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Saturday, September 1, 2012

the prostitute heartbreaking story, Red-light district in coal mine city


http://hazama.iza.ne.jp/blog/89/

炭鉱の町の遊郭【娼妓悲話】
2009/02/02 17:14

at time of the war, the red-light districts around here was called "special restaurants"
their salary was 4:6,paid in 40% for woman, for the shop to 60%.
the restaurant shop bought expensive Kimono by more and more to woman, and let increased debt not to escape a woman does. ...
if she run away, she would get be caught around in Shimonoseki eventually.
sometimes a woman fallen in love to her customer, also not know to be deceived by her lover,the couple run away in secret to the shop, then she would be sold somewhere again by him.
..The cost of treatment had been afforded by herself, Money should be go out properly.
if a woman who became to get a sexually transmitted disease, she would fall out her debt.
Sometimes, she became to be addict given a morphine struck by her customer.

sometimes there was a woman who try to double suicide.
even loving,her debt was not reduced,so the couple became together suicide.
that was dynamite suicide. they were ready it from coal mine,they tied their bodies together with embracing,if it had been carried out, the sound was great.
the meat splattered on the wall sneaky, that was a tragic sight.

行李:Kori box

At that time, they bought and sold women in Shimonoseki.
from here to Shimonoseki,they put a woman into Kori bamboo luggage,ride to the (wooden) track.
that the way, the women were sold to Manchuria.
the girl who was here also, she had tried to escape, but she being taken from Shimonoseki to Manchuria, what she had been put in the comfort station for soldiers.

the managers who opened the army brothels following with women,they said it was a profitable business.
my grandpa was often asked trying to do the business of military comfort station, i heard the military soldiers make a long line.

When I think back, it was a cruel era.
it was the time the unfortunate woman would be even more unhappy.

here, (the entry photo is irrelevant) the photos of women at the time.
always taking photo of each woman, since not to try to escape.
when he get a emergency,he did chasing with the photo..

http://hazama.iza.ne.jp/blog/entry/889731/
"following to comfort women" by Nishino Ruriko

戦争の頃、ここらの遊郭は「特殊飲食店」て呼んでおったの。・・・給金は四分六なんよね。女が四で帳場が六。女を逃がさんように着物をどんどんつけたりして借金を増やすの。・・・逃げ出しても、結局下関あたりで捕まる。ときには女が客に惚れることがあって、騙されているとも知らず店に内緒で二人で逃げ出すんだけど、それでまたどこかに売られるの。・・・治療費は自分で払わにゃいかんかったの。お金はちゃんと出ていくようになっとった。性病になった女は借金は抜けんよね。ときには、客にモルヒネ打たれて中毒になったりね。

・・・心中しよった女もおったわね。好きでも借金抜けんから一緒になれない。それで心中するわけ。マイト自殺よ。炭鉱で使っているのを持ってきて、二人で抱き合ったまま体をくくって・・・すごい音でね。壁に飛び散った肉がひっついて、そりゃあ無残な光景よ。

その頃は、下関で女を売買しておってね。ここから下関まで女を行李に入れてトラックに乗せて連れていきよったね。そうやって、満州に売られていったりするわけよ。ここにいた女の子も、逃げ出したものの下関から満州に連れていかれて、兵隊用の慰安所に入れられたのよ。・・・

女を連れて軍隊慰安所を開いた人は、よう儲かったって言ってたわね。・・・うちのおじいちゃんも軍隊慰安所をやろうって、よう誘われとった。軍人さんが列を作って並ぶんだって。

今思うと、大変な時代だった。不幸な女がなおさら不幸になる時代だったねぇ。

これはね、そのときの女たちの写真よ(エントリーの写真は無関係)。こうやって一人一人必ず顔写真を撮ったの。逃げられたら困るからね。いざっていうときは、これを持って追いかけたんよ。

日本軍「慰安婦」を追って 西野瑠美子

これを読むと、慰安婦の悲話として語られているのは、(大げさに伝えられていたとしても)実は当時の女性哀史の一部であることに気付く。70年前の日本人が、どれほど貧しい暮らしてをしていたかを(苦労したのは女性だけではないだろう)知らない欧米人が、平和な社会に突然残虐な日本軍がやって来て女性を奴隷にしたと思い込むのもムリはない。これも↓そんな一例だろう。

the military found itself short of Japanese volunteers, and turned to the local population to coerce women into serving into these stations.
日本軍は日本人応募者の不足に直面し、現地人を強制的に慰安所に入れることにした。(1月20日のエントリー参照)

・・・もっとも、意図的にこのように錯覚させるよう仕向けている人もいるのかもしれない。


これも、西野が聞き取った九州の遊郭街の話。

http://d.hatena.ne.jp/kumanekodou/20070515/1179238299

「横浜アーカイブス―100年前の港町風景」

煉瓦や石造りの洋館、ガス灯、人力車、

ドレスの女性に山高帽の紳士

100年前の港町横浜へのタイムスリップ

いわゆるゾッキ本なので安く手に入るのですが(八木書店さんでも売っています)、

内容は非常に面白いです。

明治時代の横浜の絵葉書集で、

美しい手彩色(写真に手描きで色を塗ったもの)が味わい深いです。




一瞬イギリスあたりかと錯覚してしまいますが、横浜の居留地です。

異国情緒たっぷりですね!






チャイナタウン。今の中華街ですね。






馬車道通りです。看板や人力車の姿に、実に明治の香りを感じます。






尾上町大江橋通り。レトロな市電が素敵です。






横浜吉原。通りに面した格子の中に座る娼妓たちと、それを眺める客・・

手前にいるのは禿(かむろ。見習いの少女)でしょうか。












横浜吉原の娼妓たち。まだ顔にあどけなさが残っている女性もいます・・



http://blog.livedoor.jp/benirabou/archives/51373757.html







食満南北 『上方色町通』
食満南北 『上方色町通』(四六書院、通叢書:昭和5年)

〈通叢書〉は、一冊読めばその道の通になれる、というのを売りにした、今で言う新書みたいなシリーズだ。

古書ファンの間では『古書通』が有名。『天麩羅通』や『をどり通』などは、けっこう古書店で見かける。一冊手に入れると、つい集めて見たくなるのだけど、さて集めだしてみると、一体全部で何冊出ているのか、全貌がまったく見えてこない、そんなコレクター泣かせの一面もある。

この『上方色街通』はあまり見かけない一冊だ。カバー付なのも珍しい。〈通叢書〉はたいがい裸本であることが多い。四六判、161頁、70銭。

著者の食満南北(けまんなんぼく)は劇作家で、福地櫻痴に師事し、中村鴈治郎(初代)の座付き作家になった人。


カバーを取ると
カラフルな表紙が


この本は、大阪新町、五花街(みなみ)、北の新地、住吉、堺、尼崎、京は先斗町、島原、宮川町、奈良、神戸、兵庫と、上方の色町総まくりに紹介していく、いわば細見なのだが、一番の特徴は、芸者の話に終始して、娼妓がほとんど出てこない所にある。娼妓の花代などはほとんどわからない代わりに、芸者の線香代には詳しい。
口絵写真  大阪と京の舞妓


ちなみに、色町では、勘定は線香で数える。線香が一本燃え尽きる時間が幾らという勘定で、一本二本と数えた。落語の「お直し」で、噺の核になるシステムだ。後の時代になると、その数え方だけが残り、一時間何本というような言い方に変わる。

参考までに五花街の花代を挙げてみると、線香代は1本15銭で、平日の午前6時から昼までが12本、紋日は14本、大紋日が16本。「明かし」という、夜の12時から朝までが、平日18本、紋日35本、大紋日が45本、ということだ。芸者1人の値段である。意外と安い。
先斗町は流石に値も張り、1本27銭で、午後6時から12時までが1時間5本、其の他は1時間4本となっている。通し花(一昼夜)は70本。


この本が出版されたころは、色町にも時代の波が押し寄せてきた時代だ。いままで、男性の遊行所として牙城を誇っていた色町に、強力なライバルが現れたのだ。カフェーの女給である。彼女らの、モダンさ、スピード感覚、(素人臭さも多分に魅力であったと思う)には、旧弊でのんびりとした「遊び」では対抗しきれるものではない。

こういう時、機を見るに敏なのはやはり大阪。戎橋の北詰めから東、宗右衛門町にあるお茶屋「河合」の主人河合幸七郎が、時代に適応するものとして考案したのが、あの「河合ダンス」である。芸者たちによるレビューは評判を呼び、松竹座や、東京の歌舞伎座、帝劇などへの出演も果たすほどの人気となる。


口絵写真
上、河合ダンス
下、茨城屋キャバレー
(モガモボソング)



この風潮に乗り、次々と芸者たちによるモダンな出し物が生み出されていった。その流れは東京の色町にも飛び火していき、終戦まで続くことになる。

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