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Wednesday, August 22, 2012

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解法者氏 朝鮮講座追加論文

前文 日本の朝鮮統治の評価について
日本による朝鮮統治の実相(経済編)
李氏朝鮮時代の様相
李朝時代の経済の実相、庶民の生活の様相
李氏朝鮮末期の商業形態
日本統治時代の経済の実相、庶民の生活の様相
朝鮮における奴婢
李氏朝鮮時代末期の様相
古墳
外国人の見た朝鮮
外国人の見た日本
外国人の見た朝鮮と日本の比較
李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口
アジア・アフリカ植民地の教育制度
李氏朝鮮時代の教育の歴史
科 挙
士 禍
大韓帝國時代の教育の歴史
朝鮮統監府時代の教育の歴史
日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史
朝鮮における日本人・朝鮮人別学
日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史
「京城帝國大学」設立までの経緯
「京城帝國大学」 予科
「京城帝国大学」 学部 (本科)
前文 日本の朝鮮統治の評価について

日本の統治の評価については、李朝時代の実相および日本の江戸時代との比較が欠かせない。
ところが、植民地史観の人たちは朝鮮人はおろか日本人も突然日本統治の時代から論を進める。
これは李朝時代の実相を明らかにすれば日本統治の評価が是認されるからである。
特に日本の江戸時代と李朝時代の比較をしているものは皆無である。これも同じ理由に基づく。つまり、自己に都合の悪いことを隠匿しているのである。

研究成果を公表するにあたって、次の順番で論を進めたい。
1.李朝時代の経済の実相、庶民の生活の様相
2.日本統治時代の経済の実相、庶民の生活の様相
① 土地調査事業の実態
② 産米増殖計画(未完ですが、がんばります)
③ 農民の生活状況
④ 労働者の生活状況
3.日本統治時代の教育
4.韓国・北朝鮮に収奪された日本財産

このように日本統治経済史といえます。政治史については後に投稿いたします。
なお、「植民地」という用語は使いません。これは<併合>したからです。
武力による一方的な侵略とは異なります。
台湾についは、朝鮮との比較で論じます。まだ研究が不足してます。


表題は「日本による朝鮮統治の実相(経済編)」
細目(項目)は、
1.李氏朝鮮時代の様相 
2.朝鮮総督府の土地調査事業と農民の生活
3.産米増殖計画と農民の生活 
4.朝鮮・台湾の財政 
5.朝鮮・朝鮮人による日本財産の収奪

「日本による朝鮮統治の実相(教育編)」
1.李氏朝鮮時代の教育 2.日本統治時代の初等教育 3.日本統治時代の中等教育
4.日本統治時代の高等教育

「日韓併合の真実-日本による植民地化の否定」

※ なお、1897年に李氏朝鮮王朝は「大韓帝國」となり、1910年まで続きますが、国号の変更のみで実体は「李氏朝鮮王朝」と変わりませんから
「李氏朝鮮」と表記します。

現在、投稿中は、「日本による朝鮮統治の実相(経済編)」の1.李氏朝鮮時代の様相です。
また、再掲というよりも以前のものを加筆・訂正し「新掲載」と考えてください。
日本による朝鮮統治の実相(経済編)」
細目(項目)は、
1.李氏朝鮮時代の様相 
2.朝鮮総督府の土地調査事業と農民の生活
3.産米増殖計画と農民の生活 
4.朝鮮・台湾の財政 
5.朝鮮・朝鮮人による日本財産の収奪

「日本による朝鮮統治の実相(教育編)」
1.李氏朝鮮時代の教育 2.日本統治時代の初等教育 3.日本統治時代の中等教育
4.日本統治時代の高等教育

「日韓併合の真実-日本による植民地化の否定」

※ なお、1897年に李氏朝鮮王朝は「大韓帝國」となり、1910年まで続きますが、国号の変更のみで実体は「李氏朝鮮王朝」と変わりませんから「李氏朝鮮」と表記します。

現在、投稿中は、「日本による朝鮮統治の実相(経済編)」の1.李氏朝鮮時代の様相です。
また、再掲というよりも以前のものを加筆・訂正し「新掲載」と考えてください。

「日本による朝鮮統治の実相(経済編)」

1.李氏朝鮮時代の様相

李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時43分29秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
この時代の土地制度は、① 王および王族に所属するする土地、② 国家機関・地方機関に所属するする土地、③ 私人に属する土地、に分けられていた。ここで<所属>したというのは後に説明するが、土地は全て国家が所有し、その支配下にあるものはそれを国家から借用しているという観念が確立していたため、<所有>という観念が確立してなかったことによる。
この土地の農地のうち、前二者を「公田」、後を「民田」といった。この「民田」は元々「公田」であったが、国家に功績のあった者に下賜されたものが根源となっていたが、いつの間にか有力者が中央官吏などと結託して「民田」
としたものである。
この区別は国家にとってはそう重要なことではない。つまり所有は国家にあり、課税さえなされていれば良かったからである。
土地は「有税地」と「無税地」に分けられ、王および王族に所属するする土地は当然に後者であった。前者は私人に属する土地はもちろん国家機関・地方機関に所属するする土地も原則としてこれに属していた。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時41分0秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮時代の土地税は元税と税の2種類があった。前者は租(地代)をいい、後者は税(地租)をいう(「李朝農民経済史」全錫淡〔『李朝社会経済史』1946年(朝鮮語)に書収〕)。つまり、国家・地方機関、民衆が所有する土地については、
国家は支配を有しており、これを国家がその使用を認諾するとの観念に根ざしていて「地代」を徴収していたのであって、土地を政治的に支配していたと考えられる。こうしたことから李氏朝鮮時代は私的土地所有権が確立してなかったと言い
得る。
国家の土地の管理は、中央から地方に派遣された監司、守令が行っていたが、次第に権力が腐敗し主として地方任用の胥吏(しょり)によって買収され「無税地」が広がっていった(『経国大典』巻之5-刑典「元悪郷吏」 1485年、『牧民心書』
丁 茶山〔丁 若庸(本当は金+庸〕巻之9-吏典6条 1811年)。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時39分26秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
農村社会の問題は土地税ではなかった。これは国家が収税できないだけの話で
あって農民が困るわけではない。
農村社会経済の停滞は、① 国家が「水利問題」を全く解決できないことに
あった。李朝初期には農村に堰堤、溜池が作られたが、その修理・管理に手が行き
届かず、特に堰堤内の肥沃な土地を地方両班が勝手に「冒耕」し、壊れた堰堤を
修理するどころか灌漑中の堰堤を壊して耕食することさえ行われていた(『李朝
水利史研究』李 光麟 1961年(朝鮮語)、丁 茶山-前掲書巻之11工典川澤条)。
そのため、用水がままならず常に水不足が起き、また旱魃には処置できず、溜池
などなく小池のみだったので水害にも抗し切れなかった(『韓国ニ於ケル農業ノ
経営』朝鮮統監府商工部 906年、「朝鮮農業の自然基礎-水を中心として-」
金 民煕〔『農業経済研究』第19巻4号に書収〕)。台湾では日本統治が始まる
前に灌漑施設が発達していたようであり、1905年~1909年には既に水田
の灌漑面積は66・5%達し、日本統治が始まってからはさらに伸び、1925
年~1929年には99.5%となった。これに比べて朝鮮では1935年に
なっても46%、1940年にも50.3%にしか達していなかった(「小農経営
の比較史的検討」中村 哲〔『日本資本主義と朝鮮・台湾』堀 和生・中村 哲
京都大学学術出版会 2004年に書収〕)。これは李氏朝鮮時代の灌漑施設が全く
整っておらず日本統治が始まってもなおそれが構築できなかったことを示している。
それでも水利問題が進行したのは、日本統治時代の土地調査事業を経て、土地所有
権が確定し、産米増殖計画が行われた過程である。
農産物の品種も概して劣悪なものが多かった(林 炳潤『植民地における商業的
農業の展開』東京大学出版会 1971年)。肥料も不足し害虫駆除予防については
何一つされていず(『韓国ニ於ケル農業ノ経営』)、稗抜もほとんどされておらず
(『李朝農業技術史』李 春寧 1964年(朝鮮語))、稗を植えたのか稲を植えた
のか判別しがたかったのであった(「水稲品種の変遷」藤田 強(『拓殖銀行調査
月報』第25号に書収)。



1.李朝時代の経済の実相、庶民の生活の様相

李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時43分29秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
この時代の土地制度は、① 王および王族に所属するする土地、② 国家
機関・地方機関に所属するする土地、③ 私人に属する土地、に分けられて
いた。ここで<所属>したというのは後に説明するが、土地は全て国家が所有
し、その支配下にあるものはそれを国家から借用しているという観念が確立
していたため、<所有>という観念が確立してなかったことによる。
この土地の農地のうち、前二者を「公田」、後を「民田」といった。この
「民田」は元々「公田」であったが、国家に功績のあった者に下賜されたもの
が根源となっていたが、いつの間にか有力者が中央官吏などと結託して「民田」
としたものである。
この区別は国家にとってはそう重要なことではない。つまり所有は国家に
あり、課税さえなされていれば良かったからである。
土地は「有税地」と「無税地」に分けられ、王および王族に所属するする土地
は当然に後者であった。前者は私人に属する土地はもちろん国家機関・地方機関
に所属するする土地も原則としてこれに属していた。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時41分0秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮時代の土地税は元税と税の2種類があった。前者は租(地代)をいい、
後者は税(地租)をいう(「李朝農民経済史」全錫淡〔『李朝社会経済史』1946年
(朝鮮語)に書収〕)。つまり、国家・地方機関、民衆が所有する土地については、
国家は支配を有しており、これを国家がその使用を認諾するとの観念に根ざして
いて「地代」を徴収していたのであって、土地を政治的に支配していたと考えら
れる。こうしたことから李氏朝鮮時代は私的土地所有権が確立してなかったと言い
得る。
国家の土地の管理は、中央から地方に派遣された監司、守令が行っていたが、
次第に権力が腐敗し主として地方任用の胥吏(しょり)によって買収され「無税地」
が広がっていった(『経国大典』巻之5-刑典「元悪郷吏」 1485年、『牧民心書』
丁 茶山〔丁 若庸(本当は金+庸〕巻之9-吏典6条 1811年)。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月26日(火)21時39分26秒 ACCD1D89.ipt.aol.com   返信・引用
農村社会の問題は土地税ではなかった。これは国家が収税できないだけの話で
あって農民が困るわけではない。
農村社会経済の停滞は、① 国家が「水利問題」を全く解決できないことに
あった。李朝初期には農村に堰堤、溜池が作られたが、その修理・管理に手が行き
届かず、特に堰堤内の肥沃な土地を地方両班が勝手に「冒耕」し、壊れた堰堤を
修理するどころか灌漑中の堰堤を壊して耕食することさえ行われていた(『李朝
水利史研究』李 光麟 1961年(朝鮮語)、丁 茶山-前掲書巻之11工典川澤条)。
そのため、用水がままならず常に水不足が起き、また旱魃には処置できず、溜池
などなく小池のみだったので水害にも抗し切れなかった(『韓国ニ於ケル農業ノ
経営』朝鮮統監府商工部 906年、「朝鮮農業の自然基礎-水を中心として-」
金 民煕〔『農業経済研究』第19巻4号に書収〕)。台湾では日本統治が始まる
前に灌漑施設が発達していたようであり、1905年~1909年には既に水田
の灌漑面積は66・5%達し、日本統治が始まってからはさらに伸び、1925
年~1929年には99.5%となった。これに比べて朝鮮では1935年に
なっても46%、1940年にも50.3%にしか達していなかった(「小農経営
の比較史的検討」中村 哲〔『日本資本主義と朝鮮・台湾』堀 和生・中村 哲
京都大学学術出版会 2004年に書収〕)。これは李氏朝鮮時代の灌漑施設が全く
整っておらず日本統治が始まってもなおそれが構築できなかったことを示している。
それでも水利問題が進行したのは、日本統治時代の土地調査事業を経て、土地所有
権が確定し、産米増殖計画が行われた過程である。
農産物の品種も概して劣悪なものが多かった(林 炳潤『植民地における商業的
農業の展開』東京大学出版会 1971年)。肥料も不足し害虫駆除予防については
何一つされていず(『韓国ニ於ケル農業ノ経営』)、稗抜もほとんどされておらず
(『李朝農業技術史』李 春寧 1964年(朝鮮語))、稗を植えたのか稲を植えた
のか判別しがたかったのであった(「水稲品種の変遷」藤田 強(『拓殖銀行調査
月報』第25号に書収)。

李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)09時17分25秒 ACCD124C.ipt.aol.com   返信・引用
② 両班階級のあくなき<収奪>にあった。奴婢(奴隷)を所有し耕作民として
したことはよく知られている事実である。李氏朝鮮時代の末期に限らず、その時代
全般を通じて経済停滞を招いたのは、その<収奪>した富が蓄積されてなかった
ことにある。その時代の男系の血族は一族を形成し、その分派は一門と称し、職を
失い、職に就くことができなかった者は一門中の在官者・在職者に寄食した。収奪
した富は彼らの生活の維持のための飲み食いに消費され、蓄積されることはなかった
のである(「李朝末期の農村」大竹武次〔『朝鮮社会経済史研究』京城帝國大学法文
学会 1933年に書収〕)。なお、土地の細分化は李朝独特の「共同相続」の形態に
よる(『慣習調査報告書』朝鮮総督府取調局 明治45年、『李朝の相続財産法』
朝鮮総督府)。日本統治時代の小作人の増加の遠因はここにあった。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)09時15分44秒 ACCD124C.ipt.aol.com   返信・引用
③ 農村社会経済引いては全般の経済の停滞は、商人資本や家内工業が未発達
であったことである。先に述べたように、農業生産が停滞し両班が商品化する
ほどに両班が収奪した米穀などがなく、加えて農民が極めて困窮していたことに
よる。さらに、商工鉱業を卑しむ風潮が蔓延し、日本の江戸時代のように商工
鉱業が尊ばれ、町人文化が花開き、町には店舗が溢れかえっていたのと全く
様相が異なり、漢城(ソウル)などにも店舗は極めて少なく、地方では全く存在
すらしてなかった。したがって、日本の江戸時代のような「お伊勢参り」などを
行う余裕など全くなかったのである。この時代の大半を占めていた農業従事者の
資本が蓄積されなかったのであるから、商業資本が育つはずもなかったのである。
農村を商業対象とするものには「負褓商(ふほうしょう)-褓負商ともいう」
があった。「負商」とは陶器、漆器、金物、日用品などを背負子(しょいこ-
朝鮮語ではチゲ)に担いで、市場、農村を巡回して商うものであり、「褓商」とは
呉服、反物、小間物、雑貨などを風呂敷に包み背中に背負って市場に行って小売
を商うものであり、総じて言えば「行商人」である。朝鮮で商業といえば、こう
いう零細なものがほとんどだったのである。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)09時13分49秒 ACCD124C.ipt.aol.com   返信・引用
貿易も惨憺たるものであった。当時の貿易は中国がそのほとんどを占めていたが、
これは対等貿易というより朝貢貿易であった。宗主国の中国(清)より金・銀・牛・
馬・朝鮮人蔘・紙・牛皮・毛物など主として農民の生産物が献上品として捧げられて
いた。しかし、金・銀の献上の負担が大きく中国に懇願して代納を願い許されたが、
その代納の負担は大きく、牛・馬が枯渇し農業生産・交通が大きな打撃を蒙った(「
李朝時代手工業研究」李 漢周〔『李朝社会経済史』1946年(朝鮮語)に書収〕)。
また、朝鮮人蔘は開城の特産物であったが、その献上のために開城民にとっては朝鮮
人蔘は薬草ではなく「病民之草」と呪われ、豹(虎)の皮の採取に耐えかねた平安道
民は逃亡したといわれる(『韓国経済史概論』崔 虎鎮 (朝鮮語))。中国から絨毯・
薬・玉・珊瑚・装飾品・書籍などが回賜品として朝鮮にもたらされたが、これらの
品々は支配階級の消費性と奢侈性を高めたに過ぎなかった(林 炳潤-前掲書)。
家内工業は絨毯・毛織物は織ることができず、布も十分に生産できなったし(丁 茶
山-前掲書(経世遺表))、布針さえ製造できず中国からの回賜品に頼っていた(『林
園経済志』)。
この時代には、農産物市場が内外に形成されず、身分的に土地に束縛され各種の
封建的負担を課せられていた農民は随時逃散に走るようになった。しかも両班階層
は農民の負担を軽減してその農業経営を維持しようとはしなかった(林 炳潤-
前掲書)。

李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)21時02分46秒 ACCD415E.ipt.aol.com   返信・引用
このように、李氏朝鮮時代、とりわけ末期は惨憺たる状況であったと言わざるを
得ない。この時代は日本の江戸時代に当たるが、全く様相を異にしていた。この辺
の事情は『貧農史観を見直す』佐藤常雄・大石慎三郎 講談社現代新書 1995年、
『百姓の江戸時代』田中圭一 ちくま新書 2000年、『天下の町人』西山松之助・
芳賀 登 講談社現代新書 1975年、『大江戸生活事情』石川英輔 講談社文庫
1997年など列挙に暇ない。

1876年、李氏朝鮮は開国した。この年から1982年までは日本が貿易を
独占したといわれていたが、朝鮮が輸入した商品の88%はイギリス衣料品であっ
た(57%は綿布、その他の織物23%)。これらは日本商人が仲介していた(『
イギリス綿製品の東洋進出と朝鮮綿業』沢村東平〔「社会経済史学 17巻1号」
1943年に書収〕)。輸出品は米と大豆がその40%を占めていた(『韓国誌(ロシア
語)』露国大蔵省)。中国(清)商人の取扱う輸入高は1985年に19%に過ぎ
なかったが、1992年には45%を占めるようになり日本に迫るまでとなった
(『朝鮮通商事情』塩川太一郎)。
日本への米・大豆の輸出は朝鮮に惨禍をもたらしたなどという者がいるが、元山
における「大豆」は日本人女子「富永ヌイ」によって始められ、それまで自家用
食料の外は別に販路がないと考えていた朝鮮人にこれが商品となり販売できること
を知らしめ、これを耕作・販売し、安価な穀物を食料とする利を悟らせたのである。
さらに、これが女性によって行われたことは朝鮮人にとっては驚きでその遅れた
意識を覚醒させたのであった(『元山発達史』高尾新右衛門)。米と綿花の生産地で
ある全羅道でも同じであったのである(林 炳潤-前掲書)。
このように貿易が朝鮮人に富をもたらした事実を忘れてはならない。

※ ここまでの記述は、原典に当たれないものもあったので、林 炳潤『植民地
における商業的農業の展開』東京大学出版会 1971年)によった。


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)21時00分50秒 ACCD415E.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮時代の小作料が日本統治時代の日本人地主と変わらず、50%だったこと
は日本統治時代の小作料(4)で説明したが(後に説明する)、李氏朝鮮時代の小作人
の状況は比較にならないほど酷いものだった。日本の江戸時代とは比較にならない。
これをその歴史書などから拾ってみたい。
1.農民の半分は田がなく、人の田を耕し、死ぬまで働いた。常に納税ができなかっ
た(『景宗実録』景宗元年(1688年)9月甲午条)。
2.1年の収入も20石に過ぎない。その半分は地主に取られ、残る半分も悪者に
取られる(『備辺司謄録』英祖3年(1722年)丁未10月22日)。
3.仕事もなく、田もない。皆が人の田を耕す。1年の収入も10石に過ぎない。
その半分は地主に取られ、手元に残る者はいくらにもならない(『英祖実録』英祖
28年(1727年)正月乙亥条)。
4.1結の田よりの収穫は、多い者で800斗、少ない者は600斗、一番下の者は
400斗である。農民は皆田がなく人の田を耕し、死ぬまで労働の辛苦にあえいで
いる。収穫の秋になるとその収穫の半分を地主に取られ収穫600斗の者はその
半分の300斗を取られる。さらに借りた種、金、米を取られ残ったものは100
斗に過ぎない。そこから税を徴収され収奪は極みに達している。哀れな民は何を
以て生きて行くのか(「牧民心書」巻5 税法 下(『與猶堂全書』丁 茶山
1811年)。

★ 江戸時代は年貢率が五公五民(50%)、四公六民(40%)といわれているが、
実際は20%くらいだったとされている(『貧農史観を見直す』佐藤常雄・大石
慎三郎 講談社 1995年8月20日 116頁)。
4代将軍「家綱」の時代(1651年~1680年)の当初ころになると
農業の発達もあって、農民の下にも余剰農産物を手にするようになり、これを
売って収入を得る「商業的農業」が生まれ、やがて早稲、中稲、晩稲という
ように収穫時期をずらして収入を上げるようになり、さらには米以外にも木綿、
菜種、蝋、煙草などを栽培する「商業的農業」が一段と進んだ(『江戸時代』
大石慎三郎 中央公論社 1977年8月25日 172頁)。農民の間に「お伊勢
参り」が流行したのもこうした「商業的農業」が背景にあった。マルクス主義に
毒された歴史学者が江戸時代が<士農工商>の厳格な身分制度の下に農民が搾取
され尽くしたなどいうのは、全くのデタラメで現在では誰も信じる者はいない
(『百姓の江戸時代』田中圭一 ちくま書房 2000年11月20日)。
朝鮮の日本統治の悪行を言い立てている者で日本の江戸時代との比較・公証
を行っている者は唯の一人もいない。不思議なことである


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李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月27日(水)20時56分55秒 ACCD415E.ipt.aol.com   返信・引用
安 秉台(正確には王+台)『朝鮮近代経済史研究』日本評論社 1975年で、
京畿道果川県(現在のソウル市郊外の果川市)の小作人の所得(1849年~1890年)
を分析し、小作人1家(平均4~5人)の自家食糧(14石~17石10斗―一人頭籾
70斗)がとうていその収穫で賄えなかったことを指摘している。そして「おびただ
しい零細土地所有に接して成立していた在地小地主の土地所有―経営の場合は、土地
所有規模、地主所得などからみて、これにのみ依拠するかぎりは、飛躍的発展は望め
ない程度のものであった。また小作人の場合、食糧自給さえおぼつかない層が多い
ことを推測させる」と記述している。
土地の収穫に対する官吏の収奪も激しかった。「全羅南道光州付近に柳林藪という
約7.800町歩のところがある。ここは数百年まえには柳林寺の土地だった。寺が
廃滅(李王朝では寺を徹底的に排斥したためこういう例がとても多い)した後に、
民衆が努力し400町歩は良田となった。ここからの収税は地方官吏が懐に入れ、
中央政府はここをそのまま叢林地(寺院地・草むら)として収税してない。こうした
収税されない土地が全土で981,286結37負1束ある(『韓国農業経営論』
古川祐輝 大日本農林会 明治37年(1904年)。
土地は両班・富豪に属するものは非常に多く、彼らは小作人を監督・指導する
ため舎音を雇っていたが、これとは別にその収穫を検査し小作料を取る役を担う
打作官を派遣した。打作官は舎音と結託し小作人などを酷遇・虐待したため、小作人
は疲弊し農業は衰退した(古川祐輝 前掲書)。

★ 1結 日本の8段7畝3合

李氏朝鮮末期の商業形態

李氏朝鮮末期の商業形態(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)04時18分4秒 ACCD1282.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮末期の商業形態についての研究は少ない。それは、後述のとおり
朝鮮の商業形態が未発達であって、特に朝鮮人研究家の自尊心を損ねるもので
あったことと無関係ではなかろう。
この時代の研究については、私も不勉強で批判に足る材料を持ち合わせて
いない。したがって、研究者の研究成果の紹介に留めざるを得ないが、この
研究成果は日本統治時代に朝鮮の商業が発展したことを如実に指摘している。
これについての日本人の研究者としては、吉田 光男がいる。彼の『商業史
から見た朝鮮の近世と近代―李朝後期の経済構造をめぐって』(「朝鮮近代の
歴史像」中村哲ほか 日本評論社 1988年に書収)がある。これを紹介したい。
彼の結論(李氏朝鮮末期の商業形態の特徴)は、次のとおりである。
1.ソウルの店舗など一部の例外を除けば、常設店舗が形成されなかった。
他の都市にも常設店舗の形成は存在しなかった(李 憲昶 『旧韓末における
忠清北道の市場構造』(「朝鮮近代の経済構造」中村哲ほか 日本評論社
1990年に書収)。李 憲昶は「朝鮮では、西洋中世で発見されるような商工業
都市がなく、市場は定期市として「人が散じればもぬけの殻となる」墟市で
あったために、常設店舗が一般的に形成されなかった」と述べている。
朝鮮で全国的に展開されたのは、市場を中心とする行商人の巡回型の商業
システムである。


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李氏朝鮮末期の商業形態(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)04時11分34秒 ACCD1282.ipt.aol.com   返信・引用
2.貨幣は流通していたが、その流通量は日本と比較して少量であり、小額貨幣
しか発行されていず、貨幣経済が未発達であった。農村では依然として前近代的
な現物取引が主流であった。
3.商人はその取引を政府への納入が大半であって、一般民衆との関係が希薄で
あった。つまり、商人は政府に寄生しており、その権利(納入権)が売買の対象
となり、さらにその権利が細分化され、その売買による利益が商品売買の利益
よりも重要視されていた。このことは、ライブドアが株式分割を行って利益
を確保したと同じように虚業がその実体であったと考えられる。
したがって、商人そのものが未発達で、自律性、恒常性、階層性が見られない。
4.商人が未発達(商業も未発達)であるから、零細に止まり、資本の蓄積がなく、
それが投資されてさらに商業が発達するという形態は生まれなかった


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李氏朝鮮末期の商業形態(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)04時09分46秒 ACCD1282.ipt.aol.com   返信・引用
これに対する研究者は、朝鮮人を中心として、六矣廛(ろくむてん-漢城
〔ソウル〕の鐘路を中心に店舗を構えていたもの)が強固な血縁的集団に
よって構成されていたことから、中世のギルドの形態と同じと考え商人集団の
形成を論じた者(劉 教聖 『ソウル六矣廛研究―李朝都市商業の一考察』(
「歴史学報 6号」1952年〔朝鮮語〕に書収、黒 正巖 『朝鮮経済史の
研究』(「経済史論考」岩波書店 1923年に書収))がいる。しかし、これは
強固な血縁的集団によって構成されていたことが直ちに中世のギルドの形態と
同じと考えられるかの疑問がある。また市廛(してん-都市の店舗)が特定物
専売権を有していた特権的御用商人と捉え、これに対抗する私商(無許可商人)
を新興自由商人と考え、そこに新たな商人集団の形成を論じた者(劉 元東
『十八世紀後半期における封建商業の崩壊過程―乱廛を中心に』(「亜細亜
学報 4号」1967年〔朝鮮語〕に書収)、金 泳鎬 『朝鮮後期における都市
商業の新たな展開乱廛を中心に』(「韓国史研究 2号」1968年に書収、安
秉台(左に王がつく) 『商品経済の発展と私商―十八世紀を中心として』(
「朝鮮史研究会論文集 5号」1968年〔朝鮮語〕に書収が)ある。これも
私商(無許可商人)の出現が新興商業の萌芽であると即断するのは結論を
急ぎ過ぎている。特に漢城市の一部の商人を以って朝鮮の商業全般に及ぼす
危険が問われている。

李氏朝鮮末期の商業形態(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)12時59分37秒 ACCD2A97.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮末期には、「京江商人」が出現し、これが日本への米穀の輸出に奔走
したことが明らかとなっているが、これを資本力と組織力を持った都賈(とこ―
買占め)商業と捉える者がいる(姜 萬吉 『京江商人研究』〔「亜細亜研究
14巻2号」1971年〔朝鮮語〕に書収〕)。これについても、果たして「京江商人」
という集団と呼べるのか、その概念自体に疑問が投げかけられている(吉田
光男の前掲書)。また、開城商人という概念を設定し、彼らがそこの特産物の
朝鮮人蔘の生産・販売を独占したことを以って、近代商業の芽生えと考える者
もいる(宋 賛植 『李朝後期手工業に関する研究』(ソウル大学校出版部
1973年〔朝鮮語〕、呉 星 『朝鮮後期蔘商に対する考察―私商の台頭と関連
して』〔「韓国学報 17号」1979年〔朝鮮語〕に書収〕)。特に開城商人については、
複式簿記を使用してことから、これが高麗時代の12世紀に発明されたとして
世界初の近代的簿記が朝鮮に存在したと説く者もいる(尹 根鎬『四介松都治
簿法研究』〔「檀国大学校出版部 1970年〔朝鮮語〕に書収〕)。朝鮮人蔘の生産・
販売を独占したことは、一部の商品に止まり他商品の生産・販売に発展しなかった
こと、およびこの種の商人集団が発展して李朝の商業に広がらなかったことから、
この立論には無理がある。また「開城(松都と呼ばれている)複式簿記」の存在
についても、日本統治時代から疑問が投げかけられ(四方 博 『開城簿記』〔「
国史大辞典」富山房 1940年に書収〕)、最近でも吉田 光男(開城簿記研究の
再検討」〔「朝鮮史研究論文集 25号」1988年に書収〕)でも否定されている。
「開城簿記」は日本が起源だとされており、日本の会計学者も朝鮮起源だという
者は全くいない。朝鮮人特有の<民族優越史観の賜物>である。

李氏朝鮮末期の商業形態(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)13時01分31秒 ACCD2A97.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮王朝への貢物を米、銭に換算して納入する貢物代納業者である「貢人」の
出現を商業活動と捉え、そこに資本の蓄積を見出す者もいる(劉 教聖 『李朝
貢人資本の研究』〔「亜細亜研究 7巻4号」1964年〔朝鮮語〕に書収〕)。しかし、
これも前記のとおり権利は細分化され売買の対象となり、この権利売買が実物売買
よりを凌駕していたこと、それと関連して資本の蓄積が見られないと批判されて
いる(田川 孝三 『吏胥(ししょ)・奴婢の防納とその展開』〔「李朝貢納制の研究」
東洋文庫 1964年に書収〕)。
朝鮮人研究者は、何としてでも李朝に商業が発展し、これが日本統治によって
根絶やしにされたと主張したいのであろうが、さすがにこの点となると日本人研究者
にもこれに組する者はいない。そればかりか、こうした朝鮮人研究者の目論みは
アメリカの研究者であるC・J・エッカ-トにも痛烈に批判されている(『日本帝国
の申し子―高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876年―1945年』
草思社 2004年)。逆に日本によって朝鮮の商業が発展を遂げたことが定説となって
いる。未発達の朝鮮商業を商業先進国「日本」が発展させたということである。
考えてみれば、「朝鮮の農業剰余人口」で述べたように(後に掲載)、この時代
の商業従事者の比率は日本、台湾とも比較して極めて低く、大規模の商業が発展
していたかは否定さるべきであろう。商人集団が形成されていたかも疑問である。
両班(貴族-売官によって取得されたので必ずしも貴族とはいえないが、買うだけ
資産を有していたので一応富裕層と考える)中心の社会で商人蔑視が浸透していた
のだから、商人階層が出現していたかは疑わしいということは容易に気づくはず
と考えるのだが。何でも朝鮮の優位性を主張したい朝鮮人の限界を見てとれる。
なお、C・J・エッカ-トの書籍は書店でも容易に手に入るから、是非とも読んで
いただきたい。

李氏朝鮮末期の商業形態(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)13時03分35秒 ACCD2A97.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮末期の商業形態は、この時代に比定される日本の江戸時代との様相と
全く異なっている。
日本での商人は、民衆との幕府への納入商人も幅を利かせていたが、大半の
商人は一般民衆との関係が密接で彼らに物品を販売していることで生計を立てて
いた。
市場も存在したが、常設店舗商業も形成されていた。また、貨幣経済が発達し、
現物取引よりも貨幣を媒介にした取引が中心であった。このことは李氏朝鮮時代と
異なって貨幣に信頼が置かれていたことを示している。さらに、信用取引も活発で、
手形も出現していた。この点も李氏朝鮮時代とは大きく異なり、彼らが葉銭と
呼ばれる小額の鋳造貨幣を大量に持って商売をしていたのと全く様相が違っていた。
商取引によって得られた資本は他に投資され、さらなる商業が発達することにも
なった。
こうした、商業の発達はいわゆる町人文化を呼び、浮世絵などの高度な文化を
生むことにもなった。朝鮮ではついぞ町人文化などは夢のまた夢であった。文化
は一部の特権階級に独占されていたのである。
商業の発達は何も文化の発展に止まらず、教育の発達ももたらし、李氏朝鮮時代
の教育が両班階級に独占され、商人がその埒外に置かれていたのと対照的であった。
しかも、教育は男子に限らず女子にも及び、絵本などの流通によって教育水準
が高められた。李氏朝鮮時代の教育は漢字に独占され朝鮮文字などは全く漢字の
補完としての意味しか有しなかったのである。もちろん、こうした状況のなかでは
絵本などが出現するはずもなかった。韓国のアニメーションが未だに発達せず
亜流に過ぎないのは(韓国のアニメーションが発達しているなどとNHKなどで
放映されているが、これは虚報であると考えてよい。まだまだ、日本の下請けを
脱してない)、こうした文字文化崇拝・中心主義にある。
日本の教育立国の礎が江戸時代に形成されたのと対照的に朝鮮での教育は一般
大衆のものとはならなかったのである。
〔この稿 終わり〕

日本統治時代の経済の実相、庶民の生活の様相

2.日本統治時代の経済の実相、庶民の生活の様相
① 土地調査事業の実態

李氏朝鮮時代の土地所有権(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)21時48分30秒 ACCD444E.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮王朝によって行われた「量田」が国民の私的土地所有形態の確認では
なく、国家的土地所有の確認、つまり国家の土地を国民が借りて利用している
ということの確認作業にあった。言い換えれば、国民の土地売買の規制・統制
つまり、土地売買を国家の支配下に置くということにあった(『光武量田の歴史
的性格』李 栄薫〔「朝鮮近代の経済構造」日本評論社 1990年に書収〕、拙稿
「李氏朝鮮時代の土地調査」参照〔後に掲載〕)。
李氏朝鮮では土地の売買が禁止されていたわけではない。『経国大典』戸典(
1460年)の買売限の条に、田地家舎、奴婢を売買したときは15日以内に官に
届け、官は100日以内に「立案」しなければならないと定め、『続大典』(17
44年)で、田地家舎、奴婢を売買したときは官に書類を以て届出をなし、官は
「立案」しなければならないとしている。つまり国家の認定の下に不動産の売買
を容認していた。
しかし、実際は官の容認を潜り抜けた私的な売買が行われていたと言われて
いる。この方法が「文記」である。これは売買する不動産の所在、面積、価格
などを表記したうえで、売主、買主、証人、文書作成者が連署する私文書であ
る。私文書である点で「立案」と異なる。
この「文記」については、日本人の見聞がある。『最新韓国実業指針』岩永
重華 宝文館 明治37年によると、「田宅売買の方式は京城内宅地に在りては
家券なるものあり、売主・証人・家會(正しくは人偏がつく)〔仲介人の意〕
などこれに署名し、漢城府の証印を求めて売買の証拠とする。しかし京城以外
には家券はなく売渡証書(「文記」のこと)に田宅持主・保証人・筆執者
(作成者)連署・押印(花押を書く)して買主に交付する。この連署がなくとも
無効になるものではない」とある。


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李氏朝鮮時代の土地所有権(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)21時46分18秒 ACCD444E.ipt.aol.com   返信・引用
雑誌『韓半島』第2年2号 明治35年にも「(文記)の末には、売主、保証人
の住所氏名と書いて執筆者の住所氏名を連記し、各々花押を添える。しかし、
この花押が面白い。書くたびに変って同一人にして今日と明日とは花押の形が
全く違う。これをとがめると、これは私が承知していると言い、花押まで書くの
だからその時々に変ってもよいのではないかと言う。彼らの頭はその社会と共に
すこぶる単純であって、売ったものは売ったに相違がなく、売主自身がそれを
認めていればそれほど確かなことはない。実際、彼らの言うとおりで、官給の地券
もなく、登記所もなく役所には台帳さえ完備していないようだから、何枚証書が
あってもその文言はどんなに整っても何にもならない。それよりも実際の持ち主
が承知しておれば、それが一番確かなのである。したがって、田地そのものを
事実占有することが肝要であります(中西譲一の談話)」とある。


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李氏朝鮮時代の土地所有権(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月28日(木)21時44分39秒 ACCD444E.ipt.aol.com   返信・引用
不動産の所有権の確認が判然としないのは制度にもあった。土地の所有権確認
書類は、1.土地量案(中央政府が行った土地調査台帳)、2.台帳(量案の抜
粋)、3.衿記(量案の外に納税者を元にして所有・小作している土地を一筆ごと
に明記した帳簿)の3種類があった。これは量案がほとんど行われていなかった
ことにある。しかも、これらの帳簿は錯誤・虚偽に満ちており混乱していた。
その一例は、① 地主と小作人を多く混同して両班または豪族の所有地は奴名
(小作人の氏名)を記載する習慣のため土地所有者が判然としない、② 永荒地
と記載した土地も実際は塾田である、③ 帳簿とは異なり無主地となっている、
④ 甲所有者の結数を故意に減らし、これを乙所有者に負わせている、⑤ 一つ
の荒地に多数の他の土地の結数を記入している、⑥ 地番・筆数を取扱者が勝手
に分合してほとんど判明しない、⑦ 新起墾地のわずかしか登録してない、で
ある。これは両班あるいは有力豪族の土地の結数を減じ、小民にこれを増し、
負担は富者に軽くし貧者に重くしている。しかも、根本の土地量案は数百年前の
調査で以来一回も加除訂正をせず、実地調査もせず混乱に陥っている。
この辺りの事情は、『韓国農業経営論』古川祐輝 大日本農会 明治37年6月
23日では「腐敗した韓国地方官吏は私腹を肥やすために実際の結数よりも若干
減らした数を上司に報告することが多く行われたため、中央政府の把握する結数
は大幅に実際と遊離していた。一例を挙げると、全羅南道光州付近に柳林藪とい
う約7.800町歩のところがある。ここは数百年まえには柳林寺の土地だった。
寺が廃滅(李王朝では寺を徹底的に排斥したためこういう例がとても多い)した
後に、民衆が努力し400町歩は良田となった。ここからの収税は地方官吏が懐
に入れ、中央政府はここをそのまま叢林地(寺院地・草むら)として収税して
ない。こうした収税されない土地が全土で981,286結37負1束ある」と
している。
岩永重華も前掲書で「土豪又は儒生の凶暴なる者は、地方官・町村吏員等と
結託して官籍を訂正しあるいは土地台帳を変更して人民の所有地を奪取すること
がある」と記述されている。

※ 原典は『朝鮮之研究』山口豊正(韓国政府財政顧問部・財務官)であるが、
これに当たれなかったので『朝鮮に於ける近代資本主義の成立過程―
その基礎的考察』(「朝鮮社会経済史研究 上」四方 博 国書刊行会
昭和51年9月30日)を引用した。

これに比べて、江戸時代はそうではなかった。この時代は「大開発時代」と
呼ばれ、江戸時代中期(1720年ころ-第8代将軍「徳川吉宗」の初期)には
室町時代中期(1450年ころ)の3.14倍に耕地が拡大した。
利根川 かっては江戸湾に注いでいたことをご存知だろうか。これを太平洋に
注ぐように川筋を変えたのは江戸を開いた「大田道灌」であったが(完成したのは
1654年の第6次工事)、そのお陰で肥沃な関東平野が生まれた。そのほかにも
木曽川、遠賀川、筑後川など多数の改修工事が行われ、耕地が飛躍的に拡大した。
こうした耕地の拡大によって利益を得たのは江戸幕府、大名などの領主であった
が、農民も同じだった。農民はそれによって自立していった。皮肉なことに耕地は
拡大したが耕作する農民が足りずに「百姓招致の高札」を掲げて調達を行った地方も
出現した(『江戸時代』大石慎三郎 中央公論社(中公新書 476) 1977年8月
25日 22頁)。
これは何をもたらしたということは、農民の権利拡大である。さらにこれを背景に
生活程度も飛躍的に拡大した。これが「お伊勢参り」をもたらしたことは前にも
説明した。農民を始めとする民衆が土地を権力者によって召し上げられるという
ことはなかったのである。農民の生活は「李氏朝鮮時代」とは比較にもならなかったの
である。

李氏朝鮮時代の土地所有権(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)05時35分59秒 ACCD0A6C.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮においては、不動産の所有権の確認が判然としないばかりではなく、その
境界もまた明瞭を欠いていた。量案においては、境界に関しては東西南北に隣接
する山・川・道路・墓・他人の土地の字・地番・地目、所有者名などを記して
いた。例えば、「東金燦旭田、西李才覚水田、南道路、北朴丙斌田」などという
ものである(『続大典』戸典 量田の条「凡田、四標及主名、懸録量案」)。しかし、
量案の後世に至って改量を実施しもしくは量案の改定をなすに当たって、字番号
を変更するに際し、旧字番の注記を忘れることも多く、または官民ともに脱税・
横領などの私利を図るため、故意に字番号を変更して旧字番との連絡を絶つこと
が多かった。加えて四標(東西南北の指標)も数百年前の状況を示すもので現在
(李朝末期)のものと一致していなかった(四方 博 前掲書)。
しかし、朝鮮も開国を迎え近代化の波にさらされた。土地制度の変革もその
一つである。こうした変革は日本統治時代になってからなされたという誤解が
ある。そうではない。大韓帝國政府は独自に量地(土地の測量)、地税の取得およ
び地契(所有権確認書)の発行を目的として光武2年(明治31年―1898年)
量地衙門、光武5年には地契衙門を設けた。しかし、土地測量の未熟と人民への
経費負担のため頓挫し、両衙門は廃止せざるを得なかった。それでも度支部
(財務部)に量地局を設置し光武9年(1905年)には日本から技師を招いて測量
技術員の養成を行い(『朝鮮土地査事業報告書』朝鮮総督府臨時土地調査局
1918年)、結数連名簿を作成した(山口豊正 前掲書)。
土地制度の確立は根本的な土地調査に基づいて土地原簿を作成し、これによっ
て地券を発行し、あるいは近代的土地登記制度を確立するほかはないのであって、
明治39年(1906年)に開庁された朝鮮統監府はこうした方針を打ち出した。
そして明治43年(1910年)3月に土地調査局を設置して、これが朝鮮総督府
に引き継がれて「土地調査事業」となったのである。

★ 衙門(がもん)とは、役所のこと


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李氏朝鮮時代の土地所有権(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)05時33分4秒 ACCD0A6C.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮統監府が行ったのは、明治39年(1906年)に不動産法調査会を設置し、
応急の措置として「土地家屋証明規則」などを発布した。これによると、土地・
家屋を売買・贈与、交換、典当(質に入れること)するときは所在地の統首また
は洞長の認証を取り、その後、郡主または府伊(正しくは人偏がない)の証明
を受ける。この証明書は判決を得ることなく、強制執行ができる契約書となる。
契約書の一方が日本人であれば日本人理事官の、双方が外国人のときは日本人
理事官の、証明を以て足りこととなった。
このことは、1.この証明は所有権移転の証明に過ぎないが、これを以て
既存の所有証明とすることもできた。また第三者への対抗はできなかったが、
それでも朝鮮人・外国人の不動産所有権がこれによって公証されることになっ
た。2.土地の動産化の道が公に開かれ外来資本主義の諸勢力が安んじて朝鮮
全土に及ぶことになった。これは外国人にとっての利益が多かったが、朝鮮に
おける資源の開発には健全なる外来資本の導入が必要であり、そのためには朝鮮
の開放と不動産所有権の保証が要求されるのである。したがって、不動産所有権
の保証は朝鮮人にとっても有益である(四方 博の前掲書)。
また、印 貞植も『朝鮮の農業機構(増補版)』白揚社 昭和15年(1940年)
4月5日で、「法的証明が不完全かつ疑わしい所有の証明そのものをより安定的な
確定性のある法的基礎の上に設定すべきことが日本資本主義の朝鮮に対する新し
き要求となって現れたのである」と記述している。
しかし、不動産所有権の真の確立のためには登記制度の確立が必要であるが、
それには時間が必要となる。その証明の効力は当事者間に止まって第三者には
及ばなかったが、それでもなお所有権不確定の不安が消えたことは大きな意義が
あった(四方 博の前掲書)。


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李氏朝鮮時代の土地所有権(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)05時31分21秒 ACCD0A6C.ipt.aol.com   返信・引用
ところで、朝鮮に居住する外国人の土地所有権確立の願望は、日本人より清国人
の方が先だった。これは清が朝鮮の宗主国で清国人が朝鮮においては内地居住も
自由で、忠清道礼山・江景・安城にも土地・家屋を所有している者が少なからず
いた(『韓半島』信夫淳平 東京堂 明治34年〔1904年〕、『朝鮮通商事情』塩川
一太郎 八尾書店明治28年〔1893年〕)のに対し、日本人が京城内に居住を許さ
れたのは明治18年〔1883年〕からで、それも江華条約(大日本国大朝鮮国修好
条規第4款)で土地・家屋の借入のみが認められ所有権が認められず、しかも
それは居留地(釜山・仁川など)に限られたのとは大きな違いがあった(英米も
同じ-ただし英国については後記のとおり所有権が認められていたという解釈の
争いがある)。韓国の規程では光武5年(明治34年〔1901年〕)の地契衙門の
設置に当たっての「職員及び処務規程 第10条」に「山林・土地・田(畠)・
水田・家舎は大韓国人の外は所有者となれない。ただし開港された場所内はこの
限りではない」との規定があり、光武9年(明治38年〔1905年〕)の『刑法大全』
の国権壊損律(第200条の5)に「官有私有の田土森林川沢家屋を外国人に売り
あるいは貸した者は処罰する」との規定がある(四方 博の前掲書)。しかし、実際
の運用としては清国人は例外とし、その他の外国人は居留地およびその周辺10
里(日本の1里)に限って賃貸・売買を認めていたものと思われる。
このような清国人のみの例外をその他の外国人が要求したのは自然の成り行きで
あって何も日本人に限られない。英国が明治16年〔1881年〕の「修好通商条約」
で<for the sale of land(漢文〔韓国側〕では、転行永租地段)>となっている。
つまり、英国は売買による取得を要求していたのである。

李氏朝鮮時代の土地所有権(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)12時54分1秒 ACCD0611.ipt.aol.com   返信・引用
各国が不動産の取得を目指したのは、1.事業経営の場所の確保、2.朝鮮に
とっての重要商品は農産物であり、それを確保するためには土地を直接支配下に
置くことが必要だった、3.比較的安価な土地を取得し多額の小作料を取得し、
あるいは小作米を転売することによって商業利潤を獲得することは利回りが良か
った、4.貨幣経済の発達が遅れている朝鮮人が貨幣入手の必要から土地を売却
しあるいは土地を抵当に入れるしか方法がなく、地主の取得した貨幣(売買代金)
は多くは必要とする商品購入のため、あるいは消費され、稀には新しい事業に
投資され、資本主義発展のために寄与した、のである。したがって、土地の取得
が居留地に限定されたことは無理だった。そのため、土地所有は朝鮮人名義の
借用、官吏への請託による自己名義での所有が横行したのは、先の『刑法大全』
の規定の示すとおりである。日本人についていえば、信夫淳平、岩永重華の
各前掲書および谷崎新五郎・森 一兵の『韓国産業視察報告書』大阪商業会議所
明治37年、農商務省農務局(日本)の『韓国土地農産調査報告』明治40年にも
そうした土地所有権取得の状況が多く記されている。
こうした土地取得は日本人よりも欧米人が早く、欧米人は幾年久しき以前より
(朝鮮内地)に居城を構え、耕地を買収し自ら耕作することが行われたが、韓国
官吏より撤退の請求が行われた事実がなく、請求があったとしても官吏自身が
中央政府による命令がないことを知りながら儀礼的に行っていたのである。外国
人に土地の所有を公然と認める官衙(官吏・役所)もあった。また、日本人の
耕地取得、小作人による耕作およびその取得米について韓国政府より苦情があっ
たり、侵害を受けたということは聞かれなかった(加藤末郎 『韓国土地農産
調査報告』)。

★ 『韓国土地農産調査報告』は、明治33年(1900年)から明治37年
(1904年)にかけて、農商務省の官吏などが朝鮮全土を視察した報告書


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李氏朝鮮時代の土地所有権(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)12時52分51秒 ACCD0611.ipt.aol.com   返信・引用
こうした所有権確立に向けた動向を日本の朝鮮への支配確立への礎だったと
いう者(『植民地における商業的農業の展開』林 炳潤 東京大学出版会1971年
7月10日)、またいかにも日本人のみが土地を自由に取得していたという者(「
朝鮮における日本大地主階級の存在構造」浅田喬ニ(『増補 日本帝国主義と旧
植民地地主制』浅田喬ニ 龍渓書舎 1989年5月10日)がいる。しかし、これ
が全くの虚言であることは先に述べたとおりである。不動産所有権の確立は外国
人のみが願望したものではない。不動産の大多数は朝鮮人が取得していたのであ
って、朝鮮人こそが願望していたのである。また不動産所有権の確立と不動産の
自由な売買は当時の欧米が先進的に取入れ、日本もこれに遅れて推進したもので
あって、近代化には避けられない道だったのである。さらに、これを望んでいた
のは清国人が先であって、次いで英米など、最後に日本だったのである。
もちろん、これについての大きな恩典が日本にあったのは否定できないが、そ
れを以て日本のために行ったものであったと断定するということは結果から見た
決めつけで事実の経過を無視した暴論である。


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李氏朝鮮時代の土地所有権(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月29日(金)12時51分31秒 ACCD0611.ipt.aol.com   返信・引用
日本人が日本統治前後に朝鮮で不動産を取得した内容は次のとおりである。

Ⅰ.明治42年(1909年)6月末
宅 地    田       畑
所有者数          4,914 1,141 1,719
所有地面積(坪)      6,610,392 69,812,948 106,579,462
価格(円)         116,597,956 11,997,437 4,938,558
平均1坪当たり価格(円)   17,639 0,172 0,046
平均1人当たり価格(円)   23,721,707 1,049,732 2,872,025

山林・原野・その他   総 計    建 物
所有者数          691 8,474 7,580
所有地面積(坪)      45,087,727 228,090,529 534,528
価格(円)          1,593,404 135,032,353 12,088,458
平均1坪当たり価格(円)   0,035 0,592 22,615
平均1人当たり価格(円)   2,305,939 15,934,901 1,594,783

李氏朝鮮時代の土地所有権(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月30日(土)07時34分8秒 ACCD483C.ipt.aol.com   返信・引用
Ⅱ.明治42年(1909年)12月末
宅 地    田       畑
所有者数          5,624 1,485 1,949
所有地面積(坪)      2,203,234 80,719,199 35,415,309
価格(円)         25,888,336 5,874,412 3,021,698
平均1坪当たり価格(円)  11,750 0,073 0,085
平均1人当たり価格(円)   4,603,189 3,821,153 1,550,384

山林・原野・その他   総 計    建 物
所有者数          637 9,695 8,675
所有地面積(坪)      29,882,698 148,220,444 529,946
価格(円)          911,957 35,696,398 13,510,682
平均1坪当たり価格(円) 0,030 0,240 25,494
平均1人当たり価格(円)   1,431,644 3,681,938 1,557,427


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李氏朝鮮時代の土地所有権(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月30日(土)07時31分34秒 ACCD483C.ipt.aol.com   返信・引用
Ⅲ.明治43年(1910年)12月末
宅 地    田       畑
所有者数          7,516 2,749 3,292
所有地面積(坪)      2,191,066 57,265,633 19,895,276
価格(円)         18,920,220 6,705,983 4,811,935
平均1坪当たり価格(円)   8,635 0,117 0,242
平均1人当たり価格(円)   2,517,325 2,439,426 1,461,706

山林・原野・その他   総 計    建 物
所有者数          479 14,036 13,011
所有地面積(坪)      23,075,356 102,427,339 558,303
価格(円)          687,376 31,125,508 13,603,263
平均1坪当たり価格(円)  0,030 0,304 24,365
平均1人当たり価格(円)   1,435,023 2,217,548 1,045,520

★ 四方 博の前掲書を引用(原典は『統監府統計年報』および『朝鮮総督府
統計年報』


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李氏朝鮮時代の土地所有権(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月30日(土)07時29分44秒 ACCD483C.ipt.aol.com   返信・引用
「朝鮮における日本人地主の進出(2)」で、明治43年(1910年)当時の
朝鮮の耕地面積(田・畑)は次のとおりである。これによっても日本人の取得
割合は、2.8%に過ぎない。

朝鮮の耕地統計(水田、畠〔田〕)  単位 町歩

総  計        日本人       東洋拓殖
1910年   2,464,904    69,312    10,944
(2.8%)    (0.4%)

★ 資料 『朝鮮総督府統計年報』各年度
※    「朝鮮社会の構造と日本帝国主義」安 秉直 龍渓書舎 1989年
から引用―彼は『朝鮮に於ける内地人』から本表を作成した
と述べている。

李氏朝鮮時代の土地所有権(13) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月30日(土)14時18分39秒 ACCD483C.ipt.aol.com   返信・引用
前記の表を詳しく見てみると次のとおりとなる。前記の表とは数値が異なる。

地主数   所有面積    田畑面積   日本人の
(人)   (町歩)    (町歩)   耕地面積割合
明治42年     692  52,436  42,880  1.86%
(1909年)
明治43年   2,254  86,952  69,311  2.81%
(1910年)

★ 資料 『朝鮮農業発達史(発達篇)』朝鮮農会 昭和19年
『朝鮮の農業』朝鮮総督府殖産局 大正13年
『朝鮮の農業』朝鮮総督府殖産局 昭和7年
『朝鮮の農業』朝鮮総督府農林局 昭和10年
『日本農業年報 第2輯』日本農業研究会 昭和8年
『朝鮮の農業機構 補訂3版』印 貞植 白揚社 昭和15年
(「増補 日本帝国主義と旧植民地地主制」浅田喬二
1989年から引用)


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李氏朝鮮時代の土地所有権(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 6月30日(土)14時16分40秒 ACCD483C.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮における明治43年(1910年)当時の日本人地主の数と規模をみてみた
い。(単位 戸)

30町歩~50町歩           6
50町歩~100町歩          3
100町歩~500町歩        17
500町歩~1000町歩        6
1000町歩~2000町歩       9
2000町歩~5000町歩       7
5000町歩以上            2
合  計               50

※ 時期不明な地主(100町歩~500町歩)が1名存在する。
所有地は耕地のみ。東洋拓殖株式会社は除く。
★ 資料 『朝鮮の農業』朝鮮総督府殖産局 大正13年 (「増補 日本
帝国主義と旧植民地地主制」浅田喬二 龍渓書舎 1989年
から引用)
なお、資料(地主名簿)は属地主義になっており、属人主義で
はないので、一人の地主が2箇所に別々に土地を所有しても2
戸と数える。

植民地史観に立って日本の朝鮮進出は暗黒だったなどという者は、このような
土地所有権の確立が日本よりもその他の外国人の要望によってなされたこと、
むしろ朝鮮人そのものが熱望していたなどという者はいない。何がなんでも日本
が悪いとしたいのである。そういわなければ所論が成り立たないからである。
考えてみれば、土地所有権が確立しなければ所有者の確定、所有土地の境界、
面積などが明確にならず紛争が起きる、さらに土地を担保に入れて有効利用でき
ない。国家が近代化を推進するについて当たり前のことである。彼らは土地所有権
の確立に名を借りた土地の収奪というのであろうが、日本人がこの時点で取得した
土地はわずか2.8%である。この数値を明らかにしてことを論じる朝鮮人研究者
および植民地史観論者は皆無である。こういう事実の公表はしないがもちろん彼ら
も知っている。そこで、彼らは日本人が土地の所有権を取得する過程において高利
で朝鮮人に金を貸付け土地を召し上げた、日本人が取得した土地は良い土地だった
という。前者についての反論は後ほど行うが、当時は土地の売買が禁じられたので
売買という形を取らずに金を貸した形にして土地を取得したものも多かったので
ある。しかもこの方法は何も日本人の免許皆伝ではなかった。さらに貸付金利は
日本人も朝鮮人も変わらなかった。いやむしろ朝鮮人の方が高かった。後者につい
ては土地を取得する者が好んで経済的価値のない土地を取得するはずもない。
こんなことは経済の原則である。日本人に限らず外国人だって朝鮮人だって誰でも
同じことをする。何を言っても彼らの論理は破綻している。こういうことを平気で
言う彼らの神経を疑う。なお、先の中西譲一の談話にもあったとおり日本人も土地
の所有権を取得する過程で朝鮮人にかなり騙されたのではなかろうか。日本人のみ
がシタタカで朝鮮人がオヒトヨシだったわけではあるまい。
〔この稿 終わり〕


朝鮮における奴婢(0) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 1日(日)22時51分5秒 ACCD0542.ipt.aol.com   返信・引用
この論考は、少しわかりづらくなってます。それは研究者の「四方 博」
氏が、朝鮮における奴婢について二通りの数値を挙げていることにあります。
それは同氏の研究が未完だったからです。
後の研究者「宮嶋博史」氏も「四方 博」氏の研究を下敷きにしてますが、
二通りの数値の一方に依存してます(引用の数値が正しいという論証はない)。
この二通りの数値のどちらかが正しいとは言えません。
ここでは、どれが正しい数値であるというより「朝鮮における奴婢(7)」
の「調査対象面を共通にした表」をご覧になり「両班」の数の推移とその原因
に注目されたらよいと思います。細かい数の違いは無視してください。
そして、朝鮮人がいかに「両班」に憧れ、それを<買位>して冒称していった
かを知ってください。
なお、この稿は(23)という多くにわたってます。


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朝鮮における奴婢(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 1日(日)22時49分24秒 ACCD0542.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮における奴婢における「奴婢」については、四方 博の『李朝人口に
関する研究』(「朝鮮社会経済史研究 中」国書刊行会 昭和51年)および
『旧来の朝鮮社会の歴史的性格について』(「朝鮮社会経済史研究 下」
国書刊行会 昭和51年)に詳しい。

奴婢は、恐らく戦乱時代の俘虜が起源だといわれるが、後世には死刑囚の
遺族、逆賊の妻子などを公奴婢に下すということもあり、また困窮者が子女を
売り、あるいは自ら売る者もあった。奴婢の子は奴婢になるので次第に増殖
せざるを得なかった。
文禄の役(壬辰倭乱―1592年)のときに、国王が漢城(ソウル)を
捨てて平壌に逃げ去ったときに、奴婢がまず掌隷院と刑曹を襲って奴婢原簿を
焼き、王宮が焼失したことは、奴婢の置かれた状況を示している。
韓国では、文禄の役のときに「加藤清正」が漢城の王宮「景福宮」を焼いた
などという妄言があり、私も「景福宮」を見物したときもガイドからそのよう
な説明を受けたことがある(直ちに訂正を求めた)。奴婢にとっては日本軍の
襲来はもっけの幸いだったのである。
純宗元年(1906年)に官房・中央衙門の奴隷案を焼き、1894年は
公・私奴婢の廃止を宣言し、1906年の『刑法大全』で人身売買の禁止を
明定したが収まらなかった。この辺の事情は、後掲の「李氏朝鮮時代末期の
様相(5)で、大韓帝國警務局保安課長「岩井敬太郎」の『顧問警察小誌』を
引用して、1905年(明治38年)から6年間の状況を伝える。


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朝鮮における奴婢(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 1日(日)22時47分38秒 ACCD0542.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮における社会階級は、両班、中人、常民、賎民があり、賎民には
白丁、巫女、芸能者、娼妓、僧尼、奴婢があった。奴婢には公奴婢と私奴婢
があり、公奴婢は中央官庁・地方官庁に従属していた奴婢で、私奴婢は私人、
書院、郷校に従属していた奴婢をいうとされる。
奴婢は世襲で、奴婢と婚姻した者も奴婢とされた。これについては『経国大典』
および『続大典』に詳しく規定されている。
奴婢の数については、四方 博が「李朝人口に関する研究」(『朝鮮社会経済史
研究 中』国書刊行会 昭和51年)において、慶尚北道の大邸付近の河東、
河西、河南、河北、城西などの各面の階級構成について分析している。

1690年            1741年   単位 人
(粛宗16年)          (英宗18年)
良 男   3,431             2,238
女   3,932               962
人 計   7,363(52.9%)      3,200(54.8%)

中 男     141                50
女     199               167
人 計     340( 2.4%)        217( 3.7%)

奴 男   2,915             1,022
女   3,295             1,390
婢 計   6,210(44.6%)      2,412(41.3%)

総 男   6,787             3,310
女   7,426             2,519
数 計  13,913             5,829

※ 対象面が1690年と1741年では異なるので、構成比のみを比較して
頂きたい。
良人とは両班を、中人とは中人、常民を指す。


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朝鮮における奴婢(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 1日(日)22時46分23秒 ACCD0542.ipt.aol.com   返信・引用
農村ということもあろうが、中人が少ない。良人(両班)と奴婢に偏って
いる。
それにしても「良人(両班)」が多い。売官によるものと言われている。
また、奴婢も多い。四方 博は前掲書においても、奴婢の数はこれでも
内輪の見積りだとしている。
階級は二分化している。このような例は他の国であったであろうか。
極めていびつな社会で、日本の江戸時代と比べて過酷な時代であったことが
わかる。江戸時代には<奴婢>など存在しなかった。
こうした「奴婢」を解放したのが日本であったから、「奴婢」は日本統治に
快哉を叫んだことであろう。日本統治時代の日本地主下での小作人比率など
論じる必要はないと考えるが、どうだろうか。
朝鮮人は「族譜」を誇るが、常民、奴婢などは「族譜」はなかったと言われ
ている。すると後記の(7)の表の1690年の「両班」の数から見て、現在
の「族譜」の約90%以上は偽物だということになろう。

※ 「辻本 武」さんの23題「奴隷制」考、27題「白丁」考、は優れた論考で
ある。合わせてお読みいただきたい。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/


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朝鮮における奴婢(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 1日(日)22時44分22秒 ACCD0542.ipt.aol.com   返信・引用
四方 博は前掲書の『李朝人口に関する身分階級別的観察(以下②と
いう)』(107頁以下)で次の時代の身分の分析を試みている。私の提示
した表は同氏の前掲書の『李朝人口に関する研究(以下①という)』のもの
で、宮嶋博史の『両班』中央公論社(中公新書1258)1995年は、『李朝人口
に関する身分階級別的観察』の表を利用している。
なお、論文は『李朝人口に関する研究』が先で、『李朝人口に関する身分
階級別的観察』が後のようで、①は京城帝國大学法学会論集第9冊『朝鮮
社会法制史研究』(1937年5月)に書収され、②は京城帝國大学法学会
論集第10冊『朝鮮経済研究、第3』(1938年10月)に書収されているが、
同氏はこの両方とも気に染まなかったらしく、①については別刷のものには
おびたただしい朱筆が施され未完に終わっており、②についても別刷のもの
には校訂用と記されておるようである(復刻版『朝鮮社会経済史研究 中』
国書刊行会 昭和51年の「凡例」参照)。
「数字」についても訂正などがなされているようであるが、復刻版ではそれ
には触らないと記してある(前記「凡例」参照)。したがって、いずれも
未完であると考えた方がよいと思う。
ただ、そうは言っても、この後の②の論文で前の①の論文を訂正したもの
のようである。
四方 博はこの点を明確にはしてないが、「(前の論文)の際に筆者は、
爾後約50年の間隔を標準として研究を続くべきことを約束したが、多少
その年代の排列に関して、最初の予定を変更するの必要を暁ったのである」
と記述している(109頁)。


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RE:奴婢 投稿者:南国人J 投稿日:2007年 7月 2日(月)17時54分0秒 pl602.nas981.miyazaki.nttpc.ne.jp   返信・引用
エンコリでは、韓国人に対して、過去幾度となく日本人から「貴方の先祖の身分はなんですか?」
との質問が寄せられ、今もその類の質問が絶えないようです。
勿論、質問する日本人は、ある程度の予備知識があっての質問なのでしょう。
そして、この質問に対しする彼等の反応はひたすら「沈黙」なのです。
師匠の論考を見て改めて思います。彼等は答えたくないから沈黙するのだと。
まあ、たまに返事があっても返ってくる答えは両班や将軍といったものが
殆どですね。
逆に日本人だと、先祖は百姓、商人というのが圧倒的に多いようです。
朝鮮人はくだらんことに見栄を張りますね。


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まったくそのとおり 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 3日(火)00時06分50秒 ACCD0F2F.ipt.aol.com   返信・引用
韓国人留学生が日本に来てテレビを見て驚くのは、日本人が平気で「個人タクシー
の運転手」と言ったり、「ペンキ屋」だということです。
韓国人は、そういう場合は全部「社長」といいます。
確かに「自営業者」ですから「社長」ですね。

特に韓国では「商売人」は「詐欺師」と見られて尊敬されません。
こういう国は発展しません。

日本の一番良いところは「仕事の上下」がないことだと思っています。
『靴磨き』にも<日本一>がいます。韓国人には理解できないようです。


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朝鮮における奴婢(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 3日(火)09時04分14秒 ACCD6727.ipt.aol.com   返信・引用
宮嶋博史の「表9」は、②の144頁の表である。私の引用した①の表では、
「良人」とあって、「両班」と「常民」の区別がない。ここが②の表と違うところ
である。①の表の「良人」とは何かですが、その説明はない。
私がこれを「両班」と解釈したのは間違いだったかも知れない。
四方 博は、②でこの点について触れており、「身分の区別をするについては、
戸口(調査)における「其職」の記載と戸主夫婦の4代先まで遡っての「職役」
から判断したが、売官売位の結果も考慮せざるを得ず、「良人・良女」と「奴婢」
の区別で満足せざるを得なかった」としている(113頁)。②では、身分を、
両班、中人、常民、賎民と考え、中人は両班とも常民とも区別しがたいので、
これを常民に入れ、賎民には種類があるが、奴婢以外は少数であるから、これを
奴婢に入れたとある。さらに「両班」にも家柄(職役)の差があるとしてその
詳しい分析を加えた結果の表が、宮嶋博史の提示した「表9」である②の144頁
の表ということになろうかと思う。ただ、①でも(63頁-復刻版)でも②でも
(124頁-復刻版)触れられているが、私奴婢の中には「高官」の職役を付した者
もあり、身分の峻別には苦労しており、この表に至るまでには様々な表が記述されて
いる。
さらには、対象面を同一なものに限定して作成した表もある。
この辺の事情が論文の<未完>を物語るものかも知れない。

なお、宮嶋博史の提示した「表8」は、②の125頁の表であるが、これは奴婢
の独立戸(奴婢は両班などの家に従属していたわけではなく、独立して家を構えて
いたものもあった)を強調するために作成したもので、奴婢戸が減少してもこれが
直ちに奴婢の減少を意味するものではないことは、「表9」からもわかるとおりで
ある。


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朝鮮における奴婢(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 3日(火)09時02分13秒 ACCD6727.ipt.aol.com   返信・引用
宮嶋博史の提示した「表9」が②の144頁の、調査対象地域は次のとおりである。

年代             面
Ⅰ.粛宗16年(1690年) 対象  西下下、河東、河西、河南、河北、甘勿川
祖岩、仁興、月背、花園
Ⅱ.英祖5年(1729年) 対象  西下下、仁興、花園
※ 河東、河西、河南、河北、甘勿川
祖岩、月背はない(調査対象にない)
同8年(1932年)  対象  河東、河西、河南、河北、甘勿川、祖岩
※ 西下下、仁興、月背、花園はない
(調査対象にない)
Ⅲ.正祖7年(1783年) 対象  祖岩、仁興、月背、花園
※ 西下下、河東、河西、河南、河北、
甘勿川はない(調査対象にない)
同10年(1786年)  対象  河東、河西、河南、河北
※ 西下下、甘勿川、祖岩、仁興、月背
花園はない(調査対象にない)
同13年(1789年)  対象  西下下
※ 河東、河西、河南、河北、甘勿川、
祖岩、仁興、月背、花園はない
(調査対象にない)
Ⅳ.哲宗9年(1857年)  対象  西下下 河東、河西、河南、河北
甘勿川、祖岩、仁興、月背、花園


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朝鮮における奴婢(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 3日(火)09時00分42秒 ACCD6727.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮時代の奴婢の実態については、調査対象面を共通にした次の表が、
宮嶋博史が示した表よりも妥当と考える。

Ⅰ                Ⅱ
1690年            1729年   単位 人
(粛宗16年)          (英宗5年)
1732年
(英宗8年)の2年代を総合
両 班    787             2,053
( 6.7%)           (14.5%)
常 民  5,949             7,779
(14.5%)           (54.9%)
奴 婢  5,362             4,344
(45.9%)           (30.6%)
計  11,698            14,176

Ⅲ                Ⅳ
1783年            1858年   単位 人
(正宗7年)          (哲宗9年)
1786年
(正宗10年)
1789年
(正宗13年)の3年代を総合

両 班  3,279             4,784
(29.9%)           (44.6%)
常 民  5,935             2,550
(54.9%)           (24.0%)
奴 婢  1,649             3,335
(15.2%)           (31.4%)
計  10,821            10,619

※ 対象面は、西下下、河東、河西、河南、河北、祖岩、仁興、花園
甘勿川、月背の2面は除く
★ ②の148頁


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朝鮮における奴婢(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 3日(火)08時59分16秒 ACCD6727.ipt.aol.com   返信・引用
人口の増減率
Ⅰ~Ⅱ     Ⅱ~Ⅲ     Ⅲ~Ⅳ     Ⅰ~Ⅳ
両 班  160.9%   57.7%   46.2%  501.5%
常 民   40.2%  ▲23.7%  ▲57.0%  ▲54.0%
奴 婢   19.0%  ▲62.0%  102.2%  ▲37.8%
総 数  501.5%  ▲54.0%  ▲38.7%  ▲ 9.2%

★ ②の149頁

両班が時代とともに増加している。これは常民が減少していることと相まって
四方 博が言うように「売官」によるものであろう。 奴婢は一時減少したものの
また哲宗の時代には増加している。これは常民の没落によるものではなかろうか。
1690年には「両班」が6.7%だったのに、1858年には約45%にも
達している。これも「売官」によるものであろう。それにしても支配階級が半分
近くになっているとはいびつな社会であったことを示している。


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朝鮮における奴婢(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 4日(水)07時03分7秒 ACCD12B7.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮の基本法典である『経国大典』(1485年)の改訂版である『続大典』
(1744年)の刑典の公賎条に、「三大に亙って良人を冒称する者は良人である
ことを許す」との記載がある。このことは「売官売位」が行なわれていたことを
示している。この<売官売位>の用語は、李氏朝鮮の身分制度についての権威で
ある四方 博も『李朝人口に関する身分階級別的観察』京城帝國大学法学会論集
第10冊『朝鮮経済の研究 第三』1938年10月も使用している。

奴婢などの公賎・私賎が丁 茶山(1762年~1836年)「與猶堂全書」の
『牧民心書』戸典第四、戸籍条で盛んに両班の身分を冒称したことを記述して
いる。
売官売位が行われたのは、17世紀後半などからではなくかなり前から行われ
ていた。例えば、『増補文献備考』宣祖34年条(1601年)に、壬辰倭乱・
丁酉再乱(1592年~1596年)の後の国家財政を補うため納粟(穀物を納めること)・
運粮(食糧を納めること)・納銀によって官職を得ることが許されたことが記されて
いる。さらにこれが制度化し売官売位が財源化し、『増補文献備考』仁祖元年条
(1623年)には盛んに売官売位が行われていたことの弊害が記されている。
ここでははっきりと「官を売り」との表現がある。
この「売官売位」は止まることを知らず、先の『続大典』の規定となったと
考えられる。
したがって、両班の身分の取得は、>身寄りの無い高齢の両班から現物を
買取る<といったものではなく、国家から取得したものである。もちろん、そこ
には腐敗した官吏が仲介していたのである。

四方 博は、「大丘戸籍(現在の慶尚北道の道庁の大邸の戸籍)」の身分階級分析
でこのような冒称を逐一分類し両班、奴婢などの構成を明らかにした。その苦闘は
「李朝人口に関する身分階級別的観察」を読めば一目瞭然である。


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朝鮮における奴婢(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 4日(水)07時01分52秒 ACCD12B7.ipt.aol.com   返信・引用
両班への冒称は、最初から最後まで「売官売位」であったことは間違いない。
四方 博も前掲書において、粛宗16年(1690年)から哲宗9年(1858年)
にかけての「大丘戸籍」の身分階級分析を行っているが、ここでも両班の大増加は
「売官売位」によるものであることを認めている。

両班とは、次の種類があると言われている(「朝鮮の社会階級」田中徳太郎〔雑誌
『朝鮮』大正10年3月号など〕)。
1.本来「科挙」の文科、武科合格者を意味するものであり、全て京(漢城)に居住
する中央官僚であり、中央官僚であり京から派遣される地方長官などを除けば、地方
地方には存在しなかった。ところが、士禍などの党派抗争に敗れた者たちが地方に
隠遁することによって地方にも「両班」が在住するようになった。彼らは「両班」
と自称していたが、地方では「郷班」と呼び、中央の「両班」からは「土班」と
蔑称されていた。
2.儒林と呼ばれている者で、学識徳望が高かった者をいう。次第にその子孫も
「両班」と称されるようになっていった。
3.宦族と呼ばれている者で、大官に任じられた人の家系をいう。特にそのなかで
奎章閣=直閣待教などの高官は閣臣と呼ばれ、王室の結婚は閣臣に限られるように
なって、地位が上がった。
4.勲族と呼ばれている者で、王室・国家に勲功を立てた人をいう。次第にその子孫も
「両班」と称されるようになっていった。
5.忠臣の後裔である。王室・国家に忠誠を尽くし臣節を全うして死んだ人および
一時王の意に逆らって酷刑に処せられたが、臣節を曲げずに死んだ人で後に王に
よって名誉が回復された人の子孫
これらのうち、地方に居住する両班を後世になって「在地両班」と呼んだ。


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朝鮮における奴婢(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 4日(水)06時59分36秒 ACCD12B7.ipt.aol.com   返信・引用
宮嶋博史のいう「郷吏」とは、地方官吏の一員である。『経国大典』(1485年)
の吏典 郷吏条に規定がある。なお、「郷吏」の悪行は度々問題となっており、
『経国大典』(1485年)および『続大典』(1744年)の刑典にわざわざ
「悪郷吏条」を設け、その犯しやすい事犯を挙げて、その罰則を定めている。
「在地両班」はその地方ごとに「郷録」という名簿を作成して、権力を誇示するが、
この「郷録」の登載に関しては厳しい制限があり、「郷吏」については登載が拒絶され
たり、「在地両班」と数代に亙って婚姻関係がなければならないなどの制限が課せられ
ていた(ただし、地方によって制限は異なる)。したがって、この「郷録」に登載され
なければ「在地両班」としての資格はなかった。

ところで、「17世紀後半以降、在地両班層の経済力が低下しはじめるに
つれて‥‥こうした両班集団に対して新たに挑戦をいどむ勢力が登場して
くる。その先頭に立ったのが郷吏であった。 郷吏層の地位上昇の試みを
よく表しているもう一つの興味深い例は、族譜への郷吏家門の入録である。
‥‥したがって両班への上昇を志向する郷吏層が族譜への入録を試みる
のは、必然であった。‥‥ 始祖から数えて四代目というきわめて古い
時代の人物が突然登場して、その子孫が大挙して族譜に入録されている
わけである。‥‥」(宮嶋博史『両班』〔中公新書〕)の187~196頁―辻本
武氏より引用)との記述がある。


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朝鮮における奴婢(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 4日(水)06時57分53秒 ACCD12B7.ipt.aol.com   返信・引用
「郷吏」階層が「両班」階級への上昇志向を有しており、両班階級の出自を示す
族譜への入録を試みたことは事実である。
ところで、先の中央官僚の登竜門である「科挙」は「両班」階級に限られていた
が、それには「幼学」という称号が必要であった。「幼学」とは、科挙受験を目指して
学業に専念してよいというものであり、この称号を許された者は一切の役務・賦役を
免除されていた。「郷吏」がこれを取得すれば、本来の地方官吏の業務からの離脱が
得られることを意味していた。したがって、「郷吏」階層の運動はこの「幼学」称号
の獲得に向けられたのは当然であり、これなくしては「科挙」の受験資格がなかった
からである。
「郷吏」のこの「幼学」称号獲得は宮嶋博史がいうようにそう簡単なものではなかっ
た。一部の地方では「郷吏」にも「幼学」称号が許されたが、全ての地方ではなく、
そのため、「郷吏」が「幼学」称号を冒称することが行われた。この冒称について
は度々当時の書で記載されている。丁 茶山(1762年~1836年)「與猶堂全書」の
『牧民心書』戸典第四、戸籍条で「科挙に法が無く、故に猥雑者が皆、科挙試験場に
入り、幼学を冒称する。そのため全てが「幼学」となっている」両班の身分を冒称
していたことを記述している。



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朝鮮における奴婢(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 5日(木)13時11分33秒 ACCD2A51.ipt.aol.com   返信・引用
李氏朝鮮における、「身分」と「位」の分化は、そう厳格に行われてはいなかった
と考える。
「身分」とは、社会的地位をいうが、これは職種・職階・財産によって自然に分け
隔てられる慣行上・通念上の垣根だとされる。「位」とは公的官職・身分・功績からの
上下関係をいうとされる。したがって、この両者の区別はそう明確ではない。つまり、
連動しているといえる。
それでも、「両班」という制度を論じるときは、「両班」は<身分>であって、<位>
ではない。「両班」がどの官位を取得した者に与えられるかについての規程はなかっ
た。これは考えてみれば当たり前のことで、先の「両班」の定義からみても公的官職
に就かなかったあるいは遠ざかっていた者も両班に叙せられていたからである。
四方 博も「大丘戸籍」において、両班、常民、奴婢の分類で、「身分」と「位
(職役)」の区別をそう厳格に行ってない。彼はその分類に当たって、身分・職役を
14に分け、そこから「両班」である者がどのくらい存在するかを分析している。
その第1類と第2類が「身分」である。これに属するものとしては、進士・生員・
幼学・(第1類)、校生・貢生・院生など10を第2類に分類している。第3類以下
は職分である。特にその第3類には「嘉善太夫―従二品」という高位の職分で両班に
与えられるものでもあるにもかかわらず、常民、奴婢にもそれが見られる。これは
買位によるものと断じている。その他の高位の官職もあり同じことが行われている。


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朝鮮における奴婢(15) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 5日(木)13時10分25秒 ACCD2A51.ipt.aol.com   返信・引用
「郷吏」は第10類(地方官吏)に分類されている。分類の順番は高位から低位
になっているようであり、「郷吏」はかなり下級職役であるといえる。第11類も
地方官吏である。この10類・11類は数が多く、「郷吏」は地方官吏の総称では
なく、その一類系に過ぎないことを注意すべきである。ただ、これは数が少ないので、
宮嶋博史がこの辺のところを厳密に論じていないと思われ、「郷吏」を地方官吏の
総称と捉えているように感じる。これを地方官吏の総称と考えても数が全体の1%
にも満たない数であることから、<ことさら>という表現を使用したのである。
この点についても評論すると、地位の向上への運動・志向は「郷吏」よりも
「庶子」が先立った。これは「庶子」が「両班」の外側つまり身近なところに存在
していたことによる。「郷吏」の運動は「庶子」の運動に刺激されて、遅れてなさ
れたことに注目しなければならない。このことも<ことさら>という表現に含めた。
さらに、宮嶋博史は『両班』の196頁以下で「民衆たちの両班志向」という標題
で、四方 博の本稿における紹介の一部を引用しているのであるから、「民衆」が主体
であって、「郷吏」をことさら強調することの必要はなかったものと考える。

ところで、先の「幼学」は、庶子・郷吏にとって「両班」への入口となっていた。
つまり、彼らにとって「両班」になるためには<科挙>の合格しかなかったからで
ある。これは先の「両班」の定義から明らかであろう。


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朝鮮における奴婢(16) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 5日(木)13時08分55秒 ACCD2A51.ipt.aol.com   返信・引用
「幼学」の数は、先の「大丘戸籍」では次のとおりとなっている。
その前にもう一度、調査対象年代の説明をしておきたい。
Ⅰ.は1690年(粛宗16年)、Ⅱ.は1729年(英宗5年)、1732年
(英宗8年)の2年代を総合したもの、Ⅲ.は1783年(正宗7年)、1786年
(正宗10年)、1789年(正宗13年)の3年代を総合したもの、Ⅳは、1858年
(哲宗9年)をいう。( )内は両班全体(戸主数)からみた比率、〔 〕内は村民
全体からみた家族も含めた数である。

Ⅰ        Ⅱ        Ⅲ        Ⅳ
幼学  120名     356      788    1,885
(46.6%)  (70.9%)  (81.3%)  (98.3%)
〔 7.5%〕  〔19.1%〕  〔43.1%〕  〔70.4%〕

つまり、科挙にも合格しないで勉学中の者が「両班」に属し、時代を経るとともに
増大していったことがわかる。これが戸主も含めた数も同じ傾向にある。彼らが
無為徒食の存在であったことは「李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済(4)」
で説明した。
四方 博はこの「幼学」の異常な増加を「売官売位」によるものと考えたのである。

ところで、宮嶋博史は『両班』の189頁で「1729年には安東の郷吏たちに
「幼学」という称号を用いてもよいとの命が下された」と述べている。四方 博の
調査地域は「安東」ではないが、近隣であるので同じような命令がなされたのかも
知れない。この1729年は先のⅢ以下の年代に当たり、「幼学」が増えたのは、
これが要因の一部と考えるむきもあろうが、「郷吏」の数から見てそうとは言えない
と考える。



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朝鮮における奴婢(17) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 6日(金)12時50分45秒 ACCD4474.ipt.aol.com   返信・引用
李朝時代の戸籍については、『経国大典』(1485年)に戸籍の形式が定められ
た。ここでは三年ごとに戸籍を改めることになっており、5戸を一つの単位として
統主を定め、面(村)ごとに戸籍官を置くことになっていた。今でいう「隣組制度」
だった。こうした戸籍制度が整備されたのは、『続大典』(1744年)からで、この
戸籍条では細かい規程が置かれている。これによると、一戸ごとに、戸主は、
1. 姓名、2.年齢、3.職名、4.年齢・甲支、5.本貫、6.祖先(四代前まで)
の名、妻も同じで、祖父などについては郷本貫、子については、1.続柄、2.名、
3.年齢・甲支、使用人についても同じ。奴婢については、1.名、2.年齢・甲支、
が記載(登科という)することが求められ、これに違反した場合(年齢を偽った者、
戸を誤った者、冒録した者ばかりではなく、遺漏)には厳しい罰則(例 杖 10
回―棒で10回叩くこと)が定められていた。戸籍を申告する民間人ばかりではなく、
これを司る「観察使」およびこれの指揮下にあって実際の戸籍をまとめる「守令」
は罷免されるなど罰則が厳しく定められていた。このことが定められていたこと自体、
戸籍脱漏の手段と利益が存在していたことを示している。


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朝鮮における奴婢(18) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 6日(金)12時48分52秒 ACCD4474.ipt.aol.com   返信・引用
戸籍は各戸から提出されたものをまとめ、帳籍というものを作成した。これに
基づいて副本というべきもの(準戸口)は戸主に交付された。
帳籍は、面(村)を数個に区分し、洞(町)・里(部落)ごとにわけ、さらに
5戸ごと(これを一統という)に記載されていた。面(村)ごとにまとめた綴り
の最後には、戸籍作成責任者「観察使」の花押がある。下級地方官吏「郷吏」
ではない。したがって、「郷吏」が自ら戸籍を操作することはできない仕組みに
なっていた。
なお、注意すべきは、帳籍および準戸口にも「両班」という表記はないことで
ある。ただ、職分・身分をみれば、特に「身分」から「両班」であるかどうかは
わかるようになっていた。
戸籍が官=国家が作成するものであれば、「郷録」は民間が作成するものである。
「郷録」は「両班名簿」というべきもので、この二つは原則としてこれは連動
しない。先のとおり戸籍に信頼が置けないことから、「在地両班」が「郷録」を
作成したとも考えられよう。
四方 博も「大丘帳籍」の分析に当たって繰り返し戸籍が信頼できないことを
力説している。
「在地両班」は帳籍(戸籍)に記載されていても「郷録」に登載されなければ、
「両班」とは認めなかったものと思われる。したがって、「郷録」こそが大切で
これへの登載が重要視されたのである。


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朝鮮における奴婢(19) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 6日(金)12時47分23秒 ACCD4474.ipt.aol.com   返信・引用
ところで、「両班」の証として大切なものが「族譜」である。これは「血統譜」
というべきものである。「族譜」なき「両班」はいなかった。
「郷吏」などが「観察使」を買収し、戸籍(帳籍)の記載を操作し、「在地両班」
に賄賂を贈って「郷録」に登載されるようにしても、「族譜」がなければ誰も
「両班」とは認めなかった。
それならば、自分で「族譜」を作ればよいと思われるが、自分を始祖にあるいは
三・四代先の祖先を始祖にした「族譜」を作成しても、このような歴史のないもの
を「族譜」として誇ることはできなかった。そこで、考え出されたのが、他人の
「族譜」に潜り込むこと、つまり「入録」である。名高い「名家」の「族譜」に
加えてもらうことがひ17世紀ころから始まっている。この辺の事情は宮嶋博史の
前掲書に詳しい。彼によれば、このようなことは1957年にも行われていたと
ある。
このように「両班」は、「戸籍簿」、「郷録」、「族譜」の三セットで存在していた
と言い得る。
いずれにせよ、この三セットとも信用性は極めて薄く、<偽両班>が極めて多い
ことは否定しがたい事実だと思われる。


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朝鮮における奴婢(20) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 6日(金)12時46分6秒 ACCD4474.ipt.aol.com   返信・引用
宮嶋博史は『両班』で、「郷吏」について、「在地両班層が形成されてくる母体と
なった集団であり、16世紀の中葉までは両者の区別はかなり曖昧なものであった。
しかし在地両班層が階層として形成され、地域の支配層を掌握していくにつれ、
両者の間には厳然たる格差が生じ、郷吏層は在地両班層から監督・指揮される存在
に転落してしまったのである」と記述している(187頁)。しかし、この記述には
一部誤りがある。そこで「郷吏」について少し説明を加えたい。

「郷吏」は元々高麗時代に地方に土着し郷士階級を形成し地方民を支配していた。
李王朝は中央集権国家の形成を目指し、これを整備するために郡県制を強化した。
その障害になったのが「郷吏」層だった。その権力を削ぐために下級身分階級
(中人)に固定し、中央から派遣される官僚の下で地方民を統治する補助者として
の職分に限定した。しかも任期を固定せず交代制にしてその権力が永続しないよう
にした。したがって<在地両班層が階層として形成され、地域の支配層を掌握して
いくにつれ、両者の間には厳然たる格差が生じ、郷吏層は在地両班層から監督・
指揮される存在に転落してしまったのである>というのは誤りである。彼らの地位
の低下には国家の干渉があったのである。


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朝鮮における奴婢(21) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 7日(土)19時36分31秒 ACCD4166.ipt.aol.com   返信・引用
「郷吏(正式には衙前―ガゼンと呼ぶのが正しい)」は国家からの俸給・田畑の
下賜があったわけではなく、その地方からの収税の一部を支給されたに過ぎなかっ
た。しかし、壬辰倭乱後の李王朝の紊乱により17世紀初頭ころより彼らを統制し
ていた守令・監司が頻繁に交代するにつれ(ほとんどの任期は3ヶ月から1年未満)、
次第に「郷吏」が地方管理実務者の力を発揮し、守令・監司をも実質的に支配する
ようになった。つまり彼らなくして地方の支配は不可能となったのである。
彼らは守令・監司の手先となって収税した金・米などを着服して経済力を蓄えて
「在地両班」の経済力を凌駕するようになった。。なお、「在地両班」層は新たな
支配層として地方民の上に君臨したが、それは耕作権を通じた土地の支配であって、
官吏として支配していたわけではない。
「郷吏」の数であるが、安 秉台(正確には王+台)の『朝鮮近代経済史研究』
日本評論社 1975年の研究によれば、18世紀中葉には全国で12,031名おり、
「大丘」のある慶尚道には3,080名いた(原典は『道先生案』韓国国会図書館
司書局)。
元々地方の土豪だった彼らの血縁的結束は次第に在地両班層を侵食して行った
過程は宮嶋博史の前掲書のとおりである。
「郷吏」の収税を通じた地方民の収奪は民衆の怨嗟の的となり、民乱(農民一揆―
東学党の乱)では、小作料を半分も取り上げていた「在地両班」が襲われずに専ら
衙門(役所)および「郷吏」が襲われ、多くの郷吏が殺害されているのは、この
事情を物語っている。


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朝鮮における奴婢(22) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 7日(土)19時34分53秒 ACCD4166.ipt.aol.com   返信・引用
奴婢についての定めは、『経国大典』を始めとする李氏朝鮮王朝の法典に定められ
ている。法典のなかで「大典」と名がつくものは、『経国大典』と『続大典』の2つ
であり、そのほかの物は小規模の改訂版と考えてよい。
この2つについて、説明したい。
『経国大典』は李朝7代「世祖(1417年~1468年)」が崔 恒に命じて編纂させ
た法典である。日本にも伝えられている。
6巻あり、1巻は吏典で、官吏(等級・職分など)について定めている。2巻は
戸典で、戸籍、量田、収税、禄科(官吏の俸禄)などについて定めている。3巻は
礼典で、科挙の試験、服喪の期間、式典の服装などについて定めている。4巻は
兵典で、軍隊の階級などについて定めている。5巻は刑典で、刑罰について定め
ている。6巻は工典で営繕、度量衡などについて定めている。
このうち、戸典は1460年、刑典は1461年に完成したが、その他は、次の
「睿宗(1469年~1970年)」の時代の1469年に完成した。
『経国大典』の編纂は大変で、その辺の事情は『経国大典の難産』(「朝鮮社会法制
史研究」京城帝國大学法学会論集 第9冊 岩波書店 昭和12年5月15日)に
詳しい。
『続大典』は「英祖(1725年~1777年)」が「金 在魯」に命じて編纂させた
法典で、22年(1744年)に完成している。これは『経国大典』の大改訂版という
べきものである。構成は『経国大典』と同じく6巻である。


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朝鮮における奴婢(23) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 7日(土)19時33分37秒 ACCD4166.ipt.aol.com   返信・引用
両典とも「奴婢」についての規程がたいへん多い。このことは「奴婢」が国家を
支えていたことを示していると考える。奴婢の逃亡は戸主(奴婢の所有者)が斬首
しても許された。なお「白丁」、「僧侶」は蔑視の対象で、各村・各寺に分住させ、
逃亡したときは、流刑と定められていた。
主だったところを記すと、官吏の任期(従6品以上)は900日と定められてい
た(『経国大典』吏典)。「郷吏」の横暴に悩まされていたようで、両典ともわざわざ
「元悪郷吏」という項目を設けて、守令をないがしろにすること、賄賂を取ること、
収税したものを懐に入れること、民を収奪して私腹を肥やすこと、良家の女子・
官婢を妾とすることなどを罰すること(徒刑=流刑など)を定め、一般人に中央の
「司憲府」に告発することを奨励している。なお、当時の刑は、1.笞(鞭-むち)
刑、2.杖刑、3.棍刑(太い棒で叩く)、4.徒刑(流刑)、5.死罪、だった。
笞刑は、1.上刑―笞30 血を見ぬ程度に叩く、2.中刑―笞20 力を用いて
叩く、3.下刑―笞20 温言で法を諭して叩く、の3種類があった(『牧民心書』)。
なお、『牧民心書』は、「丁 茶山(本名は丁 若鏞)〔1742年~1856年〕」の書
で、彼は科挙(文科)合格の中央官僚であったが、党派の抗争に敗れて流刑された。
彼は任官中から建築学など実学に長じていた。本書は当時の政治経済書で48巻
という大書である。当時の社会・政治・経済を事細かに記述している。当時の事情
を知ることのできる貴重な書物である。


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朝鮮における奴婢(24) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月 7日(土)19時22分1秒 ACCD4166.ipt.aol.com   返信・引用
このほど、日本の被差別部落出身の上原善広氏が韓国の白丁を尋ねて
『コリアン部落ー幻の韓国の被差別民・白丁を探して』ミリオン出版、
2006年5月22日 を著した。

朝鮮の被差別民の解放運動は日本統治時代の1923年4月「衡平社」
が結成されたことで始まった。
ただ、「衡平社」は朝鮮の被差別民が政治犯から生まれたという考えを
持っているため、日本の「水平社」とは交流がないという。

ところで、上原は朝鮮の被差別民が日本の統治下で差別が深刻化したと
いうが、白丁の研究者である慶尚大学の金 仲燮教授によって一蹴されて
いる。オキノドクというしかない。
何でも日本の統治のせいにするとすぐにボロが出る典型的な例だろう。
白丁は三国時代から存在していると言われているのだから。
なお、被差別民は高麗時代の① 奴婢〔ノビ〕 ② 才人〔チェイン〕
(広大〔クァンデ〕ともいう)ー芸人 ③ 揚水尺〔ヤンスチョク〕ー
一般の被差別民があり、この揚水尺が白丁となったのであるが、その
ルーツは、異民族の捕虜(豊臣秀吉の朝鮮征伐の際の捕虜・残留民という
説もある)、政治犯とも言われ明確ではない。ただ、先のとおり、かって
の「白丁」は政治犯だと主張していた。

韓国の白丁は、① 日本の統治 ② 朝鮮戦争 ③ 産業化と都市化
によって消滅したという。
このうち、①の理由はハッキリとは述べてないが、白丁が生業として
いた食肉業が日本人にとって変わられた結果、存在基盤が失われたと
いうことだと思う。
②は朝鮮戦争によって白丁が住んでいた部落が戦乱の最中で消滅しこと、
③は解放後、食肉業が日本人からさらに白丁以外の一般人に移っていった
こと、と説明している。
韓国の研究者も日本の被差別民は住んでいる部落の消滅しかないと考え
ているようだ。つまり、日本では戦乱がなかったから被差別民が残ったと
いうことだろう。

上原氏は韓国における白丁の存在を探るのだが、衡平社もなく、食肉業
にも白丁の存在が明白でないため、困難を極めている。
または白丁そのものの存在がハッキリしてないため、さらには白丁に
対する差別があるため(存在しているかどうかは明白ではないが、その
用語に対して差別が残っている)、結局は徒労に終わっている。
ただ、自ら白丁と名乗った韓国中部の清州の「金 永大」氏(食肉利権
争いから1999年3月に殺された)のような人もいるから、存在はして
いるだろうが、自ら「白丁」と名乗る人は彼が最後だと思われるから、
白丁探しは難しいだろう。
韓国の実情は、出自(白丁)から来る差別ではなく、職業(食肉業)
から来る差別のようだ。むしろ、この点が日本と大きく違うと思う。
つまり、日本では食肉業に被差別民が就いているが、韓国ではそれがない
というのだろう。ただ、食肉業には「金 永大」氏の例もあり、実際は
わからない。白丁は存在し、現在でも残る日本時代の戸籍には職業が記載
されていたといい、食肉業に携わる人は「屠漢」などとの記載もあった
ようで、今でも役所によっては残っているとされる。したがって、調べれ
ばわかるようだ。

上原氏の探索は「金 永大」氏が既に死亡していたため、彼との面談
もかなわず<国民総両班>の韓国の厚い壁により徒労に終わったが、その
努力には敬意を表する。
ただ、著作としては消化不良で物足りない。格別な興味があればともかく
購入して読むこともないと思う。

李氏朝鮮時代末期の様相

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李氏朝鮮時代末期の様相(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月10日(火)12時56分27秒 ACCD15B2.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮統監府は、朝鮮政府に金員を貸付け、警察機構の拡張を図ったとされている。
どのくらいの金員がこれに使われたかについての資料はまだ見出していない。
朝鮮統監府が置かれていた時代には、朝鮮には顧問警察といって日本人が警察
機構の拡充のため日本から警察幹部が派遣され<大韓帝國>から雇用されていた。
この背景には日本側の事情もあったが、大韓帝國の警察の紊乱と民衆の道徳の欠如
にあった。
1905年(明治38年)に警視庁第1部長丸山重敏が大韓帝國警務顧問として
雇用された。当時の大韓帝國警務局保安課長「岩井敬太郎」の記録が残っている。
これが『顧問警察小誌』で、1905年から6年間あまりの韓国警察の実情を伝え
ていて興味深い。これは、「韓国併合史研究資料 4」(龍渓書舎 1995年)に書収
されているが、要約は『「植民地朝鮮」の研究』(杉本 幹夫 展転社 2002年)
にも掲載されている。


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李氏朝鮮時代末期の様相(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月10日(火)12時55分23秒 ACCD15B2.ipt.aol.com   返信・引用
当時の警察署の様子
1.署長は個室を持っていたが、警官(巡検)は3人1室であったものの、机・椅子
がなく、事件処理も口頭で済ませ、記録に取ることがなく、したがって事件・捜査
書類も存在しなかった。
2.警官(巡検)は字が読めなくとも済み、金銭で警官(巡検)の職を買った者が
いた。
3.警官(巡検)は、制服のまま賭博にふける者、売春婦の家に行って金銭を強請る
者、事件のあった家に行って金銭を要求する者も多く、賭博を取締まったときには、
その現場に残された賭博金をそのまま着服し、警官(巡検)ばかりか署長にも分配
されていた。
4.警察署には留置所があったが、窓もない暗室で、留置されている者は、手かせ、
足かせされ、虐待を極めていた。
5.警察学校などはなく、警官(巡検)の教育は全く行われてなかった。
6.逮捕は勝手に行われ、基準がなかった。未決拘留も数年あるいは10年という
こともあった。
7.拷問は日常茶飯事であった。


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李氏朝鮮時代末期の様相(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月10日(火)12時54分10秒 ACCD15B2.ipt.aol.com   返信・引用
そのほか、監獄の様子、裁判の様子も記警察の現状から容易に想像できると思う。
公平を期すために、日本人居留地の「領事警察」にも触れておきたい。
幹部および一部の警察官は日本内地の警察から派遣されており、規律が保たれていたが、
日露戦争後は、日本人が増加したこともあって、警察官を現地で採用することになった。
この現地採用の警察官は韓国警察と同じように規律が乱れていた。
間もなく、これが改革され、不良邦人を捕縛し、日本内地に強制送還するなど改革の
成果が上がっている。



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李氏朝鮮時代末期の様相(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月11日(水)14時09分18秒 ACCD0549.ipt.aol.com   返信・引用
大韓帝國警務局保安課長「岩井敬太郎」の『顧問警察小誌』で、1905年
(明治38年)はこの年から6年間あまりの韓国警察の実情を伝えている。
日本の江戸時代なんかじゃない。
前の記述に引き続いて当時の朝鮮の様子を伝えたい。
1.朝鮮人は、路上に脱糞する習性があった。
2.便所とはいうと、自宅の一隅を溝形に掘り下げ脱糞し、雨水によってこれを
宅外へ流出させるか、もしくは小鍬で撤去していた。
光武8年(1904年)12月に「道路管理規則」を発布し、京城市内において
は糞尿を下水に流出することを禁止したが、一向に収まらなかった。
3.貴賎を問わず、座っている脇に尿器を置き、昼夜となく来客と応接する間も
そこに小便をし、これを窓外に放下していた。
4.ゴミは一定の場所に貯めおく容器もなく、これを道路、側溝に捨てるため、
顧問警務部が清掃に努め、道路は何とかなったが、側溝までは手が届かず、
停滞腐敗し、半分は蒸発し、半分は地下に浸透していた。


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李氏朝鮮時代末期の様相(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月11日(水)14時07分45秒 ACCD0549.ipt.aol.com   返信・引用
1.子供を奴隷として永久的に使役する習慣があり、争ってこれを養育し、売る
ことが行われていたが、警察はこれを取締まることはなかった。
2.路上に迷子があるときは、父母・親戚を調査し、該当者がいなかったときは、
希望者がこれを養育し、自家の奴婢として使役した。
3.奴隷を下人と称し、自家の雑役に使っていた。奴隷は個人の権能がなく、
ローマ時代の奴隷制度に酷似していた。
4.中流以上の家庭では、多くて50人、少なくて10人の奴隷を持っていた。
5.奴隷は売買・交換自由で、それを商売とする者もいた。
両班階級に下人(奴隷)を進呈する例は少なくなかった。
6.終身的下人、世襲的下人もおり、彼らが結婚するときは、配偶者も下人となり、
その生まれた子も下人となった。彼らが奴隷の地位を脱するには主人の認諾が
必要であった。

江戸時代には「奴隷制度」はなかった。加えて、こういう衛生状態では、李氏朝鮮
および大韓帝國では直しようがなかったと考える。
清、ロシアとも当時は、「奴隷制度」があり、衛生状態は朝鮮と同じだったと思える。
中国では今でも人身売買が行われていると聞く。
朝鮮は、日本の支配下になって良かったと思う。こういう悪弊は朝鮮の近隣諸国
では日本しか救えなかったと考える。
少なくとも下人(奴隷)の<心理>を考えると、「日本統治萬々歳」であったであろ
う。
朝鮮の農民・奴婢を始めとする庶民が日本統治によって解放されたのは疑いの入れる
余地がない。「光復節(解放記念日)」というなら、明治43年(1910年)8月29日
(日韓併合に関する宣言日)とすべきだろう。



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しばらく休みます 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月11日(水)14時16分51秒 ACCD0549.ipt.aol.com   返信・引用
「李氏朝鮮時代末期の様相」は終わりです。

次は、外国人の見た朝鮮と日本(江戸時代末期・明治時代初期)を比較しながら
論考したいと考えてます。
現在、勉強中です。

その後は、「李氏朝鮮時代と日本統治時代の人口問題」を考え、順番(「日本
統治時代の経済」)を変えて、「李氏朝鮮時代と日本統治時代の教育」に進みます。

解放者師匠 投稿者:南国人J 投稿日:2007年 7月16日(月)08時45分35秒 pl066.nas981.miyazaki.nttpc.ne.jp
帝国電網省掲示板で見ました。
朝鮮の古墳を研究中だとか.......

こちらには、日本最大の古墳群(西都原古墳)があります。
朝鮮古墳と比較される場合などが生じたら、資料の入手等、遠慮なくお申し付け
下さい。
小生が生まれ育った地域でもあります。地元の役場には
同級生もおりますし、ここの考古博物館の説明員は小生の小学生時代の
担任です。
現在の居住地からもさほど離れておりませんので、おっしゃって
いただければ、資料その他貰ってまいります。
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/home.html

古墳

古墳 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月17日(火)13時25分23秒 ACCD1D18.ipt.aol.com
日本独特の「前方後円墳」がありますが、これは朝鮮にもあります。
全羅道の黄海に面した付近にあります。百済の故地です。
ところが朝鮮人がこの「前方後円墳」が朝鮮から日本に伝わった
ものだということを唱え、一時朝鮮では広く流布したのですが、
「前方後円墳」の築造が一時的なもので消え去っていることから
疑問を投げかける研究者も多く、年代を検証したところ日本の
方が時代的に早いことが判明してます。
つまり、日本勢力の百済への進出(日本人の移住)が「前方後
円墳」の築造を朝鮮にもたらしたのです。朝鮮伝来説を唱える者
は少なくなり、研究からも消え去ってます。朝鮮人は「王仁」
(漢字の伝来者と誤認されている)のように<朝鮮伝来>となると
検証もしないで飛びつくという<悪弊>があり、これが否定されると
とたんに話題からも研究からも消え去るという習性も併せ持って
ます。
「前方後円墳」も同じですが、研究から消え去ることがないように
勉強を続けてます。

日本人にしても朝鮮人の末裔でなどではなく、南方の民族、北方からの
民族、朝鮮からの民族などが混合して形成されます。

日本統治時代の評価も「日本人は朝鮮人の末裔で何でも伝えてやった
のに逆に日本が主体的となった」ことに我慢できないという何とも説明
がつかない<不可思議>な妄想から、否定的な評価しかできないのです。
逆にこれが中国となると「何でも伝えてもらったので何でも敬う」という
事大主義に陥って、結局は国家が<破綻>したことになったのです。
最近では、今度は過度な<民族主義>が台頭し、朝鮮に漢などの中国の
進出はなかった(楽浪・帯方郡など)、高句麗はウリナラ、その故地
(満州南部)は朝鮮人のものという運動が暴走してます。

朝鮮人はそれ自身が研究の対象になるというオモシロイ民族です。

「外国人の見た朝鮮」は完成したものからボチボチ投稿したいと
考えてます。
外国人の見た朝鮮

外国人の見た朝鮮(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月17日(火)00時24分49秒 ACCD1D85.ipt.aol.com

>「朝鮮幽囚記」(1)<

これは、「ヘンドリック・ハメル」(オランダ人)が乗り組んだ「デ・スペルヴェ-ル号」(オランダ船)が台湾から日本に向かう途中の1653年8月16日未明に「済州島」で難破し、そのまま当時の李王朝に総員33名が抑留された。彼らは金を貯めて密かに船を入手し、1666年8月3日、生存者の16名のうち8名が長崎に向け脱走した。8月7日に五島列島付近の島に到着し、8月13日に長崎の出島のオランダ商館に引渡された。朝鮮に残っていた7名も日本側の要求によって翌年8月10日に出島のオランダ商館に引渡された。
「ヘンドリック・ハメル」は1667年10月22日にバタビアに向かったが、この長崎滞在中に書いたものが13年にわたる抑留についての「朝鮮幽囚記」の原本である。これは1668年にはオランダで出版され、次々とフランス語、ドイツ語、英語に翻訳され出版されている。当時はかなり評判だったと考えられる。
ここに紹介されている「朝鮮」の様子を紹介したい。ただ、文章がやや冗漫であるので、
要約して解説したい。
1.当時の朝鮮は「タルタル人(満州人=清)」の属国になっていたようで、たびたび貢物
を取りに彼らが朝鮮にやってくる様が描写されている(26頁、27頁、58頁など-
頁の表記は後記の書籍のものに従う)〔1654年〕。「ヘンドリック・ハメル」ら
(以下抑留者という)は「タルタル人」の使者に直訴して解放を願い出るが失敗し、1人
1尻を50回叩かれるという罰を受けている。首謀者2人は牢屋に入れられ死亡した。次
からは「タルタル人」の使者が来るときは厳重に監視され外出は体罰を以て禁止されて
いた(29頁)。
2.抑留者は漢城から全羅道に移された〔1656年〕。彼らの待遇は道守(長官)に委ね
られており、米と塩を与えられただけで、薪を売ったり物乞いをして副食品・衣服を賄
っていた(32頁)〔1657年〕、(63頁)〔1666〕。長官によって厳しく
取り扱われた。長官は頻繁に交替し(6ヶ月程度)中には過酷な者もいたが、親切な
長官に巡り合うこともあった(34頁)〔1660年〕、(60頁)〔1662年〕。
3.この年から3年は凶作で、何千人という者が餓死し、街道は追剥のために通行できな
くなり、いくつかの町・村が掠奪され王の倉庫が破られて穀物が運び出されることもあ
ったが、犯人が逮捕されることはなかった。生き延びた庶民はドングリ、松の樹皮、野
草を食べていた(35頁)〔1660年〕。

外国人の見た朝鮮(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月17日(火)00時20分3秒 ACCD1D85.ipt.aol.com

>「朝鮮幽囚記」(2)<

4. 国王に反抗した者と王国から逃げ出そうとした者は一族の者と一緒に根絶やしにされ
た(40頁)〔1660年〕。
5.夫を殺した妻は多くの人が通る道端に首まで埋められ、そばには木の鋸が置かれそこ
を通る人々はその女の首を挽いて死に至らしめる事が行われた。逆に夫が妻を殺した
場合は理由があれば罰せられなかった(41頁)〔1660年〕。
6.奴隷がいたことが記され、紳士(両班のことか?)は些細な理由でも奴隷を殺すこと
が許された(41頁)〔1660年〕。
7.国家の税を納めない者は毎月2,3回脛を叩き、納めるまで続け死ぬまでする。死ん
しまっても親戚が代って納めなければならないことになっていた(42頁)〔1660年〕。
膝を叩く罰は、その者を小椅子に掛けさせ両足を一緒に縛り掌の幅ほどの帯で足首の上
と下との2ヶ所を縛る。その帯の間をトネリコの木で作った腕ほどの長さの棒で叩く。
一度に30回以上は叩かず3、4時間後に再び判決の数に達するまで叩く。多くの者は
50回も叩かれる前に死んでしまう(42頁)〔1660年〕。
8.庶民の家は粗末なものであるが、それを建築するときは長官の許可が必要で、彼の
許可がないときは屋根を瓦で葺くことも許されない(46頁)〔1660年〕。

外国人の見た朝鮮(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月17日(火)00時17分58秒 ACCD1D85.ipt.aol.com

外国人の見た朝鮮(3)

>「朝鮮幽囚記」(3)<

9.「科挙」が行われたことも記されており、若い両班がそれに合格するために巨額の出費
を負担したり、贈物(賄賂?)したり、宴会を催したり(供応?)したりして時として
少ない財産を失い年老いた乞食になってしまう(49頁)〔1660年〕。
10.朝鮮人は盗みをしたり、嘘をついたり、騙したりする強い傾向がある。朝鮮人を信用
してはならない。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考
えられていない(52頁)〔1660年〕。
11.度量衡は全国の統一基準はあるが、一般人・商人はこれを守ることはなくゴマカシが
行われる。つまり、売るときは実際よりも軽く、買手は実際よりも重く大きく量ろうと
する。
12.貨幣は銅銭のほかは知らず、日本のような丁銀(銀)は知らない。

※ 『朝鮮幽囚記』ヘンドリック・ハメル 平凡社(「東洋文庫」132)1969年2月
20日

外国人の見た朝鮮(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 7月18日(水)07時35分19秒 ACCD6709.ipt.aol.com

>「朝鮮国記」<

前記の抑留者に対しての「聞き書き」(1~7)のほか、それまでの朝鮮に関する記事・情報を集め、記述している。
1.朝鮮人(コレ-人と記述されている)の生活様式は、一部はタルタル人(満州人)に、
一部はシナ人に似ている。彼らは粗野で無骨である(125頁-頁の表記は後記の書籍
のものに従う)。
2.朝鮮人はシナ人ほど嫉妬深くもなく、勇敢さと戦争の方法に関しては、日本人にほぼ
匹敵する(126頁)。
3.朝鮮人は性格は悪くなく、弓矢の術にたいへん熟練していて正確であるが、火縄銃を
使うこともある(126頁)。
4.朝鮮人はたいへん小心で、恐怖や怒りからしばしば縊死する。そしてそれは当地では
名誉のことだと考えられている(147頁)。
5.ある家族の家長が国王の命令に背いたり、または何らかの罪を犯したときは、家族
全員が彼とともに死ななければならない(147頁)
6.人は死ぬまで脛(すね)を打たれることで罰せられる(163頁)。
7.朝鮮人は日本人と満州人をとても恐れている。というのは彼等はたいへん意気地が
ないからで、そのため戦争が行われようとするときには、その戦争の数日前に縊死する
ことが見られる(165頁)。
※ 彼らが抑留されたのは、豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」が終わってから
60年経ったころだった。

※ 『朝鮮国記』ニコラ-ス・ウィットセン(『朝鮮幽囚記』ヘンドリック・ハメル
平凡社〔「東洋文庫」132〕1969年2月20日に所収)


>「朝鮮に関する覚書」<

1.朝鮮人は非常に気が小さく、彼らは特に外国人を非常に恐れている(179頁)

※ 『1637年オランダ東インド会社の出島商館において作成された朝鮮に関する    覚書』 オランダ東インド会社の出島商館長「ニコラス・ク-ケバッケル」(『
朝鮮幽囚記』ヘンドリック・ハメル 平凡社〔「東洋文庫」132〕1969年2月20日に  所収 177頁)

外国人の見た朝鮮(0)

外国人による朝鮮の見聞記は、次のとおりである。『朝鮮幽囚記』による1653年(
李氏朝鮮時代中期)が最初のものであるが、朝鮮時代は一貫して鎖国が貫かれていたため、
これは捕囚という特殊な例である。その後は『朝鮮事情』ダレのもので1860年代(
李氏朝鮮時代末期-江戸時代終期~明治時代初期)以下、いずれもその時代のものである。
このうち日本1~4を解説した。なお6~8は日本では出版されていないようである。9は単なる朝鮮の解説本なので紹介しない。
解説に当たっては、途中で一切論評を加えなかった。批評は皆さんにお願いする。
「外国人の見た朝鮮」の後には「外国人の見た日本」を紹介する。ただ、先の『朝鮮紀行』の執筆者「イザベラ・バ-ド」は日本についても『日本紀行』1894年~1996年(『朝鮮紀行』と同時代)を著しているので、格好の比較資料なので合わせて紹介したい。
なお、日本人に対する批判も記述されている書籍もあるが(『悲劇の朝鮮』)、本題とは
関係ないので省いた。また『朝鮮の悲劇』は閔妃暗殺、義兵闘争など朝鮮の様子を伝える貴重な書物ではあるが、見聞録というより歴史書・政治書に近いので省いた。
以下の拙稿では、これらの書籍について詳細に記述してあるから、わざわざ購入して読むまでもないと思うが、イザベラ・バ-ドの『朝鮮紀行』は内容も充実しており、価格も
手ごろであるのでぜひお読みいただきたい。
〔 〕内は私の見解(補充)である。
1.『朝鮮幽囚記』1653年~1667年
2.『朝鮮事情』1860年ころ
3.『悲劇の朝鮮』1894年~1995年
4.『朝鮮紀行』1894年~1897年
5.『朝鮮の悲劇』1904年~1906年
6.『禁断の国-朝鮮紀行』オッペルット(ドイツ人)1880年刊行
7.『隠者の国-朝鮮』グルッフス(アメリカ人)1882年刊行
8.『朝の静かなる国-朝鮮』ロ-ウェル(アメリカ人)1885年刊行
9.『新朝鮮事情』ジャ-ク・ブス-=マサビュオ-(フランス人)1981年刊行
白水社 1985年7月5日

外国人の見た朝鮮(5)

>「朝鮮事情」(1)<

これは,「クラウド・チャ-ルス・ダレ(以下 ダレという)」の手になる1874年の『朝鮮教会史』の序論部分である。彼が朝鮮天主教(カソリック)の「ダヴリュイ(フランス人)」主教(1866年、漢城で刑死)が収集していた資料を整理して刊行しものがこの書籍である。なお、ダレは朝鮮には入ったことはない。
この書籍は、朝鮮の政治・経済・社会とあらゆる分野の様子を記載してあり、今でも通用するくらい精緻な資料となっている。日本でもこの資料性に注目して「榎本武揚」が刊行2年後の1876年に日本語で翻訳・刊行しており、当時の朝鮮に関する第一級の資料として珍重された。「朝鮮事情」は在日朝鮮人「金 容権」が訳出したものである。内容の順番に従って提示する。なお、ここに書かれた時代は李朝の末期(日本でいえば江戸時代
の終末期)である。
1.第1章 朝鮮の自然地理
① 竹島は朝鮮の領土に含まれてなかった(15頁-頁の表記は後記の書籍のものに
従う)。
② 朝鮮は山国であり、道路と運輸機関が実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。
大部落はほとんどなく、田舎の人々は2,3軒、多くて12,3軒ずつ固まって散在
している。年間の収穫は住民の需要をかろうして満たす程度であり、しかも朝鮮では
飢饉が頻繁に見られる。最も貧しい階級の人々にとって、年に2度、定期的に訪れる。
大麦の収穫を待つ間の春窮期の6,7月、次いで粟類の取入れ前の9、20月である。
金銭は法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な
人々は、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、
ただ、塩水で煮詰めたわずかばかりの草木だけである(20頁)。
③ 朝鮮の風土は健康にはかなり適しているが、水はどこでも不味く、いくつかの道(
日本の都道府県)ではいろんな病気の原因となっている(24頁)。

※ 『朝鮮事情』ダレ 平凡社(「東洋文庫」367)1979年12月20日
外国人の見た朝鮮(6)

>「朝鮮事情」(2)<

2.第2章 朝鮮の歴史
① 1636年(豊臣秀吉の文禄・慶長の役が終わってから26年後)に「清」が朝鮮が
「明」に加担したとして朝鮮を攻め漢城を占領した(「丙子の胡乱」)。その結果、屈
辱的な従属関係となった。朝鮮(李朝)は毎年、北京に赴いて貢納し、冊暦(中国の暦  を使使用する-これに違反し独自の暦を使用したときは死を以て処断される)を受けること
を強制された。さらに三千頭の牛・馬と三千人の娘を送り届けねばならなかった。その
ため諸道にそれに見合う女婢を用意することとなった(35頁~39頁)。
3.第3章 国王など
① 朝鮮の王宮には大勢の宮女(侍女)がおり、そのため「宦官」が存在した(53頁)。
4.第4章 政府
① 道知事は1、2年のうちに余生を気楽に暮らせるだけのものを蓄えるのは容易である金儲けには慶尚道の知事が一番といわれた(65頁、70頁)。宮廷の大官は俸給を受け
ず、豆だけが支給される。したがって不正行為を防止できない(71頁)。
② 官吏は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと努め、その
ためには体裁をかまわない(71頁)。これを監視する「暗行御使」も同じである(72
頁)。
③ 課税額は法外に高いものではないが、守令(地方官)と官吏それは常民(庶民)から
貪欲に強奪する総額のほんの一部に過ぎなかった。そのうえ、税金を徴収する土台とな
る人口簿の作成について守令の部下が部落に入ると自分の名前を載せたくない者は破廉
恥にも公然と交渉した(72頁)。

★ 守令
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E4%BB%A4


外国人の見た朝鮮(7)

>「朝鮮事情」(3)<

5.第5章 法 廷
① 両班の子弟を殺害した常民(庶民)の若者の処分について、守令は常民の父親を呼び
斧を渡し若者を殺すように命じた。この種の復讐は慣習として許されていた。父親は
斧を振るう勇気がなかったので卑怯者として蔑視された(114頁)。
6.第6章 科挙
① 朝鮮における学問は民族的ではなく、読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮
語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し大学者が
信奉している哲学体系は中国のものである(130頁)。
② 科挙は受験資格はないが、それは建前上で実際の受験生は両班で、合格しても両班で
なければ昇進の可能性はなく、重要な官職に就けない(131頁)。
③ 景宗(在位 1720年~24年)の時代には官職と品職はもちろんのこと、文科
学位(進士、及第)まで公然と売り始めた(135頁)。
7.第7章 朝鮮語
① 紀元前2世紀以前から中国に隷属し、漢字は朝鮮政府と上流階級の公用語となって
いた。文書から商店の看板に至るまであらゆるものが漢字で書かれる。したがって、
学者・知識人ばかりでなく常民も漢字の読み書きができる(141頁)。
漢字を学ぶ手段も機会もない貧しい人々および女子は朝鮮語を学ばないわけにはいか
ない(143頁)。

外国人の見た朝鮮(8)

>「朝鮮事情」(4)<

8.第8章 社会身分
① 朝鮮には、両班、常民、奴婢の3つの階級がある。奴婢は極めて少ない(189頁)。
両班は支配者か暴君のように振る舞い、大両班は金が無くなると使いの者を送って商人・
農民を捕らえさせる。その者が金を出さないときは両班の家まで連行され、食事も与え
られず、両班が要求する額を払うまで鞭打たれる(192頁)。農村の人々は両班を火の
ように恐れている。子供を驚かすのに「両班が来る」と言う(194頁)。
② 両班と厳格な意味での常民との間には、中人という階級がある。世襲の通訳官、天文
官、医者など特殊な官職に従事する一族で構成されている(206頁)。
この中人階級の下が常民である。政治的には全くの力はない(206頁)。
③ 奴婢は今日では極めて少なくなっている〔これは誤りと思える(「朝鮮における奴婢
(7)」参照)〕。主人は生殺の権を握っていたが、激しく乱暴に殴打すると法廷で裁判
を受けなければならない。奴婢には「私奴婢(個人所有の奴隷)」と「官奴婢(国家
所有の奴隷」の2つがあった(210頁)。
9.第9章 女性の社会的地位
① 教育にはそれほど注意は向けられない(228頁)。
10.第10章 家族
① 子供は父親に絶対服従を強いられるが、母親は無視される(231頁)。
② 養子はありふれている。それは先祖を崇拝する習慣があり、碑の保存・葬礼・喪礼
は〔男系の〕子孫によって行われるためである、したがって、娘を養子に取ることは
決してない(233頁)。養子は〔男系=同姓の〕親戚から得る(234頁)。
③ 親戚関係は親密で、一家のなかで払えなかった税金などはいうに及ばず個人的な
借金も一番近い親戚が支払わされる(236頁)。
外国人の見た朝鮮(9)

>「朝鮮事情」(5)<

11.第11章 宗 教
① 佛教は衰退し(244頁)、ほとんどの寺院は廃墟となっている(2544頁)。
これに代って儒教が支配的宗教となっている(244頁)。その中心は祖先崇拝で
ある(244頁)。
12.第12章 朝鮮人の性格
① 美徳と悪徳
〔1〕美 徳
〈1〉親族の結束が固い(263頁)。
〈2〉近隣の人に互助精神が備わっている(263頁)。
〈3〉客をもてなす精神に富む(264頁)。
〈4〉忍耐強い(270頁)
〔2〕悪 徳
〈1〉人々の歓待をあてにして、全く仕事をしないで寄食する者もいる。女乞食の組合
すら存在する(265頁)。
〈2〉談笑好きで非常に高い声で話すので、集会は物騒がしい。できるだけ高い声で
話すことが物腰が上品だとされる。朝鮮人が喧騒を好むのは先天的である(26
6頁)。
〈3〉熱情的であるが、真心がない。これは自分自身を満足させるため手に届く対象には
何でも飛びつく動物的欲望、獣的本能によって理解される(267頁)。
〈4〉子供(9、10歳まで)が裸で暮らし服装が乱れている(268頁)。
〈5〉頑固である(269頁)。
〈6〉気難しい(269頁)。
〈7〉怒りっぽい。怒りが爆発して縊死したり投身自殺する(269頁)。
〈8〉執念深く、復讐心に燃えている(269頁)。
〈9〉軍隊は非常に弱く、重大な危険があれば武器を捨てて四方へ逃亡することしか考え
ない。これは訓練不足か組織の欠陥であろう(270頁)。
〈10〉金を稼ぐためにあらゆる手段を使う(272頁)。
〈11〉浪費癖がある。金を稼ぐのも早いが使ってしまうのはさらに早い(272頁)。
〈12〉暴食である(273頁)。
外国人の見た朝鮮(10)

>「朝鮮事情」(6)<

13.第13章 娯 楽
① あらゆる都市には、楽団と女子の歌劇団(妓生-キーセン)がいる。みんな音楽家と
笑売婦の仕事を兼ねている(280頁)。
14.第14章 住居・衣食住
① 朝鮮人は藁葺きの家に住んでいる。金がないので瓦葺の家は極めて稀である。2階建
の家は探しても無駄で、朝鮮人自身が知らない(289頁)。
15.第15章 科 学
① 科学についての専門学校はあるが研究は取るに足りない。ただ医学だけは例外で、
朝鮮で最も有名な『東医宝鑑』(「許 淩」1613年)は中国で出版されている。
紙の製作だけは中国より進んでいる(312頁)。
② 科学研究分野においてはほとんど進歩のあとを見せてないが、産業はなおさら遅れて
いる。これはすべての手工業が家内工業に止まっているからである(309頁)。
③ 工場の利潤はほとんどない。金をある人がこのような企業に投資することは考えない。
半分は半年で破産してしまう(310頁)。
④ 国内商業はほとんど発展してない。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、
ほとんどすべての取引が定期市(場市)である。定期市は政府が指定しており、5日ご
とに場所を変えて開かれる。店はテントである(313頁)。
⑤ 金貨・銀貨は存在しない。流通するのは銅銭のみであり、相当量の支払いをするため
に一群の担ぎ手が必要となる(同頁)。銅銭は次々と改鋳され新しいものはほとんど鉛
で作られている(314頁)。
⑥ 金利は高く、一般には年5、6割で10割というのもある(314頁)。
⑦ 商取引の障害は交通路の未整備にある。航行の可能な河川は少なく、道路を作る技術
もない(315頁)。
⑧ 鎖国が貫かれており、外国からの船は上陸できない(318頁)。船は極めて粗雑で
沿岸漁業だけに使われている(320頁)。

※ 『朝鮮事情』ダレ 平凡社(「東洋文庫」367)1979年12月20日

外国人の見た朝鮮(11)

>「悲劇の朝鮮」(1)<

1.朝鮮人は世界で最も楽天的な民族である。彼らは仕事を嫌う(15頁)。
2.朝鮮人は日本人より背が高い。身体がよく発達しており均衡がとれている。態度は
自然でゆったりしている。顔をまっすぐ向け、はばかることなく堂々としている。歩く
姿は力強く見え、意識的に澄ましているようでもある。一般的に言って、彼らの身のこ
なしは日本人特有の地を這うように卑屈さや度を越したエチケットなどとは、ほど遠い
ものだった(16頁)。
3.釜山で受けた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭くて不潔で、家屋は
低くて見栄えがしなかった。日本のような人目を引く商店や古い寺などはない。四方
から悪臭が漂い、戸外にはゴミが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬がゴミをあさっ
ている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのベトベトした底ではいろんな汚物が
腐りかけている。一方、日本人町は道が広く比較的きれいである(17頁)。
4.朝鮮ではまだ農耕技術が発達してないため、あらゆる仕事を丹念さと手腕を尽して
手で処理する(28頁)。
5.朝鮮人は毎食すごい量を食べ、結果的に消化障害をよく起こす(49頁)。
6.商店には2種類あり、開放的な商店と閉鎖的な商店とである。前者は日常生活の小物
を商うもので商品は店の前(道)に並べておいてあり、客は店に入らなくとも買物が
できるようになっている。後者は生地などを商う大商人の店で在庫は置かず客が入って
注文した商品を倉庫から取り出して売る(69頁)。

外国人の見た朝鮮(12)

>「悲劇の朝鮮」(2)<

7.鬼神を崇め「巫女(ム-ダン)」が大繁盛している(71頁)。
8.漢城の光が他の地方を圧倒しており、そこでは餓死する者はいない。地方では盗賊が
頻繁に出没して手当たり次第に人を殺傷し、掠奪と放火の大被害を与えたりするが、
漢城の中での個人の安全度は比較的高い(76頁)。
9.子供の乞食が多い(99頁)。
10.漢城の迷路のような路地は狭く牛・馬の荷車、駕籠が通るときには身体を塀にピタリ
とくっつけねばならならず、牛車の主はどちらが譲るべきか長々と言い争っている(
112頁)。
11.飲料水は井戸が利用されていたが、女たちがそのそばで洗濯をし、野菜や魚を洗う。
そのときの滓がまた井戸に流れ落ち、井戸水を汚す。それが漢城にあれほど蔓延するコ
レラその他の流行病の原因だという(同頁)。そのためか政府の許可をもらった「水売り」〔北朝鮮の咸鏡南道の北青の水売りが有名〕から水を買う(113頁)。
12.本を買うことは稀で、家にある文献といえば「族譜」である(128頁)。
13.男は奴婢になることがない反面、多くの女が奴婢となっている。彼女らは親戚の罪の
身代わりとなったもののほか、その身分を相続した者たち(奴婢の娘は奴婢の地位を相
続する。息子は自由の身分となる〔これは誤りで、こういうことをしていては男子の奴
婢が欠乏してしまう〕)である。社会的に下層の階級女が生活に窮して乞食にならざるを
得なくなったり、身内に先立たれて経済的な余裕を失ったときにも主人と交渉して奴婢
になることがある(131頁)。
14.学校というものがないから、家庭で行われる女子の教育は、せいぜい家事手伝いしか
ない(148頁)。
15.朝鮮人にとって息子を一人持つことは、娘を百人持つことより遥かにいいとされる(
193頁)。

外国人の見た朝鮮(13)

>「悲劇の朝鮮」(3)<

16.苔刑25回を受ける囚人に対する処刑はまず13回叩かれたところで囚人が気を失い
一時中断したが、意識を取り戻した後で再び行われ、刑の執行が終わったときは唯の血
だらけの肉塊となっていた。
20人を越える人を殺した山賊の頭目に対する死刑の執行が続いて行われた。山賊の
脚の内側に棒を挟んで執行人たちは自分の体重をすべて棒の片側にかけた。山賊の悲鳴
とともに脚の骨が砕けつぶれる音が聞こえた。両目が白目をむき額から冷たい汗が滴り
落ち、体がだらりと地面にのびた。気絶した山賊はややあって意識を取り戻したが、
執行人は山賊の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を絞めて殺し、
その死体をどこかに引きずっていった。
こうした処刑はすべて見物人の目の前で行われた(237頁)。

※ 『悲劇の朝鮮』ア-ソン・グレブスト 白帝社 1989年9月1日

外国人の見た朝鮮(14)

>「朝鮮紀行」(1)<

これはイギリス婦人「イザベラ・バード(1831年~1904年)」が1894年(明治27年)~1897年(明治30年)〔日清戦争当時〕にモンゴロイドの特性調査として4度にわたって朝鮮を旅行したときの見聞録であり、「幽囚記」、「朝鮮事情」と並んで3大朝鮮旅行記であると考える。
朝鮮のこの時代は、清国、日本、ロシアが朝鮮への覇権をめぐって熾烈な争いをしていたときであって、彼女のこれについての描写にも興味をそそられる。
なお、彼女は朝鮮における日本とロシアの対峙を危惧して朝鮮を去ったが、まさにその
日露戦争が始まった年に亡くなっている。その帰趨を見ずに亡くなってさぞかし無念であったと考える。
【第1部】
1.序 章
① 知能面ではスコットランドで「呑み込みが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれ
ている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたち
まち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す
(24頁)。
② 東洋の清悪弊である猜疑心、狡猾さ、不誠実があり、男どおしの信頼はない。女は
蟄居しており、極めて劣った地位にある(同頁)。
③ 手工業は不振である(29頁)。
④ 美術工芸は何もない(同頁)。
⑤ 通貨は最近まで質の悪い銅銭が1ドルに対して500枚と取引の大きな障害〔重い〕
となっていたが、1枚20セントとする銀貨、5セントの白銅貨が出回っている〔日本
政府が改革を助言し実行に移させた(『李朝末期の通貨とその整理』高久敏男 友邦協会
昭和42年4月25日、『韓国財政の整理改革-財政顧問目賀田種太郎の業績』荻原彦三
友邦協会 昭和41年12月28日)参照〕。良質な日本円またはドルは全国で通用する(
32頁)。
⑥ 道路事情は劣悪であり、幹線道路すら粗末馬車道でしかないものがほとんどである(
同頁)。

※ 『朝鮮紀行』イザベラ・バード 講談社(講談社学術文庫)1998年8月10日
なお、同じ書籍が『朝鮮奥地紀行 1・2』平凡社(「東洋文庫」572・573)
1979〔1は1993年12月10日、2は1994年1月10日〕として刊行されているが、前記
のものが安価(1650円)で(「東洋文庫」の書籍は2冊で5974円)、しかも1冊にま
とまっていたので前者によった。

外国人の見た朝鮮(15)
>「朝鮮紀行」(2)<

⑦ 知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記され
る。朝鮮文字(諺文)は彼らから全く蔑視されている。朝鮮文字(諺文)は元々、女性、
子供、無学な者のみに用いられていたが、1895年1月にそれまで漢文で書かれてい
た官報に漢文と諺文の混じったものが現れた。しかし、勅令および外国代表への伝令は
依然として漢文に固執していた(33頁)。
2.第1章 朝鮮の第一印象
① 長崎港から船で15時間しかかからない。船が投錨してまず目に入るのは朝鮮ではな
く日本である。釜山の居留地はどの点から見ても日本である(36頁)。
② 釜山の旧市街は朝鮮のどの街とも同じく見すぼらしかった。家の外側のみぞは固体・
液体のゴミがたまっている。疥癬で毛の抜けた犬や目がただれ埃でまだらになった半裸
か素っ裸の子供たちが泥のなかで転げまわっている(41頁)。
③ 朝鮮人には独特な処罰方法があって、役所の雑卒が容赦なく苔打を行い、罪人を死ぬ
ほど打ちすえる(49頁)。
④ 朝鮮にも収賄と汚職はあり、どこの官庁も不正で腐敗している(同頁)。
外国人の見た朝鮮(16)
>「朝鮮紀行」(3)<

3.第2章 首都の第一印象
① 漢城は都会であり首都であるにしては、そのおそまつさは形容しがたい。路地の多く
は荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、おまけにその幅は家々から出た固体・液体の
汚物を受ける穴か溝で占められている。悪臭ぷんぷんのその穴や溝に好んで集まるのは
土ぼこりにまみれた子供たちや疥癬もちのかすみ目の大きな犬である(59頁)。
② 商店もみすぼらしく、店には記すに値するような特徴がない。何も特徴がないという
のが特徴である(60頁)。
③ 南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には人口ほぼ5千
人の日本人居留地がある。ここでは朝鮮的なものとは極めて対照的に、あくまで清潔で
几帳面で慎ましい商店街や家々が見られる(64頁)。
④ ふたのない広い水路を暗くよどんだ水が川床に堆積した排泄物やゴミの間を悪臭を
漂わせながらゆっくりと流れている(65頁)。
4.第3章 コドゥン(行幸)
① 英語が話せて頼りにできる朝鮮人を見つけるのはほとんど不可能だった。面接した
全員は英語があやふやだった(70頁)〔1.序 章 ①の表現とは異なる〕。

外国人の見た朝鮮(17)

>「朝鮮紀行」(4)<

5.第4章 種 々
① 漢城は商業という概念が行商人の商いに限られている(84頁)。
② 漢城には芸術品は全くなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、行幸
というわずかな稀な例外を除いて見るべき催し物も劇場もない。他の都市にある魅力が
ことごとく欠けている。古い都であるというものの旧跡も図書館も文献もなく、寺院も
ない(85頁)。朝鮮ではよほど探さなければ佛教の形跡はない(86頁)。
6.第5章 旅支度/朝鮮の舟
① 通貨に関する問題は、朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右す
る。日本の円や銭は漢城と条約港でしか通用しない(70頁)〔1.序 章 ⑤の表現と
は異なる〕。銀行や両替商は旅行先のどこにもなく、1ドル=3200枚の「穴あき銭」
しかなかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、100円(1ポンド)分の「
穴あき銭」を運ぶのに6人の男か馬1頭がいる(94頁)。
7.第6章 漢江とそのほとり
① 虎がおり、人を襲うため無人となっている村がある(103頁)。
② 地主は小作農に種を貸し、収穫の半分を取る(109頁)。
③ 漢江沿いの村々には学校(私塾)があるが、生徒は文人階級の子弟に限られ、漢文の
みを学習する。諺文は軽蔑され知識階級では書き言葉としては使用しない。ただ、漢江
沿い住む下層階級の男たちの大多数は諺文を読める(111頁)。

外国人の見た朝鮮(18)

>「朝鮮紀行」(5)<

8.第7章 漢江とその人々
① 驪州〔ソウルの東南部、焼き物で有名な利川に隣接する。朝鮮文字(諺文)を考案
した「世宗大王」の陵墓がある〕庁舎は廃屋のような有様で、そこには庶民の生血を
すする兵卒、書記、警官などがたむろしている。両替を頼んだが「金庫がカラッポだ」
と断られた。3回とも同じ扱いを受けた(119頁)。
9.第8章 自然の美しさ/急流
① 漢江流域は右岸も左岸も整然と決め細かく耕作されてる。この辺りは朝鮮でも最も
② 両班は何も持たない。自分のキセルさえ持たない。
豊かな地域であるという印象を受けた(136頁)。両班の学生は書斎から学校へ行く
のに自分の本さえ持たない。民衆は年貢ばかりではなく労働力、借金というもので両班
からの過酷な支配を受けている。商人・農民が金を貯めたという評判が立てば、両班・
官吏が借金を求めてやって来る。これを断ろうものなら、偽の負債をでっち上げられて
官吏に投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで苔打たれる。両班の場合に
はその家に食うや食わずで監禁される。もちろん、借金に応じても元金・利息が戻って
くることはない。私が船旅のために雇った金は解雇後、両班の従僕が漢城までただで屋
根瓦を運ばせようとしていた。彼は外国人に雇われていれば屋根瓦を運ばなくていいか
ら私に雇われていると一言書いてくれと懇願してきた(138頁)。
② 現金がないので金を交換してくれと〔郡守に〕懇願したが、前と同じように「金庫は
空っだ」といつも断られた。銀など信用しないか、知らなかったと考えられる。運良く
行商人から銀35円を1円=3000枚に両替してもらった。だが、これを舟に運ぶた
めに6人の人手が必要だった(143頁)。

外国人の見た朝鮮(19)

>「朝鮮紀行」(6)<

10.第9章 婚礼にまつわる朝鮮の風習
① 朝鮮の妻は母親になると立場がよくなる。長男誕生は祝われ、その子の母親と呼ばれ
る(159頁)。
11.第10章 朝鮮馬/朝鮮の道路と宿
① 朝鮮の宿は正式なものとそうでないものとがある。農民は行きずりの者にも自宅を
開放して泊めてくれる。宿はダニや南京虫に悩まされる(165頁)。
12.第11章 金剛山の仏刹
① 佛教は廃止され、忌み嫌われているが、山岳地方のひっそりと隠れた金剛山の寺には
ある程度の信者とそれを上回る巡礼がいる(185頁)。
13.第12章 長安寺から元山へ
① 朝鮮人は大食で、食事は質よりも量で決められ、犬のほか何でも食べる(203頁)。
② 日本人の細かいところにも目がいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりに比べる
と朝鮮人の農業はある程度無駄が多くしまりがない。除草もされてないし石が転がった
ままの農地も多い。それでも耕作はずっと良好であるし作物ははるかに清潔である。
家畜はとても少なく、肥料は使われていない(211頁)。農具は粗末で種類も少ない(
212頁)。
③ 肉を買おうにも屠殺方法が稚拙なため日本人の肉屋で買うしかない(223頁)。
14.第13章 迫りくる戦争/済物浦の動揺
① 政府の悪政に反抗する東学党の乱が起き、アメリカ、フランス、ロシア、清国、日本
の軍艦が済物浦(仁川)に待機しており、街(済物浦)は混乱していた。仕方なく満州
に脱出せざるを得なかった(229頁)。

※ 第14章~第17章までは「満州」の見聞が続く、その後、長崎に向かい、そこから
ウラジオストック(第18章)に向かった。その間は朝鮮と関係のない記述が続く
ので省略した。

外国人の見た朝鮮(20)

>「朝鮮紀行」(7)<

【第2部】
1.第19章 朝鮮の国境
イザベラ・バ-ドはロシアの沿海州に赴いた理由について『ロシアに安住の地を求め
た推定2万人におよぶ朝鮮人がどうしているのか、というずっと前から気にかかってい
た疑問を自分の手で調べて解くところにあった』と述べている(289頁)。彼女の
博識・慧眼に驚く。これについては、検証も試みようとしない者どもが『朝鮮総督府の
圧制によってロシアに逃れざるを得なかった』という<暴言>が後を絶たない。私も
大きな関心のあるところで、今でも燦然と輝く第一級の史料である。
ウラジオスットク周辺や朝鮮国境の朝鮮人集落はとても暮らし向きは豊かである。
朝鮮本国でしか朝鮮人を見ていない人々にこのようなことを話しても容易に信じられな
いにちがいない(292頁)。農家の庭は掃除が行き届き、わら屋根は丁寧に葺いて
あり、とてもきれいに片付いた屋内には本国なら高級官僚にも夢に過ぎないような
家具や設備が整っている(294頁)。このすばらしい地域全体が朝鮮人の開拓した
ものである。清国人の集落もいくつかあるが朝鮮人集落に比べれば取るに足りない
(297頁)。
この地(沿海州)に朝鮮人が移住したのは、1863年の13家族が最初で、186
6年には100世帯になり、1869年の朝鮮北部での大飢饉のときには4500人が
移住し、1897年現在では1万6000人から1万8000人くらいと推定されてい
る(304頁)。
住居の多くは部屋数が4間から5間、ときには6間もある。部屋には壁紙を張り、天
井があって、白い薄紙を貼った格子戸と窓がある。床には上質なゴザが敷いてあり、朝
鮮本国では高級官僚の家でもめったに見られないような家具がふんだんにある(306
頁)。
朝鮮にいたとき、朝鮮人というのはクズのような民族でその状態は望みなしと考えて
ていたが、沿海州でその考えを大いに修整しなければならなくなった。彼らの裕福と品
行のよさは朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば人々は徐々にまっと
うな人間になり得るとの望みを抱かせた。ここには庶民が儲けても搾り取る官僚や両班
はいないのである(307頁)。
2.第20章 新しい帝国
ここには貧困はない。広大で肥沃な土地は入植者を切実に求めている(317頁)


外国人の見た朝鮮(21)

>「朝鮮紀行」(8)<

3.第21章 国王の警告/国王と王妃
2ヶ月余り?をロシアで過ごした「イザベラ・バ-ド」は元山を経由して長崎に戻り、
1895年1月5日、長崎から済物浦(仁川)に戻った。
王妃(閔妃)の優雅さと魅力的な物腰や配慮のこもった優しさ、卓越した知性と気迫、
話術の非凡さに感服した。国王に対しても強い影響力を行使していた(333頁)。国王
は平凡な人で、人の良さはよく人に知られていた(330頁)。王妃は権力を敵に囲まて
いた。権力を得るべく、夫と息子の尊厳・安全を守るべく「大院君(国王の父)」と闘っ
ていた。大院君たちは王妃が自分の一族を政府要職のほぼ全てに就けたことを苦々しく
思っていた(333頁)。大院君にも拝謁したが、彼の表情から感じられる精気、その鋭
い眼光、所作には感銘を受けた(336頁)。
4.第22章 過渡期/正月15日
日本は1894年(明治27年)9月17日に日清戦争の平壌の戦いで勝利し、朝鮮を支配し始めた。大院君と王妃(閔妃-1895年10月8日暗殺)を国務の介入の
禁止、宦官と側室の追放、身分制度の撤廃(両班、中人、常民、奴婢など)を行わせた。
東学党は壊滅していた(342頁)。
5.第23章 朝鮮史の暗部
朝鮮人の訓練隊と日本公使「三浦吾楼」子爵が率いる日本人が後宮に乱入し、王妃(閔
妃)を暗殺した(351頁)。
6.第24章 李ハギン氏/祭礼にまつわる風習
未亡人は一生喪服で過ごす。これまでは再婚するのは正しくないとされてきたが、最
近では再婚が黙認されるようになっている(378頁)。


外国人の見た朝鮮(22)

>「朝鮮紀行」(9)<

7.第25章 坡州から松都へ
朝鮮の都市は名所が少なく、松都も例外ではない。ここでは朝鮮人参が有名である。
朝鮮人は専売制となっている(383頁)。
※ 坡州  ソウルの北30キロにあり、板門店に接している38度線沿いの町
松都  高麗の都「開城」のこと
8.第26章 松都から平壌へ
かっての郡庁のあるところはどこでもすさんでいる。孔子廟も同じである(392頁)
私が旅した漢城から平壌の間で平壌を除いては交易はない。つまり商人の行き来がないのである(393頁)。交易は日本商人が行っているのみで、これは米を日本に移出
するためである。〔日本人の行う交易のお陰で〕上質の円銀が徐々に入ってきており、
前回のように大量の「穴あき銭」を運ばなくともよくなっている。ただ、朝鮮の新貨幣
は一つも目にしたことはなかったが、日本の銀貨だけはどこの宿屋でも受取ってくれた。
(394頁)。
村々には商店がなく、小さな町にすらごくわずかしかない。したがって、市の立つ日
でしか、何も買えない(同頁)。
平壌は人口6万の都市であったが、5分の4の人家が破壊されていた。これは日本軍
破壊したものではない。清軍との戦闘は郊外で行われた。破壊したのは朝鮮を独立させ
改革しようと戦った人々である。倭人(矮人=小人-日本人)が朝鮮人を殺さないこと
が徐々に知られるようになり、多くの住民が戻ってきていた(403頁)。
日本軍は占領後、3週間は掠奪に走ったが、その後は慎み、市内・郊外で得られた
物資に対しては順当な代金が支払われた。住民は日本軍を激しく嫌ってはいたが、平穏
と秩序が守られていることについては認めざるを得ず、また、日本軍が引き上げれば、
朝鮮人の訓練隊がのさばることもわかっていた。事実、訓練隊が人々に暴力を振るった
り、物を盗んでいた(404頁)。

外国人の見た朝鮮(23)

「朝鮮紀行」(10)

⑥ 平壌に清国の奉天師団総指令官「左 宝貴」の端正な慰霊碑が建てられている。敵将
に捧げた品位ある日本人の手になる賛辞である。日本軍は清国負傷兵を手厚く看護した。
清国軍は戦死者を放置したため発疹チフスが蔓延した(409頁)。
8.第26章 北へ、いざ!
① 朝鮮では紙の用途が多様であり、生産される紙の丈夫さと耐久性は計り知れない。
② 旅の途中での朝鮮人の無礼さにはうんざりする。部屋になだれ込もうとするのはし
ょちゅうである(420頁)。〔この種の記述は旅行記のあらゆるところにあり、相当に
悩まされたことがうかがえる〕
③ 朝鮮人の糧である米は安州〔平壌の北部120キロにある平安南道の最北部〕か
ら運ばれてくるが、買うのは金持ち、すなわち官僚のみである。貧民は粟を食べている
(423頁)。
④ 交易は元山との間に干し魚と海藻を主とした交易が細々と行われている。市に並ぶ
商品は総て日本製である(423頁)。
9.第27章 徳川〔トクチョン〕からから平壌へ
① 大同江流域は雨量が適度に多く、土壌は肥えている。搾取が役所の雑卒による強制的
取立と官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、地租が公正に賦課され、法が不正の
道具ではなく民衆を保護するものとなったら、朝鮮の農民は間違いなく日本の農民に
負けず劣らず勤勉で幸せになれるはずである。しかし、この「もしも」があまりに大き
い!

※ 徳川  平壌の北東200キロの平安南道の北端にあり、安州の東北120キロ

外国人の見た朝鮮(24)

「朝鮮紀行」(11)
10.第29章 朝鮮の女性の地位
① 朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀知らず、日本の同じ階級の女性のしとやかさや
清国の農婦の節度や親切心からはほど遠い。着ているものも汚れ放題である(43
5頁)。
② 女性の蟄居は500年前の李朝が導入したものである。これは男が自分の妻を信頼
しないからでなく、都市社会と風紀が想像を絶するほどに乱れ、男同士が信頼できなか
ったからである(437頁)。
③ 少女向けの独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、
読み書きのできる女性は100人に1人と推定されている(439頁)。
11.第30章 キリスト教伝道団
① 清国兵は情け容赦なく物を盗む、欲しい物は金を払わず奪い、女性に乱暴を働くが、
日本兵は品行の良さと物を買えばきちんと支払うとるいうことは朝鮮人も認めざるを
得なかった(441頁)。
12.第31章 「まげ」/朝鮮版ヒジュラ
① 王妃が殺されようが、国王が幽閉同然の待遇を受けようともじっと耐えてきた朝鮮人
が「まげ」を切ることだけはどうにも耐えられない。1895年12月30日の「まげ」
の実質的廃止(断髪令)は青天の霹靂だった。(459頁)。断髪令は日本の風習を強い
るという日本の陰謀だと考えられていたが、キリスト教宣教師も信者に断髪を強制して
いた。国王、皇太子、大院君、官僚は率先して断髪した。しかし、これに反抗する者た
ちは断髪を強行しようした地方官などを殺害し、断髪令は撤回されたが、混乱は収まら
ず、首相も民衆によって斬首された(459頁)。

外国人の見た朝鮮(25)

「朝鮮紀行」(12)
13.第32章 国政改革
① 朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。官僚主義の悪弊がおびただしく
はびこっているばかりではなく、政府の機構全体が悪習そのもの、底もなければ汀(
ミギワ)もない腐敗の海、掠奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつんでしまう。
職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食い物にする
権利だけは存続するのである(474頁)。
14.第33章 教育/貿易/財政
① 一般の学校では、生徒たちは終日漢籍を前に床に座り、上体を前後左右に大きく揺ら
しながら、古典に書かれた章句を大声で暗誦したり、漢字を書いたり、中国の賢人の
教えや故事の断片をよく入る頭に詰め込んだりする。眼鏡をかけた学問一筋の尊大な
教師が書物を前に細い棒を片手に、ときおり生徒よりもずっと通る声で間違いを正す。
こうした切磋琢磨した10年以上積んで目指すのは科挙であり、官職への足がかりを。
得るためである。このような教育は思考力を伸ばしたり、学生にいま生きている世界を
理解させたりするところがまるでない。狭量、マンネリズム、尊大、手仕事を蔑視する
誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、2000
年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性
蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる(489頁)。
② 外国人による私立学校では学生は朝鮮語(諺文)を学んでいる。教育改革はもともと
日本によって発案されたもので、成果を上げている(490頁)。
③ 朝鮮の農夫は、米・豆が利益を生むこと、外国には米・豆の需要が無尽蔵にあること、
高い綿の衣服を着るよりも外国から糸・布を輸入すれば衣服にかかる出費が抑えられる
こと、外国製品が入ってくれば生活が便利になることをようやく知り始めたばかりなの
である。貿易額が伸びる可能性は大きい(495頁)。

外国人の見た朝鮮(26)

>「朝鮮紀行」(13)<

15.第34章 朝鮮のシャ-マニズム
16.第35章 朝鮮のシャ-マニズム(つづき)
① 朝鮮のシャ-マンである「巫女(ム-ダン)」は人気がある。そのため漢城の人々
は、「巫女」に途方もない金をむしり取られている。「巫女」の機能は、(1) 浄化の
儀式を行うこと、(2) 神託を伝える、(3) 鬼神の沈静-病気などの不幸は鬼神が
もたらすと信じられている、の3つがある(513頁)。
17.第36章 1897年のソウル
① 国王が1895年にロシア公使館に遷幸〔逃げ込んだ〕以来、国王が享受した自由は
朝鮮にとって利益にならなかった。日本支配下で行われていた進歩と正義を目指した
政策と比べると好ましくない。個人的に接した国王は思いやりがあり、愛想のよい人柄
で、ある程度の憂国の情はあると信じている。こうしたことを認めるが、国王に不利な
ことを書かねばならないことは残念に思う。善意な人でありながらも優柔不断な国王は
統治の観念がなく、これにつけ込んだ寵臣が官職を勝手に売買したり、国庫の財産を
着服したり国政は紊乱の一途をたどっている(538頁)。
② 国政はロシアによって行われており、ロシア公館裏の兵舎では朝鮮軍がロシア軍の
将校の指導の下に訓練を受けている。現在、漢城にいる兵は4300名、地方には12
00名もの兵士がいる。総てロシア軍の訓練を受け、命令の言語もロシア語で行われて
いる。2000名の常備軍であれば充分であるのに、6000名も必要だとは厚かまし
いにもほどがある。朝鮮軍はロシアという野心もあり活動的な帝國にとって有事の際の
貴重な軍団になることは大いに考えられる。多いといえば漢城にいる1200名もの
警官も同じである。兵士は食住つきで一月4ドル半、警官は8ドルから10ドルで、
世界で一番高い俸給である。警官はその4分の1で足りる。警官や軍隊は市民への共感
や愛国心のない権力と役得に貪欲で、好戦的でかつ反抗的な朝鮮人を粗暴な人間に変え
てしまう(540頁)。
外国人の見た朝鮮(27)

>朝鮮紀行>

③ 漢城で起きた最大の出来事の一つに1896年4月に英語と朝鮮語(諺文)で
書かれた在米朝鮮人「ジェ-ソン博士(徐 載弼)」の発行した「独立新聞}である。
この新聞は王室と官僚の不正行為を暴きだす点で効果がきたいできる(550頁)。
④ これまで朝鮮の産業界は同業組合(ギルド)で権益が守られてきたが、これも日本人
指導者を招聘したことによって改革されようとしている(551頁)。
⑤ 監獄も日本人が提唱した改革を受け継いだ外国人為よって改善されている。拷問は
少なくとも表向きには廃止されたし、笞打ちや身体のそぎ落としで死に至らしめるこ
とは日本の支配時代にはなくなった。さらし首も同じである(554頁)。
18.第37章 最後に
① 朝鮮は必ずしも貧国ではない。資源が開発されてないだけである。気候はすばらしく、
降雨は豊富で、土壌は生産性が高い。内陸部には石炭、鉄などの鉱脈もある。漁場にも
恵まれている。国土に住んでいるのは身体壮健で親切な人々で、乞食という階級はない。
しかし、これを阻んでいるのが階級性である。上流階級は愚か極まりない社会的義務に
縛られ、無為に人生を送っている。中流階級には出世の道が開らかれてない。下層階級
はオオカミから戸口を守るのに必要なだけの労働しかしない(555頁)。
② 首都である漢城においてすら、最大の商業施設も商店というレベルに達してない。
(556頁)。

外国人の見た朝鮮(28)

>「朝鮮紀行」(15)<

③ 階級による特権、貴族と官僚による搾取、司法の完全なる不在、労働と比例しない
収入、東洋諸国の最悪の因習に囚われた政府、策謀を巡らす泥棒官僚、王宮と後宮に
蟄居した国王、最も腐敗した帝国〔清〕との緊密な同盟関係、人々の間にはびこる迷信、
などが、朝鮮を汚らしい状態にまで落ちぶれさせたのである(同頁)。
④ 朝鮮の最大の宿痾は「人にたかって生きる」ということである。そのしわよせを一番
受けているのが農民層である。改革は行われているが、朝鮮には階級が2つしかない。
盗む側と盗まれる側である(同頁)。
⑤ この3年間(1894年〔明治27年〕~1897年〔明治30年〕)にあった有益な
変化のうち、重要性が最も高いものは、日本が日清戦争に勝利した結果、中国の軍事力
が無敵であるという朝鮮の思い込みが打破され、本質的に腐敗していた2つの政治体制
の同盟関係が断ち切られたということである(561頁)。
次には、(1) 貴族と平民の無別が少なくとも書類上は廃止され、奴隷制度や庶子を
高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった、(2) 残忍な刑罰や拷問が廃止さ
れた、(3) 貨幣制度が改革され、使いにくい「穴あき銭」がなくなった、(4) 改善を
加えた教育制度が開始された、(5) 訓練を受けた軍隊と警察が開始された、(6) 科挙
の廃止、(6) 鉄道(済物浦から漢城)の敷設が行われた、(7) 商業ギルドの緩和が
なされた、(8) 郵便制度の機能が進行した、(9) 地租の金納が実施された、
(10) 行政費用の軽減が実施された(同頁)。

外国人の見た朝鮮(29)

>「朝鮮紀行」(16)<

⑥ これらの改革にもかかわらず、国王の勅令(1897年8月12日)は、国王の反省
が少なく、失望した。これを改善するには、Ⅰ.朝鮮にはその内部を自ら改革する能力
がないので、外部から改革されなければならない、Ⅱ.国王の権限は厳密かつ恒常的な
憲法上の抑制を受けなければならない、が必要である(563頁)。
⑦ 日本は大変なエネルギ-を持って改革に取り掛かったこと、そして新体制を導入すべ
く日本が主張した提案は特権と大権の核心に切り込んで身分社会に大変革を起こし、国
王を「給料をもらったロボット」に落ちぶれさせたものの、日本が並々ならぬ能力を
発揮した。日本が徹頭徹尾、誠意を持って奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にし
て荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとは
いえ、日本は朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の
保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる(564頁)。
⑧ 朝鮮は一人立ちするのは無理で、共同保護というような極めて難しい解決策でも取ら
ない限り、日本とロシアのいずれかの保護下に置かれなければならない(569頁)。
〔この稿 完〕

外国人の見た日本(0)

「外国人が見た日本」については、1~13の書物を解説する。14以下の書物はまだ入手してないので、入手次第解説したい。日本に関する見聞録・来訪記は無数にあるんpで、その他にもあると思う。探し出して機会があれば解説したい。
1.『日本奥地紀行』イザベラ・バ-ド 平凡社(平凡社ライブラリ-)2002年2月15日
『イザベラ・バ-ドの「日本奥地紀行」を読む』宮本常吉 平凡社(平凡社ライブラ
リ-)2002年12月9日  ★ これは解説書である。
◆ 1876年(明治11年)春の探訪記である
2.『ザビエルの見た日本』ピ-タ-・ミルワ-ド 講談社(講談社学術文庫)1998年
11月10日
◆ 1549年(戦国時代)の探訪記である
3.『フロイスの見た戦国日本』川崎桃太 中央公論新社(中公文庫)2006年2月25日
◆ 1563年(戦国時代)の探訪記である
4.『ヨ-ロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス 岩波書店(岩波文庫)
1991年6月17日
◆ 1585年(戦国時代)に記述された書物である
5.『オ-ルコックの江戸』佐野真由子 中央公論新社(中公新書 1710)
2003年8月25日
◆ 1859年(江戸時代末期)の探訪記である
6.『幕末日本探訪記』ロバ-ト・フォーチュン 講談社(講談社学術文庫)1997年
12月10日
◆ 1861年(江戸時代末期)の探訪記である
7.『江戸幕末滞在記』E・スエンソン  講談社(講談社学術文庫)2003年11月
10日
◆ 1886年(明治時代初期)のフランス海軍士官の探訪記である。
8.『英国外交官の見た幕末維新』A・B・ミットフォ-ド 講談社(講談社学術文庫)
1998年10月10日
◆ 1866年(江戸時代末期)の英国外交官の日本見聞録である。彼は日本語に
堪能で、その意味で日本の歴史・文化に深い洞察を加えている。
9.『ミットフォ-ド日本日記』A・B・ミットフォ-ド 講談社(講談社学術文庫)
2001年2月10日
◆ A・B・ミットフォ-ドが英国のア-サ-殿下の首席随行員として再来日したときの日本見聞録である。前書は歴史が中心であったが、こちらは日本の文化、日本人の
性格にも深い洞察を加えている。
10.『シュリ-マン旅行記 清国・日本』ハインリッヒ・シュリ-マン 講談社(講談社学
術文庫)1998年4月10日
◆ トロイの遺跡の発掘で有名なシュリ-マンの日本見聞録である。ただ、彼が日本滞在し
たのはわずか1ヶ月で、日本および日本人に対する観察もやや荒唐無稽なものが多い。
11.『明治日本見聞録』エセル・ハワ-ド 講談社(講談社学術文庫)1999年2月10日
◆ 英国人女性「エセル・ハワ-ド」が1901年(明治34年)から1908年(明
治41年)の7年間、薩摩の島津家の家庭教師としての体験談である。単なる体験談
に止まらず、日本および日本人に関する洞察は素晴らしく、大変読みでがある。「日本
見聞録」では、先の『日本奥地紀行』イザベラ・バ-ド<双璧>である。
12.『英国写真家の見た明治日本』ハ-バ-ド・G・ポンティング 講談社(講談社学術文
庫)2005年5月10日
◆ 英国人写真家の1902年(明治35年)ころから1906年(明治39年)にか
けての日本見聞録である。
13.『ロシア艦隊幕末来訪記』ヴェシェスラフツォフ 新人物往来社 1990年4月10日
◆ 1859年に、安政仮条約と樺太問題の解決を求めて東京の品川沖に威嚇のために
来訪したロシア艦隊の乗務員の見聞録である。

朝鮮(李氏朝鮮時代末期)と比較する意味では、『日本奥地紀行』イザベラ・バ-ドが格好の書物である。また、『ザビエルの見た日本』、『ヨ-ロッパ文化と日本文化』も李氏朝鮮時代の中期初頭に当たるので、大変参考になる。
後の書籍は、江戸時代末期から明治時代初頭にあたるので、李氏朝鮮時代の末期と比較する意味で大変参考になる。
なお、『オ-ルコックの江戸』は日本人および日本文化に触れるところが非常に少なく、参考にならないので、読まなくてよい。
解説するに当たっては、記述が明らかに間違っていたり、荒唐無稽のものもあったが、そのまま掲載した。また、日本および日本人に対する批判は漏れなく省略することなく挙げた。
14.『ウェストンの明治見聞記』 W・ウェストン 新人物往来社
15.『ドイツ貴族の明治宮廷記』 O・V・モ-ル 新人物往来社
16.『イタリア使節の幕末見聞記』 V・F・アルミニョン 新人物往来社
17.『オランダ領事の幕末維新』 A・ボ-ドヴァン 新人物往来社
18.『スイス領事の見た幕末日本』 R・リンダウ 新人物往来社
19.『モンブラン日本見聞記』 C・モンブラン 新人物往来社
20.『ドイツ公使の見た明治維新』 M・V・ブラント 新人物往来社
21.『ドイツ宣教師の見た明治社会』 C・ムチンガ- 新人物往来社
22..『薩摩国滞在記』 シュワルツ 新人物往来社
23.『オ-ストリア外交官の明治維新』 A・ヒュ-ブナ- 新人物往来社
24.『英国特派員の明治紀行』 H・ポンティング 新人物往来社
25.『チェンバレンの明治旅行案内』 B・H・チェンバレン 新人物往来社
26.『フランス下士官の下関海戦記』 A・ルサン 新人物往来社
27.『明治滞在日記』 A・バルソ-ル 新人物往来社
28.『天皇国見聞記』 P・クロ-デル 新人物往来社

外国人の見た日本(1)

>「日本奥地紀行」(1)<

1876年(明治11年)春、イギリス人「イザベラ・バ-ド(1831年~1904年)」サンフランシスコから横浜にやってきた。そのとき47歳であった。6月10日に東京を出て東北方面に出発し、9月17日に函館から横浜に船で戻ってきた。約3ヶ月の旅行だった。旅行は日本の北半分であったが、日本のどこの地方も同じ様子だってあろう。
彼女はその後、朝鮮に1894年(明治27年)~1897年(明治30年)〔日清戦争当時〕に渡っている。日本にやって来てから約15年後も経っているのであるから、朝鮮は日本と比べてさぞかし発展していたであろう。格好の比較史料となっている。
この書籍の価値は、辺境の地といわれた北海道も含め北日本の様子を伝えていることにある。この点で、「朝鮮紀行」が北が「平安南道」、南は「釜山」から「漢城」までと「全羅道」も省かれ、「咸鏡道」は元山に短期間滞在しただけで(旅行記からは省略されている)、辺境の地を訪れていないのと大きく異なる。
旅は、馬を使い、横浜から東京へ、そこから粕壁(春日部)を経由して日光へ、会津田島、板下(バンゲ)、そこから阿賀野川沿いに新潟へと向かう。新潟からは北に向かい、坂町から現在の米坂線(鉄道)に沿って米沢に、そこを経由して山形市に、奥羽本線(鉄道)に沿ってさらに北上して、金山、湯沢、横手を経由して秋田市に向かう。そこから大館に向かい、再び奥羽本線に沿って碇ヶ関、黒石を経由し、北海道の函館に渡る。そこから室蘭に、白老に行き、アイヌの家に滞在して観察している。
旅は蚊と蚤、また馬の貧弱〔日本の馬は小さくて力がなかった。発達したのは明治時代になって陸軍が養成してからである〕さらには通訳の着服に悩まされていた。これに関する記述は再三にわたって出てくる。
それにしても、彼女の好奇心には驚かされる。アイヌも含めて日本のありとあらゆるものを観察している。民俗に対する関心には敬意を表する。なお、私は新潟市の出身だが、
新潟についての描写には感心した。新潟は日本で一番明治時代の遺構が残っていると言われているが、当時の様子、これは私の幼少時代との町の様子と全く変わってないことにも
驚かされた。「柳都」と称され、信濃川から引き込まれた運河が縦横に走り、米など生活用品を運ぶ舟が行きかっていた。私の実家も米蔵の一つだった。母はそこで泳いだというくらい清流が流れていたが、私の幼少時代にはどぶ川と化していた。やがて、昭和30年の大火、39年の大地震によって両脇に柳が植えられた運河(堀)が埋め立てられ、芸者が
歩くさまは絵のようであった風景もやがて消え去ってしまった。彼女も料亭が多いと言っている。料亭には芸者がつきものだったのである。昨今の接待への批判から料亭も次々と廃業に追いやられている。接待も日本の文化であるということを忘れてはならない。
書籍は妹に当てた「書信」という形でまとめられ、43信にも及んでいる。したがって、
「朝鮮紀行」と同じくかなり読みでがある。
〔 〕内は私の見解である。書籍の私信をしたためた場所は、書籍の場所をわかりやく
変えたので、書籍とは一致しない場合がある。
外国人の見た日本(2)

>「日本奥地紀行」(2)<

1.第1信 横浜(1876年〔明治11年〕5月21日)
① 船頭たちは非常に巧に船を操り、船と船とが何度も突き当たっても、お互いに嫌な顔
もせず、船頭同士がよくやる悪口罵声は一つも聞かれなかった(25頁-頁の表記は後
記の書籍のものに従う)。
② 上陸して最初に受けた印象は、浮浪者が一人もいないということだった(26頁)。
③ 中国商人が、私の英国金貨を日本貨幣に取り替えてくれた(31頁)〔朝鮮では貨幣
を交換するのが大変だった〕。
2.第2信 横浜(1876年〔明治11年〕5月22日)
3.第3信 東京(1876年〔明治11年〕5月24日)
① 日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人の
みじめな体格、凹んだ胸部、ガニマタという国民的欠陥をいっそう酷くさせるだけで
ある(37頁)〔日本人の体格が改善されたのは大正時代になってから、これはデン
マ-体操を導入したからであるとされる-宮本の後掲書 36頁〕。
② 汽車(横浜から新橋)から見渡す限り、寸鉄の土地も鍬を用いて熱心に耕されている。
その大部分は米作のために灌漑されており、水流も豊富である。至る所に村が散在し、
灰色の草屋根に覆われた灰色の木造の家屋や、不思議な曲線を描いた屋根のある灰色の
寺が姿を見せている。その総てが家庭的で、生活に適しており、美しい。勤勉な国民の
国土である。雑草は一本も見えない(同頁)。
③ 子供たちは、かしこまった顔をしていて、堂々たる大人をそのまま小型にした姿であ
る(39頁)〔これは日本では欧米と違って子供のときから大人になることを教育された
からである〕。

※ 『日本奥地紀行』イザベラ・バ-ド 平凡社(平凡社ライブラリ-)2002年2月
15日
『イザベラ・バ-ドの「日本奥地紀行」を読む』宮本常吉 平凡社(平凡社ライブラ
リ-)2002年12月9日  ★ これは解説書である。

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外国人の見た日本(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月14日(火)00時47分47秒 ACCD4EE7.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(3)<

4.第4信 横浜(1876年〔明治11年〕6月7日)
① 日本人の召使がよくやることで、道中で金銭の取引があると、その度とに分け前を
はねるのである。したがって、旅行の費用が2倍あるいは3倍になる(50頁)。
5.第5信 東京(1876年〔明治11年〕6月9日)
6.第6信 粕壁〔春日部〕(1876年〔明治11年〕6月10日)
① 家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚いものが多かった。悪臭が漂い、人々は
醜く、汚らしく貧しい姿だったが、何かみな仕事をしていた(72頁)。
② 米は日本の主要食糧で、非常に小さくてあらゆる形をした田で栽培されている。灌漑
可能なところではどこでも稲が栽培されている(73頁)。
③ 宿の部屋は障子で隔てられ、私的生活〔プライバシ-〕の欠如は恐ろしく、錠や壁や
ドアがなくとも気持ちよく休めるほど他人を信用することができない。しかし、これか
ら北海道まで1200マイルも旅をしたのだが、全く安全で心配もなかった。世界で
日本ほど婦人が危険にも不作法な目にもあわず、安全に旅行できる国はないと信じる(
79頁)。
7.第6信 粕壁〔春日部〕[続き](1876年〔明治11年〕6月10日)
① 車夫は粕壁〔春日部〕での水当たりで交代することになった。彼は契約を厳重に守り、
代わりの者を出し、病気だからといってチップを要求しなかった(83頁)。


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外国人の見た日本(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月14日(火)00時46分38秒 ACCD4EE7.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(4)<

8.第7信 日光(1876年〔明治11年〕6月15日)
① 滞在している金谷家は日本の中流階級の庭のある瀟洒な造りの整った家屋である(
96頁)。
9.第8信 日光(1876年〔明治11年〕6月15日)
① 東照宮は黒漆、赤漆、金色に塗られた美しい建物である〔細々とした描写が続くが、
長いので省略する〕(100頁)。
10.第9信 日光山湯元(1876年〔明治11年〕6月22日)
① 宿は内も外も美しい。少女が微笑しながらお茶を持ってきた。スモモの花が入った
お茶で、ア-モンドの香りがする。茶碗は雪のように白かった。日本の湯治場は私に
とって目新しいものだった(114頁)。
② 宿の勘定を頼むと、宿の主人は通訳の伊藤にどれほどにしたらよいかと相談し、2人
で上前を分配した(116頁)。
11.第10信 日光(1876年〔明治11年〕6月23日)
① 学校の建物はイギリス並みである。ただ、あまりに洋式化していると感じる。従順
は日本の社会秩序の基礎であるから、生徒は黙って先生のことを聞いている。外国人
の私が入ってきても生徒たちは注意をそらすことはなかった(119頁)。
② 日本の婦人はイギリスでは難しくて敬遠される縫い物を簡単にこなしている(12
3頁)。
③ ここにも貸出し図書館がある(124頁)〔日本ではどこでも貸本屋があった。こうし
た国民の本好きが高度な文明・文化を支えていた〕。


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外国人の見た日本(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月14日(火)00時45分35秒 ACCD4EE7.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(5)<

12.第10信 日光[続き](1876年〔明治11年〕6月23日)
① 村々には商店にあふれている。買い手がどこから来るのか、どのようにして利益を
あげるのか不思議である(128頁)〔朝鮮では首都漢城でさえ商店がほとんどなかっ
た〕。
② これほど子供を可愛がる人々を見たことがない。子供を抱いたり、手をつないだり、
遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやったり、遠足や
祭に連れて行き、子供がいないといつもつまらなそうである。他人の子供に対しても
適度に愛情をもって世話する。父も母も自分の子供に誇りを持っている(131頁)
〔これはイギリスに見られないもので、家庭で教育ばかりか、代々伝わる仕事を教える
という独自な制度を継承していた。これが日本人の世襲制、礼儀正しさなどを養って
いた-宮本の前掲書 84頁〕。
13.第10信 日光[完](1876年〔明治11年〕6月23日)
① 日本人が日常生活で使う実用品は工夫の巧妙さと完璧にまでの適応性と細工が見ら
れる(134頁)。
② 日本には陸地運送会社がある。本店は東京に各地の町村に支店がある。会社はすばら
しく良く運営されており、旅行者や商品を一定の値段で駄馬や人夫によって運送する
仕事をしており、旅行者が難儀したり、遅延したり、法外な値段をふっかけられること
がない(136頁)〔彼女が行く先々で馬および馬子を調達できたのはこの制度が整って
いたからである〕。
14.第11信 藤原(1876年〔明治11年〕6月24日)
① 女の馬子は荷物を数えて、その無事であることを確かめ、心付けをもらうことなく、
そのまま帰ってしまった(139頁)。
15.第12信 車峠〔福島県〕(1876年〔明治11年〕6月30日)
16.第13信 田島[車峠-完](1876年〔明治11年〕6月30日)
① 駅馬係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業栽培をするのは男性と
同じく自由である(166頁)〔日本では男尊女卑であると言われているが、実際はどう
だったのであろうか〕。

外国人の見た日本(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月16日(木)20時30分54秒 ACCD125D.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(6)<

17.第13信 田島[車峠](1876年〔明治11年〕6月23日)
① 私が歩くところにはどこでもたくさんの群集が集まって来たが、日本の群集は静かで
おとなしく、決して押し合いへし合いをやらない(169頁)。
② ヨ-ロッパの多くの国々やイギリスでも地方によっては外国の服装をした女性の一人
旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金
をゆすり取られるのであるが、日本では一度も失礼な目にあったこともなければ、過当
料金を取られたこともない(171頁)。
18.第14信 津川[阿賀野川沿いの新潟県の福島県との県境にある](1876年〔明治
11年〕7月2日)
① 例外的ではあるが、子供が私に悪態をついた。その子供はひどく叱られ、警官がやっ
て来て謝罪した(181頁)。
19.第15信 新潟(1876年〔明治11年〕7月4日)
① 船で津川から新潟に向かったが、川は高い断崖に囲まれ、見える岩や沈んでる岩が
散在し、急に曲がるところも数箇所あり、浅瀬のところも多く、船は矢のように流れを
下るからである。ライン川にも勝って美しい(184頁)。
20.第16信 新潟(1876年〔明治11年〕7月9日)
① 新潟は美しい繁華な町である。人口は5万人で裕福な越後地方の首都である。英語
学校もあり、医学校もある(192頁)。
② 新市街は西洋風の建物が多く、旧市街は私が今まで見た町のなかで最も整然として
清潔であり、居心地の良さそうな町である。外国人居留地によく見られる押し合い
へしあいの光景が少しも見られない。ここは美しい料亭が多いので有名であり、劇場
も立派である。町は美しいほどに清潔なので、日光と同じようによく掃き清められた
街路を泥靴で歩くのは気が引けるほどである。これは母国のエジンバラ市当局にはよい
教訓となるであろう。藁や棒切れが1本でも、紙1枚でも散れば、たちまち拾い上げら
れて片付けられてしまう。どんな屑物でも箱やバケツに入ってないときには、一瞬間で
街路に捨てておくことはない(194頁)。


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外国人の見た日本(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月16日(木)20時29分25秒 ACCD125D.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(7)<

③ 町は整然と四角に区切られ、1マイル(約1609m)以上もある5つの街路から
なっている。それを非常に多くの短い街路が横切り、運河が交叉している。ここでは
総てのものが舟で運ばれ、駄馬は見ない(194頁)。
④ 家屋は2階建てのものが多く、1階部分の屋根が街路にせり出しているので、屋根の
ついた歩道を作り、雪の日などは便利である。街路は清潔で絵のように美しいので、町
は実に魅力的である(195頁)。
⑤ 家の正面は非常に狭いが、家屋は驚くほど奥深く続いており、中庭には花や植木が
ある。母屋は奥にあって箱庭のような庭園に面している。敷地には茶室もあり、池も
ある〔このような造りは間口を狭くして商家を表通りにできるだけたくさん面して造る
ようにしたもので、長さは裏通り(30m~80mまで続いている。したがって、面積
はかなり広い。現在も同じである〕(196頁)。
21.第17信 市野野〔新潟県北部〕(1876年〔明治11年〕7月12日)
22.第18信 上ノ山〔山形県-山形市に隣接〕(1876年〔明治11年〕7月12日)
① 暑がっているのを見た女が団扇で1時間も扇いでくれた。お礼にお金を払おうとした
が、どうしても受取らなかった。そればかりかお菓子と扇子をくれた。彼らの親切には
心をひどく打たれた。日本を思い出す限り彼らを忘れることはないだろう(212頁)。
② 日本では、草ぼうぼうの「怠け者の畑」は存在しない(219頁)。
③ 上ノ山温泉の宿に泊まったが、そこの女将にどのくらい長い間、宿屋を経営している
かと聞いたところ、誇らしげに3百年という。職業を世襲する日本では珍しくないこと
である(221頁)。


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外国人の見た日本(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月16日(木)20時28分3秒 ACCD125D.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(8)<

23.第19信 山形市(1876年〔明治11年〕7月16日)
① 山形は県都で人口2万1千人の繁盛した町である。大通りの奥の正面に堂々とした
県庁があるので、日本の都会には珍しく重量感がある。どの都会も町はずれはとても
貧弱だが、新しい県庁の高くて白い建物が低い灰色の家並みの上に聳えて見えるのは、
大きな驚きを与える(224頁)。
24.第20信 湯沢、横手(1876年〔明治11年〕7月16日)
① 葬儀ば泣き男が雇われることもなく、嘆き悲しむ様子は見えなかったが、これほど
厳かで恭しく礼儀正しい儀式はないであろう。貧乏人の葬儀も儀式の端正さは特に目だ
っていた(245頁)。
25.第20信 湯沢、横手[続き](1876年〔明治11年〕7月16日)
26.第21信 秋田市(1876年〔明治11年〕7月16日)
① 秋田市は秋田県の県都で人口3万6千人の非常に魅力的で純日本風の町である。商店
街はほとんどないが、美しい単独住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。
住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れをした生垣がある。どの庭にもがっしりとした
門から入るようになっている。このように何マイルも続く快適な「郊外住宅」を見ると、
静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる(
253頁)。この町には外国の影響は全く感じられない。病院も同じである。病院のレベ
ルは西洋並みである(254頁)。
② 和服は美しい。和服を着ると威厳を増すが、洋服を着ると逆に減じる(256頁)。


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外国人の見た日本(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月17日(金)20時15分44秒 ACCD5CA1.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(9)<

27.第22信 秋田市(1876年〔明治11年〕7月23日)
① 警察は人々に対して非常に親切である。抵抗することがなければ、警官は静かに手を
振るだけで充分である。彼らは士族階級に属している。生まれつき地位が上であるから、
平民たちに尊敬を受ける。彼らの顔つきや少し尊大な態度があるのは階級差別をはっき
り示している(259頁)。
28.第23信 秋田市(1876年〔明治11年〕7月24日)
29.第24信 秋田市(1876年〔明治11年〕7月25日)
30.第25信 鶴形〔秋田県〕(1876年〔明治11年〕7月27日)
31.第26信 大館〔秋田県〕(1876年〔明治11年〕7月29日)
① 盲目の乞食は日本中どこでも見られない。盲人は自立して裕福に暮らしている尊敬さ
れる階級であり、按摩や金貸しや音楽などの職業に従事している(283頁)。
② 二人の馬子は特に親切であった。私がこのような長く足止めされるのではないかと
心配して何とか早く北海道に渡ろうとして全力をあげて援助してくれた。馬から下りる
ときには背中を踏み台にしてくれた(291頁)。
32.第27信 白沢〔秋田県〕(1876年〔明治11年〕7月29日)
① ここでも他の幾千の村々と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事を取り、煙草を吸い、
子供を見て楽しみ、背に負って歩き回ったり、子供たちが遊ぶのを見たり、藁で蓑を
編んだりしている。彼らは一般にどこでもこのように巧に環境に適応し、金のかからぬ
小さな工夫をして夜をすごす。<残念ながら>わが英国民は、おそらく他のどこの国民
はこのようなことはやってない(297頁)。


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外国人の見た日本(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月17日(金)20時13分56秒 ACCD5CA1.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(10)<

33.第28信 碇ヶ関〔青森県〕(1876年〔明治11年〕8月2日)
34.第28信 碇ヶ関〔青森県〕(1876年〔明治11年〕8月2日)
① 私は日本の子供たちがとても好きだ。今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、
子供がうるさかったり、言うことを聞かなかったりするのを見たことがない。日本では
孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわた
る習慣となっている。英国の母親たちが子供たちを脅かしたり、手練手管を使って騙し
たりして、嫌々ながら服従させるような光景は日本では見られない(312頁)。
② 子供にお菓子をよく与えたが、子供は父や母の許しが出なければ決して受取らない。
また、お菓子は自分で食べる前に他の子に渡す(同頁)。
35.第29信 黒石〔青森県〕(1876年〔明治11年〕8月2日)
36.第30信 黒石〔青森県〕(1876年〔明治11年〕8月5日)
37.第31信 黒石〔青森県〕(1876年〔明治11年〕8月5日)
① 日本を旅行するのは絶対に安全であると前から理解していたが、その通りだった(3
25頁)。
② 混浴が行われているが、これは治安上危険なことを防止するためである(328頁)。
ただ、政府はこれを禁止しようとしている(同頁)。


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外国人の見た日本(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月17日(金)20時12分45秒 ACCD5CA1.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(11)<

38.第32信 函館(1876年〔明治11年〕8月12日)
39.第33信 函館(1876年〔明治11年〕8月13日)
① 函館はどこからどこまでも日本的であると感じる。町は海岸に沿って2マイル続き、
丘の上まで登っている。それでもやはり家屋や住民は貧しそうである。街路はどれも
注目を引かないが、丘を高く登って行く街路だけは立派な寺院や境内が並んでいる。
ほとんどどの家も商店を営んでいる(340頁)。
40.第34信 函館(1876年〔明治11年〕8月12日)
41.第35信 小沼・幌別〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月17日)
① 北海道の人々はやたらと酒を飲み、貧しいアイヌ人も滅茶苦茶に飲む(350頁)。
② 乗っていた馬の鞍を押さえていた腹帯が緩んでずり落ちてしまった。困っていたとこ
ろ、通りすがりの2人の日本人が鞍を元通りに直してくれ、私が馬に乗るときに鐙(ア
ブミ)を押さえてくれた。そして、私が立ち去るときに丁寧にお辞儀をした。このよう
な礼儀正しく心の優しい人々に対し、誰でも好感を持つに違いない(同頁)。
③ 森という町はたくさんの女郎屋があり、いかがわしい人間が多い。私の隣室の者は
芸者をあげて朝の2時まで遊んだり、歌ったり、飲んでいた(352頁)。
④ アイヌの家が広がっている地域であるが、彼らの家は日本人の家と異なり高床式で、
ポリネシア人の家に似ている。この辺にアイヌが多いというのは「ベツ、ペツ」という
川を表す「別」という地名が多いことでわかる。幌別、湧別、紋別がそうである(35
7頁)。
42.第35信 幌別〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月17日)
① 2人のアイヌ人に出会ったが、彼らは上品な顔をしており、優しくてとても丁寧で、
実に自然に出る優美さがあった(371頁)。
② 通訳の伊藤は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて、彼らはただの犬です。人間ではありま
せん」と話した(372頁)。

外国人の見た日本(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月19日(日)09時40分3秒 ACCD4841.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(12)<

43.第36信 平取(アイヌ小屋にて)〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月23日)
① アイヌの小屋に3日2晩泊まっている。大変な歓迎ぶりだった。一騒ぎとなり、あち
らへ走るものあり、こちらに走るものあり、見知らぬ人を一生懸命に歓迎しようとした
(377頁)。
② アイヌの間では、老人は非常に尊敬されている(380頁)。
44.第36信 平取(アイヌ小屋にて)〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月23日)
① 子供たちは従順ですぐに親の言うことを聞く。彼らは日本人の子供と同じように、重々
しく威厳のある態度をしているが、非常におとなしい(388頁)。非常にきれいで魅力
的である(411頁)。子供の親たちは日本人よりもずっと子供に対する愛情をはっきり
と表面に出す(388頁)。
② アイヌ人は宿泊料を少しも受取らなかったし、与えたものに対しても少しもお返しを
求めなかった。お土産を買うとして2ドル半を出した。しかし、それは1ドル10セン
トの値打ちしかないと言って、それ以上は求めなかった(390頁)。
③ アイヌ人で朝、私に矢を売ってくれた男が2本の新しい矢を持ってきて、さっき売っ
た矢は傷物だといって取り替えた。彼らが取引において決して不正をしなことが分かっ
た(390頁)。
④ 北海道開拓庁は、アイヌ人に対して好意を持っており、アイヌ人を被征服民族として
の圧迫的な束縛から解放し、彼らを人道的に正当に取扱っていることは、アメリカ政府
がインデアンを取扱っているよりも遥かに勝っているものと心から思っている(398
頁)。


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外国人の見た日本(13) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月19日(日)09時36分0秒 ACCD4841.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(13)<

45.第37信 平取(アイヌ小屋にて)〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月24日)
① アイヌ人は、西洋の堕落した大衆と比べればずっと高度で立派な生活を送っている。
彼らは純潔で、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いや
りがある(404頁)。
② 女性は入墨をしている。それをしなければ結婚できない。政府がそれを禁止している
が、たいそう悲しみ、困惑している(410頁)。
46.第37信 平取(アイヌ小屋にて)〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月24日)
① アイヌは、毒を扱う〔日本人は毒を扱わない。毒殺はとても少ない。朝鮮では切腹で
ではなく「賜薬(毒殺)」であり、中国でも王などの殺害は毒殺が多い〕。毒はトリカブ
とである(424頁)。
47.第37信 平取(アイヌ小屋にて)〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月24日)
① アイヌには、インディアンのような呪師はいない(439頁)。
② アイヌは、馬のほか家畜を持たない(440頁)。
③ アイヌは、蛇と死者を怖がる。埋葬した墓場には一人では近づかない(443頁)。
48.第38信 佐瑠太〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月27日)
49.第39信 佐瑠太〔北海道〕(1876年〔明治11年〕8月27日)
① 夕食に1羽の鶏を買ってきたが、一時間後にそれを売った女がお金を返しにきた。
殺されるのがしのびないというのである。こんな遠い片田舎の未開の地で、こういうこ
とがあろうとは、直感的にここは人情の厚いところであると感じた(468頁)。


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外国人の見た日本(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月19日(日)09時34分24秒 ACCD4841.ipt.aol.com   返信・引用
>「日本奥地紀行」(14)<

50.第40信 有珠〔北海道〕(1876年〔明治11年〕9月6日)
① ここに住んでいる日本人がいうには、アイヌにこれまで一度も品物を盗まれたことは
なく、アイヌは正直で決して悪いことをしないと言う(474頁)。
51.第40信 有珠〔北海道〕(1876年〔明治11年〕9月6日)
52.第41信 函館〔北海道〕(1876年〔明治11年〕9月12日)
① 日本人の役人は、アイヌは正直で悪意のない人間だという(490頁)。
53.第42信 函館〔北海道〕(1876年〔明治11年〕9月14日)
① ここで通訳の伊藤と別れた。彼は〔上前をはねる癖があったが〕忠実に仕えてくれた。
色々な日本に関する情報を集めてくれたほか、私の身の回りの品物をすべてきちんと
片付けてくれ、荷物をまとめてくれた。彼がいないと困ってしまう。彼の利口さは驚くべきものがある(505頁)。

外国人の見た日本(15) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月21日(火)06時27分33秒 ACCD44AE.ipt.aol.com   返信・引用
>「ザビエルの見た日本」(1)<

スペイン人「フランシスコ・ザビエル(1506年~1552年)」はイエスズ会というキリスト教団体を結成し布教活動を行っていたが、ポルトガル王「ジョアン三世」の命により、1541年4月7日、リスボンを船出して、インドに向かい、途中、マラッカで日本人「アンジュロウ」に会い、日本のことを聞き、日本にキリスト教を布教するについての関心を持った。インドのゴアに着いてからも3人の修道院にいる日本人学生に会い、さらに日本への興味を深めた。そして、1549年8月15日に鹿児島の地を踏み、布教を始めた。彼のイエスズ会などに宛てた手紙が、本書である。彼は結局、日本人にキリスト教理を伝道することの困難さを
悟り、1551年11月に日本を去ることになる。
彼の著作は実際に日本に渡来した欧米人が日本について記したもので最初のものであると考えられる(「マルコポ-ロ」〔「ルスティケロ」の著作とされる〕の『東方見聞録』があるが、「マルコポ-ロ」は日本に来たことはない)。
なお、解説に当たっては、彼の日本人に対する感想を中心に記述し、布教活動などについては省略した。
〔 〕内は私の見解である。

※ 『ザビエルの見た日本』ピ-タ-・ミルワ-ド 講談社(講談社学術文庫)1998年
11月10日


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外国人の見た日本(16) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月21日(火)06時26分7秒 ACCD44AE.ipt.aol.com   返信・引用
>「ザビエルの見た日本」(2)<

1.日本人はこれまで会った国の人のなかで、盗みを嫌う人を見たことはありません(5
6頁-頁の表記は前記の書籍のものに従う)。
2.日本には僧がたくさんいて、皆に尊敬されてます。それは肉、魚、酒など一定の食物
を絶ち、野菜だけを食べているだけだからです(64頁)。
3.日本人の気質は、親切と愛にあります(69頁)。
4.大阪は海港で、日本の商業の中心地です(73頁)。
5.日本人は気立てが良くて、驚くほど理性に従います(74頁)。
6.日本人は名誉を欲しがる国民で、自分たちはどこの国より武勇に優れていると思って
います(86頁)。
7.日本人は太陽・天・地・海などは神が創造したものではなく、自然に生まれてきたも
のだと考えています(87頁)。
8.日本人も天国と地獄があることを理解してますが、地獄はキリスト教がいうように
2度と開かれないものではなく、そこに落ちた者も信仰(ブッタにすがること=信仰を)
深める)ことによって救う路があると信じており、この信仰を否定することは極めて困
難です(98頁)。
9.日本人はアジアの他の国々の人々より優れています(106頁)。


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外国人の見た日本(17) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月21日(火)06時25分0秒 ACCD44AE.ipt.aol.com   返信・引用
>「ザビエルの見た日本」(3)<

【解 説】

ここからは、筆者(翻訳者)「ピ-タ-・ミルワ-ド」(東京純心女子大学教授)の解説である。
1.ザビエルが見落としていた日本人の気質の一つに、「羞恥心」があり(138頁)、
日本文化が「清貧」に基づくものであることも見落としている(140頁)。
2.ザビエルが特に強調している日本人の気質の一つが「我慢強さ」である(同頁)。
3.ザビエルは日本人はキリスト教を受入れると強調していたが、現在の状況を考えると
そうでないことがわかる(144頁)。
4.ザビエルの関心は専ら日本人のキリスト教への改宗に向けられ、日本の風景、文化に
は全く関心が払われてない(148頁)。
5.ザビエルは日本の宗教や儒教に対する理解に欠けていた〔これがキリスト教の布教に
失敗した原因の一つと考えられる〕(150頁)。
6.ザビエルにとって、日本人の「多神教」の壁は厚かった。唯一の絶対神を強調するキ
リスト教はなかなか日本人に受入れられなかった(154頁)。
7.ザビエルは日本人の「地獄観」を打破することができかった(159頁)。
8.ザビエルは個人としては謙虚で控えめでありながら、異教徒に対する優越感を払拭で
きなかった〔これもキリスト教の布教に失敗した原因の一つと考えられる〕(166頁)。
9.ザビエルの有する隣人愛は評価しなければならない。これがキリスト教への多くの改
宗者を獲得できた理由の一つだった(168頁)。


外国人の見た日本(18) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月23日(木)12時37分52秒 ACCD1D18.ipt.aol.com   返信・引用
>「フロイスの見た戦国日本」(1)<

「ルイス・フロレス(1532年~1597年)」は、ザビエルと同じイエスズ会の宣教師で、1563年、西九州の横瀬浦に上陸した。ザビエル、トルレス、フェルナンデスが来日してから14年が経っていた。ザビエルは離日したが、トルレスは日本に残って布教に悪戦奮闘していた。
「ルイス・フロレス」の功績は、『日本史』の編纂にあり、戦国時代の歴史を知る貴重な史料となっている。本書もそこからの抜粋である。
彼のザビエルなどと異なるところは、宣教師にとっては、魂の回心だけが大切だったのではなく、日本人の風俗・習慣、芸術、文化にも向けたことにある。つまり、こうしたものに対する関心・造詣の深さが決定的に違っており、彼の内面の高さがうかがえるのである。世俗からの離脱が宣教師たちに求められていたが、彼は異教徒たちを改宗させるには、
国を統治する国王、寵臣、諸侯たちの寵を確保することが必要で、彼らからの愛情、尊敬、
信望を享受しているかを庶民に確認させ、判らせることが最も効果的な手段の一つであることを信じて疑わなかった。彼はこうした並々ならぬ決意を抱き、それがキリスト教の獲得につながっていった。孤立無援のキリスト教徒(伴天連=バテレン)を助けた異教徒の武将の死に慟哭した彼は宣教師の地位と名誉を失う危険があったが、そのことが逆に日本人の信頼と愛情を呼び起こした点において他の宣教師とは一線を画し、異彩を放っていた
といえるであろう。
フロイスは1597年に世を去った。そのご、豊臣秀吉が亡くなり、関が原の合戦を経て、徳川家康が天下を取り、キリスト教は禁制となり、宣教師は国外に追放された。優れた洞察者である彼がこのような時代の大きな変革を見ずに亡くなったことは真に残念である。
なお、解説に当たっては、彼の日本人に対する感想を中心に記述し、織田信長、豊臣秀吉、大友宗麟などのキリシタン大名などの評価、布教活動などについては極力省略した。
〔 〕内は私の見解である。頁は本書のものである。

※ 『フロイスの見た戦国日本』川崎桃太 中央公論新社(中公文庫)2006年2月25日


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外国人の見た日本(19) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月23日(木)12時36分42秒 ACCD1D18.ipt.aol.com   返信・引用
>「フロイスの見た戦国日本」(2)<

1.日本人は神々しいもの、不思議なものは何でも拝む習慣がある。それが月であり、
太陽であり、森・木、狐のような動物であったりしても、何ら矛盾を感じない。宣教師
たちの説く一神教はこの多神教の前に苦戦している(191頁)。
2.この戦国時代の人々は武士階級であれ、農民層であれ、いつも死と向き合って生きて
きている。そうした中で、多くの者が心の安らぎを求めてキリスト教に耳を傾けるよう
になった(198頁)。ひとたび道理を認めると、それほど従順であり、信心と苦行に
勤しむ人々を決して見たことはなかった(同頁)〔それほど日本人は精神性が高かった
のである-フロイスもザビエルと同じようにこのことを何度も指摘している〕。
3.日本の習慣では、主犯者が姿を消したときは、その妻子が身代わりとなって殺される
ことになっている(258頁)。
4.日本では、力ずくで目的を達することができないときは、しばしば騙まし討ちが行わ
れる(259頁)。
5.日本人が嫌悪していた卵や牛肉も宣教師のお陰で食べるようになった(263頁)。
6.日本では堕胎が行われている(270頁)。
7.日本の大工の技術はとても高く、建物はヨ-ロッパのものに比べて威厳、富裕、頑強
さにおいては見劣りがするが、清潔さと秩序においてはとても優れている。住宅ばかり
ではなく、庭園にもそれが見られる(272頁)。特にその清潔さはヨ-ロッパの人々
を驚嘆せしめる(274頁)。


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外国人の見た日本(20) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月23日(木)12時35分13秒 ACCD1D18.ipt.aol.com   返信・引用
>「フロイスの見た戦国日本」(3)<

8.関白(豊臣秀吉)が築いた「聚楽町」は街路の整然さ、美しさ、屋敷の新鮮・清潔さ、
完璧さではヨ-ロッパを凌いでいる。ここでは諸侯の家と庶民の家が区画されており、
庶民の家はなく、その外側に置かれている(275頁)。ヨ-ロッパの建物が優れている
点は、①城内の武装と建物の材質である。建物が木造であるため大砲が4門もあれば、
半日で総てを破壊できる、②威容と建築構造である。③富貴である。ヨ-ロッパの宮殿、
教会、修道院の方が建築費が莫大である(275頁)。
9、庭園は、自然の池や泉が配されて、驚くほどの新鮮味があり、人工的に造られたもの
とはとうてい思えない。日本では庭園は自然に似ているほど尊ばれている(277頁)。
10.神社、仏閣、仏像はとてもすばらしい(279頁)。
11.日本人の慎み深さと躾の良さは天性のものである(289頁)。
12.日本人は優しく多感な心の持ち主である(同頁)。
13.日本人は未知の人を通常、その外観や服装だけで判断する同頁)〔これは万国共通では〕
なかろうか〕。
14.日本人は秘密を守るという気質に欠けている(同頁)〔放送局だと言われる朝鮮人よりはましだと思う〕。

外国人の見た日本(21) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月25日(土)09時29分11秒 ACCD02E5.ipt.aol.com   返信・引用
>「ヨ-ロッパ文化と日本文化」(1)<

イエスズ会の宣教師「ルイス・フロレス」は、1563年、西九州に上陸し、キリスト教の布教活動を行っていたが、そのなかで日本人を観察し、それを元に1585年5月14日にまとめたのが、本書である。内容は日本とヨ-ロッパの比較である。その洞察力の深さには驚かされる。
解説をするに当たっては、よく知られていることは省略した。
ここで挙げる特徴は本書の頁の順にあげる。したがって、まとまりがないと感じる。

〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『ヨ-ロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス 岩波書店(岩波文庫)
1991年6月17日


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外国人の見た日本(22) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月25日(土)09時28分4秒 ACCD02E5.ipt.aol.com   返信・引用
>「ヨ-ロッパ文化と日本文化」(2)<

1.日本人はヨ-ロッパ人と比べて雀斑(ソバカス)のある者は少ない(18頁)。
2.日本の刀剣は死人の身体でその切れ味を試すが、ヨ-ロッパでは材木や動物で試され
る(26頁)。
3.日本人は散歩をしない。ヨ-ロッパ人は健康と気晴らしのために散歩をする(同頁)。
4.日本人は衣服を足で踏んで洗う。ヨ-ロッパ人は手で揉んで洗う(33頁)。〔日本で
も手で揉んで洗うことは行われていた。朝鮮では足で踏んで洗うことはしない〕
5.日本では男女とも公衆浴場を利用する。ヨ-ロッパ人にはそういうものはなく、家で
身体を洗う(35頁)。〔ヨ-ロッパでも公衆浴場はあたったが、ペストの流行で16世
紀には公衆浴場は廃れてしまった〕
6.日本の女性は処女の純潔・貞操は少しも重んじない。ヨ-ロッパでは未婚の女性の
最高の栄誉と尊さは貞操である(39頁)。〔日本の女性に処女の純潔・貞操が重んら
れたのは、キリスト教の影響によるものが大きい〕
7.日本の女性はヨ-ロッパとは異なり首飾りをしないし、指輪もしない(45頁)。〔
日本でも古代は首飾りをしていたが、すぐに廃れてしまった〕


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外国人の見た日本(23) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月25日(土)09時27分2秒 ACCD02E5.ipt.aol.com   返信・引用
>「ヨ-ロッパ文化と日本文化」(3)<

8.日本では夫婦の財産はヨ-ロッパとは違い、それぞれが有していた(夫婦分有制)
(48頁)。〔日本の制度は知られていず、女性の地位の低さに表すものとされるが、
大きな間違いで、女性が父母から与えられた田畑、金は死後に実家に戻されるのが
通例であった〕
9.日本では通常は夫が妻を離縁できたし、妻にもその権利が認められていた。また、
ヨ-ロッパでは妻を離縁することは罪悪であるうえに不名誉とされていたが、日本では
そのようなことはなく、離縁された女性も自由に再婚ができた(49頁)。
10.日本ではヨ-ロッパとは違い、妻が夫の許可を得ずに外出できた(50頁)。〔これも
日本の女性の自立性を表すもので、一概に日本では女性の地位が低かったなどと女権
論者がいうのは歴史・法制度の勉強が足りない〕
11.日本ではヨ-ロッパと異なり堕胎が許され、嬰児殺しが行なわれる(51頁)。〔ヨ-
ロッパでこれが禁止されたのはキリスト教の影響である〕
12.日本ではヨ-ロッパとは違い男性の料理人がいるが、裁縫師はいない(56頁)。
13.日本では女性の飲酒は禁じられないが、ヨ-ロッパでは禁じられている(57頁)。
14.日本の子供は箸を使い、手で食べることはない(64頁)。〔ヨ-ロッパでは大人も
手で食べており、フォ-クやスプ-ンを使うようになったのは17世紀以降のことと
される〕


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外国人の見た日本(24) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月25日(土)09時25分55秒 ACCD02E5.ipt.aol.com   返信・引用
>「ヨ-ロッパ文化と日本文化」(4)<

15.日本では死者を火葬するが、ヨ-ロッパでは土葬を行う(88頁)。〔日本の火葬は
奈良時代(6世紀)から行われていた〕
16.日本では妻と一緒に食事をしないが、ヨ-ロッパでは一緒に食事をする(94頁)。
食事は主人が片付けることが多いが、ヨ-ロッパでは召使がする(96頁)。
17.日本では犬を食べて牛を食べないが、ヨ-ロッパではその逆である(102頁)。
18.日本では鯔(ボラ)は貧しい者が食べる魚であるが、ヨ-ロッパでは珍重されて
いる(106頁)。
19.日本では兵卒に給料は支給されず、食料、衣服は自前であった。ヨ-ロッパでは
雇い主がそれを支払う(115頁)。
20.日本では死刑執行人になるを貴人でも厭わないが、ヨ-ロッパではこれが嫌われる
(117頁)。
21.日本の馬はヨ-ロッパに比べて著しく劣っている(120頁)。〔日本の馬に駄馬が
多いことは、イザベラ・バ-ドの『日本奥地紀行』にたびたび記述されている〕
22.日本の牛は小さくておとなしい。ヨ-ロッパの牛は大きくて荒々しい(129頁)。〔
日本の牛は朝鮮伝来のものである〕
23.日本ではペスト(黒死病)がないが、ヨ-ロッパではこれが流行した(131頁)。


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外国人の見た日本(25) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月25日(土)09時24分40秒 ACCD02E5.ipt.aol.com   返信・引用
>「ヨ-ロッパ文化と日本文化」(5)<

24.日本では糞尿を買い、これを菜園に投じるが、ヨ-ロッパでは糞尿を取り去る人に
金を払い、糞尿は捨てられる(151頁)。〔日本ではその意味でリサイクルが確立して
いた〕
25.日本人は災害にも会っても慨嘆の情を表さないが、ヨ-ロッパ人は表す(177頁)。
26.日本では偽りの笑いは品格のある高尚なことであるとされるが、ヨ-ロッパでは不真
面目だと考えられる(187頁)。
27.日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉であるとされるが、ヨ-ロッパではそれが嫌わ
れる(188頁)。
28.日本人は怒りの感情を抑え、思慮深い。ヨ-ロッパ人は怒りの感情を表し、思慮深く
ない(194頁)。

外国人の見た日本(26) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月27日(月)06時36分36秒 ACCD48BC.ipt.aol.com   返信・引用
>「オ-ルコックの江戸」(1)<

初代英国公使「ラザフォ-ド・オ-ルコック(1809年~1897年)」は、1859年に日本に着任し(当初は総領事、後に公使)、1864年まで江戸および横浜に駐在した。
彼は北は函館(箱館)から南は兵庫、大阪まで旅している。本書ではそのときの日本人との触れ合いについての記述が全くない。日本文化に触れるところもない。風景にも言及がない。彼の記録にはそれに関する記述がある(『幕末日本探訪記』ロバ-ト・フォーチュン 参照)。これは筆者の目的(「オ-ルコック」の公使としての仕事とそれを巡る日本側との諸問題)にあったのかによるのか、それとも筆者自身の能力の問題なのかは不明だが、物足りなさは大きく残る。その点で全く期待はずれの書物である。題名も誤解を招く。『
オ-ルコックの外交日記』とでもすべきだったと思う。
なお、「ラザフォ-ド・オ-ルコック」は、官僚主義に染まった<狭量な>人で、植物
採取に来日した「ロバ-ド・フォ-チュン」を江戸から追放している(後記『幕末日本探訪記』ロバ-ト・フォーチュン 196頁参照)。
解説をするに当たっては、よく知られていることは省略した。
ここで挙げる特徴は本書の頁の順にあげる。したがって、まとまりがないと感じる。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『オ-ルコックの江戸』佐野真由子 中央公論新社(中公新書 1710)
2003年8月25日


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外国人の見た日本(27) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月27日(月)06時35分18秒 ACCD48BC.ipt.aol.com   返信・引用
>「オ-ルコックの江戸」(2)<

1.開港地に決まった「横浜(条約では神奈川と記されていたが、実際には横浜)」はにわ
か作りであることは一見して明らかである(79頁)。〔新たに決まったことは<にわか
作り>であることは否めないのであって、商人も開港に向けての工事が進行するにつれ
我先にと移っていった。「オ-ルコック」も訂正せざるを得なかった(『大君の都』)〕
2.〔不平等条約の締結を強要した欧米人に対する反感から〕「オ-ルコック」らは武士か
ら刀を抜かれたり、庶民から石を投げられた(110頁)。
3.庶民はきびきびと働き、明るい顔で質素な生活を送っている。彼らは上の身分に近づ
こうと野心を起こすことなく、肥沃な土地と美しい風景に恵まれ、満ち足りた顔をして
暮らしている。いわゆるヨ-ロッパ的な華美とは一線を画したこざっぱりした生活習慣
がこの国の人々を社会的な不満から救っているのではないかと感じる(124頁)。
4.1862年5月1日、第二回ロンドン万国博覧会が開催され、「オ-ルコック」の尽力
で日本からも製品が出品され、期間中、評判を集め続けた(240頁)。〔何が<評判を
集め続けた>についての記述はない。著者の力量不足であろう-「オ-ルコック」のチ
著書に記述がなければその点を明記すべきである〕


外国人の見た日本(28) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月28日(火)07時18分14秒 ACCD447D.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(1)<

イギリス人「ロバ-ド・フォ-チュン(1812年~1880年)」は、植物採集を目的として1860年10月に日本に上陸し、12月に上海に向かい、翌年4月に再度、来日した。2度目の来日のときには一人で神奈川の寺に住んだ。このことが彼が日本をよく観察することになったと考える。1861年7月29日に上海に向かうまで日本に滞在した。
植物の専門からしくその方面および農業に関する描写は細かい。日本の人々、風習、文化、風景などにも多く触れている。
旅は尊皇攘夷があって、危険だったのでどこに行くにも護衛がついた。
本書には、天津、上海などについての記述(探訪記)もあるが、省略した。
解説をするに当たっては、よく知られていることは省略した。
ここで挙げる特徴は本書の頁の順にあげる。したがって、まとまりがないと感じる。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『幕末日本探訪記』ロバ-ト・フォーチュン 講談社(講談社学術文庫)1997年
12月10日


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外国人の見た日本(29) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月28日(火)07時17分14秒 ACCD447D.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(2)<

1.第1章 日本上陸-長崎
① 長崎の港は世界中で一番美しい港の一つで、幅は1マイル、長さは3~4マイルもあ
る。陸地に囲まれた港は、まるで湖のような観を呈している。周囲の山脈や谷は鬱蒼と
した森林におおわれ、その他の肥沃な土地は段々畑や耕作地になっている。その全景は
人間の勤労と大自然の造化の力が渾然と融け合った平和で魅力的な絵画そのものであっ
た(26頁)。
② 長崎の住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず花好きのことである(3
2頁)。
③ 長崎も同じだが、日本には城壁や要塞はないようだ(34頁)。
2.第2章 横浜
① 条約では「神奈川」が開港の地と記されていた。それはそこが宿場町で街道沿いにあ
り、商人が集まりやすく、開放地となっていたため外国人にとっても長崎の出島のよう
に隔離されないという安心感があった。ただ難点は港にしては浅かった。日本政府は寒
村だった横浜を開港地として開発していた。外国人は再び出島にように隔離されるので
はないかと危惧しており、実際に外国人居留地と日本住民とは隔てられたいた。しかし、
最近の攘夷党の動きから隔離は適切な措置だったと考えてよい。商人もそちらに移住し
ていった。政府の目論見は成功したようである(48頁)。〔イギリス公使「オ-ルコッ
クも『オ-ルコックの江戸』で反対の意思を述べているが、後に訂正したように短慮だ
ったようである〕
② 商店に並べられている漆器、陶磁器は高度な技術を有していた(53頁)。大玩具店
の存在は日本人が子供好きであることを物語っている〔日本人の子供好きはイザベラ・
バ-ドの『日本奥地紀行』のほか、いろんな外国人の著書に出てくる〕。製図や絵画の
スケッチの技巧はイギリス人よりも劣っているが、支那人よりも優れている(55頁)。


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外国人の見た日本(30) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月28日(火)07時16分4秒 ACCD447D.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(3)<

3.第3章 神奈川
① イギリスで建築されるような建物は激しい地震が頻繁に起きる日本では非常に危険で
ある。日本での木造建築は枠組みがしっかりしていて安全である(68頁)。
② この付近の畑はとりわけ整っていて、畑全体が農地というより庭といった感じである
(73頁)。
4.第4章 神奈川から江戸へ
① 乞食がおり、多くは身体が不自由な者や盲人で、物乞いをしていた(82頁)。
5.第5章 江 戸
6.第6章 江 戸
① 日本人の特性は下層階級でもみな生来の花好きだということである(108頁)。
② 日本人は入浴好きである。混浴が行われており、西洋の厳格な道徳家たちは徳義に
反するものとしてこれを非難するが日本人の習慣に過ぎない(109頁)。〔外国人の
探訪記でもしばしばこの混浴のことが記されているが、非難する者は少ない〕
③ 日本の小道は並木道が多く、家々の生垣も丁寧に刈り込まれておりとても美しく
イギリスの田舎の道を思わせる(110頁)。
④ 英国公使館が火事にあった。警備の役人、消防隊が駆けつけ警備および消火に当たっ
たが、品物は何一つ盗まれてなかった。支那では掠奪の機会を狙う暴徒を制することは
非常な困難な問題である。日本での充分に習練を積んだ団体の組織性には感嘆した(
114頁)。ただ、消火器は貧弱で水鉄砲の域を出てなかった。したがって、多くの人
が手桶を持って屋根に上がり消火しており、またそれが統一された指示はなく、てんで
ばらばらに行われていた(115頁)。


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外国人の見た日本(31) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月28日(火)07時14分59秒 ACCD447D.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(4)<

7.第7章 江戸の近郊
① 団子坂の菊市を見物に出かけたが、外国人を見ようと群衆がガヤガヤと着いてきた。
しかし、彼らは総て礼儀正しく、従順に仕向けられて取締まれていた。統制する役人は
非常に尊敬されその指示に従っている(119頁)。
② 日本でも支那のように盆栽は非常に珍重され、盆栽造りの技術は円熟の高い境地に
達している(124頁)。
③ 日本人は飲酒が好きで、しばしば公衆の面前でも酩酊する。これは日本人の欠点の
一つである熱しやすい気質によるものであろう(129頁)。
8.第8章 隅田川
① 江戸の主要な商業区域の商店は見るべきものがなかった(133頁)。
② 和紙は特に装飾用として室内に張るのに適している。手触りが絹みたいで体裁もよく、
図柄の多くはあっさりとしていて洗練されている。油紙は非常に清ひつ優良で用途は多
方面に利用されている、例えば、雨合羽、上等な絹織物・織物を雨や湿気から守る包紙
などである(同頁)。
③ 食料品はどこの商業地域でも、野菜、魚、肉が豊富にあった。ただ、肉は鹿、猿であ
り、牛、羊はなかった。私も猿を食べたことがある(135頁)。
④ 浅草寺の菊は素晴らしい。日本の園芸家は菊作りの技術にかけては我々よりもたいぶ
上手で不思議に大輪の花を咲かせる(139頁)。


外国人の見た日本(32) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月29日(水)21時21分7秒 ACCD6746.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(5)<

9.第9章 江戸から神奈川へ
① 街道沿いには茶屋があり、底では若い娘たちが私の両側に座って、お茶を注いだり、
お菓子や果物を勧めた。その間に他の娘はゆで卵を私の口に運んでくれる世話を焼いた。
こうした至れり尽くせりな客あしらいは、ひどく疲れた旅人を回復させ、満足させて旅
に送り出すのに十分であった(152頁)。
10.第10章 瀬戸内海へ
① 1860年12月17日に船で横浜を離れた。聖なる山である富士山を見ながら船は
瀬戸内海に向かった(船は長崎から上海に向かった)。通過したところの沿岸は美しかっ
たが、島は豊かでなく、肥沃にも見えなかった(159頁)。
② 上関から下関にかけての沿岸は、丘のあるところは樹木が繁殖し、てっぺんまで段々
畑に耕されて、土壌が肥沃で豊穣なことを示している。
11.第11章 長崎・湘南
① 1861年春、上海から長崎に戻り、江戸に向かった。長崎で投錨して上陸し、大徳
寺に赴いた。そこからの眺めは実に素晴らしかった。町の全景や湖のような港、遠近の
山並みの地勢がまるでパノラマのように眼下に展開された。多数の桃、桜が花盛りで、
特に八重桜は見事だった(179頁)。
② どこの国でも春は美しいが、日本の春は格別だ。木々は新緑の葉をまとい、早咲きの
花々は満開だった。なかでも八重桜、桃の花は最も美しかった。椿、ツツジ(原産地は
は日本)も丘の斜面を飾っていた(189頁)。
③ 5月7日に横浜を去り、神奈川の仏教寺院に居を定めた。5月末には桐の花が満開で
ケシの花も美しかった。日本では支那と違って阿片を吸わないが、ケシの種は薬用とし
て大量に使われている。大輪で八重咲きの花は高級観賞用になっている(同頁)。


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外国人の見た日本(33) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月29日(水)21時19分29秒 ACCD6746.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(6)<

12.第12章 江 戸
① どこでも藤の花が満開で藤棚を覆っていた。日本人はこ花が好きだが、充分にそれに
値する(194頁)。
② イギリス公使館から江戸退去の命令を受けた。日本が外国権力によって締結した条約
(「日英修好通商条約」1858年8月26日締結では、外国人は官吏でない限り東海道
と六郷川が交差している時点より江戸の方に行くことができないとなっていたが、有名
無実で外国人は自由に江戸に入ることができた。イギリス人「イザベラ・バ-ド」にし
ても江戸を経由して北海道まで行っている。〔これは官僚の嫌がらせとしか考えられな
い。ましてや「ロバ-ド・フォ-チュン」は、植物採集を目的として来日し、採取した
種子はイギリスに送られ有用なものとなっていた〕。彼はイギリス公使館との紛争を避け
るため、江戸を退去して神奈川に戻っている(196頁)。
13.第13章 神奈川
① 灸と鍼は日本の旧来の医学で民衆の支持を集めている。その一方で西洋医学も発達
している。ただ、外科は日本人の死体に触れることを忌諱する習慣から解剖を行うこと
が不可能となっており、それさえ克服すれば外科医学は著しく進歩することと思われる
(205頁)。
② 日本の花には香りがないというのが、外国人の一般的な批評であるが、これは誤って
いる。スイカズラ、薔薇、クチナシ、シャクヤク、月下香などは芳香を放っている(2
09頁)。
③ 日本では陸の貝が少ない(215頁)。


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外国人の見た日本(34) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月29日(水)21時18分0秒 ACCD6746.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(7)<

14.第14章 鎌 倉
① 日本では何でも金のためなら売る。寺の芳名帳も買った外国人がいる(221頁)。
② 鎌倉の大仏は高さが30フィ-トもあり、台座の直径も30フィ-ト以上もあった。
内部には入れるようになっていた〔現在でも同じ〕。鎌倉ではおびただしい数の寺院が
ある。その点で人間社会というより超俗的な精神世界の皇帝、すなわち神仏の遺跡に
相応しかった(228頁)。
15.第15章 英国公使館襲撃事件と生麦事件
① 復讐心は日本人の激しい感情の表れであるが、特に高位高官の人たち、侍の集団は
その意識が強い。これらの人々はいつも無礼や危害に対してはそれが真実であるろうと
想像であろうとすぐに怒る(236頁)。
英国公使館の襲撃事件(1861年7月5日)で、館員2人が切られたが、これは公
使「オ-ルコック」が大名行列に出会って道を譲らなかったことによるものだとされて
いるが、ハッキリはしていない(238頁)。
③ 生麦事件(同年9月14日)も大名行列に出会って道を譲らなかったことによるもの
だとされている(248頁)。


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外国人の見た日本(35) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月29日(水)21時16分24秒 ACCD6746.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(8)<

16.第16章 田植えの季節
① 小作人は大地主に取立てられる年貢が重く、極貧の状態で雇われていると聞くが、日
本の各地で観察した農民とその家族は余裕のありそうな家に住み、衣服も整っていたし、
食事も十分で、幸福で満足そうに見えた。長崎や江戸の近郊に住む農民は、むしろ田舎
の武士や地主よりも裕福かも知れないということはありそうなことだ(259頁)。〔「百
聞は一見にしかず」で、こちらの方が定説となっている。「士農工商」は建前だけだった
のである〕
② 神奈川周辺の田は、支那のように水車で灌漑する必要はない。水は高い田から順次、
低い田に水が導かれ、水路を経て海に流される。秋になって作物が熟して水が不要にな
ると水の取入口は閉鎖され、水は自然の水路に流出する(263頁)。
③ 日本の農家では牛や羊は飼っていないようである。豚肉は肉屋でたくさん売っている
が、それらの肉は見かけない。牛は耕作にも使われていない(264頁)。
④ 日本を紹介する外国人の書物には、日本では山の頂まで耕していないところはないと
いうが、これは間違っている。未開墾の土地は肥沃な土地でも存在する。それは日本の
産物が人々の要求を十分に補給してなお余りがあるに違いない(265頁)。


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外国人の見た日本(36) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月29日(水)21時14分48秒 ACCD6746.ipt.aol.com   返信・引用
>「幕末日本探訪記」(9)<

17.第17章 絹と茶
① 現在、絹と茶が最も需要で、ヨ-ロッパとアメリカ向けの貴重な輸出品となっている
(267頁)。次いで、銅、油、種子、干魚、海草、薬品、木蝋、漆器である(270
頁)。
② 日本の産物が外国にどんどんと輸出されたので、物価が上がっている。日本政府はそ
のために開港(江戸、大阪)を延期しようとしている(271頁)。日本では尊皇攘夷
運動による外国人襲撃事件が頻発しているので、開港延期には賛成である(274頁)。
③ 支那の商人は日本の商人と違い、船1隻分で平然と取引する。支那人は一度契約した
ら損失が出ても契約を破棄しない。日本は貿易では支那に負けている(278頁)。
④ 日本の商人は、いくら裕福であっても大名の家来で身分の低い者からも軽蔑の目で見
下される(279頁)。
18.第18章 日本の調査を終えて
① 1861年7月29日、横浜港から上海に向かった。


外国人の見た日本(37-1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)20時09分13秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「江戸幕末滞在記」(0)<

デンマ-ク人でフランス海軍士官「エドヴァルト・スエンソン(1842年~1921年)」は、フランスの植民地だったインドシナから香港、上海を経由して、1886年8月10日に日本に上陸し、翌年夏に帰国した。彼はその後、1870年7月に日本に海底電信線の陸揚げの許可を求めてやってきた。彼は電信線敷設の専門家として名を上げ1871年にロ-マで開かれた国際電信会議に出席した日本代表に助言を送っている。その後、大北電信会社の社長となり、日本と朝鮮との海底電信線敷設に尽力し、1883年に日本政府から「勲三等旭日中授章」を、1891年に「勲二等瑞宝章」を授与されている。
本書の原書は『日本素描』と題して1869年から1870年にかけて母国 デンマ-クの雑誌に連載されている。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『江戸幕末滞在記』E・スエンソン 講談社(講談社学術文庫)2003年
11月10日


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(無題) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)20時07分39秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
外国人の見た日本(37-2)

>「江戸幕末滞在記」(1)<

【第1部】
1.日本へ
2.横 浜
① 横浜は完全にヨ-ロッパの町である。小さな庭と花壇に囲まれた美しい住宅の列が丘
から丘へと続いている。その前を住民お気に入りの幅広い海岸通が走り、海に出るとこ
ろが石を積んだ突堤で固められている。外国領事館の建物の大半は国旗でその位置が知
られる。海岸通にはフランス海軍病院があり、南の丘にはフランス政府の小さな軍事
施設がある(30頁)。埠頭には絶えずたくさんの軍艦、商船で一杯である(34頁)。
② 英仏の軍人は、この美しい日本、陽気で親切な住民に交じって暮らすのが幸せで、
充分に満足している(45頁)。
3.横 浜(本町)
① 欧州区(外国人居留地)と日本区(日本人居留地)は隔てられている。欧州区は手狭
で新たな埋立地を造っている。欧州区の建物はほとんどが石造りの2階建てである(4
9頁)。日本区は4つに区切られ、漁師と職人が住む弁天、木造平屋建ての従来の町(本
町)、岩亀楼(遊郭街)、郊外で構成されている(49頁)。
② 日本の家屋は、ほとんどいつも戸を開けたままである。戸も窓も風通しを良くするた
めに全開する。通りすがりの者が好奇心を向けようとも持ち前の天真爛漫さで何一つさ
えぎることはしない。お陰で外国人の私もすっかり日本人の生活ぶりを鑑賞することが
できる(61頁)。
4.横 浜(岩亀楼〔遊郭街〕)
5.横浜から下関へ、そして中国へ


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外国人の見た日本(38) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)20時00分56秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「江戸幕末滞在記」(2)<

6.横 浜(日本人とその社会)
① 日本人は背が低く、狭い額、突き出た頬骨、ペシャンコの鼻、可笑しな位置について
いる両目、痩せこけて貧弱な身体、とうてい好ましい外観をしているとは思えない。し
かし、栗色の瞳から伝わってくる知性、顔の全体からにじみ出てくる善良さと陽気さに
接して思わず抱いてしまう共感によって、たちまちのうちにそれは吹き飛ばされてしま
う(96頁)。
② 日本人は誇り高く自尊心の高い性格で、侮辱に対しては敏感、一度受けたらそう簡単
には忘れられない。その反面、他人から受けた好意には同じ程度に感謝の念を抱く(1
12頁)。
③ 日本人の勇猛さには疑問の余地がない(117頁)。
④ 学習能力は非常に高い水準にあり、ほとんどの人は読み書きができる。ただ、日本語
はとても難しく、完全に使いこなせる者はごく少数に限られる(119頁)。
⑤ 科学についても日本人の努力でオランダ人などなどから西洋科学を学んで自分のもの
にしている(同頁)。
⑥ 日本人はユ-モアがどの階級にも見られる(121頁)。
⑦ 日本人に悪習らしい悪習は、酒にすぐ手を出すことと、女好きであることである(1
22頁)。
⑧ 女性の地位は低く、夫に従属し、男の不義は許されるが女の不義は死罪となる。結婚
にしても本当の恋愛結婚はなく親が相手を決める(124頁)。
⑨ 日本人は清潔好きで、公衆浴場に行かないと一日が終わらない。ここでは男女が何ら
恥らうことなく、裸で湯につかっている。男女混浴もある。これを見て、日本の女性は
慎みが無いなどと考えることは誤りである。自然から与えられたものを隠す理由など何
もないのである。むしろ、女性の裸を野卑な視線で眺める西洋人にこそ恥知らずだとの
非難が向けられるべきである(126頁)。〔これまで外国人の日本探訪記に何度も出て
きたが、外国人が混浴を非難するのは稀である〕


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外国人の見た日本(39) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)19時59分34秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「江戸幕末滞在記」(3)<

⑩ 日本人は多産な民族である。そこらじゅう子供だらけである。子供の生き生きとした
顔、ふっくらとした身体、活発で陽気なところを見れば、健康で幸せに育っていること
がわかる(130頁)。
7.横 浜(朝鮮から再び日本へ)
① 1886年11月24日、2ヶ月の朝鮮遠征から長崎に戻ってきた。その間、横浜の
欧州区(外国人居留地)と日本区(日本人居留地)の多くが火事で消失してしまってい
た。にもかかわらず日本人は不幸に襲われたことを苦にしないいつもの陽気さでこれを
克服していた。日本人の性格のなかで異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮され
る勇気と沈着さである(139頁)。
② 郊外を訪れると、男も女も野良仕事に精を出しながら、陽気に私にむかってオハヨウ
と声をかける。老若を問わず私に話しかけ、また案内してくれたりしてくれる(146
頁)。
③ 日本人は自然をそのままにせず手を入れる。どの家にも庭があり、丹念に手入れされ
ている(148頁)。
④ 日本人はとても親しみやすい性格を持っており、私が茶で休んでいるときも突然、襖
が開けられて、一緒に会食をしようと誘ってきた。彼らの好奇心は旺盛で言葉も通じな
いのに身振り手振りで話しかけ、私の衣服・身体にも触って丹念に調べ始め靴などにも
興味を示した(155頁)。


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外国人の見た日本(40) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)19時58分27秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「江戸幕末滞在記」(4)<

⑤ 横須賀には軍艦造船所があり、フランス人が指導していたが、日本人の職人は西欧の
道具の使い方をすぐに覚えて、さらに単に真似をするだけでなく自力で技術を会得して
いる。その意味で西欧の職人より優れているかも知れない(160頁)。
⑥ 日本の海軍はまだ幼児期にある。現在はオランダなどに依頼して軍艦を製造してもら
っているが、鉄などの建材を調達して、外国から軍艦を購入する必要がなくなる可能性
は高い。兵員教育についても英国から顧問団を招いて自前の養成を目指し、その目的は
達せられている(163頁)。
【第2部】
1.兵 庫
2.大 坂
① 大坂は人口80万の都市で、町中に運河が走っている。街中は家がひしめき合い、主
として商業、手工業を営む住民が住居を構えている(194頁)。
② 寺社建築の見事さには驚かされる。垂木などを巧に組み合わせ、互いに結び合わせる
ことによって建物に必要な強度を与え、大きな屋根を支えている(196頁)。
③ 日本の数多くの聖職者、15万にも及ぶ寺社を見るにつけ、少なくとも外見上からは
本当の宗教心からほど遠そうな日本人が、多大の寄進をしたりするのは一体何によるも
のかという疑問を抱かざるを得ない(197頁)。


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外国人の見た日本(41) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月30日(木)19時57分20秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「江戸幕末滞在記」(5)<

3.大 坂
① 郵便は飛脚によって運ばれるが、まだ手紙が確実に届けられるという保証はない(
213頁)。
② 徳川慶喜に謁見した。彼は体格が良く、歳は33くらい〔実際は30歳〕、顔立ちは
整っており、少し曲がっているが鼻筋は通り、小さな口にきれいな歯、憂愁の影が少し
差した知的な茶色の目をして、健康そうに日焼けしていた。普通の日本人によくあるよ
うに目じりが上がっていたり頬骨が出ていなかった(225頁)。
③ 徳川慶喜は我々の朝鮮遠征について大変興味を示され、朝鮮軍がどんな武器を使って
応戦したかについて聞かれた。彼が豊富な軍事知識をもっていたことに驚かされた(2
26頁)。
④ 大坂の町には商人がその商う商売によって街を作っていた。磁器を売っている区域の
店は横浜より規模が大きく、2階建てのものもあった(230頁)。
⑤ 劇場も多く、みな満員だった。娯楽が大衆にまで及んでいることがわかる(235頁)。
4.大君(徳川慶喜)の宮廷


外国人の見た日本(43) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月31日(金)19時47分27秒 ACCD11C4.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国外交官の見た幕末維新」(1)<

英国外交官「A・B・フリ-マン・ミットフォ-ド〔リ-ズデイル卿(男爵)〕(1837年~1916年)」は、北京の英国大使館二等書記官から1866年10月に日本に上陸し、1870年1月まで、3年余りを日本で過ごした。彼はイ-トン校からオックスフォ-ド大学を経て外務省に入った。帰国後、建設相となり、政治家となった。一度、日本に再来日(1906年2月)している。このときの見聞記が後に掲載する『ミットフォ-ド日本日記』である。
日本語が堪能で会話はもちろん読み書きにも全く不自由しなかった。その意味で他の日本見聞録を表した外国人とは異なっており、その日本への洞察力は群を抜いている。ただ、
政治的記述が多く、日本人、文化などに対する記述は少ない。
本書の原書は『リ-ズデイル卿回想録』と題して1915年にロンドンで出版された。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※『英国外交官の見た幕末維新』A・B・ミットフォ-ド 講談社(講談社学術文庫)
1998年10月10日


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外国人の見た日本(44) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月31日(金)19時45分23秒 ACCD11C4.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国外交官の見た幕末維新」(2)<

1.第1章 日本への赴任
2.第2章 将軍〔徳川慶喜〕との会見
① 将軍は切腹は野蛮な時代遅れだと言うが誤りである。切腹は現在まで節操と名誉を
守る手段である(52頁)。
② 最後の将軍は確かに傑出した個性を備えた人物であった。彼は日本滞在中に会った
日本人のなかでは西洋人の目から見て最も立派な容姿を備えた人間であった。端正な
容貌をして眼光は爛々と鋭く顔色は明るい健康的なオリ-ブ色をしていた。口はきつ
く結ばれていたが、彼が微笑むと、その表情は優しくなり、極めて愛嬌に富んだもの
となった。体格はがっしりして力強く、たいへん活動的な男らしい姿であった(57
頁)。
3.第3章 加賀から大坂へ
① 加賀の地方(松任、小松など)は非常に豊かであることに驚きの念を禁じえなかった
(79頁)。
4.第4章 内戦と備前事件
① 1867年12月13日に大坂に戻ると、何千人の人々が「ええじゃないか! ええ
じゃないか!」と叫びながら踊り狂っていた。どの家も色とりどりの菓子、ミカン、絹
の袋、神社の前に掛けてあるような注連縄(シメナワ)、花で飾り立てられていた(95
頁)。
② 1868年2月4日、外国公使たちが外国人居留地として割り当てられた神戸の土地
の検分を行っている際に、備前藩の兵士が銃火を浴びせ、アメリカ兵が軽傷を負っただ
けだった(117頁)。備前兵の指揮官「滝善三郎」に切腹の命が下り、我々にも検分の
要請があった。そこで、薩摩藩の本部があった兵庫の寺に赴いた。「滝善三郎」は介錯1
人を従えて検分者一同に一礼のうえ、高座に上がり長さ9インチ半(約24cm)の短
刀を立会いの役人から渡された。彼はそれを自分の前に置き、一同に深くお辞儀をした
うえで、この度の切腹に対する理由を述べ、短刀を取り、左側の腹に深く突き刺し、ゆ
っくりと右側に引いた。腹の中で短刀の刃を返すと上向きに浅く切り上げ、短刀を抜い
た。それを見守っていた介錯がすくっと立ち上がり刀を空中に構え、一刀のもとに首を
切り落とした。介錯は一礼して高座から下り、短刀は立会いの役人の手によって切腹の
証拠として恭しく運び去られた。天皇の代理の役人は外国人側の証人席に来て、切腹が
忠実に行われたことを見届けて欲しいと声を掛け、儀式は終わった。介錯は我々の国で
いう死刑執行人とは意味が違う。主役(切腹者)と脇役(介錯人)という関係に近い
(129頁)。


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外国人の見た日本(45) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 8月31日(金)19時43分5秒 ACCD11C4.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国外交官の見た幕末維新」(3)<

5.第5章 容堂公〔土佐藩主「山内豊信」〕と境事件
① 1868年3月8日、境に上陸しようとしたフランス軍のランチ(汽艇)の乗務員に
対して土佐藩士が銃撃し多数を死傷させた(境事件)。これに対してフランス大使から
土佐藩に犯人の処罰が求められ、20名が切腹を命じられた。執行は備前事件と同じ
ように行われたが、11人の切腹(境事件で死亡したフランス兵と同じ数)が終わった
ところで当該艦長が切腹の中止を申し入れた(143頁)。
6.第6章 天皇の謁見
① 天皇(明治天皇)は輝く目と明るい顔をした背の高い若者であった。彼の動作は非常
に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継に相応しいものであっ
た(177頁)。
7.第7章 大坂での外交交渉
8.第8章 旧体制から新体制へ
9.第9章 エジンバラ公の訪日
① 1869年8月31日、ヴィクトリア女王の第二子「エジンバラ公」が訪日した。天
皇に謁見した(238頁)。私も任務を終え、1870年1月に日本を去った(254頁)

外国人の見た日本(46) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時55分36秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(1)<

英国外交官「A・B・フリ-マン・ミットフォ-ド〔リ-ズデイル卿(男爵)〕(1837年~1916年)」が、英国国王エドワ-ド7世の甥「コンノ-ト公 ア-サ-殿下」(国王の弟の長子)が1906年2月に来日したときの使節団首席随行員としての見聞録が本書である。
本書は、同氏が書いた『英国外交官の見た幕末維新』に比べると、日本人、文化などに対する記述もあって、この面での読みでがあった。彼は前書でも説明したが、日本語が堪能で会話はもちろん読み書きにも全く不自由しなかったので、その日本への洞察力は群を抜いている。
本書は日英同盟の相手の日本への「ア-サ-殿下」表敬訪問記というべきものである。
日英同盟が日露戦争を勝利に導いた一因となったこともあって、殿下に対する歓迎振りは官民一体なった盛大で素晴らしいものであった。当時の世相もうかがえる。
本書の原書は『ガ-タ-勲章使節団日本訪問記』と題して1906年にロンドンで出版された。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※『ミットフォ-ド日本日記』A・B・ミットフォ-ド 講談社(講談社学術文庫)
2001年2月10日


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外国人の見た日本(47) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時54分16秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(2)<

1.第1章 横浜到着
2.第2章 ガ-タ-勲章奉呈式と宮中晩餐会
3.第3章 歓迎会と横須賀軍港訪問
① 横須賀軍港では、ロシアとの日本海海戦での戦利品のロシア軍艦(ニコライⅡ世、ワリャ-グ、プレスウェ-ト、アプラクシン)が修理されていた。このうちプレスウェ-ト号に乗船したが、その破壊ぶりは凄まじかった。東郷提督も同席され、ネルソン提督 (トラファルガ-の海戦でフランス・スペイン連合艦隊を撃破した)と同席しているような感激を覚えた(64頁)。
4.第4章 鴨猟、蹴鞠、歌舞伎見物
① 日本の農家の家屋敷ほど絵のように美しく、居心地の良さそうな住まいは世界のどこの国にも見られないのではないかと思っている(72頁)。
② 柔術が晩餐会で演じられていたが、女性が大の男をまるで赤ん坊のように易々と投げのは素晴らしい見ものである。さらに素晴らしいのは女性が柔術だけでなく、男性と堂々と渡り合っていることである。剣道では竹刀を持って臆することもなく痛がることもなく男と同様に力一杯打ち合っている。女性が男子と刀と槍で試合するのを見たこともある(78頁)。
③ 軍事教練は男女を問わずどの学校でも重要な科目となっている。そればかりか、武士道の精神の育成が図られている。これを愛国主義・軍国主義と冷笑する者もあろうが、勝手にさせておけばよい。この精神こそ日本の国力を築き上げ、他の国に比べて一段と頭角を現す基となったのである(80頁)。


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外国人の見た日本(48) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時52分44秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(3)<

④ 同盟国日本〔日英同盟は1902年(明治35年)1月30日に締結されていた〕

★ 日英同盟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F

5.第5章 泉岳寺参詣と日比谷公園の大名行列
① 「敵討ち」というのは、文字通りにいえば、敵を打ち殺すことだが、それは野蛮な復讐行為を意味するものではない。それは侮辱を拭い去る行為であり、悪しき行為に対する懲罰である。主人あるいは一族が殺されたり、不名誉を受けたことに対する復讐ができなかった者は臆病者という烙印を押されて爪弾きされるが、復習を忠実に履行する行為も法律のうえでは罪に値するので、それは死によってのみ拭い去らなければならないのである(103頁)。式部官の浅野氏は浅野家の当主である浅野侯爵の嫡男であったが、47士の頭であった大石蔵之助の子孫は今に至るまで侯爵の家来として仕えているとのことであった(105頁)。偶然といえばもう一つ、京都市長の歓迎の宴で弾き手の芸者は当時、大石蔵之助の京都での隠れ家の現在の持主だった(106頁)。
6.第6章 静岡訪問
① 静岡は日本で最も肥沃な土地といわれている。ミカンと米、お茶で有名である。このこのお茶はこの地を治めていた将軍(徳川慶喜)が〔版籍奉還によって〕養うことができなくなったおおぜいの家来たちに土地を与えて茶の栽培をして自立できるようにしたことからうまれたのである。したがって、土地の耕作者の大部分は普通の百姓ではなく武士ということである(124頁)。
② 1867年、石川県の七尾に滞在していたが、そのとき英国のパ-クス公使が七尾と京都の間にある地方の商業的将来を知りたがって、内陸を旅して大坂で落ち合うよう命令したが、途中、尊皇攘夷を掲げる連中が我々を待ち伏せしていることを後藤象二郎(後に伯爵)氏が察知し、我々を思いとどまらせたため危険に合わずに済んだが、時代も変り何の心配も無くこうして大津にいるとは感慨もひとしおである(131頁)。


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外国人の見た日本(49) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時51分28秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(4)<

7.第7章 京都での墓参と佐世保軍港
① 京都では木戸孝允伯爵の墓に詣でた。彼は背が高く、その態度は不思議と人を引きつけ、気立てが優しく、教養豊かな学者で生まれながらにして指導者としての力を備えた人だった(135頁)。
8.第8章 鹿児島訪問
① 鹿児島には三百年も続いている古い習慣がある。年に一度、妙心寺に薩摩の侍は老いも若きも、子供に至るまで一家伝来の古い鎧を身に付け行進するのである(151頁)。9.第9章 江田島の海軍兵学校と広島での陸軍野外演習
① 厳島神社のある宮島は、不浄を嫌って3つの掟が綿々と続いている。1つは、赤子が予定より早く生まれると母親は直ちに島外に連れ出され30日間不浄の身として過ごす、2つは、突然、誰か死ぬと遺骸は島外で葬らねばならず、会葬者は50日間、身を清め なければならない、3つは犬を飼うことができない、である(164頁)。
② 江田島の海軍兵学校の生徒の訓練は、体操、撃剣も素晴らしかったが、「棒倒し」が一番だった(166頁)。
③呉にも横須賀と同じように兵器廠と造船所があった。ここでも日本海海戦で日本に捕獲されたロシア軍艦が補修されていた。我々が乗った満州丸もロシア人から没収したものであった(170頁)。
④ 日本では士農工商という階級制度があったが、これが軍隊に及ぼす影響について黒木為(タメモト)〔日露戦争の第1軍司令官〕に尋ねたが、「食事のとき以外問題はない。」これも時間が解決するだろう」とのことだった。昔は侍しか兵士(武士)になれなかったことを考えると近年における階級差別の撤廃はかなり効果があったと認めざるを得ない(175頁)。


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外国人の見た日本(50) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時50分23秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(5)<

10.第10章 京都再訪
① 神戸での殿下「ア-サ-殿下」の歓迎振りは他と同じくすごかった。私が日本にいた1868年当時は荒れ果てた土地が広がり小屋一つなかったところであったが、今では人口27万の外国人居留地のある大都市に成長した。ここに来るとかっての「備前事件」 (「「英国外交官の見た幕末維新」(2)」第4章 参照)を思い出す(181頁)。
11.第11章 銀閣寺と奈良見物
① 奈良の大仏は鎌倉の大仏とは異なり巨大な建物の中にあるので足元からしか見上げることができず、堂々さが見られない。加えて、頭部は焼け落ちて16世紀に付け替えら れたが、かなり醜く、顔から頭の後ろに掛けてが扁平で、顔立ちも粗野で貧相に作られていた。したがって、鎌倉の大仏のような際立った尊厳と気高い静寂にあふれた表情は うかがえない(219頁)。
② 芸妓はいつも当意即妙の受け答えをし、冗談がわかるのも早いが、それに応酬するのも早い。陽気にふざけて楽しそうに笑いはしゃぐ。この少女たちには監督がついているわけでもないのに礼儀作法を守っているのは驚きである(223頁)。
12.第12章 名古屋訪問
13.第13章 西園寺侯晩餐会
① 日本ではこうした晩餐会に高い地位の者が出席するが、そのなかで重要な問題の打ち 合わせが行われることが少なくなく、重要な協定が起案されたこともある(243頁)。② 西洋にはこうした宴会が堕落の場所だと誤解する者も多い。彼らは芸者の踊りが詩的 で高尚なものであるという事実が理解できない(同頁)。


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外国人の見た日本(51) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 1日(土)11時48分44秒 ACCD5C79.ipt.aol.com   返信・引用
>「ミットフォ-ド日本日記」(6)<

③ 漢字をこのまま残すことについての反対論は、〈1〉漢字を習得するために費やされる時間は莫大な浪費である。康煕字典(第4代清国皇帝が1716年に編纂した辞典〔約5万字を納める〕は4万字〔先のとおり誤り〕が収録されており、その4分の1を知っ ていれば博識だといわれるが、6分の1で公文書は足りる。しかし、これを覚えるのは 計り知れない労力を要する、〈2〉漢字はタイプライタ-のような生活必需品の使用を不可能にする、〈3〉漢字を書くことが日本人と外国人の間に大きな障害をもたらす、ということで、「ロ-マ字」を採用しようとする運動がある(西園寺光望)。しかし、これにはもちろん反対論がある。〈1〉伝統を破る感情的な抵抗がある、〈2〉漢字が廃止されてロ-マ字が採用されれば、日本の古典は全部書き直して印刷が必要となる、さらに、古典文学は内容が不可解な神秘的なものと化す、〈3〉日本の言語のなかには漢字が取り入れられたものが多く、ロ-マ字を導入すると同音異義語が発生し収拾がつかなくなる、というものである。西園寺光望など有力者が支持しているから、「ロ-マ字」採用は時間の問題であろう(246頁)〔しかし、そうはならなかった〕。

★ 康煕字典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%AD%97%E5%85%B8

14.第14章 東京滞在
① 武士道をくだらないものとは思ってはいけない。それは死の意味を考えさせてくれる 国民の魂である(260頁)。
15.第15章 出発の日
① 明治維新以来、総てのものが変わった。過去36年の間に西洋人に対してただの一度 も襲撃があったことを聞いていない(269頁)。
② 富士山が珍しく姿を現してくれた。世界中、どこにいってもこれほど美しく偉大な山 はないだろう(274頁)。


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外国人の見た日本(52) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 2日(日)15時20分38秒 ACCD054B.ipt.aol.com   返信・引用
>「シュリ-マン旅行記 清国・日本」(1)<

ドイツ人「ハインリッヒ・シュリ-マン(1822年~1890年)」(トロイの遺跡の発掘で有名)が、1865年6月4日に日本に上陸し、7月4日に横浜からサンフランシスコに向かった。その間、わずか1ヶ月だったが、その間の日本見聞録である。滞在が短期間であったのか、荒唐無稽な日本への理解も多いが、そのまま挙げた。
本書は横浜からサンフランシスコに向かう50日間に書かれたものである。原題は『現代の支那と日本』である。原題にもあるように清国と日本の見聞録であるが、清国に関する記述は万里の長城と上海に限られ3分の1にも満たない。なお、清国に関する記述は割愛した。
本書の原書は1869年にパリで出版された。
彼は帰国後、独自で考古学を学び、1871年(49歳)にトロイの遺跡を発掘し、1876年(54歳)にはミケナイ遺跡を発掘している。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

★ トロイ遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9
http://www.geocities.jp/midokoroippai_turkey/page003.html
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20040530/onair.html
ミケナイ遺跡
http://www.lib.meiji.ac.jp/openlib/issue/kiyou/no9/kumanor05/kumanor05.pdf

※『シュリ-マン旅行記 清国・日本』ハインリッヒ・シュリ-マン 講談社(講談社
学術文庫)1998年4月10日




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外国人の見た日本(53) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 2日(日)15時17分4秒 ACCD054B.ipt.aol.com   返信・引用
>「シュリ-マン旅行記 清国・日本」(2)<

1.第4章 江戸上陸
① 日本の船は大小に限らず色を塗らない。この方が長持ちすると考えている(77頁)。
② 税関職員はこちらが金(賄賂)を出したが受取らず、荷物を解いて調べたが、それは
うわべのことだけで、好意的で親切な応対だった(78頁)。
③ 地震のために日本の家屋は煙突が1本もない。これは家が開放的であることにもよる
(80頁)。そのため日本の家屋は表から中をのぞくことができる。家々の奥の方には
小さな庭があり、花が咲いている。日本人はみな園芸愛好家である(同頁)。
④ 日本の主食は米でとても質が良い。おかずは煮魚と刺身であった(81頁)。
⑤ 日本の家には家具がない。しかし、考えてみれば家具などは文明が作り出した〔不必
要な〕もので、ゴザに慣れたら快適に生活できるだろう(83頁)。それに生活費もかか
らないだろう(84頁)。
⑥ 日本人は西洋人がハンカチを何日も使っているのに嫌悪を覚えている。日本では鼻紙
を持ち、1回ずつ捨てる(86頁)。
⑦ 日本人は世界で一番清潔好きであることは異論の余地はない。少なくとも一日に一度
は町の至るところにある公衆浴場に通っている。公衆浴場の前で3,40人の全裸の
男女を見たときは驚いたが、〔考えてみれば〕清らかな素朴さが現れている。混浴にし
ても恥ずかしいことでもいけないことでもない(89頁)。そもそもある民族の道徳性を
他の民族のそれと比べることは難しいのである(同頁)。


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外国人の見た日本(54) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 2日(日)15時15分49秒 ACCD054B.ipt.aol.com   返信・引用
>「シュリ-マン旅行記 清国・日本」(3)<

⑧ 日本政府は売春を認めている。日本では売春婦は必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴う
ものではなく、ヨ-ロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すような痛みしか感じ
ない。娘たちは契約期間があり、それが終わると開放される。生家に戻って結婚する
ことも普通に行われる。娼家に売られた娘はそこで漢文、日本語、日本の歴史・地理、
裁縫、歌・踊りなど最善の教育を受ける(90頁)。私は今の今まで、日本人が「おい
らん」を尊い職業と考えていようとは夢にも思わなかった(140頁)。
2.第5章 八王子(6月18日~20日
3.第6章 江 戸(6月24日~29日
① 日本は地震が多いので、石造りの家を造ることができない(121頁)。
② 江戸城(将軍の住まい)は、簡素な木造2階建てで、木製の門と天井を支えている
円柱には美しい彫刻が施されている。しかし、ガラス張りの窓は一つもない。日本の
家屋はどこでも同じようであるが、ここでも壁や間仕切り壁は紙を貼った引戸(障子・
襖)からなっている。部屋には家具というものがまるでなく、絹で縁取りされた竹の
美しいゴザに覆われた床が、大君の椅子、机、長椅子、ベットとなっている(127頁)。
③ 日本人は肉も牛乳もバタ-も食べないので、これらを商う店はない。家具も使わない
から家具屋もない。ところが漆器や蒔絵の盆や壷を商う店はたくさんある。そのほか、
象嵌(ゾウガン)細工、象牙細工、武具(弓・刀)を売る店が多い(134頁)。
④ 木彫の技術は素晴らしい。日本人は石の彫刻は苦手で、大理石は知られてない。国産
絹を商う店が多いのには驚かされる。店員が男女100名を越え、店の大きさといい、
品数の豊かといい、パリの最も大きな店にも引けを取らない。大きな玩具屋も多く、安
く、仕上げも完璧、仕掛けも極めて巧妙で、ニュ-ルンベルク、パリの玩具製造会社は
とても太刀打ちできない(137頁)。絵や額を並べている店も多く、日本人は絵が大好
きのようである(135頁)。


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外国人の見た日本(55) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 2日(日)15時14分10秒 ACCD054B.ipt.aol.com   返信・引用
>「シュリ-マン旅行記 清国・日本」(4)<

⑨ 日本の宗教については、民衆のなかに真の宗教心は浸透しておらず、上流階級はむし
ろ懐疑的であるという確信を得た(141頁)。
⑩ 民衆劇場である「大芝居」は出し物は見事に演じられ、日本語がわからなくとも総て
良く理解できた(143頁)。劇場はほぼ同数の男女で一杯で誰もこのうえなく楽しんで
いるようにみえた(145頁)。
⑪ 我々が見物するときは警護の役人が付いて来る。彼らには感謝の気持ちからお金を渡
そうとしたが、受取ってもらえなかった。彼らはそれを受取るくらいなら切腹を選ぶだ
ろう(146頁)。
⑫ 寺子屋は、間口いっぱいが道路に向かって開かれていた。椅子もテ-ブルもなく、4
~6歳の男児たちが60人ほど、ゴザの上に座り、各々一巻きの紙を持っては、教師が
斜めに置かれた黒板の上に教師が白黒で書いていく言葉と、その読み方を真似ていた(
152頁)。
⑬ 日本の社会は、インドのカ-スト制度と同じくらい厳密に6つの階級に分けられてい
る。第1階級は侍(貴族)、第2階級は坊さん(文人)、第3階級は漁師、職人、水夫、
商人、百姓である。これらの人は第1階級と話すときはかならずその前にひざまずかな
ければならない。第4~6階級の人たちは社会の底辺にいてさまざま差別を受けている
人たちである。キリシタンは第6階級である。これらの階級には貴族階級の身分を剥奪
された人もおり、彼らはそれを恥じて虚無僧姿で完全に顔を隠している。これを取った
者は死刑に処せられる(156頁)〔ここに書かれていることには荒唐無稽なことが多い、
さらに第4~6階級の分析が欠けており、詳細がわからない〕(157頁)。
⑭ 日本には戸籍が無く、国勢調査も行われないので、江戸の人口はわからないが、およそ250万人~300万人と推定されている(同頁)。
⑮ 外国人居留地の外国人の家を見れば、日本の大工の技術が優れていることがすぐにわ
かる(159頁)。


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外国人の見た日本(56) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 2日(日)15時12分58秒 ACCD054B.ipt.aol.com   返信・引用
>「シュリ-マン旅行記 清国・日本」(5)<

4.第7章 日本文明論
① 文明ということが物質文明ということを意味するならば、日本は極めて文明化されて
いる。工芸品において蒸気機関を使わずに達することができる最高の完成度に達してい
るからである。教育はヨ-ロッパの文明国家以上に行き渡っている。支那も含めてアジ
アの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して日本では男も女
もみな仮名と漢字で読み書きができる(167頁)。
文明が精神文明ということを意味するならば、日本は文明化されてはいない。それは
崇高な美徳の実践を妨げている要因が存在するからである。それは、〈1〉諜報機関が存
在する、「目付」が将軍家ばかりではなく、高官、庶民に至るまで浸透しており、そのた
め真実と正直さの実現を不可能にしている。日本人の間に「嘘」が単なる悪い習慣以上
のものとなっている。〈2〉将軍は外国との交流に極めて積極的であるが、大名は従わな
い。それは外国人が日本人と接触して関係を持つ機会が増えれば増えるほど、日本人の
知的道徳的な進歩が促進され、根本的な改革が求められ、自分たちが享受していた封建
的支配が崩壊する、ことにある(同頁)。
② 世界列強と締結された条約では、すべての外国の通貨(金貨・銀貨)を通用させなけ
ればからないことになっているが、メキシコ銀貨しか通用を許してない。そればかりか
その換算率は日本の通貨(銀貨〔天保一分銀〕)の76%しかならない(172頁)。


外国人の見た日本(57) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 3日(月)23時51分47秒 ACCD0017.ipt.aol.com   返信・引用
>明治日本見聞録」(1)<

イギリス人女性「エセル・ハワ-ド(1865年~1931年)」が、1901年(明治34年)から1908年(明治41年)までの7年間にわたって島津家の当主および弟たちの家庭教師を外国人の見た日本(57)

>「勤めたときの体験談である。教育を受けた島津忠重は後に随筆集で彼女が家庭教師と呼ばれるのを嫌い、親子のように接し、家庭に融合したいと言っていたと述べている。彼女は来日する前にドイツ王室のカイザ-王子の教育係もしていたので、島津家の家庭教師に松方正義(内閣総理大臣、日本銀行の設立者)の推薦で白羽の矢が立ったと思われる。会話は英語で行われ、英国上流階級の英語を徹底的に叩き込まれた。教育は勉強に止まらず、身体を動かすことを奨励し、歯の手入れも厳しく指導するなど生活全般に及んでいた。剣道、乗馬、射撃、水泳、ボ-ト、ヨットも行われた。年2回、庭では運動会ももようされた。それにしても当時の貴族階級の子弟は大変だった。子供たちは東京で教育された。
彼女は日本語を理解せず(習得は難しかった)、また、日本の文化、習慣を学んだことがなかったので、教育は苦労の連続だった。そればかりか召使のなかにはあからさまに悪意を示す者もおり(もちろん、召使の中には良い者もいた-彼女の記述の中に召使・家職などの者に対する愚痴が多いが〔褒め称えるものも多い〕、割愛した)、よくぞ途中で投げ出さなかったと思う。職務への責任感と忍耐強さがそうせたと考える。その意味では貴重な人だったといわねばなるまい。
彼女が滞在していたときは日露戦争の時代でもあった。日本での様子を生々しく伝えてくれるほか、戦後、満州に渡って戦跡も訪れている。彼女の好奇心にも驚く。教育だけでなく、社会のさまざまなものに興味を示し、その分析には感嘆する。相当に読みでがある。
さらに、島津家に寄宿していたことから政府および軍人の指導者とに親しく接することができ、彼らの人物評および国家の指導者像にも触れ貴重なものとなっている。
本書の原書は『日本の想い出』として1918年にパリで出版された。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『明治日本見聞録』エセル・ハワ-ド 講談社(講談社学術文庫)1999年2月10日


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外国人の見た日本(58) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 3日(月)23時49分37秒 ACCD0017.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(2)<

1.序
① 薩摩藩は大藩で他の藩では住民の5%が藩士だったが、薩摩藩では25%も占めてい
た(16頁)。
② 明治2年(1869年)、薩摩藩主が版籍奉還を願い出たので、他藩もこれに従い、
明治4年(1871年)、藩が廃止され、明治天皇が全権力を握った(18頁)。
③ 私を島津家の長男の家庭教師に迎えたのは、新時代に島津家がどう対処して行くかを
感じたものと思われるが、英国人を家庭に迎えて住まわせ、英国との親しい関係を結ぶ
というようなことは日本国中どこを探してもなかったのである。それだけ私を信頼した
ものと考えられる(19頁)。当時、島津家の長男(島津忠重公)は祖父、父を失い孤児
であった(同頁)。
2.第1章 日本に来て
① 最初に見た男は木靴を履いていた。それはスリッパのように爪先を防水紙で覆ってお
り、5~6インチの木片が2つの底に取りつけられていた。そして、寒いときに着るよ
うなねずみ色の綿入れを着ていた。木綿の綿入れは貧乏人が着るもので、安い代わりに
重い。長期間着ることができるが洗濯できないので、大変不衛生という欠点がある。日
本の下層階級の習慣では男は手を温めるため着物の中に両手をたくし入れてしまうので、
まるで手のないように見える(24頁)。
② 子供や赤ん坊は手や頭に吹き出物がでており、これは栄養の不足が原因とのことであ
る(同頁)〔外国人の見聞録では再三にわたって子供の皮膚病のことが出てくる。衛生状
態が悪かったようである〕。
③ 私が教えることになる少年(島津忠重公爵)は大人であり、威厳も微妙に感じられ、
とても14歳とは見えなかった(35頁)。


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外国人の見た日本(59) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 3日(月)23時48分24秒 ACCD0017.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(3)<

3.第2章 公爵と4人の弟たち
① 私が教えることになった島津家の子供たちは、〈1〉忠重 公爵 14歳5ヶ月 〈2〉
富次郎 男爵 9歳9ヶ月 〈3〉諄之介 男爵 8歳5ヶ月 〈4〉韶之進 7歳2
ヶ月 〈5〉陽之介 6歳2ヶ月 である(36頁)。
② 島津忠重はこの歳にもかかわらず、家憲に定められた厳粛な誓文の意味を十分に理解
していた(37頁)。
③ 長男(島津忠重)はもの悲しげな表情をしていた。際立ってハンサムで大きな美し
目の持ち主であったが、表情は沈痛の色をたたえていた。弟たちのことを優しく気遣い
彼らのしつけや教育についてはまるで父親であるかに見えることがあった。次男は今ま
で会ったこともないくらいに利口な子であった。顧問たちも彼は他の兄弟たちと違った
教育を施した方がよいと考えていたので、私の教え子の期間は短かった。三男は痩せて
繊細な子だったがきりりとしたところがあり、陽気で活気に富み、特にユ-モアのセン
スがあった。四男は体格は兄弟のなかで一番がっしりしており、瞑想的で落ち着いた性
質で感情を表さなかったが心には深みがあり、コツコツと勉強するタイプであった。五
男は極めて繊細で茶目っ気もあり、目が澄んで何でも気が付くたちだった(39頁)。
④ 貴族階級の行儀作法のようだったと思われるが、彼らは内股だった(41頁)。


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外国人の見た日本(60) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 3日(月)23時46分22秒 ACCD0017.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(4)<

4.第3章 顧問と使用人たち
① 後見人の任命では日本は英国と違って、両親の生存は関係なく、また法律上の保護者
とは別の顧問の完全な保護下におかれる。島津家の子供たちには多くの顧問がついてい
たが、松方正義がその中心となっていた。彼は私の意見に誠意をもって対処してくれ,
私の意見に不賛成のときははっきりと意見をいい、賛成のときは意見が通るように積極
的に援助してくれた(45頁)。
② 子供たちは小遣いを与えられておらず、自分で買い物をするという習慣がなかった。
これらのことは使用人が全部やってくれたからである。私はこうしたことを止めさせ、
子供たちにも小遣いを与え、自分で買い物をするようにした。教育については私が日本
語を理解しなかったので、周りの人との意思の疎通が難しかった(53頁)。
③ 公爵(長男)は幼少にもかかわらず、面会者が絶えなかった。学校の友達も御付の人
絶えず遊びに来た。ひっきりなしに友人が訪ねてくるので、良い友人を選択することが
どんなに重要なことかをはっきりと悟った(同頁)。
5.第4章 通訳、食事、買い物など
① 日本の学生たちの生活は勤勉そのもので、賞賛や尊敬に値するものが多々あった(5
8頁)。
② 屋敷内では時間の観念がなかったので、最初の仕事は食堂用のベルを取り付けること
だった(61頁)。
③ 子供たちの食事の時間は短く、食事に時間をかけることは時間の浪費と考えていた(6
2頁)〔これは日本の習慣ともいえるものだった〕。


外国人の見た日本(61) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 4日(火)20時00分56秒 ACCD4EE1.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(5)<

④ 子供たちの英語の上達振りは驚くほどで寝言でも英語を喋るくらいだった(64頁)。
⑤ 一番困ったことは、英語のミスタ-、ミセス、マスタ-、ミスの代りに全部「さん」
を付けることだった。「さん」では誰かがわからないのである(65頁)。
⑥ 買い物は、出入りの商人が屋敷に品物を運んでくるので、外で買い物をすることがで
きないことだったが、意を決して外で買い物をすることにした(同頁)。
⑦ 日本人は好奇心が強く、観察眼は優れている(69頁)。
6.第5章 子供たちとの生活
① 日本人の仕事振りは、ぼんやりして怠けたりしているように見え、仕事の進捗も遅か
ったが、その仕事振りは確実で結果も良好だった(70頁)。
② 変化を好むのは日本人の特徴である(74頁)。
③ 日本人はお辞儀をするだけでキスをしないが、親愛の情はキスでなくとも示せるので、
キスをするという外国の習慣は取り入れる必要はないと思う(同頁)。
④ 日本の贈り物の様式は優美で、贈り物は真っ白な紙で包まれ、とても綺麗な紅白の紐
で結わいられ、斜めに折った紙切れが上の方に付いていた。そこには干した魚の妙な小
さな切れ端が包んであり、日本文字(贈り主の名前)が書かれていた。贈り主の細かい
心が感じられる(80頁)。


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外国人の見た日本(62) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 4日(火)19時59分48秒 ACCD4EE1.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(6)<

7.第6章 学習院
① 子供たちは「学習院」という華族学校に通っていた。しかし、華族ばかりではなく庶
民の子弟も通うことができた。学校では普通の友情が保たれ、華族の子弟も庶民の子供
も対等に扱われるという優れた制度であった(84頁)。学校では軍事教練が行われ、生
徒には厳しすぎていた。傘も許されず軍隊式の外套の着用が義務付けられていた(同頁)。
② 日本での教師の地位は英国と比べて遥かに高い(87頁)。五男の教師は毎週、英語で
書いた報告書をよこしたが、私の帰国後も学期ごとに成績表を送ってきた。教師として
の誠実さと熱心さをよく現している(88頁)。
8.第7章 道路と交通
① 道路には深い溝があったが、下水になっていなかったので、絶えず泥とゴミで一杯に
になり、たびたび掃除をしなければならなかった。これは大変非衛生な仕事でそのとき
の臭気は甚だしく、特に夏は臭気がひどかった(93頁)。道路は混雑しており大勢の
通行人や手押し車や人力車がごった返していたので、とても危険としか感じることがで
きなかった(同頁)。
② 花は日本人にとって人間のことと同じように重要なことらしく、木や花の多くは美徳
の象徴である(99頁)。


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外国人の見た日本(63) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 4日(火)19時58分28秒 ACCD4EE1.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(7)<

9.第8 お茶と雛祭り
① 動物園は英国にくらべてずっと綺麗だった。園内は日本庭園の良き伝統が残され、
小さな橋や池を配して自然の姿のままに築造されていた(102頁)。
② 茶室でのもてなしは静けさと安らかな気持ちを与えてくれた(106頁)。
③ 古い庭園はまるでおとぎの国はかくやと思われるくらいだった(同頁)。
④ 年に1度の「雛祭り」は先祖代々受け継がれてきた何百年も前からの人形が飾られ
数段の棚に並べられていた。雛人形は娘たちによって相続され、代々受け継がれて
行くのである。日本の女の子の人形遊びは英国とは違い、自分の弟や妹を連れて歩く
と同じように自分の着物の中に入れて背中に背負って遊んでいる(107頁)。
10.第9章 関西旅行
① 日本の男性は、旅行するときに限って利己的になる。汽車の座席を独り占めにして、
横になり、容易に起こせないくらい深い眠りに落ちる(115頁)。
② 奈良の大仏を訪れた。高さは50フィ-ト以上もあったが、その顔かたちは大して
魅力的とはいえず、実際はむしろ反対で、鎌倉の美しい大仏とは比べ物にならなかった
(122頁)〔奈良の大仏の美しさが鎌倉の大仏に劣っているという指摘は、『ミットフ
ォ-ド日本日記』A・B・ミットフォ-ド(外国人の見た日本(48) 11.第11章 銀
閣寺と奈良見物 参照)にも見られている〕
11.第10章 日光、箱根、鵜飼い見物
① 鵜飼いはそれぞれの漁師が1ダ-スもの鳥を操っているので、鳥たちが大騒ぎして跳
ね周り興奮するなかで、衝突は避けられないように見えた。しかし、熟練した漁師が手
綱を上手にさばく姿は、まるでサ-カスで妖精の姿をした踊り子たちが馬の背の上で、
馬を駆けさせたり、踊ったりしながらリボンを器用に操る姿とそっくりだった。その夜
は大量の魚が捕獲され、我々は大いに芸当を楽しんだ。そこには何ら残酷さが感じられ
なかった(126頁)。


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外国人の見た日本(64) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 4日(火)19時57分24秒 ACCD4EE1.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(8)<

12.第11章 日本の家屋
① 28歳くらいの女中であり、最初は英語をほんの少ししか話せなかったったが、密かに
夜遅くまで英語の勉強をし、私が日本を離れるころには流暢に話すことができた(13
8頁)。
13.第12章 日本のキリスト教
① 我々英国人の間で、日本人で一番たちの悪い召使は必ずクリスチャンであるという(
面接の際にクリスチャンであると言う)話が良くでるが、私も経験した。これはこう
言うことがそれによって高い賃金とより楽な仕事を得たいがためである(145頁)。
② 日本ではどんな宗教についても寛大な取扱いを受け、全国に40にも及ぶ各宗派の
宣教師がいる(146頁)。
③ アイヌは我々にはほとんど関心を示さず、態度は静かで丁寧であったが、物事に無感
動で注意深さに欠けているように見えた。彼らは毛深くジプシ-に類似したところがあ
った。立派な体格で幅広い胸をしていた。容貌は蒙古型でなくどちらかといえばヨ-ロ
ッパ風だった。眉毛が非常に濃かったが、顔つきは優しく、ある者はとても美しい目を
していて、褐色であるばかりでなく、夢見るような心のこもった眼差しをしていた(1
52頁)。
④ アイヌは熊を家族同様に扱い、手塩にかけて育てる。やがて「熊祭」において聖なる
動物として神に捧げられる(155頁)。


外国人の見た日本(65) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 5日(水)22時21分17秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(9)<

14.第13章 日本人と刀
① 公爵(長男)は江田島の海軍兵学校に進学した(164頁)。彼からはときどき手紙が
来て、休日には彼と会うことができた。貴族子弟は外国人をよく覚えているほど愛情が
厚くないという人もいたが、そうではなく誠実さは日本人の美徳の一つであることがわ
かった(170頁)。
② 日本の国家にだんだんと親しみを感じ始めていた。この音楽を愛するようになり、そ
の旋律のなかに本当の音楽を感じるようになった(169頁)。
15.第14章 日露戦争
① 日露戦争(1904年〔明治37年〕~1905年)が始まると、馬車が廃止され、
食事も贅沢な物が出されなかった(175頁)。
② 負傷兵の行列のほかに戦死者の葬列がほとんど毎日のように通った。廣瀬武夫中佐の
葬列が行われ際に、2階から子供たちと見ていたが、通りかかった「山本権兵衛」男爵
がそれを見て死者を見下ろしたということで烈火のごとく怒った。〔日本の習慣を知らな
かったので〕それが侮辱と思われたのは大変悲しかった(176頁)。
③ 兵士が出征するのを見たが、妻が夫の出征兵士である海軍士官に感情を出さずによそ
よそしくお辞儀をしているのを見て何て冷淡なんだろうと驚いた。汽車がゆっくりと動
き始めるとその士官は妻と子に敬礼をして黙ったまま静かに立っていた。〔妻と子が見え
なくなると〕彼は新聞紙で顔を隠して強くむせび泣き、まるで気絶するように後ろに崩
れ落ちるのが見えた。やがて彼は立ち上がりすぐに姿勢をただし、顔には悲しみの影し
かなかった。このように一見極めて冷淡に見える態度は、深い感動の産物に他ならない
と感じた(177頁)。


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外国人の見た日本(66) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 5日(水)22時19分49秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(10)<

④ 陸軍・海軍の兵士をおおぜい島津家で泊めたことがある。秩序の乱れがある兵士によ
って部屋が荒らされると危惧したが、彼らの声も聞こえず滅多に姿も見せなかった。彼
らが家にいるのかいないのかわからなかった。家の中は極めて静かだった(178頁)。
⑤ 争に参加している兵士に慰問袋を送ったが、丁重な返事をいただいた。戦後、旅順
で博物館を見学したが、日本の兵隊は欧州の兵隊に比べて際って物資不足の訴えが少な
い。彼らの主食は米と大麦の極めた簡素なものだった(182頁)。
⑥ 十字病院に慰問にいったが、荘重な静けさが支配していた。兵士は死ぬときは静か
にため息も声も立てずに死ぬべきだと考えている(183頁)。
⑦ 争が進行するにつれ、日本人の克己的な自制心はますます目立つようになった。社
会のどの階級でも厳かな沈黙が完全に支配し、貴族やその他の人々から慈善事業に多く
気前の良い贈り物が寄付され、戦時国債への応募も広く盛んとなった(184頁)。
16.第15章 戦争祝賀会と暴動
① 郷平八郎提督は日本海海戦で大勝利を得た後も、東京の小さな人目につかない家に
住み、一般の市民と同じく外に彼の名を記した小さな木製の表札を掛けていた(192
頁)。
② シアとの講和条約が締結されるとこれに不満の民衆は日比谷公園に集まり暴徒と
化した。私はそれに遭遇した。責任は内務大臣にあるとして邸に押しかけこれを焼討ち
した(193頁)。

★ 日露戦争・ポ-スマス講話条約
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nitirosennsou.htm
http://note.masm.jp/%C6%FC%CF%AA%C0%EF%C1%E8/


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外国人の見た日本(67) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 5日(水)22時18分22秒 ACCD151E.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(11)<

17.第16章 鹿児島と九州
① 供たちの故郷鹿児島を訪問し、島津家に泊まった。午前4時に家を出るときには
早朝にもかかわらず大勢の人々が見送りにやってきた。私にも子供たちの教育について
の感謝が述べられ、英国旗が方々に飾られていた(200頁)。
② 崎県に入り奥地へと向かうと、人々が木や土手の後ろに身を隠したり、身体を折り
曲げて溝に隠れたりした。彼らは昔の習慣どおりに若君の目に触れてはいけないと思い
込んでいるのである(201頁)。
18.第17章 コンノ-ト殿下の来日
① ンノ-ト殿下の来日は、洋服屋を潤した。それは夜会服の注文が殺到したからであ
る。日本の洋服屋は大層器用で服を見本にそっくり同じものを作ることができた(20
8頁)〔コンノ-ト殿下の来日については『ミットフォ-ド日本日記』A・B・ミットフ
ォ-ド(「外国人の見た日本(44)」以下を参照〕。
19.第18 朝鮮への旅行
① の子供3人(三男~五男)と一緒に明治40年(1907年)10月29日に東京
を発って朝鮮・中国に旅行した。釜山は土が茶褐色で木は1本も生えていなかった(2
18頁)。
② 朝鮮人人夫は大変楽しげで幸せそうに見え、日本人より身体が大きく、ニコニコした
顔をしていて、歯並びがきれいだった(同頁)。私の聞いたところによると、普通の朝鮮
人は1着しか着物を持たず、洗濯している間は家にいなければならないという単純な理
由からめったに洗濯をしないということだった(同頁)。
③ 朝鮮の葬式には泣き男が雇われ、泣けば泣くほどそれだけ死者に礼を尽したことにな
る。結婚式でも泣き男が雇われる(220頁)。
④ 々の身なりは汚く、子供たちの多くは着物を着てなかった。埃まみれで髪の毛は日
本人と違って埃のため色が付いていた。そこらじゅうが埃だらけで大変だった(223
頁)。
⑤ 路は電灯が全部消えていて、ランプに照らされているだけだった。往来の状況は
酷かった。道路は深い泥で覆われて、無数の牛車が行き来していた(224頁)。


外国人の見た日本(68) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 6日(木)22時15分39秒 ACCD44EC.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(12)<

20.第19章 日露戦争の戦跡
21.第20章 日本の習慣
① 餐会が開かれたが、招待状を出した全員がなんと30分前にやってきた。この習慣
は礼儀正しさを現すものとされる(245頁)。
② に服している人は悲しみを表情に表してはならないとされている。その忍耐と勇気
は本当に立派なものだった(247頁)。
③ 旦は日本人にとって重要な行事の一つで、私が滞在している間は必ず雪が積もり、
陽の光が輝いている日であった。通りはまるで一幅の絵を見ているようで、大勢の少女
たちが明るい服で飛び回り、羽根つきをして遊んでいた。男たちは楽しげに飛び回り、
凧を揚げたりしていた。この笑いと快活さで満ち溢れた国はなんと素晴らしいことだろ
う(251頁)。正月の2、3日までは門を開けておかねばならない。それは訪問客を
迎えるためである。大きな部屋には酒とお菓子が用意され、誰でも飲み食いできるよう
になっていた(252頁)。
④ 5月5日は男の子の祭で。空には鯉のぼりが翻り、急流を遡る鯉の勇気を男になぞら
えていた(255頁)。
22.第21章 日英の習慣の相違
① うにも理解できなかったが、日本では全く血のつながってない家族へ息子を養子に
やるという習慣があった(257頁)。
② 語がとても上手いのにそれを隠すという習慣があるのに気づいた。これは日本人が
能力を誇示しないという慎み深い性格によるものだということがわかった(259頁)。
③ 本の女性はどんな階級の人でも倹約家だという印象を受けた。それは古い着物を
洗ったり繕ったりすることに現れている(265頁)。
④ わゆる鼻紙は我々のハンカチよりも便利でずっと衛生的である(同頁)


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外国人の見た日本(69) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 6日(木)22時14分20秒 ACCD44EC.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(13)<

⑤ 本人の自己否定・自己規律の精神は素晴らしく、贅沢を忌み嫌うということは
国民の美しい魂の現われだと感じた(267頁)。
⑥ 日本人の女性は笑うときは手で口を隠すという美徳を持っている(同頁)。
⑦ 日本人は人前で人の好き嫌いをはっきりとは言わないが、その観察力は鋭く、相手
の性格をすぐに見抜いてしまう(268頁)。
⑧ 日本人の団結心、物事を当然のこととして受入れる態度、独立心と死を恐れぬ態度は
西洋人も見習うべきである(269頁)。
⑨ 日本人の沈着冷静な態度は尊敬に値する。日本の職人は急いで仕事をしないが、その
仕上げは立派でちゃんと期日には間に合わせる。大きな事務所においても我々が英国で
慣れているような緊迫感や慌しさは感じられない。しかし、彼らの仕事振りは完璧で、
どんな些細なことでも手数を惜しまずやってくれる。上辺の体裁を構わず冷静に前進す
る民族は確実かつ急速に発展するものである。日本人は精力の無駄遣いをせす、西欧
諸国の神経質な活動家に比べてより着実に目的地に到達する(同頁)。
⑩ 日本人は子供から老人まで自制心が極めて強いので、人を怒らせたり感情を傷つけた
りするのを避けようといつも笑顔を絶やさない。この素晴らしい慎み深さは他人や外国
人に対する場合に限らず家族同士の付き合いのときでさえ、面と向かって意見を述べる
ことをしない(271頁)。


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外国人の見た日本(70) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 6日(木)22時13分2秒 ACCD44EC.ipt.aol.com   返信・引用
>「明治日本見聞録」(14)<

23.第22章 記憶に残る人々
① が日本を去ってから、私が島津家で教えた仕来りがそのまま守られているというこ
とは公爵(長男)の誠実と感謝の気持ちの表れに他ならない(274頁)。
② 公爵(長男)は子供のころ、世間から隔離された生活の中で育てられたにもかかわら
ず、彼は広く世界の人々と交わり、国家の利益のためにいつでも時の動きと密接に関連
を保つことを自分の義務と心得ていた(同頁)。
③ 明治天皇の生活は本当に質素を極めたもので、部屋の敷物は擦り切れ、塗った壁はス
スで黒ずみ、障子は方々切り貼りしてあった(278頁)。これは高官についてもいえる
ことで、大山巌元帥の広大な西洋館も質素なもので、贅沢や豪奢を感じさせることは全
くなかった(279頁)。
④ 晩餐会での他人のスピ-チ中に起立していた大山巌元帥の椅子を誤って引いてしまい
元帥が尻餅をついてしまったことに対して、宮内官が従僕の無作法を詫びて何度もお辞
儀を繰り返したが、元帥はかえって助け起こしてくれたことに対して謝意を表しお辞儀
を返した。元帥の態度は主人とお客全体の気持ちに対して優しい考慮を払うというもの
日本人の特質を現している。つまり、島津家の晩餐会に恥辱が与えられるのを防ごうと
する元帥の優しい心遣いが現れていたのである(281頁)。
⑤ 日露戦争の間の日本人の紳士的作法や人道的な捕虜の取扱いと、今日のドイツ下劣な
残忍性との間に大きな相違があるのは知られているとおりである(283頁)。


外国人の見た日本(71) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 7日(金)21時37分49秒 ACCD03A9.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(1)<

イギリス人写真家「ハ-バ-ド・G・ポンティング(1870年~1935年)」が、
190年(明治35年)ころから1906年(明治39年)の間、たびたび日本を訪れ、そのときの見聞をまとめたものである。写真家らしく日本の観光地を訪ね、伝統工芸にも
触れている。たくさんの写真を残し、当時のことを知るよい資料となっている。
彼が有名になったのは、1910年(明治43年)から12年(大正元年)にかけての
スコット大佐の第二次南極探検に同行して映画と写真を撮ったことである。ただ、彼はその前から、本書にも出てくるが日露戦争を取材し、そのほか、アジアだけでも朝鮮、中国、ビルマ、ジャワなどにも赴いている。
本書の原書は『この世の楽園・日本』として1910年にロンドンで出版された。原書は長く、本書はその大部分が割愛されている。割愛された部分にはアイヌ、東京の花祭り、
日本の家と子供、奈良、宇治、日光、箱根、松島、彦根、瀬戸内海などがあり、真に残念である。彼が訪れた世界各国のなかで一番興味をそそられたのが日本であったようだった。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『英国写真家の見た明治日本』ハ-バ-ド・G・ポンティング 講談社(講談社学術
文庫)2005年5月10日


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外国人の見た日本(72) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 7日(金)21時36分21秒 ACCD03A9.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(2)<

1.第1章 東京湾
2.第2章 京都の寺
① 通りはおおぜいの人で混雑していた。盆栽や陶器などが道路わきで屋台に並べられ
たり地面の上さえ並べられている。こういうことができるのは日本人が生来温和である
ことを示している。もし英国でこんなことが行われたが、どんな結果が待っているかを
考えるだけでも身震いがする(40頁)。
② 私を乗せた車夫は私に少しばかり遠回りして綺麗なものを見せて喜ばせようとわざわ
ざ混む大通りを通ってくれたのであった。ロンドンで馬車の御者が賃金をもらう代わり
にこんな心遣いを見せることが考えられるだろうか?(41頁)。
③ 日本の寺で庭園のないところはほとんどない。日本人生来の美しいものに対する愛情
と卓越した技術によって寺の僧侶たちが紛れもない美の庭園を造りあげることができた
(59頁)。
3.第3章 京都の名工
① 日本の職人の技術は素晴らしい。青銅の象嵌師、象牙細工師、陶工、七宝焼などさま
ざまなものがある(81頁)。
4.第4章 保津川の急流
① 保津川下りの舟を操る船頭の竿さばきは易しく見えた。熟練した者の技はどんなに
難しい技でも易しく見えるものなのである(119頁)。舟を操る技術においても世界中
でこれ以上優秀な人たちを見たことがない(127頁)。


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外国人の見た日本(73) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 7日(金)21時34分53秒 ACCD03A9.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(3)<

5.第5章 阿蘇山と浅間山
6.第6章 精進湖と富士山麓
① 馬車で移動しているときに道端で小柄の娘が我々に向かって手を振って乗せてくれる
ように頼んだが、御者は一杯で座るとところがないと断ったが、場所を空けて座らせて
あげた。彼女は自分で織った絹織物を富士吉田町に売りに行くところで疲れ果てて通る
馬車を待っていたのだった。彼女は降りるときに私にお礼に美しい模様のついた青い色
の小さな絹の切れを押し付け代金も受取らないでサヨナラと言って去っていった。この
ときの物腰はこれ以上淑やか(シトヤカ)であったが、彼女は一介の田舎者に過ぎなか
ったのである。絹の切れは馬車代を遥かに越える価値があったので、彼女の好意は私の
親切を遥かに上回っていた(163頁)。
7.第7章 富士登山
8.第8章 日本の婦人について
① 日本を旅するときに一番素晴らしいと思うことは、何かにつけて婦人たちの優しい
手助けなしには一日たりとも過ごせないことである。例えば、旅館の女将も働く人も
女性であり、笑顔を絶やさないで甲斐甲斐しく世話をしてくれる(236頁)。
② 過去の日本において、男子と婦人の相対的地位がどうであったにせよ、いろいろな
職業で婦人たちが男子と完全に匹敵することが実証されているので、近い将来にほとん
どの他の国のように男子と婦人とは同等の立場に立つことになるだろう。今でも東京の
大きな商店ならどこでも女性の店員がいるし、郵便局、電話交換手、駅の切符売りなど
に女性が見られる(238頁)。


外国人の見た日本(74) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 8日(土)16時50分27秒 ACCD7AFC.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(4)<

③ 日本での給仕女や宿屋の女の可愛い仕草が外国人に〔娼婦として〕誤解されることが
あるが、とんでもない誤解であって、家庭で少女たちが受ける敬意と同等のもので接し
なければならない。特に芸者は子供のときから音楽、舞踊、歌、語り、会話などを仕込
まれており、尊敬を持って接しなければならない人たちなのである(245頁)。
④ 戦場へ赴く船に乗船する兵士の夫を見送る婦人を見たことがあるが、彼女らは人前で
決して涙を流さない。逆に笑い顔を見たことは何度もある(255頁)。外国人は日本の
女性は冷たく、同情に欠け、無関心だと誤解している。日本の女性は女性の本能である
同情や思いやり、優しさ、憐憫に溢れているのである(256頁)。
⑤ 日露戦争の傷病兵を2万人余りを治療する病院に3週間いたことがあり、その後、
ロシア兵負傷者を収容する病院にもいたことがあるが、日本の看護婦こそまさに慈愛に
溢れた救いの女神だと心底から感じた。優しい心遣い、病院の中を妖精のように素早く
動き回る優雅な動作、病人の希望にすぐに応じられるような絶え間ない心配り、疲れを
知らない気力と献身、忍耐と熱意などすべてが世界のどこの婦人たちに負けない女性と
しての最高の美徳に溢れていた(259頁)。
⑥ 負傷兵が自分の傷に耐えている克己的な態度ほど印象深く感じたものはない。彼らは
明るく元気でできるだけ早く前線に帰りたがっていた。それができないほど重傷な者は
悲嘆にくれていた。兵士が悲しみに負けて涙を流すのを見たことがないし、意識のある
うちにうめき声を出すのを聞いたことがない(260頁)。


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外国人の見た日本(75) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 8日(土)16時48分52秒 ACCD7AFC.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(5)<

⑦ ロシア軍の捕虜が戦争から解放されたことを喜んで、大声で叫んだり歌を歌ったりし
ていた。そこに日本の兵士を満載した列車がやってきて止まるやロシア軍の捕虜に対し
て煙草やあらゆる食料を惜しげもなく分かち与えた。一方、ロシア兵は親切な日本兵の
手を固く握り締め、頬にはキスしようとする者さえいた。私が今まで目撃した中でも、
最も人間味あふれた感動的な場面であった(261頁)。
⑧ 小学校の女生徒が日本の負傷兵を収容している病院を慰問していた。引率の先生は女
生徒に向かって「女になって最高の望みは日本のために戦う息子の母親になることです。
重傷を負ってここで寝ている兵隊さんのように、息子を陛下の勇敢で忠実な臣民に育て
上げるようにしてください」と話した。このことは日本では子供を教育する良い機会を
決して逃さないということを教えられた感動的な例であった(262頁)。
⑨ 松山で、ロシア捕虜は優しい日本の看護婦に限りない称賛を捧げていた。ロシア兵は
これまで戦った敵のなかで日本兵ほど寛大な敵にめぐり合ったことは一度もなかった(
264頁)。
⑩ 児玉源太郎大将は、機知に富んだ人物として特に有名で、大きな戦闘の最中にも冗談
を言うのを止めなかったという話である。彼はお守りとして小さな日本人形を片時も離
さず持ち歩いていたが、それは普通の人形とは違い日本婦人の縮小版ともいえるもので、
彼の日本婦人に対する賛辞がうかがえた(267頁)。黒木為も「日本の兵隊が成し遂
げた業績は、決して日本男子だけではなく、彼らが母親から義務と名誉のためには総て
を犠牲にするという武士道の教育を受けなかったら、今日の成果を挙げることができな
かったでしょう。日本の婦人はこれからも非常に優しく、大人しく、謙虚であって欲し
いと考えています。わが国の兵士の勇気は小さいときからその母親から受けた教育の賜
物です。どこの国でももし婦人たちが何にもまして勇敢で優しく謙虚でなければ、真に
偉大な国民とはいえません。兵隊と同様に日本の婦人は国に大きな貢献をしているので」
す」と私に向かって話した。

★ 児玉源太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E


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外国人の見た日本(76) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 8日(土)16時47分13秒 ACCD7AFC.ipt.aol.com   返信・引用
>「英国写真家の見た明治日本」(6)<

⑪ 伊藤博文と井上馨は、英国からの帰国後、暴漢に襲われ井上は重傷を負い、伊藤は難
を逃れてある家に逃げ込んだ。そこにいた若い娘は畳の下にある秘密の部屋に彼を匿ま
い何事もなかったようにその上に座り暴漢の追及から彼を守った。これが縁で二人は結
ばれることになるが、こうした沈着冷静な女性こそ日本女性の特質なのである(274
頁)。

★ 伊藤博文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
井上馨
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8

9.第9章 鎌倉と江ノ島
① 鎌倉の大仏が感銘を与えるのは、その大きさだけでなく、佛教の信仰の教えを象徴す
る素晴らしい容姿が我々を感動させるからである。姿の美しさは決してその表情の美し
さに劣らないが、どんなカメラでもその表情を実物どおりに捉えることはできない。奈
良にも大仏があり、これより大きいが芸術的価値は小さい(284頁)〔鎌倉の大仏の素
晴らしさを讃える外国人は多いが、奈良の大仏を讃える外国人は少ない。「外国人の見た
日本(48)「ミットフォ-ド日本日記」(5)10.第10章 京都再訪、外国人の見た日
本(61)「明治日本見聞録」(7)10.第9章 関西旅行 参照〕。
10.第10章 江浦湾〔伊豆半島〕と宮島


外国人の見た日本(77) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 9日(日)20時06分17秒 ACCD0572.ipt.aol.com   返信・引用
>「ロシア艦隊幕末来訪記」(1)<

1859年、安政の仮条約の批准と樺太国境問題を解決するため「アム-ル艦隊」を率いて品川沖にやってきたロシア東シベリア総督「ニコライ・ムラヴィコフ」の軍医「アレクセイ・ウラジミ-ロヴィッチ・ヴィシェスラフツォフが記した下記の原書の一部である。、
本書の原書は『ペンと鉛筆で書かれた世界周遊記 1857-60年』のなかの第1章「江戸より」の全訳である。
本書には挿絵が挿入されており、先の『英国写真家の見た明治日本』ハ-バ-ド・G・ポンティング、と同じく当時の様子を知る貴重な史料となっている。
〔 〕内は私の見解あるいは本書での解説である。頁は本書のものである。

※ 『ロシア艦隊幕末来訪記』 ヴィシェスラフツォフ 新人物往来社 1990年4月10
10日


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外国人の見た日本(78) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 9日(日)20時05分1秒 ACCD0572.ipt.aol.com   返信・引用
>「ロシア艦隊幕末来訪記」(2)<

1.台 風
2.漁 師
①漁師のがっしりとした赤銅色の身体、その櫓さばきを見るにつけ、子供のときから海
で育った国民を持つ日本は鎖国さえ解かれれば、きっと立派な海軍を作り上げることだ
ろう(27頁)。
3.横 浜
①横浜の上陸場に広がる町は市場のような雰囲気があった。漆器、陶磁器、絹織物、女
たち〔遊郭があった〕が豊富に取り揃えられ、非常に購買欲をそそられる仕方で飾られ
ていた。野菜、果物、食料品など船乗りが必要とする品物が何でも揃っており、これも
含めて、日本人の抜け目のなさと几帳面さを発揮していた(31頁)。
4.江 戸
5.役 人
6.町の遊歩
① 江戸の家屋は一番裕福な者でさえ、暮らしぶり含めてヨ-ロッパ人の目から見れば貧
乏人とほとんど変わらないほど質素だった。ただ、裕福さは部屋数の多さ、襖に施され
た洗練された木工、漆塗りのお椀・食膳、武器などに示されている(44頁)。
7.住 民
① 婦人は歯を黒く染めている(46頁)〔この風習については外国人が奇異にかんじたよ
うで、再三にわたってきじゅされている〕。
② 日本での長い間の支配者からの抑圧は、人々に従順になることを植え付けた(49頁)。


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外国人の見た日本(79) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月 9日(日)20時03分45秒 ACCD0572.ipt.aol.com   返信・引用
>「ロシア艦隊幕末来訪記」(3)<

8.行 列
① 通りでは積荷を満載した馬や犬が多く、子供も含めた人も多いのだが、人馬が押し合
いへいあいし埃塵悪臭を伴う中国の町全体にいえる特徴は、ここでは見られない(56
頁)。
9.腹切り
① 将軍はスパイによって大名を監視していた(61頁)〔このことは世界どこにでもあっ
たことで、特にロシアでは密告が奨励され皇帝による恐怖政治が行われていたことを見
事に看過している〕。
10.昼 食
① 慣れるまでは何も入れない水っぽい「お茶」を軽蔑するが、何日もしないうちに、
さっと入れた一番茶を味あうときの香に魅了される(64頁)。
11.日本橋
12.日本人の宗教とその寺院
13.お 城
14.投 石
① 我々には日本人の庶民から大変な量の石つぶてが飛んできた(98頁)〔開港地の横浜
に居留する外国人のほとんどは中国に滞在した経験のある者が多く、その経験から日本
人に対して高慢に振舞った。それに加え、金銀交換率で金儲けを狙った商人・一部の外
交官に対する日本人の不信感が広がり、通貨不安定のために一般商品の価格が高騰し、
庶民の生活を襲ったことから、外国人に対する不満が高まっており、また、これらのこ
となどを背景に尊王攘夷の思想が拡大し、武士も外国人に対する怒りを爆発させていた〕。
15.ムラヴィヨフ伯爵の盛大なる江戸入り
① 日本食は慣れない味だったが、日本人には並々ならぬ美食のセンスがあることを示し
ていたし、給仕も速やか、かつもの静かに行われた(105頁)。


外国人の見た日本(80) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月10日(月)21時11分26秒 ACCD1D5C.ipt.aol.com   返信・引用
>「ロシア艦隊幕末来訪記」(4)<

16.地 震
17.日本の店
① 日本にはインドにあるような厳密な意味でのカ-スト制度はないが、次のような階級
があり、下の階級から上の階級への移動は難しい。
第1階級  国王〔将軍〕あるいは領主〔大名〕
第2階級  貴族〔幕閣を構成する者など〕
第3階級  聖職者〔僧侶〕
第4階級  武士あるいは貴族の臣下
第5階級  同
第6階級  大商人
第7階級  小売商人、職人、工芸人
第8階級  百姓、荷役
第9階級  賎民(皮革業者、死刑執行人、農民の一部)
② 日本ではどんな貧乏な家であれ、ヨ-ロッパの大都市ならどこでも見られるおどろ
おどろしさに見られるような心配などない。悪臭に襲われたり、不潔さに嫌悪感をもよ
おしたりする心配もなく清潔である。貧乏な家で水を1杯もらっても、綺麗に洗って
ある陶器のカップが出される。日本人はどのような階級であれ、ヨ-ロッパで食事を
ともにすることになっても、日本人は隣の人間の食欲をなくさせるような振舞いはしな
い(117頁)。
③ 日本人は声高に笑うことはめったにないが、その目と唇にはいつもたいていユ-モア
のある微笑を浮かべている(121頁)。


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外国人の見た日本(81) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月10日(月)21時09分46秒 ACCD1D5C.ipt.aol.com   返信・引用
>「ロシア艦隊幕末来訪記」(5)<

18.日本人の鄭重さ
① 絹織物を扱う大きな店は2階建てになっており、下の階には丁稚や手代があまりに
たくさんいたので、いっけん見たときはどこかの学校へ来たのではないかと目を疑った
ほどだった(124頁)。
19.女 性
① 男女を問わず子供たちは幼いうちから予備学校〔寺子屋〕へ行き読み書きと国の歴史
を学ぶ。貧民の子の勉強はそこで終わりになるが、上流階級の子はさらに高等学校へと
進む(129頁)。茶屋は百人近くの女の子を置いているところもあり、茶・酒・夕食を
出し、音楽も聞かせれば踊りも見せる。美しい娘のいる貧乏人はその子が幼いうちに茶
屋に預け、その代わり子供に立派な教育を授けてもらうのである。一定年限、茶屋に勤
め、その後家に戻りたいていの場合は結婚する(同頁)。
20.浅草寺
① 蝋人形は生身の人間と寸分変わらなかった。カラクリ人形もぎこちない動作は少しも
なかった。装備だけでなく衣装も立派だった。日本人の持つ芸術的センスは驚くべきも
のがあった(143頁)。
21.横浜での不幸な事件
① 隊員の2名が武装した日本人刺客に襲われ、1名が死亡した。犯人は捕まらなかった。
日本の警察は優秀と聞いていたので不可解だった(150頁)〔後にこの区域を担当する
役人2名がロシア側に引渡され、死罪であろうとその処断をまかされたが、処分は結局、
日本側に委ねられ公職追放となった〕。
22.王子と日本人享楽主義者
① 日本人は洗練された楽しみに最高の喜びを見い出し、酒を飲んでの大騒ぎ、乱飲乱舞
の類は喜ばない(159頁)。
② 日本人は詩的な環境を求め、自然を愛する(同頁)。
③ 食事はどちらかというと口よりも目の方を楽しませてくれる(160頁)


外国人の見た朝鮮と日本の比較(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月13日(木)12時07分32秒 ACCD4128.ipt.aol.com   返信・引用
外国人の見た朝鮮と日本の比較について、まず指摘しなければならないのは朝鮮に関する見聞録・訪問記が少ないのに対して、日本のそれは非常に多いということである。これは、① 朝鮮では鎖国が日本の明治時代になっても長く続き外国人の入国を阻んできたこと、② 朝鮮が世界に知られてなく、外国人が魅力を感じなかったこと、③ 朝鮮では名所・旧跡が少なかった、④ 朝鮮の治安、道路事情および通貨事情(外国通貨が交換できなかった)が悪く、旅行が不自由であったこと、特に奥地・辺境の地は旅行不可能であった、ことによるものと考えられる。ともあれ、朝鮮側の少ない史料を下に外国人の見た朝鮮と日本の比較をしてみたいが、すでに多々説明をしているので、要約ということになろう。
一言で言えば、<朝鮮はゴミのような国で、日本は秩序が保たれている天国だった>と
いうことである。
1.朝鮮は李朝時代を通じて政治の混乱が続いており、それに対して日本はその時代は
室町時代・戦国時代から江戸時代・明治時代に当たるが、政治的混乱が続いたのは室町
時代の末期と戦国時代、それに江戸時代から明治時代への過渡期に過ぎず、安定した時
代が続いていた。このことは秩序と治安に直結していた。朝鮮では両班と役人の横暴さ
が目立っていた。日本では外国人が階級制を指摘しているにもかかわらず、朝鮮の両班
に当たる武士、および役人の横暴に関する記述がない〔外国人のいうように日本ではそ
もそも彼らが指摘するような階級制が存在していたのか、どうも指摘していることの分
析が足りず、誰かの受け売りのような気がする〕。
首都の漢城ではともかく地方では盗賊が頻繁に出没して手当たり次第に人を殺傷し、
掠奪と放火の大被害を与えたりしている。しかし、日本では地方も含めて治安は完全に
保たれていた。


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外国人の見た朝鮮と日本の比較(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月13日(木)12時06分7秒 ACCD4128.ipt.aol.com   返信・引用
2.経済、これは決定的な差があった。朝鮮では首都の漢城でも商店も整ってなく行商人
に頼っており、漢城と平壌の間にも交易すらなかった。さらに小さな村では商店すらな
く、市の立つ日にしか買い物ができなかった。漢城でさえ商店はみすぼらしく、店には
記すに値するような特徴がない。何も特徴がないというのが特徴である。これ対し日本
では江戸には大商店が存在しており、そこには小学校と見誤るほどたくさんの丁稚たち
が甲斐甲斐しく働いていた。地方にも商店があって欧米同様に商いが盛んであった。
貨幣についても外国通貨(銀貨)が地方でも交換されたのに対し、朝鮮では交換でき
ず、旅行が大変で6人かかりで朝鮮貨幣を持ち運びながら行わねばならないという欧米
では考えられない様相を呈していた。
大部落はほとんどなく、田舎の人々は2,3軒、多くて12,3軒ずつ固まって散在
している。年間の収穫は住民の需要をかろうして満たす程度であり、しかも朝鮮では
飢饉が頻繁に見られる。最も貧しい階級の人々にとって、年に2度、定期的に訪れる。
大麦の収穫を待つ間の春窮期の6,7月、次いで粟類の取入れ前の9、20月である。
金銭は法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な
人々は、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、
ただ、塩水で煮詰めたわずかばかりの草木だけである
3.社会基盤も際立った差異が存在していた。漢城は迷路のような路地は狭く牛・馬の荷
車、駕籠が通るときには身体を塀にピタリとくっつけねばならならず、牛車の主はどち
らが譲るべきか長々と言い争っているというような状態にあった。道路事情は劣悪であ
り、幹線道路すら粗末馬車道でしかないものがほとんどである。商取引の障害は交通路
の未整備にある。航行の可能な河川は少なく、道路を作る技術もないしかし、江戸では、
通りはおおぜいの人で混雑していた。盆栽や陶器などが道路わきで屋台に並べられたり
地面の上さえ並べられている。こういうことができるのは日本人が生来温和であること
を示している。もし英国でこんなことが行われたが、どんな結果が待っているかを考え
るだけでも身震いがする。通りでは積荷を満載した馬や犬が多く、子供も含めた人も多
いのだが、人馬が押し合いへいあいし埃塵悪臭を伴う中国の町全体にいえる特徴は、こ
こでは見られない。
日本では旅行の利便さも整備されており、陸地運送会社がある。本店は東京に各地の
町村に支店がある。会社はすばらしく良く運営されており、旅行者や商品を一定の値段
で駄馬や人夫によって運送する仕事をしており、旅行者が難儀したり、遅延したり、法
外な値段をふっかけられることがなかった。


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外国人の見た朝鮮と日本の比較(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月13日(木)12時04分33秒 ACCD4128.ipt.aol.com   返信・引用
3.家屋については、
江戸の家屋は一番裕福な者でさえ、暮らしぶり含めてヨ-ロッパ人の目から見れば貧
乏人とほとんど変わらないほど質素だった。日本ではどんな貧乏な家であれ、ヨ-ロッ
パの大都市ならどこでも見られるおどろおどろしさに見られるような心配などない。悪
臭に襲われたり、不潔さに嫌悪感をもよおしたりする心配もなく清潔である。貧乏な家
で水を1杯もらっても、綺麗に洗ってある陶器のカップが出される。日本人はどのよう
な階級であれ、ヨ-ロッパで食事をともにすることになっても、日本人は隣の人間の食
欲をなくさせるような振舞いはしない。このことは朝鮮とは雲泥の差であった。南山の
斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には人口ほぼ5千人の日本
人居留地がある。ここでは朝鮮的なものとは極めて対照的に、あくまで清潔で几帳面で
慎ましい商店街や家々が見られると記述されているのを見れば十分であろう。
4.外国人が両国で旅行するについては、民衆の好奇の目にさらされていた。しかし、民
衆の様子は異なっていた。日本では朝鮮と違い、一定の秩序が保たれ法を越えることは
なかった。
5.教育については、朝鮮では特権階級に独占され、中国の学問に始終しそう役に立って
いるとは思えなかった。特に女子教育は埒外に置かれていた。日本の寺子屋とは雲泥の
差だった。

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外国人の見た朝鮮と日本の比較(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月14日(金)19時07分56秒 ACCD0F9D.ipt.aol.com   返信・引用
6.朝鮮人の性格については、次のことが指摘されている。
〈1〉人々の歓待をあてにして、全く仕事をしないで寄食する者もいる。女乞食の組合
すら存在する(265頁)。
〈2〉談笑好きで非常に高い声で話すので、集会は物騒がしい。できるだけ高い声で
話すことが物腰が上品だとされる。朝鮮人が喧騒を好むのは先天的である。
〈3〉熱情的であるが、真心がない。これは自分自身を満足させるため手に届く対象には
何でも飛びつく動物的欲望、獣的本能によって理解される。
〈4〉子供(9、10歳まで)が裸で暮らし服装が乱れている。
〈5〉頑固である。
〈6〉気難しい。
〈7〉怒りっぽい。怒りが爆発して縊死したり投身自殺する。
〈8〉執念深く、復讐心に燃えている。
〈9〉軍隊は非常に弱く、重大な危険があれば武器を捨てて四方へ逃亡することしか考え
ない。これは訓練不足か組織の欠陥であろう。
〈10〉金を稼ぐためにあらゆる手段を使う。
〈11〉浪費癖がある。金を稼ぐのも早いが使ってしまうのはさらに早い。
〈12〉暴食である。
〈13〉朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀知らず、日本の同じ階級の女性のしとやかさや
清国の農婦の節度や親切心からはほど遠い。着ているものも汚れ放題である

日本人は、これと全く逆だった。例えば「復讐心」についても名誉を重んじることか
ら派生するものである。
なお、公平を期す意味で、朝鮮人の美徳について指摘されたものも挙げておく。ただ、
これは日本人にも十二分に備わっている。
〈1〉親族の結束が固い。
〈2〉近隣の人に互助精神が備わっている。
〈3〉客をもてなす精神に富む。
〈4〉忍耐強い。


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外国人の見た朝鮮と日本の比較(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月14日(金)19時06分32秒 ACCD0F9D.ipt.aol.com   返信・引用
7.漢城には芸術品は全くなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、行幸
というわずかな稀な例外を除いて見るべき催し物も劇場もない。他の都市にある魅力が
ことごとく欠けている。古い都であるというものの旧跡も図書館も文献もなく、寺院も
ない。朝鮮ではよほど探さなければ佛教の形跡はない。
8.朝鮮を訪問した者は少なく、したがって見聞録も少ないが、それにしても朝鮮の名所・
旧跡を伝えるものが見られないのはなぜだろうか。朝鮮には金剛山・妙香山など名所も
多い。これを訪問しなかったのは、そこへの交通路の整備がなかったのも大きな原因だ
と思われる。朝鮮の道路事情の悪かったことは多くの見聞が伝えられている。それと宿
泊施設・娯楽施設が整っていなかったことも大きい。さらに治安が悪かったのが決定的
だったと考えられる。
日本はこれとは全く違っていた。日本を訪問した外国人は東京の近辺には足しげく
通い、花や風景ばかりか料理を楽しんだ。もちろん追いはぎに会うなどという体験は
一度だって聞かれなかった。観光は景色だけでなくこういうものが整ってないと無理
というものだ。これは人々の道徳・余裕、文化に対する憧憬がなければ存在しない。
朝鮮のように民衆が食うや食わずでやっと糊口をしのいでいるのでは観光も無理で、
したがって施設の整備などは夢のまた夢だったのだろう。
日本と朝鮮では全く違った社会だったことがわかる。江戸時代にしても「お伊勢参り」
が農民・町人にも流行したのに対し、朝鮮ではそういうことは全くありえなかったので
ある。これの違いの理由は説明するまでもあるまい。


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月17日(月)21時14分54秒 ACCD1279.ipt.aol.com   返信・引用
>李氏朝鮮時代の朝鮮の人口(1)<

1.李氏朝鮮時代の朝鮮の人口
① 人口の調査方法
李氏朝鮮時代(以下朝鮮時代という)には、人口などを把握するため「戸籍帳籍」と
いうものが作られており、各戸ごとの申告書(戸口単宇)に基づいて3年毎に作成されて
いた。
申告の内容は、住所、戸主の職分、姓名、年齢、本貫(出自)、父、祖父、曽祖父、
母方の祖父の職分と姓名、妻の父、祖父、曽祖父、母方の祖父の職分と姓名、家族構成、
使用人、祖父の職分と姓名、妻の父、祖父、曽祖父、母方の祖父の職分と姓名、家族構成、
使用人、奴婢、である。
したがって、これを見れば人口がわかるようになっていた。
現存する朝鮮時代の「戸籍帳籍」は「山陰帳籍―1603 年、1630年」と「大邸帳籍―
1690 年-1849年」である。
ところで、これらは朝鮮の人口の一部で他の地域の「戸籍帳籍」が散逸しているため、
ため全体を推し量ることはできません。朝鮮の人口を把握するには朝鮮時代の王朝が編纂
した王朝史である「李朝実録」を丹念に拾ってゆくしかない。それが次のものです(「李朝
実録」には他の時代の人口も掲載されているが、紙面の都合で割愛した)。もちろん、朝王朝も3年毎に作成される「戸籍帳籍」に基づいて人口を算出している。
〈1〉 李氏朝鮮時代の朝鮮の人口
1636年     1、521、165人
1666年     4、107、156人
1690年     6、952、907人
1753年     7、298、735人
1837年     6、708、529人
1904年     5、928、802人


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月17日(月)21時12分59秒 ACCD1279.ipt.aol.com   返信・引用
>李氏朝鮮時代の朝鮮の人口(2)<

② 新しい研究
この朝鮮時代の人口が正しいかについては、疑問が投げかけられている。
この疑問については、特に朝鮮時代末期の人口と日本統治時代の初期の人口があまり
にも違うことから指摘されている。
例えば、1906年については980万人であるという見解があるが(韓国は日本人
が作った 「黄 文雄」徳間書店2002.4.30発行 による-出典不明)、これは当時の
大韓帝国(1897年に朝鮮から国号を変更)の警務顧問部の日本人の調査によるもの
と思われる(『朝鮮の人口研究』善生永助大正14年8月20日発行 朝鮮印刷―正確には
9、781、671人)。
ところが、その前年の同じ大韓帝国の内務部の調査では5、793、976人でした。
これについても、12、934、282人と(金 哲 韓国の人口と経済 岩波書店
1965年7月27日発行)とする考えもあり(出典不明)、錯綜している。
いずれにせよ、朝鮮時代(大韓帝国も含む)の人口調査は杜撰だったことが伺われる。
その理由としては、この時代の人口調査が軍役と課税のために行われていたために朝鮮
時代の苛政と相まって調査される側がごまかしたものと考えられている。


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月17日(月)21時11分48秒 ACCD1279.ipt.aol.com   返信・引用
>李氏朝鮮時代の朝鮮の人口(3)<

それでは、前記の朝鮮王朝による人口が全く信用できないかというと、信用できるという研究者がほとんどで(例 四方 博 李朝人口に関する一研究―朝鮮社会経済史研究(中) 昭和52年9月30日発行 国書刊行会(復刻版)、善生永助 朝鮮の人口研究
大正14年8月20日発行 朝鮮印刷)、信用できないという研究者も朝鮮時代の末期に限ってその信用性を否定している(例 金 哲 韓国の人口と経済 岩波書店 1965年7月
27日発行)。朝鮮時代の全てにわたって信用できないという研究者はいないようです。
「金 哲」は、1800年代から1600万人以上ではなかったかと推測している。
しかし、これも推測の域を出ない。
前記の人口から朝鮮時代の中期から末期にかけては人口が全く増えてないが、これは
研究者がこぞって王朝の苛斂誅求に原因があるとしている。特に末期の状態については
外国人の旅行者がその時代の状況を詳細に著わしている(例 『朝鮮奥地紀行』イザベラ
バード 平凡社、『朝鮮事情』ダレ 平凡社)。
なお、1636年の人口が1、521、165人ととても少ないのは、この時代は
「文禄・慶長の役」後の国内紊乱で人口の増加が見られないまま、この年には「丙子胡乱―清国の侵略」が起き、調査も充分に行われないことと相まってこのような結果となったものと考えられる。


李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月18日(火)19時54分25秒 ACCD5326.ipt.aol.com   返信・引用
>朝鮮の人口調査の実態(1)<

日本統治時代の初期の人口調査は毎年100万人以上の調査漏れがあったとされ、
あまり信用できないとされている(『韓国の人口増加の分析』石 南国 勁草書房
1972年)。当時は、戸口調査が行われ、巡査が一軒、一軒家庭を廻って聞取り調査
を行うという方法であり、したがって、世帯数はほぼ実数に近かったと言われている
(『朝鮮工業化の史的分析』堀 和生有斐閣 1995年)。
したがって、ここの産業別世帯も信頼できるものとされ、研究者の間で頻繁に
引用されている。単に人口が信用できないなどと言って、戸口調査の内容の全てを
切り捨ててしまうのは、愚の骨頂だろう。
戸口調査は巡査によって行われ、治安維持もあって、毎年行われた。住民の状況
は常に把握しており、府(市)、洞(街)、邑(町)、面(村)事務所も住民の状態
把握は現在の比ではないと考えられる。当時の朝鮮は日本の支配下にあり、住民の
動向は常に監視されていたと考えるのが普通であろう。したがって、朝鮮総督府の
総務局、警務局などは人口は正確・完全に把握していたと思う。
なお、当時の朝鮮総督府の警察官僚(高等文官試験合格者)については、『ある
朝鮮総督府警察官僚の回想』坪井幸生 草思社 2004年で、その住民監視の一端
を知ることができる。


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月18日(火)19時52分44秒 ACCD5326.ipt.aol.com   返信・引用
>朝鮮の人口調査の実態(2)<

1925年に、簡易国勢調査が行われ、以後、1930年、1935年、1940年
(いずれも10月1日)、1944年(5月1日)と国勢調査が行われ、正確な人口、
産業別人口が掌握されるようになった。戸口調査は従来どおり毎年行われた。

ここで、国勢調査の調査項目をみてみる。
調査項目        1925年  1930年  1935年  1940年
氏名または姓名       ★      ★      ★      ★
世帯における地位             ★             ★
男女の別          ★      ★      ★      ★
出生の年月日        ★      ★      ★      ★
配偶の関係         ★      ★      ★      ★
職 業                  ★             ★
出生地           ★      ★      ★      ★
民籍または国籍       ★      ★      ★      ★
常住地                         ★
読み書きの程度              ★


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月18日(火)19時50分19秒 ACCD5326.ipt.aol.com   返信・引用
>日本統治時代の朝鮮の人口(1)<

1、日本統治時代の朝鮮の人口
1910年    13、128、780人
1920年    16、916、078人
1930年    19、685、587人
1940年    22、954、563人
1944年    25、120、174人
※ これらの数には、満州などに移住した人の数は含まれておりません。したがって、1940年と1944年の朝鮮人の人口はこれより多いものと思われます。
なお、満州への人口移動の原因と実態については後に詳述いたします。
☆ 資料は、朝鮮総督府統計年表
日本統治時代の朝鮮の人口については、その信頼を疑う者は日本人・朝鮮人を含めて誰一人としていない。
この原因は、日本の善政にある。この理由については次に詳しく説明する。


李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月20日(木)20時56分11秒 ACCD29FA.ipt.aol.com   返信・引用
>日本統治時代の朝鮮の人口増加(1)<

1、日本統治時代の朝鮮の出生率と死亡率(単位 %)
1911年―1915年  出生率 26.34  死亡率 17.24  差増率  9.10
1916年―1920年  出生率 31.49  死亡率 24.73  差増率  6.76
1921年―1925年  出生率 36.32  死亡率 20.82  差増率 15.50
1926年―1930年  出生率 37.52  死亡率 21.58  差増率 15.94
1931年―1935年  出生率 30.93  死亡率 20.29  差増率 10.64
1936年―1940年  出生率 32.57  死亡率 18.37  差増率 14.20
1941年―1944年  出生率 35.38  死亡率 18.50  差増率 16.88

☆ 資料  朝鮮総督府 朝鮮人口動態統計
※ 出生率、死亡率とも各期間中の平均値
◎ なお、朝鮮における最高の出生率は、1942年の42.0%である。これは同年から
始まった「食料配給制度の実施」と関係がある(『韓国の人口と経済』金 哲
71頁
岩波書店 1965年7月27日発行 )。このように食料が行き渡れば人口が増加する
ことが証明されている。

★ 人口の増加率を正確に知るためには、国外に流出した人口も算出して計算するのが
正しい。これを自然増加率という。これについて判明したものを次に掲げる
(単位 %)。
ただし、推定値である。

1911年―1915年  10.02   台湾  11.2   日本  14.2
1916年―1920年   7.45   台湾   8.3   日本   9.5
1921年―1925年  17.06   台湾  17.1   日本  12.8
1926年―1930年  17.56   台湾  22.2   日本  14.2
1931年―1935年  20.77   台湾  24.8   日本  13.7
1936年―1940年  20.92   台湾  24.2   日本  13.5
1941年―1944年  25.76   台湾  24.2   日本   8.9

☆ 資料  台湾の統計  G・W・Baclay,op,cit,V1
日本の統計  内閣統計局「人口動態統計」

これを見てわかるように、人口の増加率は1925年までには日本と同じ水準に達し、
その後はこれを凌駕している。


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月20日(木)20時52分42秒 ACCD29FA.ipt.aol.com   返信・引用
>日本統治時代の朝鮮の人口増加(2)<

日本統治時代の朝鮮と台湾の出生粗率を挙げて、これをイギリスの植民地下にあったアジア諸国と比較してみたい。
「出生粗率」とは、再生産年齢(子供を生むことのできる年齢―15歳~49歳)が100人当たり何人出生するかという比率をいう。これに対して「出生率」とは、人口(男女、老幼を問わない)100人当たり何人出生するかという比率をいう。
朝鮮  台湾  インド セイロン マレー  ビルマ
1925年  42.8  42.8  33.0  38.5      28.5
1930年  42.4  45.0  33.5  40.6      24.3
1935年  42.4  46.0  34.0  37.8      27.6
1940年  42.2  45.4  33.8  35.6  40.2  32.1
1944年  41.2  42.1  29.1  36.6  39.4

☆ 資料  台湾の統計  G・W・Baclay,op,cit,V1
その他    金 哲『韓国の人口と経済』71頁 岩波書店 1965年
7月29日発行)
これを見てわかるとおり、「出生粗率」は日本統治下にあった朝鮮、台湾の方が遥かに良いことが読み取れる。理由はもちろん民生の安定である。

この朝鮮の人口を調査してみようとしたきっかけは、日本統治時代の朝鮮に始めて戸籍が整備されて人口の動態が判明したので、その時代だけ検証しても朝鮮の人口増加が起きたのかはわからない。さらに、李氏朝鮮時代にも人口が順調に増加していたので日本統治時代に人口増加したのはマヤカシだという見解、李氏朝鮮時代には人口調査も行われなかったという見解、李氏朝鮮時代には戸籍など存在していなかったという見解である。
これを論証したところ、人口は近代になると爆発的に増加するので、日本統治時代の朝鮮の人口増加は自然現象であると指摘した者がいた。
さらには、日本統治時代の朝鮮が貧しかったので、人が増えたという者もいた。そうであるなら北朝鮮は爆発的に人口が増えているはずだが、1990年から人口が増えていないという話もある(少なくとも爆発的に人口が増えてはいない)。これも全く考慮にいれる必要のない見解である。
世の中には色々な人がいて、根拠を示さずに自説を述べるので、これに反駁するために資料を漁るのも大変な労力が要る。「出生粗率」と「死亡粗率」を比較し、かつアジアのイギリスの植民地と対比して分析したのは自分が最初であると自負している。
日本統治時代の朝鮮の人口増加は自然現象などではなく、日本の善政であることは信じて違わないが、さらに調査してみたい。


李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月22日(土)10時55分10秒 ACCD0647.ipt.aol.com   返信・引用
>日本統治時代の朝鮮の人口増加(3)<

日本統治時代の朝鮮と台湾の死亡粗率を挙げて、これをイギリスの植民地下にあったアジア諸国と比較してみたい。
「死亡粗率」とは、再生産年齢(子供を生むことのできる年齢―15歳~49歳)が産んだ子供100人当たり何人死亡するかという比率をいう。これに対して「死亡率」とは、人口(男女、老幼を問わない)100人当たり何人死亡するかという比率をいう。
朝鮮  台湾  インド セイロン マレー  日本
1920年―1924年  25.7  25.0  26.8  28.9      22.0
1925年―1929年  25.5  22.1  24.3  24.9      19.4
1930年―1934年  21.6  21.2  23.7  22.4  21.5  17.9
1935年―1939年  21.4  20.6  22.6  24.5  20.8  17.3
1940年―1944年  18.9  18.5  22.6  19.7  20.1  16.1

☆ 資料  台湾の統計  G・W・Baclay,op,cit,V1
朝鮮の統計  金 哲『韓国の人口と経済』71頁 岩波書店 1965年
7月27日発行 )
日本の統計  内閣統計局『人口動態統計』
その他    アジア経済研究所『アジアの人口増加と経済発展』

先の「日本統治時代の朝鮮の人口増加(2)」の「出生粗率」と比較してみると、日本
統治時代の朝鮮、台湾の人口の増加がわかると思う。つまり、イギリスのアジア地域の
植民地と比べて「出生粗率」が高く、「死亡粗率」が低いから、人口が増加していることになる。これは日本の善政以外に理由が見出せないのである。
これを<自然増加>によるなどという者は研究が足りない。


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李氏朝鮮時代と日本統治時代の朝鮮の人口(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月22日(土)10時53分43秒 ACCD0647.ipt.aol.com   返信・引用
>日本統治時代の朝鮮の人口増加(4)<

ところで、最近では韓国の方が、「日本統治時代の朝鮮の人口増加」の実績を認め始めている。例えば、平成19年(2007年)8月15日の「東亜日報」(朝刊)の27面の記事だ。「1910年に1633万だった人口が1940年には2430万人と増加している。
これは経済事情が改善されたからであって、単なる「日本収奪論」だけでは説明できない」としている(洪 賛植 論説委員)。韓国ですらこうした<冷静>に「日本統治時代」を見つめ直そうとする者がいるのに、日本人および在日朝鮮人では全く存在しない。キット頭がオカシイのではなかろうか。
8月15日といえば、朝鮮では「光復節」であり、独立を勝ち取った大切な日である。これまでは、「反日」一色だったが、この日にこのような記事がしかも「東亜日報」で掲載されたのが極めて注目すべき事実である。「東亜日報」といえば「孫 基禎」がベルリンオリンピックで金メダルを獲得したときに胸の日章旗を塗りつぶして掲載したことで知られ、根っからの反日新聞である。こうした新聞で日本統治を評価する動きがあるのはとても嬉しい。


アジア・アフリカ植民地の教育制度(0) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月30日(日)12時36分52秒 ACCD536F.ipt.aol.com   返信・引用
日本政府および朝鮮総督府は、諸外国の植民地教育制度について調査のため教育専門家を派遣し、その成果を報告させた。派遣先はフランス、ドイツ、イタリア、イギリス、デンマ-ク、スエ-デン、ブラジル、アメリカ、フリッピンである。フリッピンを除く国は昭和3年〔1928年〕、フリッピンは大正6年〔1917年〕である。その報告書は現存しているものはフリッピンのみ(『比律賓教育年報』朝鮮総督府学務局 大正9年〔1920年〕9月〔国立公文書館アジア歴史資料センタ- レファレンスコ-ド A03034083400〕)であり、そのほかのものは現存してない。ただ、断片的なものは『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社 大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻所収)に残されている。これらを中心に諸外国の植民地教育制度を紹介したい。


アジア・アフリカ植民地の教育制度(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月30日(日)12時35分7秒 ACCD536F.ipt.aol.com   返信・引用
「日本統治暗黒論者」は、日本統治についていきなり「朝鮮統監府時代(明治38年
〔1905年〕~)」、「朝鮮総督府(明治43年〔1910年〕~)」から、始めて
「李氏朝鮮時代(1392年~)」のことを全く無視する。特に「江戸時代(1600年~)」との比較を論じることはない。このことはすでに「李氏朝鮮時代末期の農村社会および経済」などで厳しく批判してきた。
教育についても全く同じである。同時代(江戸時代など~)にはアジア・アフリカで
欧米列強により次々と植民地化されたことはよく知られたことであるが、ここでの「教育制度」を日本、朝鮮と比較したものはない。私が最初であろう。「日本統治暗黒論者」が
指摘しない理由はおわかりだと思う。説明するまでもない。
概略ではあるが、アジアの植民地下での「教育制度」を説明する。
1.インドの教育制度
① 概 略
インドは1780年にイギリスの植民地となったが(実際は1588年の「東インド
会社」から支配が始まった)、その教育の方針は〈1〉英語による教育 〈2〉東洋学の
排除 〈3〉特権階級中心の教育、の3つにあった。この方針は、1854年に総督「
グルハウゼ-」によってインド語(ヒンズ-語)修正されたが、ほぼその方針は堅持さ
れた。
② 学 制
1904年に総督「カ-ゾン」によって確立した。
〈1〉小学校
(1)学制
インド語による学校と英語による学校を分けて設置
(2)修学年限
6歳から就学 5年または6年
(3)授業時間
5時間ないし6時間
〈2〉中学校
(1)学制・目的
インド語のよる学校と英語による学校を分けて設置
下級官吏の養成が目的
(2)修学年限
〔1〕インド語による学校  3年
〔2〕英語による学校  中等科・高等科合わせて5年または6年
〈3〉大学
(1)カレッジ-一般的にはこれを大学という
〔1〕教育語  英語のみ
〔2〕修学年限
6年 2年ごとに試験があり、合格者が次の段階に進むことになっていた。
(2)ユニバスティ-
「学位」を与えることが目的で、教授を行わず、試験のみで「学位」を認定
する。
③ 評 価
〈1〉庶民教育が軽視され、特権階級のための教育が重視された。学童は2%以下で
あった。文盲率は94%。
〈2〉高等教育が中心で、大学は200、6万人の大学生、4万人の学位取得者がいた
とされる。女子大学は16あり、学生は1000余名いた。
〈3〉高等教育は文科(英文学)中心で、科学教育はほとんど行われてなかった。
〈4〉インドのカ-スト制度を改革できず、これが庶民教育に反映された。


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アジア・アフリカ植民地の教育制度(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年 9月30日(日)12時30分31秒 ACCD536F.ipt.aol.com   返信・引用
2.インドネシアの教育制度
① 概 略
インドネシアに対するオランダの支配は1602年の「東インド会社」始まった。その教育の方針は〈1〉現地語(マレ-語・中国語)とオランダ語による教育との分化 〈2〉
オランダ人中心教育 〈3〉学制の柔軟(現地人も学校を選択できた、の3つにあった。
② 学 制
〈1〉小学校
(1)学制
現地語による学校とオランダ語による学校を分けて設置
〔1〕現地語による学校
イ.1等小学校
6歳から就学(16歳まで就学可能) 6年 授業料を徴収
ロ.2等小学校
3年~5年 授業料を徴収
ハ.簡易小学校
3年 授業料を徴収
〔2〕オランダ語による学校
6歳から就学(16歳まで在学可能) 7年 授業料を徴収
〈2〉中学校
5年 男女共学 現地語による学校とオランダ語による学校とを分化
〈3〉大学
ない
〈4〉専門学校
現地人のために、師範学校、法官養成学校、医学校が設けられていた


アジア・アフリカ植民地の教育制度(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 2日(火)08時21分9秒 ACCD005A.ipt.aol.com   返信・引用
3.フリッピンの教育制度
① 概 略
〈1〉スペイン時代
スペインは1565年にフリッピンを植民地にしたが、教育を現地人に施すことが
現地人の向上をもたらすので、これを行わなかった。大学(「サントト-マス大学」
が1619年に創立されたが、国家が創立したものではない。教育はスペイン語で
行われた。
領有後200年経った1866年には、小学校が建立され、間もなく600校を
数えたが、その教育には熱心ではなかった。
〈2〉アメリカ時代
アメリカは1898年にフリッピンを米西戦争の勝利によって、スペインからフリッ
ピンを奪い植民地にしたが、スペインとは異なり教育を現地人に施すことを積極的に
行った。その教育方針の主要なものは、〈1〉現地人全員に初等教育(4年制)・中間学
校・中等学校を無償で行う 〈2〉英語による教育(初等教育から大学教育まで) 〈3〉実業教育(特に農業学校)奨励 〈4〉体育の奨励、の4つにあった。
この「体育の奨励」は他の植民地に見られない特徴で、健康増進を目的に全土におい
て実施され、兵式体操が盛んに取り入れられた。合わせて身体検査・歯牙検査も毎年行
われ、看護婦も配置され、学童の家庭を巡回して伝染病などの予防にも当たった。


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アジア・アフリカ植民地の教育制度(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 2日(火)08時19分18秒 ACCD005A.ipt.aol.com   返信・引用
② 学 制
〈1〉小学校
(1)学制
英語による学校のみ
(2)修学年限
当初は3年、後に4年、ただし2年制もあった。
※ 4年制 1154校 3年制 1831校 2年制 2435校
(1917年8月現在)
〈2〉中間学校
(1)学制
英語による学校のみ
(2)修学年限
3年
※日本の高等小学校にあたる。
(3)学 科
イ.本 科  ロ.家事家政科  ハ.商業科  ニ.師範科  ホ.農業科
〈3〉中等学校
4年
〈4〉師範学校
(1)学制
教員養成機関
※ 中等学校1年修了者
(2)修学年限
3年
〈4〉大学・専門学校
4年または5年
③ 評 価
〈1〉就学率は61%にもわたった(1919年現在)。
〈2〉実業教育が重視され、その効用を民衆に説いたことが教育の成功につながった。
〈3〉教育を無償にしたのが大きな効果を呼んだ。
〈4〉独立のための教育だと説いたが、実際は独立を認めなかった。


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アジア・アフリカ植民地の教育制度(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 2日(火)08時15分38秒 ACCD005A.ipt.aol.com   返信・引用
④ 成功の要因
〈1〉教育に当たる者の意識・レベルが高かった。
〈2〉教育の統括権を一箇所に集中して、これと視学官・教育者と連絡を密にした。
〈3〉教育を政治と分離して教育家に委ねた。
と分析しているが、最も大きな要因は〈4〉教育を無償にしたことにあり、加えて〈5〉
教師の待遇を良くしたことにあった、と考える。
⑤ 学校の内容
〈1〉学校数
フリッピン               朝  鮮
初等学校  中間学校  中等学校    計
1914年  3,913   278    44  4,235  1,726
1915年  3,938   311    42  4,291  1,656
1916年  4,143   351    44  4,538  1,583
1917年  4,288   368    46  4,702  1,438

※ 朝鮮は、朝鮮人学校(普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校、実業学校
簡易実業学校、各種学校)である(以下同じ)。毎年5月末現在 資料は『朝鮮諸
学校一覧(大正7年度版)』朝鮮総督府 学務局 大正8年1月4日(以下同じ)
フリッピンは毎年8月末現在

当時のフリッピンの人口は明らかではないが、朝鮮の方が多かったと思われる。それを
考えれば、フリッピンの学校数は驚異的である。ただ、朝鮮には「書堂」という朝鮮人専門教育機関がこの期間、2萬から2萬5千あったから単純には比較できない。


アジア・アフリカ植民地の教育制度(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 4日(木)07時48分36秒 ACCD06EA.ipt.aol.com   返信・引用
〈2〉 生徒数
フリッピン      朝  鮮
書 堂(3月末現在)
1914年    428,552    129,915  195,685
1915年    448,104    126,085  204,161
1916年    471,195    134,259  229,550
1917年    514,263    141,736  259,531

それにしても、フリッピンは多い。日本とほぼ同じくらいである。


〈3〉 卒業数
フリッピン      朝  鮮
初等学校       普通学校
1914年    15,976    25,449
(4.14%)   (39.2%)
1915年    19,629    26,532
(4.86%)   (37.5%)
1916年    22,071    30,602
(5.20%)   (35.0%)
1917年    28,576    33,949
(6.17%)   (23.8%)

※ フリッピンの初等学校在校生の数は不明であるが、先の初等学校、中間学校、中等
学校の数から見て、初等学校在校生はその90%くらいだったと思われるから、これ
を念頭において、0133〈2〉生徒数から推定して卒業率を算定した。

こうして見てみると、フリッピンの初等学校の卒業率は朝鮮に比べてかなり低く、支配者アメリカの努力にもかかわらず、実が上がってないことがわかる。ただ、教育不毛の地といわれたフリッピンをここまでにした実績は評価しなければならない。

※ 朝鮮の卒業率は、『植民地期朝鮮の教育とジェンダー』(世織書房 2005年5月
10日 65頁(「日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(31)」参照)
〔後に投稿〕


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アジア・アフリカ植民地の教育制度(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 4日(木)07時45分47秒 ACCD06EA.ipt.aol.com   返信・引用
〈4〉男女別数
フリッピン      朝  鮮
初等学校       初等学校
1917年  男子  323,835    367,231
(60.15%)  (95.59%)
女子  214,505     15,935
(39.85%)   ( 4.41%)

※ フリッピンは1917年8月現在、朝鮮は1917年5月現在
朝鮮の資料は前記 327頁(「日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史
(28)」参照)

フリッピンの女子の就学率の高さには驚かされる。ただ、フリッピンではそれまで朝鮮と異なり教育の機会に恵まれてなく、また朝鮮のように女子蔑視の風潮がなかったため、教育の機会が与えられると女子も殺到したものと考えられよう。

〈5〉 教員数
フリッピン         朝  鮮
初等学校          普通学校
1914年  フリッピン人   9,462  朝鮮人   6,048
(93.92%)      (87.85%)
アメリカ人      612  日本人     836
( 6.08%)      (12.15%)
1915年  フリッピン人  10,075  朝鮮人   5,025
(94.82%)      (84.89%)
アメリカ人      550  日本人     894
( 5.08%)      (15.11%)
1916年  フリッピン人  10,963  朝鮮人   4,916
(94.76%)      (83.29%)
アメリカ人      606  日本人     986
( 5.24%)      (16.71%)
1917年  フリッピン人  12,303  朝鮮人   4,579
(96.79%)      (80.90%)
アメリカ人      477  日本人   1,081
( 3.21%)      (19.10%)

※ 朝鮮の資料は『朝鮮諸学校一覧(大正7年度版)』朝鮮総督府 学務局 大正8年
1月4日 ただし、職員数

公教育での教員数は朝鮮を遥かに凌駕している。支配後に短期間で教員の養成をおこなったアメリカの底力を感じさせる。

アメリカがフリッピンを支配したのは1898年と日本の朝鮮支配とそう変わらない。しかし、短期間にこのように教育を充実させたのは世界で例を見ない。アメリカのフリッピン教育は英語でなされたといえ、成功だった。


アジア・アフリカ植民地の教育制度(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 6日(土)07時59分49秒 ACCD5CCB.ipt.aol.com   返信・引用
4.アルジェリアの教育制度

① 概 略
フランスがアルジェリアを植民地化したのは、1830年からである。その教育の方針は〈1〉フランス語による教育 〈2〉従来の現地人教育制度(モスク教育など)の是認
〈3〉宗教の教育への介入の排除、〈4〉在アルジェリアのフランス人には初等教育の義務教育化を図ったが、現地人には義務教育化を行わなかった(制度としての義務教育はあったが、強制はしなかった)、の4つにあった。
② 学 制
〈1〉小学校
(1)学制
フランス語による学校のみ
(2)修学年限
不明
〈2〉中学校
(1)学制・目的
フランス語による学校のみ
(2)修学年限
不明
〈3〉大学
③ 評 価
〈1〉宗教を教育から排除したため、イスラム教を信仰する民衆が初等教育を受ける
ことは稀で、就学率は1%であった。
〈2〉女子教育は現地人の意識もあって、振るわなかった。
〈3〉中等教育においては、現地人の入学はさらに振るわず、これはフランスの現地人
の教育を望まなかった、フランス人との接触を避けたともいわれている。
〈4〉高等教育(大学)については、現地人が進学することは稀であった。
〈5〉総じてフランスは現地人に対する教育には熱心ではなかった。


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アジア・アフリカ植民地の教育制度(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 6日(土)07時57分54秒 ACCD5CCB.ipt.aol.com   返信・引用
欧米列強の植民地教育の特徴を羅列すると次のようになろう。
1.本国語(支配国語)による教育が行われていなかった植民地は全く存在しなかった。
2.本国語(支配国語)のみによる教育が行われて植民地もあった(フリッピン、アル
ジェリア)。
3.現地語による教育が行われた植民地もあったが(インド、インドネシア)、本国語(
支配国語)教育と現地語教育は分化されていた。
4.高等教育は本国語(支配国語)による教育のみが行われ、これを習得しない者は進学
が無理だった。
5.現地人への教育に熱心な支配国家はフリッピンにおけるアメリカだけで、他は形式だ
けだった。これは教育が現地人の独立への高揚を恐れたものと考えられる。
6.現地人への教育には実業教育を奨励した支配国家も多く、それは有用な人材を確保し
て仕事を与え、民生を安定するためだったと思われる。
7.初等教育の義務化は行われなかった。

教育の普及率という面ではフリッピンにおけるアメリカが群を抜いている。日本統治時代の朝鮮・台湾などを遥かに凌駕している。教育への努力と無償教育が成功の鍵だったと
考える。

この植民地国家で行われた教育をシッカリと頭に入れておいたうえで、朝鮮・台湾などの日本による教育を理解されたい。

※ 『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社 大正12年
〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻所収)
『東南アジアの歴史』永積 昭 講談社現代新書 東洋史⑦ 昭和52年
〔1977年〕7月20日
『比律賓教育年報』朝鮮総督府学務局 大正9年〔1920年〕9月〔国立公文書館ア   ジア歴史資料センタ- レファレンスコ-ド A03034083400〕)


李氏朝鮮時代の教育の歴史(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 7日(日)21時41分49秒 ACCD15C7.ipt.aol.com   返信・引用
>初等教育-書堂<

李氏朝鮮時代の初等教育機関としては「書堂」があり、7.8歳より15・6歳
までの子供に対し漢文の教育を授け「郷校」または「四學」に入る準備をするもので
あった。
「書堂」は私設の機関であったが、代々の国王も初等教育を奨励し、李朝初代王「
太宗(李 成桂)」も1394年(太宗3年)に『8歳にして入学するは古の制なり。
今世子は8歳なれば宜しく日を擇びて入学せしむべし』として世子入学の礼を行った。
学科の内容であるが、第2代王「世宗」は四書五経を中心にすることを定め、それが
代々引き継がれていった。教科は儒教を中心にすえ、勉学は講読、暗誦、写字、漢詩
の作成が中心で、内容の理解は軽んじられた(ユン 前掲書 9頁)。また、日本の
江戸時代と異なるのは、思想の画一的統制が行われたことにある。佛教などは異端と
して徹底的に排斥された。老荘なども禁じられた。武道などは以ての外だった。
受講生の資格については私設機関であったため特に制限はなかったようであるが、
「書堂」は中等教育(「郷校」、「四学」)、高等教育(「太学」)と一貫した教育
のなかで位置づけられていたために実際は「両班」階級に限られていた。女子は排斥
された。
こうしたことから、江戸時代の「藩校」に似ていたともいえよう。これは江戸時代
初期から(拡がったのは元禄年間〔1688年~1704年〕)の藩士養成の学問・
武術の訓練機関である。当初は15歳から40歳くらいまでの藩士を対象としており、
それ以前の教育は家庭に委ねられていたが、次第に入学年齢を7.8歳まで下げて
いった。つまり中等教育機関から初等・中等教育機関に変貌していった。これは幼少
より一貫して教育を行った方が実益が多いという理由にあった。学問については朱子学
を中心に漢籍の素読と講釈を行う場合が多かった。ただし、朝鮮のように学科の内容が
厳しく制限されていたわけではなく、武術も必須科目だった。江戸時代後期になると
庶民の子弟も入学することを認めたものも出現した。女子は排除されていた。明治時代
初頭まで全国で255校あった。「寺子屋」、「手習い塾」は元禄年間に興きた庶民
の教育機関であり、道徳、生活習慣・知恵を中心に<読み書き算盤>を教えた。女子
も多く通っていた。江戸末期までに1万5千を数えていた。
実学、庶民、女子も教育から排除されなかったという点で「書堂」とは大きく異なる。
この3点が朝鮮と日本の民衆の教育水準とに格段の差を生んだのである。

※ 資料 朝鮮については『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月
30日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」
第27巻 龍渓書舎 1989年8月 に所収) 以下の稿
にも同じ所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育制度史』小田省吾 大正13年(1924年)
(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第27巻
龍渓書舎 1989年8月 に所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」
自由討論社 大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地
教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻 に所収)
『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会
1982年12月10日 以下の稿にも同じ

日本については『江戸の親子』大田素子 中央公論社(中公新書 118
8)1994年5月25日
『江戸の子育て』中江和恵 文藝春秋(文春新書 315)
2003年4月20日
★ 四書五経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C
老 荘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%8D%98%E6%80%9D%E6%83%B3


李氏朝鮮時代の教育の歴史(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月 9日(火)06時31分13秒 ACCD5325.ipt.aol.com   返信・引用
>中等教育-書院<

私立の教育機関である。李朝第11代王「中宗」時代の1542年(中宗36年)
に最初のものが創設された。
内容は「郷校」、「四學」と全く同じであったが、「郷校」、「四學」は定員が
あったためそれに入学できない者が集うところとなり、学問に勤しむという名目で
賦役・軍役を忌避する者が多く、第19代王「粛宗」時代の1717年(粛宗36年)
には定員が格式に応じて15名から30名と定められたが、効果が上がらず「書院」
が租税を免れたということもあって、これを一人で456も創設した者も現れ、
第21代王「英祖」時代の1741年(英祖17年)には「書院」を300有余
打ち壊したが、次の「正祖」時代(1777年~1801年)には650もあった
という。つまり、「郷校」、「四學」に入学できない無能が者が集まり、やがて
「郷校」、「四學」に苦労して入学するよりも「書院」にたむろしていた方が
特典も同じだったので、「郷校」、「四學」も徐々に衰退していった。「書院」
に集う者たちは無頼の輩となって飲食飲酒の宴を行い徒党を組み抗争を繰り広げ、
庶民に乱暴狼藉を働き、風紀を著しく紊乱させたことは当時の書物にも列挙の
暇がない(『増補 文献備考』、『宣祖實録』など)。
大院君(第26代王「高宗」の実父)は1871年、「書院」47を残し、その他
のものを廃した。
江戸時代には一部の藩校において抗争が生じたことはあったが、それが風俗の紊乱
を呼び起こし民衆に害を与えたことはなかった。朝鮮総督府が朝鮮人の学校を信用
せず、統制しようとしたのはこうした朝鮮の「書院」の状況を見たのかもしれない。
先の高橋濱吉も前掲書において『朝鮮には書院濫設の弊風に類したいろいろの弊風
が可なり多い。現在の教育機関においても、若し政府が充分に監督しないと同一
の轍を踏むのではないかと憂慮せらるゝ所誠に似た点が無いでもない』と述べて
いる。


李氏朝鮮時代の教育の歴史(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月10日(水)07時55分10秒 ACCD05FA.ipt.aol.com   返信・引用
>高等教育-太學(成均館)<

李朝初代王「太宗(李 成桂)」の時代の1398年(太宗7年)に、漢城に
置かれた高等教育機関が「成均館」である。これも祭祀を行うと同時に教育機関
としての意味を有していた。孔子を中心に四聖(顔子、子思、曾子、孟子)など
中国人38人、朝鮮人9人を祭っていたが、いずれも儒教に功績のあった者が
中心で朝鮮人は新羅以来文教に功績があった者であった。
定員は200名でいずれも「郷校」あるいは「四學」を経て、進士(科挙の6科
のうち最下層の試験〔四書五経〕に合格した者)、生員(同〔詩、賦、表、策
などの文章〕に合格した者)に限られた。
学科は、四書五経、詩、賦、表、策などの文章だったが、最重要とれたのは
祭祀であった。もちろん実学・武術はなかった。したがって、「書堂」、
「郷校」・「四學」の最高学府としての地位にあった。
学生(太學生)はさらに科挙の中級・上級試験に合格し、政府の官僚になる
ことを要請された。つまり「科挙」の最終試験に合格するための登竜門だった。
学生には「儒疎」といって学統、失政などがあったときは政府を弾劾する
権利が認められ「国の元気」として奨励されていたが、学生はこれをよいこと
にしばしば「空館(同盟休校)」、「捲堂(食堂に入らない-朝夕、食堂に
参集しないことは放校の対象となった)」、「空斎(寄宿舎から脱出すること)」
を行い、学内の風紀は紊乱した。つまり、国家の志とは異なり次第に教育の実
が上がらなくなっていった。


李氏朝鮮時代の教育の歴史(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月11日(木)23時57分38秒 ACCD00E0.ipt.aol.com   返信・引用
>日本の教育についての認識と教育改革(1)<

李朝も明治維新後の日本について情報を収集していた。1872年
(明治5年)~1875年(明治8年)北京に派遣した使節は『倭王なる者、
和同して経伝を毀棄し、邪教を専尚し、果ては衣服制度に至るまで洋夷と一様
なり』、『今日、洋と夷は変わることなし』(回遷進賀使の召見報告-1873
年)〔尹 前掲書 22頁〕と報告していた。
ところが、こうした蔑視が1876年(明治9年)2月日本との「江華島条約」
の締結という形で開国を迫られ、文明の遅れに衝撃を受けた。国王は日本側の
使節団訪日の要請に答えて「金 綺秀」を修信使として日本に派遣した。彼は
「日本には外国語学校を含む多くの学校があり、師範が尊重され、教師は勤勉で
あり、日本の社会の大計は教育にある。学校教育は士大夫子弟から人民の俊秀な
者に至るまで、7.8歳から書を教え文字を学ばせる。初めは日本字を教え、
次に漢字を教える。16歳になるとそれ以上経伝を教えず、大きくは天文地理、
測量学を、小さくは農器、軍器、図形の説を学び実習もする。女子もまた学校
に行き、大きくは天地兵農、小さくは詩文書画を学び、皆が一芸に専念する。
人を各国に派遣して学ばせ、各地で火輪船(蒸気船)、火輪車(汽車)を製造し、
貿易をできるだけ発展させ利益を得る。君臣上下が皆利を求め、富国強兵を先務
としている」(『修信使記』〔尹 前掲書 23頁〕)と述べ、1880年
(明治12年)に同じく修信使として日本に派遣された「金 弘集」も
「学ぶ必要があることにはすべて学校が設けられ、婦女子のみならず皇室・貴族の
子弟も学び、官民とも教育に力を尽くし、そこで学んだ者が産業の発展に参加する」
と述べている(『修信使記』〔尹 前掲書 24頁〕)。
こうした報告を受けて李朝政権は欧米各国との外交関係設定に踏み切ったが、
「衛正斥邪」論者は強硬にこれに反対した。しかし、政権はこれにひるまず日本に
「紳士遊覧団」として62名を派遣した。一行は分担して日本の政府機関、軍事
施設、造船所、製紙工場、造幣局、印刷局、紡績工場などの産業機関のほか、
博物館、病院、新聞社、天文台、各種学校などの教育文化施設などを4ヶ月に
わたって視察した。彼らは「福沢諭吉」と接触し、彼の学識に感銘を受け、
「兪 吉濬」、「柳 定秀」は予定外の慶応義塾に留学した。彼らの一部は
帰国後「開化派」として主導的立場に立つことになる。

★ 衛正斥邪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%AD%A3%E6%96%A5%E9%82%AA


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李氏朝鮮時代の教育の歴史(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月11日(木)23時53分22秒 ACCD00E0.ipt.aol.com   返信・引用
>日本の教育についての認識と教育改革(2)<

外国の事情を認識した者たち(「金 玉均」、「朴 泳孝」、「洪 英植」、
「兪 吉濬」、「徐 載弼」)らは政治的改革を意図して活動を行っていった。
彼らは「開化派」と呼ばれた。彼らの思想は大衆の大半を占めていた農民を主体
とする安定が国家の基本であり、その教育を放置することは社会混乱を引起こし
得る危険があるというものでった。しかし、政権は「両班」によって占められ
保守的思想を転換することは困難であるとともに「開化派」の人民教育思想は
支配階級の「両班」の存在を脅かしかねない危険なものであるとして採用される
ことはなかった。これに焦った「開化派」は1884年(明治17年)日本公使
「竹添進一郎」の協力の下にク-デタ-(「甲申政変」を起こし政権を奪取しよ
うとしたが、失敗し、惨殺・処刑・亡命せざるを得なかった。
「開化派」の試みは失敗に終わったが、日本を始めとする外国の情勢が伝え
られるにつれ<開化>の傾向を止めることはもはや不可能であった。
李朝の教育における開化は「英語学校」の設立によって始まった。これに
力を得たのが外国人宣教師で、続々と英語学校を設立していったが、彼らの
目的はキリスト教の布教にあった。その一つが1885年に設立された
「育英公院」であったが、授業は英語によって行われた。その他の英語学校
も似たりよったりで一般教育というよりも英語教育に力点が置かれていた。
政権による教育改革の機運の萌芽があったが、腐敗と混乱のなかで一向に
進まなかった。国内の衛正斥邪思想と東学運動(これも基本は衛正斥邪運動)
が一大抵抗勢力となっていた。なお、「東学運動」を民衆反権運動として
もてはやす者も多いが、近代・開化思想に反対した<旧守派>の最後のあがき
だったと考えるのが正しい評価である(尹 前掲書 77頁も同じような見解
を取る)。

★ 東学運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%8D%88%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1894a.htm
http://toron.pepper.jp/jp/20cf/nation/jisan.html


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李氏朝鮮時代の教育の歴史(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月11日(木)23時50分12秒 ACCD00E0.ipt.aol.com   返信・引用
>日本の教育についての認識と教育改革(3)<

1894年、日本によって後押しされた「開化派」は王宮を占拠し、大院君(国王
「高宗」の実父)を擁立し「金 弘集」を首班とする政権が発足した(「甲牛改革」)。
しかし、閔妃一族の反抗とそれに便乗したロシアの干渉によって失敗した。
彼らが掲げた教育改革は、漢文と国文(朝鮮語)の併用のほか、朝鮮社会を支配し
てきた門閥の貴賎、身分(両班、常民、奴婢)の差別制度の撤廃、門閥制度の根幹を
なしていた科挙の廃止と新任用制度(漢文重視から国文(朝鮮語)・一般教養重視
への転換)という画期的なものであり、後の「大韓帝國」(1897年)時代に
おける本格的教育改革の嚆矢となった(後記の「大韓帝國時代の教育の歴史」
参照)。
朝鮮人も独自に開化運動を展開した。それが1896年(明治29年)の
「独立協会」の設立であった。先の「徐 載弼」、「尹 致昊」、「李 商在」
らが中心となって「独立新聞」を発行して民衆の啓蒙に当たった。運動は
キリスト教信者が中核をなしアメリカ人宣教師の手を借りて欧米勢力に依存しよう
としたことは、次々に設立された地方支部のほとんどがキリスト教会であった
ことに如実に示されている。これは欧米キリスト宣教師の教育介入のいう面を
有していたことを忘れてはならない。事実、漢城駐在アメリカ公使「アレン」
は背後から熱心に「独立協会」を支援し、またアメリカ人宣教師、アメリカ
公使館員も「独立新聞」を支援していた(『開化期の韓米関係』F・H・ハリン
グトン 一潮閣 1973年〔尹 前掲書 124頁〕)。こうしたことから朝鮮内
の旧守派・儒生の猛反発を受け衰退していった。しかし、彼らの目指した教育
改革は開化、自主、独立の3つを基本原則に、男女の差別なく民衆の教育機会の
均等を訴えるもので、その果たした意義は決して小さくなかった。


科 挙(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月13日(土)16時03分51秒 ACCD007C.ipt.aol.com   返信・引用
科挙は官吏登用試験で中国(明・清)の制度を模倣したものである。
1.種類
① 文科  ② 武科  ③ 雑科(〔翻〕譯科、医科、陰陽科、〔法〕律科など)
2.文 科
〔受験資格〕
商工業者、男巫(芸能・霊媒・降神・占いを行う男性)、僧侶、奴婢、庶子、
女子を除く者とされたが、次第に家門が重視されるようになっていった。
〔試験内容〕
① 小科 「郷校」・「四學」で修学した者が、進士科(四書五経の試験)と生員科
(詩、賦、表、策などの文章試験)に別れ、初試(第一次試験)と覆試
(第二次試験)を受験 各合格者は「進士(定員 700名)」、「生員(
定員 700名)」となり、そのうち成績優秀者各100名が成均館で
学ぶ
② 大科 〈1〉初試(第一次試験)
(1)成均館で学んだ「進士」、「生員」のうち成績優等者 (2)漢城
に居住する儒学生 (3)全国(八道)に居住する儒学生が、初試(
第一次試験)を受験 (1)の合格者 50名 (2)の合格者 40
名、(3)の合格者 150名
〈2〉覆試(第二次試験)
合格者 33名
〈3〉殿試(最終試験) 王の面前での面接試験
(1)甲科(最優秀合格者) 3名 首席合格者は「従六品(壮士)」
その他は「正七品」
(2)乙科(次席合格者)  7名 「正八品」
(3)丙科(三席合格者) 23名 「正九品」
※ 覆試合格者は全員合格
〔試験実施期日〕
3年に1回 つまり、初試(第一次試験)と覆試(第二次試験)は3年に1回
行われた(殿試は覆試の年に行う)。
その他、大きな慶事があるときに行われる「増広試(別試ともいう)」、「庭試(
臨時試験-受験生を王宮の庭に集めて行う)」、「謁聖科(王が成均館の文廟で祭祀
を行うに際して実施する)」、「外方別科(平安道、咸鏡道など特別な地方で行う)」
など例外が多くあった。
〔試験科目〕
四書五経、詩・賦・表・策などの文章試験、中国史(諸史)など


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科 挙(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月13日(土)16時01分31秒 ACCD007C.ipt.aol.com   返信・引用
2.武 科
〔受験資格〕
文科と同じ
〔試験内容〕
① 大科 〈1〉初試(第一次試験)
(1)訓練院学生 (2)全国(八道)に居住する者が、初試(第一次
試験)を受験 (1)の合格者 70名 (2)の合格者 120名
〈2〉覆試(第二次試験)
合格者 28名
〈3〉殿試(最終試験) 王の面前での面接試験
(1)甲科(最優秀合格者) 3名 首席合格者は「従六品(壮士)」
その他は「正七品」
(2)乙科(次席合格者)  5名 「正八品」
(3)丙科(三席合格者) 20名 「正九品」
※ 覆試合格者は全員合格
★ 小科はなかった。
〔試験実施期日〕
3年に1回 つまり、初試(第一次試験)と覆試(第二次試験)は3年に1回
行われた(殿試は覆試の年に行う)。
その他、大きな慶事があるときに行われる「増広試(別試ともいう)」、「庭試(
臨時試験-受験生を王宮の庭に集めて行う)」、「春塘台試(王が昌徳宮に親臨して
実施する)」など例外が多くあった。
〔試験科目〕
① 武芸(弓術、騎槍) ② 経学 ③ 兵書
★ 経 学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%AD%A6


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科 挙(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月13日(土)16時00分0秒 ACCD007C.ipt.aol.com   返信・引用
3.雑 科
〔受験資格〕
文科と同じ
〔試験内容〕
① 大科 〈1〉初試(第一次試験)
(1)譯科  合格者 35名 (2)医科  合格者 18名
(3)陰陽科 合格者 18名 (3)律科  合格者 18名
〈2〉覆試(第二次試験)
(1)譯科  合格者 19名 (2)医科  合格者  9名
(3)陰陽科 合格者  9名 (3)律科  合格者  9名
〈3〉殿試(最終試験) 王の面前での面接試験
※ 覆試合格者は全員合格
★ 小科はなかった。
〔試験実施期日〕
3年に1回 つまり、初試(第一次試験)と覆試(第二次試験)は3年に1回
行われた(殿試は覆試の年に行う)。
その他、大きな慶事があるときに行われる「増広試(別試ともいう)」、「庭試(
臨時試験-受験生を王宮の庭に集めて行う)」、「外方別科(平安道、咸鏡道など
特別な地方で行う)」など例外が多くあった。
〔試験科目〕
各該当専門科目

なお、いずれの種類でも年を経るにつれ合格者の増加を生み、合格しても官吏に
登用されないという事態が生じた。

● 以上は主として『経国大典』(1485年〔第9代国王「成宗」16年〕)に
よった。なお、『経国大典』の復刻は朝鮮総督府の偉業である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%85%B8


科 挙(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月15日(月)08時09分19秒 ACCD4E1C.ipt.aol.com   返信・引用
科挙は本来は「官吏登用試験」であり、必要なものだったかもしれない。しかし、
日本では採用されなかった。それは「科挙」の弊害を見ていたのでなかろうか。そう
でないにしても採用しなかったのは賢明であったと言わざるを得ない。
科挙の弊害は次のものにあった。
1.人材の登用とは言っても、その資格には制限が付されており、特に時の身分制度
と相まって「両班」階級に独占されるようになって、登用の窓口が狭まれていった。
さらに問題だったのは、国の隅々まで国家の登用する官吏によって統制しようと
する発想の誤り気が付かなかったことにある。
日本でも藩政を司るのは武士階級に制限されていたが、民間の農政者が重用された
り、庄屋を中心とした自治組織が機能し権力側の武士階級もそれを認めていた。いや、
それに依存しなければ、収税も不可能で藩政そのものが成り立たなくなっていたので
ある。農民との軋轢から解任された藩士は跡を絶たなかった。江戸の町内にしても
町人の自治組織が確立しており支配階級の武士でさえそれにには簡単には介入できな
かった。例えば、江戸の生活を支えていたものの一つに「水道設備」があり、玉川
上水と神田上水が江戸の町を支えていた。玉川上水の管理を任されていたのが両玉川
家であり、これが1739年(文永4年)に罷免され、次いで神田上水を管理してい
た内田茂十郎も1770年(明和7年)に同じく罷免されている。彼らは水道管理
に関して水道料(水銀)を徴収する代わりに水道の補修を任されていたが、町名主
たちがその不明朗な資金の使い方に異議を唱え、水道の補修は入札によって行えば
水道料(水銀)が安く上がるのではないかとし、それが採用されるとともに管理者
(水元役)が罷免されたのである(『江戸三百年 ① 江戸の町人』西山松之助・
芳賀 登 講談社〔講談社現代新書〕1975年11月20日 178頁)。
国の隅々まで国家の官吏によって管理するという李王朝が破綻したのは無理も
なかったと思われる。


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科 挙(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月15日(月)08時07分48秒 ACCD4E1C.ipt.aol.com   返信・引用
2.登用する人材が極めて少数者であったため、登用されない有意の人材が世に放置
され、不満が高まりやがては「書院」などにたむろして無頼の輩になって風紀を
紊乱させ、国の安定を脅かした。
3.登用者に<実学>が軽視され、翻訳、陰陽、医学、法律と極めて範囲も狭く、
とうてい国の経済を支えるものとはならなかった。朝鮮にも実学の重視を説く者は
いた。その代表的な人物が「丁 若」(1762年~1836年)ある。彼は
西洋技術を取入れることにも熱心で「水原城=華城」の築城にも貢献した。しかし、
彼も「辛酉教獄(天主教団事件)〔1801年〕に巻き込まれて配流され、ついには
撲殺された。彼は『與猶堂全書』を著し、閭田制(村落単位で田畑を耕し労働力
に応じて収穫を配分する制度)を提唱した。また「柳 馨遠」(1622年~16
73年)も「水原城=華城」の築城に貢献したほか、全国図『輿地志』を作成した。
また公田制(人民に一定の田畑を与える制度)を提唱した。「李 瀷」(1681
年~1763年)も洋学研究に没頭し、百科全書ともいえる『星湖塞(正しくは
サンズイが付く)説』を著し、限田制(田畑の所有を一定面積に限定する制度)
を献策した。しかし、いずれも彼らの提言は採用されることはなかった。こうし
た言が政権に取入れたならば李氏朝鮮時代の経済もかなり変わっていたものと
思われる。
これに対し、江戸時代には幕府も各藩も競って実学者の登用を行い、経済の
振興をもたらした。例えば、国の経済を支える新田開発にしても土木技術者・河川
管理技術者が支配階級の武士階級からも登用され、広大な水田を獲得した(『徳川
吉宗』笠谷和比古 筑摩書房〔ちくま新書 044〕1995年9月20日)。財政
改革にしても下級旗本だった「萩原重秀」の重用(『勘定奉行 萩原重秀の生涯』
村井淳志 集英社〔集英社新書 0385D〕2007年3月21日)、同じく「新井
白石」の重用(同書、笠谷和比古の前掲書)、医師「林 重熈」などによる薬種
開発への登用(笠谷和比古の前掲書 175頁)。
朝鮮と日本の経済格差は人材登用の差もあって比較の対象にもならなかった。


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科 挙(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月15日(月)08時06分28秒 ACCD4E1C.ipt.aol.com   返信・引用
4.文科の試験内容が、儒学における字句の解釈に重点が置かれ、儒学そのものが
抽象的な学問に他ならなかったので、これを政治に生かすことなどとうていでき
ない相談であった。さらにそれの解釈をめぐって抗争が生じ、「士禍」に発展し
ていった。
5.儒学(朱子学)に限定され異学を認めなかったため、受験者の質も硬直化し、
合格して官吏に登用された者の間にも儒学(朱子学)の内容の解釈をめぐって
抜き差しならぬ抗争を生み「士禍」を生んだのである(これについては後述する)。
「士禍」は取るに足りないものについて凄まじい抗争であり、多くの官僚が「
賜薬(国王から毒薬を賜うもの-日本の切腹にあたる)」により命を失っていった。
つまり、政治を行うより政治抗争に明け暮れ国力が衰退していったのである。
一番の被害者は庶民だった。日本によって支配されたのは<むべなるかな>である。
5.科挙の硬直した制度は、教育にまで影響を及ぼした。先の「李氏朝鮮時代の教育
の歴史」で説明したとおり、教育機関は「科挙」を前提に設置されていたと言って
も過言ではなかったため、初等教育から高等教育まで儒学一辺倒の学科に拘束され、
しかも、それが最終的には「科挙」の合格にあったため、いわゆる落ちこぼれは
社会から阻害される結果となり、「書院」などにたむろして国情を著しく混乱に陥れ
たのである。

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本
植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収)


士 禍(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月17日(水)05時16分30秒 ACCD44A2.ipt.aol.com   返信・引用
『李朝の文化を堕落せしめたのは私党の暗闘、抗争、排擠である。李朝五百年の
歴史をひもとく者で徒党を組み嫉視、軋轢の絶えないことに驚かない者はいない』(
高橋濱吉 前掲書 86頁)
李朝時代の主だった「士禍」を見てみたい。
1.戊午士禍
1498年「燕山君(国王だったが廃された)」(燕山君4年)のとき、先王の
第9代王「成宗」が重用した「士林派(新進官僚-在地両班」を排除しようと
する「勲旧派(既成官僚-中央在地両班)」の諫言により「士林派」に「賜薬」を
行い、「金 宗直」ら多数の者を死に至らしめ、あるいは追放した。
2.甲子士禍
1504年「燕山君(国王だったが簒奪された)」(燕山君10年)のとき、生母
「ユン」氏が先王の第9代王「成宗」が重用した「士林派」によって「賜薬」を
されたと思い、「韓 明澮」ら「士林派」の官僚数十人を殺戮、流刑、罷免し、
すでに死んだ者は墓を暴いて骨を河に投げ捨てた。
3.己卯士禍
「燕山君」の王位簒奪の後を受けて「中宗」が第11代国王に即位したが、今度は
「士林派」を重用した。その首領「趙 光祖」が限田制(土地所有を一定の面積に
制限するもの)を導入しようとして「勲旧派」に讒訴されて「賜薬」、その他の「
士林派」74名も流刑・免職された。
4.乙巳士禍
第13代国王「明宗」の元年(1545年)、「明宗」の即位に反対したとして
「柳 仁淑」ら「士林派」100名を殺害・流刑に処した。


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士 禍(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月17日(水)05時14分53秒 ACCD44A2.ipt.aol.com   返信・引用
「士禍」は、士林派(新進官僚-在地両班」と「勲旧派(既成官僚-中央在地両班)」
の対立で、それはそれぞれの経済基盤による対立であったが、「朋党」という単なる
感情のもつれに端を発する抗争が起こった。
第12代王「明宗」の時代(在位 1545年~1567年)のとき、「沈 義謙」
が「金 孝元」が学識を有していたことを妬み「書堂」で無職の子弟と起居を共にし
ていたことを誹謗した。「金 孝元」はやがて「科挙」に優等で合格し、第13代王
「宣祖」の時代(在位 1567年~1608年)に重用されるに至った。「金 孝元」
は先の「沈 義謙」の誹謗を根に持ち、互いに集まる朋友が批判合戦を繰り広げ、
対立は「東人」と「西人」と称された。これは「金 孝元」が漢城の東部「乾川洞」に
「沈 義謙」が漢城の西部「貞陵洞」に住居があったことによる。
「東人」派は「宣祖」12年(1578年)ころから隆盛を誇ったが、やがてこれも
「南人」と「北人」に分かれて抗争が始まった。これも代表的人物の住居の場所による。
「南人」派は「宣祖」25年(1591年)ころから権力を掌握するに至った。当時
は豊臣秀吉による「文禄の役(朝鮮では「壬申倭乱」)-1592年」が起き、「宣祖」
は漢城を捨てて北の「義州」に落ち延びた。「宣祖」もこの抗争を嘆いて『痛哭関山月
傷心鴨水風 朝臣今日後 寧復各東西』と詠んで抗争を諌めた。このときは戦乱も
あって党争は一時納まった。やがて豊臣秀吉による「慶長の役(朝鮮では「丁酉再乱」)-1597年」も終わった。ところが国家の再建もままならない「宣祖」31年(
1597年)「南人」派の巨頭「柳 成龍」が「北人」派により失脚するや翌年、今度は
「北人」派が「洪 汝淳」と「南 以恭」が争い、それぞれ「大北」派と「小北」派
とに別れて抗争が続いた。国家の再建よりも<党争>だったのである。


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士 禍(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月17日(水)05時13分43秒 ACCD44A2.ipt.aol.com   返信・引用
「大北」派は「宣祖」40年(1606年)、「宣祖」の世嗣をめぐって「小北」派
に取って代わられた。1608年「光海君(国王だったが廃された)」が即位するや
「大北」派を重用し「小北」派を追放し、さらに対立していた「西人」派を支持して
いた弟「臨海君(文禄の役の折、加藤清正に捕囚となった)」を謀殺した。「西人」派
は「光海君」の暴政を糾弾し、これを廃した。
「朋党」の系譜を整理してみる。
1.東人
① 南人
② 北人 (1)大北
(2)小北
※ 北人は(1)、(2)も含め、〈1〉中北 〈2〉骨北 〈3〉肉北
〈4〉濁北 〈5〉清北 などに分列
2. 西人
① 老論
② 少論
※ 西人は(1)、(2)も含め、〈1〉湖西 〈2〉漢西 〈3〉ユン西
〈4〉申西 〈5〉清西 〈6〉功西
〈7〉老西 〈8〉少西 などに分列

「朋党」の抗争は留まるところを知らず、日本統治時代まで続いた。この間の
事情はあまりに馬鹿馬鹿しいので省略させていただく。
朝鮮の抗争は、現在の韓国の政治状況を見ればすぐに理解されよう。朝鮮の歴史
のなかで、「党争」が休止したのは<日本統治時代>のみだったのと考える。
「党争」は朝鮮人特有の習性で未来永劫になくなることはないと思う。
現在の「全羅道」と「慶尚道」の対立、「平安道」と「咸鏡道」との対立、「平安道」
と「咸鏡道」を含む<北>と「全羅道」と「慶尚道」を含む<南>との対立、が止む
ところを見ないのは、この辺の事情を物語っている。

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本
植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収)


大韓帝國時代の教育の歴史(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月22日(月)22時39分6秒 ACCD7AB8.ipt.aol.com   返信・引用
日清戦争の勝利によって日本が勝利すると朝鮮は中国の数千年にわたるくびきから
逃れることができ、独立を宣言し1897年「大韓帝國」が建国した。
李王朝は「大韓帝國」の建国に先立つ日本の日清戦争の勝利の年の1895年(明治
28年)に国家の礎は教育にありと考え、教育立国の大方針を宣言した。そして、それ
とともに「小学校令」を公布し、次のとおり学制の改革を行った。
1.小学校(初等教育)
① 種類         官立 公立 私立
② 編成・修業年限    尋常科(3年) 高等科(2年または3年)
③ 教科目 尋常科    修身 読書 作文 習字 算術 体操
※ 体操に変えて学部大臣の許可を得て韓国地理、
韓国語、図画、外国語を加えることができる
高等科    修身 読書 作文 習字 算術 体操 韓国地理
韓国語、図画、外国地理 理科
※ 女児は裁縫を加えることができる
④ 学齢         満8歳より満15歳
3.中学校(中等教育)
① 種類         規定なし
② 編成・修業年限    尋常科(4年) 高等科(3年)
③ 教科目        学部大臣が定める
④ 学齢         規定なし
4.外国語学校(特別教育)
① 種類         規定なし
② 編成・修業年限    日語・漢語(3年) 仏語・独語・露語(5年)
③ 教科目        当該外国語 漢文(読書・作文) 韓国歴史 韓国地理
④ 学齢         満15歳より満23歳
※ 入学は年2回(春・秋)
5.成均館(高等教育)
① 編成・修業年限    3年
② 教科目        三経・四書・諺解(朝鮮語) 中国史(宋・元・明・清)
作文 韓国歴史・地理 世界歴史・地理 算術
③ 学齢         満20歳より満40歳

小学校は、数も少なく、実態は何ら「書堂」と変わることがなかった(前記『朝鮮
教育要覧』大正15年版 9頁)、中学校も高等科の設置は規程では定めされていた
が、実際には設置されず、設備も不完全だった(前掲書 同頁)。

★ 大韓帝國とは、1897年~1910年までをいう。李朝の延長で皇帝も李朝
第26代国王「高宗」(在位 1863年~1897年)が就任した(皇帝在位
は1907年~1907年)

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本
植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収) 以下同じ
『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会1982年12月
10日 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育制度史』小田省吾 大正13年(1924年)(「日本植民地教育
政策史料集成(朝鮮篇)」第27巻 龍渓書舎 1989年8月 に所収)
以下の稿にも同じ
『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社
大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」        第2 6巻に所収) 以下の稿にも同じ
『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』佐野道夫 社会評論社
2006年2月25日 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育要覧』大正15年版 朝鮮総督府学務局 自由討論社
大正15年〔1925年〕7月5日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)         第3巻に所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育要覧』昭和4年版 朝鮮総督府学務局 自由討論社 昭和3年
〔1928年〕12月30日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」
第3巻に所収) 以下の稿にも同じ


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大韓帝國時代の教育の歴史(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月22日(月)22時31分16秒 ACCD7AB8.ipt.aol.com   返信・引用
6.師範学校(特別教育-教官養成機関)
① 種類         漢城師範学校
② 編成・修業年限    本科(2年-後に4年に変更) 速成科(6ヶ月)
③ 教科目        学部大臣が定める
④ 学齢         20歳以上25歳以下
7.医学校(特別教育)
① 編成・修業年限    3年
8.農工商学校(特別教育)
① 種類         商業科(善隣商業学校) 工業科(京城工業伝習所)
農科(水原農林学校)
② 編成・修業年限    予科(1年) 本科(3年)
③ 教科目        学部大臣が定める
④ 学齢         規定なし

師範学校は規模が小さく、教員の数も少なく、とうてい目的を達することはでき
なかった(前記『朝鮮教育要覧』大正15年版 9頁)

これを見てもわかるとおり、日本の学生の模倣だった。李氏朝鮮時代の教育の紊乱
を考えるときは、一片の法律だけでは教育が振興するはずもなかった。唯一、効果が
あったのは「外国語学校」だった。なお「書堂」はそのまま維持された。


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大韓帝國時代の教育の歴史(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月22日(月)22時29分41秒 ACCD7AB8.ipt.aol.com   返信・引用
大韓帝國よる教育が上手くいったというと実際はその反対だった。小学校は全国で
300余校を予定していたが、1897年9月現在で8校、生徒数は400~500
名に過ぎず(「独立新聞」1897年9月21日 雑報)、翌年7月現在でも9校、生徒数
838名とたいして増加してない(「独立新聞」1898年7月6日 論説)。1904年
になっても35校(漢城に10校)、私立学校も同じくらいにしか増加してない。生徒
数も官立が各校50名~130名、公立・私立では20名~30名だった。学校設備も
不完全極まりなく、すべて在来の家屋を補修・転用したもので、高等小学校ですら教室
は2,3、配置、採光、通風は全く考慮に入れられてなかった(「韓国の教育に就いて」
幣原 担[韓国学政参与官]〔『韓半島』 第2号 東京堂書店 1904年1月 6頁〕。
予算は少なく、公立学校は1校につき1教員の単級組織であった。したがって、初等
教育は従来の「書堂」に委ねられていた。小学校教員の養成機関である師範学校も漢城
に「官立漢城師範学校」が置かれ、本科(修業年限 2年)は100名(入学資格年齢
22歳~25歳)、速成科(修業年限 6ヶ月)は60名(入学資格年齢 25歳~35歳)が定員だったが、1897年11月現在で30名(『協成会会報』1898年1月8日)、
1900年5月現在でも30名(『韓半島』信夫淳平 東京堂書店 1901年 689頁)
で、卒業生は第1回 28名、第2回 41名、第3回 44名、第4回 26名で教員
の養成は遅々として進まなかった。、女学校も設置されなかった。
先のとおり「外国語学校」だけは文明開化の風潮もあって盛んだった。入学者は通訳
を目指す者が多く、時代の波を敏感に受け、英語学校と日本語学校に人気が集まった。

大韓帝國時代の教育の歴史(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月25日(木)20時36分39秒 ACCD5CB9.ipt.aol.com   返信・引用
大韓帝國による教育改革の失敗について、「尹 健次」は前掲書(251頁)で次の
ように述べている。
1.入学者の身分差別
教育改革は両班支配層によって推進されたが、その目的は旧体制の変革ではなく、
あくまでその再編強化であった。政権は教育の機会均等を標榜したが、実際は両班
階級を中心に中人に止まり、下層階級の入学を政策的に支援する具体的措置が講じら
れたことは全くなかった。
2.近代教育の中心をなす新学問導入の不振
政府は外国文献を研究し系統的に翻訳・出版する事業を活発に展開することなく、
漢学中心の教育から脱皮できなかった。
3.留学派遣事業の失敗
日本と異なり留学生を世界先進国に派遣することはなかった。そればかりか清、
日本、ロシアの顔色を見てその時々で派遣国を変えるなど日和見主義に始終し、一貫
した政策が取れなかった。
4.財政的保障の欠如
政府は元々財政的に逼迫しており、教育予算も1896年(建国初年度)で総歳出
学の2.0%、1900年でも2.6%に過ぎず、そのうち官立学校・外国語学校
などに充てられる「学校費」はその教育予算の54%を占めていたが、その半分近く
が外国語学校予算が占め、初等教育である小学校はかずかであった。日本での同時代
は国家予算の半分を教育予算が占めていた(下記HP参照)のと大きな違いだった。

http://www.riihe.jp/arcadia/arcadia158.html


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大韓帝國時代の教育の歴史(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月25日(木)20時35分12秒 ACCD5CB9.ipt.aol.com   返信・引用
5.官吏任用制度の不公正な運用
官吏任用制度の公正な運用は、近代教育の成果を国家施策に反映させるだけでなく、
青年学徒の勉学意欲を刺激することによる学校による教育を発展させるものである。
しかし、官吏登用は縁故主義がまかり通り勉学する学徒の勉学意欲を削ぐものとなり、
学校教育の発展を阻害したのである。
6.書堂を中心とする旧教育機関の転用の失敗
近代開化思想を推進する意欲に欠け、特に地方の書堂の儒学一辺倒の改革が省みら
れることがなかった。日本が寺子屋、私塾の再編成に成功したのとは大きく異なって
いた。このことは単なる教育制度の遅れに止まらず、近代的人材の育成・登用が遅れ
国家の衰退を招いた。朝鮮が清、ロシア、日本、イギリス、アメリカなどの世界列強
の支配に屈したのは無理もなかった。
7.外国列強の支援に依存した事大主義的教育政策
政権が独自の教育方針を打ち出さないまま各国の教師を招聘したことは、近代の
正常な発展を阻害した。さらにキリスト教宣教師による私立学校、日本語学校の設立
は国内の旧守派の反発を招きかえって教育の混乱を招いた。

こうして大韓帝國による「教育改革」は惨憺たる失敗に終わった。結局「教育改革」
は日本の助力なくしては達成されなかった。これを以て<日本の教育侵略>などという
者がいるが(「佐藤由美」、「尹 健次」など)、彼らに聞きたい。果たして朝鮮は
<独自>な教育改革が可能であったか。元々外国列強に対抗できる教育などという
ものが朝鮮に存在していたのか


朝鮮統監府時代の教育の歴史(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月27日(土)09時33分31秒 ACCD4E73.ipt.aol.com   返信・引用
明治37年(1904年)の「日韓協約」の締結により、「目賀田種太郎」が財政
顧問に、「幣原 担」が学部参与官として就任した(彼の業績については佐藤由美の
後掲書 20頁に詳しい)。明治39年(1906年)には「朝鮮統監府」が設置
され「伊藤博文」が統監に就任し、「俵 孫一」彼の業績についても佐藤由美の後掲書
65頁に詳しい)が書記官として大韓帝國時代の大臣を補佐して教育改革に当たった
(日本統治はこの年に始まったと考えてよい)。なお、「朝鮮統監府」は日本銀行より
500万円を借受け教育改革に投入した。李氏王朝および大韓帝國は全く資金が
なかったのである(佐藤由美の後掲書 80頁)。先の大韓帝國による教育改革は資金
不足で進行してなかったことが見て取れる。
教育には日本から日本人教員を呼び寄せこれに当たらせたが、明治40年(190
7年「朝鮮統監府」に日本人教員を前に訓示を行ったが、そのなかで興味深いものが
見受けられる。これを説明したい。
1.教育の実績を挙げるには、父兄の信頼を得ることが第一である。韓国にも教育と
いうものがなかったわけではない。支那の文化を輸入して仁義礼智忠信孝悌の道は
備わっている。諸君が普通教育を普及するにあたってはこの旧来の風習を軽んじて
はならない。
2.教育の効果は一朝一夕で得られるものではない。韓国では普通教育の何たるかを
理解してない者が多いから、保母が幼稚園の子供を扱うように根気よく丁寧に教育
しなければならない。
3.韓国人は決して文明に進む素養がないわけではない。諸君が充分に熱誠を以て教導
すれば円満なる効果が得られる。
4.特に注意したいのは教師たる者は政治・宗教に批判を加えてはならないことである。
韓国では外国人宣教師が布教のほか教育も行っている。宗教の自由は保障されてい
のであるから、この是非について批評してはならない。
5.教育に際して必要なものは言語である。韓国語を学ぶことを忘れてはならない。
6.韓国に根付いている風俗・習慣は幾百数千の間に成立したもので一朝一夕で改変
できるものではないから、これを軽率に非難しまたは急激に改変しようとしてはなら
ない。
韓国の実情を尊重した心にくいばかりの配慮を行ったことがわかる。「安 重根」が
彼を暗殺しなかったならば、韓国もかなり変わっていたと思う。

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本
植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収) 以下同じ
『植民地教育政策の研究-朝鮮・1905年-1911年』佐藤由美
龍渓書舎 2000年2月25日 以下同じ
『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会1982年12月
10日 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育制度史』小田省吾 大正13年(1924年)(「日本植民地教育
政策史料集成(朝鮮篇)」第27巻 龍渓書舎 1989年8月 に所収)
以下の稿にも同じ
『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社 大正12年
〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻 に
所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育問題管見』大野謙一 朝鮮教育会 昭和11年〔1937年〕9月1日
(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第28巻 に所収) 以下の稿
にも同じ


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月27日(土)09時31分47秒 ACCD4E73.ipt.aol.com   返信・引用
韓国の学部大臣は「李 完用」が就任した。彼が明治41年(1908年)7月15
日からの学校教監・訓導を召集した際に日本人教監に対して教育方針を述べているが、
その大要は次のとおりである。
1.官公立普通学校は57しかなくなお10倍の増設が必要である。ただ私立学校が
1000あるのでこれを以て補充しなければならないが、この両者の調和に欠ける
ところがあるので調和を図らなければならない。
2.教育の振興においていたずらに先進国を模倣することは遺憾である。例えば、辮髪
を強い、制服を強要し、ラッパを吹いて鐘鼓を鳴らして教育への勧誘を行い、大規模
な運動会を催して数日もしくは十数日の授業を放棄することは止めるべきである。
政府はシャカリキになって学校への入学を促していたことがわかる。そして日本式
の運動会が流行して頻繁に開かれ、政府もこれを春・秋の2回に制限した。それほど
運動会が韓国人の心を捕らえたことがうかがえる。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月27日(土)09時30分6秒 ACCD4E73.ipt.aol.com   返信・引用
1.初等教育(普通学校―従来の小学校の名称を変更-1906年の「普通学校令」の
公布)
① 年限     4年   入学年齢 8歳以上12歳以下
② 種類     官立(1906年)      9
同 (1910年)      1
公立(1906年)     13
同 (1910年)     59
補助指定(1906年)    0
同(1910年)      41
合計  1906年   22
1910年  101

※ 補助指定学校とは、私立普通学校のことをいい、日本人教官1名、朝鮮人教官
1名ないし2名を補助(援助―資金負担)したものをいう。

つまり、大韓帝國時代において、朝鮮人の手になる官立・公立小学校が22にも
満たなかったものが、日本からの資金援助を受けて朝鮮統監府指導の下に約4.6倍
にも増加している。

③ 修学者    男女の区別なし、ただ、女子を受け入れる普通学校は全国に数十
校に過ぎなかった。
★ この点が李氏朝鮮時代の初等教育(書堂)と異なっていた
④ 教科     修身、国語、漢文、日本語、算術、歴史・地理、理科、図画、
体操、手芸(女子のみ)、唱歌、手工、農業、商業

※ 教科書の教科については、佐藤の前掲書 93頁に詳しい。


朝鮮統監府時代の教育の歴史(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月31日(水)21時12分36秒 ACCD4E57.ipt.aol.com   返信・引用
⑤ 教科書    最初は無料配布 後に貸与(佐藤の前掲書 111頁を参照)
● 教科書編纂についての論議
1.地理・歴史教育について特別な教科書を編纂すべきか。
英・独などでは普通教育(小学校-4年)では地理・歴史教育を行っておらず、
日本でも義務教育を6年に延長したことにより始めて地理・歴史教育を行ったが
(4年制の時代は修身、国語、算術、体操、唱歌の5科目であった)、教科書は
極めて簡略であった。論議の結果、地理・歴史教育を行うが、特別な教科書を
纂せず国語教科書のなかに挿入することとした。なお、理科も3.4年生で教授
することとした。
この点で、韓国の教育はかなり先進的だったといえよう。
2.日本語を初年級から教授すべきか。
日本人の韓国への往来が非常に多く商売も盛んである。こうした事情の下では
韓国人が日本語を知らないことは不利益をもたらすので、日本語を初年級から
教授すべきである。
3.漢文読本は難しいので教育から省くべきか。
漢文は世界において最も難しい国語であるが、韓国では長年、学問といえば漢文
を学ぶこと、教育といえば漢文を教えることだったので、これを初等教育から省く
わけにはいかない。
● 教科書検定
教科書について検定制度を設けたが、その結果(全教科について、1910年〔
明治43年〕5月現在)は次のとおりである。
1.出願件数   117件
2.認可件数    55件
3.不認可件数   18件
4.調査中     44件
ただ、認可を受けない教科書の全てが使用できないわけではなく、私立学校に
おいては、学部大臣の認可を受ければ使用することができた。その結果は次のとお
りである。
1.出願件数   414件
2.認可件数   356件
3.不認可件数   58件

※ 教科書の編纂過程および頒布については、佐藤の前掲書 102頁に詳しい。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月31日(水)21時11分13秒 ACCD4E57.ipt.aol.com   返信・引用
⑥ 児童数の推移     官立(1906年)     1,061
同 (1910年)       263
公立(1906年)       861
同 (1910年)    12,469
補助指定(1906年)       0
補助指定(1910年)   4,214
合計  1906年   1,924
1910年  16,946

4年間で生徒数が約8.8倍にも増加している。教育の実は上がったと考えられる。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年10月31日(水)21時10分3秒 ACCD4E57.ipt.aol.com   返信・引用
⑦ 日本人教監から見た朝鮮人児童の評価
<1> 品性行為
〈1〉長 所
イ.個人的資質
a.教師を尊敬する        c.お辞儀をする
b.話すのが上手い        d.運動が好き
ロ.家族的資質
a.長幼の序を重んじる      b.柔順である
ハ.社会的資質
a.柔順である
〈2〉短 所
イ.心的能力
a.衛生思想に乏しい       c.お辞儀をする
b.実行力がない         d.運動が好き
ロ.品 性
a.怠惰である          f.公徳心がない
b.共同心に乏しい        g.貯蓄心がない
c.不誠実である         h.同情心がない
d.嘘をつく           i.野卑である
e.依頼心に富む
<2> 動 作
a.規律がない          f.粗暴である
b.見栄を張る          g.破廉恥である
c.忍耐力がない         h.飲食・喫煙をする
d.嘘をつく           i.活発でない
e.議論が好き

上位からいくつかを挙げたが、拙稿「在日朝鮮人のための韓国講座」そのままで
ある。
朝鮮人の性格・品性はこの100年も全く変わってないことが確認できた。拙稿
に自信を持った次第である。
それはともかく、日本人教員はさぞかし朝鮮人の教育に戸惑い、苦闘したことで
あろう。
このことは「日本統治時代」も同じだったと思われる


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 2日(金)19時53分52秒 ACCD1DB1.ipt.aol.com   返信・引用
日本が教育に携わっても朝鮮の教育に関する<悪弊>はそう簡単には直る
ものではなかった。京城の学校の有様について『学利上年齢は制限されは
いるが、それでは定員が得られるので、志望者は何才でも入学を許可する。
すると20才を越えた者で妻子のある者が沢山入学する。既婚者特有の冠を
戴いてくる。半島では既婚者が未婚者から尊敬されると同時に、既婚者は
未婚者を軽視しする。また、父兄は教授時数が不足であるとて反対する。
在来の教育機関である書堂では、朝から夕まで、休憩時間を与えず勉強
させるに対し、わずか5時間の教授時数ではないか、漢文が1週間数時間
ではないか、また音楽や絵を教える。かかる遊芸人を養成するのは学校の
本旨ではあるまいと反対論が出る』(「朝鮮教育の教監時代」岡田 直
〔『朝鮮』昭和18年2月号〕[『日本人の海外活動に関する歴史的調査』
(復刻版)第2巻 383頁 2002年1月21日])とされている。また、
1909年〔明治42年〕7月に平安北道郭山普通学校に赴任した教監は
『学校に行ってみると、校舎は孔子廟前の講堂と東蕪〔東にある雑草の
生えている荒地〕と西蕪を利用し、室内にはアンペラが2,3敷いてあり、
講堂の方は板張りで机、腰掛が4,5脚あって4人掛の机である。教科書類
は2、3冊の漢文の本と学部出版の2冊のみ、生徒数は28名、帳簿は
出席簿1冊より外はないという』、『校舎の周囲は大便・小便が点々とし、
ハエがワンワンたかっている。そのハエが教室内内や炊事場に来襲して来る』、
『朝は平気で遅刻する。嫌になればいつでも家に帰ってしまう。裸足のまま
室外に出入りする』、『生徒は算術でも理科でも何でも丸暗記しようとする。
物の記憶は実に上手かったが、発見力・創作力・応用力・推理力もなかった』、
『そのころの平安北道だけでも300、5,60、郭山郡だけで17の私立
学校があり、生徒数は100名から少ないのは2,30名、修業年数は4年
で幼稚科のあるもの、高等科2年を加えているもの、中等程度のものなど
マチマチであった。教科科目は実に乱暴で、各校の教師の都合でいろいろ
変り、普通学校程度で英語、代数幾何あり、外国地理、歴史、法制経済など
を加えた学校もある』、『生徒の綴り方をみると、政治論あり、経済論あり、
文学論あり、厳しい論文を書いている。それが12,3才の子供である』、
『討論会があるとさながら、議会の討論で、生徒の言論は政談演説で、拍手
に迎えられ、拍手に送られる。生徒も教師も是とし世間では成功したと
称している。それで私立学校からみると、公立普通学校はまるで子供じみて
程度が余程低いとみている。だからテンで普通学校など省みようともしない』、
『韓国時代の教授法が、一切注入式で全部講演式暗誦一点張り、しかも学問
をするのは、科挙に応じて官吏となるためで、必然政論中心的であった。
これを矯正して着実な学科を加えるために、教監は数百年の思想一洗の指導
に取り掛かったのである』(「感慨無量」杉崎網次郎〔『朝鮮』大正11年
3月号〕[前記復刻版)同巻同頁])と指摘している。
また『女性蔑視の伝統から男女同席ができず、女子のための特別な学級を
作らねばならなかった』(「教育文化政策とその実績」5頁〔『日本人の
海外活動に関する歴史的調査』通巻第4冊 朝鮮篇 第3分冊 大蔵省管理局〕
[『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(復刻版)第2巻 381頁
2002年1月21日])。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 2日(金)19時50分59秒 ACCD1DB1.ipt.aol.com   返信・引用
日本人教員の苦闘はそれに止まらなかった。公立普通学校に赴任した教監が
忠実・親切に職務を執行するのを見て、『この日本人は他の日本人と異なり
韓国人に親である。思うに必ず日本において悪事を働き帰国しがたい運命を
有するからであろう』、『卒業後、児童を日本に拉致し兵卒にしあるいは召使・
奴婢にする』などと到底信じがたい流言・誤解があった(高橋濱吉の前掲書
221頁-杉崎網次郎の前掲書)。
そのような誤解から中流以上の父兄は子弟を学校に就学させることを躊躇
したので、普通学校は<貧民学校>と呼ばれた。普通学校は貧民が就学して
いたならなお結構だったのである。彼らこそ李朝時代に教育から阻害されて
いたから、就学への憧れが強かったと思われる。

普通学校への批判は、教科目にも寄せられた。
1.漢学の時間が少なかった。
2.朝鮮語(諺文)を教えた。
3.日本語を教えた。
4.授業時間が1日5時間に制限され、短すぎた。
それまでは、朝から夕までで、経学の素読・暗誦をなし、授業時間に制限
はなかった。
5.音楽、絵画を教えた。

朝鮮人の漢文中心の教育を変えるのは困難だったことがわかる。「朝鮮語」
の教育さえ忌避したことは驚きであるが、「植民地史観論者」、「日本統治
暗黒論者」は決して、こうしたことを言わない。自説に不利なことは<隠蔽>
するのであろう。つまり、日本統治時代に「朝鮮語」を教えなかったなどと
<非難>するが、そもそも朝鮮人自体が教育を望まなかったのである。
それと共に、これからもたびたび出てくるが、朝鮮総督府は「私立学校」、
「書堂」を弾圧したなどと説く者がいる。しかし、彼らが「私立学校」、
「書堂」の施設、教科内容などを説明することは一切ない。つまり、全く
検証しないで<吼えて>いるだけである。先の状況を知ったら<腰を抜かす>
のではないか。



朝鮮統監府時代の教育の歴史(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 3日(土)09時11分19秒 ACCD44B5.ipt.aol.com   返信・引用
2.初等教育(書堂)
① 書堂存続の理由
「書堂」は、古来の風習を踏襲し文明の事物に疎く、単に漢文の学習に止まり
処世上の智識・技能に務めず、薄暗い一室で学習するという前近代的な教育
機関であったにもかかわらずこれが存続されたのは次の理由に基づく。
〈1〉「書堂」こそが最適な教育であると確信する頑固な人も存在していた。
〈2〉教育の施設が整ってなかったので、これを廃止することは多数の児童の
教育の機会を奪うことになる。
② 書堂教育の方針
「書堂」は、先のとおり重大な欠陥を有していたので、次のとおり指導・監督
することとした。
〈1〉書堂所在地に普通学校があるときは、普通学校に入学させなければならない。
〈2〉「朝鮮語」を学習させなければならない。
〈3〉漢文の音読のみに限りその意義を理解することがないので、智識啓発および
徳性の涵養に努力させなければならない。
〈4〉一日中座って学習するため健康上良くない。したがって体育を行うように
しなければならない。
〈5〉学童の規律・風儀に関する教育が欠けているので、それを補わなければ
ならない。
〈6〉教室は狭く採光、換気、衛生の配慮がなく、しかも多数の学童を詰め込む
ため健康に支障を与える。したがって、それを是正しなければならない。




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朝鮮統監府時代の教育の歴史(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 3日(土)09時08分6秒 ACCD44B5.ipt.aol.com   返信・引用
③ 書堂の形態
「書堂」は、「李 萬珪」の『朝鮮教育史』(乙酉文化社 1947年)によると、
次のように分類される。
〈1〉訓長自営の書堂  唯一の書堂教師の訓長が自己の生計あるいは教育趣味
のために設立した書堂。
〈2〉有志独営の書堂  裕福な有志が経費を負担し、自家の子弟および近隣の
子弟を無料で教えた書堂。
〈3〉有志組合の書堂  有志が組合を組織し、訓長を招聘して組合員の子弟を
教えた
書堂。
〈4〉村落組合の書堂  村落が組合(民間の相互扶助組織である洞契、書堂契、
学契など)を作り、訓長を置いて村落の子弟を教えた書堂。

書堂は1895年(明治28年)以降、近代学校が設立していくなかで、旧来の儒学
から脱却することなく教育の主流から取り残されることとなった。日本では「散切り頭
ポンと叩けば文明開化の音がする」とされるように明治時代になるといち早く<断髪>
が行われたが、朝鮮では髪を伸ばし髷(マゲ)を結うことは人倫の基本である孝の基本
であり、断髪は禽獣への転落を意味した。日語学校、キリスト教私立学校で断髪が行わ
れ韓服を脱ぎ洋服を着たが、これは学校側が強要したのではなく学徒たちが便利だから
そうしたのである(「独立新聞」1896年6月11日 論説)。「書堂」では断髪する者は
一種の精神異常者とみなされた(『私の一生』白 南薫 解慍白南薫先生紀念事業会
1968年)〔尹の前掲書 246頁〕。
「尹 健次」は、『朝鮮統監府が書堂を旧学時代の遺物にして新教育の趣旨と相反す
るものと排斥しながら、現実には書堂を放置するしかなかった。その守旧性を植民地
統治に利用しようとした』と記述している(328頁)。これも<妄言>の一つである。
「書堂」存続の理由は(7)の「書堂存続の理由」で述べてある。廃止したかったのが
本音であったろうが、できない理由があったのである。これは全て朝鮮人のためである。
こういう者に限って、「書堂」を廃止したらしたで、<日本は「書堂」という伝統的な
教育機関を根絶やしにした>というのだろう。「尹 健次」は一体、「書堂」を廃絶した
方が良かったのか、それとも存続させた方が良かったのだろうか。また<改良>するな
らば、どうしたら良かったのか、それの予算はあったのか? きちんと論証してもらい
たい。


朝鮮統監府時代の教育の歴史(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 4日(日)16時03分48秒 ACCD44C8.ipt.aol.com   返信・引用
3.高等教育
高等教育機関としては、高等学校、高等女学校、師範学校、実業学校、農林学校、
商業学校、外国語学校、医学校、法学校、成均館、があった。順次説明する。
① 高等学校
大韓帝國時代の中学校が廃止され、漢城にあった朝鮮唯一の官立中学校は「漢城
高等学校」と改称された。なお、これは1910年(明治43年)日韓併合による
朝鮮教育令(明治44年8月23日勅令第229号)によって「京城公立高等普通
学校」となった。「官立平壌高等学校」も設置されていた。
〈1〉修業年限
本科  4年   予科  1年   補習科  1年
※ 平壌高等学校は3年制
〈2〉入学資格
年齢12歳以上で、普通学校を卒業した者またはこれと同等の学力を有する

〈3〉学 科
必須科目   修身 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 歴史(朝鮮)
地理(朝鮮) 数学 博物 物理 化学 実業 図画 体操
随意科目   外国語(英語、フランス語、ドイツ語、中国語のうち一つ)
※ 法制、経済、音楽は除かれた
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  国語・漢文  6  日本語  6  歴史  3
地理  3  数学  6  博物・物理・化学  4  実業  1
図画  2  体操  3
唱歌 (1) 外国語 (2)   合計  31(3)
〈5〉教科書
学部で編纂したものまたは学部大臣による検定を受けたもの、ただし、
学校長は学部大臣の認可を受けてこれ以外のものを用いることができる。
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
漢城高等学校   232名
平壌高等学校   134名
② 高等女学校
官立・公立の女学校は朝鮮では皆無であった。女子はキリスト教の私立学校
に行かなければ教育を受けることができなかった。女子教育こそ「日本統治」
の<最大の功績>である。高等女学校は「官立漢城高等女学校」1校のみで
あったが、地方の官・公立普通学校に女子学級を併置するように指導したが、
男女が教室を同じくするということは先のとお朝鮮の旧来の習慣上無理で
あって、それでは教室を別にすることは予算上で無理があり、また女子教員
の欠乏もあって頓挫した。
〈1〉修業年限
本科  3年(土地の事情により1年以内で延長することができる)
予科  2年   技芸専修科  2年
〈2〉入学資格
年齢12歳以上で、普通学校を卒業した者またはこれと同等の学力を有する
者 ただし技芸専修科に就学する者は15歳以上とする
〈3〉学 科
必須科目   修身 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 歴史(朝鮮)
地理(朝鮮) 算術 博物 理科 家事 図画 体操
裁縫 音楽
随意科目   外国語(英語、フランス語、ドイツ語、中国語のうち一つ)
手芸
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  国語・漢文  5  日本語  5  歴史・地理  2
算術  2  理科  2  家事  1  図画  1  裁縫  4
音楽  2  体操  2     合計  27
〈5〉教科書
学部で編纂したものまたは学部大臣による検定を受けたもの、ただし、
学校長は学部大臣の認可を受けてこれ以外のものを用いることができる。
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
漢城高等女学校  224名


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 4日(日)16時01分19秒 ACCD44C8.ipt.aol.com   返信・引用
「尹 健次」は前掲書の321頁で韓国学政参与官「幣原 担」が
『女子教育は、必ず進んで之を私設するに及ばず、又之を施設する場合にも、
設備の許す範囲に於て措置せしめ、而して其の教科も、成るべく簡易適切に
して実用卑近のものたらしめる』(『朝鮮教育論』六盟館 1919年)ことを
挙げ、日本が<女子教育>に熱心でなかったという。これは曲解である。
普通学校命令施行規則第7条の4号に「男女の特性及び招来生活に注意し
各適当の教育を施すことを努むること」と規定し、女子にも男子と区別なく
教科目の履修を強制している。「尹 健次」はこういう事実を無視できな
かったのか今度は『裁縫、手芸、家事等に重きを置き女子に適切な実際的
智識技芸を授け』たことを以て<性差別を温存し、女性の社会進出を抑制
することに重点が置かれた>などと述べている。こうした教科については
現在の日本の女子学校で行われ、私立に限らず国公立でも女子高等学校・
女子大学が存在する。特に高等学校教育で男女共学が果たして妥当で
あるかについて疑問を抱く者も多い。さらに日本が女子教育を進めた
ことにつき『統監府による女子教育の開始は、女子教育を求める朝鮮
人民の声が無視できないほどに大きくなっていることを示すが・・・
(幣原 前掲書)としている。
確かに「私立学校」では<女子教育>は行われていた(後記の「日本統治
時代の教育の歴史(12)参照」。しかし、教育機関の大半を占めるどこに
「書堂」では女子は排除され、女子教育などを必要という声は民衆の間
では聞くこともできなかった。日本統治時代の資料であるが、1919年
(大正8年)3月末現在で、「書堂」に通う女子は829名で全体の0.3%
(「書堂」は23,369、「私立学校」は775〔3.2%〕)「書堂」
と「私立学校」の生徒数の合計が289,096名、女子が7,076名で
女子の割合は2.4%にしか過ぎない。1927年(昭和2年)には
12.5%となっていることから、朝鮮統監府時代には2.4%を遥かに
下回る数だったと思われる。
どこに>女子教育を求める朝鮮人民の声が無視できないほどに大きく
なっていた<のか?(「日本統治時代の教育の歴史(13)」参照)
「尹 健次」の見解は破綻している。
現在でも『女が唱えば家が滅びる』という諺が朝鮮に存在するのは
未だに女性蔑視の風潮が収まってないことを示している。さらに『朝鮮人
が日本人と同和するのに第一捷徑(ショウケイ=早道)は、女子教育
の進歩発展にある』(「毎日申報」1910年9月16日 雑報)という
「尹 健次」の論は、朝鮮統監府が「女子教育」を推進しようとしたの
か、それとも阻止しようとしていたのか、全く以て<支離滅裂>である
何でもかんでも日本が悪いと論を進めると<自家撞着>を起こしてしまう
典型的な例である。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(13) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 4日(日)15時56分48秒 ACCD44C8.ipt.aol.com   返信・引用
「尹 健次」は前掲書の322頁で、普通学校が1908年の50校
から1910年の125校に増えたのに対し、高等教育機関が7,8校
に止まり続けたことを以て、『日本が朝鮮に植民地教育を扶植してゆくに
あたっては初等教育の「拡張」にのみ重点を置き、「高等教育」には無関心
を装うか、あるいはそれを抑制する政策をとった』という。これが全くの
デタラメであることは「日韓併合」後に京城帝國大学まで設立し、朝鮮人の
高等教育に力を注いだ事実で明々白々である。つまり、当時は朝鮮人に高等
教育に耐える素質がなかったことによる。言い換えれば、李氏朝鮮時代からの
高等教育が近代に全く通用しなかったことを示しているのである。


朝鮮統監府時代の教育の歴史(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 5日(月)21時33分47秒 ACCD0298.ipt.aol.com   返信・引用
④ 師範学校
学校教員の養成を目的とした官立・道立教育機関で、寄宿舎が備わっていた。
学費は無料である。「漢城師範学校」1校のみであった。
〈1〉修業年限
本科  3年   予科  1年   速成科  1年
講習科  1年
〈2〉入学資格
年齢15歳以上で、普通学校を卒業した者またはこれと同等の学力を有する

〈3〉学 科
必須科目   修身 教育 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 歴史(朝鮮)
地理(朝鮮) 数学 博物 物理 化学  図画 体操
音楽
随意科目   農業 商業
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  教育  0(2年生は3、3年生は5)
国語・漢文  6 日本語  6  歴史・地理  5
数学  6  博物  2 物理・化学  0(2年生は3、
3年生は4)  図画・手工  3 音楽  2  体操  3
合計  34
〈5〉教科書
学部で編纂したものまたは学部大臣による検定を受けたもの、ただし、
学校長は学部大臣の認可を受けてこれ以外のものを用いることができる。
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
232名
⑤ 実業学校
「官立仁川実業学校」、「公立釜山実業学校」、「公立定州実業学校」、
「公立晋州実業学校」、「公立春川実業学校」、「公立群山実業学校」の6つ
があった。
〈1〉修業年限
本科  3年(土地の事情により1ヵ年以内を短縮することができる)
速成科 2年
〈2〉入学資格
年齢12歳以上で、普通学校を卒業した者またはこれと同等の学力を有する
者 ただし速成科に就学する者は特に定めない
〈3〉学 科
必須科目   修身 実業 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 数学 理科
随意科目   歴史(朝鮮) 地理(朝鮮) 図画 法規 統計 測量
体操 その他
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 農業学校・商業学校を参照
〈5〉教科書          ※ 高等学校に同じ
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
仁川実業学校   232名
釜山実業学校    87名
定州実業学校    不明
晋州実業学校    不明
春川実業学校    27名
群山実業学校    40名


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(15) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 5日(月)21時29分3秒 ACCD0298.ipt.aol.com   返信・引用
⑥ 農林学校・農学校
「公立平壌農学校」、「公立大邸農林学校」、「公立全州農林学校」、
「公立光州農林学校」、「公立済州農林学校」、「道立咸興農業学校」の6つ
があった。
〈1〉修業年限         ※ 実業学校に同じ
〈2〉入学資格         ※ 実業学校に同じ
〈3〉学 科
必須科目   修身 農業 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 数学 理科
随意科目   歴史(朝鮮) 地理(朝鮮) 図画 法規 統計 測量
体操 その他
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  農業  9  国語・漢文  3   日本語  6
数学  5  理科  4  図画  1  実習  6~10
測量  0(2年生は2、3年生は2)  体操  1
合計  30
〈5〉教科書          ※ 高等学校に同じ
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
平壌農学校    本科  50名   予科  31名
大邸農林学校   本科  50名   予科  31名
全州農林学校   本科  50名
光州農林学校   不明
済州農林学校   不明
咸興農業学校   不明
⑦ 商業学校
「私立善隣商業学校」(作曲家 古賀政男の出身校)
〈1〉修業年限         ※ 実業学校に同じ
〈2〉入学資格         ※ 実業学校に同じ
〈3〉学 科
必須科目   修身 商業 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 数学 理科
随意科目   歴史(朝鮮) 地理(朝鮮) 図画 法規 統計 測量
体操 その他
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  商業  6  国語・漢文  3   日本語  10
地理  2  数学  5  理科  4  図画  1
実習  0(2年生は0、3年生は3~6)  体操  1
合計  34
〈5〉教科書          ※ 高等学校に同じ
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
善隣商業学校  本科  125名   専修科  125名
⑧ 工業学校
「工業伝習所」が設置されていた。
〈1〉修業年限         ※ 実業学校に同じ
〈2〉入学資格         ※ 実業学校に同じ
〈3〉学 科
必須科目   修身 工業 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 数学 理科
随意科目   歴史(朝鮮) 地理(朝鮮) 図画 法規 統計 測量
体操 その他
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  工業  9  国語・漢文  3   日本語  6
数学  5  理科  4  図画  1  体操  1
実習  6~9
合計  30
〈5〉教科書          ※ 高等学校に同じ
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
工業伝習所  不明


朝鮮統監府時代の教育の歴史(17) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 7日(水)12時13分16秒 ACCD15D7.ipt.aol.com   返信・引用
⑨ 外国語学校
官立、公立、私立があった。
〈1〉修業年限
本科  3年  研究科  2年  速修科 2年
〈2〉年齢12歳以上の<男子>で、普通学校を卒業した者またはこれと同等の学力
を有する者
〈3〉学 科
必須科目   修身 商業 外国語 国語(朝鮮語) 漢文 日本語
随意科目   数学 歴史(朝鮮) 地理(朝鮮) 法制 経済 簿記
体操 その他
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  英語(読み方・訳解 7、会話 2、書取 6、
作文・文典 2、習字 2  合計 19)  国語・漢文  1
理科  0(2年生は1、3年生は1)  数学  4
歴史・地理  2  体操  3
合計  30
※ 他の専科(日本語、中国語、ドイツ語、フランス語)も大差がない。
〈5〉教科書
特に定めはないが、学校長は学部大臣に使用教科書を報告しなければなら
なかった。
〈6〉生徒数    1907年  1908年  1909年  1910年
日本語     201名   250名   174名   136名
中国語      27名    12名    17名    36名
英 語      97名    94名    96名   106名
ドイツ語     30名    18名    10名    17名
フランス語    25名     3名     9名    21名
合  計    380名   377名   306名   316名

「尹 健次」は前掲書の318頁で、『植民地教育の扶植を意図する統監府は、「
外国語教育」についても消極的な態度を示した』と言う。どこにその論拠があるだ
ろうか。生徒数も300名以上を維持している。「英語」は増え、「日本語」は減って
いる。「尹 健次」は嬉しいじゃないの?


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(18) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 7日(水)12時11分29秒 ACCD15D7.ipt.aol.com   返信・引用
⑩ 医学校(大韓医院医学校)
詳細不明
⑪ 法学校(法官養成所)
詳細不明
⑫ 成均館
漢学中心の「成均館」も時代の波に勝てなかった。次のとおり大幅に改革されたが、
教育機関としての意義は失われ、日本統治時代の明治43年(1910年)6月15日、
朝鮮総督府令第73号を以て、「経学院」と改称されたが、教育機関としての幕を閉じる
こととなった。
〈1〉修業年限
本科  3年
〈2〉年齢20歳以上30歳未満
〈3〉学 科
修身 経学 国語(朝鮮語) 漢文 日本語 歴史(朝鮮) 地理(朝鮮)
数学 理科 図画 法制・経済 体操
〈4〉時間表(毎週)〔本科〕  ※ 1年生のみ(学年によって増減がある)
修身  1  経学  7  国語  6  日本語  4
歴史・地理  3  数学  4  理科  2  図画  2
法制・経済  2  体操  3
合計  34
〈5〉教科書
不 明
〈6〉生徒数(1910年〔明治43年〕4月末現在)
日本語    30名


朝鮮統監府時代の教育の歴史(19) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 9日(金)13時07分25秒 ACCD12F2.ipt.aol.com   返信・引用
4.私立学校
私立学校という特別な教育はないが、朝鮮の教育史上格別な歴史を有するから説明
したい。なお「書堂」は私立学校には含まれない。
朝鮮の外国人の手による私立学校はキリスト教宣教師によって行われたのが最初で
ある。1885年(明治18年)米国長老派宣教師「アペンゼラ-」によって「培材
学堂」(1925年閉校-韓国初代大統領「李 承晩」の出身校)が、1890年
(明治23年)メソジスト派宣教師「メアリ-・F・スクラントン」によって「梨花
学堂」(現在の「梨花女子大学校」)が設立されたのが最初である。キリスト教宣教師
の朝鮮における布教活動は凄まじく彼らは競って学校を建て、例えば平安北道の宣川
では彼らの手になる私立学校が100も数えた。教師のほとんどは(79%)は
外国人宣教師で占められていた(高橋濱吉 前掲書 330頁)。宣教師は民衆にキリ
スト教の布教に名を借りた政治批判も繰り広げ<政治と教育の混同>をもたらし(
『培材学堂はミッションスク-ルであることや「徐 載弼」がアメリカの市民権を
持っていることから治外法権が適用されていた。その利点を生かし、討論会では日本
の財政や軍事権の侵略問題をテ-マに日本批判をすることができた』(佐藤の前掲書
212頁)。
また、キリスト教私立学校では、祈祷、誡命、聖書などの授業時間が過半数を占め、
学校というより「一種の伝道機関」の様相を呈していた。神学を重視し科学が軽視
されいた(尹の前掲書 373頁)。
キリスト教宣教師による私立学校は、宣教師の増加を背景に整備されていった。
キリスト教宣教師(プロテスタント宣教師)は1897年には101名に上り、
信者数は1226名にも達した(『韓半島』信夫淳平 東京堂書店 1901年
691頁)。朝鮮でのキリスト教の布教は、カトリック(天主教)よりも
プロテスタントが優勢で特に北朝鮮の「平安道」が布教の拠点だった。
プロテスタントはアメジスト派と長老会派があったが、長老会派が優勢だった。
アメジスト派の「培材学堂」(私立学校)は英語で授業が行われ(長老会派
私立学校でも同じ)、アメリカ帰りの「徐 載弼」のみが朝鮮語で授業を
行ったが、旧守派政権の圧力により1898年5月に帰米せざるを得なかった。
これは彼が「独立新聞」を発刊し、学生組織「協成会」を結成し、大衆の啓蒙
に当たったが、背後にアメリカ公使館、プロテスタント宣教師の助力があった
ことがアメリカによる<教育侵略>が旧守派政権・儒生の反感を買ったことに
あった。長老会は教育機関の設置に熱心でなかったが、アメジスト派に刺激され、
初等学校の設立に力を注いだ。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(20) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 9日(金)13時04分32秒 ACCD12F2.ipt.aol.com   返信・引用
長老会の初等学校の統計を挙げる(『長老教会史彙集』朝鮮耶蘇教書会
1918年〔尹 前掲書 185頁〕

学校数     生徒数   男子    女子
1892年      1      12          12
1895年      6      72    60    12
1897年     14     332   252    80
1900年     30     597   485   112
1903年     90    1661  1219   442
1905年    139    2354  1721   663
1908年    542   13187 10563  2634
1909年          14673 11104  3569

長老会の初等学校の他にもメソジスト派の初等学校その他の宗教学校がある。
それについては次項で述べる。
英語で授業が行われ、そうでない私立学校は生徒が集まらず閉鎖に追い込まれた。
つまり、立身出世志向の朝鮮人は英語に出世の糸口を求めていたに過ぎなかったので
ある(尹 前掲書 187頁)。一方、キリスト教はこれを利用して布教ばかりか
親米勢力の拡大を図った。さらに侵略の尖兵として利権の奪取を始めとする様々な
権益獲得に暗躍する者も現れた(アメリカ公使 アレン)〔尹 前掲書 189頁〕。
日本人による「日本語教育」については非難するが、こうしたアメリカ人による
<教育侵略>には目をつぶる(佐藤 前掲書)。とうてい理解しがたい。


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朝鮮統監府時代の教育の歴史(21) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月 9日(金)13時02分33秒 ACCD12F2.ipt.aol.com   返信・引用
私立学校の数は1910年現在で次のとおりとなっている(『韓国教育ノ
現状』(学部 明治43年〔1910年〕7月)。

総 数     長老教会     メソジスト教会     天主教
英人 米人 朝鮮人  米人 朝鮮人   仏人 朝鮮人
漢城府     24    6   4  0    9  0     2  1
京畿道     41    0   7  0   21  2     3  1
忠清南道    18    0   0  0    2  0     2  0
忠清北道     7    0   6  0    0  0     0  0
全羅南道     3    0   2  0    0  0     0  0
全羅北道    32    0   3  1    0  0     3  1
慶尚南道    17    5   3  0    0  0     0  0
慶尚北道    74    0  53  8    0  0     1  1
江原道      4    0   0  0    0  0     2  2
黄海道    183    0 133  0   37  0     4  5
平安南道   261    0 159  0   78  0     8  9
平安北道   121    0  42 53    9  0     0  1
咸鏡南道    16   16   0  0    0  0     0  0
咸鏡北道     0    0   0  0    0  0     0  0
総  数   801   27 412 62  156  2    25 21

その他のキリスト教         佛 教
英人   米人   朝鮮人   朝鮮人
漢城府     0    1    1     0
京畿道     2    0    5     0
忠清南道    0    0   14     0
忠清北道    1    0    0     0
全羅南道    1    0    0     0
全羅北道    0    2   22     0
慶尚南道    0    0    6     3
慶尚北道    0    0   11     1
江原道     0    0    0     0
黄海道     0    0    4     0
平安南道    0    2    4     1
平安北道    0    0   16     0
咸鏡南道    0    0    0     0
咸鏡北道    0    0    0     0
総  数   30  573  167     5

※ 各国人の総数のうち佛教を除くものはキリスト教全体の人数


朝鮮統監府時代の教育の歴史(22) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月10日(土)12時55分40秒 ACCD0317.ipt.aol.com   返信・引用
民族的私立学校は、開化知識人によって創立されたが、彼らが合理主義
的な近代教育思想に立脚していたかというとそうではなかった。彼らに染み
付いていた儒教思想を払拭することは困難だったのである。それではキリスト
教に帰依した知識人が儒教思想から脱却し合理主義的な近代教育思想を持ち
えたかというとこれも違っていた。キリスト教宣教師はこうした彼らの儒教
精神に乗る形で家長的倫理・道徳観の上に立った説諭を行った。その結果、
近代思想と旧来の儒教思想とが混在し、近代思想を十分に理解しないまま、
今度は民衆の上に立つエリ-トとしての意識を強く持ち、民衆に君臨する
といったおよそ近代思想とは遊離した存在となっていった。
それでも開化知識人は日本を中心とする欧米諸国のもたらした近代思想
の影響を受け儒教思想を払拭できないまま、独立に熱狂し民族的な私立学校
を設立していった。これに拍車をかけたのが資産家であった。当時朝鮮では
特に日本・清との交易によって資本をわずかではあるが蓄える者が出現し、
彼らは実業教育を行う民族的私立学校を設立した。
しかし、儒教思想を払拭できないのであれば、従来の「書堂」と何ら
変わることはなく、民衆の支持が得られることはなく、実業教育にしても
目指すものは良かったが、これもまだ両班精神から抜けきれない民衆には浸透
することはなかった。
朝鮮人による学校設立の動機について、① 愛国志士の救国的熱意によるもの
② 学校設立に名を借りて個人的利益を図るもの ③ 近隣各村の学校設立競争
によるもの、があるとしている(『太極学報』 第25号 1908年10月)。
とりわけ、断髪して洋服を着用し、校長、校監、教師の名をかたり教育界に
出没しては、外国書籍を片手に遊談をこととし、園遊会に参加しては外国人
と握手でもすればこのうえない名誉であるとする「エセ文明紳士」の横行は
大きな社会問題となっていた(「大韓毎日申報」1908年5月15日 論説)。
また、朝鮮教育界の病状は極めて重態であるとして、その病根を、
① 教師の非賢 ② 財政の困難 ③ 教科書の不完 ④ エセ有志者の主張
の4つを挙げている(『教育界の思潮』〔「太極学報」第19号 1908年3月〕)
[尹前掲書 385頁]。
朝鮮人の愛国・救国教育の勃興などというが(尹 前掲書 346頁)、
内実はそんなものであった。<日本の教育侵略>などという前にこうした
<惨状>にこそ目を向けるべきである。



朝鮮統監府時代の教育の歴史(23) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月10日(土)12時50分24秒 ACCD0317.ipt.aol.com   返信・引用
キリスト教私立学校も含めて、乱立した学校は維持困難のため学校財産の争奪、
寄付金の強制、税の徴収まで行い弊害も多大に及んだため(この辺の事情は韓国
学部次官「俵 孫一」の講話に詳しい〔高橋濱吉の前掲書300頁〕)、19
08年(明治41年)「大韓帝國」は「私立学校令」を公布した。
私立学校令の概要は次のとおりである。
① 私立学校の設立・存在については学部(文部省に相当)の認可を受けなければ
ならない。
② 教員については消極的規定のみをおく。犯罪者、懲戒免官者、教員許状剥奪者、
操行不良者などは教員になることができないとする。
④ 教科書は学部編纂または検定以外の図書に対しては使用認可を受けるものと
する。
⑤ 学校設備に関しては学部大臣が随時変更命令・補充命令を発することができる
が、運用においてはこれの適用を避ける。
⑥ 教育に関しては宗教の自由を認める。

「尹 健次」は前掲書の331頁で、『統監府は、私立学校のすべてを
「教育と政治を混同」するものとして排斥したものではない。「宗教学校」は
保護し、「政治学校」は排斥すべしとの方針を示している』と記述する。先の
とおりの「私立学校」の状態をみれば、統制するのは当然のことである。何ら
非難するに値しない。
「古川宣子」はもっと酷い。私立学校の中身(「宗教学校」、「政治学校」)
を論じることなく私立学校に対する朝鮮統監府の制限を非難する。
忘れてはならないのは、私立学校にも国庫から援助がなされていたことである。
1907年より国庫から支弁がなされるようになった。国庫補助の支給対象に
ついては1908年に発布された「私立学校補助規程」によると、① 普通学校令
に依り設立されたもの又は普通学校の教科課程に準拠するもの、② 相当な教員
及び設備を有するもの、③ 設立後2ヵ年を経たもの、④ 成績佳良のもの、
とされた。1910年からは地方費で賄うことになり、各道で規程が設けられた。
例えば「公私立学校補助規程」では、① 学校の位置、多数の学徒が就学する
のに便利な位置にあるもの、② 普通学校令に依り設立されたもの又は普通学校
の教科目及び其課程に準拠するもの、③ 学部編纂又は検定の教科用図書を使用
するもの、④ 相当な校地校舎及び校具の設備のあるもの、⑤ 在籍学徒50人
以上で成績が佳良のもの、とされた。
何の問題もない。これを非難する方がおかしい。教育の水準を保つため統制
することは必要である。費用を支給するのだからこの程度の統制に応じるのは
当然である。

※ 「併合前後の私立学校状況」107頁(『朝鮮史研究会論文集』朝鮮史研究会
No 34 緑蔭書房 1996年10月31日)


朝鮮統監府時代の教育の歴史(25) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月11日(日)16時18分9秒 ACCD4E34.ipt.aol.com   返信・引用
1910年(明治43年)5月(私立学校令発布後1年9ヶ月現在)の私立学校
の状況を提示する。

普通学校  高等学校  実業学校  各種学校  宗教学校   計
漢城府       0     1     2    66    24   84
京畿道       0     0     0   136    64  200
忠清南道      2     0     0    73    16   91
忠清北道      0     0     0    41     7   48
慶尚南道      3     0     1    82    18  104
慶尚北道      3     0     0    72    74  150
全羅南道      1     0     0    31     4   36
全羅北道      4     0     0    42    31   77
江原道       0     0     0    37     6   43
黄海道       0     0     0   104   182  286
平安南道      0     0     0   189   254  442
平安北道      0     0     1   279   121  410
咸鏡南道      1     1     0   194    21  218
咸鏡北道      0     0     3    56     0   59
合  計     16     2     7  1402   823 2250

北朝鮮の黄海道、平安南道、平安北道、咸鏡南道が人口に比して異常に多い。
この地域はもともと外国人宣教師の活動によりキリスト教が浸透している地域で、
各種学校も実質は「宗教学校」であったものが多かったのではなかろうか。
私立学校は、韓国学部次官「俵 孫一」の1908年(明治41年)の
私立学校令の公布直後の運用に関する訓令(前掲書314頁)を見ても、私立
学校令の公布によって厳しい統制が行われたとは思えない。

「書堂」は1910年当時、16,440校もあった。「私立学校」のうち
高等学校を除いた2248校が初等教育機関と思われるから、合計して18,
668校もあったこと
になる。これに官・公立(補助学校も含む)が101校あった。総計18,7
69校である。
当時の学童の就学人口(6歳から11歳までの6年間-『植民地期朝鮮に
おける初等教育-就学状況の分析を中心に』〔「日本史研究〕370号
1993年6月)は人口総数の14.4%と計算される(『植民地初等教育の形成』
教育科学社 2000年〔『植民地期朝鮮の教育とジェンダ-』金 富子 世織書房
2005年5月10日 23頁、370頁〕。
これを前提に考えると当時の朝鮮の人口は、13,128,780人だった
とされるから、就学人口は1,890,545人である。学童年齢100人に
1校の割合になる。
当時の就学率は資料がないので不明だが、1912年の就学率が1936年
当時の就学率が25%だったというから、当時は5%にも達してなかったの
ではなかろうか(あくまで推論である)。学校は当時の就学率を考えると
少し多すぎやしまいか。

★ 1936年当時の就学率
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247
※ 掲載の資料には当たることができなかったので、金 富子の前掲書を
全面的に引用した。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月13日(火)21時54分2秒 ACCD533E.ipt.aol.com   返信・引用
1910年(明治43年)8月29日の「日韓併合」後の教育は、朝鮮統監府
時代の教育方針が踏襲された。
朝鮮教育令(第一次朝鮮教育令)は、明治44年8月24日に公布されたが、
その1ヶ月前の7月1日に初代朝鮮総督府長官の寺内正毅の訓話で、朝鮮の教育
方針について次のように明らかにしている(後記資料 358頁)。
① 朝鮮人を日本臣民に育て上げることを教育の究極の目的とする。
② 斬進主義を取る。
③ 勤労の習慣を形成することに努める。
④ 普通教育および実業教育に力を注ぐ。
⑤ 国語の普及を図る。

これについて、特に①について批判が投げかけられている。しかし、これは
「内鮮一体」を明らかにしたもので、朝鮮人を日本人に育て上げることで当時
の帝国主義に基づく<植民地>が増加したなかで珍しい政策であったのでは
なかろうか。つまり、そこには搾取のみが前面に掲げられ被支配者を支配者
と同じく扱うあるいはそのレベルに引き上げることはなかったのである。批判者
は被支配者である朝鮮人を支配者である日本人と平等に扱うべきだったと言いたい
のであろうが、それは今になって言えることで?、当時の<弱肉強食>の世界
情勢・傾向のなかでは実現不可能であった。日本人と平等に扱われたいのだった
ら、支配されないように<努力>すべきだったのではなかろうかと言いたくも
なる。これから明らかになるが、日本は朝鮮人を日本人並みに教育しようとして
心血を注いだのである。これも<幻想>だったと思える。
②の斬進主義は当時の朝鮮の教育状況からそう簡単には日本並みになることは
難しく焦らずゆっくりということであろう。そして、日本並みにするには全く
されてなかった
③はそれこそ朝鮮の現状を物語るもので、両班の長い支配のなかで習性となった
<怠惰>を払拭しなければならなかった。
④の普通教育および実業教育に力を注ぐしかなかったのである。
⑤の国語とは日本語だと思うが、これも支配したことから考えれば当然のこと
だった。

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本
植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収) 以下同じ
『植民地教育政策の研究-朝鮮・1905年-1911年』佐藤由美
龍渓書舎 2000年2月25日
『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会1982年12月
10日 以下の稿にも同じ
『朝鮮植民地統治法の研究』高橋敏夫 北海道大学図書刊行会1989年8月
31日 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育制度史』小田省吾 大正13年(1924年)(「日本植民地教育
政策史料集成(朝鮮篇)」第27巻 龍渓書舎 1989年8月 に所収)
以下の稿にも同じ
『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社
大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成
(朝鮮篇)」第26巻 に所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育問題管見』大野謙一 朝鮮教育会 昭和11年〔1937年〕
9月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第28巻
に所収) 以下の稿にも同じ
『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』佐野道夫 社会評論社
2006年2月25日 以下の稿にも同じ
『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社
大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成
(朝鮮篇)」第26巻 に所収) 以下の稿にも同じ
『朝鮮教育問題管見』大野謙一 朝鮮教育会 昭和11年〔1937年〕
9月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第28巻
に所収)以下の稿にも同じ

★ 朝鮮教育令(第一次朝鮮教育令)
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm44-229.htm


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月13日(火)21時46分42秒 ACCD533E.ipt.aol.com   返信・引用
「朝鮮教育令(第一次朝鮮教育令)」は、初等教育(普通学校)から中等
教育(高等普通学校、実業学校)、高等教育(専門学校、師範学校)までを
規定しているが、それぞれを説明する。
1.普通学校
① 修業年限
4年 1年を短縮することができる(朝鮮教育令 第9条)。
8歳以上の者(同 第10条)
※ 日本の小学校にあたる(ただし、日本では就学年限が6年-6歳以上のもの)
② 教科および授業時間(1週間)
〈1〉1学年              26時間
朝鮮語・漢文             6時間
国 語(日本語)          10時間
算 術                6時間
理科・唱歌・体操・図工など      3時間
修 身                1時間
〈2〉2学年              26時間
朝鮮語・漢文             6時間
国 語(日本語)          10時間
算 術                6時間
理科・唱歌・体操・図工など      3時間
修 身                1時間
〈3〉3学年              27時間
朝鮮語・漢文             5時間
国 語(日本語)          10時間
算 術                6時間
理 科                2時間
唱歌・体操・図工など         2時間
修 身                1時間
〈4〉4学年              27時間
朝鮮語・漢文             5時間
国 語(日本語)          10時間
算 術                6時間
理 科                2時間
唱歌・体操・図工など         2時間
修 身                1時間
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
官立普通学校    2校  生徒数     461人(全員 朝鮮人)
男子   302人(65.5%)
女子   159人(35.5%)
公立普通学校  482校  生徒数  84,306人(全員 朝鮮人)
男子  73,726人(87.5%)
女子  10,580人(12.5%)
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
私立普通学校   33校  生徒数   4,521人(全員 朝鮮人)
男子   3,211人(71.0%)
女子   1,310人(29.0%)
◆ 普通学校の学校数、生徒数(男女別)は、後掲の(20)以下で、
1912年(明治45年)から1942(昭和17年)まで提示する。
★ 尋常小学校
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E5%B0%8F%E5%AD%
A6%E6%A0%A1

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月15日(木)21時57分27秒 ACCD1DF7.ipt.aol.com   返信・引用
2.高等普通学校
① 修業年限
4年(朝鮮教育令 第12条)
12歳以上の者で普通学校(4年)を卒業した者(同 第13条)
※ 日本の中学校にあたる(ただし、日本では就学年限が5年)
師範科 1年 高等普通学校を卒業したもの(同 第14条)
② 教科および授業時間(1週間)
〈1〉1学年              32時間
朝鮮語・漢文             4時間
国 語(日本語)           8時間
算 術                4時間
理 科                4時間
歴 史                0時間
地 理(日本)            2時間
農業・経済              2時間
唱歌・体操・図工・習字など     11時間
修 身                1時間
〈2〉2学年              32時間
朝鮮語・漢文             4時間
国 語(日本語)           8時間
算 術                4時間
理 科                3時間
歴 史(日本)            2時間
地 理(日本)            0時間
農業・経済              3時間
唱歌・体操・図工・習字など     11時間
修 身                1時間
〈3〉3学年              32時間
朝鮮語・漢文             3時間
国語(日本語)            7時間
算 術                4時間
理 科                4時間
歴 史(日本)            0時間
地 理(日本)            0時間
外国歴史・外国地理          2時間
農業・経済              4時間
唱歌・体操・図工・習字など      7時間
修 身                1時間
〈4〉4学年              32時間
朝鮮語・漢文             3時間
国語(日本語)            7時間
算 術                4時間
理 科                3時間
歴 史(日本)            0時間
地 理(日本)            0時間
外国歴史・外国地理          2時間
農業・経済              5時間
唱歌・体操・図工・習字など      7時間
修 身                1時間
★ 私立普通学校は、朝鮮語・漢文・国語(日本語)に対する規定はなく、教えても
教えなくとも自由であった。私立であれば高等普通学校以上の学校も同じ
師範科〔男〕(1週間)
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           5時間
※ その他の科目は省略
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
官立普通学校      5校  生徒数   1,715人(全員 朝鮮人)
男子 1,715人(100%)
女子     0人
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
公立高等普通学校    0校
私立高等普通学校    7校  生徒数  1,449人(朝鮮人)
男子  1,449人(100%)
女子      0

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月15日(木)21時55分27秒 ACCD1DF7.ipt.aol.com   返信・引用
3.女子高等普通学校
① 修業年限
3年(朝鮮教育令 第16条)
12歳以上の者で普通学校(4年)を卒業した者(同 第17条)
※ 技芸科(裁縫、手芸) 入学資格は同じ(同 第18条)
★ 師範科 1年     入学資格は女子高等普通学校の卒業者
(同 第19条)
※ 日本の高等女学校にあたる(ただし、日本では就学年限が5年)
② 教科および授業時間(1週間)
〈1〉1学年              31時間
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           6時間
算 術                2時間
理 科                2時間
歴史・地理(日本)          2時間
農業・経済              0時間
裁縫・手芸             10時間
唱歌・体操・図工・習字など      6時間
修 身                1時間
〈2〉2学年              31時間
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           6時間
算 術                2時間
理科・家事              4時間
歴 史(日本)            1時間
地 理                0時間
農業・経済              0時間
裁縫・手芸             10時間
唱歌・体操・図工・習字など      5時間
修 身                1時間
〈3〉3学年              32時間
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           6時間
算 術                2時間
理科・家事              4時間
歴 史(日本)            0時間
地 理(日本に関係のある外国)    1時間
農業・経済              0時間
裁縫・手芸             10時間
唱歌・体操・図工・習字など      5時間
修 身                1時間
師範科〔女〕(1週間)
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           4時間
※ その他の科目は省略
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
官立高等女学校      2校  生徒数     367人(全員 朝鮮人)
男子     0人
女子   367人(100%)
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
公立高等女学校      0校
私立高等女学校      7校  生徒数  1,316人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月17日(土)05時35分13秒 ACCD0AA7.ipt.aol.com   返信・引用
4.実業学校
① 修業年限
2年~3年(朝鮮教育令 第22条)
12歳以上の者で普通学校(4年)を卒業した者(同 第23条)
※ 簡易実業学校もあった 修業年限・入学資格は朝鮮総督が定める
こととなっていた(同 第24条)
② 教科および授業時間(1週間)
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           8時間
★ 商業学校・商工学校、女子実業学校も同じ、農業学校・工業学校・水産学校
などは、朝鮮語・漢文 2時間、国語(日本語) 4時間となっていた。
ただし、私立は朝鮮語・漢文・国語(日本語)は自由(教えても、教えなく
ともよい)
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
〈1〉農 業
公立農業学校   17校  生徒数  1,334人(朝鮮人)
男子  1,334人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業学校    3校  生徒数    359人(朝鮮人)
男子    359人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立商業学校    1校  生徒数    162人(朝鮮人)
男子    763人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉商 工
公立商業学校    1校  生徒数    179人(朝鮮人)
男子    179人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈4〉工 業
官立工業学校     0校
〈5〉水 産
公立水産学校     0校
〈6〉女子実業
公立女子実業学校  0校

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月17日(土)05時31分4秒 ACCD0AA7.ipt.aol.com   返信・引用
5.簡易実業補習学校
① 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
〈1〉農 業
公立農業補習学校 46校  生徒数    806人(朝鮮人)
男子    806人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業補習学校  6校  生徒数    256人(朝鮮人)
男子    256人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉工 業
公立工業補習学校 10校  生徒数    144人(朝鮮人)
男子    144人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立工業補習学校  0校
〈4〉機 業
公立機業補習学校  3校  生徒数     63人(朝鮮人)
男子      0人(100%)
女子     63人(100%)
〈5〉水 産
公立水産補習学校  2校  生徒数     44人(朝鮮人)
男子     44人(100%)
女子      0人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月17日(土)05時29分8秒 ACCD0AA7.ipt.aol.com   返信・引用
6.専門学校
① 修業年限
3年~4年(朝鮮教育令 第26条)
16歳以上の者で高等普通学校(4年)を卒業した者(同 第23条)
※ 師範科 1年(男子) ※ 高等普通学校卒業者
日本の高等学校・高等女学校高等科・予科にあたる(ただし、日本では
就学年限が3年)
② 教科および授業時間(1週間)
〈1〉京城専修学校(1週間)
朝鮮語・漢文             0時間
国 語(日本語)           4時間
※ 2学年より2時間
★ 現在の日本の大学(法学部)専門課程にあたる。
〈2〉京城医学専門学校
朝鮮語・漢文             0時間
国 語(日本語)           4時間
※ 2学年より2時間
★ 現在の日本の大学(医学部)専門課程にあたる。次の特別医学科も同じ。
同特別医学科
朝鮮語・漢文             3時間
※ 2学年より2時間
国 語(日本語)           0時間
〈3〉 京城工業専門学校
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           2時間
★ 現在の日本の高等専門学校(高専)にあたると思われる。
〈4〉 水原農林専門学校
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           2時間
★ 現在の日本の高等専門学校(高専)程度にあたると思われる。
◎ ただし、私立は朝鮮語・漢文・国語(日本語)は自由(教えても、教えなく
ともよい)
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
官立専門学校      5校  生徒数    382人(朝鮮人)
男子    382人(100%)
女子      0人
※ 日本人が709人(男子)いた
私立普通学校      4校  生徒数    474人(朝鮮人)
男子    474人(100%)
女子      0人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

7.師範学校
師範学校については、第一次朝鮮教育令では規定がなかった。高等普通学校、
女子高等普通学校などの師範科で養成することとなった。したがって、朝鮮
統監府時代の「官立漢城師範学校」は廃止された。
ところが、第一次朝鮮教育令が改正される直前の大正10年(1921年)
4月に朝鮮総督府師範学校官制ならびに朝鮮総督府師範学校規則が発布され、
京城に「朝鮮総督府師範学校」が設立された。この制度はそのまま、第二次
朝鮮教育令〔大正11年〕2月4日公布)に引き継がれた。
① 修業年限(6年)
普通科 5年
尋常小学校卒業程度
演習科 1年  普通科修了者、中学校を卒業した者、これと同等の学力を
を有する者
研究科 1年~2年  師範学校(6年)卒業者


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月21日(水)23時00分58秒 ACCD0E11.ipt.aol.com   返信・引用
>書 堂(1)<

ここからは、日本統治時代の教育とは言えなかったが、不十分ながらも
教育の一翼を担っていた「書堂」について説明する。
よく「日本統治」の功績を認めない者は、朝鮮人の手になる「書堂」
および私立学校こそ教育の実があり、それを朝鮮総督府が弾圧したという。
とんでもない言いがかりである。『朝鮮の教育界を見るに従来相反せる二個
の傾向あり、即ち一つは旧守的にして他は突飛的なり、夫の書堂の如き漢籍
の素読を授くるに止まり何ら日用の知識を与えざるものは前者に属し、或る
種の私立学校の如き徒に高尚の学科を授け、其の課程を
複雑にし其の年限を長くし、以て高等教育を授け得たりとして得々たるものの
如きは後者に属す』(朝鮮総督府 関屋学務局長)は朝鮮総督府関係者の発言
であることを割り引いても、当時の朝鮮人などになる学校の現状を物語って
いる。
こうした実情を改革しようとして、大正7年(1918年)にはこれに
関する書堂規則が発布された。朝鮮語教育についてはそれを行うのであれば、
朝鮮総督府の教科書を使用することが奨励された。
これは「書堂」・私立学校を含む朝鮮人教育機関に「朝鮮語教育」の一貫
した方針がなく、統一された教科書もなく、しかもほとんどの「書堂」では
次に示すとおり「朝鮮語教育」など行われていなかったからである。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月21日(水)22時58分0秒 ACCD0E11.ipt.aol.com   返信・引用
>書 堂(2)<

朝鮮総督府は「書堂」でも「朝鮮語」はおろか「国語(日本語)」の教育
を強要しなかった。そのため、「書堂」で「国語(日本語)」を教えていた
ものは、次に記すとおりその1割程度に過ぎなかったのである。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20060410(嫌韓流の嘘を暴く)
では、<書堂は漢文教育を通じて儒教教育をおこなった伝統的教育機関であり、
1910年には1万6540校であったが、1910年代後半には2万3000~
2万5000校へ増大し、その一割程度は、漢文以外に朝鮮語、日本語、算術
なども教えるようになり、民族教育機関としての性格を強めつつあった>という
(先の「『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ」の「呉 文淑」も同じ趣旨)。
しかし、「書堂」教育での教育はそうではなかった。『伝統的な中国古典と、
忠誠と上下関係とを重んじる儒教の教えだけを学んでいた』(『黒い傘の下で』
ヒルディ・カン ㈱トランネット2006年9月15日 73頁)、『中国語
(漢文のことか?)の教科書は中国人によって、中国の文化に親しめるように
作られています。・・・・私はまず千字文を修め、次いで中国史(童蒙先習、
明心宝鑑、資治通鑑)を学びました。次に孟子7冊と太学、さらに四書と
三経と言われる論語の7冊に取り組みました』 ホン・ウルス 1905年
生まれ 慶尚南道(前掲書 同頁)。
これを見てもわかるとおり、書堂の一割程度しか「朝鮮語」教育が行われて
いなかった。つまり、朝鮮人の教育は李氏朝鮮時代の漢文中心教育から一歩
も出ていなかったのである。朝鮮人に見捨てられていた<朝鮮語教育>は
朝鮮総督府が官立・公立学校を中心に行っていたのである。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月21日(水)22時54分33秒 ACCD0E11.ipt.aol.com   返信・引用
>書 堂(3)<

「書堂」教育の問題は、そればかりではなかった。<女子教育>が除外されて
いたことである。『私が書堂に通ったかって? 何です? 書堂に? 女の子は
行かなかったのですよ!』(イ・オクブン 1914年生まれ 忠清南道(前掲書
82頁)。
なお、『黒い傘の下で』は在米朝鮮人が日本統治時代を経験した同じ在米
朝鮮人の証言を収集して回った証言集である。
なお、朝鮮総督府が「私立学校・書堂」における教育を統制したこと
に異を唱える者がいる。しかし、どの国家でも教育の水準を保つため
統制することは<当たり前>のことである。現在の韓国でも北朝鮮でも
行われている。朝鮮人に教育などまかせていれば、<朝鮮語教育>などは
行われるはずもなく、見捨てられるという結果になっていたことは明らかである。
さらに<抗日気運が強いなかで普通学校は忌避され>(嫌韓流の嘘を暴く)、
とあるが、これも嘘! これは朝鮮総督府による学校が従来の「漢文教育」を脱却
しようと試みたことに対する儒教至上主義に凝り固まった「儒生」の反発があった
からである。この辺の事情は前掲書(『朝鮮教育要覧』朝鮮総督府 大正8年
(1919年)1月30日)にも詳しい。

前掲書から、「書堂」と「公立普通学校」の数、生徒数を挙げる。前者が上段、
後者が下段である。ただし、「公立普通学校」の最初は1912年(明治45年)

数       教員数     生徒数
1911年      16,540   16,771   141,604
(明治44年)       328    1,391    42,201
男子      女子
141,034     570
38,837    3,364
1912年      20,468   20,807   195,689
(大正2年)        351    1,593    49,731
195,298     391
45,327   4,404
1914年      23,441   23,624   229,590
(大正4年)         397    1,856    61,733
229,028      522
55,917    5,404
1917年      24,294   24,520   264,835
(大正7年)    462  2,314   89,379
264,013   812
76,898 10,481


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月21日(水)22時36分43秒 ACCD0E11.ipt.aol.com   返信・引用
>書 堂(4)<

朝鮮総督府は「書堂」における教育を禁止することはなかった。それが証左に
「書堂」は下記のとおり、明治44年よりも大正7年(1918年)の方が増加して
いる。

日本統治時代でも学校数は私立学校・書堂の方が多かった。大正7年5月末現在
の学校(朝鮮人対象)の状態を見てみよう。資料は前掲書である。( )内は
明治44年

学校数          生徒数
男子         女子
官立普通学校      2        338       171
(     2) (     269)  (   138)
公立普通学校    462     76,898    10,481
(   328) (  38,837) (  3,363)
私立普通学校     26      2,335       555
(   25) (   1,534) (    497)
私立学校
一般       518     26,816     1,258
(  817) (※ 39,362)  ※ 男女合計
宗教       350     14,339     7,257
(   545) (※ 18,017)  ※ 男女合計
書 堂    24,294    264,023       917
(16,540) ( 141,034) (    570)

★ 私立学校、書堂の1912年(明治45年)~1942年(昭和17年)
までの数、生徒数は(24)に掲載する。

この「書堂」の教育を見てもわかるように、先のとおり朝鮮人の悪弊である
女子蔑視は教育に及び「女子教育」は顧みることはなかった。朝鮮人創立になる
私立学校も同じであった。先の「『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ」、「嫌韓
流の嘘を暴く」はこのことに全く触れていない。
どうして、朝鮮総督府が「書堂」という前近代的・差別教育機関を存続させて
いたのか信じられない。即刻、廃止してまえばよかったのである。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(13) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月23日(金)08時07分6秒 ACCD48FB.ipt.aol.com   返信・引用
>私立学校(1)<

さらに「嫌韓流の嘘を暴く」は<朝鮮人が自主的に作った私立学校は2250校(
明治41年〔1908年〕の私立学校令)もありました。私立学校では、朝鮮語教育
が重視されました>というのは真っ赤な嘘で、そのうち800余は直接・間接に
外国人宣教師が設立したもので(『旧韓国の教育と日本人』稲葉継雄 九州大学
出版会 1999年10月8日、前掲書)、そこでは宗教教育が主たるものであった。
そして「女子教育」も彼らが担っていた。執筆者は稲葉継雄の前掲書を参考文献
として挙げている。何を読んでいるのか?
朝鮮人の手になる「私立学校」でも<朝鮮語教育が重視されました>というもの
ではなく、実業、手芸・裁縫が中心に据えられ、いわゆる<実学>という世の中
に出てすぐに役立つものが中心となっていたものが多かった。朝鮮語のほか漢文
が必ず教えられていた。「私立学校」での教育はてんでばらばらで教育の水準が
低かったこともあって、明治44年(1911年)に私立学校規則を制定して、その
是正を行った。これは民族教育を弾圧したのではなく、教育内容を高めるためには
当然のことであった。
「私立学校規則」(1915年〔大正4年〕)の第14条に「1.法令の規定に
違反したたるとき、2.安寧秩序を紊乱し又は風俗を壊乱する虞あるとき、
3.学校閉鎖命令に違反したとき、は朝鮮総督は私立学校の閉鎖を命じることが
できる」と定めていた。これを以て私立学校への弾圧だという者がいる(鈴木の
前掲書 60頁)。全く実態を見てない<虚論>に過ぎない。同じような規定は
大韓帝國時代の朝鮮統監府時代にもあった(「私立学校令」〔明治41年
[1908年]〕。朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」もこれについて『廃校
処分の如きも法文上の装飾に止まり政府はこの規定を実行する意思はなかった。
これは廃校処分は政府に対する反抗が激しく、政府を維持できないからである』
と述べている(『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社
大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」
第26巻所収 75頁)。この方針は朝鮮総督府になっても維持された。
「高橋敏夫」は法と運用との区別もつかない。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月23日(金)08時04分4秒 ACCD48FB.ipt.aol.com   返信・引用
>私立学校(2)<

朝鮮人のこれまでの「普通学校」の忌避が一転して「普通学校」増設要求にとっ
て変った。これはこれまでの儒者に扇動された儒教中心教育では、世の中について
行けないことへの自覚でもあった。朝鮮総督府の近代教育が勝利したのである。
『朝鮮の教育界を見るに従来相反せる二個の傾向あり、即ち一つは旧守的にして
他は突飛的なり、夫の書堂の如き漢籍の素読を授くるに止まり何ら日用の知識を
与えざるものは前者に属し、或る種の私立学校の如き徒に高尚の学科を授け、其の
課程を複雑にし其の年限を長くし、以て高等教育を授け得たりとして得々たるもの
の如きは後者に属す』(朝鮮総督府 関屋学務局長)は朝鮮総督府関係者の発言で
あることを割り引いても、当時の朝鮮人などになる学校の現状を物語っている。
事実、大正9年(1920年)から昭和元年(1926年)までの6年間で、普通学校
は595校から1336校と約2倍半に、生徒数も107,200人(学齢児童の
就学率 4.6%)から438,990人(学齢児童の就学率 17.6%)と
約4倍にも達している。このような朝鮮人の教育熱に普通学校の増設が追いつかず、
児童は私立学校にも殺到したのである。私立学校も生徒数の異常な増加に対応でき
すに教育の質が低下し、これが同盟休校の要因となった。
女子教育についても「私立学校」は従来から、その教育に熱心であったが、
「書堂」はこれに関心がなかった(「金 富子」前掲書 247頁)。しかし、
「普通学校」、「私立学校」の女子教育への取組みに刺激され、昭和5年
(1930年)以降は女子の就学に取組みはじめている。これについては
「金 富子」も指摘しないが(前掲書 218頁)、朝鮮総督府が1934年
(昭和9年)に、農村の隅々まで「簡易学校」は、1934年を創立し、
<女子の就学>を一層促進し、男児についても不就学者の減少に努めたこと
によって「書堂」が存亡の危機に立たされたからである。「金 富子」も
勉強が足りない。
なお、「私立学校」および「書堂」の生徒数・男女の就学率などについては、
後に提示する。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(15) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月23日(金)08時01分49秒 ACCD48FB.ipt.aol.com   返信・引用
>私立学校(3)<

「私立学校」の数の推移は次のとおりである。資料は「朝鮮総督府統計年報」
1918年度(大正7年)版 1002頁である。末尾の資料を引用した。

学校数      生徒数
男子    女子   合計
1911年   一般    901 36,815 1,725 38,540
(明治44年) 宗教    566 15,274 3,718 18,992
1912年   一般    823 34,289 1,688 35,977
(明治45年) 宗教    494 14,574 4,762 19,336
1913年   一般    800 34,897 1,720 36,617
(大正2年)  宗教    477 15,514 5,383 20,897
1914年   一般    745 31,135 1,615 32,750
(大正3年)  宗教    462 15,147 5,988 21,125
1915年   一般    660 28,556 1,738 30,294
(大正4年)  宗教    422 15,000 6,430 21,430
1916年   一般    583 26,413 1,408 27,821
(大正5年)  宗教    386 13,949 6,873 20,822
1917年   一般    497 23,709 1,060 24,769
(大正6年)  宗教    325 12,829 6,045 18,874
1918年   一般    463 17,137 1,073 18,210
(大正7年)  宗教    312 11,813 5,174 16,987

なお、私立学校には従来どおり道から費用が支弁されていた。朝鮮総督府は
「私立学校」にも教育機関としての価値を認めていたのである。

※ 『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会1982年12月
10日
★ 私立学校、書堂の1912年(明治45年)~1942年(昭和17年)
までの数、生徒数は(22)に掲載する。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(16) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月23日(金)08時00分8秒 ACCD48FB.ipt.aol.com   返信・引用
>私立学校(4)<

「私立学校」における問題は、先に「朝鮮統監府時代の教育の歴史」
(私立学校-(19)以下)で説明したが、学校そのものは朝鮮人の経営に
なるものばかりではなかった。外国人宣教師の経営になる「ミッション・
スク-ル」にもあった。ここでの問題点は<宗教と教育の分離>だった。
大正4年〔1915年〕4月8日、朝鮮総督府総務部外事局長「小松 緑」
はアメリカの長老派宣教本部海外伝道局総務ブラウン(当時の朝鮮における
キリスト教は長老派が支配的地位を有していた)に「宗教と教育の分離」を
質している。ブラウンはこれに対し、アメリカの各宗派のミッションボ-ド
の各委員会責任者と協議し了解を得たうえで、同年6月16日に小松に回答
を寄せている。そこには『宗教と教育の分離はミッション・スク-ルの拡充
計画とキリスト教指導者の育成計画の破棄につながり、宣教教育を著しく
損なう』がある。<衣の下から鎧が見える>のとおり教育より宣教だった
のである。これを紹介した「李 省展」もこのことを<看過>している。
長老派本部(その他の各宗派も含む)と朝鮮総督府は対立していたわけ
ではなく、協調の姿勢を保っていた。ブラウンは翌年1月17日にアメリカ
の各教派のミッションボ-ドの朝鮮委員会と定議委員会の合同会議を招集し、
13項目の確認を行った。その骨子は次のとおりである。
1.朝鮮は日本帝國の必要・不可欠な一部分であることを認める。
2.朝鮮総督府の朝鮮人同化政策を理解する。
3.朝鮮総督府は朝鮮人にとって価値ある改革をしてきたことを賞賛する。
4.教団は政治的関与を行わない。
5.教団は、朝鮮総督府が定めた学年制、カリキュラム、学校の性格などの
改善に関する規則を遵守する。
6.朝鮮総督府との競合を避け、初等教育から撤退する。

※ 「宣教師と日帝下朝鮮の教育」李 省展 119頁(『朝鮮民族運動史研究』
朝鮮民族運動史研究会 不二出版 1993年9月10日


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(17) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月23日(金)07時58分10秒 ACCD48FB.ipt.aol.com   返信・引用
>私立学校(5)<

朝鮮におけるキリスト教長老派教団の態度は以上のとおりであるが、
監理教(メソジスト派)の「培材学堂」は大正5年〔1916年〕2月
10日、朝鮮総督府の定めた「改正私立学校規則」に従って朝鮮総督府
認可の高等普通学校となった。朝鮮のキリスト教私立学校は「宗教と教育
の分離」に抗すべくもなかったのである。宣教師のなかにはこのような教団
の態度に不満を抱く者もいたが、教団はこれに助力せずそうしたキリスト教
私立学校は財政的にも行き詰まっていき消滅していった。「崇実学校」
(平壌)「改正私立学校規則」に従わず消滅したが、これも長老派、監理教
の朝鮮総督府への態度からすれば当然のことであった。
「李 省展」はキリスト教学校の精神は朝鮮の「朝鮮騒擾事件」の後の
自主独立、近代化に寄与したという。しかし、過大評価の最たるもので
<近代化>は朝鮮総督府の教育によってもたらされたものでキリスト教
学校の影響は小さい。自主独立についても残念ながら朝鮮総督府によって
その根は摘み取られていた。キリスト教学校が<独立>の表舞台に躍り出る
ことは全くなかったのである。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(18) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月24日(土)12時20分0秒 ACCD5C2A.ipt.aol.com   返信・引用
1919年(大正8年)3月末現在の学校数、生徒数を提示する。資料は
「朝鮮総督府統計年報」1918年度(大正7年)版 794頁~1002頁
である。前記の資料を引用した。

学校数      生徒数
男子    女子   合計
普通学校       官立     2 305 164 469
公立    469 67,529 8,403 75,932
私立 36 2,822 790 3,612
計 507 70,656 9,357   80,013
高等普通学校     官立 4 1,485 0 1,485
私立 6 208 0 208
計 10 1,693 0 1,693
女子高等普通学校   官立 2 0 319 319
私立 4 0 330 330
計 6 0 649 649
実業学校
農 業       公立 17 1,221 0 1,221
商 業       公立 2 274 0 274
私立 1 114 0 114
商 工       公立 1 55 0 55
計 21 1,694 0 1,694
簡易実業学校
農 業       公立 50 897 0 897
商 業       公立 2 38 0 38
工 業       公立 7 275 0 275
水 産       公立 10 151 0 151
計 69 1,361 0 1,361
専門学校       官立 4 495 0 495
私立学校
一 般       私立 463 17,137 1,073 18,210
宗 教       私立 312 11,813 5,174 16,987
合  計 1.392 104,849 16,253 121,102
書  堂 23,369 260,146 829 260,975


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(19) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月24日(土)12時18分25秒 ACCD5C2A.ipt.aol.com   返信・引用
先のとおり、官・公立学校においては「朝鮮語」が教えられていた。<皇民化
教育>というのであれば、初等教育段階から徹底して「国語(日本語)」を教え
込めばよく、「朝鮮語」を教える必要性は全くない。
さらに、<朝鮮語教育そのものは徹底して弾圧された>などということはその
痕跡すらない。
それでは、どうして朝鮮で朝鮮人に「朝鮮語教育」が行われたかというと、
それは識字率の低さにあった。日本の江戸時代とは全く様相を異にしていた。
李氏朝鮮時代終期にあっては、児童に対する教育は主として「書堂」で行われた。
教育の対象となっていたのは両班などの支配階級でそれも男子に限られた。それも
漢文教育で諺文と呼ばれたハングルは教育の主流から外されていた。特に女子の
識字率は8%であったといわれている。朝鮮総督府の教育の功績の一つが「女子
教育」にあったということは憶えておいていただきたい。これは先の朝鮮人の
私立一般学校および書堂の<女子児童の数>と朝鮮総督府が主導する普通学校
などのそれとの比較から容易に理解できると思う。
下記(2番目)のとおり、昭和10年(1935年)頃でも朝鮮人の識字率は
27.4%に過ぎなかったという記録がある。
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/edo1.html
http://world-reader.ne.jp/renasci/history/okazaki-050520.html

工業、農林、医学などは朝鮮人を教え、対象とする。「京城医学専門学校」で
朝鮮人教育を専門とする「特別医学科」では朝鮮語は必修科目であった。だいたい
から朝鮮においては、朝鮮人が大正元年では98.31%(日本人は1.64%)、
昭和元年では97.44%(日本人は2.31%)、昭和17年でも96.82%
(日本人は2.85%)なのであり、日本語を解する朝鮮人は、大正2年末で
0. 61%、大正12年末で4.08%、昭和8年末で7.81%、昭和
18年末で22・15%なのであるから(『太平洋戦争下終末期朝鮮の治政』
近藤釼一 昭和36年)、朝鮮語が理解できなければ、朝鮮人相手の医療など
できるはずもなく、朝鮮人に産業指導など不可能だったのである。
執筆者は、こうした「朝鮮語教育」すら<皇民化教育>というのであろう。
<妄想>の類である。先のとおりだいたいから朝鮮人は「朝鮮語教育」など行って
いなかったのである。
また、朝鮮人の識字率を高めることが<皇民化教育>であるというのは、まとも
に批判することさえ馬鹿バカしい。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(20) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月24日(土)12時16分38秒 ACCD5C2A.ipt.aol.com   返信・引用
日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(20)

執筆者が問題としている「第二次朝鮮教育令(大正11年〔1922年〕)」後の
普通学校の普通学校でも、第一次の教育令での朝鮮語教育は維持された。
「朝鮮語教科書」(「第二次朝鮮教育令下の朝鮮語教科書の日本語訳」権
在淑〔『日本は朝鮮で何を教えたか』旗田 巍 あゆみ出版 1987年6月20日〕)
をみても、朝鮮語のイロハ(巻1-1学年用)から、「韓 石峯」(巻5-
5年生用)、「徐 敬徳」、「李 退渓・李 栗谷」(巻6-6学年用)など
朝鮮人偉人、「沈清」(巻5-5学年用)などの朝鮮民話も教えられ、修身・
説話も多い。<日本皇民化>と目されるものとしては、紀元節(巻3-3学年
用)、朝鮮の行政官庁(巻6-
6学年用)など極めてわずかである。何を以って<皇民化教育>というのか
わからない。執筆者は「朝鮮語教科書」すら読んでないのであろう。
また、「日本は朝鮮語を奪った」などと説く者がいる(「朝鮮における
日本植民地教育の歴史」小沢有作〔『日本は朝鮮で何を教えたか』旗田 巍
あゆみ出版
1987年6月20日〕)。奪うも何も、前記のとおり朝鮮では日本語を解する朝鮮人
は最大でもわずか22・15%だったのである。これも何を以って<奪う>と
いうのか全く理解しがたい。

以上のとおり、「『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ」と「嫌韓流の嘘を暴く」
(http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20060410)の双方とも「日本統治時代の朝鮮
語教育」に関する部分については<デタラメ>である。

★ 第二次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt11-19.htm
★ 第三次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs13-103.htm


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(21) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月24日(土)12時13分1秒 ACCD5C2A.ipt.aol.com   返信・引用
「辻本 武」さんから、次のような指摘がなされている。

姜在彦さんは『近代における日本と朝鮮』第三版(すくらむ社 1981)で、
朝鮮総督府が施行した教育について次のように評価しています。

「日本における“皇民化”教育の基本方針は、1911年8月の朝鮮教育令の公布
に先だち、第一代朝鮮総督寺内正毅が同年7月、各道(日本の都道府県に相当)
長官にあたえた訓示のなかに明示されている。つまり“今後朝鮮ノ教育ハ専ラ
有用ノ知識ト穏健ナル徳性トヲ養成シ、帝国臣民タルヘキ資質品性ヲ具ヘシムル
ヲ以テ主眼”とする、日本の植民地支配に従順な奴隷教育である。」(96~97頁)

ところが、彼はその直後に次のように論じています。
「初等教育であれ中等教育であれ、朝鮮人子弟の就学率はきわめて低く、未就学
児童の比率はきわめて高かった。例えば1936年現在の適齢児童の就学率は25%
(男子40%、女子10%)にすぎない。いわば教育機会を制限する愚民化政策で
ある。」(98頁)

奴隷教育であるならば、就学率の低さは喜ばしいはずです。
しかし就学率の低さを「愚民化政策」とするなら、奴隷教育の就学率を高く
すべきであったとなるはずです。
いったい姜在彦さんは当時の朝鮮人の子供たちは総督府の学校に行っては
ならなかったと言っておられるのか、もっと多く行くべきであったと言って
おられるのか。
朝鮮史研究者には、このような矛盾した記述をすることがよくあります。
藤永さんも同類ではないでしょうか。

※ 「辻本 武」(http://8004.teacup.com/fv2ttjmt/bbs?OF=350&BD=3&CH=5)
(2006年 8月19日(土)15時03分56秒)


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(22) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月26日(月)12時25分27秒 ACCD1366.ipt.aol.com   返信・引用
>学校の費用(1)<

学校の費用はどのように賄われていたのであろうか。学校費用、特に
「普通学校(初等教育)」については、1911年(明治44年)に
「公立普通学校費用令」(制令第12号)が制定されている。ここでは、
公立普通学校の設立維持に必要な費用は学校設立区域内の朝鮮人の負担と
する(第2条)、その費用は国税滞納処分により徴収されるとする(第3
条)。この規定は1920年(大正9年)に「朝鮮学校費令」に改められが、
従来の先の規定は維持され、特別な事情があるときは夫役または現品を賦課
することができるとした(第5条)。これを以て、日本式の「公立学校」の
ために、農民らは重い賦課金が課せらるようになったという者がいる
(『朝鮮植民地統治法の研究』鈴木敏夫 北海道大学図書刊行会 1989年8月31日
103頁)。<重い賦課金>とは何かについて全く言及がない。「鈴木敏夫」
は研究が足りない。
学校費と学校組合費(学校設立区域内には住民の組合が結成され公立
普通学校の設立維持に必要な費用は2本建てで徴収されていた)の民族別
負担について、例えば、慶尚北道(1923年〔大正12年〕)の一戸あたり
の賦課金平均は、朝鮮人世帯2.54円日本人世帯21.81円(『大正
12年慶尚北道教育及び宗教一斑 九』〔日本植民地教育政策史料集成
第39巻 下 1989年8月に所収〕、全羅南道(1927年〔昭和2年〕)
の一戸あたりの賦課金平均は、朝鮮人世帯0.76円、日本人世帯25.
12円(『昭和2年全羅南教育及び宗教一斑 九』〔日本植民地教育政策
史料集成 第39巻 上 1989年8月に所収〕、これについて「金 富子」
も『植民地期朝鮮の教育とジェンダー』(世織書房 2005年5月10日 77頁)
で、『賦課金は所得に応じて賦課されたので、両者の負担額の格差は、その
負担額は日本人世帯・朝鮮人世帯との間に顕著な経済格差があったことを
示すものといえよう』と記述している。これも検証を怠ったとんでもない
<妄言>である。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(23) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月26日(月)12時21分44秒 ACCD1366.ipt.aol.com   返信・引用
>学校の費用(2)<

学費負担率の各世帯の比率は、慶尚北道で1;8.6(朝鮮人世帯:日本人
世帯)、全羅南道で1:33.1(朝鮮人世帯:日本人世帯)、常識で考えても
そんな経済格差があるわけない。朝鮮人と日本人(内地)の賃金格差は、
1924年(大正13年)で、1:1.67くらいである(『日本人の海外
活動に関する歴史的調査 第3巻 朝鮮篇 2 第14章 工業の発達』
大蔵省在外財産調査会 ゆまに書房 2002年 復刻版〔拙稿「日本統治下の
朝鮮における労働者の就業実態(23)以下 参照〕)。1910年(明治
43年)でさえ、1:2であった。「金 富子」はもっと研究を深めた方が
よい。
第一次朝鮮教育令(施行期間 1911年〔明治44年〕~1921年
〔大正10年〕下での「日本人学童(公立尋常小学校)」の授業料は、
1ヶ月40銭以下(朝鮮公立小学校規則 第20条)、「朝鮮人学童
(公立普通小学校)」の授業料は、規定なし(普通学校規則
第32条)、だった。
第二次朝鮮教育令(施行期間 1922年〔大正11年〕~1937年
〔昭和12年〕下での「日本人学童(公立尋常小学校)」の授業料は、
1ヶ月50銭以内(小学校規程第83条)、「朝鮮人学童(公立普通小学校)」
の授業料は、1ヶ月1円以内(普通学校規程第81条)、だった。「金 富子」
は前掲書の78頁で、『より脆弱な経済基盤しかもたない朝鮮人家庭の方が、
より高額な授業料を負担しなければならなかった』と記述している。
これは<建前>であって、先の「朝鮮人世帯:日本人世帯の学校費負担額」
からみて、規程どおりの負担を朝鮮人世帯が強いられていたかは疑問である。
「金 富子」は自説を維持したかったら、具体的な負担額を提示すべきである。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(24) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月26日(月)12時18分24秒 ACCD1366.ipt.aol.com   返信・引用
>学校の費用(3)<

学費については、朝鮮の南半分(京畿道、忠清道、全羅道、慶尚道)の学童
1人当たりが40銭(年4円80銭)だった(「東亜日報」1924年(大正13年)
11月15日)。
また、朝鮮全土の平均は昭和6,7年ころ(1932年・1933年ころ)
学童1人当たり月額60銭(年間7円20銭)だった(大野 前掲書 260頁)。
1戸当たり年間3円60銭(府)、90銭(邑=町)だった。
学費の納入について、「東亜日報」1921年(大正10年)12月5日の記事がある。
これによると、京城府の普通学校の第一期納入通知書が9,772人に合計
77,559円(1人当たり7円94銭)送付されたが、納入者が6,924人
で合計63,841円14銭(1人当たり9円22銭)だった。第一期が
何か月分かは不明だが、前記の朝鮮の南半分の学費から考えて1年分では
なかろうか。
学費は在朝日本人の1/20程度で極めて優遇されていたが、普通学校
への就学率を上げるため、授業料低減のため国庫より昭和9年(1934年)
に50万円、昭和10年以降100万円を拠出することとし、学童1人当たり
月額20銭を低下させ、月額40銭(年間4円80銭)にした(大野 前掲書
261頁)。

教育費に関する予算を挙げる。資料は「大野謙一の前掲書 71頁」である。
下段は国家歳出に対する割合である。単位 千円

大正元年            大正8年
(1912年)           (1919年)
国 費     1,050            2,403
1.99%            3.10%
道 費       636            2,515
27.20%           30・90%
学校費       935            3,213

なお、朝鮮の1930年(昭和5年)教育費の朝鮮歳出総額に対する割合は、
3.65%で台湾の6.3%、日本の15.1%と比べても非常に少なかった。
朝鮮総督府の財政は悪化していたのあって、教育予算をケチっていたためではない。
これについては「朝鮮と台湾の財政」で詳しく説明する。

★ 国費は、専門教育・中等教育の一部に使用された。
道費は、中等程度教育の一部に使用された。
学校費は、初等教育にに使用された。
◆ 学校費は、住民からの賦課金で賄われた。日本人が圧倒的に負担していたのは
先に示したとおりである。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(25) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月28日(水)08時50分47秒 ACCD1541.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(1)<

日本統治時代の朝鮮の「教育費」については先に説明したが、ここでは
詳しく見てみたい(重複する部分もあるがおさらいの意味で我慢していた
だきたい)。「教育費」は、① 総督府負担 中等学校(一部)、師範学校、
専門学校、大学に関わる費用 ② 道負担 中等学校(大部分)に関わる費用
③ 学校組合費(後の府第一部経済) 日本人のための小学校、高等女学校・
実業補修学校(都会地のみ)に関わる費用 ④ 学校費朝鮮人のための普通
学校に関わる費用 に分けられていた。
教育費の推移を見てみたい。資料は末尾の若槻泰雄のものである。原典は
『朝鮮総督府統計年報』(当該年度版)、『朝鮮諸学校一覧』(当該年度版)
である。( )内は支出総額に対する割合、〔 〕ないは1910年を
100とした倍率  単位は千円

1919年〔大正8年〕       1935年〔昭和10年〕
支出総額   教育費

総督府負担   77,560  1,706    228,348  11,147
( 2.2%)            ( 3.9%)
〔100〕              〔653〕
道負担      7,547  2,113     59,393  14,848
(28.0%)            (25.0%)
〔100〕              〔703〕
学校組合費    2,391  2,391      8,021   8,021
(100%)             (100%)
〔100〕              〔335〕
学校費      2,514  2,514     20,747  20,747
(100%)             (100%)
〔100〕              〔825〕
合 計     90,012  8,724    376,509  54,773
( 9.7%)            (14.5%)
〔100〕              〔627〕

※ 『韓国・朝鮮と日本人』若槻泰雄 84頁(原書房 1989年10月11日)
「財政の発達」219頁(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』
通巻第8冊朝鮮篇 第7分冊〔『日本人の海外活動に関する歴史的調査』
第4巻 233頁[ゆまに書房 2002年1月21日]〕)


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(26) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月28日(水)08時47分48秒 ACCD1541.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(2)-学校組合<

学校組合は内地人の教育を行う団体である。日本統治時代の教育は日本語
で行われたが、内地人(日本人)と朝鮮人の日本語習得の差があることから、
内地人(日本人)の教育を専ら行う公共団体として設置されたものである。
組合費は内地人が負担した。1931年〔昭和6年〕以降は府の区域を包括
する学校組合は廃止され、その教育事務は府の第一特別経済に服することと
なった。

学校組合数      予  算
1913年    196      550,000円
1921年    394    4,410,000円
1926年           5,750,000円
1935年    442    3,810,000円
1940年    457    4,619,000円
1943年    462    6,990,000円

1戸平均負担額
1933年    22円56銭     1940年    17円42銭
1937年    12円50銭     1942年    20円30銭

★ 予算は千円以下切捨て
学校組合費の総てを朝鮮人家庭が負担していたわけではなく、ほとんど
を府が賄い、7.5%~17.5%を負担したに過ぎないことは後に
説明する。

※ 「財政の発達」220(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』
通巻第8冊 朝鮮篇 第7分冊〔『日本人の海外活動に関する歴史的
調査』第4巻 234頁[ゆまに書房 2002年1月21日]〕)
原典は『朝鮮総督府統計年報』(朝鮮総督府)。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(27) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月28日(水)08時42分52秒 ACCD1541.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(3)-学校費(1)<

朝鮮人の初等教育は明治44年〔1911年〕の「公立普通学校費用令」
により運営されていたが、教育が拡大し多額の財源を必要とし、朝鮮人の
負担も厳しくなったこともあって、大正9年〔1920年〕、「朝鮮学校
費用令」が制定され、昭和6年〔1931年〕には「学校組合」の場合と
同じく朝鮮人教育事務は府の第二特別経済に服することとなった。教育費用
は当初から朝鮮人が負担したが、負担を軽減するためにその負担額は総経費
の1割に過ぎなかった。
日本人用の小学校と朝鮮人用の普通学校に関する教育費などを挙げる。
小学校には朝鮮人・外国人が、普通学校には日本人がわずかであるがいた。
ただ、富裕層を中心に小学校に入学する朝鮮人師弟が増加していった。

普 通 学 校         小 学 校
生徒数   1人当たり     生徒数   1人当たり
学校数    経費(円)    学校数    経費(円)
1913年      49,731  17.62   21,700  28.33
〔大正2年〕        351             204
1917年      81,845  14.22   33,976  22.13
〔大正6年〕        435             341
1921年     224,737  26.96   46,419  54.10
〔大正11年〕       808             418
1926年     417,034  22.90   49,484  54.93
〔昭和元年〕      1,258             446
1930年     472,858  23.20   60,650  48.73
〔昭和5年〕      1,639             464
1935年     681,240  19.60   76,353  44.76
〔昭和10年〕     2,269             489
1940年   1,320,949  17.36   86,725  52.36
〔昭和15年〕     2,851             520
1943年   1,912,627  26.87   93,629  68.33
〔昭和18年〕     3,717             539

この経費を朝鮮人家庭、日本人家庭が総てを負担しているものではなく、
朝鮮人家庭の場合は日本人家庭がほぼその30%を負担していたのに対し、
7.5%~17.5%を負担したに過ぎなかったことは次表から読み取れる。
朝鮮人と日本人の経済格差がこんなにはなかったことは、次項で明らかにする。

1戸平均負担額(朝鮮人)    1戸平均負担額(日本人)
1937年     1円48銭           12円50銭
1942年     4円71銭           20円30銭

● 学校は6年までとし、補習科、高等科の生徒数は除いた。
1人当りの経費は、学校経費の経常部に計上されているものを基準とし、
臨時部(学校新築費など)は除いた。
★ 1943年〔昭和18年〕は、小学校は「国民学校(一部)」、
「普通学校」は「国民学校(二部)」として分類されている。

※ 1913年〔大正2年〕は『朝鮮教育要覧』39頁 朝鮮総督府 大正8年1月
(年末現在の数値)
それ以外は、『朝鮮諸学校一覧』各年度版 朝鮮総督府学局(毎年5月末現在
の数値)


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(28) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月28日(水)08時39分23秒 ACCD1541.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(4)-学校費(2)<

それでもこれを批判する者がいる(『植民地期朝鮮の教育とジェンダ-』
金 富子 77頁(世織書房 2005年2月10日)。
金は、1923年〔大正12年〕の慶尚北道の1戸当りの教育費負担額
(1年間)が朝鮮人2.54円、日本人21.82(1:8.6)、1927年
〔昭和2年〕の全羅南道で朝鮮人0.76円、日本人25.12(1:33)
であることを挙げ、そして『朝鮮人と日本人にはこれだけの経済格差があり、
高額授業料の設定自体が朝鮮人の「就学」に抑制的な作用をもたらし、
結果的に授業料負担に耐えられる階級の出身者以外は「就学」からの排除=
「不就学」(不入学・中途退学)の要因の原因となったと考えられる』という。
まったくの<勉強不足>だ。まず、朝鮮人と日本人にはこんなに経済格差
がなかった。1923年〔大正12年〕の両者の賃金格差を『朝鮮総督府
統計年報』(大正12年)から見てみると、有職者で一番賃金格差があった
のが農作婦(賄付)で2.3倍(ただし、これはサンプル数が少ない)、
最下層にあった下女が1.7倍、1927年〔昭和2年〕のそれが『朝鮮
総督府統計年報』(昭和2年)では1.22倍でに過ぎない。むしろ、
高額授業料の設定に苦しんでいたのは日本人だった。<結果的に授業料
負担に耐えられる階級の出身者以外は「就学」からの排除=「不就学」
(不入学・中途退学)の要因の原因となったと考えられる>のは何も
朝鮮人に限らない。日本人こそこういう状態だったと考えられるが、そう
いう状態でなかったのは<日本人家庭の就学意欲>だった。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(29) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月30日(金)07時46分19秒 ACCD0FD1.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(5)-私立学校費(3)<

「書堂」でも「私立学校」でも「授業料」などの負担が必要だったことを
忘れている。大正6年〔1917年〕5月末現在の「私立学校―生徒数
49,754人 学校数 868校」の生徒1人当りの年間経費が11.80円
でそのうち授業料の生徒1人当りの年間経費が1.60円(前記『朝鮮教育
要覧』86頁)だった。主だった年度の私立学普通学校経費をあげる。書堂
については後記)。公立普通学校と同じく府などからの援助があり、父兄の
負担は軽減されていたが、無料というわけではなかっただろう。私立普通学校
は朝鮮人児童のみが通学したので、この経済的能力から考えてこれだけの経費
をすべて負担するのは無理だった。もちろん公立普通学校と同じく府などから
の援助があり、父兄の負担は軽減されていた。公立普通学校と同じく大半は
府などの負担がなされていたことは容易に想像がつく。

普 通 学 校         私 立 学 校
生徒数   1人当たり     生徒数   1人当たり
学校数    経費(円)    学校数    経費(円)
1913年      49,731  17.62    1,646
〔大正2年〕        351              25
1917年      81,845  14.22    1,924   9.93
〔大正6年〕        435              20
1921年     224,737  26.96   10,276  16.60
〔大正11年〕       808              44
1926年     417,034  22.90   18,739  17.03
〔昭和元年〕      1,258              76
1930年     472,858  23.20   23,001  18.74
〔昭和5年〕      1,639              81
1935年     681,240  19.60   52,183  13.82
〔昭和10年〕     2,269              87
1940年   1,320,949  17.36   57,878  21.96
〔昭和15年〕     2,851             134
1943年   1,912,627  26.87   57,868  17.82
〔昭和18年〕     3,717             134

※ 1913年〔大正2年〕は『朝鮮教育要覧』49頁 朝鮮総督府
大正8年1月年4月末現在の数値)
それ以外は、『朝鮮諸学校一覧』各年度版 朝鮮総督府学局
大正8年1月3月末現在の数値)


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(30) 投稿者:解法者 投稿日:2007年11月30日(金)07時41分51秒 ACCD0FD1.ipt.aol.com   返信・引用
>教育費(5)-書堂費<

「書堂」でも朝鮮総督府は費用を日韓併合当初から負担していた。このことは
<誰も指摘しない>。つまり、「書堂」が朝鮮総督府により弾圧されて数が
減少していきましたなどということはいやに熱心に述べるが、朝鮮総督府が
「書堂」を教育機関と認めて経費を援助していたなどとは<口が裂けても>
言わない。「書堂」に子弟を通わせる父兄の負担も大変だったのである。
( )は私立学校の生徒1人当たり経費

普 通 学 校         書    堂
生徒数   1人当たり     生徒数   1人当たり
学校数    経費(円)    学校数    経費(円)
1913年      49,731  17.62  195,689   3.61
〔大正2年〕        351          20,468
1917年      81,845  14.22  259,531   3.33
〔大正6年〕        435          25,486 ( 9.93)
1921年     224,737  26.96  280,864   7.28
〔大正11年〕       808          21,057 (16.60)
1926年     417,034  22.90  196,089   8.03
〔昭和元年〕      1,258          16,089 (17.03)
1930年     472,858  23.20  150,892   5.91
〔昭和5年〕      1,639          15,036 (18.74)
1935年     681,240  19.60  181,774   5.56
〔昭和10年〕     2,269           6,209 (13.82)
1940年   1,320,949  17.36  158,320   6.91
〔昭和15年〕     2,851           4,105 (21.96)
1943年   1,912,627  26.87  153,784   8.51
〔昭和18年〕     3,717           3,052 (17.82)

※ 1913年〔大正2年〕は『朝鮮教育要覧』92頁 朝鮮総督府 大正8年1月
大正8年1月年3月末現在の数値)
それ以外は、『朝鮮諸学校一覧』各年度版 朝鮮総督府学局(毎年5月末現在
の数値


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(31) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 1日(土)12時28分56秒 ACCD4453.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮人の大多数を占める農民が朝鮮総督府の施策の失敗により「小作農」に
転落し、生活が困窮し、授業料を負担できなかったという論理が使われる。
「金 富子」も前掲書の82頁で同じことをいう。さらに彼女は『授業料以外
に、教科書代、通学費、学用品、入学費、後援会費などの負担があり(中略)
多くの朝鮮人家庭にとっては子ども一人当たり現金で年間10円~15円の
授業料を含む教育費は、過重な負担であった』(前掲書 130頁-原資料
は『咸鏡北道慶源郡農家経済状況調査』〔「朝鮮総督府調査月報」1932年
9月号」〕)という。<慶源郡>は中国(当時は間島地方)と国境を接する
朝鮮の最北の地で羅津から同じく間島地方の図們、琿春に抜ける朝鮮鉄道
「咸北線」の沿線にあり、貧困地域でこれを例に取るのは適切ではないが、
それはともかく、それでは普通学校の就学率は1916年の2.9%から
1932年の17,1%に年々増加していることを説明できない。小作農=
貧困というトリックに騙されてはいけない。これについての反論は「朝鮮
における日本人地主の進出」で詳細に説明するが、結論を先に示す。
『農家経済の概況と其の変遷 1 農家経済概況 昭和8年~昭和13年
(自作兼小作農家の部)』朝鮮総督府 昭和15年5月31日、『農家経済の概況
と其の変遷 2 農家経済概況 昭和8年~昭和13年(小作農家の部)』
朝鮮総督府 昭和15年5月31日 によれば「小作農」の家計は赤字となって
ない。また、小作農1戸当たりの耕作面積はかえって増加している。単に
<小作農の増加>では経済状況は図れない。また、生活が困窮すれば、
餓死、生活困窮による自殺も増え、棄児も増加するはずである。窃盗、強盗
も増える。ところがこの期間、これが全く増えてない。強盗などはかえって
減っている。エンゲル係数も変化がなく、1927年(昭和2年)当時の
取得カロリ-にしても朝鮮人が2735カロリ-、日本人が1861カロリ-
で、むしろ朝鮮人の方が摂取量が高い、消費水準も落ち込んでいない。
就学率には貧困が要因であることは否定しない。しかし、それだけでは
語れない。教育に関する意識(必要性)も大きい。近代的教育への不信
もある。女は学校へ行くより家事をすべきという考えから来る女子の就学
への抵抗もある。一言だけだけでは説明できない。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(32) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 1日(土)12時23分59秒 ACCD4453.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の普通学校への就学者数・就学率を挙げる。

朝鮮人    推定学齢  官立       公立     私立
人口      人口   普通学校     普通学校   普通学校
数  生徒数  数  生徒数  数  生徒数
1912年 14,566,783  2,097,617 2   368 341 41,063 24
1913年 15,566,783 2,184,469 2 385 366 47,066 20
1914年 15,620,720 2,249,384 2 432 382 50,753 20 1,834
1915年 15,957,630 2,297,630 2 467 410 58,757 17 1,436
1916年 16,309,179 2,348,522 2 486 426 65,653 19 1,489
1917年 16,617,431  2,392,910 2 476 435 73,157 24 2,055
1918年 16,697,017 2,404,370 2 469 469 76,061 36 3,613
1919年 16,783,510 2,416,825 2 419 535 76,918 33 3,295
1920年 16,916,078 2,435,915 2 522 641 102,024 38 4,819
1921年 17,059,358 2,456,548 3 748 755 152,305 36 6,308
1922年 17,208,139 2,477,972 3 1,011 900 228,674 44 8,373
1923年 17,446,913 2,512,355 3 1,072 1,040 293,318 56 11,643
1924年 17,619,540 2,537,214 3 1,034 1,152 332,222 63 11,634
1925年 18,543,326 2,670,239 2 808 1,242 365,741 78 17,102
1926年 18,615,033 2,680,565 2 794 1,309 387,747 81 18,070
1927年 18,631,494 2,682,935 2 760 1,395 400,037 81 19,460
1928年 18,667,334 2,688,096 2 759 1,463 409,584 81 19,803
1929年 18,784,432 2,794,959 2 759 1,620 420.608 78 19,966
1930年 19,685,587 2,834,725 2 808 1,750 436,475 79 21,041
1931年 19,710,168 2,838,264 2 789 1,860 445,813 80 21,827
1932年 20,037,273 2,885,367 2 730 1,980 470,074 82 23,563
1933年 20,205,592 2,909,605 2 690 2,020 535,547 83 26,645
1934年 20,513,804 2,953,988 2 675 2,133 607,694 86 29,866
1935年 21,248,864 3,059,836 2 660 2,274 685,162 87 33,020
1936年 21,373,572 3,077,794 2 659 2,416 765,706 85 35,087
1937年 21,682,855 3,122,331 6 2,448 2,503 857,384 92 39,793
1938年 21,950,616 3,160,889 8 3,044 2,599 1,000,089 100 45,000
1939年 22,098,310 3,182,157 9 3,862 2,727 1,157,361 117 51,754
1940年 22,954,563 3,305,457 10 4,262 2,851 1,320,950 134 57,878
1941年 23,913,063 3,443,481 11 4,624 2,973 1,500,164 145 63,548
1942年 25,525,409 3,675,659 12 5,259 3,110 1,701,187 141 63,454

★ 推定学齢人口は、総人口×0.144(『朝鮮初等教育の形成』呉 成哲
教育科学社 2000年〔金 富子の前掲書 25頁より引用〕
学童年齢は6歳~11歳
※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度
朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は「金 富子」の前掲書 370頁より利用・引用
ただ、引用する『朝鮮諸学校一覧』の各年度版と数値が異なっているが、
そのまま挙げる。以下同じ。そう極端には変わらない。
数値については「佐野道夫」の前掲書が正しいと思われる(143頁)。
「金 富子」の前掲書もそう極端には変わっていない。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(33) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 1日(土)12時16分6秒 ACCD4453.ipt.aol.com   返信・引用
普通学校        官・公立普通学校
数    生徒数  就学率    就学率   比率
1912年    367 41,431 2.0% 2.0% 99.1%
1913年 388 47,451 2.2% 2.2% 99.2%
1914年 404 53,019 2.3% 2.4% 95.7%
1915年 429 60,660 2.6% 2.6% 96.9%
1916年 447 67,628 2.9% 2.8% 97.1%
1917年 461 75,668 3.2% 3.1% 96.7%
1918年 507 80,143 3.3% 3.2% 94.9%
1919年 570 80,632 3.3% 3.2% 95.4%
1920年 681 107.365 4.4% 4.2% 95.0%
1921年 794 159,361 6.5% 6.2% 95.6%
1922年 947 238.058 9.6% 9.2% 96.1%
1923年 1,099 306,033 12.2% 11.7% 95.8%
1924年 1,218 344,890 13.6% 13.1% 96.3%
1925年 1,322 383,651 14.4% 13.7% 95.3%
1926年 1,392 406,611 15.2% 14.5% 95.4%
1927年 1,478 420,257 15.7% 14.9% 95.2%
1928年   1,546 430,146 16.0% 15.2% 95.2%
1929年 1,700 441,333 16.3% 15.5% 95.3%
1930年 1,831 458,324 16.2% 15.4% 95.2%
1931年 1,842 468,429 16.5% 15.7% 95.2%
1932年 2,064 494,367 17.1% 16.3% 95.1%
1933年 2,105 562,882 19.3% 18.4% 95.1%
1934年 2,221 638.235 21.6% 20.6% 95.2%
1935年 2,363 718,842 23.5% 22,4% 95.3%
1936年 2,504 801,452 26.0% 24.9% 95.5%
1937年 2,601 899,625 28.8% 27.5% 95.3%
1938年 2,707 1,048,133 33.2% 31.6% 95.4%
1939年 2,853 1,212,977 38.1% 36.4% 95.4%
1940年 2,955 1,383,090 41.8% 40,0% 95.5%
1941年 3,129 1,568,336 45.5% 43.6% 95.7%
1942年 3,263 1,769,900 48.2% 46.3% 96.1%

★ 官・公立普通学校欄の比率とは、普通学校(私立もあった)から見た
官・公立普通学校欄の比率
※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、
1943年度 朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 370頁より利用・引用


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(34) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 1日(土)12時11分0秒 ACCD4453.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の公立簡易学校、私立学校、書堂への就学者数を挙げる。

簡易学校     私立各種学校      書 堂
数  生徒数    数  生徒数     数  生徒数
1912年     1,323 55,313 18,238 169, 077
1913年 1,285 57,514 20,628 195,689
1914年 1,214 53,875 21,358 204,161
1915年 1,090 51,724 23,441 229,550
1916年 973 48,643 25,486 259,531
1917年 827 43,643 24,294 264,835
1918年 780 35,197 23,369 260,075
1919年 698 34,975 24,030 275,920
1920年             661 51,008 25,482 292,625
1921年             625 57,074 24,193 298,067
1922年             653 71,157 21,057 280,862
1923年             637 68,443 19,613 256,851
1924年             628 68,520 18,510 231,753
1925年             583 55,622 16,873 208,310
1926年             573 49,795 15,089 196,838
1927年             560 46,248 15,069 189,260
1928年             533 46,010 14,957 191,672
1929年             508 46,396 11,469 162,247
1930年             489 45,977 10,036 150,892
1931年             461 44,307 9,208 146,901
1932年             446 46,122 8,630 142,668
1933年             413 49,591 7,529 148,105
1934年   384 17,669 338 54,743 6,843 153,684
1935年   579 35,696 367 60,710 6,209 161,774
1936年   746 48,204 349 65,314 5,944 169,999
1937年   927 60,077 347 70,279 5,681 172,786
1938年  1,145 76,192 318 68,441 5,293 172,456
1939年  1,327 86,979 292 65,025 4,686 164,507
1940年  1,488 99,108 257 58,544 4,105 158,320
1941年  1,618 110,869 236 57,428 3,504 150,184
1942年  1,680 117,211 216 54,323 3,052 153,784

※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、
1943年度 朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 370頁より利用・引用


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(35) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 3日(月)12時33分37秒 ACCD4494.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の普通学校などの男女別就学者数を挙げる。まず、推定学齢人口
(男女別)を提示する。

朝鮮人             推定学齢人口
男子数    女子数       男子数    女子数
1912年  7,585,674 6,981,109 1,092,337 1,005,280
1913年 7,870,875 7,299,048 1,133,406 1,051,063
1914年 8,086,554 7,534,166 1,164,464 1,084.920
1915年   8,192,614 7,765,016 1,179,736 1,118,162
1916年   8,387,343 7,921,836 1,297,777 1,140,744
1917年   8,552,392 8,065,039 1,231,544 1,161,366
1918年   3,589,661 8,107,356 1,236,911 1,167,459
1919年   8,632,605 8,150,905 1,243,095 1,173,730
1920年   8,701,988 8,214,090 1,253,086 1,182,829
1921年   8,778,862 8,280,496 1,264,156 1,192,391
1922年   8,855,524 8,352,615 1,275,195 1,202,777
1923年   8,970,812 8,476,101 1,291,797 1,220,559
1924年   9,045,641 8,573,899 1,302,572 1,234,641
1925年   9,466,994 9,076,332 1,363,247 1,306,992
1926年   9,509,323 9,105,710 1,369,343 1,311,222
1927年   9,512,491 9,119,003 1,369,799 1,313,136
1928年 9,521,317 9,146,017 1,371,070 1,317,026
1929年 9,569,706 9,214,731 1,378,038 1,326,921
1930年 10,003,042 9,682,545 1,440,438 1,394,286
1931年 10,023,837 9,659,331 1,443,433 1,390,944
1932年 10,183,362 9,853,911 1,466,404 1,418,963
1933年 10,269,286 9,936,305 1,478,777 1,430,828
1934年 10,416,040 10,097,764 1,499,910 1,454,078
1935年 10,769,916 10,478,948 1,550,868 1,508,969
1936年 10,842,097 10,531,475 1,561,262 1,516,532
1937年 10,997,432 10,685,423 1,583,630 1,538,701
1938年 11,128,974 10,822,542 1,602,443 1,558,446
1939年 11,170,910 10,927,400 1,608,611 1,573,546
1940年 11,572,035 11,382,528 1,666,373 1,639,084
1941年 12,033,728 11,879,335 1,732,857 1,710,624
1942年 12,805,543 12,719,866 1,843,998 1,831,661

★ 推定学齢人口は、総人口×0.144(『朝鮮初等教育の形成』呉 成哲
教育科学社 2000年〔金 富子の前掲書 25頁より引用〕
学童年齢は6歳~11歳
※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、
1943年度 朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 372頁より引用


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(36) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 3日(月)12時31分28秒 ACCD4494.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の普通学校などの男女別就学者数を挙げる。

普通学校            簡易学校
男子数     女子数      男子数     女子数
男子就学率   女子就学率
1912年  38,190 3,241
(明治45年) 3.5% 0.3%
1913年 43,692 3,759
(大正2年) 3.9% 0.4%
1914年 48,590 4,489
(大正3年) 4.2% 0.4%
1915年    55,027 5,663
(大正4年) 4.7% 0.5%
1916年    61,161 6,467
(大正5年) 5.1% 0.6%
1917年    67,670 8,018
(大正6年) 5.5% 0.7%
1918年    70,744 9,399
(大正7年) 5.7% 0.8%
1919年    71,316 9,316
(大正8年) 5.7% 0.8%
1920年    94,939 12,426
(大正9年) 7.6% 1.1%
1921年    139,911 19,450
(大正10年) 11.1% 1.6%
1922年    204,302 33,456
(大正11年) 16.0% 2.8%
1923年    264,097 41,936
(大正12年) 20.4% 3.4%
1924年    295,447 49,443
(大正13年) 22.7% 4.0%
1925年    325,624 58,027
(大正14年) 23.9% 4.4%
1926年    343,982 62,709
(大正15年) 25.1% 4.8%
1927年    354,133 66,124
(昭和2年) 25.9% 5.0%
1928年 360,339 69,807
(昭和3年) 26.3% 5.3%
1929年 368,076 73,275
(昭和4年) 26.7% 5.5%
1930年 378,663 79,661
(昭和5年) 26.3% 5.7%
1931年 383,565 84,864
(昭和6年) 26.6% 6.1%
1932年 401,034 93,333
(昭和7年) 27.3% 6.6%
1933年 453,355 109,527
(昭和8年) 30.7% 7.7%
1934年 511,259 126,976 16,393 1,276
(昭和9年) 34.1% 8.7%
1935年 569,752 149,090 31,980 3,716
(昭和10年) 36.7% 9.9%
1936年 626,714 174,738 41,502 6,702
(昭和11年) 40.1% 11.5%
1937年 692,828 206,797 49,472 10,605
(昭和12年) 43.7% 13.4%
1938年 795,685 252,448 59,692 16,500
(昭和13年) 49.7% 16.2%
1939年 907,203 305,774 66,582 20,397
(昭和14年) 56.4% 19.4%
1940年 1,016,257 366,833 70,625 28,483
(昭和15年) 61.0% 22.4%
1941年 1,114,729 453,607 75,800 35,069
(昭和16年) 64.3% 26.5%
1942年 1,238,361 531,539 77,607 39,604
(昭和17年) 67.2% 29.0%

※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、
1943年度 朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 372頁より利用・引用


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(37) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 3日(月)12時29分25秒 ACCD4494.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の普通学校などの男女別就学者数、男女比を挙げる。

各種学校             書 堂
男子数     女子数      男子数     女子数
男女比              男女比
1912年  48,863 6,540 168,728   349
(明治45年)   88.2% 11.8% 99.8% 0.2%
1913年 50,411 7,103 195,298 391
(大正2年) 87.4% 12.6% 99.8% 0.2%
1914年 46,272 7,703 203,864 297
(大正3年) 85.7% 14.3% 99.9% 0.1%
1915年    43,556 8,168 229.028 552
(大正4年) 84.2% 15.8% 99.8% 0.2%
1916年    40,362 8,281 258,614 917
(大正5年) 83.0% 17.0% 99.6% 0.4%
1917年    36,538 7,105 264,023 812
(大正6年) 83.7% 16.3% 99.7% 0.3%
1918年    28,950 6,247 260,146 829
(大正7年) 82.3% 17.7% 99.7% 0.3%
1919年    28,798 6,177 275,261 659
(大正8年) 82.3% 17.7% 99.8% 0.2%
1920年    40,756 10,252 290,983 1,642
(大正9年) 79.9% 20.1% 99.4% 0.6%
1921年    47,430 9,644 295,280 2,787
(大正10年) 83.1% 16.9% 99.1% 0,9%
1922年    60,060 11,097 275,952 4,910
(大正11年) 84.4% 16.6% 98.3% 1.7%
1923年    54,575 13,964 251,063 5,788
(大正12年) 79.9% 20.1% 98.8% 1.2%
1924年    55,741 12,775 226,430 5,324
(大正13年) 81.4% 18.6% 97.7% 2.3%
1925年    44,836 10,786 203,580 4,730
(大正14年) 80.6% 19.4% 97.7% 2.3%
1926年    39,518 10,277 192,241 4,597
(大正15年) 79.4% 20.6% 97.7% 2.3%
1927年    44,744 12,117 184,541 4,718
(昭和2年) 78.7% 21.3% 97.5% 2.5%
1928年 42,315 11,803 186,195 5,477
(昭和3年) 78.2% 21.8% 97.1% 2.9%
1929年 41,775 14,321 157,066 5,181
(昭和4年) 74.5% 25.6% 96.8% 3.2%
1930年 40,690 13,953 144,913 5,979
(昭和5年) 74.5% 25.6% 96.0% 4.0%
1931年 42,039 14,250 140,034 6,867
(昭和6年) 74.5% 25.6% 95.3% 4.7%
1932年 40,256 14,942 134,639 8,029
(昭和7年) 72.9% 27.1% 94.4% 5.6%
1933年 42,614 14,660 137,283 10,822
(昭和8年) 74.4% 25.6% 92.7% 7.3%
1934年 39,482 15,261 139,381 14,303
(昭和9年) 72,1% 27.9% 90.7% 9.3%
1935年 43,841 16,869 142,468 19,306
(昭和10年) 72.2% 27.8% 88.1% 10.9%
1936年 46,947 18,367 147,558 22,441
(昭和11年) 71.9% 28.1% 86.8% 13.2%
1937年 48,926 21,353 145,365 27,421
(昭和12年) 69.6% 30.4% 84.1% 15.9%
1938年 47,159 21,282 142,055 30,401
(昭和13年) 68.9% 31.1% 82.4% 17.6%
1939年 43,068 21,957 129,967 34,540
(昭和14年) 65.2% 34.8% 79.0% 21.0%
1940年 36,657 21,887 121,837 36,483
(昭和15年) 62.6% 37.4% 77.0% 23.0%
1941年 34,475 22,953 111,240 38,944
(昭和16年) 60.0% 40.0% 74.1% 25.9%
1942年 31,207 23,116 106,033 47,751
(昭和17年) 54.4% 25.6% 70.0% 30.0%

※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、
1943年度 朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 372頁より利用・引用


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(38) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 6日(木)08時45分20秒 ACCD0AB4.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の全初等学校の男女別就学者数を挙げる。

全 初 等 学 校
男子数        女子数       合   計
男子就学率      女子就学率     就学率
1912年     255,781    10,040    265,821
(明治45年)      23.41%     0.99%     12.64%
1913年   289,401    11,253    300,654
(大正2年)     25.53%     1.07%     13.76%
1914年   298,726    12,389    311,115
(大正3年)     26.65%     1.14%     13.83%
1915年      327,611    14,353    341,964
(大正4年)     27.76%     1.28%     14.88%
1916年      360,137    15,665    375,802
(大正5年)     29.81%     1.37%     16.00%
1917年      367,231    15,935    384,166
(大正6年)     29.81%     1.37%     16.05%
1918年       359,840    16,475    376,315
(大正7年)     29.09%     1.41%     15.65%
1919年       375,375     16,152    391,527
(大正8年)      30.19%     1.37%     16.20%
1920年       426,678    24,320    450,998
(大正9年)     34.05%     2.05%     18.51%
1921年       482,621    31,881    514,502
(大正10年)      38.17%      2.67%     20.94%
1922年       540,314    49,643    589,957
(大正11年)       42.37%      4.12%     23.80%
1923年       569,735    61,688    631,423
(大正12年)      44.10%      5.05%     23.13%
1924年       577,618    67,542    645,160
(大正13年)      44.34%      5.47%     25.42%
1925年       574,040    73,534    647,574
(大正14年)      42.10%      5.62%     24.25%
1926年       575,741    77,583    653,274
(大正15年)      42.04%      5.91%     24.37%
1927年       583,418    82,960    666,378
(昭和2年)      42.59%      6.31%     24.79%
1928年   588,849    87,087    675,936
(昭和3年)      42.94%      6.61%     25.14%
1929年    566,917    92,759    659,676
(昭和4年)      41.13%      6,99%     24.38%
1930年    564,266    99,593    663,859
(昭和5年)       39.17%     7.14%     23.41%
1931年       565,638   105,981    671,569
(昭和6年)      39.18%     7.61%     23.66%
1932年       575,929   116,304    692,233
(昭和7年)      39.27%     8.19%     23.99%
1933年       633,252   135,009    768,261
(昭和8年)       42.82%     9.43%     26.40%
1934年      690,122   156,540    846,662
(昭和9年)      46.01%    10.76%     28.66%
1935年    756,061   185,265    941,326
(昭和10年)       48.75%    12.27%     30・76%
1936年    821,219   215,546  1,036,765
(昭和11年)       52.59%     14,21%     33.68%
1937年    887,119   255,571  1,142,690
(昭和12年)       56.01%     16.60%     36.59%
1938年   984,899   304,131  1,289,030
(昭和13年)      61.46%    19.52%     40.78%
1939年 1、080,238   362,271  1,442,509
(昭和14年)      67.15%    23.02%     45.33%
1940年  1,174,751   425,203  1,599,954
(昭和15年)       70.49%    25.94%     48.40%
1941年  1,260,444   515,504  1,775,948
(昭和16年)       72.73%    30.13%     51.57%
1942年   1,375,601   602,406  1,978,807
(昭和17年)       74.59%    32.88%     53.83%

※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度
朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 372頁より利用・引用 「全初等学校」とは、
普通学校、簡易学校、私立学校、書堂をいう。


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(39) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 6日(木)08時35分55秒 ACCD0AB4.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の公立普通学校などの男女別入学率を挙げる。まず、推定6歳児人口
(男女別)を提示する。

朝鮮人             推定6歳児人口
男子数    女子数     合計    男子数   女子数
1912年  7,585,674 6,981,109  378,736 187,228 181,509
1913年 7,870,875 7,299,048 394,418 204,643 189,775
1914年 8,086,554 7,534,166 406,139 210,235 195,888
1915年   8,192,614 7,765,016 414,898 213,008 201,890
1916年   8,387,343 7,921,836 424,039 218,071 205,968
1917年   8,552,392 8,065,039 432,053 222,362 209,691
1918年   3,589,661 8,107,356 434,122 223,331 210,791
1919年   8,632,605 8,150,905 436,371 224,448 211,924
1920年   8,701,988 8,214,090 439,818 226,252 213,566
1921年   8,778,862 8,280,496 443,543 228,250 215,293
1922年   8,855,524 8,352,615 447,412 230,244 217,168
1923年   8,970,812 8,476,101 453,620 233,241 220,379
1924年   9,045,641 8,573,899 458,108 235,187 222,921
1925年   9,466,994 9,076,332 482,126 246,142 235,985
1926年   9,509,323 9,105,710 483,991 247,242 236,748
1927年   9,512,491 9,119,003 484,419 247,325 237,094
1928年 9,521,317 9,146,017 485,351 247,554 237,796
1929年 9,569,706 9,214,731 488,812 248,812 239,583
1930年 10,003,042 9,682,545 511,825 260,079 251,746
1931年 10,023,837 9,659,331 511,762 260,620 251,143
1932年 10,183,362 9,853,911 520,969 264,767 256,202
1933年 10,269,286 9,936,305 525,345 267,001 258,344
1934年 10,416,040 10,097,764 533,359 270.817 262,542
1935年 10,769,916 10,478,948 552,470 280,018 272,453
1936年 10,842,097 10,531,475 555,713 281,895 273,818
1937年 10,997,432 10,685,423 563,754 285,933 277,821
1938年 11,128,974 10,822,542 570,716 289,330 281,386
1939年 11,170,910 10,927,400 574,556 290,444 284,112
1940年 11,572,035 11,382,528 598,819 300,873 295,946
1941年 12,033,728 11,879,335 621,740 330,717 308,863
1942年 12,805,543 12,719,866 663,661 332,944 339,717

★ 推定6歳児人口は、総人口×0.026(昭和5年の朝鮮の国勢調査〔『朝鮮
総督府統計年報』昭和6年度 朝鮮総督府〕における6歳児の総人口に占める
割合から算出〔金 富子の前掲書 45頁より引用〕)
※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度
朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 369頁より引用


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(40) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 6日(木)08時33分45秒 ACCD0AB4.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の公立普通学校の男女別入学率を挙げる。

入学者数            入学率
合計    男子   女子    合計   男子   女子
1912年  16,762 14,998 1,764 4.4% 7.6% 1.0%
1913年 17,707 15,347 2,360 4.5% 7.5% 1.2%
1914年 19,622 17,094 2,528 4.8% 8.1% 1.3%
1915年    21,492 18,448 3,044 5.2% 8.7% 1.5%
1916年   205,968 21,301 3,653 5.9% 9.8% 1.8%
1917年    28,805 24,035 4,770 6.7% 10.8% 2.3%
1918年    29,841 24,723 5,118 6.9% 11.1% 2.4%
1919年    27,622 22,883 4,739 6.3% 10.2% 2.2%
1920年    40.135 33.570 6,565 9.1% 14.8% 3.1%
1921年    57,876 47,702 10,174 13.0% 20.9% 4.7%
1922年    79,542 65,246 14,296 17.8% 28.3% 6.6%
1923年    86,832 70,762 16,070 19.1% 30.3% 7.3%
1924年    81,677 66,266 15,411 17.8% 28.2% 6.9%
1925年    80,693 65,820 14,873 16.7% 26.7% 6.3%
1926年    85,634 70,185 15,449 17.7% 28.4% 6.5%
1927年    86,080 70,340 15,740 17.8% 28.4% 6.6%
1928年 92,096 74,192 17,904 19.0% 30.0% 7.5%
1929年 95,896 76,853 19,043 19.6% 30.9% 7.9%
1930年 101,216 81,407 19,809 19.8% 31.3% 7.9%
1931年 99,641 79,398 20,243 19.5% 30.5% 8.1%
1932年 103,228 80,572 22,656 19.8% 30.4% 8.8%
1933年 118,428 93,109 25,319 22.5% 34.9% 9.8%
1934年 138,150 107,569 30.581 25.9% 39.7% 11.6%
1935年 152,662 116,494 36,168 27.6% 41.6% 13.3%
1936年 164,751 122,496 42,255 29.6% 43.5% 15.4%
1937年 180,169 140,094 50,076 33.7% 49.0% 18.0%
1938年 236,818 172,736 64,075 41.5% 59.7% 22.8%
1939年 270,313 194,603 75,710 47.9% 67.0% 26.6%
1940年 293,531 203,545 89,986 49.2% 67.7% 30.4%
1941年 314,457 209,314 105,143 50.6% 66.9% 34.0%
1942年 332,056 219,684 112,372 50.0% 66.0% 34.0%

★ 推定6歳児人口は、総人口×0.026(『朝鮮初等教育の形成』呉 成哲
教育科学社 2000年〔金 富子の前掲書 25頁より引用〕
※ 人口は『朝鮮総督府統計年報』各年度 朝鮮総督府
入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度
朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 369頁より引用


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(41) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 6日(木)08時31分34秒 ACCD0AB4.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮児童の公立普通学校の男女別卒業率を挙げる。

入学年       人  数              卒業率
卒業年    男子(入学者) 女子(入学者)  合計   男子  女子
同(卒業者)  同(卒業者)
1912年  20,738 2,091 36.0% 37.4% 21.8%
1915年 7,763 455
1913年 22,803 2,646 36.3% 38.0% 21.8%
1916年 8,671 578
1914年 22,593 2,939 39.2% 41.6% 20.3%
1917年 9,406 597
1915年 26,913 3,689 37.5% 39.7% 21.1%
1918年 10,967 780
1916年 30,016 3,933 35.0% 36.5% 23.6%
1920年 10,967 930
1917年 31,865 5,133 23.8% 25.3% 14.4%
1921年 8,,055 737
1918年 31,046 5,330 26.2% 28.1% 15,2%
1921年 8,711 810
1919年 32,412 5,008 35.5% 38.1% 18.7%
1922年 12,361 934
1920年 53,757 7,719 64.9% 67.2% 48.6%
1925年 36,140 3,574
1921年    73,895 11,873  56.2% 58.0% 44.5%
1926年 42,879 5,281
1922年 107,007 17.879 47.5% 49.1% 37.7%
1927年 52,524 6,737
1923年 116,251 20,935 44.8% 46.4% 36.3%
1928年 53,902 7,598
1924年 117,326 23,169 43.4% 45.2% 34.2%
1929年 53,034 7,913
1925年 105,885 20,734 48.3% 50.2% 38.7%
1930年 53,188 8,032
1926年 115,270 23,511 45.6% 47.6% 35.8%
1931年 54,820 8,428
1927年 110,716 23,021 50.1% 52.0% 40.6%
1932年 57,600 9,354
1928年 110,230 24,438 54.3% 56.6% 44.0%
1933年 62,965 10,748
1929年 118,059 26,074 57.2% 59.4% 47.3%
1934年 70,130 14,660
1930年 121,144 27,760 62.9% 65.2% 52.8%
1935年 78,935 14,660
1931年 121,467 28,195 70.7% 73.3% 59.3%
1936年 89,060 16,718
1932年 125,923 32,268 74.3% 77.1% 63.3%
1937年 97,028 19,795
1933年 145,119 35,722 70.6% 72.2% 64.2%
1938年 194,802 22,931
1934年 166,023 42,156 66.9% 67.6% 64.0%
1939年 112,199 26,983
1935年 164,920 47,032 71.5% 72.8% 66.9%
1940年 120,115 31,486
1936年 173,397 54,739 71.4% 71.7% 70.3%
1941年 124,254 38,481
1937年 198,166 64,809 73.0% 72.7% 73.7%
1942年 144,066 47,780

★ 1912年~1919年は4年制なので、入学年度4月の入学者数と4年後
の3月の卒業生数から算出した。1920年以降の第一次朝鮮教育令以降は
6年制なので、入学年度4月の入学者数と6年後の3月の卒業生数から算出
した。
※ 入学者数は『朝鮮諸学校一覧』1927年度、1936年度、1943年度
朝鮮総督府学務局
☆ 前記表は金 富子の前掲書 65頁より引用


日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(42) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 9日(日)15時53分18秒 ACCD0A51.ipt.aol.com   返信・引用
日本統治時代の教育は、1920年(大正9年)ころから就学率、入学率、卒業率が
急増している。これは日韓併合後10年経ち、ようやく統治の実が上がって来たのでは
なかろうか。
「金 富子」は前掲書(84頁)で、次の表を挙げている。これは<極めて>信頼性
が薄い。

全羅南道の農家子女の「普通学校」就学率(1922年末現在)

児童数  比率   階級別  全農家    戸数に対する
戸数   戸数比率   就学者の歩合
地主階級       3,182 10.4% 5,074 1.5% 70.0%
自作階級 6,759 22.2% 61,546 18.7% 9.0%
自作兼小作階級 9,784 32.1% 144,016 43.9% 1.5%
小作階級 6,567 21.6% 117,730 35.9% 1.8%
労働階級 1,300 4.3%
その他一般 2,864 9.4%
合 計 30,456 100.0% 328,266 100.0%

自作兼小作・ 16,351 53.7% 261,746 79.7% 3.3%
小作階級合計

それでは「金 富子」自身が作成した、先の表を見てみる。

公立普通学校(全国)の就学率などは、次のとおりとなっている〔(21)参照〕)。
数    生徒数      就学率
1922年 947 238,058 9.2%

ところが、先の表では「自作兼小作・小作階級合計が全農家戸数の<79.7%>を
占めている。全階級の53.7%でもある。だが、彼らの就学者の歩合が3.3%で
ある。どう考えても全体の<就学率 9.2%>となならない。
しかも、「初等学校」には「公立普通学校」の他にも「私立普通学校」もあり、「私立
学校」も「書堂」もあった。「金 富子」は1922年(大正11年)の全体の就学率が
<23.80%>あったと記述している((26)参照〕)。

「金 富子」は『朝鮮は朝鮮総督府の施策で多くの農民は小作農に転落し、学校にも
通うことができませんでした』と言いたいのだろうが、論証を正確にやらないとすぐに
ボロが出る。


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日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史(43) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月 9日(日)15時49分15秒 ACCD0A51.ipt.aol.com   返信・引用
学校に通わない者の理由が「貧困」であることは否定しないが、そればかり
ではなかった。就学率を下げていたのは女子であった。慶尚南道「密陽公立
普通学校」職員であった「金 振国」が『都会地は割合によいけれども地方に
行けば女子教育は話しにならぬ。(中略)殊に両班の多く居住する所はヨリ
甚だしい。(中略)それは女性を蹂躙して来た男権中心の封建的旧思想が現今
朝鮮社会の家庭を大部分支配しているのが最も有力なる原因である』と指摘
している(『朝鮮人と普通教育』〔「朝鮮日報」1927年11月2日~7日〕)
彼は、さらにそれを具体的に分析し、1.学校にやれない方 ① 生活難で
経済的余裕がないこと ② 距離遠くして通学難のため ③ 家事手伝いのため、
2.学校にやならない方 ① 女子は教育する必要なく嫁入りさえすれば満足なる
こと ② 教育を受けた女子は家事の実務に疎くして遊び好きであり書信の往復
頻繁なること(以上は根本的に女子教育を必要なしと認むる者) ③ 学校で
教育を受けた女子は針仕事紡績等が不足であり夫に事へ舅に孝行を蓋す婦徳に
薄いこと ④ 学校教育を受けた女子は大部分貞操観念薄弱であり随って個人
を堕落させると共に家門に迄疵を付けること、と述べている。
「金 富子」はそのことに批判を向けるどころか、朝鮮総督府の教育を非難
する。「修身」教育が「良妻賢母」を醸成したのだと(「金 富子」の前掲書
93頁)。しかし、このことは<女子の不就学>とは全く関係がない。彼女も
例として挙げているように、「男女7歳不同席を理由に普通学校に入学すること
を父に反対された」(「呉 基文」の話)こそが<女子の不就学>を物語っている。


朝鮮における日本人・朝鮮人別学(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月11日(火)19時55分2秒 ACCD12A8.ipt.aol.com   返信・引用
よく朝鮮においては、日本人・朝鮮人別学だったといわれる。明治44年に発布
された第一次朝鮮教育令でも、日本人・朝鮮人別学が定められていたが、これは
次の理由に基づく。
1.朝鮮のそれまでの教育レベルからいって、共学は無理だった。特に女子に
関しては、朝鮮では統一した教育が行われてこなかったこともあって、朝鮮人
女子児童のレベルは低く、とうてい日本人女子児童と机を並べて教育すること
が不可能だった。
2.朝鮮総督府は公立普通学校で日本人および朝鮮人児童を学ばせたいと考えて
いたが、それまで「書堂」を中心に勉学させていた朝鮮人儒者たちによって扇動
された朝鮮人たちが国語(日本語)、日本の歴史・地理、実学(算術、農業・経済、
理科、唱歌・体操・図工・習字)、修身を学ばされることを嫌い、日本人との共学
を忌避し、したがって子弟を公立普通学校で学ばせることを良しとしなかった。

なお、日本人・朝鮮人別学を朝鮮人の<愚民化>を図るものだとか、普通学校
の年限を4年から土地の事情によっては短縮できることを以て朝鮮人の<愚民化>
を図るものだという者がいる(佐野道夫 『近代日本の教育と朝鮮』社会評論社
1993年10月31日)。とんでもない言いがかりである。日本人・朝鮮人別学は
先のとおり教育の実を上げようとしたことと共学が無理だった実情に基づくもので
ある。普通学校の年限短縮にしても朝鮮総督府および朝鮮人の経済的事情から
きたもので、朝鮮人児童を差別化したものではない。


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朝鮮における日本人・朝鮮人別学(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月11日(火)19時53分27秒 ACCD12A8.ipt.aol.com   返信・引用
日本人・朝鮮人別学を非難する者は、朝鮮人自体が強硬に「日本人・朝鮮人共学」に
反対していたことには言及しない。反対の理由は、①朝鮮人家庭で話されることのない
日本語を強要する、②同化政策を強いる、というものでった(「東亜日報」1921年〔
大正10年〕10月25日、同 同年12月22日)。
その後、大正11年(1922年)の教育令の改正(第二次朝鮮教育令)によって、
日本人・朝鮮人別学が廃止された。しかし、その条件として「国語を常用とする者」と
そうでない者との区別を設けた。これは朝鮮人の先の反対に配慮したものと考えられる。
つまり、「国語を常用とする者」は<共学>を、そうでない者は<別学>の道を選択
できるようにしたのである。
ともあれ、そうした区別は存在したがこれによって、日本人・朝鮮人共学が推進さ
れたことは以下の表で明らかである。
反対する世論とは裏腹に<共学>を望む朝鮮人がわずかではあるが、増加していった
のも事実である。


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朝鮮における日本人・朝鮮人別学(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月11日(火)19時52分13秒 ACCD12A8.ipt.aol.com   返信・引用
このように日本人・朝鮮人別学が行われたが、共学が拒絶されたわけではなく、
ごく少数であるが、朝鮮人富裕層の子弟が日本人学校で学ぶこともあり、日本人
学校のない田舎では日本人児童が朝鮮人公立普通学校で学ぶこともあったのである。

日本人学校への朝鮮人入学者の推移を挙げる。資料は『朝鮮諸学校一覧』各年度
である。ただ、資料の数値が若干不正確なこともあり、ここでは『日本植民地教育
の展開と朝鮮民衆の対応』佐野道夫 社会評論社 2006年2月25日 151頁
の表を引用する。

日  本  人      朝 鮮 人
男 子 女 子  合 計 男 子 女 子  合 計
1920年   21,352 20,077  41,429 120 16 136
(0.33%)
1925年 25,313 24,220 49,533 524 72 596
(1.19%)
1930年 31,021 29,629 60,650 444 66 510
(0.83%)
1935年 37,429 36,620 74,049 526 105 631
(0.84%)
1940年 43,195 41,821 85,016 1,265 456 1,721
(1.98%)
1943年 46,156 45,071 91,227 1,534 854 2,388
(2.55%)

★ 第一次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm44-229.htm
★ 第二次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt11-19.htm
★ 第三次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs13-103.htm


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朝鮮における日本人・朝鮮人別学(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月11日(火)19時49分48秒 ACCD12A8.ipt.aol.com   返信・引用
昭和12年(1937年)5月末現在の学校の日本人・朝鮮人の数、割合を
見てみたい。資料は「普通教育ニ於ケル内鮮人相互入学ノ状況調」朝鮮総督府
学務局学務課 昭和12年5月末(「(秘)学事参考資料」『史料集成』第60巻
所収)であるが、原典に当たることができなかったので、佐野の前掲書(149
頁)を引用する。単位は人、( )内は比率

2.日本人学校
① 小学校        日 本 人      朝 鮮 人
男    女     男    女
45,153 42,287 2,053 311
(4.5%) (0.3%)
② 中学校       7,313 465
(6.4%)
③ 高等女学校    11,337 587
(5.2%)
3.朝鮮人学校
① 普通学校       日 本 人      朝 鮮 人
男    女     男    女
275 241 694,029 206,628
(0.04%) (0.1%)
② 高等普通学校     175 15,454
(1.1%)
③ 女子高等普通学校   1 7,147
(0.01%)

日本人学校で学ぶ朝鮮人はまだまだ少数であったが、それでも小学校(男子)、
中学校、高等女学校では5%にも達していた。朝鮮人富裕層のなかには日本人と
一緒に学ばせることを希望する者が増えてきたことを物語っている。
これに比べて、朝鮮人学校に日本人が学ぶということは極めて稀であった。
おそらく片田舎で朝鮮人学校しか存在しない場合であっただろうと考える。


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月13日(木)04時57分48秒 ACCD4858.ipt.aol.com   返信・引用
「第二次朝鮮教育令」は、大正11年(1922年)2月4日に公布されたが、時の朝鮮総督府長官「斎藤 實」は、新教育令の発布(第一次朝鮮教育令の改正)に向けて、大正9年に「臨時教育調査委員会」を設置し、翌年1月に第1回委員会が開催された。
彼はその席上において、参考案として新学制の要領を提示した。その骨子は次のとおりである(大野の後掲書 115頁)。
1.普通学校の修業年限を6年を本体とし必要に応じて4年まで短縮し得ることとする。
2.普通学校の入学年齢が従来8年以上だったのを6年以上とする。
3.高等普通学校・女子高等普通学校は従来修業年限が4年の普通学校を卒業した程度のの者を6年の普通学校を卒業した者とする。
4.高等普通学校(4年)、女子高等普通学校(3年)をそれぞれ、5年、4年と1年ずつ伸長する。
5.実業学校の入学資格を従来は4年の普通学校を卒業した程度の者としたのを6年の普通学校を卒業した者とし、予科または本科に入学させるとする。
6.実業学校の修業年限が2年または3年だったものを5年まで伸長する。

★ 第二次朝鮮教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt11-19.htm

※ 資料 『朝鮮教育史考』高橋濱吉〔総督府視学官〕昭和2年6月30日(日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第27巻に所収) 以下同じ『植民地教育政策の研究-朝鮮・1905年-1911年』佐藤由美 龍渓書舎 2000年2月25日『朝鮮近代教育の思想と行動』尹 健次 東京大学出版会1982年12月10日 以下の稿にも同じ『朝鮮植民地統治法の研究』高橋敏夫 北海道大学図書刊行会1989年8月
31日 以下の稿にも同じ『朝鮮教育制度史』小田省吾 大正13年(1924年)(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第27巻 龍渓書舎 1989年8月 に所収) 以下の稿にも同じ『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社 大正12年〔1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻 に所収) 以下の稿にも同じ『朝鮮教育問題管見』大野謙一 朝鮮教育会 昭和11年〔1937年〕9月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第28巻 に所収) 以下の稿にも同じ『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』佐野道夫 社会評論社 2006年2月25日 以下の稿にも同じ『日本教育の側面観』朝鮮総督府学務局長 渡辺豊日子 社会評論社 昭和        11年(1936年) 以下の稿にも同じ『朝鮮の教育』朝鮮総督府学務局長「弓削幸太郎」 自由討論社 大正12年1922年〕5月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第26巻 に所収) 以下の稿にも同じ『朝鮮教育問題管見』大野謙一 朝鮮教育会 昭和11年〔1937年〕9月1日(「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)」第28巻 に所収) 以下の稿にも同じ

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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月13日(木)04時56分1秒 ACCD4858.ipt.aol.com   返信・引用
7.専門学校の入学資格者は従来修業年限が4年の高等普通学校を卒業した者としたのを、
5年の高等普通学校を卒業した者とする。
8.大学およびその予備教育の途を開くこと
9.新たに師範学校を設けること
10.各学校の内容・程度を内地のものと同様とすること。ただし、朝鮮語・漢文を必要に
応じて加えるため多少の差異が生じることを許容する。
11.内地の学校と連絡を期すこと
12.教科書採択の範囲を拡張すること

第1回委員会は、これをほぼこれを了承した(修正点については後記の学制を参照)後、
次の4大綱領を答申した。
1.朝鮮における教育制度は民事事情の許す限り内地の教育制度に準拠すること
2.朝鮮人の教育に関し特別の制度を設ける場合も内鮮人(在日朝鮮人)にも同様の取扱
とすること
3.内地と朝鮮とにおける学校の連絡を蜜にすること
4.向学心を尊重し、事情の許す限りこれに応じる施設を設けること


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月15日(土)05時54分25秒 ACCD116D.ipt.aol.com   返信・引用
1.普通学校
① 修業年限
6年 地方の事情により5年または4年に短縮することができる(朝鮮教育令 第5
条1項)。
6歳以上の者(同第同条2項) これまでは8歳からであったが、内地(日本)と
同一にした。
★ すでに、大正9年(1920年)に6年に改定されていた。
設置目標は大正8年(1919年)の「3面1校」から昭和4年(1929年)
に「1面1校」に設定された。
※ 日本の小学校にあたる(日本では就学年限が6年-6歳以上のもの)
② 教科目
〈1〉朝鮮語を加える。週 4時間(3年生以上は各3時間)  ※ これまでは「朝鮮
語・漢文」が週 6時間(3年生以上は各5時間で)あった。「漢文」は随意科目とな
った。
〈2〉日本歴史・地理においては特に朝鮮に関する事項を詳細に教授する
③ 高等科
普通学校を卒業した者について、さらに修業期間2年の高等科を置く。
※ 高等科は、日本の高等小学校にあたる。
④ 学校状況(大正14年〔1925年〕5月末現在)
官立普通学校      2校  生徒数      824人(全員 朝鮮人)
男子   470人(57.0%)
女子   354人(23.0%)
公立普通学校  1,187校  生徒数  592,008人(全員 朝鮮人)
男子  334,287人(56.5%)
女子   57,721人(23.5%)
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
私立普通学校     65校  生徒数    14,460人(全員 朝鮮人)
男子   10,075人(67.7%)
女子    4,385人(29.0%)

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

⑥ 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
官立普通学校      2校  生徒数     805人(全員 朝鮮人)
男子     474人(58.9%)
女子     331人(41.1%)
公立普通学校  1,774校  生徒数 474,891人(朝鮮人)
男子  393,868人(89.9%)
女子   81,023人(20.1%)
※ 日本人がいたが、これを除いてある。
私立普通学校     80校  生徒数  23,464人(朝鮮人)
男子  13,160人(56.1%)
女子   8,304人(23.9%)

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月

◆ 普通学校の学校数、生徒数(男女別)は、後掲の(20)以下で、1912年(
明治45年)から1942(昭和17年)まで提示する。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月15日(土)05時52分39秒 ACCD116D.ipt.aol.com   返信・引用
公立「普通学校」は朝鮮総督府認可の学校であり、道費、学校費などによって
賄われていたが、「私立学校」などが経営に行き詰まり、公立「普通学校」に
認可換えするものも多かった。その一つに慶尚北道尚州郡牟東面にある「中牟
普通学校」がある。これはどうやら地元名士が設立した「私設講習所」が発展
したものである。本地域には「私設講習所」はいくつもあり、その一つの
「進明講習所」が「進明学校」として認可され「中牟普通学校」の1学級を
担当することになった。これは「普通学校規程」(大正11年〔1922年〕)
の第6条の「幼稚園、盲唖学校其ノ他普通学校ニ類スル各種学校ハ普通学校ニ
附設スルコトヲ得」に基づいて大正13年〔1924年〕3月21日認可
されたが、翌年2月6日に廃止されている。末尾の資料によってもなぜ地元名士
が数多くの「私設講習所」を合体・発展させないで「中牟普通学校」を設立
したのかはわからない。ただ、地元名士が強力しかからこそ普通学校が発展した
と考えられる。父兄会、母姉会に昭和2年〔1927年〕それぞれ300名、
400名、昭和3年、5年には各500名もの参会者を集めている。そのほか
奨学会も結成し、教育を地域で支えていた。

※ 「植民地下の普通学校と地域社会」板垣竜太 247頁(『朝鮮史研究会
論文集』N0 40 朝鮮史研究会〔緑蔭書房〕2002年10月30日


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(5) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月16日(日)21時02分19秒 ACCD0085.ipt.aol.com   返信・引用
こうした朝鮮で特有と思われる教育熱心な地域でも、識字率は極めて低かった。
昭和5年〔1930年〕の「牟東面」の資料である。

男        女        計
仮名・諺文を読み・書き    354       33      387
できる者  (10.1%)   (0.9%)   (5.4%)
仮名のみ読み・書き        8        8       16
できる者  ( 0.2%)   (0.2%)   (0.2%)
諺文のみ読み・書き      546      271      817
できる者  (15.6%)   (7.5%)   (11.5%)
仮名・諺文とも       2600     3303     5903
読み・書きできない者  (74.1%)  (91.4%)   (82.9%)

日本語を理解できた者が6%に満たなかったのはわかるとしても文盲が83%
弱だったとは驚きだった。つまり、知識人はほんの一握りで後は<無知の者>
だったのである。日韓併合から20年、「李氏朝鮮」時代の教育の<悪弊>を
そのまま引きずっていたのである。

※ 『昭和5年 朝鮮国勢調査報告(道篇 第6巻 慶尚北道』朝鮮総督府


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(6) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月16日(日)21時00分32秒 ACCD0085.ipt.aol.com   返信・引用
入学時の年齢については、次のとおりである。朝鮮では義務教育が施行され
なかったため、6歳以上であれば入学できたが、年々低年齢化が進んでいる。
これは父兄に教育に対する認識が深まったことを示している。

1924 1925 1926 1927 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939
7歳未満      1 3  2  2 9 13 13 12 10 19 10 17
7~8歳      9 2  5  5 1 13 10 16 19 21 31 33
8~9歳      4 4  8  3 1  7 14  9 13 21 20 26
9~10歳     6 4  4  7 0  5  3 4 14  8 20 9
10~11歳    3 3  4  4 0  0  0 2  6  0 0 0
11~12歳    1 1  1  1 0  0  0  0 0  0  0 0
12~13歳    2 1  0  1 0  0  0  0 0  0  0 0
13歳~      0 0  0  1 0  0  0  0 0  0  0 0


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(7) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月16日(日)20時58分22秒 ACCD0085.ipt.aol.com   返信・引用
保護者の職業の推移を提示する。よく「小作」は貧しくて学校に通えませんで
したなどという者がいる。この資料はそれを否定する。

1929 1930 1931 1932 1938 1939
農 業
小 作    16   10   11    0
(48%)(40%)(31%)
自小作      0    0    0    0
自 作    9    9    9   21
(27%)(36%)(26%) (66%)
地 主      1    2    5    4
( 3%)( 8%)(14%) (13%)
不 詳      4    1    6    0   66   65
(12%)( 4%)(17%)      (99%)(98%)
兼業農家      1    0    0    0    0    0
( 3%)
商 業       2    2    2    3    1    0
( 6%)( 8%)( 6%) ( 9%)( 1%)
工 業       0    0    0    0    0    1
( 2%)
官公吏       0    0    2    2    0    0
( 6%) ( 6%)
教 諭       0    1    0    2    0    0
( 4%)     ( 6%)
な し       0    0    0    0    0    0
合 計      33   25   35   32   67   66


1940 1941 1942 1943 1944
農 業
小 作               24   5
(29%) ( 6%)
自小作                7    2    1
( 9%) ( 2%) (1%)
自 作             12    2
(12%) ( 2%)
地 主
不 詳     58   63   34   71   83
(88%)(89%)(41%) (79%) (81%)
兼業農家                 3
( 4%)
商 業       6    7         7   10
( 9%)(10%)     ( 8%) (10%)
工 業       0    0    0    0    0

官公吏       2    1    2    1    4
( 3%)( 1%)( 2%) ( 1%) ( 4%)
教 諭       0    0    0    2    2
( 2%) ( 2%)
な し       0    0    0    0    3
( 3%)
合 計      66   71   82   90 103


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(8) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月16日(日)20時55分49秒 ACCD0085.ipt.aol.com   返信・引用
退学者の保護者の職業の推移を提示する。よく「小作」は貧しくて学校を退学
せざるをえませんでしたなどという者がいる。この資料を見る限り農業の内容が
「不明」のものが多くそれを立証できない。

家事都合   転    校          転     居
朝鮮内 内 地 不 明  朝鮮内 満 州 内 地 不 明
農 業
小 作     4   0   0   1    4   1   2   0
自小作      2   2   0   3    0   0   0   0
自 作    2   2   0   3    0   0   0   1
不 明     34  10   0  20    3   4  12  14
兼業農家      1   0   0   1    0   0   0   0
商工業       1   1   0   3    0   0   0   1
官公吏       0   1   0   4    1   0   0   4
教 諭       0   1   0   3    0   0   0   1
未 詳       0   0   0   0    1   0   0   0

病 気 死 亡 性行不良 未 詳     合 計
農 業
小 作     0   0   0   11      23
自小作      0   2   0    3       8
自 作    0   1   0    2      11
不 明      4   3   0   22     116
兼業農家      0   0   0    1       3
商工業       0   0   0    2      11
官公吏       0   0   1    3      14
教 諭       0   0   0    1       6
未 詳       1   0   0    2       4
合 計       5   6   1   47     196

なお、日本人は、保護者職業は、小学校訓導-1、警察官-1、官吏-1、
商業-1、農業-2、無職-1、となっており、退学理由は、転校-3、転居-2、
不明-2、となっている。
「板垣竜太」の前掲書は、朝鮮の一地方の公立「普通学校」の創立過程を断片的
ではあるが明らかにし、「学籍簿」から在学者の父兄の職業を明らかにしている。
この種の書物としては<珍しく>読みでがあった。


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(9) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月18日(火)12時35分34秒 ACCD48BD.ipt.aol.com   返信・引用
2.簡易学校
① 創立の経緯
簡易学校は、1934年(昭和9年)に創設されたが、その経緯は次のとおり
である。
〈1〉僻地農村にまで初等教育を普及させる
1面1校政策(1929年〔昭和4年〕)は3年で完成をみる計画であったが、
朝鮮における面(村)は日本の村と比べて著しく広大で1面1校が実現されても
面の隅々まで初等教育を普及させることは困難であった。これを補充するため
設置が要請された。
〈2〉識字を促進する
国民総てにおいて「文盲」を無くし、国民の大半を占める農民の向上を図り農村
を開発させる必要があった。
〈3〉地方の実情に即して、職業に対する理解と能力を持たせる
「百姓に教育などは不必要である」、「教育を受けて農業者になる必要はない」
などの偏見を捨てさせることが農村の振興につながり国民の生活向上に資する
ことを明確にする必要があった。
これについて、「金 富子」は前掲書の133頁で、簡易学校設立は①僻地
農村の子女を農業従事者に速成するためである、②朝鮮農民の費用・施設提供・
授業料の負担によって「書堂」などで行われた民族的教育を破壊した、③2年
という簡易な教育で初等教育を実現しようとした、と批判する。<日本統治が
憎い>ということが<目が曇らせる>という典型的な例だから記憶されると
よい。反論を行う。①農業従事者に速成することが<何が悪い>。農村従事者
の智識向上を図ることが<何が悪い>。②旧来の教育から脱皮できなかった
「書堂」こそ破壊されるべき存在だった。③6年制の初等教育を全国隅々まで
普及させることは財政上無理だった。李朝の悪政、両班意識から逃れなれ
無知蒙昧な朝鮮人を教化して産業を振興し税収を上げるなどは日本が統治して
30年くらいで実現することは無理だったのである。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(10) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月18日(火)12時30分23秒 ACCD48BD.ipt.aol.com   返信・引用
② 創立の目的
〈1〉一人前の日本国民となる
〈2〉国語(日本語)を読み書きできるようにする
〈3〉職業に対し理解と能力を有するようにする
③ 修業年限
2年
10歳くらいで普通学校の不入学者
④ 教科目(1週間)
1学年     2学年
修 身       2時間     2時間
日本語      12時間    12時間
朝鮮語       2時間     2時間
算 術       4時間     4時間
職 業      10時間    10時間
合 計      30時間    30時間
⑤ 施設など
単級編成  教員 1校1名(部落在住)  収容人数 80人
授業料  月額 20銭くらい
⑥ 学校状況
昭和9年(1934年)   440校設立
昭和10年(1935年)  220校設立
昭和11年(1936年)  220校設立
合 計           880校


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(11) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月18日(火)12時27分35秒 ACCD48BD.ipt.aol.com   返信・引用
3.高等普通学校
① 修業年限
5年(朝鮮教育令 第7条1項)。
普通学校(6年制)を卒業した者および同等の学力があると認められた者
(同第同条2項)
※ 日本の中等学校にあたる(日本では就学年限が5年)
② 教科目
〈1〉朝鮮語を加える。週 4時間(3年生以上は各3時間)
※ これまでは「朝鮮語・漢文」が週 4時間(3年生以上は各3時間)
であった。「漢文」は随意科目となった。
〈2〉日本歴史・地理においては特に朝鮮に関する事項を詳細に教授する
③ 補習科
普通学校を卒業した者が高等普通学校に入学する場合に、学制変更により学力
が不足する者があるため、学力を補充するために設けた者である。
④ 学校状況(大正14年〔1925年〕5月末現在)
官立高等普通学校      0校
公立高等普通学校     15校  生徒数    5,442人(全員 朝鮮人)
男子    5,442人(100%)
女子        0人
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
私立普通学校        8校  生徒数    4,664人(全員 朝鮮人)
男子    4,664人(100%)
女子        0人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

⑥ 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
官立高等普通学校      0校
公立高等普通学校     13校  生徒数   6,882人(朝鮮人)
男子    6,882人(100%)
女子        0人
※ 日本人がいたが、これを除いてある。
私立高等普通学校     11校  生徒数  23,464人(朝鮮人)
男子    5,818人(100%)
女子        0人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月

◆ 高等普通学校の学校数、生徒数(男女別)は、「日本統治時代の教育〔第一次
朝鮮教育令下〕の歴史」の(21)以下で、1912年(明治45年)から
1942年(昭和17年)まで提示する。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(12) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月18日(火)12時22分21秒 ACCD48BD.ipt.aol.com   返信・引用
4.女子高等普通学校
① 修業年限
5年または4年とする。ただし、土地の事情により3年となすことができる(
朝鮮教育令 第9条1項)。
普通学校(6年制)を卒業した者および同等の学力があると認められた者(同条
2項)
※ 日本の高等女学校にあたる(日本では就学年限が5年)
② 教科目
〈1〉朝鮮語を加える。週 3時間(3年生以上は各2時間)
※ これまでは「朝鮮語・漢文」が週 2時間であった。
「漢文」は随意科目となった。
〈2〉日本歴史・地理においては特に朝鮮に関する事項を詳細に教授する
③ 補習科
普通学校を卒業した者が女子高等普通学校に入学する場合に、学制変更により
学力が不足する者があるため、学力を補充するために設けた者である。
④ 学校状況(大正14年〔1925年〕5月末現在)
官立女子高等普通学校    0校
公立女子高等普通学校    2校  生徒数      705人(全員 朝鮮人)
男子        0人
女子      705人(100%)
※ 日本人もいたが、これを除いてある。
私立女子高等普通学校    8校  生徒数    1,316人(全員 朝鮮人)
男子        0人
女子    1,316人(100%)

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

⑥ 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
官立女子高等普通学校    0校
公立女子高等普通学校    6校  生徒数   1,692人(朝鮮人)
男子        0人
女子    1,692人(100%)
※ 日本人がいたが、これを除いてある。
私立女子高等普通学校   10校  生徒数   3,057人(朝鮮人)
男子        0人
女子    3,057人(100%)
※ 日本人がいたが、これを除いてある。

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月5日

◆ 高等普通学校の学校数、生徒数(男女別)は、「日本統治時代の教育〔第一次朝鮮
朝鮮教育令下〕の歴史」の(21)以下で、1912年(明治45年)から
1942年(昭和17年)まで提示する。


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(13) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月20日(木)19時38分7秒 ACCD121A.ipt.aol.com   返信・引用
5.実業学校  ※ 男女共学、朝鮮人・日本人共学
① 修業年限
〈1〉普通学校卒業程度  2年~5年
〈2〉普通学校高等科卒業程度  2年~3年
※ 修業年限・入学資格は実業学校令によって定めることとなっていた
(同 第11条1項)
⑤ 教科および授業時間(1週間)
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           8時間
★ 商業学校・商工学校、女子実業学校も同じ、農業学校・工業学校・水産学校
などは、朝鮮語・漢文 2時間、国語(日本語) 4時間となっていた。
ただし、私立は朝鮮語・漢文・国語(日本語)は自由(教えても、教えなく
ともよい)
⑥ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
〈1〉農 業
公立農業学校   22校  生徒数  3,033人(朝鮮人)
男子  3,033人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業学校   13校  生徒数  1,399人(朝鮮人)
男子  1,399人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立商業学校    3校  生徒数    480人(朝鮮人)
男子    480人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉商 工
公立商業学校    1校  生徒数    152人(朝鮮人)
男子    152人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈4〉工 業
官立工業学校     1校  生徒数     27人(朝鮮人)
男子     27人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈5〉水 産
公立水産学校      4校  生徒数    220人(朝鮮人)
男子    220人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈6〉職 業
公立職業学校    0校

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

⑦ 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
〈1〉農 業
公立農業学校   25校  生徒数  4,280人(朝鮮人)
男子  4,280人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業学校   13校  生徒数  2,189人(朝鮮人)
男子  2,189人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立商業学校    4校  生徒数  1,349人(朝鮮人)
男子  1,349人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉商 工
公立商業学校    1校  生徒数    249人(朝鮮人)
男子    249人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈4〉工 業
官立工業学校    1校  生徒数     36人(朝鮮人)
男子     36人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈5〉水 産
公立水産学校    4校  生徒数    303人(朝鮮人)
男子    303人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈6〉職 業
公立職業学校    1校  生徒数    180人(朝鮮人)
男子    180人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立職業学校    1校  生徒数    362人(朝鮮人)
男子    362人(100%)
女子      0人

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(14) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月20日(木)19時34分10秒 ACCD121A.ipt.aol.com   返信・引用
6.簡易実業補習学校  ※ 男女共学、朝鮮人・日本人共学
① 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
〈1〉農 業
官立農業補習学校  0校
公立農業補習学校  6校  生徒数    279人(朝鮮人)
男子    279人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業補習学校  6校  生徒数    374人(朝鮮人)
男子    374人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉工 業
公立工業補習学校  8校  生徒数    239人(朝鮮人)
男子    214人(89.5%)
女子     25人(10.5%)
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立工業補習学校  0校
〈4〉職 業
公立職業補習学校  0校
〈5〉水 産
公立水産補習学校  4校  生徒数    220人(朝鮮人)
男子    220人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月


② 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
〈1〉農 業
官立農業補習学校  1校  生徒数     17人(朝鮮人)
男子     17人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
公立農業補習学校 58校  生徒数   2,071人(朝鮮人)
男子  2,071人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈2〉商 業
公立商業補習学校  8校  生徒数    677人(朝鮮人)
男子    677人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
〈3〉工 業
公立工業補習学校 14校  生徒数    521人(朝鮮人)
男子    521人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立工業補習学校  0校
〈4〉機 業
公立機業補習学校  2校  生徒数     48人(朝鮮人)
男子      48人(100%)
女子       0人
〈5〉水 産
公立水産補習学校  2校  生徒数     53人(朝鮮人)
男子      53人(100%)
女子       0人
〈6〉女子実修学校
公立実科女学校   3校  生徒数      7人(朝鮮人)
男子      0人
女子      7人(100%)
※ 日本人が大半を占めていたが(213人)、これを除いた。

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(15) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月22日(土)06時22分6秒 ACCD1DE2.ipt.aol.com   返信・引用
7.専門学校

① 修業年限
3年~4年  ※ 朝鮮人・日本人共学
高等普通学校(5年)または女子高等普通学校(4年)を卒業した者
② 教科および授業時間(1週間)
★ 現在の日本の大学(法学部)専門課程にあたる。
主たる「専門学校」は次のとおりである。その詳細な説明は次項において説明する。
〈1〉京城法学専門学校(1週間)
朝鮮語・漢文             0時間
国 語(日本語)           4時間
※ 2学年より2時間
★ 日本の旧制高等専門学校にあたる。
〈2〉京城医学専門学校
朝鮮語・漢文             0時間
国 語(日本語)           4時間
※ 2学年より2時間
★ 日本の旧制医学専門学校にあたる。次の特別医学科も同じ。
同特別医学科
朝鮮語・漢文             3時間
※ 2学年より2時間
国 語(日本語)           0時間
〈3〉京城高等工業学校
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           2時間
★ 現在の日本の高等工業専門学校(高専)にあたると思われる。
〈4〉水原高等農林学校
朝鮮語・漢文             2時間
国 語(日本語)           2時間
★ 現在の日本の高等専門学校(高専)程度にあたると思われる。
〈5〉京城高等商業学校(1週間)
朝鮮語・漢文             0時間
国 語(日本語)           4時間
★ 現在の日本の高等専門学校(高専)にあたると思われる。
私立は次のものがあった。
〈1〉普成専門学校
〈2〉セブランス聯合医学専門学校
〈3〉延禧門学校
〈4〉京城歯科医学専門学校
〈5〉京城薬学専門学校
〈6〉中央佛教専門学校
〈7〉崇實専門学校
◎ 私立は朝鮮語・漢文・国語(日本語)は自由(教えても、教えなくともよい)
③ 学校状況(大正8年〔1919年〕5月末現在)
官立専門学校      3校  生徒数    439人(朝鮮人)
男子    439人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立専門学校      4校  生徒数    614人(朝鮮人)
男子    552人(89.9%)
女子     62人(10.1%)
※ 日本人がいたが、これを除いた。

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 大正8年版』朝鮮総督府学務局 大正9年3月

④ 学校状況(昭和6年〔1931年〕5月末現在)
官立専門学校      5校  生徒数    366人(朝鮮人)
男子    366人(100%)
女子      0人
※ 日本人がいたが、これを除いた。
私立専門学校      8校  生徒数  1,204人(朝鮮人)
男子  1,014人(84.2%)
女子    190人(15.8%)
※ 日本人がいたが、これを除いた。

※ 資料は、『朝鮮諸学校一覧 昭和6年版』朝鮮総督府学務局 昭和7年6月5日


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(16) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月22日(土)06時15分13秒 ACCD1DE2.ipt.aol.com   返信・引用
⑤ 専門学校に関する詳説

当時の朝鮮の高等教育機関は高等普通学校卒業者(16歳以上)を対象とする「
高等専門学校」しかなかった。現在の日本でいえば「高等専門学校(高専)」である。
高等専門学校のうち官立は次のものがあった(大正14年〔1925年〕まで)。
〈1〉京城法学専門学校(法官養成学校)         大正11年創立
〈2〉京城医学専門学校(医者養成学校)         大正5年創立
〈3〉京城高等工業学校(工業技術者養成学校)      大正5年創立
〈4〉水原高等農林学校(農業指導者養成学校)      大正11年創立
〈5〉京城高等商業学校(商業従事者養成学校)      大正11年創立
私立では次のものがあった(大正14年〔1925年〕まで)。
〈1〉崇実専門学校(平壌)   基督教系私立学校    大正14年創立
〈2〉延禧専門学校(京城)   基督教系私立学校    大正6年創立
※ 現在の延世大学校
〈3〉セブランス連合医科専門学校(京城)        大正6年創立
基督教系私立学校
※ 現在の延世大学校医科大学
〈4〉梨花女子専門学校(京城) 基督教系私立学校    大正14年創立
※ 現在の梨花女子大学校
〈5〉普成専門学校(京城)               大正11年創立
※ 現在の高麗大学校

※ いずれも前身校はそれより以前から専門学校であったが、大正14年(1925年)
当時の名称を挙げる。大正9年(1920年)の第二次朝鮮教育令によって、新たに
専門学校として認可されたものである。
基督教系私立学校は、外国人宣教師・教団の経営になる。朝鮮人の経営に
なるものは「普成専門学校」のみである。当時の朝鮮人に高等教育機関を運営
する経済力がなかったのであるが、それよりも運営ノウハウを持ち合わせて
いなかったのである。

※ 専門学校令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm36-61.htm


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(17) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月22日(土)06時13分32秒 ACCD1DE2.ipt.aol.com   返信・引用
各官立専門学校の在学生の数は次のとおりである。朝鮮人の比率はかなり高い。
朝鮮総督府が朝鮮人に高等教育を施していた証佐でもある。「日本統治暗黒史観論者」はこういう指摘はしないで無視している。

日本人     朝鮮人
京城法学専門学校
大正7年5月        0      145
(0%)    (100%)
大正11年5月     140        4
(97.23%)   ( 2.77%)
大正15年5月      46      118
(28.05%)   (71.95%)
昭和4年5月       70      132
(35.65%)   (64.35%)
昭和6年5月       59      134
(30.57%)   (69.43%)
京城医学専門学校
大正7年5月 73      208
(25.97%)   (74.03%)
大正11年5月       205      155
(56.95%) (43.05%)
大正15年5月     220    137
(61.63%) (38.37%)
昭和4年5月       258      99
(72.27%)   (27.73%)
昭和6年5月       253      94
(72.83%)   (27.17%)
京城高等工業学校
大正7年5月 122     135
(47.47%)  (52.53%)
大正11年5月      42     69
(37.84%) (62.16%)
大正15年5月      94    54
(63.52% (36.48%)
昭和4年5月       149      34
(81.42%)   (18.58%)
昭和6年5月       159      30
(84.13%)   (15.87%)
水原高等農林学校
大正7年5月         12      53
(18.46%)   (82.54%)
大正11年5月      43     70
(38.06%) (61.94%)
大正15年5月     110      69
(61.46%) (38.54%)
昭和4年5月       117      62
(65.36%)   (34.64%)
昭和6年5月       127      54
(70.17%)   (29.83%)
京城高等商業学校
大正7年5月
(18.46%)   (82.54%)
大正11年5月
(38.06%) (61.94%)
大正15年5月
(61.46%) (38.54%)
昭和4年5月       212      45
(82.49%)   (17.51%)
昭和6年5月       229      47
(82.93%)   (17.03%)


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(18) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月22日(土)06時11分31秒 ACCD1DE2.ipt.aol.com   返信・引用
各私立専門学校の在学生の数は次のとおりである。

日本人     朝鮮人
崇実専門学校
大正7年5月

大正11年5月

大正15年5月       0       90
(0%) (100%)
昭和4年5月        0      115
(0%) (100%)
昭和6年5月        0      138
(0%) (100%)

延禧専門学校
大正7年5月          0       91
(0%) (100%)
大正11年5月   0 129
(0%) (100%)
大正15年5月   0 241
(0%) (100%)
昭和4年5月        0      236
(0%) (100%)
昭和6年5月        0      250
(0%) (100%)
セブランス連合医科専門学校
大正7年5月          0     60
(0%) (100%)
大正11年5月     0     60
(0%) (100%)
大正15年5月     0     80
(0%) (100%)
昭和4年5月        0      146
(0%) (100%)
昭和6年5月        0      154
(0%) (100%)
梨花女子専門学校
大正7年5月

大正11年5月

大正15年5月      13     91
(12.50%) (87.50%)
昭和4年5月        1      138
(0.72%) (99.28%)
昭和6年5月        0      185
(0%) (100%)
普成専門学校
大正7年5月
大正11年5月   0 260
(0%) (100%)
大正15年5月         0      285
(0%) (100%)
昭和4年5月      0      213
(0%) (100%)
昭和6年5月      0      279
(0%) (100%)

★ 資料は、『朝鮮諸学校一覧』朝鮮総督府 大正7年度版、大正12年度版
大正15年度版、昭和4年度版、
昭和6年度版、による。
なお、「京城帝国大学予科に関する一考察」馬越 徹〔『大学論集』第5集
1977年 広島大学 大学教育研究センタ-〕)、『朝鮮教育史(下)』李 万圭
(王+圭)1949年)の提示する数値は官立・私立とも間違っている。


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(19) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時43分38秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
大正11年(1922年)に、教育令が改正され(第二次朝鮮教育令)、教育のレベル
アップが図られた。主要な改正点を「高等教育」を中心に解説すると、次のとおりである。これが「京城帝國大学」の創立につながった。
〈1〉普通学校から専門学校への、各学校の修業年限・入学年齢・教育内容を内地
と同程度に引上げた。
※ 朝鮮の普通学校は修業年限が4年(地方の事情によって3年)であったが、
内地の小学校は6年であった。また高等普通学校は4年であったが、内地
の中学校は5年、女子高等普通学校は3年(師範科 1年)であったが、
内地の女学校は5年、専門学校は3年または4年であったが、内地の
高等学校・予科は3年であった。内地の大学は3年であった。
〈2〉普通学校から専門学校(高等教育)までの年限を11~12年から内地と
同程度の16~17年に引上げた。
※ ①のとおり朝鮮では11年~12年であったが、内地では17年で
あった。
〈3〉日本人・朝鮮人の区別を法令上撤廃した。ただし、「国語を常用する者」と
そうでない者との実質的な区別は残された。
〈4〉師範学校を設置した。
〈5〉大学設置への道を拓いた。
「専門教育ハ専門学校令ニ大学教育及其ノ予備教育ハ大学令ニ依ル但シ此等
ノ勅令中文部大臣ノ職務ハ朝鮮総督之ヲ行フ専門学校ノ設立及大学予科ノ
教員ノ資格ニ関シテハ朝鮮総督ノ定ム所ニ依ル」(改正教育令〔第二次朝鮮
教育令〕第12条)


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(20) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時41分26秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
8.師範学校
【第1部】 小学校教員の養成   ※ 朝鮮人・日本人共学
① 修業年限
普通科  男子  5年(朝鮮教育令 第15条)
女子  4年(朝鮮教育令 第15条但書)
入学資格  尋常小学校を卒業した者または同等以上の学力がある者(普通学校
を卒業した者)〔同 第16条〕
演習科  男子  1年(朝鮮教育令 第15条)
女子  1年(朝鮮教育令 同条)
入学資格  師範学校普通科を卒業した者(同 第16条)

【第2部】 普通学校教員の養成   ※ 男女共学、朝鮮人・日本人共学
① 修業年限
普通科  3年または2年(朝鮮教育令 第17条・18条)  ※ 男女とも同じ
入学資格  普通学校高等科の卒業した者または同等以上の学力がある者(同 第
18条)
演習科  男子  1年(朝鮮教育令 第15条)
女子  1年(朝鮮教育令 同条)
入学資格  師範学校普通科を卒業した者(同 第16条)
【研究科】 第1部の師範学校に置かれた
目 的  小学校教員の学力増進
【普通学校教員講習科】
目 的  普通学校教員の学力補充、副教導の養成、裁縫その他の専門教員の養成

★ 1929年(昭和4年)に、第2部の特科(3年制・2年制)が廃止され、尋常科
(5年-女子は4年)となった。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(21) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時40分0秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
② 教科および授業時間
師範学校の各科の卒業までの科目履修時間を挙げる。1922年(大正11年)現在
の男子の場合である

第1部          第2部
普通科・演習科    3年制   2年生
修 身         7         5     4
(7)   (6)
教 育        13         7     5
(7)   (5)
国語・漢文      35        19    16
(35)  (32)
朝鮮語・漢文     12         9     6
(16)  (12)
英 語        24         0     0
歴史・地理      17        10     7
(18)  (15)
数 学        23         9     6
(16)  (14)
博物・物理・化学   21        11     8
(15)  (12)
実 業         6         0     0
音 楽         7         6     4
(8)   (6)
体 操        18         9     6
(15)  (12)
法制・経済       2         0     0
農業または商業     2         6     4
(6)   (4)

◆ 第2部の( )は、入学者が普通学校の高等科を卒業していることが条件となって
いたため、高等科での受講科目を挙げたものである。
したがって、第1部と第2部を比較するときは、第2部については( )内の
数値を見た方がよい。
第2部の「博物・物理・化学」は「国語・理科」

1929年(昭和4年)〔第2部の改変-尋常科〕現在の男子の場合は次のとおりである。

第1部          第2部
普通科・演習科      尋常科
修 身         7          10
教 育        11(-2)      11
国語・漢文      35          32
朝鮮語・漢文     15(+3)      20
英 語        15(-9)       0
歴史・地理      15(-2)      15
数 学        23          15
博物・物理・化学   21          14
職 業        15(+7)      15
音 楽         6           8
体 操        18          15
法制・経済       2           0

◆ 第2部の「博物・物理・化学」は「国語・理科」
「職業」は「実業」および「農業または商業」の和との比較

※ 表は、『近代日本の教育と朝鮮』佐野道夫(社会評論社 1993年10月31日)を
参考に作成した。ただ、彼は第1部と第2部の区別が明確でない。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(22) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時38分23秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
⑥ 学校状況(昭和4年〔1929年〕5月末現在)

1年  2年  3年  4年  5年  合計
〈1〉官立漢城師範学校      357 104 99 104 94 756
大正10年4月創立
普通科 498
日本人 (398)
朝鮮人 (100)
演習科 258
日本人 (173)
男性    〔141〕
女性    〔 32〕
朝鮮人 ( 85)
男性    〔 27〕
女性    〔 58〕
◆ 日本人と朝鮮人の比率  全 体 3:1
普通科 4:1
演習科 2;1
★ 官立師範学校としては、大邸師範学校(昭和4年6月)〔尋常科、講習科のみ〕、
平壌師範学校(昭和4年6月)〔尋常科、講習科のみ〕がその後(昭和6年まで)
創立された。
なお、昭和5年5月末現在の「大邸師範学校-尋常科」の学生は、朝鮮人(89.
9%)、「平壌師範学校-尋常科」の学生は、朝鮮人(90.6%)であった
(『朝鮮諸学校一覧』昭和6年版 朝鮮総督府 昭和7年6月5日)。


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(23) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時36分39秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
〈2〉公立師範学校
〔1〕京畿道公立師範学校       91(日本人-7、朝鮮人-84)
大正12年5月創立(第2部-3年制)
〔2〕忠清北道公立師範学校      60(日本人-2、朝鮮人-58)
大正12年3月創立(第2部-3年制)
〔3〕忠清南道公立師範学校      70(日本人-3、朝鮮人-67)
大正11年4月創立(第2部-3年制)
◇ 講習科 36(朝鮮人のみ)があった
〔4〕全羅北道公立師範学校      67(日本人-6、朝鮮人-61)
大正12年4月創立(第2部-3年制)
〔5〕全羅南道公立師範学校      99(日本人-0、朝鮮人-99)
大正12年4月創立(第2部-3年制)
〔6〕慶尚北道公立師範学校      66(日本人-0、朝鮮人-66)
大正12年3月創立(第2部-3年制)
〔7〕慶尚南道公立師範学校     149(日本人-5、朝鮮人-144)
大正12年4月創立(第2部-3年制)
〔8〕黄海道公立師範学校       79(日本人-3、朝鮮人-76)
大正12年5月創立(第2部-3年制)
〔9〕平安南道公立師範学校      68(日本人-4、朝鮮人-64)
大正12年5月創立(第2部-3年制)
〔10〕平安北道公立師範学校      57(日本人-0、朝鮮人-57)
大正12年3月創立(第2部-3年制)
〔11〕江原道公立師範学校       56(日本人-3、朝鮮人-53)
大正12年4月創立(第2部-3年制)
〔12〕咸鏡南道公立師範学校      63(日本人-6、朝鮮人-57)
大正12年3月創立(第2部-3年制)
〔13〕咸鏡北道公立師範学校      58(日本人-7、朝鮮人-51)
大正12年4月創立(第2部-3年制)
合 計    1,739名
日本人    617名(35.48%)
朝鮮人  1,122名(64.52%)

※ 『朝鮮諸学校一覧』昭和4年版 朝鮮総督府 昭和5年1月20日


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日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(24) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月27日(木)17時35分11秒 ACCD4EB6.ipt.aol.com   返信・引用
師範学校についての批判は次のものが考えられる(末尾書籍参照)
1.師範学校を第1部(小学校〔主として日本人教育〕と第2部(普通学校〔朝鮮人
教育〕とに分けた。
2.第1部に日本人学生を第2部に朝鮮人学生を入学させ、差別化を図った。
3.官立師範学校は1校のみであり、第1部を中心に修業年限が6年(演習科も含む)
あるのに対し、公立師範学校は第2部を中心に修業年限が3年と差別されていた。
4.官立師範学校に日本人学生を集中的に入学させた。
【批 判】
1.小学校(日本人中心教育)と普通学校(朝鮮人中心教育)とが分けられていたので、
教員の養成においても小学校については日本人学生を、普通学校においては朝鮮人学生
を中心に行うのは当然である。差別化などではない。これがなお、両者を分けた実益に
ついては「日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史」の(8)で説明してあ
る。
なお、第1部と第2部の教科目の時間数は修業年数を考えれば差がなく、教育にお
いて差別がなされたとは考えられない。つまり、日本人中心の「尋常小学校」と朝鮮人
中心の「普通学校」の教員の養成には差別がなかったのである。
2.第1部があったのは「官立漢城師範学校」のみで、「官立漢城師範学校」でも、19
22年(大正11年)の2学年・演習科には日本人302名(93.5%)、朝鮮人
21名(6.5%)と指摘されるが(佐野 後掲書 62頁)、先に示した1929年
(昭和4年)の普通科・演習科では日本人571名(75.5%)、朝鮮人185名(
24.5%)と朝鮮人の比率が増加している。その後、1929年(昭和4年)に、
学制が変わって(前掲の(8)参照)、新たに官立の「大邸師範学校」と「平壌師範
学校」が創設されたが、そこでは圧倒的に朝鮮人が多い(前掲の(9)参照)。
3.第1部と第2部の修業年限の差も、改正が行われた1929年(昭和4年)以降には
それが少なくなっている。

9.大学予科(京城帝國大学予科)、10.大学(京城帝國大学)については、それぞれ
独立して別に論じる。

※ 1.『近代日本の教育と朝鮮』佐野道夫(社会評論社 1993年10月31日)
2.『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の反応』佐野道夫(社会評論社 2006年
2月31日)


日本統治時代の教育〔第二次朝鮮教育令下〕の歴史(24) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月30日(日)06時52分20秒 ACCD4826.ipt.aol.com   返信・引用
師範学校についての批判は次のものが考えられる(末尾書籍参照)
1.師範学校を第1部(小学校〔主として日本人教育〕と第2部(普通学校〔朝鮮人
教育〕とに分けた。
2.第1部に日本人学生を第2部に朝鮮人学生を入学させ、差別化を図った。
3.官立師範学校は1校のみであり、第1部を中心に修業年限が6年(演習科も含む)
あるのに対し、公立師範学校は第2部を中心に修業年限が3年と差別されていた。
4.官立師範学校に日本人学生を集中的に入学させた。

【再批判】
1.小学校(日本人中心教育)と普通学校(朝鮮人中心教育)とが分けられていたので、
教員の養成においても小学校については日本人学生を、普通学校においては朝鮮人学生
を中心に行うのは当然である。差別化などではない。これがなお、両者を分けた実益に
ついては「日本統治時代の教育〔第一次朝鮮教育令下〕の歴史」の(8)で説明してあ
る。
なお、第1部と第2部の教科目の時間数は修業年数を考えれば差がなく、教育にお
いて差別がなされたとは考えられない。つまり、日本人中心の「尋常小学校」と朝鮮人
中心の「普通学校」の教員の養成には差別がなかったのである。
2.第1部があったのは「官立漢城師範学校」のみで、「官立漢城師範学校」でも、19
22年(大正11年)の2学年・演習科には日本人302名(93.5%)、朝鮮人
21名(6.5%)と指摘されるが(佐野 後掲書 62頁)、先に示した1929年
(昭和4年)の普通科・演習科では日本人571名(75.5%)、朝鮮人185名(
24.5%)と朝鮮人の比率が増加している。その後、1929年(昭和4年)に、
学制が変わって(前掲の(8)参照)、新たに官立の「大邸師範学校」と「平壌師範
学校」が創設されたが、そこでは圧倒的に朝鮮人が多い(前掲の(9)参照)。
3. 第1部と第2部の修業年限の差も、改正が行われた1929年(昭和4年)
以降にはそれが少なくなっている。

なお、9.大学予科(京城帝國大学予科)、10.大学(京城帝國大学)については、
それぞれ独立して別に論じる。

※ 1.『近代日本の教育と朝鮮』佐野道夫(社会評論社 1993年10月31日)
2.『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の反応』佐野道夫(社会評論社
2006年2月31日)


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日本統治時代の教育〔第四次朝鮮教育令下〕の歴史 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月30日(日)06時48分5秒 ACCD4826.ipt.aol.com   返信・引用
第四次朝鮮教育令は、昭和18年(1938年)4月1日に「第四次朝鮮教育令」
と変わった(鈴木敏夫の前掲書 257頁)。
「第四次朝鮮教育令」の主たる改正点は、国語(日本語)教育が徹底されたことで、
朝鮮語の教育は廃止された。
その後、昭和20年5月22日に「戦時教育令」が施行された。これは下記のとおり
戦時教育体制であった。

★ 戦時教育令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs20-320.htm



「京城帝國大学」設立までの経緯(1) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月31日(月)12時13分44秒 ACCD4E30.ipt.aol.com   返信・引用
「京城帝國大学」設立までの経緯(1)

大正8年(1919年)に「萬歳騒擾事件(3.1独立運動)」が起き、朝鮮人の
民族意識が高揚した。その現れの一つが大学設立運動だった。朝鮮にはそれまで大学
はおろか高等学校も存在しなかった。これは朝鮮人の教育レベルが低かったことに
よる。李氏朝鮮時代の儒教中心の教育が朝鮮総督府の近代的教育の推進にもかかわ
らず、依然として「書堂」中心の教育から抜け出していなかったことにある。これを
朝鮮総督府の<朝鮮人愚民化>とする考えもあるが、明白な誤りであって、朝鮮人
自身が実学を重視した近代的教育に背を向けていたことにある。
日本でも朝鮮に大学を創立すべきだという意見があった。朝鮮にも朝鮮で私立学校
を経営する米国人宣教師が大学がないことを非難し、これもあってか大正9年1月、
東京帝国大学の白鳥庫吉教授ら4名で朝鮮(京城)・満州(旅順または大連)で大学
を設立するように建白書を総理大臣、朝鮮総督府・関東都督府長官に提出している。
これに対する文部省側の態度は好意的であった。
当初は、京城医科専門学校を大学に昇格させようとする動きがあったようである(
「京城日報」大正9年12月11日)。しかし、朝鮮総督府は総合大学の設立が肝要で
あり、単科大学の設立は適当でないとの意見を開陳している(「京城日報」同月12日)。
満州が大学の設立を急ぐあまり旅順工科大学、満州医科大学の単科大学の創立に止まり、
総合大学が設立されなかったのと比べて、朝鮮総督府の見識の高さが賞賛されよう。

★ 「三・一独立運動」なる用語がいつから使われたのかは知らないが、日本では
「萬歳騒擾事件」と呼んでいた。以後、この用語を使用する。「京城」、
「帰化人」、「鮮鉄(朝鮮総督府経営の鉄道)」、「鮮人(朝鮮人)-当時
の朝鮮人の経営になる新聞(例 「東亜日報」)もこの用語を使っていた」
もそうだが、こういうことについて朝鮮人におもねる必要はないと考える。


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「京城帝國大学」設立までの経緯(2) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月31日(月)12時11分25秒 ACCD4E30.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮人の大学設置運動は、民立大学の設置運動から始まった。大正13年3月
29日には、京城の基督教中央青年会館で千名を越える賛同者の下に「民立大学
期成会発起総会」が開かれた(「東亜日報」大正13年11月23日 社説)。し
かし、募金が思うように集まらず、計画は頓挫し期成会も事実上消滅した。
専門学校はこぞって大学への昇格運動を起こしたが、朝鮮総督府の許可する
ところとはならなかった。これをもって朝鮮総督府の募金運動への干渉などから
弾圧だと言う者がいる(阿部 洋―『日本統治下の高等教育』思想 565号
1971年)。そういうことはあったかも知れない。しかし実現できなかった理由は
そこにあったのでない。朝鮮総督府の私立専門学校授業体制に強い不信があった
からである。
1920年代には朝鮮人の経営になる私立学校を中心に同盟休校が相次いでいる
が、その多くは教育内容、教員の不足、施設・設備の改善を学校側に要求するもの
であった。例えば、1920年の「延禧専門学校」の同盟休校は、①専門学校と
しての程度が幼稚である、②教員資格が不足している、③寄宿舎の設備がない。
同年6月の「徽文高等普通学校」の同盟休校は、①教員陣容の充実、②図書館
および講堂の建設、③寄宿舎の建設、④教室の充実、⑤理化学実験室・標本室の
設置、⑥運動の奨励、などであった(『朝鮮教育史(下)』李 万圭(王+圭)
1949年)。こういう学校ではとうてい大学の設置は無理である。
朝鮮人が自ら大学を設置できなかったのは、朝鮮人の経営する私立学校自体に
問題が存在した。何でもかんでも朝鮮総督府のせいにするということは事実の
究明を阻害するということをそろそろ認識しなければならない。


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「京城帝國大学」設立までの経緯(3) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月31日(月)12時09分19秒 ACCD4E30.ipt.aol.com   返信・引用
昭和2年(1927年)5月末当時の私立専門学校および官立高等教育機関の
学生1人当りの費用を見てみたい。学校経費は経常費と臨時費があるが、その
合計で学生1人当りの費用を見た。本科生だけでなく選科、聴講生など全校生
で計算した。昭和4年5月末も同じ。
修 業 年 限   学生数   学生1人当りの費用
崇実専門学校        4年     93人    1,050円
セブランス医学       4年     92人      683円
専門学校
延禧専門学校        4年    234人      780円
(商科  3年)
梨花女子専門学校  文科  4年    101人      363円
音楽科 3年
普成専門学校        4年    248人      178円

官立師範学校        5年    772人      239円

京城帝國大学予科      2年    308人      547円
京城帝國大学        3年    315人    5,149円

上5校は私立専門学校で、上4校は外国人宣教師・基督教教団の経営になる
もの、普成専門学校のみが朝鮮人の経営になるものである。
学生1人当りの費用は歴然としている。先のとおり朝鮮総督府が外国人・
朝鮮人の手になる私立学校の大学部設置を認めなかったことを非難する者が
いるが、学校経費から見ても私立学校には京城帝國大学並みの費用をかけて、
大学部を設置することは無理だったとわかる。教育とは金のかかるものなの
である。
こうしたことからも、日本が朝鮮に大学を創立したのは画期的なことで
あったのである。他の欧米諸国が支配した国に大学を設置したことがあった
が、アメリカのフリッピンを除けば、イギリスのマレー、フランスのインドシナ、
オランダのジャワ、などでは現地人の数は朝鮮よりも少なかった(『「植民地朝鮮」
の研究』杉本幹夫 展転社 平成14年6月11日 392頁)。
さらには、日本のように内地の最高水準の大学を海外に設立し、現地人に等しく
開放した例はまったない。


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「京城帝國大学」設立までの経緯(4) 投稿者:解法者 投稿日:2007年12月31日(月)11時13分55秒 ACCD1D2B.ipt.aol.com   返信・引用
なお、昭和4年(1929年)5月末の数値は次のとおりである。セブランス医学
専門学校を除けば、私立学校の経費に特段の改善があったとは思えない。( )内
は昭和2年との比較

崇実専門学校        4年    115人      686円
(- 364円)
セブランス医学       4年    140人    2,323円
専門学校
(+ 1,640円)
延禧専門学校        4年    236人      584円
(商科  3年)
(- 196円)
梨花女子専門学校  文科  4年    139人      326円
音楽科 3年
(-  37円)
普成専門学校        4年    213人      208円

京城法学専門学校      3年    202人      320円
京城医学専門学校      4年    357人    1,072円
京城高等工業学校      3年    183人      905円
水原高等農林学校      3年    179人      885円

官立師範学校        5年    756人      418円
(+ 179円)

京城帝國大学予科      2年    295人      587円
(+  40円)
京城帝國大学        3年    552人    4,280円
(- 869円)

★ 資料は、私立専門学校は「韓国の私学」大韓私立中高等学校長会 1974年
(『韓国近代大学の成立と展開』馬越 徹 名古屋大学出版会 1995年2月
28日 91頁)より引用したが、官立師範学校以下は『朝鮮諸学校一覧』
朝鮮総督府学務局 昭和4年版によった。なお、昭和4年の統計は同書から
のものであるので、先の「韓国の私学」の数値も昭和2年版によったもの
と考えてよい。当時、朝鮮人が独自に資料を作成していたとは考え難いから
である。


「京城帝國大学」 予科(1) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 1月 2日(水)20時14分32秒 ACCD535F.ipt.aol.com   返信・引用
朝鮮には前記のとおり高等教育機関がなかった。大学に入学するためには、高等
学校を卒業するか、大学資格検定試験に合格しなければならない。その高等学校が
なかったのである。したがって、朝鮮人が大学に入学するのは事実上不可能だった。
そこで、考え出されたのが「予科」の設置である。予科とは大学の予備入学制度
で、2ないし3年であった(高等学校は3年)。内地でも予科は存在した。例えば、
北海道帝国大学では予科があり、東京商科大学でもあった。いずれも3年制であった。
高等学校でなく予科にした理由は朝鮮人のためであった。当時の内地の高等学校
進学熱は高く、朝鮮に高等学校を設立すれば内地から内地人が殺到し朝鮮人が入学
することが困難になるからであった(『朝鮮』85号 1922年3月号 朝鮮総督府
学務局長 柴田善三郎、「大学を開設するまで-文運の-新世紀-」京城大学予科
部長 小田省三〔『朝鮮地方行政』第3巻第4号 1924年4月号〕)。これは高等
学校卒業者はどこの帝國大学には無試験で入学できたが(後には東京帝國大学および
京都帝國大学の一部の学部は入学試験が科せられた)、予科卒業生は予科の付設
されている大学を除けば入学試験が科せられたからである。
さらに内地の高等学校と同一期日に試験を実施し、重複受験を排除したのである。
これらの措置は全て朝鮮人のためであった


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「京城帝國大学」 予科(2) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 1月 2日(水)20時13分10秒 ACCD535F.ipt.aol.com   返信・引用
予科は2年ないし3年であったが(大学令第12条―1918年制定)を2年制
にしたのは、①修業年限を短縮してでも早く高等教育を習得させたかった、②大学
と一体化することにより修業年限を短縮しても教育の実を上げられる(本大学の
予科に就いて」京城帝國大学予科部長 小田省三〔『文教の朝鮮』1926年6月号-
京城帝国大学開学記念号〕)、③朝鮮人の経済的負担を軽くする(「大学予科の3年制
その他に就いて」安部能成〔『京城日報』昭和2年3月12日〕)、ためであった。
なお、内地の高等学校・予科では中学校4年修了者も受験できたが、京城帝國大学
予科では2年ということもあって、中学校5年修了者でなければ受験できなかった。

京城帝國大学予科の毎週の授業課程は次のとおりである(『京城帝國大学予科一覧』。
大正14年版)。

1 学 年         2 学 年
文科  理科        文科  理科
修 身      1   1&#