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Tuesday, August 14, 2012

the movement to annihilate Geiko and the Great Kanto Earthquake

http://www.nwec.jp/jp/data/journal911.pdf


関東大震災と廃娼運動――日本キリスト教婦人矯風会の活動を中心に――楊善英
.
. キーワード.
廃娼運動、日本キリスト教婦人矯風会(矯風会)、関東大震災、東京連合婦人会、公娼廃止期成同盟会、朝鮮の廃娼運動

. 要旨.
日本キリスト教婦人矯風会(以下、矯風会と略記する)は、近代日本における廃娼運動を担った女性団体である。矯風会は1893年に全国的な組織となり、支部の新設や会員の増加に力をいれる一方、地域の女性団体との連帯を模索していく。矯風会は当時において、女性ネットワーク運動の先駆的なものであったといえる。さらに1923年の関東大震災に際しては、女性団体を糾合し震災救援活動を行い、東京婦人連合会の結成に至るまで、中枢的な役割を果たしていくことになる。また、焼失した遊廓の再建に反対する運動を繰り広げるとともに、東京連合婦人会の研究部を母体とする公娼廃止期成同盟会を組織し、多様な活動家や参加者を吸収しながら、廃娼運動の全国的な展開を図ったのである。かくして、廃娼をめぐる世論が急速に高まり、その反響は国内にとどまらず、朝鮮にも波及していくことになる。日本の廃娼運動記事や廃娼論が朝鮮の日刊紙やキリスト教関連新聞・雑誌に取り上げられ報道されるとともに、芽生えつつあった朝鮮の廃娼
運動を刺
することになったのである。
本稿は、矯風会の機関誌『婦人新報』を主な資料として実証を行うと同時に、従来研究においてほとんど使用されていなかった『婦人公論』『婦女世界』や朝鮮で発行された『毎日申報』『基督新報』などの新聞・雑誌をも参考資料として扱い、関東大震災直後、女性間に活発化していったネットワークを背景にして、社会運動かつ政治運動へと発展していく廃娼運動に着目し、その展開過程で見られる廃娼運動に対する反応や世論、そしてその反響を検討したものである。
はじめに 移転運動、そして焼失した遊廓の再建に反対する運動
本稿は1923年の関東大震災直後、日本キリスト教 などを繰り広げた。さらに、矯風会は1910年代半ば
婦人矯風会(以下、矯風会と略記する)を中心とする から1921年までの廃娼実現をめざして、遊廓反対運
廃娼運動に焦点を当てて、運動の展開や反響を考察す 動と教育運動を二つの軸とする公娼全廃運動を展開し
ることを課題とする。 た。各地において遊廓を廃止していくことが公娼全廃
矯風会は近代日本における廃娼運動の担い手として、 の道程であるとともに、公娼全廃こそが女性問題の解
1893年に全国的な組織となり、支部の新設や会員の 決の第一歩であり、社会改造につながると考えていた
増加に力をいれる一方で.
、地域の女性団体との連帯 矯風会は、労働運動や普選運動を代表とする社会運動
をも模索していった。1900年代からは各地の支部を の高揚や女性・児童の売買禁止という国際的潮流を背
中心に、性病の蔓延の予防という口実のもとに、増設 景として、公娼廃止に限らず、海外売春婦の視察や女
されつつあった遊廓に対する遊廓増設反対運動や、市 性保護法の制定運動など、国内外の売春問題に取り組
の中心地から遊廓を外郭地に移転させようとする遊廓 み、その活動の範囲を広げていった。

国立女性教育会館研究紀要vol.9.August.200595

そして関東大震災に際しては、女性団体を糾合し震災救援活動を行い、東京婦人連合会の結成に至るまで、
中枢的な役割を果たしていった。同時に、焼失した遊廓の再建に反対する運動を繰り広げるとともに、東京
連合婦人会の研究部を母体とする公娼廃止期成同盟会を組織し、女性団体のネットワークを通じて、多様な
活動家や参加者を吸収しながら、廃娼運動の全国的な展開を図ったのである。かくして、廃娼をめぐる世論
が急速に高まり、その反響は国内にとどまらず、朝鮮にも波及していくことになる。日本の廃娼運動記事や
廃娼論が朝鮮の日刊紙やキリスト教関連新聞・雑誌に取り上げられ報道されるとともに、ついに芽生えつつ
あった朝鮮の廃娼運動を刺戟することになったのである。
廃娼運動に関するこれまでの研究は、多様な内容をもつこの運動のうちでも、廃娼運動家の「差別的娼妓
観」や戦争協力という負の側面をあまりにも強調しすぎる面がある.
。そのためにこの運動が当時の社会の中でどのような意義をもっていたのかということ、特に人身売買や人身拘束を公認するシステムとしての公娼制度を社会問題化して、売買春問題の解決を試みていたという意義があまりにも薄くなってしまったように思われる。また、矯風会の機関誌『婦人新報』で書かれた指導部の言説や行動を中心として分析されたものが多く、各支部や他の団体と連携しながら展開されていた廃娼運動の具体的なあり方や廃娼運動に対する一般の人々の様子(考え方や反応)が、まだ十分に検証されていないということも言える.

したがって、参考資料の幅を広げ、廃娼運動の実態像をより正確に描き出すことによって、廃娼運動の意義およびその限界がより鮮明に確認できるのではないだろうか。
本稿は『婦人新報』を主な資料として実証を行うと同時に、従来研究においてほとんど使用されていなかった『婦人公論』『婦女世界』や朝鮮で発行された『毎日申報』『基督新報』などの新聞・雑誌をも参考資料として扱い.
、関東大震災直後、女性間に活発化し
ていったネットワークを背景にして、社会運動かつ政治運動へと発展していく廃娼運動に着目し、その展開
過程で見られる廃娼運動に対する反応や世論、そしてその反響を検討することにする。


1. 東京連合婦人会の結成
関東大震災によって東京は瓦礫と化した。矯風会の赤坂の本部事務室も焼失したので、仮事務室が大久保の婦人ホームに置かれることになった。矯風会幹部はさっそく被害をうけた会員を訪問したり、罹災民を視察したりする一方で、地方や海外における各支部および教会から古着類を集め、その洗濯や配給に取り掛かった.

同じく、女学校や女性団体も震災直後から、児童や女性保護および布団・衣服の配給のため、各地で積極的な救援活動を始めた。例えば、自由学園の生徒や卒業生は、羽仁もと子の指導により、焼け跡の小学校で児童たちに給食を提供した。また、井上秀子を中心とする桜楓会(日本女子大学同窓会)の会員たちも被災児童に弁当を作っていた。また、愛国婦人会は在郷軍人会と協力して毛布や被服を配給し. 、基督教女子青年会も衣類・防寒用品の製作や募集および分配に取り組んでいた.

配給された衣類や布団をはじめとする慰問品の大半は、地方の女性団体の手を通じて集められたものである.
。各地方の女性団体からは被服や義捐金が送られ、上記の団体をはじめとする在京の数十の女性団体がその衣類や布団を配給するとともに、乳児・妊産婦の保護、老人や病人の看護に努めていた。こうした、震災救援における女性団体の活動には目覚ましいものがあり、世間の注目をあびることとなった。しかしながら、それぞれの団体の活動は個別的であり、団体間での連絡・調整もなく、体系的には進められなかった.

こうしたなかで、矯風会は児童保護局からの練乳の配給を引き受けることになった。その目的は女性たちが一つの仕事を分担し、協同・連合していくことが大切であると考えたからである。そこで9月28日、久布白落実と守屋東の呼びかけに応じて、東京の12団体から30人近くの代表者が集まり「東京連合婦人救済会.
」(後に東京婦人連合会)を組織し、その主な活動目的を「児童殊に乳児及び母性の保護.
」におくことにした。仕事が開始された30日には、矯風会をはじめ、基督教女子青年会、愛国婦人会、.友会(東京府立第一高女同窓会)、桜楓会(日本女子大学同窓会)、実践女学校、自由学園、東京女子学校、婦人協会、婦人平和協会、二葉保育園およびバプテスト教会婦人会、クリスチャン教会婦人会、本郷教会婦人会、霊南坂教会婦人会、関東罹災者保護婦人会の16団体から約130人が参加した。一見して、高等教育をうけたキリスト教徒が多く、日頃から慈善活動や救済活動に積極的に取り組んでいた団体であることがわかる。

まず、彼女たちは避難地の戸別訪問を通じて5歳以下の乳児がいる家庭に練乳缶を配達した。同時に、産婦・負傷者・老弱者・迷子の家庭や衛生状態などについて調査した。彼女たちの献身的な救援活動は、一般市民および政府機関からも評価を受け、注目をひくことになる。そして10月6日の総会で、東京連合婦人会を永久的組織とすることが決議され、より整った団体としての活動を積極的に進めていくこととなった.

東京婦人連合会はまず、失業女性の救済に乗り出した。震災で4万に達する女性が仕事を失い、女性の失業問題は大きな社会問題となっていたからである.
。一時的な救済に止まることなく、根本的な生活問題を解決できるようにさまざまな方策が講じられた。政府の助力を得ながら、職業斡旋に努めるほか、労働条件の改善・女性労働者の権利擁護にも尽力していったのである。したがって、同会には多くの職業女性団体、派出婦人会、看護婦会や事務員・女工たちも加わり、職業部が設けられることとなる。
また、東京婦人連合会には山川菊栄、平塚明子、山田わか、三宅やす子、西川文子などが続々加入し、研究部を設けた。若い女性運動家が主軸になっていた研究部は、当初、公娼廃止、婦人参政権問題、服装問題などについての調査・研究を行うことを目的としていたが、後には政治部と改名し、全国廃娼運動期成同盟や婦選運動(婦人参政権獲得期成同盟会)にも有力メンバーを送り出すことになる。
一方、内務大臣後藤新平による大規模な帝都復興計画が進められるなかで、東京婦人連合会はその計画に参画しようとした。帝都復興院総裁に就任した後藤は、アメリカから都市計画の権威ビアード博士を招聘して東京復興に対する具体案に助言を求め、欧米の最新の都市計画を適用する」という基本方針の下に、復旧ではなく復興へ」の計画を練り始めていた.
。そこで東京婦人連合会は、もとより同会の結成を望んでいたビアード博士夫人を顧問に推戴するとともに、会員の要求事項をまとめてそれを復興院に陳情し、新帝都計画の参考案に取り入れられるように働きかけたのである。
こうした活動を踏まえて、10月27日には東京連合婦人会の発会式が開かれた.
。東京における教会婦人会、学校、同窓会、女医会、看護婦会、職業婦人会などの42団体とキリスト教徒、仏教信者、教育家、評論家、社会主義者などの各方面の女性が集まった.
。まさしく「あらゆる色彩、あらゆる性質の婦人団体の、極めて緩やかな連絡機関」の誕生であった.
。ただ、参加者の金子しげりが言うように、当時の東都婦人会の総力を結集しようと企てられ」たが、婦人大衆まで組織することができたわけではなく、いわば婦人指導者の団結といった実質をそなえてできあがった」ものであった.

この東京婦人連合会の結成とその展開、なかでも守屋東や久布白落実の役割や活躍は刮目に値する。守屋はすべての集会に出席するなど、事務総長の様な形で衆望を集めて」、連合会の基礎の形成に尽力した。さらに守屋は矯風会における東京部会長、本部社会部長、そして婦人ホームの主任という重役を務めながらも、東京婦人連合会の活動を決して矯風会の延長としてではなく、むしろその色彩を出すことは避けて、組織の調和に努めたのである.

また久布白は、周知のように廃娼運動に確乎たる地歩を占め、行動力においても指導力においても群をぬく存在であった。大震災という国家的危機に直面し、女性の団結をもっとも重要と考えた彼女は、八日会の山川菊栄・田島ひで・堺真柄をはじめ、宗教や思想を異にする女性たちをも束ねて、女性による連帯へと導いていったのである。彼女について田島は「思想上では世界観を異にするようになったが、婦人運動家としての彼女は、人間的にりっぱで、教えられることが多かった。ながい苦難な廃娼運動のなかできたえた行動力と質素な生活、それに日本婦人としては珍しく包容力をもっていた。そんなことが私をひきつけたかもしれない」と語っている.
。このことからも久布白の人間性やその指導力が十分にうかがえる。
一方、世論もまた、東京連合婦人会の設立を、地震の贈物とか婦人会の収穫などと高く評価した。一例をあげると『婦人世界』は、連合婦人会の誕生は単に東京のみでなく我が日本の婦人界にとつて、非常に有意義な光明を齎したといつていゝ」と記して、団体の力によって婦人の実力が認められることは、やがて婦人全体の覚悟を促す原動力ともなり、また婦人の地位を向上させる一階段ともなる」と大きな期待を寄せた.
。このように、震災救援活動を通じて、東京の有力な女性団体が連帯し、世界観を異にする女性活動家が、大同団結を成し遂げたことは、女性史における一ページを飾る画期的なことであったといえる。
国立女性教育会館研究紀要vol.9.August.200597

2. 焼失遊廓再建反対運動
関東大震災では吉原・洲崎遊廓が焼失して、多数の死者・行方不明者・逃亡者が出て、娼妓数が急激に減った。しかしながら、間もなくバラックが建てられて仮営業が行われた。矯風会は遊廓の焼失を絶好のチャンスと捉え、新たに進められていた東京都市計画における遊廓の再建に反対した。ここでは、矯風会本部や大阪・津・鹿児島・徳島支部による焼失遊廓再建反対運動の様子を詳しくみることにする。

まず、9月13日、久布白落実と守屋東は首相・内相・市長・警視総監を訪問し、大東京都市計画に遊廓地を設置せざる事」および、芸妓町を一切本通りにおかざる事」を請願した.
。同月17日、守屋が協調会主催の社会事業団体の打ち合わせにおいて、諸団体の協力を呼びかける一方で、久布白も2日後の19日、再び首相・内相・市長・警視総監を訪問し、遊廓再建反対を要求した。
注目すべきことは、後藤内相が世論さえ高まれば顧慮の余地があると表明したことである。これにより、遊廓廃止への期待が大きくなっていった。また復興院の招聘を受けて来日していたビアード博士夫人も、廃娼問題を婦人団体の要求として近く復興院に陳情し、新帝都計画の参考案として実現されたいと述べ、非常に協力的な態度を示した.
。こうしたなかで、矯風会は全国一斉の遊廓設置反対運動の一つの方法として、それぞれの支部が首相・内相・市長・警視総監宛てに請願電報や手紙を送ることに決め、各支部に世論を起こすことや署名運動に全力をあげるように指示した。
まず、本部と同一歩調をとって、大阪支部が立ち上がった。当局がバラックにおける営業を許可するという方針が新聞に報道されると、震災地に於ける消失遊廓指定地廃止」の請願運動を開始したのである。それは「前古未曾有の震災により各遊廓指定地を全焼せる結果自由なき幾百女性の生命を毀損したる事実は我国文化の為めに恥づべきことのみならず、私共母性の痛切なる悲しみ」であるとして、遊廓指定地廃止が急務であることを訴えたものであった。そして9月27日には、大阪キリスト教青年会とともに吉原遊廓再建反対演説会を開いた。そこには2千人の聴衆が参加し、人間が人間を販売することは罪悪である、之を公認する法律は悪法」であり、兄弟の一人なる可憐なる子女を駆つて営利の具に供し尚且つ恥ぢざるに至つては国民倫理の頽廃を証する」という理由から、灰燼
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に帰せる吉原洲崎両遊廓の再起を断じて許さざると共に帝都建設の都市計画中に吉原及これに類する営業区域を絶対に加へざることを期す」と決議した。こうして大阪支部は、およそ4千人の署名を得て、上記の決議文や請願書を後藤内相に提出した。そして、廃娼運動資金に2万5千円を助成する計画を立てたが、そのうち1万5千円は大阪支部が、残り1万円は罹災地外の全国100余支部が引き受けることとした.

また、津支部は同月26日、市役所の社会課や警察署を訪問し、焼失遊廓の再建反対を陳情し、伊勢新聞社、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社、新愛知新聞社の各支局に公開演説会の広告を依頼した。翌日は高知農林学校や県立中学校などの諸学校を訪れて、校長にビラを配りながら協力を求めた。そして、いよいよ29日、津市で公開演説会が開催された。上記の4紙に2回にわたって広告されたこともあり、満堂立錐の地なく、空しく帰つた人も随分沢山」いたという。弁士は皆、津の出身者から招かれたが、なかには「名も無き市内の普通の女子」もいたことから、それがかえって同市民の注目を集めることとなった。聴衆の男女比率をみると、男子が八割で女子は二割くらいであった。廃娼演説会における女性の参加が低調であったのは、当時は公娼問題がまだ身近な女性問題になっていなかったこともあるが、社会全般に女性の社会参与や関心度が低かったことの反映であると思われる。いずれにせよ、公開演説会の開催により「特に保守的なる当市に於て、殊に弱く力なき」津支部は、意義のある経験や自信を持つことができたと、書記の矢頭まさが語っている.

これと前後して鹿児島支部も、各教会婦人会、県下女教員会、処女会などの団体を一つ一つ訪問し、本部の方針に理解を求めていた.
。その結果、鹿児島支部をはじめ、鹿児島婦人会・桜蔭会支部・佐保会支部・桜楓会支部・女子大学同窓会・女子師範学校同窓会・敬愛幼稚園母の会の8連合婦人団体が、連名で後藤内相に公娼廃止請願を提出することとした.

徳島支部もまず、市内はもちろんすべての郡部各学校や県庁警察など各方面に公娼廃止の趣意書を発送した。そして、支部長と会員らが知事をはじめ、各公立学校の主任に面会し趣意を述べたが、たいていは個人として賛成するけれど立場もあり、それ以上のことはできないので、大いに世論を喚起してくれとの励ましを受けたという。また、市内5カ所では5日間にわたる吉原遊廓反対演説会を開催し、廃娼運動資金を募った。さらに、千秋閣(公園)で演説会を開き、600人の参加を得た。弁士として城ノブが招かれ「吉原遊廓




の焼跡を吊うて公娼問題に及ぶ」と題する演説を行い、演説会の終わりに決議文を採択し、首相・内務大臣・警視総監に発送した.

以上のように、焼失遊廓再建反対運動は大阪支部をはじめとして各支部の取り組みによって、広がりを見せることとなった。その運動は主に次のような運動の方法をとっていた。つまり、①当局者への訪問や陳情、
②署名集めと請願書の提出、③演説会の開催、④新聞社への訪問、⑤運動資金の募集、⑥陳情の電報や手紙発送、⑦ビラまきなどである。これらは矯風会が用いた主なる運動戦術でもあった。

世論喚起の一環として、矯風会本部は東京での大演説会開催を予定していたが、諸般の状況を顧慮して中止することにした。代わりに10月1日に、吉原公園で死亡した娼妓の大追悼会を開いた。これについては1千の焼死せる我等の姉妹吉原遊女の霊を心から慰め追悼せん為.
」として東京府下の12新聞に広告を出していた。関東大震災で死亡した吉原娼妓はおよそ千人に達すると言われる。なかには楼主が娼妓の逃走を防ぐため、倉庫や部屋に監禁し、逃げ遅れて圧死・焼死した娼妓や、焼け出されたが地震がおさまった後の火事で吉原公園の花園池に飛び込み、.死した娼妓もかなりいたという。
一般の人々もまじえた300人ほどの参加者のなかには、矯風会会頭の小崎千代子、守屋、久布白をはじめ、日本基督教会同盟会長の小崎弘道と救世軍大佐の山室軍平、そして東京婦人連合会のメンバーたちの顔も見られた。久布白は「公娼廃止を叫んで戦つてきた私共の努力が足りなかつたために、私娼といふ悲しい名のもとで、一千といふ小若い娘を殺してしまつた。東京には百十万といふ女性がゐる。その女性の貞操を守るために、六千人といふ女性が犠牲者となつてゐるのです。私共はこの逝きし犠牲者を犬死させたくないのです.
」と痛切に追悼の辞を読み上げた。そこには良家の子女の保護のためという公娼擁護説に対する怒りおよび公娼撤廃への決然たる姿勢が表れている。
以上のように、多くの娼妓が大震災の際に自由に逃げられず、土蔵に押し込められたことは、人身の拘束という人道上の問題から非難されたが、この事件を惹起した根本的な原因が公娼制度にあることを認識させた出来事であった.
。こうして焼失遊廓再建反対運動が展開されるにともない、娼妓の惨死事件のみならず、娼妓の奴隷のような実態が国内外に明らかになり公娼制度に対する批判が強まっていくのである。

3 全国公娼廃止期成同盟会の発足

矯風会主導の焼失遊廓再建反対運動が進められるなかで、前述のように東京婦人連合会の研究部を母体とする全国公娼廃止期成同盟会は結成される。そして廃娼運動は「汎女性運動.
」としての性格を帯びながら、全国的な高まりをみせていくのである。ここでは婦人公論社主催の「女流震災善後懇親会」と全国公娼廃止期成同盟会の檄文を取り上げて、その代表者たちが公娼に対していかなる意見をもっていたか明らかにしながら、全国公娼廃止期成同盟会の結成に至るまでの経緯を辿ってみたい。
1923年10月の初め、婦人公論社主催の「女流震災善後懇親会」が開かれ、震災救援活動や東京婦人連合会にかかわった10人の女性活動家たちが出席した.
。その顔ぶれは、嘉悦孝子・吉岡弥生・山田わか・山川菊栄・三宅やす子・平塚明子・奥むめお・井上秀子・河井道子・守屋東である。懇親会の目的は、帝都復興に際して家庭・社会生活の改革・改造をはかるとともに、女性の立場から女性ならではの意見を提出し、一種の世論を喚起することであった。そして最初に出された議題は公娼問題であった。以下、そこで出された意見をまとめてみると、次のようなものである。
第一は、公娼廃止と同時に、私娼容認の立場をとろうとするものである。なかでも平塚は、私娼の方は今のやうな社会制度では仕方」がないけれども「公娼の方は此際一層声を大きくして、東京市内だけでも廃止」すべきであると語り、山川も「どうせ公娼は廃止しても私娼は残るし、国家の制度として公娼を置くのは悪い。公娼だけでも廃止しなければならない」と強調した。
第二は、公娼反対の理由として、女性の商品化を問題として提議し、男性の女性観や道徳意識の改革を促そうとするものである。山田は、女性は金で買えるものではないという基準を樹立し、東京の再建設といえば、道徳の再建設を基礎とすべしと主張した。
第三は、公娼問題を生活・労働・経済問題として捉えて、女性の労働条件の改善や女性の職業教育の必要を論ずるものである。特に奥は、公娼制度だけではな
国立女性教育会館研究紀要vol.9.August.200599


く、女性も生活の単位となるように、職業教育を与え、いろいろな職業につけるようにするとともに、女性の保護・救済を一所懸命にすべきであると力説した。
懇談会の最後には、守屋が矯風会の焼失遊廓再建反対運動に関する状況を報告し、公娼制度の廃止を実現するため、大々的な世論を形成することが急務であると説き、参加者に積極的な協力・参与を訴えた。

その後間もなく、前述のように東京連合婦人会には研究部が組織されるが、そこには山川・平塚・山田・三宅・奥・守屋の姿が見えた。公娼廃止問題は研究部の主な議題であり、研究・調査からさらに実践的な行動への道を開くものであった。従来より矯風会が唱えてきた公娼廃止運動を「いっそう拡大した一つの示威運動」として起こそうとしたのである.

こうして11月1日には、東京連合婦人会の研究部の有志が中心となり、新たに全国公娼廃止期成同盟会が結成された。その目的は、東京の復興に際し、断じて遊廓の再建を許さず、これを機会として全国の公娼制度の撤廃を実現しようとするものであった。綱領は次の三つである。

一、焼失せる遊廓の再建を許さぬこと。
一、全国を通じ、今後貸座敷及び娼妓の開業を新たに許可せぬこと。
一、今後半ヶ年の猶予期間を附し、現在の貸座敷業者及び娼妓の営業を禁止すること.

50人の発起人には前述のメンバーのほか、久布白落実・羽仁もと子・嘉悦孝子・吉岡弥生・河井道子・荻野綾子・与謝野晶子・竹中繁子・坂本真琴・新妻伊都子・西川文子・金子茂子・山脇房子・桜井ちか子などの女性運動家たちが加わった.
。女性を会員、男性を会友とする全国公娼廃止期成同盟会は、大阪・京都・神戸・名古屋・岡山・広島など全国の大小都市に支部を置きながら、運動の全国的な展開をめざすことになる。そして、会計部・出版部・宣伝部を設け、基本金募集、会報およびパンフレットの出版、講演会の開催などに取り組むことにした。
興味深いことは、山川菊栄が全国公娼廃止期成同盟会の檄文、いわば宣言を起草したことである.
。その一部分は『婦人新報』第312号(1923年11月10日)の「参加せよ人道の戦に」と同誌第313号(1924


年1月1日)「多数同志の加名されんことを」として掲載されたが、全文は『婦女新聞』(1923年11月18日)に「国民に訴ふ――公娼の全廃に就て」と題して載せられた。山川は国家が無知な貧困家庭の娘たちの売買を公然と許容し保護するのは不正・不合理・非人道的なことであり、検梅が単に女性に対する絶対的な侮辱に止まらず、その効力は皆無であるとして、公娼制度の全廃を論じた。以下、山川がもっとも強調している部分を引いておこう。
・・・・
元より私共は公娼の全廃をもつてより複雑な、より広大な一般売淫問題の解決と同視するものではありません、私共は単なる公娼全廃に満足せず、進んで一般の婦人の地位改善によつて売笑婦の発生を防止するために、女子教育、婦人の職業的訓練の普及、失業救済、労働条件の改善、婦人及児童保護の社会的施設等の必要を認め、公娼全廃の運動と同時に其等の仕事にも、ある限りの力を尽す手筈をとゝのへて居ります。
すなわち、彼女は公娼制度の全廃だけによって売春問題が解決されるわけではないので、その根本的解決のために、教育の拡充・職業の普及・労働条件の改善などにも取り組んでいくべきであると主張しているのである。

全国公娼廃止期成同盟会のメンバーのなかには東京婦人連合会の職業部にもかかわっているものが多かったゆえに、公娼全廃運動が女性の生活・職業問題と結びついて進められていた.
。それによって、従来キリスト教の貞操観念に立脚していた公娼全廃論に、各方面で活動している女性層の新たな視点が加えられることになり、さらにその支持基盤も拡大されていったのである。


4. 廃娼デー」と対議会活動――高まる廃娼の熱気

盛り上がる公娼反対運動にいっそう拍車をかけたのは、廓清会会長の島田三郎の死去であった。それをきっかけにして、矯風会・全国公娼廃止期成同盟会・廓清会.
の3団体が「廃娼デー」を企画することになった。それは世論を喚起し公娼制度廃止を達成するとともに、過去13年間、公娼廃止運動に努力してきた島田の弔い合戦の意味をもつものであった.

11月24日に3団体は東洋大学講堂において、公娼反対演説会を開催した。これは大震災後の東京における初めての演説会であった。約600人の大学生で満ちた会場で、高島米峰(廓清会理事、仏教徒)が「仏教徒と公娼」、安部磯雄(廓清会副会長)が「公娼と私娼」、最後に山室軍平(救世軍大佐・廓清会理事)が公娼廃止論」と題した演説を行い、感激と拍手に包まれていたが、閉会直後、皇国一心会員」と名乗る印ばんてんの青年3、4人が「反対だ」と叫んで演壇に駆け上がるというハプニングもあった.



そして翌25日には、東洋大学をはじめとし、早稲田大学・東京女子大学・自由学園・戸板女子学校の学生数十人が参加して、3団体連合により「廃娼デー」と称する運動が行われた。来れ二十世紀の奴隷解放運動――授けよ国民的倫理運動」いう旗の下、東京駅など市内8カ所で、道行く人々に廃娼の宣伝ビラを配りながら、賛成の署名を集めたのである。当時一般の人々には見慣れていない街頭署名運動という新たな運動の手法を用いて公娼廃止への世論を喚起し、一般の人々も運動に参加させようとしたことは注目に値する。

その結果、1万人を超える署名を得るなど、好い成果を収めた.
。男子学生の積極的な参加もあって、署名は男性の方が多かったが、女性たちも好意的に応じていたと報じられている.
。しかし女性のなかには、廃娼運動に対する無関心や拒否反応も少し見られた。例えば、矯風会の川崎なつ子は、はじめは賛否いずれの意見もなかったある40代の女性が、ついに「公娼を廃止すると良家の子女が汚されるから反対です」と言い切ったこともあり、こうした一部の女性の反応が冷淡で、公娼存置を認めていることを知り、今後は男女の性道徳の養成を家庭や学校」から新たに行うべきであると、街頭署名運動での所感を語った.

廃娼デー」のような公娼廃止の宣伝・署名運動は、その後も東京だけではなく、大阪・浜松・横浜・徳島などでも繰り広げられていくことになる.
。しかし、廃娼デー」の取り組みが新聞に報道されたことによって世論が高まるにつれ、遊廓側の反撃も激しくなった。例えば、福岡では廃娼反対の全国同盟本部が作られるとともに、徳島では貸座敷芸娼妓営業組合による公娼存置の陳情書が提出された.
。かくして公娼制度の存廃をめぐるせめぎ合いも広がっていったのである。
こうしたなかで、1923年12月に第四十七回議会が召集されることになった。それに向け、矯風会・全国公娼廃止期成同盟会・廓清会の3団体は、集中的な対議会活動に取り掛かった。この国会は東京復興のための臨時国会であったため、焼失遊廓再興不許可に関する建議案のみを提出することにした。特に、矯風会は矯風会開闢以来、始めての試み.
」として臨時大会を開いて、必死に対議会活動を進めていった。以下、その取り組みをみてみよう。

東京赤坂の旧事務室で12月10日から14日まで、開かれた臨時大会には、50支部から76人の代議員が参加した。臨時大会を前後として、次のような3週間の計画が立てられていた。第一週は総理・内務省・警視庁・各政党本部・各新聞社の訪問、第二週は議会および議員訪問、第三週は市民の世論喚起のため、市の教会・学校・医師・実業家・労働者・新聞社・雑誌社・遊廓の訪問であった。第一週運動はすでに大会の前に、久布白落実・林歌子・城ノブ・小泉たね子(藤岡支部)により実行されていたため、大会期間中は第二週運動に尽力することにした。
11日は霊南坂教会で復興大講演会を催す一方、十時菊子(呉支部)・城・ガントレット恒子と林・久布白が貴族院や衆議院への建議案の提出者を捜し求めて、他の会員は全国の議員宛てに小冊子や手紙を送り、その賛否の回答を求めた。12日は貴族院・衆議院のほかに、3組に分かれて革新.楽部・政友会・憲政会、そして無所属などの議員を訪れた。その結果、革新.楽部・憲政会の2党から各20人余の賛成者を得るとともに、衆議院への提出者は政友会の松山常次郎とすることに決まった。ところが、貴族院では賛成者が見つからず、結局訪問を打ち切ることになり、その後は衆議院のみに働きかけを集中することにした。

13日は有隣園(淀橋)・九段下教会・霊南坂教会の3カ所において夜の演説会が開かれた。有隣園では伊藤秀吉・益富政助・久布白が、霊南坂教会では山室軍平・林・城が、九段下教会では高島米峰・内ヶ崎作三郎・小崎千代子が弁士になって演説を行ったが、いずれの会場も大雨にかかわらず満員であった。しかし、各会場とも反対派の聴衆が少なからずおり、演説を妨害しようとして乱闘まで起こし、警察当局が拘束し、連れ出すという事態も起こった.

以上のような矯風会の必死の取り組みによって、同月22日、衆議院に「焼失遊廓再興不許可に関する建議案」が松山常次郎(立憲政友会)・横山勝太郎(憲政会)・田川大吉郎(革新.楽部)の3人の提出者と全89議員の賛同者をもって提出されることとなった。廃娼運動の働きかけより、国会の本会議において公娼問題が論議されるに至ったのは、これが初めてのこと
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であった。建議案の説明に立った松山はまず、建議案提出は矯風会の努力の結晶であると語った上で、関東大震災の時の娼妓の焼死事件を取り上げて、次のように述べた。この事件が起こったのは、娼妓が平素の生活において自由を奪われており、身辺が危険な状態に置かれても、逃げる自由がないからである。公娼制度が存在する限り、この悲惨を永久に絶滅させることはできない。今や国際連盟においては、人身売買を禁止する条約が締結されており、日本は除外例を要求するのか、あるいは国内法を改正して公娼制度を撤廃するのか、二者択一を迫られる瀬戸際に立っている。日本国民は今や公娼制度の問題について、再考する時期に直面している。松山はこのように公娼制度の問題やその撤廃を強調した後、帝都復興に際して差し当たりのこととして焼失遊廓再建の不許可を主張した。

しかし、これに対して、憲政会の中野寅吉は「自由に此性欲の満足を得る所を開放することゝなつたならば世の中の風紀と云ふものが紊れるのである、良家の子女が第一に害される」と反対論を張った.
。結局、この案は委員会付託となり、翌23日の委員会は定員不足で決することなく終わった.

しかしながら、廃娼団体による未曾有の対国会活動は、社会の注目を集め、新聞・雑誌でも公娼問題が論じられはじめ、巷人の話」となるようになった.
。そして、関東大震災後の臨時国会であったため、焼失遊廓再建の禁止だけが建議されたが、それ以降の対議会活動では、公娼制度の撤廃が真正面から主張されていく。さらに矯風会は、対議会活動を通じて公娼制度を廃止するには、府県の当局者の決断を待たねばならないし、このためには府会・県会を動かす必要があり、改めて「一票を有せざるものの願ひが如何に無力なものか」を切実に知ることになり、婦人参政権運動に本格的に踏み込むことになったのである.


5. 廃娼の世論の形勢――朝鮮にも及ぶ反響
関東大震災後から約3カ月間急激に盛り上がった廃娼の気運は、新聞はもちろん雑誌に取り上げられ、大きく注目を浴びることとなった。『婦女世界』第9巻2号(1924年2月)の時事解説欄では鶴見祐輔の盛んな公娼廃止運動」と題する記事が載せられた。そこでは公娼廃止問題が初めて提唱された時は、往々にして世間が軽く、揶揄的態度で取扱ひ易い」ものであったが、年と共にその勢力を増大」しており、まさしく「米国の奴隷廃止運動の起り」と同じような動きであると強調した。また『婦女界』第29巻2号(1924年2月)は大阪市で開かれた廃娼問題の批判会を速記録として掲載し、医学、教育、言論などの各方面から出席した参加者11人の賛否の議論を生々しく伝えていた。
さらに、『婦人公論』第9巻1号・2号(1924年1月~同年2月)は紙上談論会欄に「公娼廃止問題」に対する読者からの意見を載せた。それらは「良家」の女性の保護のため貧しい女性を犠牲にし、人身売買を認める公娼制度=「悪制度」の廃止が急務であると主張する意見と、女性の生活や職業問題が解決されることが先決課題であり、そのためには経済構造の変改や資本主義の打倒が必要であるとして廃娼運動を批判する二つの意見に大別される。後者は当時の社会主義者たちによく見られる考え方であり、廃娼運動をブルジョア運動にすぎないと捉え、売春問題は無産階級解放のみが解決の鍵を握っていると断じていたともいえよう。

こうした国内の廃娼運動の広がりや公娼をめぐる世論の高まりは、植民地朝鮮にもその反響を巻き起こすことになる。日本の廃娼運動が朝鮮の日刊紙にも掲載され、世人の関心を集めることになったことである。また『東亜日報』は「仁川でも廃娼熱――矯風会支部活動」(1923年9月23日)において、関東大震災後の廃娼運動に歩を合わせて署名運動を開始した矯風会の仁川支部. の活動を掲げた。

同じく『毎日申報』も廃娼デーの写真入りの「廃娼運動の好成績」(1923年11月28日)や、禁酒廃娼の旗幟――日本婦人矯風会活動」(1923年12月6日)という記事を通じて矯風会の取り組みを詳細に伝えるとともに「公娼廃止運動」という社説を掲げて、支持を表明した。さらに同紙は「朝鮮でも廃娼運動――婦人矯風会の熱烈な烽火で」との見出しを掲げ、矯風会の仁川支部が廃娼運動に努めることを決議し、上記の公娼廃止期成同盟会の綱領と同様の三つの案を警察当局に提出することになったと報じた.

。これらのことは、禁酒運動や慈善事業に専念していた矯風会の朝鮮部会の状況のなかにあっては、特筆に値する行動であったといえる。

そして、日本における廃娼の熱気が高まるにつれて、1923年の後半期から平壌や慶尚南道などにおいて、キリスト教団体を中心に芽生えていた朝鮮の廃娼運動が、いっそう加速化されていった.
。同年12月11日、ソウルの京城日本人キリスト教青年会で各教会代表者が集まって、公娼廃止について話し合った。そこでは、朝鮮人・日本人・外国人宣教師は別々の組織を結成するが、お互いに連絡をとりながら、連合運動をも展開することが決められ、呉競善・丹羽清次郎(京城日本人キリスト教青年会総務)・ハプコク(セブランス医学専門学校教授)がそれぞれの代表者として選ばれた.
。丹羽は、朝鮮における公娼制度は日韓併合以後(1916年)に作られたから、その廃止が比較的に容易であるとみて、日本人キリスト教会は少なくとも朝鮮にある日本人キリスト団体を糾合して進んでほしいという意欲を示した.
。その実行の一歩として、日本人キリスト教青年会は朝鮮人の公娼廃止期成同盟と外国人宗教師連盟とともに、公娼廃止のための署名運動を展開し、数万人の署名と陳情書を総督府へ提出する.


ハプコクは関東大震災後の高まる日本の廃娼運動から判断して、ソウル市民も公娼問題を研究する時期であると断言し、1924年4月から7月まで9回にわたって『基督申報』で公娼廃止論を連載した.
。それに先立って山室軍平(救世軍大佐・廓清会理事)が1924年2月26日にソウルの公会堂において「公娼廃止とその善後策」について演説を行ったが、これによってはじめて朝鮮に廃娼論が紹介されることとなる.
。山室は、朝鮮に遊廓が設置されて8年しか経っていないので、それが根付く前に、健全な世論を起こせば、朝鮮では公娼の影をなくすことができるかもしれないと述べた後、道徳・人道・風紀・衛生の面から公娼廃止の理由とその善後策について語った。キリスト教の関係者や廃娼運動家をはじめ、各界各層から訪れた千人の聴衆のなかには、遊廓業者や料理業者が多数含まれており、朝鮮で公娼制度の問題が大きい関心事になっていたことがうかがえる.
。その演説の内容は『神学世界』の1924年8・9月号に掲載された。また、同誌の1925年6・8月号には、廓清会会長安部磯雄の「廃娼運動に就いて」が載せられるなど、徐々に日本の廃娼論が朝鮮に波及していった。
以上のように、関東大震災後、急激に盛り上がった廃娼運動の気運は、新聞や雑誌に取り上げられ、公娼をめぐる議論や世論を加速化させるとともに、日本国内のみならず、朝鮮のメディアに大きく取り上げられ、さらに芽生えつつあった朝鮮の廃娼運動の組織化や活性化を促したのである。特に日本のキリスト教者をはじめとする廃娼運動家たちが、日本の植民地政策によって朝鮮に導入された公娼制度は日本より容易に廃止することができると考え、そのために少なくとも協力・連合しようとしたことに注目したい。
おわりに
これまでの考察から、1923年の関東大震災救援活動を通じて、東京の有力な女性団体が大同団結を成し遂げたことにより、焼失した遊廓の再建を反対する廃娼運動もいっそう盛り上がりをみせ、政治運動へと発展していったこと、そして、その反響は日本国内に止まらず、さらに朝鮮にも及んだことを明らかにした。

大震災という国難をともに乗り越えようとする社会的な雰囲気が、東京における女性団体の結成を容易にし、さらに震災時における娼妓の大惨事に関するニュースによって、公娼制度の人身拘束(奴隷制)的な側面が端的に表出されたことにより、娼妓に対する同情が寄せられ、東京復興を機として、遊廓の再建を禁止して新たな東京を建設しようとする動きが高まり、それが廃娼運動の盛り上がりを促したのである。関東大震災直後の廃娼運動は、従来のように矯風会が中心になっていたが、ただそれまで局外者」であった諸団体や「一層ひろい範囲の男女」が、公娼問題を一つの社会問題として理解しはじめ.
、その廃娼運動の熱気が朝鮮にも波及し、朝鮮の廃娼運動の前進に多かれ少なかれ刺戟や影響を与えたことは、画期的なことであったといえよう。
矯風会は関東大震災後の対議会活動の経験から、法律改正運動でもある廃娼運動において、参政権のない女性の無力さとともに、廃娼運動が政治運動へと前進する際、男性側の協力がどれくらい必要であるかということを実感することになり、本格的に廓清会との連合を図る。そこで対議会活動は廓清会のリーダーたちによって率いられることになる。さらに1926年から34年まで、廓清会との連合組織である廃娼連盟においては、矯風会は兵站部、廓清会は運動と総指揮.
」と男女が役割を分担し、矯風会は資金づくりに専念し、連盟運動を支えていくことになるが、廃娼連盟における矯風会の位置づけについては別稿にゆだねることにする。
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注>
1) 1922年3月には、5千の会員と100支部、そして11部会をもつ大きな規模の女性団体に成長していた。久布白落実「デモクラシーの運用」『婦人新報』第294号(1922年3月10日)。
2) その代表的な研究をあげると、鈴木裕子『フェミニズムと朝鮮』(明石書店、1994年)、藤目ゆき『性の歴史学』不二出版、1997年、藤野豊『性の国家管理』(不二出版、2001年)、早川紀代「帝国意識の生成と展開――日本キリスト教婦人矯風会の場合」『女性とキリスト者と戦争』(行路社、2002年)などがある。
3)本研究は、小野沢あかねの廃娼運動に関する研究、つまり「大正デモクラシー期の廃娼運動の論理」(『歴史学研究』第668号、1995年2月)、国際連盟における婦人及び児童売買禁止問題と日本の売春問題――1920年代を中心として――」『総合研究』第3号(1995年12月)、1930年代の廃娼運動――公娼廃止から性教育へ」(『史学雑誌』第106編第7号、1997年7月)、「公娼制度廃止問題の歴史的位置――戦間期日本における勤倹貯蓄と女たち――」『歴史学研究』第764号(2002年7月)、などに多く学んでいる。なかでも「1930年代の廃娼運動――公娼廃止から性教育へ」では、従来の研究における分析の対象が「廓清会幹部や日本キリスト教婦人矯風会本部の中心人物の言動に限定されがちある」と指摘し、1920年から30年代の著しい特徴が運動の地域的な広がりであったことをあげて、地域における廃娼団体(支部)の動向を分析することの重要性を主張している。
4) ほかに、『東京朝日新聞』『国民新聞』『婦女新聞』『万朝報』『読売新聞』『秋田魅新聞』『中央新聞』『廓清』『女子青年会』『婦女界』『婦選』『婦人と労働』『主婦の友』
『ときのこえ』『東亜日報』『神学世界』をも扱うことにする。5)宮川静枝「我等は何をしたか」『婦人新報』第311号
(1923年10月10日)。
6) . 愛国婦人会の活動」『東京朝日新聞』1923年9月11日。
7) . 震火災救護事業」『女子青年会』第20巻10月号(1923年10月25日)。
8) 梅山一郎「目覚しい婦人救済団の活動から東京婦人連合会の黎明まで」『婦女界』第28巻5号(1923年11月)。
9) 同上。
10)婦人会」『読売新聞』(1923年10月3日)。
11)宮川静枝「我等は何をしたか」『婦人新報』第311号(1923年10月10日)。

12)婦人団体が復興に就て活動――本日
々ビ博士夫人を招じ本日第二回の総会」『東京朝日新聞』(1923年10月6日)。
13)村上信彦『日本の婦人問題』岩波書店、1978年、68ページ。
14)武田晴人『日本の歴史19帝国主義と民本主義』集英社、1992年、182~183ページ。
15)四十二団体を集めて東京連合婦人会成る――政府から五十万金を得て盛大に発会六部に分かれて直ぐ活動開始」『万朝報』(1923年10月28日)。
16)帝都の復興を目的として結束した東京の婦人会」『万朝報』(1923年10月27日)。
17)山川菊栄「婦人運動小史」歴史科学協議会編『歴史科学体系第十六巻女性史』校倉書房、1998年、121ページ。
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18)山高しげり『わが幸はわが手で』教文堂、1982年、141~142ページ。市川房枝は『婦選』第2巻第1号(1928年1月)の「東京連合婦人会について」において、各加盟団体の代表委員がいずれも「錚々たる人達」であるため、その母体である団体よりもかえってその個人の印象が強く与えられ、東京における婦人団体が連合していっても、有機的に連合されていないと、手厳しく批評していた。
19)大震災を機として花々しく打つて出た東京連合婦人会の代表人物」『婦人世界』第9巻1号(1924年1月)。
20)田島ひで『ひとすじの道』青木書店、1968年、106ページ。
21)大震災を機として花々しく打つて出た東京連合婦人会の代表人物」(前出)。
22)花柳街は裏通りにしてくれ遊廓は設けぬこと基督教救護団の陳情」『東京朝日新聞』(1923年9月13日)。
23)政府も恥ぢよ公娼制度廃止の叫に――共鳴したビ博士夫人婦人団体が更に奮起す」『東京朝日新聞』(1923年10月23日)。
24)宮川静枝「我等は公娼制度を排す」『婦人新報』第311号(1923年10月10日)。
25)各地通信」『婦人新報』第312号(1923年11月10日)。
26)各地通信」『婦人新報』第313号(1924年1月1日)。
27)全国婦人に波打つ公娼廃止の声――関西婦人は布団集め」『国民新聞』(1923年11月13日)。
28)各地通信」『婦人新報』第313号(1924年1月1日)。
29)大追悼式」『国民新聞』(1923年10月1日)。
30)惨死した千余名の吉原娼妓の追悼式に参列の記」『主婦の友』(1923年11月)。
31)女性向上の一面――憐むべき境遇の芸娼妓問題」『秋田魅新聞』(1923年9月11日)。
32)我等は公娼制度を排す」(前出)。
33)女流震災善後懇親会」『婦人公論』11・12月合併号(1923年11月1日)。
34)大震災を機として花々しく打つて出た東京連合婦人会の代表人物」(前出)。
35)国民に訴ふ――公娼の全廃に就て」『婦女新聞』(1923年11月18日)。
36)大震災を機として花々しく打つて出た東京連合婦人会の代表人物」(前出)、廃娼期成同盟会の三綱領」『婦女新聞』1923年12月9日。
37)山川菊栄『おんな二代の記』平凡社、1972年、266ページ。
38)婦人界の三潮流」『国民新聞』(1923年11月8日)。
39)廃娼運動における矯風会のパートナーである廓清会は、吉原遊廓廃止運動直後の1911年7月8日に結成された。その目的は公娼制度を廃止して男女間に貞操を進め、社会風教を改善し、家庭の和楽・人生の幸福を増進することである。廓清会には矯風会の幹部をはじめ、当時著名なクリスチャンの学者・言論人・政治家・弁護士などが参加していた。廓清会会則」『廓清』第1巻第1号(1911年7月)。
40)高島米峰「公娼廃止デーに参加を望む」『婦女新聞』(1923年11月25日)。
41)感激に包まれた山室氏の熱弁――廃娼運動の第一烽火きのふ東洋大学で演説会」『東京朝日新聞』(1923年11月25日)。42)東京の廃娼デー」『婦女新聞』(1923年12月2日)。


43)署名用紙とペンを突付けて――けふ市内八箇所に公娼廃止の大宣伝」『東京朝日新聞』(1923年11月26日)、おいらは嫌だと逃げ廻る労働者――でも婦人は大喜びで署名廃娼デー蓋開き」『中央新聞』(1923年11月26日)。
44)失望した同性廃娼デーに於ける各婦人の感想が同じ」『国民新聞』(1923年11月27日)。45)岩瀬寿子「活気づきし徳島の遊廓運動」『婦人新報』第316号(1924年4月1日)。46)廃娼運動の反響」『婦人新報』第316号(1924年4月1日)。
47)久布白落実『婦人参政権叢書(1)公娼廃止より婦人参政権まで』日本参政権協会、(1924年、56ページ)。
48)基督教婦人矯風会臨時大会報告」『婦人新報』第314号(1924年2月10日)。
49)焼失遊廓再興不許可に関する建議案の衆議院議事速記録」『婦人新報』第314号(1924年2月10日)。
50)基督教婦人矯風会臨時大会報告」『婦人新報』第314号(1924年2月10日)。
51)廃娼運動の反響」『婦人新報』第316号(1924年4月1日)。
52)久布白落実「公娼廃止は廓清の第一歩」『婦人新報』第314号(1924年2月10日)。
53)矯風会は、1917年から地方巡回演説会を大々的に計画し、全国各地で廃娼・貞操・矯風の必要性を訴え、世論を喚起する一方で、支部新設・再興や会員の増加にも力を入れていた。さらにその勢力を日本国内のみならず、アメリカ・台湾・朝鮮・中国に至るまで広げ、1921年には朝鮮の平壌・京城・仁川・大邱・釜山に支部を組織した(後に朝鮮部会となる)。
54)朝鮮でも廃娼運動――婦人矯風会の熱烈な烽火で」『毎日申報』1923年12月12日。
55)基督青年会が中心で平壌の矯風運動」『基督申報』1923年7月25日、宣教会老会青年会の連合で防娼運動の三角同盟」『基督申報』1923年8月2日。
56)具体化されていく京城の矯風運動」『基督申報』1923年12月26日。
57)公娼廃止の声朝鮮にも飛火――内地よりは比較的実行がやさしい見込み」『中央新聞』1923年12月13日。
58)公娼廃止運動――総督府当局も了解をする様子」『東亜日報』1924年5月31日。
59)公娼廃止(1)」『基督申報』1924年4月16日。
60)柳海井「日帝時期において公娼廃止運動に関する研究」高麗大学大学院修士論文、2001年。
61)山室軍平氏の公娼廃止演説」『基督申報』1924年3月5日、山室軍平「満州朝鮮行」『ときのこえ』1924年3月15日。
62)山川菊栄『日本婦人運動小史』大和書房、1979年、140ページ。
63)久布白落実『廃娼ひとすじ』中央公論社、1982年、210ページ。
(ヤン・ソンヨン東京外国語大学大学院博士課程)
国立女性教育会館研究紀要vol.9.August.2005105

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