04 19:54


※ ソンが慰安婦として最初に働いていた中国の武昌。


そこがいかなる場所かも知らず、中国にある慰安所についた宋神道(ソン・シンド)は軍医による検査を受ける。当然彼女のショックは大きかった・・・。(前エントリー 慰安婦になるまで【宋神道①】証言と慰安所 の続き)

やっぱり行ったとき、まだ許可しない(ママ) うちは、あふれた兵隊さんたちが入ってくるけれども、許可を受けないうちだったから。(性病検査に合格して開業許可を得るまでは、兵隊の利用者が殺到するという事はなかった、という意味?)

Q ・・・許可というのは何の許可なんですか。

分からないよ、その許可は。

Q 分からないけれども、許可の前だという話だけは聞いていたわけですか。

はい、聞いています。

Q それは誰に聞いたんですか。

帳場だのコウさんだのが言ってるから。

Q コウさんという宋さんを連れて来た人だとか、それから慰安所の帳場の役の人がいるわけですね。

はい。

Q その帳場の人の名前は何という名前か覚えていますか。

サイさんといってたな。

このあと、ソンは軍医による性病検査を受けて合格する。その軍医がその晩、客としてソンの元を訪れる。

Q 橋本軍医は何をしようとしたんですか。

ただ突っ立ってるからさ、今ならば座れと言えば座るもんだけど、ただ立っているもんだから、軍医もこっち、と引っ張ったんじゃないかなと思うんだよね。で、オレ、ダメだって、言うことをきかなかった。

(中略)

Q それで、その橋本軍医という人は宋さんが泣いているのを見てどうしたんですか。

そして、これじゃうるさくてたまんないって、そのまま帰っちゃったの。そうやって騒がれるより帰った方がいいんじゃないかなと思って帰ったんじゃないかなと思うの、私はね。

Q ・・・そういうことで慰安所の人に怒られるということがありましたか。

言うこときかないとか、そんなことするから朝鮮に帰れないとか、いろんなことを言われました。

Q それは誰に言われたんですか。

そこのやっぱり帳場なり、使ってるコウさん(ソンを新義州にあった「紹介所」から連れて来た朝鮮人)なりが言ったの。

Q ・・・あなたが橋本軍医の相手をしなかったということで怒ったわけですね。

うん。

Q どんなことをされたんですか。

髪を引っ張って殴ったり、蹴飛ばしたり、鼻血が出るくらい殴ったりしたの。

(中略)

Q 暴力だけじゃなくて、口で何か責めるようなことを言われましたか。

やっぱり、お前は借金背負って来たんだから、借金払っていけだとかさ。借金背負ってもいないもの借金背負ったと言って。

Q ただ宋さんは、コウさんからも、もちろん帳場のサイさんからも、それから朝鮮まで(ママ)連れてきたお婆さんからもお金をもらってませんよね。

はい。

Q それなのに借金というのはどういう意味なんですか。

分からないね。そいつ、ほら、自分たちが引っ張ってきた経費とかね、汽車賃だとか、何だかひっくるめて借金を背負わされて、それで、まぁ、悪いことするつもりでしたんだか分からないけれども、ただ、借金背負った、借金背負った、と。私ばかりじゃなくて、他の人間たちも責められて、いじめられて働いている人間もいたわけだから。

(中略)

・・・言うこときかないと借金払っていけ、と。その借金というのは何やらと言うと、着物買ったとか、お前引っ張ってくるとき、こういうふうにして、まま(食事?)だの汽車だの船だの乗って来ただとか、そういうようなことを喋りまくって。


(1996~1997年の裁判において行われた本人尋問の一部。「オレの心は負けていない」樹花舎 より)

鉄拳を振るうのは日本軍の悪しき伝統かと思ったが、ソンの話を読むと、家にいては母親に棒で殴られ(慰安婦になるまで【宋神道①】証言と慰安所)、慰安所の従業員にも殴られ、まさに踏んだり蹴ったりの人生である。彼女は酔っばらった兵隊にも殴られている。

当時の最下層の暮らしがいかに暴力にまみれていたかは(炭鉱の女たち【逃げることも叶わず】)を参照してもらえればと思うが、そんな時代にあって軍隊にもそれが反映されていたであろうことは軍隊経験者の証言からも容易に想像がつく。

とはいえ、この問題を政治問題化させようと考える人々の中には、証言の中から軍人による暴力のみを切り出したり、あるいは慰安婦が経験した虐待をすべて軍主導によるものと誤解を招きかねないような文章を発信するキライがあるようだ。

宋神道さんは1922年、朝鮮の忠清南道に生まれた。満16歳の時(1938年)、騙されて中国中部の武昌で「慰安婦」をするよう強制される。 (在日の慰安婦裁判を支える会 HP)

(↑ こういう書き方をされれば誰だって日本軍が騙したと思うだろう。いわゆる「主語を省く」というやり方だ。意図してかどうかは分かりようもないが、日本が世界中から誤解される原因はこんな所にあるのだろう)


彼女の証言からもう一つ見えてくるのは、しばしば論点になる「慰安所における廃業の自由」についてだ。どうも「日本軍が女性を拘束して奴隷労働に従事させていた」といった世界に広く流布されたイメージとは異なり、その実態は当時よく見られた身売りされた女性と雇用主との間のトラブルである。

「 まぁ、(業者も)悪いことするつもりでしたんだか分からないけれども」

というソンの言葉も我々には驚きである。(彼女の人の好さを感じさせるセリフでもある)。もちろん現代の感覚では就業詐欺であり、厳密に言えば当時も違法であったはずだが、肝心のソンにその意識が薄いように見受けられる。

世界は白か黒かのいずれかで構成されているわけではないようだ。



宋神道
宋 神道(ソン・シンド、1922年11月24日 - )は宮城県に在住していた在日韓国人女性。生活保護受給者として日本の宮城県で生活していたが、1992年1月に日本政府を糾弾する元従軍慰安婦を公募する市民団体に連絡し、元「従軍慰安婦」として政治活動を開始する。翌年には市民団体と「在日の慰安婦裁判を支える会」を発足し、日本政府に謝罪と損害賠償767億5893万7500円の支払いを求めて訴訟を開始する[1]が2008年に全面敗訴した。(ただし、1938年から1945年まで宋が慰安婦であったことは認定された。)この活動が認められて1997年12月に第9回多田謡子反権力人権賞を受賞した。
wikipedia



http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2969&syosekino=2811


評者◆宋神道
日本の国がやったこと、解決しなくちゃなんねい――シリーズ第三回 証言/日本の「韓国併合」100年を掘り起こす
No.2969 ・ 2010年06月12日





在日朝鮮人の元日本軍「慰安婦」として裁判を起こして一〇年間たたかった宋神道さんにインタビューした。宋さんはその後も「慰安婦」問題の解決を求め、戦争を二度と繰り返さないことを願いながら、日本社会での差別と格闘している。その宋さんの生き様について「在日の慰安婦裁判を支える会」として活動してきた梁澄子さんに語っていただいた。インタビュー・編集・構成は、本シリーズ特別取材班チーフの熊田洋子が担当した。
本シリーズは、これまで第1回が元日本軍「慰安婦」の姜日出さん、ナヌムの家歴史館研究員の村山一兵さん、第2回が山口県長生炭鉱強制労働体験者の金景鳳さん、現地調査を重ねてきた李修京東京学芸大学准教授のインタビュー。今後第4回は岡まさはる記念長崎平和資料館の高實康稔館長、長崎在日朝鮮人の人権を守る会の柴田利明事務局長、第5回は丹波マンガン記念館(再建準備中)の李龍植館長、詩人の石川逸子さんを予定している。

▲宋神道(ソンシンド)さん=1922年11月24日、植民地下の朝鮮忠清南道に生まれる。数え年16歳の時、結婚式当日に婚家から逃げ出したところ、ある女に「戦地に行けば結婚しなくても生きていける」とだまされ、新義州、天津、漢口を経て、武昌の慰安所「世界館」で「慰安婦」の被害にあう。その後も...



http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2011/03/blog-post_5034.html



日 대지진으로 위안부 할머니 행방불명

[아시아경제 김승미 기자]일본 사상 최악의 강진·쓰나미가 강타한지 사흘째, 사망자와 실종자가 5000여명이 넘어선 가운데 일본에 거주하는 위안부 할머니가 행방 불명 상태인 것으로 알려졌다.

14일 한국정신대문제대책협의회(이하 정대협)에 따르면 일본 대지진 피해 지역인 미야기현에 사는 송신도(89) 할머니는 지진이 난 이후 연락이 두절됐다.

충남 유성 출신인 송 할머니는 16살에 일본군에 끌려가 중국에서 위안부 생활을 강요당했으며 전쟁이 끝난 뒤 일본에서 재일교포와 결혼했다. 송 할머니는 일본에 위안부 피해자를 밝힌 유일한 생존자로 알려져 안타까움을 사고 있다.

송 할머니가 일본 정부를 상대로 사죄와 보상을 요구하며 10년 동안 법정 투쟁을 벌인 과정을 담은 다큐멘터리 '내 마음은 지지 않았다'는 지난 2009년 국내에서 개봉된 바 있다.

정대협은 "현재 일본의 '재일조선인 위안부를 지원하는 모임'에서 할머니 상황을 백방으로 알아보고 있으며 정대협 역시 외교통상부에 할머니의 생존 확인과 구조 요청을 하고 있다"고 말했다.

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