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元慰安婦たちが語る最後の「願い」
解放直後は推定10万人いた韓国人慰安婦、今では57人に
「日本が謝罪するまで死ねない」
元慰安婦たちが語る最後の「願い」
日本の右翼が一日も早く死んでほしいと待っている人々がいる。旧日本軍の従軍慰安婦だった女性たちだ。日本が組織的かつ暴力的な慰安婦動員の証拠を出さない中、この女性たちは日本による過去の蛮行を詳細に明らかにした証言者だ。この女性たちが世を去ったら「生きた証拠」は消える。
先月13日午後、元従軍慰安婦の女性たちが暮らしている「ナヌムの家」(京畿道広州市退村洞)では、元慰安婦イ・ヨンジョさんの告別式が開かれた。長い間共に過ごしてきたパク・オクソンさんが、イさんの遺影をなでた。女性たちは「こうして1人ずついなくなっていき、胸がはり裂けそうだ」と語った。
1945年に日本の植民地支配から解放されたものの、依然として元慰安婦の女性たちは苦痛の中で生活している。解放から63年という長い歳月が過ぎ、約10万人(推定)いたとされる元慰安婦の数は、今や57人に減った。生存者のほとんどは80代から90代で、先は長くない。63回目の光復節(日本の植民地支配からの解放記念日。8月15日)を2日後に控えた8月13日「ナヌムの家」を訪れ、元慰安婦の「最後の願い」を聞いた。ここでは、約10人の元慰安婦が暮らしている。
〈質問の順番〉
(1)年齢(出生年)/故郷、(2)慰安婦として連れていかれたときの状況、(3)解放後の暮らし、(4)韓国に戻った時期とその後の暮らし、(5)願い
■カン・イルチュルさん「一にも二にも、日本から謝罪と賠償を受けるのが願い」
(1)85歳(1928年)/慶尚北道尚州
(2)16歳のとき、家に巡査がやって来て「報国隊を選ぶ」と言い、連れていかれた。中国・瀋陽を経て長春や牡丹江の「慰安所」で慰安婦にされた。戦争が終わるころ、ひどい腸チフスを患って部隊の外に移送され、火で焼かれるところを朝鮮独立軍に救出された。
(3)6・25戦争(朝鮮戦争)後は中国人民解放軍の看護師に、退職後は中国・吉林の病院で看護師として働いた。中国人と結婚し、中国・吉林市で暮らした。
(4)2000年に韓国に永久帰国し、それから「ナヌムの家」で暮らしている。
(5)日本人(カンさんは「日本のやつ〈イルボンノム〉」という表現を使った)から謝罪と賠償を受けること。「韓国人の一部も、元慰安婦はお金が欲しいから謝罪を要求していると思っているようだが、私たちは子孫のために賠償を受けようとしている。子孫が再び私たちのようにならないためには、賠償を受けなければならない。そうなって初めて、子孫がこの先私たちと同じ目に遭わずに済む。子孫が私のような仕打ちを受けないようにすべきだ。間違ってもいないのに、なぜ私たちが日本人からやられなければならないのか。どんな手を使ってでも、賠償を受けなければならない」
■イ・オクソンさん「賠償せずに粘る日本、私が自決しないと分からないのか」
(1)86歳(1927年)/大邱
(2)16歳のとき、市場で買い物をしていたところ、夕方に日本軍が来て強制的に連れていかれた。2年間、満州で慰安婦として過ごした。
(3)解放後、ソ連側に捕らえられそうになり、韓国の人々に助けてもらい新義州経由で韓国に戻った。
(4)忠清北道報恩郡俗離山に戻り、寺で暮らした。今は俗離山に家を構えて暮らしている。日本から賠償を受けるため、自ら裁判所に行って訴訟を起こし、記者会見にも出席するなど、積極的に活動している。
(5)日本から賠償と謝罪を受けること。「世界の誰もが知っているのに(日本は慰安婦搾取を)しなかったと言っており、本当にあきれる。私は16歳で慰安婦になり、19歳で戻ってきた。日本人が最後まで賠償をしないのなら、どうするべきか。あいつらの前で自決すべきか。今でも、日本が賠償せず粘っていることを考えると、寝ている最中でも突然飛び起きることほどだ。私は日本人に抗議するために、日本にも何度か行って語ったし、そこに来た一部の日本人女性も泣いていたというのに。私の願いはとにかく、日本人からお金を受け取り謝罪してもらうことだけ」
■キム・スンオクさん「故郷の平壌にある両親の墓に行きたい」
(1)91歳(1922年)/平壌
(2)家計が苦しく、7歳のときから他人の家で暮らし、おなかをすかせた弟たちの面倒を見るため父によって妓生(キーセン。芸妓)として売られた。また家に戻るつもりでせっせとお金を稼ぎ、借金を全部返して戻ったが、父親がまた自分を売り、中国・黒竜江省の「石門子」慰安所に行くことになった。約5年間、慰安婦として働かされた。
(3)故郷に戻る気にはとてもなれず、慰安所があった中国・黒竜江省周辺で暮らした。中国では娘4人と息子2人、嫁、孫が暮らしている。
(4)2005年12月に韓国に永久帰国し、現在は「ナヌムの家」で暮らしている。
(5)故郷の平壌に行くこと。「私はもう90歳を過ぎた。特別な願いなど何もない。それでも、自分の故郷・平壌にはぜひ1度行ってみたい。けれども、お金がなくて行けないではないか。お金がなくては。ハハ。故郷に行ったら、父と母が埋葬されている墓にも1度行ってみたい。また、中国で暮らす子どもたちとも会いたい。なのにもう元気がなくて、中国に行くのは容易ではない。それでも、子どもたちに会いたい気持ちはどうにもできない」
■イ・オクソンさん「日本は私たちが死ぬのを望んでいる…早く韓国政府が乗り出すべき」
(1)86歳(1927年)/釜山
(2)家が苦しく学校に行けなかったが、1940年に「お金も稼げて勉強もさせてもらえる」という話で蔚山にある旅館で働いた。そんな中、42年に朝鮮人1人と日本人1人によって中国・延吉に連れていかれ、3年間慰安婦として過ごした。
(3)解放後、朝鮮人の男性と結婚して中国の八道鎮(吉林省竜井市)に住んだが、夫が戦争で入隊したため、生き別れになった。別の男性と再婚し、息子夫婦と共に中国・延吉で暮らした。
(4)2000年に韓国に永久帰国し、現在は「ナヌムの家」で生活。
(5)朴槿恵(パク・クンヘ)大統領と会って慰安婦問題の解決を求めること。「韓国政府は早く日本に謝罪せよと催促してほしい。韓国政府がきちんとやらないから、(元慰安婦の)女性たちが(ソウルの日本)大使館前に行っていつも拳を突き上げているのではないか。朴槿恵大統領が私を一度招待してくれればいいと思う。一度会って、隣に座って話をしたい。日本人は、お金がなくて私たちに賠償しないのではないはずだ。そのお金で戦争の準備をしている。私たち(元慰安婦)は、今ではみんな80-90歳になっていて、(日本は)私たちが死ぬことを望んでいる。韓国政府が乗り出すべきだ。日本では元慰安婦が死ぬのを待っているが、私たちがみんな死んでしまう前に解決すべき。歴史は消えるものではない」
■パク・スクイさん「日本からまた恥辱を受けないよう、若い人は勉強すべき」
(1)90歳(1923年)/慶尚南道南海
(2)16歳のとき、南海の沿岸で貝を採っていたら、日本軍が来て連行された。まず名古屋に行ったが、中国の満州や上海などに送られ、7年間慰安婦として暮らした。
(3)解放直後、釜山に戻り、他人の家で女中生活を送った。
(4)31歳のとき、釜山から故郷の南海に戻り、完全に定着。慰安婦生活が原因で子どもが生めず、3人の子を連れてきて(養子にもらって?)育てた。
(5)韓国が若い人をよく勉強させ、その若い人が大人になったら忠臣(官僚や政治家)になること。「なぜ韓国人が何度も日本のやつ(ウェノム)に頭を下げるのか。日本に頭を下げる理由はない。力があったなら、私が、私たちが、こうして慰安婦にされることもなかったはずだ。韓国の青年が大人になり忠臣になったら、こんなことは二度と起こらないのではないか。また、韓国が武器をたくさん持っていたらいいと思う。武器をたくさん持って、よその国に負けなければいいと思う。昔、韓国は武器がなくて負けた。韓国には剣と弓しかなかったのに、日本には大砲もあったし、全部あったではないか。だから負けたのだ。もうよその国の人間に頭を下げないでほしい」
ペ・チュンヒさん「生涯一人暮らし…家族と仲良く暮らすのが願い」
(1)90歳(1923年)/慶尚北道星州
(2)19歳のとき、親しい友人の家へ遊びに行ったら「工場で働けばお金を稼げる」と聞いた。ところがこれは慰安婦の募集だった。このことを知らないまま、お金を稼げると聞いて友人と一緒に志願した。満州一帯で慰安婦にされた。
(3)解放後すぐには帰国できず、中国国内を転々として1951年に日本へ渡り、約30年過ごした。
(4)81年に韓国に帰国し、97年から現在まで「ナヌムの家」で暮らしている。
(5)両親・きょうだいと仲良く暮らすこと。「私は『ナヌムの家』で唯一結婚していない独身者。子どもも生めず、ずっと一人暮らしだった。あの世に行くときに持っていくものもなく、願いごとも恨みごともない。特に願いはない。私は家族もなく、親類もいない。4歳のときに母親が亡くなり、すぐに父もあの世に行った。なので、幼いころは祖母の手で育てられた。孤独に育ったので、両親やきょうだいと一緒に1度暮らしてみたい。それだけが望み。ほかに願いはない」
京畿道広州=郭彰烈(クァク・チャンリョル)記者
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