南朝鮮棒子YY劇 神機箭 中文字幕
満州に朝鮮人が多数住み着いている理由
満州に朝鮮人が多数住み着いている理由 その1 ~度重なる満州への侵入~
旧満州の一部、現在の吉林省の北朝鮮との国境付近に「延辺朝鮮族自治州」なる行政単位が存在する。この地域について、一部の韓国人が「領有権」を主張しており、日本人の中にはよく調べようともせず、鵜呑みにしてしまう人も多いようである。韓国が自国史に編入しようと企んでいる高句麗の故地であったことも影響しているようだ。しかしながら、朝鮮人がこの地域に住み着くようになったのはそれほど古い話ではなく、つい最近のことである。
李氏朝鮮成立当時、現在の北朝鮮に相当する地域の殆どは女真族の支配下にあった。その後頻繁に北方への侵入、掠奪、占拠を続け、遂には現在の中朝国境である鴨緑江や図們江を越えて女真を襲撃するまでになったが、逆に女真族の建設した後金(後の清)による2度に亘る朝鮮征伐を受けて、これに服属することになった。にもかかわらず、その後も朝鮮人たちは清に侵入しては掠奪や殺人を繰り返した。以下主なものを3件ほど挙げておこう。
1655年9月2日、「慶源府」軍官祭允立率いる朝鮮兵90人が材木を伐採すべく潜かに越境して木を盗み、清人2人が牛を貿いて去るに逢い、牛を奪って2人を殺害したため、清の使者呉拝が朝鮮に犯人の処罰を要求、これに従って朝鮮は祭允立を処刑した。
1690年9月11日、「咸鏡道」民10余人が清に侵入し、清人を砲殺して、その採取した人蔘を強奪した。
1704年2月23日以前、「慶源府」民金有一等が清に侵入し、清人3人を殺害してその財物を掠奪した。(続く)
満州に朝鮮人が多数住み着いている理由 その2 ~定界碑設置~
1710年11月9日頃、「渭原」(平安北道)の民李万成、李万枝、李俊元、李先義、李俊建が夜陰に乗じて清に侵入し、採蔘の幕中に入り、清人5人を撲殺してその蔘貨を掠奪した。このとき清人1人が脱出に成功し、同伴20人と「渭原」に至って、「大国人5名本部民の為に殺さる」と唱言し、巡邏将高汝岡を捕えて犯人の引渡しを要求した。その後、高汝岡が脱走し、「渭原」郡守李後悦がこれら清人に賄賂を贈ったため、清人たちは退去した。
1712年5月15日、朝鮮人の不法越境による略奪、殺人等が止まないため、遂に清は李氏朝鮮の軍官李義復、趙台相等立会いの下、清と李氏朝鮮の境界である鴨緑江、図們江の上流の境界を明確にすることを目的として江源を調査し、長白山に定界碑を設置した。そして1714年には、清が琿春(図們江北岸内陸)協領を設置して、この地域の統治体制を整えた。これ以後しばらくの間、朝鮮人の侵入は止み、この地域に平和が訪れた。
しかし、アヘン戦争に敗北して、清の統治が緩み始めると、再び朝鮮人の清への侵入が始まった。1847年8月9日頃には、「咸鏡道鏡城府防垣鎮」卒宋得哲とその女婿金光云等が清に潜越し、清人1人を殺害して物資を掠奪しており、太平天国革命による大動乱の最中であった1860年8月27日頃には、朝鮮人明徳成、鄭允化等が清に侵入して旗兵を殺害している。(続く)
満州に朝鮮人が多数住み着いている理由 その3 ~朝鮮の実力行使と返討ち~
テーマ:李氏朝鮮
1860年代後半になると、李氏朝鮮の悪政と飢饉を原因として、、「咸鏡道」民が清領内へ大量に越境して住み着くようになった。これが現在吉林省「延辺朝鮮族自治州」に朝鮮人が多数住む理由である。
1883年4月、吉林琿春招墾総局、敦化県が朝鮮人の大量侵入・不法占拠にたまりかねて、「慶源」・「会寧」・「鍾城」・「穏城」府に、図們江以北・以西に侵入して土地を占拠開墾している朝鮮人の送還を要求したことに対し、7月、李氏朝鮮は「其の所墾の土は土門・豆満(図們)両江の間にして即ち土門江の南なり」と称して、図們江以北の「領有権」を主張し始め、以後執拗に清に対する嫌がらせを行うようになった。
1889年7月19日、「鍾城府」「会寧府」が吉林において占墾する朝鮮人から徴税していたため、北洋大臣直隷総督李鴻章がこれを禁ずるよう朝鮮に命令し、朝鮮はこれを受諾して徴税を中止した。
1890年7月14日、朝鮮督弁交渉通商事務閔種黙が清総理交渉通商事宜袁世凱に、越墾朝鮮流民に対する薙髪編籍を「不当」として停編を要求したのに対し、袁世凱は1881年に総理各国事務衙門より督弁交渉通商事務金允植に越境朝鮮人の送還を命令したにもかかわらず、未だ送還しないため実施したものであり、停止することはできないと回答した。
1902年、李氏朝鮮が図們江北を奪取すべく、李範允を「北辺間島管理使」に任命して図們江北に派遣した。李範允は占墾朝鮮人から税を徴収し、「自衛団」を組織して武装し、清の官吏の職務遂行を妨害して清人を殺害し、暴動を起こした。そこで、1903年4月10~16日、吉林の清軍が出動してこれを討伐するに至り、李範允は大敗して逃亡した。ここに朝鮮の両江以北侵奪の企ては失敗に終わったのであるが、現在も高句麗論争などを通じて執拗に嫌がらせを続けている。
No comments:
Post a Comment