java

Sunday, August 12, 2012

Language Policy in Korea under the Last Stage of Japanese Occupation: The Mobilization to the Movement for Daily U se and U nderstanding of Japanese before the Introduction of a Draft System

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf


Title 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 : 徴兵制度導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員 Author(s) 井上, 薫 Citation 北海道大學教育學部紀要 = THE ANNUAL REPORTS ONEDUCATIONAL SCIENCE, 73: 105-153 Issue Date 1997-06 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/29532 Right Type bulletin Additional Information Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 徴兵制度導入に至るまでの日本語嘗用・全解連動への動員一一 井上 Language Policy in Korea under the Last Stage of Japanese Occupation: The Mobilization to the Movement for Daily U se and U nderstanding of Japanese before the Introduction of a Draft System Kaori INOUE 目次 はじめに H .・ . ・~H・..………...・H・..…...・H…...・ ・.....・・..……...・・..…...・・..…...・ H HHH ・..………105 第一重量1937年までの日本語普及・強制政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・110 第一節1930 年頃までの各種教育機関における日本語教育…....・・-…....・・-…・・-…110 H HHH 第二節目中全菌戦争前後の日本語強制政策....・・・……....・・-…....・・-…....・・....…..114 H HHH 第二重量「簡易国語講官会」による日本語普及と学校教育における朝鮮語...・・...…....・・...125 HH 第一節臼本語「全解」を想定した「簡易国語講習会」の開催....・・-…....・・-…....・・.125 HHH 第二節学校教育における事実上の朝鮮語廃止…....・・..…....・・-………...・・...・・...126 HH HH HHH H HHH HHH 第三節1940年前後における日本語翠得状況...・・・・..…...・・......・・・・...・・・・...129 HH HHHH 第三章国民総力運動による日本語普及・強制政策……・...・・.....・・.....・・.....・・・・...132 HH HHHH 第一節国民総力朝鮮連盟と日本語常用・全解運動・……・・…・・.......・・...・・・・-一…132 1941 年7月までの仁川府をゆ心に 第二節「全朝鮮国語普及運動」の開始…....・・........・・-…………・・.....・・....・・-…・135 H H HHHH HHHH HH 第三節総督府による「国語常用」強鵠...・・・・-……...・・....…………・・・・・-……136 第田章徴兵制産導入決定(1942 年5月)に伴う日本語普及活動の活発化………・…...・・.143 H H HHHH H HH HHHHH むすび…...・・..…...・・・・.....・・..…...・・..……...・・......・・..…...・・.....・・.....・・・・..152 *註は各重量米に掲げた。 はじめに 1940 年代前半の朝鮮は,日本統治下でも最も日本語習得率が上昇した時代であり,日本語の普及は「国語全解運動J として一層「強制」的・組織的に進められた。とりわけ「国語常用」の強謂により日本語使用の強制が至る所で行われた。そしてn国語常用』の結果としてw解放』当時掲朝鮮の12 歳以上総人口の78%はハンクツレ文事}九すなわち非識字者だ、ったということは,朝鮮語使用の制限・禁止に関する諸政策を含む日本統治下末期の日本語普及・強制政策の問題性が大きかったことを意味する。しかも,日本語がわかりこれを正しく使えることは朝鮮人の「皇民化」に関する重要な指標であった。この時期,朝鮮総督府は「朝鮮人の強靭な民族性に対するf不信~J , r朝鮮人を盟家権力の暴力装置の中に組み入れることの不安,恐怖」を保持しつつも志願兵制疫を導入し円ついには徴兵制度まで導入した。これらを機会として,宮本語普及の動きに ずしも十分ではない。 〈関係先行研究〉 106 73 号教育学部紀要第もさらに拍車がかかった{九「内鮮一体を実質化すれば報鮮人の民族性が抹殺されることになるJ が,朝鮮総督府は朝鮮人に対し「皇居臣民たることを求め,自らその意を汲み,陸軍特別志願J 兵への「志願郎氏」・「改名」の「届出」をする等の「自発性を求めた。これらの「自発性JJJi,の背後にはそれを選択「せざるを得ない状況」がありへまた相当程度暴力的にn志願』を強要した事実が存在していた(旬。畠本語普及・強制政策の観点からいっても,日本語使用奨励や朝鮮J 語使用制隈をする言動中に一見悶様の「自発的な動きが見られる。本論文では,志願兵制や創J 氏改名のような任意の「自発性」の背後にある構造が,日本語普及の場面でどのように「強制J 的なものであったかを明らかにしたい。もちろん,これまでも後述するような先行研究で幾つもの事例が紹介されてはきた。しかし,史料的制約のため,年代の史料を根拠にした記述は必1940 本論文では,主に年までの史料に限定されてしまうが,年月の民族新開廃刊以後194219408 (6) も残された『京城日報.!I(日本語)(九『毎日新報.!I(朝鮮語),大韓民間総務慮政府記録保存所所蔵の『朝鮮総督府文書』等の諸史料を用いて,年月,国民総力報鮮連盟発足後における毘本194010 語普及・強制政策の解明を試みる。最末期までの日本語普及・強制政策およびその実態把握はまだ十分だとは言えないが,年月には朝鮮への徴兵制度導入が閣議決定される等,自本語普19425 及・強制の質を変える大きな転機があり,当時存在していた戦時における町会,愛国班等の組織化との関係等,史料を用いて明らかにすべきことは多い。また,日本語強制,朝鮮語制捜・禁止の動きは年代後半の南次郎総督治下で基本路,様が作1930 られており,これらの陪題整理も前提として不可避である。年の「菌語全解運動以前に「全1942J 部国語ガ分カル」ことを想定して開始された「簡易国語講習会」の動きなど,年前後との関1938 連も深く,時系列に徒った比較的組い時間枠で諸史料を再構成していきたい。(の) 日本語強制に関しては,本ト最義が朝鮮総督府の輯鮮語政策とともに「日帝下将言語・文字政策J で論じたのがその初期のものであり刊本論文の対象時期との関係で言えば,年代後半の学1930 校における朝鮮語使用禁11:に関する記述等,参考にすべき部分がある。但し,朝鮮語学会弾圧事件に関する記述を除いて,年以後の記述には史料の不足という限界がある。1940 金敏株(1年)によれば,年を境に,それ以前の朝鮮語・日本語の「二語併用期」は「日9731937 本語専用期となる(的。また季刊現代史.!I号年)川森田芳夫年)川こよって8(1976(1987Jw (1(1 紹介された謡史料により,年後半から年前半にかけて日本語普及政策に強制色が表面19361937 化してくることがわかる。偲し,それらの本文では史料需の流れを概観するにとどまった。日本語教育史の分野では,森田芳夫論文年),同(1年),稲葉継雄論文(1年)(1982991986(1(12)3)(14) があるが,何れも朝鮮時代から,あるいは日本の侵略初期から現代までの流れを時期限分し概説的に辿ることに重点がある。大韓良国においては,金杢昌が一連の論文「朝鮮語科始末ヰ日語教育旦置史的背景」により,教育令改正毎に,また教育機関毎に区分して,日本語・朝鮮語教育関j 係史料を多数紹介した。但し,管見の眼り「国語常用金解運動に関する論文は確認できなかっJ た{問。日本語で紹介された朱秀雄の諸論文は毎日申報.!Iからの引用が日新しいが,これらのw(16) 部分を除くと,本論文の対象時期に関する記述は南・小磯各総督の,それも教育方針全般に関わる訓示類のみの紹介で「日本語教育」政策を特徴づけようとしており,平板な印象を免れ得な(、。日本語普及運動を皇民化政策に位置づけ,特に当時の主要課題であった輯鮮人への徴兵制度導のA ,勾) νB 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策入(1942 年5 月閣議決定,1944 年実施)との関連で論じたものに,宮田節子論文があるい8)。宮田論文は,徴兵制度の導入がrw最も困難な生活諾としての国語普及』の段暗に…理念として入らねばならないとされた」と表現されるような質的転換をもたらしたことを明らかにした{問。ただし,論文自体が「徴兵制度の展開」過程を対象としているため,必然的に日本語普及の対象は主として「徴兵適齢者J にしぼられた。南次郎の朝鮮総督就任以降を対象とした広範な日本語普及・強制政策に関する先行研究は,近年,大韓民国で発表され始めた{判。「当時国民総力運動の一環として大々的な規模で,全朝鮮にわたって行われた」日本語普及運動を,大野緑一郎文書等を駆使して「内鮮一体論との連関の中で,特に徴兵制実施のための基盤調整であるという額IJ面」から検討した崖由利論文(1995 年)がその一つである{刊。日本語の「全解運動」と「常用運動J の13:分けを意識的に行ったことも援論文の特徴である。 註 108 教育学部紀要第73 号 (1) 稲葉継雄「米軍政期南朝鮮のハングル普及遼動J ~筑波大学外国語センター外国語教育論集』 5,1983 年12 月,95 (2) 宮田節子F朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社,1985 年,54 貰。 (3) 例えば,宮田節子『悶上~,75 頁,114~118貰。 (4) 宮間節子『向上ぉ68 頁。 (5) 鈴木敬夫『毅鮮植民地統治法の研究治安法下の皇民化教育一』札!綴学院大学選書1,北海道 大学図書刊行会,1989 年,197 頁。 (6) 1940年8月10臼,朝鮮総督府は『東頭日報~,~朝鮮日報』のこ大民族紙を廃刊させた。途中幾度もの停刊期が存在するため~東亜日報』は6 ,819号朝鮮日報』は9 ,923号で廃刊となっのわれらが のた(越容蔦「臼帝下司♀叫新文化運動J ,頭締亜問題研究所臼帝下叫韓国研究養菱重警III~日帝下91文化運動史』民衆書館,ソウル,1970 年4 月,190 頁)。 (7) 国立開会関芸書館(東京都千代田区)所蔵のF京城臼報』は,1940 年10 月発行分までまとまって閲覧が可能だが,その後の所蔵分(1941年3月~1944年11月)には欠号が大変多い。北海道大学付属国書館では同紙を1940 年11 月以降も1943 年12 月発行分までほとんど欠号なく所蔵していたため,1940年11月以降のものを多用した。なお~京城日報』には,Iまぽ毎日最大1 貰が地方版にあてられているが,北海道大学付属国警館所蔵の関紙を1940年11月~1943年1 月まで確認したところ,京城(現ソウル)を除く京畿道,江原道,忠清北道等の地方絞である「中鮮京日」が1941 年7 月まで8 月からは「京城版」となっていた。なお,連載された記事等から確認、したところ,少なくともこの時期の『京城日報』の発行は,まず、夕刊が日付の前日に発行され,その次に当日付朝刊という発行限となっている。しかし,号数は夕刊・朝刊とも同一日付は同じ号数であるため,今日の感覚でいくと混乱しやすい。北海道大学付属臨書館所蔵分の綴り方は,今日のように悶ー臼付の朝刊・夕刊の願となっており発行願ではない。利用の擦には留意されたい。のの の (8) キト歳義「日帝下司言語・文学政策J ~臼帝将文化侵奪史』亜細恵問題研究所・臼帝下斗韓国研究 1,玄音社,1982 年(朝鮮語。以下,朝鮮語の訳はことわりのない絞り,井上訳。初版は に務れたの1970 年)。また,後述の金敏沫論文の参考文献に,朴歳義「学校教育斗11.十叫せ臼帝91語文政策」(~亜細亜研究~XI-1,1968 年3 月)がある。キト歳義は,主に「学校教育にあらわれた語文政策j,.. 「非常時期の語文政策」中の「いわゆる太平洋戦争前後期の語文政策」で対象時期の日本語強制政策を取り扱った。 (9) 金敏沫(池谷幸利訳)r日帝の対韓侵略と言語政策J ~韓J第2巻第5号(17号),1973 年5 月, 99 頁。 (10) r資料構成・朝鮮人の泉民化と国語(=日本語)教育-1934 年以降一簡易学校から悶本語の強制 的常用化まで一j ~季刊現代史~8号,現代交の会,1976 年12 月,212~246 (11) 森田芳夫『韓国における盟諸・思史教育朝鮮王朝期・日本統治期・解放後』明治否年史叢 欝第383 巻,原書房,1987 年。 (12) 森田芳夫「韓盟における日本諮教育の歴史J ~日本語教育』第48号,日本語教育学会,1982 年 10 月。 (13) 森田芳夫「戦前朝鮮における日本語教育j ,木村宗男編『講康日本諮と日本語教育』第15 巻(日 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 本語教育の歴史),明治審院,1991 (14) 稲葉継雄「韓国における日本譜教育史JW 日本語教育』第60 号,日本語教育学会,1986 年11 月。 (15) 金釜昌「務鮮語始末歴史的背景J W ソウル教育大学論文集~(務鮮語。以下,すべ て悶じ)。副題と論文集の輯数は次の通り。(I)未線認1輯,1968 生存4 月(前述の金敏沫参考文斗臼語教育司(との) 0 献欄による)(II) r日宿下将(の) 言語教育政策論孜(其一)J 2輯,1969 年3 月。(nO r間前J3輯, 1970 年6 月。(的「同前一国民学校制度孜J5輯,1972 年4 月。(v)r間前一総合教育令,戦時教 育令J6輯,1973 年5 月。(羽)r日帝下司(の) 言語教育政策論孜一簡易学校孜J7輯,1974 年6 月。 側「間前一番裳教育孜J8輯,1975 年5 月。同「私立学校孜J9輯,1976 年6 月。(同「間前(2)J 10輯,1977 年6 月。(x)r同前(3)J11 輯,1978 年6 月。(刃)r悶前(4)J12 輯,1979 年6 月。なお, 棚までには,視学機関,教授用語問題,鮮日共学問題,特殊教育(訓練所・錬成所等入社会教 育,文化活動との関係,其他(教科警編纂史)という計画が昆られたが,(冊以降,自次から姿 を消す。『ソウル教育大学論文集』に金釜高論文が次に掲載されるのはr日帝下言語政策斗学制斗司(との) 政策的関連構造叶関管(にする) 研究-1911 年代朝鮮教育令(旧教育令)会中心..2..5'.(をに) .J (r同前~15 の 輯,1982年7月)である。しかし,鄭夜哲によれば,金圭(マ) ~ r 日帝下言語教育政策会 J 史的考察」 (W掴語教育~18~20,韓国間語教育研究会,1972 年)があるが(鄭在哲「韓国教育制度史研究 の成果と課題J W韓~No.109,1988 年2 月),入手できなかった。 (16) 日帝は,大韓帝閣時代の『大韓毎日申幸めを「韓関併合」を機会に御用紙化し毎日申報』と 改称した。号数のみ『大韓毎日申報』を引き継いだ。朝鮮総督府の言論統制のため,1910 年代 およびf東遊日報』等廃刊後の1940 年代は唯一の朝鮮語日刊新聞であった。1938 年(5 月以降) 改題されf毎日新報』となる。 (17) 朱秀雄「韓国における百本語教育に関する研究同日帝時代のB本語教育(l)-J(W京畿大学校 論文集』第四輯第l号,1986 年12 月)が該当時期のものである。また,教育機関別の日本語 教育について,朱秀雄「韓国における日本語教育に関する研究(nO一日本時代の百本語教育(2)一」 (r京畿大学校論文集』第20 輯,1987 年6 月)およびにおける日本語教育に関する研究(nO 日帝時代の日本語教育(3)-J (W京畿大学校論文集』第22 輯,1988 年7 月)がある。 (18) 宮田節子「皇民化政策と民族抵抗一瞬鮮における徴兵制度の展開を中心にしてーJ,鹿野政直・ 白井正富編『近代日本の統合と抵抗』第4 巻,日本評論社,1982 年。後に,表記を若干改訂し て『報鮮民衆と「農民化」政策~(未来社,1985 年)のrm 徴兵制度の展開」として所収された。 (19) 前掲,宮間節子(1982 年)254 頁,(1985 年)では114 寅。なお,括弧内は,河野六郎「国語生 活運動に望むJ (r圏民総カ~1944 年3 月1 日号,13 貰)からの蚤引。 のを (20) 本文で紹介したものの外,李明花「朝鮮総督府立J言語同化政策一髪民化時期日本語常用運動会 中心に うPfji三J(W韓国独立運動史研究』第9輯,独立記念館韓国独立運動史研究所,1995 年12 月・ 朝鮮語)があるが,内容顔・史料面では域存研究を超えたものとは評価しにくい。但し,日本 語普及が学校教育を超えて展開される条件として,1936 年10 月に行われた朝鮮総督府事務分 掌規程の改前に務自していることは大変興味深い。この時点でr学務局内には社会教化教育業 務のみを担当する社会教育課が新設されたjことでr日本語普及政策も学校教育中心から社会 教化教育次元の社会教育へ拡大した」ことを指絡している(間前,281 頁)。この指摘は,李明花が 0) この論文以前に「朝鮮総督府学務局主]機構変遷斗(と) 機能J (W韓国独立運動史研究』第6輯,独立記 念館韓毘独立運動史研究所,1992年12月・朝鮮語)をまとめたところから得られた視点であろう。 (21) 経由利「営神宮71 母宅l詩想持母"'aZoj-匂菩o].!i!.音会号会fpfjJ主主主Jcr巨帝末期妥民化政 110 教育学部紀委第73 琴 策の性格一日本語普及運動を中心に一J W韓国近現代史研究~1995 年第2輯,1995 年2 月(朝 鮮語)。なお,援由利は f 臼帝末期(1938 年~45 年)内鮮一体論と戦時動員体制~(梨花女子大 博士論文,1995 年・朝鮮語)をまとめている。 (22) 前掲,森田芳夫(1987 年),125 頁。 (23) 日本でいう修士論文。なお,大韓民閣では碩士論文,博士論文とも製本・配架され,大韓民毘 の国会盟主委舘,臨立中央闘欝舘,大学校付属鴎芸書館等で閲覧が可能である。 (24) 日本語普及政策場研究臼帝末期(1937~1945) (慶J戦大学 校額士論文,1995 年・朝鮮語)。南高均『日帝豆!(の) 斗1開(にする) 第一章1937 年までの白本語普及・強制政策 第一節1930 :年頃までの各種教育機関における岡本語教育 〈日本語習得の基準〉 112 教育学部紀婆第73 号 第3 表普通学校各学年別r朝鮮語及漢文J 対rs本語J の逓当授業時数表 1911~1922年*, 科医朝鮮語日本語総持荷数及漢文 東十比 学生手(A) 1922~1938年*, 朝鮮語日本語総時間数比率 だった(的。1927 年2 丹の段階でr東亜日報』に掲載され,後に総督府警務局が収録した記録には,「普通学校での日本語」について次のように記されていた。「現下普通学校では朝鮮語を除いた外には全部日本語のみを使用するのであるO のみならず前にも論じた如く取締が極めて甚だしいのである。朝鮮人先生にも必ず臼本語で話させること,自本語に非ざれば質問し得ぬこと,誤って発した朝鮮龍一回に一銭の罰金を取ること。その外些細なものは列挙するに達もないほど苛らく堅いのであるO}9) 初等教育機関の教授用語は,1938 年に小学校規程の第16 条8 号で「教授活語ノ\国語ヲ用ウベシ」と暁記されたがい円上述の通り,それは事実を追認したに過ぎない。 日本統治下末期の戟鮮における臼本語普及・強制政策 〈公立初等教育機関の拡大〉 総督府による公立普通学校の普及は,1919 年度からの三面一校計画(1川こ始まり,1929 年度からの一面一校計画(12)へと移った。また,低い就学率にもかかわらず,一面一校程度の間口では入学希望者さえ収容できないため,これとは別に1934 年からは簡易学校の設置を始めた。簡易学校はこ年間で教育を終了し,上級学校進学の資格もなかった。総督府はこれを「完全教育」と宜倍した。その二年間に,日本語を集中的に習得させた。また,当時「疲弊」状態にあった農村への関わりを農業教育・農業実習によって取り持とうとした。この簡易学校設立にあたっては,改良番堂の利用・転用との関係が深い(1九〈私立学校,書堂における日本語教育〉民族教育機関における臼本語強制状況については概略次の通り。京畿道の例では,既に「併合」直後,日本人教監等の学務関係者が,宮憲の武力で護衛されながら私立学校を調察・指導し,私立学校境問の遊守に関する監督・日本語教育導入等,私立学校の教育内容に対して積極的な介入を行っていた(1。また,総督府は1915 年3 月に私立学校規則を4) 改正しr修身,国語,摩史,地埋,体操」の教員に対して「国語ニ通達シ抵当該学校ノ程度ニ応スル学力ヲ有スル者」であることを求めた{問。そして,1920 年4 月施行の私立学校規則第6 条によって,日本語と修身を必修としたいへ他方,総督府は,芸書堂に対して「急、劇ノ改廃」を避ける通牒を出してはいたものの,1910 年代から京畿道・江原道等では日本語導入等の圧力をかけ続けていた(1九統治初期には書堂で学んだ者を普通学校へ「勧誘」し(普通学校児童・生徒の6"'7 割は書堂出身者),1918 年からは書堂(18)規則により「届出J を義務づけ,1929 年2 丹には私立学校規則の支配を逃れて存在していた規模の大きな書堂及び私設学術講官会を「学校類似事業」として取締の対象とし(1円1929 年6 月の書堂規則改正で,設置を「許可」制とし,日本語等を教える際には総督府編纂教科書の使用を義務づけた(第1条ノ2) (問。以上のような弾圧・規制の中で,私立各種学校は,19日年の1,467 校が1930 年には513 校となり,さらに漸減していくことになる。蕎堂も,1911 年の16 ,540 ケ所が,一時増加傾向を見せて1920 年には25 ,482 ケ所に至ったが,1930 年には1 万余ケ所となってしまった(問。1930 年頃には,数が減ったこれらの教育機関でも日本語教育が展開されるようになっていた。{r臨語講習会」による宿本語普及〉公立の初等教育機関やその他の民族教育機関に通わなかった人々のうち,主として脊・成年男子,勤労者男子に対してはr国語講習所J あるいは「国語講溜会」を設けて日本語を教え込んだ。放課後の公立普通学校の利用による講習会の外,1911 年版『朝鮮総督府施政年報』には「明治四十四年一月以降各道ニ瓦リ内地人教員ノ配置ナキ僻概地ヲ選定シ駐在憲兵又ハ警察官ヲシテ付近ノ篤志者ニ菌語ノ教授ヲ為サシメタリ」とあり(2刊憲兵分遣所・巡査派出所等でも講習所が開設された(問。1919 年の三・ー独立運動を契機に「以来国語講習会は頗る不振の状況」となりr一時之か開館を見合せたるもの多し」と,独立運動後は劣勢になった(判。1920 年代は夜学を中心とした民族教育機関が擾勢となるが(叫,それでも1923 年の慶尚南北道に存在した私設学術講習会383 ケ所のうちr三割程度は,国語(日語)普及のためのものであって,当局の奨励要因が濃しりと判断される程度には存在していた(2九{1930 年の日本語習得率〉以上のような日本語の普及の結巣,朝鮮の人々がどれだけ日本語を習得していたのかを1930 年 114 教育学部紀要第73号 の史料で確認しよう。 1930 年に朝鮮で初めての国勢調査が行われた。この中にl 抗ミノ程度別人口」調査があり,統計上,①「仮名及諺文ヲ読ミ亘書キ得ル者j,②「仮名ノミヲ読ミ③「諺文ノミヲ読ミ且書キ得ル者j,@,仮名及諺文トモ読ミ旦書キ得ザノレ者」の四項目それぞれの1)総数,2 )男,3) 女の数値と,全朝鮮,各道,各府毎の朝鮮人・日本人別人口数がわかる。ここでは「仮名」を日本語,諺文J を朝鮮語と置き換え,①~④のうち朝鮮人の①日本語と朝鮮語の両方きできる者,すなわちι日本語を読み書きできる朝鮮人'(27) の状況を知ることに重点を置いて,(第4表)に朝鮮全土の年齢階層別読み書き人口を示した。朝鮮人人口200 万余(20,438,108 名)に対する「仮名及諺文を読み且書き得る者」は6.79%,就学前の6歳以下を対象外とすると8.37% となる。6~9 歳(第一~三学年児童を含む)では1O~24 歳に比し少々比率が低く,まだ低学年段階での日本語能力は十分ではないと判断できる。また,1930 年時点で,10 歳以上の比率は,特に男子生徒を見ると四分のーを超える。一方,女子就学が進んでいない等の理由で,女子の日本語習得率の低さが際だつていた。次に,(第5表)の史料からは,各道によるばらつき,府(市に該当)と郡の差がわかる。府在住の朝鮮人は既に総数の約四分のーが「仮名及諺文J の読みき,つまり,日本語と輯鮮語両方の読み書きができた。特に男子では,三分のーを超えていた。このように男女主査が激しかった。第二節白中金菌戦争前後の民本語強制政策一.地方議員,宮公吏,学校職員に対する日本語使用強制〈道会における通訳廃止〉日本語の強制・普及は,特に1936 年8 丹,南次郎が朝鮮総督に就任してから,積極的に進められた。1937 年2 月16 日,総督府内務局長大竹十邸側が地方議会で用いる下関語j,臼本語の奨励に関する談話を発表した(制。その内容は,①「遵・府・邑会等では現に全然通訳を廃止してゐる向が少くないj こと,②「地方公職者に於ても範を衆に示す為に蕗めて国語を勉強せられ,勘くとも道・府・邑会に於ては成るべく最穏期間に全部通訳廃止の機運に向はしめられたい」ことを含んでいた{問。但し,国語を解せざる者は議員の立候補ができぬ」というような「資格を制限する様なことは考へて居らない」との断わりもある(3~ これらの意味することは偲か。①の状況に至る過程をこ,三道の事例から確認し,その判断材料としたい。<事例ー;忠清南道>通常道会は,各道ともほぼ2 月,3 丹に行われていた。忠清南道の選会の場合,1935 年2 月27 広道会第一日の予算審議時に,林昌沫議員の予算説明に対する通訳廃止の緊急動議」が出て議なく可決j,この説明に関する通訳が廃止された(3九これに対し,時道会第四日の場合,沈載美議員から議事進行として緊急動議として通訳廃止を提出,議長また休憩を宜し,一時間十五分に宜り別室で懇談したが険悪な空気漉りニ時四十分漸く再会,沈議員の撤回で発つくJ という状況で,通訳廃止は行われなかった(33)。しかし,翌年の選会(1936 年2 月)では,日本語がわからない議員に「専属通訳を付す」ことで公的な「通訳廃jiJに至った(3九<事例ニ;平安南道>王子安南道会におげる「通訳」は,1936 年の道会三日目までの段階で既に為されていなかったが,朝鮮人議員の「緊急動議」によって「公衆通訳」を「復活」させた珍しい例である。r京城日報』 第4 表年齢階層別読み書き人口①ー1朝鮮全土朝鮮人①-2 朝鮮全土日本人 年齢 116 教育学部紀要第73号の報道は次の通り。 「李寛淳議員(安州、1)が緊急動議ありとて発言を求め公衆通訳復活を提案,雀(成}l1)宋(中和)商議員賛成意見を述べ,成るべく公式通訳は廃したき当局の意向に反し対立気分濃厚となり多数議員の圧力を以て議長をして一気に採決せしめんとしたため議場は混乱に賂り議長はやむなく十時四十五分休憩を宣告,空気の緩和に努めたが通訳を復活することが却て議事進行をはかる所以なりと認めて間十時再会,通訳は公式に復活,愈よ質問戦に移った。}35) <事例三;江原道>江藤道会(1936 年2 丹)での通訳鹿止の理由は,時間の節約であった。通訳廃止動議に対し絶対反対を唱えた議員もいたが,少数派とみなされ,結局採決の上,動議が成立した。動議成立高後,不満の意を表す朝鮮人議員もいて混乱したが,.通訳は参与員の答弁にのみこれを付し,議員の質問の際は省略することJ で落ちついた(3九以上を見る眼り,1935 年の忠清南道では,冗長な予算説明を朝鮮語で又繰り返し聞くことを嫌った議員が通訳を止めるように動議を提出したものであって,選会審議の全体にまで及ぶ諜には,まだ「通訳廃止」をできる状態ではなかった。しかし,1936 年には偲別の通訳をつけることで,全体の通訳を廃止した。平安南道の場合,既に通訳廃止状態であったが,朝鮮人議員の「多数」の力で「公衆通訳J を復活させた。反対に,江原道の場合は,反対議員が少数であったため通訳を蕗止するに至るが,不満の主張が強かったため,一定の条件の場合のみ通訳がつけられた。つまり,道会内の状況として通訳は廃止の傾向にあったが,一定の条件で通訳をつける場合,時には廃止された「公衆通訳」が復活する場合もあった。この状況の約一年後,1937 年2 月16 日,すなわち1937 年の通常道会直前に大竹内務局長による談話が発表された。この状況下で総督府が官本語の奨励'という立場を表明したこの談話は,社会的には選会での通訳復活,条件付き通訳の動きを抑える意味を持ったと考えて良いのではないだ、ろうか。地方議会議員の日本語習得状況については,井坂圭一良の記述からわかるo それによれば,.現在朝鮮十三選の選会議員中,知事のイ壬命する所謂官選議員を除いて,選挙に依って選出せられる所謂民選議員は朝鮮人245 人であるが,其の中国語を以って意思発表の出来ぬ者18 人に過ぎず,府会議員中には殆ど一人もなく邑会議員中には418 名中之れ亦儀かに19 名であるoJ という(37)o f現在」が何時であるかは正確には不明だが,1937 年頃の状況であろう。通訳廃止動議を提出したのが,忠清南道・江原道の場合,朝鮮人議員だったことを考躍すると,総督府による朝鮮人聞の「分割統治}38) が進む中で,日本語を理解できない朝鮮人地方議員は,既に通訳必要の主張を搾し通せる状況をつくれなくなっていたのではないか。なお,制限選挙による地方議会の開設は1931 年に行われた(問。

(京城を除いた京畿道,開城,清チ1'[,江原道地方の貰)を見ると,仁川府(京畿道)では,国民総力仁川i府連盟が1940 年12 月10 日,町連盟結成の準備要項と町会準備委員(各町毎捜数人)を決定しI師連盟結成式は十二月末日迄に決行したきにつきその心構へにより至急準婿完了の予定日を申出のこと」との一文をつけ加えていた(6)。上部からの組織化であることがわかる。1940 年12 丹21 日には,各道知事宛の内務局長通牒「地方行政下部組J織ノ整備並ニ由民総力連盟トノ連絡諦整ニ関スル件」が出ている。その内容は次の通り。「今囲国民総力連盟ノ下部組織タル町連盟,調皇連盟及部落連盟等ノ機構整備ニ関シ別途連盟事務局総長ヨリ各道連盟会長宛通牒相成リタル処,国民総力連盟ハ先般ノ改組ニ依リ其ノ運営ノ範閤拡大セラレ地方行政トハ真ニ表裏一体ノ関係ニ立ツコトト為リ此際特ニ町連盟,部落連盟以下ノ組織ヲ整髄シテ下部実践組織トシテ充全ノ機能ヲ発揮セシムノレハ喫緊ノ要務 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策ナリト思料セラノレルヲ以テ地方行政下部組織ノ整備並ニ国民総力連盟トノ連絡調整ニ付在記ノ通方針決定椙成リタノレニ付テハ之ガ指導監督上特設ノ留意相成度依命通牒ス}7) 総督府としてはr地方行政下部組織ノ整備」と「国民総力連盟トノ連絡調整」を体」になって「実践J させるための町・澗里・部落連盟の「機構整備」が目的であった。特に,仁川のような「市街地ニ於ケル時連盟ノ区域J はr町(調車)会広域ト一致スベキモノJ とされた(8)。そして,仁川府の場合,各町連盟の結成は1940 年末までに40 ケ町{9),翌1941 年1 丹末頃に「仁川!日府内五十ケ町全部Jの町連盟が結成した(1九町連盟結成途上の1 月15 日,仁111府に総力課が新設された(1九また,仁川府連盟が2丹上旬に機構改革をする(ロ}など中央部の改革とは時間差が生じている。留民精神総動員運動の時点からそうではあるが,これらの組織を還して各種の皇民化運動の展開が試みられる。総力連盟発足半年後,各地で総力運動に対する視察が行われたが(叫,その時点で仁川府は「全鮮に模範たるべき体制を整へてゐる」という評価であった(14)。<1: 0="0" 101="101" 129="129" 12="12" 134="134" 136="136" 138="138" 171="171" 17="17" 1="1" 20="20" 25="25" 26="26" 29="29" 30="30" 33="33" 34="34" 3="3" 400="400" 481="481" 4="4" 51="51" 542="542" 54="54" 5="5" 69="69" 74="74" 761="761" 85="85" f="f" fj="fj" fllj="fllj" i="i" j="j" li.="li." n="n" o="o" r="r" s="s" w="w">J練の鉄槌く京畿11大京城・怠け者に総苦(15) r国語使用を約束・違反者の罰金を献金{仁川]J W京城日報J1941 年5 月4 日付4面。「かはった献金一府内滋町京仁トラック仁}l1営業所半島人事務員数名は松浦豊次郊,高山龍雄岡氏の発起にて四月五日の神武天皇祭を記念し国語普及を程的に朝鮮語の会話を禁止しもし使用した者は一銭を猿出することに定め,対日までに集まったこ円八十銭を二日軍愛国部に献金したなほ同日朝鮮精米仁川支庖共済組合員一同は百円を同部に献金した」蛇足ながら,同じ紙面に前年末の人口が掲載されている。(r膨れる仁川府・昨年来現在人口十八万余人・大路を抜き第五位へ【{二}lI]JW向上J) 。(16) r国語讃美歌{仁川】JW京城日報J1941 年6 月4 日付4 面。(17) r譲美歌の国語化・仁}l1府が基督教団体に慾窓J W京城日報J1941 年6 Fl7 日付4 面。(18) 前掲r国語讃美歌{仁JII]J W京城日報J1941 年6 月4 日付4 題。(19) r讃美歌の国語化・仁川府が基督教団体に慾懇JW京城日報J1941 年6 月7 日付4面。(20) r盟諸の常用化へ・仁川府が町連盟役員を調査JW京城日報J1941 年6 月11B付4 顔。(21) r単語なりとも屈語を・府から一般家庭へも慾滋【仁川l】JW京城日報J1941 年6 月22 日付4 面。(22) 対象となった教会は,0 良栄町教会O 簡京町内塁教会。花水町教会。花平調製潔教会。龍岡町救世間O 長幌町教会く〉金谷町教会。天主公教会であり,このうち天主公教会のみ毎日,昼間の講習を行った(r閣語の常用から・内鮮一体化へ・耶蘇教各派で‘講習会J W京城日報J1941 年6 月29 日付4 函)。(23) r国語不解の連盟員・学務課と各学校提携で指導{イニJII]JW京城日報J1941 年7 月12 B付4面。(24) rr朝鮮語をやめて国語を常用しませうJ と国民総力平南道連盟では各愛関班員に呼びかけこれが徹底を期してゐるが,朝鮮語廃止の先駆をなした平壌府庁管財課では携に罰則を設け課員以下絵仕に烹るまで違反者には係長以上一回十銭,職員以下一間五銭を徴収し積み立て〉ゐるが,f也の課長から朝鮮語で話しかけられる場合しらずしらずに朝鮮語の会話をなす場合があるので 140 教育学部紀婆第73 琴府庁全体に管財課同様の罰則を設け厳重なる取締を要望してゐる」(,鮮認を使へば罰郎{王子壌JJ W京城日報~1941 年5 fl31 臼付夕刊3 面)(下線部分は繰返記号)。(25) ,画家総力戦遂行と内鮮一体の大方針徹底のためには一間一語の必要を絶対とするとの建前の下に平壌府庁では塁走に罰則まで設けて吏員の朝鮮語禁止,国語使用を断行したが,平南道庁幹部の情報委員会でもサ一日午後の例会で国語を解する庁員の毅鮮語使用を禁止し,励行する一方,道民全体にも盟語の積極的普及を圏ることに決定,道各課長を通じてこの方針を庁員会体にー潜徹底させることになったJ (,戟鮮語の使用禁止・国語奨励へ平南道の街{平壌電話JJ W京城B 報~1941 年5 月23 日付5 商)。(26) ,仁川府内の学校巡り(:h,).児童から家庭へ的・臨認の話方を指導く畠栄由民学校の巻>J W京城白事長~1941 年7 月6 日付4 額。(27) ,国語常用証を三年以上六年までの全児童に最初五枚づっ配付,相手の誰を開はず話し合ふ時に韻語を使はないものがあるときはこれを発見したものが旋を犯したものと認定一枚づつを取りよげ,その罰期として五枚全部を取り上げられたものは-J展開引きつfいて掃除をなしまた五枚を取上げた所謂監視者は,鉛筆一本を給与するといふことにしたものJ (,圏諸常用証・聖心校の妙案{新義チHJJ W京城日報~1941 年5 月20 日付5 面)。(28) 例えば,初等校の経営・米人引揚後の対策J W京城日報~1940 年11 月12 日付がある。(29) r新しき半島風禁(2) ・休暇を利用して帰省学生によって関語会解運動JW緑旗』第6 巻第2 号,1941 年2 fl.175 頁より重引。(30) 向上.176 (31) 向上。(32) 向上.176~177 頁。なお,悶語全解運動」は岩下の意見によるという。(33) 申込は2,500 名もいたが,厳選し800 名としたという(向上.177 頁)。(34) 向上。の(35) 官官掲,街畠均f 日帝Qj日本語普及政策究一日帝末期(1937~ 1945) 慶熊大学校磁士論文.1995 年.67 叶1関電研(にする) (36) ,総督府では国語普及のため例年圏諸講習会を開き全鮮各僻地にまでこれを行ひーケ所につき五十五円の補助費と所要教科書の無償配布を行って来たが,本年度は全鮮に一千箇所講習会を開催し会員を地方青年隊員本位とすることになった,これは銃後の第一線に起つ青年隊員は有話を行ってゐるにも拘らず若し一人でも麗11 常時を間はず、関誌を以て指揮,命令,伝達,訪語を解さない者があっては隊の行動が乱れることを菱へたもので,また青年隊員を通して国語普及の一単位ともなし得る一石ニ鳥を狙ったものである,地方によっては講習会員たる青年隊員が少数で収容の余裕があった擦には一般人の受講を許すことになってゐる,なほ講習会各道割当は友の遜り企京畿110 A 忠北45 A 忠南66 A さを北68 A 全南100 A 慶北101 A 慶南97 A 黄海87 A 王子商63 A 平北77 A 江原74 A 成南67 A 成北45J (,青年隊員中心に・一千の国語講習会を揖き・訓練伝達を完壁化J W京城臼報~1941 年4 月18 日付夕刊2部)。(37) ,第二回全朝鮮国語普及遂動は全鮮二百の中等学校生徒一万人から推進隊を選んで二千四冨万民衆の盟諸全解に遜進することになり主催者側は毎日新報,国民訓練後援会と後援する総督府学務局,警務局,総力遼擦などが万全を期してゐるが推進隊学校別人員は次の如く決定した, 日本統治下末期の朝鮮における日本懇普及・強制j政策これ等の推進隊員は各学校で使用教本で教授方法を授けられ,暑中休暇中十日乃奈二十尽閤づ〉各部落で一日二時間づ〉閣議初歩を教へるものである名,成輿O高女五1'1名,進明高女二九名,晋チO南項高女一五名,徽文中学五7名,O中央中学三永食中学五九名,協成実業一二名,五山中学五O 名,平壌聖緩女高一七名,北青農校五O 名,北青公立職業五O名,淑明高女五O名,祥明実践九五名,普成中学五O名,貞{雪女校二一名,培材中学六O名,群山中学一O名,英彰学校ここ名,永岡農校二三名,平壌第二中学五O名,名,景福中学五O名,京城師範二六O農校六四名,京城霞芸校一六1'1元山棲氏高女五ニ名,済リ、O名,培花高女五O名,仁川商業三O名,明新中学六二名,全列、|高女一00名,沙票読書道女ニ二名,開城松都中学校四O名,同徳高女四O名,城南中学五O名,誠信家政女校ニO名,養正名,城東衡科六ニ名,梨花高O女部一二1'1名,公チO師範五1名,春}lO中学問閤名,水原公農五女一六名,京畿高女四O名,新義州、i公立職業三O名,密陽公農五O名,漢城商業二三名,協成京畿中学三一名,漢栄中学院五O名,笈川保聖三O名,成興永生高女-0名,徳成女実校八九名,沙竪段高女ニ五名,五一校計二、五五一名J (r全鮮の中等生から・国語の推進隊、夏休みかに部落を行部J r京城日報~1941 年7 月1 日付7箇)。(38) 森田梧郎「一つの報告一全鮮国語全解運動についてーJ r日本語』第1巻第8 号,1942 年12 月,38~39 (39) 向上,39 頁。(40) r国語全解運動に推進隊員を派遣・中等学生一万名を動員J r京城日報~1941 年11 月27B 付夕干U3 面,および「国語全解運動・推進隊・既に一千余名J r京城日報~1941 年12 月5 日付夕刊導,専門学校男女学生等の11面。後者によれば,中等学校生以外にも「愛国班長,国民学校訪3 申込もある」という。(41) 内内鮮一体は言語から汐を具現化する一面,半島婦人j習の自覚をイ足して皇国女性の歩むべき道を把握せしめ更に国民総カ遼動推進の一助たらしむる自的の下に緑旗連盟忠日よりi清管州邑図警館を会場として家庭婦人夜学会を関催してゐるが本講習会は留諮普及を主とし持局関イ係系生活改善,衛生,育児法等家庭婦人に時局認識を徹底させると共に常識を溺養することを使命としてゐるため総力連盟側から全楢の支援を得,かつ滋突から街頭へ飛び出した半島婦人層に関語熱や墨田女性たらんとする熱情が謀長り,かねてから斯る機関の開設を待望してゐただけに姿も妾も若きは二十前後から五十幾歳の老婆まで五十余名参加,中には乳呑予をおんぶしてゐる婦人もあり毎夜八時からアイウエオの勉強と時局講話を二時間づっ非常に真剣になって受講してゐる有様は涙ぐましい程である講師には緑旗連盟会員たるi草地方諜勤務高文パス組の松原矯,総カ諜勤務の金村嘱託,学務課勤務の城大出大原視学,本年道担任の徳山主事その他道職員教育家,或はそれぞれの専門家等鋒々たる顔触で全く奉仕的に口口てゐるが講習科目といひ講師といひ恐らく全鮮ーを誇る婦人講習会といって過言でなく,…十一日夜の如き徳山講師の第一議憲兵の労苦と銃後婦人を結びつけた講話には殆んど全部が所も恥ぢずチマで感激の涙をふき終って、実にい〉お話しを聴かしてくれましたかと口々に感識の挨拶をしたといふ嵐に臼毎に新な感激を与へてゐるので本講習会は予期以上の効果を粛すものと期待されてゐるJ (r国語普及を主に・一般常識も遜養・誇る家庭婦人夜学会{清介I]Jr京城日報~1941 年4 月初日付4 溜)。(42) r京城大和塾では事業の一部として「内鮮一体は先づ国語普及から」といふモットーの下に国語講習会を府内全域において開催し府内七ケ所に話下大和議会員を講師として派遣,無産兇童並 142 教育学部紀婆第73 号に米就学青年婦人等に「アイウエオ」から懇切に教授してゐるが既に府内講習生一千三百名に達し全鮮盟諸普及運動の中核をなしてゐる,府内の各議官幸会は左の如し京城大和塾本部,子L徳田語講習会,東部盟諸講習会,占禁石,龍山?,東大門,城北,橋北J( 「大和塾国語講習会J r京城日幸匠~1941 年5 月1 日付3面)。(43) 長田欣也「ファシズム期の思想・宗教統制と『皇民化』政策一植民地朝鮮における教議師・保護司の活動を中心に一J r民衆史研究』第49 号,1995 年5 R,民衆史研究会,67 貰。(44) 高原克己「大和塾の設立と其の活動J r朝鮮』第317 号,1941 年10 月,30 (45) 向上,31 頁。(46) 前掲,森悶梧郎「ふたたび閑語対策協議会に出席してJ r文教の朝鮮』第189 号,1941 年5 月,40 (47) 前掲,高原克己,31 頁。なお,詳細は,京城大和塾12 箇所2,094 名,成輿大和塾2箇所140 名,清津大和勢l筒所160 名,平壌大和塾2箇所254 名,新義州大和塾7箆所1,172 名,大路大和塾1箆所100 名,光州、!大和塾3 箇所250 名,計28 箇所,4,170 名であり,1941 年8 月初日現在,講習会終了者が「ニ千余名」だという。(48) 向上。(49) 前掲,関語全解運動・推進隊・既に一千余名J r京城日報~1941 年12 月5 臼付夕刊3面。(50) ,酪語常用に努めよ・、学生関に近時弛緩の憾ありか・局長会議席上南総督訪iI示J r京城日報~1941 年10R 1 E3付夕刊。(51) ,裏民の道は盟語から・局長会議席上・南総督三度訓示J r京城日幸良~1942 年4 月15 日付夕刊2 部。(52) 原文は不明で、あるが,新聞報道は次の遜り。「、家庭に職場に街頭に,極力国語使用のことを慾慈してゐるにもかかはらず最近や〉もすれば励行されてゐないのは遺憾である,殊に次代の中擦ともなるべき中等学校生徒潤でその甚だしい例をみるかと南総脅から警告を発せられたのに鑑み学務局ではこのほど更に盟諸普及熟口生活化を奨励するため各道あて学務局長通牒を発した国語使用こそは内鮮一体を呉現する最も容易な第一歩であり,初等,中等,大学の別なく全学校では如何なる事情を間はず国語使用を奨励して来たが始政舟ー湾年を迎へた今日ではますますこの原則を徹底して学校から家庭へ街頭へと国語の生活化を臨らうとするもの今後は教室にあって締弟の間ではもとより学生,生徒,克玄関の臼常会話でも絶対に国語を使用し,その熟達錬磨に努め関語使用の雰囲気を醸成せしめようといふのである,なほ国語使用奨励の異体化としては各学校で学校経営案作製の場合,その具体的方法をとり入れてその奨励策を考究してゆくことになったJ (下線部分は繰返記号)(,学園家庭を聞はず歯語を使ひませう・学務局から各道へ機J r京城日報~1941 年10 月8 日付3面)。(53) 持上。(54) ,ゆるぎなき内鮮一体の大濠想実現はまづ箆語普及から出発しなければと国民総力京城府連盟では今田府内宮升十一ケ町連盟機関を総動員して盟語普及運動を展開することになった,実施期は大体七月中旬頃で目下これが普及方法についてはいま一応各町連盟の意向並に事情なども聴取研究するが,国語講習会場は国民学校に指定される模様で,従って講師の陣容も毘民学校の先生が中心となるものと見られてゐるJ (,町連盟を総動員・国誌を普及・7月中旬から講習会」『京城日報J1941 年6 月20 日付7箇)。 日本統治下米穀の朝鮮における日本音書普及・強制政策(55) r国語普及遼動統一・京城作成指導J (務鮮諮)w毎日新報J1941 年8 月9 日付2面。府ぺ講習会規定金(でを) (56) r上層部にも徹底・三連盟の懇談会JW京城日幸弘1941 年11 月12 日付3面。(57) r電車,パスの中でも国語を常用しませうJW京城日報J1941 年11 月12 日付3面。(58) r昭和16.5.23 仁川警察署・軍司令官宛不穏投書犯人検挙ニ子スル件・京城府松幌町八七山本願主主二五・本名ハ昭和十六年三月下旬予テヨリ抱持セノレ学校当局ノ忘願兵勧誘ガ強制的ナリトノ穆僚ヲ靖スベク便筆紙一枚ニf先生半島を何と思って居りますか卑しくも合併した暁としてするべき手段ですか志願兵を強制的にして何んの効力があるぞや今に見ろ先生の横腹を抜くぞ』云々ト朝鮮軍司令官宛不穏投書ヲ為シタルモノナリ・保安法違反昭和16.7.19 送局・起訴・昭和16.9 .18 ・懲役十月J (,民族主義事件検挙状況(自昭和15 年11 月歪昭和16 年10 月)J W昭和16 年12 月⑫第七十九回帝国議会説明資料朝鮮総餐府警務局J81 貰W朝鮮総督府帝閣議会説明資料』第10 巻,不ニ出版・復刻絞,1994 年)。(59) r昭和16.5.23 仁JII警察署・善隣商業学校生ノ不敬不穏言動事件・(改)宮本主主政当18 年・9 fj18 日懲役一年J (,鮮内学校職員並学生生徒ノ,思想、事件検挙誠(自昭和15 年12 月至昭和16 年9 月)J W昭和国年12 月⑫第七十九国帝国議会説明資料務鮮総督府警務局J54 頁朝鮮総督府帝国議会説明資料』第10 巻,不二出版・復刻版,1994 年)。(60) rw大きい兄さんと小さい兄さんの夢を見るJ (忠清南道)一太平洋戦争犠牲者遺族会で日本に補{賞を求める李走破さん(京畿道水原市在住)-J W証言植民地体験ポンソンファ(鳳仙花)日本統治下の較鮮・サハリンの生活一』札幌民衆史シリーズVllI,札幌郷土を撮る会,1997 年,90 賞。第四葉徴兵制度導入決定(1942 年5 月)に伴う日本語普及運動の活発化朝鮮への徴兵制度導入は,1942 年5 月8 日に閣議決定され,翌9 日発表された。この徴兵制度導入発表に伴い,朝鮮における日本語普及運動に拍車がかかったことは先行研究の指摘してきたところである。この藍前のS 月6 日,国民総力朝鮮連盟は第44 回総力連盟指導委員会を開催して,「毘語普及運動要綱」を付議し決定した。富田論文によれば,朝鮮への徴兵制度導入は,既に1938 年2 月に公布されていた「陸軍特別志願兵令」制定過程では「明確な射程距離内に(中略)見通し得なかったj ことが明らかである{ひ。また,宮田氏は,朝鮮総督南が1942 年3 丹に上京した際汽醸構軍および東条首相と協議したこと(~南次長む伝),帰任後の定例長官会議では徴兵誠について報告されていなかったこと(水田富国へのインタビュー)からr南総督のみは,事前に中央政府から相談を受けて了承していたことは確認できるが,その地は局長クラスでさえ知らされてはおらず」という状況を推測している(九とすれば,3 月末以後の皇民化政策,日本語普及関係の動きに関する甫の発言は,徴兵制度を意識したものと考えても良いのではないだろうか。そこでr戦時下の国語運動の(中略)根幹J のーっといわれる1942 年5 丹6 日の「国語普及運動要綱J を前後する日本語普及・強制の動きを,徴兵制導入との関係を意識しつつ検討していきたい。〈朝鮮青年体力検査への動員〉1942 年3 月1""'10 日に,輯鮮軍が朝鮮各地で第一四朝鮮青年体力検査を行った。検査の対象は,1942 年3 丹2 日を基準として「満十八歳及び満十九歳の半島人男子に限る」とされ,府・郡・ 144 教育学部紀主主第73 号庁所在地の現住地主義で行われた(九体力検査実施に関する大野緑一郎総監談話には,この目的として「半島青年の身体の状況を調査して今後の情勢に依りでは志願兵制度の拡充をなし,或は労務動員の適正化を図る上の基礎資料を得んとするに外ならないJ と発言していたへこの実施にあたっては,関民総力朝鮮連盟も協力しており,まさしく「軍官民」の総力で「一人の検査漏れのないやう」に青年を体力検査へ動員した(6)。この結果を検討する塵談会が3 月初日に京城府民館で開かれ,集まった軍・総督府・総力連盟関係者等が意見交換を行った。その中で,高橋軍参謀長が「国語普及の重大さをこの体力検査を通じて非常に痛感した」ことr盟諸の徹底普及が刻下の急務」であることを強調している(7)。体力検査が「洩れなく」実施されようとしていたことは,将来兵力となるべき朝鮮人青年の体力を知ることに直結する。朝鮮軍が体力検査を主導していたことを考えると,徴兵のための壮丁検査の予行演習的意味もあったのではないだろうか。〈学務課の徴兵制度に関する鵠査〉4 月9 日付で,朝鮮総督府学務課が「徴兵制度ニ関スル件・壮了数調」を行った形跡がある。この文書は鉛筆で走り書きしたもので,大野緑一郎文書1265 として残っている。書き残されている内容はr内地y 朝鮮の就学歩合,I日普通学校(六年制)卒業者数,自本語普及状況,推定学齢児童,青訪"所数(在学生,毎年卒業生推定を含む),男子年齢別数(16"-'20,20"-'40 歳),特定技能ある(16"-'50 歳)の各項目であった。「国語普及状況」では1940 年末で「盟諸ヲ解スル者」が3.573.338 名r総人口ニ対スル百分率」が15.57% と示されている(九この文書と南の関係は不明であるが,次に取りあげる4 月14 臼の定例j局長会議における南総督訓示の中の「今日朝鮮内に於て国語を解し得る者尚盛かに十五%内外に過ぎざる状態に在るは海に遺構」という部分が震なる。しかし,この数値の震なりは外の資料から南が沼本語解得者のデ…タを得た可能性もあるため,ここでは,学務課が徴兵制度に関係する、調査をしていたか事実のみ指摘するにとどめたい。間関語義号ゑJiI!皇民91 葉耳L 民F国語を知らなければ農民の蓋恥噛、百学島人豆大東亜戦争斗1参加さトオ!鴇<>l半島人も大東亜戦争に参加するようになり7 トペ柴光とた討を南洋方面へ行って栄光なるλ ト苦豆ラ!斗芸区役に活動する人もいるしかし,彼ら半島青年中にはミラlユ司斗ユ号字島青年中叶11 南洋方面吋軍役吋l活動さト七ニヱ美豆叶01号外調語主主妾ミラ菅斗1 現地土着民らが菌語でたずねた言葉に針答英詩主ラλ ト替玉')!;: 美許斗答えられない人もいるようだ皇閥臣民J主主主^i Ef ユ吾斗指導者豆λT として,また彼らの指導者として曽ロト斗蓋恥警曽包7 ト?どれほど恥ずかしいことか?園民織力成鏡北道聯盟国民総力威鏡北道連盟威鏡北道「国語全解運動実施状況J1942 年5 月(大野緑一郎文審1203 ・『成鏡北道管内状況』所収) 146 教育学部紀要第73 号た。「総督指示」全30 項呂中のこ番目に「国語常用徹底に関する件(苛政局,学務局共管)J が掲げられ(1九各道知事問でも議論になった(後述)。このころ「大東亜共栄圏J の各占領・軍政地では日本語普及が積極的になされだし,時期は前後するが,文部省でも「国語対策協議会」が関犠された(第一囲は1939 年6 月20~22 日,第二聞は1941 年1 月20~23 日)。この協議会はr 日本語教科書の編纂のために,文部省が朝鮮総督府,台湾総督府,関東局,南洋庁,満州、i閤,さらに興亜院の華北・華中・蒙彊・慶門の各連絡部の関係者を招いて開催した会議」であった{叫。日本の支配の及ぶ各地から関係者が招かれたわけであるO 協議会では「各地に於ける日本語普及の状況」が議題とされ(1ヘ様々な実態が報告されたと想像できる。「南方」の日本語普及と比較される機会は十分にあり得たであろう。〈薦方占領地「土人」との対比による「皇民化J 志向の期待〉ところで,総督訓示の「南洋にある半島人」とは一体どういう人達のことであろうか。少なくとも,倖虜収容所監視員たちのことではなく(同,志願兵でもないと思われる{川。総督訓示のこの趣旨は定例道知事会議第三百自の4 丹22 自にも松村忠清南道知事が取りあげている(l九これによれば人忠商の半島人労務者が南洋に出向いた際,土人から日本語で話しかけられたが返事出来ず日本入国籍を疑はれた」ということだ。1942 年4 月はじめには,既に「南方」で「軍属J が戦病死・戦死している記録もあり(川,これは呂本軍が「南方」進攻をしたために超こった労働力動員が原閣でもたらされた事態であったといえる。「南方J と日本語との関係は,総督の訓示のみにはとどまらなかった。5 丹以降展開する「国語全解運動」の中で,少なくとも威鏡北道がこの論理を利用し「国語を知らなければ農民の義恥J (朝鮮語)と題したピラを作成し,この存在が知られる(川。これにより日本語普及を促そうとしたのであった(資料参照)。以上をまとめると,1942 年S 月の「国語全解運動J を促したものに4 丹14 日の南総督訓示があり,そこで用いられた主要な論理に「南方」との対比の存在を確認できた。さらにさかのぼれば,要因のそもそもは百本の「南方」への侵略にあり,侵略地でも日本語普及政策が進められていたこと,侵略に伴う労働力動員のそれぞれが,高の訓示における「霞諾の全解運動を一段と徹底」する論理を構成したのであった。〈国民総カ朝鮮連盟による「圏語普及運動要綱J の決定〉国民総力朝鮮連盟は3 月27~28 日に「朝鮮総力各道連盟事務打合会」を開催している。その指示事項・各道明年度事業概要を見るとr明年度強調事項の概要」の六番目に「国語普及とこれが常用J の項目は見られるが,道レベノレになると日本語普及に関する事項を掲げている道は,忠清北道・全羅北道・平安北道の三道でしかなかった(2九ところが,上述した4 月14 日の総督訓示に対しては素早い対応を見せている。まず,総力連盟事務局総長川岸文三郎(2川ま「総督訓示に却応」して,郎日日本語の普及徹底を強化する旨の談話を発表した{問。4 月16 日,総力連盟の第三由理事会を開催してr昭和十七年度総力運動方針}23lを定めた。この「運動ノ重点」に「閤婦人啓発運動」と「六盟語生活ノ徹底}24lが含まれている。婦人の啓発には日本語の解得をも含む。総力連盟としての独自の活動は5 月6 日の第44 回総力連盟指導委員会における「国語普及運動要縞」の付議と決定であるが,この直前の5丹2日,総費府と総力連盟関係者が集まりr第一回国語普及打合会」を行っている。この打合会ではr国語生活を目標に手近な各種地方官公施設盟体に国語の常用を奨励する一方閤民学校を通じて家庭に普及をはかるため全鮮三千百ケ所の国民学校内に国語講習会場を設置,問所を基点に盟語常用運動を捲き超すことを協議}25lした。まさ 日本統治下末期の務鮮における日本語普及・強制政策 147 に,本格的な臼本語解得に向けた「罰語普及運動」の開始を合意したものだった。実捺上,総力連盟は,朝鮮総督府内の指導機関である司政局との関係で総督府と湾然一体であったし,事実,「司政局では学務局,警務局,情報課,総力連盟と協力して全鮮的に展開すべき運動要繍を作成,成案を得たので,六日の指導委員会の協賛を得たものである}26) という報道記事からはf要綱」案の作成がまさに総督府内で行われていたことを知れる。このようにして5 月6 日,総力連盟指導委員会で「菌語普及運動要J楠」が決定され(2九9 日に発表となる朝鮮人への徴兵制度導入とあわせて,日本語普及に,さらに強制的意味あいが強く込められていくようになる。こうして,「本要綱を基調として全鮮各道にあってそれぞれ各地域に適した実施策を作成,全鮮一斉に国語常用運動を展開する」ようになった。第四重量註(1) 宮田節子『朝鮮民衆と「農民化J 政策』未来社,1985 年,52 賞。(2) f南総督あす東上J r京城日報~1942 年3 月6 日付夕刊1 話。「総督東上臼穏六日午前十一時tt 八分京城駅発,八日鎌倉着,静養の上東上,tt五日帰城の予定」とある。(3) 前掲,宮田節子(1985 年),127 頁の註(6)。(4) f<索報〉青年体力検査三月上旬実施J r朝鮮』第321 号,1942 年2 汚,65 頁。(5) 同上,64 頁。(6) f洩れなく受けよ・)11岸総長持尾の奮起を要望・晴れの、体験グ・あと二日J r京城日報~1942 年3 月8B 付4 面〈京城版〉。報道は以下の通り。f)11 岸総力連盟事務局総長はF体力検査に最後の努力を望む』と七日友のやうに奮起を強調したママ朝鮮に於ける画期的施政である半島青年の体力検査の成績は翠官民一致の総力態勢に依り逐日良好なる成績ををきめつ〉あることは半島の前途に一大光明を点ずるもので淘に御回覧に堪へないところである,然し検査期間の終了は既に自前に追ってゐるので,この擦愛国班長をはじめ各連盟の指導者においては自己の受持範関内より一人も検査漏れのないやう捧尾の活躍をせられ,有終の美ををさめられるやう希望して止まない次第であるJ (下線部分は合字)(7) f会鮮を赤誠と感激に塗りつぶし去る十日終了した第一閤朝鮮青年体力検査の状況やその結果を検討する座談会が対日午前十時から京城府民館で開かれた,朝鮮ではじめての青年体力検査から得た愛重な資料を検査各関係者が一堂に集って語り合ひ,その結果を有効に活用しようといふのがこの集りの根誌である。軍から高橋参謀長,倉茂兵務部長,和田参謀,海軍から武官府黒木大佐,総督府から石田厚生局長,向保健課長,八木警務課長,荻野技部,総力連盟から)11岸事務局総長,御手洗宣伝部長,鳥川i総務部長,京城府市木干士会課長,稲田東大門署長,城大涯学部今村教授,それに開業医の宇野検査正医官ら八十余名が出席,(中略)最後に高橋軍参謀長から体力検査を通じて現れた半島青年の思想、動向や体育状況に対して率直に所信を披渡,午後一時有意義な座談を終った(中略)高橋軍参謀長関諮普及の護大さをこの体力検査を遥じて非常に痛感した,今後このやうな活動には国語を解する,解せない如何によってその目的の完遂如何を左右することだ,それがどうだ,半島のこ都,特に婦人にあっては五分しか国語を解せないことをこの検変に地方を廻って確めた,回諾の徹底普及が刻下の急務である,次は戸籍の整潔である,戸籍令があるのに,無籍者が多くゐるとは半島の恥である,警察,愛国班通じて無籍者の狩出しに努めて欲しいけ 148 教予苦学部紀婆第73号(以下略)(r無籍者をなくし・盟諸を早く知れ・初の、体検戦果H を衝く(座談会)J r京城臼報』1942 年3 月31 臼付夕刊2 酒)。(8) 朝鮮総督府学務課「徴兵制度ニ関スル件・壮丁数調J1942 年4 月9 日調(大野緑一郎文書1265) (9) r密語常用に努めよ・、学生間に近時弛緩の憾ありヘ局長会議席上南総督訓示J r京城日報』1941 年10 月1 日付夕刊。(10) r指導者日本の重責・教育者と婦人層の決意促す・定例局長会議席上:南総督の訓示J r京城臼報~1942 年2 月4 日付夕刊1面。報道は以下の通り。「南総督は三日の定例局長会議にて約升十分に亘り左の如き訓示を行ひ敵性問の窓、想謀略対策,婚人の啓蒙教養,教育機関に携はる者の爾期的刷新の三項目に就いて所信を披露,大東亜共栄圏の指導者育成の霊資を担ふ殺として家庭にあっては母性のカ,外部にあっては小国民錬成の任にある教育者の一大決意を促した{写真=南総督}一.敵'性障の思想謀略対策調各ー.婦人の啓蒙教養時局下における婦人の任務は愈よ重要なり,近来半島婦人の戸外に働くもの檎多きを認むるは喜ぶ、べき現象なるに,その大部分は尚依然として戸内にあり,又時局の認識に付ては甚だ不充分なり,従って二千四宮万の半数を占むる婦人層の自覚活動はこれを内地に比較すれば著しく劣り,動もすれば流雪量言語に迷はされ易し,斯くては銃後に於ける国民志気の昂揚に影響するところ砂からざるべし,大東頚戦争完遂の機会を画し本職は半島に於ける婦人隠の啓蒙教養に一段のカを注がんとするものなり,これが為婦人の務は第一一家の主婦として家政を可り一家の生活を時局の要請する戦時体制に郎応せしむること第二男子の勤労部面の多くなるに従い婦人の勤労が能率化せられねばならぬ,特に農村に於て然り将来を荷ふ国民の母として子女を養育し家庭教育を担任すること然るに半島婦人会にあっては婦人の教育未だ充分ならず,関語を解し得るもの七十七万人に過ぎず,此の如き予言様にては以上の如き話的を遼するは甚だ閣難なり,依って新に婦人啓蒙運動を展開すること緊要なり,本選動の目標は主義罷伝統の口道に則って婦徳の源養,子女教育に重点を置くにあるが,特に前述第三項に全魂を注いで忠良なる皇国臣民を育成し内鮮一体を呉現せしむるを要す,これがためには先づ婦人の党躍を促し,忠誠なる母性の培養を留り,婦人の生産的活動と時局の認識とを場進せしむることを根本義とす本運動の実行は国民総力運動の一部門としてこれを推進することとし主管局及総力連盟において研究企画指導笑行に当らしむることとす今や従来の愛国婦人会,国防婦人会,連合婦人会を打って一丸としたる大日本婦人会の発足に当り朝鮮に於ても大臼本婦人会朝鮮本部を設寵することとなれり,放に本会に於ても将来総力運動の一翼として婦人啓蒙運動に就き活躍せられんことを望む三.教育機関に携はる者の繭期的刷新従来学校教育と笑社会とは動もすれば遊離せんとする傾向砂からず大東頭戦争は亜細堕十億の民衆を米英の授稔より解放日本を盟主とする大東亜を建設せんとするものにして英の着想、は高遜其の所期する処緩めて遼大なり,職に教育に携はる者は其の目標を大東亜の指導者たるべき忠良有為なる皇国臣民の錬成に震き校の内外を関はず,常に国語を奨励し穣緩的に教導訓練すること極めて肝要なり特に間災学校に於ては児童の感受性に禽める時期なるを以て教育者の熱誠と垂範とは児童に影響する処甚大なるを想、ひ,大東耳主戦争を契 臼本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策機として教育界に一大時期を画するが如く教育機関を刷新するに遺憾なからしめんことを望むJ (下線部分は合学)(11) i皇民の道は国語から・局長会議席上・南総督三度認可示J r京城白報~1942 年4 月15 日付夕刊2 面。報道の冒頭に次の記事がある。「南総督は十四日の定例局長会議席上器語普及運動についてその徹底を期する訓示を行ひ,は閤民の思想精神と一体不離であり閤語を離れて日本文化は考へられない,半島人の棄の長田臣民化は半島民衆をして国語を愛用せしめることであり国語全解運動こそは内鮮一体の絶対条件であるとカ強く国語の普及奨励を説いた,閤諾普及,全解運動に関しては昨年九月対日,本年二月三日の各局長会議及び総力連盟指導委員会席上訓示を行ってをり,今回は三度目であり知何に総督が国語普及について熱意を蔵してゐるかf伺はれるものである。」(12) i知事会議・指示事項J r京城日報~1942 年4 月21 日付l面。(13) イ・ヨンスク(李折淑)rr閣諮」という思想一近代5本の言語認識』岩波書感,1996 年,292 貰。この第14章rr共栄簡諾』と日本の『国際化~Jでr思語対策協議会」が中心に取りあげられている。(14) 朝鮮から「協議会J に出席した森田梧郎はその報告を『文教の朝鮮』で行っている。そこでは,戦鮮の日本語普及の現状と計画を示す「国語普及並に思議教育に関する資料」の一部が紹介されており興味深い(森田穏郎「ふたたび国語対策協議会に出席してJ r文教の朝鮮』第189 1941年5月)。なお季刊現代史~8 号でも紹介されている。(15) 停虜監視員は,1942 年5 月1 日ミャンマー(ビルマ)のマンダレ…占領による「南方進攻作戦」が一段落した後に出された方針「南方に於ける停虜の処理婆鎖の件J(1942 年5 月5 日:兵姑総監部発南方軍宛還燦)で,rf字虜収容所編成に方り之が警戒取締の為朝鮮人及台湾人を以て編成する特殊部隊の充当を予定すj という構想から実施されたものであるため,1942 年4 月段構ではまだ存在していなし,(内海愛子,村井吉敬『赤道下の朝鮮人叛乱』劾葱書房,1980 年,27~28 寅。引用は「新装版(1987)J より)。(16) 朝鮮における陵箪特別志願兵の第一期生は,1938 年に募集され11 龍山の京域経箪第一志願者謬r練所で六カ月間(1941 年からは四カ月に短縮)の訓練を終わると翌39 年から入隊」した(林えいだい『証言集・朝鮮人長軍兵士ニューギニア戦の特別志願兵』柘極書房,1995 年,13 「訓練所教育を終えた訓練さ色は,42 年6 月までに約七千名に達し,現役あるいは第一様充兵として朝鮮箪に入隊し,その内六都内外の者は上等兵に進級し,直接日本のF戦力増強』の一翼をになわされたJ (宮間節子F朝鮮民衆と「農民{I::;J 政策』未来社,1985 年,75 頁)。このうち,「龍山の第二O 師団は,(中略)対ソ戦に備えて訓練をしていたが,突然,行先変更で南方戦線行きとなった。日本睦箪の中で,温存していた精鋭を誇る自前回で,その中には約三千人の朝鮮人志願兵が含まれていた」という(林えいだい前掲脅,10~11貰)。また,張隅黙(第ニ0締団第七八連隊)の手記「東部ニューギニア島参戦記」にはr当時,南洋方衝に派遣された十八箪と去ふのは,ニO 師団,四一部団,五一師団以外に,軍直轄独立部隊及び棺当な数の空軍と海軍を併せて,約十四万名の兵力をもって成り立っていたj とありrその中で私が所属していた部隊は,京城(現ソウル)龍山において所謂勅令九十五号『朝鮮特別志願兵制度』によって選抜された,甲種合格者韓国人志願兵一千余名をふくんで,約四千五百名の連隊兵力であった」と記されている(林えいだい前掲書,271~272頁)。林が開き取った証言の五つからは,彼らは「南方」へは行ったがr南方」への出発は金時瑛(第ニ十師団務室第二十連隊)の1942 年 150 教育学部紀要第73号11 月23 日パラオ着という証言を除いて,残りは1943 年1 月はじめに釜山を出発しているため,いずれも1942 年4 月段階の総督訓示に反省する対象とはならない。そのうえ,そもそも日本語能力に欠ける者は志願兵に合格しなかったであろうo 議第二日目瀬戸成鴎知事は全鮮的に国語の全解運動を展開すべきであると提唱,第三日目柳生江原道知事が同様盟語全解運動をUJI.ぶ、など本問題を中心に答申した知事は瀬戸成南,柳生江原,武永全南,松村忠、南,山木黄海,金村全北の六知事で出席知事の半数に奈ってゐる第三日自の如き会議席上において鈴}I同政局長より南総督訓示の涛読が行はれてゐるなど本問題が如何に真剣にとりあげられたか立窺はれよう,意見としては瀬戸威南「閣議常用問題は地方的部分的に行ふ性質のものでなく全鮮的にこれを展開してその成果を期すべきであるJ 武永会南「国語の普及方策としては盟語講習会を各地毘民学校に付設し期間も相当長期にとり六ヶ月簡を一期として行ふならば昭和廿一年までには全解者五割突破を確保し得ょう」松村忠商「忠南の半島人労務者が南洋に出向いた際,土人から日本語で話しかけられたが返事出来ず日本人関籍を疑はれたとの話があるが,新くては大東亜共栄麗指導者の資格も喪失する結巣とならう,関語普及はまましく大々的に行ふべきである」柳生江原「青年隊を中心にその普及を関りたい,青年隊員の半数は毘民学校出身者であり,隊長は国民校訓導が兼ねてゐるからその普及も容易であらうと恕はれる,また工場,鉱山などでの技術用語,公務上の用語はこれを国語で誇らしめるならばその普及も速かに行はれると思料する」金村会北「国語一日一語普及票を作製し樹氏学校児童に教へて簡単な日常語を家庭で普及せしめる,時に該校訪iI毒事が各家庭を査察に赴けばその普及の程度も判明するし優秀なる家庭には標識を掲げてこれを表彰するなどの方法もある」などの意見が提起された,その何れもが実行の熱意に燃え,臼自総督は議事終了後の挨拶〈に際し「王子北,威南,威北はこの際よりー属国語普及に努力されたい会北の施策はほf満足に近いものであるJ と述べその徹底方を強調奨励したJ (,定例知事会議・成果の跡を顧る・会鮮的に捲越せ・国語の全解運動・清新溌東日議場を圧す:臨語常用問題,食糧増産問題,官場の体制服新J r京城日報~1942 年4 月24 日付1面)。(18) ,南方建設の華半島出身の四勇士南方各地で散華した戟鮮関係海の勇士氏名は二十四日横鎮より左の知く発表された。横須賀海軍鎮守府発表..全北益山署s北一溜新龍.a.寧!禽金本映権(臨月九臼ニューギニャ方面で戦病死)..全北益出郡北一部新龍竪軍属高鳳蕃(四月十日ニューギニャ方面で戦病死)..全北完州都雨田箇案山皇軍旗高芸春明(七月ニ十一日南洋群島方面で戦病死)企全北益山郡北一商氷登盟主要属洪英主主(三月三十日ニューギニャ方簡で戦死)J f京城日報~1942 年9 月14 日付朝刊(樋口雄一『農家兵ごとにされた朝鮮人-15 年戦争下の総動員体制の研究』社会評論社,1991 年,111~112,122 頁から援引)。の局長会議席上においても南総督が三度説いた国語の普及徹底化に呼応しでか会B,四月十四7)(1 日本統治下来郊の朝鮮における日本語普及・強制l政策(19) この趣旨に関連するビラが大野緑一部文書に存在するr南洋」のこと着民に日本語で答えられなかった較鮮人の「蒸耳んは,各地域で広く配られたと想像される(国民総カ威鏡北道連盟ビラ「国語を知らなければ皇民の差恥J 成鏡北道「盟諸全解運動実施状況」口大野緑一郎文書1203・『成鏡北道管内状況』所収)。(20) r総カ運動更に高度化へ・各道連盟、事務打合会開ffii"J r京城日報J1942 年3 月初日付2 麗,の真髄発揮・総力運動打合せ会・大成功樫に閉幕」同29 日付2 面。(21) JI!岸文三部は陵軍中将。国民総力朝鮮連盟の前身である国民精神総動員朝鮮逮盟には,1940 年7 fj,専任顧問として就任し,10 月の富民総力朝鮮連盟への改組出発の捺,事務局総長となり,国民総カ運動の中心的指導者となった。なお,JII岸は朝鮮第ニ十師匝の師団長でもあった(森自芳夫『朝鮮に於ける国民総力運動史』国民総カ朝鮮連盟,1945 年3 月,41 頁)。(22) r十四日の定例局長会議における南総督の国語常用普及問題に対する熱烈なる訓示に応へて会鮮愛閤班では国語常会を開き,国語を通して皇閤臣民の錬成に乗り出すことになった,右についてJII岸逮援事務総長は語る本年度の総力運動の震点項目のーったる国語愛用の普及徹底に就いては種々異体案を練ってゐるが,全鮮的に国語生活の大運動を展開し国語教本の印刷配布地方部落における思議講習にカを入れ毎月の愛爵斑常会は国語常会と名づけて成績優秀な部落には表彰を行ふなど本日の総督の訓示に即応してその普及徹底を強化するJ (r常会は閣議・愛関班起つノJ r京城日報J1942 年4 月15 日付夕刊2 面)。(23) r昭和十七年度ニ於ケノレ国民総力運動ハ戟鮮連盟実践要綱中重要項目ノ実践ヲ徹底セシメ征戦貫徹ノ為圏内態勢ノ強化二重点ヲ霞キ半島愚民ノ総カヲ集結シテ如何ナル長期ヲモ戦ヒ抜クベキ必勝体制ヲ篠立スルコトヲ方針トスJ (森限芳夫F戟鮮に於ける掴民総力運動史』国民総力戦鮮連強,1945 年3 月,116 頁)。(24) r半島人ノ皇国臣民化,内鮮一体の完成上国語生活ノ徹底ヲ期スルハ今臼ノ急務タルニ鍍ミ凡ユル施設ヲ通ジテ之ガ具現ヲ図IレコトJ (森田芳夫F務鮮に於ける国民総力運動史』国民総力朝鮮連盟,1945 年3 月,118 貰)。(25) r全鮮の国民学校に・国語講習会設置・常用運動還しく前進J r京城B 報J1942 年5 月38付3 弱。報道は以下の通り。「奥歯臣民の錬成と思想、統ーから南総督の提唱によって盟語常用運動を起した総督府では右運動を一歩前進せしめ,これが実践態度を決めるために二日午前九時から総督府司政局室で鈴川司政局長,古川保安課長,筒井総力課長,本田警務課長等の関係宮を始め連盟側からJlI岸総長,鳥川総務部長,西JI!宣伝課長等の関係者が集まり,第一宙開語普及拡合会を開催し地方の民情並に特殊事情等を基礎に国語普及に関する自標,方策を協議したが,先づ国語生活を目標に手近な各種地方宮公施設団体に閤語の常用を奨励する一方閤民学校を遜じて家庭に普及をはかるため全鮮三三千否ケ所の国民学校内に国語講習会場を設霞,問所を基点に国諮常用運動を捲き起すことを協議,午後零時対分終了した」(26) r盟諸普及運動要綱・連盟指導委員会で決るJ r京城日報J1942 年5 月7 臼付1街。(27) 向上。なお,記事中の「国語普及運動要鱗」は次の還り。「趣旨本運動は半島民衆をして確固たる皇国臣民たる信念を堅持し一切の生活に国民意識を顕現せしむる為悉く国語を解せしめかつ臼常用語としてこれを常用せしむるにある運動要目(ー)常用に対する精神的指導皇国臣民として盟諸を話し得る誇を感得せしむること 152 教育学部品己婆第73号A 日本精神の体得上国語常用が絶対必要なる所以を理解せしむることA 大東亜共栄閣の中核たる皇国臨民として密語の習得,常用が必須の資格要件たることを自覚せしむること(ゴ閤誇を解する煮に対する方策官公署員は率先国語常用を励行することA学生,生徒,児童は必ず、常用することA 会社,工場,鉱山等に於ても極力常用を奨励すること企青年till,婦人会,教会その他集合に於ても国語使用に努むることA 有しくも国語を解する者は必ず国語を使用するは勿論凡有機会に国語を解せざる者に対する教導に努むることと)国語を解せざる者に対する方策留民学校付属国語講習所の開設企各道講習会の関係企国諮教本の配付A ラジオによる議潔A雑誌による講習A平易なる新開の発行A常会における指導A よる一日一語運動A各所在における鴎語を解せる者よりの指導同文化方面に対する方策文学,映画,演劇,音楽方面に対して極力関語使用を奨励することA ラジオ第二放送に国語をより多く取入れることA 諺文新開雑誌に国語欄を設くること(到国語常用者に対する表彰及優先的処遇「国語常用の家」等国語常用者又は笛語普及に功有る者等を表彰することA 公職その他の就職及その待遇等の各般の処遇に付優先的に考慮することれ)批擦官民協力し全鮮的に本運動展開に付ての明朗立熱意ある機逮を醸成するに努むること財閥語普及年次計画を樹立することJ むすび本論文では,特に史料が少なかった1940 年代の日本語普及・強制政策のうち,1942 年5 月の朝鮮人に対する徴兵制度導入決定に至るまでの時期に限定して,以下のことを明らかにした。第一意では,日本語普及政策に強制色が強くなりはじめる1937 年までの日本語普及・強制政策のうち,公立初等教育機関,私立学校・書堂r麗語講習会J に対する日本語使用,日本語強制の状況を整理した(第一節)01937 年に地方議員,官公吏,学校職員に対して出された談話,通牒を取りあげ,1936 年までは道会レベノレの「公衆通訳」をめぐる要不要の議論に「廃止」の方向をつける意味を持っていたこと。法令として文面化せず「通牒J の形をとることで,実費約な日本語使用の撤底を担ったものであったこと。日本語使用の「奨励」を強講ずるが,朝鮮語「使用禁止」には徹底して反論したことを明らかにした(第一節)。また,朝鮮への最初の兵役導入である志願兵制度実施に関連して教育政策も大きな影響を受け,田本語解得状況が非常に重要な意味を持って取りあげられるようになった(第二節)。第二章では,輯鮮総督府が国庫捕助を投入し,初めて全朝鮮的に繰り広げた日本語講習施設である「簡易国語講習会」の概要を明らかにしr全部盟語ガ分ルトイフ予測」を初めて伴った日本語普及政策であったことを示した(第一節)。あわせて,教育令の改正に伴い随意科目となった朝鮮語が実療に「廃止J となっていく過程を検討した(第二節)。これらの結果,少なくとも都市部では歴然と自本語解得率の上昇が認められるに至ったことを示した(第五節)。第三重量では,具体的な呂本語使用強制,朝鮮語廃止の事例を,京畿道仁川府を中心に整理した。但し,地方版の史料が1941 年7 月までであったことに規定され,その後の展開まで追えなかった。仁川府町連盟の日本語解f字民況調査結果は,指導者レベルの日本語「全解」にはまだ距離があったことを示していた(第一節)01940 年末,国民訓練後援会による「国語全解運動J (全朝鮮国語普及運動)が始まった。民間「運動」として,中等学校生徒を長期休業中に動員し,その出身愛国斑等で日本語教育をさせようというものであったo しかし,その「民間j 性も,背景には朝鮮総督府関係者の後押しがあり,二回目以降は学務局,警務局,総力連盟が後援し,推進された。 B本統治下末期の朝鮮における臼本語普及・強制政策大和塾のような独自の組織で日本語普及を行ったところも存在した(第ニ節)。また,1941 年9 丹末には南総督が「国語常用j に関する訓示を出し,以後,各地の学校,学校外においても日解得者相互間では日本語使用が厳しく行われるようになった(第三節)。第四章では,1942 年5 月6 日の「国語普及運動要縄」に至る日本語普及・強制の動きを,徴兵制導入との関係を意識しつつ検討した。1942 年3月上匂の朝鮮青年体力検査が「軍官民」の総力で「一人の検査漏れのないやう」年を動員したことは,壮了検査の予行演習的意味もあった可能性がある。また,高橋軍参謀長は実施過程で「関諾普及の霊大さJ,朝鮮人青年の日本語能力の必要性を感じとった。4 月14 日定例局長会議における「国語普及運動」の「徹底J に関する総督訓示は,それ以前のこつの「国語普及」の指示・訓示とは違いr大東亜共栄閤J において「国家総力戦の一翼を担当すべきJ 朝鮮人は「日夕国語を常用し得るに歪らなくてはならぬ」と強調していた。しかもr甫方j の「土着民J にも劣る日本語の出来ない朝鮮人の姿をクローズアップし,南方の土着民に対する一種の差別感をこと台に,この抑圧構造を利用して,日本語の習得へ向かわせようとする論理が見られた。これは日本軍が「南方」進攻をしたために起こった労働力動員が原閣でもたらされた事態であったが,この論理を利用した「国語を知らなければ農民の蓑恥J (朝鮮語)という広報紙までが登場した。「時局」を巧みに利用した「国語の全解運動を一段と徹底」する論理構築で、あった。国民総力輯鮮連盟の日本語普及に対する動きは,4 丹14 日の「総督訓示に即応」して活発になった。また,5 丹6 日の「国語普及運動要綱」の決定以前に,総督府関係者との打合会や運動要綱の作成を行っていた。この4 月14 B総督訓示が「国語全解運動」において大きな転機をもたらすものになったということができょう。5 月9 臼以前には,総督と朝鮮軍関係者,および徴兵制導入に関する調査をした者以外は徴兵制度導入は知らなかったといわれる。しかし,総力連盟としては専任であり,かつて朝鮮第二十師団長をも務めた事務局総長JlI岸文三部が4 月14 日の総督訓示に見事に呼応して「国語普及運動要綱」への動きを早めたことを考えれば,総力連盟の動きも徴兵制導入発表をかなり意識していたのではないか。以上,全体として,これまでほとんど紹介されてこなかった1940 年代のr京城日報』の記事に大幅に依拠して,日本語普及・強制政策にかかわる諸事項を時系列で整理してきたがr簡易国語講習会J が「全部留語ガ分ル」ことを想定して立てられた計画であったこと,学校教育で朝鮮語が事実上の寵用禁止をされながら,日本語「常用」へと切り替わっていくことを考えると,当初の構想以上に1938 年を前後する時期の日本語の「全解」と「常用j に関する質的変化が重要であれ本論文ではほとんど触れなかった第三次朝鮮教育令や蕊願兵制度導入等の「皐民イ七」政策との関連をさらに深めて検討していく必要があることを書き皆めて置かねばならない。徴兵制度導入発表後,さらに日本語普及・強制に拍車がかかっていくが,本論文ではこれらの検討もなし得なかった。またr国語普及運動要綱」が各地でどのような特色を持って展開していくかについても今後の課題としたい。なお,本研究は文部省科学研究費特別研究員奨励費による成果の一部である。




















































No comments:

Post a Comment