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Wednesday, September 4, 2013

found dairy notes of the korean employee in comfort station,comfort women's dairy indifferently,mainichi news paper

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040157000c.html

慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落
毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊



ノートにびっしりと書かれた日記。1943年1月の記載

【ソウル澤田克己】ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、日記を残した朝鮮人男性は、1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた。日記には、慰安婦の管理や、軍や役所との折衝といった日常生活が淡々とつづられている。

慰安所が旧日本軍の管理下にあったことは、軍の文書でも確認されている。日記にも「慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた」(43年1月1日)や、連隊本部などから定期的に避妊具を受け取ったりしたという記述が、頻繁に見られる。

軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」(同3月10日)したが、結局は「司令部命令に勝てず移すことになった」(同14日)などの記述から、軍との密接な関係をうかがわせる。

日記の著者は、ビルマ西部の要衝アキャブ(現シットウェ)からラングーン(現ヤンゴン)へ移った。その際、軍から宿舎の提供を受け「火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って」(同年1月21日)もいる。

日記を発見した安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授は「軍属に準じる扱いを受けていたようだ」と話す。

日記からは、前線であるビルマと後方地域のシンガポールとの違いもうかがえる。シンガポールでの日記には、慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。

著者はシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。

ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。

一方、日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。日記にも「検査不合格者が6人も入院した」(44年5月12日)などという記述が多く見られる。「妊娠7カ月なので、休業届を提出した」(同7月4日)というケースや、慰安婦の出産(同9月5日)もあった。

日記には、朝鮮における慰安婦募集に関する記述はない。日韓両国では朝鮮半島で慰安婦を集めるときに強制連行があったかどうかに強い関心が持たれているだけに、安名誉教授は「この時期の日記が欠落しているのは残念だ」と話す。


ただ、米外交問題評議会のジェイムス・リンゼイ上級副会長は毎日新聞に対し、米国で慰安婦問題への批判が強い理由について「女性への性暴力が大きな政治的関心を呼ぶようになった世界的な流れが背景にある」と指摘。強制連行の有無は大きな論点ではなく、慰安婦という制度そのものへの向き合い方が問題視されているとの認識を示した。

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◆ excerption, the diary of comfort station employees

◇ in 1943

on January 1,
i got up on the Kanpachi Club ;comfort station in Burma,Akyab City(now Sittwe), i took adore to Kokyo;(Imperial Palace).
little brother of my wife and ○桓君 went to greet of the New Year with following comfort women to headquarter regiment and 3 or 4 locations.

on January 02,
we closed yesterday in New Year's Day,starting the comfort business from today.

on January 09,
the result of exam, the two persons,○chiyo and ○ko who had sick was rejected,others every 16 people were passing.

on January 12,
i went to regimental headquarters i submitted a revenue report of comfort women.


on January 13,
I had brought 1000 health sacks (condoms) from medical office in regimental headquarters.

on January 16,
around 6:00 pm,i got the business trip certificate to Rangoon (Yangon) that i asked a few days ago in regimental headquarters office.

on January 18,
i had breakfast in logistics with Nakamura lance corporal who become my traveling companion, for his guide,i will sleep and eating with his troops.
the certain Ensign will go to Rangoon accompany with us.

the managers pay 30 yen, the comfort women paid 2 yen per person, i paid the total of 62 yen

◆慰安所従業員の日記 抜粋

◇1943年

1月 1日 ビルマ国アキャブ市(現シットウェ)の慰安所、勘八倶楽部(くらぶ)で起きて、宮城(皇居)に向かって遥拝(ようはい)した。家内の弟と○桓君は、<慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた。>

1月 2日 昨日は元日で休業し、今日から慰安業を始める。

1月 9日 今日の検査の結果、病気だった○千代と○子の2人が不合格で、その他16人はみんな合格だった。

1月12日 連隊本部へ行き、慰安婦の収入報告書を提出した。

1月13日 連隊本部医務室から衛生サック(コンドーム)1000個を持ってきた。

1月16日 午後6時ごろ連隊本部事務室で、数日前に頼んだラングーン(現ヤンゴン)への出張証明書をもらった。

1月18日 同行の友となった中村上等兵と兵站(へいたん)へ行って朝飯を食べ、某少尉の案内で彼の部隊へ行って寝食をすることにする。某少尉も同行してラングーンまで行くという。

1月21日 ビルマ国タンガップの<火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って、午前11時にタンガップを出発した。>

1月25日 横浜正金銀行ラングーン支店で3万2000円を貯金した。

1月29日 朝鮮から一緒に来た野沢氏に会った。マンダレーの方で慰安所をしていたが、今は、部隊の移動に従ってプロメーに移り、営業しているという。

3月10日 <55師団から、マンダレーに近いイェウーに移転しろという命令が(ビルマ国ペグー市の)金川氏の慰安所にあった。慰安婦一同は絶対反対ということだった。>

3月14日 <金川氏は司令部命令に勝てず、慰安所をイェウーへ移すことになった。>

3月16日 金川氏は、師団連絡所からイェウー方面への移動を当分の間、中止すると言われた。

4月 5日 桜倶楽部の慰安婦、○子は腹部がとても痛み、午後、開腹手術をするのだという。○子は昨年、マンダレーにいた時も盲腸炎で手術をした。


6月 2日 (ラングーン市外)インセインの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。正金銀行に行って、村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。

6月20日 光山氏は、今回の慰安婦再編で、夫人を連れて帰国するそうだ。

6月25日 大石氏も今般、慰安婦募集のため帰国するという。

7月10日 <昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した日だ。もう1年になった。>

7月16日 村山氏の慰安所の慰安婦だった○子は妊娠7カ月で、胎動異常があり、今日、鈴木病院に入院したが流産だった。

7月17日 昨日、鈴木病院に入院した○子は流産後の経過が良好で、今日、車で帰ってきた。

7月19日 <インセインにいる高部隊すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が、兵站管理に委譲された。>

7月20日 村山氏経営の慰安所、一富士楼が兵站管理となり、村山氏と新井氏は兵站司令部に行ってきた。

7月26日 インセインの慰安所2カ所が兵站管理になった後、慰安婦の検査も兵站の軍医がすることになった。

7月29日 <村山氏の慰安所の慰安婦だったが、夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという。>

7月30日 村山氏は8月中に帰郷する考えなのだが、もち屋と慰安所を私に引き受けろという。承諾した。

8月 8日 金川氏も慰安所を他人に譲渡して帰国するという。

8月10日 ラングーンの翠香園で慰安所組合会議に出席した。組合費として経営者は30円、慰安婦は1人2円で計62円を払った。

8月11日 近日は慰安所に来る客が少なく収入もとても減少した。

8月12日 兵站司令部に行って営業日報を提出し、サック400個を受け取った。

8月13日 <鉄道部隊で映画があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた。>

8月19日 兵站司令部で、サックを600個受け取った。

8月24日 村山氏が、一富士楼慰安所を9月まで自分が経営して10月初めに引き渡すというので、それではだめだと言った。

8月26日 兵站司令部で5日間の日報を提出し、サック800個を受け取った。

9月9日 ペグーの金川氏も今日、慰安所を他人に譲渡する契約を締結した。

(この後、筆者はシンガポールへ移動する)

12月 3日 ラングーンで慰安所を経営していた金田氏は去る7月初めに慰安婦を募集するため朝鮮に行った。そして今回、慰安婦25人を連れてビルマへ行く途中でシンガポールに到着した。

◇1944年

2月 1日 今日出発する帰国慰安婦5人を送り出した。

3月 3日 慰安婦、○子とお○が廃業した。3月31日 慰安婦、真○を連れて特別市保安課旅行証明係に行き、内地帰還旅行証明願を提出させた。

4月 5日 帰郷する慰安婦、お○と○子は明日の乗船券を買った。共栄倶楽部の慰安婦、尹○重(○子)も明日出発だ。

4月 6日 <生鮮組合に行ったところ一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が働いていた。お○と○子、共栄倶楽部の○子を見送ってきた。>

4月12日 特別市支部へ行って、金川○玉と島田○玉の2人についての内地帰還旅行証明書を受け取った。

4月13日 特別市警務課に行き、真○の内地帰還についての移動届を提出した。南方運航会社に行って、真○、島田○玉の2人の乗船を申し込んだ。

4月14日 西原君と横浜正金銀行の支店に行き、今般帰郷した李○玉と郭○順への送金をした。

4月15日 慰安婦募集のため朝鮮に帰った大洋倶楽部の主人は来る7月に京城(現ソウル)から出発する予定だと西原君に電報が来た。

4月18日 スマトラ・パレンバンからシンガポールに来て、菊水倶楽部が慰安婦として抱え入れることになった金○順の就業許可のため特別市警務部保安課に行ってきた。

4月30日 今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入をはるかに超過し、2590円余りの最高記録だった。

5月 9日 金○順と崔○玉の稼業婦としての就業が許可された。

5月12日 <今日、検査不合格者が6人も入院した。>

5月26日 昨年9月ごろ、菊水倶楽部からティモール島方面へ行った李○梅という女が今日、シンガポールに帰ってきたと訪ねてきた。

5月31日 正金銀行に行き、金川○玉の送金許可申請を提出した。

6月 1日 中央電信局に行って、金本○愛と李○梅の2人に頼まれた電報を出した。

6月 2日 今日の検査で2人が不合格となって入院したので、今までの入院者まで入れて計5人が入院中だ。

6月 5日 金川○玉と島田○玉の2人は、今朝8時に出発した。

6月 9日 今日の検査結果は、入院中の2人が退院し、2人はそのまま入院。店にいた女たちは全員合格した。今月から女子はたばこ配給がないのだが、稼業婦に対しては接待用として特別に毎日10本の配給がある。

6月13日 4月に帰還した郭○順にすぐ送金したのだが、まだ受け取れていないと2回も電報が来た。

6月17日 新しく入った宋○玉のことで特別市保安課営業係、坂口氏のところに行ってきた。稼業婦特配米を受け取った。

6月23日 帰郷した金川○玉から到着したから送金しろという電報が来た。

7月 4日 <慰安稼業婦、許○祥(○江)は妊娠7カ月なので、休業届を提出した。>

7月27日 正金銀行に行って、慰安婦の貯金をした。

8月31日 今年4月初めに帰郷した共栄倶楽部の稼業婦、尹○重から無事帰還したというはがきが届いた。

9月 5日 <倶楽部の稼業婦、許○祥(○江)は妊娠中だったのだが、中央病院に今夜入院し、23時半ごろ男児を無事に出産した。>

9月 6日 保安課営業係に金○愛の廃業同意書を提出し、証明を受け取った。

9月28日 正金銀行に行って、稼業婦の貯金をし、南方運航会社に行って金○先と金○愛の2人の内地便船の申し込みをした。

10月14日 病弱のため帰郷を決心した。

10月25日 スマトラのパレンバンからシンガポールに来た宮本と<第一白牡丹で前は慰安婦をしていた今の仲居が今般結婚した。今夜、両国食堂で知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われたので行った。>

10月26日 今般帰郷する金○愛の送金許可申請書を提出した。

10月27日 <慰安婦、金○先に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った。>

11月 9日 横浜正金銀行シンガポール支店に行って、慰安婦の貯金をした。

11月15日 稼業婦、金○愛は今日、内地に帰還する船に乗った。

11月16日 特別市保安課営業係に行き、帰国した金○愛の酌婦認可書を納付した。

11月22日 仲居、李○鳳と稼業婦、金○守の2人の旅行証明をもらってきた。南方運航会社で2人の乗船申し込みをした。

11月24日 正金銀行に金○守の送金許可を申請し、中央郵便局で李○鳳の送金をした。

12月 4日 正金銀行に行き、送金許可された金○守の1万1000円を送金してあげた。

12月16日 横浜正金銀行に行き、許可された3万9000円を送金し、検疫所に行って検疫証明書をもらった。13時ごろ稼業婦のみんなと別れのあいさつをして停泊場に行き、手荷物検査を終えて17時ごろ乗船した。

(注)日記は、慰安婦のことを「稼業婦」「酌婦」などとも記している。慰安婦らの名前の一部を伏せ字とした。「横浜正金銀行」は、1880年開業の外国為替取扱銀行。日記では単に「正金銀行」とも書かれている。東京銀行の前身で、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。<>は記事と関連する部分。

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■ことば

◇軍票と戦時中の郵便貯金

軍票は「軍用手票」の略語で、軍の物資調達などのために一時的に使われる通貨。日本も第二次大戦中に約45億円分を発行したが、終戦後に無価値となった。戦時中はビルマ(現ミャンマー)などの戦地に野戦郵便局、朝鮮半島などの植民地や占領地に外地郵便局が設けられ、軍人や現地住民らが貯金に利用した。



http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040182000c.html

慰安所従業員:日記発見 識者に聞く
毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊

◇第三者が記録、客観性高く−−木村幹(きむら・かん)神戸大教授

−−この日記がなぜ貴重なのですか?

◆「第三者」の記録だから客観性が高い。著者は1979年に死去しており、80年代後半以降の慰安婦問題への関心の高まりを受けて改ざんされた可能性も極めて低く、当時の実態をよく描写していると考えられる。

−−日記に出る慰安婦の姿の評価は?

◆戦時下で「極端に統制された疑似公娼(こうしょう)制度の従事者」という印象だ。多くの女性は経済的理由から慰安婦になったものの、移動や廃業の自由は厳しく制限された。他の民間人も自由を制限されたが、日記の著者と比べれば慰安婦に対する制限が大きいことは明白で、同一視はできない。

−−貯金や送金に関する評価は?

◆慰安婦が額面上は多くの収入を得て、故郷へ送金することもあったことは明確に裏付けられた。ただし、東南アジアで流通したのはインフレで価値が急落する軍票だ。東南アジアからの送金には引き出し制限があったという研究もある。軍事郵便貯金は韓国人の場合、最終的には無価値になった。慰安婦が現場で経済的対価を得ていたことと、対価を享受したかは切り離して考えるべきだ。

−−慰安婦問題で注意点は?

◆当時の統治、経済システムといった大きな状況の中で慰安婦の置かれた人権状況を考えることが重要だ。強制連行の有無のような部分的な分析だけでは不足している。【聞き手・澤田克己】

◇募集、「広義の強制」示す−−安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授

−−日記から分かることは何ですか?

◆慰安婦703人の「第4次慰安団」が組織されていたことだ。慰安婦募集が、日本政府の政策に基づく戦時動員の一環だったことを示している。「広義の強制」だといえる。

−−強制連行?

◆「狭義の強制」と言われる、拉致のようなものはなかっただろう。業者をサポートする行政組織がしっかりしている朝鮮では強制連行の必要はないし、強制連行は(社会的な騒ぎを起こして)コストが高くなる。ただ、業者による乱暴な行為はあったはずだし、軍服のような服を着た業者が「軍人」と誤解された可能性はある。

−−どんな女性たちだったのでしょう?

◆米軍調書によると、大部分は教育のない貧しい女性で、売春経験者は一部だけだ。親に売られた人身売買も多かっただろう。

−−戦場での位置づけは?

◆ビルマのような最前線では、前借り金を返済しても簡単に廃業できなかった。所属部隊の管理を受けており、旧日本軍の編成の末端に位置づけられていた。「性的奴隷状態」にあったと言える。

−−慰安婦問題に取り組んだ契機は?

◆1990年代初め、慰安婦支援団体が実施する調査活動などを手伝った。だが、「強制連行」と最初から決めつけて証言集めをするような形だったので、運動からは手を引いた。【聞き手・澤田克己、大貫智子】

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