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Wednesday, September 4, 2013

the memory of the Shonan,Singapore museum

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm


・シンガポール植物園を守った日本人   
- シンガポール植物園を守った日本人 -
オーチャード・ロードの西端の先に広がるシンンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens )は、52ヘクタール(16万坪)という広大な広さを誇る世界有数の熱帯植物園で、シンガポール市内観光の有名スポットの一つになっています。

園内には、ジャングルを思わせるような熱帯植物が鬱蒼(うっそう)と生い茂り、綺麗に手入された庭や池には水鳥が遊び、園内に併設されているシンガポール国立蘭園(the National Orchid Garden)には、700種の原種と 3000種もの交配種があるといわれます。

***

この植物園は、イギリス植民地時代の1859年、熱帯産の有用植物の栽培と研究を目的に設立された植物園で、当時はシンガポールの創設者トーマス・ラッフルズ卿にちなんで、博物館(現在のシンガポール歴史博物館、シンガポール美術館、アジア文明博物館の前身)とセットでラッフルズ博物館と呼ばれていました。

シンガポールは、昭和17年(1942年)2月から終戦までの3年半、日本軍によって占領されますが、日本軍の占領と同時に、ラッフルズ博物館は改名させられ、「昭南博物館」と呼ばれるようになりました。

日本軍の占領で、それまで植物園や博物館に蓄積されてきた標本や論文などの文化財が破壊されるのではないかと危惧したイギリス人学者がいました。ケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポールに移り住んで13年間、植物園や博物館で研究を続けてきたE・J・H・コーナー博士です。

そのような状況のとき、シンガポールの文化財を守るため日本から一人の学者がやってきました。東北帝国大学で地質学を研究していた田中舘(たなかだて)秀三博士(1884~1951年)です。

田中舘は、コーナー博士の窮地を知るやいなや、当寺「マレーの虎」という異名で恐れられていた現地指令官・山下奉文(やましたともゆき、1885~1946年)将軍のところに直接談判にでかけ、博物館館長の口頭辞令をもらい付けます。

こうして、田中舘のもとで、博物館と植物園の保護と管理、日本人学者とここに勤務する、今は捕虜の身となったイギリス人学者たちとの協同研究が始まったのです。

田中舘は無給の館長であったばかりでなく、博物館・植物園の金庫はからっぽだったので、私財をはたいてコーナー博士らイギリス人学者や現地人雇用者を食わせていかなくてはなりませんでした。

田中舘は、シンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままだったので、服はぼろぼろで、それでも平気な顔でいましたが、コーナー博士らが気の毒がって、空き家で見つけた上着やズボンをプレゼントして着せたほどっだったそうです。

***

尾張徳川家19代当主に徳川義親(としちか、1886~1976年)という人がいました。木彫りの熊は、昔から北海道の名産だったと思われがちですが、その義親侯がスイス土産だったものを元尾張藩の開拓村で作らせたのが始まりだそうです。

義親侯は、殿様でありながら、ジョホール王国(現マレーシアジョホール州)のサルタン(君主)の招きでマレー半島に赴いて、マレーの虎狩りを行ったり、戦後、日本社会党結成にあたって資金援助をしたりしたユニークな人でした。

その義親候が、山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきました。田中舘らの活動に深い理解を寄せ、その後義親候自らが昭南博物館の総長となり、植物園長と博物館長として日本から二人の学者が新たに赴任してくることになりました。

役目を終えた田中舘は、昭和18年(1943年)7月、帰国します。義親候のもとで植物園長となったのが、京都帝大理学部植物学科の初代教授の郡場寛(こおりばひろし、1882~1957年)でした。

昭和20年(1945年)8月、日本軍が降伏し、9月にはイギリス軍が上陸しました。イギリス人捕虜が釈放されるのと同時に、今度は博物館と植物園に残っていた日本人学者たちが抑留される身になりました。コーナー博士は、イギリス軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出ましたが、日本人学者たちは同胞と共に収容所に留まる道を選んだそうです。

***

田中舘や義親候たちの働きがなければ、ラッフルズ博物館の文化財は略奪されたり、破壊されたであろうといわれています。思い返せば、苛烈を極めた世界大戦の末期に国籍を超え、学問のために一致団結して博物館や植物園を守り抜いた人たちがいたことは、コーナー博士にとって驚きだったに違いありません。

上述の話しは、E・J・H・コーナー博士が田中館秀三や徳川義親候たちの思い出を回想して著した『思い出の昭南博物館』(石井美樹子編訳、1982年・中公新書)やこの著作に触発されて戸川幸夫氏が書いた小説『昭南島物語(上)(下)』(1990年・読売新聞社)などによって語り継がれているものです。

このレポートは、下記のサイトを参考にして書きましたが、それらの著作を是非読みたいと思っています。                             (文中敬称略)



【参考にしたサイト】
[1]敗者の贈り物
→ http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog164.html
[2]徳川義親
→ http://tanizoko2.hp.infoseek.co.jp/tokugawa_yoshichika.html

【備考】
下記の旅行記があります。

旅行記 ・ 植物園とセントーサ島- シンガポール(6)
→ http://washimo-web.jp/Trip/Singapore05/sigapore05.htm


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog164.html

--Japan On the Globe(164) 国際派日本人養成講座-------------
_/_/ 人物探訪:敗者の贈り物
_/ ~シンガポールの博物館を護った田中舘秀三博士
_/_/
_/ _/_/_/  私の心を激しく打ったのは敗けてもなお、後世に
_/ _/_/ 受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さだった。
--H12.11.12 30,361部---------------------------------------

■1.シンガポール国立博物館にて■

数年ぶりに立ち寄ったシンガポール国立博物館では、太平洋
戦争回顧展が開催されていた。"The Singapore Story"という
3D映画は、いきなり画面から飛び出した零戦が観客席の上で
イギリス空軍戦闘機スピットファイヤーを追い回し、ついには
撃墜する画面から始まっていて驚かされた。

日本軍の占領は過酷だった、という描写はあるものの、当時
の植民地支配者の英国と挑戦者・日本の戦いを公平に見ており、
日本軍による虐殺しか記述しない日本の歴史教科書などより、
はるかに客観的である。

シンガポールは、華僑を中心に、マレー人、インド人から成
り立つ。日本軍が弾圧したのは華僑のゲリラ勢力であり、彼ら
が戦後は共産党ゲリラとして治安を脅かした事、そして英国支
配下で搾取されていたマレー人は日本軍に優遇され、また英国
からのインド解放を目指したインド国民軍が日本軍の支援を受
けて、シンガポールで創設された事もあって、一方的に日本軍
を悪者視する史観は、この多民族国家では通用しないのだろう。
[a]

大戦中の展示物の中に、この博物館の建物の前で日本人とイ
ギリス人数人が、並んで立っているパネル写真があった。
戦時プロパガンダのポスターや、悲惨な戦災光景写真の中で、
日英両国人が一つのチームのように仲良く写っている情景は、
他から浮き上がって、どこかほっとさせる雰囲気を醸し出して
いた。実は、この博物館自体が、これら日英の科学者たちの心
を合わせた協力によって戦火から護られたのである。

■2.そうだっ、やらなきゃならん!■

E・J・H・コーナー博士が、日本軍の占拠するシンガポー
ル市庁舎を訪れたのは、昭和17(1942)年2月18日、イギリ
ス軍無条件降伏の3日後であった。

博士はケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポ
ールに移り住んで13年間、ラッフルズ植物園で熱帯植物の研
究をしてきた。博士は植物園と博物館に保存されている標本や
論文が日本軍や現地人の略奪によって破壊されることのないよ
うに、イギリス総督の使者として日本軍に依頼していたのであ
る。

この日、シンガポールの文化財を護るために日本から一人の
学者が来ることになっていたので、その人に会うためにコーナ
ー博士は再び市庁舎を訪れたのだった。

紹介された人物は、長い鼻、不釣り合いに大きな眼鏡、乱れ
た髪、くしゃくしゃの洋服と、いかにも貧相な五十男だった。
東北帝国大学に奉職し、日本における火山学、湖沼学の先駆
者・田中舘秀三博士である。

田中舘博士は、植物学者であられる天皇陛下がシンガポール
の文化財、研究・教育機関の安否を気遣っておられ、陛下の名
代として実態調査に来た、と述べた。コーナーはこの言葉に
「これでシンガポールの文化は助かった」と感動でしびれるよ
うな思いをした。

コーナーが博物館と植物園、図書館などの文化施設が危険な
状態になっていることを説明し、その保護を願うと、身を乗り
出して聞いていた田中舘は、突如立ち上がり、腕を振り上げて
大声で叫んだ。「そうだっ、やらなきゃならん!」

■3.これが戦争というものか・・・■

田中舘はコーナーに案内されて、すぐに博物館と植物園を見
て回った。南洋植物の収集・研究で世界的に有名な植物園では、
日本兵がオーストラリア部隊の残していったおびただしい武器
弾薬、ドラム缶などを片づけていた。イギリス人の園長と数人
の部下がかろうじて研究室や標本室を守っていたが、広い園内
は現地人が自由に出入りして、勝手に木を切ったり、物を持ち
出したりしていた。

田中舘は、ナプキンに赤インクで即席の日の丸を作り、立ち
入り禁止との札とともに、建物に貼った。ちょうどそこに、官
舎が現地人によって荒らされている、との知らせが入った。コ
ーナーが研究室として使っていた場所であった。

「よし、行こう」と田中舘はすぐに走り出した。コーナーは
暴徒が武器をもって向かってきたら、と不安を抱いたが、田中
舘はそんな事は思ってもいないようだった。二人が官舎につい
た時、数人の現地人がコーナーの部屋から、標本や私物を持ち
出している所だった。田中舘が日本語で叫んだ。「そこに置け
っ。さもないと殺すぞ」

日本語が通じるはずもなかったが、田中舘の気迫に侵入者は
縮み上がった。彼らは、最初の略奪者はオーストラリア兵で、
自分たちも物を持ち出してもよいのかと思った、と弁解した。

コーナーは私物には目もくれずに、四つん這いになって踏み
にじられた自分の論文を、宝石でも集めるように一枚一枚泥を
落としながら拾い上げた。その有様に、田中舘は「これが戦争
というものか・・・」とつぶやきながら、論文を気遣うコーナ
ーを、本物の学者だ、と見て取った。

■4.これから山下に会いに行く■

田中舘は、この上は一刻も早く強力な手を打たなければなら
ない、と思い、「コーナー君、これから山下に会いに行く。そ
して文化財の保護を頼む。君も一緒に来るんだ」と言った。

「ヤマシタ? その人は誰ですか?」と聞くコーナーに、田中
舘は「シンガポールの支配者・山下奉文軍司令官だ」と、こと
もなげに答えた。「オー、ノー」コーナーは怯えるように首を
ふった。

山下司令官は開戦と同時にマレー半島に上陸し、約3万5千
の兵力で、8万の英豪軍を蹴散らしつつ、わずか2ヶ月余りで
1千キロ以上を南下し、遂にシンガポール占領を成功させた武
功輝く将軍である。

「心配ない、山下と僕とは大学の同窓だ。学生時代からの親
友さ」と田中舘は笑った。これはコーナーを安心させるための
方便であったようだ。

田中舘は、総督官邸にいる山下に会い、二人だけで2時間も
話し込んだ。会見が終わって出てきた田中舘は、コーナーに
「大成功だった。山下将軍は、できるだけの援助をしようと言
ってくれた」と語った。コーナーは後にこう書いている。

その後、教授は私に東条首相より発令された命令のこと
を伝えてくれた。それは占領下にある東南アジアの国々の
博物館、図書館、総ての科学標本のたぐいは、その国の国
民のために保存さるべきことを軍上層部に命じたものであ
る。その後ろに山下将軍の進言があったことは言うまでも
ない。

■5.いかに英人学者や現地人雇用者を食わせていくか■

田中舘は、山下将軍から口頭で博物館と植物園の責任者に任
命されたが、書面の辞令がなかなか届かず、その間の財政的援
助は一切得られなかった。田中舘は無給の館長であったが、現
地人の園丁や雇い人はそういう訳にもいかない。悪い事に、主
事ヘンダーソンがシンガポール陥落の2、3日前にからすべて
の金を持ち逃げしていたので、植物園の金庫はからっぽだった。

やむなく田中舘は、私財をはたいて当面の支出をまかなった。
不足分はその特異な政治的手腕を使って、食糧や金をどこから
か掻き集めていた。この時期の田中舘の主要な任務は、いかに
コーナーら英人学者や現地人雇用者を食わせていくか、という
ことだった。

田中舘はシンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままなの
で、ぼろぼろになってしまった。博士は平気な顔をしていたが、
コーナーは気の毒に思って、空き家で見つけた上着やズボンを
プレゼントしたが、大きすぎて、いかにもおかしかった。

そこまでしてシンガポールの文化財を守ろうとする田中舘や
コーナーらの努力に感謝して、こっそり資金援助をしてくれる
華僑も出てきた。

■6.学問への深い敬意■

山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた徳川義
親侯爵は、自身が生物学者であり、田中舘らの活動に深い理解
を寄せた。侯爵はチャンギー刑務所に収容されていたイギリス
人学者たちを引き取って、博物館と植物園に配属させ、各自の
研究を続けさせた。

それを聞いて、日本軍の憲兵が飛んできて、「スパイされた
ら、どうします?」と問うと、「少しくらいスパイされて、負
けるような日本軍なのか?」と叱って、追い返した。侯爵は後
に、博物館と植物園を兼ねた総長に就任し、田中舘を全面的に
バックアップした。

マレーのジャングルの研究では第一人者と呼ばれるC・F・
シミントンは、コーナーの友人であり、マレーの林務官と植物
学者のための手引き書を数年がかりで書き上げていたが、出版
前に戦争となり、原稿はクアラルンプールの出版社に置かれた
まま、彼は行方不明となっていた。

この件をコーナーから聞いた田中舘は、「それは大変な事
だ」と驚き、すぐに山賊やゲリラの徘徊するマレー半島を無防
備の車でクアラルンプールまで北上し、ゲラ刷りの原稿を発見
した。原稿は、徳川侯爵と田中舘が費用を負担して、500部
印刷された。コーナーは後にこう記している。

著者のシミントンは、自分のライフワークが戦火の中を
生き残り、敵国日本人によって救出され、出版され、そし
て敵国人からも同胞からも高く評価されたことを知ること
もなく、失意のうちに亡くなった。(中略)

侯爵と教授が自腹を切り、大金をはたいて英国人の一業
績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほか
ならない。戦争の真っ最中、敵国人の仕事を英語で出版し
ていかなる利益があるというのか。

■7.何か高貴な力に守られている■

その年の12月も押し迫った頃、田中舘は一時帰国すること
となり、コーナーの著書「マレーの路傍の木」をトランクに入
れながら、「これは献上するつもりだ」と語った。「献上」と
は何を意味するのか、コーナーには分からなかった。

翌年1月、田中舘は博物館に帰任すると、コーナーを館長室
に呼んだ。彼は突然立ち上がり、直立不動の姿勢をとり、「起
立! 気をつけっ」と大声で号令をかけた。びっくりして立ち
上がったコーナーに、田中舘は続けた。

賢くも大日本帝国天皇陛下には、マレーの写真と貴殿の
著書「マレーの路傍の木」をご受納あらせられ、ことのほ
か感謝しておられる。これは余が献上申し上げた故である
が、漏れ承ったところによれば、貴殿の本は陛下がお床の
中で読まれた唯一の本である。終わり。着席。

コーナーは唖然とした。教授の話が本当かどうか疑いつつも、
忘れがたい印象を受けた。

その話は博物館中に知れ渡った。その時から私とバート
(同僚)は自分たちが比較的自由に博物館の仕事をしてい
られるのは何か高貴な力に守られているからだという気が
してならなかった。

■8.敗者の贈り物■

徳川侯爵が総長となり、また日本から二人の学者が、植物園
長、博物館長として赴任してきた。田中舘教授の仕事はほとん
どなくなり、日本の学術研究会議から教授に帰還命令が出され
た。田中舘は昭和18年7月に寂しく祖国に帰っていった。

田中舘秀三教授がいなかったらシンガポールの博物館と
植物園と図書館は跡形もなく滅び去っていたであろう。若
き世代に残すべきものを失い、自分達の時代を子供たちに
誇り高く語って聞かせることもできなかったであろう。た
とえ一粒の種は小さくとも、一粒の塩は無に等しくとも、
それは人類を救う大きな力になりうる。教授は傷つき、寂
しく島を後にした。だが私たちは彼の遺志を受け継ぎ、希
望の灯を高々と掲げ続けたのである。

昭和20年8月、日本軍が降伏し、9月には英軍が上陸した。
英人捕虜が釈放されるのと同時に、博物館と植物園に残ってい
た日本人学者達が抑留された。コーナーは英軍司令部に占領中
の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者達は同
胞と共に収容所に留まる道を選んだ。

コーナーはその夜、ただ一人、植物園の庭を歩きまわりなが
ら、占領中の思い出に浸った。

私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣
りや寛大さというより、敗けてもなお、これだけ立派で、
永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さ
であった。

敗残者は今や勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の
印を刻みつけた。敗けてなお勝つということはこういうこ
とを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下でい
つまでも立ちすくんでいた。国家も、政府も、そして民族
も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問
は消して滅びない。私はこのことをシンガポールで、日本
人科学者との交流を通じて学んだのである。

■リンク■
a. 002 国際社会で真の友人を得るには
「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れま
せん」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「昭南島物語 上下」★★★、戸川幸夫、H2.7、読売新聞社






http://www.geocities.jp/michinokumeet/kikou/kikou32.html


下斗米秀二郎伝 「昭和新山」



北海道の観光地として知られる「昭和新山」は、昭和18年暮れにその活動が活発化して誕生しました。
その完成は、昭和20年9月です。
その形成の過程は、アマチュア火山学者・三松正夫の詳細な観察により世に知られることになりました。

明治43年、有珠郡壮瞥村の郵便局長代理として勤務していた三松正夫は、明治新山(四十三山)の形成過程を目にします。
地震の連続、人々の目にはわからないうちに進行する大地の隆起、各火口から噴き出る白煙や黒煙、四方に降る火山灰や泥流の溢出。
その活動は、のどかな生活を一変させる大事件で、三松にとって火山に対する認識と興味、そして不安を感じさせるものでした。

明治新山の形成から程なくして、有珠郡洞爺村に一人の火山学者が現地調査に訪れます。
火山研究の第一人者で北海道大学助教授の田中舘秀三博士でした。
地元では、これを機会に火山に関するお話を伺いたいと願い出たところ、博士は快く引き受けたのでした。
博士が滞在していた三樹亭三橋旅館の広間は、臨時の講演会場に早変わり。
この講演会に三松が参加したことにより、二人の交流が始まります。

三松の回想によると、その噛んで含めるような解りやすい話しぶり、有珠山に関する学問的な説明に深い感銘を受けたととあります。
博士から、「この次に来る時には、参考書を届けてあげるよ。」という思いがけない言葉をかけていただき、その場で、自分勝手に師弟の契りを結んだのでした。
二人の交流は、博士が亡くなる昭和26年まで続きます。

田中舘秀三博士は、明治17年(1884)6月11日に、岩手県二戸郡福岡村(現二戸市)に生まれました。
本名は下斗米秀二郎です。
田中舘愛橘博士の一人娘・美稲と結婚し田中舘姓を名乗るようになります。
地元の福岡小学校卒業後に、旧制盛岡中学に進学。同級に、野村胡堂、山辺英太郎などが居ります。
盛岡中学から第三高等学校、東京帝国大学へと進み、地質学研究の第一人者に。


(盛岡中学時代の集合写真。秀二郎はどの人物かは不明。金田一京助、郷古潔も写っている)

田中舘博士が三松にアドバイスしたことに、
「あれこれと広く調査して、次第に重点を絞ってゆく方法」と同時に、
「一つのものを一定の視点で永く追う」の重要性がありました。

三松は、「一つのものを一定の視線で永く追う」方法で昭和新山の形成過程を約一年半にわたりスケッチします。
このスケッチを、昭和23年に田中舘博士が三松の業績としてオスロで開かれた万国火山会議で発表し、「ミマツダイヤグラム」名付けられます。
「ミマツダイヤグラム」は世界的に認められる業績となりました。


(第三高等学校入学時の秀二郎)

さて、「昭和新山」という新火山の名称は、もちろん生成過程では無名でした。
活動が終わって多くの学者が調査に訪れ、三松の自宅で酒を飲みながら火山談義にふけるようになります。
誰からともなく、この新しい山に良い名前をつけようということになり、相談しますがなかなか纏まりません。
「三松山」「正夫山」という意見も出たようですが、三松自身が固辞したので見送られます。
最終的に田中舘博士に一任ということになりました。
そこで博士は、津屋東大地震研究所長と相談し「昭和新山」命名したのです。

また、田中舘秀三博士は日本占領下のシンガポールで、英国の科学者たちと協力し後世に残る活躍をしています。
そのことは別の機会に紹介したいと思います。

http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/singapore/singa2/museum.htm

シンガポール・ヒストリー・ミュージアム(旧国立博物館&美術館)



1887年に建てられた銀色ドームをもつヴィクトリア様式の建物。
シンガポールの歴史がジオラマで展示されている。
シンガポールをはじめ東南アジアの民族資料が展示されている。
ペラナカンといって中国人とマレー人の混血の人たちの民族資料が重点的に展示
されている印象だった。やはりペラナカンはシンガポールにとって無視できない
存在なのであろうか。

タイガー・バーム(万金油)で財を築いた胡一族の翡翠のコレクションが圧巻。
胡文虎の弟胡文豹は若くして死んだ。胡文虎は悲しかったろう。
中国新疆ウイグル自治区特産の玉がたくさんあったのには驚いた。立派な彫刻ばかり。

行った日には小学生や中学生がいっぱい見学していた。
日本人には重い内容の展示がいっぱいだが、子どもたちにとっては退屈だったろう。
中で走り回る子どもは、管理人のおじさんから走りたかったら外で走りなさい
と英語で叱られていた。

太平洋戦争の資料などは、セントーサ島のイメージズ・オブ・シンガポールと重なっている。
ただ、こちらのミュージアムにはシンガポール独立までの詳しい書類や資料が
展示されている。
イメージズ・オブ・シンガポールの方には、ジオラマなどで視覚的に展示されている。

こちらのミュージアムも撮影は禁止ではなかった。
ただ1955年の共産主義者による暴動の資料は、固有名詞など表示されている
ためか、そこだけ撮影禁止であった。

ミュージアム

Jade Houseその1            Jade Houseその2

このミュージアムは日本支配下時に昭南博物館として
心ある日本人たちにより貴重な資料が保管され研究も続けられた。
戦後にケンブリッジ大学名誉教授コーナー博士が本を書いて
徳川義親元侯爵と田中館秀三教授の功績を高く評価した。
なんとビクトリア女王像もラッフルズ像もここに保管され
英国人たちが戻ってきたとき元に戻されたのだ。
コーナー著、石井美樹子訳「思い出の昭南博物館」 中公新書659
戸川幸夫著「昭南島物語」 読売新聞社



徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年10月5日 - 1976年9月5日)は、植物学者、侯爵、貴族院議員、尾張徳川家第19代当主である。
生物学者としては、昭和天皇の兄弟弟子にあたる。名の読みは「よしちか」が正しいが、明治維新以前の諱を音読みさせる風習(有職読み)に従い、一般向けには「ぎしん」と読ませていた(新聞記事や名古屋市長選挙の広報では、そうなっていた)。
近代の尾張徳川家当主として、徳川家の歴史的遺産の保存や社会文化活動に力を注ぎ、植物学者としても林政学の分野で先駆的業績を残した。一方で、本人の意図しない原因で「虎狩りの殿様」の通称が喧伝され、イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力と奇妙な関わりを持つなど、ユニークな逸話を多く残したことでも知られる。





http://www.jas.org.sg/magazine/yomimono/ichimai/ichimai1109/ichimai_1109.html




“黒”ラッフルズ像(1890年 パダン)

ラッフルズって?
ラッフルズホテル、ラッフルズプレイスなど「ラッフルズ」の名前はシンガポールのいたるところで見聞きします。イギリス東インド会社の職員であったラッフルズがシンガポールに自由貿易港を開き、シンガポールをイギリスの植民地とした「シンガポールの近代化の父」とも言える人です。南十字星2010年10月号の人物伝を読んで下さった方には記憶に新しいかと思います。 

黒と白のラッフルズ像、どちらがオリジナル?
このラッフルズの像がシンガポールリバー河口近辺に二つあります。一つはボートキーの向かいのラッフルズ上陸地点
の白いラッフルズ像。朝早くから大型観光バスが停車し、多くの観光客が記念撮影している光景をよく見かけます。この白いラッフルズ像は川向うの高層ビルを背景に威厳のあるいでたちです。像がある隣のアジア文明博物館の裏手から細い道(エンプレス・プレイス)を渡ると、ビクトリアシアター&コンサートホールがあり、こちらにも同じ像が、しかしこちらは黒いラッフルズ像です。さて、どちらのラッフルズ像がオリジナルでしょうか。この黒いラッフルズ像は、1887年6月27日、シンガポールがイギリスの海峡植民地時代、ビクトリア女王在位50年を記念して、2万ドル以上をかけイギリス人彫刻家Thomas Woolnerによって制作されました。当初は上の写真にあるように、セント・アンドリュース教会に面しているパダン(広場)の中央に高さ8フィートのブロンズ像がGranite(花崗岩)の台座の上に設置されました。その後、1919年ラッフルズ上陸100年を記念して現在のビクトリアシアターに移設されたのです。白いラッフルズ像は、この黒いラッフルズ像の鋳型を取り、全く同じ大きさでラッフルズ卿上陸150年の記念碑として、上陸地点に設置されたものです。この像の台座には「スタンフォード・トーマス・ラッフルズ卿(1781-1826)が1819年1月29日に初めてこの地に上陸」と書かれています。
“黒”ラッフルズ像を守る
ラッフルズ・ライブラリー&ミュージアム(現在の国立博物館)も実はこの“黒”ラッフルズ像と同じ1887年に建築されました。1942年から1945年には、昭南博物館と呼ばれていましたが、戦時中(占領時)ここにラッフルズ像は大切に保管され、戦後、また元のビクトリアシアター前に戻されることになります。2011年9月現在、ラッフルズ像はビクトリアシアターの補修工事のため、傷を与えないようにと三方囲まれて守られています。残念ながら記念写真が撮れない状況ですが、今も昔も、そしてこれからもこのようにオリジナル“黒”ラッフルズ像が大切に守られ続けて行くのでしょう。

(文・写真 穴井 美佐)

一枚の写真から T






http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b02/tzb0210.html



シンガポールの公園で確かめたこと
 戦争責任と教育実践の課題




福島達夫* 和光大学元教員

――しんどいアジアへの旅

 二〇〇一年三月一七日に現職の教員として最後の卒業式に出席し、二〇日に和光大学のシンガポール教育調査団に参加して成田を発った。天皇家の菊の紋章を表紙に刻印した旅券をなによりもの“貴重品”として懐にし、現地貨幣に交換するために「脱亜入欧」論を論じた福沢諭吉の人物像を刷り込んだ日本の最高額の紙幣を持って、アジアの国を旅するのはいつも気になる。なかでも、シンガポールに行くことは、三〇年間、中学と高校の社会科を教え、その後、一五年間にわたる大学での「社会科教員免許」取得科目を担当してきた私にとっては、その教育実践を検証する気持ちを持っての調査旅行であった。
 出発する数日前に、奥平康照教授からいただいた「新しい歴史教科書をつくる会」の主導で編集された中学校歴史教科書の検定本のコピーを読んだ。私は中学校二年生の敗戦の時まで習った国史教科書を思い出した。私が、教師として生徒と学んだ社会科、学生と学習してきた社会科教育論とあまりにも違う。「新しい歴史教科書」どころか、明治の天皇制国史の復古歴史教科書である。「教育勅語」が全文掲載されている。私は、和装の女子学生を見て「卒業式明治は近くなりにけり」と、中村草田男の俳句[*1]を借りて思ったのはご愛嬌だとしても、この教科書はこれまでの社会科教育の全面否定である。梅根悟は「戦前にも社会科はあった。それは抵抗の教育としてであった」と書いたが、戦後の社会科もまた、抵抗の気構えがなくては実践できなかった。
 私が軍国少年として育てられた小学校四年生の一九四二年二月、「シンガポールは昭南市になり、日本人が市長になった。いずれ、ニューヨークも占領し、その市長に日本人がなる」といった八紘一宇の雄大な希望を持たされた教育を受けた。あこがれの一人はイギリス軍を降伏させた山下奉文将軍であった。初代の昭南市長は、その後、一九四四年に内務大臣となった大達茂雄である。
 一九四四年三月、小学校の卒業式で唄ったのは、「君が代」と「海ゆかば」であった。「大君のへにこそ死なめ、かへりみはせじ」という歌詞である。「滅私奉公」「殉国」を生きがいとして育てられた。
 敗戦直後、私は、教科書の文章に墨を塗って習った。間もなくして、新聞紙のような広い紙に印刷された教科書を、自分で教科書の大きさに、はさみで切って、母が糸でとじてくれた。『新しい民主主義』という教科書を手にしたが、それを習った記憶がない。
 一九五三年五月に文部大臣となったのは、敗戦後、公職から追放されていた大達茂雄であった。敗戦で「内務省は消滅したが、内務官僚は文部省で蘇生した」と大田堯[*2]は書いた。
 その翌一九五四年に私は、日本国憲法を遵守する教育公務員となることを誓約して、中学校の教員となった。その時、すでに社会科解体が始まっていた。四年間の中学校教師を終える離任式で、吉野源三郎の小さな本『人間の尊さを守ろう』[*3]の巻頭の詩を読んだ。
たれもかれもが
力いっぱいにのびのびと
いきていける世の中
自分を大切にすることが
同時にひとをたいせつに
することになる世の中
そんな世の中を
来させる仕事が
君たちの行くてにまっている
大きな大きな仕事
生きがいのある仕事
 「自分を大切にすることが、同時に人を大切にすることになる」という人権思想は、「滅私奉公」「殉国」思想と対極にある。しかし、その人権思想にもとづく社会科教育実践は、次の日本国憲法の第九七条が「この憲法が保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と宣言するように、その試練は人類史の過去ではなく、今日に至る「大きな仕事」であって、これからも続いていく。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定用教科書の文章を読んで、戦中の教科書に塗った墨が薄れて、地の文字が浮かびあがってきた感じであった。その思いをもって、日本政府の文相だった大達が、昭南市長を勤めたシンガーポールの教育調査にでかけた。
――私の地域研究とシンガポール

 シンガポールへの関心は、「人文地理学」担当者としてのそれであった。
 私の最初の地域報告の文章[*4]は、一九六三年に工業整備特別地域に選ばれた静岡県東駿河湾地域に関するものであった。そこでは住民が手作りの地域環境調査を行なってその石油化学・電力コンビナート計画を撤回させた。その中核企業だった住友化学は千葉県姉ヶ崎に進出した。その千葉臨海工業地帯の造成期にも共同研究グループに参加して調査した。その住友化学の長谷川周重社長が次のように語っている。
「いま、シンガポールで石油化学コンビナートの建設を、業界が一体となって進めようとしている。この計画は、シンガポールのリー・クアンユー首相から私が頼まれたものです。日本としては、シンガポールとは絶対仲良くしていかなくてはいけない。日本が協力しなければ、アメリカか西ドイツが必ずあそこに出てくる。それとシンガポールは日本にとって死活問題になりかねないマラッカ海峡を抱えていますからね。あそこはいろんな意味で日本がどうしてもつばをつけておかなくてはいけない地域です。」[*5]
 そして長谷川社長は「シンガポールもそうですが、インドネシアのアサハン・アルミもあそこの共産化を防ぐというねらいがある」と率直に述べている。
 南ベトナム解放戦線が結成されたのが一九六〇年であった。アメリカはそれをベトコンつまりベトナム共産軍と呼び、その拡大を阻止するとして泥沼のベトナム戦争に落ち込んでいくことになった。ベトナムが共産化すれば、タイ・マレーシアへと将棋倒しで共産化するというドミノ論があった。イギリスに留学して弁護士となっていたリー・クアンユーは、一九六三年八月にマレー人優先政策をとるマレーシア連邦から分離し、一九六三年八月にシンガポールとして独立国を誕生させ、その初代首相になった。リー政権は、左派を徹底的に排除し、共産主義勢力を一掃して政治的に安定させ、積極的に外国資本を導入して工業化を進めた。
 その南のインドネシアでは、反米色を強くしたスカルノ体制を崩壊させたスハルト政権が誕生したのは一九六五年であった。そしてASEANが結成されたのが一九六七年である。ベトナム戦争の泥沼化とともに、日本は東南アジアの後方支援として、日本資本のアジア進出を積極化させた。
 その牽引的財界のリーダーが長谷川住友化学社長であった。彼は、こう語った。
 「要するに、私なりに、東南アジアにおける自由主義陣営の縦のラインというものを考えると、オーストラリア、ニュージーランドは経済的に自立していける。それは心配ない。香港、、台湾もそれぞれ、イギリス、アメリカが背後にいるから、日本が手を出す必要はない。韓国もアメリカが一生懸命になって守っている。
 問題はシンガポール、インドネシアですよ。この両国はとくに共産主義勢力と第一線で相対している。自由主義陣営としては、これら両国をこちら側に引き込んでいかなくてはいけない。それには日本の経済援助がどうしても必要になるんですね。」
 そしてこの「戦後産業史への証言」を、次のように結んでいる。
「私としては アルミ事業も石油事業も憂国の精神でやっているんであって、うちの金もうけのためにやっているんじゃ決してない。」
 この長谷川証言は、大東亜共栄圏の版図が活きつづけていることと、三島由紀夫の「憂国」自殺を想起させられる。復古調は社会科教育だけではない。
 インドネシアのアサハン開発によるアルミ事業は、一九七〇年代に破綻した。
 現在、シンガポールには日本企業二八〇〇社があり、在留邦人は二万数千人である[*6]。日本財界の地政学のなかに位置づくシンガポールは、現在、英語、華語、マレー語、タミル語の全マスコミ紙が政府系持株会社の傘下にあり、インターネットの接続業者も監督官庁の管轄下にある。「体制批判、人種・宗教批判、ポルノ」の規制を受けている国家である。空港からホテルまで案内してくれたガイドがまず「ゴミを捨てると罰金です」と注意した。そのような国で私はどのような調査ができるのか。私には不可思議な国である。
――学生が写した『日本占領時期死難人民記念碑』に導かれて

 シンガポールの教育調査で、もっとも見聞したいと思ったのは、『日本占領時期死難人民記念碑』であった。
 この戦争記念碑について知ったのは、文部省検定教科書『高校地理』(実教出版)の共同執筆者であり、またNHK高校地理講座の共同講師であった高嶋伸欣氏[*7]が、一九八五年八月にシンガポールの書店から買ってきた三〇冊の写真集『日本統治下的新加坡』の内一冊を分けてもらい、また同氏に教えてもらった中島正人『謀略の航跡――シンガポール華僑虐殺事件』[*8]を読んでからのことである。中島氏は次のような衝撃的なことを書いている。
 「一九七〇年二月五日、私は碑の方へ歩きながら、格好の写真の被写体を探した。そのとき、若い男女がこちらに近づいてくるのが見えた。
 『写真を一枚撮らせてください。』
 『できたら、あの記念碑をバックに入れて撮らせてほしいんだが……』
 その瞬間、男の表情がかすかに変わるのが見えた。
 羞恥心のようなものが読みとれた。私はカメラのファインダーを覗き込んだ。そのとき、
 『やめろ、ジャップ』と英語でどなった。
 それから矢つぎばやに激しく中国語でわめき立てた。
 『なんのことですか』
 と、私は聞き返した。すると、鋭い声で、二言、三言叫んだ。それからまた『ジャップ』とどなった。
 私は理由もわからず面罵された不快感と、『ジャップ』という言葉の衝撃とで、やり場のない気持ちで白亜の記念碑のほうへ歩を運んだ。石段を踏んで碑に近づくと、左右に広がる御影石の台座に、刻みこまれた文字がいやおうなしに視界にとびこんできた。
 『日本占領時期死難人民記念碑・一九四二~一九四五』と刻まれていた。」
 その文字を読んで中島氏は「自分の軽佻さが、ひどく悔やまれて」、それからシンガポール華僑虐殺事件をしらべ、一冊の書にまとめたのである。
 知らないことは恥ではない。知ったことで、どうするかがその人の人間を証す。私はこの文章を私の学生向け通信『波動』[*9]に書いた。
 もうひとつ、ついでに紹介しておこう。
 一橋大学を出て、時事通信社に勤める冨山泰が、その著書に次のように書いている[*10]。
 「九一年五月初め、海部首相(当時)はASEAN歴訪の一環として訪れたシンガポールでの演説で、『多くのアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたわが国の行為を厳しく反省する』と述べた。日本の首相が、東南アジアに対し、旧日本軍の行為を公式の場で陳謝したのは、なんとこれが初めてだった。海部首相は演説で、日本がアジアで何をやったかを正確に教えるため、歴史教育を充実させるとの約束もした。
 日本の歴史教育には確かに重大な欠陥があった。私自身、(時事通信社)バンコク特派員、在任中、旧日本軍の東南アジアでの行為を現地で初めて知り、愕然としたことが何度もある。公教育で日本の過去の侵略行為を率直に教えるようになれば、『日本は再び軍事大国にならない』という『意思』の信頼性を高めるのに役立つのかもしれない。」[*11]
 私は、この文章も、「社会科教育論」の教材にした。とくに、一橋大学において。
 学生が写した“血債の塔”
 一九九二年の春。日本福祉大学の卒業式が終わって、和装の古川由美子さんが、研究室に訪ねてきて、数枚の写真をくれた。学年末試験が終わって、オーストラリアに行き、その帰りにシンガポールで乗り換えのために空港をでて観光する時間があったので、撮ってきた写真だという。私は、大いに感激して、そのいきさつを『波動』に寄稿してほしいとお願いをしたら、次のように書いてくれた[*12]。

『波動』に導かれてシンガポールを歩く
古川由美子
 オーストラリアからの帰り道で、シンガポールに一日だけ寄ることができた。そこで、一年前三年生の『社会科教育法』で印象に残った太平洋戦争時の犠牲者をまつる戦争慰霊塔にいくことにした。地図をみると途中に「世界の三大ガックリ」のひとつといわれるマーライオンがある。ついでに寄ったが、見なければよかった。そこから慰霊塔に行く途中に、少し変わった碑があった。近付いて見ると『我らの栄光の死のために』と書かれ、台に英文の文字が刻まれている。
 - 1942  私たちに神がいた
 1942 - 1945  私たちの栄光は失われた
 1945 -  私たちは再び栄光を手にした
 私は「1942 - 45」に注意した。それは日本がシンガポールを占領していた期間である。
 私は罪悪感をもちながら授業で知った慰霊塔に行った。まわりには塵ひとつなく、よく整備され、ブーゲンビリアが咲き乱れていた。塔は四本の柱が寄り添うようにしてそびえたっている。その台座には中国語、マレー語、インド語、英語で碑文が書いてある。中国語の「日本占領時期死難人民記念碑」という文字を読んだ。そのとき、私はあたりを見回した。シンガポーリアンがジッとにらみつけてはいないかと思った。三〇分ほどいたが、誰一人もこなかった。
 その後に、ショッピング街で有名なオーチャード・ロードに行ってみると買い漁っている日本人の人、人、ひと、……。両手に抱えきれないほどの買物をし、それでもまだ買おうとしている。
 閑散とした慰霊碑とショッピング街のこの対照。
 「戦争の加害者であったという事実」を知らせない教育の結果なのであろうか。さらに空港の免税店でも買物の人だかりはほとんど日本人だった。
 〈付記〉私は、卒業式の日に、福島先生にその旅のことを話した。すると先生は『波動』に書いてほしいと依頼された。そこでとってあった『波動』を読みなおした。それはもっと長い文章のように思っていたが、六〇〇字ほどの文章だった。人に感動を与える文章は長短ではないと思った。
『日本占領時期死難人民記念碑』
『日本占領時期死難人民記念碑』
(撮影・古川由美子さん)
 私にとって嬉しい文章であった。古川さんが、一年前の三年生だった授業で配った『波動』をとってくれていたのである。
 私はその写真(右に掲載)を、高嶋伸欣氏に分けていただいた『日本統治下的新加坡』に貼っておいた。上手に撮った数葉の写真である。こころをこめて写したのであろう。
 二〇〇〇年度の『人文地理学』を受講してくれた中野智弘君が、夏休みにシンガポールに行き、撮ってきた何枚かの写真を見せてくれた。その中に、この『日本占領時期死難人民記念碑』が写っている。私はその写真をもらった。中野君は旅行会社の観光旅行団に参加し、泊まったホテルの前にこの記念碑があったから、見てきたという。中野君の写真も、『日本統治下的新加坡』の裏表紙に貼った。
 このように、学生に教えた私が『日本占領時期死難人民記念碑』を見ていない。その碑をぜひ見たいとかねがね思っていた。
 その碑が、思いがけずシンガポール到着翌日、国立博物館を見学して、昼食をとったショッピング・センターを出たすぐ前の広場に建っていた。学生の写真で何度も見ていた高くそそり建った細い塔である。学生の行動に感謝して、丁寧に見上げ、またビデオカメラに撮った。
 その四本の細い柱が寄り添って高さ一二〇メートルの白亜の碑の建設は一九六五年三月にはじまり、六七年二月一五日、それは日本軍のシンガポール攻略二五周年にあたる日に、除幕式が行なわれた。
 その『日本占領時期死難人民記念碑』の四本の柱は「忠・勇・仁・義」、または「中国系、マレー系、インド系、ユーラシア系の犠牲者とその民族文化や宗教を象徴している」ともいう[*13]。ユーラシア系とはアジア系人種とヨーロッパ系人種の混血人種をいう。英語が示す犠牲者にはイギリス人は含まれていないのか。イギリス人犠牲者の遺骨が一瓶分あって、イギリス軍部に引き渡された[*14]。
 この記念碑建設の発端は、一九五九年のある日、シンガポールの東海岸にほど近い樹林地帯を開発し、日本企業の工業進出用地造成工事の際に、おびただしい人骨が掘り出されたことにあったと、中島氏は書いている。シンガポールが新興工業国建設期に入って工業用地造成が進められるようになった一九六二年一月、二月には十数カ所で、日本軍占領時代に虐殺された市民の遺骸があいついで発見された。それから、一九六七年まで二次にわたる遺骨発掘が三三カ所で行なわれた。日本軍による「粛清」によって行方不明となっていた人びとは、惨殺され埋められていたことが明らかになった。その遺骨収集が行なわれている間、連日のように発掘状況が報道された。そして遺族・血縁者はもちろん、シンガポール全住民の「反日感情」をたかぶらせた。
 政府は記念碑の建設を決め、市街地の中心部、官公庁街と商業・金融・ホテルの街区の間にひろがる中央公園、東京で言えば日比谷公園の位置にあたり、帝国ホテルに相当するラッフル・ホテルの筋向かいの園地の一角を提供し、建設費用を政府と民間とが折半することになった。
竣工し、序幕式が開かれたのは前記したごとく六七年二月一五日であった。その基盤台中央に、
 「一九四二年二月十五日至一九四五年八月十八日、日本軍シンガポールを占領、我が平民を虐殺、その数を知ることができない。それより二十余年を経て、遺骨を収拾しここにに葬り、碑を建て、永遠に痛みをねぎらう。」
 といった内容の言葉が書かれている。
 日本軍は占領の翌日一六日、シンガポール陥落の大行進を行なった。戦車に乗った兵士が、戦死した戦友の遺骨の箱を胸にかけてのパレードであった[*15]。それから「SYONAN―TO」(昭南島)の時代となった。華人たちは、抗日戦争を戦っている母国の中国を支援し、また日本商品の不買運動を行なっていた。その反日分子を「粛清」することになった。占領三日後の一八日から一八歳から五〇歳の男性を集めて尋問し、反日分子の疑いをかけられた男性たちはどこかに連れ去られ、行方不明となっていた。その犠牲者の遺骸が、工業開発用地の造成によって掘り出されたのである。この犠牲者数を、文部省は一九八三年の中学校社会科教科書の検定で、六〇〇〇人と示した。陸軍省報道部機密文書の「六七〇〇人の華僑を処刑」に基づいていると思われる。二万人とする日本研究者もいるが、日本軍参謀杉田一次中佐の話によって書いたとする二万五〇〇〇人説もある。シンガポール政府は、数万人と発表している[*16]。
 華人たちはシンガポール独立の月に「血債は血で償え」と日本を抗議する大集会を開いた。一九六六年日本政府はシンガポールと経済援助協定を調印し、政府間では「血債問題」は決着した。
 その「血債の塔」が建設された当時は、そそり立つ高い塔で目立ったが、奇跡の高度経済成長を遂げて、その中央公園を囲むように高いビルが建ち並んだので、今や、か細く見える。それでも、中野君のように、なんだろうと近づいて漢字を読み、その塔のいわれを知る。
『国立博物館』正面玄関
日本の軍機の模型がつっこんで
いる『国立博物館』正面玄関
(撮影・筆者、2001年3月22日)
 私たちが訪れたシンガポール国立博物館では「太平洋戦争展」を開いていた。正面玄関の壁面に、日本の軍機の模型がつっこんでいる(写真参照)。日本の戦争責任の追及の手をゆるめていない。また戦争の記録づくりを進めている。その成果をまとめた本の序文に次のように書いている。
 「どんなに多くの英雄が生まれようと、戦争は正しくありません。戦争は不正な行為なのです。戦争は死と破滅です。武器は五歳の子どもと、二十五歳の兵士の区別はできないし、軍事施設と祈りの場の区別もできません。『戦争ではなにをしてもすべてただしい』のです。
 戦争を避けるには戦争そのものと戦争の原因を知ることが何よりも大切です。こうして自らの歴史を知る努力を重ねていけば、時間はかかっててもやがて、戦争の阻止に役立ちます。日本の占領下で起こった恐怖の数々を日本が無視しているのは、この点で危険です。 知識は力であり、また、相互理解に至る唯一の道です。」[*17]
――もう一つの栄光の死の記念碑

 もう一枚の写真を古川由美子さんはくれている。『OUR GLORIOUS DEAD―1439-1945』と刻んだ石碑を写した写真である。それも見たいと思った。一九三九年とは第二次世界大戦がはじまったとされる英独戦争の火ぶたが切られた年である。一九四五年とは五月にドイツが、八月に日本が降伏して戦争が終わった年である。古川さんは『日本占領時期死難人民記念碑』を探していて見つけたといっていた。その写真には、記念碑に刻まれた「OUR GLORIOUS DEAD」とはっきり写っている。その栄光とはシンガポール住民の死への追悼ではなく、宗主国イギリス戦死兵士への栄光の碑であった。そのモニュメントの写真が、シンガポールで手に入れた観光案内に載っていた。だが、その位置が書かれていない。
 この度のシンガポール旅行の翌日、他の教育系研究者メンバーは教育関係の調査にでかけたが、私は体調不調で参加できず、ふたたび国立博物館を見に行き、その後に『OUR GLORIOUS DEAD―1439-1945』を探すことにした。
 受難記念碑のはす向かいのクラシックなラッフル・ホテルの前で、人力車夫が、片言の日本語で話しかけてきた。古川さんの写真を見せて、そこに案内してくれるように言って、乗った。公園の中の細い小道を走り、その碑があるところにでた。通路から見るとその碑の基台の階段に古川さんの写真の年号と違って「1914-1918」と第一次世界大戦の年数が刻まれていた。イギリス兵士のための碑であった。
 石碑の裏面にまわると「1439-1945」と、同じ字体で古川さんの写真の年号が刻まれていた。第二次世界大戦のイギリス軍人を追悼する碑文であった。むろん、そのイギリス兵の中には、イギリス植民地だったシンガポール・マレーシアやインドなどから調達した兵士が含まれているであろう。その戦死者の中には、映画『戦場に架ける橋』で知られるクワイ河の鉄橋建設に連行されたイギリス人も含まれているであろう。
『インド国民軍記念碑』
『インド国民軍記念碑』
(撮影・筆者)
 ついで、人力車夫は国立劇場寄りの最高裁の前方の位置にある、小さな金属製の碑に案内してくれた。「インド国民軍記念碑」と日本語の表示がある。その説明板によると、「インド国民軍(INA)の無名戦死者に捧げるために、第二次世界大戦が終わった一九四五年に建立されたが、日本軍が敗退して、一九四五年九月二一日、イギリス軍が勝利の式典を開催し、イギリス植民地政府が復帰してきたとき、撤去された。そして、シンガポールが独立して後に復活再建された」[*18]とあり、その壊された記念碑のスケッチが説明板に刻まれている。
 その「インド国民軍」は、日本軍の南方軍参謀で諜報機関の責任者だった藤原岩市少佐の働きかけで、当時イギリス植民地だったマラヤ(現在はマレーシアとシンガポール)で、イギリス軍として日本軍の捕虜となったインド兵によって一九四一年一二月に組織された。そのときまた「インド独立同盟」が設立された。日本軍のシンガポール占領は一九四二年二月であったから、その三カ月前であった。
 追って日本占領者は一九四三年に、チャンドラ・ボース(1897-1945)をつれてきた。チャンドラ・ボースは、ガンジーのインド独立運動に参加し、国民会議派議長となったが、ガンジーの無抵抗主義に反対し、離反していたインド独立の一派のリーダーであった。一九四三年一〇月二一日、チャンドラ・ボースが、昭南市で「自由インド仮政府」樹立を宣言した。その樹立宣言集会で、ボースは熱烈にインド人に独立を呼びかけた。「すばらしい演説でした。この演説を聞けば、天の神々でさえ、感動して涙を流したことでしょう」という回想が記録されている。その翌月、東京の帝国議事堂で「大東亜会議」が開催された。中国(といっても王兆銘の南京政府)・フィリピン・タイ・ビルマ・満州国・日本の「政府代表」が出席した。ボースは自由インド仮政府首班として招請されて出席した。
 この大東亜会議には日本の占領下にあったオランダ領インド(現在のインドネシア)の独立運動指導者を出席させていない。この会議については後藤乾一『近代日本と東南アジア』[*19]を読めば、日本政府主導の大東亜共栄圏づくりの会議であったことがよくわかる。
 このように日本政府の画策で成立したインド仮政府のもとでのインド国民軍は、インド解放の前哨戦たるイギリス領だったビルマから、インドのマニプール州都インパール攻略作戦に組み入れられ、イギリス・インド軍と戦った。が、日本軍の大敗で、惨敗した。この作戦はいかに無謀であったか、上村喜代治『インパール』[*20]でも惨憺たる敗北を書いている。また、インド独立軍は日本軍のニューギニア攻略作戦の参加には同意しなかったが、そのニューギニアでインド兵が救出された写真が米軍によって撮影されている[*21]。
 この「インド国民軍記念碑」は、日本軍国主義がめざした「大東亜共栄圏」樹立のためという「聖戦」と、インド民衆の民族独立悲願とがからみあった悲劇の記念碑である。同時に、その記念碑を再建したインド系シンガポール人がいて、ボースを熱烈に尊敬している人がマレーシアにも今なおいる。
――歴史的事実とそれをより分ける感性

 シンガポール旅行前後の日本で、国際的に問題になっていた検定歴史教科書『新しい歴史教科書』に「日本がアジア諸国の独立を支援した」という記述がある。確かにあった。
 中国には日本帝国政府と協調する王兆銘の南京政府が作られていた。しかし抗日戦争を戦っていたのは、国共連合の中国であった。
 インドの独立運動は、ガンジーやネルーなどがリーダーであった国民会議派主導の独立運動だけで単線的にすすめられたのではなく、チャンドラ・ボースらのような分派や分裂を内包しながら展開してきた。『新しい歴史教科書』は、インドの独立について「日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して、はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして、長く続いていた独立への気運がさらにたかまり、インドは一九四七年、イギリスから独立した。」[*22]と書いている。日本が戦争に負けてマレーに復帰してきた際、イギリスがインド国民軍を裁判にかけ、イギリス軍がインド国民軍の無名戦士の記念碑を壊した。独立後にそのことを記した記念碑を建てたインド系のボース派信奉者がいることも、いくつもの研究書[*23]に書かれている。ともあれ、日本が占領したシンガポールには、日本帝国軍国主義の支援を受けたインド独立運動の拠点があった。それも歴史的事実であった。
 だが、国民会議派のガンジーやネルーのイギリスからのねばりづよい独立運動には、「日本は支援」しなかったし、インド本土での国民会議派は日本軍国主義を許してはいなかった。それも歴史的事実であった。ガンジーは『すべての日本人に』という文章で、
 「私はあなたがたについて楽しいたくさんの思い出をもっている。だからこそ、あなたがたが偉大なそして古い中国に理由ない攻撃をし、無慈悲に荒らしてしまったことを、非常に悲しく思う。もしも、あなたがたが、イギリスがインドから退却したらインドに入ろうという考えを実行するなら、わがインドは、全力をあげて必ずあなたがたに抵抗する。」[*24]
 と一九四二年七月に書いた。イギリス植民地政府の牢獄にいたネルーも、娘への手紙に同様の思いを書き送った。私は一九五五年に、中学生だった武田(現在・辻田)三樹恵さん[*25]にネルーの『インドの発見』を借りて読んだのが、アジアの地理教育への開眼であった。ボースの名は、軍国少年だった頃に教えられて知っていた。このネルーの本は、かつての軍国少年の目の鱗を落とした。
 しかし、日本の責任政党を豪語する大物たちは目の鱗を落とさない。昭南市長もそうであった。そして、彼らの目を補強する取り巻き研究者たちがいる。彼らの言うのに事実もあった。だが、いくつかの歴史的事実からの選択にこそ、その政治家や歴史教科書の編著者たちの歴史認識が表われている。
 私は、その中央公園のいくつかのモニュメントを見て、一つの文章を思い出した。
中曽根首相(当時)が、多民族国家のアメリカに行って、日本の単一民族国家優越論を述べて、深い顰蹙をかった。そのとき、都留重人が雑誌『世界』で論じた文章から、私は次のアーチボルド・マクリーシの文章を抜き出して『波動』に引用し学生へ提供した[*26]。
 本当に深い英知とは
 われわれの前には事実の洪水がある。しかし、われわれは、それら事実を人間として感じ取る能力を失った、あるいは失いつつある。……感性(feeling)を欠く知識は本当の知識(knowledge)ではない。もしも事実が、人びとの心の中で、その事実がもたらす感動から遊離してしまうなら、その人びと、およびその文明の文明は滅ぶといってよい。
 都留は「フィーリング」について「豊かな感性、更に言えば、思いやりをもっての洞察、人間どうしの共感の意であったと思われる」と書いている。マクリーシについては、英語の同僚教師に教えてもらったが、アメリカの詩人辞書にでていて、一九三〇年代のニューディール当時の政府高官を勤めた実践的な詩人であった。この一九五八年のマクリーシと都留の文章を、シンガポールの中央公園で思い出していた。私の教育実践の根幹に置いてきたのは、この感性を培う社会科教育の模索であった。
 私は、和光大学の教育学研究者に導かれて、最後の研究的旅行を終えた。そしてなによりも古川さんのように私の授業を受け止めてくれた学生に、ようやくこたえることができた、と思った。
 シンガポールへの旅は、私の教育実践の自己評価の点検であった。

*ふくしま・たつお
 元人間関係学部教授(一九九五年~二〇〇〇年度)。地域形成における住民の働きかけについて調査。住民と教師の地域研究活動に学び、教育課程に関心をもっている。中・高校教師を経て、前日本福祉大学教授。

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[*1] 「降る雪や明治は遠くなりにけり」 中村草田男の『長子』(一九二九~三五年の句集)に掲載。明治時代は一八六八~一九一二年だから昭和戦争期はずっと遠くなった。

[*2] 一九一八年生まれ。東京大学名誉教授。『地域の中で教育を問う』(新評論、一九八九年一月)の出版を祝う会で、私は同書を書評した。なお二〇〇一年度一学年の入門ゼミで、大田先生の『生命のきづな』(偕成社)をテキストにし、面談して学んだ。和光大学『エスキス2001』九〇頁参照。

[*3] 吉野源三郎『人間の尊さを学ぼう』(牧書房、一九五二年一〇月)序詩。この詩を載せているので、もっとも大切にしてきた本である。私の社会科教育実践の序詩としてきた。

[*4] 「沼津・三島地区の住民運動」『歴史地理教育』一九六五年一一月号。拙著『地域の課題と地理教育』(地歴社、一九八一年六月)に再掲。

[*5] 「戦後産業史への証言」『エコノミスト』一九七七年一月一一日号。

[*6] 『世界年鑑』二〇〇〇年版。

[*7] 東京教育大学附属高校教諭を経て、現在琉球大学教授。

[*8] 中島正人『謀略の航跡――シンガポール華僑虐殺事件』講談社、一九八五年四月。

[*9] 毎週出会う学生向けに印刷・配布していたB5判四頁の通信紙。教材となる引用文の他、私の心の波動を伝えたいメッセージを書いた。後に『涓流』に改題し、退職後は『涓流21』として、ほぼ月刊で友人知人に送っている。

[*10] 一橋大学は、昭和天皇が死去したとき、日の丸を掲揚しない唯一の国立大学であった。戦争責任を追及する日本近代史研究者が複数いる大学である。冨山氏はその大学の法学部で学んだ。私も同大学の非常勤講師を一九九二年度から二〇〇〇年度まで勤め、さまざまな学生と出会った。

[*11] 冨山泰『カンボジア戦記』中公新書、一九九二年三月、一八六~七頁。

[*12] 『波動』四七号、一九九二年五月二一日。

[*13] 陸培春『観光コースでないマレーシア・シンガポール』高文研、一九九七年九月、六~九九頁。

[*14] 前掲、中島、一〇二頁。

[*15] その時の様子を国立博物館の歴史の展示コーナーでは模型で示している。

[*16] シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ編、リー・ギョク・ボイ執筆、越田稜+新田準訳『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』凱風社、一九九六年一一月、一三一頁。

[*17] 前掲『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』「日本版への序」より。虐殺した日本側は、敗戦とともにすべての文書を焼却し、証拠を残さなかった。“近い昔の話”の聞き取り調査が今も行なわれている。書店には『THE PRICE OF PEACE -True Accounts of the Japanese occupation 和平的代価』(Foong Choon Hon 編,ASIAPACB, BOOK,1997年)が平積みされて売られていた。

[*18] 前掲『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』一三〇頁

[*19] 後藤乾一『近代日本と東南アジア』岩波書店、一九九六年一月。

[*20] 上村喜代治『インパール』光人社のNF文庫、二〇〇〇年一〇月。

[*21] 森山廉平編『米軍が記録したニューギニアの戦い』草木社、一九九八年八月、一二九頁。私たち和光大学研究プロジェクト・チームは、パプアニューギニアを一九九九年に訪問し調査した。そこにもインド系イギリス兵捕虜が連行されていたのだ。

[*22] 『新しい歴史教科書』扶桑社、二〇〇一年六月、二八二頁。

[*23] 明石陽至編『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』岩波書店、二〇〇一年三月。中村尚司『人々のアジア』岩波新書、一九九四年一一月、など。

[*24] 村瀬興雄編『ファシズムと第二次大戦』中公文庫、一九七五年六月、四六六頁。

[*25] 辻田さんは中学生でそんな本を読んでいた。現在、同人誌に作品を発表している。病と闘いながら。

[*26] 同論文は『経済の常識と非常識』(岩波書店、一九八七年三月、二〇六~七頁)に再掲。


〈付記〉本稿の内容については、地理教育研究会愛岐全国集会(二〇〇一年七月・瀬戸市)で中間口頭報告したレジメ・資料を骨子としている。

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