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Thursday, September 20, 2012

coffee shops and floral cities in 1930'




1.

銀座 土地と建物が語る街の歴史
岡本哲志 / 法政大学出版局
2003/10出版
ISBN : 9784588786075
235p 27cm
¥6,300(税込)


本書は、既存研究をベースにしながら、現在の銀座をつくりだしてきた街のしくみ、都市空間の形成原理を土地と建物の関係から歴史的に解き明かしている。
銀座の歴史を四つの章にわけ、各時代の土地と建物の関係性を一貫して重要な柱に据えている。

第1章 和と洋が互いに輝く銀座―江戸・明治初期(記憶から失われた時代;明治初期の銀座と人々の動向)
第2章 今日の素地を築いた銀座―明治・大正期(変容する都市空間とそこに生きた人々;商業地としての銀座の土地)
第3章 都市文化を育んだ銀座の表現―昭和初期(モダン都市・銀座への転回;土地と人が職り成す世界)
第4章 銀座の魅力を追って―戦後から現在まで(破壊と喪失から出発する戦後;街と建築の空間的関係性―低成長期の銀座)

銀座??その不思議な魅力とおもしろさの根源は何か。江戸時代から現代にまで連続するヒューマンな都市の文脈を,土地と建物の変遷を詳細に分析して明らかにする。
著者紹介
岡本哲志[オカモトサトシ]
1952年、東京都中野区に生まれる。法政大学工学部建築学科卒業。(株)都市・建築設計室T.E.Oを経て、1984年に岡本哲志都市建築研究所を設立、現在に至る。日本橋、丸の内、銀座など東京に関する調査・研究、国内外の都市と水辺空間に関する調査・研究に長年携わる。専攻は都市論、都市史、都市計画


http://www.shurakumachinami.natsu.gs/04rensai-page/yuriwoaruku/yuri_tokyo_josai.htm


遊里を歩く
第1話 東京 城西編
遊里とは、遊郭、花街、赤線、青線、カフェー、特飲街、歓楽街、トルコ街、ソープ街、風俗街・・・、女性を求めて男性が遊んだ町の総称である。遊里は、時代を問わず、国を問わず常に存在し続けている。これらの町を「町並み」として観察すると何が見えてくるのであろうか。時代時代の流行やスタイルの現れた独特の意匠に飾られた建物群、共通した立地性と都市計画の痕跡、なぜか現代まで残っている古い町並み、町が栄えた頃の記憶を最も残している町、などなど旧遊里を歩く魅力を語ると尽きない。
我が国の主要都市は多くが戦災を受けているし、そうでなくても都市整備や建物の更新はかなり進んでいる。ところが、遊里は町はずれに立地する場合が多かったり、過去の記憶からであろうか、戦災から免れていたり開発から取り残されている場所が少なくない。つまり、遊里は偶然か必然か、開発の進む都市の中にあって、比較的歴史的な都市景観を残している場所となっているのである。しかし、現役でない遊里たちは、いよいよ都市再編の手をつけられ始めている。歴史的町並みとして脚光を浴び始めている傍ら、町並みとしての最後の火をともし今にも消えようとしている。であるから、今それらの町を歩き体感し記憶にとどめる必要がある。

さあ、これから日本全国の「夢の町」を歩くの旅に出かけることとしよう。
「探訪 遊里を歩く」は私が本拠を置く東京から始める。第1話は日本一の歓楽街、新宿東口界隈をはじめとした城西地区である。

日本一の遊里 新宿東口界隈

新宿・大木戸
遊里を本格的に歩き始めて5年、やっと新宿遊郭跡(現新宿2丁目)を歩くことができた。それまでこの街に足を踏み入れたことがないわけではないが、「いつでも来られる」場所ほど行かないもの。2008年2月、現役の遊里ゆえ早朝を狙った。しかし、早朝だというのにバーからはカラオケの歌声が聞こえてくるし、酔っ払いが通りをフラフラと歩いている。「何してるんだ!」などと絡まれてはマズイ。気をつけながら写真を撮るが、既に赤線・青線時代に建てられたカフェー調の建物は姿を消していた。遊里に詳しいサイト「花街ノスタルジア」によれば、1993年ころまでは残っていたというが、時すでに遅し。でも、小さなバーが密集している形態は面白い。
ここから甲州街道を上った大木戸(四谷四丁目)あたりにも遊郭があったようだが、現在は一軒の旅館と銭湯がある程度だった。

新宿2丁目
甲州街道内藤新宿に分散していた遊郭が、大正期に一か所にまとめられたのが現在の新宿2丁目の始まり。戦災で焼け、戦後赤線・青線となり現在のゲイの町へと遊里の歴史は変遷してきた。

大木戸
今では旅館が一軒と銭湯があるのみ
歌舞伎町 ゴールデン街

2003年暮れ、新宿歌舞伎町の名曲喫茶「スカラ座」が取り壊されるというニュースがテレビで流れた。それまで歌舞伎町は単純な風俗街だと思っていたのに「名曲喫茶」がなぜ?。いやいや歌舞伎町はもともとは健全な?歓楽街として誕生したのである。そういう目で歩いてみると確かにいかがわしくない店が結構ある。たとえば風俗店の隣に八百屋があったりする。その象徴が新宿区役所で、風俗店密集地帯の真っただ中にデーンと居座っている。風俗店に侵食されてた街の中にそれ以前の街の要素を見つけるのが、歌舞伎町ウォッチングの面白いところ。最近では呼び込みが禁止されているので、歌舞伎町も安心して?歩ける。
歌舞伎町から区役所通りを横切ると小さな飲食店が密集する地域=新宿ゴールデン街がある。木造2階建ての飲食店が規則正しく区画され並んでいて、同じように袖看板を掲げ、それぞれに違った店構えで独自性を表現している。こういう街は常連客でもっているのであろう。かつて私も「花の木」とかいう店に2か月に1度のペースで通ったことがあるが、行かなくなった今でも毎年年賀状が届く。このゴールデン街、再開発されると言われて久しいが、最近では改めて脚光を浴びているようだ。こういう空間=汚い・危険というイメージから、珍しい・ホッとするというイメージに変わりつつあるのであろうか。かつては私娼がいた青線だったが、今では昔ながらの店のほか新しい発想の店も入って街の魅力を高めているようだ。


新宿歌舞伎町
いまや日本を代表する風俗街がだ、もともとはそればかりではなかった。町並みとして観察すると面白い街だ。

新宿ゴールデン街
小さな飲食店が花園神社の前に密集する。新宿駅前の闇市が移転してできた町。昭和33年売春防止法施行までは青線だった。
超高層ビル群の足元の旧花街

十二社
新宿副都心の超高層ビル群の端にあるにある新宿中央公園の西側の通りを十二社通りという。十二社(じゅうにそう)とは、神田川の谷に臨む弁天池(現十二社通りの西側一帯の細長い池)に、熊野神社ほか十二社を祭ったことにちなんむ。熊野神社は、応永年間(1394年~1428年)建立され江戸名所の一つだった。その弁天池の西側のやや高い所に花街が形成されていた。昭和40年当時で、料亭24軒、芸者60人という。現在、弁天池は道路とビル敷地になっているが、花街時代の階段や路地が残っていて、今でも料亭や旅館の建物が見られる。また、この旧花街の奥の新宿四丁目界隈は丘の上の街で、細街路に戸建住宅が密集し、振り返ると東京都庁をはじめとする超高層ビル群がそびえている。その対比は全国でも西新宿ならではの珍しい風景だ。

中野新橋
地下鉄丸ノ内線、中野坂上駅より方南町行きの支線に乗り換えて一駅、中野新橋駅で降りる。駅すぐにある赤い欄干の橋が「新橋」で、神田川を渡った右手一帯がかつての花柳界、いわゆる三業地(芸妓置屋、待合、料亭)のあった場所だ。昭和41年ころで、料亭41軒、芸者130人だったという。
昭和40年代まで花街だった割には面影がかなり薄れている。神田川も堀が深く改修されており、かぐや姫が唄う「神田川」の風情はない。それでも、歩いてみると料亭が数軒残っていた。ビルの1階に入っているものが多いが、玄関周りにらしさを演出している。川から離れたところには、一時若貴兄弟とともにテレビによく登場した旧二子山部屋=貴乃花部屋があり、その向いに戸建ての料亭があった。


新宿十二社
新宿副都心の新宿中央公園の脇の十二社通りの熊野神社と反対側の一角に、旧花街の町並みが残る。この階段を降りたところが弁天池畔だったという。

中野新橋
神田川を臨む花柳界は今では住宅街。それでもマンションの一階で営業を続けている料亭はある。中野新橋は貴乃花部屋(旧二子山部屋)がある街として有名になった。
二つの副都心に残る旧三業地

渋谷円山町
渋谷という街はその名の通り谷が集まっている。渋谷駅を中心とするいくつもの谷筋と尾根筋に性格を異にする街が隣り合って存在している。地形にしたがって街が複雑に形成され、時代とともに変化しているところが渋谷の面白いところである。渋谷センター街から宇田川町、公園通りにかけてが現在の商業の中心だが、109から先の道玄坂や東急本店界隈はというと、その前の時代の中心だった。道玄坂はもともと大山街道の宿場町があったところで、道玄坂と神泉谷の間の丘=円山町は今でこそラブホテル街だが、明治以降花街(三業地)として栄えたところである。昭和40年に料亭84軒、芸者170人が居たというから結構大きな遊里であった。今、円山町のラブホテル街を歩くと、その間に遊郭時代の建物がわずかながらに残っている。円山町に接する谷底の街神泉町もまた遊里(二業地)であった。その先の丘は、一転して高級住宅街の松濤となる。

池袋
もう一つの副都心、池袋にも三業地はあった。池袋の歓楽街、風俗街と言えば駅の周辺に広がっており、そのどこかが旧花街だったのではと想像するところであるが、実は全く離れた場所だ。池袋北口を出て歓楽街を抜け、トキワ通りを越えて点在するラブホテル以外に色気の無くなった町を西へ曲がると「三業通り」と呼ばれる商店街に出る。ここがかつての花街であったことは通りの名前から疑う余地もないが、三業通りの南側一帯に「夢の町」の痕跡を色濃くとどめている。駅前の商業集積地区から離れていることが幸いしているようだ。


渋谷円山町
道玄坂を上ったところから西側に入ったところがかつて三業地だったところ。現在はラブホテル街だが、わずかながら名残を感じることができる。

池袋
池袋は新宿に次いで歓楽街風俗街の盛んな町。しかし、かつての花街は駅前の商業集積地区からずっと離れた場所にあって、夢の町の痕跡を色濃くとどめていた。
郊外住宅地に息づく旧遊里

新井薬師
新井薬師は通称で正式には「梅照院」というお寺。御本尊は薬師如来と如意輪観音の二佛一体の黄金仏で、そのご利益は徳川二代将軍秀忠公の第五女和子(東福間院)がかかった悪質な眼病を祈願して快癒したことなどから「眼の薬師」、第五世玄鏡が如来の啓示によって小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれ、古くから江戸の庶民信仰を集めていた。江戸からの参道は南東から、鉄道ができてからの参道は北東の西武新宿線新井薬師駅からになる。
人が集まるところには必ずモノ・食・遊の消費する場ができるわけで、商店街は両方の参道に沿ってL字型に形成されている。そして遊里はといえば、門前の薬師柳通りと薬師銀座との間に形成された。古くは「薬師芸者」として知られ、昭和41年当時で芸者50人、料亭15軒ほどがあったという。薬師銀座商店街から路地を入っていくとスナックや居酒屋、質屋の看板が現れるから間違いなく旧遊里とわかる。外壁にモルタルを吹き付けたカフェー調の店もあれば色気のある意匠が施された和風の建物も見られる。それは薬師柳通りの対岸までみられたので、古くは割と広範囲だったのだろう。

調布
甲州街道の宿場町から東京郊外の住宅地へと発展した調布は、かつて大映や日活の大きな撮影所のある町だった。調布駅北口の仲通りに戦後できたカフェー街には、当時14軒の店があったというが、今では面影は全くない。調布で生まれ育った私(野村万訪)は、ここに料亭があったことを記憶している。


新井薬師
西武新宿線新井薬師駅から長い商店街を抜けると新井薬師。門前を通り過ぎた薬師銀座の表通りから脇道を入ったところが旧花街だったところ。

調布
戦後カフェー街があったところ。今では面影は全くないが、調布で生まれ育った私(野村万訪)は、ここに料亭があったことを記憶している。
飛行機乗りたちの新旧の色街

立川
立川駅の1kmほど東に2つのカフェー街があった。錦町楽天地は三業地のあとに戦時中に洲崎の業者が入り、戦後進駐軍向けの接待所(RAA)を経てカフェー街となったもの。羽衣町新天地も戦後つくられたものである。南武線の東側にある羽衣新天地から歩いてみた。中央に幅広の通りを配置して両側を規則的に街区割りした町はいかにもそれとわかる。当時の建物と思われる「都営住宅のような平屋建て」住宅が一軒残ってたが、ほかはアパートやマンション、駐車場になっていた。
南武線の踏切を西へ渡ると飲食店街になる。旧赤線だった錦町はそこから北へ入ったところ。羽衣新天地のように通りは広くないが整形に区画された町で、何も知らなかったら単なる住宅地である。しかし、意識して見ると飲み屋やスナックが点在していることに気づく。地名には「楽天地」の名称は一切ないが、電柱の表示に見られた。

福生
福生は米軍横田基地がある町。福生駅東口を出て800mほど離れた横田基地第2ゲートに向かって歩くと250mくらいの所に、基地へ向かう通りとは直交する形でパブ、スナック、バーがずらっと並んでいる町がある。駅の近くでもない、基地の近くでもないところに突然現れるところが不思議だ。建物は平屋が多く一直線でいかにもアメリカっぽく感じるのは先入観からであろうか。かつては赤線だったという。
一方、基地の前は国道16号線でトラックがごうごうと走っているが、その片側に横文字の看板を掲げた商店が並んでいる。その風景はまさにアメリカ。範囲は第2ゲートから第5ゲートあたりまでである。身近でアメリカを感じることのできる街だ。


立川
戦前戦中は陸軍、戦後は米軍の飛行場のあった立川。錦町楽天地、羽衣町新天地は、ともに戦後開かれた色街。米軍の飛行機乗りたちがここで遊んだ。

福生
駅の近くでもなく基地の近くでもない中途半端な場所に、突然色街が現れるところが不思議。
西東京の機業地に残る旧遊里

八王子 八王子田町
近代産業で隆盛をみた八王子であるが、残念ながら市街地のほとんどが戦災で焼き尽くされていて歴史を感じる町並みは乏しい。旧甲州街道沿いは商店街、旧野猿街道に伸びた町は飲食店街として発展していて、中町から南町にかけてはかつて花街だった。戦災に遭っているので戦前の建物はないが、伝統的な意匠が用いられる料亭建築やスナック店がかつての歴史を物語っている。
宿場町時代の遊郭は甲州街道沿いの横山町や八日町にあったようだが、明治30年の大火の後、市街から離れた浅川の近くの田んぼのど真ん中に集められた。中央に並木の植えられた大通りがあって両側に十数軒の妓楼が並んでいる。当時は入口に大門があったそうだ。終戦後は米軍が通い、その後は赤線となった。東京の貸座敷免許地(遊郭)で戦災を免れたのは、千住、品川とここ八王子田町だけだったというから大変貴重な一角だといえよう。

青梅
青梅も古くから機業地として発展した町で、旧青梅街道に沿って青梅駅から西の上町~森下町界隈に古い土蔵造りや塗籠造りの町家が残っている。一方、駅の東側は昭和に栄えた遊興地、町おこしで昭和レトロ映画の看板をあちこちに掲げている。駅を出てすぐ左(東)の通りが三業通りで、飲食店が並んでいる。ここがかつて花街のあった場所であろう。現在でも当時の建物が残り、飲食店や仕出し屋、旧検番所などがある。三業通りと青梅街道との間が仲通り。仲通りがぶつかる直交した通りがキネマ通りで、青梅街道からの入口の所に映画館「青梅キネマ」のあったところからこう呼ばれており、レトロな昭和モダンの商店建築が見られる。青梅街道には出桁造りの町家があって「昭和レトロ商品博物館」など観光スポットにもなっている。そして青梅街道を渡り、多摩川へ向かって坂を下るとかつては旅館であったであろう建物があり、とてもいい坂道の町並みが残っている。


八王子
八王子駅周辺の商業集積地域のはずれに花街があった。

八王子田町
田町遊郭は明治30年の大火をきっかけに市街地から離れた浅川近くに集められた新地遊郭。戦災で焼けていない東京の遊郭は、千住と品川とここ八王子田町だけだった。

青梅
機業地として栄えた東京最西端の都市青梅であるが、ここにも花柳界はあった。青梅駅のすぐ東側にある三業通りがそうだが、青梅街道を渡って多摩川の方へ下る崖線にも古い旅館のような建物が残っていた。
すり鉢状の特異な空間の花街

荒木町
四谷の荒木町は江戸時代の松平摂津守の屋敷跡にできた花街である。明治維新後、広大な屋敷が分割され売られる過程で生まれた。芝居小屋がつくられたのをきっかけとして、池を中心としたすり鉢状の高低差のある地形の上に芸妓屋、待合が並び、軍人や学生相手の花柳界として栄えたという。
新宿通りからアプローチする杉大門通りは飲食店がひしめきあっており途中を外苑西通りが分断している。そこから池に降りていく道は折れ曲がった石段で古い建物や洒落た外灯が建っている。かつての池の底地には住宅で埋め尽くされているが、わずかな池が残っていて弁天様が祭られている。花街にはかつて芸妓150人、料亭14軒、待合36軒あったという。花街としての面影をしのぶとともに、特異な地形を楽しみながら街歩きをすることができる。

このページを書くにあたって久しぶりにに荒木町へ再取材に出かけた。旧池の上の町の中に10年前見落としていた町並みを確認するとともに、窪地の底にも料亭が存在していたことを今頃知った。見る目がなければ旧遊里もただの町なのである。そして、荒木町で一番好きな石段の坂道を登って行ったらなんか変だ。もっと狭かったはずなのに広く感じる。そうか、道ギリギリに建っていた建物が建て替わってしまったからだ。ん~っ、悲しいけどしょうがないのか。街から見上げるバブルの塔(バブル崩壊で工事がストップしていた高層ビル)にはちゃんとテナントが入居していた。


荒木町
上の町から底の町へ下る石段の坂道。建物に挟まれた狭く曲がった空間がよかったのに、現在は画像左手の建物がマンションに建て替わって視界が開けてしまった。デザインされた外灯は旧花街を証明する要素の一つ。

荒木町
すり鉢状の窪地の底にも料亭建築はあった。10年前に訪れた時には気がつかなかった。
次回、第2話は東京城南の遊里を歩く。





















http://www.shurakumachinami.natsu.gs/04rensai-page/yuriwoaruku/yuri_tokyo_johoku.htm



遊里を歩く
第4話 東京 城北編
東京城東編から隅田川を渡って旧江戸墨引内に戻ろう。城北編は江戸東京を通じて市中随一の歓楽街として発展した浅草を皮切りに下町の遊里を巡り、九段から山手の谷部に形成された遊里を伝って再度北上し、大正期以降に新設された郊外の花街・遊郭を歩く。まずは京の島原と双壁をなした吉原からスタートだ。

下町の遊里 浅草~上野周辺
吉原

『全国遊郭案内』(昭和4年)より吉原を引用しよう。

「全国で何千とある遊郭の其の総てが湯女または飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原だけは、最初から遊女屋として開業されたものである。(中略)最初に遊女屋を開業したのは庄司甚左衛門又の名を大阪小甚内という人で、慶長18年、今より約320年前に今の日本橋芳町へ開業した。その処はさびしい墨田の川岸で、四辺は一面葦原だったので名も芳原と命名したという事である。その後元和3年の火災にあい、直ちに同年3月現在の吉原に移転して今日に至ったものである。(中略)吉原の現勢としては、引手茶屋が45軒、貸座敷業が295軒、紅唇の娼妓が3560人働いている。震災後の建物は半永久的なものであるが、震災前の物に比べ何れも皆近代味を取り入れて、何処も彼処も明るい感じのする純日本風の建て方が何よりも悦ばしい傾向である。・・・」

その後戦災で全焼した吉原は、戦後は一時、進駐軍向けの施設がつくられ、進駐軍撤退後は赤線のカフェー街となり、現在のソープ街へと移行した。江戸時代は中心市街から船でアクセスしたため山谷堀側に大門があった。街区は中央の大通りである中之町通りを軸に大門側から見て右側手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側手前から江戸町二丁目、角町、京町二丁目と配置され、中之町通りの奥に吉原神社という構成である。
現在の吉原は、近年建て替えられたソープランド店が表通りを占める一方で、戦後のカフェー街時代の建物を町中に散見できるという町並みである。

この吉原、私が遊里探訪を始めた初期のころに訪ねた街で、遊里探訪の鉄則を心得ていなかった頃。朝7:00に街に入って写真を撮りまくった。しかし、吉原は朝から営業している店があって呼び込みが立っている。よくおっかないお兄さんに捕まらなかったと思う。




吉原全景

江戸町一丁目の町並み
ここはソープランド店が軒を連ねる

京町二丁目辺りとなると現役営業の店はなくなる。戦後カフェー時代の色気あるモルタル系の建物が残っている。
浅草花街

江戸時代より、浅草寺の周りには参詣客を相手にした飲食店街が集まり賑わっていた。浅草寺門前の田楽茶屋の酒客を相手に生まれたのが田楽芸者とも呼ばれた「広小路芸者」である。また、新吉原遊郭大門外の浅草田町には、山谷堀に面する編笠茶屋や船宿を出先とした「堀の芸者」が生まれた。さらに、天保の改革で江戸市中にあった歌舞伎の三座、人形芝居の二座が移転して芝居町が形成された猿若町(現在の浅草六丁目)には、芝居茶屋を出先とした芝居芸者(櫓下芸者)が誕生した。これら三か所の花柳界を背景に、浅草は江戸府内随一の歓楽街として発展した。

明治18年(1885年)の浅草寺境内整備を契機に広小路、山谷堀、猿若町の芸妓の一部が集まり、公園内の飲食屋を出先にした、現在の浅草芸妓のもととな公園芸者が生まれた。やがて、花街は公園内から浅草寺北側の現在の位置に移り、大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1060名と東京随一の規模を誇るまで発展したが、関東大震災と戦災で壊滅状態となってしまった。しかし、戦後も花街として復興し、今でも花街としての活気と風情を感じることのできる街となっている。



現役の花街らしく三業会館(検番所)がある。

高級料亭から小料理屋まで広範囲に街を形成している
根岸

鶯谷駅の東側が根岸界隈。金杉通り(旧奥州裏街道)に沿って江戸から明治にかけて発展した地区で、正岡子規をはじめ文人や画人なども多く住む「呉竹の根岸の里」とも呼ばれていた。

金杉通り沿いには、明治から昭和初期に建てられた町家が多く残っている。金杉通りの北側にほぼ並行する通りは、大正10年に三業地の許可が下った遊里だったところで、大正15年には、芸妓置屋40軒、芸妓139人、待合30軒があった。それらしき家屋が数軒見られる。



花街の遺構はほとんどないがそれらしい一角。
上野

上野は江戸期以来の繁華街・行楽地である。中でも上野広小路はその中心地で、江戸城の鬼門鎮にあたる東叡山寛永寺の門前町から発展し、東北方面からの玄関口である上野駅がその命脈を維持してきた。広小路にある松坂屋デパートは江戸期の呉服店が拡大発展した老舗である。

その上野広小路の西側、不忍池から松坂屋がある春日通りを南へ渡ったブロックまでの広いエリアが上野の花街である。北から池の端、数寄屋町、同朋町と呼ばれていた。「全国花街めぐり」(昭和4年)によれば、芸妓置屋180軒、芸妓420人であったという。

この街は残念ながら戦災に遭っているためかつての花街を感じることのできる風情は残っていないが、戦後発展した昭和の歓楽街の色濃い町並みとなっている。特に東西に中心を貫く仲通り沿いには焼け残った鉄筋コンクリート造の建物が二棟残っていて歴史を感じさせてくれるほか、仲通りと春日通りとの間は路地状の飲食店街となっていて夜歩くと楽しそうだ。

年の暮に賑わうことで有名なアメ横は、上野広小路をはさんでこの繁華街のすぐそば。ガード下集落として見ると面白い。



中通りに面する戦前の建物。花街一帯は戦災で焼けているので、このような不燃建築が数棟残っているにすぎない。

アメ横のガード下集落。戦後の闇市から発展した商店街。
湯島

東京大空襲の時、旧市街の下町では北西の風にあおられて燃え広がったと考えられる。大きな緑地や川、大通り、震災復興小学校などの不燃建築物の風下側の町は焼け残った場所が多い。文京区湯島3丁目の一部は、湯島天神の南東側に位置しており、戦災を免れた戦前の町並みが見られる。しかし、大正12年の関東大震災では被災しており、復興小学校である黒門小学校がある。小学校の南側も焼け残った場所であり、火除けとして建てられた不燃建築物の効果はあった。しかし、現在では小学校周辺では残っていない。

町並みは湯島神社の男坂、女坂を下ったあたりが見所で、伝統的な出し桁造りの町家が数棟見られる。ただ、都心部は現在、住宅建設ラッシュで、すごい勢いで建て替えが進んでいるので、町並として認識できる景観はここ数年が命といった感じである。
また、湯島天神の西側、中坂の上は明治維新後に栄えた三業地で、「全国花街めぐり」(昭和4年)によれば、芸妓置屋59軒、芸妓120人、料亭15軒、待合31軒が存在していたという。今ではラブホテルの間に小料理屋が数軒見られる程度だ。




湯島神社下の町並み
花街は丘の上だったようだが、風情はこの辺りに残っている

神田講武所

江戸時代、神田には江戸幕府御用達の市場があった。神田明神下には市場の旦那衆が遊んだ花柳界が形成されていた。その起源は、現在の秋葉原駅前付近にあった武術の練習場である「講武所」を運営するために開かれた町屋敷だったと言われる。そのため、ここの花柳界の芸者は「講武所芸者」と呼ばれ、明治期から戦前まで夜の繁栄を見せていた。神田講武所なる花街の範囲は、神田明神下交差点を中心に、外神田2丁目から3丁目にかけてだったというから、現在の神田明神下から秋葉原駅までの一帯にあたる。現在、その面影が一番感じられるのは神田明神のすぐ下のあたりだが、秋葉原電気街の中にもそれらしい建物が点在している。



神田講武所花街の範囲は何と秋葉原電気街もそうであった。確かに電気屋さんの間に飲食店をやっている戦前の建物が残っていることに驚いたことがある。
画像は神田明神の下で、面影が残っているエリア。
山の手の遊里 神楽坂~白山
九段

九段は都心部山手台地上の住宅文教地区。江戸時代、幕府が傾斜地に九段の石垣を築き、御用達屋敷を建てて九段屋敷と呼ぶようになったのが地名の由来という。明治2年に九段坂上に招魂社を設置し、明治維新前後の戦死者を祭った(後の靖国神社)。九段坂は山の手と下町を結ぶ急坂で、江戸時代は石段だったが明治期に坂道となり、関東大震災後の復興事業で大改修され現在のような長い坂になった。現在でも坂上は武家屋敷町、坂下は町人町という江戸期の土地利用の様子を体感できる場所。

九段坂上の靖国神社からみて靖国通りの反対側には戦前まで富士見町と呼ばれた花街があった。富士見町といえば靖国神社の北側だが、かつては南側も町域であった。昭和初期には芸妓置屋100軒、芸妓340人、待合120軒があったという。九段から麹町にかけての一帯は戦災に遭っているので古い建物は残っていないが、花街の面影がほんの少しだが残っている。



富士見町花街の面影は料亭が残っている程度。
神楽坂

JR飯田橋駅の西口を下りると江戸城外堀跡の牛込見附がある。そこから外堀と外堀通りを渡って西へ上っていく坂が「神楽坂」である。意外と急な坂を上りきると左手に「毘沙門天」がある。神楽坂はこの毘沙門天の門前町として江戸時代より発展した。門前町といえば遊郭がつきもので、坂の北側一帯が、明治期には銀座以上と詠われた遊郭である。

神楽坂は戦災で殆ど焼けたと言われており、戦後の航空写真を見てその様子が確認できる。しかし遊郭エリアは、従前の細く入り組んだ路地の構成が戦後に引き継がれた。その路地を徘徊すると、遊郭らしい石畳、黒い板塀、板壁や黄土色のリシン吹付け外装の建物、小さな庭の緑、背景にはオフィスビルやマンションが見えるという、独特な都市空間を体験できる。

この料亭(現おにぎり屋)は最近火事で焼失したため現存しません
白山

現在の文京区白山は、旧小石川区指ヶ谷町、白山前町などを合わせた新しい地名で、地域内にある白山神社に由来している。旧指ヶ谷にはかつて花街史上重要な花街があった。
明治期、幕藩体制の転換とともに武家屋敷地の土地利用転換の一つとして花街の形成があった。しかし、明治後期に風紀取り締まりのために指定地以外の私娼街は存続できなくなった。つまり、取締りを始めた時期にそれまであった「慣例地」だけに限定され、明治末期まで都心部では新たな花街が生まれることはなかった。
そんな花街の増殖を抑制していた明治期、小石川で酒屋・飲み屋を経営したいた秋本鉄五郎という人物が、三業地指定の許可を再三警察に申し出ながら政治的な手段も使って明治45年に指定地許可を勝ち取った。こうして生まれたのが白山の花街である。白山は樋口一葉の『にごりえ』の舞台となっていた私娼の街という下地はあったものの公に認められていた場所ではなかった。それまで既存の営業を行っていなかった場所には許可をしないという原則を破り、白山に三業地二業地指定の許可が下ったことは、大正期に多くの新花街を誕生させるきっかけとなった。昭和初期で、芸妓置屋160軒、芸妓60人、料亭39軒。

都営三田線春日駅と白山駅の間、白山通りの一本東側に商店街がある。その商店街と本郷台地との間のエリアが旧白山花街である。戦災からも免れているため花街時代の細い路地に木造2階建ての建物が結構残っている。外装は下見板張り系が多く屋号が刻まれているものもある。戦前の家屋がこれほど残っているのもすごいが、花街時代の空間がこれほど色濃く残っているのは驚きだ。



白山は戦災を免れた山手の花街である


城北郊外の遊里
大塚 駒込

大塚は江戸時代には江戸北西の郊外地であったが、1903年(明治36年)大塚駅開設後しだいに発展し、王子電気軌道(現都電)の開業後は駅前商店街が成立した。第二次世界大戦までは池袋をしのぐ城北の繁華街であったが、戦後は東京の住宅地が西進したため停滞した。 大正7年に大塚に二業地の許可が、続いて大正14年に三業地の許可が下りた。大塚駅前の天祖神社周辺にはお師匠さんたちが集住し「大塚遊芸師匠組合」が組織されていたため、当初神社周辺に地区指定が期待されていたが、許可が下りたのは駅から東方にやや離れた場所であった。
大塚駅の南口を出て大通りを東へ渡ると「大塚三業通入口」なる看板が現れる。その名から容易に花街であることが分かる。大塚三業通りは古い通りらしくくねくねしていて、両側に料亭が並んでいる。看板をあげている店が多いので多くは現役であろう。

山手線で大塚駅から上野方面に二駅の駒込にも新興の花柳会があった。地元の大地主ら数名の三業地出願によって大正11年に指定された。駒込駅南口からアザレア通り商店街をずっと進み、不忍通りの手前あたりになる。現在では古い元料亭か旅館と思われる建物が残っている程度である。



大塚三業通りに面する料亭


駒込花街のあたりにあった古そうな建物。
王子 尾久

北区王子はわが国の製紙(洋紙)工業発祥の地。荒川西岸の沖積地に立地し、駅付近の中心商店街をはさんで、北に十条製紙工場、南に王子製紙工場がある。そんな中心商店街から外れた一角(豊島1丁目)に花街があった。待合・料亭組合員数では、1955年頃がピークで27軒の記録がある。現在ではその面影はほとんど皆無であるが、場違いにある飲み屋や質屋の存在から想像するほかない。

王子から都電荒川線で数駅の小台駅で下車した荒川区西尾久2丁目にも花街が存在した。関東大震災後、王子にあった軍需工場を背景に発展したといわれる。昭和40年ころは料亭が20軒芸妓80人がいたそうだが、最近まで一軒の料亭があった(「赤線跡を歩く2」)。しかし、現在、最後の一軒と言われた料亭もなくなって公園になっている。隅々まで歩いてみたが全く痕跡は感じられなかった。



王子花街があった界隈

cafe;coffee shop

尾久花街のあった界隈
千住

千住町遊郭(柳新地)は、千住駅から日光街道、日光街道バイパスを横切って徒歩15分というかなり離れた場所につくられた。日光街道沿いの宿場町では、飯盛女を大勢置いた旅館が十三軒あったが、大正13年に柳町が指定され移転した。その直後に関東大震災があり、移転したことが幸いして被災しなかったため、東京の吉原洲崎の客がどしどし押し寄せて発展したといわれる。昭和4年時で、貸座敷53軒、娼妓330人が居た。
北千住の町は戦災にあったが、柳新地は被災しなかったため、戦前の建物に戦後のカフェー建築が混在する町並みとなっている。


何の変哲もない住宅地に画像のような建物が見られる。見る人が見ないとかつてカフェーだったとはわからない。

遊郭は時代が下ると取締りを受け町の外の新地に移転されるケースが多い。近世近代問わず遊郭が都市計画された整然とした街区となっている例が多いのもそこに理由がある。一方、遊郭が移転した後の土地はどうなるのであろうか。遊郭時代の飲食店業者は行政の思惑どおりに移転するものもあるが元の場所にとどまって飲食店の営業を続けるものもある。つまり、場所の性格はそう簡単に変えられるものではないということだ。そうなると、遊郭跡地は娼妓を置かず芸妓を置く「花街」となり、飲食店街として存続するのである。東京の花街=花柳界の一部はこのような法則で生まれたものも多い。さらに、大正期になると「慣例地」でもない新たな場所にも花街が許可されるようになり、世界一の人口をもつ東京という大都市にはたくさんの遊里が存在することとなった。そしてそれらの一部は、戦後、進駐軍を相手にした私娼街から発展した赤線青線あるいはカフェーへと移行した。昭和33年の売春防止法遺構、赤線は姿を消したものの、やはり歴史ある風俗街は現在も形を変えつつ存続しているといってよいだろう。

さて、日本最大の都市東京の遊里を隈なく探訪した後、その知識と感覚をもって全国の遊里を北から南へ旅することとしよう。「遊里を歩く」第5話は北海道・東北編である。

























http://dragon-tips.cocolog-nifty.com/kphoto2/2005/12/post_b9a9.html

真金町遊郭夢の跡(12/13)



関内駅から大通り公園を歩き地下鉄の伊勢佐木長者町駅から横浜橋商店街の一角は
昔遊郭であったという。
その遊郭街は明治から売春禁止法が施行された昭和33年(1958年)まで続いていたらしい。




もう今はその面影も少なくマンションやラブホテルに立て直したものが多く、
ようやくその一角に唐破風の立派な家が斜光を浴びて輝いている姿を見つけ出す。
近くにはもう営業をやめたようだが大きな銭湯も残っている。
道路は良く区画されていて植え込みも多い。
昭和の夜に慰安を求めて男はさまよったのか。

横浜市南区真金町あたり

CANON EOS20D EF17-40mm/F4L (RAW)
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