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Thursday, December 13, 2012

about Taiwanese ex-comfort women,Iwaru Tanaha by Yuko Watanabe

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/handle/10723/162
イワル・タナハさんのこと(前)イワル・タナハさんのこと(前). "/渡辺, 祐子/"渡辺, 祐子. あんげろす = 明治学院大学キリスト教研究所ニュースレターあんげろす = 明治学院大学キリスト教研究所ニュースレター





(後半)








平和     手塚奈々子
イタリアのアッシジにあるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ大聖堂の扉には、20世紀に前教皇ヨハネ・パウロ2世が開催した宗教の代表者の会議に参加した人々の姿が刻まれています。そこにはキリスト教の諸教派代表だけでなく日本の仏教代表者の姿もあります。また、ヨハネ・パウロ2世の祝福のもとにアッシジの聖フランチェスコ大聖堂は、京都の明恵上人で知られる高山寺と兄弟の交わりを結びました。フランチェスコは平和を大切にし、十字軍の時でもフランチェスコ会士は聖書だけ持ってイスラム教徒の地に行きました。そこで争いをしないようにというフランチェスコが書いたものが残っています。今の時代の私達も、自分の信仰を大切にしながらも他を尊重し互いに平和に共存したいものです。

(てづか ななこ   所員・社会学部准教授)







イワル・タナハさんのこと(後)     渡辺 祐子
イワルさんは、夫の死期が迫っていることを知り、ついに数十年前自分の身に起きた出来事を打ち明けた。夫は驚きを隠さなかったが、それでも「夫は私を許すといってくれた」とイワルさんは言う。何を「許す」と言ったのかは分からない。単に隠していたことを許したという意味だと理解したいが、果たしてそうだろうか。イワルさんは自分が「傷もの」になってしまったことを気に病み、自分自身を責め続けた。だからそのことで夫に「許し」を請うたのではないかと思われてならない。

裁判が始まって4年目の2003年夏、私は教会学校の台湾ツアーに参加し、植民地時代軍港として使われていた花蓮を訪れた。すでに前年の10月に東京地裁は事実認定すら行わないまま原告敗訴の判決を下し、裁判は東京高裁で争われていた。この花蓮県にイワルさんの住む水源村がある。今でこそ漢人住民がずいぶん増えているが、水源村はタロコ族の村である。

着いた翌日、彼女の通う教会の牧師の運転で彼女が暴力を受けていた洞窟に案内してもらった。この近くに日本軍の兵舎があり、そこで洗濯や繕い物などの雑用をしていたイワルさんは、ある日を境に毎夜洞窟の中で性暴力を受け続けた。現在は入り口が鉄柵で覆われている洞窟がかつて軍の倉庫であったことはともかく、そこで毎夜少女たちが犠牲になっていたことを知る村人たちはほとんどいない。その前に立ったとき私は、耳の奥がキーンと音を立て、目の前にぽっかりと口を開けた暗い穴倉の中に吸い込まれてしまいそうな、それほどの恐怖を感じた。そして改めて思った。77歳の老女が少女時代に受けた深い傷に60年以上さいなまれてきた。最愛の夫にすら長い間打ち明けられず、彼女の通う教会の人たちも、唯一彼女が全幅の信頼を寄せる牧師以外は、今もなおこの事実を把握していない。隠し通してきたその傷は、年を経るごとに治るどころか、むしろ疼きを増している。彼女が求めているのは、彼女に暴力を加えた兵隊たち、そして軍の最終的な管理責任を持つ日本という国に、この洞窟で起きたことから目をそむけず、責任を認めて謝罪して欲しい、せめて傷の疼きを軽減してから死にたい、それだけだ。実にささやかな願いなのだ。

しかし日本の裁判所が彼女の願いに耳を傾けることはなかった。2004年2月、東京高裁は、控訴審をわずか4回行っただけで、「国家無答責」、つまり当時の日本には政府の行為に対し賠償責任を求める法律は存在しなかったことを理由に、原告の訴えを全て棄却。しかも地裁同様、被害の事実を認定することも一切なかった。裁判は最高裁に持ち込まれたが、2005年2月に訴えは棄却され、原告の全面敗訴が確定した。敗訴の覚悟がなかったと言えばウソになる。しかし控訴審にわざわざ台湾から駆けつけ、無機的な裁判所の一室で忘れてしまいたい過去の記憶を語ったイワルさんたちの思いが裁判所を動かし、せめて被害の事実は認定されるのではないかという淡い期待も見事に打ち砕かれた。それほど人間的な温かみのかけらもない判決だった。 

賠償・謝罪請求という訴訟の目的は全く果たされなかったわけだが、しかしこの裁判を通して支援者たちが目を見張ったのは、イワルさんはじめ原告の阿媽たちが自分自身を取り戻し、見違えるように変わっていったことである。イワルさんの場合それはまず、提訴時に使用していた中国語名蔡芳美に変えて、タロコ族の名前イワル・タナハを堂々と名乗るようになったことから始まった。「この裁判はタロコ族たる私自身の人間回復のための闘いだ」というイワルさんの決意の表明だったといえる。更に彼女はタロコ族の民族衣装を身にまとって控訴審に出廷し、弁論の際に「神様の愛がなければ、喜んで暮らしていくことはできない」という意味のタロコ語の讃美歌を歌ったのである。当初はうつむき加減で、自責の念に苦しんでいた彼女が、裁判を闘う中で、信仰に支えられながら少しずつ自信に満ち、「被害者」としての自己認識を深めていくさまは、人間にとって自己の尊厳と正義の回復がどんなに重い意味を持つのかを私に教えてくれた。イワルさんとの出会いがなければ、私の人間理解は今よりも薄っぺらなものになっていたにちがいない。

日本の朝鮮支配に比べて台湾の植民地経営は割合うまくいったと考えている人が少なくない。国民党の恐怖政治を経験した台湾人の中には、日本時代を懐かしむ人がいることも確かであって、自国の戦争責任を打ち消したい日本人は、鬼の首を取ったようにこのことを引き合いに出す。しかし私は、日本時代を肯定する台湾人の声が台湾全体を代表するものであるとは決して思わない。各人の記憶は、その人が漢族なのか原住民なのか、漢族であっても本省人なのか、外省人なのか、日本統治時代何歳で、どこでどんな暮らしをしていたのかに大きく左右されるものだからだ。さらに戦後しばらくは、日本の戦争責任を追及しようにも、そのすべも条件も整っていなかったために、日本時代は良かったという、私たちにとっては気分の良い評価ばかりがひとり歩きしていた点も指摘しておかなくてはならない。台湾社会の成熟と民主化の進展によって、イワルさんの裁判に代表されるような、日本の戦争責任を追及する声が勢いを増している現在、植民地台湾経営を肯定するような評価はますます通用しなくなっていくだろう。その声に誠実に答えていくことが、イワルさんとの出会いを与えられた私の責任である。  

あの洞窟は、裁判を支援し続けてきた台北市婦女救援社会福利事業基金会という団体によって、永久保存することが検討されているという。イワルさんの痛みを覚え続けるために、そしてそれを受け継いでいくために、私も再び洞窟を訪問しなくてはならない。一緒に学生たちを連れて行くことが出来ればどんなにいいだろうか。

(わたなべ ゆうこ   所員・教養教育センター准教授)







大学におけるキリスト教教育について     植木 献
自己紹介
新任の植木献と申します。2007年4月より教養教育センターでキリスト教学を担当することになりました。2004年度より非常勤講師として明治学院大学のキリスト教教育に関わってまいりましたが、専任として本学の伝統を生かしつつ、これからも大学におけるキリスト教が果たすべき役割を模索していくつもりです。よろしくお願いいたします。自己紹介を兼ねて以下、キリスト教教育についての管見を述べたいと思います。見当違いの点も多くあるかと思いますが、ご批判・ご指導を賜りたいと考えておりますので、見かけた際にお声をかけていただければ幸いに存じます。

キリスト教教育の意義
キリスト教大学の存在意義のひとつは、明治以降の歴史が示すように、日本において「社会の良心」として機能する点にあります。キリスト教教育は、有能であるだけではなく良心的な人材を輩出する点で評価されてきました。本学は、明治以来その責任を担ってきたからこそ、教育理念として"Do for Others"を明確に提示できるのだと私は理解します。

この理念のもとキリスト教の授業は、担当教員の専門や、客観的な知識の伝達のみならず、最終的に受講生が「自分にとって他者とは誰か」「自分は具体的に何が出来るか」などを考えるような授業構成が求められるでしょう。理念と、理念が具現化したカリキュラムとの密接な関係を持つ授業が展開されてこそ、大学全体としてのキリスト教教育の意義が発揮されるのだと思います。

導入教育としての「キリスト教の基礎」
本学のキリスト教教育において、特に重要な位置を占めるのが全学必修科目の「キリスト教の基礎」であると考えます。この授業がキリスト教と同時に、大学で学ぶ学問全体の意義を考える序論となることで、教育理念に沿った成果が上がるでしょう。しかしそのためには、まず学生たちの「常識」との格闘が必要だと私は考えます。彼らの多くは、授業で「教義」を強制的に押しつけられた結果、自由な判断力を喪失した信者にされるのではないかという危惧を持ち、またキリスト教を信じることは視野の狭い偏狭な立場に陥ると確信しています。この「常識」が正しいのならば、キリスト教は大学教育の阻害要因になります。

学生のこの「常識」がいったん相対化され、多様な視点を獲得することが導入教育としては重要です。キリスト教の知識は偏見を助長するものや、自分とは無関係な無味乾燥なもので終わるべきではありません。授業は、キリスト教との出会いを契機として、予想もしていなかったような世界の拡がりを経験する場となるべきです。「キリスト教の基礎」が効果的な導入教育になるには、自由な発想と広い視野を獲得できるという経験が重要だと思います。

他者と出会う場としての授業
そのような世界の拡がりを経験するには、異質な他者と対峙する場の提供が重要だと私は考えます。自分と異なる存在に向き合うことで、思っても見なかった考え方や感じ方に触れ、視野が開かれ、「そういう考え方もできるのだ」と多様な立場を尊重することが出来るようになるからです。他者としてのキリスト教に向き合うことで、自己を知ることになるのです。学生の神観や愛の理解などがいかなる意味を持ち、いかなる方向へ帰結することになるのかを自省的に問わせることができれば、キリスト教の知識は、誤解と偏見を助長させるものではなく、自己形成のきっかけになります。問いを発する自己がいかなる前提に立つのかを問うことで、学問的真理にもイエス・キリストにも出会うことになるのです。

ディスカッションの効果
非常勤講師として講義を担当した経験から、他者と出会う場としての授業実現に、ディスカッションがある程度効果を持つことが分かりました。「神は存在するか」「愛とは何か」など自分の経験から議論できるしかも簡単に答えのでないテーマを論じさせるのです。すると学生は、同じようなものだと思っていた同級生の全く違った意見に触れ、自分の視野の狭さや偏り、知識不足に気が付きます。同級生の視点を通して、自分とは異なる尊重すべき他者の存在に気付くのです。その時上記テーマに関するキリスト教の主張は、「おしつけ」ではなく自己形成の契機として真摯に受けとめられ、「キリスト教ではどう考えるのかもっと知りたい」という積極性が生じます。さらにディスカッションは、説得のための論理、問題の発見、安易な結論よりも議論過程の重視、自発性とリーダーシップの確立など大学で学ぶための資質開発にも一定の効果を上げることになります。また議論をすること自体がキリスト教の重要な営みの一部であることを知るようになります。
大人数の授業の中で人格的な出会いを実現することは容易ではありませんが、可能な限り多様な方法を模索していきたいと考えています。

研究と教育
私は現代神学と政治思想史を専門とし、現在はアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーを中心に19世紀から20世紀の神学と政治思想の関わりを研究しています。私の研究の原動力になってきた関心は、現代社会における教会形成とそれに伴う文化形成の課題にあります。最終的にこの課題に対して何らかの貢献をすることが研究上の目標です。キリスト教研究所においても大学と教会との関係について考えるプロジェクトに加えていただきましたので、明治学院という場で研究と教育を通して、この課題に取り組んでまいります。

(うえき けん     所員・教養教育センター専任講師)






一 歩 一 歩 が 備 え ら れ て     加 藤 実
中国語を学んですぐ神学校に編入したときによく「中国伝道ですか」と聞かれ、「いや、そのつもりはありません。ただお導きがあればです」と答えたのが、五十年ほど前のことになります。

「香港なら副産物として、大陸から来ている中国人キリスト者との交わりが与えられるだろう。そこから交流の細い道でも拓けるかも知れない」と思ったのが、四十年前の夏NCCニュースの片隅に「香港で日本人牧師を求めている」との記事を見つけたときでした。その翌年の4月に教団から宣教師としてHongkong Japanese Christian Fellowshipに派遣されました。

「日本人社会を離れてシンガポールか台湾か香港かの中国人社会で暫くでも生活したら、文革で破壊されかねないという旧い文化を、身体で感じておけるかもしれない」と思いついたのが、香港四年の中ごろ中共系の映画館で林彪たちが毛語録をふり上げて叫んでいる宣伝映画を観ながらのことでした。そこからCCAの小さな奨学金で台北の台湾神学院に自由な研究生として二年学んだ後、淡水の専科学校で日本語を中国語で教える仕事を84年まで十年続けることになりました。その傍ら台湾の牧師がたの肝いりで発足した国際日語礼拝なるものを、毎週日曜日の午後にアレンジしていく教務として四年ほど働いたり、後半には当時の台湾基督長老教会の地に着いた勇敢な闘いの実相を、日本の教会に正確に伝える働きに励んだりもしました。

「そうだ、大陸でも日本語を教える場が与えられたら、そこに住んで生活しながら教会の様子も分かっていけるかも知れない」と思い始めたのが、そうした台湾十二年のやはり半ば過ぎでした。当時の情況からしてこうした想いは、親しくなった台湾の先生方にも洩らせず、日本の誰かと手紙で相談するのも危険なところから、とにかくいったん日本でワン・クッションおいてからのこととしました。結果としてトゥー・クッションズになったのですが、84年から湘南と長野の二つの教会で担任教師を務めた後、96年にNCCから南京の愛徳基金会へ日本語教師として派遣され、そこから安徽省の合肥聯合大学へ送られました。

「この展示写真の説明や文書の内容を全部しっかり読んでおく責任が、中国語が読めるこの自分にはある」とふっと強く感じて、合肥の博物館で開かれていた金陵(南京の古い名)祭で立ち止まり立ち止まりしつつ二、三時間、南京大虐殺の全容を大づかみにしたのが、今からちょうど十年前、大陸で働き始めた翌年1997年の5月1日でした。その月の終わりに南京の記念館を初めて参観したのでしたが、出口の売店で「写真集の類よりも文字ばかりの方が自分には向いていそうだ」となぜか意識しながら買った二冊の内の一冊が、朱成山主編『侵華日軍南京大屠殺幸存者証言集』で、なんとなくそれを日本語に翻訳し始めたのが、『この事実を……』――「南京大虐殺」生存者証言集となりました。

「さぞかしたいへんだったに違いない抗日戦の時代とその後の内戦期に、中国のキリスト者たちがどんな風に苦闘していたかが具体的に少しでもわかったなら、49年からの社会主義社会での新たな展開へと繋がったか繋がらなかったかなどが、多少なりとも理解されてくるのではないか」といった想いが、合肥や南京の教会で礼拝しているときに時々ふっと胸を掠めました。『生存者証言集』に続いて章開?編訳『天理難容――美国伝教士眼中的南京大屠殺(1937-1938)』を訳し始めたところ、それを知って喜ばれた章開?先生からご自分の研究所にどうかとのお招きをいただき、「抗日戦期の中国基督者の奮闘」云々をお伝えしたりもして、五年前から武漢の華中師範大学中国近代史研究所で客座研究員として翻訳のお手伝いをしています。その最後となるこの一年<年表で垣間見る中国プロテスタント200年(1807-2006)>づくりに励んでいるのもあと二ヶ月で終え、帰国いたします。(2007.4.26)

(かとう みのる  協力研究員)








キリスト教とグロテスク      田中 浩司
はじめまして。4月から協力研究員として皆様の仲間に加えて頂くことになりました。

現在私は主に内村鑑三を中心に研究をしておりますが、もともとはシャーウッド・アンダソンやカトリック女性作家のフラナリー・オコナーなど、グロテスクを作品のテーマに持つアメリカの作家の研究をしていました。

グロテスクとキリスト教とはご存知のない方には全く何の関係のないように見えるかもしれませんが、これが実に深い関係があります。アンダソンは『ワインズバーグ・オハイオ』という作品の中で

人間が真理の一つを自分のものにし、それを自分の真理と呼び、その真理に従って自分の生涯を生きようとしはじめたとたんに、その人間はグロテスクな姿になり、彼の抱いた真理は虚偽に変わる・・・。

と書いています。アンダソンがこの一文を書いたときの真理には間違いなくキリスト教のことが念頭にあったに違いないことは、作品の全編を通じて明らかです。キリスト教が一人の人間によって抱かれることによって虚偽に変わるほどちっぽけな真理ではないと信じていますし、アンダソンの言葉を丸飲みするわけではありませんが、キリスト教との出会いによってグロテスクになってしまった人は結構たくさんいるのではないでしょうか。

内村鑑三を通じてキリスト教信仰を得、内村の後継と目されるほどだった有島武郎でさえ、キリスト教を通じて霊と肉とが分離してグロテスクになってしまった自分を、『惜しみなく愛は奪う』の中で嘆いています。

グロテスクとは決して一言で語れるほど単純な概念ではないのですが、敢えて簡単に言いますと、肉と霊のはざまで苦悩する人間の状態です。有島武郎の言葉を借りるならば「苦しい二元が建立」された状態、キリスト者であるならば、信仰を抱く自分自身から偽善的な虚偽の臭いが漂ってくるような気分、ある種の絶望的状態です。「私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」というパウロの嘆き(ローマ8: 24)がそれに近いものです。キリスト教は殊更に人を霊と肉に敏感にさせるので、キリスト教を信じることによって、この状態に陥る人は決して少なくないはずです。

しかし、キルケゴールは『死に至る病』のなかで、すべての人間は絶望状態にあり、自分が絶望状態であることに気がつかないでいる人が一番の絶望であると言っています。ですからその意味において、すべての人間はグロテスクであるとも言えます。しかしそれと同時にキルケゴールは、人間は自分の絶望状態に気がついたとしても、それに絶望してはならないという趣旨のことを言っています。のみならず、絶望しうるということは、人間の長所であり、永遠の意識が深ければ深いほど、絶望もまた、その苦悩の度を強めるであろう、そしてそれこそは、その人がそれだけ深い自己を生きようとしている印であるとも。

このキルケゴールの言葉にかろうじて励まされ、絶望の中より「信仰なき我を助け給え」と神に叫ぶよりすべなき私が、日本のキリスト教教育の中核をになう明治学院、しかもよりによって恐れ多くもキリスト教研究所のお仲間に加えて頂くのは、いささか心に咎めを覚えることなきにしもあらずですが、この度は元所員の成瀬武史名誉教授のご紹介を通じて、キリスト教主義教育研究プロジェクトに加えて頂くことになりました。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ8: 25)

(たなか こうじ 協力研究員)






衣錦尚絅と私について      東 義也

仙台市のとなり名取市にある尚絅(しょうけい)学院大学女子短期大学部保育科の東義也と申します。このたびキリスト教研究所の協力研究員として、皆さま方のお仲間に入れていただきました。心より感謝申し上げます。

私の所属する尚絅学院について紹介させてください。尚絅という校名は、中庸にある言葉で「衣錦尚絅」から来ています。この意味は、人として必要なことはまず「錦を衣(き)る」こと、つまり、錦の似合う人間、錦を着るに価する人間になるということです。豊かな教養を身につけ人間性を磨くとでもいったらいいでしょうか。次に「尚(なお)絅(けい)を加える」、つまり、錦の上に薄衣をおおうということです。内側に立派な錦を着ていても、薄衣でおおうことによって、それを誇らしげに表に出さない、自慢しないということです。聖書で教える「謙遜」に通じる思想だと思います。中庸は儒教の思想を現わすものですが、尚絅学院の創立者は、あえてこの言葉をミッションスクールの校名に選びました。後の校長アンネ・ブゼルは、衣錦尚絅の意味が聖書にもあることを紹介し、以来ペトロの手紙第一3章3,4節が建学の精神を表わすみ言葉になりました。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」

明治学院大学を1984年に卒業した私は、まず児童養護施設に就職しました。子どもたちの孤独や不安、悲しみや苦しみを知ったとき、乳幼児期の保育の大切さを痛感しました。それで退職後、玉川大学の通信教育課程で幼稚園教諭の免許を取得し、今度はある私立の幼稚園に就職しました。幼児教育を学んでいた時に学んだことは、子どもの遊びの重要性です。ですから、私は子どもたちに楽しくて面白い遊びをたくさん紹介し、いっしょに遊びました。それはそれで充実した日々だったと思います。しかし、楽しい遊びがそこに展開されているだけでは不十分であることに気づきました。その中で子どもたちの何が育っているのか、彼らは何を学んでいるのか、そのような子ども理解が私には欠けていることを知りました。

次に私が選んだ道は、静岡大学大学院へ行って保育を根底から学び直すことでした。一体遊びとは何か、これが研究テーマになりました。結論を一言でいうと、「遊びとは自分自身になることである」ということです。子どもたちの自らする行為(その多くは遊び)に意味のないものはありません。おとなには分からなくても、そこには意味があって、これから出会う世界の事柄や人生の選択について彼らはすでに学び始めており、自分自身を形成しているということです。ですから、子どもの主体的に取り組む遊びを最大限に尊重し保障することが、保育の課題だという結論になりました。再び幼稚園や保育園に数年ずつ勤めた後、現在の尚絅学院に導かれました。最近は、「聖書における遊び」「キリスト教保育」についても研究しています。

これまでの人生を振り返りますと、いろいろな職業を転々としてきましたが、どれもこれも無駄で意味のない経験はなく、すべて神様の導きの内にいたことを確信させられています。また、いろいろな大学にもお世話になりましたが、私にとっては明治学院がなんといっても母校なのです。今回、その母校の研究プロジェクトに加えさせていただいたことを神様に感謝しています。どれだけの恩返し・貢献ができるのか不安な部分もありますが、神様の導きを信じて一生懸命頑張る所存です。何卒ご指導のほど宜しくお願い致します。

(ひがし よしや   協力研究員)





http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/55e1cbf5935c0ab7a2b77d1e7fc82387






明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の3
2012年09月26日 09時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)
守田です。(20120926 09:00)

昨日午前11時に台北市の松山駅を出る特急に乗り、台湾東海岸の花蓮に向かいました。車中でお弁当やパンを食べながらの2時間の旅でした。花蓮につくとすぐにタクシーに乗り換えて、病院に向かいました。15分ほどでついた病院の一室に、イアン・アパイアマアが入院されていました。

イアンさんは、まだ少女だった17歳のときに、日本軍の手伝いに狩り出され、基地の近くの洞窟に連れ込まれててレイプされ、そのままそこでの性奴隷を強制されました。その場に通うことを強制されたのですが、彼女たちはそれを家族に離せなかった。タロコの厳しい掟のもと、結婚前に処女を失うと、激しい罰に会う可能性があったからです。

そうした社会的制約もあって、なかなか被害を訴えられなかった、タロコの被害女性たちが名乗りを上げたのは、韓国で初めて被害女性が名乗り出て、この問題が大きくクローズアップされたときのことでした。台湾婦女援助会が、同様の被害者はいなかと台湾全土にひろく呼びかけを行い、台湾の中からそれに応じて手をあげる人がではじめ、タロコの女性たちもようやく声をあげたのでした。

このとき手をあげた原住民の女性は全部で16人だったそうです。その中からカムアウトにいたった女性、カムアウトはできなかったけれども、尊厳を回復する運動には積極的に関わった女性、調査には協力したけれども、それ以上は動けなかった方などがいましたが、イワンさんは、自らの名をはっきりと告げ、それ以降に始まった日本政府を糾弾する運動の先頭に立たれたのでした。

彼女が普段話しているのはタロコ語、そのため彼女の証言のときには、おなじタロコ族で北京語の上手な方が通訳につき、タロコ語→北京語→日本語という通訳が行われますが、重要な部分になると、自ら日本語を上手にあやつって話されることもあります。

いつも威厳をたたえている彼女ですが、一緒にいると茶目っ気を披露してくれて、カメラを向けると必ずおどけたポーズをとってくれます。これは台湾のおばあさんたちに共通のことでもあるのですが、とくにイワンさんはおどけ方がうまい。

そんな彼女の病室に入ると、付き添いの娘さんと二人で静かに過ごされていました。今回は僕の連れ合いの浅井桐子さん、証言集会を共に担ってきた京都の村上麻衣さん、東京の柴洋子さん、ホエリンさんが一緒です。2010年秋に霧社まで訪れたときに、村上さんのお腹にいた2歳9ヶ月の灯(あかり)ちゃん、ホエリンの娘さんで2歳になる直前のリーシンちゃんも。この二人のかわいい子たちがいつも回りに笑いを広げてくれる。

病室にホエリンさん、柴さんが入っていくと、イワンさんの顔がほころびました。さらに僕と浅井さん、村上さんが入ってきたのを見て、一瞬、とても驚いた顔になり、続いてはじける笑顔を見せてくれました。「モリタさん・・・」僕の名前をしっかりと覚えていてくださいました。

お見舞いのお金(台湾ではお見舞いのときに赤い封筒に入れてお金を渡す風習があります。赤を使うのは、「よくなりましたね、お祝いです」の意です)とお土産を渡すと、遠い日本から来てくれて十分だ、こんなことをしなくていいのにと、ちょっと顔をしかめられました。そんなときの説得はホエリンさんが大得意。アマアの手にお金を握らせ、これで元気になってみんなを喜ばせてアマアを納得させました。

それからはとりとめもないお話。実は浅井さんは、この7月にもワークショップに参加しており、元気なイワンさんにお会いしています。ところがその後に、黄疸がはじまり、それが長引くので入院したところ、他にも悪いところが見つかったのだそうです。病状はまだまだよくはないらしい。

「この間、会ったときには元気だったのにねえ」と浅井さん。「でも顔色はいいね」と柴さんが語ると、「上等でしょう?」とイワンさん。台湾のおばあさんたちは好んで「上等」という日本語を使います。

そんなアマア、病状のよいときには家にかえることもできて、つい数日前も帰ったそうなのですが、家でぐっすり寝ることができたものの、翌日にはすぐに病院に戻ると言い出したそうです。病院に戻ってしっかりと病とたたかいたい。早く治療をしてもらってよくなりたいからとのことでした。アマア、病に前向きに立ち向かっているのですね。本当によくなって欲しいです。

ちょっと不思議なことがありました。ホエリンさんが、「何か心配なことはない?」と質問したときのこと。アマアは耳もちょっと遠いので、ホエリンさんが北京語で話し、付き添っていた娘さんが、タロコ語でアマアに伝え、タロコ語の答えが返り、北京語でホエリンさんに伝わり、英語になって僕らに届くのですが、アマアがタロコ語で答えたときに、なぜか僕らには意味が分かったのです。

これは「心配」という言葉が、タロコ語でも「シンパイ」と発音されていたためもあったと思いますが、なぜかこのとき、日本人一行には話の全体がすっとわかってしまった。台湾の部族の言葉にも、台湾語にもかなりの日本語が混じりこんでいるせいもあるのかもしれませんが、「シンパイ」という単語以外は分からないはずなのに、本当にすっと意味が入ってきた。

ともあれ、「ああ、アマアは心配なんかしないで、穏やかだけれどもここで前に向かって歩んでいるのだな」とそれが伝わってきて嬉しく思いました。アマアの手に点滴の針を何度も通した跡が残っていたので、そこを少しさすってあげました。そんな風にしながら、ゆっくりと時間がすぎていき、やがて病室を後にするときが来ました。みんなで記念撮影をし、アマアの手を握って、口々に「よくなってね」と伝えて、病室を出ました。

続いて向かったのはイワル・タナハさんのお宅でした。イワルさんは敬虔なクリスチャン。タロコ族にはクリスチャンが多い。彼女も知人が病で苦しんでいると聞いては、その家を訪ねてお祈りをあげてあげるような信徒さんです。でも彼女も最近は足が悪い。以前ほど活発には動けません。

その彼女の家を訪れるために、僕ははじめてタロコの方たちが多く住む地域を訪れることになりました。最初に驚いたのは、彼女たちの村をうしろから包み込んでいる山の圧倒的な存在感です。日本のどの山とも違う。急峻で背中に覆いかぶさるような威厳を持っている。畏敬の念が自然と沸いてくるような山です。

しかもはるか上のほうに霞がかかっている。何度も訪れている柴さんが、いつきても霞が見えるといっていましたが、それがさらに山の存在感を強いものにしています。そんな山が奥へ、奥へと連なっていることがわかります。

実はこの山をこちらから登って、えんえんと進んでいくと霧社につくのです。花蓮はそこから台湾の東海岸に降りてきた地域です。東海岸はいつも激しい台風に襲われてきたため、自然の荒々しさが、この急峻な山並みを作ったのかもしれません。典型的なリアス式海岸で、深く切れたった渓谷もある。かつてはこの地域も、漢族の入りにくいところだったのでしょう。自然の要害に囲まれて、タロコの人々はここに自分たちの楽園を築いてきたのかもしれません。

さてそんな急峻な山の裾野の家で、しかしイワルさんはとても穏やかな暮らしをされていました。私たちが入っていくと、ニコニコと笑わってくださいましたが、その目元はどこまでも穏やかです。あるいは信仰が彼女の精神生活を豊かにしているのかもしれません。

ここでも私たちはアマアを囲んで静かでやわらかい時間を過ごしました。子どもたちだけはキャッキャッとかしましい声をあげていましたが、イワルさんはかわいいねえと目を細めていました。アマア、いつまでもお元気でと握手をして、彼女の家を後にしました。

続いて花蓮を始めて訪れた僕のために、ホエリンさんが、少しだけ観光を入れてくれました。松園別館というハウスですが、旧日本軍が公館に使っていた建物が歴史遺産として展示されているものでした。台湾歴史百景の一つにも選ばれているのだとか。そこを訪れると、近くに高級将校が住んでいて、さまざまな儀式に使われた建物であることが分かりました。儀式の中には、特攻隊の兵士を集め、天皇から下賜されたお酒を出撃前に振舞うなどのことがされと書かれていました。

「そうなると、ここに慰安所もあったのでは?」そんな目で中を探索すると、本館の洋館の裏に、屋根が純日本風の建物のなごりが残されていました。名残というのは建物は往時のままには残っていなくて、ここを訪れた人々のためのカフェに変わっています。

しかしそれらに付されている展示案内を読み込んでいって、その一つに、「ここには階級の低い兵士たちが住んでいたり、慰安婦たちが住んでいて、ここで働いていた」というような記述がみられました。「やっぱりあったね、きっと特攻隊の兵士たちに前夜にいかせんたんだろうね」と話し合いました。

こうした話は実際に台湾の新竹という海軍基地に作られた慰安所で確認されています。そこには韓国のイヨンスさんというおばあさんが送り込まれました。彼女はある日自宅からさらわれて船に乗せられ、台湾に連れてこられて、特攻隊兵士の相手にした性奴隷をさせられたのでした。

こうした彼女たちの被害体験に比較は禁物なのかもしれませんが、特攻隊の兵士たちは、多くが純真な青年で、何より人を殺した経験のない若者でした。その点で、獰猛な殺戮部隊だった中国戦線の陸軍兵士たちとは様相を異ならせています。イヨンスさんも、さらわれて「慰安婦」にされた彼女の境遇を悲しんだ兵士と、ほのかな恋心を交わしています。

一度、イヨンスさんを我が家にお招きして泊まっていただいたことがあり、そのときに、僕が特攻隊について書かれた写真つきの書籍を彼女に見せてあげたのですが、航空帽をかぶって腕組みしている若い兵士たちの写真をみたせいか、彼女の夢枕に、かつて彼女と恋心をかわした兵士が立ったそうで、彼女は一晩中泣き明かしたと語っていました。

僕はその後、新竹の海軍基地から出撃した特攻機の記録を調べ、彼女との話から使われた機体を特定し、10数機の中の一機にまでその兵士の乗った飛行機を絞り込みましたが、それ以上、調べることが彼女の幸せにつながるのかどうかが分からなくて、そこまでで調査を終えたことがあります・・・。

そんなイヨンスさんの思い出から、この洋風の会館で、天皇から下された酒を飲み干している青年たちの顔が目に浮かぶような気がしました。そしてその彼らを迎えるためにそこに住まわされた女性たちの顔。彼女たちもあるいは韓国からの女性だったのかもしれません。

確かにその「行為」がここでなされながら、すべては霞の中に埋もれてしまっています。そのときここにいたおばあさんは、今、韓国のどこかでひっそりと生きているのかもしれない。そうであるとすればせめて幸せであって欲しいと思いました。ともあれしっかり記録しておかねばとビデオをもってぐるぐると建物の周りをめぐりました。

続けて、再びタクシーを飛ばして、タロコの方たちの住まう地域にもう一度行きました。イワル・タナハさんのおられたところとは離れたところで、その地域でとても印象的だったのは、町の中の家々の壁のいたるところに、タロコ族の姿をタイル模様のようなものであらわしたものがはめ込んであることでした。

「前からこうではなかったのよ」と柴さん。2004年に「タロコ族」として認められて以降、民族の尊厳をあらわしたこうしたものがたくさん設置されたのだそうです。タロコの誇りを全面に掲げている人々の息吹が伝わってきました。

お訪ねしたアマアは、僕にとっては初めての方でした。さまざまな事情からカムアウトはされていませんが、婦援会の活動は他のアマアたちと積極的に担ってきたのだそうです。カムアウトしたアマアたちを支えて頑張ってきたのですね。

そんなアマアはびっくりするほど日本語がお上手でした。ちょうどお連れ合いもいらしたのですが、このおじいさんも日本語が上手。話を聞いたら、夫婦の会話の多くが日本語なのだそうです。町の中での年寄りの挨拶も日本語が多いらしい。「こんにちは。どこにいくのなんて、毎日、話してるんだよ」とアマア。

「日本語が本当にお上手ですね」と語ったら、「私のときは小学校が3年しかなかったんだよ。少したったら6年になったんだけど、私は3年しか習えなかった」ととても残念そうに語られました。学校でもっとたくさんのことを習いたかったというアマアの気持ちが伝わってきました。

ここでもゆったりとしたやわらかい時間を過ごすことができました。アマアの家を去るときは、アマア、おじいさん、娘さん、それに飼い犬が並んで私たちを見送ってくださいました。アマアが終始、とても嬉しそうにしてくれていたので、来てよかったなと思いながら、アマアの家を離れました。

さてそれから花蓮から特急にのって帰ってきたので、台北到着は午後10時をまわっていました。僕は特急列車の中でレポートを書き続け、友人宅に帰って、まずはタロコ族のことを投稿しました。

そのとき、柴さんに被害の様子を質問したのですが、今、ここに紹介したアマアたちは、みなさん、いい仕事があると騙されて基地に連れて行かれ、軍が管理していた近くの洞窟に連れて行かれてレイプされたのだそうです。しかも次々と若い女性を呼び出していった。被害にあった少女は泣きながら戻ってきますが、その理由を友達に伝えることができない。

そうしてまた一人、また一人と日本軍兵士に呼び出されて、洞窟に連れ込まれ、レイプをされたのだそうです。そんな少女たち。それからみんなで手をつないで数珠繋ぎになり、おいおいと泣きながら自分たちの村への坂道を歩いていったそうです。「凄い聞き取りだったわよ」と柴さん。今、こうしてレポートを書いていてもその姿に涙が出てきてしまいます。

アマアたちを少しでも幸せに。そのためには、たとえ何時のことになろうとも、日本政府のきちんとした謝罪を引き出さなくてはいけない。そう再度、心に誓った花蓮への旅でした。

続く

Sunday, December 9, 2012

naked comfort throw grenades women in Songshan Battle Taiwan

松山战役时慰安妇曾协助日军 赤身裸体扔手榴弹
文章提交者:mbl54888 加贴在 历史风云图区 铁血论坛 http://bbs.tiexue.net/bbs66-0-1.html

http://bbs.tiexue.net/post_6017856_1.html

松山在今云南省龙陵县境内,西距龙陵县城50公里,主峰海拔2260米,和其它几个山头共同形成一个浅浅的高山小盆地,方圆不过10余平方公里。盆地中是一个自然村,叫做大寨,原有数十户人家,日军盘踞此两年时期内,将大寨作为其军资仓库与指挥部。松山乃日军在滇缅边境六大踞点之一,阵地工事构筑非常坚固。

[ 转自铁血社区 http://bbs.tiexue.net/ ]


日本驻缅总司令河边正三中将和第十五军新任司令官年田口谦看中了松山,认为松山的战略地位相当重要,从缅甸调来一支工兵部队,另外从泰国、缅甸调来两万民工,昼夜施工,松山的里外都是工事坑道,其穷2年之力松山日军防御阵地,在一些重要地段,连坦克都能在地堡里开进开出,活动自如



松山战役中日本慰安妇甚至会加入战斗,参加过阴登山之战的老兵金城回忆,我冲到阵地前看见一个日军营妓跳出战壕,身上什么也没穿,抡起一颗手榴弹就向我扔过来,大概用力过猛弹离手人也一头栽下斜坡,滚到了我的脚边。



松山战役期间日本慰安妇的照片

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在松山战役中俘虏的慰安妇



松山战役期间,中国远征军总预备队新编第8军攻克松山后,发现一处堑壕内有十五具日军尸体,其中两具为女性(慰安妇)。



松山战役期间,美军顾问团中的随军记者曾拍摄大量战地照片。其中一张照片拍摄日期为9月3日,照片上左侧是一位持枪的远征军士兵,他身边是4名刚刚被俘的日军慰安妇。这张照片后来成了国际上最著名最具震撼力的慰安妇照片。在这张照片公开以后,亚洲各国乃至世界各地都开始有人注意慰安妇的问题

[ 转自铁血社区 http://bbs.tiexue.net/ ]


1943年初,由日本知名作曲家古关裕而和歌星奥山彩子等组成的慰问团,不远万里来到日军为日军打气鼓劲,这也是唱给这些所谓“九州男儿”最后的挽歌



攻克松山后,为日军慰安妇包扎伤口的美军卫生兵。



1944年9月2日,被中国远征军摧毀的松山日军阵地遗迹

[ 转自铁血社区 http://bbs.tiexue.net/ ]






日本人认为,松山战役是他们在第二次世界大战亚洲战场上的第一次“玉碎战”,也就是日军被全部消灭的战役。这场战役迫使日军焚毁了亚洲战场上第一面由天皇亲授的军旗——旭日旗。这也是日军在中国战场上首次遗留上千具遗骨迄今无法收回的败仗

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PM Noda defenses for reputation of Korean "comfort women"

http://news.youth.cn/gj/201208/t20120829_2393993.htm

日相野田为"慰安妇"辩护 对韩强硬挽救声望
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http://www.youth.cn 2012-08-29 10:24:00 中国青年网
【核心提示】韩国国会外交通商统一委员会28日召开全体会议,通过“敦促日本政府向‘慰安妇’正式道歉及赔偿”的决议案。





  8月9日,韩国首尔,“为解决日本军慰安妇问题的青年记者会”在日本驻韩国大使馆前举行。右为韩国在日本使馆前放置的“慰安妇”雕像。





  “河野谈话”没有直接记述日本强迫女性充当随军“慰安妇”,应考虑提议应在阁僚间(就修改“河野谈话”)进行讨论。 ——日本内阁大臣松原仁

  日本国家公安委员会委员长松原仁27日声称“河野谈话”没有直接记述日本曾强征“慰安妇”,暗示应当修改这一日本政府就“慰安妇”问题道歉的声明。

  松原曾参拜靖国神社

  松原当天在国会会议上说,“河野谈话”没有直接记述日本强迫女性充当随军“慰安妇”,他“考虑提议应在阁僚间(就修改‘河野谈话’)进行讨论”。

  “河野谈话”指1993年8月,时任日本内阁官房长官河野洋平就随军“慰安妇”问题调查结果发表声明,承认日本军队直接或间接参与在朝鲜半岛、中国等地设置“慰安所”并强迫当地妇女充当“慰安妇”,对此表示道歉和反省。

  需要指出的是,松原和国土交通大臣羽田雄一郎本月15日以所谓“个人身份”参拜靖国神社。这是民主党执政以来内阁成员首次参拜靖国神社。

  大阪市长要韩拿证据

  一些日本地方“政治明星”最近同样发表否认强征“慰安妇”的诡辩。

  东京都知事石原慎太郎24日说,没有证据显示日本人强行掳走女性做“慰安妇”,“困难时期,女性卖身是一门很赚钱的生意。她们自愿选择”当“慰安妇”。

  21日接受日本媒体采访时,大阪市长桥下彻同样声称:“没有证据显示慰安妇在遭受日军暴行和胁迫后被强行带走。如果有相关证据,希望韩国予以出示”。

  野田为“慰安妇”辩护

  日本首相野田佳彦27日参加国会参议院预算委员会答辩时谈及“慰安妇”问题,说历届内阁都继承“河野谈话”,“我领导的内阁原则上继承这一谈话”。然而,野田同样辩称:“没有文件证实强征慰安妇的事实,也不存在相关证词。只是,日本政府当时以所谓随军慰安妇问题调查结果为根据发表这样的谈话。”

  野田还说,一些人认为韩国总统李明博10日访问竹岛(韩国称独岛)是因为不满日本政府对待“慰安妇”问题的态度,而他认为“两件事并没有关联”。(胡若愚 新华社专稿)

  反应

  韩要求日政府正式道歉

  部分议员提议用“性奴”代替“慰安妇”

  韩国国会外交通商统一委员会28日召开全体会议,通过“敦促日本政府向‘慰安妇’正式道歉及赔偿”的决议案。

  决议案强调,日本政府在第二次世界大战期间强迫女性充当随军“慰安妇”有悖于人类普遍价值,构成犯罪行为,并敦促日本政府承认对此负有责任,向受害者正式道歉和赔偿。决议案还要求,日本政府实施正确的历史教育,以承担对日军慰安妇等反人类犯罪的历史责任,防止重演不幸历史。

  决议案指出,为了使这些要求得以实现,韩国政府除与日方进行协商和向国际社会反映等,还应付出一切外交努力。会上,韩国部分国会议员提出了应该用“日军性奴受害者”的名称来替代“日军慰安妇受害者”,对此外统委将举行会议研究是否改变名称。

  27日,韩国政府对日本首相野田佳彦称“河野谈话”中关于慰安妇问题缺乏证据的说法表示不满。外交通商部一名官员说,“日本政府核心人物发表否认强征性奴隶的言论,韩方深感失望。强征‘慰安妇’是无可辩驳的历史事实,我们再次敦促日方采取可以为受害者接受的诚挚措施。”

  韩国宪法法院去年8月30日裁定,在日韩围绕“慰安妇”赔偿请求权仍存在纠纷的情况下,韩国政府没有努力解决问题,侵犯受害者基本权利,属违宪行为。韩国外交通商部随后宣布成立特别工作组,着手研究解决慰安妇赔偿方案。(宗和)

The Japanese punishment to escaping comfort women


http://cul.cn.yahoo.com/ypen/20120818/1258456.html


日军处罚逃跑慰安妇:用刀戳小腹 割胸后烧死
2012年8月18日07:39 转载文章  我要参与(203)
【核心提示】日军用军刀乱戳母亲下身,母亲叫啊,他们却哈哈大笑……他们把母亲的乳房割下来,母亲痛得死了过去。最后,他们搬来干柴堆在母亲身边,淋上汽油,就这样母亲被这群野兽烧死了……

摘自《真相:慰安妇调查纪实》,作者:陈庆港,出版:江苏文艺出版社
日军投降,意味着谭玉莲屈辱的慰安妇生活的终结,但并不意味着谭玉莲从此就走上了正常的生活轨道,事实上那段恶魔般的日月,整整影响着谭玉莲的一生。
结束了凄惨的慰安妇生活几年之后,谭玉莲有了自己的家庭,而一个和慰安妇这段历史有着密切联系的家庭,从一开始就似乎注定了它要经历太多的磨难。婚后,谭玉莲先后孕育过多个孩子,但都因为慰安妇这段经历在她身上留下的后遗症而未能使这些孩子成活。经过十几年的医治,谭玉莲几乎花尽了家里的所有积蓄,才终于实现了一个女人做母亲的愿望。“文革”期间,因为曾经当过“日本娼”(当地人对当年曾被日本侵略者抓去充当慰安妇的女人的称呼),谭玉莲受到了一些不公正的待遇,在当时特定的历史条件下,这是可以想见的。想起那段日子,谭玉莲并不怪那些不明真相的乡亲,只是痛恨那些惨无人道的日本侵略者。那些当年被迫沦为慰安妇的幸存者,“文革”中几乎都受到了程度不同的冲击,日本侵略者的兽行影响了她们的一生。
这一辈子受尽了屈辱,老人说有生之年最大的愿望是想为自己讨回清白。
见到谭玉莲时,她正在儿子家治病,慰安妇的生活,使她的身体有了太多的伤痛,谭玉莲现在不得不一把一把地吞药。平时老人都是自己生活,只有病得重时,才来儿子家,因为她自己拿不出治病的钱。
谭玉莲:我记得,日军占领了南林峒后,就在这建了据点,还修了三亚到南林峒的公路。三亚到南林峒的公路修通后,日军又要修另一条连接三亚的公路。这条路从南林峒的庆训村开始,翻山越岭一直到三亚。那时日军就在附近各村征集劳工,我是第一批被征集的劳工。
当劳工的第一天,在工地上辟山开路时,我就被日军挑选了出来,还告诉我不准回家。同我一起被挑中的还有李亚迈、谭亚细几位姑娘。当时日军安排我们住的茅屋就在离他们据点很近的一条河边。我们每天把生盐晒成粉装袋,或煮酒,然后送进据点供日军使用。
当劳工的第二天,4个日本兵叫我们4位姑娘跟他们去打斑鸠。我们也就只好去。进山后,我跟着的那个日军,叫我钻进草丛中寻找被他打中的斑鸠,他就跟在我背后,在一个石洞边他就突然把我抱住,双手使劲地抓我的身体。我吓坏了,一边拼命反抗,一边喊救命。日本兵见我这样就打我耳光,我当时被打得头昏眼花,就不敢叫了……被他强奸后,我下身非常疼,哭又不敢出声,就悄悄流眼泪。其他3位姐妹情况也跟我一样。
当时和谭玉莲几乎同时被抓去修路的还有一对年轻的夫妇,这对夫妇那时已经有了一个女儿,女儿叫王荷仙。王荷仙对于父母当年在给日本人修路做劳工时的许多情况并不清楚,因为那时她还小,她只知道自己母亲是被日本人烧死的,在母亲死后不久王荷仙的父亲就也死了。王荷仙对于自己父母、特别是母亲当年情况的了解,是在她长大以后,长大以后她找到了许多位曾经和母亲在一起做劳工的人打听,一个细节不放过地打听,在经过多年的不懈了解后,王荷仙终于清楚了母亲的死亡经过……
王荷仙:当时我的母亲28岁,一笑脸上有两个酒窝,皮肤也白净。一到据点,就被日本人看上了,叫她“花姑娘”,立即把她编入“服务队”。“服务队”是干什么的,母亲不知道,和母亲一起编入“服务队”的还有3个更年轻的姑娘,当时她们都不知道日本人将要他们做什么。
谭玉莲:我们4人白天晒盐、煮酒,还要为日军洗衣服,搞卫生。我们住的茅屋里没有床,就在木地板上4人一起睡。晚上,日军要求我们随叫随到,如果不服从,就要受惩罚,锁在屋里,一关5天。被叫去的姑娘按指定到他们住的房子里,随便他们糟蹋,不许叫,不许喊,不许反抗,不然就挨打。常要我去的是个留仁丹胡子的日军,听翻译说他是队长。这个队长很凶,稍不顺意就要打人。有一次,有个日本兵说我不听话,我就被禁闭了5天,刚一放出来仁丹胡子就来找我,完了又说我哭喊反抗了,我就又被关了7天。这7天里每天由伙夫送饭,每次一盅稀粥,没有筷子,也没有菜,仁丹胡子还是不停来强奸我。




王荷仙:日军翻译官交代说:“服务队就是为皇军服务,皇军叫你们干什么,你们就干什么,不准反抗,也不许逃跑。”就这样母亲和几位姑娘被安排住在据点的一间茅草屋里。起初,她们被安排扫地、做饭和洗衣服,到了第四天,灾难降临。那天晚上,7名日军把母亲叫到他们的住处,二话没说就剥光了她的衣服,按在床上强奸……当母亲痛苦不堪衣服不整回到住处时,另一个姑娘也同样被日军糟蹋了,也头发蓬乱、衣服破烂、跌跌撞撞地回来。她们抱在一起,哭成一团。从此以后几乎每天母亲她们都被日军拉去折腾,不分白天黑夜。
母亲受不了折磨,在那年7月的一天,日军大部分去公路监工,据点里几个日军除站岗外都午睡了。母亲认为这是逃跑的好机会,便借口解手逃出了日军据点。不巧又被日军哨兵发现了,哨子一响,午睡的日军就都从宿舍里冲了出来,母亲没有跑多远,就被日军抓回来了。
谭玉莲:1944年春,日军在大村扩建据点,我和谭亚细、李亚迈等人被押送到了大村据点。在大村据点日军要我们砍山、锄草、扫地、洗衣服、搞住宅卫生,还有就是给他们强奸。
大村据点有30多个日军,南林峒据点约有100个,南林峒据点的山下还有个日军兵工厂,据说生产武器弹药,日军也曾押着我们4个姐妹去过。有一次,日本兵上山检查修路,要我们4个人给他们背水壶。走到山上的一处小山沟里的时候,日军就抱住我们先乱摸,后就强奸,我们都得顺从,不然就要遭毒打。
王荷仙:日军一个曹长把母亲拖进房间,撕烂衣服,按在床上施暴。这时母亲就在这个曹长的肩膀上咬了一口,曹长就拳打脚踢,把母亲打得不省人事,然后找来绳子把母亲的双手捆住,拖到据点旁边的一棵大榕树下,绑在树上。日军用军刀乱戳母亲下身,母亲叫啊,他们却哈哈大笑……他们把母亲的乳房割下来,母亲痛得死了过去。最后,他们搬来干柴堆在母亲身边,淋上汽油,就这样母亲被这群野兽烧死了……
谭玉莲:我们住在大村据点差不多将近一年,一直到他们投降。
(责任编辑:朱晓时)

The real comfort women in the Japanese book

http://jiuguishu-1972.blog.163.com/blog/static/8223603320122103336263/

日本书中的真实慰安妇

2012-03-10 15:03:36| 分类: 谈古论今 |字号 订阅


日本的“家”的制度下,认为儿女是家长的个人财产,家长有权力决定子女的终身,无论是买卖还是典押。日本在模仿中国的法律制订律令的时候,就把中国法律中的“十恶”中禁止近亲买卖的“不睦”除去了,把原本的“十恶”改成了“八虐”。



日本这样做的原因就是因为当时日本买卖儿童和近亲结婚的情况十分普遍。很多穷人由于生活所迫,都会把孩子卖掉,特别是江户时期,人口买卖的情况更是十分盛行,有些日本家庭由于交不起年贡,就拿子女当作抵押。



日本贩卖儿女主要的对象还是女儿,在日本的封建社会后期,娼妓的情况十分严重。很多女孩被卖掉之后都会成为娼妓,而家庭基本就要依靠这些女孩维持。《日本女性史·近世》中记载显示,普通的农村女孩卖给妓院只能换到十三两钱。即便如此,被卖掉的女孩也毫无怨言。因为她们接受到的教育就是为了家的利益,为了孝敬父母,牺牲自己的幸福是应该的,所以日本的女孩子为了家庭而被卖掉,不仅没有人鄙视,甚至还会受到人们的称赞。日本有一个卖身奉养母亲和弟弟的女子,还因为“孝心奇特”而受到了日本官方的表彰。



日本人认为武士为领主、大名家服务是奉公,仆人为主人服务是奉公,而女人出卖同样也是奉公。明治时期,明治维新之元勋伊藤博文在回答英国《每日新闻》记者提问的时候说,“我不希望废除游廓”,这里的游廓也就是妓院。他的理由是,站在道德角度来说,做妓 女是高尚的,因为她们是为了尽孝道才去出卖的。



当时的日本,表面上似乎看不到买卖少女的行为,其实这种事情还是普遍存在的。虽然日本人表面上说是“出赁”,但这个事情的性质依然是买卖,而且很多父母也愿意为了几百元而卖掉女儿。



他们和买卖少女的经纪人谈妥之后,经纪人会付给父亲一笔钱,然后把女儿留下。女儿之后需要做的就是靠出卖赚回自己的自由。每次和客人做之后,女儿都能拿到一些小费,用这些钱就可以逐渐还清这笔债务。不过一般都需要几年的时间,除非遇到有钱人,愿意付出一大笔钱把少女从妓院买回家。这对于日本女来说,是一个美丽的梦。



虽然也有一些日本人对以上的现象颇有微词,甚至有些人还提议取缔它,但是绝大多数人都表示无所谓。那些喜欢光顾妓院的人更是不同意取消,甚至一些地方官员还建议应该让妓院更加繁荣,以此带动消费的动力,增加国库的收入。



德川幕府制订的“游廓政策”,导致当时的日本人大约有三成左右患上了梅毒,而日本人的风俗习惯和国民性格,也因此受到了很大的影响。到了明治时代,妓院的繁盛情况不仅没有减弱,甚至还借助“中日甲午战争”而更加兴旺。历史记载显示,在1894年发生“中日甲午战争”之时,日本的军人在一年之内就在人口只有10万的出兵港口广岛,留下了2000多个私生子。



明治后期,日本在日俄战争中取得了胜利,嫖的情况也因此更加严重。有人在当时做了一项调查,在吉原游廓的门前利用一个小时的时间,统计一下进入游廓的嫖客人数。在晚上八点到九点,一共有1900人出入。其中14岁以下的大约有50人左右,14—17岁左右的大约是170人左右,17—24岁的大约500人。当时的年轻人后来回忆嫖的经历时说:“那时逛妓院就像上厕所”。



明治时期色业繁盛的原因,就和江户时代德川家康提倡的“游廓政策”一样,当时的明治政府对游廓表示出了相当的支持和保护。当时的伊藤博文因一句“不希望废除游廓”,被日本人男人视为“唯一的英雄”,而他本人也是公认的“色男”。据说平时和他交往的女性基本上都是艺妓,甚至他的妻子梅子也是艺妓出身。伊藤博文认为人生最大的乐趣就是“醉卧美人膝,醒握天下权”。



明治时期之后的大正时期,在色方面也是有过之而无不及。虽然大正时期没有多久,但是这一时期却将嫖业发展到了极致。明治后期,嫖主要以公娼经营为主,而到了大正时期,各种各样的艺伎馆和私娼馆相继出现,数量比公娼多出了两倍还多。
















昭和时期,由于日本东北地区的饥荒和“太平洋战争”,更令日本的色业出现了惊人的突破。卖女儿的情况在此时最为严重,“慰安妇”制度也在此时出现。 温馨提示:

vicissitudes lives of nude comfort women experienced for Japanese troops

慰安妇


http://blog.163.com/hu_zhiping11/blog/static/2070543220127972128132/

日军裸体慰安妇饱经沧桑的一生

2012-08-17 08:00:26| 分类: 史海钩沉 |字号 订阅


滇西腾冲是抗日战争中中国收复的第一块失地,创造了全歼日军56师团148联队6000多人的辉煌战绩。这个地方也曾流下过许多慰安妇的泪水,而且其慰安所之多(有23个之多),当地被迫害妇女之众,也是世之罕见的。照片调查取证者日本作家西野瑠美子女士和中国旅日电视人朱弘先生先经历两年多的调查取证后,感动了腾冲的一户见证人,男主人拿出了一组日军慰安妇的裸体底片,那些底片是爱克发胶卷拍的,图像还非常清晰。图为在腾冲发现的裸体慰安妇照片,照片中的女主人公为朴永心,晚年居住朝鲜,并收养一子。




这组照片曾被保山市的对日索赔成员陈祖梁先生带到日本东京大审判国际法庭作证据。据他说曾得到照片中的主人公之一若春的确认。图为在腾冲发现的裸体慰安妇照片,照片中的女主人公为朴永心。




日本作家西野瑠美子女士和中国旅日电视人朱弘先生先后在中国和朝鲜采访了当事人,证明照片中裸照主人公是生活在朝鲜的朴永心女士。图为在腾冲发现的裸体慰安妇照片,照片中的女主人公为朴永心。



这是在腾冲发现的裸体慰安妇照片,照片中左为朴永心。


照片中的右一怀孕者为朴永心。


这是在云南抓获的日军慰安妇。


照片发现人熊维元先生在对比照片。


熊维元先生发现的底片。


朴永心老人辨认照片。


“这个人就是我!”居住朝鲜的朴永心老人指着照片说。














http://www.gmw.cn/content/2004-06/05/content_39187.htm



慰安妇的证言
2004-06-05    查看评论 进入光明网BBS 手机看新闻
   “我的家乡是湖北省武汉市,我1922年农历五月十六日生于武

汉。父亲袁胜阶,母亲张香之,我还有两个可爱的妹妹。由于家中生

活贫困,我的父母无法养活女儿,我幼时不但没有上过

学,还被送人
做了童养媳,两个妹妹也先后送人做了童养媳,从此天各一方,再也

没有见过面。我15岁结婚,丈夫王国东是个汽车司机,生活虽谈不上

小康,但粗茶淡饭,还算过得去,特别是夫妇感情很好,生活恩爱。”

  “不料,安定的生活刚刚开始,第二年日本侵略者的炮火就烧到

了武汉,1938年6月,日军开始进攻武汉。这时我的丈夫到大后方去了,

我无处可逃,只得留下。岂料我丈夫去四川没有多少时间,婆婆就看

我不顺眼了,认为我在家是吃白饭,反正儿子也不会回来,便强逼着

我嫁出去,这样我屈辱地与刘望海结了婚。次年我17岁时,生下一个

女儿,取名荣仙。这是我一生中唯一的亲骨肉。刘望海的工作也不稳

定,为了活命,我也出去帮人做佣工。由于日军侵略,兵荒马乱,经

济萧条,常常找不到工作。”

  “1940年春,有个武汉当地的女子叫张秀英的到处招工,说是到

湖北其他地方的旅社去做清洁工。原来我并不认识这个30多岁的张秀

英,但找工作实在不易,听张说有活儿做,我也报了名。报名时,有

好几个小姑娘。我当时18岁,身高1.60米,长得比较清秀,在同去的

七、八个女青年中,我是最显眼的。”

  “后来才知道,这个张秀英不是个好东西,她的丈夫是个日本人,

会说些中国话,当时正根据日军的命令,准备找些中国妇女组织慰安

所。这个人中等的个头,平时不穿军服,着西装,黑皮肤,眼睛鼓起,

人称金鱼眼,当时的年纪约40岁。”

  “我离开了第二个丈夫刘望海,从江边坐轮船往长江的下游开。

一开始,我的心情是很愉快的,想着终于找到了工作,吃点苦,将来

总会好的。大约开了一天,船到了鄂州。一上岸,就有日军士兵过来,

将我们带到一个庙里。原来日军把这个庙做了军队的慰安所。门口有

日本兵站岗,我到了门前,看到凶神恶煞般的日本兵,吓得不敢进去。

这个时候,我和同来的小姐妹多少猜到一点,大家便要求回家,我边

哭边叫道:这里不是旅社,我要回家。但日本兵们端着刺刀不容分说

就把我们赶了进去。”

  “刚进了慰安所,老板就命令立即将衣服脱光,以便检查身体。

我们当然不肯。张秀英的丈夫就带人用皮鞭抽打。张秀英还指着我,

凶狠狠地训斥道:你是游击队员的老婆(指袁竹林的丈夫去了四川――

笔者),老实点。身体检查很快,因为我们都是良家妇女,根本没有

什么性病的。检查后,老板给每个人取了个日本名字,我被叫作“吗

沙姑”。我们每个人分到一间房间,大小约七、八个平方,里面只有

一张床,一个痰盂。”

  “第二天早晨,房门口挂了一块六、七寸长,两寸宽的木牌,上

面写着‘吗沙姑’。在慰安所的入门处也挂着很多这样的牌子。这天

的上午,门外就来了大批的日本兵,于是,每个房间门口都排起了长

队。我足足遭受了10名身强力壮的日本兵的蹂躏。一天下来,连坐也

坐不稳,下身疼痛像刀割一般。”

  “此后,每天的生活就是做日本兵的性奴隶。一般,日本兵要买

票进入,但要多少钱,我从来没有看到过,更不用说,也从来没有得

到过一元钱。每日三餐由老板雇佣来的一个中国男人做,质量差,数

量少。遭受蹂躏的妇女要洗澡,只能在厨房的木桶里轮流洗。当然,

这个慰安所的中国慰安妇总共有好几十人,洗澡水到后来已脏得不行

了。”

  “一个日本兵进入房间,在里面总要30分钟。晚上我们也不得安

宁,常常有军官要求陪夜。一小时,二小时,甚至整夜的都有。来了

月经,老板也不准休息,日本兵照样涌入房间。刚进入慰安所,老板

就拿着一种白色的药片,说吃下去就永远不会有痛苦了。实际上,这

是避孕药。开始,我常常将这种白色的药片扔掉,后来,老板发现我

们都不吃,就看着我们吃下去。日本规定,士兵必须要用避孕套,但

很多士兵知道我是新来的良家妇女,不会患梅毒的,便欺负我而有意

不用避孕套,经过一段时间后,我就怀孕了。”

  “怀孕后,日子更苦了。我心想这样下去,早晚要被日本人弄死

了;但我不能死,我还有父母亲。便暗中与一个被日本人叫做‘留美

子’的湖北女子商量,决心要逃出去。但刚逃出去马上就被日本人抓

了回来。日本人将我的头死命地往墙上撞,一时鲜血直流,从此就落

下了头痛病。”

  “从一开始,军官藤村就看中了我。藤村大约是鄂州日军的司令

官。最初他和其他日本兵一样,来买票玩弄。后来,便要老板将我送

到他的住所,从此独占了我。看起来,我比起那些姐妹要轻松了些。

但是,我同样是没有自由的日军的性奴隶。”

  “后来,藤村玩腻了我。正在这时有个下级军官叫西山的,对我

好像很同情,便请求藤村把我让给他。藤村同意了。于是,我被西山

领到了他的驻地。这是一种非常奇特的经历,我一直认为西山是个好

人。”

  “1941年左右,我得到西山的允许,回到家中去探望,才知道父

亲已经离开了人世。原来,我父亲长得矮,加之年迈,去做临时工,

常常被工头开除,结果竟致饿死。”

  “我去找刘望海,也不知在何处,这时我没有地方去了,只能回

到鄂州,仍与西山住在一起。1945年8月,抗日战争结束时,西山要我

要么跟他回日本去,要么一起去石灰窑(今黄石市)投奔新四军。对

这两条道路,我都拒绝了,我说:‘我要去找妈妈。’”

  说到这里,袁竹林叹了一口气道:“西山是个好人。他当了15年

的兵,没有什么钱,衬衫也是破的,他曾对我讲,一次,他曾把日军

的给养船打了个洞,沉了,西山看到中国人因为贩卖私盐而被日军电

死,十分同情,便把一包包的盐送给中国人。不久,西山果然走了,

从此杳无音讯。”

  战争结束后,袁竹林的生活也不平坦。

  “日本人投降后,我回到了母亲的家乡――武汉附近的一个山村,

靠洗衣、做临时工与母亲一起维持生活。1946年,从朋友那儿抱养了

一个出生只有70天的女孩做养女,起名成妃。”

  “1949年武汉解放后,我回到了武汉,住在吉祥里2号。一天我曾

看到把我与其他姐妹骗入火坑的张秀英,张当时与一个老头在开商货

行,我马上去找户籍警察,至今我还记得这个户籍警姓罗。但,罗警

察却给我浇了一盆凉水:‘这种事算了,没办法查。’”袁竹林恨恨

地说:“现在,这个张秀英肯定死掉了。”

  “本来,我与母亲的生活已经十分平静了,尽管内心常常因回忆

起耻辱的遭遇而彻夜不眠。但是,善良单纯的母亲在里弄的一次忆苦

思甜大会上,情不自禁,讲出了女儿被日本人强逼为慰安妇的悲惨经

历,从此给我们的生活带来了新的祸害,小孩常追在我后面骂:‘日

本婊子’,‘日本婊子’。”

  “1958年,居委会的干部指责我是日本婊子,勒令去黑龙江北大

荒。我不肯去,居委会主任陈国珍、吴芝青就骗我说要查核户口本和

购粮证,结果,就被吊销了。户籍警察勒令我下放,我被迫去了黑龙

江,房子也被没收了。”

  “我在米山建设兵团整整呆了17年,种苞米、割大豆,天寒地冻,

没有柴取暖;而且一个月只有6斤豆饼,养女饿得抓泥巴吃。真是尝遍

人间的千辛万苦。有个股长叫王万楼,我永远记得,他看我实在太可

怜,便帮助我办理了手续,我终于回到了武汉,这时已经是1975年了。”

  “现在,政府每月给我生活费120元,养女每月给150元,但是,

现在养女和我一样,也退休了,我的身体早就被彻底给毁了,由于日

军的毒打,几乎每日都要头痛,头痛时不能入睡,安眠药一把一把地

吃,每晚也只能睡2小时,大半夜就这么坐着,等待天明。”

  这半个多世纪,袁竹林就是这么过来的。回忆往事,最后,袁竹

林哭诉说:“我这一生,全毁在了日本鬼子的手里了,如果没有战争

的话,我与丈夫王国东也不会分离。到晚上经常做恶梦,梦中我又回

到了那个地方,那真是人间少有的苦难啊!”

  “我已经79岁了,没有几年活了,日本政府应该尽快赔偿,我等

不及了!”

  (摘自《华声日报》)



日军士兵在慰安所门前摄影留念,门口对联上写着:热烈
欢迎圣战大胜的勇士,请接受大和女子奉献身心的服务。