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Monday, December 3, 2012

a black US soldier and a japanese woman, in Wakaba, Yokohama,in the Red Light District

http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/2010/08/

0/08/30
the 25th sun award Photo which made the times /sun 10,
時代を創った写真・第25回太陽賞発表/太陽⑩


ホテル サクラメント Hotel Sacramento

"a black US soldier and a japanese comfort woman, in Wakaba city, Yokohama,in the Red Light District" taken in 1957 (Showa 32)


photographer Ms. Toyoko Tokiwa

the Foreign country in Japan where had been condensed into the women's reality in the bases.
The beginning of the base was occupied.
the page of Showa history of the base had been turned over since the time when MacArthur had stepped on the soil of Atsugi,led the first batch to occupy the mainland as soon as defeated.
Without saying the "bases", it was referred to as "the seized lands" at first.
whenever they needed were taken over willy-nilly even personal building.
in The Korean War when the tense situation in Asia has reached up to the top, U.S. bases had been scattered in over 2824 locations in japan,the total area amounted to 1.35 billion square meters over.
(106 places, 330 million square meters in 1987, the japan self-Defense Forces has almost taken over U.S. military bases).

the base town had turned into where specialized bars or cabarets to U.S. troops on side-by-side, flowed lurid colors and alphabets like in the western movies.
it was said that Pang pang girls who were commonly known as the prostitution to U.S. troops exceeded 50,000, a lot of crimes by U.S. soldiers, however the checkpoints under the occupation forces GHQ, in the newspaper there was only written the expression like"assault by the giant black".
since 1952(Showa 27) to 1985(showa 30) , the accidents and crimes by U.S. soldiers was occurred 180,274 times, the dead japanese were 1216, however there were little trail from the Japanese side about its.

1957年(昭和32年) 常盤とよ子撮影 『赤線地帯の女と黒人兵 横浜・若葉町』
基地の女たちの現実に凝縮された日本の中の異国
基地のはじまりは占領であった。敗戦まもなく本土進駐の第一陣を率いてマッカーサー元帥が厚木の土を踏んだときから基地の昭和史のページがめくられた。はじめは「基地」とはいわず、「接収地」と称した。必要なものはたとえ個人の建物であっても否応なしに接収された。
アジア情勢の緊迫が頂点にまで達した朝鮮戦争当時には、米軍基地は全国2824カ所に散在し、総面積は13億5000万㎡にのぼった。(1987年現在では106カ所、3億3000万㎡だが、米軍基地はほぼ自衛隊がひきついでいる)。
基地の町にはあっという間に米兵専門のバーやキャバレーが軒を並べ、まるで西部劇の映画に出てくるような横文字とどぎつい原色の街に変わった。ピーク時には米兵相手の通称パンパンは5万人を超えたといわれ、米兵の犯罪も多かったが、占領軍の検問下に、新聞の紙面では、「暴行したのは黒い大男」というような表現しかできなかった。
1952年(昭和27年)から1985年(昭和60年)までの米兵の犯罪や事故は18万274件にのぼり、それによる日本人の死亡は1216人だが、これらの事件の扱いで日本側の裁判はほとんどなかった。
横浜在住の常盤とよ子は、そのころ女性の社会進出の実態を迫っていたが、当時の赤線に働く女性たちの生態を発表して注目されることに刺激を受け、米兵専門のバー街にもぐりこんで、基地から転々と流れる女たちの現実を、日本の中の異国の街角に凝縮させた。(岡井)
以上、丸写しでした。


パンパンとは?↓
パンパンは、1945年以降の占領統治下、主に在日米軍将兵を相手にした街中の私娼(街娼)を指す言葉。「パンパン・ガール」「パン助」「洋パン」ともいう。一般的には蔑称であると考えられている(日本人相手の日本人売春婦はこう呼ばれなかった)。占領が始まって1ヶ月もたたない1945年9月には既に存在が確認されていたとされ、1946年には全国で7万から8万人、朝鮮戦争の激化した1952年には10万人近くがいたとされる。1956年(昭和31年)の売春防止法施行後は激減したが、ベトナム戦争が激化した1960年代後半になっても米軍基地周辺には存在した。
敗戦により、経済的に困窮した家庭では、生きる為に止む無く身体を売る女性が急増した。特に進駐軍(占領軍)相手の売春は、金・物資ともに乏しかった日本人同士を相手にするよりも儲かったとされる。また当時は厚化粧の女性が少なかった為に、全く売春とは無関係の派手な身なりの女性を指してこう揶揄する事もあった。
ウィキペディア フリー百科事典より抜粋



https://www.hohjinkai.or.jp/news/5435/interview/interview.html







http://punkhermit.jugem.cc/?day=20070605


author : 岡田純良
Mr.ホッピー仙人を探して――黄金町、日ノ出町、そして都橋商店街。
6月5日
黄金町、日ノ出町、そして都橋商店街の今昔。
黄金町から日ノ出町の間に拡がっていた「チョンの間」が変わったとある人が言うので、腰を上げた。獄中生活の間に、この辺りの町場のニュアンスの変化は大きく、横浜駅での乗り換えも、先頭車両のすぐ前に出口と私鉄各線への通路ができて、随分楽になっていた。そもそも、黄金町辺りを歩くのはほぼ四半世紀ぶりだ。変わって当然なのだ。
その頃、伊勢崎町の向こう側の長者町に友達が住んでいた。友達のアパートの裏手に、長者町を根城にして付近の寄せ場を仕切る博徒の事務所があり、雨の日も風の日も提灯がその入り口を照らしていた。両引き戸の入り口までは、定石通り、人ひとりだけが通れるだけの幅の路地を「く」の字型に曲がって行かなければならなかった。
そしてアパートの持ち主の老婆は、夏場は、浴衣を着ていて、時折、三味線の音が階下から聞こえてきた。多分、若い折は花町の女であったのだろうし、あるいは、引かれ者の老後であったのかも知れない。何しろ、友達は日本国籍ではなかった。訳ありの者であれ、拒まずに下宿させる辺り、懐が深い一面もあった。
かつて、黄金町には250軒の売春施設があったとされるが、これは何時の時点の数値であろうか。「天国と地獄」で横浜市大の医学生役を演じた山崎努の潜伏していた貧困地区は、戦後長く、日本最大の麻薬密売地区として有名であった。
売春産業より金になるため、麻薬の密売が公然と行われていたそうで、以前も記したが、東京オリンピックの開業前の東京から、荷台に人足を満載したダンプが早朝に乗り付け、札びらを切ってヒロポンを買い漁って走り去るようなことがあったと聞いた。
その後、世の中が落ち着くにつれて麻薬取引は影を潜め、代わりにアジアを中心とする外国人売春婦を集めた売春業が静かに拡がっていったのではないだろうか。また、商売の行われていたエリアも、黄金町や初音町だけでなく、日ノ出町京浜急行ガード下と大岡川沿いに拡がっていただろう。今も残る都橋商店街は、その東京オリンピックに合わせて、屋台や露天商のバラックを潰し、市が建てて収容したという公設飲食街なのだった。

都橋商店街ホッピー仙人。
都橋商店街に「ホッピー仙人」発見。左手の空間は大岡川。那覇公設市場の商店街と造作は同じ。

手元にある「新しい日本」[国際情報社,1963年]には、見るところ日ノ出町ガード下らしい写真のキャプションは以下のように付けられてある。

日ノ出町ガード下(1963年)。

「麻薬街:京浜急行ガード下の初音町や黄金町は麻薬密売のメッカとして横浜の暗黒面を代表する 街が明るくなるのはいつの日か」

2005年1月に神奈川県警がこの地区の売春摘発に本腰を入れ始め、末吉橋のたもとには「歓楽街総合対策現地指揮本部」が設置された。黄金町のガードから大岡川添いに歩くなら、綜合警備保障の警備員が辻番として立っているだけではないことが分かる。制服の警官が周辺を警邏しているのであった。
街がきれいになるのはいいのだが、どうも違和感が拭い難い。都橋商店街のあの建物の仕切りは細切れで、各々の店舗は4畳半しかないだろう。本格的な飲食店を経営するには、4畳半では如何にも手狭だ。手狭なことが分かっていてどうして入居するのか。日ノ出町は、簡易宿泊所があって、各々の居室の前の廊下にはスリッパがちゃんと揃えて置いてあった。
以下はこの辺りを回顧するよすがになりそうな本。気になっている。






①「黄金町マリア」[八木澤高明著, ミリオン出版, 2006]

「黄金町マリア」表紙。

②「横浜再現」[奥村康宏・常盤とよ子著, 平凡社, 1996]
③「わたしの中のヨコハマ伝説1954~1956」[常盤とよ子, 常盤とよ子写真事務所, 2001]

「わたしの中のヨコハマ伝説」表紙。


http://taiyoyaro.ocnk.net/product/3129




常盤とよ子 危険な毒花[H-1240]
[備考/コメント]“「赤線地帯」のドキュメント〜若い女性がたった一人、カメラを唯一の武器として、果敢に挑んだ「街の女」の記録と手記!”「危険な毒花〜横浜真金町遊郭、さまざまな娼婦」「ファースト・フレックスからキャノンまで〜ヌード撮影会」「幸福への入口のある家〜洋間と日本間のおんなたち」などなど。モノクロ写真多数掲載



http://y-masu.way-nifty.com/mar/2008/11/post-e968.html
2008/11/26

歴史が埋め立てられた町 Ⅳ

私の生家は角地に建つ。母の記憶では、3mの私道を隔てた西と北側のお向かいさんのお宅は比較的広く、洋間があった。昭和26年、母が杉田の家に嫁として新潟から出て来たとき、その洋間にオンリーさんが豪奢な洋装で生活しており、銭湯で出会うと肌の色が黒いハーフの幼児を連れていたという。
昭和21年1月21日、占領軍総司令部は日本政府に対し「日本における公娼廃止に関する件」覚書を発した。その内容は、「交渉制度はデモクラシーに反するものであり、日本政府は直ちに従来公娼を許容した一切の法律および命令を廃棄して、その諸法律のもとに売春を業務に契約した一切を放棄せしめよ」たるものだった。
この覚書に基づく一連の処置により、昭和21年内務省警保局公安発第75号を以って「社会上乙むを得ない悪として生ずるこの種の行為については、特殊飲食店等を指定して警察の取り締まりにつき且特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」とした。
これすなわち、地域指定=“赤線”の合法的開闢の瞬間である。赤線の営業形態は従来の遊郭と異なるものではない。しかし、娼妓に対する対応は大いに脱皮した。娼妓は、男客に対する性行為を強要され且つ労働賃金を搾取される云わば“籠の鳥”から完全に開放され、外出・遊び・欠勤(休日)に拘束なしとされ、売春は本人の意思で行い対価は歩合制度ではあるが搾取されない、大空へこのとき羽ばたいたのだ。
市中における私娼の氾濫原因の一翼は、羽を得た元公娼達にもあったかも知れない。だが、当時の横須賀市警察署長の手記には「感受性の強い反面、順応性のある日本の女性は、すぐにこの異国人に対し馴れ、積極的に付き合い、英語も多少理解できるようになった。勿論、そこには日本人と比べ、体格や容貌も優れている上に、それにも増して物資が豊富で、ユーモアがあり、女性の心を掴む器量が見事であったかも知れないが、とにかく憧れを抱くようになった」とある。
横須賀市中には、進駐軍人を相手とする“カフェー”・“トルコ風呂”が増え、昭和23年ごろには市内で約300軒、ここで働く接待婦は1200名を数えるに至った。
「まじめに働いた接待婦さんには申し訳ないが」の前置きで、「接待婦の中には進駐軍人を相手にし、たくさんのお金をまきあげ、売春をしたものも決して少なくはなくはなかった」と、前述の元署長は語っている。
私娼は更に飛翔し、オンリー・バタフライ・パンパンなど、それぞれ生態を異にする洋娼を区別した俗称が生まれたのもこの頃だ。409_za_sen_ise
洋娼のなかでは最も程度がよかったとされたのが“オンリー”さんで、ただ一人の進駐軍軍人から生活費を貰い夫婦同然寝食を共にする形態で、そのまま結婚するパターンも少なくなかった。辺りかまわず蝶のように花粉を求め舞い上がる事から命名されたのが“バタフライ”さん、金がある相手ならば誰彼なく春を売った。諸説ある語源のなかで「食に飢え、パンと交換で性交をした」ことからが“パンパン”さんの名の由来らしい。
409_za_sen_ise_ura 更に、“パンパン”さんを束ね部屋を提供し、娼婦6:家主4の割合で不特定多数相手の売春収入を分配する“パンパンハウス”なる隠れ娼妓屋が発生するなど、あの手この手で、進駐軍人相手の密売淫が重積され、やがて18~55歳まで(と、当時の警察署長は述べているが、実際には、10代前半~∞であったと私は確信する)の約4,000人の洋娼が横須賀市内に潜在するようになった。
この状況に対し横須賀市は、「売春に関する諸行為を取締まる事により善良の風俗を維持し、社会秩序の健全な発達を図ること」を目的に、昭和26年12月26日に八ヶ条からなる横須賀市風紀取締条例が施行された。同条例は各地方自治体からも注目されたほど、罰則が重く、特に売春場所提供者には1年6ヶ月以下の懲役または5万円以下の罰金など、厳しいものだった。
横須賀警察署では10名の風紀関係取締専従員が置かれ、一晩で100名を検挙するなど、昭和27年度中に総検挙数937件に上った。
409_za_sen_magane_yukaku だが、これらの規制の総ては特殊飲食店指定(=赤線内)区域外の、青線(赤線隣接地で保健所の飲食店営業許可書を持つ店)・白線(素人)・黒線(暴力団関係)、さらに市街に立ち並ぶ個人経営者を対象としたもので、元柏木田遊郭や安浦・皆ヶ作の銘酒屋そして日の出町の特殊慰安所など横須賀市警察署の地図上の赤鉛筆に囲まれた地域内では、継続して公然と春が売り買いされていたのである。
昭和30年法案提出、昭和31年国会可決、昭和32年施行、昭和33年四月一日処罰の履行がようやく始まった法律がある。買春防止法だ。この法律の前身は“買春等処罰法案”であって、その法案はなんと昭和23年に国会に提出されていたのである。
天璋院篤姫さまが勝海舟に伴われて吉原見物に赴いていた頃、時の明治政府は、廓を廃止する方向で施策を巡らしたが廃案とされたらしい。いつの世から連綿と受け継いできた日本を象徴する一つの文化が、十余年の国会審議の末昭和33年、この時ついに途絶えた。
洋間のある家を米軍に斡旋したのはたぶんに当時の日本の行政官であったろうと推察するに及んでいるが、昭和29年産まれの私の周囲に“オンリーさん”がいた記憶は露とない。既に、旦那の母国で新しい生活を始めていたと想いたい。
2008/11/25 升
画像拝借先 
写真で見る戦前・戦後の横浜:情報誌「有鄰」№409から、常盤とよこ氏撮影のものです。








http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/409_1.htmlを、参照ください。
付録
オハイオ州立大学図書館より(http://library.osu.edu/sites/rarebooks/japan/index.html)
DOING PHOTOGRAPHY AND SOCIAL RESEARCH IN THE ALLIED OCCUPATION OF JAPAN, 1948-1951: A Personal and Professional Memoir by John W. Bennett
9_3 56. "Pan Pan" or Teenage Amateur Prostitutes in a Rapid Transit Station
Teenage prostitutes, familiarly called "pom pom"or "pan pan" girls. They solicited American soldiers in particular, because these men had more money than the military personnel of other Allied forces. These photos were taken by an Army photographer with me as guide and director, one long night in 1948. Some forms of prostitution--in particular the pan pan teenage amateurs--were the direct result of the presence of GIs as sources of income and images of liberation.
6 58. Bar Girls: Semi-Pro Prostitutes
Prostitutes soliciting Japanese men from the doorways of bars. These women were older than the pan pan, and represented the first step into professional prostitution. Many of the pan pan girls played the game for only a year or so, until they found a better means of livelihood, which might include professional prostitution.
11 60. Professional Prostitutes: Lower Levels
Prostitutes in the lower level of the profession--the cheaper, less elaborate houses. Some of them might have started out as amateur pan pan girls.
4 62. Entryway of a Professional Upper Level House
Professional prostitutes in the areaway of one of the big professional houses. Note the uniform kimonos. The women are made up to somewhat resemble geisha. Geisha were and are not prostitutes, but more like what Europeans used to call courtesans. However, many prostitutes, especially those with a little more education than the norm, might behave marginally like geisha--that is, as entertainers and intellectual companions. And then some geisha houses, undergoing deterioration, could make the transition to prostitution--the term "daruma geisha" or "geisha that would tip over easily" was used sometimes (daruma is a figure in Japanese Buddhist folklore--a monk who contemplated so intensely that he lost his arms and legs as well as his ego).

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