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特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい, RAA: Recreation and Amusement Association
「米軍特別慰安所」の眞實(其の二)~國辱忘る可からず
2007/8/3(金) 午後 1:27米帝野郎練習用
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●黒地の絵
進駐に際し、マッカーサーは「一切の蛮行や個人的復讐は容認しない」と明言した。したがって占領軍の先発隊六十万名を選ぶにあたり、太平洋諸島で日本軍と戦った兵士は除外された。
選ばれたのは実戦経験が皆無で、外国に来たのさえ初めてという新兵ばかり。大部分がティーンエイジャーだった。精力旺盛ではち切れんばかり。異国の女に対する興味も隠そうとしない。勝利軍の奢りもあった。慰安婦たちの相手はそういった若者たちで、その数は凄まじかった。問題が起こるのも想定の範囲内だったといえる。
したがって慰安所の設置に際し、政府や三業(花街)関係者の間で大きな反対の声は起こらなかった。関係者のうち、反対したのは五代伊兵衛という広島の遊郭経営者ただひとり。それどころか、堅気の婦女子のなかには慰安所の拡充を求める声さえ上がった。『敗戦時全国治安情報 第五巻』掲載の「連合軍進駐に伴う管下都民の動向に関する件』(一九四五年一〇月二日報告)には三重県知事による報告として「私達がこんな事を云ふのは変ですけれども娼妓さんや芸妓なんかをうんと増して欲しい」「アメリカ軍が民家へ来ない様な彼らを満足せしむる享楽街を早く作ってほしい」という声が『とくに婦女子から』多く聞かれた、とある。
もし再び日本が進駐される日が来たら、同じことが繰り返されるだろうか?
文化人の多くは「進駐軍は紳士的だった」と述懐している。しかし沖縄の現状を見れば察しがつくとおり、占領軍兵士による犯罪はけっして少なくなかった。GHQの統制で日本のマスコミや警察は一切の発表を禁じられていたため、表沙汰にならなかっただけである(*注4)。 進駐開始からわずか二ヶ月の間に、横浜の中心部では「警察官のサーベル強奪(まだ警察官は腰にサーベルを佩いていた。そのサーベルを占領みやげに奪うという事件)」の被害が五三件もあったという。日本の警察は米軍に襲われてもなすがまま。一般市民の被害は想像するだけで恐ろしい。すれ違いざま殴り倒された、数名で囲まれて強盗や強姦の被害にあった、というならまだよい方である。
朝鮮戦争まっただ中の昭和二五年七月一一日、現・北九州市小倉南区城野の旧・米軍キャンプ(現在は陸上自衛隊城野分屯地)でおよそ二五〇人の黒人兵が集団脱走を試みた。「小倉祗園祭」で賑わいを見せていた街は恐怖のどん底にたたき込まれた。屈強な兵士によるレイプと暴力、理不尽な破壊活動。治安は最悪な状態になり、悪夢は四日後に進駐軍自らが市街戦で脱走兵を鎮圧するまでつづいた。しかしこの事件は徹底した報道規制に阻まれ、まったく報道されなかった(後年、小倉出身の松本清張が「黒地の絵」という作品でこの事件を扱っている)。
現在のようにヒップホップ・カルチャーがもてはやされることなど、想像もできなかった時代の話である。アメリカには冷徹な人種差別が横たわっており、危険な任務は黒人兵に押しつけるのが習わしだった。
たとえば進駐直後、米兵の過半数は黒人兵だったといわれている。米軍のうち黒人の割合は三割強であったのにも関わらず、だ。それは当初、日本進駐が危険視されていた証拠であった。 また神奈川県逗子市の池子弾薬庫(当時は横須賀市逗子町)は火薬を扱うという性質上、黒人兵ばかりが詰めていたことで有名であった。旧・国鉄逗子駅裏にあった帝都高速度交通逗子寮は接収されてEMクラブになっていたが、黒人兵が多かったので「黒人クラブ」と呼ばれていた。
危険地帯にばかり駆り出されたせいだろうか。進駐軍による強姦殺人は黒人兵による犯行が多かったといわれている。強姦のみならず殺人にまで及んだのは、軍規に触れるのを畏れ証拠隠滅を計ったためであった。
●子供たちは石になった
日本政府は米兵の無法が広がらないよう躍起になった。慰安目的のキャバレーやダンスホールがいくつもつくられた。「小町園」のような新設だけでなく、旧遊郭(*注5)も米兵のプレイゾーンとして開放した。「アメリカ兵から大和撫子の純潔を守る性の防波堤」を築くために結成されたRAA。だが洋式のRAA施設よりも吉原などの日本的な娼館の方が人気があったというから皮肉めいている。
そうこうするうちにアメリカから派遣された記者のひとりが慰安所の写真を撮り、このレポートが米本国の新聞に掲載された。残された兵士の妻や世論は慰安所に批判的だった。ワシントンの米軍本部では、お偉いさんたちがこんなことを論議した。「我が合衆国の若者たちが、こんな芸者ハウスに出入りして骨抜きにされるのはいかがなものか?」全く呑気なものである。
慰安所設置から半年後の昭和二一年三月、特殊慰安施設に閉鎖命令が下った。表向きの理由は「公娼はデモクラシーの理想に反する」というものだった。しかし実際はアメリカでの風向きと性病の蔓延が原因だった。なんとRAA慰安婦の九〇パーセントから性病の保有が発見されたというのだ。慰安婦には旧・日本軍兵士用の「突撃一番」というコンドームが配られてはいたが、ほとんどつかわれた形跡はなかった。
特殊慰安施設閉鎖令の結果、旧遊郭の紅い灯も吹き消されるはずであった。しかし日本警察と業者は相談し「この区域は違法な遊里ではなく特殊喫茶地区である」と地図に赤い線を引いた。そして「店で働いているのは娼婦ではなく女給である。彼女らが個人的な自由恋愛の結果として、客と肉体関係を持つこともある。人身売買に当たる身売りや給与の前借りは行わない」という取り決めをした。この赤い線で囲まれた場所が赤線地帯で、少なからぬ女たちが吸い込まれていった。赤線地帯は米兵オフリミットだったので、結果的に日本人相手の遊郭として再生を果たした。また米兵相手のキャバレーやダンスホールのなかにも日本人相手に商売する店が増えていく。 終戦後の混乱を象徴するできごとに「新円切り替え」がある。
当時、日本経済は激しいインフレに見舞われていた。事態を解決するには紙幣の流通量を減らすしかない。政府は予告なしで「預金封鎖」を行った。つまり銀行に預けていた現金が引き出せなくなったのだ。そのうえ五円札以上の紙幣(五円、一〇円、二〇円、一〇〇円、二〇〇円、一、〇〇〇円)を強制的に預金させた。旧紙幣はわずか一二日後にまったく使用できなくなった。そして旧紙幣に印紙を貼った新円のみが流通することになったのである。旧円と新円の交換はわずか一一日間しか行うことが出来なかった。預金封鎖は二年五ヶ月後に解除されたが、インフレの進行により預金の額は四分の一程度に目減りしていた。
新円切り替えは慰安婦たちに深刻な打撃を与えた。なぜか。旧紙幣は印紙を右肩に貼りさえすれば新円として使うことが出来た。しかしその印紙は隣組で配っていたのである。慰安婦の多くは住所不定だ。つまり町内会や隣組に参加していなかったため、印紙を手にすることが出来なかったのだ。RAAの娼館が閉鎖されたのは、新円切り替えがはじまったのと同じ昭和二十一年三月である。大金は稼いだものの、彼女らが持っていたのは旧円。つまり使うことの出来ない金だった。いまさら親元に帰ることもできず、戻るべき施設もない。おまけに政府はなんの保証もしてくれなかった。RAA施設で来る日も来る日も兵隊の相手をさせられた女たちは、体よく街へ放り出されてしまった。文字通り使い捨てである。
彼女たちの頼りは、施設にいたとき米兵がくれたチップの軍票(B円 *注6)だけだった。どうしてこんな目に……。女たちは外国兵の姿を求め、夜の新橋や有楽町に現れるようになった。街角に立つ女たちは「パンパン」と呼ばれた(*注7)。彼女らの典型的なファションは、素足にサンダル履き、占領軍放出品の毛布を染めてつくったスカートで、真っ赤な口紅とマニキュアだけが妙に眩しかったという。少しでも目立って客を引けるようにとビールで髪を染める者、炭火でパーマをかける者もいた。
五島勉・著『黒い春』によると進駐軍慰安婦の数は閉鎖命令当時で五万五千人。このうち一万∼一万五千がパンパンや和娼、あるいはキャバレーに流れていったとされる。当時街には失業者がひしめいていた。男でさえ仕事のあてはなく、おまけに前述の「男性優先の就職制度」の壁が立ちはだかっていた。売春は立派な生活の手段だった。娼婦の数は急増し、日本全国でパンパンの数は一五万人にものぼった。ある調査によると、占領軍からパンパンにつぎ込まれたアメリカの通貨(ドル紙幣と軍票)は年間二億ドルをくだらなかったという。
よっぱらいのアメリカ兵とパンパンガールまぶしいような公園の雑草のうえで犬のように交尾をしている 子供たちが集まった三人五人十人 アメリカ兵がむきだしのお尻を動かすとパンパンガールが笑った アメリカ兵も笑った 子供たちは石になった(*注8)↑ネットから拾ってきました。現在、作者を捜査中
日比谷公園の東側一帯はパンパンたちの稼ぎ場だった。特にGHQ本部(第一生命館)や帝国劇場の辺りが最上級とされ、アニーパイル劇場(現・東京宝塚劇場)や帝国ホテルを通って内幸町二丁目の「野村ホテル(旧・野村生命館、現・第一ホテルアネックス)」に至る全長八〇〇メートルほどの一角には、二〇〇人あまりの若い女たちが立っていた。ゲタ履きに風呂敷包みを抱えたパンパンたち。「売春通り」である。茶色い焼け野原が広がる東京にラブホテルなどあろうはずもない。女たちは人目もはばからずにサービスした。何十人という女たちがスカートをまくり上げ若い兵士に抱かれている光景、そして周に一度、大きな網スコップで使用済みのコンドームを掃除する光景は、皇居一帯でおなじみとなった。
この界隈の女たちは「ラク町パンパン」とよばれた。昭和二一年四月二二日の夜「ガード下の娘たち」と題したNHKのラジオ番組に「おとき」という女が出演し、インタビューの最後に「こんな女に誰がした」を口ずさんだ。菊地章子の「星の流れに」の一節だった。(*注9) 星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿 荒(すさ)む心で いるのじゃないが 泣けて涙も 涸れ果てた こんな女に誰がした--------------------
*注4 新聞各社は検閲をくぐるため「色の黒い男」「一三文の靴を履いた大男」などの表現を多用して、無法米兵の事実を伝えようとした。
*注5 東京の旧遊郭のうち、八王子、千住、品川の三カ所だけは戦災を免れた。とくに八王子は大門を備えた昔ながらのつくりで、平均二百坪。三層楼が三つも四つも焼け残り、遊里の中央に幅二十間の大通りが走っていた。
*注6 昭和二十年から三三年九月まで、米軍占領下の沖縄で通貨として流通した米軍発行の円建て軍票。正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記された。進駐軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされたが、本土ではほとんど流通しなかった。古銭ショップに行けば容易に入手することが出来る。
*注7 パンパンを扱った作品として有名なものには田村泰次郎・原作で過去五回映画化された『肉体の門』や松本清張の『ゼロの焦点』などがある。
*注8 米軍基地周辺に住む子供たちの間で「パンパンごっこ」「キスの実演」「ハウスのぞき見」などの遊びが流行り、小学校の教師や父兄が頭を痛めた。
*注9 <それからおよそ三十年後の昭和五十二年、岐阜・美濃に講演に行ったとき、私は同じ講師として、当時、NHKラジオの人気番組「街頭録音」のアナウンサーだった藤倉修一さんと一緒になった。
藤倉さんは遠くを見るようにして、「ラク町おときのことにはもう触れたくありませんねえ。息子さんはもう大学生だそうです」と言っておられたが、二十二年四月二十二日、有楽町ガード下で藤倉アナに隠しマイクでインタビューされたとき、本人は「足を洗わなければ」と思ったそうである>(福富太郎『昭和キャバレー秘史』より)
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