http://www.topics.or.jp/special/122545473956/2007/08/118870372934.html
【朝鮮鉄道】 岡田久さん(81)阿波市市場町
沿線で「独立万歳」
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一九四五(昭和二十)年八月十五日正午、戦争終結を告げる玉音放送を岡田久さん(81)=阿波市市場町=は京城府東大門区(現韓国ソウル特別市)にあった朝鮮総督府交通局(以下、朝鮮鉄道)の東京城機関区で聞いた。
岡田さんは大保村(現阿波市)日開谷出身。大保青年学校を卒業後、四三年四月から朝鮮鉄道に勤め、機関士として京城と日本海沿岸の元山(現北朝鮮)を結ぶ京元線を走る貨物列車に乗務していた。
「八月に入って鉄道職員の荷物の輸送が始まったんですよ」と岡田さん。「職員の奥さんや子供が次々帰国していきました」。京城駅から出発した荷物輸送の貨車は四、五十両もあったという。残ったのは男性職員だけだった。戦争の雲行きが怪しいとおぼろげながらにも感じた。
「十日ごろだったか、白い服を着た朝鮮人避難民でいっぱいになった列車が次々南へ向かって発車していくんです」。軍隊を載せた軍臨と呼ばれた軍用列車も北からやってきた。定かではないが軍隊の南下が先ではなかったかと記憶している。このころ、満州(現中国東北部)ではソ連軍の攻撃が始まっていた。「食糧不足でね。米を軍用列車にもらいにいったんです。一俵の米をくれました」
列車の運転中に飛行機から攻撃を受けたのもこのころだった。「いきなり機銃掃射を受けたんです」。機関車を飛び降りて線路に沿ったアカシア林に逃げ込んだ。「あれは恐ろしかった」。飛行機が去った後、機関車に機銃弾の命中した跡があった。
そして十五日。鉄道は動いていた。岡田さんの乗務は午後六時に清涼里駅を出発し京城駅の一つ向こうにある水色操車場までの最終貨物列車だった。機関区には十三両の機関車が入る大きな機関庫があり、岡田さんの乗る機関車は蒸気も上がり出発準備ができていた。
「機関車のところにいくと、炭水車に独立万歳と大きく漢字で書いてあるんです」。異様な雰囲気だった。一緒に乗務する朝鮮人の機関助士の二人は、前日まで話していた日本語を使わず朝鮮語で会話していた。「日本が負けたということで二人が浮かれているんです。あれはちょっと怖かった」
列車の出発は定時より一時間遅れた。徐々に運転ダイヤは乱れ始めていた。「列車が走っていくと沿線に市民がいっぱい並んで、口々に万歳、万歳って叫んでいるんです」。日本の敗戦が市民に知れ渡っていた。通常なら三十分ほどしかかからない区間を一駅ごとに停車。水色操車場に着いたころには深夜になっていた。
「午前二時ごろ、機関区まで機関車一両で帰ったんですが、怖かった。緊張して汗びっしょりになっていました」。結局、何も起こらなかったが敗者の恐怖を味わったという。十六日、列車はすべて止まった。日本人職員は襲撃の恐れがあるといわれ、官舎に閉じこもっていた。
しばらくして鉄道は朝鮮人職員だけで運転を再開した。岡田さんら日本人は貨車に灰を積み込む使役につかされた。十一月になって身の回り品とわずかな現金を渡され帰国した。
九二年、韓国旅行に出かけ、かつての勤務地を訪れた。岡田さんが乗務していたころの職員と再会した。温かく迎えてくれた。今もその交流は続いている。
【写真説明】朝鮮鉄道の機関車の前で写した記念写真。左から2人目が岡田さん=1944年ごろ
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