西岡力
西岡力の主張です。
すべては朝日新聞の捏造から始まった
たしかに「慰安婦」という人たちはいました。しかし、「慰安婦問題」というの はありませんでした。「問題」というのは現代になっても解決せねばならないこ とがあるかどうかということです。
世界には貧困のために不幸にして自分の性を売らなければならなかった人たちは 、歴史的にも、現在にもたくさんいます。そういうこととは別に、日本が国家と して権力を使って慰安婦に強制的に性を売らせたということがあれば、それは問 題です。もし、そういうことがあれば「慰安婦問題」となるでしょう。しかし、 なかった。ですから「慰安婦」はいたけれども「慰安婦問題」はなかったという のが真実です。
では、そのないはずの「慰安婦問題」がいつから出てきたかと言えば、一九八○ 年代からです。韓国の政権はずっと反日だったと言いますが、一番激しい反日だ ったのは李承晩政権です。反日と反共を国是としていて、そのため李承晩政権は 日本と国交正常化しなかった。そして、日本に対して多額の賠償請求をしていま した。
その李承晩政権ですら、外交交渉の場で「慰安婦問題」を持ち出したことは一度 もありません。その時代の人たちは「慰安婦」の存在は知っていましたが、それ を「問題」化して外交交渉の場に持ち込めるとは思っていなかったのです。
李承晩政権が日本に要求していたのは、徴用された人と徴兵された人たちの補償 と未払い賃金です。徴用と徴兵というのは権力によるものですから、外交交渉で 補償を求めるのは当たり前です。
すべては八二年から
しかし、いわゆる「強制連行」というものについても、官斡旋や自由募集につい ては補償を求めていなかった。
そもそも李承晩政権が日本政府に過去の清算としての要求を網羅的にあげた「対 日請求要綱」の中でも「強制連行」という言葉は使われていません。この言葉も 当時、なかったものです。
そして「慰安婦問題」についても、「対日請求要綱」の中にはまったく出てきま せん。
李承晩政権は反日だから、日本と国交正常化しない。日本からの援助は一切求め ない。本当の反日というのはこういうものでしょう。
そして、朴政煕政権になって、植民地支配に対する反感はあるけれども、いまは 反共が大義であってアジアの自由主義陣営は団結すべきだという立場から、日韓 国交正常化をしたわけです。日本も釜山に赤旗を立ててはいけないということか ら大規模に援助した。
その後、一九六五年から八二年までの間は、歴史問題を理由にした反日デモが起 きたことはないし、歴史問題で外交交渉をしたこともありません。すでに清算は すんでいますから当たり前です。
韓国は反日で、ずっと「慰安婦問題」について言ってきたような印象があります が、そんなことはない。すべては八二年から始まっているのです。
きっかけは朝日の大誤報
ではなぜ、八○年代になって「慰安婦問題」が出てきたのか。それは、一つに戦 争中のことを知らない世代が出てきたということがあります。
そしてもう一つ、九八二年の第一次教科書問題があります。
日本の教科書が「華北への侵略」を「進出」と書き換えさせられたという朝日新 聞の大誤報があり、それを韓国の新聞が引用する時に「中国・韓国への侵略」と 追加の誤報をしました。
当時、全斗煤政権は日本に六十億ドルの経済協力を求めていたのですが、それは 安保経済協力と言っていました。共産主義陣営の南下を押さえて、韓国が日本の 安保の砦になっているから、韓国の軍の近代化費用の三分の一くらい日本が持て という論理です。それは日本は呑めないと断って膠着状態になっていました。
そんな時に新聞の大誤報があって、中国共産党政権が先にそれを取り上げた。そ れを見て斗煤政権が歴史問題を使えば日本を追い込むことができて、協力を取り 付けることができると考えたわけです。
ここから、全斗換政権が中国共産党と手を組んで、日本批判をして援助をとると いう対日歴史糾弾外交を始めます。そして日本発の根拠のない反日の題材を韓国 と中国の政権が外交交渉に使うという構造が始まったのです。 これは私の師である田中明先生の意見ですが、全斗換政権以降の韓国の反日とい うのは「引き奇せる反日」です。反日、反日と言いながら、金やモノ、技術をく れと言う。歴史を外交のカードにし始めたのです。
しかし、このような八二年の状況の中でも「慰安婦問題」は出ていませんでした 。
一九八三年に今日の「慰安婦問題」のきっかけとなる吉田清治という人が書いた 『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』という本が出ます。この中で、昭和十八年に韓 国の済州島で、日本の軍人が赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立 てトラックで連行したという、いま一般に流布している「強制連行」が初めて出 てきた。
私は八二年から八四年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治は韓国 のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝ったりしていました。しかし、それほ ど韓国では大きな問題になっていませんでした。
吉田清治がテレビに出た後、私は街に出て知り合いの食堂の女の子たちと話をし ました、女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねたら見たと言う。そして、「我 々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫な んですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩 きに合うのではないか」と言っていました。
それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているのだという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。
戦争中を知っている韓国の年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていないし、若い人たちも常識があるので日本にまで行って裁判を起こすというの はおかしいと思っていたのです。
一九八九年に吉田清治の本は韓国で翻訳出版され、これを読んだ韓国の済州新聞 の女性記者がその本に出てくる日時と場所について現地取材をします。すると、 吉田の証言は全くのデタラメであることが判明し、女性記者は吉田証言を全面的 に否定する記事を書いています。
八二年の第一次教科書問題の後、在日朝鮮人の指紋押捺の問題、韓国の大統領が来日した際の天皇陛下の謝罪のお言葉の問題があり、そういう中で九二年に宮沢 首相が訪韓することになりました。
朝日記者の裏の顔
その宮澤首相訪韓の二年前、大分県に住んでいる青柳敦子という一主婦が韓国に行って「原告募集」というビラをまきます。私はこの主婦に実際に会いましたが 、「強制連行された人たち、慰安婦だった人たち、日本を相手に裁判をしません か。費用は全部私がもってあげます」という内容です。
その主婦は韓国では「原告」に出会えなかったのですが、帰国後、国際電話がかかってきて「やりたい」という人が出てきました。最初は徴用された人たちの遺 族でした。しかし、徴用された人たちの遣族が裁判を始めたら、それをテレビで見ていた元慰安婦の金学順というおばあさんが私も出たいと言ってきたのです。
一方で、韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外交を進める中で、十年間教育を受けてきた人たちがいます。その人たちは日本の植民地時代について、事実を知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのよう な印象を持っている。そういう若者たちは、日本の軍隊が突然、村に現れて十代 の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます 。
そういう中で、日本から火をつけた裁判が始まり、慰安婦だったと名乗り出る金 学順さんが出てきたのです。 しかし、この金学順さんは四十円でキーセンに売られた人だった。つまり、強制 的に連れて行かれた人ではなかったのです。
ここで問題なのは、この金学順さんのことを最初に報道したのは朝日新聞だった ということです。朝日新聞の植村隆記者が、世界初のスクープとして報じました 。
一九九一年八月十一日付の朝日新聞(大阪版)は、金学順さんの名前はまだ出していませんが、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行さ れ、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が 」名乗り出たと報じたのです。
ここには金学順さんが「身売り」だった事実が書かれていない。金学順さんが日本政府に宛てた訴状には「十四歳の時に四十円でキーセンに売られた」とはっきり書いてあるのにです。
韓国の一番左派のハンギョレ新聞でさえ、「生活が苦しくなった母親によって十 四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」とはっきり書いてあり ます。
植村記者は韓国語もできるので、当然、こういう事実を知っていたはずなのに、 わざわざ書かなかった。
さらに提訴後の記事の見出しには、「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の『 恨』提訴へ」、「問われる人権感覚 制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」と打ち、朝日新聞は「わずか 十七歳で慰安婦にさせられた」という大キャンペーンを展開した。
最初の朝日新聞のスクープは、金学順さんが韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順さんも加わっている訴訟 の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任常任理事 の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順 さんの単独インタビューがとれたというカラクリです。
いま、テレビ番組「あるある大事典?」の捏造が問題になっていますが、朝日新 聞の最初の報道はただ部数を伸ばすためだけでなく、記者が自分の義母の裁判を 有利にするために、意図的に「キーセンに身売りした」という事実を報じなかっ たという大犯罪なのです。
もう一つ、朝日新聞の大犯罪に、一九九二年一月十一日朝刊の一面トップで、「 慰安所への軍関与示す資料」「政府見解揺らぐ」という見出しの記事を載せたことがあります。
これは吉見義明中央大学教授が防衛研究所で、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という資料を発見したという記事です。しかし、この資料はよく読んでみる と、日本国内で慰安婦を斡旋する業者が人さらい紛いのことをしているが、それ は「軍の威信」に関わるから業者の選定を厳しくせよ、という「業者を取り締ま る」内容です。
軍は関与しているのですが、それは業者が軍の名前を騙って「強制連行」するな 、といういわばよい方向に関与していたのです。
事実確認前の「加藤談話」
このような金学順さんの提訴、朝日新聞の金学順さん「身売り」の事実隠し、同 じく朝日新聞の「慰安所への軍関与」という捏造記事という流れの中で、まず、 当時の加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」を発表し、謝ってしまった。一九九 二年一月十三日です。
事実を調べる前に、まず謝った。
そして、宮沢首相が十七日に訪韓し、盧泰愚大統領に八回も謝りました。
その後、私は「文塾春秋」の取材で、外務省の北東アジア課の担当課に面会を求め、こう訊ねました。
「宮沢首相は、権力による強制連行があったということを認めて謝罪したのか。 それとも、当時、日本にもたくさんいた貧乏のために身売りされた人たちの悲劇 に対して謝ったのか。どちらなのか。もし、後者だとすれば、日本人で吉原で働 いていた人たちに日本政府がなぜ謝らないのか」と。
すると、担当者は「それは、これから調べる」と言ったのです。
「では、吉田清治の証言については、外務省はどう思っているのか」と訊ねたら 、「これから調べることだけれども、加害者が嘘をつくことがありますかね」と 言う。
問題なのは、「これから調べる」ということについて、加藤官房長官、宮沢首相 が先に謝ってしまったということです。
韓国の一般の人たちは、大新聞である朝日新聞が報道し、テレビが毎日のように報道し、日本の総理が韓国に來て謝ったわけですから、そんな事実があったと思 ってしまう。年寄りの人たちが「慰安婦は問題にできない」と言っても、そちら のほうが説得力がなくなります。
韓国のテレビドラマでは、平和な村に憲兵など(憲兵というのは軍を取り締まる役割ですから、なぜ憲兵なのかわからないが)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらっていったという内容のものが流されました。戦前を知らない 人たちは、あたかもそれが事実であるかのように受け取ります。
その当時、十二歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。 彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分 が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を 出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だった。それを韓国の新 聞が、「十二歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。
金学順登場の闇
当時、韓国では「挺身隊」=「慰安婦」となってしまっていた。ですから、十二 歳の少女まで性奴隷にしてけしからん、と韓国人は怒ったのです。
私はその記事を書いた記者に会いに行って「あなたは勤労動員だと知っていたで しょう?なぜあなたの記事に勤労という言葉が一言もないのか」と聞いたら、彼 は「この問題には闇がある。だから私はこの問題はもう書かない」と言う。
彼は「最初はけしからんと思って調べた。インタビューもたくさんした。すると 、連れて行かれた後、ひどい目にあったという話は皆、たくさんする。しかし、 どう連れて行かれたのかという話になると、はっきりとしたことを言わない。よ く聞いてみると女衒が絡んでいる。当時の朝鮮の農村に日本人が入れたと思いま すか?」と言うのです。
そして、彼は「だんだん調べていくうちに、戦争であれば起きるようなことなん だなあと思った」と言うのです。つまり、「慰安婦」に接見すると「強制」では ないことがよくわかるのです。
また、金学順というおばあさんがなぜ出てきたのか、ということにも闇があります。日本のテレビ局が何度も金学順さんにインタビューした時に、日本語のわか る女性コーディネーターが金さんにつきました。
私はそのコーディネーターの女性に会って話を聞いたのですが、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と聞いたら、金学順さんは「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こ したと報じられていたから、私も入るのかなと思った」と言ったそうです。
このようなおばあさんに接した高木健一弁護士は当然、その話を聞いているので すから、「あなたは当てはまりません」とか「出ないほうがいいですよ」とかア ドバイスしてあげるのが本当ではないでしょうか。相手は純粋な田舎のおばあさ んです。何もわからない状態なのです。しかも金学順さんは率直な人だから、訴 状にも「キーセンに四十円で売られた」と最初は書いているのです。
しかし、私が『文藝春秋』でそのことを指摘した後は、金学順さんは「キーセン に売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」と証言を変えたのです。
秦郁彦さんが済州島に取材に行く前に私のところに電話がかかってきました。そ の時、金学順さんの弁護士である高木健一氏にも電話をして、「西岡さんがキー センに売られた人だと書いているじゃないか」と言ったそうです。すると、高木 は「あれは玉が悪かった」と言ったという。そして、「今、次のいいのを準備し ている」と一言ったという。とんでもない話です。
本当に韓国人女性のことを思っているのなら、日本から賠償をとれるかどうか本 気で見てあげて、恥をさらさないようにしてあげるべきです。金学順さんのよう に、一度表に出てきてしまった人は、韓国社会にも偏見がありますから、そうい う目で見られる。すると、出てきた人はとにかく「強制された」と言わざるを得 なくなるのです。
思い出したくない自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され 、それによって証言を変えると嘘をついているんじゃないか、と言われる。二重 、三重に名誉を傷つけられ、引きずり回されたのが金学順さんなのではないかと 思います。
朝日新聞に一番問いたいのはこの点です。弱者の立場に立つと言いながら、弱者 を貶めているのです。女性の人権を守ろうというのではなく、朝日新聞は単に日 本が悪ければいいのです。
韓国の調沓でも事実はない
私が『文塾春秋」で書き、秦郁彦さんが済州島で取材をし、さまざまな事実が発 掘されて、朝日新聞が「強制」と主張する根拠がなくなりました。後に残ってい る手段としては「慰安婦」の人たちの聞き取り調査です。
聞き取り調査が事実を証明するためには裏付けが必要です。人間の記憶というの はいい加減なものですから、たとえば「挺身隊という制度で連行された」と彼女 たちが言えば、「挺身隊というのはそういう制度ではありません」とか、「今は 挺身隊という言葉がありますが、当時はそういうふうには言っていなかったんじ ゃありませんか」と確認し、記憶を呼び起こしてもらわなければいけない。
そういう聞き取り調査をしたのは、政府も含めて日本人にはいません。やったのは韓国の学者です。
韓国のソウル大学の韓国史学者として著名な安乗直教授(現名誉教授)がキャップ となって挺身隊研究会というプロジェクトができ、当時「慰安婦」として名乗り 出ていた四十数人の人たちに本格的な聞き取り調査を行いました。
その後、安教授らは調査の結果を「証言集」として本にまとめますが、その中にこう書いています。
「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が論理的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ。このような点は、すでに五 十年近く前のことであって記憶の錯誤から来ることもありうるし、証言したくな いことを省略したり適当にまぜこぜにしたりすることから来ることもありうるし 、またその時代の事情が我々の想像を超越するものかもしれないという点もあっ た。
この中でも調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を歪 曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人 一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと 努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査 を中断せざるを得ないケースもあった。このような場合は次の機会に再調査する ことを約束するしかなかった」
九二年、九三年に日本が謝罪している最中でも韓国の学者は、「意図的に事実を 歪曲していると感じられるケース」があったと書いているのです。
これは四十人を対象にしている調査でしたが、本にまとめることができたのは十 九人でしかなかった。半分以上の人ははじいたのです。しかも、その中でも自分 で「強制」だったと言っている人はたった四人です。四人のうち、一人は韓国の 釜山で「強制」され、もう一人は日本の富山県で「強制」されたと言っている。 しかし、戦地でない所に軍の「慰安所」はありませんから、それだけでこの証言 がおかしいことがわかります。
後の一人は、日本政府を相手どった裁判で訴状を出しているのですが、訴状では いずれもキーセンなどとして「身売り」されたと書いている。つまり、過去の証 言と違うことを、言っているのです。この二人の証言者のうち、一人は金学順さ んです。
この「証言集」と日本政府が行った聞き取り調査とは、だぶっている部分もあり ます。しかし、日本政府は誰に聞き取り調査を行ったかということを明らかにし ていません。
安教授の行った聞き取り調査の「証言集」を韓国の外務省の課長が日本の外務省 の課長に「これに全部入っています」と、いわばお墨付きで渡しています。韓国 が自信を持って渡した「証言」でさえ、このようなものです。
そして、吉見教授も和田春樹教授さえも、朝鮮人に対する公権力による強制連行 は証明されていないと、後に話してもいますし、書いてもいます。
役人が国を滅ぼす
加藤紘一官房長官が謝罪をし、宮沢首相が謝罪をした後、韓国で「慰安婦問題」 が過熱する中で、私はまだ道があったと思います。
「誤解である。調べてみたけれど権力による『強制連行』というものはなかった 。ただ慰安所というものがあって、貧困に窮する人たちが業者によって人身売買 させられたということはあった。そのような人権侵害については、道義的な責任 は感じるし、当事者に対しては同情もする」と言えばよかったのです。
ところが、政府は日本の反日勢力が作り上げた嘘を訂正する努力をしないで、それに迎合するような談話を作って謝罪をし、問題を先送りした。これが一九九三 年八月四日に出された河野洋平官房長官による通称「河野談話」です。
頭のいい役人というのは全くすごいことを考えます。韓国との関係上、「強制」 は認めたほうがいい。しかし そういう「事実」はない。どうするか。
そこで彼らは「強制」の意味を広げればいいと考えました。つまり、「権力による強制」ではなくても、「本人の意志に反したことは強制」だとした。
本人にインタビューすると皆、ひどい目にあったと言っている。だから、「本人 の意志に反して」慰安婦になったことを「強制」とし、定義を拡大したのです。 「本人の意志に反して」貧乏な家に生まれ人身売買されたかもしれないし、「本 人の意志に反して」女衒にかどわかされたかもしれない。しかし、「本人たちの 意志に反して」慰安婦となったなら「強制」と解釈するということです。これが 安倍総理が今言っている広い意味での「強制」です。
しかし、公権力による組織的な「強制」はなかったという事実がある。本当ならば、この事実も「河野談話」に明記すべきでしょう。
安倍総理は、「家まで乗り込んでいって人狩りをするような『強制』は証明され ていません」ときちっと言っています。「河野談話」を継承すると、言っている 中で、安倍総理はギリギリのことを言っているのです。
政府は新しい談話を出す前であれば、前の談話を踏襲しなければなりません。「 加藤談話」があり、「河野談話」があったのですから、「塩崎談話」「安倍談話 」があってもいい。しかし、まだ談話を出す前ですから、政府見解を引き継ぐと 言っているのです。
私は「河野談話」を読んだ時、「強制」の定義を拡大したのだと感じましたが、 まだ片足は土俵に残っていると思っていました。
しかし、「河野談話」の中には、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた 業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たち の意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担 したこともあったことが明らかになった」という一文があった。
これは権力による「強制」を認めたことになるのではないか。安倍総理が今言っ ている狭い意味での「強制」もあったとこの談話は認めたことになるのではない か。そこを政府はきちんと説明しなければいけないと思います。
「河野談話」が出て五年くらいたった時、中川昭一さんが会長となった「日本の 歴史教育を考える若手議員の会」が「慰安婦問題」の検証作業をしました。私も 出席していたのですが、外政審議室の人が出てきていたのでその人に、「この『 河野談話』の官憲等という記述は何なのか。この記述が問題だと思う」と言った ら、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と言う。
調べてみると、数カ月ですが本人の意志に反してオランダ人を慰安婦にした事例 がありました。しかし、その軍人らはインドネシア駐留軍の上部から軍規違反で 処罰され、慰安所は閉鎖になった。処罰されたということは、組織として「強制 」していないということです。しかも戦後、その軍人らはBC級戦犯として死刑な どになっています。
よくよく調べてみると、こういうインドネシアのオランダ人の事例が一件あった 、しかもそれは戦争犯罪だったということですが、この一件しかなかったのだと 談話には明記すべきでしょう。
「慰安婦」の人たちに人権があるように、当事の官憲にも人権はあります。たった一つの事例であたかも官憲が組織だって「強制」したかのように受け取られる のは、官憲の人権侵害です。
「河野談話」の中では、「官憲等が直接これに加担したこともあった」という記 述からわざと段落を変え、「なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については 、日本を別とすれば、朝鮮半島が人きな比重を占めていたが、(中略)総じて本人 たちの意志に反して行われた」と書かれています。つまり、朝鮮半島の事例につ いては広義の「強制」としか書かれていない。
役人の考えることというのは全く恐ろしいもので、宮沢首相が謝ったことをおかしいと言われないように、しかし証拠が出ていないことを認めないように、どち らから攻められてもきちんと答えられるようにしておきながら、問題は先送りし ている。こういう秀才が国を滅ぼすのです。
政府一体で全カ対応を
その後、左翼が国連の場にこの問題を持っていき、国連の人権委員会に吉田の証言などが引用されることになる。日本は国連加盟国なんですから、きちんと公式 に反論すればいいのにそれをやっていません。ですから、国連の公式文書で「性 奴隷」があったということになってしまっています。
そしてそれがアメリカに飛び火しました。アメリカの華僑と在米韓国人の反日ネ ットワークがこの十年くらいの間にできていて、その後ろには韓国の左翼政権と 北朝鮮と中国共産党がいます。そしてバウネットに代表される日本の反日勢力と の連携がついている。
今回のアメリカ、下院の決議について言うと、事実が証明されていないことにつ いて、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、加 藤大使は決議を通さないでくれと根回しをしてはいるが、事実に踏み込んだ説明 はしていません。
「日本は歴代の総理が謝っているということに対する事実誤認がある」というお粗末なことを言っている。つまり、「謝ってない」と思われているのが事実誤認 だと言っているのです。「河野談話」から「村山談話」、歴代の総理がアジア女 性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っている。
こういう出先機関の対処では、「性奴隷」はあったけれども、謝ったのだから決 議はやめてくれと言っているに等しい。
しかし、安倍総理は「慰安婦問題」の事情をよくご存知ですから、「狭い意味での強制はなかった」と言っているので、他国から見れば歴代の総理は謝っている けれども安倍総理から謝らなくなったということになります。そしていま、アメ リカのメディアで安倍攻撃が始まっている。
出先機関と安倍総理の発言がここまで食い違ってしまったら、ここは、やはり新 しい談話を出して、国際的な誤解を解くべきです。
安倍総理はいま、「慰安婦問題」について単独で闘っていますが、行政の最高責任者なんですから、官邸にも外務省にも命令して、政府一体となって問題を先送 りするのをやめて、国際的誤解を解くために全力をあげるべきです。
니시오카(西岡)력
니시오카(西岡)력의 주장입니다.
모두는 아사히신문의 날조로부터 시작되었다
확실히 「위안부」라고 하는 사람들은 있었습니다. 그러나, 「위안부 문제」라고 하는 것은 없었습니다. 「문제」라고 하는 것은 현대가 되어도 해결하지 않으면 안될 것이 있을지 어떤가 하는 것입니다.
세계에는 빈곤을 위해서 불행하게 해서 자신의 성을 팔지 않으면 안된 사람들은, 역사적으로도, 현재에도 많이 있습니다. 그러한 것과는 달리, 일본이 국가로서 권력을 사용해서 위안부에게 강제적으로성을 팔게 했다라고 할 것이 있으면, 그것은 문제입니다. 만일 그러한 것이 있으면 「위안부 문제」가 될 것입니다. 그러나, 없었다. 그러니까 「위안부」는 있었지만 「위안부 문제」는 없었다고 하는 것이 진실합니다.
그러면, 그 없을 것인 「위안부 문제」가 언제부터 나왔다라고 하면, 1980년대부터입니다. 한국의 정권은 쭉 반일이었다라고 말합니다만, 제일(가장) 심한 반일이었던 것은 이승만 정권입니다. 반일과 반공을 국시라고 하고 있어서, 그 때문에 이승만 정권은 일본과 국교정상화하지 않았다. 그리고, 일본에 대하여 고액의 배상 청구를 하고 있었습니다.
그 이승만 정권으로조차, 외교교섭의 장소에서 「위안부 문제」를 반출한 것은 1번도 없습니다. 그 시대의 사람들은 「위안부」의 존재는 알고 있었습니다만, 그것을 「문제」화해서 외교교섭의 장소에 가지고 들어갈 수 있다고는 생각하지 않고 있었습니다.
이승만 정권이 일본에 요구하고 있었던 것은, 징용된 사람과 징병된 사람들의 보상과 미불 임금입니다. 징용과 징병이라고 하는 것은 권력에서 의한 것이기 때문에, 외교교섭으로 보상을 추구하는 것은 당연합니다.
모두는 82년부터
그러나, 소위 「강제 연행」이라고 하는 것에 대해서도, 관알선이나 자유 모집에 관하여는 보상을 요구하지 않고 있었다.
처음부터 이승만 정권이 일본정부에 과거의 청산으로서의 요구를 망라적으로 든 「대일청구 요강」 안(속)에서도 「강제 연행」이라고 하는 말은 사용되고 있지 않습니다. 이 말도 당시, 없었던 것입니다.
그리고 「위안부 문제」에 대해서도, 「대일청구 요강」 안에는 완전히 나오지 않습니다.
이승만 정권은 반일이기 때문에, 일본과 국교정상화하지 않는다. 일본에서의 원조는 일체 요구하지 않는다. 진실의 반일이라고 하는 것은 이러한 것이지요.
그리고, 박(朴) 세이(政) 히로시(熙) 정권이 되고, 식민지지배에 대한 반감은 있지만, 지금은 반공이 대의이며 아시아의 자유 주의 진영은 단결해야 한다고 하는 입장부터, 일한 국교정상화를 한 셈입니다. 일본도 부산(釜山)에 붉은 깃발을 세워서는 안된다고 하는 것부터 대규모이게 원조했다.
그 후, 1965년부터 82년까지의 사이는, 역사문제를 이유로 한 반일 데모가 일어난 것은 내지, 역사문제로 외교교섭을 한 적도 없습니다. 이미 청산은 마치고 있을 테니까 당연합니다.
한국은 반일에서, 쭉 「위안부 문제」에 대해서 말해 온 것 같은 인상이 있습니다만, 그러한 일은 없다. 모두는 82년부터 시작되고 있는 것입니다.
계기는 아침 해의 대오보
그러면 왜, 80년대가 되어서 「위안부 문제」가 나온 것인가? 그것은, 하나에 전쟁중을 모르는 세대가 나왔다고 할 것이 있습니다.
그리고 또 하나, 982년의 제1차교과서문제가 있습니다.
일본의 교과서가 「화북에의 침략」을 「진출」이라고 다시쓰게 했다라고 하는 아사히신문의 대오보가 있어, 그것을 한국의 신문이 인용할 때에 「중국·한국에의 침략」이라고 추가의 오보를 했습니다.
당시, 전콩매연정권은 일본에 60억달러의 경제협력을 요구하고 있었던 것입니다만, 그것은 안보경제협력라고 말하고 있었습니다. 공산주의진영의 남하를 누르고, 한국이 일본의 안보의 성채가 되고 있기 때문에, 한국의 군의 근대화비용의 3분의 1정도 일본이 가져라고 하는 논리입니다. 그것은 일본은 품을 수 없다고 거절해서 고착 상태가 되고 있었습니다.
그런 때에 신문의 대오보가 있어서, 중국 공산당 정권이 먼저 그것을 올렸다. 그것을 보아서 콩매연정권이 역사문제를 사용하면 일본을 몰아넣을 수 있고, 협력을 달 수 있다고 생각한 셈입니다.
여기에서, 전두환 정권이 중국 공산당과 서로 손을 잡고, 일본 비판을 해서 원조를 잡는다고 하는 대일역사규탄 외교를 시작합니다. 그리고 일본출발의 근거가 없는 반일의 제재를 한국과 중국의 정권이 외교교섭에 사용한다고 하는 구조가 시작된 것입니다. 이것은 나의 스승인 다나카(田中) 빛이 둘어오는 곳생의 의견입니다만, 전두환 정권 이후의 한국의 반일이라고 하는 것은 「빼 기 다투는 반일」입니다. 반일, 반일라고 말하면서, 돈이나 상품, 기술을 주기라고 말한다. 역사를 외교의 카드로 하기 시작한 것입니다.
그러나, 이러한 82년의 상황 안(속)에서도 「위안부 문제」는 나오고 있지 않았습니다.
1983년에 오늘 「위안부 문제」의 계기가 되는 요시다(吉田) 기요하루(淸治)라고 하는 사람이 쓴 『나의 전쟁 범죄-조선인 강제 연행』이라고 하는 책이 나옵니다. 이 안에서, 쇼와(昭和)18년에 한국의 제주도(濟州島)에서, 일본의 군인이 갓난아기를 안은 어머니나 젊은 미혼의 여성을 사냥한지 얼마 안됨 트럭에서 연행했다고 하는, 지금 일반적으로 유포하고 있는 「강제 연행」이 처음으로 나왔다.
나는 82년부터 84년까지 서울에 살고 있었습니다만, 그 때, 요시다(吉田) 기요하루(淸治)는 한국의 텔레비전에 출연하고, 자신의 전쟁 범죄를 사과하거나 하고 있었습니다. 그러나, 그다지 한국에서는 큰 문제가 되고 있지 않았습니다.
요시다(吉田) 기요하루(淸治)가 텔레비전으로 나간 후, 나는 거리로 나아가서 아는 사이(사람)의 식당의 여자 아이들과 이야기를 했습니다, 여자 아이들에게 저 텔레비전을 보았는가라고 물어 보았다라고 말한다. 그리고, 「우리들 한국인에 있어서는 사과해 주어 있기 어렵지만, 저 사람은 귀국해서 괜찮습니까? 외국에 들어와서 자국의 욕을 하면 좋지 않지요? 귀국하면 뭇매에 맞는 것이 아닐까」라고 말하고 있었습니다.
각각의 나라가 각각 애국심을 가지고 있는 것이라고 하는, 당시의 한국인에게는 당연한 밸런스 감각이 있었던 것입니다.
전쟁중을 알고 있는 한국의 노인은 「위안부 문제」로 일본을 다그칠 수 있다고 생각하지 않고 있고, 젊은 사람들도 상식이 있어서 일본에까지 가서 재판을 일으킨다고 하는 것은 이상하다고 생각하고 있었던 것입니다.
1989년에 요시다(吉田) 기요하루(淸治)의 책은 한국에서 번역 출판되어, 이것을 읽은 한국의 제주(濟州)신문의 여성기자가 그 책에 나오는 날 때와 장소에 대해서 현지 취재를 합니다. 그러자, 요시다(吉田)의 증언은 완전한 엉터리인 것이 밝혀지고, 여성기자는 요시다(吉田) 증언을 전면적으로 부정하는 기사를 쓰고 있습니다.
82년의 제1차교과서문제의 뒤, 재일 조선인의 지문날인의 문제, 한국의 대통령이 방일했을 때의 천황폐하의 사죄의 말씀의 문제가 있어, 그러한 중에서 92년에 미야자와(宮澤) 수상이 방한하게 되었습니다.
아침 해 기자의 뒤의 얼굴
그 미야자와(宮澤) 수상방한의 2년전, 오이타현(大分縣)에 살고 있는 아오야기(靑柳) 아쓰코(敦子)라고 하는 1주부가 한국에 가서 「원고모집」이라고 하는 빌라를 감습니다. 나는 이 주부에게 막상 만났습니다만, 「강제 연행된 사람들, 위안부이었던 사람들, 일본을 상대에게 재판을 하지 않겠습니까? 비용은 전부 내가 담아 드립니다」라고 하는 내용입니다.
그 주부는 한국에서는 「원고」를 만날 수 없었습니다만, 귀국후, 국제 전화가 걸려와 와서 「하고 싶다」라고 하는 사람이 나왔습니다. 처음에는 징용된 사람들의 유족이었습니다. 그러나, 징용된 사람들의 해 족이 재판을 시작하면, 그것을 텔레비전으로 보고 있었던 전(元)위안부의 돈학순이라고 하는 할머니가 나도 나오고 싶다라고 말해 온 것입니다.
한쪽에서, 한국에서는 전두환 정권 이후, 대일역사규탄 외교를 진척시키는 중에서, 십년간 교육을 받아 온 사람들이 있습니다. 그 사람들은 일본의 식민지시대에 대해서, 사실을 알고 있는 사람으로 보면 밸런스를 결여한, 마치 암흑한 시대이었던 것 같은 인상을 가지고 있다. 그러한 젊은이들은, 일본의 군대가 돌연, 마을에 나타나서 십대의 소녀를 강간해서 데리고 갔다고 하는 이미지를 날씬하게 평판인れて 챙깁니다.
그러한 중에서, 일본에서 불을 붙인 재판이 시작되고, 위안부이었다라고 자칭해 나오는 돈학순씨가 나온 것입니다. 그러나, 이 돈학순씨는 40엔으로 기생에 판매된 사람이었다. 즉, 강제적으로 데리고 가진 사람이 아니었습니다.
여기서 문제다는, 이 돈학순씨를 최초에 보도한 것은 아사히신문이었다라고 하는 것은 한다. 아사히신문의 우에무라(植村) 류(隆) 기자가, 세계처음의 스쿠프로서 보도했습니다.
1991년8월 11일자의 아사히신문(오사카(大阪) 판)은, 돈학순씨의 이름은 아직 내고 있지 않습니다만, 「중일전쟁이나 제2차대전의 즈음, 『여자정신대』의 이름으로 전장에 연행되어, 일본군인 상대에게 매춘 행위를 강요당한 「조선인 종군 위안부」 가운데, 한사람이」 자칭해 나왔다고 보도한 것입니다.
여기에는 돈학순씨가 「몸팔이」이었던 사실이 씌어져 있지 않다. 돈학순씨가 일본정부에 붙인 소장에는 「14나이의 때에 40엔으로 기생에 판매되었다」라고 분명히 씌어져 있는데도 나온다.
한국의 제일(가장)좌파의 【한교레】신문으로마저, 「생활이 괴로워진 어머니에 의해 14나이의 때에 평양(平壤)에 있는 기생의 파수꾼에게 판매되어 갔다」라고 분명히 씌어져 있습니다.
우에무라(植村) 기자는 한국어를 할 수 있으므로, 당연, 이러한 사실을 알고 있었을 것인데도, 일부러 쓰지 않았다.
더욱 제소후의 기사의 표제에는, 「종군 위안부로 된 조선 여성, 반세기의 『원한』제소에」, 「문제되는 인권감각제도의 테두리 넘어 참된 보상을 한국인종군 위안부의 제소」라고 치고, 아사히신문은 「불과 17나이로 위안부에게 하게 했다」라고 말하는 대캠페인을 전개했다.
최초의 아사히신문의 스쿠프는, 돈학순씨가 한국에서 기자회견하는 3일전입니다. 왜, 이런 수 있었는가라고 하면, 우에무라(植村) 기자는 돈학순씨도 합류하고 있는 소송에 원고조직 「태평양 전쟁 희생자유족회」의 리더적 존재인 대들보(양)순 임무상임 이사의 딸의 남편입니다. 즉, 원고의 리더가 의리의 어머니이었기 때문에, 돈학순씨의 단독 인터뷰가 예약했다고 하는 계략입니다.
지금, 텔레비전 프로그램 「있는 어떤 대사전? 」의 날조가 문제가 되고 있습니다만, 아사히신문의 최초의 보도는 단지 부수를 늘리기 위해서뿐만 아니라, 기자가 자신의 의붓 어머니의 재판을 유리하게 하기 위해서, 의도적으로 「기생에 몸팔이했다」라고 하는 사실을 보도하지 않았다라고 하는 대범죄입니다.
또 하나, 아사히신문의 대범죄에, 1992년1월 11일 조간의 일면 톱으로, 「위안소에의 군관여 가리키는 자료」 「정부견해 흔들린다」라고 하는 표제의 기사를 실은 적이 있습니다.
이것은 요시미(吉見) 요시아키(義明) 주오대학(中央大學) 교수가 방위 연구소에서, 「군위안소 종업부 등 모집에 관한 건(件)」이라고 하는 자료를 발견했다고 하는 기사입니다. 그러나, 이 자료는 자주(잘) 읽어 보면, 일본국내에서 위안부를 알선하는 업자가 유괴범 착각의 일을 하고 있지만, 그것은 「군의 위신」에 영향을 미치기 때문에 업자의 선정을 엄격하게 해라,라고 말하는 「업자를 단속한다」 내용입니다.
군은 관여하고 있는 것입니다만, 그것은 업자가 군의 이름을 편취해서 「강제 연행」하지 마라,라고 말하는 이른바 좋은 방향에 관여하고 있었던 것입니다.
사실 확인전의 「가토(加藤) 담화」
이러한 돈학순씨의 제소, 아사히신문의 돈학순씨 「몸팔이」의 사실숨김, 같이 아사히신문의 「위안소에의 군관여」라고 하는 날조 기사라고 하는 흐름중에서, 우선, 당시의 가토(加藤) 고이치(紘一) 총무부장관이 「사죄라고 반성」을 발표하고, 사과해버렸다. 1992년1월13일입니다.
사실을 조사하기 전에, 우선 사과했다.
그리고, 미야자와(宮澤) 수상이 17일에 방한하고, 노태우 대통령에게 8회도 사과했습니다.
그 후, 나는 「문장학원춘추」의 취재로, 외무성의 북동아시아과의 담당과에 면회를 요구하고, 이렇게 물었습니다.
「미야자와(宮澤) 수상은, 권력에 의한 강제 연행이 있었다고 하는 것을 인정해서 사죄한 것인가? 그렇지 않으면, 당시, 일본에도 많이 있었던 가난을 위해서 몸팔이된 사람들의 비극에 대하여 사과한 것인가? 어느쪽인가? 만일 후자다로 하면, 일본인으로 요시하라(吉原)로 일하고 있었던 사람들에게 일본정부가 왜 사죄하지 않는 것인가」라고.
그러자, 담당자는 「그것은, 이제부터 조사한다」라고 말한 것입니다.
「그러면, 요시다(吉田) 기요하루(淸治)의 증언에 대해서는, 외무성은 어떻게 생각하고 있는 것인가」라고 물으면, 「이제부터 조사하는 것이지만, 가해자가 거짓말을 할 것이 있습니까」라고 말한다.
문제다는, 「이제부터 조사한다」라고 하는 것에 대해서, 가토(加藤) 총무부장관, 미야자와(宮澤) 수상이 먼저 사과해버렸다라고 하는 것은 한다.
한국의 일반의 사람들은, 대신문인 아사히신문이 보도하고, 텔레비전이 매일과 같이 보도하고, 일본의 총리가 한국에 來て 사과한 셈이기 때문에, 그런 사실이 있었다고 생각해버린다. 노인의 사람들이 「위안부는 문제에 할 수 없다」라고 말해도, 그쪽의 쪽이 설득력이 없어집니다.
한국의 텔레비전 드라마에서는, 평화로운 마을에 헌병등 (헌병이라고 하는 것은 군을 단속하는 역할이기 때문에, 왜 헌병일지 모르지만)이 드러나서 십대의 여성을 강간하고, 지프에 태워서 복습해 갔다라고 하는 내용의 물건이 흘려졌습니다. 전전을 모르는 사람들은, 마치 그것이 사실인 것 같이 받습니다.
그 당시, 12나이로 위안부에게 하게 한 사람이 있었다고 한국의 신문이 보도했습니다. 그녀는 근로 정신대에서 일본에 활동에 온 사람입니다. 그 그녀를 보낸 교사가 자신이 보낸 아이들의 몇사람인가가 종전후, 돌아오지 않으므로 어떻게 되었는가라고 편지를 보내서 조사하면, 교토성에 되돌아오지 않고 시골에 가 전원 무사했다. 그것을 한국의 신문이, 「12나이의 소녀도 정신대에 동원되었다」라고 하는 기사로 한 것입니다.
돈학순 등장의 어둠
당시, 한국에서는 「정신대」= 「위안부」가 되어버리고 있었다. 그러니까, 12나이의 소녀까지 성노예로 해서 괘씸한,과 한국인은 화낸 것입니다.
나는 그 기사를 쓴 기자를 만나러 가서 「당신은 근로 동원이다라는 것을 알고 있었을 것입니다? 왜 당신의 기사에 근로라고 하는 말이 한마디 말도 없는 것인가」라고 들으면, 그는 「이 문제에는 어둠이 있다. 그러므로 나는 이 문제는 이미 쓰지 않는다」라고 말한다.
그는 「처음에는 괘씸한이라고 생각해서 조사했다. 인터뷰도 많이 했다. 그러자, 데리고 가진 후, 혼났다고 하는 이야기는 모두, 많이 한다. 그러나, 어떻게 데리고 가진 것인가라고 하는 이야기가 되면, 확실하게 한 것을 말하지 않는다. 자주 들어 보면 여자衒이 트집잡고 있다. 당시의 조선의 농촌에 일본인이 넣었다고 생각합니까? 」라고 말하는 것입니다.
그리고, 그는 「조금씩 조금씩 조사해 가는 동안에, 전쟁이라면 일어나는 것 같은 것이구나라고 생각했다」라고 말하는 것입니다. 즉, 「위안부」에 접견하면 「강제」가 아닌 것이 자주(잘) 아는 것입니다.
또, 돈학순이라고 하는 할머니가 왜 나온 것인가,라고 하는 것에도 어둠이 있습니다. 일본의 방송국이 몇번이나 돈학순에게 인터뷰했을 때에, 일본어가 아는 여성 코디네이터가 김씨밖에 없었습니다.
나는 그 코디네이터의 여성을 만나서 이야기를 들은 것입니다만, 그녀가 「할머니, 왜 나왔니? 」이라고 들으면, 돈학순씨는 「쓸쓸했던 것이나. 친척도 아무도 방문해 오지 않는다. 식당에서 텔레비전을 보고 있으면, 징용된 사람이 재판을 일으켰다고 보고되고 있으에게서, 나도 들어가는 것일까라고 생각했다」라고 말했다고 합니다.
이러한 할머니에게 상대한 다카기(高木) 겐이치(健一) 변호사는 당연, 그 이야기를 듣고 있는 것이기 때문에, 「당신은 맞지 않습니다」라든가 「나오지 않는 쪽이 좋아요」라든가 어드바이스해 드리는 것이 정말이지 않습니까? 상대는 순수한 시골의 할머니입니다. 아무 것도 모르는 상태입니다. 게다가 돈학순씨는 솔직한 사람이기 때문에, 소장에도 「기생에 40엔으로 판매되었다」라고 처음에는 쓰고 있는 것입니다.
그러나, 내가 『문예춘추』로 그 것을 지적한 후는, 돈학순씨는 「기생에 판매되어서 중국에 데리고 가진 것이지만, 업자의 사람과 베이징의 식당에서 밥을 먹고 있으면 일본의 군인이 와서 연행되었다」라고 증언을 바꾼 것입니다.
하다(秦) 이쿠히코(郁彦)씨가 제주도(濟州島)에 취재에 가기 앞에 나의 곳에 전화가 걸려 왔습니다. 그 때, 돈학순씨의 변호사인 다카기(高木) 겐이치(健一)씨에게도 전화를 하고, 「니시오카(西岡)씨가 기생에 판매된 사람이라고 쓰고 있지 않은가」라고 말했다고 합니다. 그러자, 다카기(高木)는 「저것은 옥이 나빴다」라고 말했다고 한다. 그리고, 「지금, 다음이 좋은 것을 준비하고 있다」라고 1 했다고 한다. 별소리입니다.
정말로 한국인여성을 생각하고 있는 것이라면, 일본에서 배상을 떨어질 것인가 아닌가 진지하게 보아 드리고, 창피를 드러내지 않도록 해 주어야 합니다. 돈학순과 같이 , 1번 밖으로 나가 와버린 사람은, 한국 사회에도 편견이 있을 테니까, 그러한 눈으로 보여진다. 그러자, 나온 사람은 어쨌든 「강제되었다」라고 말하지 않을 수 없게 되는 것입니다.
상기하고 싶지 않은 자신의 이력을 공개하고, 일본의 반일운동가에게 이용당하고, 비판되어, 그것에 의해서 증언을 바꾸면 거짓말을 하고 있는 것은 아닐까,라고 말해진다. 이중, 미에(三重)에 명예를 훼손할 수 있어, 끌고 돌아다녀진 것이 돈학순씨인 것이 아닐까라고 생각합니다.
아사히신문에 제일(가장) 묻고 싶은 것은 이 점입니다. 약자의 입장에 선다라고 말하면서, 약자를 깎아내리고 있는 것입니다. 여성의 인권을 지키자고 하는 것이 아니고, 아사히신문은 단지 일본이 나쁘면 좋습니다.
한국의 시라베(調) 구쓰(沓)에서도 사실은 없다
내가 『문장학원춘추」로 쓰고, 하다(秦) 이쿠히코(郁彦)씨가 제주도(濟州島)에서 취재를 하고, 다양한 사실이 발굴되어서, 아사히신문이 「강제」라고 주장하는 근거가 없어졌습니다. 뒤에 남아있는 수단으로서는 「위안부」의 사람들의 알아 듣기 조사입니다.
알아 듣기 조사가 사실을 증명하기 위해서는 뒷받침이 필요합니다. 인간의 기억이라고 하는 것은 적당한 것이기 때문에, 예를 들면 「정신대라고 하는 제도로 연행되었다」라고 그녀들이 말하면, 「정신대라고 하는 것은 그러한 제도가 아닙니다」라든가, 「지금은 정신대라고 하는 말이 있습니다만, 당시는 그런 식으로는 말하지 않고 있지 않습니까」라고 확인하고, 기억을 불러 일으키게 하지 않으면 안된다.
그러한 알아 듣기 조사를 한 것은, 정부도 포함시켜서 일본인에게는 없습니다. 한 것은 한국의 학자입니다.
한국의 서울대학의 한국 사학자로서 저명한 아노리(安乘) 직접 교수(현명예교수)이 캡이 되어서 정신대 연구회라고 하는 프로젝트를 할 수 있고, 당시 「위안부」로서 자칭해 나오고 있었던 4십몇명의 사람들에게 본격적인 알아 듣기 조사를 했습니다.
그 후, 안(安) 교수들은 조사의 결과를 「증언집」으로서 책에 정리합니다만, 그 안에 이렇게 쓰고 있습니다.
「조사를 검토하는 것에 즈음하여 매우 어려웠던 점은, 증언자의 진술이 논리적으로전과 뒤가 맞지 않을 경우가 진귀하지 않았던 것이다. 이러한 점은, 이미 50년 가까이앞이며 기억의 착오로부터 오는 것도 있을 수 있고, 증언하고 싶지 않은 것을 생략하거나 적당히 뒤범벅이게 하거나 하는 것부터 오는 것도 있을 수 있고,또 그 시대의 사정이 우리들의 상상을 초월하는 것일지도 모른다고 하는 점도 있었다.
이 안에서도 조사자들을 대단히 곤란하게 시킨 것은, 증언자가 의도적으로 사실을 왜곡하고 있다고 느껴지는 케이스다. 우리들은 이러한 경우에 대비하고, 조사자 한사람 한사람이 증언자에게 인간적으로 밀접해지는 것에 의해 그러한 곤란을 극복하자고 노력하고, 대부분의 경우에 의도한 대로의 성과를 올려 우수리가, 어떤을 경우에는 조사를 중단 하지 않을 수 없는 케이스도 있었다. 이러한 경우는 다음 기회에 재조사하는 것을 약속하는 수 밖에 없었다」
92년, 93년에 일본이 사죄하고 있는 한가운데라도 한국의 학자는, 「의도적으로 사실을 왜곡하고 있다고 느껴지는 케이스」가 있었다고 쓰고 있는 것입니다.
이것은 40명을 대상으로 하고 있는 조사이었습니다만, 책에 정리할 수 있었던 것은 19사람이밖에 없었다. 반이상의 사람은 튕긴 것입니다. 게다가, 그중에서도 스스로 「강제」이었다라고 말하고 있는 사람은 단 4명입니다. 4명 가운데, 한사람은 한국의 부산(釜山)에서 「강제」되어, 이미 한사람은 일본의 도야마현(富山縣)에서 「강제」되었다라고 말하고 있다. 그러나, 전지가 아닌 곳에 군의 「위안소」는 없기 때문에, 그것만으로 이 증언이 이상한 것을 압니다.
뒤(후)의 한사람은, 일본정부를 상대どった재판으로 소장을 내고 있는 것입니다만, 소장에서는 모두 기생등으로서 「몸팔이」되었다고 쓰고 있다. 즉, 과거의 증언과 다르는 것을, 말하고 있는 것입니다. 이 두사람의 증언자 가운데, 한사람은 돈학순씨입니다.
이 「증언집」이라고 일본정부가 간 알아 듣기 조사와는, 중복되어 있는 부분도 있습니다. 그러나, 일본정부는 누구에게 알아 들어 조사를 했는가라고 하는 것을 밝히고 있지 않습니다.
안(安) 교수가 간 알아 듣기 조사의 「증언집」을 한국의 외무성의 과장이 일본의 외무성의 과장에게 「이것에 전부 들어 있습니다」라고, 이른바 보장에서 건네고 있습니다. 한국이 자신 있게 건넨 「증언」으로마저, 이러한 것입니다.
그리고, 요시미(吉見) 교수도 와다(和田) 하루키(春樹) 교수마저도, 조선인에게 대한 공권력에 의한 강제 연행은 증명되지 않고 있으면, 뒤에 이야기해도 있고, 써도 있습니다.
역인이 나라를 멸망시킨다
가토(加藤) 고이치(紘一) 총무부장관이 사죄를 하고, 미야자와(宮澤) 수상이 사죄를 한 후, 한국에서 「위안부 문제」가 과열하는 중에서, 나는 아직 길이 있었다고 생각합니다.
「오해다. 조사해 보았지만 권력에 의한 『강제 연행』이라고 하는 것은 없었다. 단지 위안소라고 하는 것이 있어서, 빈곤하게 궁하는 사람들이 업자에 의해 인신 매매 하게 했다고 할 것은 있었다. 그러한 인권침해에 대해서는, 도의적인 책임은 느끼고, 당사자에 대하여는 동정도 한다」라고 말하면 좋았습니다.
그런데, 정부는 일본의 반일세력이 만들어 낸 거짓말을 정정하는 노력을 하지 않고, 거기에 영합하는 것 같은 담화를 만들어서 사죄를 하고, 문제를 보류했다. 이것이 1993년8월4일에 내놓은 고우노(河野) 요헤이(洋平) 총무부장관에 의한 통칭 「고우노(河野) 담화」입니다.
머리가 좋은 역인이라고 하는 것은 완전히 굉장한 것을 생각합니다. 한국과의 관계상, 「강제」는 인정한 편이 낫다. 그러나 그러한 「사실」은 없다. 어떻게 할 것인가?
거기에서 그들은 「강제」의 의미를 넓히면 좋다고 생각했습니다. 즉, 「권력에 의한 강제」가 아니어도, 「본인의 의지에 뒤집은 것은 강제」다로 했다.
본인에게 인터뷰하면 모두, 혼났다라고 말하고 있다. 그러므로, 「본인의 의지에 뒤집어」 위안부로 되어진 것을 「강제」라고 해서 정의를 확대한 것입니다. 「본인의 의지에 뒤집어」 가난한 집에 출생 인신 매매 되었을 지도 모르고, 「본인의 의지에 뒤집어」 여자衒에 유괴되었을 지도 모른다. 그러나, 「본인들의 의지에 뒤집어」 위안부가 되었다면 「강제」라고 해석한다라고 하는 것은 한다. 이것이 아베(安倍) 총리가 지금 말하고 있는 넓은 의미에서의 「강제」입니다.
그러나, 공권력에 의한 조직적인 「강제」는 없었다고 하는 사실이 있다. 정말이면, 이 사실도 「고우노(河野) 담화」에 명기해야 하지요.
아베(安倍) 총리는, 「집까지 올라타 가서 사람사냥을 하는 것 같은 『강제』는 증명되고 있지 않습니다」라고 정확히 하고 있습니다. 「고우노(河野) 담화」를 계승하면, 하고 있는 중에서, 아베(安倍) 총리는 빠듯한 것을 말하고 있는 것입니다.
정부는 새로운 담화를 내기 전이라면, 앞의 담화를 답습하지 않으면 안됩니다. 「가토(加藤) 담화」가 있어, 「고우노(河野) 담화」가 있었던 것이기 때문에, 「시오자키(鹽崎) 담화」 「아베(安倍) 담화」가 있어도 좋다. 그러나, 아직 담화를 내기 전이기 때문에, 정부견해를 이어받는다라고 말하고 있는 것입니다.
나는 「고우노(河野) 담화」를 읽었을 때, 「강제」의 정의를 확대한 것이라고 느꼈습니다만, 아직 한쪽 발은 씨름판에 남아있다고 생각하고 있었습니다.
그러나, 「고우노(河野) 담화」 안에는, 「위안부의 모집에 관하여는, 군의 요청을 받은 업자가 주로 해서 이것에 맞았지만, 그 경우도, 감언, 강압에 의한등, 본인들의 의지에 뒤집어서 모아진 사례가 많이 개미, 게다가, 관헌등이 직접 이것에 가담한 적도 있었던 것이 밝혀졌다」라고 하는 한 문장이 있었다.
이것은 권력에 의한 「강제」를 인정하게 되는 것이 아닐까? 아베(安倍) 총리가 지금 하고 있는 좁은 의미에서의 「강제」도 있었다고 이 담화는 인정하게 되는 것이 아닐까? 거기를 정부는 정확히 설명하지 않으면 안된다고 생각합니다.
「고우노(河野) 담화」가 나와서 5년정도 단 때, 나카가와(中川) 쇼이치(昭一)씨가 회장이 된 「일본의 역사교육을 생각하는 젊은 의원의 모임」이 「위안부 문제」의 검증 작업을 했습니다. 나도 출석하고 있었던 것입니다만, 외정심의 실의 사람이 나오고 있었으므로 그 사람에게, 「이 『고우노(河野) 담화』의 관헌등이라고 하는 기술은 무엇인가? 이 기술이 문제라고 생각한다」라고 말하면, 「이것은 인도네시아에 있어서의 네덜란드인을 위안부로 한 사례다」라고 말한다.
조사해 보면, 몇개월입니다만 본인의 의지에 뒤집어서 네덜란드인을 위안부로 한 사례가 있었습니다. 그러나, 그 군인들은 인도네시아 주류군의 상부에서 군대의 규율 위반으로 처벌되어, 위안소는 폐쇄가 되었다. 처벌되었다라고 하는 것은, 조직으로서 「강제」하지 않고 있다라고 하는 것은 한다. 게다가 전후, 그 군인들은 BC급 전범으로서 사형등이 되고 있습니다.
꼼꼼히 조사해 보면, 이러한 인도네시아의 네덜란드인의 사례가 한 사건 있었던, 게다가 그것은 전쟁 범죄이었다라고 하는 것은 한다가, 이 한 사건밖에 없었던 것이라고 담화에는 명기해야 하지요.
「위안부」의 사람들에게 인권이 있는 듯이, 당사의 관헌에게도 인권은 있습니다. 단 하나의 사례로 마치 관헌이 조직조차 「강제」한 것 같이 받아지는 것은, 관헌의 인권침해입니다.
「고우노(河野) 담화」 안(속)에서는, 「관헌등이 직접 이것에 가담한 적도 있었다」라고 하는 기술로부터 일부러 단락을 바꾸고, 「한편, 전지에 이송된 위안부의 출신지에 대해서는, 일본을 별도로 하면, 한반도(朝鮮半島)가 사람 와な비중을 차지하고 있었지만, (중략) 대개 본인들의 의지에 뒤집어서 행하여졌다」라고 씌어져 있습니다. 즉, 한반도(朝鮮半島)의 사례에 대해서는 광의의 「강제」와밖에 씌어져 있지 않다.
역인이 생각하는 고토토이 우노는 완전히 무서운 것으로, 미야자와(宮澤) 수상이 사과한 것을 이상하다라고 말해지지 않도록, 그러나 증거가 나오지 않고 있는 것을 인정하지 않도록, 어느쪽으로부터 공격할 수 있어도 정확히 대답할 수 있도록 해 두면서, 문제는 보류하고 있다. 이러한 수재가 나라를 멸망시키는 것입니다.
정부일체에서 전모기대응을
그 후, 좌익이 유엔의 장소에 이 문제를 가져도 좋은, 유엔의 인권위원회에 요시다(吉田)의 증언등이 인용되게 된다. 일본은 유엔 가맹국이기 때문에, 정확히 공식적으로 반론하면 좋게 그것을 하고 있지 않습니다. 그러니까, 유엔의 공식문서로 「성노예」가 있었다고 하게 되어버리고 있습니다.
그리고 그것이 미국에 비화되었습니다. 미국의 화교와 미국 거주 한국인의 반일 네트워크가 이 10년 정도인 사이에 되어 있고, 그 뒤에는 한국의 좌익정권과 북한과 중국 공산당이 있습니다. 그리고 바우 인터넷에 대표되는 일본의 반일세력과의 제휴가 딸려 있다.
이번의 미국, 하원의 결의에 대해서 말하면, 사실이 증명되지 않고 있는 것에 대해서, 미국의 보수파도 が오해를 하고, 결의가 되려고 하고 있는데도, 가토(加藤) 대사는 결의를 관철하지 않아 달라고 사전 교섭을 하고는 있지만, 사실에 깊이 파고든 설명은 하지 않았습니다.
「일본은 역대의 총리가 사과하고 있다라고 하는 것에 대한 사실오인이 있다」라고 하는 변변치 못한 것을 말하고 있다. 즉, 「사과하고 있지 않다」라고 생각되고 있는 것이 사실 오인이다라고 말하고 있는 것입니다. 「고우노(河野) 담화」로부터 「무라야마(村山) 담화」, 역대의 총리가 아시아 여성기금에 돈을 낼 때 조린 사죄의 편지를 영역해서 나누어주고 있다.
이러한 파견 기관의 대처에서는, 「성노예」는 있었지만, 사과한 것이기 때문에 결의는 그만둬 달라고 말하고 있는 것에 마찬가지다.
그러나, 아베(安倍) 총리는 「위안부 문제」의 사정을 자주(잘) 아시기 때문에, 「좁은 의미에서의 강제는 없었다」라고 말하고 있으므로, 타국에서 보면 역대의 총리는 사과하고 있지만 아베(安倍) 총리로부터 사과하지 않게 되었다라고 하게 됩니다. 그리고 지금, 미국의 미디어로 아베(安倍) 공격이 시작되고 있다.
파견 기관과 아베(安倍) 총리의 발언이 여기까지 엇갈려버리면, 여기는, 역시 새로운 담화를 내고, 국제적인 오해를 풀어야 합니다.
아베(安倍) 총리는 지금, 「위안부 문제」에 대해서 단독이어서 싸우고 있습니다만, 행정의 최고책임자이기 때문에, 관저(官邸)에도 외무성에도 명령하고, 정부 일체가 되어서 문제를 보류하는 것을 그만두고, 국제적 오해를 풀기 위해서 전력을 올려야 합니다.
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