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日韓併合時代に『ハングル・朝鮮語禁止された<丶`∀´>謝罪と補償を要求ニダ』は嘘。
こちらで、当時の教科書がみられます。
朝鮮総督府編纂教科書
【日韓掲示板thread】韓国人のハングル自慢の起源に対して調査した.
日帝時代朝鮮語研究が分かりたかったからインターネットで大学図書館で '朝鮮語'という核心語で検索して見た. 小倉新ペイ教授はおおよそ 40冊の本を著わした. ハングルのお父さんに尊敬されている周時経はただ 10冊の本を著わしただけだ. 崔磯培は 50冊の本を著わした. 周時経の弟子の中に一番すぐれた人は崔磯培ではなく北朝鮮のギムドボングだと主張する人も多い. 李煕昇に対してはこのごろ親日派という論難もあるようだ. 言語を単純に言語として研究することができずに民族に連結させなければならなかったことは悲しい事だ. しかし朝鮮語研究が京城帝国大学と東京大学の教授を皆歴任した立派な言語学者だった小倉新ペイ教授から始まったということはハングックインエゲヌンメウ幸運だと言える.
朝鮮総督府の教育が、ハングルを普及させた
日本の左翼及びこれに呼応する韓国の民族主義者は、「日帝三十六年」の「七奪」の一つとして、朝鮮人の言葉を奪ったという批判が罷り通っている。実は南総督以後、非常時に際しての「国語(日本語)」の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、この見方は「真っ赤な嘘」である。
日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、朝鮮民衆を徹底的に日本化、つまり「愚民化」に重点を置いて展開したとか、「日帝三十六年」の教育政策によって、戦後の韓国人は、どうしようもない状態に陥った、などの見方も歴史歪曲である。
朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南総督でさえ、朝鮮人からの朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。
たとえば、「日本人以上の日本人」といわれた玄永燮や、「三・一独立運動」で33人の民族代表の一人であった朴煕道は「朝鮮語使用の全廃」を主張していたとき、南総督は、むしろ反対してこう語っている。
「朝鮮語を廃止するのは善くない。可及的に国語(日本語)を普及するのは善いのだが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解される事がしばしばある位であるから、それは出来ない相談である。(林鐘国著:親日派)」
私には、進歩的学者(反日的日本人)の間でよく云われている「対朝鮮教育侵略政策」「苛酷な民族性抹殺の教育政策」とは、一体どういう教育政策を云うのか、理解するのが難しい。
日本統治下の朝鮮社会では、日本語の普及率が台湾の70%に比べると極めて低く、20%にも達していなかった。言語的基盤から見ても言語使用禁止は、実質的には不可能であり、禁止されていなかった反証にもなるだろう。
ハングル使用に抵抗したのは、むしろ両班であった。そこで、金沢庄一郎、小倉進平両博士を中心とする日本人学者達は、近現代朝鮮語を科学的に体系化し、言語として完成させたのであった。
小倉進平博士の「朝鮮語学史」によれば、清国の文化支配から離脱し、独自性を強調するために、国字、国文の使用を鼓吹し、諺文を奨励し始めたのは、 1897年からであるという。この時から公文書は漢文を止め、漢字、諺文交じりの新訂国文を公布し、使用を奨励するようになった。
諺文(ハングル)は、基本的に漢字の構成法を真似して上下や左右に一つの文字として組み合わせて書いて一語を表す。初級教育する場合は、とても難しく、児童は漢字を学ぶのとほぼ同じ位苦手であった。朝鮮人児童は、むしろイロハ文字(日本語仮名文字)の方を喜んで学び、上達するのも早かったと云われている。
日韓併合当時、朝鮮社会の近代的学校数は、文字の読み書きのみを教える書堂や教会学校を除いて、極めて少なかった。総督府の統計年報によれば、官公私立を合わせても、173校、589学級、総生徒数は20194名(内女子1274名)に過ぎなかった。当時の郡の数は371、府・邑・面(市町村)の数は 4362もあったから、25面(村)で1校の割合であった。
当時、「書堂」が「学校」として認められなかったのは、1918年の調査によれば、その89%が、漢文のみを教える伝統的書堂であったからである。「千字文」、「史略」などの初歩入門書を教えたようだ。当時、アジア諸国では、もはや近代的学校教育制度を確立しなければ、時代遅れになるという自覚が、既に生れつつあった。だから、中華民国も辛亥革命後、当時の教育総長・蔡元培はすぐ、近代学校教育を取り入れ、ことに五・四運動以後、「打倒孔家店」をスローガンとして、伝統的儒教教育を棄てようとしていた程であった。
寺内総督は着任1年後の1911年8月に、朝鮮教育令を公布し、「朝鮮語及び漢文」、「諺文より始めて、漢文交じり文及び平易な漢文」を教育する事を決めた。
漢文を教えるのは、朝鮮の文化は漢文の文化であったからである。日常の手紙も漢文で書き、朝鮮の知識人は、朝鮮文字(諺文:ハングル)では手紙すら書けなかった。だから双方を教えざるを得なかったと、当時の学務課長・弓削幸太郎が「朝鮮施政史」に書いている。日本人子弟にも同じ朝鮮語科目を設けていた。
総督府は明治44年に、「諺文綴字法研究会」を作り、現代ソウル語を標準語として「普通学校用諺文綴法」を決定し、教科書として採用した。当時、諺文は、国字・国文としての言語体系としては未熟であり、そもそも「婦女子用」のものだから、教材として使える典籍は極めて少なく、当時の教育関係者には、苦労談が多かったという。
斎藤総督の時代には、小学校、中等学校、高等学校の日本人にも朝鮮語を教えていた。
ソウル語を標準語とする朝鮮語が、朝鮮社会に教育を通じて広まったのは、李朝時代ではなく、朝鮮総督府の教育によってである。
朝鮮総督府時代、朝鮮人がいかにも救国教育運動に熱心であったかのように言われるが、実際はそのようなものではなかった。大多数の農民にとって、読み書きが出来るからと言って、どうという事はなかった。児童でも薪拾いの大切な労働力だから、むしろ学校へ無理やり連れて行かれるのを嫌がった。だから校長が各農家を回り、父母を説得するのが大変であったという。
それでも、どの総督も学校教育に熱心であった。寺内総督の時代には1郡1校主義で小学校の増設が図られたが、斎藤総督の時代になると、1面(村)1校主義で増やし、高等教育も普及させ、大阪大学や名古屋大学よりも先に京城帝国大学まで創った。
総督府時代でも、朝鮮人は両班時代以来の儒教思想の影響が強く残り、自分では何もせずに他人に全てを遣らせていた。だから、大学では、理科系より法文系が好まれ、実学よりも空論が三度の飯よりも好きであった。
朝鮮文字・ハングルは、実学教育に於ける言語媒体として用いるのが極めて難しかった。表記法が一定されていなかったので、不便極まりなかった。初めての「国語辞典」として、文世栄編「朝鮮語辞典」が出たのは、日帝時代の1939年であった。東アジアの国の中で創出された文字としては、最も遅れており、すでに千年以上前の唐の時代に創られていた日本文字、ウイグル文字、契丹文字、女真文字、西夏文字等々に比べ、極端に遅い。しかも、創出の時から朝鮮の知識人から排斥され、「婦女子のもの」に止まって、国字・国文としての体系化が遅れ、歴史的な諸知識の蓄積がかなり遅れたので、近代教育の言語媒体としては極めて不便であった。
日本は大正8年、原敬内閣の時代から「一視同仁」の差別撤廃政策を唱え、支那事変以後の南総督の時代には「皇民化運動」を進めるようになった。昭和13 年(1938年)からの教育は、朝鮮教育令が全面的に改正され、日本国内と全く同一内容となった。その後の朝鮮語教育も「必修科目」として強制しなくなっただけであり、国語としての日本語の使用奨励があったが、朝鮮語の使用は禁止されていなかった。
総督府時代は、「国語」である日本語と「朝鮮語と漢文」は並列に教えたのが史実であった。「国語」重視は何処の国でも同じである。
ソース
http://japanese.joins.com/forum/board/view.php?no=39962&page=1
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