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【年表⑤ 「日韓併合期・Ⅱ」(1920~1945年)】【1920年代】
1920年 ◆「朝鮮日報」創刊、「東亜日報」創刊
1920年 ◎移入税の導入
・朝鮮経済を保護するために関税制度を廃止し、日本から朝鮮に移出した製品に対して移入税を課すという、超過保護政策で、1941年まで続けられた。
1922年~ ◎(土木)本格的な砂防工事が始まる
・国費継続事業として実施された。
・1933~42年の間の工事総額は約4200万円。施工面積は約15万ヘクタール。植栽本数約5億本。
・治水事業の進展に伴い、水田面積も増加した。1910年に約80万ヘクタールだった水田面積は、1928年には約150万ヘクタールとなった。
1923年 ◆衝平社運動
・最下層階級の奴婢で白丁と呼ばれる人々が、被差別からの解放を求めた運動。
・衝平社の理念に賛同する者もいたが、同じ賎民階級で白丁を差別していた農民やキーセンらが反発し、衝平社が反対派によって襲撃させるなど弾圧された。
1926年 ◎(教育)京城帝国大学創立
・現在のソウル大学の前身。6番目の帝国大学として、ソウルに設立。
1927年2月 ◆京城放送局 ラジオ放送開始
1927年5月 ◎(産業)朝鮮窒素株式会社設立
・朝鮮の電源開発事業に着手した。
1928年 鴨緑江上流に17万キロワットの巨大発電所が完成
1930年 20万キロワットの巨大発電所が完成
白頭山、豆満江、虚川江に15万キロワットの水力発電所を建設した。
(1920年代 その他の出来事)
◎(医療)地方医療制度の整備(1920年代)
・清州、金州などに医学校が設立され、医師の養成が進んだ。
・全国各地に済生会が作られる。
◎(農業)朝鮮米の日本への輸出量が急増する
1910年 約 11万石
1919年 約280万石
1928年 約706万石
【1930年代】
1930年5月 ◎間島5・30事件
1930年 ◎(農業)外地米統制問題がおきる
・朝鮮米の対日輸出の急増は、日本国内の農家を圧迫した。
・米穀統制のため、朝鮮と台湾の両総督府の間で米穀協議会が開かれた。
1931年7月 ◎万宝山事件
1931年9月 ☆満州事変勃発
1931年~ ◎宇垣一成が、第7代総督就任
・農村振興に尽力した人物で、その活動は「朝鮮農山漁村運動」といわれ、中堅人物、中堅青年の育成、婦人講習会・ハングル講習会の開催、家計簿の普及指導などが行われた。
1932年1月 ◎桜田門事件
・大韓民国臨時政府(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって派遣された刺客・李奉昌による昭和天皇暗殺未遂事件
1932年4月 ◎虹口公園爆弾事件
・上海の日本人街の虹口公園で行われた天長節の祝賀式典会場に、朝鮮人の尹奉吉が爆弾を投げ入れたテロ事件。
・当時の上海は、第一次上海事変停戦交渉の最中であったため、上海駐在公使重光葵ら多数の日本政府及び日本軍の要人が負傷した。
1936年8月 ◎日章旗抹消事件
・ベルリンオリンピックで朝鮮人の孫基禎がマラソンで優勝した際、東亜日報が孫の胸の日の丸を塗りつぶした表彰式の写真を掲載した事件。
1937年 ☆日中戦争勃発
1937年10月 ◎「皇国臣民の誓詞」制定。
1938年2月 ◎陸軍特別志願令公布
1938年3月 ◎朝鮮教育令改正
・朝鮮語(ハングル)の授業が、必須科目から選択科目になる。
1938年 ◎「朝鮮重要鉱物増産令」発布
・支那事変以後、日本国内における金・鉄・石炭の需要が急増し、朝鮮にも鉱産の増産が求められた。
・併合時は、朝鮮は地下資源大国と思われていたが、総督府が調査した結果、その認識が誤りであることが判明した。
・需要の急増に伴い、日本政府は補充金を負担してまでも生産した。終戦末期頃の補充金の額は1億5千万~2億円にものぼった。
1939年 ◆文世栄が『朝鮮語字典』を編纂
・朝鮮人によって作られた初めてのハングル辞典
1939年10月 ◎朝鮮文人協会が発足
・1942年に「朝鮮文人報国会」に改称
(1930年代 その他の出来事)
◎(財政)税収入の増加
1910年 4600万円 …台湾とほぼ同額(但し人口は4倍)
1931年 約5000万円 …デフレの影響で税収が伸びず
1936年 約9000万円
1937年 約1億円
1941年 約2億2000万円
1945年 約6億4000万円
◎(産業)工業生産額が急増した
1927~33年 年間3億円台
1935年 年間6億円台
1940年 年間18億円台
・1938年に、軽工業と重化学工業の生産額の比率が逆転した。
◎(医療)小鹿島更生園の設立(1930年代)
・1930年代になると、近代医療制度の確立と普及により、疫病を完全に食い止められるようになる。
・同園は、ハンセン病対策のために作られた施設で、6千人以上の患者を収容した。
◆(産業)「三星商会」の設立
・早稲田大学を中退した李秉喆が、1938年3月に大邱で設立した会社で、この会社が現在のサムスングループ(三星財閥)の出発点。
【1940年~45年】
1940年2月 ◎創氏改名政策の実施
・「氏」の設定(創氏)が義務づけられる。
・「改名」は任意で、申請制だった。
・「創氏」を義務づけたのは、戸籍制度を内地と同じにする政策がとられたからであるが、当時、満州に移住した朝鮮人と中国人(漢人)の間で衝突が何度も発生していた(万宝山事件など)。両者の諍いはエスカレートし、朝鮮においては中国人が、満州においては朝鮮人が迫害されるという事態になった。日本名を名乗ることは、中国人からの迫害を避ける手段の一つであった。
・総督府によって進められた皇民化政策の成果もあって、朝鮮人の80%が改名を申告した。
・台湾で1942年から実施された「改姓名運動」は完全に許可制であり、実際に許可されたのは1%前後に過ぎなかった。
1942年 ◎志願兵の募集
・定員3千名のところ、応募者は25万1594人。倍率84倍だった。
■参考 旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き■
一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭、体を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり、脱走の原因となる。
一、清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、日本兵二名で一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。
1942年2月 ◎朝鮮演劇文化協会が発足
1945年8月14日 ◇日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告
1945年8月15日 ◇玉音放送
・昭和天皇による終戦の詔書の朗読が放送され、日本の降伏が国民に公表される。
1945年9月2日 ◇降伏文書に調印
・日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。
・無条件降伏したドイツとは異なり、日本の場合は有条件降伏といえるもので、降伏文書の趣旨は「全日本國軍の無条件降伏」だった。
【ご案内】
◆『韓流ドラマに学ぶ韓国・朝鮮の歴史④ 日韓併合期Ⅰ(1910年代)』
URL:http://blog.goo.ne.jp/topgun04087488/e/c2bc31952e59d47c6383df036e13598a
◆『韓流ドラマに学ぶ韓国・朝鮮の歴史⑥ 大韓民国Ⅰ(1945年~1960年代)』
URL:http://blog.goo.ne.jp/topgun04087488/e/d513e490e36461403646c4a49cc763a9
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