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Monday, August 13, 2012

built the Keyhole-shaped mound in Korea was for the sake of the Japanese

김수로 Kim Soo Ro 鉄の王 キム・スロ 原題:「金首露」

62 :世界@名無史さん:2012/07/23(月) 18:18:11.33 0:
「鉄の王キムスロ(金首露)」というドラマを見た。 倭人がまだ半裸でウホウホ言ってた弥生時代の1世紀頃、 すでに加羅は文化的な生活を送り、繁栄していた。




http://blogs.yahoo.co.jp/audreyhyu/53234389.html

皆さん、任那日本府ってご存知ですか?3世紀から6世紀にかけて朝鮮半島南端にあったという古代日本の軍事拠点です。韓国はこの歴史を葬るために、宮沢らの売国政治家にはたらきかけ、歴史からほぼ消し去ることに成功しつつあります。しかし、日本の古代歴史学者の間では、任那日本府は存在し、何らかの古代日本政府の機能を代理し、百済や新羅に睨みをきかせていたことは常識となっています。

その根拠として、なんと朝鮮半島南部からは、日本固有の古墳である前方後円墳が多数発見されるのです。この事実を韓国古代史学者は、長年隠蔽したり、逆に「日本が韓国の前方後円墳をまねした。」と嘘をついてきましたが、さすがに最近は隠しきれなくなり、また嘘も通用しなくなり、韓国の前方後円墳が日本人を埋葬したものであることを認めざるを得なくなりました。

ところが、韓国の苦肉の解釈として、百済が韓国にいた日本人を制圧し、その日本人のお墓が韓国の前方後円墳だというのです。笑っちゃいますね。制圧した外国人のためになんでそんな大きなお墓を作る必要があるのでしょうか。史実はこうです。朝鮮半島南部に大きな政治的軍事的影響力を持ち、その地の朝鮮人を支配していたか、あるいは大きな尊敬をうけていた古代日本人の古墳が、朝鮮半島南部で発見される前方後円墳なのです!韓国人の皆さん、悪あがきは止めて、歴史の真実を認めなさい!



【日韓】 「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」 [11/18](1001)

1 死にかけ自営業φ ★ 2007/11/18(日) 09:35:03 ID:???
【新刊】朴天秀(パク・チョンス)著『新しく書く古代韓日交渉史』(社会評論) 

韓日古代史を探る両国の考古学・歴史学者たちの視角は、大部分が自国中心的だ。
西暦4世紀中盤、百済・近肖古王代に日本へ伝わった七支刀がよい例だ。
全く同じ銘文を巡り、韓国の学者は「倭王に下賜したもの」と読み、 日本の学者は「倭王に捧げたもの」と解釈している。

慶北大と大阪大で考古学を専攻した慶北大の朴天秀(パク・チョンス)教授(考古学)が この本で見せている態度は、「辺境人」あるいは「灰色人」といったものだ。
彼は、最大限客観的な姿勢で遺物と遺跡を探る。
彼は、百済の先進文物が倭に伝播し文化水準を高めたのだとしても、 6世紀前半に倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実も認定する。
とはいえ、倭が韓半島(朝鮮半島)南部の一部を支配したという「任那日本府説」を支持することもない。
この本の第6章「栄山江流域の前方後円墳を通して見た百済と倭」は、 同書に一貫する著者の論拠を際立たせている。
前方後円墳とは、上から見る時、前は四角形で後は丸く見える、鍵穴の形をした巨大古墳のことを言う。
日本では4-6世紀に集中的に出現するが、韓国では主に栄山江流域で6世紀前半に現れ、すぐに消える。
この墳墓を巡り、任那日本府説を立証する遺跡だという主張が日本から起こったのは言うまでもない。
しかし韓国国内の考古学会では、「ある地域で前方後円墳が出たが、 (日本の学者が喜ぶかと心配で)埋め直した」という噂もあった。

著者は、前方後円墳の形態で見る時、倭人の墳墓だという事実を認定する。
しかし墳墓から出土した百済の威勢品は、百済に服属した「倭系官僚」だという事実をあぶり出す。
遺物や遺跡、そして歴史書などを総合すれば、こういう話になる。
西暦475年、百済はソウルを高句麗に奪われた後、韓半島南部に南下した。
その過程で、栄山江流域最大の土着勢力が居着いていた全羅南道羅州潘南面地域は
土着勢力を首長に据えて「間接支配」し、その外郭は前方後円墳を作った倭系軍事勢力を利用し「直接支配」した、というものだ。
しかし、538年に熊津(現在の公州)から泗?(現在の扶余)への遷都と栄山江流域の直接支配、そして倭系官僚の本土帰還や「百済化」により、前方後円墳は消えた。

慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
http://www.chosunonline.com/article/20071118000001


【新刊】朴天秀(パク・チョンス)著『新しく書く古代韓日交渉史』(社会評論) 

韓日古代史を探る両国の考古学・歴史学者たちの視角は、大部分が自国中心的だ。西暦4世紀中盤、百済・近肖古王代に日本へ伝わった七支刀がよい例だ。全く同じ銘文を巡り、韓国の学者は「倭王に下賜したもの」と読み、日本の学者は「倭王に捧げたもの」と解釈している。

慶北大と大阪大で考古学を専攻した慶北大の朴天秀(パク・チョンス)教授(考古学)がこの本で見せている態度は、「辺境人」あるいは「灰色人」といったものだ。彼は、最大限客観的な姿勢で遺物と遺跡を探る。彼は、百済の先進文物が倭に伝播し文化水準を高めたのだとしても、6世紀前半に倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実も認定する。とはいえ、倭が韓半島(朝鮮半島)南部の一部を支配したという「任那日本府説」を支持することもない。この本の第6章「栄山江流域の前方後円墳を通して見た百済と倭」は、同書に一貫する著者の論拠を際立たせている。前方後円墳とは、上から見る時、前は四角形で後は丸く見える、鍵穴の形をした巨大古墳のことを言う。日本では4-6世紀に集中的に出現するが、韓国では主に栄山江流域で6世紀前半に現れ、すぐに消える。この墳墓を巡り、任那日本府説を立証する遺跡だという主張が日本から起こったのは言うまでもない。しかし韓国国内の考古学会では、「ある地域で前方後円墳が出たが、(日本の学者が喜ぶかと心配で)埋め直した」という噂もあった。

著者は、前方後円墳の形態で見る時、倭人の墳墓だという事実を認定する。しかし墳墓から出土した百済の威勢品は、百済に服属した「倭系官僚」だという事実をあぶり出す。遺物や遺跡、そして歴史書などを総合すれば、こういう話になる。西暦475年、百済はソウルを高句麗に奪われた後、韓半島南部に南下した。その過程で、栄山江流域最大の土着勢力が居着いていた全羅南道羅州潘南面地域は土着勢力を首長に据えて「間接支配」し、その外郭は前方後円墳を作った倭系軍事勢力を利用し「直接支配」した、というものだ。しかし、538年に熊津(現在の公州)から泗沘(現在の扶余)への遷都と栄山江流域の直接支配、そして倭系官僚の本土帰還や「百済化」により、前方後円墳は消えた。

慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54088135.html







【日韓歴史】 昔は韓国が日本に与えてばかりだったって?~朴天秀著『新しく書く古代韓日交渉史』[12/14]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1197814818/

1 名前:蚯蚓φ ★[] 投稿日:2007/12/16(日) 23:20:18 ID:???





(ハンギョレ)日本との交流の歴史を話せば韓国人たちはたいてい「ご先祖は日本の恩人」という自負心がわく。「百済・新羅などが未開な日本に水準の高い文化と技術、制度を一方的に伝えた」と言うことが当たり前の事実として受け入れられている。これはすなわち日本が「恩を仇で返す」という論理でたびたび語られる。日本より優れていた、という民族主義史観のもと、多くの歴史書、甚だしくは教科書も一方的な文化伝播論を教えて来た。古代日本は一方的な受恵者だったのだろうか。侵略者だったのだろうか。紀元直後から新羅が三国を統一する7世紀中頃まで、日本列島と韓半島(朝鮮半島)の間に起こった交流の実像はどうだろう。

1990年代、大阪大学で学びながら韓日古代交流史の遺跡を一人で研究して来た朴天秀(パク・チョンス)慶北大教授は最近の著書『新しく書く古代韓日交渉史』(社会評論)を通じて避けることができない‘ファクト’(事実)を想起させる。日本の地に散らばった先祖たちの遺跡に劣らずこの地に倭人たちが残した遺跡・遺物も多く散らばっているということを。

80年代から3~6世紀、典型的な日本の貴族・王の墓であるチャンゴ(鼓)様古墳、いわゆる「前方後円墳」が全南栄山江(ヨンサンガン)流域のコフン・光栄・光州等の土地で13基も発見された。慶南海岸一帯でも倭式墓、銅鉾・鉄矛などの古代日本産武器、よろい、日本式弥生土器などが多く出土される。単純な貿易ではなく、定着して代々永住し、大きな墓で地方権力を誇示した兆候などが続々と現われた。国内学界はそっぽを向いたり、我田引水式で解釈して来た。ソウル江東地域で百済王朝が築いた最大規模の前方後円墳が発見され、これが日本の前方後円墳の原型だと報道した2005年、韓国放送の誤報波紋はこのうような考え方がもたらしたハプニングとして記憶される。

著者は関連リストだけ100ページに近い韓-日考古発掘資料を持って力をこめて言う。「古代韓日交流史に、近世や現代の葛藤関係を投映させてはいけない。実際、全くそうではなかった。発掘遺物が投げる声に聞き入って迷妄から脱しなければならない」<新しく書く古代韓日交渉史>は20年以上、韓日発掘現場を歩き回った専門家の視点から韓日交流史を初めて考古学的に再構成した。彼が見るに、鉄器時代であるB.C.300~400年頃から新羅の三国統一期の7世紀まで(日本の時代区分では弥生時代から飛鳥時代まで)韓半島と日本の考古学は境界がない。墓、住居などの遺跡と装身具、道具、武器類などは形式や外形がほとんど同じだ。

したがって近代民族主義の影を除き、考古遺物を土台にして韓日交流史を整理すれば、興味深いが当惑する何種類かの仮説が現われる。まず5~6世紀、全羅道一帯の南道地域は日本の九州の倭人貴族たちが治めたと考えられる。百済は統治権が弱かった南道地域を治めるために、彼らを官僚として連れて来て使ったというのだ。光州都心の前方後円墳が、彼らが享受した権勢を証明する。

それだけではない。南海岸と慶南・北の内陸に布陣した金冠伽揶、大伽揶などの伽揶連盟の国々は競争的に日本の大和政権は勿論、九州、四国、甚だしくは今日の東京近隣の関東地方勢力と同盟関係を結んで、鉄の輸出はもちろん武器類、装飾品などの威信財(身分や権威を示す品物)などを交易することに熱心だった。

倭と敵対関係に認識されている新羅も5世紀前半、金冠伽揶衰退以後と6世紀後半大伽揶滅亡後、日本各地の勢力と交易しながら対日交流の主導権を行使した、と朴教授は主張した。有名な慶州黄南大塚の出土品‘勾玉’(三日月様の飾り玉)が日本産という論争的主張と日本の中央、近畿地方の同時期、主要古墳に新羅製馬具と金銅装飾品を多数埋まっていたという事実などが根拠だ。(中略)

結論的に紀元前後から7世紀まで700年間、韓半島と日本の関係は今日よりずっと密接だったのみならず汎国民的な嫌韓・反日対立感情は事実上なかった。同じ生活圏・経済圏としてお互いに存立のために絶対的に必要な提携同盟の対象だった。彼の言葉どおりなら「韓半島三国の間の国境を出入りするより海で倭国と往き来するほうがずっと易しいほど」だった。
(後略)

ノ・ヒョンソク記者




http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2764

ソース:empas/ハンギョレ新聞(韓国語)昔には韓国が日本に与えてばかりしたと?
http://news.empas.com/show.tsp/cp_hw/20071213n23782

▽関連記事
「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」
http://www.chosunonline.com/article/20071118000001




同じ朴教授でも大違い!
まともな朝鮮人もいるんだな、と思ったら・・・
1990年代、大阪大学で学びながら韓日古代交流史の遺跡を一人で研究して来た
大阪大学・・・だからこういう結論に達したのかw
朝鮮の大学だとまずこういう結論にはならないからね。


・・・あれ?これってハンギョレ新聞の記事よね・・・?
何かあったのだろうか・・・



これはすなわち日本が「恩を仇で返す」という論理でたびたび語られる。

やっぱり、朝鮮人って気が狂ってる。
もらったものなんてほとんど無いのに。



「古代韓日交流史に、近世や現代の葛藤関係を投映させてはいけない。実際、全くそうではなかった。発掘遺物が投げる声に聞き入って迷妄から脱しなければならない」

絶滅危惧種だ・・・
というか、もうすぐ絶滅しそうw



同じ生活圏・経済圏としてお互いに存立のために絶対的に必要な提携同盟の対象だった。

一緒にしないでください><
つか、朝鮮半島の火薬庫が新羅だったはずだけど。




つか、マトモな事書かれても没心色なんだが・・・








http://h.hatena.ne.jp/matsuiism/171936417102709721

『鉄の王キム・スロ』
『鉄の王キム・スロ』第7話に楽浪(ナンナン)国のことが出てきたので、「おお!」と思った。
公式サイトを見ると、このドラマの時代設定は紀元1世紀の初めなので、たしかに時代的に重なり合う。《朝鮮半島南部では、まだ小さな部族がバラバラに存在し互いに牽制しあっていた。そんな小部族をまとめ上げ、優秀な製鉄技術と海洋貿易で名を馳せる国家《伽耶》の初代王になったのがキム・スロだ。》
http://kimsuro.com/intro.html

『三国遺事』の「駕洛国記」には加羅(伽耶)国の建国神話が書かれているという。

《昔、駕洛国には、九人の干と呼ばれる部族の長がいたが、国号もなく、君臣の別もなかった。人びとは山野に住み、井戸を掘っては飲み、田を耕しては食う、という牧歌的な生活をしていた。ところが、後漢の光武帝十八(紀元四二)年の春のみそぎ祭りの日、カラの北方の亀旨(クジ)峰に常ならぬ気が起こり、人びとが山の上に集まった。すると天から声がして、天の命ずるところにより国を新しくして、君后をつくる、今、ここに降る、と言った。
そうして天から金の卵が降りてくるが、この卵から生まれたのが駕洛国の始祖、首露王であるという。》(上垣外憲一『倭人と韓人』)

ドラマでは、「伽耶」になる前のこの地域は「狗耶(クヤ)国」と呼ばれている。
『キム・スロ』第7話には、他にも、「弥烏邪馬(ミオヤマ)国」の人間や、「斯盧(サロ)国」の初代王の娘が出てくる。弥烏邪馬(ミオヤマ)国は、弁韓(ビョナン)12国の1つで、現在の高霊(コリョン)。斯盧(サロ)国は、後の新羅(シルラ)である。
さらに驚くのは、天竺国(インド)の商人やダンサーまで出てきて、セクシーなベリーダンス(?)を踊ったりするんですよね~。
『薯童謠(ソドンヨ)』にも天竺の商人が出てきたが、あれは6世紀末の話。仏教もすでに伝来しているので、まあ「あり」でしょう。
しかし、『キム・スロ』の場合、時代的にやはりムリがあるのではと思う反面、ここまであっけらかんにというか、確信犯的に「あくまでフィクションですよ~」とやっているので、笑って許せてしまう。
by matsuiism 2012/05/13 5:07:04 from web 返信


http://japan.gimhae.go.kr/01/03_03.jsp


伝説と説話
首露王の降誕説話

金海駕洛国の始祖である首露王が空から下って国を建てたという建国神話。 駕洛国の首露王の降誕説話について詳しく伝えているものは『三国遺事』駕洛国記です。その内容を手短かに紹介すれば次の通りです。

《天地が開闢した後、この地には国の名前も無く、また王や臣下という称号も存在しなかった。昔、九干があって、これらが民を治めており、百戸に7万5千人が住んでいた。ちょうど後漢の世祖・光武帝の時代、建武18年壬寅3月癸酉(みずのととり)に、亀旨峰に妙な音と歌声があって九干など数百人の人々が集まって来た。

すると空から、"天が私に命じて、ここに国を建て、その王になれというのでここへ来ました。あなた逹はこの峰の土を堀りながら歌い踊りなさい。"という声が聞こえた。

"亀よ亀よ、頭を出せ。出さなければ焼いて食べてしまうぞ。"

九干などが"W亀旨歌"Wを歌って踊った。すると、すぐに空から紫色の綱が大地まで垂れてきて、その綱の先には赤い布に金属の器が包まれていて開けてみたら太陽のように丸い黄金の卵が六つ入っていた。

翌日、夜明けに卵六つから男の子が出てきたが、その姿形が非常に美しかった。すぐに平床の上に座らせ、多くの人が祝い、礼をして恭敬をつくした。その月の15日に皆、王位に即いた。初めて現われたということで、諱を首露、あるいは首陵としたが、首露は大駕洛の王になって残り、5人もそれぞれ 5加耶の王となった、、、、、。》

首露王の降誕説話は金海駕洛国の建国神話でもあります。しかし説話は伝承過程で多くの脚色がなされ、また現代人の歴史認識によって架空の事実が付け加えられたりします。西歴42年に駕洛国が建国されたり、または首露王が158年間、国を治めたと言うことが、その時代の歴史的事実として見られないことは正しいことで、このような理由のためです。

首露王の降誕説話は研究分野によって、天孫降臨説話、農耕社会の伝統あるいは民俗儀礼、即位儀礼など、様々な側面から議論されています。しかし歴史的事実に近付くためには、その裏にある古代人たちの思想と歴史的背景など、より総合的な検討が必要です。

この内容の中で、首露王説話の性格が最も端的に現れている部分は"V赤い布に包まれた金属の中の卵が天から峰に下った"Vと言う天孫降臨と卵生説話の要素です。

我が国の建国神話には檀君神話以来、大部分は天孫降臨思想が入っています。首露王説話も高い峰である亀旨峰から下るなど、典型的な構造を持っています。

支配者はこのような観念を立てて、現実世界で行う権力の行使を正当化し、その支配を神聖なものとして、民たちに受け入れるようにしました。

また鳥に変身する能力や許王后との結婚説話は支配者としての威容と建国始祖としての正当性を持たせるものです。

また空から地に下るという天孫降臨神話は、新しい移住民集団が渡来したことを意味します。首露王は単純に一個人を意味するのではなく、新しい先進文明を持って金海地域、または加耶地域に移住した先進集団であるということです。もちろんそれ以前にすでに金海地域には土着集団が居住していましたが、九干がこれらの集団をそれぞれ代表していました。

彼ら土着集団と首露集団が結合して成立したのが駕洛国だったのです。九干の勢力は青銅器文化を基盤にしていましたが、新たに渡来して来た首露王集団は先進的な鉄器文化を持った集団だったのです。したがって西歴42年という駕洛国の成立年代は、考古学的資料の検討を通じて見る場合、妥当ではないと言えます。

空から下った卵から首露王が生まれたという事実は、東アジアに広く広がっている卵生説話と関連があります。卵が黄金色で太陽のように丸かったという記録は当時の太陽崇拜思想の跡を窺わせるものだという説もあります。

首露王が天孫だという観念は「選ばれした者」という後代の人々の考えが投影された結果であり、自分は「天の子孫だ」という観念を被支配層に押し付けて、現実世界での権力を行使を正当化し、合法化し、神聖化したのだと思うのです。

しかし、首露王の外に5人の王が卵生して6加耶を形成したという"V6卵説"Vは歴史的事実としては到底受け入れにくいものです。『三国志』"V魏書東夷伝"Vによれば加耶の前身である弁韓に12の国があったことは確かで、加耶地域に先進鉄器文化を所有した集団が現われる頃の考古学的現象もやはり『三国遺事』"V五加耶の条"Vにある駕洛国を除いた5つの国に批正されないのです。

おそらく"V六卵説"Vは後代の"V加耶連盟体"V観念によって脚色された可能性が高いと思われます。 首露王の降誕説話では意外にも海洋文化的な要素も含まれています。

天孫降臨説話の要素である"W天"Wは韓国では一般的に北方を意味するものでありますが、海の霊獣とされる亀も登場しています。『三国遺事』"V魚山仏影"Vには「万魚寺は昔の阿耶斯山だ。山の横に駕洛国という国があった。昔、天から卵が浜辺に下り、それが人になって国を治めた。

彼が首露王であった」とありますが、この記録にも、やはり駕洛国と海洋との関連性を見つけることができます。すなわち、駕洛国が持っている地理的な立地條件とまた鉄を媒介とした海上交易勢力としての性格を見る時、亀と表現される海洋文化も首露王と密接な関連があるでしょう。

最後に、首露王の姓である金氏について見てみましょう。現在韓国で一番多い人口を占める氏姓が金海金氏です。その来由を紐解くことができる『三国遺事』駕洛国記と王暦の内容はそれぞれ次の通りです。

居登王は父が首露王で、母が許王后だ。開皇暦には姓が金氏であるが、たいてい国の世祖は金の卵から生れたからだ。 首露王は壬寅3月に卵から生まれ、この月に王に即位して158年間、国を治めた。金の卵から生れたので姓を金氏としたと開皇歴に記されている。

この二つの文には、首露が金の卵から生れたから金氏を名乗ったと書かれています。ところが『三国史記』キム・ユシン列伝にはこれとは全く違う内容が見えます。

新羅の人々が自ら、少昊金天氏の子孫だと言って、金を性とし、ユシンの碑文にも、軒轅の末裔であり、少昊の直系だとあるので、南加耶の始祖、首露は新羅と同一の氏姓ということになります。

中国の"V少昊金天氏説"Vを採用して神聖性と悠久性を強調したのです。開皇歴は加耶の滅亡後に編纂されたもので、『キム・ユシン碑文』もやはり、7世紀後半に建てられたことから見て、二つの説ともに、加耶当時に成り立ったものではないようです。しかし少なくとも7世紀中盤以前には新羅王族と同じく金氏姓として称されるようになったと思われます。 < ベク・スンチュン >



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