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Wednesday, March 28, 2012
"the untouchable underclass people" in korean peninsula by Shinichi Nomura in Keio University
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/kwangde/kwangde.html
"the untouchable underclass people" in korean peninsula;codicil
by Shinichi Nomura in Keio University
「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)
野村伸一
* 付記 本論は 「「賤民」の文化史序説」『いくつもの日本5』、岩波書店、2003年、161-190頁の原稿に補訂を加えたものです(2008.10.19)。
一 「賤民」の文化史
賤民ということばは今日の日本において公の場所では用いないことになっているらしく、新聞や放送で見聞きすることはまずない。そして、そのことに対して特に異議を唱える公論もないのをみると、日本文化は大方においてもはやそうしたことを論じる必要もない段階にあるということなのであろう。日本社会にいわれのない「蔑み」に苦しむ人びとがなければそれでもよいわけである。しかし、現実はそうではなかろう。「不適切なことば」を排除し、うわ繕いは念入りだが、次つぎと疼きや痛みに由来する不協和音が聞こえてくる。その声、音が社会のどのような片隅から出てくるのかは予想もつかないが、それが声にならないやるせなさから発されたものであることには違いがない。
ここで朝鮮の民衆文化史を振り返ってみよう。それは実は「賤民」とされた人びとの声なき歴史と不可分なのである。朝鮮王朝後半には通念として「七般公賤」ということがいわれた。すなわち、それは妓生、内人(宮女)、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、官奴婢、有罪の逃亡者である。また「八般私賤」ということもいわれた。すなわちそれは、僧侶、伶人(楽工)、才人(河原者)、巫女、捨堂(社堂)、挙史(居士)、鞋匠、白丁である(今西竜「朝鮮白丁考」参照)。さらに盲人の占い師、漁夫、海女、山尺(山で薬草などを採る者)、各種の匠人、私奴婢なども賤民視された。
この人たちをめぐる少なくとも五百年の文化の歴史は、朝鮮の社会生活史そのものである。もちろん今日、賤民などということばは仮初めにも対人関係において使ってはならず、その意味では見慣れぬことばであってよい。しかし、それは歴史の上で、かれらの正確な位置付けがなされていればのことである。賤民とされた人びとは歴史のはじめからそうであったわけではない。その大半は朝鮮朝のはじめには良民の類いであり、単に儒教の礼儀に則った暮らしをしなかっただけなのである。高麗時代、白丁は良民を指すことばであった。また朝鮮朝の初期の賤民は公私の奴婢だけであった(劉承源『朝鮮初期身分制研究』)。
それでは、この人びとはいかにして「賤民」とされていったのか。これは朝鮮王朝の一貫した王化、あるいは教化の政策が王朝後半になって副次的に産み出したものということができよう。要するに、奴婢に逆賊または囚われの敵対者といった規定があるのと同じく、理由はさておき化外の民とならざるをえなかった者たち、あるいは王化のソトにみずから出ていった者たちが徐々に賤民とされたのである。王化のソトにも相応の共同体はあったが、かれらは王朝社会のなかでは何とも抗弁のしようのない不条理な現実を過ごした。ただし、かれらの内なる世界はどうだったのかとなると、そう簡単ではない。
たとえば、賤民のなかでも一段と蔑まれた白丁たちは、王朝の後半においては、獣肉の屠畜を半ば独占的に扱い、経済的には蓄えのある者も多かった。かれらは農民たちとは別の「特殊部落」を形成させられたため、その伝承する生活形態は放っておかれた。そうした白丁村の内部で殺牛の前後におこなわれた儀礼は白丁と牛とのあいだに調和の取れた世界があったことを示唆する。まず屠場は清浄にされ、僧の念仏があり、牛に対しては手斧で急所を二度打ってすみやかに死なせてやる。そして神聖とされる左手に神の杖(刃物)を持ち、牛の霊魂の済度を果たすためには鋭利な刃を準備する。こうしたことの一端はたとえば、白丁への鎮魂ともいうべき鄭棟柱の作品『神の杖』にえがかれている。
しかし、その白丁についても近現代からの遡及が大半であり、近世の実態はよくわからない。同じことは他の賤民についてもいえる。さて、それでは問題をどのように設定したらよいのか。わたしは、賤民の大半は朝鮮王朝のはじめにはいなかったと考える。そこで、分岐点となった朝鮮王朝初期の、いわばまつろわぬ民を取り上げてみたい。かれらの歴史は、今日、韓国において比較的偏りのない目で研究されるようになった。にもかかわらず、なお十分とはいいがたい。いわんや朝鮮社会に対する体系的な教育のない日本では白丁や妓生に関するいくつかの論があるばかりで、その先はないに等しい。朝鮮社会における「賤民」は異邦人あるいは共同体のソトの者たちの「同化」に伴う葛藤の歴史でもあり、それは今日の東アジアにおいて再現している問題でもある。しかし、日本では「賤民」を封印したことにより、かれらの生活史などは 皆目、見当がつかないというのが実情であろう。
この封印状態に対する感受性の無さは何にたとえたらよいだろうか。想像力を喚起するためにはこんな比喩が必要かも知れない。教室で机の上に飛び乗り天真爛漫に遊ぶ子供がいた。それは確かに度を越していたが、咎める者はいなかった。だが、ある日、厳格な先生や父兄が現れた。そして、その行儀の悪さは人並み以下の恥ずべきことだと寄ってたかって詰った。…そういえば、その子のことばはどうも共同体の並のことばとは違う。しかも、およそしつけがない。親の生業はしがなく、一家は貧しいし、やることは何やら怖い。
あとは推して知るべし。監視をするか遠ざけるかだ。かれらの生活とこころの遍歴、それを取り巻く人びとの光景はこんな風に喩えられるだろう。そして、わたしたちの多くはかつてはまだどちらの立場にも多少の覚えはあり、十分、分かり合えたのである。では、その「かつて」とはいつか。歴史の上では五百年前のことであるが、心象としてはずっと近い過去でもある。ここでは限られた紙幅のなか、「賤民」史の序をかたることにしたい。
二 広大の登場
どの賤民からはなしたらよいのか知らない。それならば、ひとつクァンデ kwangde (広大)の話からしてみよう。クァンデは高麗末に現れ、朝鮮朝を経て近代まで演戯をつづけた芸能者である。一九世紀はじめ頃にはなおさかんで市井の男女を巻き込み、世の秩序を乱す不逞の輩とされていた。実学者丁若鏞は『牧民心書』刑典の第五条禁暴のなかで「俳優の戯、傀儡の技、儺楽の募縁〔勧進〕、妖言売術者は並びにこれを禁ずる」と記した。そしてさらに、南部の吏属と将校らは奢濫の風を成し俳優滑稽の演戯と傀儡戯にあそびほうけている。みずからがあそぶので、民も罔くそれに加わり「士女奔波、荒淫無度」のさまである。そのため倉庫の税穀も盗まれる。こうした「雑類」は立ち入りを禁ぜよと。
この種の警告は何十何百と出されていたに違いない。しかし、かれらは社会的に貶められながらも市井にありつづけた。以下では、警告や禁止の条文を実録中に探し出すのではなく、かれらクァンデとはいったい何者だったのか、歴史にはじめて現れたときの姿を通してそのころの位相を突きとめておきたい。
朝鮮民俗学の先駆けであった宋錫夏は一九三六年『朝光』に「広大とは何か」を書き、「広大という言葉は、日常よく聞くことばであり、また、およそどんな意味か推測できるが、それをもう少し深くはっきりと解釈しようとすると、輪郭が曖昧になる」といった。そして、冒頭に『高麗史』巻百二十四嬖幸二、全英甫列伝を引用した。以後、多くの広大論が書かれたが、この『高麗史』の記述がクワンデの初出ということは動かない。ところがこの記事は短い挿話仕立てで、解読はやさしくはない。そこでまず、この記事を引用しよう。時は一三世紀末から一四世紀初、高麗が元の支配下にある最中のときのことである。
全英甫は本、帝釈院の奴で金箔を治めることを生とした。かれは元の嬖宦(宦官)李淑の妻兄である。李淑が嘗て王惟紹と党をなし忠宣王(一三〇九-一三)を廃する謀をしたため、忠宣王は王惟紹を誅し、全英甫を家産没収、島流しにした。初、忠烈王(1275-1308)が全英甫に郎将〔正六品武官〕を授けたとき諫官は告身に署名しなかったが、忠宣王の復位後二年に大護軍を授けると、署名された。世論は国王の治世が公平になされるのか憂えた。案の定、全英甫は「有能」の誉れの高い白元恒を私怨から島流しにした。忠蕭王(一三一四-三〇)のとき、全英甫はまた立身の道をたどり官位を得たが、臺諫(理非をただす高官)がやはり署名を拒否した。だが、忠蕭王の計らいで全英甫は結局、評理、賛成事の位についた。
ところで、この忠蕭王が元に留まっていたとき、瀋王の暠(異腹の兄)が王位を奪おうと謀をして奸臣と交構わった。このとき国王は臣下を宰相〔元の宰相か〕のところに遣っていわせた。昔、小広大がいて大広大らに随って水を渡るとき、船がなかった。それで小広大は、この大広大らに「我は短小なので河の深浅を知ることは難しいが、君輩は身が長いから、まず水深を測るのが宜しい」といった。大広大らは咸「然」といい水に入ったところ、皆、溺れ、独り小広大だけが免れた。
ここで忠蕭王は次のようにいった。今、二人の小広大が吾が国にいる。全英甫と朴虚中がそれだ。吾を禍網に置き、晏然と座視するのは小広大そのものだと。そして『高麗史』は「国語仮面為戯者謂之広大(国語では仮面にて戯を為る者を広大と謂う)」と注記した。
ここに当時のクァンデの一面がえがかれている。この短い記事は次のように読むことができるだろう。第一にクァンデには大小の別があった。それは身の丈の区別だけではなく、人となりについてもいったものとみられる。大広大は一見、愚鈍のゆえに死んだかのようだが、愚鈍なだけではクァンデは務まらなかった。それについてはあとでまた取り上げる。
第二に全英甫のような者が国王の周辺にいた事実に注目しなければならない。かれは奴から身を起こし武官となって国王の寵愛を受けた。何回かの浮き沈みをくり返し、最後は「良人百六十人を賤とした」ことが露見し、そのために本籍に戻された。つまりまた奴の身分に落ちた。全英甫にいかなる能力があったのかはわからないが、元の嬖宦と縁戚関係があったことが背景として考えられる。そしてまた口先の巧みな策略家だったのだろう。低い階層から身を起こし舌先三寸で国王の周辺にまで行き着いたことがまさにクァンデの境遇・弁舌にたとえられたのであろう。クァンデもまたそうした浮き沈みを免れない者であったが、同時に国王の周辺にクァンデがいることは日常的な光景だったとみられる。
第三に国王を取り巻く文化的な環境に注目すべきである。それは元の王室の環境とさほど違いがなかったとみられる。そもそも祖父忠烈王が元の正祖の公主を后とし、母(父忠宣王の妃、懿妃)も蒙古人であり、自身(忠蕭王)の妻もまた蒙古人であった。高麗王家は実質的に元帝あるいはその公主(王女)らの意向をそのまま受入れるほかはなかった。政治はいうまでもなく、殊に宗教、文化的な装置は元からはいってきていた。忠烈王九(一二八三)年八月には「元の倡優男女来る、王、米三石を賜う」とあり、その優人らは大殿において「百戯を呈した」(『高麗史』世家)。忠蕭王が国内の政争に危機を感じ、元の宰相に対してクァンデの話をかたらせたとき、国王の身近には真にクァンデとよぶに値する者たちがいたはずである。
第四に、『高麗史』の注記にある仮面戯の広大こそはクァンデの真の姿をものがたるものであった。問題は宋錫夏以来、上記の原文を「朝鮮語で仮面戯をする者を広大という」と解したことである。これについて鮎貝房之進はいう、古来、朝鮮語の意味では俚語、方言などと記したのであり、「国語」をその意味で用いた例はなく、従ってこれは「蒙古ノ国語」というべきだと(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』)。この鮎貝説は検証されることなく今日に至っているが、『朝鮮王朝実録』の用例をみても首肯できる。実録では国語の用例が二十一例みられるが、一例を除くといずれも中国の古典『国語』に言及したものである。ところが唯一、別の用例が正祖二三(一七九九)年五月甲申の条にある。それは清朝第六代乾隆帝の死後、その事績を讃える文を献上したときのこと、そのなかで乾隆帝は「三国の歴史を糺すべく遼、金、元の国語を翻訳した」という。『高麗史』(15世紀前半編述)を編纂した鄭麟趾(1396-1478)らは王朝初期の新進の儒学者で、中国の用例を知っていたはずである。そしてその伝統は朝鮮後期にいたっても守られていた。こうしてみるとクァンデはやはり「元の国語」とするべきである。
第五に元からやってきたクァンデたちは百戯だけでなく、仮面戯を持ち込んだ。そして、そのとき以来、朝鮮の芸能文化は大きく変容していく。その過程は本稿では扱う余地がないが、ただ、クァンデの歴史は異邦人が農本の国に到来したときの典型的な道筋をたどったということだけは述べておきたい。ここにふたつの道がある。ひとつは朝鮮王朝の初期、中期にかけて記録された悪辣な徒党としての才人の歴史をたどる道である。ひとつは歴史の表面からは消えたが、仮面戯、傀儡戯などを世々演じた芸能集団として、その歴史を考える道である。かれらは前述の丁若鏞の記述にもあるように、一九世紀のはじめに至っても民衆の支持を受けていた。しかし、それがまともに歴史に記されることはなかった。
以上のことを踏まえて、ここから先、わたしは後者の道に意味をみいだそうとおもう。何よりも、前者の道は負の集積でしかない。それらは事実あったことだとしても、それだけのことではなかろうか。もちろん不祥事、反抗的な事件には必ず相応の原因があり、それを通していかにひどい抑圧と不条理が横行していたかを糾弾することはできる。だが、それよりも後者の世界を選ぼう。わたしたちはそれをまだ少し瞥見しただけなのである。急ぐべきは、その痕跡があるうちにひとつの歴史をたどりなおすことではなかろうか。
とはいえ、残された資料は少なく、大方は否定的言説である。ここにおいて、わたしは、仮面戯のクァンデに立ち戻ろうとおもう。かれらは一般の俳優の伝統の上に立っていたが、それだけならば古代からの百戯、雑戯の担い手にすぎない。クァンデは何よりも元から到来した新しい優人であったと考えられる。かれらは追儺的な祓いの仮面戯に新機軸を盛り込んだ。朝鮮にも古くから仮面はあったに違いない。それは新羅の憲康王のときに、南山の神の舞を表現した霜髯舞(白髪、ひげ面の神の舞)がおこなわれ、そのあとで仮面が作られたことからも明らかである(『三国遺事』)。また年末の大儺にも素朴な厄払いの仮面戯があっただろう。だが、こうした仮面の舞は祝祷と祓いを主としたもので新たにもたらされたクァンデの仮面戯とは異なっていたとみられる。それでは新しい仮面戯とはどういうものだったのだろうか。
戱의 사람들
三 河回仮面戯の人びと
1村の女神閣氏。
2慰霊。婚礼につづいて初夜の共寝も演じられる。徐淵昊『ソナンクッ仮面戯』より。
3白丁。撮影金秀男。
4牛の睾丸を売る白丁。撮影金秀男。
5両班と学者のあいだで睾丸の効力を吹聴する白丁。撮影金秀男。
6チョレンイ。両班の従者で奇妙な道化。撮影金秀男。
7僧面。撮影金秀男。
8若い女と僧。東アジアでは由緒深い演戯。民俗のなかの僧は好まれる。
9巫女のような老婆が祭祀の場に到来する。
10学者面相は精鬼に通じる。もとは若くして死んだ男の鬼神なのか。撮影金秀男。
11両班のカオは好々爺然としている。撮影金秀男。
慶尚北道安東郡河回洞の仮面戯は高麗中期(李杜鉉)、あるいは後期か末期(一三-一四世紀、徐淵昊)に形成されたとされている。仮面の造形、河回の同族部落の変遷伝承と仮面制作にまつわる伝承などがその根拠であるが、わたしは、さらに次のような理由から『高麗史』のクァンデの登場から前後それほど遠くない時期に形成されたと考える。
それは二点に集約される。第一は、この仮面戯の宗教的基盤に女神の慰霊があり、これは当時の東アジアにおいては新しい観念だったということである。すなわち、伝承では一五歳で嫁いで、子供もなく不幸な死に方をした女性をムラの女神とし、その臨時の鎮魂に最大の根拠を置いていることである。こうした女神が城隍神とされたことは決して古代的な祭祀ではない。それはむしろ、山川への祈祷という例年くり返されてきた古代的な祭祀の上に付加された新しい供養なのであった。ちなみに中国でもやはり、同族祭祀において不幸な死、特に女性の死の弔いが重要なこととなり、のちにはそれを主題とした戯曲(南戯)が発展したが、その萌芽は宋から元にかけての時代であった(田仲一成『中国演劇史』)。こうした死霊供養は葬戯あるいは儺戯に由来するが、これが元のクァンデの演戯の根柢にはあったとみられる。それは宋代の中国に広がった都市文化および仏教文化に由来するものである。
第二に、この仮面戯はムラの女神の慰霊とはいうものの、登場人物がほとんど有象無象の類いだということである。これはやはり霜髯舞などの次元とは別のものである。今日、伝承が錯綜した部分もあるが、河回仮面戯には屠牛の白丁(異本では死刑執行人も登場)、チョレンイ(おどけた儺者)、顎欠け面で片足麻痺のイメ、僧とプネ(妓女)、身寄りない老媼、虚仮にされる両班などが現れる。この登場人物は互いに皆、連環しているようにみえる。白丁は朝鮮王朝中期以降は隔離されたムラで主として屠牛、柳器作りに限定され、良民と交わることもなく蔑まれて生きていくが、河回仮面戯の白丁はまったく別様のイメージである。堂々と跳び回り手斧で牛を一撃のもとに倒し、すぐさま睾丸を取り出す。そして精力増強に良いといって観衆に向かってこれを売らんかなとすると、愚かな両班らが争って買う。無論、人びとは哄笑するが、それは決して嘲笑ではない。これはのちに白丁とされた人びとがまだ社会的な差別を受ける以前の姿だったとおもわれる。かれらは高麗時代は楊水尺、次いで水尺とか禾尺とよばれていて、その出自は胡種(成宗二二(一四九一)年四月戊辰)とみられていた。かれらを異邦人とする見方は『高麗史』列伝趙浚(1346-1405)の項にすでにあり、「禾尺、才人は耕種に事えず民租を坐食し、恒産も無く恒心も無く山谷に相聚まって倭賊を詐称し」ているという。そしてまた「韃靼と禾尺は屠牛をもって耕食に代える」といっているから、高麗の末期にかれらが農本の立場からみると別の存在とされていたことは明らかだ。ただ、一方では州郡、站では「皆、牛を宰って客を饋した」というのであり、禾尺らはなお人びとのあいだで大っぴらに活動していたのであろう。
さて、僧が妓女を見初めて睦び合う演戯は宋代の人気ある演目のひとつであった。「耍和尚」がそれで、中国におけるこの前史には唐以来の婆羅門舞の伝統があり、のちには「大頭和尚」として正月の民俗となった。僧の「破戒」は朝鮮でも日本でもひとしく人気ある演戯で民衆の支持を受けた(『新猿楽記』にそれらしきものがある)。これを仏者の破戒への教訓、また特権化した寺院への諷刺としてもよいが、朝鮮の巫儀「世尊クッ」のなかのあそびにあるように、元来は山からきた高貴なるカミが若い女に新生を授ける演戯というべきであり、江戸期に京都に現れた仮装の「ちょろけん」などもやはり同類であろう。中国浙江省の民俗でも元宵のころに、大頭和尚の演戯をすると、厄除けになるといわれている(俞婉君『紹興堕民』、人文出版社、2008年)。単なる余興でなかったことは確かである。
次に身寄りのない老婆。「両班の家で下仕えの暮らし」をしたことを身世打令で歌うので、そこには本来の「賤民」奴婢の哀感が込められている。ただ異本によれば、この老婆は亭主と離別して全国を漂泊している女性で、あるいは他の仮面戯を参考にすると、歩き巫女のような者であったかもしれない。実際、高麗末期の開城には巫がいて今日あるような鳴り物入りの巫儀をしていた(李奎報「老巫篇」)。また朝鮮王朝初期には共同体を離れて尼僧になったり、勧進行為をして歩く社堂などの女性が多数いた。もちろん、その暮らしは不安定であり、中には道倒れして死ぬ老媼もいただろう。果たして仮面戯の老媼は空しく死ぬ者が多い。弔いの儀をもたらす配役といったらよいだろうか。
河回仮面戯の登場人物はこのようなモノたちであった。こうした雑多な登場人物をひとつの枠のなかにおさめることが果てして可能なのだろうか。それが実は新しいクァンデの演戯のなかでおこなわれたのだといえる。これは宋代の「社」を中心に形成された死霊祭祀のかたちと関係する。田仲一成は宋代郷村の市場の廟を中心に「社会」が形成され、そこで三種の孤魂祭祀がみられたという。第一は正月春節の豊饒儀礼に付随する孤魂祭祀、第二は廟の神がみの誕生日におこなうもの、第三は臨時の大規模な孤魂祭祀で九幽醮とか黄籙斎とよばれるものである(『中国演劇史』)。河回仮面戯は別神クッという十年に一度ほどの臨時の祭祀のなかでおこなわれていて、まさに九幽醮の思想を根柢に持っていた。
九幽醮は道教の斎醮のひとつである。北宋の撰者未詳の「黄籙九幽醮無碍夜斎次第」では孤魂の種類を一二取り上げた。国のために死んだ英雄、文臣、客商、仏僧、道士、工匠、苦役に死んだ者、冤死者、反逆者、犯罪者、自殺者、横死者である。さらにこの数は南宋に至ると二四にもなる(『中国演劇史』)。ところで、同じようなことは仏教でもいっていた。『瑜伽集要焔口施食儀』の末尾には「十類孤魂文」があり、そのなかでは「一切の奴婢、給使」にして貧賤に命を委ねた孤魂、「一切盲、聾、瘖唖、足跛、手なえ」など、また、やもめの身で寄る辺ない孤魂などがあげられた(服部良男『『施餓鬼図』を読み解く』)。この仏教側の救済の視点は水陸会としてすでに南北朝時代にみられた。水陸会はやがて唐末五代以降には隆盛し、実に近現代に至るまで中国の寺院ではこれが維持され、寺院経済の源となるほどであった。もちろん朝鮮にも水陸会は伝わり、民間の巫俗儀礼にまで浸透した。
こうした済度の観念が河回仮面戯の登場人物たちの根柢にあったと考えるのは無理ではない。朝鮮王朝の初期には、山野における施食が問題視され、その禁令がたびたび出された。世宗は、僧徒と士女が音楽を奏で「百種施食」といって死者供養をしたことをきいて激怒した(世宗二七<一四四五>年七月丙戌)。朝鮮朝のこの施食は高麗時代に受容した水陸斎〔水陸会〕を受け継いだものであるが、もとは宋代の孤魂野鬼に対する済度の儀であった。なぜそうしなければならなかったのか、それはムラ、地域共同体にとって寄る辺ない者の死が災厄を引き起こすとみなされたからである。儒者の合理主義からいえば、野垂れ死にした者のために浪費に満ちた呪いをしたところで、天災や飢饉は防げないし、鬼神への施しといって飲食物を水に投げ入れるのは愚昧の極みであった。しかし、天災や飢饉は身寄りのない死と関係があるとみて最後までこの施食の儀をおこないつづけたのが、宋元代以降の東アジアの民衆思想であった。これは祭儀としては道士や巫覡に担われ、また祭祀芸能としては儺者、クァンデにより担われ、わけても女性の世界に浸透した。そして、同時代の朝鮮と日本に伝わり仮面戯や傀儡戯として花開いたのである。日本の能楽が「男女の根をかくす事」もない不埒な法体の芸能者の唱導、田楽のようなものの集団的狂躁、そして勧進などの上に現れてきたことはすでにいわれている(松岡心平『能~中世からの響き~』)。これは高麗時代の末期の芸能空間でもあった(ちなみに盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』によれば、一七世紀初になお「高麗人」や「唐人」の放下が貴顕の邸に参候した例がある)。
そうした芸能の根柢にあるものは孤魂野鬼の済度であった。ただここで、より一層注目されるのはその済度の儀に生命の胎生という演戯が付加されたことである。中国でも水陸会の儀のなかに子を授ける図像がみられるし、済州島の巫俗儀礼でも「水陸の儀」は子供を授ける寿祷なのである。また全羅道の死霊済度の儀礼中におこなわれたタシレギは出産の寸劇を含んでいるが、これは「再びの生まれ」だとされ、名称からして生命の連鎖を意味していた。宋代の都市で耍和尚が好まれ、それが周辺に伝わり、また民俗化して伝承されたのもこの脈絡の上にある。朝鮮や日本では仮面戯のなかで出産を演じるものがある。
このようにみることによって朝鮮のクァンデたちの相貌がより深く示される。かれらは異邦人であり、また何よりも孤魂野鬼の済度を演戯する新しい芸能者であった。その本質は死霊に近く、滑稽猥雑な演戯とはまったく異なる鬼神の相貌もあった。そしてそのことで畏れられることはあっても、かれらは決して蔑視されるような者ではなかった。
四 朝鮮王朝の賤民たち
元からきたクァンデの演戯はムラや地域共同体の安寧と生命の連鎖を回復するためのものであった。しかし、朝鮮王朝をはじめた儒者たちはこのような観念は到底、容認しえなかった。朝鮮王朝の初期一〇〇年ほどは、高麗王朝の遺物を清算するのに力を尽した感もある。特に思想面では仏教とそれにかかわる「淫祀」の類いは容赦なくこれを禁じた。またのちの賤民の生成につながる施策がさまざまに実施されていく。太祖二(一四〇二)年一二月には「公私賤口、工商、巫覡、倡優、妓生、僧尼の子孫で官職を不当に得た者には一切田地を与えぬこと」とした。逆にいえば、この時代まで、かれらの子孫は官職につく者もあったということである。全英甫のような者は珍しくはなかったのだろう。
また太宗の時代には寺社が革罷され、素性の宜しくない僧は還俗、あるいは地方に追放させられた。農は天下の大本であり、才人、禾尺の類いの非農業民の定着、同化は不可避であった。移動する人びとに対する禁圧は徹底していて、才人、禾尺は「姦淫と盗みをし、殺人もする」(世宗四<一四二二>年一一月丁丑)という評価は末永く引き継がれていて事例は枚挙に暇がない(成宗二<一四七一>年二月辛酉、中宗三六<一五四一>年五月己亥など)。事実としてそういうこともあっただろうが、予断も少なくない。一方では、才人、禾尺を白丁と命名し農民と婚姻させ(世宗五<一四二三>年八月乙酉)、雑処させた(世宗九<一四二七>年一一月辛亥)。あるいは戸籍に載せ、平民や公私賤人と結婚させる(世宗三〇<一四四八>年四月甲子)といった同化策を推進しもした。
しかし、「才人、白丁」はもともと紘歌、宰殺に慣れていて今なお改めようとしないとされた(睿宗一年(一四六九)六月辛巳)。ここでは才人と白丁が並列されている。この頃以降になると、才人は芸能者、白丁はもっぱら屠畜と柳器造りというように区別されるようになる。とはいえ、元来「白丁」と命名されたとき、そこには才人も含まれていたのであり、両者が全く別の者となったともいいきれない。たとえば、京城の成均館の周辺にいて儒教の祭祀用に牛肉を準備した泮人たちはやはり交婚を忌まれる者であったが、一方で山台劇(サンデノリ)とよばれる仮面戯をおこない、京城だけでなく、近傍の楊州などにもでかけた(秋葉隆「山台戯」)。かれらは屠畜も芸能も担ったのであり、そのありかたはむしろ高麗時代のクァンデ、また朝鮮朝初期の白丁のそれをよく引き継いでいたとおもわれる。
才人、白丁の移動は一六世紀半ば以降には大きな問題とならなくなったのだろう。王朝実録の記録は少ない。特に白丁は屠畜を専らとするか、あるいは軍卒として徴集されるようになった(かつて才人、禾尺は済州人とともに軍卒に編入された。『高麗史』世家恭愍王五(一三五六)年)。ここで注目されるのは朝鮮朝後半になると、「大抵の陸民は海夫を視ること殆ど屠牛担と同じ」であって、このため一度海夫として登録されると平民と相抗うことができず、子孫は皆、身分を隠そうとしたことである(正祖二四(一八〇〇)年四月戊戌)。この前史は済州島出身者に対する視点として一五世紀にすでにみられた。すなわち「済州の豆禿也」 という者たちが慶尚南道の海岸で船住まいをしつつ魚を捕りワカメを採取しているが、かれらは海辺の掠奪者になりうる者なので徐々に手なづけるようにという趣旨の訓令が出されている(成宗八(一四七七)年五月己亥)。
これとは別に済州の海民は「鮑作干」とか「鮑作人」ともよばれ、やはり倭寇に類いする者とみられていて、離反させないようにということばが王から出されている(成宗一六(一四八五)年、同二〇(一四八九)年)。かれらは貴重な鮑を採って進上する者なので一方では有用であった。またかれらには「頭無岳」とか「頭禿」という別称もあった。そして倭賊に匹敵する船の使い手で活用すれば有益だとされた(成宗二三(一四九二)年)。頭無岳は漢拏山の別称だが、頭禿はあるいは坊主頭に由来するのかもしれない。中国宋代には、僧、尼、老翁、小児、優伶、角觝(相撲)、泗漁漢(漁師)、打狐人(猟師)、禿瘡(しらくものあとの光った頭)、洒禿(すっかり光った頭)は「十様の仏」とされた(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』)。すなわち坊主頭の者たちで、これらの大半がやがて一人前の良民の部類から区別、差別されていった。そして、良民と区別された者たちの婚姻はクァンデと巫堂(巫女)、白丁と社堂など「賤民」同士のものとなっていく。
さて、僧、僧尼が民間で祈祷や祭儀をおこなうことはいうまでもなく禁圧の対象であった。しかし、たとえば水陸斎は朝鮮朝半ばになお、おこなわれていて、「都中の士女が撤市し奔波」した(宣祖三九(一六〇六)年六月己亥)。官憲がこうした行為を処罰するのは当然で、その積み重ねが結局、民間の宗教者とその賛同者を社会的に貶めていく。
朝鮮朝の初期には、「遊女」や「花娘」となる者もすでに多く、ほかにも礼曹の上申によれば、僧の群れに引き込まれ尼となった女たちがいた。また商人らが良家のむすめたちをたぶらかして淫女にすること、無頼漢に伴われた女たちが身を売ることも指摘された(成宗三(一四七二)年七月乙巳)。こうした現象は必ずしも暴力やカネだけで強いられたものではなかっただろう。それは相応に女の側の主体的な行為でもあったとみなければならない。しかし、こうした者たちは「小中華」にあってはならないので取り押さえられた。それは厳しいもので、違反者の行く末は奴婢つまり賤民になることであった。
同じことは「社長」とそれに従った女たちについてもいえる。社長とは社倉の長である。社倉は朱子のはじめた社倉法にならって導入された民衆救済用の倉庫である。ここに備蓄された穀物を秋に低利で貸し出したが、社長はこの制度を私物化していく。社長は僧であることもあった。また、居士を名のることもあった。お上にとって、かれらは男女の群れをなし、生業を捨てて差役を逃れ、錚と太鼓を鳴らしてどこにでも出歩くことなどの点でとうてい容認できなかった(睿宗元(一四六九)年、六月辛巳)。この一団は当初は京城内で「社」を結成し、そこを念仏所として集団生活をした。かれらは仏道に帰依するだけでなく朝には市利をむさぼり夜は阿弥陀仏を称えた。しかも、こうしたことに街中の婦女子があこがれるありさまであった(成宗二(一四七一)年六月己酉)。だが、居士と社堂は王朝後期には、歌舞と売淫で知られるだけのしがない放浪芸人集団のひとつとなっていく。
才人、白丁、海民、僧、僧尼、社長、居士、社堂らが厳しく規制されていくなかで、巫覡もまた同様に規制され卑賤視されていく。その朝鮮王朝における記述の分類、整理は李能和の「朝鮮巫俗考」(邦文「朝鮮の巫俗」)に詳しい。詳細はそちらに譲るが、次のことは記しておきたい。すなわち巫覡の祭儀、都城への居住に対して、官憲は執拗に幾度も弾圧を加えたが、高宗(一八六三ー一九〇七)の時にもなお宮中には国巫の出入りがみられたのであり、結局、禁巫の政策は成功しなかった。そしてその根本の原因は根柢に朱子学では代替しようのない民衆(特に女性)の霊魂済度つまり救済があったからである。実際、王朝初期の巫は医員でもあり東西活人院(貧民救済施設)で医療行為もした。理論書も組織もなく、文字も知らない巫覡に何ほどの論理があるのかといった知識人の視点では巫俗を正面から見据えることはできなかった。このようなものが何故五百年ものあいだつづいたのか。
それへの回答は王朝の知識人からは出されなかった。そして、それは朝鮮王朝の崩壊後、一九二七年になってはじめて李能和により宗教学に値する視点で体系的に述べられた。だが、それすら早すぎたのか、反応はなかった。李能和にももちろん不足はあるが、その一連の業績が、『朝鮮仏教通史』「朝鮮巫俗考」、『朝鮮女俗考』、『朝鮮解語花史』(妓生の文化史)といった経過をたどっていることを的確に批評する者がいたならば、少なくともそこに朝鮮の女性生活史が述べられていたことに気づいたはずである。それは一方で朝鮮の「賤民」史と深くかかわっていたのである。しかし、そうした基軸は今だに明確にはされていない。このことは朝鮮の近代の学知、ということは中国と日本の速成知としてはじめられた近代の学知の系譜が抱えていた最も大きな限界点でもあった(山室信一『思想課題としてのアジア』、その近代アジアの学知に対する俯瞰、周到な検証作業を参照のこと)。
五 免賤と近代
知識人の近代、かれらの認識がどうであれ、朝鮮王朝の「賤民」たちにも近代は迫り、やがて通過していった。このときかれらはどのような生活を迎えたのか。ご多分に漏れず、大方はわからない。クァンデについていえば、十七、八世紀以降、パンソリが起こると、この歌い手のなかから芸術家気質の歌客も現れる。それは唯一クァンデが身分の上昇を実現させうる道でもあり、そのために歌唱法も猥雑さを殺ぎ哀調を深く表現する方向へと幅を広げた。これは日本の能のたどった道と一面では似ていた。しかし、そうした歌客は少数であり、大方のクァンデは民間の放浪芸人として世をわたった。特に仮面戯や傀儡戯のクァンデに対しては社会的な評価が低く、宋錫夏なども「広大自身の自覚が必要」といい、「理論家や音楽家との提携」がなければ将来はないとみていた(「伝承音楽と広大」)。
それは余りにも高望みした批評であるが、近代の西洋演劇や音楽の衝撃を受けた当時の知識人としてはやむを得ないところがあっただろう。ただ、王朝の後半期、両班層の道徳性の欠如、無能ぶりに対して、仮面戯のなかで、愚かな両班が下僕により完膚なきまでに愚弄される場面は、やはり、近代に接近して発展を遂げたものというべきで、そこには時代意識が反映されていたといえよう。もともと、お供が主人をやりこめるモチーフは異邦人クァンデの演戯のなかにはあった。それは中国でいえば、唐代の参軍戯[ぼけ(参軍)とつっこみ(蒼鶻)の対話による演戯]以来の古い伝統であり、高麗の優人、そして仮面戯や傀儡戯のクァンデたちに受け継がれてきたものである(朝鮮朝の燕山君時代の優人は王前にあって諷刺の演戯をし、処罰された。それはこの王の前では命がけのことであった)。そしてまた、日本の猿楽の芸、京都に現れた自然居士らの禅僧にみられた奔放さ、狂言の笑いなどにも同様の諷刺の精神が見て取れるだろう。
だが、そうではあっても、今日に伝承されている仮面戯の両班諷刺の台詞は、その鋭さにおいて参軍戯や「狂言」のレベルをはるかに越えていた。たとえば下僕マルトゥギは主人に向かって口答えをする。しかもその際、両班の血に両班以外の血が混ざっていると罵り、また「大奥様(母親)」を取り上げては性的な悪罵を盛り込んだことをいう。しかもちょっと聞いただけでは意味がわからない。そこで、また修辞を変えて同様のことをいう。こうして下僕のことばはより強い愚弄となり、ほとんど抵抗のことばになっていく。
とはいうものの、王朝も消滅し、植民地に放り出されたクァンデらはすべてが旧時代の遺物として生きていくほかはなかった。そのさまは映画『西便制(風の丘を越えて)』に活写された。金明坤扮するドサ回りの歌い手ユボンが宴席で片意地を張る。そのため、客の男から「才人(河原者)のくせして」と罵られる。すると、ユボンは「このご時世にまだ両班だとか才人だとかいうのか」といい返す。それは近代のクァンデらのせいぜいの代弁であっただろう。だが、パンソリをもって回るクァンデの時代は去ってしまった。
さて、賤民中、最下層とされた白丁の近代はどうであったのか。朝鮮の近代史上よく知られた一八九四年の甲午更張(甲午改革)のなかで、軍国機務処は一二カ条の提議をしたが、そこに「駅人、倡優、皮工、竝びに免賤を許す事」があり、これを国王は承認した。このうちの「皮工」は皮作りを担った者たちで多くの白丁とは職域が異なるが、ここでは白丁も含まれるとみられる。かれらは、これにより強制された仕事からは解放されることになった。しかし、そののちも白丁に関する状況は変わらなかった。今村鞆がいち早く白丁を論じ、継いで今西竜、喜田貞吉、李覚鐘、岩崎継生、鮎貝房之進などが日本語で論究した。
これらを通して分かったことは、王朝の末期の白丁は戸籍がないので族譜もなかった。名前に仁義などの語は用いることができず、日常生活では、周衣(外套)、被り物、喪服、女性の簪の着用ができず、婚礼時の乗り物、葬礼の喪輿も禁止され、良民へのことばづかいは子供に対してもへりくだった。そして、甲午改革以後、戸籍を与えられたとはいい条、そこには「屠漢」の字が記され社会的な差別は依然としてあった。
ただ、白丁たちは王朝時代にも「承堂都家」という扶助機関を持っていて、各地に支部があった。こうした組織があったためか、日本で水平社の創立があった翌一九二三年五月、朝鮮でも慶尚南道晋州において衡平社が組織され、平等への宣言が出されると、瞬く間に全国に広がり社員公称四〇万人の一大社会運動となった。それは周囲からの激しい反発を引き起こしたものの、一九三〇年ごろまでは活発に展開された。だが、やがて路線問題から葛藤が生じて、退潮に向かい、一九三五年、名称を大同社と変更したあと、経済活動を主とした機関となり、それも一九四〇年ごろを境に終焉した。解放後は朝鮮戦争の大混乱のなか、白丁の特殊部落は霧散し、社会的に差別されることがなくなったとされるが、白丁を主題にして創作活動をつづけた作家鄭棟柱は現在も「差別意識は残っている」とし、とりわけ知識人のあいだにそれが強いという。そして、晋州に衡平運動の記念館を作り、白丁の暮らしと歴史に関する資料を展示することを提案したが、衡平運動の研究者として知られる知識人がそれに異議を唱えたということをいっている(『神の杖』)。それだけ白丁の問題は生々しいということなのだろう。今日なお、晋州市に公設の記念館はない。
六 考えるよすがとしての「賤民」
朝鮮半島では解放後も白丁村、才人村、在家僧(咸鏡道の山間部にいた坊主頭の人びとで差別された)の村などが残っていたが、現代には南北いずれの社会にも存在しない。ただし、白丁や巫堂の家系への差別的視点がなくなったわけではない。差別意識が払拭されたか否かは世代、地域によっても異なるだろう。みずからの姓氏が偽両班家門だと公表した歴史家がいるとはきいたが、白丁、巫堂の家系だということを名のることはおよそ考えにくい。できればそうしたことは公にしたくないというのが韓国社会の公約数であろう。そこまで突き詰めれば差別は消えていないということになる。また、近い過去では全羅道出身者が政治経済の中枢から不当に遠ざけられるという新手の差別があったし、あるいは中国の東北地域、延辺などからくる出稼ぎの朝鮮族同胞や東南アジア出身の労働者に対する差別が一部にはある。白丁や巫堂はたとえ、経済的に潤っていても怖い者とされ、おそらくそれゆえだろう、接触したくないといった先入観は強く残っていた。こうみると、近代日本の社会が屠畜、皮革業、あるいはサンカや家船の人びと、また「首切り弾衛門」(死刑執行人)などに対して怖れ差別した状況とあまり変りがないことになる。
ただし、歴史のなかの差別を公然と論じるという点では明白に異なる。例えば二〇〇二年二月六日、韓国のSBS放送は旧正月の特別番組にドラマ「白丁の娘」を放送した。韓国ではひと頃テレビ報道があまりに批判精神を失ったため、「馬鹿箱」とまでいわれたが、九二年の文民政府以降は考える素材を提供する媒体という一面を取り戻している(軍事政権の裏面、その最後の悲劇「光州」を活写したドラマ「砂時計」<1995年、SBS放映>を知らない韓国人はいない)。さて「白丁の娘」だが、これは二〇世紀初にあった実話に取材したもので、なかなか重いドラマである。白丁の父を持つオンニョンという名の女の子が宣教師の医者と出会い、梨花学堂で近代教育を受ける。父親は胸に白丁の印である布切れを付けないことで役人から殴打され、急患の往診も断られる。母親は広場の群衆により「白丁閣氏馬乗り競争」という残酷な遊びの馬にされる。母親は凌辱に耐えられず自殺する。母親の葬儀に喪輿を用いようとすると、村人により喪輿は叩き壊される。こうしたことは実際にあっただろう。そして、梨花学堂の六年間の勉学が終わり、卒業式の席上、代表に選ばれたオンニョンは講堂に参席した大勢の人びとの前で、自分が白丁のむすめであることを告白した。
ドラマは冒頭に日本軍による朝鮮人の体格、体質検査に白丁が強制動員された史実を置き、途中、王朝末期以来の白丁家族の受難をえがき、やがてオンニョンの勇気ある告白と聴衆からの祝福の拍手で終わる。大団円風の終わり方がいささか気になったが、それは、差別は所詮、構築物にすぎないものであっけなく崩壊しうるのだというメッセージなのかもしれない。いずれにしても近代の白丁を考えさせる素材には十分なっている。このドラマを現在の韓国社会がどのように視聴したのかは分からない。ただ少なくとも韓国社会が数十年前まで存在した苛酷な社会差別の歴史を正面から考えようとしたこと、そうした考える風土があることは注目してよい。
もちろん、今日の韓国にも、モノ余りの日常、「自由」を持て余す若い世代は少なからずいて歴史離れもまたみられるところである。
しかし一方では、日本の統治、朝鮮動乱、軍事政権下の民主化闘争などによる痛みを肌で知る人びとが健在で、それを語り継ぐ社会風土が存在する。享楽にも大胆だが、痛みにもまた敏感な社会である。もちろん、それがすなわちすべての差別の解消に直結するとはいえないだろう。
しかし、翻って今日の日本で被差別民の近代を主題にしたドラマを正月番組に放映することなどが可能だろうか。まずそういう主題は企画にすらのぼらないだろう。そうして一方では、現実のさまざまな痛みがいよいよ複合的に再生産されている。歴史の痛みに鈍感な社会が現実の痛みに敏感であるはずはないから当然である。そして案じる、「わたしたちのテレビメディアなどは「不適切な用語」を取り除くことにはいたく熱心だが、歴史の痛みを根治させるための本道をたどることにはすっかり度胸がなくなり、それこそ日々「馬鹿箱」に近づいているのではないか。そうして日本という共同体はまさにその無批判、鈍重さによる束の間の安泰を貪っているだけではないのかと。
賤民とされた人びとの歴史、それは今、封印を解かれなければならない。そしてのち、はじめてわたしたちは東アジアの同時代性を再認識できるだろう。彼らを含めた同時代的な共同体はつい五、六百年前には確かにまだみられたのである。そして、そうした在り方、生活の様相を具体的に知れば、実は差別意識の多くは存外近い過去に植え付けられた代物に過ぎないということがわかるだろう。
朝鮮半島の「賤民」は東アジアの基層文化の諸相に迫る関鍵のひとつなのである。これは知らずに済む問題ではない。 (2008年10月5日 補遺)
参考文献(文中に引用したもの
巫覡、クァンデの民俗宗教的背景について
野村伸一「朝鮮文化史における死者霊の供養」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』
No.28、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年
妓生、奴婢、白丁、寺僧、巫堂などについて
安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八二年
安宇植編訳『続・アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八八年
林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』、平凡社、一九八七年
川村湊『妓生』、作品社、二〇〇一年
楊水尺・禾尺・水尺、才人、白丁について
今村鞆「朝鮮の特殊部落」『朝鮮風俗集』、斯道館、一九一四年
今西竜「朝鮮白丁考」『芸文』九巻四号、一九一八年
喜田貞吉「朝鮮の白丁と我が傀儡子」『史林』九巻九号、一九一八年
李覚鐘「朝鮮の特殊部落」『朝鮮』一〇四号、一九二三年
岩崎継生「朝鮮の白丁階級:特殊部落-形態」『朝鮮』二一一号、一九三二年
鮎貝房之進「白丁、附水尺、禾尺、楊水尺」『雑攷』五輯、一九三二年(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』国 書刊行会、一九七三年復刻)
金静美「十九世紀末・二十世紀初期における「白丁」」飯沼二郎、姜在彦編『近代朝鮮の社会と思想』、未来社、一九八一年
杉山二郎『遊民の系譜』、青土社、一九八八年
衡平運動について
金中燮『衡平運動研究』、韓国社会科学研究所、肯慎紫、一九九〇年、ソウル
金永大著、『衡平』翻訳編集委員会翻訳・編集『朝鮮の被差別民衆』、部落解放研究所、一九八八年
巫覡の歴史について
野村伸一「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)」および「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年(これは李能和「朝鮮の巫俗」雑誌『朝鮮』、朝鮮総督府、一九二八ー二九年に七回掲載されたものの復刻で、それに訳註を付したもの)
芸能史および仮面戯
野村伸一『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、一九八五年
李杜鉉『朝鮮芸能史』、東京大学出版会、一九九〇年
田耕旭『韓国仮面劇 その歴史と原理』、悦話堂、一九九八年、ソウル(法政大学出版局から邦訳2004年刊)
「천민」의 문화사서론―한반도(朝鮮半島)의 피차별 국민(보유)노무라(野村) 신이치(伸一)
*부기 본론은 「「천민」의 문화사서론」 『몇이나 되는 일본 5』, 이와나미(岩波) 서점, 2003년, 161-190페이지의 원고에 보정을 첨가한 것으로 한다 (2008.10.19).
1 「천민」의 문화사
천민이라고 하는 말은 오늘 일본에 있어서 공공의 장소에서는 이용하지 않게 될 모양이고, 신문이나 방송으로 견문하는 것은 우선 없다. 그리고, 그 것에 대하여 특히 이의를 외치는 공론도 없는 것을 보면, 일본문화는 대부분에 있어서 이미 그러한 것을 논할 필요도 없는 단계에 있다고 하는 것일 것이다. 일본 사회에 까닭이 없는 「얕보기」에 고생하는 사람들이 없으면 그것이라도 좋은 셈이다. 그러나, 현실은 그렇지 않을 것이다. 「부적절한 말」을 배제하고, 와 수선은 매우 조심하지만, 차례로 쑤시자마자 아픔에 유래하는 불협화음이 들려온다. 그 목소리, 소리가 사회의 어떤 한 구석에서 나오는 것일지는 예상도 붙지 않지만, 그것이 목소리가 안되는 안타까움으로부터 발해진 것에는 차이가 없다.
여기서 조선의 민중문화사를 되돌아봐 보자. 그것은 사실은 「천민」으로 여겨진 사람들의 목소리 없는 역사와 불가분한 것이다. 조선 왕조후반에는 통념으로서 「7반공賤」이라고 하는 것이 말하여졌다. 다시 말해, 그것은 기생, 안인 (궁(신사)여자), 관리족, 역졸, 감옥령(옥졸), 관노비, 유죄의 도망자다. 또 「8반나賤」이라고 하는 것도 말하여졌다. 다시 말해 그것은, 승려, 영인(즐거움 다쿠미(工)), 재인(강변자), 무당, 捨당(사회당), 행동사 (거사), 鞋장인, 흰정이다 (이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」참조). 더욱 맹인의 복사, 어부, 해녀, 산척 (산에서 약초등을 채집하는 사람), 각종의 장인인, 나노비등도 천민시 되었다.
이 사람들을 둘러싼 적어도 500년의 문화의 역사는, 조선의 사회 생활사 바로 그것이다. 물론 오늘, 천민등이라고 하는 말은 장난삼아서라도 대인관계에 있어서 사용해서는안되고, 그 의미에서는 눈에 익지 않는 말이며 좋다. 그러나, 그것은 역사 위에서, 그들이 정확한 위치 부여가 행해지고 있으면 의것이다. 천민으로 여겨진 사람들은 역사의 처음부터 그랬던 것은 아니다. 그 대부분은 조선 아침의 처음에는 양민(백성)의 종류이며, 단지 유교의 예의에 준한 생활을 하지 않은 것 만큼이다. 고려(高麗)시대, 흰정은 양민(백성)을 가리키는 말이었다. 또 조선 아침의 초기의 천민은 공사의 노비만이었다 (유(劉) 쇼(承)원 『조선 초기 신분제 연구』).
그러면, 이 사람들은 어떻게 「천민」으로 여겨져 간 것인가? 이것은 조선 왕조가 일관한 왕화,혹은 교화의 정책이 왕조후반이 되어서 부차적으로 만들어 낸 것이라고 할 수 있자. 요컨대, 노비에 역적 또는 포로의 적대자라고 한 규정이 있는 것이라고 같이, 이유는 그대로 두어 화외의 국민이 되지 않을 수 없었던 사람들,혹은 왕화의 【소토】에 스스로 나간 사람들이 서서히 천민으로 여겨진 것이다. 왕화의 【소토】에도 상응한 공동체는 있었지만, 그들은 왕조사회의 안에서는 (아뭏든)뭐라고 항변의 하는 방법이 없는 부조리한 현실을 지나쳤다. 단, 그들의 안 되는 세계는 어땠던 것인가가 되면, 그렇게 간단하지 않다.
예를 들면, 천민안에서도 한층 더 얕봐진 흰정들은, 왕조의 후반에 있어서는, 수육의 屠畜을 거의 독점적으로 취급, 경제적으로는 여축이 있는 사람도 많았다. 그들은 농민들과는 다른 「특수부락」을 형성시켜졌기 때문, 그 전승하는 생활 형태는 내버려둬졌다. 그러한 흰 데이(丁)촌의 내부에서 죽이기소의 전후에 해진 예의는 흰 딱 하고 소와의 사이에 조화가 예약한 세계가 있었던 것을 시사한다. 우선 屠장소는 청정할되어, 승의 염불이 있어, 소에 대하여는 큰 자귀로 급소를 2도 쳐서 신속하게 죽게 한다. 그리고 신성으로 여겨지는 왼쪽에신의 지팡이(칼)을 가지고, 소의 영혼의 제도를 다하기 위해서는 예리한 칼을 준비한다. 이러한 것의 일단은 예를 들면, 흰정에의 진혼이라고도 말해야 할 정(鄭)동 기둥의 작품 『신의 지팡이』에 그려지고 있다.
그러나, 그 흰정에 대해서도 근현대부터의 소급이 대부분이어서, 근세의 실태는 잘 모르다. 같은 것은 다른 천민에 대해서도 말할 수 있다. 그런데, 그러면 문제를 어떻게 설정하면 좋은 것인가? 나는, 천민의 대부분은 조선 왕조의 처음에는 없었다고 생각한다. 거기에서, 분기점이 된 조선 왕조 초기의, 이른바 기다리는 ろわぬ국민을 집어들어 보고 싶다. 그들의 역사는, 오늘, 한국에 있어서 비교적 치우침이 없는 눈으로 연구되게 되었다. 그럼에도 불구하고, 한편 충분히는 말하기 어렵다. 말할것도 없이 조선 사회에 대한 체계적인 교육이 없는 일본에서는 흰정이나 기생에 관한 몇 가지의 이론이 있을 뿐이어서, 그 앞은 없는 것에 마찬가지다. 조선 사회에 있어서의 「천민」은 이방인혹은 공동체의 【소토】인들의 「동화」에 따르는 갈등의 역사이며, 그것은 오늘 동아시아에 있어서 재현하고 있는 문제이기도 한다. 그러나, 일본에서는 「천민」을 봉인한 것에 의해, 그들의 생활사등은 도무지, 짐작하지 않는다라고 하는 것이 실정일 것이다.
이 봉인 상태에 대한 감수성의 없음은 무엇에 비유하면 좋을 것인가? 상상력을 환기하기 위해서는 이런 비유가 필요일지도 모른다. 교실에서 책상 위에 뛰어 올라타 천진 난만하게 노는 어린이가 있었다. 그것은 확실히 정도를 넘고 있었지만, 책망하는 사람은 없었다. 그러나, 어느 날, 엄격한 선생님이나 부형이 나타났다. 그리고, 그 예의 범절의 나쁨은 보통사람 정도이하의 마땅히 부끄럽게 여겨야 할 것이라고 여럿이서 밀렸다. … 그러고 보니, 그 아이의 말은 정말로 공동체의 보통의 말과는 다르다. 게다가, 약 예절교육이 없다. 부모의 생업은 보잘 것 없고, 일가는 가난하고, 하는 것은 무엇인가 무섭다.
다음은 미루어 알 수 있다. 감시를 할지 멀리할지다. 그들의 생활과 마음의 편력, 그것을 둘러싸는 사람들의 광경은 이런 식이게 비유할 수 있을 것이다. 그리고, 우리들의 대부분은 예전에는 아직 어느쪽의 입장에도 다소의 기억은 있어, 충분히, 알아 합 얻은 것이다. 그러면, 그 「예전에」와는 언제인가? 역사 위에서는 500년전이지만, 심증으로서는 쭉 가까운 과거이기도 한다. 여기에서는 한정된 지폭의 안, 「천민」사의 서를 이야기하기로 하고 싶다.
2광대의 등장
어느 천민에게서 이야기하면 좋은 것일지 모른다. 그것이라면, 하나【관데】 kwangde (광대)의 이야기로부터 해 보자. 【관데】는 고려(高麗)말에 드러나, 조선 아침을 경과해서 근대까지 演戱를 계속한 예능자다. 19세기 시작경에는 한편 왕성해서 시정의 남녀를 말려들게 하고, 세상의 질서를 어지럽히는 괘씸한 나(패거리)로 여겨지고 있었다. 실학자 정약용(丁若鏞)은 『마키(牧) 민심서』형전(전서)의 제5조(五條) 금령폭의 안에서 「배우의 戱, 괴뢰의 기법, 儺즐거움의 募인연 〔권함〕, 요사스런 말 판매시술자는 및 이것을 금한다」라고 기록했다. 그리고 더욱, 남부의 관리속과 장교들은 奢濫의 바람을 이뤄 배우 나메라(滑)稽의 演戱와 괴뢰戱에 노는데 정신이 팔려 있다. 스스로가 놀므로, 국민도 그물 망 똥れ에 가해져 「남녀奔물결, 황음무도」의 님이다. 그 때문에 창고의 세穀도 도둑 맞는다. 이러한 「잡류」는 출입을 금해라고.
이 종류의 경고는 몇십몇백과 내놓고 있었던 것이 틀림 없다. 그러나, 그들은 사회적으로 깎아내릴 수 있으면서도 시정에 계속해서 있었다. 이하에서는, 경고나 금지의 조문을 실록중에 찾아내는 것이 아니고, 그들【관데】와는 도대체(일체) 누구이었던 것인가, 역사에 처음으로 나타났을 때의 모습을 통해서 그 시기의 위상을 밝혀 내 두고 싶다.
조선 민속학의 먼저 달려듦이었던 송석하는 1936년 『아침 빛』에 「광대는 무엇인가」를 쓰고, 「광대라고 하는 말은, 일상 자주 듣는 말이며,또, 대충 어떤 의미인가 추측할 수 있지만, 그것을 좀더 깊이 확실하게 해석하자로 하면, 윤곽이 애매해진다」라고 했다. 그리고, 첫머리에 『고려(高麗)사』권 124嬖고지(幸二), 전영보 열전을 인용했다. 이후, 많은 광대론이 씌어졌지만, 이 『고려(高麗)사』의 기술이 【구완데】의 첫 출현이라고 하는 것은 움직이지 않는다. 그런데 이 기사는 짧은 삽화재봉(바느질)로, 해독은 상냥하지 않다. 거기에서 우선, 이 기사를 인용하자. 때는 13세기말로부터 14세기 처음, 고려(高麗)가 원래의 지배하에 있는 한가운데의 때다.
전영보는 책, 다이샤쿠원의 놈으로 금박을 다스리는 것을 순(숫)으로 했다. 그는 원래의 嬖宦(환관)이(李)淑의 아내 형이다. 이(李)淑이 전혀 왕유소와 당을 없음 충선왕(1309-13)을 폐지하는 꾀를 했기 때문, 충선왕은 왕유소를 죄인을 죽이고, 전영보를 가산몰수, 유배로 했다. 처음, 충렬왕(1275-1308)이 전영보에게 낭 마사시(將) 〔다다시(正)6품 무관〕을 하사했을 때 諫관은 고몸에 서명하지 않았지만, 충선왕의 복위후 2년에 다이(大) 유즈루(護)군을 주면, 서명되었다. 여론은 국왕의 치세가 공평하게 행해지는 것일지 근심했다. 예상대로, 전영보는 「유능」의 명예가 높은 백원 히사시(恒)를 사원으로부터 유배로 되게 했다. 충蕭왕(1314-30)의 때, 전영보는 또 입신의 길을 따라 관위를 얻었지만, 臺諫(시비를 질문하는 고관)이 역시 서명을 거부했다. 그러나, 충蕭왕의 조치로 전영보는 결국, 평이유, 찬성 것의 지위가 올랐다.
그건 그렇고, 이 충蕭왕이 바탕으로 머무르고 있었을 때, 瀋왕의 暠(이복의 형)이 왕위를 빼앗자고 꾀를 해서 간신과 交構 나누었다. 이 때 국왕은 신하를 재상 〔원의 재상인가〕의 곳에 사용해서 시켰다. 옛날, 소광대가 있어서 오히로(大廣)대들에게 따라서 물을 건널 때, 배가 없었다. 그래서 소광대는, 이 오히로(大廣)대들에게 「나는 단소하므로 강의 심천을 아는 것은 어렵지만, 너나(패거리)는 몸이 길기 때문에, 우선 수심을 재는 것이 좋다」라고 말했다. 오히로(大廣)대들은 함(咸) 「그렇게(그처럼)」이라고 좋은 물에 들어간 바, 모두, 빠져, 단지 소광대만이 면했다.
여기서 충蕭왕은 다음과 같이 말했다. 지금, 두사람의 소광대가 나가 나라에 있다. 전영보와 박(朴) 속이 빔중이 그것이다. 나를 재난그물에 두고, 晏그렇게(그처럼) 좌시하는 것은 소광대 바로 그것이다와. 그리고 『고려(高麗)사』는 「국어가면 위해서(때문에) 戱사람謂之광대(국어에서는 가면에서 戱를 되는 사람을 광대라고 말한다)」이라고 주기했다.
여기에 당시의 【관데】의 일면이 그려지고 있다. 이 짧은 기사는 다음과 같이 읽을 수 있을 것이다. 첫째로 【관데】에는 대소의 별이 있었다. 그것은 신장의 구별뿐만 아니라, 위인에 대해서도 진행된 것이라고 보여진다. 오히로(大廣)대는 일견, 우둔의 때문에 죽은 것 같지만, 우둔한것만으로는 【관데】는 쓰토무(務)まら 없었다. 그것에 대해서는 나중에 또 올린다.
제2로 전영보와 같은 사람이 국왕의 주변에 있었던 사실에 주목 해야 하다. 그는 놈에게서 몸을 일으켜 무관이 되어서 국왕의 총애를 받았다. 몇번인가의 부침을 되풀이하고, 최후는 「요시히토(良人) 160명을 賤으로 했다」 것이 노현하고, 그 때문에 본적에 되돌려졌다. 즉 또 놈의 신분에 들어갔다. 전영보에게 어떠한 능력이 있었던 것일지는 모르지만, 원래의 嬖宦과 연척관계가 있었던 것이 배경으로서 생각된다. 그리고 또 말이 교묘한 책략가이었던 것일 것이다. 낮은 계층으로부터 몸을 일으켜 변설의 재주로 국왕의 주변에까지 다다른 것이 정말로 【관데】의 경우·변설에 비유할 수 있었던 것일 것이다. 【관데】도 또 그러한 부침을 모면하지 않는 사람이었지만, 동시에 국왕의 주변에 【관데】가 있는 것은 일상적인 광경이었다라고 보여진다.
제삼으로 국왕을 둘러싸는 문화적인 환경에 주목해야 한다. 그것은 원래의 왕실의 환경과 그다지 차이가 없었다고 보여진다. 처음부터 할아버지 충렬왕이 원래의 정조의 공공주인을 비라고 해서 어머니 (아버지 충선왕의 비, 懿비)도 몽고인이며, 자신(충蕭왕)의 아내도 또 몽고인이었다. 고려(高麗)왕가는 실질적으로 전(元)제(황제)혹은 그 공공 주(왕녀)들의 의향을 그대로 받아들이는 것 이외에는 없었다. 정치는 말할 필요도 없고, 특히 종교, 문화적인 장치는 원래로부터는 다녀 오고 있었다. 충렬왕 9(1283)년 8월에는 「원래의 倡싹싹한 남자 여자 오는, 왕, 미미쓰이시(三石)를 주시다」라고 있어, 그 매우 뛰어남인들은 오토노(大殿)에 있어서 「100戱를 보였다」 (『고려(高麗)사』세상가). 충蕭왕이 국내의 정쟁에 위기를 느끼고, 원래의 재상에 대하여 【관데】의 이야기를 이야기시켰을 때, 국왕의 신변에는 참으로 【관데】라고 부를 가치가 있는 사람들이 있었을 것이다.
제4에, 『고려(高麗)사』의 주기에 있는 가면戱의 광대야말로는 【관데】의 참된 모습을 이야기하는 것이었다. 문제는 송석하이래, 상기의 원문을 「조선어로 가면戱를 하는 사람을 광대라고 한다」라고 푼 것이다. 이것에 대해서 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)은 말하는, 예로부터, 조선어의 의미에서는 사투리, 방언등이라고 적은 것이어서, 「국어」를 그 의미로 채용한 예로 없고, 따라서 이것은 「몽고【노】국어」라고 해야 한다고 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』). 이 아유카이(鮎貝)설은 검증될 일 없고 오늘에 이르고 있지만, 『조선 왕조실록』의 용례를 보아도 수긍할 수 있다. 실록에서는 국어의 용례가 20하나의 예 보여지지만, 하나의 예를 제외하면 모두 중국의 고전 『국어』에 언급한 것이다. 그런데 유일하게, 별도의 용례가 정조 23(1799)년 5월 마사루(甲) 신(申)의 조에 있다. 그것은 청호 제6대 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)의 사후, 그 공적을 찬양하는 문장을 헌상했을 때, 그 가운데에서 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)는 「3국의 역사를 규명하기 위해 遼, 돈, 원래의 국어를 번역했다」라고 한다. 『고려(高麗)사』 (15세기 전반편술)을 편찬한 정인지(1396-1478)들은 왕조 초기의 신진의 유학자로, 중국의 용례를 알고 있었을 것이다. 그리고 그 전통은 조선 후기에 이르러도 지켜지고 있었다. 이렇게 해서 보면 【관데】는 역시 「원래의 국어」로 해야 한다.
제5에 원래로부터 온 【관데】들은 100戱뿐만 아니라, 가면戱를 가져왔다. 그리고, 그 때이래, 조선의 예능문화는 크게 변용해 간다. 그 과정은 본고에서는 다루는 여지가 없지만, 단지, 【관데】의 역사는 이방인이 농본의 나라에 도래했을 때가 전형적인 가는 길을 걸었다고 하는 것만은 말해 두고 싶다. 여기에 둘의 길이 있다. 하나는 조선 왕조의 초기, 중기에 걸쳐서 기록된 악랄한 도당으로서의 재인의 역사를 걷는 길이다. 하나는 역사의 표면에서는 사라졌지만, 가면戱, 괴뢰戱등을 대대 연기한 예능집단으로서, 그 역사를 생각하는 길이다. 그들은 전술의 정약용(丁若鏞)의 기술에도 있는 듯이, 19세기의 시작에 이르러도 민중의 지지를 받고 있었다. 그러나, 그것이 정면으로 역사에 기록될 일은 없었다.
이상을 근거로 하고, 여기에서 끝(앞), 나는 후자의 길에 의미를 찾아내려고 생각한다. 무엇보다도, 전자의 길은 부의 집적으로밖에 없다. 그것들은 사실 있었던 것이다고 한들, 그만큼의 것이 아닐까? 물론 스캔들, 반항적인 사건에는 반드시 상응한 원인이 있어, 그것을 통해서 아무리(어떻게) 지독한 억압과 부조리가 횡행한고 있었는지를 규탄할 수는 있다. 그러나, 그것보다도 후자의 세계를 선택하자. 우리들은 그것을 아직 조금 별견한 것 뿐이다. 서둘러야 할은, 그 흔적이 있는 동안에 하나의 역사를 다시 더듬어 가는 것이 아닐까?
이라고는 해도, 남겨진 자료는 적고, 대부분은 부정적 언설이다. 여기에 있어서, 나는, 가면戱의 【관데】에 되돌아오려고 생각한다. 그들은 일반의 배우의 전통 위에 서고 있었지만, 그것뿐이면 고대부터의 100戱, 잡戱의 담당자에게 지나지 않는다. 【관데】는 무엇 보다도 원래로부터 도래한 새로운 매우 뛰어남인이었다라고 생각된다. 그들은 쯔이나적인 축문의 가면戱에 신기축을 담았다. 조선에도 옛부터 가면은 있었던 것이 틀림 없다. 그것은 신라(新羅)의 헌강왕의 때에, 남산신의 춤을 표현한 서리髥춤(백발, 수염이 많은 얼굴의 신의 춤)이 해져, 그 후이어서 가면이 만들어진 것부터도 명확하다 (『3국유사』). 또 연말의 대儺에도 소박한 액막이의 가면戱가 있었을 것이다. 그러나, 이러한 가면의 춤은 축도와 축문을 주로 한 것으로 새롭게 초래된 【관데】의 가면戱와는 다르고 있었다고 보여진다. 그러면 새로운 가면戱와는 어떠한 것이었던 것일까?
미카와(三河) 회가면戱의 사람들
1촌의 여신閣씨.
2위령. 혼례에 계속되어서 초야의 공잠도 연기할 수 있다. 서(徐) 깊은속 히로시(昊) 『【소난쿳】가면戱』에서.
3흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
4소의 고환을 파는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
5량 반과 학자의 사이에서 고환의 효력을 퍼뜨림하는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
6【죠렌이】. 양반의 종자로 기묘한 익살꾼. 촬영 돈 히데오(秀男).
7승면. 촬영 돈 히데오(秀男).
8 젊은 여자와 승. 동아시아에서는 유서 깊은 演戱. 민속의 안의 승은 좋아하신다.
9무당과 같은 노파가 제사의 장소에 도래한다.
10학자면상은 정귀신에게 통한다. 원래는 젊게 해서 죽은 남자의 귀신인가? 촬영 돈 히데오(秀男).
11량 반의 얼굴은 호호야 그렇게(그처럼)이라고 하고 있다. 촬영 돈 히데오(秀男).
경상북도(慶尙北道) 안도(安東)군 강회동굴의 가면戱는 고려(高麗) 중기(이두 현),혹은 후기인가 말기 (13-14세기, 서(徐) 깊은속 히로시(昊))에 형성되었다로 여겨지고 있다. 가면의 조형, 강회의 동족부락의 변천 전승과 가면제작에 휘감기는 전승등이 그 근거이지만, 나는, 게다가 다음과 같은 이유로 『고려(高麗)사』의 【관데】의 등장으로부터 전후 그다지 멀지 않은 시기에 형성되었다고 생각한다.
그것은 2점에 집약된다. 제1는, 이 가면戱의 종교적 기반에 여신의 위령이 있어, 이것은 당시의 동아시아에 있어서는 새로운 관념이었다라고 하는 것은 있다. 다시 말해, 전승에서는 15나이로 시집가고, 어린이도 없고 불행한 죽는 법을 한 여성을 마을의 여신이라고 해서 그 임시의 진혼에 최대의 근거를 두고 있는 것이다. 이러한 여신이 성隍신으로 여겨진 것은 결코 고대적인 제사가 아니다. 그것은 오히려, 산천에의 기도라고 하는 예년 되풀이되어 온 고대적인 제사 위에 부가된 새로운 공양이었다. 덧붙이자면 중국에서도 역시, 동족제사에 있어서 불행한 죽음, 특히 여성의 죽음의 장의가 중요한 것이 되고, 이후에는 그것을 주제로 한 희곡(남戱)이 발전했지만, 그 맹아는 송부터 바탕으로 이르기까지의 시대이었다 (다나카(田仲) 가즈나리(一成) 『중국 연극사』). 이러한 사령공양은 장戱혹은 儺戱에 유래하지만, 이것이 원래의 【관데】의 演戱의 뿌리⊙에는 있었다고 보여진다. 그것은 송값의 중국에 퍼진 도시문화 및 불교문화에 유래하는 것이다.
제2로, 이 가면戱는 마을의 여신의 위령이라고는 해도, 등장 인물이 대부분 유상무상의 종류다라고 하는 것은 있다. 이것은 역시 서리髥춤등의 차원과는 다른 것이다. 오늘, 전승이 착종한 부분도 있지만, 강회가면戱에는 소를 도살함의 흰정(다른 책에서는 사형 집행인도 등장), 【죠렌이】 (익살맞은 儺사람), 턱모자람면에서 한쪽 발 마비의 【이메】, 승과 【푸네】(기녀), 친척 없는 노노파, 바보 취급되는 양반등이 나타난다. 이 등장 인물은 서로 모두, 쇠사슬 하고 있게 오신다. 흰정은 조선 왕조 중기이후는 격리된 마을에서 주로 해서 소를 도살함, 수양버들기만들기에 한정되어, 양민(백성)과 성교할 일도 없고 얕봐져서 살아가지만, 강회가면戱의 흰정은 완전히 다른 모양인 이미지다. 당당하게 뛰어다녀 큰 자귀로 소를 일격에 쓰러뜨리고, 곧 바로 고환을 꺼낸다. 그리고 정력증강에 좋다고 해서 관중을 향해서 이것을 팔아 버리자로 하면, 어리석은 양반들이 경쟁해서 산다. 물론, 사람들은 대소하지만, 그것은 결코 조소가 아니다. 이것은 이후에 흰정으로 여겨진 사람들이 아직 사회적인 차별을 받기 이전의 모습이었다라고 생각된다. 그들은 고려(高麗)시대는 요(楊) 미즈(水) 척, 뒤이어서 물척이라든가 禾척이라고 불리고 있어서, 그 출신경위는 호(胡)종 (성종 22(1491)년4월 무용)이라고 보여지고 있었다. 그들을 이방인으로 하는 견해는 『고려(高麗)사』열전 조준(1346-1405)의 목덜미에 이미 개미, 「禾척, 재인은 경종에 것 얻지 않고 국민租를 좌식하고, 항산도 없고 항심도 없고 야마야(山谷)에게 상聚 기다려서 와(倭)도적을 사칭해」 て 있다고 말한다. 그리고 또 「달단과 禾척은 소를 도살함을 가져서 고(耕) 식(食)에 대신한다」라고 하고 있기 때문에, 고려(高麗)의 말기에 그들이 농본의 입장부터 보면 다른 존재로 여겨지고 있었던 것은 명확하다. 단지, 일방으로는 주군, 站에서는 「모두, 소를 宰 말야 손님을 饋 했다」라고 하는 것이어서, 禾척들 나막신의 끈 사람들의 사이에서 공공연하게 활동하고 있었던 것일 것이다.
그런데, 승이 기녀를 처음 보아서 무쓰미(睦)び 맞는 演戱는 송값의 인기 있는 연목의 하나이었다. 「? 화상」이 그것으로, 중국에 있어서의 요전 사에는 당(唐)이래의 바라문(brahmana)춤의 전통이 있어, 이후에는 「오토(大頭) 화상」라고 정월의 민속이 되었다. 승의 「파계」는 조선에서도 일본에서도 같이 인기 있다 演戱에서 민중의 지지를 받았다 (『새자루가쿠기』에 그것인 듯한 것이 있다). 이것을 불자의 파계에의 교훈,또 특권화한 사원에의 풍자로서도 좋지만, 조선의 巫의 「세상尊【굿】」의 안의 놀이에 있는 듯이, 원래는 산으로부터 온 고귀한 모기 미가 젊은 여자에게 신생을 하사하는 演戱라고 말해야 해서, 에도(江戶) 기에 교토(京都)에 드러난 가장의 「ちょろ건(腱)」등도 역시 동류일 것이다. 중국 저장성(浙江省)의 민속이라도 원소의 때에, 오토(大頭) 화상의 演戱를 하면, 액막이가 된다고 말해지고 있다 (? 婉너 『사오성 떨어져 국민』, 인문출판사, 2008년). 단순한 여흥이 아니었던 것은 확실하다.
다음에 친척이 없는 노파. 「양반의 집에서 아래근무의 생활」을 한 것을 몸세상타령으로 읊으므로, 거기에는 본래의 「천민」노비의 애감이 담아져 있다. 단지 다른 책에 의하면, 이 노파는 주인과 이별해서 전국을 표류하고 있는 여성에서,혹은 다른 가면戱를 참고로 하면, 걸어 무당과 같은 사람이었을 지도 모른다. 실제로, 고려(高麗)말기의 성을 엶에는 巫가 있어서 오늘 있는 것 같은 요란하게 떠벌리는 巫의를 하고 있었다 (이규보 「노巫편」). 또 조선 왕조 초기에는 공동체를 떠나서 비구니가 되거나, 권함 행위를 해서 걷는 사회당등의 여성이 다수 있었다. 물론, 그 생활은 불안정해서, 중에는 길 무너져서 죽는 노노파도 있었을 것이다. 과연 가면戱의 노노파는 허무하게 죽는 사람이 많다. 장의의 의를 초래하는 배역이라고 하면 좋을 것인가?
강회가면戱의 등장 인물은 이러한 상품들이었다. 이러한 잡다한 등장 인물을 하나의 테두리의 안에 넣는 것이 끝나서 가능한 것일까? 그것이 사실은 새로운 【관데】의 演戱의 안에서 해진 것이라고 말할 수 있다. 이것은 송값의 「회사」를 중심으로 형성된 사령제사의 모양과 관계된다. 다나카(田仲) 가즈나리(一成)는 송값 고(鄕)촌의 시장의 묘를 중심으로 「사회」가 형성되어, 거기에서 3종의 고혼제사가 보여졌다고 한다. 제1는 정월 춘절의 풍양예의에 부수되는 고혼제사, 제2는 묘의 신이 도롱이 생일에 하는 것, 제3는 임시가 대규모인 고혼제사에서 9幽? 이라든가 황? 절 음식(채식 요리)라고 불리는 것이다 (『중국 연극사』). 강회가면戱는 별신【굿】이라고 하는 10년에 1번 정도의 임시의 제사의 안에서 해지고 있어서, 정말로 9幽? 의사상을 뿌리⊙에 가지고 있었다.
9幽? 는도교의 절 음식(채식 요리)? 의 하나다. 북송의 뽑는 사람 미상의 「황? 9幽? 장해물이 없음 밤 절 음식(채식 요리)대로」에서는 고혼의 종류를 12 채용했다. 나라를 위해서 죽은 영웅, 문신, 손님상, 프랑스승, 도사, 공장(장색), 고역에 죽은 사람, 억울한 죄사망자, 반역자, 범죄자, 자살자, 횡사자다. 게다가 이 수는 남송에 이르면 24도 된다 (『중국 연극사』). 그건 그렇고, 같은 것은 불교라도 말하고 있었다. 『瑜말벗(시중)집 요화염입施식(食)의』의 말미에는 「10류 고혼문장」이 있어, 그 가운데에서는 「일절의 노비, 給使」로 해서 빈천에 목숨을 맡긴 고혼, 「일체 장님, 귀머거리,? 벙어리, 발跛, 손 쇠약해져」등,또, 과부의 몸으로 의지할 곳 없는 고혼등을 올릴 수 있었다 (핫토리(服部) 요시오(良男) 『『施아귀그림』을 해독한다』). 이 불교측의 구제의 시점은 수륙회로서 이미 남북조시대에 볼 수 있었다. 수륙회는 드디어 당(唐)말 고다이(五代)이후에는 융성 하고, 실로 근현대에 이르기까지 중국의 사원에서는 이것이 유지되어, 사원경제의 근원과 정말(과연)이었다. 물론 조선에도 수륙회는 전해지고, 민간의 巫속예의에까지 침투했다.
이러한 제도의 관념이 강회가면戱의 등장 인물들의 뿌리⊙에 있었다고 생각하는 것은 무리가 아니다. 조선 왕조의 초기에는, 산야에 있어서의 施식(食)이 문제시 되어, 그 금령이 자주 내놓았다. 세종은, 승헛됨과 남녀가 음악을 연주해 「100종施식(食)」이라고 말해서 사망자공양을 한 것을 들어서 격노했다 (세종 27 <1445>년7월 병술). 조선 아침의 이 施식(食)은 고려(高麗)시대에 수용한 수륙 절 음식(채식 요리) 〔수륙회〕을 계승한 것이지만, 원래는 송값의 고혼들판귀신에게 대한 제도의 의이었다. 왜 그렇게 해야 했던 것인가, 그것은 마을, 지역공동체에 있어서 의지할 곳 없는 사람의 죽음이 재액을 일으키면 간주되었기 때문이다. 유생의 합리 주의로부터 말하면, 객사한 사람을 위해서 낭비에 가득 찬 저주를 한 바에서, 천재나 기근은 막을 수 없고, 귀신에의 베풀기라고 해서 음식물을 물에 던져 넣는 것은 우매의 극한이었다. 그러나, 천재나 기근은 친척이 없는 죽음과 관계가 있다고 보아서 최후까지 이 施식(食)의 의를 계속해서 행한 것이, 송 전(元)시로(代)이후의 동아시아의 민중사상이었다. 이것은 제례로서는 도사나 巫覡에 담당되어,또 제사예능으로서는 儺사람, 【관데】에 의해 담당되어, 나누어도 여성의 세계에 침투했다. 그리고, 동시 값의 조선과 일본에 전해져 가면戱나 괴뢰戱로서 꽃핀 것이다. 일본의 노가쿠(能樂)가 「남녀의 뿌리를 감추는 것」도 없는 발칙한 법체의 예능자의 설교, 논즐거움과 같은 것의 집단적 광소,그리고 권함등 위에 드러나 온 것은 이미 말해지고 있다 (마쓰오카(松岡) 마음평 『능력∼중세부터의 울림∼』). 이것은 고려(高麗)시대의 말기의 예능공간이었다 (연유하러 모리타(盛田) 가토쿠(嘉德) 『중세 천민과 잡예능의 연구』에 의하면, 17세기 순진하게 여전히 「고려(高麗)인」이나 「당인」의 방하가 귀현의 저에 參철(후) 밑 예가 있다).
그러한 예능의 뿌리⊙에 있는 것은 고혼들판귀신의 제도이었다. 단지 여기에서, 더한층 주목받는 것은 그 제도의 의에 생명의 태생이라고 한다 演戱가 부가된 것이다. 중국에서도 수륙회의 의의 안에 아이를 주는 그림상이 보여지고, 제주도(濟州島)의 巫속예의라도 「수륙의 의」는 어린이를 하사하는 고토부키(壽) 이노리(禱)다. 또 전라도(全羅道)의 사령제도의 예의중에 해진 【다시레기】는 출산의 촌극을 포함하고 있지만, 이것은 「다시의 출생」이다로 여겨지고, 명칭 로 보아 생명의 연쇄를 의미하고 있었다. 송값의 도시에서? 화상이 좋아하셔, 그것이 주변에 전해지고,또 민속화해서 전승된 것도 이 맥락 위에 있다. 조선이나 일본에서는 가면戱의 안에서 출산을 연기하는 것이 있다.
이렇게 보는 것에 의해 조선의 【관데】들의 용모가 보다 깊게 나타내진다. 그들은 이방인이며,또 무엇 보다도 고혼들판귀신의 제도를 演戱 하는 새로운 예능자이었다. 그 본질은 사령에게 부근, 나메라(滑)稽 추잡한 演戱와는 완전히 다른 귀신의 용모도 있었다. 그리고 그 것으로 두려워할 수 있는 것은 있어도, 그들은 결코 업신여겨지는 것 같은 사람이 아니었다.
4조선 왕조의 천민들
원래로부터 온 【관데】의 演戱는 마을이나 지역공동체의 안녕과 생명의 연쇄를 회복하기 위한 것이었다. 그러나, 조선 왕조를 시작한 유생들은 이러한 관념은 도저히, 용인할 수 없었다. 조선 왕조의 초기 100년 정도는, 고려(高麗)왕조의 유물을 청산하는데도 힘을 다한 감도 있다. 특히 사상면에서는 불교와 그것에 영향을 미치는 「淫祀」의 종류는 가차없게 이것을 금했다. 또 이후의 천민의 생성에 연결되는 시책이 여러가지로 실시되어 간다. 태조 2(1402)년 12월에는 「공사賤입, 다쿠미(工)상, 巫覡, 倡매우 뛰어남, 기생, 승니의 자손으로 관직을 부당하게 얻은 사람에게는 일체 전지를 주지 않는 것」으로 했다. 반대로 말하면, 이 시대까지, 그들의 자손은 관직에게 붙는 사람도 있었다라고 하는 것은 있다. 전영보와 같은 사람은 전에 없이는 없었던 것일 것이다.
또 태종의 시대에는 절과 신사가 가죽(혁)罷 되어, 태생이 좋지 않은 승은 환속,혹은 지방에 추방시켜졌다. 미노리(農)는 천하의 큰 근본이며, 재인, 禾척의 종류의 비농업국민의 정착, 동화는 불가피했다. 이동하는 사람들에게 대한 압제는 철저하고 있어서, 재인, 禾척은 「간음과 도둑질을 하고, 살인도 한다」 (세종 4 <1422>년11월 정축)이라고 하는 평가는 오래도록 이어받아지고 있어서 사례는 매거에 틈이 없다 (성종 2 <1471>년 2월 신유, 안 소산(宗三)6 <1541>년 5월 자신해등). 사실로서 그러한 것도 있었을 것이지만, 예측도 적지 않다. 일방으로는, 재인, 禾척을 흰 딱 하고 명명해 농민과 혼인시켜 (세종 5 <1423>년8월 을유), 잡 처시켰다 (세종 9 <1427>년11월 신해). 혹은 호적에 싣고, 평민이나 공사賤사람과 결혼시킨다 (세종 30 <1448>년4월 갑자)이라고 한 동화책을 추진하기도 했다.
그러나, 「재인, 흰정」은 원래 히로시(紘) 노래, 宰죽이기에 익숙해져 있어서 지금도 변경하자로 하지 않는다로 여겨졌다 (예종 일년 (1469)6월 신사). 여기에서는 재인과 흰정이 병렬되고 있다. 요즈음이후가 되면, 재인은 예능자, 흰정은 다만 屠畜과 수양버들기 조형라고 하는 것처럼 구별되게 된다. 이라고는 해도, 원래 「흰정」이라고 명명되었을 때, 거기에는 재인도 포함되어 있었던 것이어서, 양자가 완전히 별인이 되었다고도 단언할 수 없다. 예를 들면, 교토성의 성 히토시(均)관의 주변에 있어서 유교의 제사용에 쇠고기를 준비했니? 사람들은 역시 交婚을 기피되는 사람이었지만, 한쪽에서 산대극(【산데노리】)이라고 불리는 가면戱를 하고, 교토성뿐만 아니라, 근방의 요(楊) 주등에도 외출했다 (아키바(秋葉) 류(隆) 「산 대戱」). 그들은 屠畜도 예능도 담당한 것이어서, 그 본연의 자세는 오히려 고려(高麗)시대의 【관데】,또 조선 아침 초기의 흰정의 그것을 자주(잘) 이어받고 있었다고 생각된다.
재인, 흰정의 이동은 16세기 거의 이후에는 큰 문제가 안되어진 것일 것이다. 왕조실록의 기록은 적다. 특히 흰정은 屠畜을 다만 할 것인가,혹은 군졸로서 징집되게 되었다 (예전에 재인, 禾척은 제주(濟州)인과 함께 군졸에게 편입되었다. 『고려(高麗)사』세상가 공민왕 5(1356)년). 여기에서 주목받는 것은 조선 아침 후반이 되면, 「대개의 육지국민은 바다남편을 시る것 대부분 소를 도살함 짊어지기와 같다」이며, 이것 때문에 일 회해 남편으로서 등록되면 평민과 상 저항할 수 있지 않고, 자손은 모두, 신분을 숨기자로 한 것이다 (정조 24(1800)년4월 무술). 이 전사는 제주도(濟州島) 출신자에게 대한 시점으로서 15세기에 이미 보여졌다. 다시 말해 「제주(濟州)의 콩 볏겨저 있음也」라고 하는 사람들이 경상남도(慶尙南道)의 해안에서 배주거를 하면서 물고기를 잡아 미역을 채취하고 있지만, 그들은 바닷가의 약탈자가 될 수 있는 사람이므로 서서히 손 명명하게 말하는 취지의 훈령이 내놓고 있다 (성종 8(1477)년5월 자신해).
이것과는 달리 제주(濟州)의 바다국민은 「전복작 말라」라든가 「전복작인」이라고도 불려, 역시 왜구에게 종류 하는 사람이라고 보여지고 있어서, 배반시키지 않는 것 같이 말하는 말이 왕에게서 내놓고 있다 (성종 16(1485)년, 동(同)20(1489)년). 그들은 귀중한 전복을 채집해서 진상하는 사람이므로 일방으로는 유용했다. 또 그들에게는 「머리무악」이라든가 「머리 볏겨저 있음」이라고 하는 별칭도 있었다. 그리고 와(倭)도적에게 필적하는 배의 쓰는 사람에서 활용하면 유익하다로 여겨졌다 (성종 23(1492)년). 머리무악은 한라산(漢拏山)의 별칭이지만, 머리 볏겨저 있음은혹은 까까머리에 유래하는 것일지도 모른다. 중국 송값에는, 승, 비구니, 노옹, 소아, 유우(優) 레이(伶), 모서리(뿔)⊙(스모), 泗고기잡이 한(어부), 타여우인 (사냥꾼), 볏겨저 있음종기(부스럼) (해들 거미의 뒤가 빛난 머리), ⊙볏겨저 있음 (완전히 빛난 머리)은 「10님의 프랑스」로 여겨졌다 (하마(浜) 이치에(一衛) 『일본 예능의 원류散즐거움생각』). 다시 말해 까까머리인들로, 이 대부분이 드디어 제구실을 할 양민(백성)의 부류로부터 구별, 차별되어 갔다. 그리고, 양민(백성)과 구별된 사람들의 혼인은 【관데】와 巫당(무당), 흰 딱 하고 사회당등 「천민」끼리의 물건이 되어 간다.
그런데, 승, 승니가 민간에서 기도나 제례를 하는 것은 말할 필요도 없게 압제의 대상이었다. 그러나, 예를 들면 수륙 절 음식(채식 요리)는 조선 아침 중간에 여전히, 해지고 있어서, 「수도중의 남녀가 撤시 해 奔물결」밑(선조 39(1606)년6월 자신해). 관헌이 이러한 행위를 처벌하는 것은 당연해서, 그 거듭하기가 결국, 민간의 종교자와 그 찬동자를 사회적으로 깎아내려 간다.
조선 아침의 초기에는, 「유녀」나 「꽃딸」이 되는 사람도 이미 많아, 이외에도 레이(禮) 소(曹)의 상신에 의하면, 승의 무리에 끌어 들여져 비구니가 된 여자들이 있었다. 또 상인들이 양가의 딸들을 속여서 淫여자로 하는 것, 무뢰한에 데리고 가진 여자들이 몸을 파는 것도 지적되었다 (성종 3(1472)년7월 을미). 이러한 현상은 반드시 폭력이나 돈것만으로 강요당한 것이 아니었을 것이다. 그것은 상응하게 여자의 측이 주체적인 행위이었다고 보지 않으면 안된다. 그러나, 이러한 사람들은 「소중화」에 있어서는 안되므로 붙잡을 수 있었다. 그것은 엄격한 것으로, 위반자의 장래는 노비 즉 천민이 되는 것이었다.
같은 것은 「사장」이라고 그것을 따른 여자들에 대해서도 말할 수 있다. 사장과는 회사곳간의 대표다. 회사곳간은 아카네(朱子)가 시작한 회사곳간법에 배워서 도입된 민중구제용의 창고다. 여기에 비축된 곡물을 가을에 저금리이어서 대출했지만, 사장은 이 제도를 사물화해 간다. 사장은 승인 것도 있었다. 또, 거사를 자칭할 것도 있었다. 조정에 있어서, 그들은 남녀의 무리를 없음, 생업을 버려서 차이역을 달아나, 錚과 북을 울려서 어디에나 싸다니는 것등의 점에서 도저히 용인할 수 없었다 (예종원 (1469)년, 6월 신사). 이 일단은 당초는 교토성내(城內)에서 「회사」를 결성하고, 거기를 염불소로서 집단생활을 했다. 그들은 불도에 귀의할뿐만 아니라 아침에는 시리(이익)을 탐내 밤은 아미타불을 칭했다. 게다가, 이러한 것을 번화가의 부녀자가 동경하는 상태이었다 (성종 2(1471)년6월 자신유). 그러나, 거사와 사회당은 왕조후기에는, 가무와 매음으로 알려지는 것 뿐의 보잘 것 없는 방랑 연예인집단의 하나가 되어 간다.
재인, 흰정, 바다국민, 승, 승니, 사장, 거사, 사회당들이 엄격하게 규제되어 가는 가운데에서, 巫覡도 또 동일하게 규제되어 비천시 되어 간다. 그 조선 왕조에 있어서의 기술의 분류, 정리는 이능화의 「조선巫속생각」 (국문 「조선의 巫속」)에 자세하다. 상세한 것은 그쪽에 양보하지만, 다음일은 적어 두고 싶다. 다시 말해 巫覡의 제례, 도성에의 거주에 대하여, 관헌은 집요하게 몇 번도 탄압을 가했지만, 고종(1863―1907)의 때에도 여전히 궁중에는 나라巫의 출입이 보여진 것이어서, 결국, 금령巫의 정책은 성공하지 않았다. 그리고 그 근본의 원인은 뿌리⊙에 주자학에서는 대체하는 방법이 없는 민중 (특히 여성)의 영혼제도 즉 구제가 있었기 때문이다. 실제로, 왕조 초기의 巫는 의원이며 동서활인 원(빈민구제 시설)로 의료행위도 했다. 이론서도 조직도 없고, 문자도 모르는 巫覡에 어느 정도의 논리가 있는 것이다인가라는 지식인의 시점에서는 巫속을 정면에서 눈여겨 볼 수는 없었다. 이러한 것이 왜 500년이나의 사이 계속된 것인가?
그것에의 회답은 왕조의 지식인에게서는 내놓지 않았다. 그리고, 그것은 조선 왕조의 붕괴후, 1927년이 되어서 처음으로 이능화에 의해 종교학에 가치가 있는 시점에서 체계적으로 진술할 수 있었다. 그러나, 그것조차 지나치게 빨랐던 것인가, 반응은 없었다. 이능화에게도 물론 부족은 있지만, 그 일련의 실적이, 『조선 불교통사』 「조선巫속생각」, 『조선 여자속생각』, 『조선 해어 꽃사』 (기생의 문화사)이라고 한 경과를 걷고 있는 것을 정확하게 비평하는 사람이 있으면, 적어도 거기에 조선의 여성생활사가 말해져 있었던 것을 알아차렸을 것이다. 그것은 한쪽에서 조선의 「천민」사와 깊게 관계되어 있었던 것이다. 그러나, 그러한 기축은 지금조차 명확히는 되지 않고 있다. 이 것은 조선의 근대의 배움지식, 그렇다면 중국과 일본의 속성 지식으로서 시작할 수 있었던 근대의 배움지식의 계보가 안고 있었던 가장 큰 한계점이었다 (야마무로(山室) 신이치(信一) 『사상과제로서의 아시아』, 그 근대 아시아의 배움지식에 대한 부감, 용이 주도한 검증 작업을 참조).
5免賤과 근대
지식인의 근대, 그들의 인식이 어때라, 조선 왕조의 「천민」들에게도 근대는 다가오고, 드디어 통과해 갔다. 이 때 그들은 어떤 생활을 맞이한 것인가? 아마에 새지 않고, 대부분은 모른다. 【관데】에 대해서 말하면, 17, 8세기이후, 판소리가 일어나면, 이 가수의 안에서 예술가기질의 노래손님도 나타난다. 그것은 유일하게 【관데】가 신분의 상승을 실현시킬 수 있는 길이며, 그 때문에 가창법도 추잡함을 죽이기ぎ애조(슬픈 가락)을 깊이 표현하는 방향에 폭을 넓혔다. 이것은 일본의 능력이 걸은 길을 일면에서는 닮아 있었다. 그러나, 그러한 노래손님은 소수이며, 대부분의 【관데】는 민간의 방랑 연예인으로서 세상을 건넜다. 특히 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】에 대하여는 사회적인 평가가 낮게, 송석하등도 「광대자신의 자각이 필요」라고 좋은, 「이론가나 음악가와의 제휴」가 없으면 장래는 없다고 보고 있었다 (「전승 음악과 광대」).
그것은 매우 허황된 소원한 비평이지만, 근대의 서양연극이나 음악의 충격을 받은 당시의 지식인으로서는 어쩔 수 없는 곳이 있었을 것이다. 단지, 왕조의 후반기, 양반층의 도덕성의 결여, 무능인척 하기에 대하여, 가면戱의 안에서, 어리석은 양반이 하인에 의해 완부 울기까지 우롱되는 장면은, 역시, 근대에 접근해서 발전을 이룩한 것이라고 해야 해서, 거기에는 시대의식이 반영되고 있었다고 말할 수 있자. 원래, 동료가 주인을 꼼짝 못하게 하는 모티프는 이방인【관데】의 演戱의 안에는 있었다. 그것은 중국에서 하면, 당(唐)값의 參군戱 [멍한 상태(參군)과 돌입해 (아오이(蒼)⊙)의 대화에 의한 演戱]이래가 낡은 전통이며, 고려(高麗)의 매우 뛰어남인,그리고 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】들에게 계승되어져 온 것이다 (조선 아침의 연산군 시대의 매우 뛰어남인은 왕앞 어울려서 풍자의 演戱를 하고, 처벌되었다. 그것은 이 왕 앞에서는 결사적이었다). 그리고 또, 일본의 자루가쿠의 기예, 교토(京都)에 나타난 자연거사들의 선승에 볼 수 있었던 분방함, 광언의 웃음등에도 같은 풍자의 정신이 보아서 해석될 것이다.
그러나, 그렇기는 해도, 오늘에 전승되고 있는 가면戱의 양반 풍자의 대사는, 그 날카로움에 있어서 參군戱나 「광언」의 수준을 훨씬 넘고 있었다. 예를 들면 하인【마루토기】는 주인을 향해서 말대꾸를 한다. 게다가 그 때, 양반의 피에 양반이외의 피가 혼합되어 있다고 욕을 퍼붓고,또 「대궐안 깊은 곳님 (어머니)」을 집어들어서는 성적인 욕설을 담은 것을 말한다. 게다가 조금 듣는것만으로는 의미를 모른다. 거기에서,또 수사를 바꾸어서 같은 것을 말한다. 이렇게 해서 하인의 말은 보다강한 우롱이 되고, 대부분 저항의 말이 되어 간다.
그렇다고는 해도, 왕조도 소멸하고, 식민지에 배출된 【관데】들은 모두가 옛 시 값의 유물로서 살아가는 것 이외에는 없었다. 그 님은 영화 『서쪽편제 (풍의 언덕을 넘어)』에 찍어내졌다. 돈명坤 분하는 【도사】주변의 가수【유본】이 연석에서 고집을 부린다. 그 때문에, 손님의 남자에게서 「재인(강변자)의 버릇 해」라고 욕을 퍼부어진다. 그러자, 【유본】은 「이 시대에 아직 양반이다든가 재인이다든가 말하는 것인가」라고 해 되돌린다. 그것은 근대의 【관데】들의 기껏의 대변이었을 것이다. 그러나, 판소리를 가져서 도는 【관데】의 시대는 사라져버렸다.
그런데, 천민중, 최하층으로 여겨진 흰정의 근대는 어땠던 것인가? 조선의 근대사상 잘 알려져진 1894년의 갑오갱 장(張)(마사루(甲) 오개혁)의 안에서, 군국기 쓰토무(務) 장소는 12개조의 제의를 했지만, 거기에 「역인, 倡매우 뛰어남, 가죽(껍질) 다쿠미(工), 및 免賤을 허용하는 것」이 있어, 이것을 국왕은 승인했다. 이 중의 「가죽(껍질) 다쿠미(工)」는 가죽(껍질)만들기를 짊어진 사람들로 많은 흰 딱 하고는 직역이 다르지만, 여기에서는 흰정도 포함된다고 보여진다. 그들은, 이것에 의해 강제된 일로부터는 풀어지게 되었다. 그러나, 그 뒤도 흰정에 관한 상황은 변함없었다. 이마무라(今村) 팔찌가 재빨리 흰정을 논하고, 이어서 이마니시 류(今西龍), 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉), 이(李) 사토루(覺) 종, 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생, 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)등이 일본어로 논구했다.
이들을 통해서 안 것은, 왕조의 말기의 흰정은 호적이 없으므로 족보도 없었다. 이름에 인의등의 단어는 이용할 수 있지 않고, 일상생활에서는, 주의복(외투), (입기)쓰기물, 상복, 여성의 비녀의 입어 볼 일이 생기지 않고, 혼례 때의 탈것, 장례의 상가마도 금지되어, 양민(백성)에의 말づ인가는 어린이에 대하여도 겸손했다. 그리고, 갑오개혁이후, 호적을 주어졌다고는 좋은 조, 거기에는 「屠한」의 글자가 기록되어 사회적인 차별은 여전해 있었다.
단지, 흰정들은 왕조시대에도 「쇼(承) 도(堂) 미야코(都)가」라고 하는 부조 기관을 가지고 있고, 각지에 지부가 있었다. 이러한 조직이 있었기 때문인지, 일본에서 수평사의 창립이 있었던 다음 1923년5월, 조선에서도 경상남도(慶尙南道) 진주에 있어서 형평사가 조직되어, 평등에의 선언이 내놓으면, 순간적으로 전국에 펼쳐져 사원공칭 40만명의 일대사회 운동이 되었다. 그것은 주위에서의 심한 반발을 일으켰지만, 1930년경까지는 활발하게 전개되었다. 그러나, 드디어 노선문제로부터 갈등이 생기고, 퇴조를 향하고, 1935년, 명칭을 대동사와 변경한 뒤, 경제 활동을 주로 한 기관이 되고, 그것도 1940년경을 경계에 종언 했다. 해방후는 조선 전쟁의 대혼란의 안, 흰정의 특수부락은 서리가 내림하고, 사회적으로 차별되는 적이 없어졌다로 여겨지지만, 흰정을 주제로 해서 창작 활동을 계속한 작가 정(鄭)동 기둥은 현재도 「차별 의식은 남아있다」라고 해서 특히 지식인의 사이에 그것이 강하다고 한다. 그리고, 진주에 형평운동의 기념관을 만들고, 흰정의 생활과 역사에 관한 자료를 전시하는 것을 제안했지만, 형평운동의 연구자로서 알려지는 지식인이 그것에 이의를 외쳤다고 하는 것을 말하고 있다 (『신의 지팡이』). 그것만(그만큼) 흰정의 문제는 생생하다고 하는 것일 것이다. 오늘 여전히, 진주시(晋州市)에 공설의 기념관은 없다.
6 생각하는 실마리(연고)로서의 「천민」
한반도(朝鮮半島)에서는 해방후도 흰 데이(丁)촌, 재인마을, 재가승(함(咸) 가가미(鏡) 길의 산간부에 있었던 까까머리의 사람들로 차별되었다)의 마을등이 남아있었지만, 현대에는 남북 어느 것의 사회에도 존재하지 않는다. 단, 흰정이나 巫당의 가계에의 차별적 시점이 없어진 것은 아니다. 차별 의식이 불식된 것인가 아닌가는 세대, 지역에 의해도 다를 것이다. 자신의 성씨가 위조양반 가문이라고 공표한 역사가가 있다고는 들었지만, 흰정, 巫당의 가계라고 하는 것을 자칭하는 것은 대충 생각하기 어렵다. 가능하다면 그러한 것은 밝히고 싶지 않다라고 하는 것이 한국 사회의 공약수일 것이다. 거기까지 추궁하면 차별은 사라지지 않고 있다라고 하게 된다. 또, 가까운 과거에서는 전라도(全羅道) 출신자가 정치경제의 중추에서 부당하게 멀리할 수 있다라고 하는 새로운 수법의 차별이 있고,혹은 중국의 동북지역, 연변등 조정하는 객지벌이의 조선 족동포나 동남아시아 출신의 노동자에게 대한 차별이 일부에는 있다. 흰정이나 巫당은 비유하고, 경제적으로 촉촉해져 있어도 무서운 사람으로 여겨지고, 아마 그러므로일 것이다, 접촉하고 싶지 않다고 한 선입관은 강하게 남아있었다. 이렇게 보면, 근대 일본의 사회가 屠畜, 피혁업,혹은 선(Saint) 모기나 집배의 사람들,또 「해고 단(彈) 에이(衛) 가도(門)」 (사형 집행인)등에 대하여 두려움 차별한 상황과 그다지 대신이 없게 된다.
단, 역사의 안의 차별을 공연이게 논한다고 하는 점에서는 명백하게 다르다. 예를 들면 2002년2월6일, 한국의 SBS방송은 음력정월의 특별프로그램에 드라마 「흰정의 딸」을 방송했다. 한국에서는 한 때 텔레비전 보도가 너무나 비판 정신을 잃어버렸기 때문, 「바보상자」라고까지 말하여졌지만, 92년의 민간인정부 이후는 생각하는 소재를 제공하는 매체라고 하는 일면을 되찾고 있다 (군사정권의 이면, 그 최후의 비극 「광주(光州)」를 찍어낸 드라마 「모래시계」 <1995년, SBS방영>을 모르는 한국인은 없다). 그건 그렇고 「흰정의 딸」이지만, 이것은 20세기 첫어울린 실화에 취재한 것으로, 상당히 무거운 드라마다. 흰정의 아버지를 가지는 【온뇬】이라고 하는 이름의 여자 아이가 선교사의 의사를 만나고, 이화학 당으로 근대교육을 받는다. 아버지는 가슴에 흰정의 표시인 천 조각을 하지 않는 것으로 역인에게서 구타되어, 급한 환자의 왕진도 거절당한다. 어머니는 광장의 군중에 의해 「흰정閣씨승마 경쟁」이라고 하는 잔혹한 놀이의 말로 된다. 어머니는 능욕을 견디어낼 수 없고 자살한다. 어머니의 장례식으로 상가마를 채용하자로 하면, 마을사람에 의해 상가마는 때려 부수어진다. 이러한 것은 실제로 있었을 것이다. 그리고, 이화학 당의 6년간의 면학이 끝나고, 졸업식의 석상, 대표에게 뽑힌 【온뇬】은 강당에 參자리 한 많은 사람들 앞에서, 자신이 흰정의 딸인 것을 고백했다.
드라마는 첫머리에 일본군에 의한 조선인의 체격, 체질검사에 흰정이 강제 동원된 역사적 사실을 두고, 도중, 왕조말기 이래의 흰정가족의 수난을 그리고, 드디어 【온뇬】의 용기 있는 고백과 청중에게서의 축복의 박수로 끝난다. 대단원풍의 끝나는 방법이 약간 마음에 걸렸지만, 그것은, 차별은 필경, 구축물에 지나지 않는 것으로 맥이빠지게 붕괴될 수 있는 것이라고 하는 메시지일지도 모른다. 어떻든간에 근대의 흰정을 생각시키는 소재에는 충분히 되고 있다. 이 드라마를 현재의 한국 사회가 어떻게 시청한 것일지는 모른다. 단지 적어도 한국 사회가 몇십년 전까지 존재한 가혹한 사회차별의 역사를 정면에서 생각하자로 한 것, 그러한 생각하는 풍토가 있는 것은 주목해도 좋다.
물론, 오늘 한국에도, 상품 나머지의 일상, 「자유」를 힘 겨워하는 젊은 세대는 적지 않게 있어서 역사떠나기도 또 보여지는 곳이다.
그러나 일방으로는, 일본의 통치, 조선 동란, 군사정권아래의 민주화 투쟁등에 의한 아픔을 피부로 아는 사람들이 건재해서, 그것을 구전하는 사회풍토가 존재한다. 향락에도 대담하지만, 아픔에도 또 민감한 사회다. 물론, 그것이 하는 밧줄ち 모두의 차별의 해소에 직결한다고는 말할 수 없을 것이다.
그러나, 나부껴서 오늘 일본에서 피차별 국민의 근대를 주제로 한 드라마를 정월 프로그램에 방영하는 것등이 가능할까? 우선 그러한 주제는 기획에조차 오르지 않을 것이다. 그렇게 해서 일방으로는, 현실의 다양한 아픔이 드디어 복합적으로 재생산되고 있다. 역사의 아픔에 둔감한 사회가 현실의 아픔에 민감할 리는 없기 때문에 당연하다. 그리고 염려하는, 「우리들의 텔레비전 미디어등은 「부적절한 용어」를 제거하는 것에는 매우(대단히) 열심이지만, 역사의 아픔을 뿌리부터 고치게 하기 위한 바른 길을 따라 가는 것에는 완전히 배짱이 없어지고, 그것이야말로 나날(날마다) 「바보상자」에 다가오고 있는 것이 아닐까? 그렇게 해서 일본이라고 하는 공동체는 정말로 그 무비판, 신경이 무딤에 의한 순간의 안태를 탐내고 있는 것 뿐만 아니는 것인가라고.
천민으로 여겨진 사람들의 역사, 그것은 지금, 봉인을 풀어지지 않으면 안된다. 그리고 이후, 처음으로 우리들은 동아시아의 동시 값성을 재인식 할 수 있을 것이다. 그들을 포함시킨 동시 값적인 공동체는 무심결에 5, 600년 앞에는 확실히 아직 보여진 것이다. 그리고, 그러한 본연의 자세, 생활의 양상을 구체적으로 알면, 사실은 차별 의식의 대부분은 뜻밖에 가까운 과거에 이식할 수 있었던 빌린 물건에 지나치지 않는다라고 하는 것을 알 것이다.
한반도(朝鮮半島)의 「천민」은 동아시아의 기층문화의 여러 가지 모습에 육박하는 관문열쇠의 하나다. 이것은 모르게 마치는 문제가 아니다. (2008년10월5일 보유)
참고 문헌(글 중에 인용한 것
巫覡, 【관데】의 민속종교적 배경에 대해서 노무라(野村) 신이치(伸一) 「조선문화사에 있어서의 사망자영령의 공양」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년
기생, 노비, 흰정, 사승, 巫당등에 대해서 안우식 편이유(번역) 『아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1982년 안우식 편이유(번역) 『속·아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1988년 숲鍾나라 『서울 성하에 한강(漢江)은 흐른다』, 평범사, 1987도시가와(年川)촌 미나토(湊) 『기생』, 작품사, 2001년
요(楊) 미즈(水) 척·禾척·물척, 재인, 흰정에 대해서
이마무라(今村) 팔찌 「조선의 특수부락」 『조선 풍속집』, 사도관, 1914년 이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」 『예문(예술과 문예)』 9권 4호, 1918년 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉) 「조선의 흰 딱 하고 우리괴뢰아이」 『사 숲』 9권 9호, 1918년 이(李) 사토루(覺) 종 「조선의 특수부락」 『조선』 104호, 1923년 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생 「조선의 흰정계급:특수부락-형태」 『조선』 211호, 1932년 아유카이(鮎貝) 송이之신(進) 「흰정, 附물척, 禾척, 요(楊) 미즈(水) 척」 『잡攷』 5輯, 1932년 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』국서간행회, 1973년 복각)돈정아름다움 「19세기말·20세기 초기에 있어서의 「흰 데이(丁)」」이이누마(飯沼) 지로(二郎), 강재언 편 『근대 조선의 사회와 사상』, 미래사, 1981년 스기야마(杉山) 지로(二郎) 『유민의 계보』, 오즈치(靑土)사, 1988년
형평운동에 대해서
돈중燮 『형평운동 연구』, 한국 사회과학연구소, 肯신(愼) 유카리(紫), 1990년, 서울 돈긴대저, 『형평』번역 편집 위원회번역·편집 『조선의 피차별 민중』, 부락해방 연구소, 1988년
巫覡의 역사에 대해서
노무라(野村) 신이치(伸一) 「이능화 「조선의 巫속」주 (상)」 및 「이능화 「조선의 巫속」주(아래)」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, No. 29, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년 (이것은 이능화 「조선의 巫속」잡지 『조선』, 조선 총독부, 1928―29년에 7회 게재되었지만 복각에서, 거기에 이유(번역)주를 첨부한 것)
예능사 및 가면戱
노무라(野村) 신이치(伸一) 『가면戱와 방랑 연예인』, 개미한 서방(책방), 1985년 이두 현 『조선 예능사』, 도쿄대학(東京大學) 출판회, 1990년 다스키(田耕) 아사히(旭) 『한국 가면극 그 역사와 원리』, 열이야기 당, 1998년, 서울(호세이대학(法政大學) 출판국에서 일역 2004연간) 돌아간다
"the untouchable underclass people" in korean peninsula;codicil
by Shinichi Nomura in Keio University
「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)
野村伸一
* 付記 本論は 「「賤民」の文化史序説」『いくつもの日本5』、岩波書店、2003年、161-190頁の原稿に補訂を加えたものです(2008.10.19)。
一 「賤民」の文化史
賤民ということばは今日の日本において公の場所では用いないことになっているらしく、新聞や放送で見聞きすることはまずない。そして、そのことに対して特に異議を唱える公論もないのをみると、日本文化は大方においてもはやそうしたことを論じる必要もない段階にあるということなのであろう。日本社会にいわれのない「蔑み」に苦しむ人びとがなければそれでもよいわけである。しかし、現実はそうではなかろう。「不適切なことば」を排除し、うわ繕いは念入りだが、次つぎと疼きや痛みに由来する不協和音が聞こえてくる。その声、音が社会のどのような片隅から出てくるのかは予想もつかないが、それが声にならないやるせなさから発されたものであることには違いがない。
ここで朝鮮の民衆文化史を振り返ってみよう。それは実は「賤民」とされた人びとの声なき歴史と不可分なのである。朝鮮王朝後半には通念として「七般公賤」ということがいわれた。すなわち、それは妓生、内人(宮女)、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、官奴婢、有罪の逃亡者である。また「八般私賤」ということもいわれた。すなわちそれは、僧侶、伶人(楽工)、才人(河原者)、巫女、捨堂(社堂)、挙史(居士)、鞋匠、白丁である(今西竜「朝鮮白丁考」参照)。さらに盲人の占い師、漁夫、海女、山尺(山で薬草などを採る者)、各種の匠人、私奴婢なども賤民視された。
この人たちをめぐる少なくとも五百年の文化の歴史は、朝鮮の社会生活史そのものである。もちろん今日、賤民などということばは仮初めにも対人関係において使ってはならず、その意味では見慣れぬことばであってよい。しかし、それは歴史の上で、かれらの正確な位置付けがなされていればのことである。賤民とされた人びとは歴史のはじめからそうであったわけではない。その大半は朝鮮朝のはじめには良民の類いであり、単に儒教の礼儀に則った暮らしをしなかっただけなのである。高麗時代、白丁は良民を指すことばであった。また朝鮮朝の初期の賤民は公私の奴婢だけであった(劉承源『朝鮮初期身分制研究』)。
それでは、この人びとはいかにして「賤民」とされていったのか。これは朝鮮王朝の一貫した王化、あるいは教化の政策が王朝後半になって副次的に産み出したものということができよう。要するに、奴婢に逆賊または囚われの敵対者といった規定があるのと同じく、理由はさておき化外の民とならざるをえなかった者たち、あるいは王化のソトにみずから出ていった者たちが徐々に賤民とされたのである。王化のソトにも相応の共同体はあったが、かれらは王朝社会のなかでは何とも抗弁のしようのない不条理な現実を過ごした。ただし、かれらの内なる世界はどうだったのかとなると、そう簡単ではない。
たとえば、賤民のなかでも一段と蔑まれた白丁たちは、王朝の後半においては、獣肉の屠畜を半ば独占的に扱い、経済的には蓄えのある者も多かった。かれらは農民たちとは別の「特殊部落」を形成させられたため、その伝承する生活形態は放っておかれた。そうした白丁村の内部で殺牛の前後におこなわれた儀礼は白丁と牛とのあいだに調和の取れた世界があったことを示唆する。まず屠場は清浄にされ、僧の念仏があり、牛に対しては手斧で急所を二度打ってすみやかに死なせてやる。そして神聖とされる左手に神の杖(刃物)を持ち、牛の霊魂の済度を果たすためには鋭利な刃を準備する。こうしたことの一端はたとえば、白丁への鎮魂ともいうべき鄭棟柱の作品『神の杖』にえがかれている。
しかし、その白丁についても近現代からの遡及が大半であり、近世の実態はよくわからない。同じことは他の賤民についてもいえる。さて、それでは問題をどのように設定したらよいのか。わたしは、賤民の大半は朝鮮王朝のはじめにはいなかったと考える。そこで、分岐点となった朝鮮王朝初期の、いわばまつろわぬ民を取り上げてみたい。かれらの歴史は、今日、韓国において比較的偏りのない目で研究されるようになった。にもかかわらず、なお十分とはいいがたい。いわんや朝鮮社会に対する体系的な教育のない日本では白丁や妓生に関するいくつかの論があるばかりで、その先はないに等しい。朝鮮社会における「賤民」は異邦人あるいは共同体のソトの者たちの「同化」に伴う葛藤の歴史でもあり、それは今日の東アジアにおいて再現している問題でもある。しかし、日本では「賤民」を封印したことにより、かれらの生活史などは 皆目、見当がつかないというのが実情であろう。
この封印状態に対する感受性の無さは何にたとえたらよいだろうか。想像力を喚起するためにはこんな比喩が必要かも知れない。教室で机の上に飛び乗り天真爛漫に遊ぶ子供がいた。それは確かに度を越していたが、咎める者はいなかった。だが、ある日、厳格な先生や父兄が現れた。そして、その行儀の悪さは人並み以下の恥ずべきことだと寄ってたかって詰った。…そういえば、その子のことばはどうも共同体の並のことばとは違う。しかも、およそしつけがない。親の生業はしがなく、一家は貧しいし、やることは何やら怖い。
あとは推して知るべし。監視をするか遠ざけるかだ。かれらの生活とこころの遍歴、それを取り巻く人びとの光景はこんな風に喩えられるだろう。そして、わたしたちの多くはかつてはまだどちらの立場にも多少の覚えはあり、十分、分かり合えたのである。では、その「かつて」とはいつか。歴史の上では五百年前のことであるが、心象としてはずっと近い過去でもある。ここでは限られた紙幅のなか、「賤民」史の序をかたることにしたい。
二 広大の登場
どの賤民からはなしたらよいのか知らない。それならば、ひとつクァンデ kwangde (広大)の話からしてみよう。クァンデは高麗末に現れ、朝鮮朝を経て近代まで演戯をつづけた芸能者である。一九世紀はじめ頃にはなおさかんで市井の男女を巻き込み、世の秩序を乱す不逞の輩とされていた。実学者丁若鏞は『牧民心書』刑典の第五条禁暴のなかで「俳優の戯、傀儡の技、儺楽の募縁〔勧進〕、妖言売術者は並びにこれを禁ずる」と記した。そしてさらに、南部の吏属と将校らは奢濫の風を成し俳優滑稽の演戯と傀儡戯にあそびほうけている。みずからがあそぶので、民も罔くそれに加わり「士女奔波、荒淫無度」のさまである。そのため倉庫の税穀も盗まれる。こうした「雑類」は立ち入りを禁ぜよと。
この種の警告は何十何百と出されていたに違いない。しかし、かれらは社会的に貶められながらも市井にありつづけた。以下では、警告や禁止の条文を実録中に探し出すのではなく、かれらクァンデとはいったい何者だったのか、歴史にはじめて現れたときの姿を通してそのころの位相を突きとめておきたい。
朝鮮民俗学の先駆けであった宋錫夏は一九三六年『朝光』に「広大とは何か」を書き、「広大という言葉は、日常よく聞くことばであり、また、およそどんな意味か推測できるが、それをもう少し深くはっきりと解釈しようとすると、輪郭が曖昧になる」といった。そして、冒頭に『高麗史』巻百二十四嬖幸二、全英甫列伝を引用した。以後、多くの広大論が書かれたが、この『高麗史』の記述がクワンデの初出ということは動かない。ところがこの記事は短い挿話仕立てで、解読はやさしくはない。そこでまず、この記事を引用しよう。時は一三世紀末から一四世紀初、高麗が元の支配下にある最中のときのことである。
全英甫は本、帝釈院の奴で金箔を治めることを生とした。かれは元の嬖宦(宦官)李淑の妻兄である。李淑が嘗て王惟紹と党をなし忠宣王(一三〇九-一三)を廃する謀をしたため、忠宣王は王惟紹を誅し、全英甫を家産没収、島流しにした。初、忠烈王(1275-1308)が全英甫に郎将〔正六品武官〕を授けたとき諫官は告身に署名しなかったが、忠宣王の復位後二年に大護軍を授けると、署名された。世論は国王の治世が公平になされるのか憂えた。案の定、全英甫は「有能」の誉れの高い白元恒を私怨から島流しにした。忠蕭王(一三一四-三〇)のとき、全英甫はまた立身の道をたどり官位を得たが、臺諫(理非をただす高官)がやはり署名を拒否した。だが、忠蕭王の計らいで全英甫は結局、評理、賛成事の位についた。
ところで、この忠蕭王が元に留まっていたとき、瀋王の暠(異腹の兄)が王位を奪おうと謀をして奸臣と交構わった。このとき国王は臣下を宰相〔元の宰相か〕のところに遣っていわせた。昔、小広大がいて大広大らに随って水を渡るとき、船がなかった。それで小広大は、この大広大らに「我は短小なので河の深浅を知ることは難しいが、君輩は身が長いから、まず水深を測るのが宜しい」といった。大広大らは咸「然」といい水に入ったところ、皆、溺れ、独り小広大だけが免れた。
ここで忠蕭王は次のようにいった。今、二人の小広大が吾が国にいる。全英甫と朴虚中がそれだ。吾を禍網に置き、晏然と座視するのは小広大そのものだと。そして『高麗史』は「国語仮面為戯者謂之広大(国語では仮面にて戯を為る者を広大と謂う)」と注記した。
ここに当時のクァンデの一面がえがかれている。この短い記事は次のように読むことができるだろう。第一にクァンデには大小の別があった。それは身の丈の区別だけではなく、人となりについてもいったものとみられる。大広大は一見、愚鈍のゆえに死んだかのようだが、愚鈍なだけではクァンデは務まらなかった。それについてはあとでまた取り上げる。
第二に全英甫のような者が国王の周辺にいた事実に注目しなければならない。かれは奴から身を起こし武官となって国王の寵愛を受けた。何回かの浮き沈みをくり返し、最後は「良人百六十人を賤とした」ことが露見し、そのために本籍に戻された。つまりまた奴の身分に落ちた。全英甫にいかなる能力があったのかはわからないが、元の嬖宦と縁戚関係があったことが背景として考えられる。そしてまた口先の巧みな策略家だったのだろう。低い階層から身を起こし舌先三寸で国王の周辺にまで行き着いたことがまさにクァンデの境遇・弁舌にたとえられたのであろう。クァンデもまたそうした浮き沈みを免れない者であったが、同時に国王の周辺にクァンデがいることは日常的な光景だったとみられる。
第三に国王を取り巻く文化的な環境に注目すべきである。それは元の王室の環境とさほど違いがなかったとみられる。そもそも祖父忠烈王が元の正祖の公主を后とし、母(父忠宣王の妃、懿妃)も蒙古人であり、自身(忠蕭王)の妻もまた蒙古人であった。高麗王家は実質的に元帝あるいはその公主(王女)らの意向をそのまま受入れるほかはなかった。政治はいうまでもなく、殊に宗教、文化的な装置は元からはいってきていた。忠烈王九(一二八三)年八月には「元の倡優男女来る、王、米三石を賜う」とあり、その優人らは大殿において「百戯を呈した」(『高麗史』世家)。忠蕭王が国内の政争に危機を感じ、元の宰相に対してクァンデの話をかたらせたとき、国王の身近には真にクァンデとよぶに値する者たちがいたはずである。
第四に、『高麗史』の注記にある仮面戯の広大こそはクァンデの真の姿をものがたるものであった。問題は宋錫夏以来、上記の原文を「朝鮮語で仮面戯をする者を広大という」と解したことである。これについて鮎貝房之進はいう、古来、朝鮮語の意味では俚語、方言などと記したのであり、「国語」をその意味で用いた例はなく、従ってこれは「蒙古ノ国語」というべきだと(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』)。この鮎貝説は検証されることなく今日に至っているが、『朝鮮王朝実録』の用例をみても首肯できる。実録では国語の用例が二十一例みられるが、一例を除くといずれも中国の古典『国語』に言及したものである。ところが唯一、別の用例が正祖二三(一七九九)年五月甲申の条にある。それは清朝第六代乾隆帝の死後、その事績を讃える文を献上したときのこと、そのなかで乾隆帝は「三国の歴史を糺すべく遼、金、元の国語を翻訳した」という。『高麗史』(15世紀前半編述)を編纂した鄭麟趾(1396-1478)らは王朝初期の新進の儒学者で、中国の用例を知っていたはずである。そしてその伝統は朝鮮後期にいたっても守られていた。こうしてみるとクァンデはやはり「元の国語」とするべきである。
第五に元からやってきたクァンデたちは百戯だけでなく、仮面戯を持ち込んだ。そして、そのとき以来、朝鮮の芸能文化は大きく変容していく。その過程は本稿では扱う余地がないが、ただ、クァンデの歴史は異邦人が農本の国に到来したときの典型的な道筋をたどったということだけは述べておきたい。ここにふたつの道がある。ひとつは朝鮮王朝の初期、中期にかけて記録された悪辣な徒党としての才人の歴史をたどる道である。ひとつは歴史の表面からは消えたが、仮面戯、傀儡戯などを世々演じた芸能集団として、その歴史を考える道である。かれらは前述の丁若鏞の記述にもあるように、一九世紀のはじめに至っても民衆の支持を受けていた。しかし、それがまともに歴史に記されることはなかった。
以上のことを踏まえて、ここから先、わたしは後者の道に意味をみいだそうとおもう。何よりも、前者の道は負の集積でしかない。それらは事実あったことだとしても、それだけのことではなかろうか。もちろん不祥事、反抗的な事件には必ず相応の原因があり、それを通していかにひどい抑圧と不条理が横行していたかを糾弾することはできる。だが、それよりも後者の世界を選ぼう。わたしたちはそれをまだ少し瞥見しただけなのである。急ぐべきは、その痕跡があるうちにひとつの歴史をたどりなおすことではなかろうか。
とはいえ、残された資料は少なく、大方は否定的言説である。ここにおいて、わたしは、仮面戯のクァンデに立ち戻ろうとおもう。かれらは一般の俳優の伝統の上に立っていたが、それだけならば古代からの百戯、雑戯の担い手にすぎない。クァンデは何よりも元から到来した新しい優人であったと考えられる。かれらは追儺的な祓いの仮面戯に新機軸を盛り込んだ。朝鮮にも古くから仮面はあったに違いない。それは新羅の憲康王のときに、南山の神の舞を表現した霜髯舞(白髪、ひげ面の神の舞)がおこなわれ、そのあとで仮面が作られたことからも明らかである(『三国遺事』)。また年末の大儺にも素朴な厄払いの仮面戯があっただろう。だが、こうした仮面の舞は祝祷と祓いを主としたもので新たにもたらされたクァンデの仮面戯とは異なっていたとみられる。それでは新しい仮面戯とはどういうものだったのだろうか。
戱의 사람들
三 河回仮面戯の人びと
1村の女神閣氏。
2慰霊。婚礼につづいて初夜の共寝も演じられる。徐淵昊『ソナンクッ仮面戯』より。
3白丁。撮影金秀男。
4牛の睾丸を売る白丁。撮影金秀男。
5両班と学者のあいだで睾丸の効力を吹聴する白丁。撮影金秀男。
6チョレンイ。両班の従者で奇妙な道化。撮影金秀男。
7僧面。撮影金秀男。
8若い女と僧。東アジアでは由緒深い演戯。民俗のなかの僧は好まれる。
9巫女のような老婆が祭祀の場に到来する。
10学者面相は精鬼に通じる。もとは若くして死んだ男の鬼神なのか。撮影金秀男。
11両班のカオは好々爺然としている。撮影金秀男。
慶尚北道安東郡河回洞の仮面戯は高麗中期(李杜鉉)、あるいは後期か末期(一三-一四世紀、徐淵昊)に形成されたとされている。仮面の造形、河回の同族部落の変遷伝承と仮面制作にまつわる伝承などがその根拠であるが、わたしは、さらに次のような理由から『高麗史』のクァンデの登場から前後それほど遠くない時期に形成されたと考える。
それは二点に集約される。第一は、この仮面戯の宗教的基盤に女神の慰霊があり、これは当時の東アジアにおいては新しい観念だったということである。すなわち、伝承では一五歳で嫁いで、子供もなく不幸な死に方をした女性をムラの女神とし、その臨時の鎮魂に最大の根拠を置いていることである。こうした女神が城隍神とされたことは決して古代的な祭祀ではない。それはむしろ、山川への祈祷という例年くり返されてきた古代的な祭祀の上に付加された新しい供養なのであった。ちなみに中国でもやはり、同族祭祀において不幸な死、特に女性の死の弔いが重要なこととなり、のちにはそれを主題とした戯曲(南戯)が発展したが、その萌芽は宋から元にかけての時代であった(田仲一成『中国演劇史』)。こうした死霊供養は葬戯あるいは儺戯に由来するが、これが元のクァンデの演戯の根柢にはあったとみられる。それは宋代の中国に広がった都市文化および仏教文化に由来するものである。
第二に、この仮面戯はムラの女神の慰霊とはいうものの、登場人物がほとんど有象無象の類いだということである。これはやはり霜髯舞などの次元とは別のものである。今日、伝承が錯綜した部分もあるが、河回仮面戯には屠牛の白丁(異本では死刑執行人も登場)、チョレンイ(おどけた儺者)、顎欠け面で片足麻痺のイメ、僧とプネ(妓女)、身寄りない老媼、虚仮にされる両班などが現れる。この登場人物は互いに皆、連環しているようにみえる。白丁は朝鮮王朝中期以降は隔離されたムラで主として屠牛、柳器作りに限定され、良民と交わることもなく蔑まれて生きていくが、河回仮面戯の白丁はまったく別様のイメージである。堂々と跳び回り手斧で牛を一撃のもとに倒し、すぐさま睾丸を取り出す。そして精力増強に良いといって観衆に向かってこれを売らんかなとすると、愚かな両班らが争って買う。無論、人びとは哄笑するが、それは決して嘲笑ではない。これはのちに白丁とされた人びとがまだ社会的な差別を受ける以前の姿だったとおもわれる。かれらは高麗時代は楊水尺、次いで水尺とか禾尺とよばれていて、その出自は胡種(成宗二二(一四九一)年四月戊辰)とみられていた。かれらを異邦人とする見方は『高麗史』列伝趙浚(1346-1405)の項にすでにあり、「禾尺、才人は耕種に事えず民租を坐食し、恒産も無く恒心も無く山谷に相聚まって倭賊を詐称し」ているという。そしてまた「韃靼と禾尺は屠牛をもって耕食に代える」といっているから、高麗の末期にかれらが農本の立場からみると別の存在とされていたことは明らかだ。ただ、一方では州郡、站では「皆、牛を宰って客を饋した」というのであり、禾尺らはなお人びとのあいだで大っぴらに活動していたのであろう。
さて、僧が妓女を見初めて睦び合う演戯は宋代の人気ある演目のひとつであった。「耍和尚」がそれで、中国におけるこの前史には唐以来の婆羅門舞の伝統があり、のちには「大頭和尚」として正月の民俗となった。僧の「破戒」は朝鮮でも日本でもひとしく人気ある演戯で民衆の支持を受けた(『新猿楽記』にそれらしきものがある)。これを仏者の破戒への教訓、また特権化した寺院への諷刺としてもよいが、朝鮮の巫儀「世尊クッ」のなかのあそびにあるように、元来は山からきた高貴なるカミが若い女に新生を授ける演戯というべきであり、江戸期に京都に現れた仮装の「ちょろけん」などもやはり同類であろう。中国浙江省の民俗でも元宵のころに、大頭和尚の演戯をすると、厄除けになるといわれている(俞婉君『紹興堕民』、人文出版社、2008年)。単なる余興でなかったことは確かである。
次に身寄りのない老婆。「両班の家で下仕えの暮らし」をしたことを身世打令で歌うので、そこには本来の「賤民」奴婢の哀感が込められている。ただ異本によれば、この老婆は亭主と離別して全国を漂泊している女性で、あるいは他の仮面戯を参考にすると、歩き巫女のような者であったかもしれない。実際、高麗末期の開城には巫がいて今日あるような鳴り物入りの巫儀をしていた(李奎報「老巫篇」)。また朝鮮王朝初期には共同体を離れて尼僧になったり、勧進行為をして歩く社堂などの女性が多数いた。もちろん、その暮らしは不安定であり、中には道倒れして死ぬ老媼もいただろう。果たして仮面戯の老媼は空しく死ぬ者が多い。弔いの儀をもたらす配役といったらよいだろうか。
河回仮面戯の登場人物はこのようなモノたちであった。こうした雑多な登場人物をひとつの枠のなかにおさめることが果てして可能なのだろうか。それが実は新しいクァンデの演戯のなかでおこなわれたのだといえる。これは宋代の「社」を中心に形成された死霊祭祀のかたちと関係する。田仲一成は宋代郷村の市場の廟を中心に「社会」が形成され、そこで三種の孤魂祭祀がみられたという。第一は正月春節の豊饒儀礼に付随する孤魂祭祀、第二は廟の神がみの誕生日におこなうもの、第三は臨時の大規模な孤魂祭祀で九幽醮とか黄籙斎とよばれるものである(『中国演劇史』)。河回仮面戯は別神クッという十年に一度ほどの臨時の祭祀のなかでおこなわれていて、まさに九幽醮の思想を根柢に持っていた。
九幽醮は道教の斎醮のひとつである。北宋の撰者未詳の「黄籙九幽醮無碍夜斎次第」では孤魂の種類を一二取り上げた。国のために死んだ英雄、文臣、客商、仏僧、道士、工匠、苦役に死んだ者、冤死者、反逆者、犯罪者、自殺者、横死者である。さらにこの数は南宋に至ると二四にもなる(『中国演劇史』)。ところで、同じようなことは仏教でもいっていた。『瑜伽集要焔口施食儀』の末尾には「十類孤魂文」があり、そのなかでは「一切の奴婢、給使」にして貧賤に命を委ねた孤魂、「一切盲、聾、瘖唖、足跛、手なえ」など、また、やもめの身で寄る辺ない孤魂などがあげられた(服部良男『『施餓鬼図』を読み解く』)。この仏教側の救済の視点は水陸会としてすでに南北朝時代にみられた。水陸会はやがて唐末五代以降には隆盛し、実に近現代に至るまで中国の寺院ではこれが維持され、寺院経済の源となるほどであった。もちろん朝鮮にも水陸会は伝わり、民間の巫俗儀礼にまで浸透した。
こうした済度の観念が河回仮面戯の登場人物たちの根柢にあったと考えるのは無理ではない。朝鮮王朝の初期には、山野における施食が問題視され、その禁令がたびたび出された。世宗は、僧徒と士女が音楽を奏で「百種施食」といって死者供養をしたことをきいて激怒した(世宗二七<一四四五>年七月丙戌)。朝鮮朝のこの施食は高麗時代に受容した水陸斎〔水陸会〕を受け継いだものであるが、もとは宋代の孤魂野鬼に対する済度の儀であった。なぜそうしなければならなかったのか、それはムラ、地域共同体にとって寄る辺ない者の死が災厄を引き起こすとみなされたからである。儒者の合理主義からいえば、野垂れ死にした者のために浪費に満ちた呪いをしたところで、天災や飢饉は防げないし、鬼神への施しといって飲食物を水に投げ入れるのは愚昧の極みであった。しかし、天災や飢饉は身寄りのない死と関係があるとみて最後までこの施食の儀をおこないつづけたのが、宋元代以降の東アジアの民衆思想であった。これは祭儀としては道士や巫覡に担われ、また祭祀芸能としては儺者、クァンデにより担われ、わけても女性の世界に浸透した。そして、同時代の朝鮮と日本に伝わり仮面戯や傀儡戯として花開いたのである。日本の能楽が「男女の根をかくす事」もない不埒な法体の芸能者の唱導、田楽のようなものの集団的狂躁、そして勧進などの上に現れてきたことはすでにいわれている(松岡心平『能~中世からの響き~』)。これは高麗時代の末期の芸能空間でもあった(ちなみに盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』によれば、一七世紀初になお「高麗人」や「唐人」の放下が貴顕の邸に参候した例がある)。
そうした芸能の根柢にあるものは孤魂野鬼の済度であった。ただここで、より一層注目されるのはその済度の儀に生命の胎生という演戯が付加されたことである。中国でも水陸会の儀のなかに子を授ける図像がみられるし、済州島の巫俗儀礼でも「水陸の儀」は子供を授ける寿祷なのである。また全羅道の死霊済度の儀礼中におこなわれたタシレギは出産の寸劇を含んでいるが、これは「再びの生まれ」だとされ、名称からして生命の連鎖を意味していた。宋代の都市で耍和尚が好まれ、それが周辺に伝わり、また民俗化して伝承されたのもこの脈絡の上にある。朝鮮や日本では仮面戯のなかで出産を演じるものがある。
このようにみることによって朝鮮のクァンデたちの相貌がより深く示される。かれらは異邦人であり、また何よりも孤魂野鬼の済度を演戯する新しい芸能者であった。その本質は死霊に近く、滑稽猥雑な演戯とはまったく異なる鬼神の相貌もあった。そしてそのことで畏れられることはあっても、かれらは決して蔑視されるような者ではなかった。
四 朝鮮王朝の賤民たち
元からきたクァンデの演戯はムラや地域共同体の安寧と生命の連鎖を回復するためのものであった。しかし、朝鮮王朝をはじめた儒者たちはこのような観念は到底、容認しえなかった。朝鮮王朝の初期一〇〇年ほどは、高麗王朝の遺物を清算するのに力を尽した感もある。特に思想面では仏教とそれにかかわる「淫祀」の類いは容赦なくこれを禁じた。またのちの賤民の生成につながる施策がさまざまに実施されていく。太祖二(一四〇二)年一二月には「公私賤口、工商、巫覡、倡優、妓生、僧尼の子孫で官職を不当に得た者には一切田地を与えぬこと」とした。逆にいえば、この時代まで、かれらの子孫は官職につく者もあったということである。全英甫のような者は珍しくはなかったのだろう。
また太宗の時代には寺社が革罷され、素性の宜しくない僧は還俗、あるいは地方に追放させられた。農は天下の大本であり、才人、禾尺の類いの非農業民の定着、同化は不可避であった。移動する人びとに対する禁圧は徹底していて、才人、禾尺は「姦淫と盗みをし、殺人もする」(世宗四<一四二二>年一一月丁丑)という評価は末永く引き継がれていて事例は枚挙に暇がない(成宗二<一四七一>年二月辛酉、中宗三六<一五四一>年五月己亥など)。事実としてそういうこともあっただろうが、予断も少なくない。一方では、才人、禾尺を白丁と命名し農民と婚姻させ(世宗五<一四二三>年八月乙酉)、雑処させた(世宗九<一四二七>年一一月辛亥)。あるいは戸籍に載せ、平民や公私賤人と結婚させる(世宗三〇<一四四八>年四月甲子)といった同化策を推進しもした。
しかし、「才人、白丁」はもともと紘歌、宰殺に慣れていて今なお改めようとしないとされた(睿宗一年(一四六九)六月辛巳)。ここでは才人と白丁が並列されている。この頃以降になると、才人は芸能者、白丁はもっぱら屠畜と柳器造りというように区別されるようになる。とはいえ、元来「白丁」と命名されたとき、そこには才人も含まれていたのであり、両者が全く別の者となったともいいきれない。たとえば、京城の成均館の周辺にいて儒教の祭祀用に牛肉を準備した泮人たちはやはり交婚を忌まれる者であったが、一方で山台劇(サンデノリ)とよばれる仮面戯をおこない、京城だけでなく、近傍の楊州などにもでかけた(秋葉隆「山台戯」)。かれらは屠畜も芸能も担ったのであり、そのありかたはむしろ高麗時代のクァンデ、また朝鮮朝初期の白丁のそれをよく引き継いでいたとおもわれる。
才人、白丁の移動は一六世紀半ば以降には大きな問題とならなくなったのだろう。王朝実録の記録は少ない。特に白丁は屠畜を専らとするか、あるいは軍卒として徴集されるようになった(かつて才人、禾尺は済州人とともに軍卒に編入された。『高麗史』世家恭愍王五(一三五六)年)。ここで注目されるのは朝鮮朝後半になると、「大抵の陸民は海夫を視ること殆ど屠牛担と同じ」であって、このため一度海夫として登録されると平民と相抗うことができず、子孫は皆、身分を隠そうとしたことである(正祖二四(一八〇〇)年四月戊戌)。この前史は済州島出身者に対する視点として一五世紀にすでにみられた。すなわち「済州の豆禿也」 という者たちが慶尚南道の海岸で船住まいをしつつ魚を捕りワカメを採取しているが、かれらは海辺の掠奪者になりうる者なので徐々に手なづけるようにという趣旨の訓令が出されている(成宗八(一四七七)年五月己亥)。
これとは別に済州の海民は「鮑作干」とか「鮑作人」ともよばれ、やはり倭寇に類いする者とみられていて、離反させないようにということばが王から出されている(成宗一六(一四八五)年、同二〇(一四八九)年)。かれらは貴重な鮑を採って進上する者なので一方では有用であった。またかれらには「頭無岳」とか「頭禿」という別称もあった。そして倭賊に匹敵する船の使い手で活用すれば有益だとされた(成宗二三(一四九二)年)。頭無岳は漢拏山の別称だが、頭禿はあるいは坊主頭に由来するのかもしれない。中国宋代には、僧、尼、老翁、小児、優伶、角觝(相撲)、泗漁漢(漁師)、打狐人(猟師)、禿瘡(しらくものあとの光った頭)、洒禿(すっかり光った頭)は「十様の仏」とされた(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』)。すなわち坊主頭の者たちで、これらの大半がやがて一人前の良民の部類から区別、差別されていった。そして、良民と区別された者たちの婚姻はクァンデと巫堂(巫女)、白丁と社堂など「賤民」同士のものとなっていく。
さて、僧、僧尼が民間で祈祷や祭儀をおこなうことはいうまでもなく禁圧の対象であった。しかし、たとえば水陸斎は朝鮮朝半ばになお、おこなわれていて、「都中の士女が撤市し奔波」した(宣祖三九(一六〇六)年六月己亥)。官憲がこうした行為を処罰するのは当然で、その積み重ねが結局、民間の宗教者とその賛同者を社会的に貶めていく。
朝鮮朝の初期には、「遊女」や「花娘」となる者もすでに多く、ほかにも礼曹の上申によれば、僧の群れに引き込まれ尼となった女たちがいた。また商人らが良家のむすめたちをたぶらかして淫女にすること、無頼漢に伴われた女たちが身を売ることも指摘された(成宗三(一四七二)年七月乙巳)。こうした現象は必ずしも暴力やカネだけで強いられたものではなかっただろう。それは相応に女の側の主体的な行為でもあったとみなければならない。しかし、こうした者たちは「小中華」にあってはならないので取り押さえられた。それは厳しいもので、違反者の行く末は奴婢つまり賤民になることであった。
同じことは「社長」とそれに従った女たちについてもいえる。社長とは社倉の長である。社倉は朱子のはじめた社倉法にならって導入された民衆救済用の倉庫である。ここに備蓄された穀物を秋に低利で貸し出したが、社長はこの制度を私物化していく。社長は僧であることもあった。また、居士を名のることもあった。お上にとって、かれらは男女の群れをなし、生業を捨てて差役を逃れ、錚と太鼓を鳴らしてどこにでも出歩くことなどの点でとうてい容認できなかった(睿宗元(一四六九)年、六月辛巳)。この一団は当初は京城内で「社」を結成し、そこを念仏所として集団生活をした。かれらは仏道に帰依するだけでなく朝には市利をむさぼり夜は阿弥陀仏を称えた。しかも、こうしたことに街中の婦女子があこがれるありさまであった(成宗二(一四七一)年六月己酉)。だが、居士と社堂は王朝後期には、歌舞と売淫で知られるだけのしがない放浪芸人集団のひとつとなっていく。
才人、白丁、海民、僧、僧尼、社長、居士、社堂らが厳しく規制されていくなかで、巫覡もまた同様に規制され卑賤視されていく。その朝鮮王朝における記述の分類、整理は李能和の「朝鮮巫俗考」(邦文「朝鮮の巫俗」)に詳しい。詳細はそちらに譲るが、次のことは記しておきたい。すなわち巫覡の祭儀、都城への居住に対して、官憲は執拗に幾度も弾圧を加えたが、高宗(一八六三ー一九〇七)の時にもなお宮中には国巫の出入りがみられたのであり、結局、禁巫の政策は成功しなかった。そしてその根本の原因は根柢に朱子学では代替しようのない民衆(特に女性)の霊魂済度つまり救済があったからである。実際、王朝初期の巫は医員でもあり東西活人院(貧民救済施設)で医療行為もした。理論書も組織もなく、文字も知らない巫覡に何ほどの論理があるのかといった知識人の視点では巫俗を正面から見据えることはできなかった。このようなものが何故五百年ものあいだつづいたのか。
それへの回答は王朝の知識人からは出されなかった。そして、それは朝鮮王朝の崩壊後、一九二七年になってはじめて李能和により宗教学に値する視点で体系的に述べられた。だが、それすら早すぎたのか、反応はなかった。李能和にももちろん不足はあるが、その一連の業績が、『朝鮮仏教通史』「朝鮮巫俗考」、『朝鮮女俗考』、『朝鮮解語花史』(妓生の文化史)といった経過をたどっていることを的確に批評する者がいたならば、少なくともそこに朝鮮の女性生活史が述べられていたことに気づいたはずである。それは一方で朝鮮の「賤民」史と深くかかわっていたのである。しかし、そうした基軸は今だに明確にはされていない。このことは朝鮮の近代の学知、ということは中国と日本の速成知としてはじめられた近代の学知の系譜が抱えていた最も大きな限界点でもあった(山室信一『思想課題としてのアジア』、その近代アジアの学知に対する俯瞰、周到な検証作業を参照のこと)。
五 免賤と近代
知識人の近代、かれらの認識がどうであれ、朝鮮王朝の「賤民」たちにも近代は迫り、やがて通過していった。このときかれらはどのような生活を迎えたのか。ご多分に漏れず、大方はわからない。クァンデについていえば、十七、八世紀以降、パンソリが起こると、この歌い手のなかから芸術家気質の歌客も現れる。それは唯一クァンデが身分の上昇を実現させうる道でもあり、そのために歌唱法も猥雑さを殺ぎ哀調を深く表現する方向へと幅を広げた。これは日本の能のたどった道と一面では似ていた。しかし、そうした歌客は少数であり、大方のクァンデは民間の放浪芸人として世をわたった。特に仮面戯や傀儡戯のクァンデに対しては社会的な評価が低く、宋錫夏なども「広大自身の自覚が必要」といい、「理論家や音楽家との提携」がなければ将来はないとみていた(「伝承音楽と広大」)。
それは余りにも高望みした批評であるが、近代の西洋演劇や音楽の衝撃を受けた当時の知識人としてはやむを得ないところがあっただろう。ただ、王朝の後半期、両班層の道徳性の欠如、無能ぶりに対して、仮面戯のなかで、愚かな両班が下僕により完膚なきまでに愚弄される場面は、やはり、近代に接近して発展を遂げたものというべきで、そこには時代意識が反映されていたといえよう。もともと、お供が主人をやりこめるモチーフは異邦人クァンデの演戯のなかにはあった。それは中国でいえば、唐代の参軍戯[ぼけ(参軍)とつっこみ(蒼鶻)の対話による演戯]以来の古い伝統であり、高麗の優人、そして仮面戯や傀儡戯のクァンデたちに受け継がれてきたものである(朝鮮朝の燕山君時代の優人は王前にあって諷刺の演戯をし、処罰された。それはこの王の前では命がけのことであった)。そしてまた、日本の猿楽の芸、京都に現れた自然居士らの禅僧にみられた奔放さ、狂言の笑いなどにも同様の諷刺の精神が見て取れるだろう。
だが、そうではあっても、今日に伝承されている仮面戯の両班諷刺の台詞は、その鋭さにおいて参軍戯や「狂言」のレベルをはるかに越えていた。たとえば下僕マルトゥギは主人に向かって口答えをする。しかもその際、両班の血に両班以外の血が混ざっていると罵り、また「大奥様(母親)」を取り上げては性的な悪罵を盛り込んだことをいう。しかもちょっと聞いただけでは意味がわからない。そこで、また修辞を変えて同様のことをいう。こうして下僕のことばはより強い愚弄となり、ほとんど抵抗のことばになっていく。
とはいうものの、王朝も消滅し、植民地に放り出されたクァンデらはすべてが旧時代の遺物として生きていくほかはなかった。そのさまは映画『西便制(風の丘を越えて)』に活写された。金明坤扮するドサ回りの歌い手ユボンが宴席で片意地を張る。そのため、客の男から「才人(河原者)のくせして」と罵られる。すると、ユボンは「このご時世にまだ両班だとか才人だとかいうのか」といい返す。それは近代のクァンデらのせいぜいの代弁であっただろう。だが、パンソリをもって回るクァンデの時代は去ってしまった。
さて、賤民中、最下層とされた白丁の近代はどうであったのか。朝鮮の近代史上よく知られた一八九四年の甲午更張(甲午改革)のなかで、軍国機務処は一二カ条の提議をしたが、そこに「駅人、倡優、皮工、竝びに免賤を許す事」があり、これを国王は承認した。このうちの「皮工」は皮作りを担った者たちで多くの白丁とは職域が異なるが、ここでは白丁も含まれるとみられる。かれらは、これにより強制された仕事からは解放されることになった。しかし、そののちも白丁に関する状況は変わらなかった。今村鞆がいち早く白丁を論じ、継いで今西竜、喜田貞吉、李覚鐘、岩崎継生、鮎貝房之進などが日本語で論究した。
これらを通して分かったことは、王朝の末期の白丁は戸籍がないので族譜もなかった。名前に仁義などの語は用いることができず、日常生活では、周衣(外套)、被り物、喪服、女性の簪の着用ができず、婚礼時の乗り物、葬礼の喪輿も禁止され、良民へのことばづかいは子供に対してもへりくだった。そして、甲午改革以後、戸籍を与えられたとはいい条、そこには「屠漢」の字が記され社会的な差別は依然としてあった。
ただ、白丁たちは王朝時代にも「承堂都家」という扶助機関を持っていて、各地に支部があった。こうした組織があったためか、日本で水平社の創立があった翌一九二三年五月、朝鮮でも慶尚南道晋州において衡平社が組織され、平等への宣言が出されると、瞬く間に全国に広がり社員公称四〇万人の一大社会運動となった。それは周囲からの激しい反発を引き起こしたものの、一九三〇年ごろまでは活発に展開された。だが、やがて路線問題から葛藤が生じて、退潮に向かい、一九三五年、名称を大同社と変更したあと、経済活動を主とした機関となり、それも一九四〇年ごろを境に終焉した。解放後は朝鮮戦争の大混乱のなか、白丁の特殊部落は霧散し、社会的に差別されることがなくなったとされるが、白丁を主題にして創作活動をつづけた作家鄭棟柱は現在も「差別意識は残っている」とし、とりわけ知識人のあいだにそれが強いという。そして、晋州に衡平運動の記念館を作り、白丁の暮らしと歴史に関する資料を展示することを提案したが、衡平運動の研究者として知られる知識人がそれに異議を唱えたということをいっている(『神の杖』)。それだけ白丁の問題は生々しいということなのだろう。今日なお、晋州市に公設の記念館はない。
六 考えるよすがとしての「賤民」
朝鮮半島では解放後も白丁村、才人村、在家僧(咸鏡道の山間部にいた坊主頭の人びとで差別された)の村などが残っていたが、現代には南北いずれの社会にも存在しない。ただし、白丁や巫堂の家系への差別的視点がなくなったわけではない。差別意識が払拭されたか否かは世代、地域によっても異なるだろう。みずからの姓氏が偽両班家門だと公表した歴史家がいるとはきいたが、白丁、巫堂の家系だということを名のることはおよそ考えにくい。できればそうしたことは公にしたくないというのが韓国社会の公約数であろう。そこまで突き詰めれば差別は消えていないということになる。また、近い過去では全羅道出身者が政治経済の中枢から不当に遠ざけられるという新手の差別があったし、あるいは中国の東北地域、延辺などからくる出稼ぎの朝鮮族同胞や東南アジア出身の労働者に対する差別が一部にはある。白丁や巫堂はたとえ、経済的に潤っていても怖い者とされ、おそらくそれゆえだろう、接触したくないといった先入観は強く残っていた。こうみると、近代日本の社会が屠畜、皮革業、あるいはサンカや家船の人びと、また「首切り弾衛門」(死刑執行人)などに対して怖れ差別した状況とあまり変りがないことになる。
ただし、歴史のなかの差別を公然と論じるという点では明白に異なる。例えば二〇〇二年二月六日、韓国のSBS放送は旧正月の特別番組にドラマ「白丁の娘」を放送した。韓国ではひと頃テレビ報道があまりに批判精神を失ったため、「馬鹿箱」とまでいわれたが、九二年の文民政府以降は考える素材を提供する媒体という一面を取り戻している(軍事政権の裏面、その最後の悲劇「光州」を活写したドラマ「砂時計」<1995年、SBS放映>を知らない韓国人はいない)。さて「白丁の娘」だが、これは二〇世紀初にあった実話に取材したもので、なかなか重いドラマである。白丁の父を持つオンニョンという名の女の子が宣教師の医者と出会い、梨花学堂で近代教育を受ける。父親は胸に白丁の印である布切れを付けないことで役人から殴打され、急患の往診も断られる。母親は広場の群衆により「白丁閣氏馬乗り競争」という残酷な遊びの馬にされる。母親は凌辱に耐えられず自殺する。母親の葬儀に喪輿を用いようとすると、村人により喪輿は叩き壊される。こうしたことは実際にあっただろう。そして、梨花学堂の六年間の勉学が終わり、卒業式の席上、代表に選ばれたオンニョンは講堂に参席した大勢の人びとの前で、自分が白丁のむすめであることを告白した。
ドラマは冒頭に日本軍による朝鮮人の体格、体質検査に白丁が強制動員された史実を置き、途中、王朝末期以来の白丁家族の受難をえがき、やがてオンニョンの勇気ある告白と聴衆からの祝福の拍手で終わる。大団円風の終わり方がいささか気になったが、それは、差別は所詮、構築物にすぎないものであっけなく崩壊しうるのだというメッセージなのかもしれない。いずれにしても近代の白丁を考えさせる素材には十分なっている。このドラマを現在の韓国社会がどのように視聴したのかは分からない。ただ少なくとも韓国社会が数十年前まで存在した苛酷な社会差別の歴史を正面から考えようとしたこと、そうした考える風土があることは注目してよい。
もちろん、今日の韓国にも、モノ余りの日常、「自由」を持て余す若い世代は少なからずいて歴史離れもまたみられるところである。
しかし一方では、日本の統治、朝鮮動乱、軍事政権下の民主化闘争などによる痛みを肌で知る人びとが健在で、それを語り継ぐ社会風土が存在する。享楽にも大胆だが、痛みにもまた敏感な社会である。もちろん、それがすなわちすべての差別の解消に直結するとはいえないだろう。
しかし、翻って今日の日本で被差別民の近代を主題にしたドラマを正月番組に放映することなどが可能だろうか。まずそういう主題は企画にすらのぼらないだろう。そうして一方では、現実のさまざまな痛みがいよいよ複合的に再生産されている。歴史の痛みに鈍感な社会が現実の痛みに敏感であるはずはないから当然である。そして案じる、「わたしたちのテレビメディアなどは「不適切な用語」を取り除くことにはいたく熱心だが、歴史の痛みを根治させるための本道をたどることにはすっかり度胸がなくなり、それこそ日々「馬鹿箱」に近づいているのではないか。そうして日本という共同体はまさにその無批判、鈍重さによる束の間の安泰を貪っているだけではないのかと。
賤民とされた人びとの歴史、それは今、封印を解かれなければならない。そしてのち、はじめてわたしたちは東アジアの同時代性を再認識できるだろう。彼らを含めた同時代的な共同体はつい五、六百年前には確かにまだみられたのである。そして、そうした在り方、生活の様相を具体的に知れば、実は差別意識の多くは存外近い過去に植え付けられた代物に過ぎないということがわかるだろう。
朝鮮半島の「賤民」は東アジアの基層文化の諸相に迫る関鍵のひとつなのである。これは知らずに済む問題ではない。 (2008年10月5日 補遺)
参考文献(文中に引用したもの
巫覡、クァンデの民俗宗教的背景について
野村伸一「朝鮮文化史における死者霊の供養」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』
No.28、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年
妓生、奴婢、白丁、寺僧、巫堂などについて
安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八二年
安宇植編訳『続・アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八八年
林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』、平凡社、一九八七年
川村湊『妓生』、作品社、二〇〇一年
楊水尺・禾尺・水尺、才人、白丁について
今村鞆「朝鮮の特殊部落」『朝鮮風俗集』、斯道館、一九一四年
今西竜「朝鮮白丁考」『芸文』九巻四号、一九一八年
喜田貞吉「朝鮮の白丁と我が傀儡子」『史林』九巻九号、一九一八年
李覚鐘「朝鮮の特殊部落」『朝鮮』一〇四号、一九二三年
岩崎継生「朝鮮の白丁階級:特殊部落-形態」『朝鮮』二一一号、一九三二年
鮎貝房之進「白丁、附水尺、禾尺、楊水尺」『雑攷』五輯、一九三二年(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』国 書刊行会、一九七三年復刻)
金静美「十九世紀末・二十世紀初期における「白丁」」飯沼二郎、姜在彦編『近代朝鮮の社会と思想』、未来社、一九八一年
杉山二郎『遊民の系譜』、青土社、一九八八年
衡平運動について
金中燮『衡平運動研究』、韓国社会科学研究所、肯慎紫、一九九〇年、ソウル
金永大著、『衡平』翻訳編集委員会翻訳・編集『朝鮮の被差別民衆』、部落解放研究所、一九八八年
巫覡の歴史について
野村伸一「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)」および「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年(これは李能和「朝鮮の巫俗」雑誌『朝鮮』、朝鮮総督府、一九二八ー二九年に七回掲載されたものの復刻で、それに訳註を付したもの)
芸能史および仮面戯
野村伸一『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、一九八五年
李杜鉉『朝鮮芸能史』、東京大学出版会、一九九〇年
田耕旭『韓国仮面劇 その歴史と原理』、悦話堂、一九九八年、ソウル(法政大学出版局から邦訳2004年刊)
「천민」의 문화사서론―한반도(朝鮮半島)의 피차별 국민(보유)노무라(野村) 신이치(伸一)
*부기 본론은 「「천민」의 문화사서론」 『몇이나 되는 일본 5』, 이와나미(岩波) 서점, 2003년, 161-190페이지의 원고에 보정을 첨가한 것으로 한다 (2008.10.19).
1 「천민」의 문화사
천민이라고 하는 말은 오늘 일본에 있어서 공공의 장소에서는 이용하지 않게 될 모양이고, 신문이나 방송으로 견문하는 것은 우선 없다. 그리고, 그 것에 대하여 특히 이의를 외치는 공론도 없는 것을 보면, 일본문화는 대부분에 있어서 이미 그러한 것을 논할 필요도 없는 단계에 있다고 하는 것일 것이다. 일본 사회에 까닭이 없는 「얕보기」에 고생하는 사람들이 없으면 그것이라도 좋은 셈이다. 그러나, 현실은 그렇지 않을 것이다. 「부적절한 말」을 배제하고, 와 수선은 매우 조심하지만, 차례로 쑤시자마자 아픔에 유래하는 불협화음이 들려온다. 그 목소리, 소리가 사회의 어떤 한 구석에서 나오는 것일지는 예상도 붙지 않지만, 그것이 목소리가 안되는 안타까움으로부터 발해진 것에는 차이가 없다.
여기서 조선의 민중문화사를 되돌아봐 보자. 그것은 사실은 「천민」으로 여겨진 사람들의 목소리 없는 역사와 불가분한 것이다. 조선 왕조후반에는 통념으로서 「7반공賤」이라고 하는 것이 말하여졌다. 다시 말해, 그것은 기생, 안인 (궁(신사)여자), 관리족, 역졸, 감옥령(옥졸), 관노비, 유죄의 도망자다. 또 「8반나賤」이라고 하는 것도 말하여졌다. 다시 말해 그것은, 승려, 영인(즐거움 다쿠미(工)), 재인(강변자), 무당, 捨당(사회당), 행동사 (거사), 鞋장인, 흰정이다 (이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」참조). 더욱 맹인의 복사, 어부, 해녀, 산척 (산에서 약초등을 채집하는 사람), 각종의 장인인, 나노비등도 천민시 되었다.
이 사람들을 둘러싼 적어도 500년의 문화의 역사는, 조선의 사회 생활사 바로 그것이다. 물론 오늘, 천민등이라고 하는 말은 장난삼아서라도 대인관계에 있어서 사용해서는안되고, 그 의미에서는 눈에 익지 않는 말이며 좋다. 그러나, 그것은 역사 위에서, 그들이 정확한 위치 부여가 행해지고 있으면 의것이다. 천민으로 여겨진 사람들은 역사의 처음부터 그랬던 것은 아니다. 그 대부분은 조선 아침의 처음에는 양민(백성)의 종류이며, 단지 유교의 예의에 준한 생활을 하지 않은 것 만큼이다. 고려(高麗)시대, 흰정은 양민(백성)을 가리키는 말이었다. 또 조선 아침의 초기의 천민은 공사의 노비만이었다 (유(劉) 쇼(承)원 『조선 초기 신분제 연구』).
그러면, 이 사람들은 어떻게 「천민」으로 여겨져 간 것인가? 이것은 조선 왕조가 일관한 왕화,혹은 교화의 정책이 왕조후반이 되어서 부차적으로 만들어 낸 것이라고 할 수 있자. 요컨대, 노비에 역적 또는 포로의 적대자라고 한 규정이 있는 것이라고 같이, 이유는 그대로 두어 화외의 국민이 되지 않을 수 없었던 사람들,혹은 왕화의 【소토】에 스스로 나간 사람들이 서서히 천민으로 여겨진 것이다. 왕화의 【소토】에도 상응한 공동체는 있었지만, 그들은 왕조사회의 안에서는 (아뭏든)뭐라고 항변의 하는 방법이 없는 부조리한 현실을 지나쳤다. 단, 그들의 안 되는 세계는 어땠던 것인가가 되면, 그렇게 간단하지 않다.
예를 들면, 천민안에서도 한층 더 얕봐진 흰정들은, 왕조의 후반에 있어서는, 수육의 屠畜을 거의 독점적으로 취급, 경제적으로는 여축이 있는 사람도 많았다. 그들은 농민들과는 다른 「특수부락」을 형성시켜졌기 때문, 그 전승하는 생활 형태는 내버려둬졌다. 그러한 흰 데이(丁)촌의 내부에서 죽이기소의 전후에 해진 예의는 흰 딱 하고 소와의 사이에 조화가 예약한 세계가 있었던 것을 시사한다. 우선 屠장소는 청정할되어, 승의 염불이 있어, 소에 대하여는 큰 자귀로 급소를 2도 쳐서 신속하게 죽게 한다. 그리고 신성으로 여겨지는 왼쪽에신의 지팡이(칼)을 가지고, 소의 영혼의 제도를 다하기 위해서는 예리한 칼을 준비한다. 이러한 것의 일단은 예를 들면, 흰정에의 진혼이라고도 말해야 할 정(鄭)동 기둥의 작품 『신의 지팡이』에 그려지고 있다.
그러나, 그 흰정에 대해서도 근현대부터의 소급이 대부분이어서, 근세의 실태는 잘 모르다. 같은 것은 다른 천민에 대해서도 말할 수 있다. 그런데, 그러면 문제를 어떻게 설정하면 좋은 것인가? 나는, 천민의 대부분은 조선 왕조의 처음에는 없었다고 생각한다. 거기에서, 분기점이 된 조선 왕조 초기의, 이른바 기다리는 ろわぬ국민을 집어들어 보고 싶다. 그들의 역사는, 오늘, 한국에 있어서 비교적 치우침이 없는 눈으로 연구되게 되었다. 그럼에도 불구하고, 한편 충분히는 말하기 어렵다. 말할것도 없이 조선 사회에 대한 체계적인 교육이 없는 일본에서는 흰정이나 기생에 관한 몇 가지의 이론이 있을 뿐이어서, 그 앞은 없는 것에 마찬가지다. 조선 사회에 있어서의 「천민」은 이방인혹은 공동체의 【소토】인들의 「동화」에 따르는 갈등의 역사이며, 그것은 오늘 동아시아에 있어서 재현하고 있는 문제이기도 한다. 그러나, 일본에서는 「천민」을 봉인한 것에 의해, 그들의 생활사등은 도무지, 짐작하지 않는다라고 하는 것이 실정일 것이다.
이 봉인 상태에 대한 감수성의 없음은 무엇에 비유하면 좋을 것인가? 상상력을 환기하기 위해서는 이런 비유가 필요일지도 모른다. 교실에서 책상 위에 뛰어 올라타 천진 난만하게 노는 어린이가 있었다. 그것은 확실히 정도를 넘고 있었지만, 책망하는 사람은 없었다. 그러나, 어느 날, 엄격한 선생님이나 부형이 나타났다. 그리고, 그 예의 범절의 나쁨은 보통사람 정도이하의 마땅히 부끄럽게 여겨야 할 것이라고 여럿이서 밀렸다. … 그러고 보니, 그 아이의 말은 정말로 공동체의 보통의 말과는 다르다. 게다가, 약 예절교육이 없다. 부모의 생업은 보잘 것 없고, 일가는 가난하고, 하는 것은 무엇인가 무섭다.
다음은 미루어 알 수 있다. 감시를 할지 멀리할지다. 그들의 생활과 마음의 편력, 그것을 둘러싸는 사람들의 광경은 이런 식이게 비유할 수 있을 것이다. 그리고, 우리들의 대부분은 예전에는 아직 어느쪽의 입장에도 다소의 기억은 있어, 충분히, 알아 합 얻은 것이다. 그러면, 그 「예전에」와는 언제인가? 역사 위에서는 500년전이지만, 심증으로서는 쭉 가까운 과거이기도 한다. 여기에서는 한정된 지폭의 안, 「천민」사의 서를 이야기하기로 하고 싶다.
2광대의 등장
어느 천민에게서 이야기하면 좋은 것일지 모른다. 그것이라면, 하나【관데】 kwangde (광대)의 이야기로부터 해 보자. 【관데】는 고려(高麗)말에 드러나, 조선 아침을 경과해서 근대까지 演戱를 계속한 예능자다. 19세기 시작경에는 한편 왕성해서 시정의 남녀를 말려들게 하고, 세상의 질서를 어지럽히는 괘씸한 나(패거리)로 여겨지고 있었다. 실학자 정약용(丁若鏞)은 『마키(牧) 민심서』형전(전서)의 제5조(五條) 금령폭의 안에서 「배우의 戱, 괴뢰의 기법, 儺즐거움의 募인연 〔권함〕, 요사스런 말 판매시술자는 및 이것을 금한다」라고 기록했다. 그리고 더욱, 남부의 관리속과 장교들은 奢濫의 바람을 이뤄 배우 나메라(滑)稽의 演戱와 괴뢰戱에 노는데 정신이 팔려 있다. 스스로가 놀므로, 국민도 그물 망 똥れ에 가해져 「남녀奔물결, 황음무도」의 님이다. 그 때문에 창고의 세穀도 도둑 맞는다. 이러한 「잡류」는 출입을 금해라고.
이 종류의 경고는 몇십몇백과 내놓고 있었던 것이 틀림 없다. 그러나, 그들은 사회적으로 깎아내릴 수 있으면서도 시정에 계속해서 있었다. 이하에서는, 경고나 금지의 조문을 실록중에 찾아내는 것이 아니고, 그들【관데】와는 도대체(일체) 누구이었던 것인가, 역사에 처음으로 나타났을 때의 모습을 통해서 그 시기의 위상을 밝혀 내 두고 싶다.
조선 민속학의 먼저 달려듦이었던 송석하는 1936년 『아침 빛』에 「광대는 무엇인가」를 쓰고, 「광대라고 하는 말은, 일상 자주 듣는 말이며,또, 대충 어떤 의미인가 추측할 수 있지만, 그것을 좀더 깊이 확실하게 해석하자로 하면, 윤곽이 애매해진다」라고 했다. 그리고, 첫머리에 『고려(高麗)사』권 124嬖고지(幸二), 전영보 열전을 인용했다. 이후, 많은 광대론이 씌어졌지만, 이 『고려(高麗)사』의 기술이 【구완데】의 첫 출현이라고 하는 것은 움직이지 않는다. 그런데 이 기사는 짧은 삽화재봉(바느질)로, 해독은 상냥하지 않다. 거기에서 우선, 이 기사를 인용하자. 때는 13세기말로부터 14세기 처음, 고려(高麗)가 원래의 지배하에 있는 한가운데의 때다.
전영보는 책, 다이샤쿠원의 놈으로 금박을 다스리는 것을 순(숫)으로 했다. 그는 원래의 嬖宦(환관)이(李)淑의 아내 형이다. 이(李)淑이 전혀 왕유소와 당을 없음 충선왕(1309-13)을 폐지하는 꾀를 했기 때문, 충선왕은 왕유소를 죄인을 죽이고, 전영보를 가산몰수, 유배로 했다. 처음, 충렬왕(1275-1308)이 전영보에게 낭 마사시(將) 〔다다시(正)6품 무관〕을 하사했을 때 諫관은 고몸에 서명하지 않았지만, 충선왕의 복위후 2년에 다이(大) 유즈루(護)군을 주면, 서명되었다. 여론은 국왕의 치세가 공평하게 행해지는 것일지 근심했다. 예상대로, 전영보는 「유능」의 명예가 높은 백원 히사시(恒)를 사원으로부터 유배로 되게 했다. 충蕭왕(1314-30)의 때, 전영보는 또 입신의 길을 따라 관위를 얻었지만, 臺諫(시비를 질문하는 고관)이 역시 서명을 거부했다. 그러나, 충蕭왕의 조치로 전영보는 결국, 평이유, 찬성 것의 지위가 올랐다.
그건 그렇고, 이 충蕭왕이 바탕으로 머무르고 있었을 때, 瀋왕의 暠(이복의 형)이 왕위를 빼앗자고 꾀를 해서 간신과 交構 나누었다. 이 때 국왕은 신하를 재상 〔원의 재상인가〕의 곳에 사용해서 시켰다. 옛날, 소광대가 있어서 오히로(大廣)대들에게 따라서 물을 건널 때, 배가 없었다. 그래서 소광대는, 이 오히로(大廣)대들에게 「나는 단소하므로 강의 심천을 아는 것은 어렵지만, 너나(패거리)는 몸이 길기 때문에, 우선 수심을 재는 것이 좋다」라고 말했다. 오히로(大廣)대들은 함(咸) 「그렇게(그처럼)」이라고 좋은 물에 들어간 바, 모두, 빠져, 단지 소광대만이 면했다.
여기서 충蕭왕은 다음과 같이 말했다. 지금, 두사람의 소광대가 나가 나라에 있다. 전영보와 박(朴) 속이 빔중이 그것이다. 나를 재난그물에 두고, 晏그렇게(그처럼) 좌시하는 것은 소광대 바로 그것이다와. 그리고 『고려(高麗)사』는 「국어가면 위해서(때문에) 戱사람謂之광대(국어에서는 가면에서 戱를 되는 사람을 광대라고 말한다)」이라고 주기했다.
여기에 당시의 【관데】의 일면이 그려지고 있다. 이 짧은 기사는 다음과 같이 읽을 수 있을 것이다. 첫째로 【관데】에는 대소의 별이 있었다. 그것은 신장의 구별뿐만 아니라, 위인에 대해서도 진행된 것이라고 보여진다. 오히로(大廣)대는 일견, 우둔의 때문에 죽은 것 같지만, 우둔한것만으로는 【관데】는 쓰토무(務)まら 없었다. 그것에 대해서는 나중에 또 올린다.
제2로 전영보와 같은 사람이 국왕의 주변에 있었던 사실에 주목 해야 하다. 그는 놈에게서 몸을 일으켜 무관이 되어서 국왕의 총애를 받았다. 몇번인가의 부침을 되풀이하고, 최후는 「요시히토(良人) 160명을 賤으로 했다」 것이 노현하고, 그 때문에 본적에 되돌려졌다. 즉 또 놈의 신분에 들어갔다. 전영보에게 어떠한 능력이 있었던 것일지는 모르지만, 원래의 嬖宦과 연척관계가 있었던 것이 배경으로서 생각된다. 그리고 또 말이 교묘한 책략가이었던 것일 것이다. 낮은 계층으로부터 몸을 일으켜 변설의 재주로 국왕의 주변에까지 다다른 것이 정말로 【관데】의 경우·변설에 비유할 수 있었던 것일 것이다. 【관데】도 또 그러한 부침을 모면하지 않는 사람이었지만, 동시에 국왕의 주변에 【관데】가 있는 것은 일상적인 광경이었다라고 보여진다.
제삼으로 국왕을 둘러싸는 문화적인 환경에 주목해야 한다. 그것은 원래의 왕실의 환경과 그다지 차이가 없었다고 보여진다. 처음부터 할아버지 충렬왕이 원래의 정조의 공공주인을 비라고 해서 어머니 (아버지 충선왕의 비, 懿비)도 몽고인이며, 자신(충蕭왕)의 아내도 또 몽고인이었다. 고려(高麗)왕가는 실질적으로 전(元)제(황제)혹은 그 공공 주(왕녀)들의 의향을 그대로 받아들이는 것 이외에는 없었다. 정치는 말할 필요도 없고, 특히 종교, 문화적인 장치는 원래로부터는 다녀 오고 있었다. 충렬왕 9(1283)년 8월에는 「원래의 倡싹싹한 남자 여자 오는, 왕, 미미쓰이시(三石)를 주시다」라고 있어, 그 매우 뛰어남인들은 오토노(大殿)에 있어서 「100戱를 보였다」 (『고려(高麗)사』세상가). 충蕭왕이 국내의 정쟁에 위기를 느끼고, 원래의 재상에 대하여 【관데】의 이야기를 이야기시켰을 때, 국왕의 신변에는 참으로 【관데】라고 부를 가치가 있는 사람들이 있었을 것이다.
제4에, 『고려(高麗)사』의 주기에 있는 가면戱의 광대야말로는 【관데】의 참된 모습을 이야기하는 것이었다. 문제는 송석하이래, 상기의 원문을 「조선어로 가면戱를 하는 사람을 광대라고 한다」라고 푼 것이다. 이것에 대해서 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)은 말하는, 예로부터, 조선어의 의미에서는 사투리, 방언등이라고 적은 것이어서, 「국어」를 그 의미로 채용한 예로 없고, 따라서 이것은 「몽고【노】국어」라고 해야 한다고 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』). 이 아유카이(鮎貝)설은 검증될 일 없고 오늘에 이르고 있지만, 『조선 왕조실록』의 용례를 보아도 수긍할 수 있다. 실록에서는 국어의 용례가 20하나의 예 보여지지만, 하나의 예를 제외하면 모두 중국의 고전 『국어』에 언급한 것이다. 그런데 유일하게, 별도의 용례가 정조 23(1799)년 5월 마사루(甲) 신(申)의 조에 있다. 그것은 청호 제6대 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)의 사후, 그 공적을 찬양하는 문장을 헌상했을 때, 그 가운데에서 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)는 「3국의 역사를 규명하기 위해 遼, 돈, 원래의 국어를 번역했다」라고 한다. 『고려(高麗)사』 (15세기 전반편술)을 편찬한 정인지(1396-1478)들은 왕조 초기의 신진의 유학자로, 중국의 용례를 알고 있었을 것이다. 그리고 그 전통은 조선 후기에 이르러도 지켜지고 있었다. 이렇게 해서 보면 【관데】는 역시 「원래의 국어」로 해야 한다.
제5에 원래로부터 온 【관데】들은 100戱뿐만 아니라, 가면戱를 가져왔다. 그리고, 그 때이래, 조선의 예능문화는 크게 변용해 간다. 그 과정은 본고에서는 다루는 여지가 없지만, 단지, 【관데】의 역사는 이방인이 농본의 나라에 도래했을 때가 전형적인 가는 길을 걸었다고 하는 것만은 말해 두고 싶다. 여기에 둘의 길이 있다. 하나는 조선 왕조의 초기, 중기에 걸쳐서 기록된 악랄한 도당으로서의 재인의 역사를 걷는 길이다. 하나는 역사의 표면에서는 사라졌지만, 가면戱, 괴뢰戱등을 대대 연기한 예능집단으로서, 그 역사를 생각하는 길이다. 그들은 전술의 정약용(丁若鏞)의 기술에도 있는 듯이, 19세기의 시작에 이르러도 민중의 지지를 받고 있었다. 그러나, 그것이 정면으로 역사에 기록될 일은 없었다.
이상을 근거로 하고, 여기에서 끝(앞), 나는 후자의 길에 의미를 찾아내려고 생각한다. 무엇보다도, 전자의 길은 부의 집적으로밖에 없다. 그것들은 사실 있었던 것이다고 한들, 그만큼의 것이 아닐까? 물론 스캔들, 반항적인 사건에는 반드시 상응한 원인이 있어, 그것을 통해서 아무리(어떻게) 지독한 억압과 부조리가 횡행한고 있었는지를 규탄할 수는 있다. 그러나, 그것보다도 후자의 세계를 선택하자. 우리들은 그것을 아직 조금 별견한 것 뿐이다. 서둘러야 할은, 그 흔적이 있는 동안에 하나의 역사를 다시 더듬어 가는 것이 아닐까?
이라고는 해도, 남겨진 자료는 적고, 대부분은 부정적 언설이다. 여기에 있어서, 나는, 가면戱의 【관데】에 되돌아오려고 생각한다. 그들은 일반의 배우의 전통 위에 서고 있었지만, 그것뿐이면 고대부터의 100戱, 잡戱의 담당자에게 지나지 않는다. 【관데】는 무엇 보다도 원래로부터 도래한 새로운 매우 뛰어남인이었다라고 생각된다. 그들은 쯔이나적인 축문의 가면戱에 신기축을 담았다. 조선에도 옛부터 가면은 있었던 것이 틀림 없다. 그것은 신라(新羅)의 헌강왕의 때에, 남산신의 춤을 표현한 서리髥춤(백발, 수염이 많은 얼굴의 신의 춤)이 해져, 그 후이어서 가면이 만들어진 것부터도 명확하다 (『3국유사』). 또 연말의 대儺에도 소박한 액막이의 가면戱가 있었을 것이다. 그러나, 이러한 가면의 춤은 축도와 축문을 주로 한 것으로 새롭게 초래된 【관데】의 가면戱와는 다르고 있었다고 보여진다. 그러면 새로운 가면戱와는 어떠한 것이었던 것일까?
미카와(三河) 회가면戱의 사람들
1촌의 여신閣씨.
2위령. 혼례에 계속되어서 초야의 공잠도 연기할 수 있다. 서(徐) 깊은속 히로시(昊) 『【소난쿳】가면戱』에서.
3흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
4소의 고환을 파는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
5량 반과 학자의 사이에서 고환의 효력을 퍼뜨림하는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
6【죠렌이】. 양반의 종자로 기묘한 익살꾼. 촬영 돈 히데오(秀男).
7승면. 촬영 돈 히데오(秀男).
8 젊은 여자와 승. 동아시아에서는 유서 깊은 演戱. 민속의 안의 승은 좋아하신다.
9무당과 같은 노파가 제사의 장소에 도래한다.
10학자면상은 정귀신에게 통한다. 원래는 젊게 해서 죽은 남자의 귀신인가? 촬영 돈 히데오(秀男).
11량 반의 얼굴은 호호야 그렇게(그처럼)이라고 하고 있다. 촬영 돈 히데오(秀男).
경상북도(慶尙北道) 안도(安東)군 강회동굴의 가면戱는 고려(高麗) 중기(이두 현),혹은 후기인가 말기 (13-14세기, 서(徐) 깊은속 히로시(昊))에 형성되었다로 여겨지고 있다. 가면의 조형, 강회의 동족부락의 변천 전승과 가면제작에 휘감기는 전승등이 그 근거이지만, 나는, 게다가 다음과 같은 이유로 『고려(高麗)사』의 【관데】의 등장으로부터 전후 그다지 멀지 않은 시기에 형성되었다고 생각한다.
그것은 2점에 집약된다. 제1는, 이 가면戱의 종교적 기반에 여신의 위령이 있어, 이것은 당시의 동아시아에 있어서는 새로운 관념이었다라고 하는 것은 있다. 다시 말해, 전승에서는 15나이로 시집가고, 어린이도 없고 불행한 죽는 법을 한 여성을 마을의 여신이라고 해서 그 임시의 진혼에 최대의 근거를 두고 있는 것이다. 이러한 여신이 성隍신으로 여겨진 것은 결코 고대적인 제사가 아니다. 그것은 오히려, 산천에의 기도라고 하는 예년 되풀이되어 온 고대적인 제사 위에 부가된 새로운 공양이었다. 덧붙이자면 중국에서도 역시, 동족제사에 있어서 불행한 죽음, 특히 여성의 죽음의 장의가 중요한 것이 되고, 이후에는 그것을 주제로 한 희곡(남戱)이 발전했지만, 그 맹아는 송부터 바탕으로 이르기까지의 시대이었다 (다나카(田仲) 가즈나리(一成) 『중국 연극사』). 이러한 사령공양은 장戱혹은 儺戱에 유래하지만, 이것이 원래의 【관데】의 演戱의 뿌리⊙에는 있었다고 보여진다. 그것은 송값의 중국에 퍼진 도시문화 및 불교문화에 유래하는 것이다.
제2로, 이 가면戱는 마을의 여신의 위령이라고는 해도, 등장 인물이 대부분 유상무상의 종류다라고 하는 것은 있다. 이것은 역시 서리髥춤등의 차원과는 다른 것이다. 오늘, 전승이 착종한 부분도 있지만, 강회가면戱에는 소를 도살함의 흰정(다른 책에서는 사형 집행인도 등장), 【죠렌이】 (익살맞은 儺사람), 턱모자람면에서 한쪽 발 마비의 【이메】, 승과 【푸네】(기녀), 친척 없는 노노파, 바보 취급되는 양반등이 나타난다. 이 등장 인물은 서로 모두, 쇠사슬 하고 있게 오신다. 흰정은 조선 왕조 중기이후는 격리된 마을에서 주로 해서 소를 도살함, 수양버들기만들기에 한정되어, 양민(백성)과 성교할 일도 없고 얕봐져서 살아가지만, 강회가면戱의 흰정은 완전히 다른 모양인 이미지다. 당당하게 뛰어다녀 큰 자귀로 소를 일격에 쓰러뜨리고, 곧 바로 고환을 꺼낸다. 그리고 정력증강에 좋다고 해서 관중을 향해서 이것을 팔아 버리자로 하면, 어리석은 양반들이 경쟁해서 산다. 물론, 사람들은 대소하지만, 그것은 결코 조소가 아니다. 이것은 이후에 흰정으로 여겨진 사람들이 아직 사회적인 차별을 받기 이전의 모습이었다라고 생각된다. 그들은 고려(高麗)시대는 요(楊) 미즈(水) 척, 뒤이어서 물척이라든가 禾척이라고 불리고 있어서, 그 출신경위는 호(胡)종 (성종 22(1491)년4월 무용)이라고 보여지고 있었다. 그들을 이방인으로 하는 견해는 『고려(高麗)사』열전 조준(1346-1405)의 목덜미에 이미 개미, 「禾척, 재인은 경종에 것 얻지 않고 국민租를 좌식하고, 항산도 없고 항심도 없고 야마야(山谷)에게 상聚 기다려서 와(倭)도적을 사칭해」 て 있다고 말한다. 그리고 또 「달단과 禾척은 소를 도살함을 가져서 고(耕) 식(食)에 대신한다」라고 하고 있기 때문에, 고려(高麗)의 말기에 그들이 농본의 입장부터 보면 다른 존재로 여겨지고 있었던 것은 명확하다. 단지, 일방으로는 주군, 站에서는 「모두, 소를 宰 말야 손님을 饋 했다」라고 하는 것이어서, 禾척들 나막신의 끈 사람들의 사이에서 공공연하게 활동하고 있었던 것일 것이다.
그런데, 승이 기녀를 처음 보아서 무쓰미(睦)び 맞는 演戱는 송값의 인기 있는 연목의 하나이었다. 「? 화상」이 그것으로, 중국에 있어서의 요전 사에는 당(唐)이래의 바라문(brahmana)춤의 전통이 있어, 이후에는 「오토(大頭) 화상」라고 정월의 민속이 되었다. 승의 「파계」는 조선에서도 일본에서도 같이 인기 있다 演戱에서 민중의 지지를 받았다 (『새자루가쿠기』에 그것인 듯한 것이 있다). 이것을 불자의 파계에의 교훈,또 특권화한 사원에의 풍자로서도 좋지만, 조선의 巫의 「세상尊【굿】」의 안의 놀이에 있는 듯이, 원래는 산으로부터 온 고귀한 모기 미가 젊은 여자에게 신생을 하사하는 演戱라고 말해야 해서, 에도(江戶) 기에 교토(京都)에 드러난 가장의 「ちょろ건(腱)」등도 역시 동류일 것이다. 중국 저장성(浙江省)의 민속이라도 원소의 때에, 오토(大頭) 화상의 演戱를 하면, 액막이가 된다고 말해지고 있다 (? 婉너 『사오성 떨어져 국민』, 인문출판사, 2008년). 단순한 여흥이 아니었던 것은 확실하다.
다음에 친척이 없는 노파. 「양반의 집에서 아래근무의 생활」을 한 것을 몸세상타령으로 읊으므로, 거기에는 본래의 「천민」노비의 애감이 담아져 있다. 단지 다른 책에 의하면, 이 노파는 주인과 이별해서 전국을 표류하고 있는 여성에서,혹은 다른 가면戱를 참고로 하면, 걸어 무당과 같은 사람이었을 지도 모른다. 실제로, 고려(高麗)말기의 성을 엶에는 巫가 있어서 오늘 있는 것 같은 요란하게 떠벌리는 巫의를 하고 있었다 (이규보 「노巫편」). 또 조선 왕조 초기에는 공동체를 떠나서 비구니가 되거나, 권함 행위를 해서 걷는 사회당등의 여성이 다수 있었다. 물론, 그 생활은 불안정해서, 중에는 길 무너져서 죽는 노노파도 있었을 것이다. 과연 가면戱의 노노파는 허무하게 죽는 사람이 많다. 장의의 의를 초래하는 배역이라고 하면 좋을 것인가?
강회가면戱의 등장 인물은 이러한 상품들이었다. 이러한 잡다한 등장 인물을 하나의 테두리의 안에 넣는 것이 끝나서 가능한 것일까? 그것이 사실은 새로운 【관데】의 演戱의 안에서 해진 것이라고 말할 수 있다. 이것은 송값의 「회사」를 중심으로 형성된 사령제사의 모양과 관계된다. 다나카(田仲) 가즈나리(一成)는 송값 고(鄕)촌의 시장의 묘를 중심으로 「사회」가 형성되어, 거기에서 3종의 고혼제사가 보여졌다고 한다. 제1는 정월 춘절의 풍양예의에 부수되는 고혼제사, 제2는 묘의 신이 도롱이 생일에 하는 것, 제3는 임시가 대규모인 고혼제사에서 9幽? 이라든가 황? 절 음식(채식 요리)라고 불리는 것이다 (『중국 연극사』). 강회가면戱는 별신【굿】이라고 하는 10년에 1번 정도의 임시의 제사의 안에서 해지고 있어서, 정말로 9幽? 의사상을 뿌리⊙에 가지고 있었다.
9幽? 는도교의 절 음식(채식 요리)? 의 하나다. 북송의 뽑는 사람 미상의 「황? 9幽? 장해물이 없음 밤 절 음식(채식 요리)대로」에서는 고혼의 종류를 12 채용했다. 나라를 위해서 죽은 영웅, 문신, 손님상, 프랑스승, 도사, 공장(장색), 고역에 죽은 사람, 억울한 죄사망자, 반역자, 범죄자, 자살자, 횡사자다. 게다가 이 수는 남송에 이르면 24도 된다 (『중국 연극사』). 그건 그렇고, 같은 것은 불교라도 말하고 있었다. 『瑜말벗(시중)집 요화염입施식(食)의』의 말미에는 「10류 고혼문장」이 있어, 그 가운데에서는 「일절의 노비, 給使」로 해서 빈천에 목숨을 맡긴 고혼, 「일체 장님, 귀머거리,? 벙어리, 발跛, 손 쇠약해져」등,또, 과부의 몸으로 의지할 곳 없는 고혼등을 올릴 수 있었다 (핫토리(服部) 요시오(良男) 『『施아귀그림』을 해독한다』). 이 불교측의 구제의 시점은 수륙회로서 이미 남북조시대에 볼 수 있었다. 수륙회는 드디어 당(唐)말 고다이(五代)이후에는 융성 하고, 실로 근현대에 이르기까지 중국의 사원에서는 이것이 유지되어, 사원경제의 근원과 정말(과연)이었다. 물론 조선에도 수륙회는 전해지고, 민간의 巫속예의에까지 침투했다.
이러한 제도의 관념이 강회가면戱의 등장 인물들의 뿌리⊙에 있었다고 생각하는 것은 무리가 아니다. 조선 왕조의 초기에는, 산야에 있어서의 施식(食)이 문제시 되어, 그 금령이 자주 내놓았다. 세종은, 승헛됨과 남녀가 음악을 연주해 「100종施식(食)」이라고 말해서 사망자공양을 한 것을 들어서 격노했다 (세종 27 <1445>년7월 병술). 조선 아침의 이 施식(食)은 고려(高麗)시대에 수용한 수륙 절 음식(채식 요리) 〔수륙회〕을 계승한 것이지만, 원래는 송값의 고혼들판귀신에게 대한 제도의 의이었다. 왜 그렇게 해야 했던 것인가, 그것은 마을, 지역공동체에 있어서 의지할 곳 없는 사람의 죽음이 재액을 일으키면 간주되었기 때문이다. 유생의 합리 주의로부터 말하면, 객사한 사람을 위해서 낭비에 가득 찬 저주를 한 바에서, 천재나 기근은 막을 수 없고, 귀신에의 베풀기라고 해서 음식물을 물에 던져 넣는 것은 우매의 극한이었다. 그러나, 천재나 기근은 친척이 없는 죽음과 관계가 있다고 보아서 최후까지 이 施식(食)의 의를 계속해서 행한 것이, 송 전(元)시로(代)이후의 동아시아의 민중사상이었다. 이것은 제례로서는 도사나 巫覡에 담당되어,또 제사예능으로서는 儺사람, 【관데】에 의해 담당되어, 나누어도 여성의 세계에 침투했다. 그리고, 동시 값의 조선과 일본에 전해져 가면戱나 괴뢰戱로서 꽃핀 것이다. 일본의 노가쿠(能樂)가 「남녀의 뿌리를 감추는 것」도 없는 발칙한 법체의 예능자의 설교, 논즐거움과 같은 것의 집단적 광소,그리고 권함등 위에 드러나 온 것은 이미 말해지고 있다 (마쓰오카(松岡) 마음평 『능력∼중세부터의 울림∼』). 이것은 고려(高麗)시대의 말기의 예능공간이었다 (연유하러 모리타(盛田) 가토쿠(嘉德) 『중세 천민과 잡예능의 연구』에 의하면, 17세기 순진하게 여전히 「고려(高麗)인」이나 「당인」의 방하가 귀현의 저에 參철(후) 밑 예가 있다).
그러한 예능의 뿌리⊙에 있는 것은 고혼들판귀신의 제도이었다. 단지 여기에서, 더한층 주목받는 것은 그 제도의 의에 생명의 태생이라고 한다 演戱가 부가된 것이다. 중국에서도 수륙회의 의의 안에 아이를 주는 그림상이 보여지고, 제주도(濟州島)의 巫속예의라도 「수륙의 의」는 어린이를 하사하는 고토부키(壽) 이노리(禱)다. 또 전라도(全羅道)의 사령제도의 예의중에 해진 【다시레기】는 출산의 촌극을 포함하고 있지만, 이것은 「다시의 출생」이다로 여겨지고, 명칭 로 보아 생명의 연쇄를 의미하고 있었다. 송값의 도시에서? 화상이 좋아하셔, 그것이 주변에 전해지고,또 민속화해서 전승된 것도 이 맥락 위에 있다. 조선이나 일본에서는 가면戱의 안에서 출산을 연기하는 것이 있다.
이렇게 보는 것에 의해 조선의 【관데】들의 용모가 보다 깊게 나타내진다. 그들은 이방인이며,또 무엇 보다도 고혼들판귀신의 제도를 演戱 하는 새로운 예능자이었다. 그 본질은 사령에게 부근, 나메라(滑)稽 추잡한 演戱와는 완전히 다른 귀신의 용모도 있었다. 그리고 그 것으로 두려워할 수 있는 것은 있어도, 그들은 결코 업신여겨지는 것 같은 사람이 아니었다.
4조선 왕조의 천민들
원래로부터 온 【관데】의 演戱는 마을이나 지역공동체의 안녕과 생명의 연쇄를 회복하기 위한 것이었다. 그러나, 조선 왕조를 시작한 유생들은 이러한 관념은 도저히, 용인할 수 없었다. 조선 왕조의 초기 100년 정도는, 고려(高麗)왕조의 유물을 청산하는데도 힘을 다한 감도 있다. 특히 사상면에서는 불교와 그것에 영향을 미치는 「淫祀」의 종류는 가차없게 이것을 금했다. 또 이후의 천민의 생성에 연결되는 시책이 여러가지로 실시되어 간다. 태조 2(1402)년 12월에는 「공사賤입, 다쿠미(工)상, 巫覡, 倡매우 뛰어남, 기생, 승니의 자손으로 관직을 부당하게 얻은 사람에게는 일체 전지를 주지 않는 것」으로 했다. 반대로 말하면, 이 시대까지, 그들의 자손은 관직에게 붙는 사람도 있었다라고 하는 것은 있다. 전영보와 같은 사람은 전에 없이는 없었던 것일 것이다.
또 태종의 시대에는 절과 신사가 가죽(혁)罷 되어, 태생이 좋지 않은 승은 환속,혹은 지방에 추방시켜졌다. 미노리(農)는 천하의 큰 근본이며, 재인, 禾척의 종류의 비농업국민의 정착, 동화는 불가피했다. 이동하는 사람들에게 대한 압제는 철저하고 있어서, 재인, 禾척은 「간음과 도둑질을 하고, 살인도 한다」 (세종 4 <1422>년11월 정축)이라고 하는 평가는 오래도록 이어받아지고 있어서 사례는 매거에 틈이 없다 (성종 2 <1471>년 2월 신유, 안 소산(宗三)6 <1541>년 5월 자신해등). 사실로서 그러한 것도 있었을 것이지만, 예측도 적지 않다. 일방으로는, 재인, 禾척을 흰 딱 하고 명명해 농민과 혼인시켜 (세종 5 <1423>년8월 을유), 잡 처시켰다 (세종 9 <1427>년11월 신해). 혹은 호적에 싣고, 평민이나 공사賤사람과 결혼시킨다 (세종 30 <1448>년4월 갑자)이라고 한 동화책을 추진하기도 했다.
그러나, 「재인, 흰정」은 원래 히로시(紘) 노래, 宰죽이기에 익숙해져 있어서 지금도 변경하자로 하지 않는다로 여겨졌다 (예종 일년 (1469)6월 신사). 여기에서는 재인과 흰정이 병렬되고 있다. 요즈음이후가 되면, 재인은 예능자, 흰정은 다만 屠畜과 수양버들기 조형라고 하는 것처럼 구별되게 된다. 이라고는 해도, 원래 「흰정」이라고 명명되었을 때, 거기에는 재인도 포함되어 있었던 것이어서, 양자가 완전히 별인이 되었다고도 단언할 수 없다. 예를 들면, 교토성의 성 히토시(均)관의 주변에 있어서 유교의 제사용에 쇠고기를 준비했니? 사람들은 역시 交婚을 기피되는 사람이었지만, 한쪽에서 산대극(【산데노리】)이라고 불리는 가면戱를 하고, 교토성뿐만 아니라, 근방의 요(楊) 주등에도 외출했다 (아키바(秋葉) 류(隆) 「산 대戱」). 그들은 屠畜도 예능도 담당한 것이어서, 그 본연의 자세는 오히려 고려(高麗)시대의 【관데】,또 조선 아침 초기의 흰정의 그것을 자주(잘) 이어받고 있었다고 생각된다.
재인, 흰정의 이동은 16세기 거의 이후에는 큰 문제가 안되어진 것일 것이다. 왕조실록의 기록은 적다. 특히 흰정은 屠畜을 다만 할 것인가,혹은 군졸로서 징집되게 되었다 (예전에 재인, 禾척은 제주(濟州)인과 함께 군졸에게 편입되었다. 『고려(高麗)사』세상가 공민왕 5(1356)년). 여기에서 주목받는 것은 조선 아침 후반이 되면, 「대개의 육지국민은 바다남편을 시る것 대부분 소를 도살함 짊어지기와 같다」이며, 이것 때문에 일 회해 남편으로서 등록되면 평민과 상 저항할 수 있지 않고, 자손은 모두, 신분을 숨기자로 한 것이다 (정조 24(1800)년4월 무술). 이 전사는 제주도(濟州島) 출신자에게 대한 시점으로서 15세기에 이미 보여졌다. 다시 말해 「제주(濟州)의 콩 볏겨저 있음也」라고 하는 사람들이 경상남도(慶尙南道)의 해안에서 배주거를 하면서 물고기를 잡아 미역을 채취하고 있지만, 그들은 바닷가의 약탈자가 될 수 있는 사람이므로 서서히 손 명명하게 말하는 취지의 훈령이 내놓고 있다 (성종 8(1477)년5월 자신해).
이것과는 달리 제주(濟州)의 바다국민은 「전복작 말라」라든가 「전복작인」이라고도 불려, 역시 왜구에게 종류 하는 사람이라고 보여지고 있어서, 배반시키지 않는 것 같이 말하는 말이 왕에게서 내놓고 있다 (성종 16(1485)년, 동(同)20(1489)년). 그들은 귀중한 전복을 채집해서 진상하는 사람이므로 일방으로는 유용했다. 또 그들에게는 「머리무악」이라든가 「머리 볏겨저 있음」이라고 하는 별칭도 있었다. 그리고 와(倭)도적에게 필적하는 배의 쓰는 사람에서 활용하면 유익하다로 여겨졌다 (성종 23(1492)년). 머리무악은 한라산(漢拏山)의 별칭이지만, 머리 볏겨저 있음은혹은 까까머리에 유래하는 것일지도 모른다. 중국 송값에는, 승, 비구니, 노옹, 소아, 유우(優) 레이(伶), 모서리(뿔)⊙(스모), 泗고기잡이 한(어부), 타여우인 (사냥꾼), 볏겨저 있음종기(부스럼) (해들 거미의 뒤가 빛난 머리), ⊙볏겨저 있음 (완전히 빛난 머리)은 「10님의 프랑스」로 여겨졌다 (하마(浜) 이치에(一衛) 『일본 예능의 원류散즐거움생각』). 다시 말해 까까머리인들로, 이 대부분이 드디어 제구실을 할 양민(백성)의 부류로부터 구별, 차별되어 갔다. 그리고, 양민(백성)과 구별된 사람들의 혼인은 【관데】와 巫당(무당), 흰 딱 하고 사회당등 「천민」끼리의 물건이 되어 간다.
그런데, 승, 승니가 민간에서 기도나 제례를 하는 것은 말할 필요도 없게 압제의 대상이었다. 그러나, 예를 들면 수륙 절 음식(채식 요리)는 조선 아침 중간에 여전히, 해지고 있어서, 「수도중의 남녀가 撤시 해 奔물결」밑(선조 39(1606)년6월 자신해). 관헌이 이러한 행위를 처벌하는 것은 당연해서, 그 거듭하기가 결국, 민간의 종교자와 그 찬동자를 사회적으로 깎아내려 간다.
조선 아침의 초기에는, 「유녀」나 「꽃딸」이 되는 사람도 이미 많아, 이외에도 레이(禮) 소(曹)의 상신에 의하면, 승의 무리에 끌어 들여져 비구니가 된 여자들이 있었다. 또 상인들이 양가의 딸들을 속여서 淫여자로 하는 것, 무뢰한에 데리고 가진 여자들이 몸을 파는 것도 지적되었다 (성종 3(1472)년7월 을미). 이러한 현상은 반드시 폭력이나 돈것만으로 강요당한 것이 아니었을 것이다. 그것은 상응하게 여자의 측이 주체적인 행위이었다고 보지 않으면 안된다. 그러나, 이러한 사람들은 「소중화」에 있어서는 안되므로 붙잡을 수 있었다. 그것은 엄격한 것으로, 위반자의 장래는 노비 즉 천민이 되는 것이었다.
같은 것은 「사장」이라고 그것을 따른 여자들에 대해서도 말할 수 있다. 사장과는 회사곳간의 대표다. 회사곳간은 아카네(朱子)가 시작한 회사곳간법에 배워서 도입된 민중구제용의 창고다. 여기에 비축된 곡물을 가을에 저금리이어서 대출했지만, 사장은 이 제도를 사물화해 간다. 사장은 승인 것도 있었다. 또, 거사를 자칭할 것도 있었다. 조정에 있어서, 그들은 남녀의 무리를 없음, 생업을 버려서 차이역을 달아나, 錚과 북을 울려서 어디에나 싸다니는 것등의 점에서 도저히 용인할 수 없었다 (예종원 (1469)년, 6월 신사). 이 일단은 당초는 교토성내(城內)에서 「회사」를 결성하고, 거기를 염불소로서 집단생활을 했다. 그들은 불도에 귀의할뿐만 아니라 아침에는 시리(이익)을 탐내 밤은 아미타불을 칭했다. 게다가, 이러한 것을 번화가의 부녀자가 동경하는 상태이었다 (성종 2(1471)년6월 자신유). 그러나, 거사와 사회당은 왕조후기에는, 가무와 매음으로 알려지는 것 뿐의 보잘 것 없는 방랑 연예인집단의 하나가 되어 간다.
재인, 흰정, 바다국민, 승, 승니, 사장, 거사, 사회당들이 엄격하게 규제되어 가는 가운데에서, 巫覡도 또 동일하게 규제되어 비천시 되어 간다. 그 조선 왕조에 있어서의 기술의 분류, 정리는 이능화의 「조선巫속생각」 (국문 「조선의 巫속」)에 자세하다. 상세한 것은 그쪽에 양보하지만, 다음일은 적어 두고 싶다. 다시 말해 巫覡의 제례, 도성에의 거주에 대하여, 관헌은 집요하게 몇 번도 탄압을 가했지만, 고종(1863―1907)의 때에도 여전히 궁중에는 나라巫의 출입이 보여진 것이어서, 결국, 금령巫의 정책은 성공하지 않았다. 그리고 그 근본의 원인은 뿌리⊙에 주자학에서는 대체하는 방법이 없는 민중 (특히 여성)의 영혼제도 즉 구제가 있었기 때문이다. 실제로, 왕조 초기의 巫는 의원이며 동서활인 원(빈민구제 시설)로 의료행위도 했다. 이론서도 조직도 없고, 문자도 모르는 巫覡에 어느 정도의 논리가 있는 것이다인가라는 지식인의 시점에서는 巫속을 정면에서 눈여겨 볼 수는 없었다. 이러한 것이 왜 500년이나의 사이 계속된 것인가?
그것에의 회답은 왕조의 지식인에게서는 내놓지 않았다. 그리고, 그것은 조선 왕조의 붕괴후, 1927년이 되어서 처음으로 이능화에 의해 종교학에 가치가 있는 시점에서 체계적으로 진술할 수 있었다. 그러나, 그것조차 지나치게 빨랐던 것인가, 반응은 없었다. 이능화에게도 물론 부족은 있지만, 그 일련의 실적이, 『조선 불교통사』 「조선巫속생각」, 『조선 여자속생각』, 『조선 해어 꽃사』 (기생의 문화사)이라고 한 경과를 걷고 있는 것을 정확하게 비평하는 사람이 있으면, 적어도 거기에 조선의 여성생활사가 말해져 있었던 것을 알아차렸을 것이다. 그것은 한쪽에서 조선의 「천민」사와 깊게 관계되어 있었던 것이다. 그러나, 그러한 기축은 지금조차 명확히는 되지 않고 있다. 이 것은 조선의 근대의 배움지식, 그렇다면 중국과 일본의 속성 지식으로서 시작할 수 있었던 근대의 배움지식의 계보가 안고 있었던 가장 큰 한계점이었다 (야마무로(山室) 신이치(信一) 『사상과제로서의 아시아』, 그 근대 아시아의 배움지식에 대한 부감, 용이 주도한 검증 작업을 참조).
5免賤과 근대
지식인의 근대, 그들의 인식이 어때라, 조선 왕조의 「천민」들에게도 근대는 다가오고, 드디어 통과해 갔다. 이 때 그들은 어떤 생활을 맞이한 것인가? 아마에 새지 않고, 대부분은 모른다. 【관데】에 대해서 말하면, 17, 8세기이후, 판소리가 일어나면, 이 가수의 안에서 예술가기질의 노래손님도 나타난다. 그것은 유일하게 【관데】가 신분의 상승을 실현시킬 수 있는 길이며, 그 때문에 가창법도 추잡함을 죽이기ぎ애조(슬픈 가락)을 깊이 표현하는 방향에 폭을 넓혔다. 이것은 일본의 능력이 걸은 길을 일면에서는 닮아 있었다. 그러나, 그러한 노래손님은 소수이며, 대부분의 【관데】는 민간의 방랑 연예인으로서 세상을 건넜다. 특히 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】에 대하여는 사회적인 평가가 낮게, 송석하등도 「광대자신의 자각이 필요」라고 좋은, 「이론가나 음악가와의 제휴」가 없으면 장래는 없다고 보고 있었다 (「전승 음악과 광대」).
그것은 매우 허황된 소원한 비평이지만, 근대의 서양연극이나 음악의 충격을 받은 당시의 지식인으로서는 어쩔 수 없는 곳이 있었을 것이다. 단지, 왕조의 후반기, 양반층의 도덕성의 결여, 무능인척 하기에 대하여, 가면戱의 안에서, 어리석은 양반이 하인에 의해 완부 울기까지 우롱되는 장면은, 역시, 근대에 접근해서 발전을 이룩한 것이라고 해야 해서, 거기에는 시대의식이 반영되고 있었다고 말할 수 있자. 원래, 동료가 주인을 꼼짝 못하게 하는 모티프는 이방인【관데】의 演戱의 안에는 있었다. 그것은 중국에서 하면, 당(唐)값의 參군戱 [멍한 상태(參군)과 돌입해 (아오이(蒼)⊙)의 대화에 의한 演戱]이래가 낡은 전통이며, 고려(高麗)의 매우 뛰어남인,그리고 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】들에게 계승되어져 온 것이다 (조선 아침의 연산군 시대의 매우 뛰어남인은 왕앞 어울려서 풍자의 演戱를 하고, 처벌되었다. 그것은 이 왕 앞에서는 결사적이었다). 그리고 또, 일본의 자루가쿠의 기예, 교토(京都)에 나타난 자연거사들의 선승에 볼 수 있었던 분방함, 광언의 웃음등에도 같은 풍자의 정신이 보아서 해석될 것이다.
그러나, 그렇기는 해도, 오늘에 전승되고 있는 가면戱의 양반 풍자의 대사는, 그 날카로움에 있어서 參군戱나 「광언」의 수준을 훨씬 넘고 있었다. 예를 들면 하인【마루토기】는 주인을 향해서 말대꾸를 한다. 게다가 그 때, 양반의 피에 양반이외의 피가 혼합되어 있다고 욕을 퍼붓고,또 「대궐안 깊은 곳님 (어머니)」을 집어들어서는 성적인 욕설을 담은 것을 말한다. 게다가 조금 듣는것만으로는 의미를 모른다. 거기에서,또 수사를 바꾸어서 같은 것을 말한다. 이렇게 해서 하인의 말은 보다강한 우롱이 되고, 대부분 저항의 말이 되어 간다.
그렇다고는 해도, 왕조도 소멸하고, 식민지에 배출된 【관데】들은 모두가 옛 시 값의 유물로서 살아가는 것 이외에는 없었다. 그 님은 영화 『서쪽편제 (풍의 언덕을 넘어)』에 찍어내졌다. 돈명坤 분하는 【도사】주변의 가수【유본】이 연석에서 고집을 부린다. 그 때문에, 손님의 남자에게서 「재인(강변자)의 버릇 해」라고 욕을 퍼부어진다. 그러자, 【유본】은 「이 시대에 아직 양반이다든가 재인이다든가 말하는 것인가」라고 해 되돌린다. 그것은 근대의 【관데】들의 기껏의 대변이었을 것이다. 그러나, 판소리를 가져서 도는 【관데】의 시대는 사라져버렸다.
그런데, 천민중, 최하층으로 여겨진 흰정의 근대는 어땠던 것인가? 조선의 근대사상 잘 알려져진 1894년의 갑오갱 장(張)(마사루(甲) 오개혁)의 안에서, 군국기 쓰토무(務) 장소는 12개조의 제의를 했지만, 거기에 「역인, 倡매우 뛰어남, 가죽(껍질) 다쿠미(工), 및 免賤을 허용하는 것」이 있어, 이것을 국왕은 승인했다. 이 중의 「가죽(껍질) 다쿠미(工)」는 가죽(껍질)만들기를 짊어진 사람들로 많은 흰 딱 하고는 직역이 다르지만, 여기에서는 흰정도 포함된다고 보여진다. 그들은, 이것에 의해 강제된 일로부터는 풀어지게 되었다. 그러나, 그 뒤도 흰정에 관한 상황은 변함없었다. 이마무라(今村) 팔찌가 재빨리 흰정을 논하고, 이어서 이마니시 류(今西龍), 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉), 이(李) 사토루(覺) 종, 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생, 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)등이 일본어로 논구했다.
이들을 통해서 안 것은, 왕조의 말기의 흰정은 호적이 없으므로 족보도 없었다. 이름에 인의등의 단어는 이용할 수 있지 않고, 일상생활에서는, 주의복(외투), (입기)쓰기물, 상복, 여성의 비녀의 입어 볼 일이 생기지 않고, 혼례 때의 탈것, 장례의 상가마도 금지되어, 양민(백성)에의 말づ인가는 어린이에 대하여도 겸손했다. 그리고, 갑오개혁이후, 호적을 주어졌다고는 좋은 조, 거기에는 「屠한」의 글자가 기록되어 사회적인 차별은 여전해 있었다.
단지, 흰정들은 왕조시대에도 「쇼(承) 도(堂) 미야코(都)가」라고 하는 부조 기관을 가지고 있고, 각지에 지부가 있었다. 이러한 조직이 있었기 때문인지, 일본에서 수평사의 창립이 있었던 다음 1923년5월, 조선에서도 경상남도(慶尙南道) 진주에 있어서 형평사가 조직되어, 평등에의 선언이 내놓으면, 순간적으로 전국에 펼쳐져 사원공칭 40만명의 일대사회 운동이 되었다. 그것은 주위에서의 심한 반발을 일으켰지만, 1930년경까지는 활발하게 전개되었다. 그러나, 드디어 노선문제로부터 갈등이 생기고, 퇴조를 향하고, 1935년, 명칭을 대동사와 변경한 뒤, 경제 활동을 주로 한 기관이 되고, 그것도 1940년경을 경계에 종언 했다. 해방후는 조선 전쟁의 대혼란의 안, 흰정의 특수부락은 서리가 내림하고, 사회적으로 차별되는 적이 없어졌다로 여겨지지만, 흰정을 주제로 해서 창작 활동을 계속한 작가 정(鄭)동 기둥은 현재도 「차별 의식은 남아있다」라고 해서 특히 지식인의 사이에 그것이 강하다고 한다. 그리고, 진주에 형평운동의 기념관을 만들고, 흰정의 생활과 역사에 관한 자료를 전시하는 것을 제안했지만, 형평운동의 연구자로서 알려지는 지식인이 그것에 이의를 외쳤다고 하는 것을 말하고 있다 (『신의 지팡이』). 그것만(그만큼) 흰정의 문제는 생생하다고 하는 것일 것이다. 오늘 여전히, 진주시(晋州市)에 공설의 기념관은 없다.
6 생각하는 실마리(연고)로서의 「천민」
한반도(朝鮮半島)에서는 해방후도 흰 데이(丁)촌, 재인마을, 재가승(함(咸) 가가미(鏡) 길의 산간부에 있었던 까까머리의 사람들로 차별되었다)의 마을등이 남아있었지만, 현대에는 남북 어느 것의 사회에도 존재하지 않는다. 단, 흰정이나 巫당의 가계에의 차별적 시점이 없어진 것은 아니다. 차별 의식이 불식된 것인가 아닌가는 세대, 지역에 의해도 다를 것이다. 자신의 성씨가 위조양반 가문이라고 공표한 역사가가 있다고는 들었지만, 흰정, 巫당의 가계라고 하는 것을 자칭하는 것은 대충 생각하기 어렵다. 가능하다면 그러한 것은 밝히고 싶지 않다라고 하는 것이 한국 사회의 공약수일 것이다. 거기까지 추궁하면 차별은 사라지지 않고 있다라고 하게 된다. 또, 가까운 과거에서는 전라도(全羅道) 출신자가 정치경제의 중추에서 부당하게 멀리할 수 있다라고 하는 새로운 수법의 차별이 있고,혹은 중국의 동북지역, 연변등 조정하는 객지벌이의 조선 족동포나 동남아시아 출신의 노동자에게 대한 차별이 일부에는 있다. 흰정이나 巫당은 비유하고, 경제적으로 촉촉해져 있어도 무서운 사람으로 여겨지고, 아마 그러므로일 것이다, 접촉하고 싶지 않다고 한 선입관은 강하게 남아있었다. 이렇게 보면, 근대 일본의 사회가 屠畜, 피혁업,혹은 선(Saint) 모기나 집배의 사람들,또 「해고 단(彈) 에이(衛) 가도(門)」 (사형 집행인)등에 대하여 두려움 차별한 상황과 그다지 대신이 없게 된다.
단, 역사의 안의 차별을 공연이게 논한다고 하는 점에서는 명백하게 다르다. 예를 들면 2002년2월6일, 한국의 SBS방송은 음력정월의 특별프로그램에 드라마 「흰정의 딸」을 방송했다. 한국에서는 한 때 텔레비전 보도가 너무나 비판 정신을 잃어버렸기 때문, 「바보상자」라고까지 말하여졌지만, 92년의 민간인정부 이후는 생각하는 소재를 제공하는 매체라고 하는 일면을 되찾고 있다 (군사정권의 이면, 그 최후의 비극 「광주(光州)」를 찍어낸 드라마 「모래시계」 <1995년, SBS방영>을 모르는 한국인은 없다). 그건 그렇고 「흰정의 딸」이지만, 이것은 20세기 첫어울린 실화에 취재한 것으로, 상당히 무거운 드라마다. 흰정의 아버지를 가지는 【온뇬】이라고 하는 이름의 여자 아이가 선교사의 의사를 만나고, 이화학 당으로 근대교육을 받는다. 아버지는 가슴에 흰정의 표시인 천 조각을 하지 않는 것으로 역인에게서 구타되어, 급한 환자의 왕진도 거절당한다. 어머니는 광장의 군중에 의해 「흰정閣씨승마 경쟁」이라고 하는 잔혹한 놀이의 말로 된다. 어머니는 능욕을 견디어낼 수 없고 자살한다. 어머니의 장례식으로 상가마를 채용하자로 하면, 마을사람에 의해 상가마는 때려 부수어진다. 이러한 것은 실제로 있었을 것이다. 그리고, 이화학 당의 6년간의 면학이 끝나고, 졸업식의 석상, 대표에게 뽑힌 【온뇬】은 강당에 參자리 한 많은 사람들 앞에서, 자신이 흰정의 딸인 것을 고백했다.
드라마는 첫머리에 일본군에 의한 조선인의 체격, 체질검사에 흰정이 강제 동원된 역사적 사실을 두고, 도중, 왕조말기 이래의 흰정가족의 수난을 그리고, 드디어 【온뇬】의 용기 있는 고백과 청중에게서의 축복의 박수로 끝난다. 대단원풍의 끝나는 방법이 약간 마음에 걸렸지만, 그것은, 차별은 필경, 구축물에 지나지 않는 것으로 맥이빠지게 붕괴될 수 있는 것이라고 하는 메시지일지도 모른다. 어떻든간에 근대의 흰정을 생각시키는 소재에는 충분히 되고 있다. 이 드라마를 현재의 한국 사회가 어떻게 시청한 것일지는 모른다. 단지 적어도 한국 사회가 몇십년 전까지 존재한 가혹한 사회차별의 역사를 정면에서 생각하자로 한 것, 그러한 생각하는 풍토가 있는 것은 주목해도 좋다.
물론, 오늘 한국에도, 상품 나머지의 일상, 「자유」를 힘 겨워하는 젊은 세대는 적지 않게 있어서 역사떠나기도 또 보여지는 곳이다.
그러나 일방으로는, 일본의 통치, 조선 동란, 군사정권아래의 민주화 투쟁등에 의한 아픔을 피부로 아는 사람들이 건재해서, 그것을 구전하는 사회풍토가 존재한다. 향락에도 대담하지만, 아픔에도 또 민감한 사회다. 물론, 그것이 하는 밧줄ち 모두의 차별의 해소에 직결한다고는 말할 수 없을 것이다.
그러나, 나부껴서 오늘 일본에서 피차별 국민의 근대를 주제로 한 드라마를 정월 프로그램에 방영하는 것등이 가능할까? 우선 그러한 주제는 기획에조차 오르지 않을 것이다. 그렇게 해서 일방으로는, 현실의 다양한 아픔이 드디어 복합적으로 재생산되고 있다. 역사의 아픔에 둔감한 사회가 현실의 아픔에 민감할 리는 없기 때문에 당연하다. 그리고 염려하는, 「우리들의 텔레비전 미디어등은 「부적절한 용어」를 제거하는 것에는 매우(대단히) 열심이지만, 역사의 아픔을 뿌리부터 고치게 하기 위한 바른 길을 따라 가는 것에는 완전히 배짱이 없어지고, 그것이야말로 나날(날마다) 「바보상자」에 다가오고 있는 것이 아닐까? 그렇게 해서 일본이라고 하는 공동체는 정말로 그 무비판, 신경이 무딤에 의한 순간의 안태를 탐내고 있는 것 뿐만 아니는 것인가라고.
천민으로 여겨진 사람들의 역사, 그것은 지금, 봉인을 풀어지지 않으면 안된다. 그리고 이후, 처음으로 우리들은 동아시아의 동시 값성을 재인식 할 수 있을 것이다. 그들을 포함시킨 동시 값적인 공동체는 무심결에 5, 600년 앞에는 확실히 아직 보여진 것이다. 그리고, 그러한 본연의 자세, 생활의 양상을 구체적으로 알면, 사실은 차별 의식의 대부분은 뜻밖에 가까운 과거에 이식할 수 있었던 빌린 물건에 지나치지 않는다라고 하는 것을 알 것이다.
한반도(朝鮮半島)의 「천민」은 동아시아의 기층문화의 여러 가지 모습에 육박하는 관문열쇠의 하나다. 이것은 모르게 마치는 문제가 아니다. (2008년10월5일 보유)
참고 문헌(글 중에 인용한 것
巫覡, 【관데】의 민속종교적 배경에 대해서 노무라(野村) 신이치(伸一) 「조선문화사에 있어서의 사망자영령의 공양」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년
기생, 노비, 흰정, 사승, 巫당등에 대해서 안우식 편이유(번역) 『아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1982년 안우식 편이유(번역) 『속·아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1988년 숲鍾나라 『서울 성하에 한강(漢江)은 흐른다』, 평범사, 1987도시가와(年川)촌 미나토(湊) 『기생』, 작품사, 2001년
요(楊) 미즈(水) 척·禾척·물척, 재인, 흰정에 대해서
이마무라(今村) 팔찌 「조선의 특수부락」 『조선 풍속집』, 사도관, 1914년 이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」 『예문(예술과 문예)』 9권 4호, 1918년 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉) 「조선의 흰 딱 하고 우리괴뢰아이」 『사 숲』 9권 9호, 1918년 이(李) 사토루(覺) 종 「조선의 특수부락」 『조선』 104호, 1923년 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생 「조선의 흰정계급:특수부락-형태」 『조선』 211호, 1932년 아유카이(鮎貝) 송이之신(進) 「흰정, 附물척, 禾척, 요(楊) 미즈(水) 척」 『잡攷』 5輯, 1932년 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』국서간행회, 1973년 복각)돈정아름다움 「19세기말·20세기 초기에 있어서의 「흰 데이(丁)」」이이누마(飯沼) 지로(二郎), 강재언 편 『근대 조선의 사회와 사상』, 미래사, 1981년 스기야마(杉山) 지로(二郎) 『유민의 계보』, 오즈치(靑土)사, 1988년
형평운동에 대해서
돈중燮 『형평운동 연구』, 한국 사회과학연구소, 肯신(愼) 유카리(紫), 1990년, 서울 돈긴대저, 『형평』번역 편집 위원회번역·편집 『조선의 피차별 민중』, 부락해방 연구소, 1988년
巫覡의 역사에 대해서
노무라(野村) 신이치(伸一) 「이능화 「조선의 巫속」주 (상)」 및 「이능화 「조선의 巫속」주(아래)」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, No. 29, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년 (이것은 이능화 「조선의 巫속」잡지 『조선』, 조선 총독부, 1928―29년에 7회 게재되었지만 복각에서, 거기에 이유(번역)주를 첨부한 것)
예능사 및 가면戱
노무라(野村) 신이치(伸一) 『가면戱와 방랑 연예인』, 개미한 서방(책방), 1985년 이두 현 『조선 예능사』, 도쿄대학(東京大學) 출판회, 1990년 다스키(田耕) 아사히(旭) 『한국 가면극 그 역사와 원리』, 열이야기 당, 1998년, 서울(호세이대학(法政大學) 출판국에서 일역 2004연간) 돌아간다
Monday, March 26, 2012
Joseon envoy; Park seo saeng 朴端生 통신사 in 1429
朴端生 통신사 戊申通信使 박서생(朴端生)
世宗が通信使朴端生に「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」
1429年、日本に来た朴端生は、
「日本の農人、水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、
鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉、
などの製造法を祖国に報告している。
日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から、
「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。
水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる。
세종 41권, 10년(1428 무신 / 명 선덕(善德) 3년) 7월 1일(신해) 3번째기사
일본에서 《백편상서》를 사오게 하다
임금이 대언(代言) 등에게 말하기를,
“일본국(日本國)에 《백편상서(百篇尙書)》가 있다고 들었는데, 통신사(通信使)로 하여금 사오도록 하고, 또 왜국의 종이는 단단하고 질기다 하니, 만드는 법도 배워 오도록 하라.”
하니, 지신사(知申事) 정흠지(鄭欽之)가 계하기를,
“일본국에는 금이 많이 생산되니, 명주와 모시[苧布]를 가지고 가서 사오는 것이 어떻겠습니까.”
하였다. 임금이 말하기를,
“중국에 바치는 금·은을 만일 면제 받을 수 없다면 사다가 바치는 것이 옳다.”
하였다.
【태백산사고본】
【영인본】 3책 136면
【분류】 *외교-왜(倭) / *광업(鑛業) / *공업(工業) / *무역(貿易)
世宗 41卷, 10年(1428 戊申 / 명 선덕(善德) 3年) 7月 1日(辛亥) 3번째기사
일본에서 《백편상서》를 사오게 하다
○上謂代言等曰: “聞日本國有百篇《尙書》, 可令通信使購來。 且倭紙堅韌, 造作之法, 亦宜傳習。” 知申事鄭欽之啓: “日本國多産金, 以紬苧布買來何如?” 上曰: “進獻金銀, 如不得蠲免, 買來進貢可也。”
【태백산사고본】 13책 41권 1장 A면
【영인본】 3책 136면
【분류】 *외교-왜(倭) / *광업(鑛業) / *공업(工業) / *무역(貿易)
世宗「日本国に百篇の『尚書』があると聞くから、通信に購入させてくるよう命じるべきだ。
また、和紙は丈夫でしなやかだから、その作り方もまたよろしく伝習せよ」
秘書官「日本国は金が多産ですから、紬や苧麻の布と引き換えに買ってきたは如何か」
世宗「(中国に)進貢する金銀が免れないのならば、金を買ってきて献上すべきだろう」
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야마토의 종이, 견인, 조작의 법 또 잘 전습할 것」이래.
Park Seo saeng,a member of Mooshin Tongshinsa envoy to japan.
King Sejong ordered to diplomati Park Seo saeng that well learn the way or techical to make japanese paper,blade,architecture.
Park Seo saeng came to Japan in 1429,
as "japanese farmers are making waterwheel",
he let researched how to make mile by student Kim, and created the model,
he informed how to make Silver impregnation (silver plated), papermaking (paper combing),vermilion red, light powder,reported the methods for manufacturing such as to his homeland.
The current status of Japanese economy, such as the development of stores and commercial, even referred to the technology in it,
This is because, prior to starting the mission, he was instructed by Sejong (a Korean king) that 'You should learn how to make paper, how to make hard blades and how to build houses and should bring back the technologies concerned,' or he was instructed to introduce technologies in Japan.
- Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
a waterwheel had been written in "Essays in Idleness, Tsure zure gusa,article 51" more than a hundred years before, at that time to think that be installed at the hands of farmers, it is deemed there was so much technology gap between Japan and Korea.
1428
In the 10th year of King Sejong's reign, the Joseon court dispatched Pak Sǒ-saeng as chief envoy of a mission to the shogunal court of Ashikaga Yoshinori in Japan.[10]
조선 통신사 1428년(세종 10년) 박서생 이예 김극유
http://www.earticle.net/article.aspx?sn=110412
戊申通信使
Joseon missions to Japan
1 Joseon diplomacy
2 Joseon missions to the Muromachi shogunate
2.1 1392
2.2 1398
2.3 1404
2.4 1406
2.5 1409–1410
2.6 1413
2.7 1420
2.8 1423
2.9 1424
2.10 1428
2.11 1432
2.12 1439
2.13 1443
3 Joseon missions to Hideyoshi
3.1 1590
3.2 1596
4 Joseon missions to the Tokugawa shogunate
4.1 1607
4.2 1617
4.3 1624
4.4 1636
4.5 1643
4.6 1655
4.7 1682
4.8 1711
4.9 1719
4.10 1748
4.11 1764
4.12 1811
5 Joseon-Japan diplomacy adapting
5.1 1876
This study is about Mooshin Tongshinsa(1428)、the first communications man of Joseon and Park Seo-Seng。The summary of the result is as follow。First、Mooshin Tongshinsa's dispatch background and journey。Mooshin Tongshinsa had performed a religious service to Shogun Ashikaga Yoshimochi(足利义持)the 5th generation of Muromachibakuhu(室町幕府)and was dispatched to celebrate the succession to Shogun title of Ashikaga Yoshinori(足利义敎)the 6th generation of Shogun。The journey started in December 7th 1428 from Seoul and it ended in December 3rd 1429 with the report to the King after 100 members have made a round trip of Second、it's the appearance of Park Seo-Seng reflected as a fine writer in Sahaeng literature。The fact that Sejong ordered Song Hee-Kyung(宋希璟)to write the Sahaengrok、In Dongmoonseon there are three poems that were written during the Sahaeng so there's a big possibility that the Sahaengrok of Park Seo-Seng actually existed。Also Dongmoonseon in the poem written during the honored going of the envoy、the difficult journey and the responsibility as the envoy executing the order of the King、the exotic experience such as Japanese food and landscape are all well described and displaying his ability as a fine writer。Third、Park Seo-Seng's will of a reform reflected in the report letter to the King。In Park Seo-Seng's report、 "rational foreign policy proposal through a precise detection on the situation in Japan、induction of smooth circulation of money and industry activation、improvement of agricultural policy efficiency through automatic water mill and useful plant cultivation"、his strong will of reform as a diplomat、economic politician、agricultural policy reformer is well reflected。In this way、Park Seo-Seng was the first communications man of Joseon dynasty who left his mark in Sahaeng literature and national policy as the responsible of Mooshin Tongshinsa through the honored going of the envoy.
통신사는 조선시대에 전반에 걸쳐 일본에 파견된 교린외교사절이자 문화사절이다. 하지만 이제까지 학계의 연구는 자료가 영성한 조선전기 통신사에 비해 상대적으로 우월한 위치에 있는 조선후기 통신사에 집중된 것이 사실이다. 이 논문은 이러한 연구경향에 대한 반성으로 조선 최초의 통신사인 戊申通信使(1428)와 사행의 총책임자인 朴瑞生을, 사행의 파견배경과 사행노정, 문장가ㆍ개혁가로서의 박서생 등으로 나누어 조명한 것이다. 무신통신사는 室町幕府 5대 장군 足利義持를 제사지내고, 6대 장군인 足利義敎의 장군직 계승을 축하하기 위해 파견되었다. 그 노정은 1428년 12월 7일 서울을 출발하여 약 100여 명의 인원이 ‘부산-對馬島-壹岐島-朴加大(博多)-赤間關-黑石西關(上關)-多可沙只(鎌刈)-都毛梁(鞱浦)-小尾途津(下津)-胸比(日比)-牛澹(牛窓)-無路(室津)-一場(一谷)-兵庫-王部落(京都)’등을 왕복한 뒤 1429년 12월 3일에 왕에게 보고하는 것으로 사신행차를 마쳤다. 박서생은 東文選에 使行詩 3수를 남기고 있다. 그의 使行詩는 왕명을 수행하는 사신으로서의 책임감과 사행의 험난함은 물론, 일본 음식이나 경치 등 이국적 체험을 잘 표현하여 문장가로서의 면모를 잘 드러내고 있다. 그밖에 세종이 송희경에게 사행록 저술을 명령한 사실을 통해 비록 현전하진 않지만, 박서생의 일본사행록도 존재할 가능성이 높다. 또 박서생은 사행을 끝난 뒤 사행에서 느낀 바를 왕에게 보고하는 「復命」에서 자신의 개혁의지를 드러낸다. 「복명」에는 일본 정세의 정확한 탐지를 통한 합리적인 외교정책안의 제시, 화폐의 원활한 유통과 산업의 활성화 유도, 자동 水車와 유용한 식물의 재배를 통한 농업정책의 효율성 제고 등 외교관ㆍ경제정책가ㆍ농정개혁가로서의 그의 개혁의지가 명확히 반영되어 있다. 이처럼 조선 최초의 통신사인 무신통신사의 총책임자 박서생은 사행문학 뿐 아니라 국가정책에도 큰 발자취를 남긴 인물이었음을 알 수 있다.
http://cafe.daum.net/yeohwicenter/4NNT/65?docid=BfRN4NNT6520100126140209
뿌리아름역사동아리 - [한일관계사]6. 朝鮮通信使 (1)室町時代 | Daum 카페
朝鮮通信使 (1)室町時代 室町時代의 朝鮮通信使에게는日本에 대한 国情視察의 임무도 주어져 있었던바, 1428년(正長 元年)의 통신사 일행 중에 포함되었던 書記官 申叔舟가 저술한 <海東諸国紀>에는 왜구금압의 요청에 추가하여 15항목에 걸쳐서, 倭寇根拠地, 倭寇와 지방의 슈고다이묘(守護大名), 유력 고쿠진(国人) 및 토호(土豪)와의 관계, 都市部의 発展状況과 通貨政策 등의 국내상황, 불교의 전개상황 등이 조사보고되고 있다. ----------------------------------------------------------------------------------------------- 回数
年
目的・名称等
第1回
1429年(正長元年, 세종 10년)
通信使(足利義持 弔意와 足利義教의 승계 慶賀)정사 朴瑞生 부사 이예
第2回
1439年(永享11年, 세종 21년)
通信使 정사 高得宗 부사 윤인보
第3回
1443年(嘉吉3年, 세종 25년)
通信使(足利義教 弔意와 足利義勝의 승계 慶賀)정사 卞孝文 부사 윤인보
---------------------------------------------------------------------------------무로마치시대의 통신사는 총 3회에 걸쳐 도일하였는데, 이외에도 正使는 임명되었음에도 불구하고 통신사 파견의 계획이 취소된 1413년(정사의 사망)과 1475년의 경우(설명은 일치하지 않으나) 대략 슈고다이묘나 유력 고쿠진의 이름을 사칭하여 임의로 교섭을 행하는 偽使가 횡행하거나 日朝貿易 자체가 지지부진하여 통신사 파견의 필요성이 없어진 경우)와, 1459, 1479년의 경우에는 통신사 파견이 취소되었다. 이후 도요토미정권까지 약 150년간 통신사 파견은 중단되었다. 1429년 일본에 온 朴端生은 金慎으로 하여금 水車제조법(造車の法)을 상세히 조사시켜 모형을 만들고 鍍銀(銀淘金), 造紙(紙漉), 朱紅, 軽粉 등의 제조법,日本貨幣経済의 실태, 店舗商業의 발전 등을 조선에 보고한다. 이는 기술적인 측면에서도 도항전에 「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」라고 세종이 언급하였고 水車의 경우에도 이미 100년 전에 <徒然草>에도 기록되어있는바와 같이 당시의 일본 농민들에게는 일반적인 기술수준이었음에 미루어 양국의 격차는 벌어져있었다고 생각된다. -下條正男『日韓・歴史克服への道』 **통신사의 명칭조선은 1403년(태종 3) 명(明)나라로부터 책봉을 받고, 이듬해 일본의 아시카가정권[足利政權(족리정권)]도 책봉을 받아 조선·중국·일본간에 사대교린의 외교체제가 성립되어 조선 국왕과 일본 막부장군은 양국의 최고통치권자로서 현안문제 해결을 위한 사절을 파견하였다. 이때 조선이 일본에 파견하는 사절을 통신사, 일본이 조선에 파견하는 사절을 일본국왕사라고 하였다. 계해약조의 체결 이전에는 "통신사" 대신 "통신관", "회례사(回禮使)", "보빙사(報聘使)"라는 명칭을 사용했지만, 정식으로 "통신사"의 "파견 규정"에 따라 보낸 것은 세종 10년(1428년)에 이르러서 이다. 이때 "정사(正使) 박서생", "부사(副使) 이예", "서장관(書狀官) 김극유"를 임명하고 "규례"에 따라 사신단을 구성한다. 결국 1428년(세종 10) 11월에 편성, 다음해 일본에 파견되었던 정사 박서생(朴瑞生)사절단이최초의 통신사라 할 수 있다. (일본에 파견한 사절단에 통신사라는 명칭이 처음 쓰인 것은 1413년에 편성된 박분을 정사로 한 사절단이었지만, 이 사행은 중도에 정사가 병이 나서 중지 되었다) 조선은 통신사를 마치 중국의 책봉사처럼 생각했는데 일본의 새 관백(關白 =쇼군)이 서면 "관백승습고경차왜(關白承襲告慶差倭)"와 "통신사청래차왜(通信使請來差倭)"가 와서 파견을 요청했기 때문에 조선의 새 임금이 서면 중국에 청승습사(請承襲使)를 보내 책봉을 요청하는 것과 흡사했고, 여기에 "화이관념"까지 작용한 결과다. 일본은 유일하게 국교를 맺고 있는 조선으로부터 정통성을 인정받는 절차였지만, 국내적으로 조공사로 둔갑시켜 우월의식을 표출한다. **조선통신사와 일본국왕사의 배경과 활동내용
임진왜란 전의 경우, 일본에서 파견된 일본국왕사는 주로 경제적 이유 때문이었다. 그들은 동을 가져와 대신 생필품인 쌀·콩·목면 특히 면포를 가져갔다. 이어 일본 선종이 크게 부흥하자 조선의 대장경과 범종들을 구하여 갔다. 이에 반하여 조선의 사절은 대개 정치·외교적인 목적이 대부분이었다. 그 내용을 보면, 왜구의 금지 요청과 축소관계 수립이 주종을 이루었다. 이어 일본의 금구책(禁寇策)에 대한 치하 및 범구자 처벌, 왜사의 귀환호송, 항왜의 배신에 대한 책유, 일본국왕사신의 보빙, 표류인의 호송에 대한 치사, 국왕·대장군·대마도주 등의 조위 경하 및 예물증여, 상역·어업표류민·피로인·세견선 등의 협의, 국내외정세의 탐사 등이었다. 한편, 조선 후기의 경우는 우선 임진왜란 직후 일본과의 전쟁상태 종결을 위한 강화, 포로들의 쇄환(刷還), 일본국정의 탐색이었고, 1636년(인조 14) 이후는 막부장군의 습직(襲職) 축하가 주 임무였다. 그러나 그 역사적인 의의는 조·일 양국 간만이 아니라, 중국을 포함하는 동아시아 삼국의 평화공존을 위한 국제관계에 많은 영향을 끼쳤다는 데 있다. 조선에서 일본으로 파견한 사절인 통신사의 특징은 ①조선 국왕으로부터 일본장군에게 파견되어야 한다 ②일본장군에 대한 길흉조사, 양국간의 긴급한 문제해결이 목적이며, 회례·보빙의 의미는 없다 ③조선 국왕으로부터 일본장군 앞으로 서계(書契) 및 예단을 가지고 간다 ④사절단은 중앙관리 3명 이하로 한다 ⑤통신사, 그에 준하는 국왕사의 호칭을 써야 한다 등이다. 임진왜란 전 조선의 사절은 대부분 정치적·외교적 목적으로 왜구 금지 및 수호관계 수립 등을 요청하였고 일본에서 파견된 일본국왕사는 경제적인 면, 즉 동(銅)을 가지고 와서 쌀·콩·목면·면포 등을 가져갔다. **對馬島文書
한일교섭사 연구의 일급사료는 에도막부로부터 대조선창구의 역할을 위임받아 국교와 통상실무를 전담하던 對馬藩의 방대한 기록군인 對馬島文書이다. 이 자료에 포괄되어 있는 국서, 교환공문, 관계인사들의 개인 서장, 왜관과 같은 기관의 공적 기록, 무역실무의 거래문서 등등의 방대한 문서는 모두 당시의 일본어 문장체인 일본 근세일본어의 소오로오문체(候文文體)의 日文과 漢文草書로 된 고기록이다. 이 방대한 문서들은 현재 국사편찬위와 일본의 여러 기관에 분산 수장되어 있었는데 현재는 전량을 마이크로필름으로 촬영 복사되어 시판되고 있으나 이 사료를 읽고 내용을 소화할 수 있는 어문능력을 갖춘 연구자의 수는 극히 제한되어 있다. 현대일어를 알고 있고 상당한 한문소양을 지닌 漢學者라도 읽어낼 수가 없는 일본 근세사료인 것이다. 이외에도 일본외무성자료, 육해군관계의 軍文書와 일제시대의 비밀이 담겨져 있는 방위청문서, 일제의 내각기록과 공공기관의 행정문서 등을 독파하고 분석하여 평가연구되어야 하며 이런 사료섭렵을 위한 어학실력과 사료 탐색 활용능력에 따라 비로소 진정한 한일교섭사의 실체가 파악될 수 있는 것이다. <교섭사연구의 새 지평선> 이원순 **正使와 副使조선초기 정사는 대개 일본사행에 초행인 인물이 임명되었음에 비해 부사는 일본에 왕래한 경험이 많은 인물이 임명되어 교섭실무를 전담하고 정사를 보좌하였다. 부사의 경우 李藝와 尹仁甫(通事 출신으로 일본에 6회 사행하였고 大護軍까지 올랐다)를 들 수 있는데 李藝의 경우, 태종 8년, 세종 4년, 세종 6년, 세종 10년 등 4회에 걸쳐 각각 부사로 수행하였고, 윤인보의 경우 세종 21년, 세종 25년 등 2회에 걸쳐 부사로 수행하였다. 정사는 조선초기의 경우 종3품에 해당하는 직위의 관리가 선발되는 경우가 많았는데 박안신, 박서생, 변호문 등의 경우 거의 모두 대일사행이 처음이자 유일한 것이었다. 태종 8년 정사 朴和 부사 이예
세종 4년 정사 朴熙中 부사 이예
세종 6년 정사 朴安臣 부사 이예**박서생(朴瑞生)
생몰년 미상. 본관은 비안(比安), 자는 여상(汝祥), 호는 율정(栗亭)으로 중랑장 박점(朴漸)의 아들이다. 조선 전기의 문신으로 길재(吉再)의 문인이다. 음보(蔭補)로 성균관 학정이 되고, 태종 1년(1401) 증광문과에, 1407년 문과중시에 급제하여 정언이 되었다. 이듬해 병조 좌랑이 되었으나 반차(班次)를 무시한 것이라는 사간원의 탄핵으로 파직되었다. 그후 사헌부 집의 · 대사성이 되었고 1428년 통신사로 일본에 다녀왔다. 이 해 정월 종묘 제향의 대축판사(大祝判事)로 친향(親享) 때 축문을 8자나 빼고 읽어 물의를 일으키기도 했다. 이후에 우군첨총제 · 집현전 부제학 · 공조 · 병조의 참의 · 판안동대도호부사를 지냈다. 1433년 앞서 통신사로 일본에 다녀올 당시 배워온 수차(水車) 사용을 건의하여 농사의 관개(灌漑)에 혁신을 기했다. 청백리에 녹선되었으며 비안의 구천서원에 제향되었다. 편서로는 《야은언행록(冶隱言行錄)》이 있다. 조선통신사로 일본을 다녀온 율정 선생은 1429년(세종11)에 그곳에서 보고 들은 것으로 시행할 만한 내용을 담아 상소를 올린다. 여기서 율정선생은 “일본 농민에게 수차를 설비하여 물을 퍼 올려 대고 있어, 우리나라에서 전년에 만들었던 수차인 인력(人力)으로 물을 대는 것과는 다른데, 다만 물살이 센 곳에는 설치 할 만하오나, 물살이 느린곳에는 설치할 수가 없습니다.········이제 간략하게 그 모형을 만들어 바치오니 청컨대 각 고을에 설치 할 만한 곳에 모형에 따라 제작하여 관개(灌漑)의 편리에 돕도록 하소서” 라고 하여 수차의 사용을 건의 한다. 豊臣秀吉에의 通信使 1590년의 통신사는 명목상으로는 도요토미의 일본통일을 축하하는 사절이었으나 침략의도의 진위를 파악하는 것이 주목적이었다. (대마도의 소오씨가 중개를 담당) 1596년의 통신사는 明의 휴전교섭차 도일한 明使(冊封使)에 동행한 사절豊臣秀吉朝鮮通信使履歴
回数
年
目的・名称等
第1回
1590年(天正18年, 선조 23)
通信使 正使 黄允吉 副使 金誠一
第2回
1596年(慶長元年, 선조 29)
通信使 正使 黄慎 副使 朴弘長
** 본문은 일문위키의 번역으로 일본의 입장에서 통신사를 설명하였기 때문에 우리의 역사인식과 다소 다른 점이나 용어가 있음을 참고하시기 바랍니다.
http://blog.daum.net/2091101/10320459
조선시대에 일본으로 보낸 외교사절.
조선은 건국 후 1403년(태종3) 명(明)나라로부터 책봉을 받고, 이듬해 일본의 아시카가정권〔足利政權〕또한 책봉을 받아 조선·중국·일본간에 사대교린의 외교체제가 성립되어 조선 국왕과 일본 막부장군은 양국의 최고통치권자로서 현안문제해결을 위한 사절을 파견하였다.
▲한양에서 애도(동경)까지 이르는 조선 통신사의 여정의 그림
이때 조선이 일본에 파견하는 사절을 통신사, 일본이 조선에 파견하는 사절을 일본국왕사라고 하였다.
1428년(세종 10) 11월에 편성, 다음해 일본에 파견되었던 정사 박서생(朴瑞生) 사절단이 최초의 통신사라 할 수 있다.
▲옛날 일본인들이 그려놓은 조선 통신사 행렬도-이 그림의 배경이 된 장소는
당시의 수도격인 애도성이라고 함
조선에서 일본으로 파견한 사절은 회례사(回禮使)·통신사·경차관(敬差官) 등 다양하였는데, 이 가운데 통신사의 특징은 ① 조선 국왕으로부터 일본장군에게 파견되어야 한다 ② 일본 장군 대한 길흉조사, 양국간의 긴급한 문제해결의 목적을 갖지만 회례·보빙의 의미는 없어야 한다 ③ 조선 국왕으로부터 일본장군 앞으로 서계(書契) 및 예단을 가지고 간다 ④ 사절단은 중앙관리 3명 이하로 한다 ⑤ 통신사, 그에 준하는 국왕사의 호칭을 써야 한다 등이다.
▲조선 통신사의 전별연 모습
임진왜란 전 조선의 사절은 대부분 정치적·외교적 목적으로 왜구 금지 및 수호관계 수립 등을 요청하였고 일본에서 파견된 일본국왕사는 경제적인 면, 즉 동(銅)을 가지고 와서 쌀·콩·목면·면포 등을 가져갔다.
1510년(중종 5)삼포왜란(三浦倭亂)을 계기로 일본과의 사절 왕래는 끊겼으나 일본을 통일한 도요토미 히데요시〔豊臣秀吉〕가 조선에 수호할 것과 통신사의 파견을 끈질기게 요청하자 90년(선조 23) 조선은 통신사 일행을 일본에 보냈다.
임진왜란 후 1607년(선조40)에는 일본측의 화의를 받아들여 여우길(呂祐吉)을 정사로 하는 400여 명의 사절을 보냈는데 이때 사신의 명칭을 통신사라 하지 않고 <회답 겸 쇄환사(回答兼刷還使) >라 하였다.
1609년(광해군 1) 기유조약(己酉條約)을 맺고 국교가 다시 이루어지자 36년(인조 14) 사절단부터 통신사라는 명칭을 다시 사용하였으며 주로 장군습직을 축하하기 위하여 갔다.
※기유조약이란?
조선광해군 1년(1609)에 일본과 맺은 조약, 쓰시마섬의 세견선(歲遣船)을 20척으로 규정하였고, 사신의 접대, 벌칙 따위를 정하였다
1811년(순조 11) 마지막 통신사가 파견될 때까지 9회에 걸쳐 파견되었으며 76년(고종 13) 강화도조약 이후 수신사(修信使)로 개칭되었다.
통신사 일행의 구성은 정사·부사와 그 밖의 수행원으로 이루어지며 많을 때는 400∼500명에 이르렀다.
통신사 일행이 통과하는 객사에서는 한시문·학술의 필담창화라고 하는 문화상의 교류가 이루어졌으며 학술·사상·기술·예술 등을 전하기도 하였다.
▲일본 허구인 선사가 조선 통신사 일행중 마상 곡예사를 묘사한 그림
한편 통신사들은 국내로 돌아와 일본에서 겪은 견문록을 남겼는데 이 기록들은 《조선통신사행렬도》와 함께 당시 대일문물관계를 살피는 데 좋은 자료가 된다.
▲조선 통신사 정사 조엄이 세이켄사의 수려한 풍광을 찬미한 글
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※삼포왜란
1510년(중종 5) 4월 3포에서 일어난 일본 거류민의 폭동사건.
경오(庚午)의 난이라고도 한다.
삼포란-------
1.지금의 부산진(釜山鎭)에 해당하는 동래(東萊) 부산포(釜山浦),
2.경남 진해시에 해당하는 웅천(熊川) 내이포(乃而浦 일명 薺浦),
3.경상남도 방어진(方魚津)과 장생포(長生浦) 사이에 해당하는 울산 염포(鹽
浦) 등을 말한다.
조선은 건국 후 무질서하게 입국하는 왜인들을 통제하기 위하여 삼포(三浦:釜山浦·乃而浦·鹽浦)를 개항하고 왜관(倭館)을 설치했으며, 일시적인 체류가 아닌 개항장에 거주하는 항거왜인(恒居倭人)의 수를 총60호로 한정시켰다.
▲1887년쯤의 부산 왜관 서관 지역의 전경사진.
그러나 그 수는 점차 늘어나 1474년(성종 5)에는 이미 400여 호에 2,000명을 넘게 되었다.
처음 약정된 60호 외에는 일본으로 돌려보내는 쇄환정책을 실시하려고 했으나, 조선정부가 확실한 단언을 내리지 않음으로써 그 수는 계속 늘어나 커다란 사회문제로 대두되었다.
이들 항거왜인들은 고기잡이를 주업으로 하거나 거주지역 내의 토지를 경작하여 생활했다.
그러나 그들은 보다 나은 생활을 위하여 점차 왜리(倭里)라는 자신들의 거주지역을 이탈하여 불법적으로 거주지역과 경작토지를 확대시켰다.
한편 조선정부에서는 1429년(세종 11)부터 그들의 토지경작에 대한 수세론(收稅論)이 대두되었다.
그러나 세종은 대마도정벌 이후 상선이나 왜인들이 오지 않다가 최근에 비로소 교역하고 있으니 꼭 세를 받을 필요가 없다고 하여 수세책은 채택되지 않았다.
1494년(성종 25)에 이르러 거류왜인의 경전(耕田)에 대해서 수세하기로 했으나 회유책의 일환으로 또다시 면세의 혜택을 베풀었다.
삼포에 거류하는 왜인들은 조선정부로부터는 특혜를 받아 면세되었지만, 대마도주(對馬島主)는 세종 때부터 거류인의 인구수에 따라 많은 면포를 받아갔다(大戶 2필, 小戶 1필).
그리고 공물을 수취하면서 삼포의 거류왜인을 총괄하는 조직체도 구성되어 있었는데, 이 조직체는 기동성을 갖고 있어 뒤에 삼포왜란을 일으키는 데 주역을 담당했다.
이처럼 조선정부는 입국 왜인에 대한 법규가 각 분야에 걸쳐 제정되어 있었으나 왜구 재발에 대한 의구심, 대의명분이라는 정치도의와 상국(上國)으로서의 자세 그리고 교린정책의 기본정신이 합쳐져 왜인에 대한 유화정책으로 일관했다.
이에 왜인들의 법규위반사태가 빈번히 일어났음에도 오히려 관용·묵인함이 상례화되었다.
1506년 반정으로 즉위한 중종은 정치개혁의 일환으로 왜인에 대하여 법규에 따라 엄한 통제를 가하자 그들의 불만이 고조되어 삼포왜란을 일으켰다.
1510년(중종 5) 4월 삼포의 왜인들은 조선을 침략할 기회를 노리고 있던 대마도주와 연합해 4,000~5,000명에 달하는 난도(亂徒)들을 이끌고 부산포와 제포에서 약탈·학살 등의 만행을 자행하고, 웅천성·동래성까지도 침공했다.
이에 조선정부는 군대를 파견하여 이들을 징벌했다.
조선 군대는 3방면에서 왜적을 공격하여 섬멸시켰으며 그결과 삼포거류의 왜인들은 모두 대마도로 도주하고 난은 평정되었다.
이 난으로 조선측은 군민 272명이 피살되고 민가 796호가 불탔으며, 왜적측은 선박 5척이 격침되고 295명이 죽거나 사로잡혔다.
그리고 참수된 왜인들의 무덤을 높이 쌓아 뒷날 입국하는 왜인들로 하여금 두려움을 갖게 했다.
이 왜란으로 인하여 삼포의 왜관은 폐쇄되었으나, 1512년 임신조약(壬申條約)을 체결하여 국교가 회복되는 동시에 제포만 다시 개항했다.
※ 임신조약이란?
1512년(중종 7) 조선이 쓰시마 섬[對馬島] 도주(島主)와 맺은 교역조약.
임신약조(壬申約條)라고도 한다. 1510년 삼포왜란(三浦倭亂)이 있은 후 조선은 삼포를 폐쇄하여 일본과의 교역을 단절했다. 그러나 이전부터 식량 등 필요물자를 조선에 의존해온 쓰시마 섬에서는 당장 물자의 곤란을 느껴 아시카가 바쿠후[足利幕府]를 통해 조선에 교역의 재개를 청원하게 되었다. 이 문제는 조선정부 내에서도 찬반양론이 있었으나 결국 교역의 재개를 허용했다. 그 이유는 쓰시마 섬이 전통적으로 왜구의 근거지여서 생활필수품의 궁핍은 결과적으로 왜구의 침입을 초래할 것이며, 대일본강경책을 유지하기 위해서는 해안의 방어를 강화해야 하는데 이는 국방비의 부담이 과중하게 되고 왜관(倭館)무역을 통해 수입하는 물자 중 후추·의약품 등은 자국에도 필요하다는 것 등이었다. 대신 정부는 강화조건으로 삼포왜란의 주모자를 참수해 헌납할 것과 포로송환 등을 제시했다. 이에 1443년(세종 25)에 체결했던 계해조약(癸亥條約)을 폐기하고 새로 임신조약을 맺게 되었다. 주요내용은 ① 왜인의 삼포 거주를 금하며 삼포 중 제포(薺浦:웅천)만 개항한다. ② 매년 쓰시마 섬에서 파견하는 세견선(歲遣船)은 이전의 50척에서 25척으로 반감한다. ③ 매년 조선에서 쓰시마 섬에 주는 세사미두(歲賜米豆)도 200석에서 100석으로 반감한다. ④ 특송선(特送船)은 폐지한다는 것 등이었다. 그리고 쓰시마 섬 도주 이외 사람들의 세사미와 세견선은 허용하지 않았다. 또 도주의 선박 외에 정규항로를 벗어난 배는 무조건 적선(敵船)으로 간주하며, 일본사신의 수행원이 무기를 소지하는 것을 금하는 등 왜인에 대한 관리조항을 보다 엄격하게 했다. 1541년 조선 군대와 왜인과의 싸움이 벌어지자 이 일을 계기로 제포는 형세가 유리하지 않다고 하여 왜관을 부산포(釜山浦:富山浦)로 옮겼다.
그러나 이후에도 왜인의 침범이 잦아지자 조선은 일본과의 국교를 단절하여 약 30년간 정식 교역이 두절되었다.
世宗が通信使朴端生に「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」
1429年、日本に来た朴端生は、
「日本の農人、水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、
鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉、
などの製造法を祖国に報告している。
日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から、
「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。
水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる。
세종 41권, 10년(1428 무신 / 명 선덕(善德) 3년) 7월 1일(신해) 3번째기사
일본에서 《백편상서》를 사오게 하다
임금이 대언(代言) 등에게 말하기를,
“일본국(日本國)에 《백편상서(百篇尙書)》가 있다고 들었는데, 통신사(通信使)로 하여금 사오도록 하고, 또 왜국의 종이는 단단하고 질기다 하니, 만드는 법도 배워 오도록 하라.”
하니, 지신사(知申事) 정흠지(鄭欽之)가 계하기를,
“일본국에는 금이 많이 생산되니, 명주와 모시[苧布]를 가지고 가서 사오는 것이 어떻겠습니까.”
하였다. 임금이 말하기를,
“중국에 바치는 금·은을 만일 면제 받을 수 없다면 사다가 바치는 것이 옳다.”
하였다.
【태백산사고본】
【영인본】 3책 136면
【분류】 *외교-왜(倭) / *광업(鑛業) / *공업(工業) / *무역(貿易)
世宗 41卷, 10年(1428 戊申 / 명 선덕(善德) 3年) 7月 1日(辛亥) 3번째기사
일본에서 《백편상서》를 사오게 하다
○上謂代言等曰: “聞日本國有百篇《尙書》, 可令通信使購來。 且倭紙堅韌, 造作之法, 亦宜傳習。” 知申事鄭欽之啓: “日本國多産金, 以紬苧布買來何如?” 上曰: “進獻金銀, 如不得蠲免, 買來進貢可也。”
【태백산사고본】 13책 41권 1장 A면
【영인본】 3책 136면
【분류】 *외교-왜(倭) / *광업(鑛業) / *공업(工業) / *무역(貿易)
世宗「日本国に百篇の『尚書』があると聞くから、通信に購入させてくるよう命じるべきだ。
また、和紙は丈夫でしなやかだから、その作り方もまたよろしく伝習せよ」
秘書官「日本国は金が多産ですから、紬や苧麻の布と引き換えに買ってきたは如何か」
世宗「(中国に)進貢する金銀が免れないのならば、金を買ってきて献上すべきだろう」
the document is purveyed by halt san
야마토의 종이, 견인, 조작의 법 또 잘 전습할 것」이래.
Park Seo saeng,a member of Mooshin Tongshinsa envoy to japan.
King Sejong ordered to diplomati Park Seo saeng that well learn the way or techical to make japanese paper,blade,architecture.
Park Seo saeng came to Japan in 1429,
as "japanese farmers are making waterwheel",
he let researched how to make mile by student Kim, and created the model,
he informed how to make Silver impregnation (silver plated), papermaking (paper combing),vermilion red, light powder,reported the methods for manufacturing such as to his homeland.
The current status of Japanese economy, such as the development of stores and commercial, even referred to the technology in it,
This is because, prior to starting the mission, he was instructed by Sejong (a Korean king) that 'You should learn how to make paper, how to make hard blades and how to build houses and should bring back the technologies concerned,' or he was instructed to introduce technologies in Japan.
- Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
a waterwheel had been written in "Essays in Idleness, Tsure zure gusa,article 51" more than a hundred years before, at that time to think that be installed at the hands of farmers, it is deemed there was so much technology gap between Japan and Korea.
1428
In the 10th year of King Sejong's reign, the Joseon court dispatched Pak Sǒ-saeng as chief envoy of a mission to the shogunal court of Ashikaga Yoshinori in Japan.[10]
조선 통신사 1428년(세종 10년) 박서생 이예 김극유
http://www.earticle.net/article.aspx?sn=110412
戊申通信使
Joseon missions to Japan
1 Joseon diplomacy
2 Joseon missions to the Muromachi shogunate
2.1 1392
2.2 1398
2.3 1404
2.4 1406
2.5 1409–1410
2.6 1413
2.7 1420
2.8 1423
2.9 1424
2.10 1428
2.11 1432
2.12 1439
2.13 1443
3 Joseon missions to Hideyoshi
3.1 1590
3.2 1596
4 Joseon missions to the Tokugawa shogunate
4.1 1607
4.2 1617
4.3 1624
4.4 1636
4.5 1643
4.6 1655
4.7 1682
4.8 1711
4.9 1719
4.10 1748
4.11 1764
4.12 1811
5 Joseon-Japan diplomacy adapting
5.1 1876
This study is about Mooshin Tongshinsa(1428)、the first communications man of Joseon and Park Seo-Seng。The summary of the result is as follow。First、Mooshin Tongshinsa's dispatch background and journey。Mooshin Tongshinsa had performed a religious service to Shogun Ashikaga Yoshimochi(足利义持)the 5th generation of Muromachibakuhu(室町幕府)and was dispatched to celebrate the succession to Shogun title of Ashikaga Yoshinori(足利义敎)the 6th generation of Shogun。The journey started in December 7th 1428 from Seoul and it ended in December 3rd 1429 with the report to the King after 100 members have made a round trip of Second、it's the appearance of Park Seo-Seng reflected as a fine writer in Sahaeng literature。The fact that Sejong ordered Song Hee-Kyung(宋希璟)to write the Sahaengrok、In Dongmoonseon there are three poems that were written during the Sahaeng so there's a big possibility that the Sahaengrok of Park Seo-Seng actually existed。Also Dongmoonseon in the poem written during the honored going of the envoy、the difficult journey and the responsibility as the envoy executing the order of the King、the exotic experience such as Japanese food and landscape are all well described and displaying his ability as a fine writer。Third、Park Seo-Seng's will of a reform reflected in the report letter to the King。In Park Seo-Seng's report、 "rational foreign policy proposal through a precise detection on the situation in Japan、induction of smooth circulation of money and industry activation、improvement of agricultural policy efficiency through automatic water mill and useful plant cultivation"、his strong will of reform as a diplomat、economic politician、agricultural policy reformer is well reflected。In this way、Park Seo-Seng was the first communications man of Joseon dynasty who left his mark in Sahaeng literature and national policy as the responsible of Mooshin Tongshinsa through the honored going of the envoy.
통신사는 조선시대에 전반에 걸쳐 일본에 파견된 교린외교사절이자 문화사절이다. 하지만 이제까지 학계의 연구는 자료가 영성한 조선전기 통신사에 비해 상대적으로 우월한 위치에 있는 조선후기 통신사에 집중된 것이 사실이다. 이 논문은 이러한 연구경향에 대한 반성으로 조선 최초의 통신사인 戊申通信使(1428)와 사행의 총책임자인 朴瑞生을, 사행의 파견배경과 사행노정, 문장가ㆍ개혁가로서의 박서생 등으로 나누어 조명한 것이다. 무신통신사는 室町幕府 5대 장군 足利義持를 제사지내고, 6대 장군인 足利義敎의 장군직 계승을 축하하기 위해 파견되었다. 그 노정은 1428년 12월 7일 서울을 출발하여 약 100여 명의 인원이 ‘부산-對馬島-壹岐島-朴加大(博多)-赤間關-黑石西關(上關)-多可沙只(鎌刈)-都毛梁(鞱浦)-小尾途津(下津)-胸比(日比)-牛澹(牛窓)-無路(室津)-一場(一谷)-兵庫-王部落(京都)’등을 왕복한 뒤 1429년 12월 3일에 왕에게 보고하는 것으로 사신행차를 마쳤다. 박서생은 東文選에 使行詩 3수를 남기고 있다. 그의 使行詩는 왕명을 수행하는 사신으로서의 책임감과 사행의 험난함은 물론, 일본 음식이나 경치 등 이국적 체험을 잘 표현하여 문장가로서의 면모를 잘 드러내고 있다. 그밖에 세종이 송희경에게 사행록 저술을 명령한 사실을 통해 비록 현전하진 않지만, 박서생의 일본사행록도 존재할 가능성이 높다. 또 박서생은 사행을 끝난 뒤 사행에서 느낀 바를 왕에게 보고하는 「復命」에서 자신의 개혁의지를 드러낸다. 「복명」에는 일본 정세의 정확한 탐지를 통한 합리적인 외교정책안의 제시, 화폐의 원활한 유통과 산업의 활성화 유도, 자동 水車와 유용한 식물의 재배를 통한 농업정책의 효율성 제고 등 외교관ㆍ경제정책가ㆍ농정개혁가로서의 그의 개혁의지가 명확히 반영되어 있다. 이처럼 조선 최초의 통신사인 무신통신사의 총책임자 박서생은 사행문학 뿐 아니라 국가정책에도 큰 발자취를 남긴 인물이었음을 알 수 있다.
http://cafe.daum.net/yeohwicenter/4NNT/65?docid=BfRN4NNT6520100126140209
뿌리아름역사동아리 - [한일관계사]6. 朝鮮通信使 (1)室町時代 | Daum 카페
朝鮮通信使 (1)室町時代 室町時代의 朝鮮通信使에게는日本에 대한 国情視察의 임무도 주어져 있었던바, 1428년(正長 元年)의 통신사 일행 중에 포함되었던 書記官 申叔舟가 저술한 <海東諸国紀>에는 왜구금압의 요청에 추가하여 15항목에 걸쳐서, 倭寇根拠地, 倭寇와 지방의 슈고다이묘(守護大名), 유력 고쿠진(国人) 및 토호(土豪)와의 관계, 都市部의 発展状況과 通貨政策 등의 국내상황, 불교의 전개상황 등이 조사보고되고 있다. ----------------------------------------------------------------------------------------------- 回数
年
目的・名称等
第1回
1429年(正長元年, 세종 10년)
通信使(足利義持 弔意와 足利義教의 승계 慶賀)정사 朴瑞生 부사 이예
第2回
1439年(永享11年, 세종 21년)
通信使 정사 高得宗 부사 윤인보
第3回
1443年(嘉吉3年, 세종 25년)
通信使(足利義教 弔意와 足利義勝의 승계 慶賀)정사 卞孝文 부사 윤인보
---------------------------------------------------------------------------------무로마치시대의 통신사는 총 3회에 걸쳐 도일하였는데, 이외에도 正使는 임명되었음에도 불구하고 통신사 파견의 계획이 취소된 1413년(정사의 사망)과 1475년의 경우(설명은 일치하지 않으나) 대략 슈고다이묘나 유력 고쿠진의 이름을 사칭하여 임의로 교섭을 행하는 偽使가 횡행하거나 日朝貿易 자체가 지지부진하여 통신사 파견의 필요성이 없어진 경우)와, 1459, 1479년의 경우에는 통신사 파견이 취소되었다. 이후 도요토미정권까지 약 150년간 통신사 파견은 중단되었다. 1429년 일본에 온 朴端生은 金慎으로 하여금 水車제조법(造車の法)을 상세히 조사시켜 모형을 만들고 鍍銀(銀淘金), 造紙(紙漉), 朱紅, 軽粉 등의 제조법,日本貨幣経済의 실태, 店舗商業의 발전 등을 조선에 보고한다. 이는 기술적인 측면에서도 도항전에 「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」라고 세종이 언급하였고 水車의 경우에도 이미 100년 전에 <徒然草>에도 기록되어있는바와 같이 당시의 일본 농민들에게는 일반적인 기술수준이었음에 미루어 양국의 격차는 벌어져있었다고 생각된다. -下條正男『日韓・歴史克服への道』 **통신사의 명칭조선은 1403년(태종 3) 명(明)나라로부터 책봉을 받고, 이듬해 일본의 아시카가정권[足利政權(족리정권)]도 책봉을 받아 조선·중국·일본간에 사대교린의 외교체제가 성립되어 조선 국왕과 일본 막부장군은 양국의 최고통치권자로서 현안문제 해결을 위한 사절을 파견하였다. 이때 조선이 일본에 파견하는 사절을 통신사, 일본이 조선에 파견하는 사절을 일본국왕사라고 하였다. 계해약조의 체결 이전에는 "통신사" 대신 "통신관", "회례사(回禮使)", "보빙사(報聘使)"라는 명칭을 사용했지만, 정식으로 "통신사"의 "파견 규정"에 따라 보낸 것은 세종 10년(1428년)에 이르러서 이다. 이때 "정사(正使) 박서생", "부사(副使) 이예", "서장관(書狀官) 김극유"를 임명하고 "규례"에 따라 사신단을 구성한다. 결국 1428년(세종 10) 11월에 편성, 다음해 일본에 파견되었던 정사 박서생(朴瑞生)사절단이최초의 통신사라 할 수 있다. (일본에 파견한 사절단에 통신사라는 명칭이 처음 쓰인 것은 1413년에 편성된 박분을 정사로 한 사절단이었지만, 이 사행은 중도에 정사가 병이 나서 중지 되었다) 조선은 통신사를 마치 중국의 책봉사처럼 생각했는데 일본의 새 관백(關白 =쇼군)이 서면 "관백승습고경차왜(關白承襲告慶差倭)"와 "통신사청래차왜(通信使請來差倭)"가 와서 파견을 요청했기 때문에 조선의 새 임금이 서면 중국에 청승습사(請承襲使)를 보내 책봉을 요청하는 것과 흡사했고, 여기에 "화이관념"까지 작용한 결과다. 일본은 유일하게 국교를 맺고 있는 조선으로부터 정통성을 인정받는 절차였지만, 국내적으로 조공사로 둔갑시켜 우월의식을 표출한다. **조선통신사와 일본국왕사의 배경과 활동내용
임진왜란 전의 경우, 일본에서 파견된 일본국왕사는 주로 경제적 이유 때문이었다. 그들은 동을 가져와 대신 생필품인 쌀·콩·목면 특히 면포를 가져갔다. 이어 일본 선종이 크게 부흥하자 조선의 대장경과 범종들을 구하여 갔다. 이에 반하여 조선의 사절은 대개 정치·외교적인 목적이 대부분이었다. 그 내용을 보면, 왜구의 금지 요청과 축소관계 수립이 주종을 이루었다. 이어 일본의 금구책(禁寇策)에 대한 치하 및 범구자 처벌, 왜사의 귀환호송, 항왜의 배신에 대한 책유, 일본국왕사신의 보빙, 표류인의 호송에 대한 치사, 국왕·대장군·대마도주 등의 조위 경하 및 예물증여, 상역·어업표류민·피로인·세견선 등의 협의, 국내외정세의 탐사 등이었다. 한편, 조선 후기의 경우는 우선 임진왜란 직후 일본과의 전쟁상태 종결을 위한 강화, 포로들의 쇄환(刷還), 일본국정의 탐색이었고, 1636년(인조 14) 이후는 막부장군의 습직(襲職) 축하가 주 임무였다. 그러나 그 역사적인 의의는 조·일 양국 간만이 아니라, 중국을 포함하는 동아시아 삼국의 평화공존을 위한 국제관계에 많은 영향을 끼쳤다는 데 있다. 조선에서 일본으로 파견한 사절인 통신사의 특징은 ①조선 국왕으로부터 일본장군에게 파견되어야 한다 ②일본장군에 대한 길흉조사, 양국간의 긴급한 문제해결이 목적이며, 회례·보빙의 의미는 없다 ③조선 국왕으로부터 일본장군 앞으로 서계(書契) 및 예단을 가지고 간다 ④사절단은 중앙관리 3명 이하로 한다 ⑤통신사, 그에 준하는 국왕사의 호칭을 써야 한다 등이다. 임진왜란 전 조선의 사절은 대부분 정치적·외교적 목적으로 왜구 금지 및 수호관계 수립 등을 요청하였고 일본에서 파견된 일본국왕사는 경제적인 면, 즉 동(銅)을 가지고 와서 쌀·콩·목면·면포 등을 가져갔다. **對馬島文書
한일교섭사 연구의 일급사료는 에도막부로부터 대조선창구의 역할을 위임받아 국교와 통상실무를 전담하던 對馬藩의 방대한 기록군인 對馬島文書이다. 이 자료에 포괄되어 있는 국서, 교환공문, 관계인사들의 개인 서장, 왜관과 같은 기관의 공적 기록, 무역실무의 거래문서 등등의 방대한 문서는 모두 당시의 일본어 문장체인 일본 근세일본어의 소오로오문체(候文文體)의 日文과 漢文草書로 된 고기록이다. 이 방대한 문서들은 현재 국사편찬위와 일본의 여러 기관에 분산 수장되어 있었는데 현재는 전량을 마이크로필름으로 촬영 복사되어 시판되고 있으나 이 사료를 읽고 내용을 소화할 수 있는 어문능력을 갖춘 연구자의 수는 극히 제한되어 있다. 현대일어를 알고 있고 상당한 한문소양을 지닌 漢學者라도 읽어낼 수가 없는 일본 근세사료인 것이다. 이외에도 일본외무성자료, 육해군관계의 軍文書와 일제시대의 비밀이 담겨져 있는 방위청문서, 일제의 내각기록과 공공기관의 행정문서 등을 독파하고 분석하여 평가연구되어야 하며 이런 사료섭렵을 위한 어학실력과 사료 탐색 활용능력에 따라 비로소 진정한 한일교섭사의 실체가 파악될 수 있는 것이다. <교섭사연구의 새 지평선> 이원순 **正使와 副使조선초기 정사는 대개 일본사행에 초행인 인물이 임명되었음에 비해 부사는 일본에 왕래한 경험이 많은 인물이 임명되어 교섭실무를 전담하고 정사를 보좌하였다. 부사의 경우 李藝와 尹仁甫(通事 출신으로 일본에 6회 사행하였고 大護軍까지 올랐다)를 들 수 있는데 李藝의 경우, 태종 8년, 세종 4년, 세종 6년, 세종 10년 등 4회에 걸쳐 각각 부사로 수행하였고, 윤인보의 경우 세종 21년, 세종 25년 등 2회에 걸쳐 부사로 수행하였다. 정사는 조선초기의 경우 종3품에 해당하는 직위의 관리가 선발되는 경우가 많았는데 박안신, 박서생, 변호문 등의 경우 거의 모두 대일사행이 처음이자 유일한 것이었다. 태종 8년 정사 朴和 부사 이예
세종 4년 정사 朴熙中 부사 이예
세종 6년 정사 朴安臣 부사 이예**박서생(朴瑞生)
생몰년 미상. 본관은 비안(比安), 자는 여상(汝祥), 호는 율정(栗亭)으로 중랑장 박점(朴漸)의 아들이다. 조선 전기의 문신으로 길재(吉再)의 문인이다. 음보(蔭補)로 성균관 학정이 되고, 태종 1년(1401) 증광문과에, 1407년 문과중시에 급제하여 정언이 되었다. 이듬해 병조 좌랑이 되었으나 반차(班次)를 무시한 것이라는 사간원의 탄핵으로 파직되었다. 그후 사헌부 집의 · 대사성이 되었고 1428년 통신사로 일본에 다녀왔다. 이 해 정월 종묘 제향의 대축판사(大祝判事)로 친향(親享) 때 축문을 8자나 빼고 읽어 물의를 일으키기도 했다. 이후에 우군첨총제 · 집현전 부제학 · 공조 · 병조의 참의 · 판안동대도호부사를 지냈다. 1433년 앞서 통신사로 일본에 다녀올 당시 배워온 수차(水車) 사용을 건의하여 농사의 관개(灌漑)에 혁신을 기했다. 청백리에 녹선되었으며 비안의 구천서원에 제향되었다. 편서로는 《야은언행록(冶隱言行錄)》이 있다. 조선통신사로 일본을 다녀온 율정 선생은 1429년(세종11)에 그곳에서 보고 들은 것으로 시행할 만한 내용을 담아 상소를 올린다. 여기서 율정선생은 “일본 농민에게 수차를 설비하여 물을 퍼 올려 대고 있어, 우리나라에서 전년에 만들었던 수차인 인력(人力)으로 물을 대는 것과는 다른데, 다만 물살이 센 곳에는 설치 할 만하오나, 물살이 느린곳에는 설치할 수가 없습니다.········이제 간략하게 그 모형을 만들어 바치오니 청컨대 각 고을에 설치 할 만한 곳에 모형에 따라 제작하여 관개(灌漑)의 편리에 돕도록 하소서” 라고 하여 수차의 사용을 건의 한다. 豊臣秀吉에의 通信使 1590년의 통신사는 명목상으로는 도요토미의 일본통일을 축하하는 사절이었으나 침략의도의 진위를 파악하는 것이 주목적이었다. (대마도의 소오씨가 중개를 담당) 1596년의 통신사는 明의 휴전교섭차 도일한 明使(冊封使)에 동행한 사절豊臣秀吉朝鮮通信使履歴
回数
年
目的・名称等
第1回
1590年(天正18年, 선조 23)
通信使 正使 黄允吉 副使 金誠一
第2回
1596年(慶長元年, 선조 29)
通信使 正使 黄慎 副使 朴弘長
** 본문은 일문위키의 번역으로 일본의 입장에서 통신사를 설명하였기 때문에 우리의 역사인식과 다소 다른 점이나 용어가 있음을 참고하시기 바랍니다.
http://blog.daum.net/2091101/10320459
조선시대에 일본으로 보낸 외교사절.
조선은 건국 후 1403년(태종3) 명(明)나라로부터 책봉을 받고, 이듬해 일본의 아시카가정권〔足利政權〕또한 책봉을 받아 조선·중국·일본간에 사대교린의 외교체제가 성립되어 조선 국왕과 일본 막부장군은 양국의 최고통치권자로서 현안문제해결을 위한 사절을 파견하였다.
▲한양에서 애도(동경)까지 이르는 조선 통신사의 여정의 그림
이때 조선이 일본에 파견하는 사절을 통신사, 일본이 조선에 파견하는 사절을 일본국왕사라고 하였다.
1428년(세종 10) 11월에 편성, 다음해 일본에 파견되었던 정사 박서생(朴瑞生) 사절단이 최초의 통신사라 할 수 있다.
▲옛날 일본인들이 그려놓은 조선 통신사 행렬도-이 그림의 배경이 된 장소는
당시의 수도격인 애도성이라고 함
조선에서 일본으로 파견한 사절은 회례사(回禮使)·통신사·경차관(敬差官) 등 다양하였는데, 이 가운데 통신사의 특징은 ① 조선 국왕으로부터 일본장군에게 파견되어야 한다 ② 일본 장군 대한 길흉조사, 양국간의 긴급한 문제해결의 목적을 갖지만 회례·보빙의 의미는 없어야 한다 ③ 조선 국왕으로부터 일본장군 앞으로 서계(書契) 및 예단을 가지고 간다 ④ 사절단은 중앙관리 3명 이하로 한다 ⑤ 통신사, 그에 준하는 국왕사의 호칭을 써야 한다 등이다.
▲조선 통신사의 전별연 모습
임진왜란 전 조선의 사절은 대부분 정치적·외교적 목적으로 왜구 금지 및 수호관계 수립 등을 요청하였고 일본에서 파견된 일본국왕사는 경제적인 면, 즉 동(銅)을 가지고 와서 쌀·콩·목면·면포 등을 가져갔다.
1510년(중종 5)삼포왜란(三浦倭亂)을 계기로 일본과의 사절 왕래는 끊겼으나 일본을 통일한 도요토미 히데요시〔豊臣秀吉〕가 조선에 수호할 것과 통신사의 파견을 끈질기게 요청하자 90년(선조 23) 조선은 통신사 일행을 일본에 보냈다.
임진왜란 후 1607년(선조40)에는 일본측의 화의를 받아들여 여우길(呂祐吉)을 정사로 하는 400여 명의 사절을 보냈는데 이때 사신의 명칭을 통신사라 하지 않고 <회답 겸 쇄환사(回答兼刷還使) >라 하였다.
1609년(광해군 1) 기유조약(己酉條約)을 맺고 국교가 다시 이루어지자 36년(인조 14) 사절단부터 통신사라는 명칭을 다시 사용하였으며 주로 장군습직을 축하하기 위하여 갔다.
※기유조약이란?
조선광해군 1년(1609)에 일본과 맺은 조약, 쓰시마섬의 세견선(歲遣船)을 20척으로 규정하였고, 사신의 접대, 벌칙 따위를 정하였다
1811년(순조 11) 마지막 통신사가 파견될 때까지 9회에 걸쳐 파견되었으며 76년(고종 13) 강화도조약 이후 수신사(修信使)로 개칭되었다.
통신사 일행의 구성은 정사·부사와 그 밖의 수행원으로 이루어지며 많을 때는 400∼500명에 이르렀다.
통신사 일행이 통과하는 객사에서는 한시문·학술의 필담창화라고 하는 문화상의 교류가 이루어졌으며 학술·사상·기술·예술 등을 전하기도 하였다.
▲일본 허구인 선사가 조선 통신사 일행중 마상 곡예사를 묘사한 그림
한편 통신사들은 국내로 돌아와 일본에서 겪은 견문록을 남겼는데 이 기록들은 《조선통신사행렬도》와 함께 당시 대일문물관계를 살피는 데 좋은 자료가 된다.
▲조선 통신사 정사 조엄이 세이켄사의 수려한 풍광을 찬미한 글
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※삼포왜란
1510년(중종 5) 4월 3포에서 일어난 일본 거류민의 폭동사건.
경오(庚午)의 난이라고도 한다.
삼포란-------
1.지금의 부산진(釜山鎭)에 해당하는 동래(東萊) 부산포(釜山浦),
2.경남 진해시에 해당하는 웅천(熊川) 내이포(乃而浦 일명 薺浦),
3.경상남도 방어진(方魚津)과 장생포(長生浦) 사이에 해당하는 울산 염포(鹽
浦) 등을 말한다.
조선은 건국 후 무질서하게 입국하는 왜인들을 통제하기 위하여 삼포(三浦:釜山浦·乃而浦·鹽浦)를 개항하고 왜관(倭館)을 설치했으며, 일시적인 체류가 아닌 개항장에 거주하는 항거왜인(恒居倭人)의 수를 총60호로 한정시켰다.
▲1887년쯤의 부산 왜관 서관 지역의 전경사진.
그러나 그 수는 점차 늘어나 1474년(성종 5)에는 이미 400여 호에 2,000명을 넘게 되었다.
처음 약정된 60호 외에는 일본으로 돌려보내는 쇄환정책을 실시하려고 했으나, 조선정부가 확실한 단언을 내리지 않음으로써 그 수는 계속 늘어나 커다란 사회문제로 대두되었다.
이들 항거왜인들은 고기잡이를 주업으로 하거나 거주지역 내의 토지를 경작하여 생활했다.
그러나 그들은 보다 나은 생활을 위하여 점차 왜리(倭里)라는 자신들의 거주지역을 이탈하여 불법적으로 거주지역과 경작토지를 확대시켰다.
한편 조선정부에서는 1429년(세종 11)부터 그들의 토지경작에 대한 수세론(收稅論)이 대두되었다.
그러나 세종은 대마도정벌 이후 상선이나 왜인들이 오지 않다가 최근에 비로소 교역하고 있으니 꼭 세를 받을 필요가 없다고 하여 수세책은 채택되지 않았다.
1494년(성종 25)에 이르러 거류왜인의 경전(耕田)에 대해서 수세하기로 했으나 회유책의 일환으로 또다시 면세의 혜택을 베풀었다.
삼포에 거류하는 왜인들은 조선정부로부터는 특혜를 받아 면세되었지만, 대마도주(對馬島主)는 세종 때부터 거류인의 인구수에 따라 많은 면포를 받아갔다(大戶 2필, 小戶 1필).
그리고 공물을 수취하면서 삼포의 거류왜인을 총괄하는 조직체도 구성되어 있었는데, 이 조직체는 기동성을 갖고 있어 뒤에 삼포왜란을 일으키는 데 주역을 담당했다.
이처럼 조선정부는 입국 왜인에 대한 법규가 각 분야에 걸쳐 제정되어 있었으나 왜구 재발에 대한 의구심, 대의명분이라는 정치도의와 상국(上國)으로서의 자세 그리고 교린정책의 기본정신이 합쳐져 왜인에 대한 유화정책으로 일관했다.
이에 왜인들의 법규위반사태가 빈번히 일어났음에도 오히려 관용·묵인함이 상례화되었다.
1506년 반정으로 즉위한 중종은 정치개혁의 일환으로 왜인에 대하여 법규에 따라 엄한 통제를 가하자 그들의 불만이 고조되어 삼포왜란을 일으켰다.
1510년(중종 5) 4월 삼포의 왜인들은 조선을 침략할 기회를 노리고 있던 대마도주와 연합해 4,000~5,000명에 달하는 난도(亂徒)들을 이끌고 부산포와 제포에서 약탈·학살 등의 만행을 자행하고, 웅천성·동래성까지도 침공했다.
이에 조선정부는 군대를 파견하여 이들을 징벌했다.
조선 군대는 3방면에서 왜적을 공격하여 섬멸시켰으며 그결과 삼포거류의 왜인들은 모두 대마도로 도주하고 난은 평정되었다.
이 난으로 조선측은 군민 272명이 피살되고 민가 796호가 불탔으며, 왜적측은 선박 5척이 격침되고 295명이 죽거나 사로잡혔다.
그리고 참수된 왜인들의 무덤을 높이 쌓아 뒷날 입국하는 왜인들로 하여금 두려움을 갖게 했다.
이 왜란으로 인하여 삼포의 왜관은 폐쇄되었으나, 1512년 임신조약(壬申條約)을 체결하여 국교가 회복되는 동시에 제포만 다시 개항했다.
※ 임신조약이란?
1512년(중종 7) 조선이 쓰시마 섬[對馬島] 도주(島主)와 맺은 교역조약.
임신약조(壬申約條)라고도 한다. 1510년 삼포왜란(三浦倭亂)이 있은 후 조선은 삼포를 폐쇄하여 일본과의 교역을 단절했다. 그러나 이전부터 식량 등 필요물자를 조선에 의존해온 쓰시마 섬에서는 당장 물자의 곤란을 느껴 아시카가 바쿠후[足利幕府]를 통해 조선에 교역의 재개를 청원하게 되었다. 이 문제는 조선정부 내에서도 찬반양론이 있었으나 결국 교역의 재개를 허용했다. 그 이유는 쓰시마 섬이 전통적으로 왜구의 근거지여서 생활필수품의 궁핍은 결과적으로 왜구의 침입을 초래할 것이며, 대일본강경책을 유지하기 위해서는 해안의 방어를 강화해야 하는데 이는 국방비의 부담이 과중하게 되고 왜관(倭館)무역을 통해 수입하는 물자 중 후추·의약품 등은 자국에도 필요하다는 것 등이었다. 대신 정부는 강화조건으로 삼포왜란의 주모자를 참수해 헌납할 것과 포로송환 등을 제시했다. 이에 1443년(세종 25)에 체결했던 계해조약(癸亥條約)을 폐기하고 새로 임신조약을 맺게 되었다. 주요내용은 ① 왜인의 삼포 거주를 금하며 삼포 중 제포(薺浦:웅천)만 개항한다. ② 매년 쓰시마 섬에서 파견하는 세견선(歲遣船)은 이전의 50척에서 25척으로 반감한다. ③ 매년 조선에서 쓰시마 섬에 주는 세사미두(歲賜米豆)도 200석에서 100석으로 반감한다. ④ 특송선(特送船)은 폐지한다는 것 등이었다. 그리고 쓰시마 섬 도주 이외 사람들의 세사미와 세견선은 허용하지 않았다. 또 도주의 선박 외에 정규항로를 벗어난 배는 무조건 적선(敵船)으로 간주하며, 일본사신의 수행원이 무기를 소지하는 것을 금하는 등 왜인에 대한 관리조항을 보다 엄격하게 했다. 1541년 조선 군대와 왜인과의 싸움이 벌어지자 이 일을 계기로 제포는 형세가 유리하지 않다고 하여 왜관을 부산포(釜山浦:富山浦)로 옮겼다.
그러나 이후에도 왜인의 침범이 잦아지자 조선은 일본과의 국교를 단절하여 약 30년간 정식 교역이 두절되었다.
Yu Gwan-sun in Korean textbook for fourth grader
http://www3.csf.ne.jp/~mrkajp8c/shukudai/text/hangeurirggiutf8.html#yangban
유관순
【Top】
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001328549
柳寛順 〜小学校4年生〜
유관순은 1902년 3월 15일, 지금의 충청 남도 천안시 병천면 지령 마을에서 태어났다. 유관순의 아버지는 대를 이어 그마을에서 살아온 선비 집안의 후손이었다.
유관손의 집은 그리 넉넉하지는 못하였지만, 늘 웃음소리가 끊이지 않는 하목한 가정이었다.
柳寛順は1902年3月15日、今の忠清南道の天安市並川面チリョン村で生まれた。柳寛順のお父さんは代々続くその村に住んできたソンビの家柄の末裔だった。
柳寛順の家はさほど裕福だとは言えなかったが、いつも笑い声が絶えない仲睦まじい家庭だった。
어느 날, 아버지는 우관순에게 평소 마음에 담아 두었던 이야기를 들려 주었다.
"우리 나라가 일본의 침략을 받고 시달리는 것은 나라의 힘이 약한 까닭이다. 나라의 힘을 기르려면 서양 문물을 받아들이고 신학문을 배워야 한다."
ある日、父は柳寛順に平素心に留めていた話を聞かせてやった。
「我が国が日本の侵略を受けて苦しめられるのは国の力が弱いからだ。国の力をつけるならば、西洋の文物を吸収して新学問を学ばなくてはいけない。」と。
아버지는 엄숙한 표정으로 말을 이었다.
"여자들도 집안일만 할 것이 아니라, 더 배워서 나라의 일꾼이 되어야 한다."
父は真剣な表情で言葉を続けた。
女性たちも家の中の仕事だけするのではなくて、もっと勉強してくにの働き手にならなくてはいけない。
이처럼 그는 청소년을 잘 가르쳐야 빼앗긴 나라를 되찾을 수 있다고 생각하여, 유관순을 서울로 보내어 신학문을 배우게 하였다.
このように彼は青少年たちをきちんと教育してこそ奪われた国を取り戻すことができると考えて、柳寛順をソウルに送って新学問を学ばせた。
1916년, 유관순은 서울 정동에 있는 이화 학당에 입학하였다.
.유관순은 아버지의 가르침을 따라, 방학 동안에는 고향에 내려가 우리글을 모르는 어린이와 어른들에게 얼심히 글을 가르쳤다.
1916年、柳寛順はソウルにある梨花学堂(梨花女子大学)に入学した。
柳寛順は父の教えに従って、休みの間には故郷に帰り、ハングルを知らない子どもと大人たちに熱心に文字を教えた。
그러나 일본은 우리나라 사람들이 우리글을 배우는 것을 싫어하였다.
우리글에는 우리 민족의 얼이 담겨있다고 생각하였기 때문이였다.
しかし、日本は我が国の人々が自国の文字を学ぶことを嫌った。
ハングルには我が民族の魂がつまっていると思ったからだった。
일본 헌병이 몇 번이고 훼방을 놓았지만, 유관순은 굽히지 않고 마을 사람들에게 정껏 글을 가르쳤다.
이 무렵, 우리 겨레는 내 나라, 내 땅에서 마음놓고 사는 것조차 힘들었다.그래서 모두가 독립을 애타게 바라며 하루하루를 고통 속에서 살고 있었다.
日本憲兵が何回も妨害したけれども、柳寛順は意思を曲げることなく人々に心を込めて文字を教えた。
この頃、わが民族は自分の国、自分の土地で安心して住むことさえ難しかった。だから独立を胸を焦がして願いながらいちにちいちにちを苦痛の中で生きていた。
그리하여 온 겨레가 마음을 합하여 일제히 독립을 외치게 되였다.
1919년 3월 1일, 서울 탑골 공원에서 시작된 독립 만세 운동이 바로 그것이었다.
そうして全ての同胞が心を合わせて一斉に独立を叫ぶようになった。
1919年3月1日、ソウルタプコル公園ではじまった独立万歳運動がまさにそれだった。
그날, 유관순도 친구들과 함께 거리로 나갔다. 태극기를 든 남녀노소가 한 목소리로 독립 만세를 부르고 있었다.
듀관순의 마음도 뜨거워졌다. 유관순은 친구들과 함께 목이 터져라 독립 만세를 불렀다.
その日柳寛順も友達と一緒に街に出た。太極旗を掲げた老若男女が声をひとつにして独立万歳を叫んでいた。
柳寛順の心も熱くなった。柳寛順は友達と一緒に喉が裂けよと独立万歳を叫んだ。
"대한 독립 만세!" "대한 독립 만세!"
거리에는 태극기를 든 사람들의 행렬이 거대한 물걸처럼 밀려들고 있었다.
태극기의 물결은 온 장안을 뒤덮었다.
「大韓独立万歳」「大韓独立万歳」
街には太極旗を掲げた人々の行列が大きな波のように押し寄せていた。
太極旗の波は一帯を覆い尽くした。
일본 헌병들은 닥치는 대로 몽둥이와 칼을 휘두르고 총을 쏘아 대었다.많은 사람들이 쓰러졌으나 만세 소리는 그칠 줄을 몰랐다.
유관순과 친구들이 기숙사로 돌아왔을 때에는 이미 여러 선생님과 친구들이 집혀간 뒤였다.
日本の憲兵たちは手当り次第にこん棒と刀を振り回して銃を撃ち続けた。沢山の人々が倒れたけれども、万歳の声は止むことを知らなかった。
柳寛順と友達が寄宿舎に戻ってきたときにはすでに全ての先生と友達が連れて行かれた後だった。
이튼날,일본은 학교 문을 강제로 닫게 하였다. 그래서 기숙사의 학생들은 뿔뿔이 흩어지게 되었다. 유관순도 고향으로 돌아왔다.
고향으로 돌아온 유관순은 독립 만세를 부를 준비를 하였다.유관순은 사촌 언니와 함께 동지들을 모으고, 독립 만세를 부를 계획을 치밀하게 세웠다.
次の日、日本は学校の門を強制的に閉めさせた。それで寄宿舎の学生たちは散り散りになった。柳寛順も故郷に戻った。
故郷に戻ってきた柳寛順は独立万歳を叫ぶ準備をした。柳寛順は従姉と一緒に同志を集め、独立万歳を叫ぶ計画を緻密に立てた。
날마다 이 마을 저 마을을 찾아다니며 독립 만세를 부르는 일에 함께 참여할 것을 부탁하엿다.
하루 종일 돌아 다니다 집에 돌아오면 몸은 말할 수 없이 피곤하였다. 그렇지만 잠시 찬물에 발을 담그고, 곧바로 가족과 함께 밤새워 태극기를 만들었다.
毎日この村、あの村をたずね歩きながら、独立万歳を叫ぶことに一緒に加わることを頼んだ。
一日中歩き回って家に帰ってくれば、からだは言いがたいほどに疲れた。しかししばし冷たい水に足を浸けて、すぐに家族と一緒に夜明かしをして太極旗を作った。
나이 어린 소녀로서는 생각할 수 없을 만큼 놀라운 지헤와 용기로 일을 추진하였다.
만세를 부르기로 약속한 날이 하루 앞으로 다가왔다. 밤이 되자, 유관순은 홰를 가지고 매봉에 올랐다.홰에 불을 봍여 높이 쳐들자 여기저기 다른 산봉우리에서도 횃불이 올랐다.
年端のいかない幼い少女とは思えないほど驚くべき知恵と勇気でことを推進した。
万歳を叫ぶことで約束した日が一日前に近づいた。夜になるや否や、柳寛順はたいまつをもってメボン山に上った。たいまつに火をつけて高く掲げると、あちこち他の山の頂きでもたいまつが上がった。
그 횃불들은 다음 날 있을 일을 다짐하는 약속이었다.
아우내 장터에 아침이 밝았다. 새벽부터 장터에 모여든 사람들은 보통 때의 몇 곱절이나 되었다.독립 만세를 부르려고 모인 사림들이 대부분이었다.
そのたいまつは次の日にあることを固く誓う約束だった。
アウネ市場に朝がきた。明け方から市場に集まってきた人々は普通のときの何倍にもなった。独立万歳を叫ぼうと集まった人々が大部分だった。
정오가 되자, 유관순은 많은 사람들 앞에서 외쳤다.
"여러분, 반만 년의 역사를 지닌 우리 겨레가 불행하게도 일본에 나라를 빼앗겼습니다.이제 나라를 되찾아야 합니다.
正午になると、柳寛順は沢山の人々の前で叫んだ。
「皆さん、半万年(5000年)の歴史を持つ我が国同胞が不幸にも日本に国を奪われました。今、国を取り返さなくてはなりません。」
지금 전국 방방곡곡에서 모두 일어나 독립을 외치고 있습니다. 여러분, 만세를 부릅시다. 대한 독립 만세 를!"
순식간에 만세 소리가 온 천지를 뒤흔들었다. 깜짝 놀라 달려온 일본 헌병들은 총과 칼을 휘두르면서, 평화롭게 만세를 부르며 나아가는 사람들을 막았다.
今、全国防防曲曲(津々浦々)で皆立ち上がって独立を叫んでいます。皆さん、万歳を叫びましょう!大韓独立万歳!
瞬く間に、万歳の声が全天地を揺るがした。驚いて駆けつけた日本の憲兵が銃と刀を振り回して、平和に万歳を叫びながら出て行く人々をとめた。
많은 사람들이 죽거나 다쳤다. 유관순의 아버지와 어머니도 일본 헌병의 손에 쓰러지고 말았다.
사람들은 흩어지고, 일본 헌병들은 듀관순을 찾느라고 온 마을을 샅샅이 뒤졌다. 유관순은 부모님의 시신을 두고 눈물을 흘리며 피할 수 밖에 없었다.
沢山の人々が死んだり、傷ついた。柳寛順はお父さんとお母さんも日本の憲兵の手に倒れてしまった。
人々は散り散りになり、日本の憲兵は柳寛順を見つけるために全ての村をくまなく探した。柳寛順は父母の遺体をそのままにして涙を流しながら逃げるしかできなかった。
그러나 결국 유관순은 일본 헌병들에게 불잡혀 끌려갔다.일본 헌병대에서 온갖 고문을 당한 뒤에 재판을 받았다.
유관순은 재판을 받을 때에 조금도 굽힘없이 당당하였다. 7년의 징역형이 내려지고, 유관순은 갑옥에 갇혔다.
しかし、結局柳寛順は日本の憲兵どもに捕まって連れて行かれた。日本の憲兵隊であらゆる拷問にあった後に裁判を受けた。
柳寛順は裁判を受けるときに少しも屈することなく堂々としていた。7年の懲役刑が言い渡されて、柳寛順は監獄に入れられた。
그렇지만 우리 나라가 독립을 해야 한다는 유관순의 신념은 누구도 꺾을 수 없었다.
1920년 어느 날, 나라를 구하기 위해 죽음을 무릅쓰고 만세를 부르던 유관순은 열아홉의 꽃다운 나이에 감옥에서 숨을 거두고 말았다.
しかし、我が国が独立をしなくてはならないという新年は誰も挫くことはできなかった。
1920年のある日、国を救うために死をおかして万歳を叫んだ柳寛順は19歳のような歳に監獄で息を引き取った。
그러나 유관순의 나라 사랑하는 마음은 지금도 우리 겨레의 가슴 속에 남아 나라의 소중함을 일깨워 주고 있다.
しかし、柳寛順の国を愛する心は今も我々同胞の胸の中に残って国の大切さを言い聞かせている。
유관순
【Top】
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001328549
柳寛順 〜小学校4年生〜
유관순은 1902년 3월 15일, 지금의 충청 남도 천안시 병천면 지령 마을에서 태어났다. 유관순의 아버지는 대를 이어 그마을에서 살아온 선비 집안의 후손이었다.
유관손의 집은 그리 넉넉하지는 못하였지만, 늘 웃음소리가 끊이지 않는 하목한 가정이었다.
柳寛順は1902年3月15日、今の忠清南道の天安市並川面チリョン村で生まれた。柳寛順のお父さんは代々続くその村に住んできたソンビの家柄の末裔だった。
柳寛順の家はさほど裕福だとは言えなかったが、いつも笑い声が絶えない仲睦まじい家庭だった。
어느 날, 아버지는 우관순에게 평소 마음에 담아 두었던 이야기를 들려 주었다.
"우리 나라가 일본의 침략을 받고 시달리는 것은 나라의 힘이 약한 까닭이다. 나라의 힘을 기르려면 서양 문물을 받아들이고 신학문을 배워야 한다."
ある日、父は柳寛順に平素心に留めていた話を聞かせてやった。
「我が国が日本の侵略を受けて苦しめられるのは国の力が弱いからだ。国の力をつけるならば、西洋の文物を吸収して新学問を学ばなくてはいけない。」と。
아버지는 엄숙한 표정으로 말을 이었다.
"여자들도 집안일만 할 것이 아니라, 더 배워서 나라의 일꾼이 되어야 한다."
父は真剣な表情で言葉を続けた。
女性たちも家の中の仕事だけするのではなくて、もっと勉強してくにの働き手にならなくてはいけない。
이처럼 그는 청소년을 잘 가르쳐야 빼앗긴 나라를 되찾을 수 있다고 생각하여, 유관순을 서울로 보내어 신학문을 배우게 하였다.
このように彼は青少年たちをきちんと教育してこそ奪われた国を取り戻すことができると考えて、柳寛順をソウルに送って新学問を学ばせた。
1916년, 유관순은 서울 정동에 있는 이화 학당에 입학하였다.
.유관순은 아버지의 가르침을 따라, 방학 동안에는 고향에 내려가 우리글을 모르는 어린이와 어른들에게 얼심히 글을 가르쳤다.
1916年、柳寛順はソウルにある梨花学堂(梨花女子大学)に入学した。
柳寛順は父の教えに従って、休みの間には故郷に帰り、ハングルを知らない子どもと大人たちに熱心に文字を教えた。
그러나 일본은 우리나라 사람들이 우리글을 배우는 것을 싫어하였다.
우리글에는 우리 민족의 얼이 담겨있다고 생각하였기 때문이였다.
しかし、日本は我が国の人々が自国の文字を学ぶことを嫌った。
ハングルには我が民族の魂がつまっていると思ったからだった。
일본 헌병이 몇 번이고 훼방을 놓았지만, 유관순은 굽히지 않고 마을 사람들에게 정껏 글을 가르쳤다.
이 무렵, 우리 겨레는 내 나라, 내 땅에서 마음놓고 사는 것조차 힘들었다.그래서 모두가 독립을 애타게 바라며 하루하루를 고통 속에서 살고 있었다.
日本憲兵が何回も妨害したけれども、柳寛順は意思を曲げることなく人々に心を込めて文字を教えた。
この頃、わが民族は自分の国、自分の土地で安心して住むことさえ難しかった。だから独立を胸を焦がして願いながらいちにちいちにちを苦痛の中で生きていた。
그리하여 온 겨레가 마음을 합하여 일제히 독립을 외치게 되였다.
1919년 3월 1일, 서울 탑골 공원에서 시작된 독립 만세 운동이 바로 그것이었다.
そうして全ての同胞が心を合わせて一斉に独立を叫ぶようになった。
1919年3月1日、ソウルタプコル公園ではじまった独立万歳運動がまさにそれだった。
그날, 유관순도 친구들과 함께 거리로 나갔다. 태극기를 든 남녀노소가 한 목소리로 독립 만세를 부르고 있었다.
듀관순의 마음도 뜨거워졌다. 유관순은 친구들과 함께 목이 터져라 독립 만세를 불렀다.
その日柳寛順も友達と一緒に街に出た。太極旗を掲げた老若男女が声をひとつにして独立万歳を叫んでいた。
柳寛順の心も熱くなった。柳寛順は友達と一緒に喉が裂けよと独立万歳を叫んだ。
"대한 독립 만세!" "대한 독립 만세!"
거리에는 태극기를 든 사람들의 행렬이 거대한 물걸처럼 밀려들고 있었다.
태극기의 물결은 온 장안을 뒤덮었다.
「大韓独立万歳」「大韓独立万歳」
街には太極旗を掲げた人々の行列が大きな波のように押し寄せていた。
太極旗の波は一帯を覆い尽くした。
일본 헌병들은 닥치는 대로 몽둥이와 칼을 휘두르고 총을 쏘아 대었다.많은 사람들이 쓰러졌으나 만세 소리는 그칠 줄을 몰랐다.
유관순과 친구들이 기숙사로 돌아왔을 때에는 이미 여러 선생님과 친구들이 집혀간 뒤였다.
日本の憲兵たちは手当り次第にこん棒と刀を振り回して銃を撃ち続けた。沢山の人々が倒れたけれども、万歳の声は止むことを知らなかった。
柳寛順と友達が寄宿舎に戻ってきたときにはすでに全ての先生と友達が連れて行かれた後だった。
이튼날,일본은 학교 문을 강제로 닫게 하였다. 그래서 기숙사의 학생들은 뿔뿔이 흩어지게 되었다. 유관순도 고향으로 돌아왔다.
고향으로 돌아온 유관순은 독립 만세를 부를 준비를 하였다.유관순은 사촌 언니와 함께 동지들을 모으고, 독립 만세를 부를 계획을 치밀하게 세웠다.
次の日、日本は学校の門を強制的に閉めさせた。それで寄宿舎の学生たちは散り散りになった。柳寛順も故郷に戻った。
故郷に戻ってきた柳寛順は独立万歳を叫ぶ準備をした。柳寛順は従姉と一緒に同志を集め、独立万歳を叫ぶ計画を緻密に立てた。
날마다 이 마을 저 마을을 찾아다니며 독립 만세를 부르는 일에 함께 참여할 것을 부탁하엿다.
하루 종일 돌아 다니다 집에 돌아오면 몸은 말할 수 없이 피곤하였다. 그렇지만 잠시 찬물에 발을 담그고, 곧바로 가족과 함께 밤새워 태극기를 만들었다.
毎日この村、あの村をたずね歩きながら、独立万歳を叫ぶことに一緒に加わることを頼んだ。
一日中歩き回って家に帰ってくれば、からだは言いがたいほどに疲れた。しかししばし冷たい水に足を浸けて、すぐに家族と一緒に夜明かしをして太極旗を作った。
나이 어린 소녀로서는 생각할 수 없을 만큼 놀라운 지헤와 용기로 일을 추진하였다.
만세를 부르기로 약속한 날이 하루 앞으로 다가왔다. 밤이 되자, 유관순은 홰를 가지고 매봉에 올랐다.홰에 불을 봍여 높이 쳐들자 여기저기 다른 산봉우리에서도 횃불이 올랐다.
年端のいかない幼い少女とは思えないほど驚くべき知恵と勇気でことを推進した。
万歳を叫ぶことで約束した日が一日前に近づいた。夜になるや否や、柳寛順はたいまつをもってメボン山に上った。たいまつに火をつけて高く掲げると、あちこち他の山の頂きでもたいまつが上がった。
그 횃불들은 다음 날 있을 일을 다짐하는 약속이었다.
아우내 장터에 아침이 밝았다. 새벽부터 장터에 모여든 사람들은 보통 때의 몇 곱절이나 되었다.독립 만세를 부르려고 모인 사림들이 대부분이었다.
そのたいまつは次の日にあることを固く誓う約束だった。
アウネ市場に朝がきた。明け方から市場に集まってきた人々は普通のときの何倍にもなった。独立万歳を叫ぼうと集まった人々が大部分だった。
정오가 되자, 유관순은 많은 사람들 앞에서 외쳤다.
"여러분, 반만 년의 역사를 지닌 우리 겨레가 불행하게도 일본에 나라를 빼앗겼습니다.이제 나라를 되찾아야 합니다.
正午になると、柳寛順は沢山の人々の前で叫んだ。
「皆さん、半万年(5000年)の歴史を持つ我が国同胞が不幸にも日本に国を奪われました。今、国を取り返さなくてはなりません。」
지금 전국 방방곡곡에서 모두 일어나 독립을 외치고 있습니다. 여러분, 만세를 부릅시다. 대한 독립 만세 를!"
순식간에 만세 소리가 온 천지를 뒤흔들었다. 깜짝 놀라 달려온 일본 헌병들은 총과 칼을 휘두르면서, 평화롭게 만세를 부르며 나아가는 사람들을 막았다.
今、全国防防曲曲(津々浦々)で皆立ち上がって独立を叫んでいます。皆さん、万歳を叫びましょう!大韓独立万歳!
瞬く間に、万歳の声が全天地を揺るがした。驚いて駆けつけた日本の憲兵が銃と刀を振り回して、平和に万歳を叫びながら出て行く人々をとめた。
많은 사람들이 죽거나 다쳤다. 유관순의 아버지와 어머니도 일본 헌병의 손에 쓰러지고 말았다.
사람들은 흩어지고, 일본 헌병들은 듀관순을 찾느라고 온 마을을 샅샅이 뒤졌다. 유관순은 부모님의 시신을 두고 눈물을 흘리며 피할 수 밖에 없었다.
沢山の人々が死んだり、傷ついた。柳寛順はお父さんとお母さんも日本の憲兵の手に倒れてしまった。
人々は散り散りになり、日本の憲兵は柳寛順を見つけるために全ての村をくまなく探した。柳寛順は父母の遺体をそのままにして涙を流しながら逃げるしかできなかった。
그러나 결국 유관순은 일본 헌병들에게 불잡혀 끌려갔다.일본 헌병대에서 온갖 고문을 당한 뒤에 재판을 받았다.
유관순은 재판을 받을 때에 조금도 굽힘없이 당당하였다. 7년의 징역형이 내려지고, 유관순은 갑옥에 갇혔다.
しかし、結局柳寛順は日本の憲兵どもに捕まって連れて行かれた。日本の憲兵隊であらゆる拷問にあった後に裁判を受けた。
柳寛順は裁判を受けるときに少しも屈することなく堂々としていた。7年の懲役刑が言い渡されて、柳寛順は監獄に入れられた。
그렇지만 우리 나라가 독립을 해야 한다는 유관순의 신념은 누구도 꺾을 수 없었다.
1920년 어느 날, 나라를 구하기 위해 죽음을 무릅쓰고 만세를 부르던 유관순은 열아홉의 꽃다운 나이에 감옥에서 숨을 거두고 말았다.
しかし、我が国が独立をしなくてはならないという新年は誰も挫くことはできなかった。
1920年のある日、国を救うために死をおかして万歳を叫んだ柳寛順は19歳のような歳に監獄で息を引き取った。
그러나 유관순의 나라 사랑하는 마음은 지금도 우리 겨레의 가슴 속에 남아 나라의 소중함을 일깨워 주고 있다.
しかし、柳寛順の国を愛する心は今も我々同胞の胸の中に残って国の大切さを言い聞かせている。
war and experience for women 戦争と女性の経験
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5283/8/Honbun-4173_05.pdf
V.戦争と女性の経験
A.戦争と女性の経験に関する口述史研究
1.研究目的
韓国で口述面接(oral interview)あるいは口述史(oral history)研究は、人類学と女性学を除いた社会科学分野では今まであまり用いられる方法ではなかった。とくに、歴史学のような分野では、口述資料は文献資料を補完するか内容確認のための補助的方法としてしか選択されてこなかった1。社会学分野では最近になってようやく社会史研究として口述史の重要性が認識され始め、具体的研究成果がではじめている段階である。
この章では、口述面接をつうじて戦時体制下の母性と家庭性、女性性を取り巻く女性の意識と実際経験を考察しようとする。母性や家庭性、女性性は女性にとって本質的なものではないため、その意味と性格は固定されたものではなく、社会的脈絡内で構成され、また変化する。よって、特定の歴史的状況内で起こる行為力(agency)をつうじて構成される側面を考察する作業が必要である2。こうした経験や行為力としての女性の生活史を把握するためには質的研究方法である口述面接方法が有用である。学者によっては、口述面接または口述史の史料的価値の側面における問題点を指摘する場合もあるが3、それにもかかわらず、口述史は伝統的歴史がもつ階級やジェンダーに対する偏見をみいだし、社会的下位集団など不利な位置にある集団の観点から社会変動を記録する重要な道具になる4。とくに、女性に関する口述史研究方法は主流歴史学と支配言説のなかで排除されてきた女性の生活経験を女性の声で表すという点で価値ある試みになる。たとえば、本研究で探ろうとする母親役割の遂行様式、出産や養育方法、戦時物資統制と家庭生活の変化、家族関係、衣服に対する統制とモンペ着用の強制性、洋服の浸透度合い、洋服に対する女性たちの意識などは、公式記録や文献からはほとんどみいだせない。こうした私的領域に関する経験と認識は口述面接をつうじてはじめて得られるが、こうして得られた内容は単純に公的史料を補充するためのものではない。それよりはむしろ、植民権力の政策と女性観に対する女性たちの対応様式、植民主義と家父長制が支配的な社会的条件のなかで女性たちが日常生活で行う選択の戦略と彼女らの生活経験を表すことによって、戦時下女性の歴史的、社会的経験と認識が男性のそれらとはいかに異なるかを把握し、戦時生活経験に関する新しい観点を提示しようと思う。とくに方法論的には、口述面接をつうじて得られた事件や出来事を羅列し、叙述的に記述するよりは、それらをどういうふうに解釈するかに焦点をあわせ、それらをつうじて植民経験をした女性たちが抱いた歴史認識と社会観、女性の役割と地位、女性性などに対する概念の分析をこころみた。本調査は17名を対象とした面接にもとづいているため、日帝末期女性の経験に関する完成した歴史像を提示するとはいえないかも知れない。しかし、戦時下女性の生活経験に関する研究が皆無に等しい状況で一つの観点を提示し、戦時体制と日常史に関する論議を発展させる土台になりえると思う。
1 ジョン.ヘギョン「韓国近現代史口述資料の刊行現況と資料価値」『歴史と現実』33号、1999年、319、322-3頁。
2 行為力とは、ある行為を遂行する能力を指すが、最近の理論では個人たちが自由かつ自律的に行為できるか、個人のアイデンティティーを形成する方式がいかなる意味で個人の行為を決定するか、といった問題に関心を向けている。脱植民主義(post-colonial)理論で行為力はとくに重要な概念である。それは、脱植民主義の主体が帝国主義の勢力に抵抗、あるいは協力する行為を起こす能力の問題と関連するからである。Althusserによると、人間の主体性(subject-
ivity)はイデオロギーによって構成されるために、主体が行う行為はイデオロギーの結果とみられる。しかし、脱植民主義学者たちによると、主体は社会諸勢力の影響から離れるのが難しいが、不可能ではない。そうした諸勢力を認識できること自体がそれらを撤回できることを意味するからである。Bill Ashcroft, Gareth Griffiths & Helen Tiffin, Key Concepts in
Post-Colonial Studies, Routledge, 1998, pp.8-9.
3 口述資料の問題点として指摘される点は次のようである;1.過去の事に対する忘却や間違った記憶がありえる。2.口述には非一貫性がありえる。3.記憶には選択性が作用する。4.回想に依存することによって自己正当化が起こりえる。5.記憶は私的、部分的、主観的である。しかし、口述史を認める学者たちは主流歴史学にも同じような問題が内在すると反問する。つまり、記録された資料にも作成主体である人間の特定した視覚と洞察力、主観的見解が介入し、起こったすべての事件が記録できないため、取捨選択の問題が作用する。また、歴史的、社会的条件が作成者個人の判断と叙述に影響を及ぼす。さらに、口述の代表性に対する指摘に対しても、個々人は歴史的産物であって個人の人生は社会的過程によって構成され、社会構造を作ると主張する。したがって、歴史は過去の事実それ自体ではなく、過去に対する特定した解釈を意味する。要するに、歴史とは常に現在の理解関係と観点から再解釈されるという認識の転換が必要であり、こうした点で口述は他の書かれた歴史資料と同様の価値をもっている、といえる。チョ.ヒョングン「歴史を曲げる」『近代性の境界を探して』(セギル、1997)18-20頁;上野千鶴子、イ.ソンイ訳『ナショナリズムとジェンダー』(パクジョンチョル出版社、1999)169-75頁;ユン.テクリム「記憶から歴史へ」『韓国文化人類学』第25集(1994)276-89頁。
4 Eileen Clark, “The Pursuit of Truth in Oral History,” Paper presented at the Inter-national Association of Qualitative Research Conference, Melbourne, Australia, 6-10 July 1999.
2. 面接過程
面接対象者の選定はまず解放前に結婚し主婦としての経験があるか、出産および育児経験がある、できるだけ高齢の女性たちにしぼった。また、女性たちの意識と経験に影響を及ぼす教育の機会と職業経験の有無、そして居住地域において農村と都市のばらつきがないように考慮した。これは教育水準と職業経験の有無が政策に対する認識、母と主婦役割の遂行、女性としてのアイデンティティーなどに影響を及ぼす重要な変数になりえると考えられるためであり、居住地域は植民政策の浸透、施行における差異とそれに伴う女性たちの認識の多様性を探るためであった。とくに、日帝末期に学齢期の子女をもった対象者を探したが、それは先に実施した文献研究をつうじて日帝が普通学校教育を通して朝鮮人の皇国臣民化に力をそそぎつつ、子女教育者としての母親役割を重視し、支配政策の施行において母親たちの協力を得ようとした点をみいだし、こうした政策が実際どのように行われ、母親たちがそれらをどう認識または経験したかを考察するためであった。しかし、こうした父兄としての経験がある対象者はそのほとんどが高齢かあるいは健康上の問題があったりして、対象者として充分な数を確保するうえで難しさが伴った。
教育を受けた女性の場合は女学校の同窓会をつうじて紹介してもらい、またそのなかの数人からは彼女たちの友人や先輩などを紹介してもらった。無学の女性の場合は知り合いや教会、老人ホームをつうじて紹介された女性のなかでできるだけ高齢の女性を選んだ。こうして1910年から1930年の間に生まれた17名の女性を対象に面接した(表2参照)。研究対象者17名のなかで解放以前に結婚した12名の内、解放以前に出産経験のある女性は9名で、さらに日帝末期子供を学校に行かせた経験をもつ女性は6名であった。解放以後結婚した5名の女性たちは戦時期それぞれ女学校(韓真淑)または専門学校に在学中(呉恵子、李鐘姫、南京姫)であったか、教職(鄭玉順)の経験があり、戦時期の女学校教育に関してより身近な体験をもち、多くのことを記憶していた。
調査は2000年8月に基礎調査を実施した後、一次調査として2000年11月から2001年2月の間に15名の女性を対象に1-2回の面接を実施した。二次調査は2004年5月から2005年3月の間に実施したが、まず一次調査で面接した15名の女性たちに再び連絡した結果、2名(鄭菜英、金枝培)が他界し、3名は療養で面接が不可能、4名は住所移転で連絡がとれなかった。残り6名の女性たちに2名(南京姫、全英錫)を新たに加え、二次調査では8名の女性と面接した。一次調査では女学校での教育や家庭生活、母親としての経験を主に質問し、二次調査では衣服や容貌など女性性に関する質問を新たに追加した。一次調査で面接した6名の女性たちを二次調査でも面接したが、ほとんどの方に身体の衰えが目立ったが、植民時期に関する記憶は衰えていないようだった。彼女たちは一次調査時に質問したいくつかの質問については以前と同じ答えをした。
口述面接調査は基本的に口述史方法をとったが、生活史(life history)よりは植民地時期という限定された期間の経験を知ることが主な目的であるために、まず文献研究をつうじてみつけた日帝の朝鮮女性に関する諸政策と宣伝を中心に質問を作成した後、これを土台に面接者が質問することで面接対象者の記憶を呼び起こす方法をとった。よって、録音と質問用紙作成を並行したが、質問用紙は面接対象者たちが高齢で、なかには文盲者も含まれていたために、面接者が記入した。しかし、実際の面接では、質問用紙は面接者が質問をもらさないよう内容確認のために使った。それは、面接対象者たちはいったん記憶を呼び起こし話し始めると、自ら話を進めていく力を発揮し、より率直かつ自由に自分の経験と考えを話したためである。よって、こうした一次調査の経験から二次調査では、質問する項目だけをならべた、より簡単な形の調査票にした。一次と二次調査とも口述内容はすべて録音し、面接後に文章化する方法をとった。
面接前に文献資料を通した調査と、これらを参照しながら質問する仕方は口述者たちの記憶の呼び起こしに効果的であった。その一例として、「日帝時期子供をたくさん産むように、といった言葉を聴いたことがあるか」と質問すると、「よく覚えていない」とか「そんなことはなかったと思う」と答えた女性たちも「産めよ増やせよといった言葉を聴いたことがあるか」と聞くと「あった」と答えるのであった。そして多産者に対する表彰など多産政策に関した出来事などを思い出すのであった。しかし、モンペの場合はそれと反対であった。つまり、1次調査で戦時生活を語るなかで、モンペ着用が強制されモンペを着なければならなかったと話す女性たちがいた。面接者は少ない面接対象者からこれらのことが共通して口述されたため、この問題に関心をもつようになった。以後文献資料をつうじて、先に得られた口述を後ろだてできるモンペの普及と着用運動、モンペ着用に関する宣伝だけでなく、知識人たちによって戦時服に関して展開されたさまざまな論議をみつけた。こうした研究を参考に2次調査ではモンペと戦時服装統制に関する面接調査を行なった。1次面接に先立つ史料分析でモンペに関する記事や政策が研究者の目に触れなかったのは、それが母親や主婦としての役割と義務に比べそれほど頻繁に登場せず、モンペ着用の強制性が戦争末期の1-2年に集中したためである。しかし、モンペ着用のような服装統制が女性たちの意識と生活に及ぼした影響は、母性や家庭性に比べ決して少なくなかったことを口述面接をつうじて知るようになった。モンペに対する女性たちの口述は日常的微視史、とくに女性たちの生活経験が公式文書や記録からいかに排除されていたかを示す一つの例である。女性たちは60年前のことであるにもかかわらず、モンペ着用が強制された時期や方法に対する具体的な記憶をもっており、面接者たちのこうした記憶は驚くほど一致した。
面接は、2名は面接者の家で、もう1名は面接対象者の夫の事務室で行われたが、残り14名は面接対象者の家で行った。面接対象者の家で行う場合、周囲の騒音や時間的制約にしばられないので、できるだけ面接対象者の家での面接をお願いした。また、対象者の家で面接した場合、写真や同窓会のアルバム、女学校のときの手芸作品、昔着ていた衣服などをみせてもらい、口述を裏付けするばかりでなく、対象者自身もこれらのものを取り出してみることで過去の回想に役立った。また、面接者はこれらに関する質問を行うことで、より掘り下げた口述が得られた。面接は大体2時間から3時間ほどであったが、とくに高齢の女性たちは2時間以上の面接に肉体的疲労を表す場合があり、なるべく1回の面接を2時間以内にし、2-3回に分けて行う方法を使った。また、2回目の面接ではより内面的な口述が得られた。乳幼児期の子女の死亡といった辛い記憶や子供の数が少なかったため姑の小言が多かったことなどは2回目の面接で口述された。また、夫の性病感染で妊娠が不可能になったことや、姑がより多くの男の孫を得るためにほかの女性をつれてきては夫と一緒に暮らすようにしたことは面接の後半で口述された。これは、面接過程をつうじて面接者と面接対象者の間にある程度ラポ(rapport)が形成されたためと思われる。さらに、これはこの世代の女性たちにとって姑や夫に対する不満を第3者に打ち明けてはいけないという家父長制下の嫁、妻としての規範が内面化されていることを示すと同時に、自分の不幸な人生の側面を他人に話したくないという心理を表す一例でもある。
最後に、録音された口述を文字として記録する過程で口述者の言葉使いや表現をそのまま生かそうとした。しかし、口述者の言語習慣により、同一内容を反復して語った場合には、反復を避けるため一部分のみを引用した。このほかは方言や習慣的な言葉使いをそのまま記録した。
3. 記憶と口述の多様性
面接対象者たちが自分たちの過去を口述する仕方には教育の有無によって大きな差があった5。教育を受けた女性たちは学校教育や卒業後の職業経験、新聞や本で読んだ内容をもとに当時の植民体制や政策、戦争の状況に関するより具体的な知識をもっていた。たとえば、「時局」「動員」「玉砕」「皇国臣民の誓詞」「内鮮一体」「新女性」「君が代」「大本営発表」など印刷媒体や活字を通して接した言葉を記憶し、正確に表現した。また、学校教育の内容や支配政策、時局と関連した用語、読んだ本の題名、よく読んだ雑誌の名前などは当時使った日本語そのままで話した。このように、教育は言語的表現能力を付与したため、彼女たちは自分たちの人生を社会的条件の変化とともに適切に表現し意味化できただけでなく、植民体制と戦争がもたらした状況を批判する能力ももっていた。しかし、彼女たちの植民地社会や体制に対する認識がすべて当時形成されたとは思えないところもあった。当時面接対象者たちの年齢や抑圧的支配体制をかんがみると、以外にも批判的な意見を述べる場合もあったが、そうした口述の多くは、解放後彼女たちが接した知識や最近までの韓国社会の支配的言説を反映するものと思われる。
教育を受けることができなかった下層女性たちは、植民政策に関しては具体的な知識や記憶をもっていなかった。それは彼女たちが文盲で日本語ができなかったために政策や宣伝の理解に限界があったし、生計のため労働に長時間従事せねばならなかったためでもある。彼女たちは学校生活をつうじて得られる経験がなかったために、経験の幅が狭いのみならず、限られた知識のため自分たちの人生の苦労を社会体制の矛盾よりは、個人的運命や家族的背景を原因にする傾向が強かった。しかし、だからといって彼女たちに植民体制に対する不満や反日感情がなかったわけではない。ほとんど貧困層であった彼女たちは農産物の供出と食糧欠乏を口述するとき、もっとも強い語調で体制を批判した。また、彼女たちは労働に関する口述のときはより具体的で明確な言葉を使った。たとえば、木綿の栽培と機織方法、染色、穀物の皮をむいてご飯を炊く過程など、自分たちが常に行なった労働に関する口述は非常に詳細に説明できたばかりでなく、労働は彼女たちの貧困と苦しみにまみれた人生に対する記憶の重要な一部分として語られた。彼女たちはとくに方言をよく使ったが、標準語以外の方言に慣れていなければ、地方に住んだこともない面接者としては彼女たちの口述を理解するのに度々困難を感じた。殊に、農業労働や機織をその地方の方言で口述するときは面接者が農業労働の知識も不足したうえ、方言の意味もわからず口述内容理解に苦労した。面接中そうした方言の意味を質問したつもりであったが、面接後録音を記録する過程で再度知らない方言に直面したりもした。
5 本研究の面接対象者17名中5名のみ無就学で、残り12名は高等女学校を卒業した。これは、当時女性たちの平均教育水準や就学率より、ずっと高い教育水準である。
女性たちの植民地時代の経験に関する記憶と意味付けは解放以前から現在までの生き方に影響される側面もあった。たとえば、北韓(北朝鮮)出身の韓真淑と鄭玉順の場合、解放以後北韓での共産党集権のために、ブルジョア階層として裕福であった彼女たちの生活は急変し、やがて6.25事変(朝鮮戦争)が勃発すると、土地と家屋など重要な財産を手放したまま南下した。経済的基盤を失った彼女たちの人生はその後想像を超える苦労を味わうことになった。韓真淑は父親が投獄されたために、薬剤師になるのを中断し、家族のために仕事をみつけて働くようになった。鄭玉順も、財産を失ったが、一生地主として生活力をもたなかった父親に代わり長女として家族の生計のために働かねばならなかった。こうした解放以後の家の没落という個人的経験により、彼女たちは裕福にすごした家庭生活を懐かしく誇らしく語る傾向があった。韓真淑は日帝末期成功した実業家だった父親のおかげで植民地時代が彼女の人生のなかでもっとも裕福な生活を送れた時期であった。彼女は自分の父は「日本語ができ、日本人とも親しく、事業も当時成功していたから、最近の言葉でいうと親日派」といったが、彼女はそうした環境で送った少女時代を幸せな時期と記憶している。鄭玉順も地主階級で当時珍しかったコーヒーやチョコレート、カレーライスなどを食べたり、日本製の高い化粧品を使ってみた経験、京城6市内中心街の百貨店とそこの食堂に行ったことなどを詳細に語り、そうした近代的経験を裕福な家庭環境をもった自分のみの経験として考えていた。彼女は日帝時期までの生活は詳細かつ意欲的に口述したが、解放後の出来事に関しては詳細に語ろうとしなかった。そのため彼女の生殖家族や結婚後の生活についてはあまり突っ込んだ質問はできなかった。とくに、彼女の口述は人間関係や主観的考え、感情よりは解放以前物質的にどういった生活をしていたか、あるいは自分や家族が社会的に重要な地位にいた人たちといかに親しかったかといった側面を説明することにより集中していた。これは彼女が面接者に自分の人生に意味づけをし、説明する方法のようにみえた7。
6 植民地時代ソウルは京城と呼ばれた。
物質的側面だけでなく、教育経験も解放後の経験と比較された。教育を受けた大部分の面接対象者たちは植民地時期の教育を肯定的に評価したが、とくに教師経験がある女性の場合には日帝時期の教育をより一層肯定的にみる傾向が強かった。彼女たちは日本語で教えたことを「悲しく」思ったりしたが(李恩實)、規律を重視する厳格な教育を解放以後や現在の自由な教育よりももっと優れた教育として評価した(全英錫、李恩實)。彼女たちは「皇国臣民の誓詞」や「教育勅語」を覚えたことや、学校では韓国語を使ってはいけなかったことは批判的に話したが、そのほか一般的で日常的な教育方法と規律は植民支配政策の一つとみるよりは、純粋に日本的な教育法として理解する傾向が強かった。そのために、厳格な教育方法が植民地人としての自分たちを日本式に規律化し、従順な植民地人を養成するための教育と認識していなかった。
植民地教育に対する理解には当時学生あるいは教師だった面接対象者それぞれの立場により尖鋭した認識の違いがみられた。南京姫と全英錫の口述がそうした例である。南京姫は全英錫が卒業し、日本留学(東京女子高等師範学校)後戻ってきて教えた当時代表的な公立女学校に通ったが、彼女は当時の学校教育を「徹底的に教えたために誠実な人間を作る。しかし何でも言われた通りにせねばならなかったために融通の利かない人間になる」と長所短所を挙げた。しかし、全英錫は「規律は厳しかったが、学生のためであり、今の教育とは違った本当の教育を受けた」とした。この二人の考えは、当時植民政策と戦争を支持する文章を多数残したその学校の校長に対する評価でも二分された。南京姫は校長が「大変親日的であったために学生たちがとても嫌った」と口述した。しかし、全英錫は、彼が「校長に抜擢される程であったから日本人から信任を得た人物とみるべきではあろうが、素朴な人であった。校長だからといって自ら日本人にどうするべき、といったりはしなかった」と彼をかばう立場であった。こうした同一人物に対する相反する評価は、彼女たちが当時教師と学生といったお互い異なる社会的位置にいたためである。南京姫だけでなく、当時女学校に通った面接対象者たちは植民政策を過度に支持したり、民族差別的態度が強かった教師に対しては日本人であれ韓国人であれ、学生たちから嫌われたが、反対に日本人であっても人格的に偉かったり、ひそかに反戦的な態度をみせた教師に対しては尊敬の念を抱いた、と口述した。しかし、全英錫は短期間ではあったが自分も同じく植民体制下で教える立場にあったために、教師の体制協力的な行為や態度を個人的性格や資質の問題に還元するような質問には非常に防御的な態度をみせた。
7 もう一方、こうした口述は、彼女が女学校教師として定年まで勤務したため面接者が彼女を「先生」と呼んだためかも知れない。彼女はこの呼称から自分を口述者というより、教師と意味付けし、自分の個人的経験を語るよりは、当時の状況に関する情報を与えねばならない、と考えたかも知れない。
要するに、面接対象者たちの過去の経験に関する口述の仕方は、大きく教育水準と階層によって異なるが、これら二つの条件が同じであっても、個々人の経験とそれに対する記憶はそれぞれ多様であるといえる。つまり、教育水準が同じでも、教師と学生といった社会的位置の差は教育体制についてお互いに異なった認識と記憶となり、また、裕福な階層であっても植民支配以後の家勢の変化によって植民地時代に対する記憶も違った様式で構成されたのである。すなわち、既存の歴史学で「民族の暗黒期」としてのみ叙述された日帝末期が女性の口述史をつうじて再構成されたとき、この時期に対する記憶は個人の人生全体に対する各自の解釈を通して理解され、意味付けられる側面がある、ということである。こうした側面が本研究で注目する点である。
4. 口述を通した植民地時代女性の生活史事例
日帝末期を体験した面接対象者たちが植民支配と戦争を経験、認識し、その記憶を振り返り口述する仕方はそれぞれ多様である。本節では社会的階層と教育水準、居住地域によってそれぞれ異なる4名の面接対象者を選び、彼女たちの生活史を簡単に紹介しつつ、戦時期の経験を概観する。これは本研究が主題としている母性と家庭性、女性性というレンズを通して対象者の人生を分析することは、ある面で彼女たちの戦時体制経験の一部のみをみせるからである。つまり、以下の三つの節で把握されていない全体的な生涯過程と家族的背景、学校教育や結婚生活などをつうじて面接対象者たちがそれぞれ自分たちの生涯をつうじての経験を理解し口述する態度や方法を探ることによって、彼女たちの人生の多様性と、戦時期生活経験に対する認識を理解する必要があるためである。また、これらをつうじて植民支配と戦争がこの世代の女性たち個々人の人生に及ぼした影響がどんなものであったか、といった点も現れるであろう。
南京姫は1929年京畿道の地主の家で生まれ裕福な環境で成長した。彼女の父親とその兄弟たちはみな日本に留学し、父親の二人の妹たちも先に留学した南の父の説得で日本の上級学校へ留学した。南は父親が満州で事業をやっていたため、満州奉天に居住し、そこの日本人小学校に通った。日本人学校の日本人教師は民族的偏見をもっている人もいれば、そうでない人もいた。幼かったが、教師の言動からそうしたことが感じ取られた。日本人の友達とは仲良く過ごした。小学校を卒業する頃の1941年の春、父親は満州の工場を売り、家族はソウルに引っ越した。引越し後、女学校の入学試験に受かり、当時公立でトップレベルだった京畿高等女学校に入学した。入学した1941年に朝鮮語の時間はすでに廃止されていた。学校で韓国語を使ってみつかると、始末書を書かされ、先生が大目に見ない場合停学になることもあった。教師のなかには多少反戦的な人もいた。たとえば、上野音楽学校をでた音楽担当の日本人の女性の先生は服装からそのようなことが感じられた。モンペが強要された時期だったが、この先生は終戦の1年前に帰国するまでモンペを着なかった。しかし、ほとんどの教師はそうではなかった。ある時、日本史を学ぶ国史時間に神武天皇に関する神話の話がでた。神武天皇が野蛮族の征服に行ったとき、金のトビが彼の矢の上に飛んできて座ると、そのまぶしい光に敵軍たちが目を開けなくなり、戦争に勝ったという話であった。南はそれが事実とは信じられないと思い、教師にそんな話が事実なのかと質問した。そうすると、非常にあわてた教師からひどく叱られ、その後60点をもらった。南は、こうした出来事を当時皇室に関した不敬罪があった時代のせいと解釈した。国史時間だけでなくすべての学校教育は植民地学生たちを日本人と想定したものであった。南は登下校前後に皇国臣民の誓詞と国語常用の誓詞、教育勅語などを暗唱したこと、礼式の順序などを詳細に記憶している。ほとんどの教育が男女の区別よりは日本国民としての姿勢と任務を強調したが、女性教育の特徴が現れるのは礼儀作法の時間であった。礼儀作法時間はすべての内容が朝鮮女性を日本女性と想定した教育であった。畳の部屋に入って正座する法、立つ法、畳のつなぎ目を踏まずに歩くこと、畳部屋のふすまを開け閉めする方法など、韓国人の生活とは何の関係もないことを習った。しかし、その時習った内容は今でも自分の立ち居振る舞いと行動に影響を与えている。礼儀作法を教えた日本人女教師は立ったり座ったりしても足をくっつけるようにといった。その教師は冷たい態度でいつも和服を着ていて、自分が日本人であることを威張っているようにみえ、学生たちからは嫌われた。甚だしくは学生の間で彼女が日本警察のスパイだといううわさもあった。しかしそれにもかからず、彼女の教えは今までも常に頭の中に残っていて、自ら立ち居振る舞いに気をつけている。今でも日本に行くときは日本女性の座り方などを注意してみるが、日本女性に比べると韓国女性の立ち居振る舞いは醜いと思う。
太平洋戦争が激しくなった1943年、3年生になると、授業は午前中だけで午後は勤労奉仕に動員された。4年生のときは朝から一日中、そして「月、月、火、水、木、金、金」とし、土曜日も日曜日も休みなく雲母を剥がす作業をした。作業が肉体的にしんどくはなかったが、日本の勝利を願って一生懸命に作業に臨んだわけでもなかった。また、4年生のときは看護員になるための訓練を受けた。京城医専の教授たちがきて一日一科目を速成講義した後、試験を受けさせ看護員免許をくれた。その試験で生まれて初めてカンニングをした。誰もその試験を真剣に考えなかった。学生たちは全部公然とみながらの試験だったが、全員合格し看護員免許をもらった。神社参拝も定期的に行ったが、授業をしなくて良かったし、おしゃべりしながら遠足に行くような気分で行ってきた。私だけでなく、神社に行って真剣に祈ったりした学生は一人もいなかったと思う。当時京畿高等女学校の校長は非常に親日的であったために学生たちから嫌われた。ある日、神社参拝のとき、校長が緊張のあまり、拍手を打つとき両手がずれてしまった。それをみた学生たちは喜んで笑ったりした記憶がある。校長は大東亜戦争だの、聖戦だの、八紘一宇だのそういうことをよくいったが、それらがすべて偽りのように聞こえ、いくら日本人として教育をうけ、内鮮一体が主唱されても自分が日本人というように思ったことは一度もなかった。ところが、日本女性はそうではないようだった。日本女性は千人針をするときも、それが本当に弾丸を避けると信じて一生懸命に作るようであった。韓国女性は道で日本女性たちに千人針のひと縫いを頼まれると、やってはあげたが、日本女性とは違い、戦争に対して傍観者的な態度にとどまった。
韓国の文字を学ばなかったために、家に韓国文学など韓国語で書かれた本があったが、読むことはできなかった。主に、日本語で書かれた日本文学や世界文学を読んだ。『少女の友』という雑誌があったが、その本には戦争にもかかわらず、ほんの少しではあったが、ロマンチックな話が載っていてとても好きだった。表紙の絵も目が大きくてほっそりとした少女がかわいい服を着ている姿であった。当時京畿高女の学生たちは制服としてモンペを着て救急カバンを掛け、5-6月にも厚い防空頭巾を被って登校したが、そうした凛々しい姿ではなく、軍国主義とは反対のものであったから、女学生たちによりアピールしたのではないかと思う。対照的に、『君と僕』という志願兵に関する映画を学校で観覧したが、その映画はほんとうに嫌いだった。みた後、うその塊だと思ったし、内心とても反発心がわいた。
生活面では、米や運動靴などがすべて配給制だったが、南はそうした物資にはそれほど不足しなかった。父親が精米所をもっていたし、靴は満州で父親がゴム工場をした時、もってきたからであった。そのかわり、洋服やお砂糖、牛乳、小麦粉、バター、卵、お肉などおいしいものがないのが耐えられなかった。解放後、街のパン屋さんで食パンをみたときはそこからなかなか離れられなかった。
南は元々女学校卒業後は日本に留学するつもりだった。両親とも日本留学をしたため父親は彼女を日本に留学させようと思っていた。しかし、東京が空襲されるなど戦争が激しくなり、仕方なく、梨花専門に進学した。当時女性が行ける上級学校のなかで師範学校や医学専門は自分に合わなかったし、淑明専門は歴史が浅く(1937年設立)、日本人が立てた学校だったので行かなかった。入学試験には作文だけ出題されたが、それは「母」に関して書けというものであった。1945年4月に入学し7月末まで3ヶ月通ったあと解放になった。梨花に入学してみると、戦時体制で名前も「京城女子専門」に変えられたし、専攻や教育内容も全部ずたずたにされた状態で、これが学校なのかという思いがした。学んだ科目は育児法や化学、家庭管理といったものであった。梨花の教授たちは公立学校の京畿に比べ日本語に未熟だった。韓国語のイントネーションで下手な日本語を話し、聞いていると笑いがでるほどであったが、むしろそうしたことが抵抗の姿勢のように感じられ、懐かしい思いがした。勤労奉仕も真面目にやるのではなく、やっているふりをしながらサボタージュし、女学校の時よりも新鮮でよかった。科学を教えたイ.ジョング教授は、暗示的にキリスト教に関する話をしてくれたが、軍国主義ばかり聞いていたせいでとても感動的だった。そのとき初めてキリスト教にふれたのだった。梨花の校庭には日本軍が駐屯した。あっちこっちに砂袋が積んであったし、校門の入り口には歩哨が立っていたが、歩哨の前を通るときにはお辞儀をするようにいわれた。学生たちはそれがいやで、なるべくその前を通らないようにした。
1945年8月15日、いきなり解放となり、人々が韓国語で「万歳」を叫びながら街を群がって行くなど、とても混乱して慌しい雰囲気であった。うれしい気持ちよりこの先どうなるだろうかと不安感が先立った。女性の服装が戦争末期の抑圧に対する反動で華美になり始めた。洋服を着た人は少なく、女子大生のなかでもビロードの韓服チマ(スカート)と絹織りのチョゴリ(上着)にハイヒールがはやった。大学でもっとも深刻な問題は全部日本語の本を使っていたが、日本語を使わなくなり使える本がないことであった。授業も韓国語で行われるようになったが、ほとんどの学生たちがハングルを書けなかった。金活蘭総長がハングル学者であるイ.ヒスン先生を招聘しハングル特講を開き、2週間でハングルを覚えた。
南のように、1920年代末に裕福な家庭で生まれ、学校教育を受けた女性たちの場合、戦時体制の経験は主に学校教育をつうじて体験された。したがって、彼女たちの口述は軍国主義教育が女性に求める側面をよく表す。女学生たちは共通して勤労奉仕といった労働動員と防空訓練、査閲と行軍、応急処置と構成された教練科目を学んだ。出征兵士の見送り、慰問手紙書き、慰問袋作りなどを度々やった。
これと対照的に学校教育を受けなかった金枝培の口述は戦争や植民体制を直接言及はしなかったが、彼女の生活もやはり植民支配の影響から自由ではなかった。金枝培は1912年忠清南道西山の貧困な農民家庭の4人兄弟の長女として生まれた。金が6歳になった時、40歳であった父は伝染病にかかって病死した。10月に病がはやり、家ごとに男たちが稲刈りもできず死んでしまった。夫の死後、4人兄弟を一人で養えなかった母は金が11歳になると、嫁にやった。そのころは村に学校もなかった。金持ちだけが家に先生を置いて字を習い、貧しい者は学べなかった。新郎は19才であったが、彼も両親がなく家が貧しくて人の家に作男として奉公に行っていた。お嫁に行ってからも新郎が何ものかも知らなかった。すでに舅と姑が死んでしまっていたので、20才を過ぎた一番上の相嫁が姑のように嫁としての仕事をやらせた。食べ物や着る物もろくに得られず、大変苦労した。母に会いたくて泣いたり、会いに行ったりもした。すると、相嫁が迎えにきたので、また嫁先に戻らねばならなかった。11才であったが、うすつき、麻作り、裁縫、水汲みなどもした。水を汲んで頭に載せてくるのだが、滑って転び、死にそうになったときもあった。相嫁は水を汲んでこい、ご飯を炊け、洗濯しよ、麻を作れと仕事ばかりやらせた。靴もなく、草鞋を履いたが、外にでると、すぐ水が入った。ボソン(たび)も靴下もなくて裸足で過ごした。二十歳になると、相嫁が小部屋を借りて新郎と二人で暮らすようにした。新郎と一緒に暮らしても新郎に懐かなかった。男がそれほど嫌だった。22歳で長女を産んだ。出産はほとんど自力でやった。子供は時がくると産まれると思ったし、どう産むのかも知らなかった。全部で9人を産んだがそのなかで4人が赤ちゃんのとき死んでしまった。口病、天然痘、赤痢で死んだ。それぞれ5才、3才、1才、そして1才にもならずに死んでしまった。今も死んだ4人の娘を思うと胸が痛む。それでよけい老いた感じがする。当時は子供の病気ははしか、天然痘、赤痢、この三つがひどかった。予防もなく、病院もなくて子供たちがこの三つでよく死んだ。当時は子供が死ぬと、お墓も作らず、ただ埋めてしまい、みに行くことはしなかった。山の犬や狐が埋めた子供の死体を掘り出して食いついて回ったりもした。
子供はできたから産んだし、たくさん産みたくて産んだのではなかった。(避妊の)方法を知らなかったから、産まないすべがなかった。子供一人を産んで育てるのがどれだけ難しいか、9人を産んだからその難しさはとうてい口ではいえない。オムツもなくやってあげられなかった。歩く子も上着だけ着せ、下は裸のままであった。部屋の床面にはワングルで編んだ敷物やムシロを敷いたが、子供たちのおしっこが床に付き、子供一人育てると敷物一つは腐ってしまうのであった。
解放以前は食べるものもなかった。先に実る麦穂を刈って炒めてた後、蒸して挽いておかゆにして食べた。麦も少なくて少ししか食べれなかった。当時は肥料がないから穀物がよくできなかった。麦を食べてなくなると、麦の子を買っては挽いておかゆにして食べた。また、かぼちゃを集め、かぼちゃおかゆを作って食べたりもした。夫と一緒に農業もした。子供たちは家に残していろんな仕事をした。田植えもし、畑仕事もした。服も木綿から布地を織って作って着た。夏は麻作りがもっと大変だった。服も今の服とは違って、何回か洗うとすぐに擦り切れた。服も食べ物もなく苦労した。その上、日本人がきて綿や蚕、お米を取り上げて行き、とても大変だった。日本人にカマスを作って供出しろといわれて、それを作るのに苦労した。しないと罰金を払わせられるから仕方なくやるしかなかった。食器、匙や箸など真鍮で作った器と鋳鉄ももって行った。冬に部屋で使う火鉢も取られた。人々は木で匙と箸を作って使った。石油もなく松ぼっくりを採って使った。
班常会のようなものがあって会議があると行ったりしたが、忘れてしまって知らない。外に出て訓練しろともいわれた。今の子供たちが学校で体操するように体を動かすのであったが、やる日が決まっていて、若い人も老人も広いところにでてみなやらねばならなかった。日本人がきて何の保険か知らないが、加入を勧められたが、お金がなくて入らなかった。加入する人も多かった。村にも日本人が住んでいたが、韓国人と話したりはしなかった。日本人の家に働きに行く人は彼らの家の仕事をしてお金をもらった。
金の植民時代の生活は貧困な家庭で生まれ、父の急死で11才で嫁に行かねばならない悲劇的なものであった。彼女は友たちと遊んだり、親から愛されるといった幼児期の経験が欠如している。彼女の人生は、早婚、望まなかった妊娠と出産の繰り返し、子供の死、そして生計のための過重な労働の連続であった。したがって、彼女の口述も労働と家族生活に限られている。
金枝培と違って、鄭菜英の口述は、女学校生活と結婚、子供たちの学校生活、戦時下地域でまかされた銃後の主婦としての役割など多様な内容を含んでいる。それは彼女が、裕福な環境で生まれ教育を受けることができたため、より多くの社会的経験が可能であったうえ、高齢にもかかわらず、そうした経験をよくおぼえているためでもある。彼女は20世紀初期に生まれ、近代教育を受けた少数の女性に属するが、彼女の受けた教育は両親や教育担当者、そして自分自身も結婚後、家庭で妻や母としての役割をうまく遂行するための準備教育に過ぎない。彼女自身も教育を受けた新女性であるが、新女性とは結婚と慣習に縛られず、自由に行動するといった否定的なイメージの集団として意味づけし、彼女たちと自分を区分しようとした。そして自分は家庭で伝統的な母、妻、嫁としての役割を果たした人生を送ったと位置づけた。
鄭菜英は、1910年京畿道水原で生まれた。父親は郡庁の書記であった。12才のとき仁川の公立普通学校に入学したが、飛び級し、5年で卒業した。卒業後、両親は上級学校への進学に反対したが、願書を買ってきて1週間泣きながらせがんだすえ、やっと父親の承諾を得ることができた。4年のときソウルに引っ越すまで仁川の家からソウルの京畿高女まで3年間汽車で通学した。女学校1年のとき、純宗皇帝が崩御した。学生同士で昌徳宮に行ったら、青年たちが地面にうつ伏せになり大声で泣いていた。人々があまりにも多くてチマ(韓服のスカート)が踏まれて破られてしまった。李王殿下が日本女性の房子女史と結婚することになったときは、培材学校の男子学生たちがしっかりしろという内容のビラをまいた。房子女史はチマチョゴリ(女性用の伝統的韓国服)の着こなしもよく、一番美人だと聞いた。
女学校の割烹時間には、東京女子師範学校出身のソン.ジョンギュ先生から日本料理を習い、作法時間には両膝をついて日本式礼節も習った。手芸は日本人の先生だったが、この時間に50色以上用いて作った刺繍を昭和天皇に送った。昭和天皇が即位し、日本が捧げろというから捧げたのである。日本人家事先生が胎教や胎動、出産予定日などに関する話をしてくれて結婚後そのままやったら、不思議にもその通りになった。家事の先生も出産前後それぞれ50日を休んだ。
学校生活は楽しかったが、家と学校以外では親から厳しく干渉された。帰宅すると、外に自由にでられなかったし、雑誌や小説も読んではいけなかった。それで菊池寛の小説をこっそり隠れて読んだりした。「会いたくて会うほどに会いたくて怖いのも忘れて出てしまった」という歌があったが、布団のなかで歌っていたら父親に聞かれて怒られたこともあった。家でも学校でも賢母良妻になれというのが教育であった。京畿高女が賢母良妻主義であったし、自分も当然嫁に行くと賢母良妻になるのだと思った。京畿高女の日本人教務主任は将来結婚すると、「母のような妻になれ、友のような妻になれ、妹のような妻になれ、先生のような妻になれ、姉のような妻になれ」という7つを教えた。昔韓国の女はいやおうなく夫に従ったが、日本人先生はこうした妻になれと教えた。家では夫を成功させた女性の話もよく聞いた。そのときは恋愛もなかったし、親が決めるままに嫁に行くのだと思った。女学校を卒業した1930年に結婚した。夫が判事だったので、全羅道や京畿道などに移り住んだ。今でこそ女は強いが、そのころは女が男に言い返してはいけなかった。自分は封建的思想が強くて夫とけんかしたこともなかった。ぶつからないと、けんかにならないのだ。我慢して後で夫の機嫌がいいときにいえばいいのだ。
当時新女性はしょっちゅうお出かけして、家の仕事は下手だという話が多かった。それでそんなことをいわれないように一生懸命にやった。体のよくない姑に手水をもっていったり、喘息のために夜中の11時には夜食を作ってもっていったりした。結婚した次の年に長女を産んだが、難産で近所に住んでいた医者がきて取り上げた。1男7女を産んだが、解放の年に産んだ末っ子だけ産婆がきて取り上げ、そのほかは姑が取り上げたりした。5女が10ヶ月のとき、ひきつけを起こし死んだ。そのときは15人産んだ人もいたし、当然できるままに産んだ。4人目に男の子を産んだからもっと男の子を産みたくてどんどん産んだ。(人工)流産や産児制限はやってはいけないことだった。法で禁じられていたし、わが国の風習も産まなければならないことだったし、子供を下ろしたりするのは賢母になれないことだ。当時学校に行く女もあまりなかったが、時たま田舎のお金持ちの息子たちがソウルにでて新女性と会って、結婚もしないまま妊娠した女たちがいて大きな問題になった。
子供たちを育てるときは、薄給で家族が多かったのでぎりぎりの生活だった。『婦人公論』の付録をみて子供たちの洋服を作って着せたりした。当時男は子供をみたり、とくに親や家の年長者の前で子供を可愛がったりするといけないと思っていた。子供の教育には一生懸命だった。それで子供たちを何とかして京城師範付属小学校に入れた。子供たちに知られないように担任の先生の所に行って、子供の学校生活など尋ねたりした。一生懸命に勉強させ成功することだけを望んだ。倭政時代だから日本語もよくできないといけないから、家で子供たちに日本語を教えたりもした。父兄会も一生懸命に参加したし、学校で指示することには何でも従った。
日本語ができるから町内の愛国班長もした。集まって訓練もしたし、物を集めたり配給品を配ったりした。警戒警報が鳴ると、やっていた仕事を止めて、愛国班員たちを集めて山のほうに行って隠れたりした。解放後は愛国班員たちが集まって嬉しくて踊ったりした。愛国班長には防空訓練のときに使うように鉄兜をくれたが、解放後それを誰かにあげたら、そこでご飯を作ったらおいしかったといった。愛国婦人会鍾路區総務として名前が上がっていたが、家のことが忙しくて婦人会や時局講演会などにはあまりでなかった。しかし、名前が載っていたので、6.25事変(朝鮮戦争)の時、三日遅れていたら、山につれられていかれ(共産党によって)死ぬところだった。戦時は怖かった。一言いい誤ると、警察につれていかれるから、国に関することは少しも言えなかった。挺身隊につれていかれると聞いて、家で妹を早めに嫁がせた。なんでも配給制だったから、食糧難のために苦労した。配給で満州からきた豆かすもくれたし、子供たちには靴なども買えられなくて、大変であった。
李恩實は1915年生まれで 鄭菜英と同世代であるが、彼女の人生はキリスト教信仰と教職という二つを中心に口述された。李恩實の父親は牧師で、母親も熱心なキリスト教信者であった。母は梨花学堂を卒業した後、日本の聖書学院に留学し、教会で伝道婦人として奉仕した。李は父親が牧師をしていた忠清南道で公立普通学校を卒業した後、ソウルにきて梨花高等女学校に入学した。普通学校では日本人教師たちが規律も厳しく、形にはまった日本式教育をした。日本語も徹底的に教えたために、今も国語教科書の1年から6年までの内容を覚えている程である。それから梨花にきてみると、雰囲気がとても自由で規律がゆるいようだった。1週間に1回クラス会といい、会長も選び学生たち同志で司会もしたが、公立の普通学校ではなかったのでとても違うなと思った。大抵が梨花普通学校からきた子供たちがクラス会を引っ張っていた。梨花高女を卒業した後は梨花専門の保育学科に入学した。当時はまだ戦時前だったから、合衆国からきた宣教師たちも多かった。専門学校を卒業し国民学校の教師をした後、1936年結婚した。新郎は京都の同志社大学で哲学と神学を専攻した後帰国し、牧師になった人であった。しかし、夫は結婚して1年3ヶ月で急性腸チフスで死亡し、李は妊娠7ヶ月の身で実家に帰り、1938年息子を出産した。出産後実家で両親と一緒に暮らし、教師に復職し、定年まで41年間教職に携わった。はじめは日本人に抑圧された教育がいやで私立学校の教師になった。しかし、徐々に私立学校を弾圧したため公立学校に移った。公立学校では戦時体制下で日本人校長がいうままにせねばならなかった。子供たちに皇国臣民の役割をよく果たし、日本に対する愛国心をもつように教えねばならなかった。韓国人教師たちはみかけはやるふりをしたが、内心は自ら嘆いていた。日本人教師たちには僻地手当てが付いて韓国人教師との月給の差が大きかった。韓国人教師たちは日本人教師たちに負けまいと一生懸命にやった。傍目には競争心をみせなかったが、日本人担任の学級より高い点数を取ろうと努めた。教授用語が日本語であって、子供たちの名前も創氏改名した名前を呼ばねばならなかったから、そのことを思うと今も悲しいし、8月15日の光復節になると、涙が出る。戦時下の国民学校の教育は体操や教練、運動をたくさんやらせた。耐寒訓練もさせた。月曜日は愛国日で、校長が時局と戦争に対して子供たちに話した。日本の教育体制は徹底していて何でもやると従わねばならなかった。日本人は礼節を正しく教えた。自分もそうした教育体制下でよく習ったし、教師としてもよく教えたと思う。日本女性は親切が身に付いていて、靴なども出るとき履きやすいように置く。ひざをついて座る習慣を封建的と悪口をいうのではなく、彼らの礼節と節度ある生活は我々が見習うべきだ。普通学校のとき、日本人の先生宅にお邪魔して節度のある生活をみた。日本人の店は韓国人の店より陳列もきちんとされていた。
息子は母親にみてもらった。学校教育を受けた人だから、自分よりよくできた。赤ちゃんのときは、女教師に授乳時間が許され、子守の女中が息子を学校につれてくると授乳できた。父親は創氏改名を拒否したうえ、戦争末期には神社参拝を拒否したために投獄された。龍山警察署で苦労したが、伝染病にかかり隔離病院に移された。病気が治ってまた監獄に戻されて服役中に解放を迎えた。父が息子に李舜臣将軍の話を度々してあげ、韓国人としての意識を植えようとした。戦争末期には小作地のあった京畿道に疎開した。物資が不足したが、小作地があったから食糧不足で苦労したりはしなかった。解放後、1961年の5.16革命の後は女教師にも教監と校長といった行政職を許容する方針によって、ソウル市女子教監1号として抜擢された。以後、奨学士、校長に昇進した。また、篤実なキリスト教信者としてナザレス教団では最初の長老に選ばれた。
22才で夫に死なれ、息子一人を育てながら、再婚しなかったのは「冷たい水のなかの石のようになれ」と言った母の言葉を人生における座右の銘にしたからである。「冷たい水のなかの石」とは周辺の誘惑に負けず自分の守るべき立場を守ることを意味する。若くして一人になると、周りにはどうなるかといった視線があった。解放後初の女校長として他の女性の模範にならねばならないという意識もあったため、意識的に不名誉になるようなうわさを立てられないように気をつけて生きてきた。再婚したいと思ったこともなかった。韓国人は一度結婚するとそれでいいのだ。さらに、夫の家族との関係もずっと維持していたから、再婚すると新しい家族との義務ができるだろうからより複雑になる。女性として社会生活をしながら男尊女卑は当然あることと考えていた。女権伸張というが、男と女は違うから女は女らしく、男に従順するものだと考える。
鄭菜英と李恩實の口述は早々と近代的教育を受けた少数の女性たちも伝統的な女性性に関する観念を維持し、結婚後には家庭でまたは社会でそうした観念をもち続けたことを示す。したがって、近代的女性教育が、女性に新しい機会と可能性を与えたのと同時に、依然として伝統的女性規範を後押しする方向にも働いたといえるのである。
<表2>面接対象者の一般的特性
姓名
出生年
結婚した年
第1子 出産時期
1937-45年の間の居住地
出産子女の数
教育
1937-45年の間の職業
1
韓真淑
1930年
1953年
1955年
咸鏡南道元山(北朝鮮)
1男 1女
大学中退
学生
2
呉恵子
(夫:朴相賢)
1927年
1922年
1949年
1950年
元山
元山,ソウル滿洲(学兵)
3男
大学中退
専門卒業
学生
学生
3
康玉子
1914年
1938年
1942年
江原道鐵原
4人
(長女乳児時
専門中退
死亡)
教師→主婦
4
金仁玉
1918年
1942年
1945年
ソウル, 平壤
1男3女
専門卒業
学生→主婦
5
☆
鄭菜英
1910年
1930年
1931年
ソウル
1男7女
(5女乳児時
高女卒業
死亡)
主婦
6
☆
李慧淑
1919年
1936年
1937年
満州,ソウル
1男 1女
無学
主婦、農業
7
☆
金枝培
1912年
1922年
1933年
忠淸南道瑞山
2男7女
(4人の娘乳
無学
幼児時死亡
主婦、農業
)
8
☆
趙淵秀
1915年
1930年
1934年
仁川
1男 1女
無学
主婦、工場労働
9
潤心徳
1923年
1941年
1950年
全羅南道新安
1男2女
無学
主婦、農業
10
李鐘姫
1921年
1945年
1946年
満州, ソウル
4人
女医専卒業
教師→学生
11
鄭玉順
1921年
1947年
1948年
ソウル、平安北道龍泉(北
5人
朝鮮)
専門卒業
学生→教師
12
金徳順
(夫:慎正浩)
1924.
1923年
1944.
1945.
.海道海州,(北朝鮮)
ソウル
6人
女子師範卒
専門卒業
教師→主婦
学生→会社員
13
金喜真
1922年
1944年
1946年
ソウル、平安北道龍泉(北 朝鮮)
2人
専門卒業
主婦
14
☆
潤朱英
(夫: 長栄文)
1910年
1910年
1928年
1930年
慶.北道大邱,靑松
大邱
3男2女
(長女 幼児時死亡)
無学
普通学校卒業
主婦
会社員→商業→市庁職員
15
☆
李恩實
1915年
1936年
1937年
ソウル, 京畿道
1男
専門卒業
教師、主婦
16
南京姫
1929年
1950年
1951年
ソウル
1男 3女
大学卒業
学生
17
全英錫
1923年
1944年
1945年
ソウル、
東京
1男 2女
専門卒業
学生→教師
* ☆は、日帝末期父兄の経験がある女性たちである。
* 姓名は仮名を使用した。
* 呉恵子の夫、朴相賢、潤朱英の夫、長栄文、 金徳順の夫、慎正浩を参考のために面接した。
B.戦争と母性の役割
III章では植民支配権力の政治的目的と利害追求によって母性に関する観念が形成され流布される過程並びに機制をみた。本節では、戦時期女性に提示された母性イデオロギーの三つの側面、すなわち出産や養育の役割と子女教育者としての役割という三つの分析枠に合わせ、こうした母性イデオロギーの注入が行われた社会的条件の下で母親たちが実際いかに母性役割を遂行したか、という母性の経験的側面を探る8。つまり、戦時下で母親たちが植民権力により規定された母性イデオロギーをどう認識し、どういうふうにそれらを受容、拒否、もしくは折衝し、実際はどのように養育と教育の役割を担ったかというさまざまな側面を分析する。とくに、この時期は植民支配勢力による母性イデオロギーだけでなく、朝鮮社会に内在してきた伝統的な儒教的家父長制や男性知識人によって構成された母性観念も重要な要素である。よって、こうした多様な主体勢力が女性に求めた母性観念を彼女たちがどのように認識し、彼女たちが果たした母親役割は社会全体の規範やイデオロギーとどんな関係があるのかを考察する。
1.出産の経験
前述のように、総督府は戦時体制を確立して日本と同様、朝鮮でも多産を奨励した。1941年の厚生局新設以前から多産者への表彰が実施されたが、太平洋戦争以後はより積極的に展開された。出産を奨励する宣伝は日本語で「産めよ増やせよ、お国のために」というスローガンをかかげ、幅広く行われた。この政策を覚えている面接対象者たちはそのほとんどが「子供をたくさん産んだ人には賞をくれた」と語った:
“子供12人を産んだ人がいたの。表彰状もらったよ。産めよ増やせよが口からスラスラでるほどだからね。”<呉恵子>
8 軍国主義を支持するための母性役割は、面接対象者のなかに、軍隊に行った息子をもつ女性がいなかったため省いた。年齢上、こうした経験をもつ女性は、あまり生存していないと思われる。
日帝末期に女学生だった韓真淑は、「産めよ増やせよという歌もあって、学校で勤労奉仕に行くときは並んでそんな歌を歌った」と語った。呉恵子や韓真淑、南京姫のように面接対象者のなかでも比較的若くして戦争末期女学校に通っていた人たちは多産政策とそのスローガンを具体的にどのような方法で注入されたかについてより確かな記憶と経験をもっていた。これは戦時教育の徹底性を示す一つの例と思われる。戦時下の学校教育はいわゆる皇民化教育を目標に戦時イデオロギーと政策を学生たちに注入し、戦時体制を備えることに重きを置いた。とくに戦時下の女学校教育は「人口増殖の国策遂行のための産児指導がなければならない」とした教育当局者の指摘通り、実際に母性を強調し、植民勢力の母性観念と政策を注入する通路になったことがうかがえる。多産政策も戦時国家政策の一つとして、とくに将来結婚し出産を担うことになる女学生たちには「母性教育」的次元から教えたのである。
韓真淑や呉恵子のように十代の女学生として学校で多産政策をたたきこまれた場合以外に、より年齢が進んで女学校を卒業した後、専門学校など上級学校に在学中であり、まだ未婚だった女性たちの一部には、多産政策を戦争末期の数多いスローガンの一つとして認識するといった、多少無関心な態度をみせた:
“産めよ増やせよ、あったよ、確かに。何も感じなかった。みなでて死ん でしまうからそういうんだなあと。戦争にでて死ぬから、男たちが。”< 金喜真>
当時専門学校に在学中だった鄭玉順も「そんなことは何も考えていなかった」と述べた。こうした態度は彼女たちが当時結婚と出産を経験していなかったこともあるだろうが、女性たちにとって多産が新しい規範でなかったこともある。実際当時すでに結婚して出産経験をもつ女性たちは教育水準に関わりなく、結婚したら当然子供を産むのであって、また、かならず男の子を産もうとしたと答えた:
“できるままに全部産んだよ。何人産みたいとかそんなこと考えもしなかった。おじいさん(夫)がまた一人息子でね。だから少し産もうとかじゃなくて、できるままに全部。”<潤朱英>
潤朱英は儒教的伝統の強い嶺南地方の地主階級に生まれた。12,3歳の時初めて学校へ行ったが、登校して二日目に伯父に呼ばれた。伯父は長い鞭をもって、「女は学校に行くと台無しになる」といって、家中の娘たちが学校に行くのを禁じたため、学校は一日しか行かなかった。家でハングルの基本を習い、7才の頃から結婚するまで家で裁縫と機織だけを教わった。「7,8才にもなれば、家のなかにいて、外には出さなかったので」外出というと節句や祝祭日などで同じ村に住んでいた親戚の家を訪ねるときだけだった。彼女は「足が顔よりきれいだった」と語った。彼女にとって出産とは結婚相手を選ぶ際、両親に従ったように、自分の意思とは無関係のものだった。これは女学校を卒業した鄭菜英の場合も同じであった:
“(多産奨励)新聞にでたのをみたり。何も考えていなかった。自分が産 んでいたからね。できるままに産んだのよ。何が大変なの。あの時は当然 産むんだったからね。韓国の風習も産まねばならないし。”<鄭菜英>
潤朱英と鄭菜英は同じく1910年生まれである。 潤朱英が生まれてから結婚するまで「川を渡ったこともない」に比べ、鄭菜英は当時としては珍しく普通学校をでて、両親の反対を説き伏せ、自分の望み通り仁川からソウルまで汽車通学をしながら女学校を卒業した新女性である。ところが、この二人の間に出産と男児をほしがることに関する観念の差はまったくみられなかった。鄭菜英は娘3人を産んで四番目に息子をもうけたが、もっと息子が欲しくて産み続け、18年の間に全部で8人の子供を産んだ。「韓国の風習も産まねばならぬ」と述べたように、彼女は家父長制イデオロギーを内面化しており、子供(とくに息子)をたくさん産むことが結婚した女性の当前の義務と認識していた。これは彼女が学校に通った1920年代に女性への教育制度が伝統的な家父長制体制の維持と、それに順応する賢母良妻を生み出す方向で行われていたことを意味する:
“京畿(高女)が賢母良妻主義なの。いつも賢母になれ、良妻になれというの よ。当然そうなると思っていたね。われわれ韓国人は当然、嫁に行くと賢母 良妻になるものでしょ。それが教育でしょう。”<鄭菜英>
鄭菜英は賢母良妻になるよう教えるのが教育で、自分が通った京畿高女がそうした教育を実践したのを自慢げに話した。彼女は、「新女性は家事が下手」という当時の新女性に対する批判を意識し、自ら一層伝統的な賢母良妻の役割を果たそうと努力したことを強調した:
“(姑に)手水をもっていってあげたりしたのよ。夜中の11時には必ず夜食作ってもっていってあげたり…私が何でそんなことしたのかというと、新女性は家事が下手だといわれたから。あの当時は、みんなそういったからね。おでかけばかりして、(家事は)できないと。それで本当によくやったのよ。”<鄭菜英>
潤朱英の場合もできるままに3男2女を出産したが、姑は度々彼女が意図的に子供を少なく産んだと不満をもらした9:
“姑はたくさん産みなさいといったけど、自然にできなかったの。おじ いさん(夫)が一人息子だから、おばあちゃん(姑)がしきりに息子5人産めと いったの。怒ると姑がそんなこといったの、子供生まれないようにして産 まなかったと。産まれないように防止したと。”<潤朱英>
上述のように、多産の慣習が強かった当時の社会条件により、日帝の多産政策は女性の出産行為に変化をもたらしはしなかった10。むしろ李慧淑のように、多く産めなかった女性に対しては少なくとも男児を二人以上出産せねばならない家父長制イデオロギーが大きな抑圧となった:
9 潤朱英は、1回目の面接では「夫が一人息子だから、できるままに産んだ」と語ったが、2回目の面接では「子供がたくさん欲しかったわけではなかった。心のなかではいつも息子三人、娘一人だけでいいと思っていた」と、強い男児出産願望を述べた。また、前述のように、子供の数に対する姑の不満も2回目の面接で明かした内容である。
10 植民地時代の女性たちは平均6人の子供を産んだ。一人の女性が一生の間に産む子供の数を表す合計出産率は、1925-30年 6.198名、1930-35年 6.126名、1935-40年 6.210名である;Tai Hwan Kwon, Demography of Korea, 1984, p.347.
“うちのおじいさんが3代続いた一人息子なんだけど、うちの姑はどうして子供を二人しか産まないで、もっと産まないのかと…(姑が)ある日は山に行って百種類の草を採ってきたんです。そうすると、子供が生まれると。うちの姑がどんなに欲しがったのか、とにかく、近所で誰かが子供を産んだと聞くと食事もしないで、横になっては泣くんです。”<李慧淑>
李慧淑の場合、二人目に男の子を産んで数年経っても子供ができないと、姑は民間療法などいろいろな方法を試したすえ、やがてよそから一人の女性をつれてきて息子と一緒に暮らさせた。李慧淑は「とても辛かったが、仕方がなかった」と語った。実は李慧淑の夫には性病があり、それが李慧淑に移され不妊の原因になったのである。李慧淑は不妊の原因が自分にないことを知っていたが、すべての責任と苦痛に耐え忍んだ。結局、その女性は本妻の李慧淑が苦しむ姿をみて、また夫の性病が治らず子供ができなかったこともあり去って行ったが、これは1930-40年代にも女性に多産の義務がどれだけ支配的で、彼女たちの人生を抑圧する規範であったかを物語る例である。こうした多産慣習の下で、ほとんどの口述者は少なくとも2人以上の男の子を望んだが、それは男児出産が嫁の立場を確固たるものにする必要条件の一つだったからである11。
一方、女性たちが多産宣伝に対して多少無関心な態度をみせたのは、男児出産を望むものが儒教的家父長制のほかに、日本の戦争であるという意識があったからである。多産キャンペーンに接した女性の一部は、日帝が侵略戦争のために朝鮮女性に多産を強要する矛盾を認識し、それに対して反感を示した:
“戦争にでて、どんどん死ぬから、産めよ増やせよをしきりにやったのよ。たくさん聞いた言葉です。そうやって、繁栄するようにしろというのだけど、みんなけなしたのよ。戦争で全部つれて行って死なせて、いうことないから、ばかなこというんだと。聞いたものですか。韓国人には聞こえないことだし、やりたければ、自分たちでよくやれと。”<康玉子>
11 ギティンスは、女性が母親にならないと決して正式な地位が得られないのは家父長制イデオロギーの根底をなしていることだ、と指摘する。Diana Gittins, The Family in Question, Macmillan, 1985. アン.ホヨン他訳『家族はないー家族イデオロギーの解剖』(イルシンサ、1997)146頁。
康玉子は多産宣伝を「当時は属国だったから聞くにもいやな言葉」だったとしながら嫌悪感を示した。金仁玉も「すべてお国のためにたくさん産めといったが、誰がそうするもんか」と答えた:
“だから、おかしなこというんだなってくらいでしょう。お前たちも急いで いるんだよな。みな死んじゃったから、奨励しないと国民が急激に減るでし ょう。20年後には国力が減るだろうから。”<李鐘姫>
面接対象者のなかで多産政策に反感を示した女性たちは、当時専門学校に在学中または、卒業した女性たちであった。前述のように、女学生でまだ少女だった彼女たちが多産政策の矛盾を正確に認識していなかったのに比べ、これらの女性たちは多産宣伝が日本の戦争遂行のなかででたことを認識し、朝鮮もその戦争に巻き込まれたことに対して抵抗感をあらわにした。
朝鮮社会は伝統的に多産の観念が支配的であり、上述のように、鄭菜英のような当時としては珍しく教育を受けた女性であっても、多産の家父長制イデオロギーから逃れることは難しかった。しかし、だからといって、すべての女性たちが多くの子供を望んだのではなかった:
“われわれは、学があるから産児制限せねばならないと、産まないようにしたの。自分の生活水準と合わないから。子供ばかりたくさん産んでどうする。教育させなければならないし。学んだ人であれば、そんなことみんな知っていたから。”<金仁玉>
しかし、丁度良い数の子を望むのは男児出産が前提となった後のことであった。上述のように、鄭菜英は二人目の息子を産むために、7人の娘を産み、潤朱英の場合、姑は男の子5人を望み、彼女自身は3人の息子を望んだ。経済的余裕のある暮らしをした潤朱英や専門学校を卒業した金仁玉のように教育を受けた女性よりは、むしろ貧困層であった金枝培や趙淵秀の場合、多産により強く否定的な態度を示した12。彼女たちには金仁玉が述べたように教育問題より、まともに食べさせ、着せることのできない窮乏した生活と、母親として養育と労働の二重負担のため、決して多くの子女を欲しがらなかった。とくに、戦争末期朝鮮農村は日本の食糧生産拡充のための適地とみなされ、日帝は朝鮮での戦時農産物を確保しようとした13。それにより各種農産物が供出され、産米増産のため労働力が動員され、農民の生活はより窮乏した14:
“あの頃は子供を産まない方法がなかったの。末っ子を44才で産んだね。たくさん産みたかったわけではないのよ。できたから産んだの。ほら、子供を9人も産んだからどんなに苦労したか。赤ちゃん一人産んで育てるのがどんなに難しいのか。食べるものもなくて、少なく産んだらよかったのに、たくん産んでしまったの。”<金枝培>
金枝培は貧農層出身で「一年中農作業をしておくと、日本人が全部もっていくから、食べるものがなくとても苦労した」と語った。基本的な衣食住も解決し難い貧困生活のために、金枝培は子供一人産んで育てるのがどんなに難しいかを繰り返し強調した。この時期、貧困層を中心に子供は農耕社会で労働力と父母の老後保障策としての価値よりも、扶養対象者であるという観念に徐々に変化していることがわかる。子供へのこうした態度は工場労働者として苦しい生計を立てていた趙淵秀にもみられる:
“あの頃は少ししかくれないの。男たちが8ウォンもらったっけ…うちのおじいさんが5ウォンもらって、あがって10ウォンもらったね。韓国人だけ給料をあれっぽっちしかくれないから、いつも足りないでしょう、お金が。だから、あの時苦労しているから、たくさん産みたくなかったの。みんな貧しくて、食べさせてやれないし、着せてやれないし。あまりにもみるのがつらくて、子供たくさん産むの一番嫌いでね。それは本当にいやだった。”<趙淵秀>
12 ムンも、多産主義の価値観があっても、経済的に貧しい階層では出産抑制の欲求がかなり広がっていた、と指摘した;ムン.ソジョン「日帝下韓国農民家族に関する研究:1920-30年代貧農層を中心に」(ソウル大学校社会学科博士論文、未刊行、1991)74頁。
13 カン.ギョング「戦時下日帝の農村労働力と収奪政策」チェ.ウォンギュ編『日帝末期ファシズムと韓国社会』(チョンア出版社、1988)86-108頁。
14 日帝は戦争拡大により食糧の必要性が増すと、1940年穀物の自由買入を供出制に転換した。はじめは物価統制令下で公定価格制を実施したが、太平洋戦争勃発後の1942年からは強制供出制に変え、生産量に対する供出量は年毎に増加した。各年度別、米穀生産量に対する供出量の比率は次のようである:1941年43.1%、1942年45.2%、1943年55.7%、1944年63.8%。チョ.ドンゴル『日帝下韓国農民運動史』(ハンギルサ、1978)13頁、289-90頁。
趙淵秀の夫は工場労働者であったが、韓国人労働者は日本人労働者に比べ、半分程度の賃金しかもらえなかった15。趙淵秀も貧困のため決して子供を多く産みたくなかったと話した。彼女は子供の多い家が少ない配給米で苦しんでいるのをみて自分が二人だけなのを幸いに思った。
しかし、当時避妊や人工流産に関する知識や技術が普及しておらず、法的許可もなかった状況で、現実にはほとんどの女性がたくさん産みたくなくても「できるままに産んで育てるしか」なかった16:
“あの時は産児調節の方法も知らなくて、できるままに産んだのよ。できれば産むの。あの時は中絶もなかったからね。”<李鐘姫>
面接対象者17人のなかで解放前に正確な避妊法を知っていたり、避妊を実行した人は一人もいなかった。金仁玉のみ妊娠周期法を利用した荻野式避妊法を間接的に聞いたことはあったが、実行したことはなかった17:
15 工場労働者の賃金差別をみると、日本人男子に比べ朝鮮人男子は半分程度の賃金を、朝鮮人女子は4分の1ほどを受け取った。1937年、日本人成年男子工の平均1日の賃金が1ウォン92銭であったが、朝鮮人成年男子工は98銭、成年女子工は49銭だった。シン.ヨンスク「日帝下韓国女性社会史研究」(梨花女子大学校史学科博士論文、未刊行、1989)35頁。
16 出産統制の方法は古代エジプトから使用された。日帝時代、医学的な産児制限法は普及されていなかったが、醤油や漢方薬を飲むとか、高いところから飛び降りるといった民間的な方法はあった。1931年『毎日新報』の連載小説『流産』では、妻の流産を望む夫が妻に「ブルジョア婦人たちが使う流産させる薬」の服用を勧める場面がでる。また、新聞にはサック(コンドーム)の販売広告も掲載された。
17 解放後の避妊法としては、駐屯した米軍をつうじて入手したコンドームの使用や1960年代初金徳順の場合のように、排卵期投薬法などがあった:
“産児制限としてやったのが、排卵期に病院に行ってあそこにヨードチンキを塗るといいっていうから行ってみたの。だけどできちゃったから、仕方なく産んだのよ。”<金徳順>
“私の友たちが3人だけ産んだの。避妊したの。避妊したのどうやってわかったかというと、ある日遊びに行ったら、避妊器具を洗っているの。買うの大変だから。男が使うの、それ、何、サック。コンドームのようなもの。薬局なんかで売らないし、米軍からでるものだから、それを消毒して乾かすのね。6.25起きる直前なの。その時、荻野式は知らなかった。”<金喜真>
“産児制限、考えてはいたの。私たちもたくさん産んだほうなのね。そんなの、日本語で荻野法。私の友たちはそれを使った。体温計ったり。(使ってみたのですか)いや。だから1男3女も産んだんでしょう。荻野法、それが日本の雑誌にでるのよ。日本人はそんなのをするから。”<金仁玉>
金仁玉が解放以前、いつ頃日本の雑誌を通して避妊法を知ったかは明らかでない。日本では1926年頃すでに雑誌への避妊法の掲載を禁じていた18。朝鮮でも日本と同じように、公の避妊知識の普及と産児制限を法律で禁じた。戦争末期、妊婦の健康上の理由で人工妊娠中絶をしなければならない場合でも、施術を担当する産婦人科医師の単独決定ではなく、内科など他科の医師二名以上の許可が必要であった。これは母体よりも人的資源としての胎児の生命を優先する政策であったことを示す19。戦争末期、京城女子医学専門学校在学中に病院で実習した李鐘姫の口述もこれと一致する:
“(掻爬手術は)おろさないと産婦が危険だという内科医師が少なくとも二名の診断書が必要です。この人の健康が何処がどういうふうに悪くて妊娠を続けると危険、という内科医師、また産婦人科で施術する人以外に他の医師が、この人は何処がどうで手術が必要であるというふうに法で定めたのです。妊娠中絶が国法で禁じられていたのです。”<李鐘姫>
妊娠中絶施術に対する法的禁止は鄭菜英の口述をつうじても実際に厳重に施行されたことがうかがえる:
“産児制限が何よ。やったら大変よ。禁じられているの。流産なんかしてはいけない。あの時、もし子供下ろしたりすると、法に引っ掛かるからだめよ。京畿(高女)が賢母良妻主義なの。だから産児制限そんなものもないでしょう。産児制限すると、賢母良妻になれない。そのまま産むのよ。”<鄭菜英>
18 1926年と1927年に『主婦の友』は妊娠中絶と避妊に関する知識や、それに成功した経験談を掲載したが、大半の内容が削除された;永原和子「女性統合と母性―国家が期待する母親像」『母性を問う(下)-歴史的変遷』(人文書院、1985)202頁。
19 朝鮮で1941年制定された「国民優生法」は、1年前日本で公布した「国民優生法」を導入したものである。日本と同じように、朝鮮でもこの法によって合理的理由のある場合も積極的に人工妊娠中絶を取り締まったことがうかがえる。
鄭菜英は産児制限に対して強い反感を示した。彼女は産児制限を堕胎と理解していたが20、堕胎すると賢母良妻になれないし、違法になるからやってはいけないと思っていた。植民権力は多産を奨励し、産児制限を禁じ、女学校教育者は「独身と産児制限、避妊法を享楽主義、個人主義の亡国思想」と定義付けた。「京畿(高女)が賢母良妻主義であるために産児制限をしてはいけない」といった鄭菜英の口述は、女学校教育をつうじて戦時帝国主義が求めた女性の母性観念が賢母良妻規範とかみ合い、女性たちに教育されたことがうかがえる。
結論的に、戦時多産政策は当時男児出産のための多産の慣習が依然として支配的であった朝鮮の社会的条件上、出産率に変化をもたらすほどではなかった。しかし、1920-30年代に新女性たちを中心に論議され始めた産児制限が多産政策により法的に禁止され、女性たちの出産に対する自己決定権を志向する論議がそれ以上発展しなくなった。朝鮮の女性教育担当者や知識人たちは戦時の多産政策の影響で一部少数の社会活動をする女性たちの独身主義を誹謗し、女性の教育機会拡大と職業進出のため結婚と出産を忌避する現象が現れないか警戒した。そのため、学校教育でも結婚と出産が女性の賢母良妻規範として強調された21。鄭菜英の場合のように、当時としては珍しく近代的学校教育を受けた女性であっても、結婚後は家庭で賢母良妻の役割を果たし、男児出産の義務もそうした役割の一つと当然のものとして受け入れていたのをみると、欧米では教育が女性の産児制限の欲求を促す要因になったのに比べ、植民地朝鮮では日本の帝国主義膨張により母性がより一層家父長制イデオロギー下に抑圧されたのであった:
20ペ.ウンギョンも、1950年代末や1960年代はじめまで産児制限は堕胎とほとんど同義に理解されていたと指摘した;ペ.ウンギョン「出産統制とフェミニスト政治」シム.ヨンヒほか編『母性の談論と現実』(ナナム出版、1999)148-9頁。本研究の面接対象者のなかで、荻野式避妊法に関して知っていた金仁玉は、産児制限を避妊を含む概念として理解し、医師であった李鐘姫は産児調節という用語を使った。金枝培は、おそらくずっと後の情報により、子供を産まない方法を「かきだす」と表現した。
21 面接結果、多産宣伝は韓国語ではなく、主に日本語で行われたことがわかった。面接対象者のなかで無学のためハングルや日本語がわからず、また農村に居住した5人の女性は多産宣伝について知らなかった。1943年末現在、日本語解読可能人口は、人口全体の22.15%にすぎなかった。10才以上の場合でも男子の44.9%、女子の15.8%のみが日本語の解読ができた。したがって、日本語の解読が不可能なほとんどの女性がこの政策に接することは難しかった、と思われる。つまり、多産政策は、都市を中心に、日本語のわかる教育を受けた少数の女性を主な対象として宣伝された、といえる。日本語の解読率に関しては、ナム.チャンギュン「日帝の日本語普及政策に関する研究」(慶熙大学校史学科修士論文、未刊行、1995)を参照。
“新婦が幣帛22あげるとき、舅がこういうでしょ。ナツメをばら撒きながら男の子何人兄弟産めと。息子ばかり産めというじゃない。それと(多産政策とが)同じようなもんだよ。”<鄭菜英>
戦時の多産奨励を家父長制の男児出産義務と同じ脈絡で話した鄭菜英の口述は、この時期女性の出産に対する認識と行為が女性自らの選択でなく、社会の諸イデオロギーの道具になっていた実状を物語っている。
2.養育の経験
戦時の人的資源としての重要性で朝鮮人児童の健康と衛生へ関心を向けた植民権力は、子供の生存と健康を母親の責任として規定した。しかし、農村では米だけでなく、綿花供出のためオムツもないのが養育の実情だった:
“着るものも綿を採って、綿で服を作るけど、そんなの全部もっていって着るものもないし、子供のオムツもない。ねんねこもない。そんなものなくて(部屋の床面には)ワングル敷物を敷いたの。子供一人育てると敷物一つは腐ってしまったね、おしっこで。子供は上着だけ着せて、下は裸のままだった。”<金枝培>
貧農であった金枝培は綿花供出で着る服にも事欠いた。古着で作ることもできなく子供たちはオムツなしで過ごした。こうした実情は農民だった李慧淑や潤心徳も同様であった:
“オムツは古着なんかで。擦り切れた服を切って。古着といってもそんなにたくさんできるんですか。そんなの(オムツ)買うには百里も行かなきゃ。”<李慧淑>
22 婚礼のとき、新婦が舅と姑にはじめて対面する儀式。
出産奨励の方法として出産時に産衣や純綿を配給するといった宣伝の背景にはこうした事情があった23。日帝末期、出産を経験した女性のなかで物質的恩恵を受けたり、これらのことを聞いたことがあると答えた面接対象者は一人もいなかった。ところが、オムツや衣類といった乳児用品の不足より深刻な問題は食糧不足であった:
“ジャガイモをたくさん千切りにして米と一緒に炊いたり。一ヶ月ごとに(配給を)もらってくると、半月しか食べられないの、食糧が。だからいつも食べられないから黄色くむくんだの、顔が。食べ物の苦労がひどかった。”<趙淵秀>
食糧不足は貧農層だけでなく、特殊な場合を除いてほとんどすべての階層で経験していた。金仁玉の夫は弁護士で、鄭菜英の夫は判事であったが、戦争末期には窮乏した食糧事情のため子供たちの栄養状態が良くなかったと口述した:
“(食糧事情)厳しくて口ではいえないくらいよ。子供たち、4、5人が今みると栄養失調だったみたいなのよ。”<金仁玉>
植民権力は朝鮮に多くみられた乳幼児の死亡を朝鮮の母親が栄養と衛生に関する科学的知識に欠け、非科学的な伝統的養育を行なうためと批判した。しかし、子供の健康にもっとも大きい影響を及ぼしたのは、劣悪な食糧事情と医療施設の不備であった。当時医療施設がほとんどなかった農村だけでなく、都市でも乳児の死亡は珍しくなかった。次の<表3>で示すように、1930年京城府で生まれた児童の約5人中1人は生後1年以内に死亡した24:
<表3> 1920年代乳児死亡率
(%, 京城府, 1才未満)25
23 戦時下の農村において、家内生産されたすべての綿布が供出されたが、農民層は綿布の配給からも除外された;樋口雄一『戦時下朝鮮の農民生活誌1939-1945』(社会評論社、1998)56頁。
24 外国の乳児死亡率をみると、1936年イギリスは6.19、ドイツ 6.58、フランス 6.70、日本 11.67(%)である。日本に比べて朝鮮の乳児死亡率が約2倍高いことがうかがえる;女性史総合研究会編『日本女性生活史第4巻』(東京大学出版会、1990) 212頁。
25 イ.カクジョン「乳幼児死亡率調査」『朝鮮社会事業』9,5,38頁;前掲「日帝下“児童期”の形成と家族変化に関する研究」34頁から再引用。
1921年
1922年
1923年
1924年
1925年
1926年
1927年
1928年
1929年
1930年
朝鮮人
31.5
27.9
22.5
22.1
22.9
22.2
23.6
24.7
25.4
21.2
日本人
18.3
16.7
17.7
14.4
14.0
11.5
13.1
10.8
13.9
11.3
(日本人は朝鮮居住日本人に限る)
潤朱英は長女が3才の時、肋膜炎にかかり、病院につれて行ったが、病院での治療では治せなかった。療養のためより環境の良い実家につれて行ったが、そこで結局長女は亡くなった:
“あの時は病院もなかったのよ。大邱では病院に一度行った。病院に一度行ってから田舎に行ったの。今だったら生きられたかも知れない。だけど我々があの時は暮らしが中以上だったけどそうだったの。”<潤朱英>
潤朱英のように、子供の疾病治療のため病院に行けたのは、都市に住む余裕のある階層でなければ難しいことであった。それは高い医療費のためでもあったが26、朝鮮人が診察を受けやすい私立病院の数が総督府の取り締まりにより大幅に減少し、医療施設の数が絶対的に不足していたからでもある27。したがって、貧農層の児童では伝染病にかかり死亡する確率がより一層高かった。金枝培の住んでいた忠清道の農村には医療施設がなかった。彼女の4人の娘ははしかと赤痢、天然痘、口病にかかり、1才前後と3才、5才のとき亡くなった28:
“病院がなかったの、そのときは。だから死んだの、病気にかかって。そのときはうちだけ死んだのではなくて、よその家もそうして死んだのよ。そのときは病院もなく、予防もなく、そのまま置いたから、大きくならないで死んでしまったの。”<金枝培>
26 1928年総督府は、朝鮮総督府医院と道立病院の医療費を全国的に統一したが、これによると、医院での一回の診察料は1ウォンから5ウォンくらいであった。1932年、朝鮮人男子労働者の1日平均賃金が85銭程度であったから、こうした診察料はかなり高いものであった;前掲『看護の歴史』199-203頁。
27 植民地時期医師の数は増えつつあったが、1921年現在、医師一人当たりの人口数は平均1万名と、医師不足が深刻で、朝鮮人は医師にかかることが難しかった。また、朝鮮総督府医院や道立病院といった官・公立病院は一次目的が日本人の救済にあったために、朝鮮人のための病床は1割程度に過ぎなかった。さらに、1919年「私立病院取締規則」を制定し、私立病院の取り締まりを始めた。このため、とくに、朝鮮人の経営する私立病院の数は1919年の111ヶ所から、1939年には13ヶ所へと大幅に減少した。また、日本人と外国人が経営する私立病院の数を合わせても368ヶ所から93ヶ所に減少した;前掲『看護の歴史』201-7頁。
28 解放以前に出産した9名の面接対象者のなかで子女の病死を経験したのは4名だった。
農村女性たちは育児と家事労働以外に、昼間は畑仕事、夜は機織など多くの労働をせねばならなかった:
“並大抵じゃないですよ。夜も昼も休む暇がないんです。畑にでる時も針や糸、ハサミをもって行くんです。仕事してちょっと休む時間があると、休まないで縫い物する。そんな苦労をして暮らしたんです。”<潤心徳>
とくに農村では米などの穀物のほかに、女性の手によって生産される蚕糸、綿花、ひいてはかますに至るさまざまな農産品が供出対象になった。供出義務は守らないと罰金を科せられるほど強制的であり、農村女性の労力をより加重させた29:
“綿を採っておくと全部もって行くし、蚕をして繭を取っておくと全部もって行く。農作業して米少しやっておくと、それももって行く。それでもっと貧しかった。かます編んで供出しろといって、かます編むのに必死だった。そうやって日本人にもって行くのよ。供出しろと日本人たちがせめたてて。しないと、罰金払わせられるから。”<金枝培>
植民権力は児童養育の国家的意味を強調しながら、母親を全養育の担当者としてみなし、養育指針に従うことを求めた。こうしたい説には母親は専業主婦として子女養育に細心の注意と世話を払わなければならないというメッセージが含まれている。しかし、日帝下の母親の養育経験と労働を考慮するとき重要なのは、一家の生存問題が切実な階層では母親の養育役割は他の労働より優先されなかったことである。これは、母親が家庭において重要な労働力となる場合、養育役割のみを担うことはできないためである。ゲルンスハイムは、前産業社会ではこうしたことが普遍的な現象であると指摘した30:
29 供出農産物の品目は1939年の米から1942年には雑穀、綿花、麻など特用作物と野菜、松脂など40余種に渡った;前掲『韓国女性史―近代編』218頁。かます編み作業は各戸当り決まった量が割り当てられたが、主に女性たちが担当した;キム.ジンミョン『束縛のなかの韓国女性』(チプムンダン、1993)101頁。
“(部屋の床に)敷物をしておくと、どうしてもワングル敷物だからね。そこにかかとをこすりつけて泣いて血がでて、かかとが全部こんなに擦りむけてね。血が流れでして。それでうんこにぬれ、おしっこにぬれ、そんなふうに育ったね。子供はつれて行けないよ、野原には。家においてでる。おなかが空くでしょ。朝8時頃でると、間に乳を飲ませに帰らないし、お昼食べに12時頃帰ってくる。そうすると、子供たちがもうひどいの。夕方5時頃帰ってくるし。お乳飲ませる。それで自分たちで家にいるの。そんなふうに育てたのよ。”<潤心徳>
潤心徳は全羅道の貧農出身で、彼女もやはりたくさんの農作業をした。朝赤ちゃんを家においたまま外にでて働き、お昼に帰ってくると、赤ちゃんは荒いワングル敷物にかかとをこすりつけながら泣いて、血がでるほどであった。母親の労働が家族の生存にとって必須である農民家族では子供の養育は大人が保護せず放置したが、それが当たり前のことと思われた:
“農作業したよ。田植えもしたし。子供は関係なかった。自分たちで遊ぶように家において、仕事は何でもした。田植えもして、畑も耕したし。服も綿をひいて機織して着て、夏は麻するのはもっと難しい。そうやって服を作って着ると、すぐやぶれる。今の服と違ってね。朝8時にでると、12時に帰ってきてお昼作って食べて、薄暗くなると、帰ってきて夕飯つくるし。家に帰ってくると、(赤ちゃんが)おなか空いているから、自分でお乳のほうにはいはいしてきて飲むのよ。”<金枝培>
金枝培も「子供に関係なく」畑仕事をした。幼い子供を家に置いたまま、外で働かねばならなかった女性たちの場合、子供をほったらかすことへの罪悪感は感じられなかった。彼女たちは「そのときはみんなそうやって育てた」と語り、養育よりも窮乏生活のために多くの肉体労働をしなければならなかったことが何よりも苦しい経験として記憶されていた。
30 Elisabeth Beck-Gernsheim, Die Kinderfrage, イ・ジェウォン訳『私のすべての愛を子供に?』(セムルキョル、2000)45-6頁。
農民層だけでなく、労働者階層では女性たちが低賃金で工場労働に動員された。趙淵秀の夫は仁川の製麻工場で労働者として働いた。その工場では日本で爆撃にあって焼けた紡績機械をもち込み、軍需用品を生産するために工場労働者の婦人たちを動員した:
“私は(工場に)行って機械を磨いたよ。ペーパーできれいに白く磨いて油を塗ってですと、もって行って機械を組み立てて全部するの。空気が悪くて本当に大変だった。のどが痛くて、息ができなくてね。油の匂いに鉄の粉がたくさんでて。それで人夫頭に話して、後で女職員たちが300名いる食堂に行って白菜洗ったりそんな仕事した。(工場に)でないといけないのよ、軍需品だから。手早く磨いておかないと、機械を組み立てられないから。手間賃はくれる。私たちには少ししかくれないの。一日中機械磨いても、ほんの少ししかくれないの。少ししかくれないから、稼ぐってもんでもないよ。”<趙淵秀>
趙淵秀は鉄粉のせいで息をするのも大変な作業環境で、朝7時から夕方6時まで1日11時間の重労働をしたが、もらえる賃金は民族と性による二重差別で生活の足しにはならなかった。趙淵秀がこうした労働に動員されている間、当時6才の息子は一人で家に置かれ、8才の娘が学校から帰ると、子供二人で朝作っておいた昼ごはんを食べた:
“茶碗一つにご飯をよそって、半分残して後で昼に食べなさいというと、そうするの、子供たちが。うちの息子と娘が学校が近いからお昼食べに帰ってその半分を食べるの。水とキムチと食べるのよ。子供たちは自分たちでいたの。私は会社で働くと、そこで食べられると食べるし、食べられないと食べない。夕方家に帰ると、子供たちがご飯炊くのばかりまっているのよ。”<趙淵秀>
労働者層や農民層と違い、都市のブルジョア階層であった潤朱英は屋外労働こそしなかったが、かといって養育が主な仕事でもなかった。一般に、幼い子供の養育は主に家事補助人(女中)がいたり大家族の場合には祖父母が受けもち、母親は裁縫そのほかの家事労働に縛られた。この時期の家事労働は、合理化される以前の在来式台所と機織仕事、それに毎度手で解いて洗濯する韓服など時間と労働を要するものであった。潤朱英は家に家事補助人がいたが、彼女が主にしたのは裁縫で、4人の子供を育てていながらおんぶをしたことがないといった:
“家には子守がいて、子守がご飯も炊いて後片付けもする。そんな子たち、たいていの家庭にいたのよ。お母さん(姑)が若いから配給もらうのやってくれて。私たちはそのとき、姑のチマ(韓服のスカート)や足袋のようなもの全部作ってあげたのよ。嫁がくると、針もたなかった、普通の人は。結婚したら、姑は針もたない。チマまで全部ぬわなければならないのよ。足袋も作るし。だから毎日針仕事するのよ。市場に行ったり、外の仕事はできなかった。今と違ってそのときはのり付けて、解いて(洗濯)するたびに縫わなければならない。昔は時間がないし、子守がいて、それで子供おんぶしたことない。”<潤朱英>
とくに、大家族や本家の主婦は頻繁にある祭事の準備、度重なる訪問客の接待、大家族を支えるための家庭経営などで農村女性に劣らないほど多くの仕事をした。子女養育はこうした家事労働に比べ重視されなかった31。
一方、一部では近代的養育法に接することによって伝統的な育児法に少しずつ変化が起きた。面接対象者たちが接した新しい育児知識は西洋人宣教師をつうじて直接習うか、あるいは日本の女性雑誌を通して間接的に接する二つの方法が主な経路であった:
31 “夜明けに起きて夜遅くまで針仕事をしたが、今考えると、どう耐えたかという思いがする…1年に祭事が18回もあって、お客さんを迎え接待し、洗濯は下人がやってくれても、のりつけやアイロンがけ、砧うち、そんな仕事が全部自分の仕事であったから…祝祭日になると、針仕事で夜明かしせねばならなかった…私は胎教だけでなく、子供の教育にもとくに気を使ったことがなかった…私の頭にはいつも“大家族を守らなければならない”“祭祀をどうやって執り行なわねばならない”こんな大きい仕事だけでいっぱいになっていたから…今考えると、私は子供たちをあまりにもおろそかにした…私自ら農事をやって豚も飼い、カイコも飼ったりしたから、どこに力が残っただろうか?”;パク.ピルスル口述・チョ.キュスン整理『名家の内訓』(ヒョンアムサ、 1985)36-7、82-3頁。口述者であるパク.ピルスルは1917年生まれで、本家の嫁として暮らしてきた。
“われわれは田舎でも西洋人が先にきたでしょう、宣教師が。ジョンソンアンドジョンソンあるでしょ?ベビーパウダー。私たちはそれ、子供のときから使ったよ。そしてピン。アメリカのもの、大きいの。うちのおばがいつももってくる。子供が生まれたというと、まずそれを贈り物にする。オムツナンモク32を真んなかにこうしてピンで止める。そこは宣教師が早くきて、とても開けてたのよ。子供産むときは当然消毒するし。うちの母は半分医師なの。エキュブスというのがあるんです。胸にするの。それも準備していて。また吸入器。それはアルコールランプに入れて、こう全部準備しておいて。うちの母は医学知識が並でないんですよ。”<鄭玉順>
鄭玉順の母は近代教育を受けず新女性ではなかったが、親族の中に医師がいたという家族背景と、彼女自身がキリスト教信者として宣教師たちと接触した関係で、西洋医学知識に接することができ、それを積極的に受け入れたのである。
“うちの母も娘たちを嫁に行かせると、当然それを準備しておいたの。ネールというんだっけ?綿。それをくれる。オムツ用に。それを四角にたたんで三角にする。”<金喜真>
金喜真の母も新式教育を受けなかったが、鄭玉順の母と同じように彼女たちが住んでいた平安北道には西洋宣教師が多く、ほかの地方より先に彼らから近代的医学知識と養育法を受容することができた。鄭玉順と金喜真は、「オムツを三角にたたんでアメリカ製のピンで止める」といった新式育児法を母から習った。とくに金喜真は、合衆国と日本から受け入れた、当時の新学問である家政学を専門学校で専攻した。女子専門ではアメリカ人教授を通して西洋式家庭を見学し、科学的かつ合理的な家事知識を学んだ。しかし、そうした西洋式家事知識や育児法は改良された住居環境や施設でないと、実践しずらい場合が多かった。実際に彼女が用いた育児法は、家庭で母親や姉たちがやっていたことを実践したのであって、大部分は伝統的知識であった:
32 やわらかく薄い木綿の一種。
“(育児に関する知識)それはうちで習ったのよ。みたのよ。義理の姉もいるし。当時はそれが(家政学)が新学問ですよ。西洋についても教えてくれるし、家政学についても教える。西洋家庭生活、そういうものみせてくれて、自分(アメリカ人教授)の家につれて行ってみせてくれるし。とてもかけはなれてたんですもの。暮らしぶりが違うんだもの。しようとはするけど…大体はお金持ちの娘たちが家政科に行ったんです。そして裕福な家の子たちがそう結婚するし。(私は)しようとしてもできなかったんです。現実に合せて住むのです。また戦争当時でね。”<金喜真>
金喜真のように専門学校で家政学を専攻した場合でも、実際養育では母親世代の知識に主に依存した。李恩實は専門学校を卒業し、結婚後教師として働き、息子の養育には母親の助けを得たが、彼女もやはり母親から育児法を習った。金仁玉も同様に、専門学校を卒業した新女性として、自ら「最高の教育を受けた」と語ったが、伝統的な大家族制度の下で暮らしたため、舅姑の伝統的育児法に従わねばならなかった:
“分家して住む友達は、日本の雑誌みていたね。私は親たちと一緒に暮らしてたから、そんなふうにはできなかったの。親のいう通りにしないと。”<金仁玉>
金仁玉のように舅姑と同居の場合、新しい育児方法の実践が難しかったのは、この時期依然として父母世代の権威の影響力が強かったことを意味する。こうして近代的な新しい育児知識の実践には教育を受けた新女性でも、どんな家族制度の下に住むかが重要な要因として作用したのである。また、鄭玉順や金喜真の母親のように学校教育を受けなくても、新たな近代養育知識を吸収した女性たちがいたし、近代教育を受けた娘世代はこうした母親の養育知識をかなり受け入れていた。このことは養育が単に知識だけでなく、実際の経験が大事な領域であるためでもあろう。しかも金喜真のように最高学府で家政学を専攻した女性も母親の伝統的知識を何の抵抗もなく受け入れて活用した。彼女は専門学校で学んだ西洋式育児知識が現実と「かけはなれた」ものだと語ったが、とくに戦時体制のように物不足で窮乏した当時はもっとそうだったはずである。これは近代的養育法を実践するには知識だけでなく、物質的条件も整っていなければならないことを意味する。潤朱英の場合がそうした例であるが、潤朱英は学校教育を受けなかった、いわゆる「旧女性」である。しかし、経済的に富裕層に属した彼女は面接対象者のなかで1930年代に人工授乳をした唯一の女性であった:
“私の乳が足りなくて、子供たちに牛乳もたくさん飲ませたり、乳も飲ませたり。(牛乳)粉もあるし、日本からくるもの、この頃飲むカンのようなものに。そんなのついで、水にまぜて。この頃われわれが飲むサイダー飲むカンのようなところにでるのよ。”<潤朱英>33
上述のように、面接対象者たちが近代的養育法を語るときは、ベビーパウダーや簡単な医療道具、そして粉乳など近代的商品もともに語られた。これは、近代的養育法を実践するには、乳児用品といった近代商品の普及も伴うことを意味する。よって、1930-40年代に近代的養育知識を受け入れ、実践するに当たって母親の教育程度と養育に必要な商品購買ができる経済環境、そして親世代から干渉されず新知識を実践できる家族形態がより大きな要因として作用したことがうかがえる34。
結論的に、日帝下での母親の養育役割は、ほとんどの階層で他の家事労働および生産労働に比べて重視も優先もされなかった点である。農民家族の場合、末期に進むに従い、農産品の供出増加は農民女性の労働を加重させ、また、労働者階層では女性たちが軍需産業に動員され長時間労働に従事せねばならない事例もあった。こうして母親が家族の生存のために外で長時間労働に従事せねばならなかった場合、子供たちは放っておかれるのが一般的であり、母親たちはとくに罪悪感を抱くこともなく、また周囲からの圧力もなかった。経済的余裕のあったブルジョア階層の場合も、母親は養育とともにさまざまな家事労働をしなければならなかったため、養育は母親の専任ではなく、祖父母や家事補助人が相当部分を手伝った。
33 潤朱英が語ったように、植民地時代の新聞には、乳児用粉乳と練乳の広告が掲載されている。『毎日新報』1937年1月17日付の広告欄には、アメリカ製品と思われる「Gail Borden Eagle Brand」が、同3月3日付には「森永ドライミルク」が宣伝されている。
34 1920-30年代を中心にした近代的児童養育に関するキム.ヘギョン(1998)の研究では、近代的養育法が新式教育を受けた女性たちを中心に受け入れられた、とした。もちろん、学校教育を受けた女性の場合、活字媒体に接しやすい点でそうであろうが、一般的に、経済的余裕のある階層の女性たちは学校に行かなくても、ハングル程度は解読できたと考えると、近代的養育方法が教育を受けた女性たちだけの専有物ではなかったと思われる。本面接調査で、鄭玉順や金喜真の母親や潤朱英の場合、学校教育は受けなかったが、相当レベルの近代的養育法を実践した点で、家族の経済的背景も重要な要因として考慮されるべきと思われる。
根本的に軍事力と労働力の増強に関心があった日帝は、朝鮮児童の健康と衛生増進のための実際的医療施設や公的サービスの整備には消極的だった。児童健康相談や無料検診など宣伝行事が催されたが、面接対象者のなかでこうした行事に関する話を聞いたりあるいは参加経験のある者は一人もいなかった。むしろ、無理な供出は農村女性の労働を加重させ、母体の健康を害するのみならず、養育をおろそかにする要因になったと思われる35。とくに、戦争末期、ほとんどの階層が経験した食糧不足は児童の健康を悪化させる主な要因の一つであった。植民権力は帝国主義拡大のため家族と母親の養育方法に介入したが、帝国日本とは対照的に植民地では、児童の養育と衛生に関する記事の掲載といった方法にとどまった。それは費用をかけず、女性たちの思考を統制する「啓蒙と教化」中心のやり方で、母親たちの養育に対する個人責任を強調し、それにより 物質的に窮乏した戦争末期の養育と家庭生活を打開しようとした目的であった。また、医師などの医療権力と結びつき、伝統的育児方法を非科学的ものと貶めることによって、女性たちの間で行われてきた世代間の知識伝承を否定し、朝鮮女性は近代養育に無知であると批判することで優越性を示そうとした36。しかし、口述からみられるように、面接対象者の母親世代は学校教育の有無に関係なく、近代的養育知識に対する受容力をもっており、娘世代に養育知識と方法を伝達する役割も果たした。また、近代的学校教育を受けた女性たちも抵抗なく母親世代の伝統的養育法を尊重し受け入れた。それは住居環境の改善や養育を取り巻く整備が旧態依然であり、社会医療の普及もなされなかったために既存世代の養育知識が依然として有効だったためと思われる。
35 植民地時代、貧農層女性の76.9%は出産の直前直後も働き、農村女性の大多数が産後1週間以内に仕事を再開した;ムン.ソジョン「家族生活の変化と女性の成長」シン.ヨンハほか編『韓国社会史の理解』(文学と知性社、 1995) 470頁。
36 植民支配下エジプトの母性と養育に関して研究したシャクリも、植民地官僚は教育を受けなかった「無知な」母親たちを養育に不適合と問題視し、自分たちの主張を立証するために、ヨーロッパの教育を例として提示した、と指摘する;Omnia Shakry, “Schooled Mothers andStructured Play: Child Rearing in Turn-of-the Century Egypt,” in Lila Abu-Lughod, ed., Remaking Women: Feminism and Modernty in the Mddle East, Princeton Uni-
versity Press, 1998, p.127.
3. 家庭教育者としての母親の経験
日帝末期の学校教育目標は内鮮一体の支配政策により、朝鮮人としてのアイデンティティーをなくし、天皇に忠誠を尽くす皇国臣民の育成にあった。日帝末期国民学校の教師であった李恩實によると、こうした皇国臣民化教育は実際に徹底的かつ厳格に行われた:
“月曜日毎に愛国日なの。愛国について、また校長が時局について子供たちに話しをする。戦争について話すのよ。徹底的によくさせた。徹底的に。何でもやりだすと、ついて行かねばならないようにできているの、体制が。とても厳しい。スパルタ式。”<李恩實>
日帝は皇国臣民化教育の効果を高め、戦時体制にふさわしい家庭生活「改善」の実践を強調したが、そこで注目したのが家庭での母親の役割であった。よって、母親たちが戦時体制の学校教育にどれだけ協力し、家庭で皇国臣民化教育方針に従い、子女をいかに教育するべきかの具体的方法を教えようとした。これは、家庭でも学校教育方針の指導を行なうことで植民支配体制の教育的効果を高めるためであった。実際この時期の国民学校は母親たちに戦時教育の協力者としての役割を求めた:
“父兄会といって校長が1年に1,2回親たちを呼んで。校長がいうのは、日本に協力せよというものです。日本思想を入れようと、お前たち、精神がそうだから皇国臣民になれと。日本臣民になれと。そのときは日本校長だから、日本語でいうと、韓国語で通訳するの。全体が集まるのよ。時局講演のように。”<李恩實>
李恩實の口述によると、父兄会では校長が直接父母たちに時局認識を訴え、植民体制への協力を求め、また日本語が不自由な父母たちへは通訳を行なうなど、形式的な集会ではなく実際の内容伝達に忠実であろうしたものとみられる。父母の招集は年1-2回から毎月1-2回に至るなど学校差があり、名称も学校によって異なり父親を対象にした父兄会や育成会、また母親中心の姉母会(または母姉会)があった。日帝末期に子供を学校に行かせた経験をもつ6名の面接対象者のなかで金枝培を除く、5名の女性が学校へ呼ばれた経験があったが、彼女らが参加した父兄会には主に母親たちが出席した:
“初めはひと月に1回以上で。よく行ったもの。(子供の入学後)半年くらい経ってからは一月に1回くらい呼んだの。行かないと、子供たちの成績が落ちていけない。学校に呼ぶと、父兄たちがよく行かなきゃ。そうすると成績が上がる。1年から行かなかったりすると、子供の成績が落ちるのよ。なぜかというと、そんなのが子供たちの成績に入ったからね。そうよ。父兄たちがよく行けば、日本人が満足してそうやってくれるから。父兄会といったけど主にお母さんたちが集まったよ。みんなお母さんたちなの。国民学校でた人は前にでて働いて、何も知らない人は後ろに立って。来いといわれるから出席だけして。父兄会すると、日本語でやらないと。お母さんたち大体国民学校でたみたい、子供たち国民学校に行かせる人は。私たちは田舎に住んだからそうだけど。夜学してもそんな言葉(日本語)できるでしょ。できれば日本語使おうとみんなするしね。”<潤朱英>
潤朱英の子供が通った地方都市の学校では父兄会への参加が子供の成績に影響を及ぼすと思わせるほど、父兄会への出席は義務的に求められたようだ。父兄会では校長または教師が日本語で教育方針を伝え、日本語ができて子供の教育に関心が高い父母は積極的に活動した。
“学校でくるようにいうと行くでしょ。そうすると、子供の成績をみせて、今日本がどこまで行った、日本が間違いなく勝つと、そんな話をしてくれたんです。われわれはじっくり聞かないんですよ。しかし、日本が勝つと話したんです。”<李慧淑>
先の李恩實の口述通り、日帝末期の父兄会は純粋な教育内容より、戦時思想や日本の勝利を確信させる時局宣伝や防空訓練法、疎開の奨励など戦時体制に関する内容が多かった:
“飛行機がやってきたら、どう訓練するか話して、疎開行く人行けといったり、疎開行くなら、食べ物をどう準備するか話したりね。”<趙淵秀>
のみならず、日本の祝日には学校に召集し、天皇万歳を三唱させるなど、親たちにも天皇に対する忠誠を誓わせようとこうした行事に動員したが、これは親の態度が子女教育に影響を及ぼす要因の一つとみ做したためである。こうした親の動員も子女の成績に影響を及ぼすとか、配給における制裁といった圧力があったため、親たちは出席せねばならなかった:
“何といったっけ?神様といったっけな?万歳しに集まりなさいというと、みんなでなければならないの。みんな呼び寄せて(学校の)庭にいっぱい立たせて。天皇陛下万歳、そう唱えたの。お母さんでも、お父さんでも、家にいる人はみんなでなければならないの。主にお母さんたちがでた。でないと子供たちが二人も学校行っているのに、でないと子供たち退学させるといったの。それから配給ももらえないからでたよ。”<趙淵秀>
戦争遂行のための各種供出は愛国班などの地域組織だけでなく、学校でもある程度の強制性をもって施行された。一般に広く供出させられたのは真鍮や金属類で、ほかに戦時物資節約のための廃品回収など学校は親たちを戦時体制に協力するよう積極的に活用した。母親たちは学校をつうじて「匙でも残すと退学させる」といった圧力を受けたりした:
“真鍮の器は全部納めないといけないのよ。匙でも残しておくと子供たち退学させるというから、匙まで全部もってあげたのよ。全部真鍮の器で食べてたのに。<趙淵秀>”
学校が親たちに求めたもう一つのことは家庭での日本語使用であった。日本語の使用は「国語常用」といい、新聞でも「国語常用家庭」を模範家庭として賞賛するなど積極的に宣伝した37:
37 さらに、国民学校を中心に各家庭の日本語解読レベルを調査し、家族全員が日本語を理解する家庭と、祖父母および学齢以下を除いた全員が理解する家庭を選び、「国語の家」を象徴する徽章を門に付着するようにした;前掲「日帝の日本語普及政策に関する研究」51-2頁。こうした「国語常用」を行なった家族への表彰は、小説『カピタンリ』にも描かれている。チョン・グァンヨン『カピタンリ』(乙酉文化社、1994)118-9頁。
“いつも国語を常用せよといって、国語を常用する家庭が新聞にでたりしたんですよ。模範家庭として。そうよ。新聞にでるよ。”<鄭玉順>
日帝末期の学校では日本語使用が義務付けられ、朝鮮語の使用は禁じられた。さらに、学校は家庭での日本語使用を父兄会などをつうじて強く奨励した。こうした状況で、鄭菜英のように子女教育のために家庭で日本語を使った場合もあった。1920年代に京畿高女に通った鄭菜英は「日本時代だから、日本語が話せないといけない」と考え、家庭で子供たちに日本語を教えたり、日本語で話したりした:
“子供たちの教育には熱心だった、私は。だから私がそこ(京城師範付属小学校)に入れることができたの。当然日本語するものと思って。日本語使えって騒ぐでしょ、もちろん。家でも子供たちと日本語使ったもの。そのときは当然日本語で話すものと思ってそうしたのよ。倭政時代だから使わなくてはならないでしょ。家で韓国語も使って、子供たちにもどんどん日本語教えるのね。日本時代だから日本語がよくできないとね。よく覚えたのね、そのとき。子供の教育一生懸命にした。勉強教えて、よくなることばかり願うのよ。”<鄭菜英>
植民国家は二ヶ国語に堪能で、支配国と植民地人たちの間を言語で介在できる事務員を必要とした38。日本語が支配階級の言葉である以上、良い上級学校に進学し、支配エリートになるためには日本語の熟達が求められ、日常生活でも日本語は優越した言語としての位置を保った39。
38 前掲Imagined Community『民族主義の起源と伝播』145頁。
39 ファノンの指摘によると、植民地化された民族は、土着文化の独創性を埋没させられたため、劣等意識をもつようになり、そのため文明を付与した国の言語、つまり植民支配国の言語と文化規範を自分の価値として受け入れることで、未開から離れようとする。人間は言語をもつ特性があるために、結局言語によって表現され意味が与えられる世界を所有するからである。植民支配下での朝鮮人の日本語使用も、こうした脈絡から説明できると思われる;Frantz Fanon,
Peau Noir, Masque Blanc, キム.ナムジュ訳『自分の土から配せられた者たち』(チョンサ、1978)19-20頁。
自ら子女教育に熱心だったと語る鄭菜英は、当時公立の有名小学校に子供たちを入学させ、家庭では日本語を教えた。しかし、彼女は解放後は日本語を教えなかった。彼女は“解放後はどうして日本語を使うの。ほら、親日派になるよ”と反問した。ここで重要なのは、母親役割の遂行は社会体制イデオロギーの影響範囲内で行われ、そうした体制イデオロギーの影響力から離れるのが難しいことである。ルディックは女性は歴史的に軍事的、社会的暴力、時にはひどい貧困の中で母親になってきたが、その社会の価値を決められない無力さのために、母親の思考が他人が「望ましいとするもの」すなわち支配文化の価値を選択してきたと指摘する40。鄭菜英の母親役割はこうした体制イデオロギーの影響力の否定がとくに難しい植民体制の下でその価値を一部受け入れながら、子女の発展と向上のために努力した例といえる。
鄭菜英のように経済的余裕のあった潤朱英も子女教育に関心が高かった。彼女の子女教育に対する望みは、民族差別のなかで子供たちが一生懸命勉強して、いい職をみ付け、できるだけ差別を受けずに暮らすことであった41:
“私たちが子育てをしたときは、解放なんてことは思いもつかなかったけど、うちの子供たちをよく育てて日本人に勝たせる、そんな考えはしていたの。中学校の試験もどんなに難しかったか。制限があったの。日本人何パーセント、韓国人何パーセント、そうやっていたから、韓国人は試験がよくできても落ちて、日本人をもっと入れるから。中学校も入るの難しかった。中学校でると、実力あって。どうしても、うちの子供たちはよく勉強してかならずそうならないと、そんな思いはとっても強かった。やつら(日本人)にやられてもっとそんな気になってね。そう。そのときは大体普通なら職場に入れなかったのよ。同じならやつらを入れて、韓国人は入れないからね。勉強がよくできないと、職場もいいところに入れるからね…そんな思いしかなかった。”<潤朱英>
40 Sara Ruddick, “Maternal Thinking,” Rethinking the Family.Some Feminist Ques- tions クォン.オジュほか訳『フェミニズムの視角からみた家族』(ハヌル、1991)114-5頁。キム.ジョンヒは、母親たちがこうした体制を読み取れないと、子供たちを体制内のはしごの頂上に登れるように押し上げる孟母になるしかない、と指摘する;キム.ジョンヒ「生命女性主義の存在論的探求」(梨花女子大学校女性学科博士論文、未刊行、1998)87頁。
41 アンダソンによると、植民地教育政策の目的の一つは、政治的に信頼でき、恩を知り、文化変容を経験した土着エリートで、植民官僚体制と商業的企業の下級階層の仕事をする、植民支配国の言語を知る植民地人を一定数のみを輩出することである。潤朱英の語るいい職とは、結局こうした仕事をする職を意味する;前掲 Imagined Communty『民族主義の起源と伝播』158頁。
日帝は内鮮一体を主唱したが、実際は進学や就職、給与において日本人と朝鮮人の間には歴然とした差別があった。植民地教育の真の目的は下級労働力の確保にあったため、実業学校以外の中等学校の新設を認めなかった。その結果、中等学校の進学率は10-15%に過ぎなかった。これは学費が払えない朝鮮人の経済的貧困も理由の一つであろうが、最大の理由は朝鮮人のための中等教育機関の数が絶対的に不足していたからである42。さらに、公立学校は日本人学生をより多く入れたため、1930年代になると中等学校の入試が激しくなるという現象が起きた43。こうした社会的条件の下で鄭菜英と潤朱英のようなブルジョア階層では、教育することで社会的地位の高い近代的職業を得て、社会的地位の上昇を願う教育熱心な母親たちがすでに現れ始めた。鄭菜英と潤朱英は、子供たちが上級学校に進学できたため、自らの母親としての役目を肯定的に評価した。
このように、教育問題が母親の役割において重要な問題として認識されるのは経済的余裕のある家族に限ってである。金枝培のような貧困農民、労働者階層の母親は先に指摘したように、教育より食べさせること、服を着せるといった生存問題がより切実な問題であった:
“いや、なに子供がどうなって欲しいと願う、そんなこともなかった。いっぱい食べさせて、着せてそんなことでしょ。食べることもろくにできなくて本当に苦労したんです。”<金枝培>
労働者階層であった趙淵秀はまわりで社会的保護がまったく与えられなかった母子家庭によく接した。彼女は、当時偉い母親とは夫が死んで窮乏しても子供たちを捨てない母だといった:
“そのとき偉い母親は、貧しくても子供たちを最後までよく育てるのが偉い母親なの。そんな人多かったの。夫死んだ後、貧しくなると、どこかにお母さんが行ってしまうのよ。そうすると、子供たちは孤児院に行くか、乞食になるのね。あのときは乞食多かったのよ。今仁苛大学校あるところ、そこに私が一人で市場に行けなかった、怖くて。夫死んで貧しくなっても子供たちよく育てるのが偉いお母さんなのよ。”<趙淵秀>
42 キム.ジョンウ「日帝下初等教育と近代的主体の形成に関する研究」(延世大学校社会学科修士論文、未刊行、1999) 8-9頁。
43 オ.ソンチョル『植民地初等教育の形成』(教育科学社、 2000) 202頁。
このように、日帝時期子女教育者としての母親は階層によって異なる性格の問題に直面し、それぞれ役割を遂行したことがうかがえる。ブルジョア階層では上級学校への進学問題に悩み、父兄会にも熱心に参加するなど教育熱が現れたが、貧困層では教育面での期待より基本的衣食住を満足させることがより切実な問題であった。
一方、植民地教育体制は家庭での日本語使用だけでなく、戦時体制に合った時局教育を徹底させ、「母の会」を組織することで母親たちに子供の思想を監視する役割をするよう求めた。しかし、日本の敗戦をある程度感じていた面接対象者たちは、日本の敗戦予想や植民体制への批判を子供たちの前では表さないよう注意した。これは思想取締りが個人の家庭にも浸透していたことを物語る例である:
“(総統府の指示を)全部受け入れなければならない。そうしないと、その統治下でどうする。それから、日本が滅びるだろうという言葉をあの子(同居していた小学生の甥)のいるところではいえなかったのよ。私たちは想像はした。なぜかというと、真鍮の器を奪って銃を作るから、それが物資になる?アメリカのようなそんな国と対決しているのに。だから、これは負ける徴兆だと大人たちはわかったけど、あの子のいるところではそんな話一切できなかったですよ。”<金仁玉>
金仁玉は、「学校で学んだ通り内鮮一体と思っている幼い甥が、外にでて何をいうかわからないから」子の前では日本に対する批判をしないようにして、日常生活でもなるべく日本語を使うようにした:
“家に国民学校通う子供がいると、家でやたらに韓国語使ってはいけないの。日本語でしなければならない。(そうしたんですか?)もちろん。甥が一人うちの家にきていたけど、その子のいるところではなるべく日本語でしたよ。国民学校なんだけど、無邪気だから。学校でいわれたとおりにするから、怖くて。(学校に行っていうと思って?)そうそう。”<金仁玉>
金喜真の父は地主だったが、住んでいた平安道で独立資金を集めて臨時政府に送る役目をしていた。しかし、金喜真と兄弟たちはそのことを解放後はじめて知った:
“うちの父が独立資金募集しておくる責任者なの。知らなかった。私たちが父の行跡を知らなかったんです。知ったら大変なの。民族だとか、そんなの全部秘密だから。父がそれやるのも知らなかったから。解放後に本がでて知ったのよ。”<金喜真>
金喜真の父親は家族の安全のためにこうしたことを秘密にしたのである。金喜真は親からとくに民族精神を教わることはなかったが、親の影響で自然と日本に対する反感と朝鮮人としてのアイデンティティーをもつようになった:
“特別両親は(民族に関する)話はしなかったが、私たちはもう大人たちが座って自分たちでする話を聞いて…私たちは日本というといつも排撃し、ちっとも好感がなく、いつも敵愾心ばかりもっていたから。私たちは日本人ともいわないで、日本奴といったし。なるべく日本語使わないようにしたし。家は3.1運動44の時、投獄された、そんな人たちだから…”<金喜真>
さらに家庭によってはもっと積極的に民族的アイデンティティーを教え込む教育をした例もあった。李恩實の父は牧師であったが、植民体制を批判し、創氏改名や神社参拝を拒否したため投獄された。李恩實は夫と死別後、息子と一緒に実家で両親と暮らしたが、彼女の父は孫に朝鮮人としてのアイデンティティーを教え込ませることに努めた:
“子女教育正しく、韓国、本当の朝鮮人を作ろうとしたんです。国家意識入れようとしたんです。母方の祖父がいるから。家の息子は、イ.グァンス氏が東亜日報か朝鮮日報に李舜臣将軍を連載したが、それを何回も読んだんですよ。祖父が李舜臣将軍の話ばかりいつもしたんです。(うちでは)あらまあ、日本語やらせないのよ。だれがそうさせるんですか。うちはそうしなかったですよ。”<李恩實>
44 1919年3月1日に起きた日本に対する独立運動。
李恩實は職場では教師として日本式教育をしなければならなかったが、家庭では息子に日本語を教えなかった。彼女は日本式教育を強要するのがいやで私立学校に在職していたが、次第に私立学校に対する弾圧が強くなり、公立学校に移った。韓真淑は国民学校入学からずっと戦時体制期に教育を受け、それ以前の時期に教育を受けたほかの面接対象者と比べ、日本人としての教育に無批判的で、さらに日本人としてのアイデンティティーを自分のアイデンティティーとして受容しようとした態度が強くみられた。しかし、それにもかかわらず、彼女はそうした態度は学校でのみで、家ではそうでなかったと語った:
“学校に行くと、成績がよくなければならないから、いわれるとおりにしただけ。日本が自分の国とは考えなかった。当然韓国人と思った。日本人とは思わなかったね。家に帰ってくると、当然韓国人なの。生活が韓国人の生活だったから。君は韓国人だという教育はなかったけど。”<韓真淑>
韓真淑は、学校では規律が厳しく、成績のために日本人教師のいうとおりにしなければならなかったが、家では生活が韓国式であったために、ごく自然に韓国人としてのアイデンティティーをもつことができた。たとえば、彼女の母は白色の韓服着用を禁じる統制にもかかわらず、祭事日には白い韓服を着たし、韓は母から韓服の作り方を教わった:
“私たちは女学校のとき、韓服の作り方は習わなかったの。毎日勤労奉仕にでたりして。でも、家で母が(韓服)作るのをみて、そばで一緒にしながらみて教わったの。家の母はその時、白いチマチョゴリを着てはいけなかったけど、祭事日のようなときは必ず着たの。”<韓真淑>
韓真淑のように、日帝末期に徹底した皇国臣民化教育を受けたにもかかわらず、朝鮮人としての揺らぎないアイデンティティーをもつことができたのは、家庭で母親が朝鮮式生活を維持し、それをつうじて固有の価値を身に付けたからである。
植民地教育体制は家庭に対し、皇国臣民化を教育理念とする学校教育の延長と実践の場としての機能を求め、何よりも母親たちにそうした教育の主な担い手役を求めた。そのため強制的に召集される父兄会または母姉会をつうじて母親たちに植民体制が求める諸事項を注入し、学校教育に協力する順応的な主体として形成しようとした。
植民地という状況は、植民権力と母性がそれぞれ異なる目的のために各自の利益を追い求め競合する状況といえる。植民体制は体制維持の道具として母性を活用しようとし、母性への新たな観念を構築する45。そして植民地人の教育を非近代的ものとけなし、啓蒙と近代という名の下で介入を正当化した。しかし、母親の母性役割は子女の生命を保護し、成長させ、共同体が望む社会的役割を遂行するよう準備させる目的をもっている46。したがって、母親は子女の生存のために植民支配体制に適応させること, 一方では民族的アイデンティティーをもってこれに抵抗するよう子女に準備させるという、相矛盾する関係を切り抜けなければならない状況に直面する。こうした交渉(negotiation) 過程での母親たちの選択は多様である。たとえば口述からもみられるように、ある母親たちは植民体制に対する批判を差し控え、家庭でも学校が求める事項を遵守することで体制内での子供の安全を守り、保護に努め、また抑圧的体制内で生存するすべを教えようとした。さらに、一部の母親たちは、より積極的に家庭で支配権力の言葉を教えるなど、植民地民に与えられた制限された機会のなかで子供たちが競争に勝ち、社会的機会を確保できるよう後押しするのに努めた。一方、李恩實のように、家庭で子女に民族意識を教え込むのに努めた例もあった。しかし、朝鮮児童を皇国臣民化しようとする植民体制のなかで子女の民族的アイデンティティーを形成させることは母親たちにとって多くの緊張と困難を伴わせた47。面接によると、ほとんどの面接対象者やその母親たちは、戦時という抑圧的社会体制の下で子女の安全と保護をより重視した。よって、特別、民族意識の形成に努めるよりは、意識するしないに関係なく、伝統的な生活様式と慣習を維持する日常生活を持続した。しかし、それが結果的に子供たちのアイデンティティーの形成、維持への機能を果たした。こうした母親たちの役割は、朝鮮の文化と価値体系を否定し日本化しようとする植民体制への抵抗となった側面もあるが48、家族志向的生存戦略を作り出す事によって、より家族主義的価値を擁護する方向に進んだ。そして、その傾向は解放後の社会的混乱を経て、母性役割の肥大化につながるきっかけになったと思われる。また、家族への介入と統制を試みた植民学校教育体制は、母親たちを学校体制に順応させようとし、規律化の対象にした。その結果、朝鮮の母親たちには近代的制度教育の普及と同時に、学校権力によって順応的主体になる経験が刻印されたのである。
45 前掲 “Making Mothers: Missionaries, Medical Officers and Women’s Work in Colo-nial Asante, 1924-1945,” p.29.
46 Ruddickは、母性が子女の生命を保護、存続させようとする側面を指摘した。前掲 “Maternal Thinking,” 『フェミニズムの視角からみた家族』108-9頁。
47 植民地下の母親の役割は、合衆国における有色人種の母親役割と類似した社会的脈絡で遂行された、と思われる。有色人種の母親たちは、有色人種の児童を白人中心文化に同化させようとする社会的抑圧のなかで、子女に体制内で生きる方法と術を得られるように教え、社会化させねばならず、それと同時に、人種的アイデンティティーももたせるべきであるため、母性役割における矛盾と緊張を経験する。 Collinsは、母性におけるこうした社会的脈絡の重要性を指摘した;Patricia Hill Collins, “Shifting the Center: Race, Class, and Feminist Theo-rizing about Motherhood,” in Evelyn Nakano Glenn, Grace Chang, and Linda Rennie Forcey, eds., Mothering: Ideology, Experience, and Agency, Routledge, 1994, pp.57-60.
C.戦争と家庭生活
日帝末期に皇国臣民としての役割を一生懸命したのも母であった。日本人も混じっている班常会にでて、隣の人が通訳してくれる指示事項を指で数えながらおぼえ、祝祭日には国旗も人より大きいのを夜が明ける前に掲げ、防空練習のあるときは年だからこなくてもいいといわれても、モンペにバケツを提げてでた。すべて東京に行って勉強している息子のためであった。休みに帰ってくる息子の口からは日本の悪口しかでなかった。卒業したら、帰国して住むことが心配であった。それで自分が人心を得ておかねばならないと思い、国がやれということは何でも率先してやった。
48 植民支配下女性の役割を研究したCaulfieldによると、子供が社会で自分の位置を認識するように社会化される場所は家族であるために、家族は帝国主義的抑圧に抵抗する中心的場所になる。したがって、植民主義者たちは、年長者の権威を否定するなどの方法を使い、体制への抵抗を抑えるために、家族を植民化の主なターゲットにする。しかし、伝統的制度を破壊し、けなす植民者の努力はむしろ被植民者にして固有の生活様式を守り、再創造しようとする動機を与える。Caulfieldは、こうしたなかで、伝統を維持し、親族関係を持続させる母親たちの日常的活動は体制への抵抗を意味する、と指摘した;Minna Davis Caulfield, “The Family and Cultures of Resistance,” Socialist Revolution 20, 1975, pp.67-85.
チャン.ヨンハク49
1.銃後活動
戦争が女性たちの生活に与えたもっとも大きな変化の一つは、戦争を銃後で支える役割を課したことである。銃後活動と呼ばれた裏方での戦争支持活動は面接対象者が学生だった場合、学校教育をつうじて行われ、主婦だった場合は「大日本婦人会」のような女性組織50と地域の「愛国班」51をつうじてさまざまな活動に動員された。面接対象者のなかで女性組織に動員された直接経験をもつのは鄭菜英一人であった。鄭菜英は、女学校出で日本語ができ、夫が判事という社会的地位にあったため本人の意思に関係なく、「愛国婦人会」鍾路區の総務職を任せられた:
“愛国婦人会鍾路區の総務をした。愛国婦人会をやらされたけど、やらせるならやらせろって。私はあまり婦人会にでなかった。洞会で私を総務に立てるようにと。不安で名前だけ立てておいたけど。そのときもあちこち回っていろんな事やったのよ。たくさん集まって行ったりしたの。どこでなに、どこでなにと。たとえば、鍾路區どこに婦人会集まれというと、集まるでしょ。そうすると、決起大会するとか、時局がなんだかんだ話聞いたり。そこに私は出席できなかった。子供たちと家事やったりするから。婦人会でなくても大丈夫だった。倭政のときというのがそういうもんだから。”<鄭菜英>
49 チャン.ヨンハク「喪笠神話」『チャン.ヨンハク選集』(ソンイル文化社、1975)286頁。
50 「愛国婦人会」は前述のように、1906年、朝鮮駐在の日本官吏婦人たちが、朝鮮の貴族層婦人たちを糾合して組織された。初期の活動はそれほど目立たず、会員も1933年までは5万5千余名にとどまった。しかし、戦時体制以後、急速に全国的に組織を拡大し、1941年には会員数が46万に達したが、そのなかで朝鮮人は32万2千名程であった。「国防婦人会」は、1934年朝鮮軍の主導で組織され、1938年には8万7千余名に拡大した。この二つの団体の主な活動は、国防献金の募金、慰問品発送、出征家族慰問など軍事後援事業であったが、1942年日本で「大日本婦人会」が発足し、朝鮮でもこの二団体が「大日本婦人会朝鮮本部」に統合された;民族問題研究所(編)『日帝下戦時統制期政策史料叢書第52巻』(韓国学術情報(株)、2001) 2-24頁;前掲『韓国女性史ー近代編』286-7頁。1941年「愛国婦人会朝鮮本部」では軍用機献納運動を展開し、会員たちが廃品回収、勤労奉仕などで募金し、収益金10万ウォンを寄付した;『国民総力』1941.3.106頁。
51 愛国班は日本の隣組に相当する組織である。約10戸程の世帯が一つの班に構成され、配給や供出、相互監視を行う国民精神総動員(後に国民総力)朝鮮連盟の最末端組織である。
「愛国婦人会」では女性たちの戦時参加意識を高めるために、度々決起大会や時局に関する講演会などを催し、婦人会員たちの参加を呼びかけたが、鄭菜英はそれほど積極的に参加しなかった。康玉子は、父親が郡首であったが、母親は熱心なキリスト教信者で日帝に対する強い反感をもっていたため、婦人会にも参加しなかったという:
“うちの母は郡首夫人でしたけど、婦人会にでなかったんです。うちの母は勧士52で、教会に行くから、婦人会みたいに前にでてやるの、絶対しなかったのよ。しなくても大丈夫でした。私たちは大所帯で、そんなのでる時間もないし。うちの母は日本のやつらに私たちが愛国してどうするもんかと…”<康玉子>
農村に住んだ李慧淑も農村の婦人会組織への参加を求められたが、積極的に参加したりはしなかった53:
“(婦人会)そんなの、ほかの人たちがやっていました。女たちで、やる人が行ったのです。私は、きてやりなさいといわれても、暮らしも貧しいし、そんなのできないでしょ。しませんでした。今でいう、活発な人がやったしょう…大体が無理していて、やりたくてでる人いません。そのとき、婦人たちも女たちも自由がないでしょ。自由がないんですもの。両班の家で婦人たちが外にでるもんですか。でないでしょ。どこかでて活動したり、そんなのできないでしょう。とにかくきて、無理やり入れと宣伝したり。”<李慧淑>
上の口述でわかるように、女性団体への参加がそれほど強制的に施行されなかったので、参加意思のない女性たちはできるだけ参加しないで済んだと思われる。しかし、対照的に韓真淑は、自分の母が婦人会活動に積極的に参加したといった:
52 キリスト教の教職の一つで、主に伝道の任務をもつ。
53 農村婦人会の場合は、都市とは違い銃後活動への動員よりは、生産の督励と作物の効果的供出にあった。李慧淑の口述もこうした内容である:“婦人会といって会議するところにこいといわれても、私はあまり行かなかったのです。たまに行くと、どこまで(日本軍が)入って行ったとかそんなの思い出します。それからいつも捧げるもの、供出するもののためにそれですよ。それのために集まったと思います。集まってもみんなお互い顔色をうかがうので、座って仲良くそんなのないんですよ。集まりたくないってことでしょ。集まれといわれれるから、仕方なく集まるものよ。あればもっとだせといわれたり。いつも供出するために、それでよく集まったですね。稲、そんなのかますに何かますだせ、というんだけど、収穫ができなくて額数が合わないと…”<李慧淑>
“うちの母も愛国婦人会にでて千人針したの。そんなところにでて動員されてました。町内で有志だといわれるから、出たのよ。愛国婦人会会員としてそこで主導的役割をしなければならない。先にでないと、たすきかけて。父が何(町内の有志)だから母も何なの。婦人会の幹部なの。それで母は日本語できるの、うちの母は。うちの母はわかって話したりしたの。父と、日本のお客さんもきたりするから。”<韓真淑>
韓真淑の母が銃後活動に参加したのは、彼女の夫が咸鏡道の道議員を3期勤めた上に、船舶を所有し漁業を行うなど地域社会の有志だったからである。韓真淑の母は婦人会活動に積極的に参加することが夫の事業が順調に運ぶのに役立ち、それが家族の利益と福利につながると思ったのであろう。同じく、婦人会に参加しなかった女性たちが共通して不参加の理由として挙げているのも家族の問題であった。つまり彼女たちには、家事や子供たちの世話をするといった主婦あるいは母親の役割がより重要であった。鄭菜英や韓真淑の母など社会的参加経験のない女性たちは一般に政治的動機づけがない。そのため、彼女らの行動動機として自分の政治的意識ではなく、家族や夫の問題が優先される54。韓真淑の母のように、女性たちは自身の個人目的ではなく、家族の利益と安全のためという意識があるときは戦略的に体制に協力するようになる。康玉子は自分の母がキリスト教信仰のため婦人会にも参加せず、神棚も設置しなかったと述べたが、日帝末期彼女の弟は郡首であった父の社会的地位や地域での圧力のために神前結婚式を行なった。これも体制への協力が家族の生存のためにとられた選択だったことを表す例である55。女性たちの公的活動動機が家族の利害関係や安全と保護に置かれたのは、植民体制の下で家族は、抑圧的な植民体制に対抗する生存戦略を維持し、日常生活を営むもっとも基本的な場だったからである56。こうした側面は面接対象者の記憶にも反映されている。韓真淑や康玉子の場合のように、自分の家族が体制に協力的な場合、それが日本や戦争を支持するための選択であったとは考えていない。韓真淑は自分の母が家族と夫のために対外活動も活発に行なう、強くて立派な女性であったとみている。康玉子も母の神棚設置や神社参拝への抵抗は母が熱心なキリスト教信者であるためとみなしたが、弟の神前結婚式については体制協力ではなく、植民体制の抑圧性を表す側面としてのみ記憶している。
54 ナチドイツ占領下のフランスにおいても、女性たちが協力組織に参加したのは、夫や父親を支えるためであった; Hanna Diamond, Women and the Second World War in France
1939-1948: Choices and Constrants, Pearson Education Limited, 1999, p.94.
55 “うちの弟のときは、その後、神前結婚式をするって騒いだりして。むりやり村長たちがきて、神社でやらなければいけないというから、弟が結婚するときは神前結婚式をしました。神社で神主がそれやるところでやったんです。なに、こんなの振り回したりするのよ。そのとき一般的に青年たちをどんどん追い立てるのが、そのまえでやれっていって、神棚を家ごとにしろって。44年、そのときは神前結婚式をとても強要したね。面で。面事務所をつうじても。”<康玉子>
「愛国婦人会」といった官立婦人団体が識字層の女性を対象にした反面、「愛国班」はすべての住民を対象に、毎月「常会」を開いたが、「常会十訓」では、「主人も主婦も出席すること」を規定している57。「愛国班常会」は主に当局の政策を伝達し、地域単位の配給と供出の担当を受けもった。当時主婦であった面接対象者たちのほとんどが「愛国班常会」に出席しなかったが、彼女らはその不参加理由として「年も若い嫁だったから」と語った:
“一軒で一人でろというと、みんなでなければいけないけど、私はそのとき若い嫁だったから。私はあんまりでなかったよ。姑がいるし、そうだから。”<金仁玉>
“私は、嫁に行ったばかりだから、でれるかな。若いのがでるもんではないでしょ。私はでられなくて、姑がでたっけ、舅がでたっけ。”<金徳順>
また、地域によっては男性が中心になって出席する例もあった:
“班常会のようなところは男だけでるもんで、我々女たちはでたことがないんですよ。”<康玉子>
56 一部の学者たちは欧米の白人中心理論から脱皮し、家族は家父長制規範が維持、実践されるところではあるが、黒人や植民社会といった抑圧される状況では、家族が女性にとって単純に抑圧される場のみではない、と指摘する;Patricia Hill Collins, Back Feminist Thought, Routledge, 1990;前掲 “Imperialism, the Family, and Cultures of Resistance,” pp.67-85.
57 「常会十訓」『国民総力』1941.8.28頁。
当局では、「愛国班」活動に教育を受けた女性たちへの積極的参加を呼びかけた58。その理由として、彼女たちは日本語ができるので伝達事項が理解でき、また、学生時代に皇国臣民化教育を受けたことで動員により効果的と判断したためであろう。しかし、女学校を卒業した面接対象者のなかで「愛国班常会」に出たことのある人は、愛国班長を任された鄭菜英を除いては一人もいなかった。面接対象者たちは、結婚してまだ日が浅い嫁の身分で、一家を代表して常会に出席するような立場ではなかったし、また舅や姑など一家での年長者や男が主に参加するものと思っていた。女学校出身者であっても大家族の場合、嫁という立場は常会といった外部での活動への参加を規制し、国家政策や宣伝もこうした家父長的地位と性別役割観念を変えることはできなかった。事実、当時まだ儒教的伝統の強い地域の両班階層では若い嫁や娘たちが市場に行くことさえも自由でなく、外の仕事は男性または年長の女性が行った。
一方、舅姑と同居しなかった鄭菜英は愛国班長を経験した。彼女が愛国班長の役割を任されたのは婦人会の幹部役割と同様、彼女が女学校出で日本語ができる識字層であったためであり、彼女もそうした点を認識していた。つまり、彼女は当局が望む銃後活動を忠実にやり遂げられる新しい主婦層であったが、彼女がそうした活動に対して抱いていた態度と認識はかなり傍観的なものであった:
“愛国班長もしたし。ご飯をよそっていても走りでて行くし。警戒警報がなると、山に登るし。みんなよけて、防空壕掘って何だあれをするでしょ。集まれというと、愛国班員たち全部集めて山に登って。(配給)もらって食べるの、あのどこで食べて。米も倭政のときは班にでて。配給ももらって食べたけど。野菜なんかも買わせてもらえないから。愛国班で(野菜など)でるとお金をいくらかやって払ったでしょう。統制をしたから。まあ、何か買って食べようとすると、田舎でも、どこでも行って、買って食べたりしたのよ。愛国班でなにか集まれというとするし、ネギがでると配るし。”<鄭菜英>
鄭菜英は早くに有名公立女学校を卒業し、夫も判事であったが、銃後活動を積極的にするほどの社会参加意識はもっていなかった。彼女の愛国班長としての経験は防空訓練に受身的に参加したことと、不足した食糧確保のために東奔西走したといった記憶がほとんどである。
58 「京城の模範愛国班長像」『国民総力』1941.1.86-7頁。
面接対象者が女学生であった場合、学校でさまざまな銃後活動に動員され、戦争末期に進むにつれ動員の強度と時間も増加したが、京城と地方の学校との間には活動内容に差があった。勤労動員の場合、京城では主に教室で雲母剥がしや軍服修理といった軽作業であったが、農村や地方都市の場合は工場や畑での農作業など重労働を課せられ、肉体的にきつかったと語る場合が多かった。「挺身隊」募集についても地方では募集員が学校を訪問し支援を促す講演も行われたが、京城ではそうした経験をもつ人はいなかった。むしろ、南京姫が通った有名公立女学校では、「挺身隊」に志願した学生を有力者であった父親が後に連れ戻すという出来事もあった:
“挺身隊に志願して、学校でそれほど拍手喝采を受けて、挺身隊に行くようになったんです。それで、あの子がブサンまで行ったの。行ったら父親がそれを知って、追いかけて行って、つれ戻してきた。父親が有力者で、それであの子抜けだせたんです。”<南京姫>
これとは対照的に、農村で貧農として暮らした李慧淑の場合は、「挺身隊」につれて行かれないように1年余りを隠れて過ごさねばならなかった。挺身隊動員の対象が下層女性に集中されたことを示す例である:
“挺身隊あったのよ。でる人は出ます。そこに行かされないように私が米びつのなかにも入っていたし、瓶にも入っていたし。多分一年以上、そうしていたでしょう。そして最後はうちの父が面倒くさいって、髪の毛を全部そってしまったんです。女にみえないように。”<李慧淑>
当時女学校に在学中であった女性たちのほとんどは、1990年代以降韓国で社会的イッシュになっている「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)問題について、当時「挺身隊」募集はあったが、それが「性的サービス」を意味していたとは知らなかった、と語った。しかし、当時一部の女学校で志願を奨励したのは「慰安婦」ではなく「勤労挺身隊」である。彼女たちは自分たちの社会的出身階層と女学生という身分が自分たちをそうした性的動員から守り、また自分たちがいかに恵まれた階層であったかを十分認識してはいないようだった。さらに、ある女性は「挺身隊」、つまり「従軍慰安婦」の実情を知らなかったことを当時女学生としての性的知識の欠如のためと考えていた。また、ある女性はこうした挺身隊に関する質問に気まずい表情をみせ、あまり語ろうとしなかった。こうした反応は「従軍慰安婦」問題を軍隊による組織的な性暴力や人権問題として理解するというよりも、女性に対する性的行為とみているためと思われる。それは、この世代の女性たちに貞操や肉体的純潔といった観念が意識の内面に重要な規範として位置づけられていることを示している。
女学生たちは神社参拝のほかに、慰問文作成、慰問袋作り、千人針、出征兵士の出迎えや見送りといった女性に与えられたさまざまな戦争応援活動をした。こうした銃後活動に対する面接対象者たちの態度は大きく二つにわかれた。日本に対する反感から、「面倒くさくてやりたくない」と思ったグループと59、とくに反感もなく「当然やらねばならないこと」と受け止めたグループである60。ほとんどの面接対象者は体制への反感のために銃後活動も形式的に行なう程度にとどまった。しかし、戦時体制期に女学校に入学し戦時教育を受けた場合、日本に対する反感よりも同調的態度を示す傾向がより強かった。それは戦時体制以後、朝鮮語や朝鮮史教育の廃止など皇民化教育が徹底して行われたためでもあろうが、彼女たちが他の面接対象者より相対的に年齢が低く、体制に対する批判意識が形成しにくかったとも思われる。もう一つ面接対象者たちの戦争に対する認識に影響を及ぼしたのは、家族の体制に対する認識と態度である。南京姫と韓真淑は、お互い年齢は近いが、植民体制と戦争に対する認識はかなり対照的である:
“日本が負けるか勝つか、そんな話は家に帰ってきてした、うちの父と。父はいつも負けるといって、学校行くと先生たちは勝つというし。だから二つの考えの間で学生たちは何もいわないでいたの。でもいつも疑いをもっていたでしょう。一方では勝つというけど、もう一方では負けるといっているけど、必ず勝つともいえないし、必ず負けるともいえないし、どっちかな、まあこんな程度で。”<南京姫>
59 “(慰問手紙)私が書くとみんな書き写しますよ、そっくり。ただ一生懸命戦えと書くんです。義務的に書くものなの。神宮参拝するたびに悪口をいったんです。そこに行って悪口をいいながら敬礼するもの。そのとき、行くの好きなひと、何処にいるもんか。やらせるから義務的に行くしかないんですよ。みんな反感をもちます。みんな悪口をいいながら行ったの。”<鄭玉順>
“神社参拝も、それを真剣に行った子は一人もいません。授業しないから良くて、おしゃべりしながら、遠足行ってくる気持ちで。そこに行って神社に向かって祈る子が何処にいましょうか。”<南京姫>
60 “私たちにはそんな人いませんでした。当然やるものと思ってやったの。日本人から教育受けて、日本人になるところだったんです。反感もなく、当然やるべきことと思って、やったんですよ。”<金徳順>
“日本が滅びるとかそんなのは、大人たちは考えていたかもしれないけど、私たち子供にはそんなこと一切いわなかったから、私たちは聞けなかったよ、そんなこと。そんなことを話したりすると大変だから。日本人の先生が日本精神(について)話すのを当たり前、と受けとめたのよ。われわれは韓国人なのに、日本語使わなければならないことについて反感をもって話をするのも、私は聞いたことないのよ。当然そうするものと考えていた。”<韓真淑>
家族が民族意識や戦争への批判的態度をもっていると、これが家族内で表現され自然に彼女たちも学校で注入される皇国臣民教育や内鮮一体思想に対して批判意識をもつようになり、よって銃後活動に対する不満も大きかった。
要するに、主婦であれ女学生であれ面接対象者たちの銃後活動は、消極的参加と他律的従順にとどまったといえる。朝鮮では日本のように空襲による戦争の恐怖が少なかったこともあろうが、いくら「国民」や「臣民」と呼びかけられても自分たちが日本人として一体化できなかった民族的アイデンティティーがより大きい原因と思われる:
“韓国人と違うと感じたのはですね、戦争を経験していたけど、戦争に対して日本の女たちはそれを本当に自分たちの戦争だ、そんな態度だったけど、われわれは一歩下がって、傍観者的なそんなのがあったんです。日本の女たちが、たとえば、私が一番印象的だったのが千人針。それを本当に信じてするのよ。あれをみるたびに、私たちは、はばかりながら、おかしいな、それがなんになるの、そんなふうに思いました。けれど、彼女たちはそんなのをあれほど一生懸命やっていたのよ。日本人の女たちがね…日本人がいくら君は日本人だといっても、それが本当に私は日本人だ、そういうふうにはできなかった。できなかったんですよ。いくら内鮮一体だの、そんなこといっても、それがどうして同じなんですか。そうじゃないでしょう。それをどう否定できるの、自分が。私はそれで、そんなふうにはなりませんでした。いくら誰が何といっても。”<南京姫>
しかし、こうした民族的アイデンティティーのために戦争に対する傍観的態度をとった点のほかに、女性を家内活動に制限する伝統的な性的役割観念が持続的に作用した側面も看過されてはならない。つまり、銃後活動は私的領域を離れた公的活動であって、既婚女性の場合、不参加の主な理由は、民族的アイデンティティーよりも母親および主婦としての役割が家庭の範囲を超える公的活動より、より重視されたためである。また、活発に参加した場合も、その動機は家族の利益と妻としての内助といった伝統的女性規範にもとづいていた。
2. 戦時の家庭生活
戦時の家庭生活でもっとも重要な問題は食糧確保であった。この経験は戦時期に主婦だった面接対象者たちに共通するもっとも苦しい記憶の一つであった61。食糧不足の程度と確保の方法は階層間で著しい差異がみられる。都市ブルジョア階層の面接対象者のなかで食糧不足を経験しない人はいなかったが、程度の差こそあれ、家族ごとに食糧確保の手段をもっていた。田舎の小作地や知り合いから少しずつ米をもってくるか、もっていた絹など高級品を米と交換する方法をとった。どの方法にせよ、非合法的な「やみ米」を得る行為だったが、不法という意識はなかった。食糧不足が日本の戦争のためという認識とともに現実的に生存のため家族が何らかの対策を立てねばならなかったためである。女性たちは田舎から米を隠して運ぶことを主な役割としてうけもった62。それは平素と同じく、ご飯を炊いて家族の食事を作ることが主婦、母親の役割と認識されたためであろう。そして「愛国班常会」への参加とは違い、米を隠して運んだり、配給の米をもらってくることは若い嫁たちも行なった63。
61 1942年、京城の愛国班長の70%を女性が占めるようになったのも、男性が参加に消極的だったこともあるが、とくに、食糧調達の難しい都市で愛国班をつうじて食糧と物資の配給が行われたために、主婦たちが参加せざるを得なかったためでもある。
62 “うちの夫の実家は、平壤から約百里行くとある自山というところに水田があったの。そこに行くと、小作人たちが少しずつくれるから。それも調査するでしょ、ここで。それで、ここに隠して、少しずつもってきて食べたりしたの。”<金仁玉>
家族構成員が多い場合、食糧調達の問題はより深刻であった。鄭玉順の場合、故郷の小作地から米をもってきたが、大家族の食糧調達が末期に進むに従い次第に難しくなると、弟の中学入試失敗をきっかけに家族全員が再び故郷に戻った。食糧事情がもっとも厳しかったのは労働者層と貧農層であった:
“一年ずっと農業しておくと日本人が米全部もっていく。それで日本難64のとき、とても大変でした。飢えたの。日本人が全部もって行っちゃって…豆の粉、豆かすも食べたりして。豆かすというのは、それでご飯を炊くと、とても食べられないの。少しずつくれるの。食べるものが何処にあるの?麦稲切って炒めて蒸して挽いて、おかゆも作って食べたり、食べ物がなくて…そのときはかぼちゃを集めて、かぼちゃのおかゆ。そんなもの食べて生きたの。”<金枝培>
農民は農業をやっても供出のために常に食糧不足を経験した。農民であった潤心徳は、供出に備え、米を土に埋めておく方法で家族の食糧を確保した65。貧農層女性の場合、文盲でかつ教育機会の不足、過度な労働で政治状況に関する情報や体制批判意識をもつに限界があったが、他の問題より強制供出といいかげんな配給による食糧不足は彼女たちに体制への反感を抱かせた要因になった。
女学生の場合も配給問題は体制への反感を強めさせた。李鐘姫はほかの女学生に比べ、厳しい環境で学業を続けたケースであった。彼女が通った京城女子医学専門では日本人学生が半分以上だったので、朝鮮人学生と日本人学生の間に言語問題など微妙な葛藤が起きることが度々あった。配給に対する差別は学生の間にいわゆる内鮮一体にもかかわらず、民族の差を認識させる出来事の一つであった:
63 “数升をいっぺんにくれるから、私が頭にのせてきたの。約五升ずつ頭にのせてこなければならないから。多分それが一月分だったと思う。それだけで食べたりした。”<金徳順>
64 無学で文盲の金枝培は、日中戦争、太平洋戦争期を「日本乱(....)」朝鮮戦争を「人共乱(....)」とよんだ。
65 “野良仕事をして、自由に食べれませんでした。全部あの人たちが供出してもって行くから。米。野良仕事しておくと、そんなに全部もっていって。だから、土掘って、埋めておいて。いくらお金持ちでも、自分勝手にそんなに食べられなかった。土掘って埋めておいて暮らして。そうすると、こんな槍もって回って、埋めておいたところをこう刺してみたりした記憶がありますね。そんなときはちょっと隠しておかねばならない。たくさんの食糧はできなくても、自分の食べる食糧は常時備えておかないと。”<潤心徳>
“本当にお魚も腐ったものをわれわれ韓国人に配給して。糧食もそんな食べられないものをくれて。本当にそんな差別待遇を受けながら。しかし、日本人の子たちは、そのときうちの学校の半分以上だったと思いますが、米も手に入らないけど、あの子たちがたまにその韓国の海苔がおいしいって。彼女たちは韓国の食べ物をほめるけど、こっちは本当に頭にくるのよ。韓国で採れた海苔を私たちはみることもできないのに、そうよ、みることもできないのよ。そのときは全部が配給だったんです。だから、そういっているのが憎らしくて、気に触って。気が利く子は海苔を一束もってきてはくれるんです、食べてみてって。自分たちの配給でもっらたのだと。そうすると、もっと腹が立って。自分たちもちょっとは気がすまないと思うんでしょう。でも、彼女たちも反日感情があるのを感じるのよ。”<李鐘姫>
食糧不足のほかに女性たちの反日感情を刺激したもう一つは真鍮器の供出であった。これも貧困層で打撃がもっとも大きかった。富裕層では備蓄して置いた物の一部だけ供出してもたくさん供出できたが、貧困層では日常生活になくてはならないものを取られるという矛盾があった:
“あのときはこんな匙もなかったの。木の匙、木の箸、木のしゃもじ、そんなの使ったの。真鍮の器、匙のようなもの、鉄というものは…あのときは部屋が寒くて火鉢というものがあるの。鉄でできた火鉢。部屋に置いてあぶったの、寒くて。そんな火鉢も全部もって行かれちゃって、日本人が全部。”<金枝培>
真鍮の供出も地域の愛国班長がうけもったが、住民の間に不信や反目はなかった66。供出を担当した朝鮮人に対してはまかされた仕事をやるだけという認識だったし、住民の間には供出は形式にすぎないという理解と共通の利害関心があったためである。
66 “親日でなくても仕方ない、やらなければいけないから。みんな大目にみてやるから、韓国人たちはお互い。”<金仁玉>
主婦たちは米の確保だけでなく、生地の不足やその他の生活必須品の欠乏に対処して行くために多様な戦略と技術を使った。植民権力が唱えた生活改善は現実に欠乏と困難を経験していた女性たちに実際には必要な方法を示すよりは、むしろ反感をかきたてるばかりであった:
“(生活改善)あら、まあ、キャンペーンしても誰が聞くんでしょう。暮らしがよかったら、それも聞けるでしょ。みんな暮らしが貧しくなったから、節約するものもないのよ。おかずなんかはとっくに。”<康玉子>
“いつも家庭生活、緊縮生活やれといったし。そんなのはいつもいうんです。生活改善しろ、また耐乏生活しろって。それは、まあ、継続的にするの。物資節約やるものがある?砂糖もないし。だからモンペ着て…節約するものもないの、物資がないから。”<金仁玉>
女性たちには家族の生存と健康がもっとも重要な問題であったが、国家の「生活改善」は消費を節約して戦争のための物質的動員を最大化することが主な目的であったからである。したがって、実際に戦時の家庭生活は強制供出を除いて、国家は主婦たちの自発的協力を得られなかったし、主婦たちは固有の生活慣習を変えようとした国家の「生活改善運動」に対し、依然として個人の家庭生活をそのまま維持しようとした67。
このように、面接対象者たちの戦争に関連した家庭生活に関する記憶は、食糧不足と真鍮器の供出、さまざまな物資の配給制に集中していた。その他の家庭生活の大部分は伝統的な様式が維持された。とくに、近代教育を受けた女性たちが結婚し大家族の主婦となった場合にも生活様式はそれほど変わらなかった。舅姑の権威が維持されていたために、彼女らが習い、接した新しい家事の運営は実践しにくかった。また、住居環境が改善されていなかったうえ、戦時の物資不足が近代的かつ合理的な家庭生活への改善を制限したために、姑の家事運営の知識が依然として通用する側面が多かった。そのために、家事は姑と嫁が協力して行なった。戦時中、女中廃止が唱えられたが、大体のブルジョア階層の場合、女中の賃金が安く、家事労働が依然として肉体労働の側面が強かったため、女中を雇った家庭が多かった68。教育水準の高い面接対象者であるほど、姑との同居を、関係の難しさよりも家事と育児を補助してもらった点から肯定的に評価し、また円満な嫁姑関係を強調する傾向が強かった:
67 とくに、固有の生活慣習に関する規定は強制にもかかわらず、慣習を変えるよりは取締りを避ける方法が取られた。“陰暦正月もやらせなかったし、もちも作ってはいけないし、酒も造ってはいけない。それでコッソリと夜やったりしたのよ。お酒も造ったら罰金払わせたの。もち作らないように監視する。精米所やどこかでうすでつく音がでるか監視するし。”<趙淵秀>
“何か買ってくるって全部お母さん(姑)が買ってくるし。お金を預かって使うから。(夫が)給料をもらってくると、お母さんに渡すのよ。そうすると、お母さんが全部買ってくるの。それが楽なの。後で病気になって、自然に私がやることになったの。うちのお母さんは、もともと何でもよくできるの。何でもお母さんがなさるのがいいのよ。気が楽。自分がお金もっているより。お金だって、給料もらってくるの多くないから。それを分けて使おうとすると、頭痛くなるよ。まあ、後になったら、自然に自分に。近頃はそうではないようだね。私たち仲がよかったの、二人が。お母さんと私が仲がいいから、誰か嫁もらうけど、秘訣を教えてって。何でも大変なことは、お母さんがしようとするからね。”<金徳順>
これは、彼女たちが現在姑の立場で、嫁の務めをしたのが過去であったこともあるが、また、彼女たちが教育を受けなかった女性よりももっと伝統的な嫁の役割規範に支配されているためでもある。
最後に、戦時の家庭生活に関する記憶には窮乏した苦しい記憶ばかりでないことを付け加えておきたい。母親の近代的な料理法や外国料理を人より先に食べてみた経験が誇らしげに語られた69。さらに、日本の食べ物や服装など日本文化の体験が親日的という否定的観点からではなく、一個人が裕福な家庭環境で享受できた近代的かつ異文化的な体験の一つとして語られた70。鄭玉順と韓真淑の場合、こうした傾向が強かったが、それは彼女たちが解放後、南下と家産喪失により家勢が傾いたため、そうしたことが過去の裕福だった家庭生活と結びついた体験として記憶されているためでもあろう。
68 “大体数年一緒に住んでみると、自分は大変な仕事をしてやって、家事をやってあげて、家の奥さんは学校先生しにでる、いない間に私が良くやってあげろ、と。人間的な紐帯感というか、そんなのがそんなに葛藤がなかったんですよ。昔、私たち家事をやってくれた人たちは私たちよりずっとノウハウがよかったんですね。私より洗濯もきれいにするし、洗濯も全部手洗いでしょ、そのときは。”<全英錫>
69 “うちの母は、新式教育は受けなかったけど、漢文はたくさん知っていて、小説が好きで春園(イ.グァンスの号)の小説は全部読んだのよ。YWCAチョン・スンウォン氏中国料理、チョ・ジャホ氏が韓国料理するの、必ず行って全部習ったのよ、その昔。それで、私たちは子供のときから、カレーライス、ハイライスなんか、全部作って食べましたよ。”<鄭玉順>
D.戦争と女性性の変化
昔は素敵なツーピースだった制服もなくなり、学生たちはモンペ、先生たちは脚絆に国民服姿であった。思春期の私たちはそれでもおしゃれがしたく、モンペに線を立てて着ようと、夜は敷布団の下に水を噴きかけたモンペを大事に敷いて寝た。
羅英均『日帝時代、我が家は』71
本節では女性の服装と容貌、立ち居振る舞いや態度といった日常生活を通して家父長的規範と植民主義、そして戦争がいかなる方法で女性性、あるいは世間的に女らしいと定義する観念の意味を規定し、また女性たちはこれらの意味づけをいかに認識し、どういった過程で女性性の意味を変えて行ったか、の側面を考察する。
1. 伝統服と洋服、そして家父長制女性規範
開化初期、上流層に属するわずかな女性たちが洋服を着始めて以来、1920-30年代にはいち早く海外留学を終えて帰国した新女性たちが洋服を着始めた。1930年代には女学校の韓服制服が当局の政策によって洋服に変わったことで、洋装姿の女性たちが徐々に増え始めた。女性の洋装は主に男性たちに奢侈と放縦、無分別な西洋模倣という批判の対象となり、そうした言説は多くの記事にされた。女性の洋装が当時一般化されたような印象を与えるが、決してそうではなかった。解放までは女性の大部分の服装は韓服が一般的であった。1930年代、女学校の制服が洋服に変わった後も女学生たちは家で韓服を着ていた。面接対象者のなかで1920年代後半以降出生した南京姫と韓真淑のみ子供のときからずっと普段着として洋服を着た。彼女たちは当時富裕層で教育水準も高かったために、普段着として韓服を着たことのない洋服世代においても早い方だと思われる。富裕層で教育水準も高かった全英錫(1923年生)や鄭玉順(1921年生)は家でも韓服を着た。彼女たちの通った女学校は一番早く制服として洋服を採用した学校であるが、彼女たちがこうした制服に対してとくに自負心や満足感を抱いていたようではない。とくに、鄭玉順の場合、卒業した淑明女高は日韓併合以前からいち早く制服として洋服を採用した学校で、彼女も1930年代には洋服の制服を着たが、洋服制服の不便さをこう回想した:
70 “すき焼きは家でよく食べたんだけどね。日本食は父がよく日本料理屋に行って食べたから。日本人をつれて外で食事もしたりしたから。私は好きだった。私たちは辛いの食べられなかったから…日本羽織、父も着たよ。日本人のお客さんくると、羽織着たりしたの。私は国民学校4年のとき、神社踊りしたの。日本の神社祭りするときに、花車に子供たちを、日本桜、これを被って日本服を何枚も着せて、化粧もさせて、子供たち踊るの、それをやったのよ。一年に一人だけなの。それをやったの、私が。家庭もいいし、学校で勉強もできるし、顔もきれいで、それで選ばれるのよ。だから、一番は父のためよ。まあ、本当に貴族だった、貴族。日本貴族なのよ。”<韓真淑>
71 羅英均『日帝時代、我が家は』(ファンソジャリ、2004)210-1頁。
“夏ですね、家に入るときには、女中が真鍮のたらい、大きいのよ、そこに水汲んでくるでしょ。私がいきなり脱ぐんです。私一人で脱げないんです。母がきて私の服を脱がせてくれるんです。ぴったりくっつくんです、ブラウスが。くっつくのよ、完全にくっつく。毛織の後ろの裏地が黒の木綿なんですよ、純綿。だから、厚い純毛に、なかにまた綿を入れて、その中にまたブラウスがこんなに長いじゃないですか。何枚もなのよ、何枚。だから、死にそうですよ。(家に)帰るときにはもう泣きそうになって入るんですよ。死にそうといいながら。女中が水汲んでくるし、母が入って。戸を閉めて私を洗うようにするんです…夏がくると、本当に死にそうだったのよ。一年中それを着るんです。冬はその上に上着一つ羽織るんです。 …可愛いどころか、本当にうんざりです。それに帽子まで被って。まあ、夏に帽子被るのよ…私はその服が本当にいやだったの。4年も着たでしょ。”<鄭玉順>
鄭玉順が洋服の制服に不満だった理由の一つは夏でも冬に着ていた毛織のジャンパースカートを着るためかなり暑く、慣れない帽子まで被らねばならなかったためであった。当時韓服の制服を廃止し、洋服に改めたのは経済性と活動性を生かすという政策的理由からであったが、気候の変化に合わせて選択できた韓服の素材に比べ、女性の洋服生地はそれほど多様ではなかったために、洋服の制服にはこうした短所があった。さらに、鄭玉順にこうした洋服の制服への不便さが主な記憶として残ったのは、洋服がもたらすモダン性や開化性にそれほど魅力を感じなかったためでもあろう。意外にも、当時女性として最高教育機関であった専門学校に通ったり、日本留学までした高学歴女性の間に洋服への憧憬や好みが現れなかった。李恩實が1930-34年に通った梨花女子専門はアメリカ人教授や合衆国留学後帰国した韓国人女性教授など洋服を着た教授がいたために、ほかのどこよりも洋服姿の女性たちを多くみかけられる場所であったはずだ。しかし、当時学生だった李恩實は洋服に対するあこがれをもってはいなかった:
“金活蘭72、あの方はアメリカ行ってきて洋服着たの。洋服着てもあの方は背も低いし、それで恰好もよくなかったの、正直いって。あの方はアメリカ行って帰ってきて当然洋服着るだろうと思ったけど、それを着ようと考えもしなかった。(金活蘭は)洋服も着たし、韓服も着たけど、洋服着てもあれ着たいな、と思うほどの洋服ではなかったの。金活蘭先生と一緒にいたソ.ウンスク先生やキム.エマ先生、キム.シンシル先生のような方たちはみんな韓服着ていたの。おしゃれというより、金活蘭氏は女性にとって彗星のような輝く存在だからそうだろうと思ったけど、うらやましがったり、私たちもあの洋服着れたらいいな、と思ったことがないの。宣教師たちは洋服着るものと思って、学生たちは洋服なんて思ったこともないの。西洋の服だ、あれ着たいな、考えすらしなかったの。外国人は外国の服、韓国人は韓国の服。(韓服が)不便だと思わなかった。韓国人は当然韓服着るものよ。”<李恩實>
梨花専門の制服は戦時体制が始まって以後、1939年に当局の政策で洋服に変わるまでずっと韓服であった。李恩實の口述からわかるように、当時梨花専門の学生たちはアメリカ宣教師やアメリカ留学から帰国した人たちが洋服を着ても、自分たちの韓服着用を当たり前のことと思ったのである。これは、韓服が制服であるためにそう思ったのではなく、学生たちの韓服への愛着が一貫して韓服を制服として維持したとみるのが妥当であろう。既存の指摘のように、韓服制服を植民統治下の民族精神の発露とみなすのは、植民地下の女性たちの意識と行動をありのままではなく、民族主義的観点に立って偏った解釈をしたためと思われる。服装は民族的なアイデンティティーを表す以前に、個性やアイデンティティーを表現する手段であり、女性らしさや女性性は、女性のアイデンティティーをなす一部分である。梨花専門の学生たちが洋服に魅力を感じなかった理由は、西洋人宣教師たちや西洋を経験した女性たちによって体現される形の制限された洋服よりは、自分たちがずっと着てきた韓服が自らの個性と美しさを表現するに当たって、より着慣れた服であったからと思われる:
72 梨花専門の卒業生で、梨花初の韓国人総長になった人物。1930年代にアメリカで韓国人女性として博士第一号になった。
“韓服を着ると恰好がいいのよ、洋服より。洋服着慣れないと、おかしいね。(梨花専門の学生たちが)服を着ても、恰好よく着たの。昔はチマ(スカート)にはチマひだをぱりっとさせる。そうすると、その姿がきれいなのよ。女学校では制服だから、同じ生地で同じ服を着るけど、専門学校は生地がいいものが取れたりすると、いくらでもおしゃれできるから。”<李恩實>
鄭玉順も梨花専門を卒業したが、彼女は女学校のときの女教師たちのしゃれた韓服姿についての具体的な記憶をもっていた:
“(女教師たちが)韓服、素敵に着てました。美術の先生、東京留学した方なんですよ。韓服なんだけど、一流のおしゃれ…また、家政科、日本女子大学出たけど、みんな韓服を着たんですよ…(先生たち)みんな韓服。(スカートの)長さは短くはくんです、靴履くから。全部おしゃれ、一流のおしゃれ。夏にはね、黒のケキ(チョゴリ)も着たんですよ。ぱっと透けてみえるもの。裏には赤を着たの。そんなのを着て。私たちはただ気をとられてみていたの、あら、素敵ねえと。私たちのとき先生はみんな韓服を着たんです。洋装しなかったんです。けれど、本当に服が素敵でね。色とかそんなのをよく合わせて。チマ(スカート)は大体黒とかそんなのをよくはいてましたね。服は、チョゴリ(上衣)があまりに素敵なの。私の印象に残っているのは、ケキチョゴリというのは大体白を着るの。けれど黒のケキチョゴリを着たのよ。それがとても印象に残っているの。普通、誰がそんなの着るもんですか。東京で女子美術学校出た先生、ユン.ヨンイ先生はオーバーを着てあまりにも素敵。韓服に着るんですよ、ベルト締めて。それが今も私の印象に残っているんです。”<鄭玉順>
彼女の記憶によると、当時女学校の若い未婚の女教師たちは最上級教育を受けて、日本留学をした場合も多かったが、華美な韓服に対する制裁のなかった戦時体制以前、多様な色と生地を使い、韓服でしゃれた美を表現するのが上手であったようだ。女教師は韓服でファッションリーダーの役割をしたのであり、それは金活蘭などの洋服よりも女学生たちによりアピールしたのである。透けてみえるチョゴリや韓服に洋服を合わせる着こなしは、当時男性たちの批判の対象にもなったが、学生たちは何の偏見もなく、そうしたスタイルを憧れの対象としてみていた。女性たちが家の外に出て近代的な経験をすることになり、彼女たちの服装と容貌は男性たちの観察と批判の対象になった。鄭玉順の口述によると、女性たちがこうした社会的視線にそれほど縛られず、少なくとも女学校という囲いのなかでは自分たちの個性と自我を服装をつうじて自由に追い求め、こうした感性が女教師と女学生の間に共有されていたことがうかがえる。
ところで、前章で述べたように、当時新女性たちが活動性と能率、労働節減のために服装の改良を主唱したが、実際は韓服の部分的改良にとどまり、洋服への完全転換を提唱しなかった理由はなんであったのか。口述によると、大体の女学生たちが学生時代は制服として長さの短い改良韓服や洋服を着ても、結婚後は慣習に従い、依然として伝統的な長い韓服を着たことが語られた:
“私たちの同窓も女学校4年卒業して(1939年)、その年に結婚して、その次の年に結婚して、そうするのが普通常例だったんですけど、結婚すると、当然たびはいて長いチマチョゴリ着たね。私たち同窓が150名なんだけど、学校卒業して、学校の先生かどこかの銀行に就職するとかそんな人たち以外に、気軽に洋服を着た人がどれぐらいいるか今考えてみると、そんなに多くないんですね。”<全英錫>
“大体、そうしても、結婚すると、よく韓服着たんですね。”<鄭玉順>
これは、近代教育を受けた女性でも、結婚後は再び伝統的な家族生活と女性としての役割、とくに伝統社会で重視された大家族内での従順的な嫁としての役割が求められたことを意味する73。新女性たちもやはり結婚後は「賢母良妻」になり、こうした規範の枠から自由ではなかったために、彼女たちの服装改良は韓服から離れられない限界があった、と思われる。こうした例は服装だけでなく、髪型においてもみられる。李鐘姫が通った女学校では何人かの「勇敢な」学生たちが学校の規則を無視して当時流行した断髪を敢行したことがあった74。この断髪事件は該当学生たちの停学処罰をもって終わったが、その理由は、女学生は卒業すると結婚して慣習によりまげをするため、髪を伸ばさねばならないが、それを無視して髪を切ったということにあった:
“卒業すると、すぐ嫁に行かないといけないから、髪を切ってはいけなかったんです。こうやって、おさげ髪をしてあんで行ったんですけど。最初、ある子が扇動して、中髪をしたんです。中髪とは、ここにこんなふうに、ピンを止めて、あまないで。それで、4年のときだと思うけど、ある学級で数名がそれを切ってね、その子たちを全部停学にしたんです。親たちから抗議が入って、騒動になったんです。卒業すると、すぐ嫁に行かせるんだけど、その髪でどうするってことだったのね、まげをしなければいけないのに。それで首謀者何人かが停学にされたことがあったのよ。”<李鐘姫>
このように近代的女性教育が普及しても、依然として家父長的伝統と規範が女性の服装と容貌を支配していたことがうかがえる。こうした側面は当時の女学校での裁縫教育にもみられる75。女学校で裁縫と手芸は総教育時間の三分の一を占めるほど重視されたが、制服は裁縫教育の一部として学生たちが製作したりした:
73 こうした例は、パク.ワンソ(朴完緒)の自伝的小説『彼の家』でも詳細に描かれている。パク.ワンソは、1931年生まれで戦時下の淑明女学校に通い、解放後に卒業し、1954年結婚したが、結婚当時女性の服装をこう表現した;「少女時代もほとんど韓服チマチョゴリを着て過ごす時代だった。結婚すると、後ろが左に分かれる長いチマチョゴリを着るようになるが、結婚前は、ひざ下くらいまでの筒状のチマに肌色の靴下に靴をはいった。洋装はしゃれた職業女性を中心に徐々に広がりつつあったが、家で花嫁修業する良家の子女や職場が保守的な学校の先生や銀行員たちは依然として韓服をよく着る時代であった。」パク.ワンソ『彼の家』(現代文学、2004)170頁。
74 この学校の「学生の注意事項」には、「髪をいつも正しく結い、3年生以上の断髪は不許可」と記されている;淑明女子中高等学校『淑明70年史』(淑明女子中高等学校、1976)107頁。
75 “私が卒業した保守的な女学校ではたび縫うのも教えたが、服の型を採る方法から裁縫法を徹底的に教えた。姑は私が裁縫ができるのにすごく満足した。”前掲『彼の家』170頁。
“家政時間に3年のときからミシンを使う。ミシン、学校にたくさんあるの。ずらりとあったの。ミシンなんでも自由に使えたの。できるものは全部作ったの。洋裁というでしょ、洋裁時間。ワイシャツも作ってみたし、運動服もしたし。制服はするの。私たちが4年のとき、1年生の新入生のも私たちがするの。寸法も測ってするの。一人ずつうけもって。私たちが入っても、上級生がしてくれたの。それがとっても印象深い。夏物、冬物。”<金徳順>
“セーターは、冬服制服は私たちが学校に入ると、秋まで私たちの手で編みます。”<全英錫>
伝統社会で裁縫は女性の重要な家事労働の一部であった。嶺南地方の両班層であった潤朱英は近代的学校教育の機会は得られなかったが、幼いときから家で自分が受けた教育のほとんどは結婚に備えた裁縫であった。彼女は裁縫について農業労働をせねばならない常民層の女性に比べて両班階層女性としてもつ技術であり、かつ重要な家事労働として口述した:
“韓服、全部したよ。嫁にくる前にうちの母から全部習ってくるのよ。私たちは結婚するときは男たちの服、全部したの。男たちの服、トゥルマギ76そんなの、私が全部したのよ。そのときは、ちょっと田舎であって、ちょっと結構なところあって、班村あって、民村あって、民村人たちは娘たち、みんな畑で働いて、班村人たちは女たち、畑で働かなかったの。針仕事だけしたの。そのとき、家が結構な人たちは娘たち、韓服取り揃えて着た。だから、韓服全部できるのよ。生地だけもってくれば、服作れるの。トゥルマギなんか、(常民たちは)よくできないの。班村人たちは子供のときから針仕事を教えるのよ。畑仕事はしなかったんだから。”<潤朱英>
76 男性用の外套。
こうした裁縫は近代女性教育が施された日帝下の女学校でも持続的に重視され、女性たちも裁縫の重要性を認識していた:
“裁縫よくできる子は冬休み、夏休みに自分たちで作って着る。昔は女が裁縫できないと、女の一つの生命と思って、一生懸命習ったの、幼いときから。そうよ、幼いときから針仕事したのよ。母親から習ったの。韓服作れるの。綿チョゴリ、作ってみたよ。女の生命だから、できないとだめでしょう。料理と裁縫はできないとだめですよ。家事実習時間があって、裁縫時間は手芸。洋服作るの、女学校のとき、一つ習った。ネクタイ、一つ作って、子供のオーバー作るの、私は弟の、作ってあげた。学校時間にやるから。”<李恩實>
よって、学校を出た女性たちは学校で習った裁縫技術で自分や家族の服を作ることができた。師範学校を卒業し、教師として勤めた経験のある金徳順は昨今の女性はそうした能力がないと指摘した:
“最近の子たちはミシンもできない。(私は)子供たち、全部作って着せた。私がよく作って着せたの…うちの娘、大学のときも私が作ってあげたの。女学校のとき、習ったから。おじいさん(夫)シャツも作って着せたし。そのときはあまり買えないから。私の友だち、みんなできるの、習ったから。韓服は1,2年のときして、3年からは洋裁した。”<金徳順>
“(女学校で)パジ(ズボン)チョゴリそんなの全部したの。洋裁も、夏休みになったら、誰かがきて特別講習をしたね。ワンピースしたよ、ワンピース。それは特別に2,3日講習をさせましたね、洋裁縫を。”<鄭玉順>
裁縫とともに重視されたのは手芸だが、ほとんどの女学校で手芸時間には卒業後の結婚に備えて嫁入り道具としてもって行けるスジョジップ77を作ったり、ときには手芸教育のためほかの科目の授業が軽視されることもあった:
77 匙と箸を入れておく袋。
“私が淑明で東洋刺繍、藤の屏風、刺繍をしましたよ。何年も選ばれて。だから、まともに勉強をしなかったのよ。房子女史に差し上げるって。そのために勉強をまともにしなかったんですよ。そのとき、房子女史が(学校の)理事長格のようだったんです。”<李鐘姫>
賢母良妻理念の近代的女性教育の真価は前近代社会で重視された裁縫が依然として女性教育のなかで少なからず比重を占めていた点に現れる。こうした教育内容のため、近代的教育を受けなかった潤朱英と、当時最高学府をでたというプライドをもっていた李恩實の間には、女性の家庭内の役割と義務に対する観念に相違点がみられない。近代的教育機関である学校が家庭に代わり、また家政学を専攻した女教師が母親に代わり女学生の裁縫教育を担当したが、これは近代女性教育が前近代社会での女性教育の目的と同様、結婚とその後嫁としての役割を務めることに目標を置いたことを意味する。
一方、貧困した農民層であった潤心徳と金枝培にとって衣服とは、労働を意味するものであった。彼女たちは木綿の種をまく段階から、成長後収穫し、糸をつむぎ、布を織って家族の服を作るまでの前近代的手工業的家内労働の全過程を今も詳細に記憶している。彼女たちは一日中畑での農業労働を終えた後、帰宅して夜また機織をしなければならなかった農民層女性に負わされた労働の厳しさを仔細に話した。解放以前、農民層女性には伝統的織物生産の労働が必須的役割として求められたことが分かる。
当時近代的教育を受けた女性たちが賢母良妻主義の学校教育や家庭での教育にどれほどの抵抗や不満をもっていたかは口述からはうかがい知れない。当時、抵抗感を抱いていたにしても、長い年月が経ち、ライフステージ上の変化も思春期や短い青春時代の感性への記憶を損なうであろう。しかし、女教師の韓服に対する記憶や友人の断髪事件など限られたいくつかのエピソードをつうじて、社会的批判や圧力にもかかわらず、女性たちが服装と容貌、ひいては自分の身体に関することを自らの意志によって主体的に決定しようと試みたことがうかがえる。女性教育が伝統社会での女性規範をそのまま持続するように行われたとしても、女性たちが容貌と服装をつうじて美しさを表現しようとしたのは、ある面で服装と容貌こそ日常で自分の自我を表現できる領域であったためであろう。しかし、農民女性がこうした経験から除外されたことは植民支配下女性の生活経験の多様性という観点の重要性を示す。要するに、いかなる階層であれ、衣服を取り巻く女性たちの体験に家父長制の規範が作用していたことは見逃せない。
2.戦時女性の服装統制と女性性維持の戦略
モンペが戦時女性の服装として強制される前から事実上、女性に対する服装統制は始まっていた。同じ梨花専門でも、戦時以前に卒業した李恩實と、戦時中に通った鄭玉順とではその口述から差異がみられる:
“自由でかなり奢侈したね。昔は梨花女子専門学校、最高学府といって、本当におしゃれは一番で。梨花のおしゃれは服もよく着て、奢侈でそうだったの。とにかく、梨花というと、おしゃれすることでたいてい知られていたの、世間から、一般社会で。髪もちょっとしゃれて素敵にしたりして。化粧も少ししますよ、おしろいもして。”<李恩實>
“そのときは韓服着るけど、色がいくつかあったんです。それであれこれ着たんです。それでも、華美に着たりするといけなくて、地味に着たんです。(戦時だから?)そうですよ。夏は、麻チョゴリと黒のチマ着ました。冬は、色がちょっとあるのを二つか三つ着たんです。コ.ファンギョン、韓服。金活蘭、韓服。イ.ジョンエ先生は長いチマもお召しになって。学校でる方はみんな短い(韓服)チマ。我々のときは、洋装しなかったんです。洋装したの、みなかったけど。(教授たち)地味に短いチマ、靴はいって。おしゃれしなかったですよ。”<鄭玉順>
学生たちの服装だけでなく、先駆的に洋服を着た新女性である教授たちの服装も地味な韓服に戻った。モンペが強制されて以後、女性たちのモンペに対する反応は多様になった。年齢別でもそうした差がみられるが、モンペが強制された当時、一番おしゃれをする年齢にいた未婚女性たちがより反感を示した。鄭玉順は、専門学校卒業後、結婚前に臨時教師をしたり、家事手伝いのとき、モンペが強制的に施行されると、取り締まりを避けるために仕方なくモンペを作ってはいたことをとても不快な経験として語った:
“(1941年、専門学校卒業後)北韓(北朝鮮)の私たちの故郷に行ったが、そこで取り締りがひどかったんです。新義州から行くけど、とにかく着ないといけないっていうんです。それでまあ、私はモンペはきたくないけど、モンペを仕立てて。つまらないとこがあったんです、洋装店というものが。日帝末期だから、モンペ着ないといけないんです。汽車に乗らなければならないんですけど、それに乗ってくるんだけど、取り締りをするって。みんなはいているんです、ズボンのようなもの。私はそれ、はきたくないのをはいていました…(モンペ)それをはくと、へんなんです。いやだったんです。なぜか、いやでした。取り締まりするって相当うわさが出たんです。車にも乗れないとか、そんな話があったんですよ。”<鄭玉順>
韓真淑の場合、女学校入学後、勤労動員が増えたためにズボンスタイルのモンペが制服に取り入れられた。彼女がモンペに対して特別な反感をもたなかったのは、容貌に関心をもつには幼かったこともあるが、戦時に国民学校に入学してずっと厳格な軍国主義の下で学校生活を送ったためか、モンペを戦時下の圧力的な学校規律の一つとして受け止めたからである:
“私たちは(勤労奉仕で)ずっと畑で働いたのよ。ズボンをこうひだをつかんで、こうしたズボンを着たと思う。お母さんたちは上にひだをたくさん取って大きくモンペで、私たちは、上はあまりひだをとらなかったね。それで、ズボンのようにして、下だけひだをとってしぼって。登校のときもはいた。戦時になって、そうなったと思う。そのときは戦時だから、おしゃれも知らないで、ただ働きに行ったから。おしゃれというのを私は知らなかったと思う、女学校1,2年のときは、幼くて。”<韓真淑>
モンペへの反応は職業によっても異なった。小学校教師であった李恩實によると、モンペは教育目的から学校の防空訓練時に着用するよう義務づけられたが、彼女はモンペ着用を職務遂行上、行なわねばならない項目の一つとして受け入れ、特別不満を表さなかった:
“月曜日が愛国日なの。愛国日にはモンペといって、今はズボンが色とりどり。しかし、昔はズボンはかないでモンペといって、月曜日は避難訓練のため(モンペを)もって行ったよ。(出勤のときは)洋服など着て、月曜日愛国朝会日だけ。防空訓練のためその時間だけはいたの。普通ははかないで。”<李恩實>
外での活動のため外出せねばならない若い女性や職業女性は取り締りのため、モンペをはかねばならなかったが、家庭婦人たちはできるだけ取締りを避けることでモンペをはかないようにした:
“うちの母、まあ、はかなかったんですよ。なんやかんやと、切り抜けたようです。私たちは外にでることが多くて、年とった人は…”<鄭玉順>
それはモンペが、ズボンのように腰や脚の線を表すが、当時韓服ばかり着た女性にとってズボンとは伝統的な女性の下着として認識されていたからである。したがって、儒教的伝統の強い地方の班家の女性たちは下着のようなモンペを年長者の前でははけなかったと語った78。女性の服装が植民権力と家父長権力がお互い競合する地点になったのである。一方、積極的にモンペをはいた女性たちもいた。父親が地方都市の有志として個人事業を営んでいた韓真淑の場合、彼女の母はとくに拒否感を表さず、モンペを日頃からよくはいた:
“うちの母は、いつもいわれたとおりにしたから。やれといわれると、無条件やったからね。父がそうだったから、やれとなると、すぐ守るのが原則だったから。みんな(モンペを)はいていたから、当然はくものと思ったから。父が(国民服)着ろというと、着るものと思って。だから、母もしゃきっと着て。それどこがみっともないとか、はきたくないとか、そんなこと、私は聞いたことがない。”<韓真淑>
78 チョ.ヒジン『士とピアシング』(東アジア、2003)266-9頁。
韓真淑の母がモンペに順応できたのは、夫の順調な事業のために地域婦人会の一員として活動した彼女の自発的な選択であり、一つの生存戦略である。
モンペに対する認識と反応は、階層によっても異なる。貧農層で多くの農業労働をせねばならなかった潤心徳は、モンペを働きやすい服と思っており、最近まで自分で作ってはいた。:
“モンペをはけ、といわれてはいていました。モンペ作って黒く染めて。はさみで切って、ただ手で作ってはきます。今も作れというと、作れるよ。私はこの夏も生地、いいものがあって、作ってはいて出入りしましたね。今、みますか。全部手で作ったんだから。これ、直接自分で作ったのよ。”<潤心徳>
自ら作ったモンペを誇らしげにみせてくれた潤心徳からはモンペスタイルへの拒否感は感じられなかった。ミシンなど大した道具も使わず、手軽に作れる点が彼女が最近までモンペを日常的にはいているもう一つの理由でもある。30代に夫と死別した後、農作業とよその家の雑事で子供3人を養った潤心徳にとってモンペは機能的な作業服であった。これとは対照的に、ブルジョア階層だった鄭玉順は戦争末期、短い間モンペをはいた記憶を恥ずかしいものと思っていた:
“仕立ててはきました。下手な洋装店があったんです。そこに頼みました。汽車に乗って行き来するときにはいて、その後は、はきませんでした。捨てたんです。”<鄭玉順>
この二人はモンペのはき方にも大きな差があった。鄭玉順がモンペを高級生地でブラウスを仕立ててはいた反面、潤心徳は働くとき、韓服チョゴリ(上衣)下の肌がみえないように、韓服チマを着てその上にまたモンペをはいた:
“上は、まあ、夏に、本当におかしいの一つ。私、それ、はきたくもないのを仕方なくはいたね。上着一つ仕立てて着ました。それは木綿、細い木綿がとてもきれいなのよ。それが珍しいものよ。ポプリンか何かで作るのあれで…モンペズボンにそれを着たね。”<鄭玉順>
“そのときは、これはくときは筒状のチマがあったから。チマをはいてしまえば、このチマがなかにあるから、これ(胸)がみえないでしょう。だからチマをはいて、モンペをはいて、そうするの。チマをズボンのなかに入れるのよ。そういうふうにはいていたんです。”<潤心徳>
モンペに対する抵抗は両班意識の強かった潤朱英にもみられる。彼女はモンペを働く女性の服とみなし、自分は裕福な両班階層であるため、モンペをはく必要がなかったことを伝えようとした。彼女が多少不快な表情でモンペに対する記憶を語ったのは、解放後もモンペが労働者、農民、商人など主に女性労働者の服として残ったためである:
“モンペはたくさん働く人、台所で便利だからはいて。私はモンペそんなにはかなかったの。韓服着たよ。モンペそんなによくはかなかった。私は、手伝いの人がいたの。手伝いの人がいたから、モンペそんなにはかなかったよ。人並みに暮らしたから、そんなに悪く着たり、そうしなかったの。モンペはちょっと貧しい人がはいた。どこかお出かけするときは、モンペでは行けないでしょう。おかしいでしょう、仕事着だから…そんなに貧しい暮らしではなかったのよ。”<潤朱英>
潤朱英のモンペに対する記憶と口述は服装に対する伝統的女性の階級意識を表すが、近代教育を受けた女性たちも何らかの形で自分たちの意志を表現しようとした。1945年4月、すでに梨花という校名を抹消され、京城女子専門に改称された梨花女子専門に入学した南京姫は、モンペを強要された戦争末期の女性知識人たちの服装と容貌をこう語る:
“京城女専のときはね、入学式のときに(金活蘭校長を)たった一度だけみたんです。それで、髪をオールバックにして、こうして。彼女が断髪なんだけど、後ろにかつらを一つパンのようにつけて。黒のブラウス、チャイナカラーに…モンペはいて、同じ色で。紺でしょ、多分。モンペはいて。こんなに高いハイヒールをはいたのよ。それも無言の抵抗よ。キム.ヨンイ先生もモンペをはけっていわれるから、はいたけど、そのモンペがそのときみてもハイカラなんですよ。素敵なの。あの方、アメリカ留学生なのでね。日本式モンペがまったくなくて、本当に西洋の匂いがプンとする、そんなモンペだったの。生地もそうで、生地もとにかく西洋もののようで。スタイルもそうで。”<南京姫>
前章で述べたように、当代新女性のアイコンといえる女性知識人たちも戦時体制による服装と容貌への規制に抵抗はできなかった。むしろ、彼女たちの社会的地位と知名度のため、より強い制裁と干渉が加えられたと思われる。ところが、実際の彼女たちのモンペ姿はモンペ本来の趣旨である、西洋を排撃し真の日本精神を生かすという戦時の政治的意図からだいぶかけ離れている。モンペにハイヒールをはいたり、西洋生地で作った西洋スタイルにモンペを作ってはくことで、日本の伝統服であるモンペがむしろ洋服に変わったのである。農村の作業服であり、日本の伝統的衣服であるモンペが、植民地の都市知識人に画一的に強制されるとき、女性たちのこうした創造的ファッションは、自分たちの女性性とアイデンティティーを守ろうとする戦略からでたものである。これは、個性と女性性を奪おうとする全体主義的画一性と軍国主義への一種の消極的抵抗であり、植民主義に対する無言の反抗と読める。南京姫も、流暢とはいえない日本語で話し、西洋スタイルのモンペをはいた教授たちが出席した「無言の入学式」で公立女学校のときとは違って「心に伝わるものがあった」と語った79。
都市で教育を受けた女性たちのモンペへの抵抗は、モンペの代わりにズボンをはくという現象をもたらした:
“家の近所に洋裁する人がいて、ズボン作ったことを思い出すね。セールチマ解いて。その人に裁断してもらって、自分で作ったことが思い出される。44年なのね。そのときは戦争の真っ最中だから、私が多分モンペの代わりにはいたと思う。セールズボンだから恰好もいいし。モンペは醜くて、それはお出かけしないの、着たら。(モンペ)はけ、はけといわれてもよくはかなかった。”<金徳順>
79 “(京城女専の入学式のとき、金活蘭)校長先生は一言もいわなかった…私はそれがとても印象的だった。校長がでてきているけど、何にもいわないのよ、はじめから最後まで。本当に印象的だった。入学式といってもとても簡単だったね、だから。そんなのが心に伝わるものがあるの。何にもいわないけど。”<南京姫>
格好悪いモンペスタイルを嫌った女性たちは代わりにズボンを作ってはいたりしたが、彼女たちがズボンの機能性に惹かれたわけではなかった。戦時服と容貌に対する統制と介入は女性性の表現を抑圧し、そのため解放後に流行したのは戦時下に禁じられたパーマと化粧、ベルベットの韓服チマ、絹の韓服チョゴリであった:
“女たちがね、確かに活気があった、解放された後で。反動でベルベットのチマをはいたりしてね、学生たちが。ベルベットのチマに、絹のチョゴリ。ハイヒールに、短い(韓服)チマに。だからおしゃれし始めたね。パーマネントしてすごかった。解放直後にね。洋服を着た人が少なかったの。韓服をそんなに着て。”<南京姫>
モンペに対する女性たちの反応が年齢別、階級別、教育水準別で多様に現れたのは、衣服がもつ社会的意味との関連がある。面接対象者のなかでブルジョア階層で学歴の高い女性たちの間でモンペに対する否定的な反応がもっとも強く現れた。特筆すべきことは、彼女たちがモンペ着用の強制性を強圧的な植民統治や軍国主義体制と関連させて批判するよりは、醜い服を着たことを女性一個人としての羞恥として語る傾向がみられた点である。彼女たちはモンペ着用を社会体制の矛盾としてみるよりは、自分たちの女性性と個性を損なった側面として受け入れるか、または記憶しているのである。よって、当時モンペのはき方も、できるだけ自分たちの衣服に対する感性や個性的なはき方、社会的地位とイメージを守る方法ではこうとしたのである。戦時国家はモンペを強要することで女性間の差異をなくし、画一化しようとしたが、厳密な意味でそういった画一化が進んだとはいいがたい。モンペが衣服である以上、はく人の経済的、社会的条件と分離できない側面があったばかりでなく、より重要なのは、体制によって画一化されまいとする女性たちの女性性とアイデンティティー維持の戦略および選択性が作用した面である。
3.民族的アイデンティティーと女性性の植民地性
昨年秋ヨランは上級班の学生数名と一緒に日本人舎監排斥運動の首謀者として追い込まれ、ついには鍾路警察署の世話になったことがある。中村という日本人舎監が寮生の反感をかったのは、日本化教育の生活化に徹底しすぎたためである。部屋ごとに神棚を置くようにするし、さじの使い方は野蛮的、箸の使い方は文化的といい張るし、甚だしくは畳部屋で女性がひざまずく座り方を女性美の極致であるかのように、オンドル部屋でも強要した。それは立ったり座ったりが刑罰のように苦痛で屈辱に思わせた。寮で起きた中村舎監排斥運動はすぐ全校生盟休へと波及した。
朴完緒『迷妄3』80
日帝時期女性に求められた規範の一つは日本的女性性である。これは、従順と温和、謙譲、誠と献身といった日本の伝統的婦徳の強調のみならず、節制された厳格な、決まった型をもつ態度や姿勢といった身体的側面での日本女性的なさまざまな要素を求めたのである。こうした点は言説からはそれほどうかがえないが、女学校に通った女性たちの記憶と口述にはっきりと現れる。それは、こうした日本女性独特の立ち居振る舞いや姿勢の強調と日常化が女学校教育をつうじて実際に行われたためである。どの女学校にもあった「礼儀作法」教育は茶道や歩き方、すわり方、姿勢に至るまで女性の身体を統制する厳格な規律化の過程であった:
“たとえば、すわり方。日本人はとくにそうなの。昔、着物着て、なかに下着をつけなかったって、日本の女は。だから、この先生のいうことは、自分の立ち居舞いをいつも裸だと思って立ったり座ったりしろ、そうすると、足をどういうふうに置くべきか自然にわかるようになるだろう、そんな話をしたね。女が立つときも、座るときもいつも足をこうくっつけて座って、そんなのをそういうふうに表現したんだけど、私が日本の女のように行動するということではなくて、そんな話が頭にいつもあるんですよ。”<南京姫>
80 朴完緒『迷妄3』(文学思想社、1990)32頁。
“畳部屋に行って日本式のお辞儀して、日本式のすわり方、そんなの。日本人の先生そっくりにしなければいけない。歩き方もこういうふうに内向きで歩くの。こんなふうにした。”<韓真淑>
礼儀作法教育のねらいは受身の態度と姿勢を女性としてふさわしい態度として規定し、それを身に付けさせることにあった。南京姫と韓真淑の口述からわかるように、礼儀作法教育は女性の身体を常にみられる客体として対象化し、そうした他者の視線を意識し、自分の体の動きに対して緊張感をもつようにする。歩き方やすわり方は限られた空間で限られた動きだけが可能だが81、こうした教育は女性が劣等で脆弱な立場にいることを女性自らに刻み込む過程である82。学生たちは、ほかの授業より礼儀作法の時間をよりはっきりと記憶しているようであった。彼女たちの記憶のなかでは、「その時間はとても足がしびれた」といった身体的経験が共有されていたが83、これはひざをついて座る習慣が韓国人にはないためである。つまり、礼儀作法教育の内容は、畳とふすまがある住居と幅の狭い着物を着る日本文化にもとづくものであるため、幅の広いスカートをはいて、硬いオンドル部屋に座る韓国人の住居生活や行動様式には適合しないものであった:
“君たちも日本女性と一緒だ、と想定するの。お辞儀をするときはこうして、歩くときはこう歩いて。日本式の座敷に入るときは、床の間があるけど、はじめ入って、床の間に何かが掛けてあると、それをみて、拝見するといって、それをみてお辞儀をして。床の間のあるところは上座で、なんかそんなこと。だから、私たちの生活とあまり関係ないことを、そういうふうに教えたんです。歩くとき、畳の縁あるでしょ、布でできた、それを踏んではいけないって。ふすまを開けるとき、必ず座って開けるけど、ここに取っ手があると、座ってこういうふうに、少しこれだけ開けて、残りを開けるとか。それを閉めるときは、はじめはこういうふうに引っ張って、こう閉めるとか、そんなの。”<南京姫>
81 Wexは、日本女性が足の指先を内に向けるように教わるのは伝統的従属の表れである、と指摘する。Marianne Wex, Let’s Take Back Our Space: “Femae” and “Male” Body
Language as a result of Patrarchal Structures, Frauenliteraturverlag Hermin Fees, 1979. Sandra Lee Bartky, Femininity and Domination, Routledge, 1990, p.130から再引用。
82 Sandra Lee Bartky, Femininity and Dominaton, Routledge, 1990, pp.67-71.
83 “作法室といって別個にあった。そこに座って一時間座って立ち上がると、みんな倒れるのよ、足がしびれて。それで礼法もたくさん習って。座って何かたくさん話をしてくれたけど、足が痛くて、その時間になると、みんな苦痛で。”<呉恵子>
礼儀作法教育は畳敷きの個別の作法室で和服姿の日本人女性教師が担当した。彼女たちは日本文化に接したことのない植民地女学生たちにとって、日本文化のなかで作られた日本的女性性の伝達者であり、伝統的家庭での母親や女性家族員に代わって女学生たちの身体的規律を担当する、公的権威をもった統制者の役割を務めた:
“おばあさん先生だったんです。日本でも貴族たちが娘を嫁がせる前に、この方のところにやって、何年か修行させて、自分の家に帰ってから嫁ぐんですって。いつもその態度がとても、本当に端正で。静かで。とても尊敬していました。そのお宅に年頃の娘さんがいつも二、三人きていて。日本貴族の娘たちです。きて裁縫なんか習うけど、これは先生の話なんだけど、まともにやらないと、解けというんですって。解くと後でよくできないですから、気をつけろって。本当にできないと、マッチもってきて、先生の前でその服を燃やすんですって。先生の前でぶるぶる震えながら。それほどとても厳しい、そういう教育をさせて。(その先生の家が学校の)運動場の前にありました。”<李鐘姫>
李鐘姫が記憶する礼儀作法教師は淵沢能惠(1850-1936)である。淵沢能惠は、淑明女学校の全身である明新女学校の創立に関与してから以後32年間学監として事実上校長の役割を務めた。いいかえると、日本女性として植民地女性教育を担当した代表的人物といえる84。淑明女学校に通った李鐘姫は、在学当時学校の運動場のすぐ隣にあった彼女の日本式家屋で日本式礼儀作法を習い、また彼女が学校で尊敬される立場にあった教師だったと記憶している。女学校に日本人女教師を配置して、彼女たちに日本式礼儀作法を教えさせようとした植民地女性教育政策には日本精神の涵養のみならず、日常生活で日本人女教師と頻繁に接触させることによって、女学生たちに自然と日本文化を受け入れさせ、同化させる目的があった:
84 任展慧は、奥村五百子、淵沢能惠、津田節子を植民統治に加担した3女性と指摘しながら、日本女性の朝鮮植民支配に対する責任問題を提起した。鈴木は、これら3人の女性は政治、経済のみならず、思想と教育、文化に至る、日本女性による朝鮮女性の支配を表す系譜と指摘する。鈴木は、日本近代のフェミニズムは、日本の帝国主義的侵略と植民地建設に反対せず、むしろ当時の『婦女新聞』でさえ朝鮮併合を「多年間の悪政」と「国民の無知」に起因する「当然の結果」とみなし、植民地への日本女性の進出を奨励した、と批判する;鈴木裕子『フェミニズムと朝鮮』(明石書店、1994)38-44頁。
“日本女性、とにかく親切が身に付いていて、それが出てましたね。日本女性たちの礼儀、節度ある生活、これはわれわれが見習うことよ。先生の家に行ったりしたね。本当に節度ある生活するのをみたの。”<李恩實>
李恩實や李鐘姫は礼法を教えた日本人女教師に対する尊敬心を表したが、南京姫や韓真淑はそうではなかった。彼女たちが日本人女教師に親しみを感じなかった理由は厳しい教育とともに教師自身の日本人としての民族的アイデンティティーの主張のためであった:
“私たちその先生を嫌ったの。なぜなら、とても日本人で、自分は日本人である、ということをかなりみせて、それで私たちとはちょっとつうじない、そんな先生だったんです。”<南京姫>
“とても怖かった。望月って本当に怖かった。私たち同士ではあの人わるい、いじめているなあと思った、厳しくするから。”<韓真淑>
作法教師だけでなく、女学生たちは日本精神を強調したり、日本人の優越性をあらわにする教師に対して反発するまでに朝鮮人としてのアイデンティティーや民族意識をもっていた:
“とくに日本の民族性を強調する、そんな先生は憎まれるんです。国語先生のなかに、大和魂をとても、ああいうふうに話す人はいやでしょう。私たちより2,3年先輩たちがストライキを起こして何人かが犠牲になったという話があるんです、民族の話のことで。”<李鐘姫>
口述者たちの大部分は学校での厳しい皇国臣民化教育にもかかわらず、韓国式生活様式と文化を守る家庭で親兄弟の日本に対する敵意ある態度に接することで民族的アイデンティティーをもった85。しかし、一方で、女学生たちは日本女性としての教育については足がしびれたこと以外にそれほど不満や抵抗を示さなかった。むしろ、模範生だった女性たちはそうした規律の内面化傾向が強く、今でもそれをよい教育として評価した:
“規律が厳しいですね。だけど、それが学生を制裁するためより…それで姿勢も正しいし、それが生活化されるから正しいですよ。”<全英錫>
“日本人はいつも礼儀、正しく本当にしっかりと教えたといった。私は今もよく習った、よく教えたと思う。私がそういうふうに習って、また、私自身が日本人の下で子供たちをそういうふうに教えたし。日本人は秩序があって整然として、それだけは本当に見習うことですよ。”<李恩實>
規律の内面化には実生活で接する教師だけでなく、読書といった文字媒体も補助的役割を果たした。植民地における言語教育は教育経験のある女性ほど韓国語よりも日本語の上達をもたらし、そのため彼女たちの読む本は日本語で書かれたものがほとんどであった86。読書をつうじて本のなかで再現される日本女性の受身で優しい話し方や態度を理想のものとして捉えるようになると、朝鮮女性は「おてんば」という新たな認識がうまれる。事実、日本人と朝鮮人の居住地はどこの都市でも隔離されていたため、女学生たちが教師以外に多数の日本女性と接する機会をもったわけではなかった。したがって、本をつうじた間接的経験は、日本女性たちをより理想的な女性性を具現した対象としてみることに主な役割を果たした、と思われる:
85 面接対象者のなかで民族的アイデンティティーや反日感情は、教育を受けた階層だけがもっていたのではない。貧農層であった李慧淑は子供のとき、父親が日本人警察から不当に殴打されるのをみたり、米供出などで反日感をもつようになった。金枝培と潤心徳も、米供出に関連して反日感情を表した。潤朱英は、地域社会における日本人の朝鮮人に対する軽蔑的言語や行動を口述した。一般化できないが、家族の反日感情が強いほど、戦時期以前に教育を終えた人であるほど、反日感情や植民体制への不満が大きく表れた。戦時期に幼かった人ほど、皇民化教育に対する批判意識が低かった。
86 “日本のものしか読めなかったんです。韓国語は習わなかったんですから。文字を知らなかったのよ。韓国語で出版された本は、それを探して手に入れて読んだ人でなければ、我々のように普通の女学生、まったくそんなものが手に入る機会がなかったのよ。家におばや父の本があったけど、知らないから、読めないのよ。ハングルが読めないから、(その本を)読めなくてすべて日本のものだけ読んだのよ。日本文学も読みました、たくさん。”<南京姫> 朝鮮語教育が禁止される前に女学校に通った面接対象者たちも、日本語で読むのがもっと楽で、速いと語った。
“いつも本何か読んでみると、あの人たち(日本人女性)の態度は、本当に見習うに値しますね。小説でも何でも、そのときは全部日本語で読んだから。韓国語よりは日本語の本がずっと読みやすくて、たくさん読んだから。あの人たちの態度は、本当に私たちが見習わないと。その言葉使い優しくするのと、私たちはおてんばなのよ。あの人たちのやさしい話し方と態度なんかは見習わないといけないと思ったんですよ。”<李鐘姫>
このように、教育水準が高く、読書をたくさんした女性ほど日本女性の態度を礼賛する傾向が強かった。また、女学校以上の教育を受けた女性たちはそうでない女性に比べ、日本女性を自分たちよりやさしく親切であるとみなし、それを見習うべき美徳として認識し、模倣しようとする傾向が強かった。こうした態度はより文明的エチケットとして彼女たちの体と意識に刻印されたため、以後も意識を支配し自ら身体を統制するようになる:
“私はテレビなんかみていると、韓国の女たちの立ち居振る舞いがとても醜い。とくに足の場合、女たちが普通にこう座るんですよ、こう。ホテルみたいなところでみてください。びっくりしますよ。私はいつも注意してみるけど、日本に行って地下鉄乗るでしょ、電車に座った女たちが一様にひざをくっつけて座るの。こう座る女がいないんですよ。でも、私はいつもこう実践できなくても、それが頭から離れないのよ、その話が。”<南京姫>
さらに、こうした立ち居振る舞いについての教育を受けなかった女性に対しては他者化する傾向がみられる。また。こうした「礼儀作法」が文化的で優越なものと認識されているため、日本人教師たちの帰国後、こうした教育を行わなかった解放後の教育に対して不満を表した:
“それが身について、私は今も男足87できないのよ。男足する友だちもいない。男足はしてはいけないことと知っていたから。女が男足するのは、とても常識のない家の子たちがする。今も私は男足するのを変に思うの、女が。先生がそういうふうに教えたの。それで、私は地下鉄のなかでも、女の子たちがこう座っていると、変なの。ちょっとこう(足をくっつける)しないのかと。解放後はそんな教育がなかった。むやみに教えたのね。日本人の教育がまともだった。”<韓真淑>
教育を受けた女性たちは民族としては朝鮮人だというアイデンティティーをもっていて、同時に女性としては学校で教育された日本的女性性を受容し内面化した。これは、民族的アイデンティティーと女性としてのアイデンティティーがそれぞれ別個のものとして形成され共存したことを意味する。その一例を挙げると、彼女たちは学校での銃後活動への動員について、特別に考えもなく、しなければいけないことと受け入れ形式的に参加するか、あるいは内心反発しながらも順応するという二つの態度をとった。しかし、女性としての態度と行動についての規律へは、学校教育で日本式「礼儀作法」を学ぶことを良い教育として認識、内面化し、現在までもそうした規範をもち続けていた。このように、彼女たちが日本的女性性を民族的アイデンティティーと矛盾を感じず受容できたのは、「礼儀作法」教育の内容を日本文化的要素として認識するよりも、女性としてもつべき普遍のものとして受け入れたためである。また、元来彼女たちに従順と謙譲、献身を強調する伝統的女性規範があった点も考えられる。つまり、日本でも朝鮮でも賢母良妻規範が支配的であり、階級的に両班層やブルジョア階層の女性であるほど家庭でもこうした女性規範が強かったために、学校での賢母良妻規範が彼女たちの意識と矛盾する点が多くなかったためと思われる。ところが、賢母良妻規範といっても、立ち居振る舞いや態度に関する規範に限り、実生活でこうした礼儀作法がどれほどの拘束性をもっていたかには大きな差がある。つまり、朝鮮の伝統的女訓書でもっとも重視されたのは嫁としての孝と従順、夫に対する恭敬であり、精神的美徳と心構えを強調しただけで、具体的な動作や立ち居振る舞いに関する言及は意外に少ない88。1914年ナム.グンオクの『家庭教育』でも、「人前で伸びやあくびをしたり、歯をいじったり、鼻をすすったり、口をすすいだりしないこと、大声を出さないこと、食べ物を指で味見をしないこと」といった大体の礼儀の基本にのみ言及しただけで、その内容も女性にのみ求められる礼儀とはみなしにくい89。しかし、日本の場合、江戸時代女性のしつけに関して書かれた数多くの書物には、歩き方と食べ方、箸の使い方に至るまで具体的な「礼儀作法」の順序と形式を細かく扱っている。明治12年に書かれた『女のしつけ』でも戸の開け方、手の置き方、座っての礼儀、立っての礼儀、人の前後を通るときの礼儀、物の渡し方、食事の仕方など具体的な状況での数十の礼儀作法が記されている90。要するに、朝鮮より日本で女性の礼儀と行動様式に関する規制が具体的で強く、女学校での「礼儀作法」教育はこうした伝統にもとづいているのである91。したがって、女学校でこうした教育を受けた世代の女性たちは家庭における伝統的女性規範に加え、学校で日本女性的な礼儀作法の教育を受け、二重の拘束と抑圧を受けたといえる。
87 韓国で昔からの男の座り方。跏趺坐。
88 たとえば、イ.トクムの『士小節』では、サンチュサムを大きく包んで食べると、みた目が悪いので注意すること、足音を立てないこと、ご飯を食べるとき噛む音を立てないこと、大きな笑い声を立てないこと、といった基本的礼儀が記されている;前掲『韓国の女訓』65,68頁。
89 前掲『韓国の女訓』145頁。
90 芳賀登『良妻賢母論』(雄山閣出版、1990)74-5、133-9頁。
91 家政学者である大江スミは戦時期にも『礼儀作法全集第一巻―九巻』と『女子礼法』を著した;前掲『良妻賢母論』246頁。
http://www.hues.kyushu-u.ac.jp/education/student/pdf/2004/2HE03076T.pdf
植民地朝鮮における女性教育の研究 安 明僊
V.戦争と女性の経験
A.戦争と女性の経験に関する口述史研究
1.研究目的
韓国で口述面接(oral interview)あるいは口述史(oral history)研究は、人類学と女性学を除いた社会科学分野では今まであまり用いられる方法ではなかった。とくに、歴史学のような分野では、口述資料は文献資料を補完するか内容確認のための補助的方法としてしか選択されてこなかった1。社会学分野では最近になってようやく社会史研究として口述史の重要性が認識され始め、具体的研究成果がではじめている段階である。
この章では、口述面接をつうじて戦時体制下の母性と家庭性、女性性を取り巻く女性の意識と実際経験を考察しようとする。母性や家庭性、女性性は女性にとって本質的なものではないため、その意味と性格は固定されたものではなく、社会的脈絡内で構成され、また変化する。よって、特定の歴史的状況内で起こる行為力(agency)をつうじて構成される側面を考察する作業が必要である2。こうした経験や行為力としての女性の生活史を把握するためには質的研究方法である口述面接方法が有用である。学者によっては、口述面接または口述史の史料的価値の側面における問題点を指摘する場合もあるが3、それにもかかわらず、口述史は伝統的歴史がもつ階級やジェンダーに対する偏見をみいだし、社会的下位集団など不利な位置にある集団の観点から社会変動を記録する重要な道具になる4。とくに、女性に関する口述史研究方法は主流歴史学と支配言説のなかで排除されてきた女性の生活経験を女性の声で表すという点で価値ある試みになる。たとえば、本研究で探ろうとする母親役割の遂行様式、出産や養育方法、戦時物資統制と家庭生活の変化、家族関係、衣服に対する統制とモンペ着用の強制性、洋服の浸透度合い、洋服に対する女性たちの意識などは、公式記録や文献からはほとんどみいだせない。こうした私的領域に関する経験と認識は口述面接をつうじてはじめて得られるが、こうして得られた内容は単純に公的史料を補充するためのものではない。それよりはむしろ、植民権力の政策と女性観に対する女性たちの対応様式、植民主義と家父長制が支配的な社会的条件のなかで女性たちが日常生活で行う選択の戦略と彼女らの生活経験を表すことによって、戦時下女性の歴史的、社会的経験と認識が男性のそれらとはいかに異なるかを把握し、戦時生活経験に関する新しい観点を提示しようと思う。とくに方法論的には、口述面接をつうじて得られた事件や出来事を羅列し、叙述的に記述するよりは、それらをどういうふうに解釈するかに焦点をあわせ、それらをつうじて植民経験をした女性たちが抱いた歴史認識と社会観、女性の役割と地位、女性性などに対する概念の分析をこころみた。本調査は17名を対象とした面接にもとづいているため、日帝末期女性の経験に関する完成した歴史像を提示するとはいえないかも知れない。しかし、戦時下女性の生活経験に関する研究が皆無に等しい状況で一つの観点を提示し、戦時体制と日常史に関する論議を発展させる土台になりえると思う。
1 ジョン.ヘギョン「韓国近現代史口述資料の刊行現況と資料価値」『歴史と現実』33号、1999年、319、322-3頁。
2 行為力とは、ある行為を遂行する能力を指すが、最近の理論では個人たちが自由かつ自律的に行為できるか、個人のアイデンティティーを形成する方式がいかなる意味で個人の行為を決定するか、といった問題に関心を向けている。脱植民主義(post-colonial)理論で行為力はとくに重要な概念である。それは、脱植民主義の主体が帝国主義の勢力に抵抗、あるいは協力する行為を起こす能力の問題と関連するからである。Althusserによると、人間の主体性(subject-
ivity)はイデオロギーによって構成されるために、主体が行う行為はイデオロギーの結果とみられる。しかし、脱植民主義学者たちによると、主体は社会諸勢力の影響から離れるのが難しいが、不可能ではない。そうした諸勢力を認識できること自体がそれらを撤回できることを意味するからである。Bill Ashcroft, Gareth Griffiths & Helen Tiffin, Key Concepts in
Post-Colonial Studies, Routledge, 1998, pp.8-9.
3 口述資料の問題点として指摘される点は次のようである;1.過去の事に対する忘却や間違った記憶がありえる。2.口述には非一貫性がありえる。3.記憶には選択性が作用する。4.回想に依存することによって自己正当化が起こりえる。5.記憶は私的、部分的、主観的である。しかし、口述史を認める学者たちは主流歴史学にも同じような問題が内在すると反問する。つまり、記録された資料にも作成主体である人間の特定した視覚と洞察力、主観的見解が介入し、起こったすべての事件が記録できないため、取捨選択の問題が作用する。また、歴史的、社会的条件が作成者個人の判断と叙述に影響を及ぼす。さらに、口述の代表性に対する指摘に対しても、個々人は歴史的産物であって個人の人生は社会的過程によって構成され、社会構造を作ると主張する。したがって、歴史は過去の事実それ自体ではなく、過去に対する特定した解釈を意味する。要するに、歴史とは常に現在の理解関係と観点から再解釈されるという認識の転換が必要であり、こうした点で口述は他の書かれた歴史資料と同様の価値をもっている、といえる。チョ.ヒョングン「歴史を曲げる」『近代性の境界を探して』(セギル、1997)18-20頁;上野千鶴子、イ.ソンイ訳『ナショナリズムとジェンダー』(パクジョンチョル出版社、1999)169-75頁;ユン.テクリム「記憶から歴史へ」『韓国文化人類学』第25集(1994)276-89頁。
4 Eileen Clark, “The Pursuit of Truth in Oral History,” Paper presented at the Inter-national Association of Qualitative Research Conference, Melbourne, Australia, 6-10 July 1999.
2. 面接過程
面接対象者の選定はまず解放前に結婚し主婦としての経験があるか、出産および育児経験がある、できるだけ高齢の女性たちにしぼった。また、女性たちの意識と経験に影響を及ぼす教育の機会と職業経験の有無、そして居住地域において農村と都市のばらつきがないように考慮した。これは教育水準と職業経験の有無が政策に対する認識、母と主婦役割の遂行、女性としてのアイデンティティーなどに影響を及ぼす重要な変数になりえると考えられるためであり、居住地域は植民政策の浸透、施行における差異とそれに伴う女性たちの認識の多様性を探るためであった。とくに、日帝末期に学齢期の子女をもった対象者を探したが、それは先に実施した文献研究をつうじて日帝が普通学校教育を通して朝鮮人の皇国臣民化に力をそそぎつつ、子女教育者としての母親役割を重視し、支配政策の施行において母親たちの協力を得ようとした点をみいだし、こうした政策が実際どのように行われ、母親たちがそれらをどう認識または経験したかを考察するためであった。しかし、こうした父兄としての経験がある対象者はそのほとんどが高齢かあるいは健康上の問題があったりして、対象者として充分な数を確保するうえで難しさが伴った。
教育を受けた女性の場合は女学校の同窓会をつうじて紹介してもらい、またそのなかの数人からは彼女たちの友人や先輩などを紹介してもらった。無学の女性の場合は知り合いや教会、老人ホームをつうじて紹介された女性のなかでできるだけ高齢の女性を選んだ。こうして1910年から1930年の間に生まれた17名の女性を対象に面接した(表2参照)。研究対象者17名のなかで解放以前に結婚した12名の内、解放以前に出産経験のある女性は9名で、さらに日帝末期子供を学校に行かせた経験をもつ女性は6名であった。解放以後結婚した5名の女性たちは戦時期それぞれ女学校(韓真淑)または専門学校に在学中(呉恵子、李鐘姫、南京姫)であったか、教職(鄭玉順)の経験があり、戦時期の女学校教育に関してより身近な体験をもち、多くのことを記憶していた。
調査は2000年8月に基礎調査を実施した後、一次調査として2000年11月から2001年2月の間に15名の女性を対象に1-2回の面接を実施した。二次調査は2004年5月から2005年3月の間に実施したが、まず一次調査で面接した15名の女性たちに再び連絡した結果、2名(鄭菜英、金枝培)が他界し、3名は療養で面接が不可能、4名は住所移転で連絡がとれなかった。残り6名の女性たちに2名(南京姫、全英錫)を新たに加え、二次調査では8名の女性と面接した。一次調査では女学校での教育や家庭生活、母親としての経験を主に質問し、二次調査では衣服や容貌など女性性に関する質問を新たに追加した。一次調査で面接した6名の女性たちを二次調査でも面接したが、ほとんどの方に身体の衰えが目立ったが、植民時期に関する記憶は衰えていないようだった。彼女たちは一次調査時に質問したいくつかの質問については以前と同じ答えをした。
口述面接調査は基本的に口述史方法をとったが、生活史(life history)よりは植民地時期という限定された期間の経験を知ることが主な目的であるために、まず文献研究をつうじてみつけた日帝の朝鮮女性に関する諸政策と宣伝を中心に質問を作成した後、これを土台に面接者が質問することで面接対象者の記憶を呼び起こす方法をとった。よって、録音と質問用紙作成を並行したが、質問用紙は面接対象者たちが高齢で、なかには文盲者も含まれていたために、面接者が記入した。しかし、実際の面接では、質問用紙は面接者が質問をもらさないよう内容確認のために使った。それは、面接対象者たちはいったん記憶を呼び起こし話し始めると、自ら話を進めていく力を発揮し、より率直かつ自由に自分の経験と考えを話したためである。よって、こうした一次調査の経験から二次調査では、質問する項目だけをならべた、より簡単な形の調査票にした。一次と二次調査とも口述内容はすべて録音し、面接後に文章化する方法をとった。
面接前に文献資料を通した調査と、これらを参照しながら質問する仕方は口述者たちの記憶の呼び起こしに効果的であった。その一例として、「日帝時期子供をたくさん産むように、といった言葉を聴いたことがあるか」と質問すると、「よく覚えていない」とか「そんなことはなかったと思う」と答えた女性たちも「産めよ増やせよといった言葉を聴いたことがあるか」と聞くと「あった」と答えるのであった。そして多産者に対する表彰など多産政策に関した出来事などを思い出すのであった。しかし、モンペの場合はそれと反対であった。つまり、1次調査で戦時生活を語るなかで、モンペ着用が強制されモンペを着なければならなかったと話す女性たちがいた。面接者は少ない面接対象者からこれらのことが共通して口述されたため、この問題に関心をもつようになった。以後文献資料をつうじて、先に得られた口述を後ろだてできるモンペの普及と着用運動、モンペ着用に関する宣伝だけでなく、知識人たちによって戦時服に関して展開されたさまざまな論議をみつけた。こうした研究を参考に2次調査ではモンペと戦時服装統制に関する面接調査を行なった。1次面接に先立つ史料分析でモンペに関する記事や政策が研究者の目に触れなかったのは、それが母親や主婦としての役割と義務に比べそれほど頻繁に登場せず、モンペ着用の強制性が戦争末期の1-2年に集中したためである。しかし、モンペ着用のような服装統制が女性たちの意識と生活に及ぼした影響は、母性や家庭性に比べ決して少なくなかったことを口述面接をつうじて知るようになった。モンペに対する女性たちの口述は日常的微視史、とくに女性たちの生活経験が公式文書や記録からいかに排除されていたかを示す一つの例である。女性たちは60年前のことであるにもかかわらず、モンペ着用が強制された時期や方法に対する具体的な記憶をもっており、面接者たちのこうした記憶は驚くほど一致した。
面接は、2名は面接者の家で、もう1名は面接対象者の夫の事務室で行われたが、残り14名は面接対象者の家で行った。面接対象者の家で行う場合、周囲の騒音や時間的制約にしばられないので、できるだけ面接対象者の家での面接をお願いした。また、対象者の家で面接した場合、写真や同窓会のアルバム、女学校のときの手芸作品、昔着ていた衣服などをみせてもらい、口述を裏付けするばかりでなく、対象者自身もこれらのものを取り出してみることで過去の回想に役立った。また、面接者はこれらに関する質問を行うことで、より掘り下げた口述が得られた。面接は大体2時間から3時間ほどであったが、とくに高齢の女性たちは2時間以上の面接に肉体的疲労を表す場合があり、なるべく1回の面接を2時間以内にし、2-3回に分けて行う方法を使った。また、2回目の面接ではより内面的な口述が得られた。乳幼児期の子女の死亡といった辛い記憶や子供の数が少なかったため姑の小言が多かったことなどは2回目の面接で口述された。また、夫の性病感染で妊娠が不可能になったことや、姑がより多くの男の孫を得るためにほかの女性をつれてきては夫と一緒に暮らすようにしたことは面接の後半で口述された。これは、面接過程をつうじて面接者と面接対象者の間にある程度ラポ(rapport)が形成されたためと思われる。さらに、これはこの世代の女性たちにとって姑や夫に対する不満を第3者に打ち明けてはいけないという家父長制下の嫁、妻としての規範が内面化されていることを示すと同時に、自分の不幸な人生の側面を他人に話したくないという心理を表す一例でもある。
最後に、録音された口述を文字として記録する過程で口述者の言葉使いや表現をそのまま生かそうとした。しかし、口述者の言語習慣により、同一内容を反復して語った場合には、反復を避けるため一部分のみを引用した。このほかは方言や習慣的な言葉使いをそのまま記録した。
3. 記憶と口述の多様性
面接対象者たちが自分たちの過去を口述する仕方には教育の有無によって大きな差があった5。教育を受けた女性たちは学校教育や卒業後の職業経験、新聞や本で読んだ内容をもとに当時の植民体制や政策、戦争の状況に関するより具体的な知識をもっていた。たとえば、「時局」「動員」「玉砕」「皇国臣民の誓詞」「内鮮一体」「新女性」「君が代」「大本営発表」など印刷媒体や活字を通して接した言葉を記憶し、正確に表現した。また、学校教育の内容や支配政策、時局と関連した用語、読んだ本の題名、よく読んだ雑誌の名前などは当時使った日本語そのままで話した。このように、教育は言語的表現能力を付与したため、彼女たちは自分たちの人生を社会的条件の変化とともに適切に表現し意味化できただけでなく、植民体制と戦争がもたらした状況を批判する能力ももっていた。しかし、彼女たちの植民地社会や体制に対する認識がすべて当時形成されたとは思えないところもあった。当時面接対象者たちの年齢や抑圧的支配体制をかんがみると、以外にも批判的な意見を述べる場合もあったが、そうした口述の多くは、解放後彼女たちが接した知識や最近までの韓国社会の支配的言説を反映するものと思われる。
教育を受けることができなかった下層女性たちは、植民政策に関しては具体的な知識や記憶をもっていなかった。それは彼女たちが文盲で日本語ができなかったために政策や宣伝の理解に限界があったし、生計のため労働に長時間従事せねばならなかったためでもある。彼女たちは学校生活をつうじて得られる経験がなかったために、経験の幅が狭いのみならず、限られた知識のため自分たちの人生の苦労を社会体制の矛盾よりは、個人的運命や家族的背景を原因にする傾向が強かった。しかし、だからといって彼女たちに植民体制に対する不満や反日感情がなかったわけではない。ほとんど貧困層であった彼女たちは農産物の供出と食糧欠乏を口述するとき、もっとも強い語調で体制を批判した。また、彼女たちは労働に関する口述のときはより具体的で明確な言葉を使った。たとえば、木綿の栽培と機織方法、染色、穀物の皮をむいてご飯を炊く過程など、自分たちが常に行なった労働に関する口述は非常に詳細に説明できたばかりでなく、労働は彼女たちの貧困と苦しみにまみれた人生に対する記憶の重要な一部分として語られた。彼女たちはとくに方言をよく使ったが、標準語以外の方言に慣れていなければ、地方に住んだこともない面接者としては彼女たちの口述を理解するのに度々困難を感じた。殊に、農業労働や機織をその地方の方言で口述するときは面接者が農業労働の知識も不足したうえ、方言の意味もわからず口述内容理解に苦労した。面接中そうした方言の意味を質問したつもりであったが、面接後録音を記録する過程で再度知らない方言に直面したりもした。
5 本研究の面接対象者17名中5名のみ無就学で、残り12名は高等女学校を卒業した。これは、当時女性たちの平均教育水準や就学率より、ずっと高い教育水準である。
女性たちの植民地時代の経験に関する記憶と意味付けは解放以前から現在までの生き方に影響される側面もあった。たとえば、北韓(北朝鮮)出身の韓真淑と鄭玉順の場合、解放以後北韓での共産党集権のために、ブルジョア階層として裕福であった彼女たちの生活は急変し、やがて6.25事変(朝鮮戦争)が勃発すると、土地と家屋など重要な財産を手放したまま南下した。経済的基盤を失った彼女たちの人生はその後想像を超える苦労を味わうことになった。韓真淑は父親が投獄されたために、薬剤師になるのを中断し、家族のために仕事をみつけて働くようになった。鄭玉順も、財産を失ったが、一生地主として生活力をもたなかった父親に代わり長女として家族の生計のために働かねばならなかった。こうした解放以後の家の没落という個人的経験により、彼女たちは裕福にすごした家庭生活を懐かしく誇らしく語る傾向があった。韓真淑は日帝末期成功した実業家だった父親のおかげで植民地時代が彼女の人生のなかでもっとも裕福な生活を送れた時期であった。彼女は自分の父は「日本語ができ、日本人とも親しく、事業も当時成功していたから、最近の言葉でいうと親日派」といったが、彼女はそうした環境で送った少女時代を幸せな時期と記憶している。鄭玉順も地主階級で当時珍しかったコーヒーやチョコレート、カレーライスなどを食べたり、日本製の高い化粧品を使ってみた経験、京城6市内中心街の百貨店とそこの食堂に行ったことなどを詳細に語り、そうした近代的経験を裕福な家庭環境をもった自分のみの経験として考えていた。彼女は日帝時期までの生活は詳細かつ意欲的に口述したが、解放後の出来事に関しては詳細に語ろうとしなかった。そのため彼女の生殖家族や結婚後の生活についてはあまり突っ込んだ質問はできなかった。とくに、彼女の口述は人間関係や主観的考え、感情よりは解放以前物質的にどういった生活をしていたか、あるいは自分や家族が社会的に重要な地位にいた人たちといかに親しかったかといった側面を説明することにより集中していた。これは彼女が面接者に自分の人生に意味づけをし、説明する方法のようにみえた7。
6 植民地時代ソウルは京城と呼ばれた。
物質的側面だけでなく、教育経験も解放後の経験と比較された。教育を受けた大部分の面接対象者たちは植民地時期の教育を肯定的に評価したが、とくに教師経験がある女性の場合には日帝時期の教育をより一層肯定的にみる傾向が強かった。彼女たちは日本語で教えたことを「悲しく」思ったりしたが(李恩實)、規律を重視する厳格な教育を解放以後や現在の自由な教育よりももっと優れた教育として評価した(全英錫、李恩實)。彼女たちは「皇国臣民の誓詞」や「教育勅語」を覚えたことや、学校では韓国語を使ってはいけなかったことは批判的に話したが、そのほか一般的で日常的な教育方法と規律は植民支配政策の一つとみるよりは、純粋に日本的な教育法として理解する傾向が強かった。そのために、厳格な教育方法が植民地人としての自分たちを日本式に規律化し、従順な植民地人を養成するための教育と認識していなかった。
植民地教育に対する理解には当時学生あるいは教師だった面接対象者それぞれの立場により尖鋭した認識の違いがみられた。南京姫と全英錫の口述がそうした例である。南京姫は全英錫が卒業し、日本留学(東京女子高等師範学校)後戻ってきて教えた当時代表的な公立女学校に通ったが、彼女は当時の学校教育を「徹底的に教えたために誠実な人間を作る。しかし何でも言われた通りにせねばならなかったために融通の利かない人間になる」と長所短所を挙げた。しかし、全英錫は「規律は厳しかったが、学生のためであり、今の教育とは違った本当の教育を受けた」とした。この二人の考えは、当時植民政策と戦争を支持する文章を多数残したその学校の校長に対する評価でも二分された。南京姫は校長が「大変親日的であったために学生たちがとても嫌った」と口述した。しかし、全英錫は、彼が「校長に抜擢される程であったから日本人から信任を得た人物とみるべきではあろうが、素朴な人であった。校長だからといって自ら日本人にどうするべき、といったりはしなかった」と彼をかばう立場であった。こうした同一人物に対する相反する評価は、彼女たちが当時教師と学生といったお互い異なる社会的位置にいたためである。南京姫だけでなく、当時女学校に通った面接対象者たちは植民政策を過度に支持したり、民族差別的態度が強かった教師に対しては日本人であれ韓国人であれ、学生たちから嫌われたが、反対に日本人であっても人格的に偉かったり、ひそかに反戦的な態度をみせた教師に対しては尊敬の念を抱いた、と口述した。しかし、全英錫は短期間ではあったが自分も同じく植民体制下で教える立場にあったために、教師の体制協力的な行為や態度を個人的性格や資質の問題に還元するような質問には非常に防御的な態度をみせた。
7 もう一方、こうした口述は、彼女が女学校教師として定年まで勤務したため面接者が彼女を「先生」と呼んだためかも知れない。彼女はこの呼称から自分を口述者というより、教師と意味付けし、自分の個人的経験を語るよりは、当時の状況に関する情報を与えねばならない、と考えたかも知れない。
要するに、面接対象者たちの過去の経験に関する口述の仕方は、大きく教育水準と階層によって異なるが、これら二つの条件が同じであっても、個々人の経験とそれに対する記憶はそれぞれ多様であるといえる。つまり、教育水準が同じでも、教師と学生といった社会的位置の差は教育体制についてお互いに異なった認識と記憶となり、また、裕福な階層であっても植民支配以後の家勢の変化によって植民地時代に対する記憶も違った様式で構成されたのである。すなわち、既存の歴史学で「民族の暗黒期」としてのみ叙述された日帝末期が女性の口述史をつうじて再構成されたとき、この時期に対する記憶は個人の人生全体に対する各自の解釈を通して理解され、意味付けられる側面がある、ということである。こうした側面が本研究で注目する点である。
4. 口述を通した植民地時代女性の生活史事例
日帝末期を体験した面接対象者たちが植民支配と戦争を経験、認識し、その記憶を振り返り口述する仕方はそれぞれ多様である。本節では社会的階層と教育水準、居住地域によってそれぞれ異なる4名の面接対象者を選び、彼女たちの生活史を簡単に紹介しつつ、戦時期の経験を概観する。これは本研究が主題としている母性と家庭性、女性性というレンズを通して対象者の人生を分析することは、ある面で彼女たちの戦時体制経験の一部のみをみせるからである。つまり、以下の三つの節で把握されていない全体的な生涯過程と家族的背景、学校教育や結婚生活などをつうじて面接対象者たちがそれぞれ自分たちの生涯をつうじての経験を理解し口述する態度や方法を探ることによって、彼女たちの人生の多様性と、戦時期生活経験に対する認識を理解する必要があるためである。また、これらをつうじて植民支配と戦争がこの世代の女性たち個々人の人生に及ぼした影響がどんなものであったか、といった点も現れるであろう。
南京姫は1929年京畿道の地主の家で生まれ裕福な環境で成長した。彼女の父親とその兄弟たちはみな日本に留学し、父親の二人の妹たちも先に留学した南の父の説得で日本の上級学校へ留学した。南は父親が満州で事業をやっていたため、満州奉天に居住し、そこの日本人小学校に通った。日本人学校の日本人教師は民族的偏見をもっている人もいれば、そうでない人もいた。幼かったが、教師の言動からそうしたことが感じ取られた。日本人の友達とは仲良く過ごした。小学校を卒業する頃の1941年の春、父親は満州の工場を売り、家族はソウルに引っ越した。引越し後、女学校の入学試験に受かり、当時公立でトップレベルだった京畿高等女学校に入学した。入学した1941年に朝鮮語の時間はすでに廃止されていた。学校で韓国語を使ってみつかると、始末書を書かされ、先生が大目に見ない場合停学になることもあった。教師のなかには多少反戦的な人もいた。たとえば、上野音楽学校をでた音楽担当の日本人の女性の先生は服装からそのようなことが感じられた。モンペが強要された時期だったが、この先生は終戦の1年前に帰国するまでモンペを着なかった。しかし、ほとんどの教師はそうではなかった。ある時、日本史を学ぶ国史時間に神武天皇に関する神話の話がでた。神武天皇が野蛮族の征服に行ったとき、金のトビが彼の矢の上に飛んできて座ると、そのまぶしい光に敵軍たちが目を開けなくなり、戦争に勝ったという話であった。南はそれが事実とは信じられないと思い、教師にそんな話が事実なのかと質問した。そうすると、非常にあわてた教師からひどく叱られ、その後60点をもらった。南は、こうした出来事を当時皇室に関した不敬罪があった時代のせいと解釈した。国史時間だけでなくすべての学校教育は植民地学生たちを日本人と想定したものであった。南は登下校前後に皇国臣民の誓詞と国語常用の誓詞、教育勅語などを暗唱したこと、礼式の順序などを詳細に記憶している。ほとんどの教育が男女の区別よりは日本国民としての姿勢と任務を強調したが、女性教育の特徴が現れるのは礼儀作法の時間であった。礼儀作法時間はすべての内容が朝鮮女性を日本女性と想定した教育であった。畳の部屋に入って正座する法、立つ法、畳のつなぎ目を踏まずに歩くこと、畳部屋のふすまを開け閉めする方法など、韓国人の生活とは何の関係もないことを習った。しかし、その時習った内容は今でも自分の立ち居振る舞いと行動に影響を与えている。礼儀作法を教えた日本人女教師は立ったり座ったりしても足をくっつけるようにといった。その教師は冷たい態度でいつも和服を着ていて、自分が日本人であることを威張っているようにみえ、学生たちからは嫌われた。甚だしくは学生の間で彼女が日本警察のスパイだといううわさもあった。しかしそれにもかからず、彼女の教えは今までも常に頭の中に残っていて、自ら立ち居振る舞いに気をつけている。今でも日本に行くときは日本女性の座り方などを注意してみるが、日本女性に比べると韓国女性の立ち居振る舞いは醜いと思う。
太平洋戦争が激しくなった1943年、3年生になると、授業は午前中だけで午後は勤労奉仕に動員された。4年生のときは朝から一日中、そして「月、月、火、水、木、金、金」とし、土曜日も日曜日も休みなく雲母を剥がす作業をした。作業が肉体的にしんどくはなかったが、日本の勝利を願って一生懸命に作業に臨んだわけでもなかった。また、4年生のときは看護員になるための訓練を受けた。京城医専の教授たちがきて一日一科目を速成講義した後、試験を受けさせ看護員免許をくれた。その試験で生まれて初めてカンニングをした。誰もその試験を真剣に考えなかった。学生たちは全部公然とみながらの試験だったが、全員合格し看護員免許をもらった。神社参拝も定期的に行ったが、授業をしなくて良かったし、おしゃべりしながら遠足に行くような気分で行ってきた。私だけでなく、神社に行って真剣に祈ったりした学生は一人もいなかったと思う。当時京畿高等女学校の校長は非常に親日的であったために学生たちから嫌われた。ある日、神社参拝のとき、校長が緊張のあまり、拍手を打つとき両手がずれてしまった。それをみた学生たちは喜んで笑ったりした記憶がある。校長は大東亜戦争だの、聖戦だの、八紘一宇だのそういうことをよくいったが、それらがすべて偽りのように聞こえ、いくら日本人として教育をうけ、内鮮一体が主唱されても自分が日本人というように思ったことは一度もなかった。ところが、日本女性はそうではないようだった。日本女性は千人針をするときも、それが本当に弾丸を避けると信じて一生懸命に作るようであった。韓国女性は道で日本女性たちに千人針のひと縫いを頼まれると、やってはあげたが、日本女性とは違い、戦争に対して傍観者的な態度にとどまった。
韓国の文字を学ばなかったために、家に韓国文学など韓国語で書かれた本があったが、読むことはできなかった。主に、日本語で書かれた日本文学や世界文学を読んだ。『少女の友』という雑誌があったが、その本には戦争にもかかわらず、ほんの少しではあったが、ロマンチックな話が載っていてとても好きだった。表紙の絵も目が大きくてほっそりとした少女がかわいい服を着ている姿であった。当時京畿高女の学生たちは制服としてモンペを着て救急カバンを掛け、5-6月にも厚い防空頭巾を被って登校したが、そうした凛々しい姿ではなく、軍国主義とは反対のものであったから、女学生たちによりアピールしたのではないかと思う。対照的に、『君と僕』という志願兵に関する映画を学校で観覧したが、その映画はほんとうに嫌いだった。みた後、うその塊だと思ったし、内心とても反発心がわいた。
生活面では、米や運動靴などがすべて配給制だったが、南はそうした物資にはそれほど不足しなかった。父親が精米所をもっていたし、靴は満州で父親がゴム工場をした時、もってきたからであった。そのかわり、洋服やお砂糖、牛乳、小麦粉、バター、卵、お肉などおいしいものがないのが耐えられなかった。解放後、街のパン屋さんで食パンをみたときはそこからなかなか離れられなかった。
南は元々女学校卒業後は日本に留学するつもりだった。両親とも日本留学をしたため父親は彼女を日本に留学させようと思っていた。しかし、東京が空襲されるなど戦争が激しくなり、仕方なく、梨花専門に進学した。当時女性が行ける上級学校のなかで師範学校や医学専門は自分に合わなかったし、淑明専門は歴史が浅く(1937年設立)、日本人が立てた学校だったので行かなかった。入学試験には作文だけ出題されたが、それは「母」に関して書けというものであった。1945年4月に入学し7月末まで3ヶ月通ったあと解放になった。梨花に入学してみると、戦時体制で名前も「京城女子専門」に変えられたし、専攻や教育内容も全部ずたずたにされた状態で、これが学校なのかという思いがした。学んだ科目は育児法や化学、家庭管理といったものであった。梨花の教授たちは公立学校の京畿に比べ日本語に未熟だった。韓国語のイントネーションで下手な日本語を話し、聞いていると笑いがでるほどであったが、むしろそうしたことが抵抗の姿勢のように感じられ、懐かしい思いがした。勤労奉仕も真面目にやるのではなく、やっているふりをしながらサボタージュし、女学校の時よりも新鮮でよかった。科学を教えたイ.ジョング教授は、暗示的にキリスト教に関する話をしてくれたが、軍国主義ばかり聞いていたせいでとても感動的だった。そのとき初めてキリスト教にふれたのだった。梨花の校庭には日本軍が駐屯した。あっちこっちに砂袋が積んであったし、校門の入り口には歩哨が立っていたが、歩哨の前を通るときにはお辞儀をするようにいわれた。学生たちはそれがいやで、なるべくその前を通らないようにした。
1945年8月15日、いきなり解放となり、人々が韓国語で「万歳」を叫びながら街を群がって行くなど、とても混乱して慌しい雰囲気であった。うれしい気持ちよりこの先どうなるだろうかと不安感が先立った。女性の服装が戦争末期の抑圧に対する反動で華美になり始めた。洋服を着た人は少なく、女子大生のなかでもビロードの韓服チマ(スカート)と絹織りのチョゴリ(上着)にハイヒールがはやった。大学でもっとも深刻な問題は全部日本語の本を使っていたが、日本語を使わなくなり使える本がないことであった。授業も韓国語で行われるようになったが、ほとんどの学生たちがハングルを書けなかった。金活蘭総長がハングル学者であるイ.ヒスン先生を招聘しハングル特講を開き、2週間でハングルを覚えた。
南のように、1920年代末に裕福な家庭で生まれ、学校教育を受けた女性たちの場合、戦時体制の経験は主に学校教育をつうじて体験された。したがって、彼女たちの口述は軍国主義教育が女性に求める側面をよく表す。女学生たちは共通して勤労奉仕といった労働動員と防空訓練、査閲と行軍、応急処置と構成された教練科目を学んだ。出征兵士の見送り、慰問手紙書き、慰問袋作りなどを度々やった。
これと対照的に学校教育を受けなかった金枝培の口述は戦争や植民体制を直接言及はしなかったが、彼女の生活もやはり植民支配の影響から自由ではなかった。金枝培は1912年忠清南道西山の貧困な農民家庭の4人兄弟の長女として生まれた。金が6歳になった時、40歳であった父は伝染病にかかって病死した。10月に病がはやり、家ごとに男たちが稲刈りもできず死んでしまった。夫の死後、4人兄弟を一人で養えなかった母は金が11歳になると、嫁にやった。そのころは村に学校もなかった。金持ちだけが家に先生を置いて字を習い、貧しい者は学べなかった。新郎は19才であったが、彼も両親がなく家が貧しくて人の家に作男として奉公に行っていた。お嫁に行ってからも新郎が何ものかも知らなかった。すでに舅と姑が死んでしまっていたので、20才を過ぎた一番上の相嫁が姑のように嫁としての仕事をやらせた。食べ物や着る物もろくに得られず、大変苦労した。母に会いたくて泣いたり、会いに行ったりもした。すると、相嫁が迎えにきたので、また嫁先に戻らねばならなかった。11才であったが、うすつき、麻作り、裁縫、水汲みなどもした。水を汲んで頭に載せてくるのだが、滑って転び、死にそうになったときもあった。相嫁は水を汲んでこい、ご飯を炊け、洗濯しよ、麻を作れと仕事ばかりやらせた。靴もなく、草鞋を履いたが、外にでると、すぐ水が入った。ボソン(たび)も靴下もなくて裸足で過ごした。二十歳になると、相嫁が小部屋を借りて新郎と二人で暮らすようにした。新郎と一緒に暮らしても新郎に懐かなかった。男がそれほど嫌だった。22歳で長女を産んだ。出産はほとんど自力でやった。子供は時がくると産まれると思ったし、どう産むのかも知らなかった。全部で9人を産んだがそのなかで4人が赤ちゃんのとき死んでしまった。口病、天然痘、赤痢で死んだ。それぞれ5才、3才、1才、そして1才にもならずに死んでしまった。今も死んだ4人の娘を思うと胸が痛む。それでよけい老いた感じがする。当時は子供の病気ははしか、天然痘、赤痢、この三つがひどかった。予防もなく、病院もなくて子供たちがこの三つでよく死んだ。当時は子供が死ぬと、お墓も作らず、ただ埋めてしまい、みに行くことはしなかった。山の犬や狐が埋めた子供の死体を掘り出して食いついて回ったりもした。
子供はできたから産んだし、たくさん産みたくて産んだのではなかった。(避妊の)方法を知らなかったから、産まないすべがなかった。子供一人を産んで育てるのがどれだけ難しいか、9人を産んだからその難しさはとうてい口ではいえない。オムツもなくやってあげられなかった。歩く子も上着だけ着せ、下は裸のままであった。部屋の床面にはワングルで編んだ敷物やムシロを敷いたが、子供たちのおしっこが床に付き、子供一人育てると敷物一つは腐ってしまうのであった。
解放以前は食べるものもなかった。先に実る麦穂を刈って炒めてた後、蒸して挽いておかゆにして食べた。麦も少なくて少ししか食べれなかった。当時は肥料がないから穀物がよくできなかった。麦を食べてなくなると、麦の子を買っては挽いておかゆにして食べた。また、かぼちゃを集め、かぼちゃおかゆを作って食べたりもした。夫と一緒に農業もした。子供たちは家に残していろんな仕事をした。田植えもし、畑仕事もした。服も木綿から布地を織って作って着た。夏は麻作りがもっと大変だった。服も今の服とは違って、何回か洗うとすぐに擦り切れた。服も食べ物もなく苦労した。その上、日本人がきて綿や蚕、お米を取り上げて行き、とても大変だった。日本人にカマスを作って供出しろといわれて、それを作るのに苦労した。しないと罰金を払わせられるから仕方なくやるしかなかった。食器、匙や箸など真鍮で作った器と鋳鉄ももって行った。冬に部屋で使う火鉢も取られた。人々は木で匙と箸を作って使った。石油もなく松ぼっくりを採って使った。
班常会のようなものがあって会議があると行ったりしたが、忘れてしまって知らない。外に出て訓練しろともいわれた。今の子供たちが学校で体操するように体を動かすのであったが、やる日が決まっていて、若い人も老人も広いところにでてみなやらねばならなかった。日本人がきて何の保険か知らないが、加入を勧められたが、お金がなくて入らなかった。加入する人も多かった。村にも日本人が住んでいたが、韓国人と話したりはしなかった。日本人の家に働きに行く人は彼らの家の仕事をしてお金をもらった。
金の植民時代の生活は貧困な家庭で生まれ、父の急死で11才で嫁に行かねばならない悲劇的なものであった。彼女は友たちと遊んだり、親から愛されるといった幼児期の経験が欠如している。彼女の人生は、早婚、望まなかった妊娠と出産の繰り返し、子供の死、そして生計のための過重な労働の連続であった。したがって、彼女の口述も労働と家族生活に限られている。
金枝培と違って、鄭菜英の口述は、女学校生活と結婚、子供たちの学校生活、戦時下地域でまかされた銃後の主婦としての役割など多様な内容を含んでいる。それは彼女が、裕福な環境で生まれ教育を受けることができたため、より多くの社会的経験が可能であったうえ、高齢にもかかわらず、そうした経験をよくおぼえているためでもある。彼女は20世紀初期に生まれ、近代教育を受けた少数の女性に属するが、彼女の受けた教育は両親や教育担当者、そして自分自身も結婚後、家庭で妻や母としての役割をうまく遂行するための準備教育に過ぎない。彼女自身も教育を受けた新女性であるが、新女性とは結婚と慣習に縛られず、自由に行動するといった否定的なイメージの集団として意味づけし、彼女たちと自分を区分しようとした。そして自分は家庭で伝統的な母、妻、嫁としての役割を果たした人生を送ったと位置づけた。
鄭菜英は、1910年京畿道水原で生まれた。父親は郡庁の書記であった。12才のとき仁川の公立普通学校に入学したが、飛び級し、5年で卒業した。卒業後、両親は上級学校への進学に反対したが、願書を買ってきて1週間泣きながらせがんだすえ、やっと父親の承諾を得ることができた。4年のときソウルに引っ越すまで仁川の家からソウルの京畿高女まで3年間汽車で通学した。女学校1年のとき、純宗皇帝が崩御した。学生同士で昌徳宮に行ったら、青年たちが地面にうつ伏せになり大声で泣いていた。人々があまりにも多くてチマ(韓服のスカート)が踏まれて破られてしまった。李王殿下が日本女性の房子女史と結婚することになったときは、培材学校の男子学生たちがしっかりしろという内容のビラをまいた。房子女史はチマチョゴリ(女性用の伝統的韓国服)の着こなしもよく、一番美人だと聞いた。
女学校の割烹時間には、東京女子師範学校出身のソン.ジョンギュ先生から日本料理を習い、作法時間には両膝をついて日本式礼節も習った。手芸は日本人の先生だったが、この時間に50色以上用いて作った刺繍を昭和天皇に送った。昭和天皇が即位し、日本が捧げろというから捧げたのである。日本人家事先生が胎教や胎動、出産予定日などに関する話をしてくれて結婚後そのままやったら、不思議にもその通りになった。家事の先生も出産前後それぞれ50日を休んだ。
学校生活は楽しかったが、家と学校以外では親から厳しく干渉された。帰宅すると、外に自由にでられなかったし、雑誌や小説も読んではいけなかった。それで菊池寛の小説をこっそり隠れて読んだりした。「会いたくて会うほどに会いたくて怖いのも忘れて出てしまった」という歌があったが、布団のなかで歌っていたら父親に聞かれて怒られたこともあった。家でも学校でも賢母良妻になれというのが教育であった。京畿高女が賢母良妻主義であったし、自分も当然嫁に行くと賢母良妻になるのだと思った。京畿高女の日本人教務主任は将来結婚すると、「母のような妻になれ、友のような妻になれ、妹のような妻になれ、先生のような妻になれ、姉のような妻になれ」という7つを教えた。昔韓国の女はいやおうなく夫に従ったが、日本人先生はこうした妻になれと教えた。家では夫を成功させた女性の話もよく聞いた。そのときは恋愛もなかったし、親が決めるままに嫁に行くのだと思った。女学校を卒業した1930年に結婚した。夫が判事だったので、全羅道や京畿道などに移り住んだ。今でこそ女は強いが、そのころは女が男に言い返してはいけなかった。自分は封建的思想が強くて夫とけんかしたこともなかった。ぶつからないと、けんかにならないのだ。我慢して後で夫の機嫌がいいときにいえばいいのだ。
当時新女性はしょっちゅうお出かけして、家の仕事は下手だという話が多かった。それでそんなことをいわれないように一生懸命にやった。体のよくない姑に手水をもっていったり、喘息のために夜中の11時には夜食を作ってもっていったりした。結婚した次の年に長女を産んだが、難産で近所に住んでいた医者がきて取り上げた。1男7女を産んだが、解放の年に産んだ末っ子だけ産婆がきて取り上げ、そのほかは姑が取り上げたりした。5女が10ヶ月のとき、ひきつけを起こし死んだ。そのときは15人産んだ人もいたし、当然できるままに産んだ。4人目に男の子を産んだからもっと男の子を産みたくてどんどん産んだ。(人工)流産や産児制限はやってはいけないことだった。法で禁じられていたし、わが国の風習も産まなければならないことだったし、子供を下ろしたりするのは賢母になれないことだ。当時学校に行く女もあまりなかったが、時たま田舎のお金持ちの息子たちがソウルにでて新女性と会って、結婚もしないまま妊娠した女たちがいて大きな問題になった。
子供たちを育てるときは、薄給で家族が多かったのでぎりぎりの生活だった。『婦人公論』の付録をみて子供たちの洋服を作って着せたりした。当時男は子供をみたり、とくに親や家の年長者の前で子供を可愛がったりするといけないと思っていた。子供の教育には一生懸命だった。それで子供たちを何とかして京城師範付属小学校に入れた。子供たちに知られないように担任の先生の所に行って、子供の学校生活など尋ねたりした。一生懸命に勉強させ成功することだけを望んだ。倭政時代だから日本語もよくできないといけないから、家で子供たちに日本語を教えたりもした。父兄会も一生懸命に参加したし、学校で指示することには何でも従った。
日本語ができるから町内の愛国班長もした。集まって訓練もしたし、物を集めたり配給品を配ったりした。警戒警報が鳴ると、やっていた仕事を止めて、愛国班員たちを集めて山のほうに行って隠れたりした。解放後は愛国班員たちが集まって嬉しくて踊ったりした。愛国班長には防空訓練のときに使うように鉄兜をくれたが、解放後それを誰かにあげたら、そこでご飯を作ったらおいしかったといった。愛国婦人会鍾路區総務として名前が上がっていたが、家のことが忙しくて婦人会や時局講演会などにはあまりでなかった。しかし、名前が載っていたので、6.25事変(朝鮮戦争)の時、三日遅れていたら、山につれられていかれ(共産党によって)死ぬところだった。戦時は怖かった。一言いい誤ると、警察につれていかれるから、国に関することは少しも言えなかった。挺身隊につれていかれると聞いて、家で妹を早めに嫁がせた。なんでも配給制だったから、食糧難のために苦労した。配給で満州からきた豆かすもくれたし、子供たちには靴なども買えられなくて、大変であった。
李恩實は1915年生まれで 鄭菜英と同世代であるが、彼女の人生はキリスト教信仰と教職という二つを中心に口述された。李恩實の父親は牧師で、母親も熱心なキリスト教信者であった。母は梨花学堂を卒業した後、日本の聖書学院に留学し、教会で伝道婦人として奉仕した。李は父親が牧師をしていた忠清南道で公立普通学校を卒業した後、ソウルにきて梨花高等女学校に入学した。普通学校では日本人教師たちが規律も厳しく、形にはまった日本式教育をした。日本語も徹底的に教えたために、今も国語教科書の1年から6年までの内容を覚えている程である。それから梨花にきてみると、雰囲気がとても自由で規律がゆるいようだった。1週間に1回クラス会といい、会長も選び学生たち同志で司会もしたが、公立の普通学校ではなかったのでとても違うなと思った。大抵が梨花普通学校からきた子供たちがクラス会を引っ張っていた。梨花高女を卒業した後は梨花専門の保育学科に入学した。当時はまだ戦時前だったから、合衆国からきた宣教師たちも多かった。専門学校を卒業し国民学校の教師をした後、1936年結婚した。新郎は京都の同志社大学で哲学と神学を専攻した後帰国し、牧師になった人であった。しかし、夫は結婚して1年3ヶ月で急性腸チフスで死亡し、李は妊娠7ヶ月の身で実家に帰り、1938年息子を出産した。出産後実家で両親と一緒に暮らし、教師に復職し、定年まで41年間教職に携わった。はじめは日本人に抑圧された教育がいやで私立学校の教師になった。しかし、徐々に私立学校を弾圧したため公立学校に移った。公立学校では戦時体制下で日本人校長がいうままにせねばならなかった。子供たちに皇国臣民の役割をよく果たし、日本に対する愛国心をもつように教えねばならなかった。韓国人教師たちはみかけはやるふりをしたが、内心は自ら嘆いていた。日本人教師たちには僻地手当てが付いて韓国人教師との月給の差が大きかった。韓国人教師たちは日本人教師たちに負けまいと一生懸命にやった。傍目には競争心をみせなかったが、日本人担任の学級より高い点数を取ろうと努めた。教授用語が日本語であって、子供たちの名前も創氏改名した名前を呼ばねばならなかったから、そのことを思うと今も悲しいし、8月15日の光復節になると、涙が出る。戦時下の国民学校の教育は体操や教練、運動をたくさんやらせた。耐寒訓練もさせた。月曜日は愛国日で、校長が時局と戦争に対して子供たちに話した。日本の教育体制は徹底していて何でもやると従わねばならなかった。日本人は礼節を正しく教えた。自分もそうした教育体制下でよく習ったし、教師としてもよく教えたと思う。日本女性は親切が身に付いていて、靴なども出るとき履きやすいように置く。ひざをついて座る習慣を封建的と悪口をいうのではなく、彼らの礼節と節度ある生活は我々が見習うべきだ。普通学校のとき、日本人の先生宅にお邪魔して節度のある生活をみた。日本人の店は韓国人の店より陳列もきちんとされていた。
息子は母親にみてもらった。学校教育を受けた人だから、自分よりよくできた。赤ちゃんのときは、女教師に授乳時間が許され、子守の女中が息子を学校につれてくると授乳できた。父親は創氏改名を拒否したうえ、戦争末期には神社参拝を拒否したために投獄された。龍山警察署で苦労したが、伝染病にかかり隔離病院に移された。病気が治ってまた監獄に戻されて服役中に解放を迎えた。父が息子に李舜臣将軍の話を度々してあげ、韓国人としての意識を植えようとした。戦争末期には小作地のあった京畿道に疎開した。物資が不足したが、小作地があったから食糧不足で苦労したりはしなかった。解放後、1961年の5.16革命の後は女教師にも教監と校長といった行政職を許容する方針によって、ソウル市女子教監1号として抜擢された。以後、奨学士、校長に昇進した。また、篤実なキリスト教信者としてナザレス教団では最初の長老に選ばれた。
22才で夫に死なれ、息子一人を育てながら、再婚しなかったのは「冷たい水のなかの石のようになれ」と言った母の言葉を人生における座右の銘にしたからである。「冷たい水のなかの石」とは周辺の誘惑に負けず自分の守るべき立場を守ることを意味する。若くして一人になると、周りにはどうなるかといった視線があった。解放後初の女校長として他の女性の模範にならねばならないという意識もあったため、意識的に不名誉になるようなうわさを立てられないように気をつけて生きてきた。再婚したいと思ったこともなかった。韓国人は一度結婚するとそれでいいのだ。さらに、夫の家族との関係もずっと維持していたから、再婚すると新しい家族との義務ができるだろうからより複雑になる。女性として社会生活をしながら男尊女卑は当然あることと考えていた。女権伸張というが、男と女は違うから女は女らしく、男に従順するものだと考える。
鄭菜英と李恩實の口述は早々と近代的教育を受けた少数の女性たちも伝統的な女性性に関する観念を維持し、結婚後には家庭でまたは社会でそうした観念をもち続けたことを示す。したがって、近代的女性教育が、女性に新しい機会と可能性を与えたのと同時に、依然として伝統的女性規範を後押しする方向にも働いたといえるのである。
<表2>面接対象者の一般的特性
姓名
出生年
結婚した年
第1子 出産時期
1937-45年の間の居住地
出産子女の数
教育
1937-45年の間の職業
1
韓真淑
1930年
1953年
1955年
咸鏡南道元山(北朝鮮)
1男 1女
大学中退
学生
2
呉恵子
(夫:朴相賢)
1927年
1922年
1949年
1950年
元山
元山,ソウル滿洲(学兵)
3男
大学中退
専門卒業
学生
学生
3
康玉子
1914年
1938年
1942年
江原道鐵原
4人
(長女乳児時
専門中退
死亡)
教師→主婦
4
金仁玉
1918年
1942年
1945年
ソウル, 平壤
1男3女
専門卒業
学生→主婦
5
☆
鄭菜英
1910年
1930年
1931年
ソウル
1男7女
(5女乳児時
高女卒業
死亡)
主婦
6
☆
李慧淑
1919年
1936年
1937年
満州,ソウル
1男 1女
無学
主婦、農業
7
☆
金枝培
1912年
1922年
1933年
忠淸南道瑞山
2男7女
(4人の娘乳
無学
幼児時死亡
主婦、農業
)
8
☆
趙淵秀
1915年
1930年
1934年
仁川
1男 1女
無学
主婦、工場労働
9
潤心徳
1923年
1941年
1950年
全羅南道新安
1男2女
無学
主婦、農業
10
李鐘姫
1921年
1945年
1946年
満州, ソウル
4人
女医専卒業
教師→学生
11
鄭玉順
1921年
1947年
1948年
ソウル、平安北道龍泉(北
5人
朝鮮)
専門卒業
学生→教師
12
金徳順
(夫:慎正浩)
1924.
1923年
1944.
1945.
.海道海州,(北朝鮮)
ソウル
6人
女子師範卒
専門卒業
教師→主婦
学生→会社員
13
金喜真
1922年
1944年
1946年
ソウル、平安北道龍泉(北 朝鮮)
2人
専門卒業
主婦
14
☆
潤朱英
(夫: 長栄文)
1910年
1910年
1928年
1930年
慶.北道大邱,靑松
大邱
3男2女
(長女 幼児時死亡)
無学
普通学校卒業
主婦
会社員→商業→市庁職員
15
☆
李恩實
1915年
1936年
1937年
ソウル, 京畿道
1男
専門卒業
教師、主婦
16
南京姫
1929年
1950年
1951年
ソウル
1男 3女
大学卒業
学生
17
全英錫
1923年
1944年
1945年
ソウル、
東京
1男 2女
専門卒業
学生→教師
* ☆は、日帝末期父兄の経験がある女性たちである。
* 姓名は仮名を使用した。
* 呉恵子の夫、朴相賢、潤朱英の夫、長栄文、 金徳順の夫、慎正浩を参考のために面接した。
B.戦争と母性の役割
III章では植民支配権力の政治的目的と利害追求によって母性に関する観念が形成され流布される過程並びに機制をみた。本節では、戦時期女性に提示された母性イデオロギーの三つの側面、すなわち出産や養育の役割と子女教育者としての役割という三つの分析枠に合わせ、こうした母性イデオロギーの注入が行われた社会的条件の下で母親たちが実際いかに母性役割を遂行したか、という母性の経験的側面を探る8。つまり、戦時下で母親たちが植民権力により規定された母性イデオロギーをどう認識し、どういうふうにそれらを受容、拒否、もしくは折衝し、実際はどのように養育と教育の役割を担ったかというさまざまな側面を分析する。とくに、この時期は植民支配勢力による母性イデオロギーだけでなく、朝鮮社会に内在してきた伝統的な儒教的家父長制や男性知識人によって構成された母性観念も重要な要素である。よって、こうした多様な主体勢力が女性に求めた母性観念を彼女たちがどのように認識し、彼女たちが果たした母親役割は社会全体の規範やイデオロギーとどんな関係があるのかを考察する。
1.出産の経験
前述のように、総督府は戦時体制を確立して日本と同様、朝鮮でも多産を奨励した。1941年の厚生局新設以前から多産者への表彰が実施されたが、太平洋戦争以後はより積極的に展開された。出産を奨励する宣伝は日本語で「産めよ増やせよ、お国のために」というスローガンをかかげ、幅広く行われた。この政策を覚えている面接対象者たちはそのほとんどが「子供をたくさん産んだ人には賞をくれた」と語った:
“子供12人を産んだ人がいたの。表彰状もらったよ。産めよ増やせよが口からスラスラでるほどだからね。”<呉恵子>
8 軍国主義を支持するための母性役割は、面接対象者のなかに、軍隊に行った息子をもつ女性がいなかったため省いた。年齢上、こうした経験をもつ女性は、あまり生存していないと思われる。
日帝末期に女学生だった韓真淑は、「産めよ増やせよという歌もあって、学校で勤労奉仕に行くときは並んでそんな歌を歌った」と語った。呉恵子や韓真淑、南京姫のように面接対象者のなかでも比較的若くして戦争末期女学校に通っていた人たちは多産政策とそのスローガンを具体的にどのような方法で注入されたかについてより確かな記憶と経験をもっていた。これは戦時教育の徹底性を示す一つの例と思われる。戦時下の学校教育はいわゆる皇民化教育を目標に戦時イデオロギーと政策を学生たちに注入し、戦時体制を備えることに重きを置いた。とくに戦時下の女学校教育は「人口増殖の国策遂行のための産児指導がなければならない」とした教育当局者の指摘通り、実際に母性を強調し、植民勢力の母性観念と政策を注入する通路になったことがうかがえる。多産政策も戦時国家政策の一つとして、とくに将来結婚し出産を担うことになる女学生たちには「母性教育」的次元から教えたのである。
韓真淑や呉恵子のように十代の女学生として学校で多産政策をたたきこまれた場合以外に、より年齢が進んで女学校を卒業した後、専門学校など上級学校に在学中であり、まだ未婚だった女性たちの一部には、多産政策を戦争末期の数多いスローガンの一つとして認識するといった、多少無関心な態度をみせた:
“産めよ増やせよ、あったよ、確かに。何も感じなかった。みなでて死ん でしまうからそういうんだなあと。戦争にでて死ぬから、男たちが。”< 金喜真>
当時専門学校に在学中だった鄭玉順も「そんなことは何も考えていなかった」と述べた。こうした態度は彼女たちが当時結婚と出産を経験していなかったこともあるだろうが、女性たちにとって多産が新しい規範でなかったこともある。実際当時すでに結婚して出産経験をもつ女性たちは教育水準に関わりなく、結婚したら当然子供を産むのであって、また、かならず男の子を産もうとしたと答えた:
“できるままに全部産んだよ。何人産みたいとかそんなこと考えもしなかった。おじいさん(夫)がまた一人息子でね。だから少し産もうとかじゃなくて、できるままに全部。”<潤朱英>
潤朱英は儒教的伝統の強い嶺南地方の地主階級に生まれた。12,3歳の時初めて学校へ行ったが、登校して二日目に伯父に呼ばれた。伯父は長い鞭をもって、「女は学校に行くと台無しになる」といって、家中の娘たちが学校に行くのを禁じたため、学校は一日しか行かなかった。家でハングルの基本を習い、7才の頃から結婚するまで家で裁縫と機織だけを教わった。「7,8才にもなれば、家のなかにいて、外には出さなかったので」外出というと節句や祝祭日などで同じ村に住んでいた親戚の家を訪ねるときだけだった。彼女は「足が顔よりきれいだった」と語った。彼女にとって出産とは結婚相手を選ぶ際、両親に従ったように、自分の意思とは無関係のものだった。これは女学校を卒業した鄭菜英の場合も同じであった:
“(多産奨励)新聞にでたのをみたり。何も考えていなかった。自分が産 んでいたからね。できるままに産んだのよ。何が大変なの。あの時は当然 産むんだったからね。韓国の風習も産まねばならないし。”<鄭菜英>
潤朱英と鄭菜英は同じく1910年生まれである。 潤朱英が生まれてから結婚するまで「川を渡ったこともない」に比べ、鄭菜英は当時としては珍しく普通学校をでて、両親の反対を説き伏せ、自分の望み通り仁川からソウルまで汽車通学をしながら女学校を卒業した新女性である。ところが、この二人の間に出産と男児をほしがることに関する観念の差はまったくみられなかった。鄭菜英は娘3人を産んで四番目に息子をもうけたが、もっと息子が欲しくて産み続け、18年の間に全部で8人の子供を産んだ。「韓国の風習も産まねばならぬ」と述べたように、彼女は家父長制イデオロギーを内面化しており、子供(とくに息子)をたくさん産むことが結婚した女性の当前の義務と認識していた。これは彼女が学校に通った1920年代に女性への教育制度が伝統的な家父長制体制の維持と、それに順応する賢母良妻を生み出す方向で行われていたことを意味する:
“京畿(高女)が賢母良妻主義なの。いつも賢母になれ、良妻になれというの よ。当然そうなると思っていたね。われわれ韓国人は当然、嫁に行くと賢母 良妻になるものでしょ。それが教育でしょう。”<鄭菜英>
鄭菜英は賢母良妻になるよう教えるのが教育で、自分が通った京畿高女がそうした教育を実践したのを自慢げに話した。彼女は、「新女性は家事が下手」という当時の新女性に対する批判を意識し、自ら一層伝統的な賢母良妻の役割を果たそうと努力したことを強調した:
“(姑に)手水をもっていってあげたりしたのよ。夜中の11時には必ず夜食作ってもっていってあげたり…私が何でそんなことしたのかというと、新女性は家事が下手だといわれたから。あの当時は、みんなそういったからね。おでかけばかりして、(家事は)できないと。それで本当によくやったのよ。”<鄭菜英>
潤朱英の場合もできるままに3男2女を出産したが、姑は度々彼女が意図的に子供を少なく産んだと不満をもらした9:
“姑はたくさん産みなさいといったけど、自然にできなかったの。おじ いさん(夫)が一人息子だから、おばあちゃん(姑)がしきりに息子5人産めと いったの。怒ると姑がそんなこといったの、子供生まれないようにして産 まなかったと。産まれないように防止したと。”<潤朱英>
上述のように、多産の慣習が強かった当時の社会条件により、日帝の多産政策は女性の出産行為に変化をもたらしはしなかった10。むしろ李慧淑のように、多く産めなかった女性に対しては少なくとも男児を二人以上出産せねばならない家父長制イデオロギーが大きな抑圧となった:
9 潤朱英は、1回目の面接では「夫が一人息子だから、できるままに産んだ」と語ったが、2回目の面接では「子供がたくさん欲しかったわけではなかった。心のなかではいつも息子三人、娘一人だけでいいと思っていた」と、強い男児出産願望を述べた。また、前述のように、子供の数に対する姑の不満も2回目の面接で明かした内容である。
10 植民地時代の女性たちは平均6人の子供を産んだ。一人の女性が一生の間に産む子供の数を表す合計出産率は、1925-30年 6.198名、1930-35年 6.126名、1935-40年 6.210名である;Tai Hwan Kwon, Demography of Korea, 1984, p.347.
“うちのおじいさんが3代続いた一人息子なんだけど、うちの姑はどうして子供を二人しか産まないで、もっと産まないのかと…(姑が)ある日は山に行って百種類の草を採ってきたんです。そうすると、子供が生まれると。うちの姑がどんなに欲しがったのか、とにかく、近所で誰かが子供を産んだと聞くと食事もしないで、横になっては泣くんです。”<李慧淑>
李慧淑の場合、二人目に男の子を産んで数年経っても子供ができないと、姑は民間療法などいろいろな方法を試したすえ、やがてよそから一人の女性をつれてきて息子と一緒に暮らさせた。李慧淑は「とても辛かったが、仕方がなかった」と語った。実は李慧淑の夫には性病があり、それが李慧淑に移され不妊の原因になったのである。李慧淑は不妊の原因が自分にないことを知っていたが、すべての責任と苦痛に耐え忍んだ。結局、その女性は本妻の李慧淑が苦しむ姿をみて、また夫の性病が治らず子供ができなかったこともあり去って行ったが、これは1930-40年代にも女性に多産の義務がどれだけ支配的で、彼女たちの人生を抑圧する規範であったかを物語る例である。こうした多産慣習の下で、ほとんどの口述者は少なくとも2人以上の男の子を望んだが、それは男児出産が嫁の立場を確固たるものにする必要条件の一つだったからである11。
一方、女性たちが多産宣伝に対して多少無関心な態度をみせたのは、男児出産を望むものが儒教的家父長制のほかに、日本の戦争であるという意識があったからである。多産キャンペーンに接した女性の一部は、日帝が侵略戦争のために朝鮮女性に多産を強要する矛盾を認識し、それに対して反感を示した:
“戦争にでて、どんどん死ぬから、産めよ増やせよをしきりにやったのよ。たくさん聞いた言葉です。そうやって、繁栄するようにしろというのだけど、みんなけなしたのよ。戦争で全部つれて行って死なせて、いうことないから、ばかなこというんだと。聞いたものですか。韓国人には聞こえないことだし、やりたければ、自分たちでよくやれと。”<康玉子>
11 ギティンスは、女性が母親にならないと決して正式な地位が得られないのは家父長制イデオロギーの根底をなしていることだ、と指摘する。Diana Gittins, The Family in Question, Macmillan, 1985. アン.ホヨン他訳『家族はないー家族イデオロギーの解剖』(イルシンサ、1997)146頁。
康玉子は多産宣伝を「当時は属国だったから聞くにもいやな言葉」だったとしながら嫌悪感を示した。金仁玉も「すべてお国のためにたくさん産めといったが、誰がそうするもんか」と答えた:
“だから、おかしなこというんだなってくらいでしょう。お前たちも急いで いるんだよな。みな死んじゃったから、奨励しないと国民が急激に減るでし ょう。20年後には国力が減るだろうから。”<李鐘姫>
面接対象者のなかで多産政策に反感を示した女性たちは、当時専門学校に在学中または、卒業した女性たちであった。前述のように、女学生でまだ少女だった彼女たちが多産政策の矛盾を正確に認識していなかったのに比べ、これらの女性たちは多産宣伝が日本の戦争遂行のなかででたことを認識し、朝鮮もその戦争に巻き込まれたことに対して抵抗感をあらわにした。
朝鮮社会は伝統的に多産の観念が支配的であり、上述のように、鄭菜英のような当時としては珍しく教育を受けた女性であっても、多産の家父長制イデオロギーから逃れることは難しかった。しかし、だからといって、すべての女性たちが多くの子供を望んだのではなかった:
“われわれは、学があるから産児制限せねばならないと、産まないようにしたの。自分の生活水準と合わないから。子供ばかりたくさん産んでどうする。教育させなければならないし。学んだ人であれば、そんなことみんな知っていたから。”<金仁玉>
しかし、丁度良い数の子を望むのは男児出産が前提となった後のことであった。上述のように、鄭菜英は二人目の息子を産むために、7人の娘を産み、潤朱英の場合、姑は男の子5人を望み、彼女自身は3人の息子を望んだ。経済的余裕のある暮らしをした潤朱英や専門学校を卒業した金仁玉のように教育を受けた女性よりは、むしろ貧困層であった金枝培や趙淵秀の場合、多産により強く否定的な態度を示した12。彼女たちには金仁玉が述べたように教育問題より、まともに食べさせ、着せることのできない窮乏した生活と、母親として養育と労働の二重負担のため、決して多くの子女を欲しがらなかった。とくに、戦争末期朝鮮農村は日本の食糧生産拡充のための適地とみなされ、日帝は朝鮮での戦時農産物を確保しようとした13。それにより各種農産物が供出され、産米増産のため労働力が動員され、農民の生活はより窮乏した14:
“あの頃は子供を産まない方法がなかったの。末っ子を44才で産んだね。たくさん産みたかったわけではないのよ。できたから産んだの。ほら、子供を9人も産んだからどんなに苦労したか。赤ちゃん一人産んで育てるのがどんなに難しいのか。食べるものもなくて、少なく産んだらよかったのに、たくん産んでしまったの。”<金枝培>
金枝培は貧農層出身で「一年中農作業をしておくと、日本人が全部もっていくから、食べるものがなくとても苦労した」と語った。基本的な衣食住も解決し難い貧困生活のために、金枝培は子供一人産んで育てるのがどんなに難しいかを繰り返し強調した。この時期、貧困層を中心に子供は農耕社会で労働力と父母の老後保障策としての価値よりも、扶養対象者であるという観念に徐々に変化していることがわかる。子供へのこうした態度は工場労働者として苦しい生計を立てていた趙淵秀にもみられる:
“あの頃は少ししかくれないの。男たちが8ウォンもらったっけ…うちのおじいさんが5ウォンもらって、あがって10ウォンもらったね。韓国人だけ給料をあれっぽっちしかくれないから、いつも足りないでしょう、お金が。だから、あの時苦労しているから、たくさん産みたくなかったの。みんな貧しくて、食べさせてやれないし、着せてやれないし。あまりにもみるのがつらくて、子供たくさん産むの一番嫌いでね。それは本当にいやだった。”<趙淵秀>
12 ムンも、多産主義の価値観があっても、経済的に貧しい階層では出産抑制の欲求がかなり広がっていた、と指摘した;ムン.ソジョン「日帝下韓国農民家族に関する研究:1920-30年代貧農層を中心に」(ソウル大学校社会学科博士論文、未刊行、1991)74頁。
13 カン.ギョング「戦時下日帝の農村労働力と収奪政策」チェ.ウォンギュ編『日帝末期ファシズムと韓国社会』(チョンア出版社、1988)86-108頁。
14 日帝は戦争拡大により食糧の必要性が増すと、1940年穀物の自由買入を供出制に転換した。はじめは物価統制令下で公定価格制を実施したが、太平洋戦争勃発後の1942年からは強制供出制に変え、生産量に対する供出量は年毎に増加した。各年度別、米穀生産量に対する供出量の比率は次のようである:1941年43.1%、1942年45.2%、1943年55.7%、1944年63.8%。チョ.ドンゴル『日帝下韓国農民運動史』(ハンギルサ、1978)13頁、289-90頁。
趙淵秀の夫は工場労働者であったが、韓国人労働者は日本人労働者に比べ、半分程度の賃金しかもらえなかった15。趙淵秀も貧困のため決して子供を多く産みたくなかったと話した。彼女は子供の多い家が少ない配給米で苦しんでいるのをみて自分が二人だけなのを幸いに思った。
しかし、当時避妊や人工流産に関する知識や技術が普及しておらず、法的許可もなかった状況で、現実にはほとんどの女性がたくさん産みたくなくても「できるままに産んで育てるしか」なかった16:
“あの時は産児調節の方法も知らなくて、できるままに産んだのよ。できれば産むの。あの時は中絶もなかったからね。”<李鐘姫>
面接対象者17人のなかで解放前に正確な避妊法を知っていたり、避妊を実行した人は一人もいなかった。金仁玉のみ妊娠周期法を利用した荻野式避妊法を間接的に聞いたことはあったが、実行したことはなかった17:
15 工場労働者の賃金差別をみると、日本人男子に比べ朝鮮人男子は半分程度の賃金を、朝鮮人女子は4分の1ほどを受け取った。1937年、日本人成年男子工の平均1日の賃金が1ウォン92銭であったが、朝鮮人成年男子工は98銭、成年女子工は49銭だった。シン.ヨンスク「日帝下韓国女性社会史研究」(梨花女子大学校史学科博士論文、未刊行、1989)35頁。
16 出産統制の方法は古代エジプトから使用された。日帝時代、医学的な産児制限法は普及されていなかったが、醤油や漢方薬を飲むとか、高いところから飛び降りるといった民間的な方法はあった。1931年『毎日新報』の連載小説『流産』では、妻の流産を望む夫が妻に「ブルジョア婦人たちが使う流産させる薬」の服用を勧める場面がでる。また、新聞にはサック(コンドーム)の販売広告も掲載された。
17 解放後の避妊法としては、駐屯した米軍をつうじて入手したコンドームの使用や1960年代初金徳順の場合のように、排卵期投薬法などがあった:
“産児制限としてやったのが、排卵期に病院に行ってあそこにヨードチンキを塗るといいっていうから行ってみたの。だけどできちゃったから、仕方なく産んだのよ。”<金徳順>
“私の友たちが3人だけ産んだの。避妊したの。避妊したのどうやってわかったかというと、ある日遊びに行ったら、避妊器具を洗っているの。買うの大変だから。男が使うの、それ、何、サック。コンドームのようなもの。薬局なんかで売らないし、米軍からでるものだから、それを消毒して乾かすのね。6.25起きる直前なの。その時、荻野式は知らなかった。”<金喜真>
“産児制限、考えてはいたの。私たちもたくさん産んだほうなのね。そんなの、日本語で荻野法。私の友たちはそれを使った。体温計ったり。(使ってみたのですか)いや。だから1男3女も産んだんでしょう。荻野法、それが日本の雑誌にでるのよ。日本人はそんなのをするから。”<金仁玉>
金仁玉が解放以前、いつ頃日本の雑誌を通して避妊法を知ったかは明らかでない。日本では1926年頃すでに雑誌への避妊法の掲載を禁じていた18。朝鮮でも日本と同じように、公の避妊知識の普及と産児制限を法律で禁じた。戦争末期、妊婦の健康上の理由で人工妊娠中絶をしなければならない場合でも、施術を担当する産婦人科医師の単独決定ではなく、内科など他科の医師二名以上の許可が必要であった。これは母体よりも人的資源としての胎児の生命を優先する政策であったことを示す19。戦争末期、京城女子医学専門学校在学中に病院で実習した李鐘姫の口述もこれと一致する:
“(掻爬手術は)おろさないと産婦が危険だという内科医師が少なくとも二名の診断書が必要です。この人の健康が何処がどういうふうに悪くて妊娠を続けると危険、という内科医師、また産婦人科で施術する人以外に他の医師が、この人は何処がどうで手術が必要であるというふうに法で定めたのです。妊娠中絶が国法で禁じられていたのです。”<李鐘姫>
妊娠中絶施術に対する法的禁止は鄭菜英の口述をつうじても実際に厳重に施行されたことがうかがえる:
“産児制限が何よ。やったら大変よ。禁じられているの。流産なんかしてはいけない。あの時、もし子供下ろしたりすると、法に引っ掛かるからだめよ。京畿(高女)が賢母良妻主義なの。だから産児制限そんなものもないでしょう。産児制限すると、賢母良妻になれない。そのまま産むのよ。”<鄭菜英>
18 1926年と1927年に『主婦の友』は妊娠中絶と避妊に関する知識や、それに成功した経験談を掲載したが、大半の内容が削除された;永原和子「女性統合と母性―国家が期待する母親像」『母性を問う(下)-歴史的変遷』(人文書院、1985)202頁。
19 朝鮮で1941年制定された「国民優生法」は、1年前日本で公布した「国民優生法」を導入したものである。日本と同じように、朝鮮でもこの法によって合理的理由のある場合も積極的に人工妊娠中絶を取り締まったことがうかがえる。
鄭菜英は産児制限に対して強い反感を示した。彼女は産児制限を堕胎と理解していたが20、堕胎すると賢母良妻になれないし、違法になるからやってはいけないと思っていた。植民権力は多産を奨励し、産児制限を禁じ、女学校教育者は「独身と産児制限、避妊法を享楽主義、個人主義の亡国思想」と定義付けた。「京畿(高女)が賢母良妻主義であるために産児制限をしてはいけない」といった鄭菜英の口述は、女学校教育をつうじて戦時帝国主義が求めた女性の母性観念が賢母良妻規範とかみ合い、女性たちに教育されたことがうかがえる。
結論的に、戦時多産政策は当時男児出産のための多産の慣習が依然として支配的であった朝鮮の社会的条件上、出産率に変化をもたらすほどではなかった。しかし、1920-30年代に新女性たちを中心に論議され始めた産児制限が多産政策により法的に禁止され、女性たちの出産に対する自己決定権を志向する論議がそれ以上発展しなくなった。朝鮮の女性教育担当者や知識人たちは戦時の多産政策の影響で一部少数の社会活動をする女性たちの独身主義を誹謗し、女性の教育機会拡大と職業進出のため結婚と出産を忌避する現象が現れないか警戒した。そのため、学校教育でも結婚と出産が女性の賢母良妻規範として強調された21。鄭菜英の場合のように、当時としては珍しく近代的学校教育を受けた女性であっても、結婚後は家庭で賢母良妻の役割を果たし、男児出産の義務もそうした役割の一つと当然のものとして受け入れていたのをみると、欧米では教育が女性の産児制限の欲求を促す要因になったのに比べ、植民地朝鮮では日本の帝国主義膨張により母性がより一層家父長制イデオロギー下に抑圧されたのであった:
20ペ.ウンギョンも、1950年代末や1960年代はじめまで産児制限は堕胎とほとんど同義に理解されていたと指摘した;ペ.ウンギョン「出産統制とフェミニスト政治」シム.ヨンヒほか編『母性の談論と現実』(ナナム出版、1999)148-9頁。本研究の面接対象者のなかで、荻野式避妊法に関して知っていた金仁玉は、産児制限を避妊を含む概念として理解し、医師であった李鐘姫は産児調節という用語を使った。金枝培は、おそらくずっと後の情報により、子供を産まない方法を「かきだす」と表現した。
21 面接結果、多産宣伝は韓国語ではなく、主に日本語で行われたことがわかった。面接対象者のなかで無学のためハングルや日本語がわからず、また農村に居住した5人の女性は多産宣伝について知らなかった。1943年末現在、日本語解読可能人口は、人口全体の22.15%にすぎなかった。10才以上の場合でも男子の44.9%、女子の15.8%のみが日本語の解読ができた。したがって、日本語の解読が不可能なほとんどの女性がこの政策に接することは難しかった、と思われる。つまり、多産政策は、都市を中心に、日本語のわかる教育を受けた少数の女性を主な対象として宣伝された、といえる。日本語の解読率に関しては、ナム.チャンギュン「日帝の日本語普及政策に関する研究」(慶熙大学校史学科修士論文、未刊行、1995)を参照。
“新婦が幣帛22あげるとき、舅がこういうでしょ。ナツメをばら撒きながら男の子何人兄弟産めと。息子ばかり産めというじゃない。それと(多産政策とが)同じようなもんだよ。”<鄭菜英>
戦時の多産奨励を家父長制の男児出産義務と同じ脈絡で話した鄭菜英の口述は、この時期女性の出産に対する認識と行為が女性自らの選択でなく、社会の諸イデオロギーの道具になっていた実状を物語っている。
2.養育の経験
戦時の人的資源としての重要性で朝鮮人児童の健康と衛生へ関心を向けた植民権力は、子供の生存と健康を母親の責任として規定した。しかし、農村では米だけでなく、綿花供出のためオムツもないのが養育の実情だった:
“着るものも綿を採って、綿で服を作るけど、そんなの全部もっていって着るものもないし、子供のオムツもない。ねんねこもない。そんなものなくて(部屋の床面には)ワングル敷物を敷いたの。子供一人育てると敷物一つは腐ってしまったね、おしっこで。子供は上着だけ着せて、下は裸のままだった。”<金枝培>
貧農であった金枝培は綿花供出で着る服にも事欠いた。古着で作ることもできなく子供たちはオムツなしで過ごした。こうした実情は農民だった李慧淑や潤心徳も同様であった:
“オムツは古着なんかで。擦り切れた服を切って。古着といってもそんなにたくさんできるんですか。そんなの(オムツ)買うには百里も行かなきゃ。”<李慧淑>
22 婚礼のとき、新婦が舅と姑にはじめて対面する儀式。
出産奨励の方法として出産時に産衣や純綿を配給するといった宣伝の背景にはこうした事情があった23。日帝末期、出産を経験した女性のなかで物質的恩恵を受けたり、これらのことを聞いたことがあると答えた面接対象者は一人もいなかった。ところが、オムツや衣類といった乳児用品の不足より深刻な問題は食糧不足であった:
“ジャガイモをたくさん千切りにして米と一緒に炊いたり。一ヶ月ごとに(配給を)もらってくると、半月しか食べられないの、食糧が。だからいつも食べられないから黄色くむくんだの、顔が。食べ物の苦労がひどかった。”<趙淵秀>
食糧不足は貧農層だけでなく、特殊な場合を除いてほとんどすべての階層で経験していた。金仁玉の夫は弁護士で、鄭菜英の夫は判事であったが、戦争末期には窮乏した食糧事情のため子供たちの栄養状態が良くなかったと口述した:
“(食糧事情)厳しくて口ではいえないくらいよ。子供たち、4、5人が今みると栄養失調だったみたいなのよ。”<金仁玉>
植民権力は朝鮮に多くみられた乳幼児の死亡を朝鮮の母親が栄養と衛生に関する科学的知識に欠け、非科学的な伝統的養育を行なうためと批判した。しかし、子供の健康にもっとも大きい影響を及ぼしたのは、劣悪な食糧事情と医療施設の不備であった。当時医療施設がほとんどなかった農村だけでなく、都市でも乳児の死亡は珍しくなかった。次の<表3>で示すように、1930年京城府で生まれた児童の約5人中1人は生後1年以内に死亡した24:
<表3> 1920年代乳児死亡率
(%, 京城府, 1才未満)25
23 戦時下の農村において、家内生産されたすべての綿布が供出されたが、農民層は綿布の配給からも除外された;樋口雄一『戦時下朝鮮の農民生活誌1939-1945』(社会評論社、1998)56頁。
24 外国の乳児死亡率をみると、1936年イギリスは6.19、ドイツ 6.58、フランス 6.70、日本 11.67(%)である。日本に比べて朝鮮の乳児死亡率が約2倍高いことがうかがえる;女性史総合研究会編『日本女性生活史第4巻』(東京大学出版会、1990) 212頁。
25 イ.カクジョン「乳幼児死亡率調査」『朝鮮社会事業』9,5,38頁;前掲「日帝下“児童期”の形成と家族変化に関する研究」34頁から再引用。
1921年
1922年
1923年
1924年
1925年
1926年
1927年
1928年
1929年
1930年
朝鮮人
31.5
27.9
22.5
22.1
22.9
22.2
23.6
24.7
25.4
21.2
日本人
18.3
16.7
17.7
14.4
14.0
11.5
13.1
10.8
13.9
11.3
(日本人は朝鮮居住日本人に限る)
潤朱英は長女が3才の時、肋膜炎にかかり、病院につれて行ったが、病院での治療では治せなかった。療養のためより環境の良い実家につれて行ったが、そこで結局長女は亡くなった:
“あの時は病院もなかったのよ。大邱では病院に一度行った。病院に一度行ってから田舎に行ったの。今だったら生きられたかも知れない。だけど我々があの時は暮らしが中以上だったけどそうだったの。”<潤朱英>
潤朱英のように、子供の疾病治療のため病院に行けたのは、都市に住む余裕のある階層でなければ難しいことであった。それは高い医療費のためでもあったが26、朝鮮人が診察を受けやすい私立病院の数が総督府の取り締まりにより大幅に減少し、医療施設の数が絶対的に不足していたからでもある27。したがって、貧農層の児童では伝染病にかかり死亡する確率がより一層高かった。金枝培の住んでいた忠清道の農村には医療施設がなかった。彼女の4人の娘ははしかと赤痢、天然痘、口病にかかり、1才前後と3才、5才のとき亡くなった28:
“病院がなかったの、そのときは。だから死んだの、病気にかかって。そのときはうちだけ死んだのではなくて、よその家もそうして死んだのよ。そのときは病院もなく、予防もなく、そのまま置いたから、大きくならないで死んでしまったの。”<金枝培>
26 1928年総督府は、朝鮮総督府医院と道立病院の医療費を全国的に統一したが、これによると、医院での一回の診察料は1ウォンから5ウォンくらいであった。1932年、朝鮮人男子労働者の1日平均賃金が85銭程度であったから、こうした診察料はかなり高いものであった;前掲『看護の歴史』199-203頁。
27 植民地時期医師の数は増えつつあったが、1921年現在、医師一人当たりの人口数は平均1万名と、医師不足が深刻で、朝鮮人は医師にかかることが難しかった。また、朝鮮総督府医院や道立病院といった官・公立病院は一次目的が日本人の救済にあったために、朝鮮人のための病床は1割程度に過ぎなかった。さらに、1919年「私立病院取締規則」を制定し、私立病院の取り締まりを始めた。このため、とくに、朝鮮人の経営する私立病院の数は1919年の111ヶ所から、1939年には13ヶ所へと大幅に減少した。また、日本人と外国人が経営する私立病院の数を合わせても368ヶ所から93ヶ所に減少した;前掲『看護の歴史』201-7頁。
28 解放以前に出産した9名の面接対象者のなかで子女の病死を経験したのは4名だった。
農村女性たちは育児と家事労働以外に、昼間は畑仕事、夜は機織など多くの労働をせねばならなかった:
“並大抵じゃないですよ。夜も昼も休む暇がないんです。畑にでる時も針や糸、ハサミをもって行くんです。仕事してちょっと休む時間があると、休まないで縫い物する。そんな苦労をして暮らしたんです。”<潤心徳>
とくに農村では米などの穀物のほかに、女性の手によって生産される蚕糸、綿花、ひいてはかますに至るさまざまな農産品が供出対象になった。供出義務は守らないと罰金を科せられるほど強制的であり、農村女性の労力をより加重させた29:
“綿を採っておくと全部もって行くし、蚕をして繭を取っておくと全部もって行く。農作業して米少しやっておくと、それももって行く。それでもっと貧しかった。かます編んで供出しろといって、かます編むのに必死だった。そうやって日本人にもって行くのよ。供出しろと日本人たちがせめたてて。しないと、罰金払わせられるから。”<金枝培>
植民権力は児童養育の国家的意味を強調しながら、母親を全養育の担当者としてみなし、養育指針に従うことを求めた。こうしたい説には母親は専業主婦として子女養育に細心の注意と世話を払わなければならないというメッセージが含まれている。しかし、日帝下の母親の養育経験と労働を考慮するとき重要なのは、一家の生存問題が切実な階層では母親の養育役割は他の労働より優先されなかったことである。これは、母親が家庭において重要な労働力となる場合、養育役割のみを担うことはできないためである。ゲルンスハイムは、前産業社会ではこうしたことが普遍的な現象であると指摘した30:
29 供出農産物の品目は1939年の米から1942年には雑穀、綿花、麻など特用作物と野菜、松脂など40余種に渡った;前掲『韓国女性史―近代編』218頁。かます編み作業は各戸当り決まった量が割り当てられたが、主に女性たちが担当した;キム.ジンミョン『束縛のなかの韓国女性』(チプムンダン、1993)101頁。
“(部屋の床に)敷物をしておくと、どうしてもワングル敷物だからね。そこにかかとをこすりつけて泣いて血がでて、かかとが全部こんなに擦りむけてね。血が流れでして。それでうんこにぬれ、おしっこにぬれ、そんなふうに育ったね。子供はつれて行けないよ、野原には。家においてでる。おなかが空くでしょ。朝8時頃でると、間に乳を飲ませに帰らないし、お昼食べに12時頃帰ってくる。そうすると、子供たちがもうひどいの。夕方5時頃帰ってくるし。お乳飲ませる。それで自分たちで家にいるの。そんなふうに育てたのよ。”<潤心徳>
潤心徳は全羅道の貧農出身で、彼女もやはりたくさんの農作業をした。朝赤ちゃんを家においたまま外にでて働き、お昼に帰ってくると、赤ちゃんは荒いワングル敷物にかかとをこすりつけながら泣いて、血がでるほどであった。母親の労働が家族の生存にとって必須である農民家族では子供の養育は大人が保護せず放置したが、それが当たり前のことと思われた:
“農作業したよ。田植えもしたし。子供は関係なかった。自分たちで遊ぶように家において、仕事は何でもした。田植えもして、畑も耕したし。服も綿をひいて機織して着て、夏は麻するのはもっと難しい。そうやって服を作って着ると、すぐやぶれる。今の服と違ってね。朝8時にでると、12時に帰ってきてお昼作って食べて、薄暗くなると、帰ってきて夕飯つくるし。家に帰ってくると、(赤ちゃんが)おなか空いているから、自分でお乳のほうにはいはいしてきて飲むのよ。”<金枝培>
金枝培も「子供に関係なく」畑仕事をした。幼い子供を家に置いたまま、外で働かねばならなかった女性たちの場合、子供をほったらかすことへの罪悪感は感じられなかった。彼女たちは「そのときはみんなそうやって育てた」と語り、養育よりも窮乏生活のために多くの肉体労働をしなければならなかったことが何よりも苦しい経験として記憶されていた。
30 Elisabeth Beck-Gernsheim, Die Kinderfrage, イ・ジェウォン訳『私のすべての愛を子供に?』(セムルキョル、2000)45-6頁。
農民層だけでなく、労働者階層では女性たちが低賃金で工場労働に動員された。趙淵秀の夫は仁川の製麻工場で労働者として働いた。その工場では日本で爆撃にあって焼けた紡績機械をもち込み、軍需用品を生産するために工場労働者の婦人たちを動員した:
“私は(工場に)行って機械を磨いたよ。ペーパーできれいに白く磨いて油を塗ってですと、もって行って機械を組み立てて全部するの。空気が悪くて本当に大変だった。のどが痛くて、息ができなくてね。油の匂いに鉄の粉がたくさんでて。それで人夫頭に話して、後で女職員たちが300名いる食堂に行って白菜洗ったりそんな仕事した。(工場に)でないといけないのよ、軍需品だから。手早く磨いておかないと、機械を組み立てられないから。手間賃はくれる。私たちには少ししかくれないの。一日中機械磨いても、ほんの少ししかくれないの。少ししかくれないから、稼ぐってもんでもないよ。”<趙淵秀>
趙淵秀は鉄粉のせいで息をするのも大変な作業環境で、朝7時から夕方6時まで1日11時間の重労働をしたが、もらえる賃金は民族と性による二重差別で生活の足しにはならなかった。趙淵秀がこうした労働に動員されている間、当時6才の息子は一人で家に置かれ、8才の娘が学校から帰ると、子供二人で朝作っておいた昼ごはんを食べた:
“茶碗一つにご飯をよそって、半分残して後で昼に食べなさいというと、そうするの、子供たちが。うちの息子と娘が学校が近いからお昼食べに帰ってその半分を食べるの。水とキムチと食べるのよ。子供たちは自分たちでいたの。私は会社で働くと、そこで食べられると食べるし、食べられないと食べない。夕方家に帰ると、子供たちがご飯炊くのばかりまっているのよ。”<趙淵秀>
労働者層や農民層と違い、都市のブルジョア階層であった潤朱英は屋外労働こそしなかったが、かといって養育が主な仕事でもなかった。一般に、幼い子供の養育は主に家事補助人(女中)がいたり大家族の場合には祖父母が受けもち、母親は裁縫そのほかの家事労働に縛られた。この時期の家事労働は、合理化される以前の在来式台所と機織仕事、それに毎度手で解いて洗濯する韓服など時間と労働を要するものであった。潤朱英は家に家事補助人がいたが、彼女が主にしたのは裁縫で、4人の子供を育てていながらおんぶをしたことがないといった:
“家には子守がいて、子守がご飯も炊いて後片付けもする。そんな子たち、たいていの家庭にいたのよ。お母さん(姑)が若いから配給もらうのやってくれて。私たちはそのとき、姑のチマ(韓服のスカート)や足袋のようなもの全部作ってあげたのよ。嫁がくると、針もたなかった、普通の人は。結婚したら、姑は針もたない。チマまで全部ぬわなければならないのよ。足袋も作るし。だから毎日針仕事するのよ。市場に行ったり、外の仕事はできなかった。今と違ってそのときはのり付けて、解いて(洗濯)するたびに縫わなければならない。昔は時間がないし、子守がいて、それで子供おんぶしたことない。”<潤朱英>
とくに、大家族や本家の主婦は頻繁にある祭事の準備、度重なる訪問客の接待、大家族を支えるための家庭経営などで農村女性に劣らないほど多くの仕事をした。子女養育はこうした家事労働に比べ重視されなかった31。
一方、一部では近代的養育法に接することによって伝統的な育児法に少しずつ変化が起きた。面接対象者たちが接した新しい育児知識は西洋人宣教師をつうじて直接習うか、あるいは日本の女性雑誌を通して間接的に接する二つの方法が主な経路であった:
31 “夜明けに起きて夜遅くまで針仕事をしたが、今考えると、どう耐えたかという思いがする…1年に祭事が18回もあって、お客さんを迎え接待し、洗濯は下人がやってくれても、のりつけやアイロンがけ、砧うち、そんな仕事が全部自分の仕事であったから…祝祭日になると、針仕事で夜明かしせねばならなかった…私は胎教だけでなく、子供の教育にもとくに気を使ったことがなかった…私の頭にはいつも“大家族を守らなければならない”“祭祀をどうやって執り行なわねばならない”こんな大きい仕事だけでいっぱいになっていたから…今考えると、私は子供たちをあまりにもおろそかにした…私自ら農事をやって豚も飼い、カイコも飼ったりしたから、どこに力が残っただろうか?”;パク.ピルスル口述・チョ.キュスン整理『名家の内訓』(ヒョンアムサ、 1985)36-7、82-3頁。口述者であるパク.ピルスルは1917年生まれで、本家の嫁として暮らしてきた。
“われわれは田舎でも西洋人が先にきたでしょう、宣教師が。ジョンソンアンドジョンソンあるでしょ?ベビーパウダー。私たちはそれ、子供のときから使ったよ。そしてピン。アメリカのもの、大きいの。うちのおばがいつももってくる。子供が生まれたというと、まずそれを贈り物にする。オムツナンモク32を真んなかにこうしてピンで止める。そこは宣教師が早くきて、とても開けてたのよ。子供産むときは当然消毒するし。うちの母は半分医師なの。エキュブスというのがあるんです。胸にするの。それも準備していて。また吸入器。それはアルコールランプに入れて、こう全部準備しておいて。うちの母は医学知識が並でないんですよ。”<鄭玉順>
鄭玉順の母は近代教育を受けず新女性ではなかったが、親族の中に医師がいたという家族背景と、彼女自身がキリスト教信者として宣教師たちと接触した関係で、西洋医学知識に接することができ、それを積極的に受け入れたのである。
“うちの母も娘たちを嫁に行かせると、当然それを準備しておいたの。ネールというんだっけ?綿。それをくれる。オムツ用に。それを四角にたたんで三角にする。”<金喜真>
金喜真の母も新式教育を受けなかったが、鄭玉順の母と同じように彼女たちが住んでいた平安北道には西洋宣教師が多く、ほかの地方より先に彼らから近代的医学知識と養育法を受容することができた。鄭玉順と金喜真は、「オムツを三角にたたんでアメリカ製のピンで止める」といった新式育児法を母から習った。とくに金喜真は、合衆国と日本から受け入れた、当時の新学問である家政学を専門学校で専攻した。女子専門ではアメリカ人教授を通して西洋式家庭を見学し、科学的かつ合理的な家事知識を学んだ。しかし、そうした西洋式家事知識や育児法は改良された住居環境や施設でないと、実践しずらい場合が多かった。実際に彼女が用いた育児法は、家庭で母親や姉たちがやっていたことを実践したのであって、大部分は伝統的知識であった:
32 やわらかく薄い木綿の一種。
“(育児に関する知識)それはうちで習ったのよ。みたのよ。義理の姉もいるし。当時はそれが(家政学)が新学問ですよ。西洋についても教えてくれるし、家政学についても教える。西洋家庭生活、そういうものみせてくれて、自分(アメリカ人教授)の家につれて行ってみせてくれるし。とてもかけはなれてたんですもの。暮らしぶりが違うんだもの。しようとはするけど…大体はお金持ちの娘たちが家政科に行ったんです。そして裕福な家の子たちがそう結婚するし。(私は)しようとしてもできなかったんです。現実に合せて住むのです。また戦争当時でね。”<金喜真>
金喜真のように専門学校で家政学を専攻した場合でも、実際養育では母親世代の知識に主に依存した。李恩實は専門学校を卒業し、結婚後教師として働き、息子の養育には母親の助けを得たが、彼女もやはり母親から育児法を習った。金仁玉も同様に、専門学校を卒業した新女性として、自ら「最高の教育を受けた」と語ったが、伝統的な大家族制度の下で暮らしたため、舅姑の伝統的育児法に従わねばならなかった:
“分家して住む友達は、日本の雑誌みていたね。私は親たちと一緒に暮らしてたから、そんなふうにはできなかったの。親のいう通りにしないと。”<金仁玉>
金仁玉のように舅姑と同居の場合、新しい育児方法の実践が難しかったのは、この時期依然として父母世代の権威の影響力が強かったことを意味する。こうして近代的な新しい育児知識の実践には教育を受けた新女性でも、どんな家族制度の下に住むかが重要な要因として作用したのである。また、鄭玉順や金喜真の母親のように学校教育を受けなくても、新たな近代養育知識を吸収した女性たちがいたし、近代教育を受けた娘世代はこうした母親の養育知識をかなり受け入れていた。このことは養育が単に知識だけでなく、実際の経験が大事な領域であるためでもあろう。しかも金喜真のように最高学府で家政学を専攻した女性も母親の伝統的知識を何の抵抗もなく受け入れて活用した。彼女は専門学校で学んだ西洋式育児知識が現実と「かけはなれた」ものだと語ったが、とくに戦時体制のように物不足で窮乏した当時はもっとそうだったはずである。これは近代的養育法を実践するには知識だけでなく、物質的条件も整っていなければならないことを意味する。潤朱英の場合がそうした例であるが、潤朱英は学校教育を受けなかった、いわゆる「旧女性」である。しかし、経済的に富裕層に属した彼女は面接対象者のなかで1930年代に人工授乳をした唯一の女性であった:
“私の乳が足りなくて、子供たちに牛乳もたくさん飲ませたり、乳も飲ませたり。(牛乳)粉もあるし、日本からくるもの、この頃飲むカンのようなものに。そんなのついで、水にまぜて。この頃われわれが飲むサイダー飲むカンのようなところにでるのよ。”<潤朱英>33
上述のように、面接対象者たちが近代的養育法を語るときは、ベビーパウダーや簡単な医療道具、そして粉乳など近代的商品もともに語られた。これは、近代的養育法を実践するには、乳児用品といった近代商品の普及も伴うことを意味する。よって、1930-40年代に近代的養育知識を受け入れ、実践するに当たって母親の教育程度と養育に必要な商品購買ができる経済環境、そして親世代から干渉されず新知識を実践できる家族形態がより大きな要因として作用したことがうかがえる34。
結論的に、日帝下での母親の養育役割は、ほとんどの階層で他の家事労働および生産労働に比べて重視も優先もされなかった点である。農民家族の場合、末期に進むに従い、農産品の供出増加は農民女性の労働を加重させ、また、労働者階層では女性たちが軍需産業に動員され長時間労働に従事せねばならない事例もあった。こうして母親が家族の生存のために外で長時間労働に従事せねばならなかった場合、子供たちは放っておかれるのが一般的であり、母親たちはとくに罪悪感を抱くこともなく、また周囲からの圧力もなかった。経済的余裕のあったブルジョア階層の場合も、母親は養育とともにさまざまな家事労働をしなければならなかったため、養育は母親の専任ではなく、祖父母や家事補助人が相当部分を手伝った。
33 潤朱英が語ったように、植民地時代の新聞には、乳児用粉乳と練乳の広告が掲載されている。『毎日新報』1937年1月17日付の広告欄には、アメリカ製品と思われる「Gail Borden Eagle Brand」が、同3月3日付には「森永ドライミルク」が宣伝されている。
34 1920-30年代を中心にした近代的児童養育に関するキム.ヘギョン(1998)の研究では、近代的養育法が新式教育を受けた女性たちを中心に受け入れられた、とした。もちろん、学校教育を受けた女性の場合、活字媒体に接しやすい点でそうであろうが、一般的に、経済的余裕のある階層の女性たちは学校に行かなくても、ハングル程度は解読できたと考えると、近代的養育方法が教育を受けた女性たちだけの専有物ではなかったと思われる。本面接調査で、鄭玉順や金喜真の母親や潤朱英の場合、学校教育は受けなかったが、相当レベルの近代的養育法を実践した点で、家族の経済的背景も重要な要因として考慮されるべきと思われる。
根本的に軍事力と労働力の増強に関心があった日帝は、朝鮮児童の健康と衛生増進のための実際的医療施設や公的サービスの整備には消極的だった。児童健康相談や無料検診など宣伝行事が催されたが、面接対象者のなかでこうした行事に関する話を聞いたりあるいは参加経験のある者は一人もいなかった。むしろ、無理な供出は農村女性の労働を加重させ、母体の健康を害するのみならず、養育をおろそかにする要因になったと思われる35。とくに、戦争末期、ほとんどの階層が経験した食糧不足は児童の健康を悪化させる主な要因の一つであった。植民権力は帝国主義拡大のため家族と母親の養育方法に介入したが、帝国日本とは対照的に植民地では、児童の養育と衛生に関する記事の掲載といった方法にとどまった。それは費用をかけず、女性たちの思考を統制する「啓蒙と教化」中心のやり方で、母親たちの養育に対する個人責任を強調し、それにより 物質的に窮乏した戦争末期の養育と家庭生活を打開しようとした目的であった。また、医師などの医療権力と結びつき、伝統的育児方法を非科学的ものと貶めることによって、女性たちの間で行われてきた世代間の知識伝承を否定し、朝鮮女性は近代養育に無知であると批判することで優越性を示そうとした36。しかし、口述からみられるように、面接対象者の母親世代は学校教育の有無に関係なく、近代的養育知識に対する受容力をもっており、娘世代に養育知識と方法を伝達する役割も果たした。また、近代的学校教育を受けた女性たちも抵抗なく母親世代の伝統的養育法を尊重し受け入れた。それは住居環境の改善や養育を取り巻く整備が旧態依然であり、社会医療の普及もなされなかったために既存世代の養育知識が依然として有効だったためと思われる。
35 植民地時代、貧農層女性の76.9%は出産の直前直後も働き、農村女性の大多数が産後1週間以内に仕事を再開した;ムン.ソジョン「家族生活の変化と女性の成長」シン.ヨンハほか編『韓国社会史の理解』(文学と知性社、 1995) 470頁。
36 植民支配下エジプトの母性と養育に関して研究したシャクリも、植民地官僚は教育を受けなかった「無知な」母親たちを養育に不適合と問題視し、自分たちの主張を立証するために、ヨーロッパの教育を例として提示した、と指摘する;Omnia Shakry, “Schooled Mothers andStructured Play: Child Rearing in Turn-of-the Century Egypt,” in Lila Abu-Lughod, ed., Remaking Women: Feminism and Modernty in the Mddle East, Princeton Uni-
versity Press, 1998, p.127.
3. 家庭教育者としての母親の経験
日帝末期の学校教育目標は内鮮一体の支配政策により、朝鮮人としてのアイデンティティーをなくし、天皇に忠誠を尽くす皇国臣民の育成にあった。日帝末期国民学校の教師であった李恩實によると、こうした皇国臣民化教育は実際に徹底的かつ厳格に行われた:
“月曜日毎に愛国日なの。愛国について、また校長が時局について子供たちに話しをする。戦争について話すのよ。徹底的によくさせた。徹底的に。何でもやりだすと、ついて行かねばならないようにできているの、体制が。とても厳しい。スパルタ式。”<李恩實>
日帝は皇国臣民化教育の効果を高め、戦時体制にふさわしい家庭生活「改善」の実践を強調したが、そこで注目したのが家庭での母親の役割であった。よって、母親たちが戦時体制の学校教育にどれだけ協力し、家庭で皇国臣民化教育方針に従い、子女をいかに教育するべきかの具体的方法を教えようとした。これは、家庭でも学校教育方針の指導を行なうことで植民支配体制の教育的効果を高めるためであった。実際この時期の国民学校は母親たちに戦時教育の協力者としての役割を求めた:
“父兄会といって校長が1年に1,2回親たちを呼んで。校長がいうのは、日本に協力せよというものです。日本思想を入れようと、お前たち、精神がそうだから皇国臣民になれと。日本臣民になれと。そのときは日本校長だから、日本語でいうと、韓国語で通訳するの。全体が集まるのよ。時局講演のように。”<李恩實>
李恩實の口述によると、父兄会では校長が直接父母たちに時局認識を訴え、植民体制への協力を求め、また日本語が不自由な父母たちへは通訳を行なうなど、形式的な集会ではなく実際の内容伝達に忠実であろうしたものとみられる。父母の招集は年1-2回から毎月1-2回に至るなど学校差があり、名称も学校によって異なり父親を対象にした父兄会や育成会、また母親中心の姉母会(または母姉会)があった。日帝末期に子供を学校に行かせた経験をもつ6名の面接対象者のなかで金枝培を除く、5名の女性が学校へ呼ばれた経験があったが、彼女らが参加した父兄会には主に母親たちが出席した:
“初めはひと月に1回以上で。よく行ったもの。(子供の入学後)半年くらい経ってからは一月に1回くらい呼んだの。行かないと、子供たちの成績が落ちていけない。学校に呼ぶと、父兄たちがよく行かなきゃ。そうすると成績が上がる。1年から行かなかったりすると、子供の成績が落ちるのよ。なぜかというと、そんなのが子供たちの成績に入ったからね。そうよ。父兄たちがよく行けば、日本人が満足してそうやってくれるから。父兄会といったけど主にお母さんたちが集まったよ。みんなお母さんたちなの。国民学校でた人は前にでて働いて、何も知らない人は後ろに立って。来いといわれるから出席だけして。父兄会すると、日本語でやらないと。お母さんたち大体国民学校でたみたい、子供たち国民学校に行かせる人は。私たちは田舎に住んだからそうだけど。夜学してもそんな言葉(日本語)できるでしょ。できれば日本語使おうとみんなするしね。”<潤朱英>
潤朱英の子供が通った地方都市の学校では父兄会への参加が子供の成績に影響を及ぼすと思わせるほど、父兄会への出席は義務的に求められたようだ。父兄会では校長または教師が日本語で教育方針を伝え、日本語ができて子供の教育に関心が高い父母は積極的に活動した。
“学校でくるようにいうと行くでしょ。そうすると、子供の成績をみせて、今日本がどこまで行った、日本が間違いなく勝つと、そんな話をしてくれたんです。われわれはじっくり聞かないんですよ。しかし、日本が勝つと話したんです。”<李慧淑>
先の李恩實の口述通り、日帝末期の父兄会は純粋な教育内容より、戦時思想や日本の勝利を確信させる時局宣伝や防空訓練法、疎開の奨励など戦時体制に関する内容が多かった:
“飛行機がやってきたら、どう訓練するか話して、疎開行く人行けといったり、疎開行くなら、食べ物をどう準備するか話したりね。”<趙淵秀>
のみならず、日本の祝日には学校に召集し、天皇万歳を三唱させるなど、親たちにも天皇に対する忠誠を誓わせようとこうした行事に動員したが、これは親の態度が子女教育に影響を及ぼす要因の一つとみ做したためである。こうした親の動員も子女の成績に影響を及ぼすとか、配給における制裁といった圧力があったため、親たちは出席せねばならなかった:
“何といったっけ?神様といったっけな?万歳しに集まりなさいというと、みんなでなければならないの。みんな呼び寄せて(学校の)庭にいっぱい立たせて。天皇陛下万歳、そう唱えたの。お母さんでも、お父さんでも、家にいる人はみんなでなければならないの。主にお母さんたちがでた。でないと子供たちが二人も学校行っているのに、でないと子供たち退学させるといったの。それから配給ももらえないからでたよ。”<趙淵秀>
戦争遂行のための各種供出は愛国班などの地域組織だけでなく、学校でもある程度の強制性をもって施行された。一般に広く供出させられたのは真鍮や金属類で、ほかに戦時物資節約のための廃品回収など学校は親たちを戦時体制に協力するよう積極的に活用した。母親たちは学校をつうじて「匙でも残すと退学させる」といった圧力を受けたりした:
“真鍮の器は全部納めないといけないのよ。匙でも残しておくと子供たち退学させるというから、匙まで全部もってあげたのよ。全部真鍮の器で食べてたのに。<趙淵秀>”
学校が親たちに求めたもう一つのことは家庭での日本語使用であった。日本語の使用は「国語常用」といい、新聞でも「国語常用家庭」を模範家庭として賞賛するなど積極的に宣伝した37:
37 さらに、国民学校を中心に各家庭の日本語解読レベルを調査し、家族全員が日本語を理解する家庭と、祖父母および学齢以下を除いた全員が理解する家庭を選び、「国語の家」を象徴する徽章を門に付着するようにした;前掲「日帝の日本語普及政策に関する研究」51-2頁。こうした「国語常用」を行なった家族への表彰は、小説『カピタンリ』にも描かれている。チョン・グァンヨン『カピタンリ』(乙酉文化社、1994)118-9頁。
“いつも国語を常用せよといって、国語を常用する家庭が新聞にでたりしたんですよ。模範家庭として。そうよ。新聞にでるよ。”<鄭玉順>
日帝末期の学校では日本語使用が義務付けられ、朝鮮語の使用は禁じられた。さらに、学校は家庭での日本語使用を父兄会などをつうじて強く奨励した。こうした状況で、鄭菜英のように子女教育のために家庭で日本語を使った場合もあった。1920年代に京畿高女に通った鄭菜英は「日本時代だから、日本語が話せないといけない」と考え、家庭で子供たちに日本語を教えたり、日本語で話したりした:
“子供たちの教育には熱心だった、私は。だから私がそこ(京城師範付属小学校)に入れることができたの。当然日本語するものと思って。日本語使えって騒ぐでしょ、もちろん。家でも子供たちと日本語使ったもの。そのときは当然日本語で話すものと思ってそうしたのよ。倭政時代だから使わなくてはならないでしょ。家で韓国語も使って、子供たちにもどんどん日本語教えるのね。日本時代だから日本語がよくできないとね。よく覚えたのね、そのとき。子供の教育一生懸命にした。勉強教えて、よくなることばかり願うのよ。”<鄭菜英>
植民国家は二ヶ国語に堪能で、支配国と植民地人たちの間を言語で介在できる事務員を必要とした38。日本語が支配階級の言葉である以上、良い上級学校に進学し、支配エリートになるためには日本語の熟達が求められ、日常生活でも日本語は優越した言語としての位置を保った39。
38 前掲Imagined Community『民族主義の起源と伝播』145頁。
39 ファノンの指摘によると、植民地化された民族は、土着文化の独創性を埋没させられたため、劣等意識をもつようになり、そのため文明を付与した国の言語、つまり植民支配国の言語と文化規範を自分の価値として受け入れることで、未開から離れようとする。人間は言語をもつ特性があるために、結局言語によって表現され意味が与えられる世界を所有するからである。植民支配下での朝鮮人の日本語使用も、こうした脈絡から説明できると思われる;Frantz Fanon,
Peau Noir, Masque Blanc, キム.ナムジュ訳『自分の土から配せられた者たち』(チョンサ、1978)19-20頁。
自ら子女教育に熱心だったと語る鄭菜英は、当時公立の有名小学校に子供たちを入学させ、家庭では日本語を教えた。しかし、彼女は解放後は日本語を教えなかった。彼女は“解放後はどうして日本語を使うの。ほら、親日派になるよ”と反問した。ここで重要なのは、母親役割の遂行は社会体制イデオロギーの影響範囲内で行われ、そうした体制イデオロギーの影響力から離れるのが難しいことである。ルディックは女性は歴史的に軍事的、社会的暴力、時にはひどい貧困の中で母親になってきたが、その社会の価値を決められない無力さのために、母親の思考が他人が「望ましいとするもの」すなわち支配文化の価値を選択してきたと指摘する40。鄭菜英の母親役割はこうした体制イデオロギーの影響力の否定がとくに難しい植民体制の下でその価値を一部受け入れながら、子女の発展と向上のために努力した例といえる。
鄭菜英のように経済的余裕のあった潤朱英も子女教育に関心が高かった。彼女の子女教育に対する望みは、民族差別のなかで子供たちが一生懸命勉強して、いい職をみ付け、できるだけ差別を受けずに暮らすことであった41:
“私たちが子育てをしたときは、解放なんてことは思いもつかなかったけど、うちの子供たちをよく育てて日本人に勝たせる、そんな考えはしていたの。中学校の試験もどんなに難しかったか。制限があったの。日本人何パーセント、韓国人何パーセント、そうやっていたから、韓国人は試験がよくできても落ちて、日本人をもっと入れるから。中学校も入るの難しかった。中学校でると、実力あって。どうしても、うちの子供たちはよく勉強してかならずそうならないと、そんな思いはとっても強かった。やつら(日本人)にやられてもっとそんな気になってね。そう。そのときは大体普通なら職場に入れなかったのよ。同じならやつらを入れて、韓国人は入れないからね。勉強がよくできないと、職場もいいところに入れるからね…そんな思いしかなかった。”<潤朱英>
40 Sara Ruddick, “Maternal Thinking,” Rethinking the Family.Some Feminist Ques- tions クォン.オジュほか訳『フェミニズムの視角からみた家族』(ハヌル、1991)114-5頁。キム.ジョンヒは、母親たちがこうした体制を読み取れないと、子供たちを体制内のはしごの頂上に登れるように押し上げる孟母になるしかない、と指摘する;キム.ジョンヒ「生命女性主義の存在論的探求」(梨花女子大学校女性学科博士論文、未刊行、1998)87頁。
41 アンダソンによると、植民地教育政策の目的の一つは、政治的に信頼でき、恩を知り、文化変容を経験した土着エリートで、植民官僚体制と商業的企業の下級階層の仕事をする、植民支配国の言語を知る植民地人を一定数のみを輩出することである。潤朱英の語るいい職とは、結局こうした仕事をする職を意味する;前掲 Imagined Communty『民族主義の起源と伝播』158頁。
日帝は内鮮一体を主唱したが、実際は進学や就職、給与において日本人と朝鮮人の間には歴然とした差別があった。植民地教育の真の目的は下級労働力の確保にあったため、実業学校以外の中等学校の新設を認めなかった。その結果、中等学校の進学率は10-15%に過ぎなかった。これは学費が払えない朝鮮人の経済的貧困も理由の一つであろうが、最大の理由は朝鮮人のための中等教育機関の数が絶対的に不足していたからである42。さらに、公立学校は日本人学生をより多く入れたため、1930年代になると中等学校の入試が激しくなるという現象が起きた43。こうした社会的条件の下で鄭菜英と潤朱英のようなブルジョア階層では、教育することで社会的地位の高い近代的職業を得て、社会的地位の上昇を願う教育熱心な母親たちがすでに現れ始めた。鄭菜英と潤朱英は、子供たちが上級学校に進学できたため、自らの母親としての役目を肯定的に評価した。
このように、教育問題が母親の役割において重要な問題として認識されるのは経済的余裕のある家族に限ってである。金枝培のような貧困農民、労働者階層の母親は先に指摘したように、教育より食べさせること、服を着せるといった生存問題がより切実な問題であった:
“いや、なに子供がどうなって欲しいと願う、そんなこともなかった。いっぱい食べさせて、着せてそんなことでしょ。食べることもろくにできなくて本当に苦労したんです。”<金枝培>
労働者階層であった趙淵秀はまわりで社会的保護がまったく与えられなかった母子家庭によく接した。彼女は、当時偉い母親とは夫が死んで窮乏しても子供たちを捨てない母だといった:
“そのとき偉い母親は、貧しくても子供たちを最後までよく育てるのが偉い母親なの。そんな人多かったの。夫死んだ後、貧しくなると、どこかにお母さんが行ってしまうのよ。そうすると、子供たちは孤児院に行くか、乞食になるのね。あのときは乞食多かったのよ。今仁苛大学校あるところ、そこに私が一人で市場に行けなかった、怖くて。夫死んで貧しくなっても子供たちよく育てるのが偉いお母さんなのよ。”<趙淵秀>
42 キム.ジョンウ「日帝下初等教育と近代的主体の形成に関する研究」(延世大学校社会学科修士論文、未刊行、1999) 8-9頁。
43 オ.ソンチョル『植民地初等教育の形成』(教育科学社、 2000) 202頁。
このように、日帝時期子女教育者としての母親は階層によって異なる性格の問題に直面し、それぞれ役割を遂行したことがうかがえる。ブルジョア階層では上級学校への進学問題に悩み、父兄会にも熱心に参加するなど教育熱が現れたが、貧困層では教育面での期待より基本的衣食住を満足させることがより切実な問題であった。
一方、植民地教育体制は家庭での日本語使用だけでなく、戦時体制に合った時局教育を徹底させ、「母の会」を組織することで母親たちに子供の思想を監視する役割をするよう求めた。しかし、日本の敗戦をある程度感じていた面接対象者たちは、日本の敗戦予想や植民体制への批判を子供たちの前では表さないよう注意した。これは思想取締りが個人の家庭にも浸透していたことを物語る例である:
“(総統府の指示を)全部受け入れなければならない。そうしないと、その統治下でどうする。それから、日本が滅びるだろうという言葉をあの子(同居していた小学生の甥)のいるところではいえなかったのよ。私たちは想像はした。なぜかというと、真鍮の器を奪って銃を作るから、それが物資になる?アメリカのようなそんな国と対決しているのに。だから、これは負ける徴兆だと大人たちはわかったけど、あの子のいるところではそんな話一切できなかったですよ。”<金仁玉>
金仁玉は、「学校で学んだ通り内鮮一体と思っている幼い甥が、外にでて何をいうかわからないから」子の前では日本に対する批判をしないようにして、日常生活でもなるべく日本語を使うようにした:
“家に国民学校通う子供がいると、家でやたらに韓国語使ってはいけないの。日本語でしなければならない。(そうしたんですか?)もちろん。甥が一人うちの家にきていたけど、その子のいるところではなるべく日本語でしたよ。国民学校なんだけど、無邪気だから。学校でいわれたとおりにするから、怖くて。(学校に行っていうと思って?)そうそう。”<金仁玉>
金喜真の父は地主だったが、住んでいた平安道で独立資金を集めて臨時政府に送る役目をしていた。しかし、金喜真と兄弟たちはそのことを解放後はじめて知った:
“うちの父が独立資金募集しておくる責任者なの。知らなかった。私たちが父の行跡を知らなかったんです。知ったら大変なの。民族だとか、そんなの全部秘密だから。父がそれやるのも知らなかったから。解放後に本がでて知ったのよ。”<金喜真>
金喜真の父親は家族の安全のためにこうしたことを秘密にしたのである。金喜真は親からとくに民族精神を教わることはなかったが、親の影響で自然と日本に対する反感と朝鮮人としてのアイデンティティーをもつようになった:
“特別両親は(民族に関する)話はしなかったが、私たちはもう大人たちが座って自分たちでする話を聞いて…私たちは日本というといつも排撃し、ちっとも好感がなく、いつも敵愾心ばかりもっていたから。私たちは日本人ともいわないで、日本奴といったし。なるべく日本語使わないようにしたし。家は3.1運動44の時、投獄された、そんな人たちだから…”<金喜真>
さらに家庭によってはもっと積極的に民族的アイデンティティーを教え込む教育をした例もあった。李恩實の父は牧師であったが、植民体制を批判し、創氏改名や神社参拝を拒否したため投獄された。李恩實は夫と死別後、息子と一緒に実家で両親と暮らしたが、彼女の父は孫に朝鮮人としてのアイデンティティーを教え込ませることに努めた:
“子女教育正しく、韓国、本当の朝鮮人を作ろうとしたんです。国家意識入れようとしたんです。母方の祖父がいるから。家の息子は、イ.グァンス氏が東亜日報か朝鮮日報に李舜臣将軍を連載したが、それを何回も読んだんですよ。祖父が李舜臣将軍の話ばかりいつもしたんです。(うちでは)あらまあ、日本語やらせないのよ。だれがそうさせるんですか。うちはそうしなかったですよ。”<李恩實>
44 1919年3月1日に起きた日本に対する独立運動。
李恩實は職場では教師として日本式教育をしなければならなかったが、家庭では息子に日本語を教えなかった。彼女は日本式教育を強要するのがいやで私立学校に在職していたが、次第に私立学校に対する弾圧が強くなり、公立学校に移った。韓真淑は国民学校入学からずっと戦時体制期に教育を受け、それ以前の時期に教育を受けたほかの面接対象者と比べ、日本人としての教育に無批判的で、さらに日本人としてのアイデンティティーを自分のアイデンティティーとして受容しようとした態度が強くみられた。しかし、それにもかかわらず、彼女はそうした態度は学校でのみで、家ではそうでなかったと語った:
“学校に行くと、成績がよくなければならないから、いわれるとおりにしただけ。日本が自分の国とは考えなかった。当然韓国人と思った。日本人とは思わなかったね。家に帰ってくると、当然韓国人なの。生活が韓国人の生活だったから。君は韓国人だという教育はなかったけど。”<韓真淑>
韓真淑は、学校では規律が厳しく、成績のために日本人教師のいうとおりにしなければならなかったが、家では生活が韓国式であったために、ごく自然に韓国人としてのアイデンティティーをもつことができた。たとえば、彼女の母は白色の韓服着用を禁じる統制にもかかわらず、祭事日には白い韓服を着たし、韓は母から韓服の作り方を教わった:
“私たちは女学校のとき、韓服の作り方は習わなかったの。毎日勤労奉仕にでたりして。でも、家で母が(韓服)作るのをみて、そばで一緒にしながらみて教わったの。家の母はその時、白いチマチョゴリを着てはいけなかったけど、祭事日のようなときは必ず着たの。”<韓真淑>
韓真淑のように、日帝末期に徹底した皇国臣民化教育を受けたにもかかわらず、朝鮮人としての揺らぎないアイデンティティーをもつことができたのは、家庭で母親が朝鮮式生活を維持し、それをつうじて固有の価値を身に付けたからである。
植民地教育体制は家庭に対し、皇国臣民化を教育理念とする学校教育の延長と実践の場としての機能を求め、何よりも母親たちにそうした教育の主な担い手役を求めた。そのため強制的に召集される父兄会または母姉会をつうじて母親たちに植民体制が求める諸事項を注入し、学校教育に協力する順応的な主体として形成しようとした。
植民地という状況は、植民権力と母性がそれぞれ異なる目的のために各自の利益を追い求め競合する状況といえる。植民体制は体制維持の道具として母性を活用しようとし、母性への新たな観念を構築する45。そして植民地人の教育を非近代的ものとけなし、啓蒙と近代という名の下で介入を正当化した。しかし、母親の母性役割は子女の生命を保護し、成長させ、共同体が望む社会的役割を遂行するよう準備させる目的をもっている46。したがって、母親は子女の生存のために植民支配体制に適応させること, 一方では民族的アイデンティティーをもってこれに抵抗するよう子女に準備させるという、相矛盾する関係を切り抜けなければならない状況に直面する。こうした交渉(negotiation) 過程での母親たちの選択は多様である。たとえば口述からもみられるように、ある母親たちは植民体制に対する批判を差し控え、家庭でも学校が求める事項を遵守することで体制内での子供の安全を守り、保護に努め、また抑圧的体制内で生存するすべを教えようとした。さらに、一部の母親たちは、より積極的に家庭で支配権力の言葉を教えるなど、植民地民に与えられた制限された機会のなかで子供たちが競争に勝ち、社会的機会を確保できるよう後押しするのに努めた。一方、李恩實のように、家庭で子女に民族意識を教え込むのに努めた例もあった。しかし、朝鮮児童を皇国臣民化しようとする植民体制のなかで子女の民族的アイデンティティーを形成させることは母親たちにとって多くの緊張と困難を伴わせた47。面接によると、ほとんどの面接対象者やその母親たちは、戦時という抑圧的社会体制の下で子女の安全と保護をより重視した。よって、特別、民族意識の形成に努めるよりは、意識するしないに関係なく、伝統的な生活様式と慣習を維持する日常生活を持続した。しかし、それが結果的に子供たちのアイデンティティーの形成、維持への機能を果たした。こうした母親たちの役割は、朝鮮の文化と価値体系を否定し日本化しようとする植民体制への抵抗となった側面もあるが48、家族志向的生存戦略を作り出す事によって、より家族主義的価値を擁護する方向に進んだ。そして、その傾向は解放後の社会的混乱を経て、母性役割の肥大化につながるきっかけになったと思われる。また、家族への介入と統制を試みた植民学校教育体制は、母親たちを学校体制に順応させようとし、規律化の対象にした。その結果、朝鮮の母親たちには近代的制度教育の普及と同時に、学校権力によって順応的主体になる経験が刻印されたのである。
45 前掲 “Making Mothers: Missionaries, Medical Officers and Women’s Work in Colo-nial Asante, 1924-1945,” p.29.
46 Ruddickは、母性が子女の生命を保護、存続させようとする側面を指摘した。前掲 “Maternal Thinking,” 『フェミニズムの視角からみた家族』108-9頁。
47 植民地下の母親の役割は、合衆国における有色人種の母親役割と類似した社会的脈絡で遂行された、と思われる。有色人種の母親たちは、有色人種の児童を白人中心文化に同化させようとする社会的抑圧のなかで、子女に体制内で生きる方法と術を得られるように教え、社会化させねばならず、それと同時に、人種的アイデンティティーももたせるべきであるため、母性役割における矛盾と緊張を経験する。 Collinsは、母性におけるこうした社会的脈絡の重要性を指摘した;Patricia Hill Collins, “Shifting the Center: Race, Class, and Feminist Theo-rizing about Motherhood,” in Evelyn Nakano Glenn, Grace Chang, and Linda Rennie Forcey, eds., Mothering: Ideology, Experience, and Agency, Routledge, 1994, pp.57-60.
C.戦争と家庭生活
日帝末期に皇国臣民としての役割を一生懸命したのも母であった。日本人も混じっている班常会にでて、隣の人が通訳してくれる指示事項を指で数えながらおぼえ、祝祭日には国旗も人より大きいのを夜が明ける前に掲げ、防空練習のあるときは年だからこなくてもいいといわれても、モンペにバケツを提げてでた。すべて東京に行って勉強している息子のためであった。休みに帰ってくる息子の口からは日本の悪口しかでなかった。卒業したら、帰国して住むことが心配であった。それで自分が人心を得ておかねばならないと思い、国がやれということは何でも率先してやった。
48 植民支配下女性の役割を研究したCaulfieldによると、子供が社会で自分の位置を認識するように社会化される場所は家族であるために、家族は帝国主義的抑圧に抵抗する中心的場所になる。したがって、植民主義者たちは、年長者の権威を否定するなどの方法を使い、体制への抵抗を抑えるために、家族を植民化の主なターゲットにする。しかし、伝統的制度を破壊し、けなす植民者の努力はむしろ被植民者にして固有の生活様式を守り、再創造しようとする動機を与える。Caulfieldは、こうしたなかで、伝統を維持し、親族関係を持続させる母親たちの日常的活動は体制への抵抗を意味する、と指摘した;Minna Davis Caulfield, “The Family and Cultures of Resistance,” Socialist Revolution 20, 1975, pp.67-85.
チャン.ヨンハク49
1.銃後活動
戦争が女性たちの生活に与えたもっとも大きな変化の一つは、戦争を銃後で支える役割を課したことである。銃後活動と呼ばれた裏方での戦争支持活動は面接対象者が学生だった場合、学校教育をつうじて行われ、主婦だった場合は「大日本婦人会」のような女性組織50と地域の「愛国班」51をつうじてさまざまな活動に動員された。面接対象者のなかで女性組織に動員された直接経験をもつのは鄭菜英一人であった。鄭菜英は、女学校出で日本語ができ、夫が判事という社会的地位にあったため本人の意思に関係なく、「愛国婦人会」鍾路區の総務職を任せられた:
“愛国婦人会鍾路區の総務をした。愛国婦人会をやらされたけど、やらせるならやらせろって。私はあまり婦人会にでなかった。洞会で私を総務に立てるようにと。不安で名前だけ立てておいたけど。そのときもあちこち回っていろんな事やったのよ。たくさん集まって行ったりしたの。どこでなに、どこでなにと。たとえば、鍾路區どこに婦人会集まれというと、集まるでしょ。そうすると、決起大会するとか、時局がなんだかんだ話聞いたり。そこに私は出席できなかった。子供たちと家事やったりするから。婦人会でなくても大丈夫だった。倭政のときというのがそういうもんだから。”<鄭菜英>
49 チャン.ヨンハク「喪笠神話」『チャン.ヨンハク選集』(ソンイル文化社、1975)286頁。
50 「愛国婦人会」は前述のように、1906年、朝鮮駐在の日本官吏婦人たちが、朝鮮の貴族層婦人たちを糾合して組織された。初期の活動はそれほど目立たず、会員も1933年までは5万5千余名にとどまった。しかし、戦時体制以後、急速に全国的に組織を拡大し、1941年には会員数が46万に達したが、そのなかで朝鮮人は32万2千名程であった。「国防婦人会」は、1934年朝鮮軍の主導で組織され、1938年には8万7千余名に拡大した。この二つの団体の主な活動は、国防献金の募金、慰問品発送、出征家族慰問など軍事後援事業であったが、1942年日本で「大日本婦人会」が発足し、朝鮮でもこの二団体が「大日本婦人会朝鮮本部」に統合された;民族問題研究所(編)『日帝下戦時統制期政策史料叢書第52巻』(韓国学術情報(株)、2001) 2-24頁;前掲『韓国女性史ー近代編』286-7頁。1941年「愛国婦人会朝鮮本部」では軍用機献納運動を展開し、会員たちが廃品回収、勤労奉仕などで募金し、収益金10万ウォンを寄付した;『国民総力』1941.3.106頁。
51 愛国班は日本の隣組に相当する組織である。約10戸程の世帯が一つの班に構成され、配給や供出、相互監視を行う国民精神総動員(後に国民総力)朝鮮連盟の最末端組織である。
「愛国婦人会」では女性たちの戦時参加意識を高めるために、度々決起大会や時局に関する講演会などを催し、婦人会員たちの参加を呼びかけたが、鄭菜英はそれほど積極的に参加しなかった。康玉子は、父親が郡首であったが、母親は熱心なキリスト教信者で日帝に対する強い反感をもっていたため、婦人会にも参加しなかったという:
“うちの母は郡首夫人でしたけど、婦人会にでなかったんです。うちの母は勧士52で、教会に行くから、婦人会みたいに前にでてやるの、絶対しなかったのよ。しなくても大丈夫でした。私たちは大所帯で、そんなのでる時間もないし。うちの母は日本のやつらに私たちが愛国してどうするもんかと…”<康玉子>
農村に住んだ李慧淑も農村の婦人会組織への参加を求められたが、積極的に参加したりはしなかった53:
“(婦人会)そんなの、ほかの人たちがやっていました。女たちで、やる人が行ったのです。私は、きてやりなさいといわれても、暮らしも貧しいし、そんなのできないでしょ。しませんでした。今でいう、活発な人がやったしょう…大体が無理していて、やりたくてでる人いません。そのとき、婦人たちも女たちも自由がないでしょ。自由がないんですもの。両班の家で婦人たちが外にでるもんですか。でないでしょ。どこかでて活動したり、そんなのできないでしょう。とにかくきて、無理やり入れと宣伝したり。”<李慧淑>
上の口述でわかるように、女性団体への参加がそれほど強制的に施行されなかったので、参加意思のない女性たちはできるだけ参加しないで済んだと思われる。しかし、対照的に韓真淑は、自分の母が婦人会活動に積極的に参加したといった:
52 キリスト教の教職の一つで、主に伝道の任務をもつ。
53 農村婦人会の場合は、都市とは違い銃後活動への動員よりは、生産の督励と作物の効果的供出にあった。李慧淑の口述もこうした内容である:“婦人会といって会議するところにこいといわれても、私はあまり行かなかったのです。たまに行くと、どこまで(日本軍が)入って行ったとかそんなの思い出します。それからいつも捧げるもの、供出するもののためにそれですよ。それのために集まったと思います。集まってもみんなお互い顔色をうかがうので、座って仲良くそんなのないんですよ。集まりたくないってことでしょ。集まれといわれれるから、仕方なく集まるものよ。あればもっとだせといわれたり。いつも供出するために、それでよく集まったですね。稲、そんなのかますに何かますだせ、というんだけど、収穫ができなくて額数が合わないと…”<李慧淑>
“うちの母も愛国婦人会にでて千人針したの。そんなところにでて動員されてました。町内で有志だといわれるから、出たのよ。愛国婦人会会員としてそこで主導的役割をしなければならない。先にでないと、たすきかけて。父が何(町内の有志)だから母も何なの。婦人会の幹部なの。それで母は日本語できるの、うちの母は。うちの母はわかって話したりしたの。父と、日本のお客さんもきたりするから。”<韓真淑>
韓真淑の母が銃後活動に参加したのは、彼女の夫が咸鏡道の道議員を3期勤めた上に、船舶を所有し漁業を行うなど地域社会の有志だったからである。韓真淑の母は婦人会活動に積極的に参加することが夫の事業が順調に運ぶのに役立ち、それが家族の利益と福利につながると思ったのであろう。同じく、婦人会に参加しなかった女性たちが共通して不参加の理由として挙げているのも家族の問題であった。つまり彼女たちには、家事や子供たちの世話をするといった主婦あるいは母親の役割がより重要であった。鄭菜英や韓真淑の母など社会的参加経験のない女性たちは一般に政治的動機づけがない。そのため、彼女らの行動動機として自分の政治的意識ではなく、家族や夫の問題が優先される54。韓真淑の母のように、女性たちは自身の個人目的ではなく、家族の利益と安全のためという意識があるときは戦略的に体制に協力するようになる。康玉子は自分の母がキリスト教信仰のため婦人会にも参加せず、神棚も設置しなかったと述べたが、日帝末期彼女の弟は郡首であった父の社会的地位や地域での圧力のために神前結婚式を行なった。これも体制への協力が家族の生存のためにとられた選択だったことを表す例である55。女性たちの公的活動動機が家族の利害関係や安全と保護に置かれたのは、植民体制の下で家族は、抑圧的な植民体制に対抗する生存戦略を維持し、日常生活を営むもっとも基本的な場だったからである56。こうした側面は面接対象者の記憶にも反映されている。韓真淑や康玉子の場合のように、自分の家族が体制に協力的な場合、それが日本や戦争を支持するための選択であったとは考えていない。韓真淑は自分の母が家族と夫のために対外活動も活発に行なう、強くて立派な女性であったとみている。康玉子も母の神棚設置や神社参拝への抵抗は母が熱心なキリスト教信者であるためとみなしたが、弟の神前結婚式については体制協力ではなく、植民体制の抑圧性を表す側面としてのみ記憶している。
54 ナチドイツ占領下のフランスにおいても、女性たちが協力組織に参加したのは、夫や父親を支えるためであった; Hanna Diamond, Women and the Second World War in France
1939-1948: Choices and Constrants, Pearson Education Limited, 1999, p.94.
55 “うちの弟のときは、その後、神前結婚式をするって騒いだりして。むりやり村長たちがきて、神社でやらなければいけないというから、弟が結婚するときは神前結婚式をしました。神社で神主がそれやるところでやったんです。なに、こんなの振り回したりするのよ。そのとき一般的に青年たちをどんどん追い立てるのが、そのまえでやれっていって、神棚を家ごとにしろって。44年、そのときは神前結婚式をとても強要したね。面で。面事務所をつうじても。”<康玉子>
「愛国婦人会」といった官立婦人団体が識字層の女性を対象にした反面、「愛国班」はすべての住民を対象に、毎月「常会」を開いたが、「常会十訓」では、「主人も主婦も出席すること」を規定している57。「愛国班常会」は主に当局の政策を伝達し、地域単位の配給と供出の担当を受けもった。当時主婦であった面接対象者たちのほとんどが「愛国班常会」に出席しなかったが、彼女らはその不参加理由として「年も若い嫁だったから」と語った:
“一軒で一人でろというと、みんなでなければいけないけど、私はそのとき若い嫁だったから。私はあんまりでなかったよ。姑がいるし、そうだから。”<金仁玉>
“私は、嫁に行ったばかりだから、でれるかな。若いのがでるもんではないでしょ。私はでられなくて、姑がでたっけ、舅がでたっけ。”<金徳順>
また、地域によっては男性が中心になって出席する例もあった:
“班常会のようなところは男だけでるもんで、我々女たちはでたことがないんですよ。”<康玉子>
56 一部の学者たちは欧米の白人中心理論から脱皮し、家族は家父長制規範が維持、実践されるところではあるが、黒人や植民社会といった抑圧される状況では、家族が女性にとって単純に抑圧される場のみではない、と指摘する;Patricia Hill Collins, Back Feminist Thought, Routledge, 1990;前掲 “Imperialism, the Family, and Cultures of Resistance,” pp.67-85.
57 「常会十訓」『国民総力』1941.8.28頁。
当局では、「愛国班」活動に教育を受けた女性たちへの積極的参加を呼びかけた58。その理由として、彼女たちは日本語ができるので伝達事項が理解でき、また、学生時代に皇国臣民化教育を受けたことで動員により効果的と判断したためであろう。しかし、女学校を卒業した面接対象者のなかで「愛国班常会」に出たことのある人は、愛国班長を任された鄭菜英を除いては一人もいなかった。面接対象者たちは、結婚してまだ日が浅い嫁の身分で、一家を代表して常会に出席するような立場ではなかったし、また舅や姑など一家での年長者や男が主に参加するものと思っていた。女学校出身者であっても大家族の場合、嫁という立場は常会といった外部での活動への参加を規制し、国家政策や宣伝もこうした家父長的地位と性別役割観念を変えることはできなかった。事実、当時まだ儒教的伝統の強い地域の両班階層では若い嫁や娘たちが市場に行くことさえも自由でなく、外の仕事は男性または年長の女性が行った。
一方、舅姑と同居しなかった鄭菜英は愛国班長を経験した。彼女が愛国班長の役割を任されたのは婦人会の幹部役割と同様、彼女が女学校出で日本語ができる識字層であったためであり、彼女もそうした点を認識していた。つまり、彼女は当局が望む銃後活動を忠実にやり遂げられる新しい主婦層であったが、彼女がそうした活動に対して抱いていた態度と認識はかなり傍観的なものであった:
“愛国班長もしたし。ご飯をよそっていても走りでて行くし。警戒警報がなると、山に登るし。みんなよけて、防空壕掘って何だあれをするでしょ。集まれというと、愛国班員たち全部集めて山に登って。(配給)もらって食べるの、あのどこで食べて。米も倭政のときは班にでて。配給ももらって食べたけど。野菜なんかも買わせてもらえないから。愛国班で(野菜など)でるとお金をいくらかやって払ったでしょう。統制をしたから。まあ、何か買って食べようとすると、田舎でも、どこでも行って、買って食べたりしたのよ。愛国班でなにか集まれというとするし、ネギがでると配るし。”<鄭菜英>
鄭菜英は早くに有名公立女学校を卒業し、夫も判事であったが、銃後活動を積極的にするほどの社会参加意識はもっていなかった。彼女の愛国班長としての経験は防空訓練に受身的に参加したことと、不足した食糧確保のために東奔西走したといった記憶がほとんどである。
58 「京城の模範愛国班長像」『国民総力』1941.1.86-7頁。
面接対象者が女学生であった場合、学校でさまざまな銃後活動に動員され、戦争末期に進むにつれ動員の強度と時間も増加したが、京城と地方の学校との間には活動内容に差があった。勤労動員の場合、京城では主に教室で雲母剥がしや軍服修理といった軽作業であったが、農村や地方都市の場合は工場や畑での農作業など重労働を課せられ、肉体的にきつかったと語る場合が多かった。「挺身隊」募集についても地方では募集員が学校を訪問し支援を促す講演も行われたが、京城ではそうした経験をもつ人はいなかった。むしろ、南京姫が通った有名公立女学校では、「挺身隊」に志願した学生を有力者であった父親が後に連れ戻すという出来事もあった:
“挺身隊に志願して、学校でそれほど拍手喝采を受けて、挺身隊に行くようになったんです。それで、あの子がブサンまで行ったの。行ったら父親がそれを知って、追いかけて行って、つれ戻してきた。父親が有力者で、それであの子抜けだせたんです。”<南京姫>
これとは対照的に、農村で貧農として暮らした李慧淑の場合は、「挺身隊」につれて行かれないように1年余りを隠れて過ごさねばならなかった。挺身隊動員の対象が下層女性に集中されたことを示す例である:
“挺身隊あったのよ。でる人は出ます。そこに行かされないように私が米びつのなかにも入っていたし、瓶にも入っていたし。多分一年以上、そうしていたでしょう。そして最後はうちの父が面倒くさいって、髪の毛を全部そってしまったんです。女にみえないように。”<李慧淑>
当時女学校に在学中であった女性たちのほとんどは、1990年代以降韓国で社会的イッシュになっている「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)問題について、当時「挺身隊」募集はあったが、それが「性的サービス」を意味していたとは知らなかった、と語った。しかし、当時一部の女学校で志願を奨励したのは「慰安婦」ではなく「勤労挺身隊」である。彼女たちは自分たちの社会的出身階層と女学生という身分が自分たちをそうした性的動員から守り、また自分たちがいかに恵まれた階層であったかを十分認識してはいないようだった。さらに、ある女性は「挺身隊」、つまり「従軍慰安婦」の実情を知らなかったことを当時女学生としての性的知識の欠如のためと考えていた。また、ある女性はこうした挺身隊に関する質問に気まずい表情をみせ、あまり語ろうとしなかった。こうした反応は「従軍慰安婦」問題を軍隊による組織的な性暴力や人権問題として理解するというよりも、女性に対する性的行為とみているためと思われる。それは、この世代の女性たちに貞操や肉体的純潔といった観念が意識の内面に重要な規範として位置づけられていることを示している。
女学生たちは神社参拝のほかに、慰問文作成、慰問袋作り、千人針、出征兵士の出迎えや見送りといった女性に与えられたさまざまな戦争応援活動をした。こうした銃後活動に対する面接対象者たちの態度は大きく二つにわかれた。日本に対する反感から、「面倒くさくてやりたくない」と思ったグループと59、とくに反感もなく「当然やらねばならないこと」と受け止めたグループである60。ほとんどの面接対象者は体制への反感のために銃後活動も形式的に行なう程度にとどまった。しかし、戦時体制期に女学校に入学し戦時教育を受けた場合、日本に対する反感よりも同調的態度を示す傾向がより強かった。それは戦時体制以後、朝鮮語や朝鮮史教育の廃止など皇民化教育が徹底して行われたためでもあろうが、彼女たちが他の面接対象者より相対的に年齢が低く、体制に対する批判意識が形成しにくかったとも思われる。もう一つ面接対象者たちの戦争に対する認識に影響を及ぼしたのは、家族の体制に対する認識と態度である。南京姫と韓真淑は、お互い年齢は近いが、植民体制と戦争に対する認識はかなり対照的である:
“日本が負けるか勝つか、そんな話は家に帰ってきてした、うちの父と。父はいつも負けるといって、学校行くと先生たちは勝つというし。だから二つの考えの間で学生たちは何もいわないでいたの。でもいつも疑いをもっていたでしょう。一方では勝つというけど、もう一方では負けるといっているけど、必ず勝つともいえないし、必ず負けるともいえないし、どっちかな、まあこんな程度で。”<南京姫>
59 “(慰問手紙)私が書くとみんな書き写しますよ、そっくり。ただ一生懸命戦えと書くんです。義務的に書くものなの。神宮参拝するたびに悪口をいったんです。そこに行って悪口をいいながら敬礼するもの。そのとき、行くの好きなひと、何処にいるもんか。やらせるから義務的に行くしかないんですよ。みんな反感をもちます。みんな悪口をいいながら行ったの。”<鄭玉順>
“神社参拝も、それを真剣に行った子は一人もいません。授業しないから良くて、おしゃべりしながら、遠足行ってくる気持ちで。そこに行って神社に向かって祈る子が何処にいましょうか。”<南京姫>
60 “私たちにはそんな人いませんでした。当然やるものと思ってやったの。日本人から教育受けて、日本人になるところだったんです。反感もなく、当然やるべきことと思って、やったんですよ。”<金徳順>
“日本が滅びるとかそんなのは、大人たちは考えていたかもしれないけど、私たち子供にはそんなこと一切いわなかったから、私たちは聞けなかったよ、そんなこと。そんなことを話したりすると大変だから。日本人の先生が日本精神(について)話すのを当たり前、と受けとめたのよ。われわれは韓国人なのに、日本語使わなければならないことについて反感をもって話をするのも、私は聞いたことないのよ。当然そうするものと考えていた。”<韓真淑>
家族が民族意識や戦争への批判的態度をもっていると、これが家族内で表現され自然に彼女たちも学校で注入される皇国臣民教育や内鮮一体思想に対して批判意識をもつようになり、よって銃後活動に対する不満も大きかった。
要するに、主婦であれ女学生であれ面接対象者たちの銃後活動は、消極的参加と他律的従順にとどまったといえる。朝鮮では日本のように空襲による戦争の恐怖が少なかったこともあろうが、いくら「国民」や「臣民」と呼びかけられても自分たちが日本人として一体化できなかった民族的アイデンティティーがより大きい原因と思われる:
“韓国人と違うと感じたのはですね、戦争を経験していたけど、戦争に対して日本の女たちはそれを本当に自分たちの戦争だ、そんな態度だったけど、われわれは一歩下がって、傍観者的なそんなのがあったんです。日本の女たちが、たとえば、私が一番印象的だったのが千人針。それを本当に信じてするのよ。あれをみるたびに、私たちは、はばかりながら、おかしいな、それがなんになるの、そんなふうに思いました。けれど、彼女たちはそんなのをあれほど一生懸命やっていたのよ。日本人の女たちがね…日本人がいくら君は日本人だといっても、それが本当に私は日本人だ、そういうふうにはできなかった。できなかったんですよ。いくら内鮮一体だの、そんなこといっても、それがどうして同じなんですか。そうじゃないでしょう。それをどう否定できるの、自分が。私はそれで、そんなふうにはなりませんでした。いくら誰が何といっても。”<南京姫>
しかし、こうした民族的アイデンティティーのために戦争に対する傍観的態度をとった点のほかに、女性を家内活動に制限する伝統的な性的役割観念が持続的に作用した側面も看過されてはならない。つまり、銃後活動は私的領域を離れた公的活動であって、既婚女性の場合、不参加の主な理由は、民族的アイデンティティーよりも母親および主婦としての役割が家庭の範囲を超える公的活動より、より重視されたためである。また、活発に参加した場合も、その動機は家族の利益と妻としての内助といった伝統的女性規範にもとづいていた。
2. 戦時の家庭生活
戦時の家庭生活でもっとも重要な問題は食糧確保であった。この経験は戦時期に主婦だった面接対象者たちに共通するもっとも苦しい記憶の一つであった61。食糧不足の程度と確保の方法は階層間で著しい差異がみられる。都市ブルジョア階層の面接対象者のなかで食糧不足を経験しない人はいなかったが、程度の差こそあれ、家族ごとに食糧確保の手段をもっていた。田舎の小作地や知り合いから少しずつ米をもってくるか、もっていた絹など高級品を米と交換する方法をとった。どの方法にせよ、非合法的な「やみ米」を得る行為だったが、不法という意識はなかった。食糧不足が日本の戦争のためという認識とともに現実的に生存のため家族が何らかの対策を立てねばならなかったためである。女性たちは田舎から米を隠して運ぶことを主な役割としてうけもった62。それは平素と同じく、ご飯を炊いて家族の食事を作ることが主婦、母親の役割と認識されたためであろう。そして「愛国班常会」への参加とは違い、米を隠して運んだり、配給の米をもらってくることは若い嫁たちも行なった63。
61 1942年、京城の愛国班長の70%を女性が占めるようになったのも、男性が参加に消極的だったこともあるが、とくに、食糧調達の難しい都市で愛国班をつうじて食糧と物資の配給が行われたために、主婦たちが参加せざるを得なかったためでもある。
62 “うちの夫の実家は、平壤から約百里行くとある自山というところに水田があったの。そこに行くと、小作人たちが少しずつくれるから。それも調査するでしょ、ここで。それで、ここに隠して、少しずつもってきて食べたりしたの。”<金仁玉>
家族構成員が多い場合、食糧調達の問題はより深刻であった。鄭玉順の場合、故郷の小作地から米をもってきたが、大家族の食糧調達が末期に進むに従い次第に難しくなると、弟の中学入試失敗をきっかけに家族全員が再び故郷に戻った。食糧事情がもっとも厳しかったのは労働者層と貧農層であった:
“一年ずっと農業しておくと日本人が米全部もっていく。それで日本難64のとき、とても大変でした。飢えたの。日本人が全部もって行っちゃって…豆の粉、豆かすも食べたりして。豆かすというのは、それでご飯を炊くと、とても食べられないの。少しずつくれるの。食べるものが何処にあるの?麦稲切って炒めて蒸して挽いて、おかゆも作って食べたり、食べ物がなくて…そのときはかぼちゃを集めて、かぼちゃのおかゆ。そんなもの食べて生きたの。”<金枝培>
農民は農業をやっても供出のために常に食糧不足を経験した。農民であった潤心徳は、供出に備え、米を土に埋めておく方法で家族の食糧を確保した65。貧農層女性の場合、文盲でかつ教育機会の不足、過度な労働で政治状況に関する情報や体制批判意識をもつに限界があったが、他の問題より強制供出といいかげんな配給による食糧不足は彼女たちに体制への反感を抱かせた要因になった。
女学生の場合も配給問題は体制への反感を強めさせた。李鐘姫はほかの女学生に比べ、厳しい環境で学業を続けたケースであった。彼女が通った京城女子医学専門では日本人学生が半分以上だったので、朝鮮人学生と日本人学生の間に言語問題など微妙な葛藤が起きることが度々あった。配給に対する差別は学生の間にいわゆる内鮮一体にもかかわらず、民族の差を認識させる出来事の一つであった:
63 “数升をいっぺんにくれるから、私が頭にのせてきたの。約五升ずつ頭にのせてこなければならないから。多分それが一月分だったと思う。それだけで食べたりした。”<金徳順>
64 無学で文盲の金枝培は、日中戦争、太平洋戦争期を「日本乱(....)」朝鮮戦争を「人共乱(....)」とよんだ。
65 “野良仕事をして、自由に食べれませんでした。全部あの人たちが供出してもって行くから。米。野良仕事しておくと、そんなに全部もっていって。だから、土掘って、埋めておいて。いくらお金持ちでも、自分勝手にそんなに食べられなかった。土掘って埋めておいて暮らして。そうすると、こんな槍もって回って、埋めておいたところをこう刺してみたりした記憶がありますね。そんなときはちょっと隠しておかねばならない。たくさんの食糧はできなくても、自分の食べる食糧は常時備えておかないと。”<潤心徳>
“本当にお魚も腐ったものをわれわれ韓国人に配給して。糧食もそんな食べられないものをくれて。本当にそんな差別待遇を受けながら。しかし、日本人の子たちは、そのときうちの学校の半分以上だったと思いますが、米も手に入らないけど、あの子たちがたまにその韓国の海苔がおいしいって。彼女たちは韓国の食べ物をほめるけど、こっちは本当に頭にくるのよ。韓国で採れた海苔を私たちはみることもできないのに、そうよ、みることもできないのよ。そのときは全部が配給だったんです。だから、そういっているのが憎らしくて、気に触って。気が利く子は海苔を一束もってきてはくれるんです、食べてみてって。自分たちの配給でもっらたのだと。そうすると、もっと腹が立って。自分たちもちょっとは気がすまないと思うんでしょう。でも、彼女たちも反日感情があるのを感じるのよ。”<李鐘姫>
食糧不足のほかに女性たちの反日感情を刺激したもう一つは真鍮器の供出であった。これも貧困層で打撃がもっとも大きかった。富裕層では備蓄して置いた物の一部だけ供出してもたくさん供出できたが、貧困層では日常生活になくてはならないものを取られるという矛盾があった:
“あのときはこんな匙もなかったの。木の匙、木の箸、木のしゃもじ、そんなの使ったの。真鍮の器、匙のようなもの、鉄というものは…あのときは部屋が寒くて火鉢というものがあるの。鉄でできた火鉢。部屋に置いてあぶったの、寒くて。そんな火鉢も全部もって行かれちゃって、日本人が全部。”<金枝培>
真鍮の供出も地域の愛国班長がうけもったが、住民の間に不信や反目はなかった66。供出を担当した朝鮮人に対してはまかされた仕事をやるだけという認識だったし、住民の間には供出は形式にすぎないという理解と共通の利害関心があったためである。
66 “親日でなくても仕方ない、やらなければいけないから。みんな大目にみてやるから、韓国人たちはお互い。”<金仁玉>
主婦たちは米の確保だけでなく、生地の不足やその他の生活必須品の欠乏に対処して行くために多様な戦略と技術を使った。植民権力が唱えた生活改善は現実に欠乏と困難を経験していた女性たちに実際には必要な方法を示すよりは、むしろ反感をかきたてるばかりであった:
“(生活改善)あら、まあ、キャンペーンしても誰が聞くんでしょう。暮らしがよかったら、それも聞けるでしょ。みんな暮らしが貧しくなったから、節約するものもないのよ。おかずなんかはとっくに。”<康玉子>
“いつも家庭生活、緊縮生活やれといったし。そんなのはいつもいうんです。生活改善しろ、また耐乏生活しろって。それは、まあ、継続的にするの。物資節約やるものがある?砂糖もないし。だからモンペ着て…節約するものもないの、物資がないから。”<金仁玉>
女性たちには家族の生存と健康がもっとも重要な問題であったが、国家の「生活改善」は消費を節約して戦争のための物質的動員を最大化することが主な目的であったからである。したがって、実際に戦時の家庭生活は強制供出を除いて、国家は主婦たちの自発的協力を得られなかったし、主婦たちは固有の生活慣習を変えようとした国家の「生活改善運動」に対し、依然として個人の家庭生活をそのまま維持しようとした67。
このように、面接対象者たちの戦争に関連した家庭生活に関する記憶は、食糧不足と真鍮器の供出、さまざまな物資の配給制に集中していた。その他の家庭生活の大部分は伝統的な様式が維持された。とくに、近代教育を受けた女性たちが結婚し大家族の主婦となった場合にも生活様式はそれほど変わらなかった。舅姑の権威が維持されていたために、彼女らが習い、接した新しい家事の運営は実践しにくかった。また、住居環境が改善されていなかったうえ、戦時の物資不足が近代的かつ合理的な家庭生活への改善を制限したために、姑の家事運営の知識が依然として通用する側面が多かった。そのために、家事は姑と嫁が協力して行なった。戦時中、女中廃止が唱えられたが、大体のブルジョア階層の場合、女中の賃金が安く、家事労働が依然として肉体労働の側面が強かったため、女中を雇った家庭が多かった68。教育水準の高い面接対象者であるほど、姑との同居を、関係の難しさよりも家事と育児を補助してもらった点から肯定的に評価し、また円満な嫁姑関係を強調する傾向が強かった:
67 とくに、固有の生活慣習に関する規定は強制にもかかわらず、慣習を変えるよりは取締りを避ける方法が取られた。“陰暦正月もやらせなかったし、もちも作ってはいけないし、酒も造ってはいけない。それでコッソリと夜やったりしたのよ。お酒も造ったら罰金払わせたの。もち作らないように監視する。精米所やどこかでうすでつく音がでるか監視するし。”<趙淵秀>
“何か買ってくるって全部お母さん(姑)が買ってくるし。お金を預かって使うから。(夫が)給料をもらってくると、お母さんに渡すのよ。そうすると、お母さんが全部買ってくるの。それが楽なの。後で病気になって、自然に私がやることになったの。うちのお母さんは、もともと何でもよくできるの。何でもお母さんがなさるのがいいのよ。気が楽。自分がお金もっているより。お金だって、給料もらってくるの多くないから。それを分けて使おうとすると、頭痛くなるよ。まあ、後になったら、自然に自分に。近頃はそうではないようだね。私たち仲がよかったの、二人が。お母さんと私が仲がいいから、誰か嫁もらうけど、秘訣を教えてって。何でも大変なことは、お母さんがしようとするからね。”<金徳順>
これは、彼女たちが現在姑の立場で、嫁の務めをしたのが過去であったこともあるが、また、彼女たちが教育を受けなかった女性よりももっと伝統的な嫁の役割規範に支配されているためでもある。
最後に、戦時の家庭生活に関する記憶には窮乏した苦しい記憶ばかりでないことを付け加えておきたい。母親の近代的な料理法や外国料理を人より先に食べてみた経験が誇らしげに語られた69。さらに、日本の食べ物や服装など日本文化の体験が親日的という否定的観点からではなく、一個人が裕福な家庭環境で享受できた近代的かつ異文化的な体験の一つとして語られた70。鄭玉順と韓真淑の場合、こうした傾向が強かったが、それは彼女たちが解放後、南下と家産喪失により家勢が傾いたため、そうしたことが過去の裕福だった家庭生活と結びついた体験として記憶されているためでもあろう。
68 “大体数年一緒に住んでみると、自分は大変な仕事をしてやって、家事をやってあげて、家の奥さんは学校先生しにでる、いない間に私が良くやってあげろ、と。人間的な紐帯感というか、そんなのがそんなに葛藤がなかったんですよ。昔、私たち家事をやってくれた人たちは私たちよりずっとノウハウがよかったんですね。私より洗濯もきれいにするし、洗濯も全部手洗いでしょ、そのときは。”<全英錫>
69 “うちの母は、新式教育は受けなかったけど、漢文はたくさん知っていて、小説が好きで春園(イ.グァンスの号)の小説は全部読んだのよ。YWCAチョン・スンウォン氏中国料理、チョ・ジャホ氏が韓国料理するの、必ず行って全部習ったのよ、その昔。それで、私たちは子供のときから、カレーライス、ハイライスなんか、全部作って食べましたよ。”<鄭玉順>
D.戦争と女性性の変化
昔は素敵なツーピースだった制服もなくなり、学生たちはモンペ、先生たちは脚絆に国民服姿であった。思春期の私たちはそれでもおしゃれがしたく、モンペに線を立てて着ようと、夜は敷布団の下に水を噴きかけたモンペを大事に敷いて寝た。
羅英均『日帝時代、我が家は』71
本節では女性の服装と容貌、立ち居振る舞いや態度といった日常生活を通して家父長的規範と植民主義、そして戦争がいかなる方法で女性性、あるいは世間的に女らしいと定義する観念の意味を規定し、また女性たちはこれらの意味づけをいかに認識し、どういった過程で女性性の意味を変えて行ったか、の側面を考察する。
1. 伝統服と洋服、そして家父長制女性規範
開化初期、上流層に属するわずかな女性たちが洋服を着始めて以来、1920-30年代にはいち早く海外留学を終えて帰国した新女性たちが洋服を着始めた。1930年代には女学校の韓服制服が当局の政策によって洋服に変わったことで、洋装姿の女性たちが徐々に増え始めた。女性の洋装は主に男性たちに奢侈と放縦、無分別な西洋模倣という批判の対象となり、そうした言説は多くの記事にされた。女性の洋装が当時一般化されたような印象を与えるが、決してそうではなかった。解放までは女性の大部分の服装は韓服が一般的であった。1930年代、女学校の制服が洋服に変わった後も女学生たちは家で韓服を着ていた。面接対象者のなかで1920年代後半以降出生した南京姫と韓真淑のみ子供のときからずっと普段着として洋服を着た。彼女たちは当時富裕層で教育水準も高かったために、普段着として韓服を着たことのない洋服世代においても早い方だと思われる。富裕層で教育水準も高かった全英錫(1923年生)や鄭玉順(1921年生)は家でも韓服を着た。彼女たちの通った女学校は一番早く制服として洋服を採用した学校であるが、彼女たちがこうした制服に対してとくに自負心や満足感を抱いていたようではない。とくに、鄭玉順の場合、卒業した淑明女高は日韓併合以前からいち早く制服として洋服を採用した学校で、彼女も1930年代には洋服の制服を着たが、洋服制服の不便さをこう回想した:
70 “すき焼きは家でよく食べたんだけどね。日本食は父がよく日本料理屋に行って食べたから。日本人をつれて外で食事もしたりしたから。私は好きだった。私たちは辛いの食べられなかったから…日本羽織、父も着たよ。日本人のお客さんくると、羽織着たりしたの。私は国民学校4年のとき、神社踊りしたの。日本の神社祭りするときに、花車に子供たちを、日本桜、これを被って日本服を何枚も着せて、化粧もさせて、子供たち踊るの、それをやったのよ。一年に一人だけなの。それをやったの、私が。家庭もいいし、学校で勉強もできるし、顔もきれいで、それで選ばれるのよ。だから、一番は父のためよ。まあ、本当に貴族だった、貴族。日本貴族なのよ。”<韓真淑>
71 羅英均『日帝時代、我が家は』(ファンソジャリ、2004)210-1頁。
“夏ですね、家に入るときには、女中が真鍮のたらい、大きいのよ、そこに水汲んでくるでしょ。私がいきなり脱ぐんです。私一人で脱げないんです。母がきて私の服を脱がせてくれるんです。ぴったりくっつくんです、ブラウスが。くっつくのよ、完全にくっつく。毛織の後ろの裏地が黒の木綿なんですよ、純綿。だから、厚い純毛に、なかにまた綿を入れて、その中にまたブラウスがこんなに長いじゃないですか。何枚もなのよ、何枚。だから、死にそうですよ。(家に)帰るときにはもう泣きそうになって入るんですよ。死にそうといいながら。女中が水汲んでくるし、母が入って。戸を閉めて私を洗うようにするんです…夏がくると、本当に死にそうだったのよ。一年中それを着るんです。冬はその上に上着一つ羽織るんです。 …可愛いどころか、本当にうんざりです。それに帽子まで被って。まあ、夏に帽子被るのよ…私はその服が本当にいやだったの。4年も着たでしょ。”<鄭玉順>
鄭玉順が洋服の制服に不満だった理由の一つは夏でも冬に着ていた毛織のジャンパースカートを着るためかなり暑く、慣れない帽子まで被らねばならなかったためであった。当時韓服の制服を廃止し、洋服に改めたのは経済性と活動性を生かすという政策的理由からであったが、気候の変化に合わせて選択できた韓服の素材に比べ、女性の洋服生地はそれほど多様ではなかったために、洋服の制服にはこうした短所があった。さらに、鄭玉順にこうした洋服の制服への不便さが主な記憶として残ったのは、洋服がもたらすモダン性や開化性にそれほど魅力を感じなかったためでもあろう。意外にも、当時女性として最高教育機関であった専門学校に通ったり、日本留学までした高学歴女性の間に洋服への憧憬や好みが現れなかった。李恩實が1930-34年に通った梨花女子専門はアメリカ人教授や合衆国留学後帰国した韓国人女性教授など洋服を着た教授がいたために、ほかのどこよりも洋服姿の女性たちを多くみかけられる場所であったはずだ。しかし、当時学生だった李恩實は洋服に対するあこがれをもってはいなかった:
“金活蘭72、あの方はアメリカ行ってきて洋服着たの。洋服着てもあの方は背も低いし、それで恰好もよくなかったの、正直いって。あの方はアメリカ行って帰ってきて当然洋服着るだろうと思ったけど、それを着ようと考えもしなかった。(金活蘭は)洋服も着たし、韓服も着たけど、洋服着てもあれ着たいな、と思うほどの洋服ではなかったの。金活蘭先生と一緒にいたソ.ウンスク先生やキム.エマ先生、キム.シンシル先生のような方たちはみんな韓服着ていたの。おしゃれというより、金活蘭氏は女性にとって彗星のような輝く存在だからそうだろうと思ったけど、うらやましがったり、私たちもあの洋服着れたらいいな、と思ったことがないの。宣教師たちは洋服着るものと思って、学生たちは洋服なんて思ったこともないの。西洋の服だ、あれ着たいな、考えすらしなかったの。外国人は外国の服、韓国人は韓国の服。(韓服が)不便だと思わなかった。韓国人は当然韓服着るものよ。”<李恩實>
梨花専門の制服は戦時体制が始まって以後、1939年に当局の政策で洋服に変わるまでずっと韓服であった。李恩實の口述からわかるように、当時梨花専門の学生たちはアメリカ宣教師やアメリカ留学から帰国した人たちが洋服を着ても、自分たちの韓服着用を当たり前のことと思ったのである。これは、韓服が制服であるためにそう思ったのではなく、学生たちの韓服への愛着が一貫して韓服を制服として維持したとみるのが妥当であろう。既存の指摘のように、韓服制服を植民統治下の民族精神の発露とみなすのは、植民地下の女性たちの意識と行動をありのままではなく、民族主義的観点に立って偏った解釈をしたためと思われる。服装は民族的なアイデンティティーを表す以前に、個性やアイデンティティーを表現する手段であり、女性らしさや女性性は、女性のアイデンティティーをなす一部分である。梨花専門の学生たちが洋服に魅力を感じなかった理由は、西洋人宣教師たちや西洋を経験した女性たちによって体現される形の制限された洋服よりは、自分たちがずっと着てきた韓服が自らの個性と美しさを表現するに当たって、より着慣れた服であったからと思われる:
72 梨花専門の卒業生で、梨花初の韓国人総長になった人物。1930年代にアメリカで韓国人女性として博士第一号になった。
“韓服を着ると恰好がいいのよ、洋服より。洋服着慣れないと、おかしいね。(梨花専門の学生たちが)服を着ても、恰好よく着たの。昔はチマ(スカート)にはチマひだをぱりっとさせる。そうすると、その姿がきれいなのよ。女学校では制服だから、同じ生地で同じ服を着るけど、専門学校は生地がいいものが取れたりすると、いくらでもおしゃれできるから。”<李恩實>
鄭玉順も梨花専門を卒業したが、彼女は女学校のときの女教師たちのしゃれた韓服姿についての具体的な記憶をもっていた:
“(女教師たちが)韓服、素敵に着てました。美術の先生、東京留学した方なんですよ。韓服なんだけど、一流のおしゃれ…また、家政科、日本女子大学出たけど、みんな韓服を着たんですよ…(先生たち)みんな韓服。(スカートの)長さは短くはくんです、靴履くから。全部おしゃれ、一流のおしゃれ。夏にはね、黒のケキ(チョゴリ)も着たんですよ。ぱっと透けてみえるもの。裏には赤を着たの。そんなのを着て。私たちはただ気をとられてみていたの、あら、素敵ねえと。私たちのとき先生はみんな韓服を着たんです。洋装しなかったんです。けれど、本当に服が素敵でね。色とかそんなのをよく合わせて。チマ(スカート)は大体黒とかそんなのをよくはいてましたね。服は、チョゴリ(上衣)があまりに素敵なの。私の印象に残っているのは、ケキチョゴリというのは大体白を着るの。けれど黒のケキチョゴリを着たのよ。それがとても印象に残っているの。普通、誰がそんなの着るもんですか。東京で女子美術学校出た先生、ユン.ヨンイ先生はオーバーを着てあまりにも素敵。韓服に着るんですよ、ベルト締めて。それが今も私の印象に残っているんです。”<鄭玉順>
彼女の記憶によると、当時女学校の若い未婚の女教師たちは最上級教育を受けて、日本留学をした場合も多かったが、華美な韓服に対する制裁のなかった戦時体制以前、多様な色と生地を使い、韓服でしゃれた美を表現するのが上手であったようだ。女教師は韓服でファッションリーダーの役割をしたのであり、それは金活蘭などの洋服よりも女学生たちによりアピールしたのである。透けてみえるチョゴリや韓服に洋服を合わせる着こなしは、当時男性たちの批判の対象にもなったが、学生たちは何の偏見もなく、そうしたスタイルを憧れの対象としてみていた。女性たちが家の外に出て近代的な経験をすることになり、彼女たちの服装と容貌は男性たちの観察と批判の対象になった。鄭玉順の口述によると、女性たちがこうした社会的視線にそれほど縛られず、少なくとも女学校という囲いのなかでは自分たちの個性と自我を服装をつうじて自由に追い求め、こうした感性が女教師と女学生の間に共有されていたことがうかがえる。
ところで、前章で述べたように、当時新女性たちが活動性と能率、労働節減のために服装の改良を主唱したが、実際は韓服の部分的改良にとどまり、洋服への完全転換を提唱しなかった理由はなんであったのか。口述によると、大体の女学生たちが学生時代は制服として長さの短い改良韓服や洋服を着ても、結婚後は慣習に従い、依然として伝統的な長い韓服を着たことが語られた:
“私たちの同窓も女学校4年卒業して(1939年)、その年に結婚して、その次の年に結婚して、そうするのが普通常例だったんですけど、結婚すると、当然たびはいて長いチマチョゴリ着たね。私たち同窓が150名なんだけど、学校卒業して、学校の先生かどこかの銀行に就職するとかそんな人たち以外に、気軽に洋服を着た人がどれぐらいいるか今考えてみると、そんなに多くないんですね。”<全英錫>
“大体、そうしても、結婚すると、よく韓服着たんですね。”<鄭玉順>
これは、近代教育を受けた女性でも、結婚後は再び伝統的な家族生活と女性としての役割、とくに伝統社会で重視された大家族内での従順的な嫁としての役割が求められたことを意味する73。新女性たちもやはり結婚後は「賢母良妻」になり、こうした規範の枠から自由ではなかったために、彼女たちの服装改良は韓服から離れられない限界があった、と思われる。こうした例は服装だけでなく、髪型においてもみられる。李鐘姫が通った女学校では何人かの「勇敢な」学生たちが学校の規則を無視して当時流行した断髪を敢行したことがあった74。この断髪事件は該当学生たちの停学処罰をもって終わったが、その理由は、女学生は卒業すると結婚して慣習によりまげをするため、髪を伸ばさねばならないが、それを無視して髪を切ったということにあった:
“卒業すると、すぐ嫁に行かないといけないから、髪を切ってはいけなかったんです。こうやって、おさげ髪をしてあんで行ったんですけど。最初、ある子が扇動して、中髪をしたんです。中髪とは、ここにこんなふうに、ピンを止めて、あまないで。それで、4年のときだと思うけど、ある学級で数名がそれを切ってね、その子たちを全部停学にしたんです。親たちから抗議が入って、騒動になったんです。卒業すると、すぐ嫁に行かせるんだけど、その髪でどうするってことだったのね、まげをしなければいけないのに。それで首謀者何人かが停学にされたことがあったのよ。”<李鐘姫>
このように近代的女性教育が普及しても、依然として家父長的伝統と規範が女性の服装と容貌を支配していたことがうかがえる。こうした側面は当時の女学校での裁縫教育にもみられる75。女学校で裁縫と手芸は総教育時間の三分の一を占めるほど重視されたが、制服は裁縫教育の一部として学生たちが製作したりした:
73 こうした例は、パク.ワンソ(朴完緒)の自伝的小説『彼の家』でも詳細に描かれている。パク.ワンソは、1931年生まれで戦時下の淑明女学校に通い、解放後に卒業し、1954年結婚したが、結婚当時女性の服装をこう表現した;「少女時代もほとんど韓服チマチョゴリを着て過ごす時代だった。結婚すると、後ろが左に分かれる長いチマチョゴリを着るようになるが、結婚前は、ひざ下くらいまでの筒状のチマに肌色の靴下に靴をはいった。洋装はしゃれた職業女性を中心に徐々に広がりつつあったが、家で花嫁修業する良家の子女や職場が保守的な学校の先生や銀行員たちは依然として韓服をよく着る時代であった。」パク.ワンソ『彼の家』(現代文学、2004)170頁。
74 この学校の「学生の注意事項」には、「髪をいつも正しく結い、3年生以上の断髪は不許可」と記されている;淑明女子中高等学校『淑明70年史』(淑明女子中高等学校、1976)107頁。
75 “私が卒業した保守的な女学校ではたび縫うのも教えたが、服の型を採る方法から裁縫法を徹底的に教えた。姑は私が裁縫ができるのにすごく満足した。”前掲『彼の家』170頁。
“家政時間に3年のときからミシンを使う。ミシン、学校にたくさんあるの。ずらりとあったの。ミシンなんでも自由に使えたの。できるものは全部作ったの。洋裁というでしょ、洋裁時間。ワイシャツも作ってみたし、運動服もしたし。制服はするの。私たちが4年のとき、1年生の新入生のも私たちがするの。寸法も測ってするの。一人ずつうけもって。私たちが入っても、上級生がしてくれたの。それがとっても印象深い。夏物、冬物。”<金徳順>
“セーターは、冬服制服は私たちが学校に入ると、秋まで私たちの手で編みます。”<全英錫>
伝統社会で裁縫は女性の重要な家事労働の一部であった。嶺南地方の両班層であった潤朱英は近代的学校教育の機会は得られなかったが、幼いときから家で自分が受けた教育のほとんどは結婚に備えた裁縫であった。彼女は裁縫について農業労働をせねばならない常民層の女性に比べて両班階層女性としてもつ技術であり、かつ重要な家事労働として口述した:
“韓服、全部したよ。嫁にくる前にうちの母から全部習ってくるのよ。私たちは結婚するときは男たちの服、全部したの。男たちの服、トゥルマギ76そんなの、私が全部したのよ。そのときは、ちょっと田舎であって、ちょっと結構なところあって、班村あって、民村あって、民村人たちは娘たち、みんな畑で働いて、班村人たちは女たち、畑で働かなかったの。針仕事だけしたの。そのとき、家が結構な人たちは娘たち、韓服取り揃えて着た。だから、韓服全部できるのよ。生地だけもってくれば、服作れるの。トゥルマギなんか、(常民たちは)よくできないの。班村人たちは子供のときから針仕事を教えるのよ。畑仕事はしなかったんだから。”<潤朱英>
76 男性用の外套。
こうした裁縫は近代女性教育が施された日帝下の女学校でも持続的に重視され、女性たちも裁縫の重要性を認識していた:
“裁縫よくできる子は冬休み、夏休みに自分たちで作って着る。昔は女が裁縫できないと、女の一つの生命と思って、一生懸命習ったの、幼いときから。そうよ、幼いときから針仕事したのよ。母親から習ったの。韓服作れるの。綿チョゴリ、作ってみたよ。女の生命だから、できないとだめでしょう。料理と裁縫はできないとだめですよ。家事実習時間があって、裁縫時間は手芸。洋服作るの、女学校のとき、一つ習った。ネクタイ、一つ作って、子供のオーバー作るの、私は弟の、作ってあげた。学校時間にやるから。”<李恩實>
よって、学校を出た女性たちは学校で習った裁縫技術で自分や家族の服を作ることができた。師範学校を卒業し、教師として勤めた経験のある金徳順は昨今の女性はそうした能力がないと指摘した:
“最近の子たちはミシンもできない。(私は)子供たち、全部作って着せた。私がよく作って着せたの…うちの娘、大学のときも私が作ってあげたの。女学校のとき、習ったから。おじいさん(夫)シャツも作って着せたし。そのときはあまり買えないから。私の友だち、みんなできるの、習ったから。韓服は1,2年のときして、3年からは洋裁した。”<金徳順>
“(女学校で)パジ(ズボン)チョゴリそんなの全部したの。洋裁も、夏休みになったら、誰かがきて特別講習をしたね。ワンピースしたよ、ワンピース。それは特別に2,3日講習をさせましたね、洋裁縫を。”<鄭玉順>
裁縫とともに重視されたのは手芸だが、ほとんどの女学校で手芸時間には卒業後の結婚に備えて嫁入り道具としてもって行けるスジョジップ77を作ったり、ときには手芸教育のためほかの科目の授業が軽視されることもあった:
77 匙と箸を入れておく袋。
“私が淑明で東洋刺繍、藤の屏風、刺繍をしましたよ。何年も選ばれて。だから、まともに勉強をしなかったのよ。房子女史に差し上げるって。そのために勉強をまともにしなかったんですよ。そのとき、房子女史が(学校の)理事長格のようだったんです。”<李鐘姫>
賢母良妻理念の近代的女性教育の真価は前近代社会で重視された裁縫が依然として女性教育のなかで少なからず比重を占めていた点に現れる。こうした教育内容のため、近代的教育を受けなかった潤朱英と、当時最高学府をでたというプライドをもっていた李恩實の間には、女性の家庭内の役割と義務に対する観念に相違点がみられない。近代的教育機関である学校が家庭に代わり、また家政学を専攻した女教師が母親に代わり女学生の裁縫教育を担当したが、これは近代女性教育が前近代社会での女性教育の目的と同様、結婚とその後嫁としての役割を務めることに目標を置いたことを意味する。
一方、貧困した農民層であった潤心徳と金枝培にとって衣服とは、労働を意味するものであった。彼女たちは木綿の種をまく段階から、成長後収穫し、糸をつむぎ、布を織って家族の服を作るまでの前近代的手工業的家内労働の全過程を今も詳細に記憶している。彼女たちは一日中畑での農業労働を終えた後、帰宅して夜また機織をしなければならなかった農民層女性に負わされた労働の厳しさを仔細に話した。解放以前、農民層女性には伝統的織物生産の労働が必須的役割として求められたことが分かる。
当時近代的教育を受けた女性たちが賢母良妻主義の学校教育や家庭での教育にどれほどの抵抗や不満をもっていたかは口述からはうかがい知れない。当時、抵抗感を抱いていたにしても、長い年月が経ち、ライフステージ上の変化も思春期や短い青春時代の感性への記憶を損なうであろう。しかし、女教師の韓服に対する記憶や友人の断髪事件など限られたいくつかのエピソードをつうじて、社会的批判や圧力にもかかわらず、女性たちが服装と容貌、ひいては自分の身体に関することを自らの意志によって主体的に決定しようと試みたことがうかがえる。女性教育が伝統社会での女性規範をそのまま持続するように行われたとしても、女性たちが容貌と服装をつうじて美しさを表現しようとしたのは、ある面で服装と容貌こそ日常で自分の自我を表現できる領域であったためであろう。しかし、農民女性がこうした経験から除外されたことは植民支配下女性の生活経験の多様性という観点の重要性を示す。要するに、いかなる階層であれ、衣服を取り巻く女性たちの体験に家父長制の規範が作用していたことは見逃せない。
2.戦時女性の服装統制と女性性維持の戦略
モンペが戦時女性の服装として強制される前から事実上、女性に対する服装統制は始まっていた。同じ梨花専門でも、戦時以前に卒業した李恩實と、戦時中に通った鄭玉順とではその口述から差異がみられる:
“自由でかなり奢侈したね。昔は梨花女子専門学校、最高学府といって、本当におしゃれは一番で。梨花のおしゃれは服もよく着て、奢侈でそうだったの。とにかく、梨花というと、おしゃれすることでたいてい知られていたの、世間から、一般社会で。髪もちょっとしゃれて素敵にしたりして。化粧も少ししますよ、おしろいもして。”<李恩實>
“そのときは韓服着るけど、色がいくつかあったんです。それであれこれ着たんです。それでも、華美に着たりするといけなくて、地味に着たんです。(戦時だから?)そうですよ。夏は、麻チョゴリと黒のチマ着ました。冬は、色がちょっとあるのを二つか三つ着たんです。コ.ファンギョン、韓服。金活蘭、韓服。イ.ジョンエ先生は長いチマもお召しになって。学校でる方はみんな短い(韓服)チマ。我々のときは、洋装しなかったんです。洋装したの、みなかったけど。(教授たち)地味に短いチマ、靴はいって。おしゃれしなかったですよ。”<鄭玉順>
学生たちの服装だけでなく、先駆的に洋服を着た新女性である教授たちの服装も地味な韓服に戻った。モンペが強制されて以後、女性たちのモンペに対する反応は多様になった。年齢別でもそうした差がみられるが、モンペが強制された当時、一番おしゃれをする年齢にいた未婚女性たちがより反感を示した。鄭玉順は、専門学校卒業後、結婚前に臨時教師をしたり、家事手伝いのとき、モンペが強制的に施行されると、取り締まりを避けるために仕方なくモンペを作ってはいたことをとても不快な経験として語った:
“(1941年、専門学校卒業後)北韓(北朝鮮)の私たちの故郷に行ったが、そこで取り締りがひどかったんです。新義州から行くけど、とにかく着ないといけないっていうんです。それでまあ、私はモンペはきたくないけど、モンペを仕立てて。つまらないとこがあったんです、洋装店というものが。日帝末期だから、モンペ着ないといけないんです。汽車に乗らなければならないんですけど、それに乗ってくるんだけど、取り締りをするって。みんなはいているんです、ズボンのようなもの。私はそれ、はきたくないのをはいていました…(モンペ)それをはくと、へんなんです。いやだったんです。なぜか、いやでした。取り締まりするって相当うわさが出たんです。車にも乗れないとか、そんな話があったんですよ。”<鄭玉順>
韓真淑の場合、女学校入学後、勤労動員が増えたためにズボンスタイルのモンペが制服に取り入れられた。彼女がモンペに対して特別な反感をもたなかったのは、容貌に関心をもつには幼かったこともあるが、戦時に国民学校に入学してずっと厳格な軍国主義の下で学校生活を送ったためか、モンペを戦時下の圧力的な学校規律の一つとして受け止めたからである:
“私たちは(勤労奉仕で)ずっと畑で働いたのよ。ズボンをこうひだをつかんで、こうしたズボンを着たと思う。お母さんたちは上にひだをたくさん取って大きくモンペで、私たちは、上はあまりひだをとらなかったね。それで、ズボンのようにして、下だけひだをとってしぼって。登校のときもはいた。戦時になって、そうなったと思う。そのときは戦時だから、おしゃれも知らないで、ただ働きに行ったから。おしゃれというのを私は知らなかったと思う、女学校1,2年のときは、幼くて。”<韓真淑>
モンペへの反応は職業によっても異なった。小学校教師であった李恩實によると、モンペは教育目的から学校の防空訓練時に着用するよう義務づけられたが、彼女はモンペ着用を職務遂行上、行なわねばならない項目の一つとして受け入れ、特別不満を表さなかった:
“月曜日が愛国日なの。愛国日にはモンペといって、今はズボンが色とりどり。しかし、昔はズボンはかないでモンペといって、月曜日は避難訓練のため(モンペを)もって行ったよ。(出勤のときは)洋服など着て、月曜日愛国朝会日だけ。防空訓練のためその時間だけはいたの。普通ははかないで。”<李恩實>
外での活動のため外出せねばならない若い女性や職業女性は取り締りのため、モンペをはかねばならなかったが、家庭婦人たちはできるだけ取締りを避けることでモンペをはかないようにした:
“うちの母、まあ、はかなかったんですよ。なんやかんやと、切り抜けたようです。私たちは外にでることが多くて、年とった人は…”<鄭玉順>
それはモンペが、ズボンのように腰や脚の線を表すが、当時韓服ばかり着た女性にとってズボンとは伝統的な女性の下着として認識されていたからである。したがって、儒教的伝統の強い地方の班家の女性たちは下着のようなモンペを年長者の前でははけなかったと語った78。女性の服装が植民権力と家父長権力がお互い競合する地点になったのである。一方、積極的にモンペをはいた女性たちもいた。父親が地方都市の有志として個人事業を営んでいた韓真淑の場合、彼女の母はとくに拒否感を表さず、モンペを日頃からよくはいた:
“うちの母は、いつもいわれたとおりにしたから。やれといわれると、無条件やったからね。父がそうだったから、やれとなると、すぐ守るのが原則だったから。みんな(モンペを)はいていたから、当然はくものと思ったから。父が(国民服)着ろというと、着るものと思って。だから、母もしゃきっと着て。それどこがみっともないとか、はきたくないとか、そんなこと、私は聞いたことがない。”<韓真淑>
78 チョ.ヒジン『士とピアシング』(東アジア、2003)266-9頁。
韓真淑の母がモンペに順応できたのは、夫の順調な事業のために地域婦人会の一員として活動した彼女の自発的な選択であり、一つの生存戦略である。
モンペに対する認識と反応は、階層によっても異なる。貧農層で多くの農業労働をせねばならなかった潤心徳は、モンペを働きやすい服と思っており、最近まで自分で作ってはいた。:
“モンペをはけ、といわれてはいていました。モンペ作って黒く染めて。はさみで切って、ただ手で作ってはきます。今も作れというと、作れるよ。私はこの夏も生地、いいものがあって、作ってはいて出入りしましたね。今、みますか。全部手で作ったんだから。これ、直接自分で作ったのよ。”<潤心徳>
自ら作ったモンペを誇らしげにみせてくれた潤心徳からはモンペスタイルへの拒否感は感じられなかった。ミシンなど大した道具も使わず、手軽に作れる点が彼女が最近までモンペを日常的にはいているもう一つの理由でもある。30代に夫と死別した後、農作業とよその家の雑事で子供3人を養った潤心徳にとってモンペは機能的な作業服であった。これとは対照的に、ブルジョア階層だった鄭玉順は戦争末期、短い間モンペをはいた記憶を恥ずかしいものと思っていた:
“仕立ててはきました。下手な洋装店があったんです。そこに頼みました。汽車に乗って行き来するときにはいて、その後は、はきませんでした。捨てたんです。”<鄭玉順>
この二人はモンペのはき方にも大きな差があった。鄭玉順がモンペを高級生地でブラウスを仕立ててはいた反面、潤心徳は働くとき、韓服チョゴリ(上衣)下の肌がみえないように、韓服チマを着てその上にまたモンペをはいた:
“上は、まあ、夏に、本当におかしいの一つ。私、それ、はきたくもないのを仕方なくはいたね。上着一つ仕立てて着ました。それは木綿、細い木綿がとてもきれいなのよ。それが珍しいものよ。ポプリンか何かで作るのあれで…モンペズボンにそれを着たね。”<鄭玉順>
“そのときは、これはくときは筒状のチマがあったから。チマをはいてしまえば、このチマがなかにあるから、これ(胸)がみえないでしょう。だからチマをはいて、モンペをはいて、そうするの。チマをズボンのなかに入れるのよ。そういうふうにはいていたんです。”<潤心徳>
モンペに対する抵抗は両班意識の強かった潤朱英にもみられる。彼女はモンペを働く女性の服とみなし、自分は裕福な両班階層であるため、モンペをはく必要がなかったことを伝えようとした。彼女が多少不快な表情でモンペに対する記憶を語ったのは、解放後もモンペが労働者、農民、商人など主に女性労働者の服として残ったためである:
“モンペはたくさん働く人、台所で便利だからはいて。私はモンペそんなにはかなかったの。韓服着たよ。モンペそんなによくはかなかった。私は、手伝いの人がいたの。手伝いの人がいたから、モンペそんなにはかなかったよ。人並みに暮らしたから、そんなに悪く着たり、そうしなかったの。モンペはちょっと貧しい人がはいた。どこかお出かけするときは、モンペでは行けないでしょう。おかしいでしょう、仕事着だから…そんなに貧しい暮らしではなかったのよ。”<潤朱英>
潤朱英のモンペに対する記憶と口述は服装に対する伝統的女性の階級意識を表すが、近代教育を受けた女性たちも何らかの形で自分たちの意志を表現しようとした。1945年4月、すでに梨花という校名を抹消され、京城女子専門に改称された梨花女子専門に入学した南京姫は、モンペを強要された戦争末期の女性知識人たちの服装と容貌をこう語る:
“京城女専のときはね、入学式のときに(金活蘭校長を)たった一度だけみたんです。それで、髪をオールバックにして、こうして。彼女が断髪なんだけど、後ろにかつらを一つパンのようにつけて。黒のブラウス、チャイナカラーに…モンペはいて、同じ色で。紺でしょ、多分。モンペはいて。こんなに高いハイヒールをはいたのよ。それも無言の抵抗よ。キム.ヨンイ先生もモンペをはけっていわれるから、はいたけど、そのモンペがそのときみてもハイカラなんですよ。素敵なの。あの方、アメリカ留学生なのでね。日本式モンペがまったくなくて、本当に西洋の匂いがプンとする、そんなモンペだったの。生地もそうで、生地もとにかく西洋もののようで。スタイルもそうで。”<南京姫>
前章で述べたように、当代新女性のアイコンといえる女性知識人たちも戦時体制による服装と容貌への規制に抵抗はできなかった。むしろ、彼女たちの社会的地位と知名度のため、より強い制裁と干渉が加えられたと思われる。ところが、実際の彼女たちのモンペ姿はモンペ本来の趣旨である、西洋を排撃し真の日本精神を生かすという戦時の政治的意図からだいぶかけ離れている。モンペにハイヒールをはいたり、西洋生地で作った西洋スタイルにモンペを作ってはくことで、日本の伝統服であるモンペがむしろ洋服に変わったのである。農村の作業服であり、日本の伝統的衣服であるモンペが、植民地の都市知識人に画一的に強制されるとき、女性たちのこうした創造的ファッションは、自分たちの女性性とアイデンティティーを守ろうとする戦略からでたものである。これは、個性と女性性を奪おうとする全体主義的画一性と軍国主義への一種の消極的抵抗であり、植民主義に対する無言の反抗と読める。南京姫も、流暢とはいえない日本語で話し、西洋スタイルのモンペをはいた教授たちが出席した「無言の入学式」で公立女学校のときとは違って「心に伝わるものがあった」と語った79。
都市で教育を受けた女性たちのモンペへの抵抗は、モンペの代わりにズボンをはくという現象をもたらした:
“家の近所に洋裁する人がいて、ズボン作ったことを思い出すね。セールチマ解いて。その人に裁断してもらって、自分で作ったことが思い出される。44年なのね。そのときは戦争の真っ最中だから、私が多分モンペの代わりにはいたと思う。セールズボンだから恰好もいいし。モンペは醜くて、それはお出かけしないの、着たら。(モンペ)はけ、はけといわれてもよくはかなかった。”<金徳順>
79 “(京城女専の入学式のとき、金活蘭)校長先生は一言もいわなかった…私はそれがとても印象的だった。校長がでてきているけど、何にもいわないのよ、はじめから最後まで。本当に印象的だった。入学式といってもとても簡単だったね、だから。そんなのが心に伝わるものがあるの。何にもいわないけど。”<南京姫>
格好悪いモンペスタイルを嫌った女性たちは代わりにズボンを作ってはいたりしたが、彼女たちがズボンの機能性に惹かれたわけではなかった。戦時服と容貌に対する統制と介入は女性性の表現を抑圧し、そのため解放後に流行したのは戦時下に禁じられたパーマと化粧、ベルベットの韓服チマ、絹の韓服チョゴリであった:
“女たちがね、確かに活気があった、解放された後で。反動でベルベットのチマをはいたりしてね、学生たちが。ベルベットのチマに、絹のチョゴリ。ハイヒールに、短い(韓服)チマに。だからおしゃれし始めたね。パーマネントしてすごかった。解放直後にね。洋服を着た人が少なかったの。韓服をそんなに着て。”<南京姫>
モンペに対する女性たちの反応が年齢別、階級別、教育水準別で多様に現れたのは、衣服がもつ社会的意味との関連がある。面接対象者のなかでブルジョア階層で学歴の高い女性たちの間でモンペに対する否定的な反応がもっとも強く現れた。特筆すべきことは、彼女たちがモンペ着用の強制性を強圧的な植民統治や軍国主義体制と関連させて批判するよりは、醜い服を着たことを女性一個人としての羞恥として語る傾向がみられた点である。彼女たちはモンペ着用を社会体制の矛盾としてみるよりは、自分たちの女性性と個性を損なった側面として受け入れるか、または記憶しているのである。よって、当時モンペのはき方も、できるだけ自分たちの衣服に対する感性や個性的なはき方、社会的地位とイメージを守る方法ではこうとしたのである。戦時国家はモンペを強要することで女性間の差異をなくし、画一化しようとしたが、厳密な意味でそういった画一化が進んだとはいいがたい。モンペが衣服である以上、はく人の経済的、社会的条件と分離できない側面があったばかりでなく、より重要なのは、体制によって画一化されまいとする女性たちの女性性とアイデンティティー維持の戦略および選択性が作用した面である。
3.民族的アイデンティティーと女性性の植民地性
昨年秋ヨランは上級班の学生数名と一緒に日本人舎監排斥運動の首謀者として追い込まれ、ついには鍾路警察署の世話になったことがある。中村という日本人舎監が寮生の反感をかったのは、日本化教育の生活化に徹底しすぎたためである。部屋ごとに神棚を置くようにするし、さじの使い方は野蛮的、箸の使い方は文化的といい張るし、甚だしくは畳部屋で女性がひざまずく座り方を女性美の極致であるかのように、オンドル部屋でも強要した。それは立ったり座ったりが刑罰のように苦痛で屈辱に思わせた。寮で起きた中村舎監排斥運動はすぐ全校生盟休へと波及した。
朴完緒『迷妄3』80
日帝時期女性に求められた規範の一つは日本的女性性である。これは、従順と温和、謙譲、誠と献身といった日本の伝統的婦徳の強調のみならず、節制された厳格な、決まった型をもつ態度や姿勢といった身体的側面での日本女性的なさまざまな要素を求めたのである。こうした点は言説からはそれほどうかがえないが、女学校に通った女性たちの記憶と口述にはっきりと現れる。それは、こうした日本女性独特の立ち居振る舞いや姿勢の強調と日常化が女学校教育をつうじて実際に行われたためである。どの女学校にもあった「礼儀作法」教育は茶道や歩き方、すわり方、姿勢に至るまで女性の身体を統制する厳格な規律化の過程であった:
“たとえば、すわり方。日本人はとくにそうなの。昔、着物着て、なかに下着をつけなかったって、日本の女は。だから、この先生のいうことは、自分の立ち居舞いをいつも裸だと思って立ったり座ったりしろ、そうすると、足をどういうふうに置くべきか自然にわかるようになるだろう、そんな話をしたね。女が立つときも、座るときもいつも足をこうくっつけて座って、そんなのをそういうふうに表現したんだけど、私が日本の女のように行動するということではなくて、そんな話が頭にいつもあるんですよ。”<南京姫>
80 朴完緒『迷妄3』(文学思想社、1990)32頁。
“畳部屋に行って日本式のお辞儀して、日本式のすわり方、そんなの。日本人の先生そっくりにしなければいけない。歩き方もこういうふうに内向きで歩くの。こんなふうにした。”<韓真淑>
礼儀作法教育のねらいは受身の態度と姿勢を女性としてふさわしい態度として規定し、それを身に付けさせることにあった。南京姫と韓真淑の口述からわかるように、礼儀作法教育は女性の身体を常にみられる客体として対象化し、そうした他者の視線を意識し、自分の体の動きに対して緊張感をもつようにする。歩き方やすわり方は限られた空間で限られた動きだけが可能だが81、こうした教育は女性が劣等で脆弱な立場にいることを女性自らに刻み込む過程である82。学生たちは、ほかの授業より礼儀作法の時間をよりはっきりと記憶しているようであった。彼女たちの記憶のなかでは、「その時間はとても足がしびれた」といった身体的経験が共有されていたが83、これはひざをついて座る習慣が韓国人にはないためである。つまり、礼儀作法教育の内容は、畳とふすまがある住居と幅の狭い着物を着る日本文化にもとづくものであるため、幅の広いスカートをはいて、硬いオンドル部屋に座る韓国人の住居生活や行動様式には適合しないものであった:
“君たちも日本女性と一緒だ、と想定するの。お辞儀をするときはこうして、歩くときはこう歩いて。日本式の座敷に入るときは、床の間があるけど、はじめ入って、床の間に何かが掛けてあると、それをみて、拝見するといって、それをみてお辞儀をして。床の間のあるところは上座で、なんかそんなこと。だから、私たちの生活とあまり関係ないことを、そういうふうに教えたんです。歩くとき、畳の縁あるでしょ、布でできた、それを踏んではいけないって。ふすまを開けるとき、必ず座って開けるけど、ここに取っ手があると、座ってこういうふうに、少しこれだけ開けて、残りを開けるとか。それを閉めるときは、はじめはこういうふうに引っ張って、こう閉めるとか、そんなの。”<南京姫>
81 Wexは、日本女性が足の指先を内に向けるように教わるのは伝統的従属の表れである、と指摘する。Marianne Wex, Let’s Take Back Our Space: “Femae” and “Male” Body
Language as a result of Patrarchal Structures, Frauenliteraturverlag Hermin Fees, 1979. Sandra Lee Bartky, Femininity and Domination, Routledge, 1990, p.130から再引用。
82 Sandra Lee Bartky, Femininity and Dominaton, Routledge, 1990, pp.67-71.
83 “作法室といって別個にあった。そこに座って一時間座って立ち上がると、みんな倒れるのよ、足がしびれて。それで礼法もたくさん習って。座って何かたくさん話をしてくれたけど、足が痛くて、その時間になると、みんな苦痛で。”<呉恵子>
礼儀作法教育は畳敷きの個別の作法室で和服姿の日本人女性教師が担当した。彼女たちは日本文化に接したことのない植民地女学生たちにとって、日本文化のなかで作られた日本的女性性の伝達者であり、伝統的家庭での母親や女性家族員に代わって女学生たちの身体的規律を担当する、公的権威をもった統制者の役割を務めた:
“おばあさん先生だったんです。日本でも貴族たちが娘を嫁がせる前に、この方のところにやって、何年か修行させて、自分の家に帰ってから嫁ぐんですって。いつもその態度がとても、本当に端正で。静かで。とても尊敬していました。そのお宅に年頃の娘さんがいつも二、三人きていて。日本貴族の娘たちです。きて裁縫なんか習うけど、これは先生の話なんだけど、まともにやらないと、解けというんですって。解くと後でよくできないですから、気をつけろって。本当にできないと、マッチもってきて、先生の前でその服を燃やすんですって。先生の前でぶるぶる震えながら。それほどとても厳しい、そういう教育をさせて。(その先生の家が学校の)運動場の前にありました。”<李鐘姫>
李鐘姫が記憶する礼儀作法教師は淵沢能惠(1850-1936)である。淵沢能惠は、淑明女学校の全身である明新女学校の創立に関与してから以後32年間学監として事実上校長の役割を務めた。いいかえると、日本女性として植民地女性教育を担当した代表的人物といえる84。淑明女学校に通った李鐘姫は、在学当時学校の運動場のすぐ隣にあった彼女の日本式家屋で日本式礼儀作法を習い、また彼女が学校で尊敬される立場にあった教師だったと記憶している。女学校に日本人女教師を配置して、彼女たちに日本式礼儀作法を教えさせようとした植民地女性教育政策には日本精神の涵養のみならず、日常生活で日本人女教師と頻繁に接触させることによって、女学生たちに自然と日本文化を受け入れさせ、同化させる目的があった:
84 任展慧は、奥村五百子、淵沢能惠、津田節子を植民統治に加担した3女性と指摘しながら、日本女性の朝鮮植民支配に対する責任問題を提起した。鈴木は、これら3人の女性は政治、経済のみならず、思想と教育、文化に至る、日本女性による朝鮮女性の支配を表す系譜と指摘する。鈴木は、日本近代のフェミニズムは、日本の帝国主義的侵略と植民地建設に反対せず、むしろ当時の『婦女新聞』でさえ朝鮮併合を「多年間の悪政」と「国民の無知」に起因する「当然の結果」とみなし、植民地への日本女性の進出を奨励した、と批判する;鈴木裕子『フェミニズムと朝鮮』(明石書店、1994)38-44頁。
“日本女性、とにかく親切が身に付いていて、それが出てましたね。日本女性たちの礼儀、節度ある生活、これはわれわれが見習うことよ。先生の家に行ったりしたね。本当に節度ある生活するのをみたの。”<李恩實>
李恩實や李鐘姫は礼法を教えた日本人女教師に対する尊敬心を表したが、南京姫や韓真淑はそうではなかった。彼女たちが日本人女教師に親しみを感じなかった理由は厳しい教育とともに教師自身の日本人としての民族的アイデンティティーの主張のためであった:
“私たちその先生を嫌ったの。なぜなら、とても日本人で、自分は日本人である、ということをかなりみせて、それで私たちとはちょっとつうじない、そんな先生だったんです。”<南京姫>
“とても怖かった。望月って本当に怖かった。私たち同士ではあの人わるい、いじめているなあと思った、厳しくするから。”<韓真淑>
作法教師だけでなく、女学生たちは日本精神を強調したり、日本人の優越性をあらわにする教師に対して反発するまでに朝鮮人としてのアイデンティティーや民族意識をもっていた:
“とくに日本の民族性を強調する、そんな先生は憎まれるんです。国語先生のなかに、大和魂をとても、ああいうふうに話す人はいやでしょう。私たちより2,3年先輩たちがストライキを起こして何人かが犠牲になったという話があるんです、民族の話のことで。”<李鐘姫>
口述者たちの大部分は学校での厳しい皇国臣民化教育にもかかわらず、韓国式生活様式と文化を守る家庭で親兄弟の日本に対する敵意ある態度に接することで民族的アイデンティティーをもった85。しかし、一方で、女学生たちは日本女性としての教育については足がしびれたこと以外にそれほど不満や抵抗を示さなかった。むしろ、模範生だった女性たちはそうした規律の内面化傾向が強く、今でもそれをよい教育として評価した:
“規律が厳しいですね。だけど、それが学生を制裁するためより…それで姿勢も正しいし、それが生活化されるから正しいですよ。”<全英錫>
“日本人はいつも礼儀、正しく本当にしっかりと教えたといった。私は今もよく習った、よく教えたと思う。私がそういうふうに習って、また、私自身が日本人の下で子供たちをそういうふうに教えたし。日本人は秩序があって整然として、それだけは本当に見習うことですよ。”<李恩實>
規律の内面化には実生活で接する教師だけでなく、読書といった文字媒体も補助的役割を果たした。植民地における言語教育は教育経験のある女性ほど韓国語よりも日本語の上達をもたらし、そのため彼女たちの読む本は日本語で書かれたものがほとんどであった86。読書をつうじて本のなかで再現される日本女性の受身で優しい話し方や態度を理想のものとして捉えるようになると、朝鮮女性は「おてんば」という新たな認識がうまれる。事実、日本人と朝鮮人の居住地はどこの都市でも隔離されていたため、女学生たちが教師以外に多数の日本女性と接する機会をもったわけではなかった。したがって、本をつうじた間接的経験は、日本女性たちをより理想的な女性性を具現した対象としてみることに主な役割を果たした、と思われる:
85 面接対象者のなかで民族的アイデンティティーや反日感情は、教育を受けた階層だけがもっていたのではない。貧農層であった李慧淑は子供のとき、父親が日本人警察から不当に殴打されるのをみたり、米供出などで反日感をもつようになった。金枝培と潤心徳も、米供出に関連して反日感情を表した。潤朱英は、地域社会における日本人の朝鮮人に対する軽蔑的言語や行動を口述した。一般化できないが、家族の反日感情が強いほど、戦時期以前に教育を終えた人であるほど、反日感情や植民体制への不満が大きく表れた。戦時期に幼かった人ほど、皇民化教育に対する批判意識が低かった。
86 “日本のものしか読めなかったんです。韓国語は習わなかったんですから。文字を知らなかったのよ。韓国語で出版された本は、それを探して手に入れて読んだ人でなければ、我々のように普通の女学生、まったくそんなものが手に入る機会がなかったのよ。家におばや父の本があったけど、知らないから、読めないのよ。ハングルが読めないから、(その本を)読めなくてすべて日本のものだけ読んだのよ。日本文学も読みました、たくさん。”<南京姫> 朝鮮語教育が禁止される前に女学校に通った面接対象者たちも、日本語で読むのがもっと楽で、速いと語った。
“いつも本何か読んでみると、あの人たち(日本人女性)の態度は、本当に見習うに値しますね。小説でも何でも、そのときは全部日本語で読んだから。韓国語よりは日本語の本がずっと読みやすくて、たくさん読んだから。あの人たちの態度は、本当に私たちが見習わないと。その言葉使い優しくするのと、私たちはおてんばなのよ。あの人たちのやさしい話し方と態度なんかは見習わないといけないと思ったんですよ。”<李鐘姫>
このように、教育水準が高く、読書をたくさんした女性ほど日本女性の態度を礼賛する傾向が強かった。また、女学校以上の教育を受けた女性たちはそうでない女性に比べ、日本女性を自分たちよりやさしく親切であるとみなし、それを見習うべき美徳として認識し、模倣しようとする傾向が強かった。こうした態度はより文明的エチケットとして彼女たちの体と意識に刻印されたため、以後も意識を支配し自ら身体を統制するようになる:
“私はテレビなんかみていると、韓国の女たちの立ち居振る舞いがとても醜い。とくに足の場合、女たちが普通にこう座るんですよ、こう。ホテルみたいなところでみてください。びっくりしますよ。私はいつも注意してみるけど、日本に行って地下鉄乗るでしょ、電車に座った女たちが一様にひざをくっつけて座るの。こう座る女がいないんですよ。でも、私はいつもこう実践できなくても、それが頭から離れないのよ、その話が。”<南京姫>
さらに、こうした立ち居振る舞いについての教育を受けなかった女性に対しては他者化する傾向がみられる。また。こうした「礼儀作法」が文化的で優越なものと認識されているため、日本人教師たちの帰国後、こうした教育を行わなかった解放後の教育に対して不満を表した:
“それが身について、私は今も男足87できないのよ。男足する友だちもいない。男足はしてはいけないことと知っていたから。女が男足するのは、とても常識のない家の子たちがする。今も私は男足するのを変に思うの、女が。先生がそういうふうに教えたの。それで、私は地下鉄のなかでも、女の子たちがこう座っていると、変なの。ちょっとこう(足をくっつける)しないのかと。解放後はそんな教育がなかった。むやみに教えたのね。日本人の教育がまともだった。”<韓真淑>
教育を受けた女性たちは民族としては朝鮮人だというアイデンティティーをもっていて、同時に女性としては学校で教育された日本的女性性を受容し内面化した。これは、民族的アイデンティティーと女性としてのアイデンティティーがそれぞれ別個のものとして形成され共存したことを意味する。その一例を挙げると、彼女たちは学校での銃後活動への動員について、特別に考えもなく、しなければいけないことと受け入れ形式的に参加するか、あるいは内心反発しながらも順応するという二つの態度をとった。しかし、女性としての態度と行動についての規律へは、学校教育で日本式「礼儀作法」を学ぶことを良い教育として認識、内面化し、現在までもそうした規範をもち続けていた。このように、彼女たちが日本的女性性を民族的アイデンティティーと矛盾を感じず受容できたのは、「礼儀作法」教育の内容を日本文化的要素として認識するよりも、女性としてもつべき普遍のものとして受け入れたためである。また、元来彼女たちに従順と謙譲、献身を強調する伝統的女性規範があった点も考えられる。つまり、日本でも朝鮮でも賢母良妻規範が支配的であり、階級的に両班層やブルジョア階層の女性であるほど家庭でもこうした女性規範が強かったために、学校での賢母良妻規範が彼女たちの意識と矛盾する点が多くなかったためと思われる。ところが、賢母良妻規範といっても、立ち居振る舞いや態度に関する規範に限り、実生活でこうした礼儀作法がどれほどの拘束性をもっていたかには大きな差がある。つまり、朝鮮の伝統的女訓書でもっとも重視されたのは嫁としての孝と従順、夫に対する恭敬であり、精神的美徳と心構えを強調しただけで、具体的な動作や立ち居振る舞いに関する言及は意外に少ない88。1914年ナム.グンオクの『家庭教育』でも、「人前で伸びやあくびをしたり、歯をいじったり、鼻をすすったり、口をすすいだりしないこと、大声を出さないこと、食べ物を指で味見をしないこと」といった大体の礼儀の基本にのみ言及しただけで、その内容も女性にのみ求められる礼儀とはみなしにくい89。しかし、日本の場合、江戸時代女性のしつけに関して書かれた数多くの書物には、歩き方と食べ方、箸の使い方に至るまで具体的な「礼儀作法」の順序と形式を細かく扱っている。明治12年に書かれた『女のしつけ』でも戸の開け方、手の置き方、座っての礼儀、立っての礼儀、人の前後を通るときの礼儀、物の渡し方、食事の仕方など具体的な状況での数十の礼儀作法が記されている90。要するに、朝鮮より日本で女性の礼儀と行動様式に関する規制が具体的で強く、女学校での「礼儀作法」教育はこうした伝統にもとづいているのである91。したがって、女学校でこうした教育を受けた世代の女性たちは家庭における伝統的女性規範に加え、学校で日本女性的な礼儀作法の教育を受け、二重の拘束と抑圧を受けたといえる。
87 韓国で昔からの男の座り方。跏趺坐。
88 たとえば、イ.トクムの『士小節』では、サンチュサムを大きく包んで食べると、みた目が悪いので注意すること、足音を立てないこと、ご飯を食べるとき噛む音を立てないこと、大きな笑い声を立てないこと、といった基本的礼儀が記されている;前掲『韓国の女訓』65,68頁。
89 前掲『韓国の女訓』145頁。
90 芳賀登『良妻賢母論』(雄山閣出版、1990)74-5、133-9頁。
91 家政学者である大江スミは戦時期にも『礼儀作法全集第一巻―九巻』と『女子礼法』を著した;前掲『良妻賢母論』246頁。
http://www.hues.kyushu-u.ac.jp/education/student/pdf/2004/2HE03076T.pdf
植民地朝鮮における女性教育の研究 安 明僊
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