java

Wednesday, June 27, 2012

The history of aluminum and tin

戦争時代の日本人 Wartime Japanese Attitudes Towards Korean - An Interview with One Japanese

since i am blocked from you,then i put up my comment to you on my blog.

hi,Victor san. i am sorry for my poor english. i love USA since i had have homestay in SF in my younger days. the hostfamily and every US people are very kindness.i guess you are nice people in fact, if i meet you actually,i would feel that you were very friendly and fun man.

thank you,no problem,i don't need to go your english school. i study english German and French from my friends by free in Aiko dojo or tea ceremony class, American,english,canadian,Australian,and swiss.

i'd like to issue that japanese should study with toefl books or listening news on TV. i guess english education in japanese middle or high school is wrong and not valued. as same as just going to english school for daily conversation is waste of money or times. some english teacher in japan have some problem, they deceive younger women,take sex scandals, smoking hassisi and recommend to japanese students. but it is to each person's own.

speaking english well is good,it could be made life-enriching, good relationship. but the most importance is not to do with harassment,without annoying the hell out of people. many women are fun with AKB48 too,they are like my neighbor's daughters. for example, if i live in US, to make and up the movie by japanese about Michelle's sex scandal and the problem in Harriwood, US women are very cock-happy, you or US people would be embarrassing. japan has a lot of problems but we are apt to be irresponsible, so we welcome that foreigners indicate and teach us. all the more, you should think or care more deeply about contents of your movies.
thank you for visiting my blog, i am writing about the history of aluminum and tin in japan for you. i would be very glad if you check it,thank you.

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i heard that Victor Boggio who is owner of "ACTION! Language Academy" in Nagoya is one of the white terrorists of "Tokyo train Halloween party". the party is held in each year on Halloween day, white trash people make mob, hijack the train, making big loud bang, smoking and drinking in train or station,destroy the public lights or windows, rape women around 19:00~midnight in Tokyo yamanote line,but white Americans or Australians say that the acting are just for party.

i don't like to distinguish for skin color, but i had never seen that in the riots there has no black people or Iran Iraq people.
white American or Australian resident in japan or Iran people, which people is gentle in Japan????? the answer is that most problem people in japan is some white Americans like Victor!


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hi,Victor san. i am studying about the history of aluminum and tin in japan for you.i am fed up you, also think its waste of time,but i have to work for fighting against typical American's harassment.

http://www2.ocn.ne.jp/~ricky.mv/private_room/hisako/hisako_memo02.html
http://10.pro.tok2.com/~phototec/ration/hangou1.htm
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110539_00000
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/toshokan/hakken-taisho2.html
http://canzume100.blog39.fc2.com/blog-category-24.html

http://canzume100.blog39.fc2.com/blog-entry-131.html#more


太平洋戦争時、資源のない日本は重度の金属不足に見舞われました。
物資の統制が強化され、ブリキ缶の使用が禁止となり、
紙製の缶や陶器製の缶が、ブリキ缶の代用として出回ったそうです。
今回は、最近入手したその陶器製の缶詰代用品
「防衛食」をご紹介したいと思います。




容器には「防衛食」「大日本防空食糧株式会社」
「社長 小澤傳七郎謹製」と書かれています。
この容器は、元は名古屋の陶器会社が開発したものとのこと。
密封方法は、蓋にゴムパッキンを噛ませ容器と圧着させた後に、
熱湯と冷水を使い加熱と冷却を行い、内部を真空にしていたんだとか。
中には当初、肉系の物が詰められていたとのことですが、
物資が不足してからは、魚や豆等が入れられたそうです。

蓋は真ん中に窪みがあります。
「フタヲトルニハ釘デクボミニ穴ヲアケ」との説明が書かれており、
穴を開けることで内部に空気が入り、
蓋が開く仕組みとなっているようです。

蓋の裏側はこんな感じ。
流石に古い物なのでパッキンはありません。
この蓋には穴が開いていないので、
未使用もしくは密封状態が悪くて開いてしまったもの可能性がありますね。

外側には釉薬が掛かっていますが、
蓋や容器の中側は無釉となっていました。
調べてみると、防衛食容器にもいろいろ種類があり、
ちゃんと中にも釉薬がかけられた物もあるようです。
焼き窯などによって違いが出ているんでしょうか。

底には「防1」と菱形の印が押されていました。
これは中身と焼き窯をあらわしているんですかね?
調べてみてもよく解りませんでした。

ちなみに、この容器は大変な珍品ぽいですが、
当時かなり多く出回っていた品らしく、
骨董市やネットオークションなどで、
意外と安く簡単に手に入れることが出来ます。
日本の缶詰史を知るための資料として、
または、戦時中の生活や苦労を知るための資料として、
一つぐらい持っておいても悪くないと思いますよ。


http://unkar.org/r/news/1261186643

戦時中に木造ヘリコプターを完成させてたなんて旧日本軍の技術力って最強すぎだろ・・・
1 : 黒板(愛知県)[sage]:2009/12/19(土) 10:37:23.34 ID:tZxIziNE ?PLT(12001) ポイント特典


太平洋戦争中にひそかに開発されていた国産初の木造のヘリコプターが、実験中に短い時間、
浮き上がっていた可能性があることがわかり、その調査結果を紹介する展示会が19日から
東京で始まります。

この展示会は、調査を行った日本航空協会と国立科学博物館が開くものです。国産初の
ヘリコプター開発は、太平洋戦争中に当時の横浜高等工業学校の廣津萬里教授らが陸軍の
要請で行っていましたが、開発中に大破したため、実際に飛行したかどうかは明らかに
なっていません。

関係者の証言とともに、廣津教授の遺品から見つかった写真や図面などの資料を航空工学の
専門家に分析してもらった結果、木造のヘリコプターが実験中に短い時間、浮き上がっていた
可能性があることが新たにわかりました。

展示会では、廣津教授の遺品やヘリコプターを再現した16分の1の模型とともに、今回の
調査結果をまとめたパネルが展示されています。日本航空協会の長島宏行さんは
「物資がないなかで、創意くふうをしてここまで本格的な開発を行っていたとは驚きだ」と話しています。

この展示会は東京・上野の国立科学博物館で19日から来月24日まで開かれます。

http://read2ch.com/r/army/1257003033/


http://blog.goo.ne.jp/enagoya/e/b342dfb3749972890d12cc42cc1691b7



http://www.takuhai-gyunyu.com/dictionary/history/index02.html





1866年(慶応2)、千葉から横浜に移った前田留吉が、和牛6頭を飼って始めたのが、日本の搾乳の始まりとされています。しかし、当初の牛乳は日常的に飲む飲料とは言えず、滋養の高い「薬」のようなものでした。
店頭での量り売りのほか、明治時代から牛乳の宅配は行われていたようです。しかし、専用の容器に入れて配達したのではありません。牛乳が入った巨大なブリキの輸送缶に、ジョウゴと柄の長い杓子(しゃくし)をかけて訪問し、お客が出す鍋やどんぶりなどの容器に、5勺(約90ml)単位で量り売りしていました。
最初の宅配牛乳専用の容器は、右の写真のような小さなブリキ缶でした。初めは口を紙で包んでいましたが、後に口を木やコルクの栓でふたをするようになりました。一部では陶器製のびんもあったようです。

●ブリキ製の牛乳容器(明治時代)
コルク栓で手持ちがついており、いかにも「薬」の容器らしい。※現物はトモヱ牛乳博物館に展示してあります。

http://www.h6.dion.ne.jp/~hsadao/kurasi/kurasiotaru.html

http://www.maboroshi-ch.com/old/cha/sae_20.htm


http://www.sunrise-pub.co.jp/category/komazarae/page/2/


其の三十五 従軍看護婦の召集令状

戦時中、日赤の看護婦さんたちには、兵士と同じように召集令状が届きました。戦場でケガや病気をした兵士の看病をするため、救護班として出征したのです。通称「赤紙」と呼ばれ、東浅井郡浅井町野瀬出身の妹尾とみさん(77歳。現在は長浜市在住)が保存しておられたもの(写真)も兵士の場合とは書式や大きさが異なりますが、淡い赤色をしています。
昭和19年3月、京都第二赤十字病院看護婦養成所(現・京都第二赤十字病院)を卒業したばかりの同年4月にこの紙を受け取ったとみさんは、任地先となった広島県の呉海軍病院(現・独立行政法人国立機構呉医療センター)へと向かいました。とみさんは、戦地へ行くことを「お国のために役に立ちたいという一心で、こわいとは思わなかった」と振り返ります。呉海軍病院では、ひたすら傷病兵の看護にあたりました。サイパン島玉砕後の負傷兵は、大半が熱傷で、顔面手足の皮膚はひきつり、耳の中にはウジがわき、それは悲惨な状態だったそうです。
しかし、暗いことばかりではなく、病院で患者慰問演芸会が催され、とみさんは、同室の看護婦平井さんに教えてもらった「白頭山節」(中国と北朝鮮の国境にある白頭山を讃えた民謡)を披露しました。「白頭御山に積もりし雪は溶けて流れて……可愛い乙女の 化粧の水」。今では、とみさんの十八番になっています。 同じく召集を受けた浅井町谷口の清水コシズさん(78歳。旧姓北川)は、昭和18年3月に召集、4月には中国済南病院の看護婦として勤務することになりました。病院には毎日毎日トラック何台分もの負傷兵が運ばれ、手術のない日はありませんでした。瀕死の兵士が寝ずの看病で回復して喜んだのもつかの間、再び前線へ送ることにはむなしさを感じたそうです。
翌年にはコシズさんも遺書を書き、遺髪とともに故郷へ送っています。「御母様 最後に一言御礼を述べさせて戴きます」と始まる遺書は便箋3枚(11ページ写真)。終戦の翌年、昭和21年4月になって、ようやく故郷に帰り着きました。そこには、軍服を着て、髪を短くしたコシズさんの姿がありました。2年後に結婚したコシズさんは、嫁ぎ先でも遺書と遺髪を大切に保管し続けてきました。
お市の里 浅井町歴史民俗資料館 冨岡有美子
新撰 淡海木間攫

http://hisakobaab.exblog.jp/i14/2/

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