http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/ld01.pdf
論文
1960 年代韓国における「浮浪児」の生成と実態
イム・ドクヨン*
はじめに
本研究は1960年代における韓国での「浮浪児」の生成と実態を明らかにすることを目的とする。1997年、韓国は
アジア通貨危機による経済危機に直面し、多くの野宿者が出現した。それまで僅かな実態調査しか実施されてこな
かった野宿者研究は、このことを機に大きく進展した。例えば、1997年以降の野宿者研究には、野宿者の生活実態
を調査した研究(ジョン・ウォンオほか1998)、効率的な福祉サービス実現のための政策研究(イ・テジンはか
2007)、インタビューを活用した生活史及び文化に関する研究(イ・ジンスク2004)などがある。これらの研究は、
野宿者を貧困や失業による「失業野宿者」であることを強調し、現在の貧困の実態と野宿者の状況を明らかにして
きた。しかし、これらの研究は現在の野宿者問題の解決を主な課題としてきたため、過去には野宿者が危険な存在
であり、取締りの対象と認識されていたことや、現在のように福祉を受ける対象として認識されるに至った過程に
ついて注目してこなかった。さらに、この認識の変化が、韓国の社会的・経済的条件とどのような関連があるのか
についても関心を向けていなかった。
「浮浪者」及びその政策の歴史を検討するなら、現在の野宿者及び野宿者政策はいきなり成立されたものではなく、「変容」してきたことがわかる。さらに、過去との比較によって現在の野宿者及びその政策の性格はより明確になる。
また、「浮浪者」及びその政策の歴史は、社会福祉制度が矯正から支援へとその中心的な目的を変化させていく過程
であり、過去には規定しにくかった存在が、貧困を特徴とした社会福祉の対象である「ホームレス」へと至る経路
でもある。それゆえに、「浮浪者」及びその政策の歴史の解明は、社会福祉の起源と、その対象になる存在に関する
社会的位置づけとに係わる重要な課題である。
本論文において検討する1960年代は、韓国の資本主義的発展が本格化し始める時期である。植民地時代(1910~
45 年)の韓国は、植民地政府であった朝鮮総督部の主導によって、鉄道や重化学工業が部分的に発展した1。しかし、
旧来の封建制的関係が維持され、多くの人々は小作農であった2。また1950年に勃発し、53年まで続いた朝鮮戦争で、
これらの産業さえ大部分が破壊され、社会が大きく混乱した。戦後に入ると、本格化した土地改革によって封建制
的関係が撤廃された。1960年代以後、特に1962 年に登場した朴正煕軍事政権以後、開発による急速な経済発展が進
行し始めた。
このような近代的産業の発展は経済部門だけではなく社会的に急速な変化をもたらした。かなりの国民は、世代
を引き継いで行なってきた農業をあきらめて都市に移動し、労働者になり始めた。その過程で都市には幾多のバラッ
クができ、都市貧民と呼ばれる階層が出現した。なかでも、適切な居場所なしに、通りでもの乞いをしたり雑業を
したりしながら生きていく人々が増加し、彼らは「浮浪者」3と呼ばれた。「浮浪者」は急激な変化の中で脱落した
者として、社会は、これらの人々に対して同情すると同時に、犯罪者として見なすという矛盾した視線を向けていた。
国家は彼らに対して取り締まりによる刑務所や少年院などの矯正施設、「浮浪者/児」施設などへの収容を実施する
キーワード:浮浪児、浮浪者、韓国、1960年代、野宿者
*立命館大学大学院先端総合学術研究科 2011年度入学 公共領域
一方で、国土建設団4や更生少年団・更生建設団5による労働力の搾取などを行なった。
本論文では浮浪する児童、すなわち「浮浪児」が、大人の「浮浪者」に比べて社会的に、より大きな問題として認識されていたという点に注目する。「浮浪児」についての法律による規定はなかったが、路上や関連施設で暮らしていた10歳以上20歳未満の子どもを意味していた(保健社会部1960)。だが、その規定が厳密に適用されていたことではない。当時、政府は「浮浪児」に対する取り締まりを全国規模で繰り広げただけではなく、徹底的な管理監督を行なおうとした。一方、大人の「浮浪者」に対しては実態を把握するような統計を作成せず、政策的な面でも大人の「浮浪者」施設を非常に少数しか設置しなかった。したがって、当時の「浮浪児」の実態を究明することは、1960年代において、「浮浪者」がどのような存在だったのかを明らかにする手がかりとして重要な意義をもつといえる。しかし、韓国での1960年代における「浮浪児」に対する研究はいまだに本格化していない。
本論文では、このような研究課題を踏まえ、1960年代、韓国の多様な社会・歴史的変化のなかで、「浮浪児」が生み出された背景とその生活実態を考察する。本研究では、当時の論文や新聞報道、政府の公式文献などを活用して、「浮浪児」の生活実態を考察する。また、「浮浪児」に直接焦点を当てるものではないが当時の社会的背景が分かる近代化や都市への移動に関する研究(カン・インチョル2006、カン・ジュンマン2004、チェ・ガンミン2009など)、さらに、戦争が家族に及ぼした影響に関する研究(ハム・インヒ2004、キム・ウンギョン2007など)などを参考する。
1.1960 年代の「浮浪児」生成背景
1-1.戦争の影響
1960年代の「浮浪児」生成の背景として、まず約3年間続いた朝鮮戦争の影響をあげることができる。大韓民国統計年鑑(1955年)によれば、戦争により、約38万人あまりが死亡し、約32万人あまりが失踪扱いとされた。また、大韓民国国防部(1954年)は、1952年12月末において避難民が約230万人あまりいることを把握していた。そして、新聞報道では罹災民は全国民の1/3に相当する1千万人あまりいると発表された6。このような状況の中で、相当数の離散家族が発生した7。家族構成員の解体や急激な人口移動で家族から離れた児童たちは路上で生活することを余儀なくされた。
伝統的には親が死亡した場合、親戚が引き受けて育ててくれる場合も多く、男児童の場合、家の代を引き継がなければならないという理由により、親戚が育てるなどということもあった。しかし、戦争によって危機意識が極度に広まった状況で親戚の子供を預かって育てることは容易ではなかった(キム・ウンギョン[2007:21])。このようにうみだされた孤児たちは戦争が終わる1953年には17万5千人であると推算された8。その10年後の1961年にも、8万5千人あまりの戦争孤児がいると把握された9。
これらの戦争孤児に対する対策は、主に施設への入所であった。1956年、戦争直後の政府統計によると、厚生及び福祉施設全体604ヶ所の中で、児童と係わる嬰児院・育児院など10 の施設は471ヶ所を占めていた(保健社会部[1957:439-440])。当時の孤児問題は、それほど深刻な社会問題であったといえる。
政府は1952年「厚生施設運営の要領」を制定し、厚生及び福祉施設の監督と指導を実施しようとした。だが、その内実は救護物資を分配することに過ぎなかった11。さらに、それさえも予算不足により、大部分の施設では食事さえまともに提供されないほど悲惨な状況だった。また、暴力的な管理監督が行なわれた民間施設も少なくなかった。当時のインタビュー調査では、孤児院は「刑務所暮らし」だと表現された。多数の児童は脱出をしたり、他の施設に移るなどして移動を繰り返したりしていた。
概して成長した孤児は、大部分孤児院を脱出しようと考え、またこれを実践する孤児たちが多いという。
孤児院に座って食べることと缶を持って乞食をすることのどちらのほうがよいかと問えば、大概の「浮浪
児童」は物乞いをしたほうが楽で孤児院にいることは刑務所暮らしみたいだと言う。(ゾン・チュンリャン
[1959:62-63])
他にも、次のような新聞記事が掲載されていた。
「浮浪児」たちは異口同音で収容所における強圧的な生活を恐れているし、はなはだしいものでは島にある収容所で監禁生活をさせられたと…。(京郷新聞1954年3月30日)
収容されていない孤児と施設を脱出した孤児は、路頭に迷いながら生きていくしかなかった。このように施設にいない孤児たちは「浮浪孤児」だと呼ばれる場合もあった。戦争で発生した「浮浪孤児」は少なく見積もって約1万人あまり、多く見積もられた場合では約3-4万人と推定された12。戦争が終わっても、発生した孤児は何の対策もない社会的条件下で1960年代まで成長することになる。そして、彼らは1960年代になると「浮浪児」の中で一部を構成していくのである。
1-2.1960 年代の児童の現実
戦争が終わってから10年がすぎた1960年代においても、「浮浪児」と呼ばれる人々が急増するという記事が並んでいた。その記事の内容は次のようである。
ソウルの道は「浮浪児」の世界。(京郷新聞1963年9月21日)
地方から上ってくる「浮浪児」を阻むことができない限り…現在の状態ではこれ以上収容することができ
ない。(京郷新聞1960年10月30日)
「浮浪児」たちますます増加へ。貧しい暮し反映、収容所では悲鳴。(朝鮮日報1963年7月18日)
保健社会部の統計によると、路上「浮浪児」取り締まりの件数は1955年6,628人から1965年29,652人に急増する(保健社会部 [1957:453];保健社会部 [1966:330])。戦争の影響が徐々に小さくなっていた1960年代に、どうして「浮浪児」が急増したのだろうか。「浮浪児」急増には戦争以外の構造的原因があるという観点から分析していく必要がある。
1960年代浮浪する児童が急増した原因については、貧困による農村から都市への「離農」現象によって部分的に理解することができるだろう。1960年代から1970年後半にかけて、農家の人口流出は約950万人に上った(バク・ヨンイン[1992:2])。1970年現在韓国の人口が約3,500万人だったことを勘案すれば、わずか20年あまりの間に国民の1/4が都市に移動したのである。したがって、当時都市への移動、すなわち「離農」は全社会的な現象であった。ソウルで調査された「浮浪児」も、農村出身が大部分を占めていた。1960年、保健社会部が実施した「ソウル市内浮浪児標本調査」の「浮浪直前居住地」によると、ソウルでは11.3% で少数を占める一方、一番多く占める地域は全羅北道(15.7%)と全羅南道(24.2%)であった。全羅北道と全羅南道は韓国の代表的な穀倉地帯として伝統的に農業が盛んであった場所である。
1960 年代当時、このような「離農」人口の中で青少年及び児童の人口の占める割合は非常に高く、結果的に彼らの一部が「浮浪児」になったのである。以下では、この背景にあった当時の児童の現実を考察していきたい。
当時、児童とは普通18歳未満を意味し(児童福利法第2条、1961年制定)、少なくとも法律上には保護されるべき対象であり、特に労働から自由となるべきだという考え方が一般的に受け入れられていた。1960年代に入ると法的にも児童労働は規制されていた。1961年の改定労働基準法、さらに、1962年改定労動基準法施行令によれば、18歳未満の児童の労働には就職認許証、親権者または後見人の同意書、禁止職種の規定など義務の遵守を事業所に課していた13。また1961年に制定された「児童福利法」では児童を保護しなければならない法的対象者として規定していた。しかし、このような法的・制度的発展とは対照的に、現実には児童労働が一般化されていた。
総就業者のなかで19歳以下の人口が占めている割合は、1960-70年代には、12-15% を維持していた(イム・ドクヨン[2008:51])。これは現在(2006年)の1.1%(労働部[2006:31])という割合に比べると非常に高い割合である。当時の20歳未満の児童が求職活動をすること、仕事に就くことは一般的なことであった。そして、彼らの大多数は、伝統的な農村社会で農業に携わっていた。例えば、1966年の調査によれば、19歳以下の労働人口のなかの「農林・狩猟・漁業及び類似従事者」は、68.4% を占めていた(経済企画院調査統計局[1966:182-183])。
彼らはまったく教育を受けていなかったというわけではない。「国民学校」14 の就学率は1953年59.6%、1959年
82.7%、1966年には94.5% と(韓国教育研究所[1995:32])、年を追うごとに高くなっており、初等教育はある程度普及していたとみられる。しかし当時、中等教育は普及していなかった。1960年度中学校就学率は27%、高等学校就学率は4.7% に過ぎなかった。中学校に入学するためには試験に合格しなければならず、教育費を準備しなければならなかった。したがって、経済的理由や、就労することにより試験のための学習を行う時間的余裕がない児童は、進学をあきらめなければならなかった。そのため、「国民学校」を卒業する年齢である13-15歳になると、自分の進路を決めなければならなかった。
これらの児童の一部は、ソウルのような大都市へ出稼ぎのために移動した。家を継がなければならない長男は基本的にはこのなかには含まれておらず、「国民学校」を卒業した次男や女性が大部分を占めた。彼らは家に残った長男や、進学できる可能性のある兄弟のために、お金を稼がなければならなかった(イ・ゾンドク&バク・ホシク[1999:62])。先に都市に定住した親戚や知り合いたちが仕事を斡旋することや、就業情報を伝えること、さらに、定着した新しい住居がみつかるまで一時的に同居することもあった(ハム・インヒ[2003:13])。
しかしこの時期、最も社会的に問題視されたのは、大都市への移動それ自体ではなく、家から密かに家出をする「無断家出」であった。「無断家出」は、1960年代に入って急増し、1961年4月の1ヶ月間だけで摘発された家出青少年は288人に達した15。1962年には全体で7,011件、1963年には9,578件、1965年には14,943件に上った(チョ・ギュナム[1973:69])。この現象は男子児童だけに当てはまることではなく、一日平均10人程度の田舍少女が家出によって警察に保護された。これらの家出青少年は当時「浮浪児」の大多数を構成していたと考えられる16。
彼らは、どうして家族に黙って家を出たのだろうか。当時、その原因は戦争と貧困であると考えられていた。しかし、それ以外の要因があったと推測される。とくに、これらの青少年たちが急激な社会的変化に適応することができないことによるものであったということが指摘されている。
この「浮浪児」の浮浪動機をよく見れば、貧乏が原因という場合は25% だけである。これは我が国の家出問題が単純に戦争孤児や戦後の経済的貧困だけに関連させて考えるより、むしろ直接的に少年たちの家庭あるいは地域社会に対する不適応問題など、色々な問題と結び付けて対策を講ずることが必要であることを示している。(東亜日報1963年4月3日)
彼らが家を出るようになった原因は、貧困とともに、家族に対する不満であったと推測することができる。当時の家族は非常に複雑な様相に変化しており、この家族の複雑化は、貧困のみならず児童の家出に大きな影響を及ぼしたのである。
戦争の影響で、それまでのような大家族制度の安定的な家族を維持することが難しくなっていた。北朝鮮に家族を置いたまま韓国に来て再婚をするといった場合も少なくなかった。また、1950年代後半に入ると重婚、乱婚、隠し子問題が社会的問題として浮上するほど家族は多様な形態となり大きな変化が生じた(カン・ウォンリョン[1958:47])。そのような家族の不安定性は、児童が家庭を安心できる所と認識することを妨げ、家出を促した重要な原因だとみられる。「ソウル市内浮浪児実態標本調査」によると、調査された「浮浪児」のうち、実父母がいる場合は
29.2% に過ぎなかった。
また、急激な社会的変化とともに、児童は家族の中で様々な不満を抱くようになった。これらの不満は、児童が置かれている立場によって様々であった。例えば、次男は権力と財産が集中する長男に比べて不満があった。長男は将来的な展望がみえない農業を継がなければならないという負担を感じていた。女性児童は、従来の家族的枠組みの中で、家事を学んだのちに結婚する以外に選択肢がなかった。これは当時普及し始めた教育機会の相対的な剥奪を意味するものであった。したがって、当時戦争による不安定化と急変する社会変化などによって、児童たちは家庭に安心できず、むしろ、家庭は抑圧するものと感じられた。これらの傾向は、従来の家父長制度が都市に比べて厳格に残されていた農村において顕著に表れていた(カン・インチョル[2006:422])。このような家族の雰囲気は、児童の離農、そして「無断家出」を誘発したと考えられる。
1-3.「浮浪児」になる過程
貧困が続いていていた農村の児童たちにとって、ソウルは唯一の希望であった。1960年代ソウルは急速に拡大を続けていた。ソウルの人口は1960年には244万人、1963年には325万人、1966年には379万人に達するようになった(ソウル市史編纂委員会[1977:578])。人口の増加のみならず、1963年には隣近地域を合併したことで、その面積も拡大された。
このような拡大とともに、ソウルは当時、近代化されているといったイメージを持っていた。このようなイメージは1960 年代初急増した各種大衆雑誌と普及し始めたラジオ17 を通じて、急激に拡散していった。特に、当時流行した歌謡は、ソウルの近代的なイメージが広がるのに大きな影響を与えた。
ネオンサインが続く夢も青いソウル通り……きらめくネオンの中に幸せは来る(「ロマンスソウル」、アン・ダソン歌)ネオンが点滅する。噴水に夢が生じる。君の手をとりあってシネマに行こう(「新ソウル行進曲」、ドミ歌)
この歌謡によればソウルは、電気も稀だった農村と比べると「ネオンサイン」や「シネマ」がある近代的な都市であった。
このような近代的発展の象徴というイメージだけではなく、ソウルへ来るだけで立ち遅れた貧しい田舍での生活を一挙に清算して近代的な生活を享受することができるはずだという幻想が広く拡散した。「ソウル= 巨大都市= 近代性= 富裕= 充足= 幸福」と、「無知= 農村= 前近代性= 貧乏= 欠乏= 不幸」という二元的図式が流通した(チェ・ガンミン[2009:328])。特に、貧乏から脱け出す可能性が少なく、農業以外にはすることがない田舍の児童たちはよりソウルへの憧れを感じた(ソン・ゾンモク[1966:27])。
児童たちが農村から「無断家出」によって上京する時期は、前年に生産した米を全部消費し、まだ麦が実っていない2-4月、すなわち「春窮期」に集中していた。この時期に非常に多くの児童たちが上京したために、警察・政府では特に春に取り締まりを強化した。
春期ごとの頭痛の種、家出流行(東亜日報1963年2月25日)誘惑の季節2月に入ってやたらに上京(京郷新聞1965年2月6日)
彼らは交通費と当面の生活費を家から盗んで家出する場合が多かった18。価格が安く相対的に切符検門が緩い鈍行列車を利用した19。時には、貨物列車の荷物室を利用した。時間帯は人影がまばらな夜明けを利用していた。したがって夜明け列車にはぶらつく10 代の若者がたくさん見かけられた20。取り締まりに備えて服装にも気を使った21。
このようにソウルまで上京する過程には具体的な計画があった。しかし、上京した後の計画がない場合が多かった。したがって、しばらくの間、駅の近くを徘徊しなければならなかった。当時、このような無計画の上京があまりにも多かったため、「無計画上京」という言葉がよく使われるようになった。
田舍娘、無計画に上京(東亜日報1963年2月25日)無計画に上京しないように、婦女相談所から(京郷新聞1963年4月3日)強盗に変えた「無計画に上京」(東亜日報1963年5月28日)若者達の「家出」特に「無計画に上京」現象はもう少し関心を持って啓蒙に力をつくさなければならない問題(京郷新聞1963年4月1日)
「無計画上京」した児童たちが最も希望したことは「工場に就職すること」であった。当時、製造業の場合、ソウルと釜山に全体の半分に近い48.1% の工場が集中していた。したがって、都市に移って来れば新しく発展する産業分野に就職することができるはずだという期待を抱いていた。
しかし1960 年代における工場への就業はあまり容易ではなかった。たとえ、ソウルは他の地域に比べて製造業が
発達していたとしても、まだ彼らを吸収するほどに発展していなかった。1965年、ソウルにおける2次産業である鉱山・製造業・建設業の従業者の割合は総就業者数の約19% にすぎない。3次産業で分類される商業・運輸・サービス業に携わる人口が総就業者の73.7% を占めていた22。大多数の民衆は、製造業のような近代的産業ではなく、サービス業に携わっていたのであった。つまり、1960年代までは近代的産業は無数に上京する10代を受けいれるには未発逹な状況であった。
したがって彼らは産業の大部分を占めるサービス産業に携わるしかなかった。各種遊興業店、性売買、バス車掌、家政婦が、彼らが容易に就くことができる職業であった。
夜なら遊興街の居酒屋や酒場でお客さんを呼び入れる子供たちがたくさん目につく。呼び入れるだけではない。居酒屋でお酒を注いでおつまみを運んでくれる事にも多くの男女子供が雇用されている。その中には小学校を出たばかりのぐらいの幼い子もいる。夜明けに掃除からはじまり夜の十二時になるまで一日中立っているこの居酒屋の子供たちには、休日はおろか、眠る時間も十分ではない。酔った客たちの猥談と悪口の中でお酒を注ぎながら苦しみを受ける子供に、身体的、また、道徳的に順調な成長は望むことができない。(京郷新聞1963年5月4日)
このような職種は大部分が臨時雇用であったが、1966年には臨時雇用における19歳以下の占める割合は33.4% に達した(ユン・ジンホ[1990:2])。彼らは一日平均14-16時間の重労働を繰り返している。一方、一日の労賃はごく僅かなものでしかなかった(キム・スンシル[1960:88])。また、彼らの多くが簡単に仕事を得ることができなかった。また、仕事を得ても、雇用主の横暴と過重労働に適応することができずにすぐに辞めてしまう場合が多かった(イ・ゾンザ[1973:27])。
政府は駅の前に相談所を作り、離脱する青少年たちに故郷に帰る費用や交通手段を用意していた23。しかし、その斡旋を拒否する人々が多かった。彼らの一部は戦争時期から存在してきた「浮浪児」たちに合流した。
2.「浮浪児」の現実
2-1.「浮浪児」の生き方
当時、「浮浪児」たちの特徴は、彼らだけの共同体を構成して生活したということである。彼らは、橋の下や地下通路で極貧生活を行ない、極貧の代名詞として同情と救護の対象と考えられていた。当時の新聞は彼らが生活する場所の情景を次のように描いている。
板で垣根と壁を積んで大きなテントを仕切って作った狭苦しい部屋! 暖房装置には出入りする入口に筵を
掛けておいたものだけ。この板の部屋が唯一の安息所だ。この一間しかならない狭い部屋に十人または
十二人ずつ、彼らが寝たり食べたりしている。(朝鮮日報1960年12月21日)
彼らは自分たちだけで通じる独特の隠語を使いながら自分たちの集団的同質感を共有した。この隠語は非常に多様であったが、ソウル特別市立児童保護所(1969)で調査した単語だけで102個にのぼる。このため、メディアは彼らの共同体を普通社会とは違うという意味で「第3社会」だと名付けたりした24。1960年、ソウル市社会課の調査によれば、ソウルに存在している浮浪児組職が約70にも達しており、ここに属している組織員たちは約2,500人あまりに達したとされる25。しかし、その数よりはもっと大規模だったことは容易に推測される。この組職たちの代表である「大親分」は、20-30代であり、他の「浮浪児」たちより若干年齢が高かった。だが、この「大親分」を中心に各組職は一糸乱れず動いたことが報道された26。
各組職別では守らなければならない厳格な位階秩序があり、各自の役目と名称があった。報道によれば、おおよそ次のような秩序がある。まず、年齢の幼い児童は「ゴルトルマニ」27 と呼ばれながらご飯を物乞いしていた。これらは組織員の食料であった。その上が「ヒライ」28 であった。彼らは各種廃品を拾って、これを「ボリクン」29 にわたす。「ジョマリ」30 は「ボリクン」が集めてきた廃品を古物店に売り、お金を得る。その上にいる「大親分」はこのすべての組職活動に責任を負い、組織員たちを他の組職から保護する役割を担っていた。彼らには守らなければならない規則があった。これは組職内部だけではなく組職の間においても守らなければならないことであった。これを取材した新聞によれば次のようである31。
(1)
他の「大親分」が他の「大親分」の「トルマニ」を捕えて連れて行くことはできない。
(2)「
ボリクン」は自分の責任量を果さなければならない。
(3)「
ゴルトルマニ」は必ず責任量のご飯を貰ってこなければならない。
(4)「
ボリクン」が儲けてくるものを引き受ける主人格の「ジョマリ」は「ボリクン」と「ゴルトルマニ」を保護する責任がある。
(5)「
副ジョマリ」は「ジョマリ」の代わりをして「ボリクン」と「ゴルトルマニ」を統率しなければならない。
(6)「
ヒライ」は他の区域を侵犯してはならない。
(7)「
大親分」の命令に絶対に従わなければならないし、彼らだけの特殊言語を使わなければならない。
このような秩序に慣れるのは簡単なことではない。ある程度の期間訓練を受けた。このような厳格な秩序を破った時には暴行が加えられた32。組職外にも他の地域と組織員を侵犯してはならないというルールがあったが、組職が大きくなって競争が激しくなっていく時には暴力事件が起こった。
15日夜明け5時30分頃ソウル東大門区昌信洞にある石切り場で約40人の屑拾い少年たちが他の輩の屑拾い少年たちを襲って金槌と鉄の手鍵で殴って89人に重軽傷をした集団暴行事件が発生した…ところで喧嘩をするようになった原因は鍾路輩の一人であるギム・ジョンソブ(19)君を昌信洞で誘引したと言って襲撃集団暴行を加えたことであるが。(朝鮮日報1960年4月15日)
また、「浮浪児」集団によっては「犯罪」を専業として生きていく場合もあった。このグループも「大親分」が頭であったし、その下に7人から10人ずつ「社員」と呼ばれる部下たちを従えている。この「社員」たちは普段には人々が多い駅前の待合室やバス停などを徘徊しながら、疑われないようにするためにタバコ売りや新聞売りで偽装する。そして、2-3人がチームになって計画的にスリをするのである33。報道では、このような「犯罪型浮浪児」たちがますます増えていると伝えられていた。そのため、「浮浪児」の共同体を「悪の巣窟」と称する場合もあった34。
このように厳しい組織だったため、構成員はたびたび脱出を試みた35。しかし、概して彼らはその様な生活から脱しようと思わなかった。当時の行政の調査者たちは、浮浪児の一部を除けば、教育を受ける意思もなく、他の就業先を求めることもなかったということを指摘している(大韓地方行政共済会[1976:86])。また、彼らは自分たちが適切な労働を行なっているにも拘わらず取り締られると不平を述べていた。靴磨きや廃紙収集などを正式的な職業と認めよう要求した36。
2-2.流動的な政治行動
また、「浮浪児」の一部は民主化運動に積極参加し、活躍した。彼らを対象にした研究はあまりないが、多くの研究者は、民主化運動における彼らの高い役割を認めている。1960年代の代表的な民主化運動であった1960年の「4・19革命」37 当時、中心になる勢力は学生であった。しかし、「浮浪児」もデモ隊列に参加しながら活躍したことが知られている。
馬山でもそうで、釜山でもそうで、ソウルでもそうだが、もちろん、最も初めに街に出た人々は学生だが、
実質的にはその学生の数字よりは貧民たち、特に、その時は靴磨きなど日雇い労働者たちが多かった。(4
月革命研究所[1990:400])ソウル市内で新聞売り、靴磨き、屑拾いなど勤労青少年3百名あまりは中央庁の垣を超えて文教部を襲って文部長官の車などに火をつけてひっくり返してしまって中央庁謄写室、文教部映画検閲室などを破壊した。(国家保勳処公報館室[1995:77])
彼らの活躍の姿は「4・19革命」死亡者統計からも窺い知ることができる。死亡者全体の186人のうち、職業別に区分すると、無職者は33人で、学生の次に多い割合を占める。また、無職者の平均年齢は19.0歳で、これらは大部分特定の職業がない「浮浪児」に分類されることができる人々だった。「浮浪児」は4.19以後にも組織的な運動を繰り広げる。独裁を変えるために集団で投票を行い、適切な生計対策を要求してデモも決行した。
「浮浪児」125人が一票の権利を行使するため乞食服装でそのまま並んで来て「独裁で腐った政治、私の一票で直さなければならない」と言いながら集団で投票を行い、市民の注目をひいた。(東亜日報1960年7月30日)
「浮浪児も国民だ」200人あまりの幼いジプシーたちのデモ。飢えと寒さをなくしてくれという「浮浪児」と乞食たちの風変りなデモが23日上午11時ケソン中高等学校近くの広場で起きた。……約200人あまりの「浮浪・乞食」たちは先に救護団体である「メノ-ナイト」財団に救護を訴え、彼らは「浮浪児も大韓の子どもだ」、「浮浪児はどうして生じたのか」などのプラカードを持って「自立することができる職業補導を実施せよ」、「裏付けの取締をするな」などの掛け声を叫びながら西門・道庁・韓銀支店を経ってスソン橋下で解散した。(京郷新聞1960年11月25日)
「浮浪児」はこのほかにも取り締まりをする国家に反抗をする行為を行なった。彼らは自分たちの構成員を護送するトラックを奪取したり、さらには保護所を襲って児童を拉致する38 など大胆な行動を取った。
しかし、「浮浪児」はこれほど抵抗的な団体行動だけではなく、政権による同じ年齢の青少年取り締まりに積極的に活用された。警察と結託して隣近地域の「浮浪児」に対して統制をしたりしていたのである。これが政権による強制だったかは確かではないが、抵抗の跡は見えず、「大親分」と「警察」が緊密な協力関係を維持していたと思われる。
「浮浪児」474人取り締まり……市内で3日間。「屑拾い」自治会協助で大きな成果(朝鮮日報1961年7月21日)
ここで「自治団体」というのは同じ「屑拾い」の子どもと構成されており、その団体が自ら市内を取り締まったことが報道されたのである。
普段、この様に「浮浪児」は犯罪者のように扱われていた。一方、政治的激変期には政府に抵抗する存在に変貌した。また、時には取り締まりに抗議をしてトラックを奪取するなど過激な行動も起こした。たが、日常的には警察と緊密に協調するなど両面的な性格を持っていた。
3.考察: 包摂されない、包摂されることができなかった「浮浪児」
これまで、1960年代における韓国での「浮浪児」生成の背景とその過程、実態について考察した。考察の結果明らかになった特徴は、次の四点にまとめることができる。
一つ目は、1960年代における「浮浪児」の急増という現状は、戦争の影響だけによっては説明できない。なぜなら、朝鮮戦争の休戦後10年が経過して、「浮浪児」が主要な社会問題とされ始めたからである。この点は、本研究における前提であり、社会・歴史的な説明が必要な部分でもあり、さらに、論証しなければならない一つの課題でもあった。
二つ目は、1960年代、農民の前近代的農業の放棄及び都市への移動、つまり、労働者化が「始まった」。だが、当時、初等教育を終えたばかりの児童たちは、簡単に農村を離れられない大人以上に都市に移動したということを明らかにした。「浮浪児」の生成には、児童の方が大人よりも移動しやすい存在であったという背景があったのである。
三つ目は、都市に移動した児童の中には「浮浪児」になる者が多かった。これは、児童を巡る社会的装置、つまり「家族」、「労働」、「学校」、「社会福祉」、「地域」、そのいずれもが児童を包摂しえない状態だったということを意味していた。
そして最後に、彼らを受けとめてくれる唯一の「社会」は自身と同じ立場にいる「浮浪者」自身でしかなかった。彼らが形成した共同体は一般社会と距離を維持しつつ、排他的運営が行なわれた。つまり、その共同体は、当時のいずれの社会にも含まれていなかった。その非社会的存在としての性格は、民主化運動への活発な参加や政府への協力など、流動的な側面として現れた。
1960年代に急増した「浮浪児」は、わずか10年あまり経た1970年代中盤になると、国家の関心ではなくなり、また、社会的にもあまり注目されなくなった。この期間における「浮浪児」という存在が注目されなくなる過程及び、その原因、彼らに対する国家及び社会的対応が及ぼした影響については今後の研究課題としたい。
付記
本稿では、「浮浪児」と「浮浪者」という単語には差別的な意味が含まれているが、歴史性を考慮し、そのまま使用することとした。
注
1 朝鮮総督部は、1930年代以降植民地朝鮮に対する政策を農業から工業振興に変換させた。特に、1931年に勃発した満州戦争以降、急速に工業化は進み始めた。その結果、1931年から1938年まで、工業生産の平均成長率は12.9%を記録し、1931年から1940年までの工場数、生産額、労働者数はそれぞれ1.5倍、6倍、3倍、増加した(バク・イル[1997:312])。
2 植民地朝鮮が資本主義であったのか、封建主義であったのかという議論は、チェ・マンス、2008『労働者教養経済学』労社科研の第1章を参照のこと。
3 「浮浪者」は韓国語で「...」である。「浮浪者」とは、辞典的には「一定の住居と仕事なしにさすらう者」を意味する(国立国語院[2011])。最近は韓国語で「者」は差別的な表現だという指摘によって「浮浪人:...」と言われている。だが、「浮浪」という単語自体が差別的だという指摘もある。
4 1961年12月兵役未了者の救済をはかるという名目で1962年3月から12月まで進められた国土開発事業である。約1万4000人あまりが投入された。そして、人員が不足な地域には「浮浪者」が多数動員された。運営面では、報酬がまともに支給されず、苛酷な監視・監督が行なわれたことが問題になり、結局廃止された。しかし、1968年、ならず者掃討などを理由に再開された。
5 更生建設団は1967年に始まり、更生建設団と更生建設少年団により構成されていた。刑務所服役者は更生建設団、16歳以上の少年院
男院生は更生建設少年団に参加した。主に道路工事と上下水道、堤防工事をした。関連法規は1985年に廃止された。6 京郷新聞1953年5月31日7 戦争で発生した離散家族は越南または越北してから休戦のため帰れなかった場合が多い。その数は現在でも1,000万人と推定される。
2011年現在南北の人口はあわせておよそ7307万人である(統計庁2011)。8 朝鮮新聞1961年3月3日9 京郷新聞1953年5月31日10 1960年当時、児童に関連がある施設には、「児童福利施設」と区分されていた嬰児院、育児院、浮浪児施設、職業補導施設、「身体障
害者福祉事業」として、盲児厚生施設があった(保健社会部、1960)。
11 当時、政府の財政状態は極めて劣悪であり、米国の援助に依存していたと言ってもよいだろう。1957年~61年、財政規模で米国の援助比重は50% 程度であった(カン・ジュンマン2004:273)。したがって、社会福祉及び救護施設も外国援助に大きく依存していた。援助の方式は主に米国の援助機関が救護物品を募集し、寄付を受け、政府団体や国際機構を通じてそれらを受け渡すことで成り立っていた。これを担当していたKAVA(Korea Association of Volunteer Agencies )は第2の保健社会部とも呼ばれた(キム・ウンギョン2007)。
12 京郷新聞1957年2月10日13 具体的な規定の内容は年齢によって異なっている。
14 当時の初等教育を担当した学校の名称は「国民学校」であり、植民地時代の教育制度に由来する。解放50周年を迎えた1995年8月、名称を変更することとなり、1995年12月に教育法が改正され、1996年3月1日付から「国民学校」を「初等学校」とした。これは日本の小学校に該当する。
15 東亜日報1961年5月3日16 朝鮮日報1967年4月19日17 全国ラジオ普及運動によって普及率は急速に高くなり、1965年41.1% にのぼった。村住民たちが一緒に聞くことができるようにスピー
カー付ラジオを設置する場合もあったので、この割合以上にラジオは徐々に普及していった(マ、2003)。18 「春に誘惑されるのか、思春期に入った中・高学生または店員が下宿費、納入金、あるいは品物掛け金を持って家を飛び出す事件が続
けて起こっている。」(京郷新聞1962年5月3日)19 東亜日報1966年4月27日20 京郷新聞1964年2月29日21 東亜日報1963年2月25日22 東亜日報1965年3月12日23 ソウル駅前案内所の中に韓国の最初の少年相談所が作られた。無断家出、「無計画に上京」、悪の巣窟から抜けようとする少年少女たち
を持った父兄たちの相談に応じ、さらに、子供を補導するところである(京郷新聞1964年7月9日)。24 東亜日報1961年2月4日25 京郷新聞1960年7月12日26 朝鮮日報1960年10月30日27 ....。「.」は「乞」を、「...」は俗語で部下を意味する。28 「ヒライ」という単語は日本語の「拾う」から由来した(東亜日報1961年2月14日)。当時、韓国には日本語の影響が残っていた。29 ...。「..」は「稼ぎ」、「.」は「何かを専門的にする人」を意味する。30 ...。頭を意味する。しかし、その新聞記事は、「ジョマリ」を「大親分」の部下だと表現している。31 東亜日報1961年3月12日32 朝鮮日報1960年10月30日33 東亜日報1961年2月6日34 東亜日報1961年2月6日35 東亜日報1967年7月29日36 東亜日報1961年2月14日37 1960年4月19日に絶頂を成した韓国学生の一連の反不正・反政府抗争である。この闘争の結果、李承晩(イ・スンマン)と自由党政
権の12年間の長期執権が終わった。38 朝鮮日報1960年10月30日
参考文献
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Origins and Actual Conditions of Street Children in Korea in the 1960s
LIM DeokYoung
Abstract: The purpose of this study is to examine the conditions and origins of the widespread phenomenon of street children in Korea in the 1960s by surveying and analyzing articles, newspaper reports, and government documents of the time. The phenomenon of street children emerged in the midst of abrupt social change related to the development of full-scale capitalism in Korea. Farmers abandoned old-fashioned agriculture, and there was a mass migration to urban areas. In this time of rapid social change, the many children who had lost parents in the Korean War from 1950 to 1953 were particularly vulnerable. Those who became street children were excluded from the existing social institutions around children, such as families, schools, labor associations, social welfare organizations or local communities. The street children had no choice but to form their own communities and live among themselves, apart from general society. The many children in Korea in the 1960s that became street children were not embraced by society; the street children, in turn, could not embrace society.
Keywords: street children, vagrants, Korea, 1960s, homeless
1960 年代韓国における「浮浪児」の生成と実態
イム・ドクヨン
要旨:
本研究は、1960年代の韓国における「浮浪児」生成と実態を考察することを目的とする。研究方法は、文献考察として主に当時の論文や新聞報道、政府の公式文献などを活用した。当時の韓国では、資本主義的発展が本格化し始めた時期として、急激な社会変動が発生した。「浮浪児」の生成は、1950-3年のあいだ続いた韓国戦争の影響を受けつつ、農民の前近代的農業の放棄及び都市への移動を背景としていた。さらに、当時の児童を巡った社会的装置、つまり「家族」「労働」「学校」「社会福祉」「地域」、そのいずれも児童を包摂できなかったという点は、当時、大規模の「浮浪児」の生成の条件であった。彼らは自身だけの共同体を形成し、一般社会と距離を維持しつつ、排他的運営を行った。そのような考察を踏まえ、本研究は、1960年代における韓国で、多数の児童が「浮浪児」として、社会に包摂されない、または、包摂されることができなかったということを明らかにした。
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