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the women warriors who ran the battlefield,their courage and conviction
●戦場を駆けた女性戦士たちの勇気と信念」
戦場では兵を組織する上で、兵隊にはいろいろな役割があります。
例えば聯隊編成ですと、約千六百名で組織される三個大隊が
聯隊(れんたい)指揮下に組み込まれ、
これに砲兵中隊(山砲4門)、速射砲中隊(4門)、
通信中隊、衛生隊、工兵隊の、約五千人規模で編成されます。
そして、こうした後方の兵站部には、
野戦病院が附設され、軍医の指導の許(もと)、
衛生兵や従軍看護婦が重軽傷者の看護をしました。
兵站部では、召集された日本赤十字救護看護婦が野戦病院に派遣され、
ここで負傷兵の看護にあたりました。
最初、従軍看護婦の勤務した病院は、
後方兵站部の安全地帯でしたが、
大戦末期になると、
連合軍が奪回に来た最前線にも勤務するようになり、
日本軍のそうした野戦病院は忽(たちま)ち戦場となり、
従軍看護婦達は、病院を捨てて、
軍と共に移動しつつ、傷病兵の看護にあたりました。
▲靖国神社を参拝する陸軍女子通信隊。
▲軍需工場の女子挺身隊。
▲集結した大日本愛国婦人会員。
▲女学生郵便配達の自転車部隊。
女性達の駆り出された戦場は、後方の大本営陸海軍部に比べれは、遥かに死ぬ確率が高く、一種の決死隊的要素を含んでいました。
本来、何処の国でも、
こうした最前線に兵士を送ったり、
決死隊的な戦場や、決死隊を編成する場合は、
職業軍人の中から募集するのが通例でした。
何処の国でも、
士官学校や兵学校を出た職業軍人から応募者を募り、
それで部隊を編成するのが普通です。
あるいは陸軍大学(日本の場合は正しくは大学校)や
海軍大学の出身者からも応募者を募ります。
これは第二次世界大戦の時も同じで、
欧米各国は、それが近代的な軍隊としての常識でした。
ところが日本の場合は、欧米とは全く逆でした。
士官学校や兵学校の成績上位者は、
総べて陸軍大学か、海軍大学へ優先的に入学出来、
ここで上位に入ると、陸軍省や海軍省の参謀本部に配属されます。
そして終戦までエリート扱いで温存されて、
安全圏で保身を図り、檄(げき)ばかりを飛ばし、
机上の空論を練り上げる役職に終始します。
決死隊の編成も、
陸大・海大のひと握りのエリートが下しますし、
特に、日本のように
学徒動員の素人を特攻隊に仕立てて、
敵艦に体当たりさせると言う、
こうした狂気の沙汰は、
世界のどの軍隊を見ても見当たらず、
日本だけが例外でした。
第一、敵に捕らえられて拷問(ごうもん)されても、
職業軍人ならば軍機を洩らさないのが当然と看做(みな)されます。
また、同じ敵前逃亡でも、
職業軍人の場合と、徴兵のよる一時軍人とでは、
軍法会議での刑が異なっていると言うのが国際的な通例です。
ところが、
日本の場合はこうした国際的通例が度外視されて、
職業軍人の敵前逃亡は、軍上層部で握り潰されて、
故意に見逃されるか、軽くなり、
徴兵による即席の一時軍人の刑は、
銃殺刑等を以て、実に厳しく処罰されました。
大戦末期、
フィリピン第四航空軍の冨永恭次陸軍中将は、
アメリカ軍がマニラに上陸すると、
護衛付の陸軍機を仕立てて台湾へと逃亡を企て、
何の処罰もされないどころか、
一度は予備役に廻されたものの、
再び現役に復帰して、
支那方面の軍団長として北支に向かい、
一時はハバロフスク
(ロシア、極東地方の中心都市で、
アムール川とウスリー川との合流点に位置し、シベリア鉄道の要衝)
に抑留されますが、
戦後は厚生省から高額な軍人恩給を貰って、
安穏とした優雅な生活を送りました。
一方、戦場経験の長い、経験豊かな、ある下士官は、
新米の士官学校出の間違いだらけの将校の無謀な命令に従わず、
これを無視したところ、
脱走や敵前逃亡の罪が課せられ、
戦後は脱走兵として扱われて、
軍人恩給の一切の支払いを厚生省から拒否されて、
無念な晩年を送ったという人がいました。
日本は、このように上には甘く、下には非常に厳しい官僚主義国家なのです。
こうした官僚主義国家が、
実は無名兵士として、
女性達をも最前線へと送り出していたのです。
そして彼女達は、
部隊が負け込んで来ると、最後は玉砕を強いられるか、
あるいは捕虜となって、敵兵の慰めものにされ、
梅毒を移されたり、筆舌に尽くし難い屈辱を受けて、
最期は青酸カリ等で服毒自殺を図りました。
こうした惨劇は、満州や北支、南方方面の東南アジアで繰り返され、
一時軍人や一時軍属の女性達が、若い乙女の命を散らせました。
▲本土決戦に備えて、木銃訓練をする音楽学校の女子学生達。
▲満州軍・華北鉄道警備の、ブローニングで射撃練習する婦人警察官。
▲従軍看護婦は、正しくは「日本赤十字救護班看護婦」と言われ、前線へ送られた。
昭和20年8月15日、太平洋戦争は終わり、
日本はこの戦争に、多くの犠牲者を出して敗れました。
しかし女性達は、この日に戦争は終わりませんでした。
この日の午後から翌日に亘り、内務省通達で、
今まで木銃訓練や竹槍訓練をしていた女子学生達は、
今度は進駐軍の上陸に備えて、
この日より、進駐軍相手の即席従軍慰安婦に仕立て上げられ、
進駐軍慰安女子挺身隊が組織されました。
▲混血児を保護・収容した私設孤児院エリザベス・サンダース・ホーム
(昭和22年)。
内務省通達によれば、
進駐軍慰安女子挺身隊の組織理由は、
「皇族や華族の子女並びに特権階級の子女である財閥令孃、
及び軍首脳の令孃が、進駐軍兵士に強姦や乱暴等をされない為に、
その身替わりとして、進駐軍慰安女子挺身隊がその任に就く」
と言うものでした。
今まで女子挺身隊として勤労奉仕をしていた女子学生達が、今度は慰安婦として、上流階級の子女に代わり、その身替わり強制されたのです。何と、狂った論理ではありませんか。
同年の8月下旬以降、焼跡の日本は非常な混乱期にありました。
太平洋戦争は終わったにもかかわらず、更に同年の10月頃から、戦後処理の国家的な緊急施策の一端として、政府はその後も執拗(しつよう)に、進駐軍従軍慰安婦として日本人女性が進んで応募するように仕向けました。
肩書きは女子事務員の名目で集められ、
これに応募した女性達は、
アメリカを中心とした占領軍相手に、
夜な夜な激務に追われ、
数カ月後にはボロ雑巾のようになって夜の街に放り出されました。
占領軍を相手にした多くの日本人女性は、
占領軍兵士に弄(もてあそ)ばれ、
その挙げ句、妊娠して、アメリカ兵との間に、
かなりの数の混血私生児が生まれました。
こうした生み捨てられた、
アメリカ兵との間に生まれた混血孤児達を保護・収容し、
その人力を尽くしたのが、
私設孤児院エリザベス・サンダース・ホームでした。
これは皇族や華族の子女並びに、
特権階級の子女である財閥令孃、
及び軍首脳の令孃の身替わりとして、
今まで勤労奉仕をしていた女子挺身隊がこれに充(あ)てられたのです。
どうして日本上層部は、
こんなに不条理な事ばかりを、
下々(しもじも)に押し付け、
ご都合主義ばかりを展開するのでしょうか。
庶民の多くは、
まさにひと握りのエリートを温存させる為の捨て石であり、
人間性を無視された微生物ではありませんか。
微生物の、千匹や、あるいは一万匹など、捻り潰されても、
上層階級に生きる人達は、自分達のしている事に、
人間として、その良心に恥じないのでしょうか。
あるいは血の通う心は、既に失っていて、
良心は痛まないのでしょうか。
そして今も、こうした論理が罷(まか)り通り、
官僚主義とご都合主義で、
庶民階級の微生物は、自覚症状のないまま、
身も心も搾取(さくしゅ)され続けています。
また終戦直後の、
旧日本軍が放棄した毒ガスの汚染も、未だに猛威を振るっています。
特に、アルシン酸(チフェニール)等の毒ガスは
今でも深刻な爪痕(つめあと)を残し、
戦後六十年を経った今でも毒ガスの犠牲者は出続けています。
防衛庁の発表によると、
現在でも旧日本軍が放棄した毒ガス汚染箇所は、
これまで30ケ所と思われていたものが、
実際には138ケ所にも上り、
この毒ガスの土壤汚染や地下水汚染で、
犧牲になっている人は後を絶ちません。
アルシン酸等の猛毒の毒ガスは、
脳や脊髄の異常を来し、
特に小脳に大きな悪影響を与えて、
神経細胞等に異常を発生させ、
運動神経や言語等に問題を起こします。
アルシン酸というのは、
水素化砒素(砒化水素)の別称で、
にんにくに似た臭気をもつ無色の気体で、猛毒です。
また同種のものにインペリット毒ガスが上げられます。
これらの毒ガスは健康に与える影響が非常に大きく、
数十年に亘り、眩暈(めまい)やふらつき等の異常を発生させます。
そして
こうした毒ガスの存在を知りながらも、
抜本的な対策を講じなかった日本政府は、
やはり国民を微生物視する考え方が、
行政の根底にある事が否めません。
国民は微生物視され、
何処までも搾取される現実があるようです。
●ちょっとおかしい?
有事立法の罠
あなたは「有事立法」と言う法律を、
正確に理解しているでしょうか。
あるいは理解出来たでしょうか。
また、この法律の落とし穴を、ご存じでしょうか。
さて、世界情勢はニューヨークの同時多発テロ事件が起こり、
アメリカがアフガニスタンに報復的な武力発動を強行したり、
テロ支援国家だとイラクを決めつけ、
イラク戦争に踏み切って以来、
世界の風景は非常に変わったものになりました。
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