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Friday, September 9, 2011

元寇史料館 Historical Museum of Mongol invasions of Japan


http://blogs.yahoo.co.jp/oosakabayatc/folder/843410.html

The Mongol invasions of Japan (元寇 Genkō) of 1274 and 1281 were major military efforts undertaken by Kublai Khan to conquer the Japanese islands after the submission of Goryeo (Korea) to vassaldom


http://blogs.yahoo.co.jp/atcmdk/53883944.html

元寇における日本の被害

文永の役における日本側の被害について、具体的な記録は実はそう多く残っている訳ではない。そのなかで比較的具体的な内容を取材している資料として早くから知られているのは、日蓮の書簡のうち、文永末年から建治弘安年間の初期に書かれた一連のものである。
現在伝世している日蓮の書簡のうち、特に文永の役での対馬や壱岐についての被害を述べた有名なものとしては、建治元年5月8日に佐渡の一谷入道日学の女房に宛てた、いわゆる「一谷入道御書」がある。それによると、《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》[94]






「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれており、壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた、とある。
明治中頃に日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した山田安栄 編の『伏敵編』(1891年)には、「按(あんずるに)」として、『高祖遺言録』載録の上記の「一谷入道御書」と室町時代後期に描かれた円明院日澄『日蓮註画讃』(後述)に記述されているこれらの事柄について、編者山田安栄のコメントがある。
山田安栄はまず、『太平記』に「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」との記述と比較しつつ、
「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」
と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と書かれているものであると文中の意味内容を明確にして説明している。

さらにここでは、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている[95]

まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している。

室町時代の円明院日澄(1441年 - 1510年)の撰になる『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』には、文永・弘安の役について「一谷入道御書」その他一連の日蓮の書簡類や『八幡愚童訓』の記事に多くを依拠しつつ、
「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」
「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」
とも書かれている。[97]

また同じく建治元年8月に出された「乙御前御消息」では、
《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)[98]とある。



なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。『八幡愚童訓』の文永の役の件においても「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある[99]
『高麗史』や『高麗史節要』などの文永の役後の記事に童男女が俘虜として高麗国王等へ献じられたという記述が見られるため[33]、「男女」が「捕らる」とあることから対馬や壱岐の住民も捕囚され連行されたものと考えられる。


その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。
モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。



http://blogs.yahoo.co.jp/atcmdk/53883925.html
その後の経緯
元側の状況
1287年クビライは本格的に三度目の日本侵攻を計画し、一旦解散した征東行省を再度開設し、翌年の1288年には高麗国王である忠烈王が征東行尚書省左丞相に就任した。
同年の1287年、高麗北方の遼陽行省を中心にクビライ政権の支柱のひとつである東方三王家の首班ナヤンが反乱を起こした。
クビライの親征により反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、この戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族カダアンが蜂起。
1290年代にはカダアン一派が高麗領に侵入し、いくつかの城塞が占拠され、一部は開城より南の忠州まで侵入された。カダアン一派の反乱軍も大元朝からの援軍もあって鎮圧されたが、ナヤンの反乱の時には西方のカイドゥカラコルムを目指して進撃しており、1280年代後半から1290年代初めにかけて、大元朝の東部全域から北部、特に高麗内外では騒乱が続いた(ナヤン・カダアンの乱)。
またモンケの時代に服属していたベトナム陳朝大越国でもチャンパー遠征軍に対して過剰な物資徴発に抗議して太上皇となった陳聖宗が中心となって反乱を起こした。特にベトナムでの反乱では両軍激しい消耗戦となり、最後に大元朝軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている。
これらの南方での軍事的な失敗などもあって日本へ軍が出せる状態ではなくなったともされるが、クビライはナヤンの反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝やチャンパー、また1290年代に遠征があったジャワ(シンガサリ朝マジャパヒト朝)でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。
これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、このため、クビライ治世末期には南方への大元朝からの軍事的脅威はほぼ解消した。
瑠求侵攻と正安の蒙古襲来
1291年9月、元は6000の大軍で瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画をたて[65]、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻[66]。なおこの「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説ある[67]
クビライは晩年まで三度目の日本遠征を計画していたようだが、1294年1月に没する。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおテムルは、1298年(大徳二年)、日本遠征計画を取り止める意向を述べており[68]、実質上クビライの死と共に日本への遠征計画は潰えた。
正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり[69] 、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある[70]
日本側の状況と蒙古襲来の影響
文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。
弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされず、全国から九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。

文永の役に先立つ文永8年10月25日に、後深草上皇石清水八幡宮行幸して異国の事について祈願しており、文永の役の時には11月6日に「異賊の艦船が大颶風にあって悉く漂没した」との知らせが京都にもたらされると、翌々日の8日には亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。
翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿殿上人、北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。

朝廷や幕府は、蒙古からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮住吉大社厳島神社諏訪大社東大寺延暦寺東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。
また一方、当時の日本に「蒙古に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏祈祷による結果である」との認識が広く存在していた。
実際に弘安4年から翌5年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。
そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていったというのが定説であったが徳政令により御家人階層の出費は棒引きにされたのだから元寇が鎌倉幕府滅亡の直接の原因とは言えないと考えられるようになってきた。




壱岐にはいたるところに元寇史跡があります。







日本人ならば、福岡県庁隣の元寇資料館に一度はいってみるべきです。





鷹島の歴史民俗博物には、元軍の大将の印璽があります。


鷹島歴史民俗資料館と鷹島考古学研究センターで元寇の実物を確認できます。






"Ichinosawa Nyudo gosho"

『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された。

日本の被害
現在伝世している日蓮の書簡のうち、建治元年5月8日に佐渡の一谷入道日学の女房に宛てた、いわゆる「一谷入道御書」によると、
《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫に寄セテ有シニ、対馬の者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人も助かる者なし、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。
そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれており、壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた、とある。
明治中頃に日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した山田安栄 編の『伏敵編』(1891年)には、「按(あんずるに)」として、『高祖遺言録』載録の上記の「一谷入道御書」と室町時代後期に描かれた円明院日澄『日蓮註画讃』(後述)に記述されているこれらの事柄について、編者山田安栄のコメントがある。
山田安栄はまず、『太平記』に「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」との記述と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と書かれているものであると文中の意味内容を明確にして説明している。
さらにここでは、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している(しかしながら、近年の研究によると、「捕虜の手に穴を開けて連行する」というショッキングな内容にもかかわらず、「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡には対馬や壱岐などでの住民の連行などに対する蒙古への非難はある。

室町時代の円明院日澄(1441年 - 1510年)の撰になる『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』には、文永・弘安の役について「一谷入道御書」その他一連の日蓮の書簡類や『八幡愚童訓』の記事に多くを依拠しつつ、「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付け   。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」とも書かれている。

また同じく建治元年8月に出された「乙御前御消息」では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。
『八幡愚童訓』の文永の役の件においても「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。

『高麗史』や『高麗史節要』などの文永の役後の記事に童男女が俘虜として高麗国王等へ献じられたという記述が見られるため、「男女」が「捕らる」とあることから対馬や壱岐の住民も捕囚され連行されたものと考えられる。
その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。
モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。

また元寇への復讐や、元や高麗によって連行された日本人を取り返すために倭寇の活動がおこったと言う説がある。

蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする兵と戦った。
高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて船の舷に吊るし矢除けにしたと伝えられている。
さらに博多に元軍は、上陸し博多に火を放ち、博多の町は灰塵となった。
また、女や子供は捕虜にし、高麗軍に連れ去られ献上された。


http://blogs.yahoo.co.jp/atcmdk/53883913.html

壱岐・対馬の無残
『日蓮註画讃』
『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』
「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも
「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上したと。
『高麗史節要』
『俘童男女二百人献王及公主。』
また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」
とある。
百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

興味あることに、現代においてもそれがかの国には残っていることが韓国の新聞に報道されている。(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/04/24/20020424000001.html)
朝鮮日報2002/4/24付
それによれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30~40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

まことに、想像するのも寒気がする光景である。拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。
先の『高祖遺文録』は、
『皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず。』と結んでいる。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm







山本周五郎「壱岐ノ島」(長崎県観光)



『고려(高麗)사』 및 『원래사』에 의하면, 고려(高麗)의 조(趙)⊙(관료)이나 왕세자(이후의 충렬왕의) 집요한 요청이 있었기 때문, 일본 침공이 결정되었다.

일본의 피해 현재 연고세상 하고 있는 날연의 서간 가운데, 다테(建) 오사무(治) 원년 5월8일에 사도(佐渡)의 1산골짜기입도(출가)일학의 마누라에게 보낸, 소위 「1산골짜기입도(출가) 서」에 의하면, 《去후미(文) 히사시(永) 11년(후토시(太) 나이갑무) 10월 【니】, 몽고국【요리】쓰쿠시(筑紫)에게 야도리키(寄)【세테】다모쓰(有) 신이, 쓰시마(對馬)인【가타메테】유【시】, 총말할아버지 (그렇게 하옇든 じょう)등 도주(도망침)【게레하】, 백성등【하】남자【오하】 어떤 8죽이기【시】, 어떤 【하】생取 (생포해) 니시, 여자【오하】 어떤 【하】取집 (한데 모아) 【데】, 손【오토오시테】배【니】결부 (결부시켜) 어떤 【하】생取니스, 한사람도 편해지는 사람없슴, 이키(壹岐)【니요세테모】또 如옳음 (또 이와 같이),》 「백성」=일반인은 「남자【오하】 어떤 【하】죽이기【시】, 어떤 【하】생取니시」て 있는 상황과 함께 「여자【오하】 어떤 【하】取집【데】, 손【오토오시테】배【니】결부, 어떤 【하】생取니스」라고 있다.
그리고, 「남자」와 「여자」에 묶이는 것일까, 「한사람【모】조 칼(Cal.)자없음」이라고 씌어지고 있어, 이키(壹岐)에서도, 같은 잔학한 처사가 행해진,이라고 있다.
메이지(明治) 중간에 일본 내외의 몽고내습 관계의 사료를 수집한 야마다(山田) 안(安) 사카에(榮) 편의 『후시(伏) 적편』 (1891년)에는, 「按 (염려하는 것에)」라고, 『고조유언 녹』재록의 상기의 「1산골짜기입도(출가) 서」라고 무로마치(室町) 시대후기에 그려진 마도카(円) 아키라(明) 원일 기요시(澄) 『일 연주획(화) 산(讚)』 (후술)에 기술되고 있는 이 사항에 대해서, 편자 야마다(山田) 안(安) 사카에(榮)의 코멘트가 있다.
야마다(山田) 안(安) 사카에(榮)는 우선, 『태평(太平)기』에 「손바닥【오】연색【시테】현(舷)【니】관【네타리】」와의 기술과 비교하면서, 「색【오】以【데】손머리【도】손머리【오】연결【시타루니】비【스시테】. 여자포로【노】손손바닥【오】穿상처【시】. 색【오】관【기】현(舷)끝(가장자리)【니】유이(結) 저【시타루오】謂【후나리】. 」이라고 말하고, 포로가 된 사람들의 손목끼리를 줄이나 줄로 결부시키고 있는 것이 아니고, 손바닥을 뚫어서 상처을 입혀 거기에 줄을 가로질러 통과시켜서 그것들의 사람들을 현(舷)끝(가장자리)에 묶은,이라고 씌어져 있는 것이다라고 글 중의 의미 내용을 명확히 해서 설명하고 있다.
게다가 여기에서는, 『일본서 기』의 덴지(天智)천황의 시대(662년)에 대해서 씌어진 고려(高麗)의 전신의 국가인 「백제(百濟)」에서의 사례를 증거로 삼아 「 사람 손바닥【오】穿상처……」 (손바닥에 구멍을 뚫어서 거기에 줄을 통과시킨다」의 뜻)운운의 방식을, 한반도(朝鮮半島)에 있어서 고래부터 계속되는 전통적 행위라고 하고 있다.
정말로, 이 잔학행위를 증거로서 고려(高麗)인의 소행(짓),과 편자는 판단하고 있다. 날연은, 쓰시마(對馬)나 이키(壹岐),혹은 규슈(九州) 본토에 있어서의 참극을 『고조유고녹」의 각개소에서 언급하고 있다 (밖에 하면서, 최근의 연구에 의하면, 「포로의 손에 구멍을 뚫어서 연행한다」라고 하는 shocking한 내용임에도 불구하고, 「1산골짜기입도(출가) 서」이후의 날연의 서간에는 쓰시마(對馬)나 이키(壹岐)등에서의 주민의 연행등에 대한 몽고에의 비난은 있다.

무로마치(室町) 시대의 마도카(円) 아키라(明) 원일 기요시(澄)(1441년-1510년)의 선이 되는 『날연주획(화) 산(讚) 권 제5 「몽고來」편』에는, 후미(文) 히사시(永)·히로시(弘) 안(安)의 역에 대해서 「1산골짜기입도(출가) 서」기타 일련의 날연의 서간류나 『맹세코 우아동훈』의 기사에 많이를 의거하면서, 「2도 백성등 남자는혹은 죽이기혹은 포로, 여자는 한 곳에 모으고, 손을 도오루(徹), 현(舷)에 유이(結) 붙어라. 히젠국 마쓰우라(松浦)당 몇백명伐포로 떠난다. 이 나라의 백성남녀등, 이키(壹岐)·쓰시마(對馬)의 如 하고,」 「모두인의 당시의 이키(壹岐) 쓰시마(對馬)의 모양이 되게 해급 (탄알)씨 것思말라 해 철(후)에 ば눈물도 머물지 않고. 」과도 씌어져 있다.

또 같이 다테(建) 오사무(治) 원년 8월에 내놓은 「을너 소식」에서는, 《이키(壹岐) 쓰시마(對馬) 9국의 병사 및 남녀, 많이 혹은 죽음을 당해 혹은 擒 (과)들 れ 혹은 바다에 들어가 혹은 벼랑보다 떨어져 () 통치해 사람 몇천만과 云ふ것없슴. 》 (동(同)오른쪽서)로 있다. 한편, 쓰시마(對馬)→이키(壹岐)를 침범한 후, 전(元)함선대는 다카시마(鷹島)에 향했다. 그리고, 상륙군을 올리고 있다.
『맹세코 우아동훈』의 후미(文) 히사시(永)의 역의 건(件)에 있어서도 「(후미(文) 히사시(永) 11년 10월) 동(同)16일, 17일 히라토(平戶) 노코(能古), 다카시마(鷹島) 근처(변) (당)의 남녀 많이 포(호랑이わ)らる. 마쓰우라(松浦)당 패배한다. 」이라고 있다.

『고려(高麗)사』나 『고려(高麗)사 절요점』등의 후미(文) 히사시(永)의 역후의 기사에 아동남녀가 포로로서 고려(高麗)국왕등에 바칠 수 있었다라고 하는 기술이 보여지기 때문, 「남녀」가 「포들 る」이라고 있는 것부터 쓰시마(對馬)나 이키(壹岐)의 주민도 포수 되어 연행된 것과 생각된다.
그 후의 일본에서는, 전(元)寇의 때, 몽고·고려(高麗)군이 일본을 습격해 학살을 간 것을, 「몽고 고구려(高句麗)의 귀신이 온다」라고 해서 두려워한 것부터, 변해서 무섭지만 대표로서 어린이의 가르치는등에서, 「벌떡 고백하고, 귀신이 온다」라고 위협하는 풍습등이 되고, 요괴에게 변해서 전국에 펼쳐졌다.
【못코】의 자장가(아오모리현(靑森縣) 기즈쿠리마치(木造町))과 같이 「울면 산 찌꺼기【못코】 오네요, 泣이 자기에서 잠해 な」등이라고, 옛날의 몽고내습의 무서움을 자장가로 한 것등, 상기의 잔학행위에의 공포를 증명하는 민속은 전국에 존재한다.

또 전(元)寇에의 복수나, 원래나 고려(高麗)에 의해 연행된 일본인을 되찾기 위해서 왜구의 활동이 일어났다라고 말하는 설(說)이 있다.

몽고내습에 있어서는 고려(高麗)군도 남송인과 함께 尖병사로서 일본에 공격해 들어가고, 이키(壹岐)·쓰시마(對馬)나 하카타(博多)에 있어서 규슈(九州)의 댁인을 중심으로 하는 병사와 싸웠다.
고려(高麗)군은 이키(壹岐)·쓰시마(對馬)의 국민의 남자는 죽이고, 여자는 손에 구멍을 뚫어서 배의 현(舷)에 달아 매 화살 옮기러 했다고 전해지고 있다.
더욱 하카타(博多)에 원래 군은, 상륙해 하카타(博多)에 불을 떼어 놓고, 하카타(博多)의 도시는 회진이 되었다.
또, 여자나 어린이는 포로를 시키고, 고려(高麗)군에 데려 가버려 헌상되었다.

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