http://www.rikkyo.ne.jp/web/z3000268/journalsd/no6/no6_thesis05.pdf
旧日本軍「慰安婦」被害者証言の信憑性と2 次資料的価値についての一考察~金学順(キム・ハクスン)証言を事例として~
矢澤 誠弘
YAZAWA Masahiro
1.はじめに
旧日本軍が、日中戦争およびアジア太平洋戦争期において、日本・朝鮮・台湾・中国及び占領地となった南洋諸島の女性たちを性欲処理の捌け口として利用した事件がある。それが、旧日本軍「慰安婦」問題である。この「慰安婦」問題の責任者たちによる、被害女性たちに対する謝罪及び補償は、極東国際軍事裁判及び日本政府が戦後各国間で締結した条約において具体的に取り上げられることはなかった。そのため、今日においても被害者とされる女性たちは、支援団体の手を借りて、責任者の謝罪と補償を訴えている。被害女性を支援する学者や市民グループは、日本政府に道義的責任と法的責任のすべてがあると主張している(1)。しかし、筆者の考えは上記と異なる。旧日本軍「慰安婦」問題には、5 万~30 万人もの女性が被害にあったとされている(2)。それが事実ならば、徴収形態や勤務形態も様々であり、日本政府が責任を負うべき範囲の問題と、身売りした親族もしくは郷の有力者の遺族や、公娼斡旋業者の遺族が責任を負うべき問題とは、厳密に分けて論じていくべきではなかろうか。「慰安婦」問題が、責任の対象ごとに区分をして論じられることによって、「解決」の糸口を掴む事が出来るのではないか。
2007 年3 月31 日をもって「女性のためのアジア平和国民基金」は解散した(3)。一部では、基金の解散をもって「慰安婦」問題が「解決」したと見なす人たちもいる。しかし、基金の解散直前の3 月5 日、参議院予算委員会において安倍晋三首相(当時)が「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」等と答弁した。この答弁が、アメリカと韓国で批判を呼ぶことになった。韓国では、国会議員47 人が安倍首相に謝罪要求をした。アメリカでは、長年「慰安婦」問題の真相究明に取り組んできた民主党議員マイケル・ホンダが、米国下院に「従軍慰安婦問題に関する対日非難決議案」を提出した。「慰安婦」問題が日韓において社会問題化してから15 年以上の歳月が経過しているが、今日においても「日韓問題」のひとつとして、なお存在している。
旧日本軍「慰安婦」問題は、アジア・太平洋戦争期の1938 年に国家総動員法が成立したことを発端としている。当時植民地であった朝鮮半島諸国及び、台湾においても同法に基づき、国民徴用令が施行された。それにより「挺身隊」という名目で多くの人員が、労働者として動員された。これと時を同じくして、日本軍将兵が上海において度々レイ
プ事件を繰り返していたことが、日本軍の中で問題視された。上海派遣軍参謀部は試行錯
誤の末、シベリア出兵の失敗を繰り返してはならないという結論に達した。シベリア出
兵の際、日本軍は現地のロシア人女性や、モンゴル系の女性をレイプし、大多数の日本
兵が性病に感染し戦力が大幅にダウンするという結果を招いた。陸軍上海派遣軍の岡村
寧次参謀副長らは「日本軍兵士によるレイプ防止と性病蔓延防止」を目的として「慰安
所」設置を決定した(4)。これに伴い、日本国内だけでなく、朝鮮半島や台湾、占領地の
女性たちが「慰安所」に動員された。朝鮮半島や台湾の女性たちは、「挺身隊」という名
目で動員されることが多かったとされる。そのため「慰安婦」問題は、1980 年代当初の
韓国で「挺身隊」問題と言われていた(5)。「慰安婦」として徴集された、女性の数は5 万
から最大で、30 万人まで及ぶとも言われている。徴集の手段も様々であり「挺身隊」と
いう名目で徴集され「慰安婦」となった者だけではない。例を挙げると就職詐欺や、親
や地域有力者と公娼斡旋業者との契約があった場合、最悪なケースとしては「拉致」や「強制連行」まがいの行為により、連れて行かれたと証言する者も存在する。
しかしこの「慰安婦」問題は、韓国でも日本においても90 年代になるまでは社会問題
化することはなかった。原因としては、①被害者であることを告白することにより、社
会から差別軽蔑されることを恐れた被害者の沈黙。②韓国民主化の遅れと女性の人権の
未確立。③80 年代までの冷戦構造により、政治行動と政治意識が規定されていた。これ
ら3 点が挙げられている(6)。韓国では、中国の明代に流行した儒学の1 つ「朱子学」の
思想が近年まで根強く受け継がれてきた(7)。李氏朝鮮時代(1392 ~ 1910 年)において女
性は、教育を受ける機会も制限され、小学校に入れただけでもエリート中のエリートと
位置づけられた(8)。そのため、家父長制が1989 年の家族法改正まで尾を引き、女性の人
権は虐げられてきた背景がある。
そして、1990 年1 月4 日~24 日まで、韓国の『ハンギョレ新聞』に、尹貞玉(ユン・
ジョンオク)の「挺身隊取材記」が計4 回にわたり掲載された。この記事の中に「慰安
婦」徴収の経緯などが含まれていた。翌年の1991 年8 月14 日には、尹貞玉が代表を務
める「韓国挺身隊問題対策協議会」の支援を受けて「慰安婦」被害女性・金学順(キム・
ハクスン)が名乗り出て、公式記者会見を行った(9)。そして12 月に、金学順をはじめと
する韓国人元「慰安婦」は、日本政府に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴した。このよ
うな韓国の女性運動によって問題は社会化した。この90 年代初めの動きがきっかけとな
り「慰安婦」問題は、韓国内で社会問題として注目されていった。この金学順の公式会
見に心打たれた研究者が、吉見義明である。1991 年末に吉見と民間ボランティアは、防
衛庁(当時)図書館で史料調査を行い、日本軍の直接的関与を示す史料を発見した。こ
の史料発見が、1992 年1 月11 日の『朝日新聞』に掲載されたことにより「慰安婦」問題
が、日本国内でもクローズアップされるようになった(10)。
本稿では、最初に名乗り出た「慰安婦」とされる、金学順の証言を事例として、信憑
性の高い裁判訴状の証言に注目したい。被害者を支援する団体の編纂した証言や、新聞
に掲載された証言と、裁判という嘘の許されない場で使用された裁判訴状の証言との違
いを比較していくことにより、どのような差異が存在したのかを示したい。そして日本
人や韓国人に「慰安婦」被害女性が、どのようなイメージで伝わってきたのかについて
触れていくことで「慰安婦」問題の責任の所在を明らかにしていきたい。
2.「慰安婦」という用語をめぐり
まず「慰安婦」という用語の問題について考えてみたい。戦時中において、公的には、
「慰安婦」や「慰安所」と言う言葉が使われていたが、一般の兵士たちは「ピー」という言い方をした(11)。具体例としては「朝鮮ピー」「支那ピー」「ピー屋」などという言葉が当時の兵士間で使用されていた。上記はそれぞれ「朝鮮人「慰安婦」」「中国人「慰安婦」」
「置屋もしくは慰安所」を指す、表現であった。では「ピー」とは、何を指すか。これには、2 通りの説がある。1 つ目は中国の俗語で「ピー」が、女性の子宮を指す。これが日本兵の間にも広まり、子宮つまり性行為を暗示する表現へと派生したとする説である。2 つ目は、英語の「売春をする」「身売りする」という意味の「prostitute 」という単語の頭文字「P」が、変化したものとする説である。吉見義明、西野瑠美子、大沼保昭らは、1 つ目の説を支持している。筆者も、当時の時代背景と慰安所の設置が、1930 年代初頭の上海からはじまったことを考慮すると、当時の一般兵士に普及していた表現とするなら1 つ目の説が有力であると考える。
1990 年代初頭に「慰安婦」問題が社会問題化した際に、マスコミは「従軍慰安婦」という表現を使用した。これは、1972 年出版の千田夏光『従軍慰安婦』に由来する。そのため、1994 年前後に出版された書籍を見ると、『従軍慰安婦』『性の奴隷従軍慰安婦』『学徒兵と従軍慰安婦』『証言「従軍慰安婦」』などタイトルに「従軍慰安婦」という表現を用いたものが多い。また、韓国の市民グループが編纂し、日本語訳された本は鍵括弧をつけて「慰安婦」と表現している。また、西野瑠美子が、当時から「日本軍「慰安婦」」という表現をしている点は興味深い。そして「従軍」という表現を巡っては、幾つかの議論がある。「従軍慰安婦」という言葉を、辞書的意味で考えてみると「自主的ないし自発的に軍に従い、兵士に愛情や温もりを与え慰めた女性」となる(12)。吉見も著書『従軍慰安婦』において「慰安の本来の意味と、実際に強制されたおぞましさとの落差に、いっそう許しがたいものを感ずる……」「みずからの意思で、あるいは役務のないように納得して参加するニュアンスがあるケースもあるので使うべきではない……」と述べている(13)。つまり「従軍慰安婦」と言う言葉自体に「慰安婦」に対する事実を隠蔽したい日本政府、一部のメディア、研究者の意図が含まれている可能性がある。韓国側市民グループが「慰安婦」もしくは「日本軍「慰安婦」」を、好んで用いることも「従軍」という言葉に含まれている「自主的」「自発的」というボランタリーなイメージを否定するためである。元「慰安婦」女性が暮らすグループホーム「ナヌムの家」にある歴史博物館では「従軍慰安婦」というボランタリーイメージを否定するために、展示物についての日本語の説明は「日本軍「慰安婦」」という表現が用いられている(14)。国連人権委員会に提出された報告書において「慰安婦」は「Japanese military sexual slavery 」邦訳すると「日本軍性奴隷」となる。しかしながら、韓国の「慰安婦」被害女性の大部分は「性奴隷(sexual slavery)」という表現に、抵抗感や憤りの気持ちを抱いている。
これらのことを踏まえ、本稿では「慰安婦」のことを「旧日本軍「慰安婦」」と表現し、その略称として「慰安婦」と言う表現を使用したい。尚、論旨に誤解が生じないように「従軍慰安婦」や「Japanese military sexual slavery 」という表現は、先行研究の書籍及び報告書からの引用、及び論述する上で必要な際のみに用いる。朴一(パク・イル)や、
秦郁彦らが10 年以上前から指摘するように、また「慰安婦」問題に関わる多くの研究者や市民グループ関係者が望むように「慰安婦」であった被害当事者の、人としての当たり前の尊厳を傷つけないような呼称が作られていく必要があるのではないか(15)。
3.金学順証言の分析
金学順の証言の分析にあたり、筆者がなぜ裁判訴状に注目したかというと、裁判においては、被告も原告も事実を証言する必要があるからだ。つまり、裁判を起こした原告側の言動に嘘や偽りが発見されれば、敗訴どころではすまなくなる。逆に被告側から「偽証罪」や「名誉毀損」で訴えられる恐れもある。つまり裁判訴状が、元「慰安婦」の証言の中では、とりわけ2 次資料としての価値があると判断できる。事実関係について考察する上でも、比較的信憑性の高い資料ということになる。
「原告金学順(キム・ハクスン)は、1923 年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも4 年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元(キム・テウォン)という人の養女となり、14 歳から妓生(キーセン)学校に3 年間通ったが、1939 年、17 歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で1 歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に3 日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」は夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の嘶きが聞こえた。隣の部屋にも3 人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだった。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い(16)。」
この裁判訴状を読むと、いくつかの疑問点が浮かび上がる。1 つ目は、妓生になるための勉強をしたとあるが、明確な理由説明がないことだ。妓生とは、高麗王朝時代(918 ~ 1392 年)からある伝統的な職業である。主に、歌舞や妓楽により男性を楽しませた接客業の女性のことを指す。優秀な妓生は、歴代王朝の宮廷や地方官庁に仕えることが許されていた。しかし妓生の中には、歌舞や妓楽だけでなく公娼同様に性行為を伴うもてなしを、行っている者も存在した。そのため妓生は、近年まで公娼と混同されており、妓生を抱えている家は日本の置屋と同一視されてきた(17)。養父であるはずの金泰元は、何故大切な養女:学順を、公娼養成所と誤解を招きかねない妓生学校に通わせたのであろうか。名目的には養女ということにして、母親から公娼斡旋業者に身売りされたのではなかろうか。2 つ目は、裁判訴状に「慰安婦」や「挺身隊」という名目で動員されたことを直接的に示す表現が存在しない。3 つ目は、90 年代当初より「慰安婦」問題の争点の1 つとなっている「強制連行」について触れられていない。訴状には、軍用列車に乗ったことと、将校に案内されて中国人の家に入ったことが書かれているだけである。自らの意思で、養父または将校についていったのか、日本兵による「強制連行」であったのかまで読み取ることは不可能である。法廷という、事実だとほぼ断定出来ることだけ発言が許される場所での証言のため、金学順を支援する「韓国挺身隊問題対策協議会」などの韓国側市民グループの「配慮」あるいは「入れ知恵」により記憶の曖昧な部分が意図的にカットされ、このような証言になった可能性も否定出来ない。証言の評価や信憑性については、吉見も「50 年も前の出来事の回想なので、記憶違いがないとは言えない。…証言内容が矛盾したり年代が曖昧だったりする」ことを認めている(18)。朴一は「韓国挺身隊問題対策協議会」と「韓国挺身隊研究所」の、被害女性ヒアリングの取り組みに対して、50 年前の話だが、証言を繰り返して聞く中で被害女性の「強烈な体験」や当事者でなくては語りえない事実」が存在し、矛盾する証言内容から「信頼性の高いと判断される」証言を引き出していることを評価している(19)。
それでは、「慰安婦」支援団体がまとめた「証言集」の内容や、新聞など日韓の各メディアにおいて、証言はこれまでどのように扱われてきたのであろうか。裁判訴状が、とりわけ事実に近い形でまとめられた証言とするならば、当然のことながら「証言集」やメディアの報道も、裁判訴状に準拠した形でまとめられるべきであるし、相違点が存在してはならない。大きな相違点が存在するとすれば、その「証言集」やメディア報道には、市民グループ、研究者、マスコミによる意図的な事実隠蔽や、改竄が行われた可能性があることも疑う必要がある。
ところが金学順証言は、編纂者が変化することによって内容がまるでバラバラなのである。日本ではじめて金学順の証言が紹介されたのが、1991 年8 月11 日の『朝日新聞』である。
「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦…(20)。」
本文中の朝鮮人従軍慰安婦という表現が、金学順を指している。前述、裁判訴状においては「強制連行」や「挺身隊」という文字すら存在しなかったにも関わらず、裁判訴状が出される僅か4 ヶ月前に、金学順は日本のメディアで「挺身隊」の戦場に「連行」された朝鮮人慰安婦として紹介されている。裁判訴状の内容だけでは「強制連行」の事実確認が不可能であったにも関わらず、『朝日新聞』では「連行」という表現が使用されている。これは、相違点の1 つに他ならない。裁判訴状が出される前に日本の大手新聞社により、このような事実の飛躍した内容の記事が掲載されたことは、日本人だけでなく、国内の在日韓国・朝鮮人をはじめとするアジア人たちにも大きな誤解を生むきっかけになったのではなかろうか。金学順の裁判は「韓国挺身隊問題対策協議会」だけでなく「太平洋戦争犠牲者遺族会」も支援していた。更に、この記事を書いた、朝日新聞記者の植村隆は「太平洋戦争犠牲者遺族会」の常任理事:梁順任(ヤン・スニム)の娘と結婚している事実がある(21)。裁判訴状と、朝日新聞との相違点を考えるにあたり、植村隆と義父:梁順任との関係性は、新聞記事に影響を与えたと疑うべきではなかろうか。そして4 日後の8 月15 日、不思議なことに韓国の『韓国ハンギョレ新聞』では、『朝日新聞』の内容とは異なる記事が報道された。「生活が苦しくなった母親によって14 歳の時に平壌のある妓生券番(日本でいう置屋)
に売られていった。三年間の券番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、妓生
券番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300 名余りがいる部隊の前だった(22)。」
『韓国ハンギョレ新聞』は、韓国の日刊新聞で、1987 年盧泰愚元大統領の民主化宣言
と共に発刊され、現在では全国紙として認知されている。証言の相違点として、裁判訴
状では金泰元の養女になり妓生学校に通っていたとある。ところが、『韓国ハンギョレ新
聞』では、平壌の置屋に身売りされたことになっている。つまり、韓国の大手新聞は既
に1991 年の時点で、金学順が公娼斡旋業者に身売りされた可能性を示唆している。裁判
訴状で養父となっている金泰元は、当時の公娼斡旋業者の一員である可能性が高い。吉
見も著書において「かせぐために中国に連れて行かれたとすれば、養父に売られた可能
性があるとみるのが自然…(23)。」と述べ、養父:金泰元と日本軍との間になんらかの金銭
的な取引があったと指摘している。
1993 年に『証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち』という本になって「韓国挺身隊
問題対策協議会」と「挺身隊研究会」が共同編集した「証言集」が出版された。その本
の中にも、金学順証言がある。91 年の裁判のときから金学順を支援してきた団体のまと
めた証言のため、裁判訴状の内容と一致している点が多様に存在する可能性がある。も
し、差異が発見されれば、編者により「強制連行」を強調するために証言が書き換えら
れた可能性も疑う必要性がある。
「母は私を妓生を養成する家の養女に出しました。(中略)母は養父から40 円をもら
い、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。(中略)国内では私た
ちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。そ
れで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中
国へ行くことになりました。1941 年、私が17 歳になった年でした。養父は中国へ発つ前
に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました。平壌で汽車に乗って新義州か
ら安東橋を渡りサンヘグァンへ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検
問所に入って何時間か後に出て来ました。それからまた何日か汽車に乗って行きました。
途中汽車の中で寝たり、旅館で寝たりしました。北京に行けば良い商売になると言って、
養父は私たちを連れて北京まで行きました。(中略)北京に到着して食堂で昼食をとり、
食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。(中略)姉さんと私は別
の軍人に連行されました(24)。」
この証言を見ると金学順は、養女という名目で、妓生を養成する家に40 円で身売りさ
れたことがわかる。尹明淑(ユン・ミョンスク)も「金学順は養女として妓生の「抱え
主」に身売りされたケース」「平壌や大邱の地域に大きな妓生券番や妓生養成所が存在し
ていた…」と指摘している(25)。裁判訴状との相違点として、北京で日本の軍人に「連行」
されたと「強制連行」を伺わせる表現が、新たに加えられている。また、裁判訴状では「軍用列車」であったが、今回は「汽車」とだけ表現されている。『証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち』というタイトルからも「韓国挺身隊問題対策協議会」と「挺身隊研究会」が、日本軍による「強制連行」を強調するため裁判訴状の証言に、意図的に筆
を加えた可能性は否定できない。
1995 年に出版された『証言「従軍慰安婦」』は、日朝協会埼玉連合会という、在日朝鮮
人の団体が編集した「証言集」である。この「証言集」にも、金学順の証言が掲載されている。在日韓国・朝鮮人の中で「慰安婦」が、どのように位置づけられ伝わっているのか。また、在日韓国・朝鮮人たちと関わりの深い日本人たちに「慰安婦」問題が、どのように受け止め、理解されているのかを伺い知るための貴重な証言の1 つであるといえる。
「強制的に「慰安婦」にされた…私が16 歳になった時、韓国から日本の挺身隊に若い女性をたくさん連れ去っていきました。韓国内にいたのでは、私も連れ去られる危険があるので当時の満州に逃げることにしました。逃げるつもりが結果として日本人将校に捕まることとなりました。当時、満州に行くことは大変なことでした。私は北京で捕まりました。その時、1 歳年上のお姉さん(他人)と養父に当たる人と行動をともにしました。捕まった時、日本の将校は、私を二人から離そうとしました。私は、離れたくないのでしがみついていました。将校は、足でけりながら「お前、ここをどこだと思っているのか。俺のいっている事は天皇陛下の命令なんだ」と、おどかされそのままトラックに押し上げられ、行き先も分からないまま連れていかれました。当時、日本軍が私たち朝鮮女性、中国女性に浴びせる言葉は「お前たちはスパイだろう」という事でした。スパイだからといって、殴る、けるの暴行を行いました。(中略)私の肩をつかんで「お前こっちへ来い」といって連れていきました。「俺のいう事を聞きさえすれば、おまえは楽になるのだ」と、私をお姉さんから引き離したのです。こっちへこいと、連れて行かれたのはカーテンで間仕切りがしてあるところでした。将校が洋服を脱げと言いました。でも「脱げ」と言われて脱げますか。私はできるだけの抵抗をしました。将校は軍刀を抜き私を脅かしました。その肩には2 つの星がついていました。たぶん中尉でしょう。その後のことについては、これ以上話すことができません…(26)。」
裁判訴状との相違点として「挺身隊」という表現が、使用されている点が挙げられる。女性が、「挺身隊」に連れ去られることを最初に述べている。また、裁判訴状や、これまでの証言でも触れられてきた、妓生を養成する家の養父:金泰元との関係が詳しく言及されていない。養父は、妓生券番の仕事を続行するために中国を目指したが、この証言では、満州に逃亡することに置き換えられている。北京で捕まったことが書かれているが、殴る蹴るなどの暴力についての具体的実態や「天皇陛下の命令」とまで表現しているのは、この証言だけである。裁判訴状においても、中国人の家で軍人に暴力を振るわれたことが書かれているため、程度や実態の差こそあるにせよ、日本の軍人による、金学順に対する暴力行為があったことは、ほぼ間違いないと見てよいだろう。また、軍服の星の数についての具体的記述がある証言も、この証言だけである。当時の旧制小学校を卒業していない人が、服装だけで「中尉」の犯行と断定できるのか疑問が残る。裁判訴状の4 年後に編集された『証言「従軍慰安婦」』を見ていくと、これだけ多くの相違点が存在した。『証言「従軍慰安婦」』の金学順証言は、日朝協会埼玉連合会により、これまでの証言に反日感情が盛り込まれ、事実に反した形で書き加えられた箇所が存在する可能性も否定出来ない。
4.おわりに
1991 年12 月の裁判訴状の内容と、各種証言について差異を見てきたことにより、金学順の証言からは「慰安婦」の「強制連行」の実態まで読み取ることは困難であった。裁判訴状における養父:金泰元に注目し、新聞記事や吉見の先行研究を分析した結果、金学順は14 ~ 15 歳の時に、置屋の経営者もしくは公娼斡旋業者に身売りされたと見るのが自然であると考えられる。そして、公娼斡旋業者間の人身売買の対象にされ、満州の鉄壁鎮で「慰安婦」として働かされることになった可能性が大きい。この金学順の事例は、母親により公娼斡旋業者に身売りされて、公娼斡旋業者間の取引に巻き込まれ「戦地売春婦」に比較的類似した形の「慰安婦」となった可能性が伺える。しかし、宋連玉(ソン・ヨンオク)は「「慰安婦」は「公娼」「売春婦」と明確に線引きできるのか…(27)。」と問題視するように、筆者も「慰安婦=売春婦」と単純に定義することは出来ないと考えている。今回のケースは、推定されている「慰安婦」の全体数から見れば、5 万人の中の1 人ないし30 万人の中の1 人の事例である。つまり、身売りと公娼斡旋業者がからんだ
「戦地売春婦」に近い事例だけでなく、憲兵や将兵による「拉致」や「強制連行」が立証出来る事例、就業規則などなく集団による無差別的レイプに苦しんだ事実が立証可能な被害女性の証言も、存在する可能性が在り得る。人間としての尊厳を傷付けられる苦痛を味わった人々には、被害当事者の望む形での「謝罪」や「補償」が、実現されることが理想である。しかしながら、5 万~30 万人もの被害女性がいたとされているのであれば、徴集形態や勤務形態も様々であり、日本政府が責任を負うべき範囲の問題と、身売りした親族もしくは、郷の有力者の遺族や、公娼斡旋業者の遺族が責任を負うべき問題とは、厳密に分けて論じていくべきではなかろうか。田鍾翼(チョン・ジョンイク)も、
「日本人=悪魔、韓国人=天使という前提下で韓国近現代史の悲劇をすべて悪魔のせいにするのはいけない(28)。」と論じている。旧日本軍「慰安婦」問題の「解決」のためには、日本人、韓国人、「右派」「左派」を問わず、研究者や市民グループの手による情報公開と真相究明が求められている。秦郁彦が「プロ、アマを問わず歴史の愛好家たちが、イデオロギー性抜きで楽しく議論し合える日が来て欲しい(29)。」と述べているように「慰安婦」被害女性の証言においても、様々な観点から分析を行い、真相究明がなされる必要がある。情報公開と真相究明が行われる結果として、日本側にとって都合の悪い事実の発見や、韓国側にとって都合の悪い事実が発見される可能性もあるかもしれない。しかし、この問題を2 度と繰り返さないためにも、事実を知り「解決」への手段を日本と韓国が互いに手を握り合い、歴史を振り返り「解決」策を模索していくべきだ。本稿を、既に逝去された「慰安婦」被害女性の魂に捧げる。
■註
(1) 尹貞玉『平和を希求して─「慰安婦」被害者の尊厳回復へのあゆみ─』白澤社、2003 年、
P. 112 。姜春子 編『もっと知りたい「慰安婦」問題 性と民族の視点から』明石書店、1995 年、P. 86 ~ 88。前田朗『戦争犯罪と人権─日本軍「慰安婦」問題を考える─』明石書店、1998 年、P. 13 ~ 20。
(2) ナヌムの家歴史館後援会 編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房、2002 年、P. 34 。
(3) 旧日本軍「慰安婦」被害女性として認定された女性に対して、日本国民の募金から、「慰安
婦」一人当たり200 万円の「償い金」と、政府予算から医療・福祉援助の名目で韓国には一人当たり300 万円上積みされ支給された「民間基金」。(cf:秦郁彦『歪められる日本現代史』PHP 研究所、2006 年。大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』中公新書、2007 年。)
(4) 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995 年、P. 15 。「講演・吉見義明さん・「従軍慰安婦問題」とは」アジアフォーラム編『元『慰安婦』の証言─五0 年の沈黙をやぶって』皓星社、1997 年、P. 40 。
(5) 鄭鎮星(チョン・ジンソン)「日本軍「慰安婦」とは?」韓国挺身隊研究所 著『よくわかる韓国の「慰安婦」問題』アドバンテージサーバー、2002 年、P. 18 ~ 20。
(6) 前田『戦争犯罪と人権─日本軍「慰安婦」問題を考える─』P. 10 。
(7) 韓国併合前の李氏朝鮮は、中国の明王朝、清王朝の属国であった。そのため明時代に流行した儒教の中で取り分け、朱喜の「朱子学」の思想が、李氏朝鮮内に浸透した。後に、明が満州族により滅ぼされると、李氏朝鮮王朝は、我々こそ、正当な中華王朝の後継者として、「小中華」を自称した。朱喜の思想は、自分が仕える主君を敬い、目上の者を敬い、女性は男性を敬う。女性は、結婚するまで処女を守る。もし、男性に着替えや便所を覗かれてしまった場合は、純潔が汚されたとして自害しなければならなかった。もし、結婚前に性行為の経験があったり、処女膜が破損してしまった場合、女性は不道徳な人間とみなされ、結婚が許されなかった。結婚初夜で、処女膜破損による出血がなかった場合、男性から一方的に離縁を告げられる場合も存在した。男性優位の時代であったため、処女を失った女性は実家に戻ることも出来ず、再婚相手を見つけることも難しかった。そのような思想が、李氏朝鮮時代において広く朝鮮全土に伝播していたため、植民地時代において売春婦・酌婦・芸鼓・妓生(キーセン)たちは、醜業に携わる者として軽蔑された。
(8) 黄文雄『韓国人の「反日」台湾人の「親日」』光文社、1999 年、P. 138 。
(9) 大沼『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』P. 243 ~ 244。韓国挺身隊研究所『よくわかる韓国の「慰安婦」問題』P. 276 ~ 277。
(10)大沼『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』P.244。韓国挺身隊研究所『よくわかる韓国の「慰安婦」問題』P.278。
(11)桜井誠『嫌韓流反日妄言半島 炎上編』晋遊舎、2006 年、P. 71 、P. 163 。
(12)「
従軍」…軍隊に従って戦地に行くこと。「慰安」…なぐさめて心を安らかにすること。(cf:
『広辞苑』岩波書店)また、『広辞苑』では、「従軍慰安婦」についても掲載されている。「従軍慰安婦」…日中戦争・太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。
(13)吉見『従軍慰安婦』P. 10 。
(14)ナヌムの家歴史館後援会『ナヌムの家歴史館ハンドブック』P. 29 ~ 30。
(15)秦郁彦「昭和史の謎を追う─従軍慰安婦たちの春秋」『正論』1992 年6 月号。朴一「「慰安婦」問題をめぐる日韓の攻防」『朝鮮半島を見る眼─「親日と反日」「親米と反米」の構図』藤原書店、2005 年、P. 98 ~ 99。
(16)1
991 年12 月に東京地方裁判所に提出された訴状。
(17)『朝鮮新報』2004
年11 月6 日版。川村湊『妓生「もの言う花」の文化誌』作品社、2001 年。
(18)吉見『従軍慰安婦』P. 86 。
(19)朴「「慰安婦」問題をめぐる日韓の攻防」P. 100 。
(20)『朝日新聞』1991
年8 月11 日大阪版。
(21)阿部晃『日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり』夏目書房、2005 年、P. 123 。
(22)『韓国ハンギョレ新聞』1991
年8 月15 日ソウル版。
(23)吉見義明・川田文子 編『『従軍慰安婦』をめぐる30 のウソと真実』大月書店、1997 年、
P. 75 。
(24)韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち』明石書店、1993 年、P. 43 ~ 45。
(25)尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』明石書店、2003 年、P. 309 ~ 311。
(26)日朝協会埼玉連合会 編『証言「従軍慰安婦」』1995 年、P. 15 。
(27)宋連玉「「日本軍『慰安婦』歴史館」と「女性国際戦犯法廷」」ナヌムの家歴史館後援会『ナヌムの家歴史館ハンドブック』P. 160 ~ 161。
(28)田鍾翼「高等学校「国史」教科書の民族主義的傾向についての分析」『日韓合同授業研究会第8 回交流会報告書資料』日韓合同授業研究会、2002 年、P. 15 。
(29)秦郁彦『歪められる日本現代史』PHP 研究所、2006 年、P. 328 。
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