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Tuesday, August 14, 2012

The panel exhibition of BC class Koreans for japanese war criminals

http://www.ne.jp/asahi/nadja/bc/frameNEWe.html#anchor518951

Very sorry! Our translator is busy...
日本の戦争責任を肩代わりさせられた
  韓国・朝鮮人BC級戦犯者パネル展 みんなきてね!

日 時:12月12日(土)~13日(日)
場 所:ギャラリー・エル・ソル
    東京都田無市南町5-3-5 p

主 催:韓国・朝鮮人BC級戦犯者を考える田無の会
連絡先:0424-64-3795(朴)

原告・文済行(むんじぇへん)さん逝く。

11月13日。突然の訃報でした。支える会メンバー一同言葉を失っています。
長身にステッキをたずさえ、どこか飄々とした雰囲気を漂わせたジェントルマン。そんな文済行さんの風貌から、苦難に満ちたこれまでの歩みを感じとるのは困難なほど。自らの体験を語る言葉も少なめで、決して声を荒げたり怒りをあらわにすることのない人でした。しかし、今あらためて振り返ってみると、文さんは、その静けさの奥に秘めていた苛烈な生き様を、私たちの胸に一層強く刻みつけてゆかれたように思われてなりません。
戦犯に問われた朝鮮人青年のなかでは比較的刑期が短く、そのためスガモ・プリズンからの出所も早かった文さんは、それゆえに戦後日本の最も生きづらい時期を生き抜かねばなりませんでした。家族の温かい歓迎を受けて出所する日本人戦犯とは異なり、朝鮮人戦犯にとって、戦後日本はまったくの異国の地。家族や友人、住まい、仕事、…明日からの生活を保証してくれる何ものもない、獄中以上に厳しい現実が待っていたのです。同時期に出所した二人の仲間は、生活苦と厭世観にさいなまれた挙げ句に自殺。文さんも飢餓線上をさまよい、仕事を求めて各地を転々とする生活が続きました。そんな中、文さんは、仲間が出所するたびに、片道数時間はかかる道のりを徒歩で出迎えに行ったといいます。自分が出所したときは、誰もいなくて心細くつらかったから、と。
ジャワの戦犯刑務所で文さんと同房だった李永吉(いよんぎる)さんは、戦犯に問われた衝撃から精神分裂病を発症、スガモ・プリズン出所後半世紀近くを精神病院の閉鎖病棟で過ごし、91年に亡くなりました。文さんは李さんの見舞いにも足繁く通い、同進会の仲間たちとお金を出し合って、彼に背広をあつらえたりしました。「永吉さんのお葬式のとき、お棺の中に背広を入れてあげたんです。あの人は本当にかわいそうでしたよ」。自分のことを語る時には決して見せない涙をためて、そう呟いた文さんの切ない表情は、今も鮮やかに脳裏に甦ります。
昨年(97年)4月に原告最高齢の朴允商(ぱくゆんさん)さんが、8月には李善根(いそんぐん)さんが亡くなり、さらに今年2月には原告団長の文泰福(むんてぼく)さんが相次いでこの世を去っています。文済行さんの死によって、裁判提訴当時六人いた当事者原告(七人の原告中、一人は遺族)はいまや三人だけになってしまいました。
今年7月に出された高裁判決は「この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じる」必要性を認めました。それから数カ月過ぎた今もなお、日本政府はこれに応える動きを何一つ見せていません。
政府・国会は、被害者の死を待っているのでしょうか?
責任を放置したまま「時効」が訪れるのを願っているのでしょうか?
文済行さんの死は、今またひとつ日本政府に罪状を加えました――ひとりの人間の尊厳を踏みつけにし、何一つ償わぬままに、彼に死を迎えさせた、ということにおいて。そして、そのようなやり方を日本政府に許してきた私たち自身の責任もまた、重く、深く、問われなければならないと感じます。

判決についてのご意見やご感想、
また、この問題へのお考えなどを下記までお寄せ下さい。






http://www.ne.jp/asahi/nadja/bc/frameBB20j.html

Bintang Besar vol.20
現場を歩く
スマラン カラン・パナス軍抑留所
―オランダの民間人を抑留―
内海愛子(支える会メンバー)

原告の文済行(ムン ジェヘン)さんは、何かわりきれない思いをもっているのではないのか、逢うたびにこう感じてきた。ほかの原告が、俘虜収容所に勤務した人たちであるため、いきおい話は俘虜の処遇や日本の俘虜政策に集まりがちである。わたしも、いくども文済行さんの話をうかがいながら、軍抑留所の問題にそれほど関心をはらってこなかった。文さんの話をよく理解していなかったのである。
オランダの記録を見直しているとき、ある事に気がついた。バタビア裁判で裁かれた戦争犯罪の中心は、軍抑留所関係ではなかったかということである。バタビア臨時軍事法廷に起訴された118件362人の「付託議定書」をみると、軍抑留所関係者が47件56人にのぼっている。もちろんその一人が文済行さんである。憲兵隊や特警隊の被告は多いが、起訴件数では軍抑留所関係の起訴が全起訴件数の40%を占めている。しかも、裁判が始まった1947年に裁かれた13人は、バタビアの慰安所経営者をのぞき12人全員が軍抑留所に勤務していた人たちである。この中には、二番目に死刑となった朴成根(パク ソングン)がいる。翌年にも27件36人が裁かれている。軍抑留所関係者の裁判は、俘虜収容所や憲兵隊関係者よりはやく始まった。それだけに刑が重かったことも事実である。
文済行さんは、そんなことを理解してもらえないことにいらだっていたのではないだろうか。しかも、俘虜収容所の監視員として集められた文さんが、なぜ女子や子どもが収容される軍抑留所にまわされたのか。防諜の意味から、敵国民間人を軍司令官のもとに編成された軍抑留所に収容することにしたのは、1943年11月である。しかし、これを管理する人員が不足していた。このため、俘虜収容所職員を軍抑留所の職員として「兼職」させるよう通牒が出されたのである。「勤務隊」の名で文さんが軍抑留所に移ることになったのはこのためである。
戦犯が多く出たからには、何らかの虐待があったのではないかと誰もが考えるだろう。さっそく、文さんが勤務したインドネシアのジャワ島中部のスマランにカラン・パナス軍抑留所を訪ねた。1994年の夏である。これまでなんどもスマランに来ていても、軍抑留所の跡を訪ね歩いたことがなかったのは、民間人抑留問題の重要性を理解できていなかったからといってよい。
カラン・パナス軍抑留所は、カトリックの中・高等学校として残っている。深い緑につつまれた学校に元気な声が響く。道路にまであふれた生徒たちは、屋台で買い食いしたり、ノートを胸にかかえながらおしゃべりに余念がない。どこにでも見られる放課後の学校の光景がそこにあった。ジャカルタほど暑くもない。なぜ、こんなところで戦犯が出たのか、理解に苦しんだ。警備のおじさんは、こちらの訪問意図を聞くとこころよく学校の中を案内してくれた。途中からは教頭も出てきて、詳しく説明してくれる。慣れた対応だ。ここに抑留されていたオランダ人が、よく来るという。それに文さん父子も数年前にここを訪ねている。
教室、校庭、体育館と見てまわり、50年前にここでどんな暮らしがあったのか、いろいろ思いを巡らしてみたが、どうしても戦争犯罪と結びつかない。しかも、関係者全員が戦犯容疑者として拘留されるような重大な戦争犯罪を考えられない。もちろん規律違反者を殴ったことはあっただろうし、食糧も不足していた。敵産として財産は凍結されていたので、銀行からお金をおろすことも出来ない。食糧を買う金もなかった。自由がなく、強制労働を課せられたこともあっただろう。
死刑になった朴成根のあだ名は、「オラン・プクール」(よく殴る奴)だったということを教えてくれたのは、オランダのマヒュゥ氏である。かれは少年キャンプにいた。日本軍の軍抑留所で何があったのかを知りたくて、かれらの手記を読んだ。また、『ジャワで抑留されたオランダ人女性の記録』も翻訳してみた(この本は、梨の木舎から出ています)。どの手記にも、蘭領インド時代のオランダ人植民者たちの幸せな暮らしと抑留所での「地獄」のような苦しい生活が書かれている。その生活のあまりにも大きな落差に対応できなかった人も多かったようだ。また、捕虜を厄介視する日本軍の考え方は、「まったく役だたずの女、子ども、老人」に対しては、さらに露骨に示されたようだ。主計将校がかけあってもなかなか食糧の調達ができなかったのである。抑留所では野菜の自給のために畑をつくり、それぞれ食糧の調達に工夫をこらしている。文さんの起訴された理由の一つに、人糞の上を裸足で歩かせたという件があるが、これも野菜の自給ということがその背景にあった。もちろん文さんはこの事実を強く否定している。
インドネシアではふつう人糞を肥料に使うことはない。村でも肥溜を見たことがない。熱帯では人糞は肥料に適さないのか、専門家である支える会の小塩海平さんに聞きたいと思っている。また、軍抑留所になった学校や教会には、当時から浄化槽が備え付けられていた。多くの人員が収容されたため、この浄化槽がすぐに溢れて苦労した話も手記に出てくる。ともかく、抑留所での野菜づくりに本当に人糞が使われたのかどうかから調べる必要があるだろう。
深い緑に包まれた平和な学校のたたずまいから、50年前の抑留者のうめきを聞き取ることは難しかった。しかし、カラン・パナスという地名は「暑いサンゴ礁」の意味である(文さんはガラン・パナスと言う。これだと「暑い塩」という意味になる)。ここの生活条件は、かつてはかなり厳しかったのかもしれない。文さんも「ほんとうに緑が多くなった。昔と全然違う」と繰り返し話していた。文さんと知り合って20年近く、ようやく、わたしに敵国民間人の抑留の問題がみえはじめた。文済行さんが「わかってないなー」といらだつ気持ちも少し理解できたように思う。
文済行さん! これから支える会の人たちにも、軍抑留所の問題を知らせていこうと思います。文さんのいらだちが少しでもなくなるように。

Bintang Besar vol.20
メンバーズエッセイ 暑い夏
安田美香(支える会メンバー)

7月生まれのせいかずっと暑い夏が好きでした。しかし3年前の夏に内海(愛子)さんに誘われていったビデオ上映会。「趙文相の遺書」で私の夏は少し変わってしまいました。
思えば目をつぶっていただけだったのです。夜のソウルの町でいきなり「イルボンマルバカヤロー」と殴りかかられたり、マラッカの華人の友人の家で「ここにも日本軍が来た」といったきり一言も口をきいてくれなかったおばあさんなど。アジアの旅行先でチクチクと日本人であることを自覚させられていたのですから。
そして阿部宏さんの話。「この問題がきちんと解決しなければ日本人として恥ずかしい。日本人を辞めたい。」帰り道、頭の中をぐるぐる回る阿部さんの言葉。日本政府と国際関係のパラドックスに捕まってしまったようなこの方々は、今どうしていらっしゃるのだろう。初めて知った「韓国・朝鮮人BC級戦犯者」の方々の存在。日本に留学している韓国人学生の方に聞いても「知らない。わからない」といわれるこの問題。
ちょうど長女がお腹の中にいて時間だけはたっぷり出来そうな頃だったので、少しは手伝えるかなと入会してみました。(この思惑は、見事に外れでしたが)初めに驚いたのは、原告の方々のそのお顔。とても生死の境を超え辛苦を超えて生きてきたとは想像もつかない柔和なそのお顔。そして皆さんのお話や家族の方たちのお話を伺っていると、人生の大先輩。(決して年齢のことではありません。)内海さんの言葉を借りていえば、「一つでも前進できることがあればそれに望みをかけていこうとする。」その姿に、私にとっては「支える会ではなくて、支えられる会だな」と思うのでした。
そしてずるずると3年間。裁判の傍聴の頭数を増やすことぐらいしか出来ることもないまま、韓国も含め2回のBC級戦犯展の成功を自分がやったようにうれしく思いながら判決の日を待ち望んでいました。それが延期。3年ですら長く感じていたのに。5月20日の(判決延期)報告集会では、並んだ原告の方々の表情にいつもとは違う厳しさと疲労感を見たように思います。ほぼ私の人生と同じ位の月日を運動に費やしている方々の胸の内は計り知れませんが。
理不尽なことをし続け未だ真実を隠そうとする政府、暴言を吐き続ける政治家と、私に日本人であることを恥じ入らせるような行為が多いこの国。しかしこの判決が延びたことで逆に私は、司法の正義と独立を少しは信じられるのではないかと思っています。ガバン・マコーマックさんの「この裁判を通じて、日本が法治国家であるのかどうか、国際社会の中で問われている…」という言葉に責任を感じます。それにしても心配なのは、原告や周りの方々の健康です。今は、3カ月あまり延びたその分、より有意義な判決が出ることを願っています。そして国側の心からの謝罪を待っています。
今年はいつになく暑い夏になりそうです。特に残暑が厳しそう。娘のアトピーがひどくならなければいいけれど。

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