イワル・タナハさんのこと(前)イワル・タナハさんのこと(前). "/渡辺, 祐子/"渡辺, 祐子. あんげろす = 明治学院大学キリスト教研究所ニュースレターあんげろす = 明治学院大学キリスト教研究所ニュースレター
(後半)
平和 手塚奈々子
イタリアのアッシジにあるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ大聖堂の扉には、20世紀に前教皇ヨハネ・パウロ2世が開催した宗教の代表者の会議に参加した人々の姿が刻まれています。そこにはキリスト教の諸教派代表だけでなく日本の仏教代表者の姿もあります。また、ヨハネ・パウロ2世の祝福のもとにアッシジの聖フランチェスコ大聖堂は、京都の明恵上人で知られる高山寺と兄弟の交わりを結びました。フランチェスコは平和を大切にし、十字軍の時でもフランチェスコ会士は聖書だけ持ってイスラム教徒の地に行きました。そこで争いをしないようにというフランチェスコが書いたものが残っています。今の時代の私達も、自分の信仰を大切にしながらも他を尊重し互いに平和に共存したいものです。
(てづか ななこ 所員・社会学部准教授)
イワル・タナハさんのこと(後) 渡辺 祐子
イワルさんは、夫の死期が迫っていることを知り、ついに数十年前自分の身に起きた出来事を打ち明けた。夫は驚きを隠さなかったが、それでも「夫は私を許すといってくれた」とイワルさんは言う。何を「許す」と言ったのかは分からない。単に隠していたことを許したという意味だと理解したいが、果たしてそうだろうか。イワルさんは自分が「傷もの」になってしまったことを気に病み、自分自身を責め続けた。だからそのことで夫に「許し」を請うたのではないかと思われてならない。
裁判が始まって4年目の2003年夏、私は教会学校の台湾ツアーに参加し、植民地時代軍港として使われていた花蓮を訪れた。すでに前年の10月に東京地裁は事実認定すら行わないまま原告敗訴の判決を下し、裁判は東京高裁で争われていた。この花蓮県にイワルさんの住む水源村がある。今でこそ漢人住民がずいぶん増えているが、水源村はタロコ族の村である。
着いた翌日、彼女の通う教会の牧師の運転で彼女が暴力を受けていた洞窟に案内してもらった。この近くに日本軍の兵舎があり、そこで洗濯や繕い物などの雑用をしていたイワルさんは、ある日を境に毎夜洞窟の中で性暴力を受け続けた。現在は入り口が鉄柵で覆われている洞窟がかつて軍の倉庫であったことはともかく、そこで毎夜少女たちが犠牲になっていたことを知る村人たちはほとんどいない。その前に立ったとき私は、耳の奥がキーンと音を立て、目の前にぽっかりと口を開けた暗い穴倉の中に吸い込まれてしまいそうな、それほどの恐怖を感じた。そして改めて思った。77歳の老女が少女時代に受けた深い傷に60年以上さいなまれてきた。最愛の夫にすら長い間打ち明けられず、彼女の通う教会の人たちも、唯一彼女が全幅の信頼を寄せる牧師以外は、今もなおこの事実を把握していない。隠し通してきたその傷は、年を経るごとに治るどころか、むしろ疼きを増している。彼女が求めているのは、彼女に暴力を加えた兵隊たち、そして軍の最終的な管理責任を持つ日本という国に、この洞窟で起きたことから目をそむけず、責任を認めて謝罪して欲しい、せめて傷の疼きを軽減してから死にたい、それだけだ。実にささやかな願いなのだ。
しかし日本の裁判所が彼女の願いに耳を傾けることはなかった。2004年2月、東京高裁は、控訴審をわずか4回行っただけで、「国家無答責」、つまり当時の日本には政府の行為に対し賠償責任を求める法律は存在しなかったことを理由に、原告の訴えを全て棄却。しかも地裁同様、被害の事実を認定することも一切なかった。裁判は最高裁に持ち込まれたが、2005年2月に訴えは棄却され、原告の全面敗訴が確定した。敗訴の覚悟がなかったと言えばウソになる。しかし控訴審にわざわざ台湾から駆けつけ、無機的な裁判所の一室で忘れてしまいたい過去の記憶を語ったイワルさんたちの思いが裁判所を動かし、せめて被害の事実は認定されるのではないかという淡い期待も見事に打ち砕かれた。それほど人間的な温かみのかけらもない判決だった。
賠償・謝罪請求という訴訟の目的は全く果たされなかったわけだが、しかしこの裁判を通して支援者たちが目を見張ったのは、イワルさんはじめ原告の阿媽たちが自分自身を取り戻し、見違えるように変わっていったことである。イワルさんの場合それはまず、提訴時に使用していた中国語名蔡芳美に変えて、タロコ族の名前イワル・タナハを堂々と名乗るようになったことから始まった。「この裁判はタロコ族たる私自身の人間回復のための闘いだ」というイワルさんの決意の表明だったといえる。更に彼女はタロコ族の民族衣装を身にまとって控訴審に出廷し、弁論の際に「神様の愛がなければ、喜んで暮らしていくことはできない」という意味のタロコ語の讃美歌を歌ったのである。当初はうつむき加減で、自責の念に苦しんでいた彼女が、裁判を闘う中で、信仰に支えられながら少しずつ自信に満ち、「被害者」としての自己認識を深めていくさまは、人間にとって自己の尊厳と正義の回復がどんなに重い意味を持つのかを私に教えてくれた。イワルさんとの出会いがなければ、私の人間理解は今よりも薄っぺらなものになっていたにちがいない。
日本の朝鮮支配に比べて台湾の植民地経営は割合うまくいったと考えている人が少なくない。国民党の恐怖政治を経験した台湾人の中には、日本時代を懐かしむ人がいることも確かであって、自国の戦争責任を打ち消したい日本人は、鬼の首を取ったようにこのことを引き合いに出す。しかし私は、日本時代を肯定する台湾人の声が台湾全体を代表するものであるとは決して思わない。各人の記憶は、その人が漢族なのか原住民なのか、漢族であっても本省人なのか、外省人なのか、日本統治時代何歳で、どこでどんな暮らしをしていたのかに大きく左右されるものだからだ。さらに戦後しばらくは、日本の戦争責任を追及しようにも、そのすべも条件も整っていなかったために、日本時代は良かったという、私たちにとっては気分の良い評価ばかりがひとり歩きしていた点も指摘しておかなくてはならない。台湾社会の成熟と民主化の進展によって、イワルさんの裁判に代表されるような、日本の戦争責任を追及する声が勢いを増している現在、植民地台湾経営を肯定するような評価はますます通用しなくなっていくだろう。その声に誠実に答えていくことが、イワルさんとの出会いを与えられた私の責任である。
あの洞窟は、裁判を支援し続けてきた台北市婦女救援社会福利事業基金会という団体によって、永久保存することが検討されているという。イワルさんの痛みを覚え続けるために、そしてそれを受け継いでいくために、私も再び洞窟を訪問しなくてはならない。一緒に学生たちを連れて行くことが出来ればどんなにいいだろうか。
(わたなべ ゆうこ 所員・教養教育センター准教授)
大学におけるキリスト教教育について 植木 献
自己紹介
新任の植木献と申します。2007年4月より教養教育センターでキリスト教学を担当することになりました。2004年度より非常勤講師として明治学院大学のキリスト教教育に関わってまいりましたが、専任として本学の伝統を生かしつつ、これからも大学におけるキリスト教が果たすべき役割を模索していくつもりです。よろしくお願いいたします。自己紹介を兼ねて以下、キリスト教教育についての管見を述べたいと思います。見当違いの点も多くあるかと思いますが、ご批判・ご指導を賜りたいと考えておりますので、見かけた際にお声をかけていただければ幸いに存じます。
キリスト教教育の意義
キリスト教大学の存在意義のひとつは、明治以降の歴史が示すように、日本において「社会の良心」として機能する点にあります。キリスト教教育は、有能であるだけではなく良心的な人材を輩出する点で評価されてきました。本学は、明治以来その責任を担ってきたからこそ、教育理念として"Do for Others"を明確に提示できるのだと私は理解します。
この理念のもとキリスト教の授業は、担当教員の専門や、客観的な知識の伝達のみならず、最終的に受講生が「自分にとって他者とは誰か」「自分は具体的に何が出来るか」などを考えるような授業構成が求められるでしょう。理念と、理念が具現化したカリキュラムとの密接な関係を持つ授業が展開されてこそ、大学全体としてのキリスト教教育の意義が発揮されるのだと思います。
導入教育としての「キリスト教の基礎」
本学のキリスト教教育において、特に重要な位置を占めるのが全学必修科目の「キリスト教の基礎」であると考えます。この授業がキリスト教と同時に、大学で学ぶ学問全体の意義を考える序論となることで、教育理念に沿った成果が上がるでしょう。しかしそのためには、まず学生たちの「常識」との格闘が必要だと私は考えます。彼らの多くは、授業で「教義」を強制的に押しつけられた結果、自由な判断力を喪失した信者にされるのではないかという危惧を持ち、またキリスト教を信じることは視野の狭い偏狭な立場に陥ると確信しています。この「常識」が正しいのならば、キリスト教は大学教育の阻害要因になります。
学生のこの「常識」がいったん相対化され、多様な視点を獲得することが導入教育としては重要です。キリスト教の知識は偏見を助長するものや、自分とは無関係な無味乾燥なもので終わるべきではありません。授業は、キリスト教との出会いを契機として、予想もしていなかったような世界の拡がりを経験する場となるべきです。「キリスト教の基礎」が効果的な導入教育になるには、自由な発想と広い視野を獲得できるという経験が重要だと思います。
他者と出会う場としての授業
そのような世界の拡がりを経験するには、異質な他者と対峙する場の提供が重要だと私は考えます。自分と異なる存在に向き合うことで、思っても見なかった考え方や感じ方に触れ、視野が開かれ、「そういう考え方もできるのだ」と多様な立場を尊重することが出来るようになるからです。他者としてのキリスト教に向き合うことで、自己を知ることになるのです。学生の神観や愛の理解などがいかなる意味を持ち、いかなる方向へ帰結することになるのかを自省的に問わせることができれば、キリスト教の知識は、誤解と偏見を助長させるものではなく、自己形成のきっかけになります。問いを発する自己がいかなる前提に立つのかを問うことで、学問的真理にもイエス・キリストにも出会うことになるのです。
ディスカッションの効果
非常勤講師として講義を担当した経験から、他者と出会う場としての授業実現に、ディスカッションがある程度効果を持つことが分かりました。「神は存在するか」「愛とは何か」など自分の経験から議論できるしかも簡単に答えのでないテーマを論じさせるのです。すると学生は、同じようなものだと思っていた同級生の全く違った意見に触れ、自分の視野の狭さや偏り、知識不足に気が付きます。同級生の視点を通して、自分とは異なる尊重すべき他者の存在に気付くのです。その時上記テーマに関するキリスト教の主張は、「おしつけ」ではなく自己形成の契機として真摯に受けとめられ、「キリスト教ではどう考えるのかもっと知りたい」という積極性が生じます。さらにディスカッションは、説得のための論理、問題の発見、安易な結論よりも議論過程の重視、自発性とリーダーシップの確立など大学で学ぶための資質開発にも一定の効果を上げることになります。また議論をすること自体がキリスト教の重要な営みの一部であることを知るようになります。
大人数の授業の中で人格的な出会いを実現することは容易ではありませんが、可能な限り多様な方法を模索していきたいと考えています。
研究と教育
私は現代神学と政治思想史を専門とし、現在はアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーを中心に19世紀から20世紀の神学と政治思想の関わりを研究しています。私の研究の原動力になってきた関心は、現代社会における教会形成とそれに伴う文化形成の課題にあります。最終的にこの課題に対して何らかの貢献をすることが研究上の目標です。キリスト教研究所においても大学と教会との関係について考えるプロジェクトに加えていただきましたので、明治学院という場で研究と教育を通して、この課題に取り組んでまいります。
(うえき けん 所員・教養教育センター専任講師)
一 歩 一 歩 が 備 え ら れ て 加 藤 実
中国語を学んですぐ神学校に編入したときによく「中国伝道ですか」と聞かれ、「いや、そのつもりはありません。ただお導きがあればです」と答えたのが、五十年ほど前のことになります。
「香港なら副産物として、大陸から来ている中国人キリスト者との交わりが与えられるだろう。そこから交流の細い道でも拓けるかも知れない」と思ったのが、四十年前の夏NCCニュースの片隅に「香港で日本人牧師を求めている」との記事を見つけたときでした。その翌年の4月に教団から宣教師としてHongkong Japanese Christian Fellowshipに派遣されました。
「日本人社会を離れてシンガポールか台湾か香港かの中国人社会で暫くでも生活したら、文革で破壊されかねないという旧い文化を、身体で感じておけるかもしれない」と思いついたのが、香港四年の中ごろ中共系の映画館で林彪たちが毛語録をふり上げて叫んでいる宣伝映画を観ながらのことでした。そこからCCAの小さな奨学金で台北の台湾神学院に自由な研究生として二年学んだ後、淡水の専科学校で日本語を中国語で教える仕事を84年まで十年続けることになりました。その傍ら台湾の牧師がたの肝いりで発足した国際日語礼拝なるものを、毎週日曜日の午後にアレンジしていく教務として四年ほど働いたり、後半には当時の台湾基督長老教会の地に着いた勇敢な闘いの実相を、日本の教会に正確に伝える働きに励んだりもしました。
「そうだ、大陸でも日本語を教える場が与えられたら、そこに住んで生活しながら教会の様子も分かっていけるかも知れない」と思い始めたのが、そうした台湾十二年のやはり半ば過ぎでした。当時の情況からしてこうした想いは、親しくなった台湾の先生方にも洩らせず、日本の誰かと手紙で相談するのも危険なところから、とにかくいったん日本でワン・クッションおいてからのこととしました。結果としてトゥー・クッションズになったのですが、84年から湘南と長野の二つの教会で担任教師を務めた後、96年にNCCから南京の愛徳基金会へ日本語教師として派遣され、そこから安徽省の合肥聯合大学へ送られました。
「この展示写真の説明や文書の内容を全部しっかり読んでおく責任が、中国語が読めるこの自分にはある」とふっと強く感じて、合肥の博物館で開かれていた金陵(南京の古い名)祭で立ち止まり立ち止まりしつつ二、三時間、南京大虐殺の全容を大づかみにしたのが、今からちょうど十年前、大陸で働き始めた翌年1997年の5月1日でした。その月の終わりに南京の記念館を初めて参観したのでしたが、出口の売店で「写真集の類よりも文字ばかりの方が自分には向いていそうだ」となぜか意識しながら買った二冊の内の一冊が、朱成山主編『侵華日軍南京大屠殺幸存者証言集』で、なんとなくそれを日本語に翻訳し始めたのが、『この事実を……』――「南京大虐殺」生存者証言集となりました。
「さぞかしたいへんだったに違いない抗日戦の時代とその後の内戦期に、中国のキリスト者たちがどんな風に苦闘していたかが具体的に少しでもわかったなら、49年からの社会主義社会での新たな展開へと繋がったか繋がらなかったかなどが、多少なりとも理解されてくるのではないか」といった想いが、合肥や南京の教会で礼拝しているときに時々ふっと胸を掠めました。『生存者証言集』に続いて章開?編訳『天理難容――美国伝教士眼中的南京大屠殺(1937-1938)』を訳し始めたところ、それを知って喜ばれた章開?先生からご自分の研究所にどうかとのお招きをいただき、「抗日戦期の中国基督者の奮闘」云々をお伝えしたりもして、五年前から武漢の華中師範大学中国近代史研究所で客座研究員として翻訳のお手伝いをしています。その最後となるこの一年<年表で垣間見る中国プロテスタント200年(1807-2006)>づくりに励んでいるのもあと二ヶ月で終え、帰国いたします。(2007.4.26)
(かとう みのる 協力研究員)
キリスト教とグロテスク 田中 浩司
はじめまして。4月から協力研究員として皆様の仲間に加えて頂くことになりました。
現在私は主に内村鑑三を中心に研究をしておりますが、もともとはシャーウッド・アンダソンやカトリック女性作家のフラナリー・オコナーなど、グロテスクを作品のテーマに持つアメリカの作家の研究をしていました。
グロテスクとキリスト教とはご存知のない方には全く何の関係のないように見えるかもしれませんが、これが実に深い関係があります。アンダソンは『ワインズバーグ・オハイオ』という作品の中で
人間が真理の一つを自分のものにし、それを自分の真理と呼び、その真理に従って自分の生涯を生きようとしはじめたとたんに、その人間はグロテスクな姿になり、彼の抱いた真理は虚偽に変わる・・・。
と書いています。アンダソンがこの一文を書いたときの真理には間違いなくキリスト教のことが念頭にあったに違いないことは、作品の全編を通じて明らかです。キリスト教が一人の人間によって抱かれることによって虚偽に変わるほどちっぽけな真理ではないと信じていますし、アンダソンの言葉を丸飲みするわけではありませんが、キリスト教との出会いによってグロテスクになってしまった人は結構たくさんいるのではないでしょうか。
内村鑑三を通じてキリスト教信仰を得、内村の後継と目されるほどだった有島武郎でさえ、キリスト教を通じて霊と肉とが分離してグロテスクになってしまった自分を、『惜しみなく愛は奪う』の中で嘆いています。
グロテスクとは決して一言で語れるほど単純な概念ではないのですが、敢えて簡単に言いますと、肉と霊のはざまで苦悩する人間の状態です。有島武郎の言葉を借りるならば「苦しい二元が建立」された状態、キリスト者であるならば、信仰を抱く自分自身から偽善的な虚偽の臭いが漂ってくるような気分、ある種の絶望的状態です。「私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」というパウロの嘆き(ローマ8: 24)がそれに近いものです。キリスト教は殊更に人を霊と肉に敏感にさせるので、キリスト教を信じることによって、この状態に陥る人は決して少なくないはずです。
しかし、キルケゴールは『死に至る病』のなかで、すべての人間は絶望状態にあり、自分が絶望状態であることに気がつかないでいる人が一番の絶望であると言っています。ですからその意味において、すべての人間はグロテスクであるとも言えます。しかしそれと同時にキルケゴールは、人間は自分の絶望状態に気がついたとしても、それに絶望してはならないという趣旨のことを言っています。のみならず、絶望しうるということは、人間の長所であり、永遠の意識が深ければ深いほど、絶望もまた、その苦悩の度を強めるであろう、そしてそれこそは、その人がそれだけ深い自己を生きようとしている印であるとも。
このキルケゴールの言葉にかろうじて励まされ、絶望の中より「信仰なき我を助け給え」と神に叫ぶよりすべなき私が、日本のキリスト教教育の中核をになう明治学院、しかもよりによって恐れ多くもキリスト教研究所のお仲間に加えて頂くのは、いささか心に咎めを覚えることなきにしもあらずですが、この度は元所員の成瀬武史名誉教授のご紹介を通じて、キリスト教主義教育研究プロジェクトに加えて頂くことになりました。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ8: 25)
(たなか こうじ 協力研究員)
衣錦尚絅と私について 東 義也
仙台市のとなり名取市にある尚絅(しょうけい)学院大学女子短期大学部保育科の東義也と申します。このたびキリスト教研究所の協力研究員として、皆さま方のお仲間に入れていただきました。心より感謝申し上げます。
私の所属する尚絅学院について紹介させてください。尚絅という校名は、中庸にある言葉で「衣錦尚絅」から来ています。この意味は、人として必要なことはまず「錦を衣(き)る」こと、つまり、錦の似合う人間、錦を着るに価する人間になるということです。豊かな教養を身につけ人間性を磨くとでもいったらいいでしょうか。次に「尚(なお)絅(けい)を加える」、つまり、錦の上に薄衣をおおうということです。内側に立派な錦を着ていても、薄衣でおおうことによって、それを誇らしげに表に出さない、自慢しないということです。聖書で教える「謙遜」に通じる思想だと思います。中庸は儒教の思想を現わすものですが、尚絅学院の創立者は、あえてこの言葉をミッションスクールの校名に選びました。後の校長アンネ・ブゼルは、衣錦尚絅の意味が聖書にもあることを紹介し、以来ペトロの手紙第一3章3,4節が建学の精神を表わすみ言葉になりました。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」
明治学院大学を1984年に卒業した私は、まず児童養護施設に就職しました。子どもたちの孤独や不安、悲しみや苦しみを知ったとき、乳幼児期の保育の大切さを痛感しました。それで退職後、玉川大学の通信教育課程で幼稚園教諭の免許を取得し、今度はある私立の幼稚園に就職しました。幼児教育を学んでいた時に学んだことは、子どもの遊びの重要性です。ですから、私は子どもたちに楽しくて面白い遊びをたくさん紹介し、いっしょに遊びました。それはそれで充実した日々だったと思います。しかし、楽しい遊びがそこに展開されているだけでは不十分であることに気づきました。その中で子どもたちの何が育っているのか、彼らは何を学んでいるのか、そのような子ども理解が私には欠けていることを知りました。
次に私が選んだ道は、静岡大学大学院へ行って保育を根底から学び直すことでした。一体遊びとは何か、これが研究テーマになりました。結論を一言でいうと、「遊びとは自分自身になることである」ということです。子どもたちの自らする行為(その多くは遊び)に意味のないものはありません。おとなには分からなくても、そこには意味があって、これから出会う世界の事柄や人生の選択について彼らはすでに学び始めており、自分自身を形成しているということです。ですから、子どもの主体的に取り組む遊びを最大限に尊重し保障することが、保育の課題だという結論になりました。再び幼稚園や保育園に数年ずつ勤めた後、現在の尚絅学院に導かれました。最近は、「聖書における遊び」「キリスト教保育」についても研究しています。
これまでの人生を振り返りますと、いろいろな職業を転々としてきましたが、どれもこれも無駄で意味のない経験はなく、すべて神様の導きの内にいたことを確信させられています。また、いろいろな大学にもお世話になりましたが、私にとっては明治学院がなんといっても母校なのです。今回、その母校の研究プロジェクトに加えさせていただいたことを神様に感謝しています。どれだけの恩返し・貢献ができるのか不安な部分もありますが、神様の導きを信じて一生懸命頑張る所存です。何卒ご指導のほど宜しくお願い致します。
(ひがし よしや 協力研究員)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/55e1cbf5935c0ab7a2b77d1e7fc82387
明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の3
2012年09月26日 09時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)
守田です。(20120926 09:00)
昨日午前11時に台北市の松山駅を出る特急に乗り、台湾東海岸の花蓮に向かいました。車中でお弁当やパンを食べながらの2時間の旅でした。花蓮につくとすぐにタクシーに乗り換えて、病院に向かいました。15分ほどでついた病院の一室に、イアン・アパイアマアが入院されていました。
イアンさんは、まだ少女だった17歳のときに、日本軍の手伝いに狩り出され、基地の近くの洞窟に連れ込まれててレイプされ、そのままそこでの性奴隷を強制されました。その場に通うことを強制されたのですが、彼女たちはそれを家族に離せなかった。タロコの厳しい掟のもと、結婚前に処女を失うと、激しい罰に会う可能性があったからです。
そうした社会的制約もあって、なかなか被害を訴えられなかった、タロコの被害女性たちが名乗りを上げたのは、韓国で初めて被害女性が名乗り出て、この問題が大きくクローズアップされたときのことでした。台湾婦女援助会が、同様の被害者はいなかと台湾全土にひろく呼びかけを行い、台湾の中からそれに応じて手をあげる人がではじめ、タロコの女性たちもようやく声をあげたのでした。
このとき手をあげた原住民の女性は全部で16人だったそうです。その中からカムアウトにいたった女性、カムアウトはできなかったけれども、尊厳を回復する運動には積極的に関わった女性、調査には協力したけれども、それ以上は動けなかった方などがいましたが、イワンさんは、自らの名をはっきりと告げ、それ以降に始まった日本政府を糾弾する運動の先頭に立たれたのでした。
彼女が普段話しているのはタロコ語、そのため彼女の証言のときには、おなじタロコ族で北京語の上手な方が通訳につき、タロコ語→北京語→日本語という通訳が行われますが、重要な部分になると、自ら日本語を上手にあやつって話されることもあります。
いつも威厳をたたえている彼女ですが、一緒にいると茶目っ気を披露してくれて、カメラを向けると必ずおどけたポーズをとってくれます。これは台湾のおばあさんたちに共通のことでもあるのですが、とくにイワンさんはおどけ方がうまい。
そんな彼女の病室に入ると、付き添いの娘さんと二人で静かに過ごされていました。今回は僕の連れ合いの浅井桐子さん、証言集会を共に担ってきた京都の村上麻衣さん、東京の柴洋子さん、ホエリンさんが一緒です。2010年秋に霧社まで訪れたときに、村上さんのお腹にいた2歳9ヶ月の灯(あかり)ちゃん、ホエリンの娘さんで2歳になる直前のリーシンちゃんも。この二人のかわいい子たちがいつも回りに笑いを広げてくれる。
病室にホエリンさん、柴さんが入っていくと、イワンさんの顔がほころびました。さらに僕と浅井さん、村上さんが入ってきたのを見て、一瞬、とても驚いた顔になり、続いてはじける笑顔を見せてくれました。「モリタさん・・・」僕の名前をしっかりと覚えていてくださいました。
お見舞いのお金(台湾ではお見舞いのときに赤い封筒に入れてお金を渡す風習があります。赤を使うのは、「よくなりましたね、お祝いです」の意です)とお土産を渡すと、遠い日本から来てくれて十分だ、こんなことをしなくていいのにと、ちょっと顔をしかめられました。そんなときの説得はホエリンさんが大得意。アマアの手にお金を握らせ、これで元気になってみんなを喜ばせてアマアを納得させました。
それからはとりとめもないお話。実は浅井さんは、この7月にもワークショップに参加しており、元気なイワンさんにお会いしています。ところがその後に、黄疸がはじまり、それが長引くので入院したところ、他にも悪いところが見つかったのだそうです。病状はまだまだよくはないらしい。
「この間、会ったときには元気だったのにねえ」と浅井さん。「でも顔色はいいね」と柴さんが語ると、「上等でしょう?」とイワンさん。台湾のおばあさんたちは好んで「上等」という日本語を使います。
そんなアマア、病状のよいときには家にかえることもできて、つい数日前も帰ったそうなのですが、家でぐっすり寝ることができたものの、翌日にはすぐに病院に戻ると言い出したそうです。病院に戻ってしっかりと病とたたかいたい。早く治療をしてもらってよくなりたいからとのことでした。アマア、病に前向きに立ち向かっているのですね。本当によくなって欲しいです。
ちょっと不思議なことがありました。ホエリンさんが、「何か心配なことはない?」と質問したときのこと。アマアは耳もちょっと遠いので、ホエリンさんが北京語で話し、付き添っていた娘さんが、タロコ語でアマアに伝え、タロコ語の答えが返り、北京語でホエリンさんに伝わり、英語になって僕らに届くのですが、アマアがタロコ語で答えたときに、なぜか僕らには意味が分かったのです。
これは「心配」という言葉が、タロコ語でも「シンパイ」と発音されていたためもあったと思いますが、なぜかこのとき、日本人一行には話の全体がすっとわかってしまった。台湾の部族の言葉にも、台湾語にもかなりの日本語が混じりこんでいるせいもあるのかもしれませんが、「シンパイ」という単語以外は分からないはずなのに、本当にすっと意味が入ってきた。
ともあれ、「ああ、アマアは心配なんかしないで、穏やかだけれどもここで前に向かって歩んでいるのだな」とそれが伝わってきて嬉しく思いました。アマアの手に点滴の針を何度も通した跡が残っていたので、そこを少しさすってあげました。そんな風にしながら、ゆっくりと時間がすぎていき、やがて病室を後にするときが来ました。みんなで記念撮影をし、アマアの手を握って、口々に「よくなってね」と伝えて、病室を出ました。
続いて向かったのはイワル・タナハさんのお宅でした。イワルさんは敬虔なクリスチャン。タロコ族にはクリスチャンが多い。彼女も知人が病で苦しんでいると聞いては、その家を訪ねてお祈りをあげてあげるような信徒さんです。でも彼女も最近は足が悪い。以前ほど活発には動けません。
その彼女の家を訪れるために、僕ははじめてタロコの方たちが多く住む地域を訪れることになりました。最初に驚いたのは、彼女たちの村をうしろから包み込んでいる山の圧倒的な存在感です。日本のどの山とも違う。急峻で背中に覆いかぶさるような威厳を持っている。畏敬の念が自然と沸いてくるような山です。
しかもはるか上のほうに霞がかかっている。何度も訪れている柴さんが、いつきても霞が見えるといっていましたが、それがさらに山の存在感を強いものにしています。そんな山が奥へ、奥へと連なっていることがわかります。
実はこの山をこちらから登って、えんえんと進んでいくと霧社につくのです。花蓮はそこから台湾の東海岸に降りてきた地域です。東海岸はいつも激しい台風に襲われてきたため、自然の荒々しさが、この急峻な山並みを作ったのかもしれません。典型的なリアス式海岸で、深く切れたった渓谷もある。かつてはこの地域も、漢族の入りにくいところだったのでしょう。自然の要害に囲まれて、タロコの人々はここに自分たちの楽園を築いてきたのかもしれません。
さてそんな急峻な山の裾野の家で、しかしイワルさんはとても穏やかな暮らしをされていました。私たちが入っていくと、ニコニコと笑わってくださいましたが、その目元はどこまでも穏やかです。あるいは信仰が彼女の精神生活を豊かにしているのかもしれません。
ここでも私たちはアマアを囲んで静かでやわらかい時間を過ごしました。子どもたちだけはキャッキャッとかしましい声をあげていましたが、イワルさんはかわいいねえと目を細めていました。アマア、いつまでもお元気でと握手をして、彼女の家を後にしました。
続いて花蓮を始めて訪れた僕のために、ホエリンさんが、少しだけ観光を入れてくれました。松園別館というハウスですが、旧日本軍が公館に使っていた建物が歴史遺産として展示されているものでした。台湾歴史百景の一つにも選ばれているのだとか。そこを訪れると、近くに高級将校が住んでいて、さまざまな儀式に使われた建物であることが分かりました。儀式の中には、特攻隊の兵士を集め、天皇から下賜されたお酒を出撃前に振舞うなどのことがされと書かれていました。
「そうなると、ここに慰安所もあったのでは?」そんな目で中を探索すると、本館の洋館の裏に、屋根が純日本風の建物のなごりが残されていました。名残というのは建物は往時のままには残っていなくて、ここを訪れた人々のためのカフェに変わっています。
しかしそれらに付されている展示案内を読み込んでいって、その一つに、「ここには階級の低い兵士たちが住んでいたり、慰安婦たちが住んでいて、ここで働いていた」というような記述がみられました。「やっぱりあったね、きっと特攻隊の兵士たちに前夜にいかせんたんだろうね」と話し合いました。
こうした話は実際に台湾の新竹という海軍基地に作られた慰安所で確認されています。そこには韓国のイヨンスさんというおばあさんが送り込まれました。彼女はある日自宅からさらわれて船に乗せられ、台湾に連れてこられて、特攻隊兵士の相手にした性奴隷をさせられたのでした。
こうした彼女たちの被害体験に比較は禁物なのかもしれませんが、特攻隊の兵士たちは、多くが純真な青年で、何より人を殺した経験のない若者でした。その点で、獰猛な殺戮部隊だった中国戦線の陸軍兵士たちとは様相を異ならせています。イヨンスさんも、さらわれて「慰安婦」にされた彼女の境遇を悲しんだ兵士と、ほのかな恋心を交わしています。
一度、イヨンスさんを我が家にお招きして泊まっていただいたことがあり、そのときに、僕が特攻隊について書かれた写真つきの書籍を彼女に見せてあげたのですが、航空帽をかぶって腕組みしている若い兵士たちの写真をみたせいか、彼女の夢枕に、かつて彼女と恋心をかわした兵士が立ったそうで、彼女は一晩中泣き明かしたと語っていました。
僕はその後、新竹の海軍基地から出撃した特攻機の記録を調べ、彼女との話から使われた機体を特定し、10数機の中の一機にまでその兵士の乗った飛行機を絞り込みましたが、それ以上、調べることが彼女の幸せにつながるのかどうかが分からなくて、そこまでで調査を終えたことがあります・・・。
そんなイヨンスさんの思い出から、この洋風の会館で、天皇から下された酒を飲み干している青年たちの顔が目に浮かぶような気がしました。そしてその彼らを迎えるためにそこに住まわされた女性たちの顔。彼女たちもあるいは韓国からの女性だったのかもしれません。
確かにその「行為」がここでなされながら、すべては霞の中に埋もれてしまっています。そのときここにいたおばあさんは、今、韓国のどこかでひっそりと生きているのかもしれない。そうであるとすればせめて幸せであって欲しいと思いました。ともあれしっかり記録しておかねばとビデオをもってぐるぐると建物の周りをめぐりました。
続けて、再びタクシーを飛ばして、タロコの方たちの住まう地域にもう一度行きました。イワル・タナハさんのおられたところとは離れたところで、その地域でとても印象的だったのは、町の中の家々の壁のいたるところに、タロコ族の姿をタイル模様のようなものであらわしたものがはめ込んであることでした。
「前からこうではなかったのよ」と柴さん。2004年に「タロコ族」として認められて以降、民族の尊厳をあらわしたこうしたものがたくさん設置されたのだそうです。タロコの誇りを全面に掲げている人々の息吹が伝わってきました。
お訪ねしたアマアは、僕にとっては初めての方でした。さまざまな事情からカムアウトはされていませんが、婦援会の活動は他のアマアたちと積極的に担ってきたのだそうです。カムアウトしたアマアたちを支えて頑張ってきたのですね。
そんなアマアはびっくりするほど日本語がお上手でした。ちょうどお連れ合いもいらしたのですが、このおじいさんも日本語が上手。話を聞いたら、夫婦の会話の多くが日本語なのだそうです。町の中での年寄りの挨拶も日本語が多いらしい。「こんにちは。どこにいくのなんて、毎日、話してるんだよ」とアマア。
「日本語が本当にお上手ですね」と語ったら、「私のときは小学校が3年しかなかったんだよ。少したったら6年になったんだけど、私は3年しか習えなかった」ととても残念そうに語られました。学校でもっとたくさんのことを習いたかったというアマアの気持ちが伝わってきました。
ここでもゆったりとしたやわらかい時間を過ごすことができました。アマアの家を去るときは、アマア、おじいさん、娘さん、それに飼い犬が並んで私たちを見送ってくださいました。アマアが終始、とても嬉しそうにしてくれていたので、来てよかったなと思いながら、アマアの家を離れました。
さてそれから花蓮から特急にのって帰ってきたので、台北到着は午後10時をまわっていました。僕は特急列車の中でレポートを書き続け、友人宅に帰って、まずはタロコ族のことを投稿しました。
そのとき、柴さんに被害の様子を質問したのですが、今、ここに紹介したアマアたちは、みなさん、いい仕事があると騙されて基地に連れて行かれ、軍が管理していた近くの洞窟に連れて行かれてレイプされたのだそうです。しかも次々と若い女性を呼び出していった。被害にあった少女は泣きながら戻ってきますが、その理由を友達に伝えることができない。
そうしてまた一人、また一人と日本軍兵士に呼び出されて、洞窟に連れ込まれ、レイプをされたのだそうです。そんな少女たち。それからみんなで手をつないで数珠繋ぎになり、おいおいと泣きながら自分たちの村への坂道を歩いていったそうです。「凄い聞き取りだったわよ」と柴さん。今、こうしてレポートを書いていてもその姿に涙が出てきてしまいます。
アマアたちを少しでも幸せに。そのためには、たとえ何時のことになろうとも、日本政府のきちんとした謝罪を引き出さなくてはいけない。そう再度、心に誓った花蓮への旅でした。
続く
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