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第12題 創氏改名とは何か
創氏改名の通説への疑問
創氏改名とは「日本が朝鮮植民地支配の際に、皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の名前に強制的に変えさせた。これを拒否しようとしたものは非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた」というような説がまるで定説であるかのように流布されてきた。
私も朝鮮問題にかかわりはじめた二〇年程前の時は、この説を素直に信じたものだった。その後いろんな朝鮮関係の本や資料を読み、また創氏改名を実際に体験した在日一世のお年寄りの話を聞いていくうちに、この説に疑問を抱くようになった。
戦時中の朝鮮関係の本や資料を見ていくと、1940年の創氏改名後であるにもかかわらず、日本式の名前ではなく、明らかに名前を変えていない朝鮮人が少なからず見つかる。最初これを見つけた時は、この人は強制的に日本名をつけられようとされても本名を通してきた人なのだろうか、きっと日本帝国主義の創氏改名政策に最後まで抵抗した人なのだろう、こんな人はおそらく特殊例外の民族的英雄に違いない、などと想像していた。しかしいろんな文献を読むと、それはごく少数の例外では決してなく、わりとよくあるケースであることにすぐに気がついた。
最近公刊された本で容易に入手できるものから、これを例示してみよう。
제12제 창씨개명은 무엇인가
창씨개명의 통설에의 의문창씨개명과는 「일본이 조선 식민지지배의 즈음에, 스메라기(皇) 국민화 정책의 일환으로서, 조선인에게서 고유한 성을 빼앗아 일본식의 이름에 강제적으로 바꾸게 했다. 이것을 거부하자로 한 것은 비국민으로 여겨지고, 여러가지 짓궂은 짓을 받고, 결국은 일본명에 바꾸었다」라고 말하는 것 같은 설(說)이 마치 정설인 것 같이 유포되어 왔다.
나도 조선 문제에 영향을 미치기 시작한 20년 정도 앞의 때는, 이 설(說)을 순수하게 믿은 것이었다. 그 후 여러 조선 관계의 책이나 자료를 읽고,또 창씨개명을 실제로 체험한 재일 일세의 노인의 이야기를 들어 가는 동안에, 이 설(說)에 의문을 품게 되었다.
전시중의 조선 관계의 책이나 자료를 보아 가면, 1940년의 창씨개명후인에도 불구하고, 일본식의 이름이 아니고, 분명히 이름을 바꾸지 않고 있는 조선인이 적지 않게 찾는다. 최초 이것을 찾았을 때는, 이 사람은 강제적으로 일본명을 붙여지자로 여겨져도 본명을 관철해 온 사람일까, 꼭 일본 제국 주의의 창씨개명 정책에 최후까지 저항한 사람일 것이다, 이런 사람은 아마 특수예외의 민족적 영웅이 틀림 없는,등이라고 상상하고 있었다. 그러나 여러 문헌을 읽으면, 그것은 지극히 소수의 예외에서는 결코 없고, 꽤 자주 있는 케이스인 것에 곧 알아 차렸다.
최근 공판된 책으로 용이하게 입수할 수 있는 것으로부터, 이것을 예시해 보자.
(1) 『朝鮮侵略と強制連行』(解放出版社 1992)の20ページに、福岡県の炭坑で死亡した朝鮮人の、昭和一八年(1943)付けの死体検案書二通の写真が掲載されている。一つの氏名欄には「金川成振」とあり、もう一つには「閔福仁」とある。前者は日本式の名前と言うことは可能だろうが、後者は朝鮮名そのものである。
(2) 『韓国巨文島にっぽん村』(中公新書 1994)の142ページに、著者は在郷軍人会の「巨文島分会史」という文献から、この島出身の朝鮮人で1942年以降戦死した次の6名の名前を記している。
李権熙・金村実智夫・草川明輝・二木鐘南・二木長福・金村尚眩
このうちの李権熙は明らかに朝鮮名である。
(3) 『近代庶民生活誌 (4)流言』(三一書房 1985)には憲兵司令部資料(昭和一八年一二月~同二〇年五月)、東京憲兵部資料(昭和一九年一二月~同二〇年五月)など、流言飛語に関して取り調べた資料が集録されている。そのなかで流言飛語を行なったとして検挙されたりした朝鮮人の具体名が出ている。数えてみると全部で49名(他に日本人か朝鮮人か不明が5名ある)であるが、そのうち次の9名は本名(法律上の名前)を日本式の名前に変えていない。
南圭一・趙明鐘・河奉根・林鳳爍・李基世・張仁洙・金達順・朴鄭与・川口龍夫コト呂永根
なお残りの40名のうち2名は、鄭和欽コト日高輝男・金漢寿コト金光秀雄となっており、通名は朝鮮名だが本名は日本名である。他はすべて日本式の名前となっている。
(4) 『慶州ナザレ園』(上坂冬子著 中公文庫 1984)のまえがきのなか(7~8ページ)に、著者は昭和一五年(皇紀2600年 1940)の小学四年生時代の思い出として、クラスメートのなかに朝鮮人2名がいて、そのうちの1名は中山静子と日本式の名前であったが、もう一人は崔順礼という名前を変えなかったと書いている。
このように手近にある本でも、当時の朝鮮人が朝鮮名を本名としていた例はすぐに見つかるものだ。つまり創氏改名後においても朝鮮名を通した朝鮮人は多いとは言えないが、ごく少数の特殊例外とも決して言えるものではない。そしてこの歴史的事実は、創氏改名が「朝鮮人の先祖伝来の固有の姓を奪い、日本式の名前に強制的に変えさせた」という通説に対し、大きな疑問を抱くに十分である。
なぜ朝鮮式の名前を本名として維持している朝鮮人が少なからず存在するのか。そもそも創氏改名とはいったい何か。
創氏改名令の内容
1939年(昭和14年)11月10日朝鮮総督府制令第19号で、朝鮮民事令11条の第三次改正が発布され、翌年2月に施行された。その内容は、
(1) 氏に関する規定
(2) 裁判上の離婚
(3) 婿養子縁組みの無効・取り消し
(4) 異姓養子を認める
(中央大学出版部刊『韓国法の現在』による)
というもので、創氏改名というのはこのうちの(1)のことである。それはすべての朝鮮人に日本式の「氏」を創らせるというものであるが、これをもう少し詳しく説明したい。
朝鮮人の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがない、というのが古来の慣習である。それは朝鮮の「姓」が父系の血縁関係を示すもので、「姓」が違うということはその関係がないことを意味し、「姓」を変えるということはそれを否定することを意味している。だから朝鮮人の家庭では、結婚した女性は嫁ぎ先とは血縁がなく、また自分の出自の父系一族とのそれを否定できないから、「姓」を変えることはない。従って例えば金さんという家があったとしたら、祖母は朴さん、母は李さん、兄嫁は鄭さん、妻は張さん、長男の嫁は呉さん、次男の嫁は崔さん‥‥というような具合に名前が違ってくる。
そこで、一つの家の中で法律上の名前の違う人が存在するというのを、日本風に家族名として「氏」を持て、そしてその「氏」はその家で決めて届け出よ、というのが創氏改名令の趣旨である。
二種類の創氏
届け出るということは、例えばある金さんの家では「金川」と創氏を届け出て、家族全員(男性や子供はもちろん嫁に来た女性も)が「金川氏」となった。この場合を「設定創氏」と言う。氏の下の「名」の変更は任意だったようで、多くの場合改名していない。著作家の金賛汀(キム・チャンジョン)さんの創氏改名後の名前は金川賛汀(かねかわ・さんてい)さんである。
ところが届け出なかった人たちがいる。『朝鮮を知る辞典』(平凡社 1986)によれば届け出たのは322万戸(約80%)とあるので、創氏を届け出なかったのは全朝鮮人の約20%ということになる。しかし創氏は法律で定められていることなので、すべての朝鮮人は創氏をせねばならない。この場合は、その家の戸主の姓が例えば金さんなら、その家族全員を「金」と創氏させたのである。これを「法定創氏」と言うが、これによって金さんの家では嫁に来た女性もすべて「金氏」になったということになる。
つまり1940年の創氏改名令の施行時に創氏を届け出なかった人は、戸主の先祖伝来の男系の姓である金とか李とかの朝鮮名をそのまま、権力によって強制的に「氏」とさせられた、ということである。
また先に例示した(2)の文献における6人中の1人、(3)の49人中の9人が朝鮮名であったという割合は、創氏を届け出なかった約20%という割合に近似しており、朝鮮名を維持した者は創氏を届け出なかった者であるということの裏付けとなる。
創氏改名は日本名を強制するものではない
創氏は家族名としての「氏」を新たに設けることであり、先祖伝来の「姓」には変更はなかった。朝鮮戸籍には創氏改名が書き加えられたのみで、「姓」は抹消されずに本貫欄に残った。本貫欄は日本戸籍にはなく、朝鮮戸籍独特のものである。創氏改名後はこの欄に本貫とともに「姓」が記載されることになったのである。日本が朝鮮の「姓」を抹殺したという説は明らかに誤りである。
私は以上のような創氏改名の実像を知って、目からうろこが落ちたような気がした。これで創氏改名後のあの戦時中でも、朝鮮人の少なからずが朝鮮名を維持してきたことを理解できたからである。そしてその割合が20%と具体的な数字まで明らかにすることができた。また創氏改名を届け出て「日本式」の名前になったと言うが、なぜこれが「日本名」なのか、これでは朝鮮人であることが丸分かりだ、と思うものが非常に多いことも理解できたし、あるいは創氏改名を体験した在日一世のお年寄りたちから話を聞いても、このことについてほとんど気にかけておられず、ましてや屈辱とは全く感じておられなかったことも理解できた。
創氏改名が「朝鮮人の固有の姓を奪い、日本名を強制した」というのは、根拠のない俗説であることは明らかである。
創氏改名令の真の意図
それでは創氏改名令を発した日本の意図はいったい何だったか。それは前述の1939年朝鮮民事令改正の内容のうち、(4)の異姓養子を認めるということに典型的に表れる。古来朝鮮では父母や祖先に対する祭祀(チェサ)というもっとも重要な儀式は、直系男子しか行ないえない。もし妻妾に子供ができない、あるいは男子が生まれなかったとしたら、同族の中の他家の二・三男坊を貰いうけることはあるが、それはあくまで男系の血のつながりのある者に限られる。血のつながりのない者を養子にすることは、赤の他人が祭祀(チェサ)をするのと同じことで、朝鮮ではおよそ考えもつかないことなのである。
ところが日本は自らの養子制度をこの朝鮮においても施行した。これは男系の血のつながり重視する朝鮮の家族制度を否定し、血のつながりよりも「家」の存続を重視する日本の家族制度を導入しようというものであった。これが分かってくると、血のつながりを示す不変の「姓」ではなく、自分の所属する家を示す「氏」を創れとする創氏改名も、同じ意図からの政策であることが容易に理解できるだろう。
朝鮮の家族制度を否定し、日本の家族制度を導入する。これが1939年の創氏改名を含む民事令改正の日本の意図であった。そしてそれは当然朝鮮の民族性を否定しようとするものであった。日本は名前でもって民族性の否定を考えたのではなく、家族制度の変更という実際はもっと深刻なところでそれを考えたのである。
1940年の創氏改名の施行後わずか5年で朝鮮は解放をむかえた。韓国では1946年10月の朝鮮姓名復旧令によって戸籍に掲載された創氏改名を遡って無効とし、また1949年の大法院(日本の最高裁判所に当たる)で、婿養子は「公序良俗に反するので、成立当初から無効」と判決された。(前出の『韓国法の現在』による)
朝鮮民族とって日本の家族制度は「公序良俗に反する」ということなのだから、これを押し付けようとした日本は何と愚かであったか、ということだ。
(追記)
この論考は、ミニコミ誌と『現代コリア358号』(1996年1・2月号)で発表したものに、小見出しを付加したものです。
今読み返してみると、最後に創氏改名政策を「日本は何と愚かであったか」と評価しています。これは現在から見た評価であって、過去の歴史事実を現在の価値観でもって裁いたものと言えます。歴史研究の上で、このような態度は肯定されるものではないと、反省しております。
未来社より金英達著『創氏改名の研究』(1997年2月)が発行されています。これは確実な資料に基づいた研究書で、力作・労作です。おそらく創氏改名の研究についてこれ以上の水準のものは、当分は出てこないでしょう。
ただその内容で1点だけ疑問があります。
「日本政府内では朝鮮植民地支配を正当化しようとする発言が絶えないが、それらの妄言の各論の一つとして『創氏改名は強制ではなかった』というものが見受けられる。」(15ページ)
「これでは、『創氏改名は強制ではなかった』という日本政府の歴史歪曲に対抗すべくもない」(171ページ)
確かに創氏改名は法によって定められていることなので、強制なのですから日本政府の説明はおかしいものです。しかし創氏改名とは日本名を強制すること、というのが通説になっている現状に対して、日本名は強制されていない、という歴史事実を指摘するつもりが「創氏改名は強制ではない」という言い方になってしまったものと考えられます。それは歴史記述の単純な「誤り」であって、「妄言」「歪曲」とまでは言えないと思います。
一方においては、創氏改名は日本名を強制した、という誤った歴史認識から、在日朝鮮人の子供達に、名前を奪われた屈辱の歴史を知って本名(朝鮮名)を名乗れ、と強制する一部の教師達がいます。「いやだ、やめてくれ」と本人や保護者が抗議するにもかかわらず、本名を強制的に呼ぶ学校もあったと聞きます。日本名を名乗るか本名を名乗るかは、本人の自由な選択に任せるべきもので、教師が生徒本人の意思に反して敢えて本名を呼ぶことは、明らかに人権侵害です。誤った歴史がこのような人権侵害を引き起こしているのですから、この方こそが歴史の「妄言」と言ってよいと思います。
ところで「創氏改名は朝鮮の民族性を否定するもの」という評価をしました。では否定しようとした民族性とは何か、ということになります。
古来の朝鮮の家族制度は、父系(あるいは男系)の血統を重視するもので、この血縁集団を「宗族」と呼びます。女性は結婚して嫁に来ても、夫の宗族のために子供を産み、家事をすることになります。夫とともに「家庭」を築くことはありません。特に男子を産むことが重要なことです。男系重視の宗族ですから、女性は男子を産んで初めて母親として宗族内での存在が認められるのであり、それまでは奴隷と言っても言い過ぎではないほどです。男子を産まない妻は、夫が妾をつくるのを容認するか、離婚されるのが普通でした。
つまり朝鮮の伝統的家族制度というのは、宗族=男系血縁共同体が強固に維持されて、夫婦と親子で家庭=家族共同体をつくるものではない、というものです。これは今の日本人には想像が難しく、なかなか理解してもらえないようです。父方の親戚すべてが一つの共同体で、個々の家庭は経済的にも精神的にも自立していない状態、と言えば分かってもらえるでしょうか。
朝鮮の「姓」というのは前者の宗族を表わす名前のことで、後者の家庭を表わす名前(ファミリ―ネーム)は存在しないというのが民族の伝統です。そして朝鮮総督府が発した創氏改名令は家庭の名前を「氏」として新たに創れ、という趣旨のもので、これは夫婦・親子を単位とする家庭を重視せよという意味もあり、逆に宗族の役割を薄めようとすることにも通じます。
伝統的家族制度を民族の美風として堅持するか、それとも新たな家族制度に改革するかは、朝鮮民族自身の選択によるべきものです。しかし創氏改名は、日本人という異民族が法律によって家族制度を変革しようとしたものです。「創氏改名は民族性を否定するもの」と評価したのは、以上の意味です。
しかしわずか5年後に日本の敗戦=朝鮮の解放となって、日本の意図は挫折・失敗したという歴史的経過になった、ということです。
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