http://1st.geocities.jp/korea_ianfu/ianfu/doitu/iansisutemu/iansisutemu.htm
ドイツ軍の慰安システム
ドイツ政府は「人道に対する犯罪には時効はない」と宣言し、犯罪者の追及と処罰、被害者に対する補償を進めてきた。
ドイツの国家賠償については下記のスレッドを参照
日本側http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=75355
韓国側http://enjoyhjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=75355
「人道に対する犯罪」とは、6百万人のユダヤ人殺害、二百万のポーランド知識人、それを上まわるロシア(旧ソ連)人の殺害、五十万のジプシー(ロマ)の集団殺害、大量の人体実験、不妊断種手術、障害者や病人の安楽死政策……といった一連のナチ犯罪を指す。しかし西尾幹二が指摘するように、「旧ドイツ軍による巨大規模の管理売春までは含まれていない」のである。今のところ責任者の追及も、補償の声も出ていない。
クリスタ・パウルは「日本と韓国の騒ぎが引き金になって、やっと問題が提起された」と書いているが、最近までドイツのジャーナリストたちは、日本人の加害意識と戦後補償がドイツに比べて著しくおくれていると非難する傾向にあった。
パウルが持ち出した慰安婦問題でも「旧日本軍の参謀本部がいわば売春宿のヒモとなって組織していた犯罪に…大抵は朝鮮_人の未婚の女性が……嘘っぱちの約束に釣られ(天皇のために女工や看護婦となって働きなさい、などといわれて)、身代金で買われるか、あるいは拐かされるかして、辱しめられ、監禁され、強姦凌辱の限りをつくされた…結局は関係省庁の文書庫のなかに多量の証拠書類が見つかった」(『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の一九九五年七月二十八日付)といったような新聞記事が続出した。
また来日して戦後補償や慰安婦関係の集会に参加したドイツ人運動家もドイツの実態を知らない者が多く「ドイツの謝罪や補償を見習え」式のアピールを説いた人が少なくないが、モニカ・ビンゲン女史の様に日本でドイツ軍の慰安婦の実態を教えられ、「帰って補償問題に取り組む」決意を表明(九二年九月七日付朝日新聞)した者の例もある。
彼女が知った慰安婦文献とは、ドイツ連邦軍大学教授の職にあるザイラーが書いた戦時衛生をテーマとする地味な学術書『売春・同性愛、自己毀損―ドイツ衛生指導の諸問題一九三九-四五』という題名の本を指す。
次にその要点を紹介する。
目標
性病対策、秘密洩れの防止、レイプによる混_血の防止など。
戦時の売春統制
一九三九年九月九日ドイツ内相は、国防軍軍人の健康を守るため、街娼を禁じ、売春宿はすべて警察の管理下におき、衛生上の監督を受けるよう指令を発した。
四〇年七月、ブラウヒッナュ陸軍総司令官は、フランス、オランダなど西方占領地のドイツ占領軍に対し性病予防のためドイツ軍人の利用に適切な売春宿を指定し、それ以外の利用を禁じる命令を出したが、ポーランド、独ソ開戦後のソ連などの東方占領地にも同様の措置がとられた。海軍も軍港に軍管理の慰安所を置いた。
国防軍慰安所の設置ドイツ本国では、特に軍専用の慰安所は設置されなかった。国防軍慰安所と親衛隊(SS)用の慰安所は占領地に開設され、地区司令官の監督下で、前線の中隊長が軍医と協力して運営に当った。
入場料は二-三マルク、高級慰安所は五マルクで、兵士が民間の売春宿に流れぬよう安価に抑えられた。全占領地における慰安所は五〇〇か所以上(一九四二年)。
写真は米軍
検診
第一次大戦で二百万人の性病兵士を出す苦い経験を持つドイツは、性病予防を重視した。慰安婦は軍医と現地人の医師により週二回の検診を受け、性病にかかると直ちに入院させられた。効果は満足すべきものがあったと四三年一月二十七日付の国防軍総司令部報告は自讃している。
慰安婦の徴集
西方占領地では従来あった売春宿を軍の管理下におくだけで足りたが、東方占領地とくにソ連ではスターリンが売春を禁じていたので新設せざるをえず、慰安婦はしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は、代りに慰安所で働かされた。ユダヤ人女性も同様であった。
人種問題
人種法で「劣等人種」との性的交流は禁じられていたが、あまり守られなかった。たとえば三九年十月、ワルシャワのホテルの手入れで四〇のドイツ将校の部屋から三四人のユダヤ人女性が発見された。ザイトラーが収録しているドイツ軍慰安所の利用規則をみると
(1)強制登録制
(2)経営者と慰安婦の取り分は折半
(3)利用料金の統制
(4)コンドームの使用と事後消毒
(5)アルコールの持ち込み禁止
(6)暴力の禁止
(7)憲兵による監視
(8)慰安婦の外出制限
上記を見ると日本の例に酷似している。ただし、ドイツ軍のように性病の治療を怠った女性を処罰する規定は日本軍にはなく、むしろ性病にかかった兵士の方が降等処分などを受けた。
強いて差異をあげれば、ドイツ軍の場合は最高レベルでの命令で律し、運用や規則が徹底した効率主義で貫かれていたのに対し、日本軍は出先部隊のかなり低いレベル、それも輸送関係を除くと業者との非公式な談合に委ね、運用もかなりルーズだったらしい点である。したがって将来ドイツで補償問題が起きた場合には、日本と異なり国家補償だけしか考えられないのではないだろうか。
なおドイツには、他に類例を見ない特異な性システムが存在した。
ドイツ本国に強制連行した外国人労働者向けの慰安所は、日本でも類似の施設がないわけでもなかった(朝鮮_人徴用者、中国人連行者やマライの現地人兵補向けの慰安所など)が、悪名高い強制収容所内にこの種の女囚を利用した男囚向け施設が作られたことが明るみに出たのは、ごく最近のことである
クリスタ・パウルの研究によると、ヒムラーの指示で一九四二年頃からアウシュビッツを含む9箇所強制収容所内に設置されたという。目的は同性愛の排除とか、囚人の団結阻止とも言われれるが、労働成績を向上させる刺激策でもあったという。
この「恩典」に浴したのは、カポと呼ばれた囚人の職制が多かったが、政治犯も含まれていたようである。
ドイツ兵は慰安所システムが整備されていたからといって、征服地における強姦が少なかったわけではなく、ロシア、東欧、フランスなどで、多数の事例が報告されている。
なお、ドイツ・イタリア軍が共同で運営していたシシリー島の慰安所は、米英軍に占領された後,そのまま,米軍の慰安所として使用されたという。
参考文献
西尾幹二『歴史を裁く愚かさ』
クリスタ・パウル 『ナチズムと強制売春』
秦郁彦各著作
フランツ・ザイトラーの『売春・同性愛、自己毀損―ドイツ衛生指導の諸問題一九三九-四
http://www.tamanegiya.com/doitutoiannfu18.6.14.html
軍隊と性 ドイツ軍における「慰安婦」
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成18年5月24日水曜日晴れのち雷雨 △
西尾幹二氏が<「慰安婦問題」ドイツの傲岸 日本の脳天気>と題した文を一九九七年一月号の「諸君」に、<「慰安婦問題」朝日論説の詐術を嗤う>と題した文を同じく「諸君」一九九七年四月号に掲載しています。
その内容はフランツ・ザイドラー「売春・同性愛・自己毀損---ドイツ衛生指導の諸問題一九三九 --- 一九四五年」(一九七七刊)を主に元にしているものです。
それによると、
第一次大戦で二〇〇万人の兵士が性病に罹ったドイツは、第二次大戦ではこの経験を生かし、兵士の性をどう誘導し、指導するかという狙いに向けられていた。兵士達の禁欲など最初から不可能とみて、性欲の野放しによる非占領地の住民の婦人たちへの被害、そのための軍の威信に傷がつくなどというものに対しての配慮などは議論の対象にもならなかった。そのためには、町の自由な売春制度の危険をできるだけ少くし、占領地域のあらゆる駐屯地に、国防軍所属の売春宿(Bordell)を開設し、完全管理することとし、一九四二年、ドイツ国防軍は約五〇〇の売春宿を運営していた。これら売春宿の設立、監督、経営維持は、占領各地区の軍司令部の管轄事項であった。決定的に重要視されていたのは売春婦たちの定期検診であり、病気になった娘はすぐに選別され、排除された。取り締まりに当ったのは駐屯地の軍医である。彼らから委託されて、占領地域の医師が各女性を週二度検診したが、ドイツ軍から特別認定され、証明書を交付された医師に隈られていた。外国人医師は宣誓書にサインし、怠慢や違反行為があれば処罰された。
国防軍管理下の売春宿の経営を難しくしたのは人種間題であるといわれている。当然のことだが、ユダヤ人女性はここから排除された。土官や党幹部が禁を破ってユダヤ人女性と性交すれば、第三帝国の人穫法に基いて死刑であった。しかし相手がユダヤ人だとは分らなかったという言い遁れが可能だったので、一九三九年のワルシャワのホテルの手入れでは、四〇人のドイツ士官の個室から三四人のユダヤ娘が引き出された。ドイツ兵士が町でポーランド女性をはじめとするスラヴ系の人種と交際すると罰せられたが、売春宿で彼女らと性交することは許可されていた。一般に売春宿以外で被占領地の女性と交流を持つことは禁じられていたものの、例外はスカンディナビア諸国とオランダだった。ここでは市民階級の女性との交渉がむしろ推奨された。その結果ノルウエーとオランダではそれぞれ一万人の私生児が生まれた。あらゆる点で西欧と東欧では対応が違っていた。フランスなど西欧では公娼制度が熟成していたので、ドイツ国防軍は軍の専属施設としてこれを利用し、いわゆる女郎屋の女主人に司令官の命令による次のような細かい指示を与えることで運用した。女主人は三十歳以上でなければならない。女主人も従業員もそこで性行為をしてはいけない。来成年者を傭ってはいけない。売春婦として働く全女性の写真付のチェりク・ノートを作成し、入居順に応じた通し番号を記し、氏名、生年月日、現住所等を書いて、要請に応じ、軍医もしくは軍司令官に提示させるものとする。司令官の許可なくして新しい女を無断で傭ってはいけない。売春宿の客となるドイツ兵士は必要な証明書を見せなければ店に入れないこととする。証明書の裏には店の名とパートナーとなる女性の名が明記されていなくてはならない。開業時間は司令官の決定に従う。代償の取り分は女主人と各女性とで半分ずつとする。サドやマゾの目的に用いる器具の製作、所有、貸与は禁じられる。性交には必ず避妊具が使用され、訪間するすべてのドイツ兵にあらかじめ無償で手渡されなくてはならない、等々。
売春宿の管理権を握っていたのは、ここからも分るように、司令長官か司令部付連絡将校で、まさに国防軍そのものてあった。店には司令長官のスタンプを捺した性病予防警告のポスターが貼り出されていた。そのなかには、使用すべき品として冷温水付ビデ、洗いたてのベッドカヴァー、清潔なタオルまでが指定されていた。
しかし、他方、旧ソ連地域などの東欧方面には既成施設が利用はできないために「西欧では女郎屋の女主人が売春婦の確保につとめ、その代りに収入の半分を手にした。しかし東方では前線司令官たちが売春婦になる少女たちの獲得につとめなければならなかった。その際、強制処置がしばしば取られた。」
「若い娘で、労働力投入への呼びかけに応じてドイツに行くのはいやだといって拒んだ者は、二者択一として、国防軍売春宿でしばらく勤務する以外にに選択の余地はなかった。ユダヤ女性に対してさえもこの二者択一が提案された。『やるべきことをちゃんとやれば』釈放が保証されるといって強制収容所で募集された女たちが、東部占領地区の売春宿に連れて行かれたか、それとも、ラーヴェンスブリュック強制収容所で売春婦に仕立てられていった女性在監者と同じような運命を辿って、ドイツ国内で使役されるにいたったか、そこははっきりしていない。ただ彼女らが美人で使いものにさえなれば、アーリア人であろうとセム人であろうと、たいして間題ではなかったのだ。」
一九四一年ドイツはロシアに侵入してから、兵士の性病が激増した。住民の栄養状態が悪く、売春が公認されていない共産主義の国では的確に検診できる有資格の医者もいない。成熟した公娼制度を持つ西欧諸国に比べ、かえって危険であった。南ウクライナでは軍が設営した売春宿が病気の発生源とみられた。何をどうすれば病気の蔓延に効果的に対応できるか、ドイツ国防軍で議論されたが、その議論の中には、非占領地の一般女性に対するドイツ兵の違法行為(強姦等)が少なくなるか、また少なくしようとする軍当局の意志は認められなかった。否、そういう議論があったとしてもたちまち消えてしまったとザイドラーの著書は書いています。
それだけではなく、一九三五年の軍事刑罰法典では、前線の兵士といえども犯罪を犯せば被害者からの届け出のあるなしに関わりなく、犯罪それ自体として裁かれ罰せられた。それが、一九四〇年十月十日にその条項が抹消された事により、強姦罪は被害者の届け出に基づく親告罪となり、実際に取り上げられる件数は激減した。それにとどまらず、SS裁判所本部が、非占領地区において強姦を犯したドイツ軍人の処罰に当たっては寛大に取り扱うように要請した公文書をこのザイドラーの著書は掲載しているそうです。
西欧でも東欧でも、占領地におけるドイツ国防軍の売春婦たちは、一度監禁されれば、衛生管理の見地からも自由行動を封じられた。
「すべての売春宿の少女たちは、駐屯地司令官の発行した身分証明書を所持していた。彼女らは売春宿のなかで暮していた。監視なしで宿の外へ出ることは禁じられていた。医療検診、美容院、そして週一度の散歩へ出かけるときにも、途中において『なんらかの信頼に足る同行者』を必要とした。」
一方、ここを訪れるドイツ兵たちにもさしたる自由はなかったようにみえる。パートナーが決められているほかにも厳しい規制があった。コンドームを使用すること。性交後に病気の予防処置をしてもらうこと。各店には予防処置室があり、暗い中に赤十字のついた青い小さなランプが灯っていたそうだ。
「第二次大戦の戦争状況の全体性は、国家が性愛の領域をさえもしっかり掴んだ点にあらわれていた。性の秩序というものの全体は個人のタブーに対しては制限を知らない。国防軍の売春宿においては性行為は一つの管理間題だった。売春宿の設立、備品目録、売春婦、お客の割り当て、性病予防処置、等々は書類番号で整理される事柄だった。兵士の一身上の内的領域が、お役所による管理ブログラムの一部であった。兵士が国防軍売春宿に一歩足を踏み入れた瞬間に、規定と態度指導の支配をたっぷり受け入れるほかなかった。性行為の中断も監視された。性的欲望の鎮静でさえもが命令から自由になった空間の中にはなかった。」
いわゆる「強制連行」については、ザイドラーも先に証言していたが、最近出た訳書に次のような言句も存在する。
「連合軍が押収して一九四六年にニュルンベルク裁判に提出されたドイツの記録文書は、恐怖をあおるためにドイツ人征服者が組織的に強姦したことを立証している。ボーランド、ユダヤ、ロシアの女たちが強姦され、多くの場合、むごたらしく殺された。情容赦なく何百人もの少女や女性が迫害され、軍用娼家へ追い込まれ、そこで強制売春に使役された。いわゆる『慰安勤務』である。それが管理的に行われた大量殺人の前段階だったこともしばしばだった。」
(ヘルケ・ザンダー/バーバラ・ヨール『一九四五年ベルリン解放の真実』現代書館)
何度か書きましたが、兵士は生身の人間です。そのために、兵士の性的欲求をどうするか、それぞれの国がそのためのシステムをとっています。それは現在でも同様です。
我が国の大東亜戦争時における慰安婦というものとの違いはあれど、何処の国の軍隊にも、兵士の性的欲求に応えるためのそのそのような仕組みはあったのです。
今回、書きました第二次世界大戦におけるドイツにおける慰安婦もその一例です。
http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2012/05/blog-post_8367.html
ドイツ軍の「慰安所」や買春事情については、これまでにも何度かお伝えしているが、最近ではアメリカを舞台に日本軍慰安婦問題をホロコーストと結びつけるキャンペーンが出て来たりしているので、そろそろ日本人自身がこの問題を客観的に考えられるように、情報をまとめた方がいいのかもしれない。左上の写真は、ドイツ軍がフランスの占領地に開設した「慰安所」[要確認]。
なお、ドイツに学べ学べと言うアメリカ人や韓国(系)人の多くは、ドイツ軍の売春宿の存在を知らないか無視しているが、ドイツ政府はこれらの女性に何の補償を行なっていない。
略奪品としての女性 ― 国防軍と売春
ポズナニ出身(訳注:ポーランドの都市)のマリア・K ー 国防軍のための強制売春の犠牲者1940 年のあとナチス当局は軍隊の売春宿の設置を開始した。女性は「モノ(Materialの訳)」と見なされ、無理矢理、占領地域や強制収容所で徴募(rekrutieren の訳)された。
彼女たちは今日までどこにおいても犠牲者としては認められていない。「ナチス親衛隊の男たちがやってきて、美しい女性たちを集めた。彼らはいった―前線で兵士の世話をするのだ」そう話すのは、ウクライナのSkadowsk(訳注:黒海の港町)出身のおばあさんNina Michailowna だ。彼女が描写したことは、第二次世界大戦の歴史にある陰鬱で人間軽視の側面のなかに数えられる。前線において規制の必要があったことは、1940 年以降担当当局にとって、明白だった。数千人もの兵士たちが病気に感染し、軍隊は数ヶ月以上、気晴らしをすることがなかった。その結果として軍当局は売春宿を設置することを始めたのである。
・番組データ
Frauen als Beute - Wehrmacht und Prostitution
(Titel der englischen Fassung: "Women as Booty")
Produktion: D 2005, Aquino Film - WDR - Erstsendung: 12.01.2005 (ARD) - 43 Minuten
Tomas Gaevert&Martin Hilbert による2005 年テレビ放送ドキュメンタリー作品 http://www.thomas-gaevert.de/
Frauen als Beute - Wehrmacht und Prostitution
Maria K. aus Posen - eines der Opfer der Zwangsprostitution für die deutsche Wehrmacht. Nach 1940 begannen die NS-Behörden mit der Einrichtung von Militärbordellen. Die Frauen galten als “Material”, wurden mit Gewalt in besetzten Gebieten oder in Konzentrationslagern rekrutiert. Als Opfer sind sie bis heute nirgends anerkannt. “Die SS-Männer kamen und suchten sich die schönen Frauen aus. Sie sagten - für die Front, die Soldaten zu versorgen.” Das erzählt Nina Michailowna, eine alte Frau aus Skadowsk in der Ukraine. Was sie beschreibt, gehört zu einem besonders finsteren und menschenverachtenden Aspekt der Geschichte des Zweiten Weltkriegs: dem Missbrauch von Frauen in deutschen Militärbordellen. Ab 1940 war den zuständigen Behörden klar, dass es an der Front Regelungsbedarf gab. Tausende von Soldaten infizierten sich mit Krankheiten und standen oft über Monate der Truppe nicht zur Verfügung. Daraufhin begannen die Militärbehörden, eigene Bordelle einzurichten..
Google Video (リンク切れ)
ARD(放送)による番組紹介
「SS(ナチスの親衛隊)がやってきて美しい女性を探していたんだよ-前線で兵士の世話をするためにね」そう話すのは、ウクライナのSkadowsk 出身のおばあさんNina Michailowna だ。
彼女が描写したのは第二次世界大戦における歴史の特に陰鬱で人間を軽視した一つの側面-ドイツの軍隊の売春宿での女性への暴行・陵辱である。
前線において規制の必要があるのは1940 年から当局にとってははっきりしていた。何千もの兵士が性病に感染しており、部隊は何ヶ月も使い物にならなかった。それゆえ軍当局は、自らの売春宿を作り始めた。そのコントロールのために司令部の医師と現地の軍管理当局が割り当てられた。その措置が始まったフランスでは、国防軍が現存の体制を担った。このことは多くのフランスの売春婦にとって、そのとき以来、最も厳しい監視もしくは収容所への移送にさらされることを意味していた。
東ヨーロッパの占領地域では、状況はさらに著しく激しいものであったーここでは軍の売春宿へ女性を徴募(rekrutieren の訳)するためにますます暴力が用いられたのだ。
ほかにもいろいろある中で、新しい女性への絶えず増えていく需要を満たすために恣意的な逮捕、警察の手入れ、収容所への抑留などが行われた。
その際、該当女性は「モノ」と見なされ、それは感染源の監視のためにある。「人種恥辱(罪)」(訳注:Rassenschandeーアーリア人と非アーリア人の間の性的関係を示すナチスの用語)との非難を避けるために、ドイツ当局はたとえば、売春宿にいるポーランド人を「人」ではなく「モノ」と規定した。たいていの場合命を助けることができるという偽りの約束の下で、強制収容所でも女性は募集された。
今までただ断片的な調査があっただけであり、軍の売春宿やそこに収容された女性の運命についてはいくつかの少ない目撃証言しかなかった。この犯罪的な行為の犠牲者は、一生涯ずっとその経験を抑圧することを試みてきた。
ポーランドとウクライナ出身の生存者が、その沈黙を破った。彼女たちは、何を彼女が経験し、観てきたかを報告している。彼女たちは強制売春婦の打ち続くいばらの道が、並々ならぬ苦渋のものであったことをも語っている。彼女たちは自国の人々の助けも全く見つけることができなかったばかりか、事態は全く逆なのである。姦淫に対する伝統的な侮蔑の感情が、多くの場合、敵方への協力の嫌疑となった。軍の売春宿を生き残った女性たちは、裏切り者と断定され殺害された。そのこともあって、彼女たちの歩んだ人生の解明はこんにちまで大変難しいものになっている。彼女たちはこんにちまで、どこにおいても犠牲者としては認められていない。
Rassenschande
http://en.wikipedia.org/wiki/Rassenschande
英語
http://en.wikipedia.org/wiki/German_military_brothels_in_World_War_II
http://en.wikipedia.org/wiki/German_camp_brothels_in_World_War_II
Spiegel 英語版
http://www.spiegel.de/international/germany/concentration-camp-bordell
os-the-main-thing-was-to-survive-at-all-a-632558.html
http://programm.ard.de/?sendung=287227533342712
Frauen als Beute - Wehrmacht und Prostitution
Einsfestival
Donnerstag, 08.03.12 | 05:30 - 06:15 (45 Min.)
Information
Dieser Sendetermin liegt in der Vergangenheit
"Die SS-Männer kamen und suchten sich die schönen Frauen aus. Sie sagten - für die Front, um die Soldaten zu versorgen." Das erzählt Nina Michailowna, eine alte Frau aus Skadowsk in der Ukraine.
Was sie beschreibt, gehört zu einem besonders finsteren und menschenverachtenden Aspekt der Geschichte des Zweiten Weltkriegs: dem Missbrauch von Frauen in deutschen Militärbordellen.
Ab 1940 war den zuständigen Behörden klar, dass es an der Front Regelungsbedarf gab. Tausende von Soldaten infizierten sich mit Geschlechtskrankheiten und standen oft über Monate der Truppe nicht zur Verfügung. Daraufhin begannen die Militärbehörden, eigene Bordelle einzurichten. Für deren Kontrolle wurden Kommandanturärzte und örtliche Militärverwaltungen zuständig gemacht. In Frankreich, wo mit diesen Maßnahmen begonnen wurde, übernahm die Wehrmacht bestehende Etablissements. Für viele französische Prostituierte bedeutete dies von nun an strengste Überwachung oder den Abtransport in Internierungslager.
In den besetzten Gebieten Osteuropas war die Situation noch erheblich radikaler: Hier wurde zunehmend Gewalt angewendet, um Frauen für Militärbordelle zu rekrutieren. Willkürliche Verhaftungen, Razzien und Deportationen dienten unter anderem dazu, den stets wachsenden Bedarf nach immer neuen Frauen zu decken. Die Betroffenen galten dabei als 'Material' und zu überwachende Ansteckungsquelle. Um dem Vorwurf der 'Rassenschande' vorzubeugen, legten die deutschen Behörden etwa fest, dass Polinnen in Bordellen 'Sachen' und nicht 'Personen' seien. Auch in KZs wurden Frauen angeworben, unter der zumeist falschen Versprechung, damit das eigene Leben retten zu können.
Bisher gab es nur bruchstückhafte Recherchen und einige wenige Augenzeugenberichte über die Militärbordelle und die Schicksale der Frauen, die dort interniert waren. Die Opfer dieser Verbrechen haben zeitlebens versucht, das Erlebte zu verdrängen.
Überlebende aus Polen und der Ukraine haben das Schweigen gebrochen. Sie berichten, was sie erlebt und beobachtet haben. Sie erzählen auch davon, dass der Leidensweg der Zwangsprostituierten ein besonders bitterer war. Sie fanden auch bei den eigenen Landsleuten keinerlei Hilfe, ganz im Gegenteil. Zur traditionellen Verachtung gegenüber Huren kam in den meisten Fällen noch der Verdacht der Kollaboration. Viele Frauen, die das Militärbordell überlebt haben, wurden als angebliche Verräterinnen umgebracht. Auch deshalb stellt sich die Aufklärung ihrer Lebenswege bis heute als außerordentlich schwierig dar. Als Opfer sind sie bis heute nirgends anerkannt.
http://www.spiegel.de/international/germany/concentration-camp-bordellos-the-main-thing-was-to-survive-at-all-a-632558.html
Concentration Camp Bordellos: 'The Main Thing Was to Survive at All'
By Mareike Fallet and Simone Kaiser
Concentration camp brothels remain a hushed-up chapter of the Nazi-era horrors. Now a German researcher has probed the dark subject -- and has revealed the meticulous cruelty of the so-called "special buildings."
Kicking them with his boots, the SS soldier drove Margarete W. and the other women prisoners out of the train and onto a truck. "Move the tarpaulin, put the flap down. Everyone get in," he yelled. Through the plastic window in the truck's canvas side, she watched as they drove into a men's camp and stopped in front of a barracks with a wooden fence.
The women were taken into a furnished room. The barracks were different from the ones Margarete W., then 25, knew from her time at the Ravensbrück women's concentration camp. There were tables, chairs, benches, windows, and even curtains. The female overseer informed the new arrivals that they were "now in a prisoners' brothel." They would live well there, the woman said, with good food and drink, and if they did as they were told, nothing would happen to them. Then each woman was assigned a room. Margarete W. moved into No. 13.
The prisoners' brothel at the Buchenwald concentration camp opened on July 11, 1943. It was the fourth of a total of 10 so-called "special buildings" erected in concentration camps between 1942 and 1945, according to the instructions of Heinrich Himmler, head of the SS. He implemented a rewards scheme in the camps, whereby prisoners' "particular achievements" earned them smaller workloads, extra food or monetary bonuses.
Himmler also considered it beneficial to "provide the hard-working prisoners with women in brothels," as he wrote on March 23, 1942, to Oswald Pohl, the SS officer in charge of the concentration camps. Himmler's cynical vision saw brothel visits increasing the forced laborers' productivity in the quarries and munitions factories.
"Especially Perfidious"
It remains one of the lesser known aspects of Nazi terror that Sachsenhausen, Dachau and even Auschwitz included brothels, and that female concentration camp prisoners were forced into prostitution. Berlin-based cultural studies scholar Robert Sommer, 34, has scoured archives and concentration camp memorial sites around the world and carried out numerous interviews with historical witnesses over the past nine years. His study, which will be published this month, provides the first comprehensive, scientific survey of this "especially perfidious form of violence in the concentration camps." His research has largely informed a traveling exhibition "Camp brothels -- forced sex work in Nazi concentration camps," which will tour several memorial sites next year.
From the Magazine
Find out how you can reprint this DER SPIEGEL article in your publication.
Sommer delivers plenty of evidence to counter the legend that the Nazis forbade or resolutely fought prostitution. In fact, the regime enforced total surveillance of prostitution, both in Germany and its occupied territories -- especially after war broke out. A comprehensive network of state-controlled brothels covered half of Europe during that period, which Sommer says consisted of "civil and military brothels, as well as those for forced laborers, and at the same time they were even part of the concentration camps."
Austrian resistance fighter Antonia Bruha, who survived the Ravensbrück camp, reported years ago that, "the most beautiful women went to the SS brothel, the less beautiful ones to the soldiers' brothel."
And the rest ended up in the concentration camp brothel. In the Mauthausen camp in Austria, in the 10 small rooms of "Barrack 1," the very first camp brothel began operation behind barred windows in June 1942. At that point there were around 5,500 prisoners in the Mauthausen work camp, hammering out stone in granite quarries for Nazi buildings. By the end of 1944, over 70,000 forced laborers lived in the entire camp complex.
The SS had recruited 10 women for Mauthausen, following the government security agency's guidelines for erecting brothels in forced labor camps. This meant between 300 and 500 men per prostitute.
Altogether some 200 women shared the fate of the Mauthausen prisoners in the camp brothels. In particular healthy and good-looking women prisoners between the ages of 17 and 35 caught the eye of SS recruiters. More than 60 percent of them were of German nationality, but Polish women, those from the Soviet Union and one Dutch woman were transferred into the "special task forces." The Nazis didn't allow Jewish women for "racial hygiene" reasons. First the women were sent to the camp hospital, where they were given calcium injections, disinfection baths, better food and a stint under a sunlamp.
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Part 1: 'The Main Thing Was to Survive at All'
Part 2: Between 300 and 500 Men Per Prostitute
Just under 70 percent of the female forced laborers who were coerced into prostitution had originally been imprisoned for being "antisocial." In the camps, the women were labeled with a black triangle symbol. They included former prostitutes, whose presence was supposed to guarantee the "professional" running of the camp brothels, especially at the start. It was very easy for a woman to be judged as "antisocial," for example if she failed to comply with instructions at work.
To what extent the women knowingly volunteered for these "special task forces" is debated. Robert Sommer cites Spanish resistance fighter Lola Casadell, who was brought to Ravensbrück in 1944. She said the head of her female barracks threatened: "Whoever wants to go to a brothel should come by my room. And I warn you, if there are no volunteers, we'll fetch you with force."
Historical witness Antonia Bruha, who was made to work in the hospital area of the concentration camp, remembers women "who came in voluntarily, because they'd been told they would be set free afterwards." That promise was rejected out of hand by Himmler, who complained that "some lunatic in the women's concentration camp, while selecting prostitutes for the camp brothels, told the female prisoners that whoever volunteered would be released after half a year."
The Last Hope of Survival
But for many of the women living under the threat of death, serving in a brothel was their last hope of survival. "The main thing was that at least we had escaped the hell of Bergen-Belsen and Ravensbrück," said Lieselotte B., who was a prisoner at the Mittelbau-Dora camp. "The main thing was to survive at all." Whatever made them go along with the regime, the suggestion that they did so "voluntarily" is one reason "why the former brothel women are still stigmatized today," explained Insa Eschebach, head of the memorial site at Ravensbrück.
In keeping with the Nazi's racist hierarchy in the camps, first it was only Germans were allowed to visit the brothel, then foreigners as well. Jews were strictly forbidden. It was predominantly foremen, heads of barracks and other prominent camp occupants who were given this "bonus." And they would first have to have the money for a ticket which cost two Reichsmarks. Twenty cigarettes in the canteen, meanwhile, cost three Reichsmarks.
Brothel visits were regulated by the SS, as were the opening hours. In Buchenwald, for example, the brothel was open from 7 to 10 p.m. They remained closed at times of water or electricity shortages, air raid warnings or during the transmission of Hitler's speeches. Edgar Kupfer-Koberwitz, a prisoner at Dachau, described the system in his concentration camp journal: "You wait in the hall. An officer records the prisoner's name and number. Then a number is called, and the name of the prisoner in question. Then you run to the room with that number. Each visit it's a different number. You have 15 minutes, exactly 15 minutes."
Privacy was a foreign concept in the concentration camps -- and the brothels. The doors had spyholes and an SS soldier patrolled the hall. The prisoners had to take off their shoes and were to speak no more than absolutely necessary. Only the missionary position was allowed.
Often it didn't even get as far as intercourse. Some men were no longer physically strong enough, and according to Sommer, "some had a greater need to talk with a woman again, or to feel her presence."
The SS was very afraid of the spread of sexually transmitted diseases. The men were given disinfectant ointments in the hospital barracks before and after each brothel visit, and doctors took smear samples from the women to test for gonorrhea, and tested their blood for syphilis.
Contraception, on the other hand, was one aspect that the SS left up to the women. But pregnancies rarely occurred since many women had been forcibly sterilized before their arrest and others had been rendered infertile through their suffering in the camps. In the event of an "occupational accident," the SS would simply replace the woman and send her to have an abortion.
Those who withstood the hardship of brothel life did have more chance of escaping death in the camps, according to Sommer's research. Almost all the women in forced prostitution survived the Nazis' terror regime. It is largely unknown what became of them or whether they were ever able to recover from their traumatic experience. Most of them remained silent about their fate for the rest of their lives.
Robert Sommer's book, "The Concentration Camp Bordello: Sexual Forced Labor in National Socialistic Concentration Camps," is scheduled to be published in German ("Das KZ-Bordell") by Schöningh Verlag, Paderborn, in July. 492 pages; €39.90.
ドイツ軍の慰安所--第二次世界大戦
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