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Friday, February 10, 2012

come round korean and japanese author Kim Saryan by PIAO Yin ji

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金史良

2010 年度博士論文
越境文学のリゾーム性
―朝鮮の日本語作家金史良をめぐって―
千葉大学大学院
人文社会科学研究科
博士後期課程
08ID3006
朴 銀姫

序論 ............................................................................................ - 1 -
第一節 金史良の生涯 ................................................................................ - 1 -
第二節 金史良の作品 ................................................................................ - 3 -
第三節 金史良文学研究の概要 .................................................................... - 6 -
第四節 研究目的及び研究方法 .................................................................. - 12 -
第一章 「光の中に」 .................................................................. - 16 -
第一節 「植民地近代」というテクストの外部 ............................................ - 16 -
第二節 「名前」という出来事 .................................................................. - 30 -
第三節 「父親」の息子 ........................................................................... - 44 -
第四節 沈黙の言語―「舞踊」 .................................................................. - 51 -
第五節 「夕暮」に見られる時間の越境 ...................................................... - 63 -
第二章 「天馬」 ........................................................................ - 71 -
第一節 朝鮮人日本語作家の横断的言語実践................................................ - 71 -
第二節 「日本」という想像体 .................................................................. - 82 -
第三節 「親日小説家」の内的論理 ............................................................ - 95 -
第四節 「桃の枝」の象徴性 .................................................................... - 108 -
第五節 「京城」という都市空間 .............................................................. - 117 -
第六節 「娼家」から「娼家」まで ........................................................... - 131 -
第三章 「草深し」 ................................................................... - 140 -
第一節 「国語」という言語 .................................................................... - 140 -
第二節 「国語」演説における言語の諸問題............................................... - 148 -
第三節 「色衣」と「白衣」の対決 ........................................................... - 159 -
第四節 「白々教事件」に見る宗教と民族 .................................................. - 173 -
第五節 「月の光」の象徴性 .................................................................... - 189 -
第四章 「太白山脈」 ................................................................ - 198 -
第一節 歴史小説としての意義 ................................................................. - 198 -
第二節 「アリラン」の歌 ....................................................................... - 213 -
第三節 「正義」はどこにあるのか ........................................................... - 228 -

ii
第四節 「義賊」のイメージ .................................................................... - 242 -
結論 ......................................................................................... - 253 -
参考文献 ................................................................................... - 259 -
論文要約(朝鮮語要約) .............................................................. - 266 -

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序論
第一節 金史良の生涯
金史
キムサ

リャン
が植民地出身の日本語作家として頭角を現わしたのは1939 年の秋頃である。短編小説「光の中に」が『文藝首都』10 月号に発表され、翌1940 年上半期の第十回芥川賞候補作に選ばれたことをきっかけに、金史良は戦前日本の文壇によく知られた朝鮮人文学者の一人となった。
各々の作品の内容を考へてみれば、現実の重苦に押され、私の目は未だに暗い所にしか注がれてゐないやうである。だが私の心はいつも明暗の中を泳ぎ、肯定と否定の間を縫ひながら、いつもほのぼのとした光を求めようと齷齪してゐる。光の中に早く出て行きたい。それは私の希望でもある。だが光を拝むために、私は或はまだまだ闇の中に体をちぢかめて目を光らしてゐねばならないのかも知れない1。
これは、金史良が第一小説集『光の中に』の「あとがき」に書いた一節である。この文章から読み取れるように、金史良は常に明と暗、肯定と否定、希望と絶望、追求と挫折の狭間で創作活動を行なってきた。金史良の作品のほとんどは暗い所を背景にしているが、小説世界に登場する主人公たちには光を追い求めることを放棄しない人物が多い。それは、「光の中に早く出て行きたい」という金史良の暗黙のメッセージでもあるだろう。
金史良の本名は金時昌である。1914 年、朝鮮平安南道平壌府の裕福な家庭に生まれた。
父親は保守的で頑固な士大夫であり、母親はアメリカで教育を受け、平壌市内でデパートを経営する資本家であった。金史良の母親が運営するデパートは、その支店が満州各地に存在したという。こうした経済的に恵まれた環境の中に育った金史良は最初アメリカ留学を目指していた。
1930 年、金史良は平壌高等普通学校在学中、朝鮮各地で起こった反日同盟休校に参加し、翌年同盟休学の主謀者の一人と目され、退学処分を受ける。そこで、同年12 月に京都帝国大学法学部に在学中の兄の紹介で日本へ渡る。その後旧制佐賀高等学校を経て、1936 年4月、東京帝国大学文学部独文科に入学する。同年10 月28 日、朝鮮芸術座に対する一斉検挙により連行され、およそ二カ月間本富士警察署に未決勾留された。12 月中旬、本富士署1 『金史良全集Ⅳ』、河出書房新社、1973 年、67 頁。

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より未決のまま釈放される。
1939 年、金史良は東京帝国大学を卒業する。その頃から朝鮮と日本を往来しながら両言語による旺盛な創作活動を始める。1941 年、金史良は思想犯予防拘禁法により鎌倉警察署に拘禁され、翌年1 月に釈放される。その後平壌に帰郷し、1944 年から朝鮮大同工業専門学校でドイツ語教師として働いた。
1945 年2 月、「在支朝鮮出身学徒兵慰問団」の一員として中国へ派遣された金史良は、5月29 日に日本軍の封鎖線を突破し、延安の華北朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍に加わった。日本敗戦後、金史良は朝鮮義勇軍の先遣隊として帰国する。
解放後、北朝鮮で作家活動を続け、文学芸術総同盟副委員長を務める。1950 年6 月、朝鮮戦争が始まると朝鮮人民軍に従軍して南下。同年10 月、アメリカ軍の仁川上陸に遭って朝鮮人民軍が撤退する中、持病の心臓病が急に悪化し、江原道原州付近で落伍した。その後、行方不明となり、死亡したと推定されている。
以上が、金史良の生涯の概要である。植民地朝鮮に生まれ、朝鮮戦争の中で三六歳の生涯を終えた金史良は、現在に至るまで多様な解釈を惹起し続けている。

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第二節 金史良の作品
1936 年6 月、金史良は鶴丸辰雄、梅沢次郎、新谷俊郎、沢開進、中島義人らと同人『堤防』を結成し、雑誌『堤防』(隔月刊)を発行した。この同人雑誌は東京市本所(墨田)区平川橋五ノ四「堤防社」が発行所となっている。同年9 月、金史良は『堤防』2 号に小説「土城廊」を掲載し好評を得た。この作品は金史良の処女作である。1940 年2 月号の『文芸首都』に発表された「土城廊」は、1936 年の「土城廊」を改作したものである。特に日本人の地代収金員の存在を消すなど、日本の支配に対する直接的な言及を避ける方向への改作が行われた。
1937 年3 月、『堤防』4 号に「奪はれの詩」を掲載し、「東京帝国大学新聞」20 日号に小説「尹参奉」を発表する。この作品は「荷」を改作し、さらに改題した短編小説である。
金史良の本格的な創作活動が始まった1939 年6 月、エッセー「密航」(朝鮮語)を朝鮮の総合雑誌『朝光』(朝鮮日報社刊)に金時昌という本名で掲載する。9 月、エッセー「エナメル靴の捕虜」を『文藝首都』に、評論「ドイツの愛国文学」(朝鮮語)を『朝光』に掲載した。10 月、小説「光の中に」を『文藝首都』に、評論「ドイツと大戦文学」(朝鮮語)を『朝光』にそれぞれ掲載した。
翌年2 月から、『朝光』に最初の長編小説「落照」(朝鮮語)の連載を始める。また、上半期芥川賞候補作に「光の中に」が選ばれる。同年6 月、小説「天馬」を『文藝春秋』に、小説「箕子林」を『文藝首都』に掲載し、7 月には小説「草深し」を「文芸」誌の朝鮮文学特輯号に発表する。8 月、エッセー「玄海灘密航」を『文藝首都』に、9 月には小説「無窮一家」を『改造』に、評論「朝鮮文化通信」を『現地報告』にそれぞれ発表する。10 月、紀行文「山家三時間」(朝鮮語)を朝鮮の雑誌『三千里』に掲載し、この作品は翌年日本語に訳され「火田民地帯を行く」という題目で『文藝首都』に連載される。また12 月に、『光の中に』と表題した第一小説集を東京・小山書店より上梓する。
1941 年1 月、評論「朝鮮文学と言語問題」(朝鮮語)を『三千里』に、2 月には小説「光冥」を『文学界』に、小説「留置場で会った男」(朝鮮語)を朝鮮の純文芸誌『文章』の創作特集に掲載する。「留置場で会った男」はのちに日本語に訳され、「Q 伯爵」という題目で金史良の第二小説集に収録された。
同年5 月、小説「泥棒」を『文藝』誌に、エッセー「故郷を想ふ」を『知性』にそれぞれ発表する。また、7 月には小説「蟲」を『新潮』に、小説「郷愁」を『文藝春秋』にそれぞれ掲載した。10 月、小説「鼻」を『知性』に、小説「嫁」を『新潮』誌の地方文学特輯に掲載する。
1942 年1 月、鎌倉警察署より釈放されるやいなや小説「親方コブセ」を『新潮』に、小説「ムルオリ島」を朝鮮の御用雑誌『国民文学』に発表する。同年4 月、第二小説集『故郷』を京都・甲鳥書林より上梓する。
1943 年2 月から、長編歴史小説「太白山脈」を『国民文学』に連載し始めた。同年8 月、金史良は国民総力朝鮮連盟によって海軍見学団の一員として、鎮海警備府、佐世保海兵団、海軍兵学校、大竹海軍潜水学校、海軍省などへ派遣される。これは朝鮮人に対する海軍特別志願兵制度の実施に伴うものであり、朝鮮の知識人によって海軍思想の普及、啓蒙がなされるところにその目的があった。10 月、金史良は海軍見学団として訪れた日本から帰郷してルポルタージュ「海軍行」(朝鮮語)を『毎日新報』に連載する。また11 月には、エッセー「ナルパラム」を『モダン日本』改め『新太陽』の「戦う朝鮮特集・徴兵制度実施記念号」に掲載する。12 月より『毎日新報』に長編小説「海への歌」(朝鮮語)の連載を始めた。
1945 年の日本敗戦後、金史良はソウルの劇場において阿娘劇団の手で戯曲「胡蝶」を上演する。のちに「胡蝶」は文庫本として刊行されているが、出版年月及び出版社名は未詳である。
翌年ソウルより平壌へ帰郷した金史良は、3 月から長編戯曲「トボンイとぺペンイ」(朝鮮語)を『文化戦線』誌第一輯に「士亮」の名で、二、三輯には「金史良」の名で連載する。その後、小説「チャドリの汽車」(朝鮮語)、「馬息嶺」(朝鮮語)を執筆したが、その初出誌名は未詳である。
1947 年1 月、戯曲「ボットリの軍服」(朝鮮語)が日本で発行された雑誌『民主朝鮮』に金元基訳で掲載された。同年8 月、朝鮮解放二周年を記念し、長編ルポルタージュ『駑馬万里』(朝鮮語)を平壌・良書閣より上梓する。
1948 年1 月、小説「馬息嶺」、「チャドリの汽車」、戯曲「ボットリの軍服」、「トボンイとぺペンイ」を収め、『風霜』と表題した作品集を朝鮮人民出版社より上梓する。9 月、文化宣伝省によって編集された『八・一五解放三周年記念創作集』に、小説「南からきた手紙」(朝鮮語)を収録するが、初出誌名は未詳である。他に小説「E 記者」(朝鮮語)があるが、この作品も初出誌名は未詳である。

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1950 年6 月25 日、朝鮮戦争の開始とともに金史良は従軍作家として南下する。そして従軍期間中にルポルタージュ「智異山遊撃地帯をゆく」(朝鮮語)、「海が見える」(朝鮮語)、「われらかく勝てり」(朝鮮語)などを『労働新聞』や『民主朝鮮』などの紙上に連載するが、いずれも初出誌名は未詳状況である。

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第三節 金史良文学研究の概要
金史良文学に関する研究は、日本、北朝鮮及び韓国を中心に為されてきた。
日本においては、1954 年に『金史良作品集』(理論社)が出版され、1973 年に『金史良全集』全四巻(河出書房新社)が発刊された。編者は主として在日朝鮮人文学者たちであった。彼らの研究は、主に作家の生涯についての整理や作品の翻訳に留まっていた。こうした作業は、金史良文学の本格的な紹介であるとともに「在日朝鮮人文学」の存在を世に知らしめる重要なきっかけとなった。金史良を「在日朝鮮人文学」の先駆者としての位置づけたのは、まさにこうした研究であったと思われる。
在日韓国人評論家である安宇植は1972 年に『金史良―その抵抗の生涯』(岩波新書)を、1983 年に『評伝金史良』(草風館)を発表した。作家に関する歴史資料や証言に基づいた安の著書は、金史良の生涯について概説する作家論として重要な意味を持っている。また、磯貝治良の『始原の光―在日朝鮮人文学論』(創樹社、1979 年)、川村湊の『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』(平凡社、1999 年)、林浩治の『在日朝鮮人日本語文学論』(新幹社、1991 年)などは、金史良文学を「在日朝鮮人文学」の一環として扱いながら、簡単な作品紹介や分析を行なっている。
日本において金史良は、「在日朝鮮人文学」の先駆者として位置づけられている。さらに、被植民地朝鮮の悲惨な暗黒面を描き出すことによって、植民地支配・圧政を暴き出した抵抗の民族作家と評価されている。その理由は二つの面から説明できる。一つは、言語問題であり、もう一つは素材問題である。
金史良の小説「光の中に」は、1940 年上半期芥川賞候補作に選ばれた。「光の中に」が注目された理由の一つは、朝鮮出身作家の日本語による創作であったからである。朝鮮人作家の「国語」(日本語)創作を指導する日本文壇の「内鮮文学建設」への意志が、「光の中に」の理解に先入観として深く染み渡っていたのである。もう一つの理由は、芥川賞選考委員会の審査評に見ることができる。当時選考委員たちの共通認識を再構成してみると、第一に、「光の中に」は朝鮮人の民族問題を題材に取り上げている。第二に、その題材は「国家的重大事」と深く関わっている。したがってこの作品を高く評価するということになる。日本語による創作という言語問題、民族問題を題材にするという素材選択によって、「光の
中に」は当選作である寒川光太郎の「密猟者」以上に話題となった。こうした評価は、日本における金史良文学にある程度共通するものであった。
北朝鮮においては、1955 年に『金史良選集』(国立出版社)が発刊され、その後1987 年に『金史良作品集』(平壌文芸出版社)が出版された。解放後、主として北朝鮮で作家活動を行ない、朝鮮戦争の時に亡くなったと推定される金史良であるが、彼に対する北朝鮮の評価は必ずしも高いものではなかった。『金史良選集』が出版されてから、1985 年に殷鍾燮の論文「偉大な領導にしたがってわが小説文学が歩んできた栄光の四〇年」が『朝鮮文学』(1985 年6 号)に掲載されるまでの三〇年間、金史良の名は北朝鮮の文学史から消えたままであった。北朝鮮において、金史良文学研究が本格的に行われ始めたのは、1990 年代に入ってからである。
1991 年、平壌社会科学出版社から刊行された『朝鮮語文』に、金日成総合大学の金明熙の「金史良とその従軍記」が掲載された。金明熙は、金史良を金日成と党に忠誠を尽し、祖国解放のために命をかけて戦った愛国作家として取り上げ、金史良の業績を金日成偶像化のための道具として扱った。2009 年3 月、『現代朝鮮文学選集』第四六巻として、『金史良作品集』(文学芸術出版社)が出版された。『金史良作品集』には、金史良の日本語作品である「太白山脈」と「無窮一家」が朝鮮語に翻訳されている。北朝鮮で金史良の作品集が出版されたのは、1987 年の『金史良作品集』以来のことである。2009 年版の『金史良作品集』の中で、殷鍾燮は「太白山脈」と「無窮一家」は「わが読者に特に知られているわけではない」と指摘し、これらの作品が解放後の北朝鮮において翻訳・紹介されたことが今までなかったことがその理由であると述べている。
平壌出身であり、解放後は主として北朝鮮で作家活動を行なった金史良であるが、彼に対する北朝鮮の評価は高いものではなかった。その理由は次の三点にまとめることができる。第一は言語問題である。日本語による作品は翻訳の問題、民族感情の問題に関わっているため、積極的に紹介されていなかった。日本語で書かれた作品はその内容とは関係なくすべて親日文学と捉えられてきた。こうした北朝鮮の状況は、金史良の日本語作品の翻訳に積極的ではなかったのである。
第二は家族問題である。当時友人であった保高みさ子は『花実の森』の中で、金史良について次のように語っている。「彼の家は平壌の両班で、ブルジョアである。母はアメリカで教育をうけた。その頃の朝鮮では、上流階級はアメリカで教育をうけ、中流の上階級は日本で教育をうけるという習慣があったと彼はいっていた」。金史良の日本留学を前後に、兄である金時明が京都帝国大学に留学し、妹の金五徳が東京帝国女子専門学校に留学した。

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こうした事実は、金史良の生家がかなり裕福であったことを物語っている。また、金史良の家族はキリスト教を信仰していた。母親、妹、妻の崔昌玉は忠実なキリスト信者であったという。さらに、兄である金時明の経歴は金史良に直接的な影響を与えた。小説「草深し」の中に登場する郡守は、実際のところ金時明をモデルとした人物であるという。金時明は京都帝国大学を卒業し、朝鮮の地方官吏(洪原道洪川郡郡守)を勤めていた。のちに彼は高等文官試験に合格し、朝鮮人としては最初の朝鮮総督府専売局長(地方専売局長)に就任した。兄を尊敬していた金史良はこのことを誇りにしていたという2。これは、金史良の思想傾向が民族主義的であったにせよ、一定の勢力を背景にする有力者として、当時の統治権力との間にある種のバランスを保つ関係にあったことを意味する。こうした富裕なキリスト教徒の家庭に育った金史良に対し、北朝鮮の研究者たちは厳しい視線を投げか
けていたのである。
第三は革命的な系譜の問題である。日本から脱出した金史良は延安派と呼ばれる華北朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍に加担していた。当時延安派は「非金日成系」に属する抗日闘争集団であった。解放後、延安派は南労党派やソ連派とともに宗派分子と呼ばれ、金日成らのパルチザン派によってほとんど粛清された3。一連の政治的粛清とともに北朝鮮は金日成の独裁的支配体制へと転換した。したがって「金日成の歴史」をつくるために、他の政治集団の抗日闘争を扱った文学作品はほとんど排除され、否定されてきた。延安の抗日地区を主な背景とする金史良の文学作品は、こうした朝鮮文学(愛国文学)の雰囲気の中で常に排斥され、高い評価を与えられることはなかったのである。
一方韓国において、金史良の作品集が初めて出版されたのは1980 年代の後半のことである。韓国では1987 年、安宇植の著書『金史良―その抵抗の生涯』の翻訳本『アリランの雨が』(ヨルウム社)が出版されるとともに、北朝鮮作家の作品が本格的に紹介され始めたのである。1988 年に『韓国解禁文学全集』(全18 巻、三星出版社)が刊行され、1989 年『金史良作品集―駑馬万里』(東光出版社)が出版された。
2 保高みさ子や広津和郎は、この時期の金史良が非常に矛盾めいた状態に置かれていたことを回顧していた。保高みさ子は『花実の森』の中で、金史良について次のように語っている。「愛国者であり、無産者階級に限りない同情や愛情を抱いている彼(金史良)が、なぜ自分の実家のブルジョアぶりを他人に誇示しなければならないのか。どうして両班としての家柄を誇らしげに語らねばならないのか、なぜ朝鮮ではいかにエリート族であるかを強調しなければならないのか。これは民族性の問題か、あるいは彼自身の人間性の問題なのか。」また、広津和郎も次のように述べている。「彼(金史良)は開化思想に目醒めている財産家である母親、総督府の高級官僚である兄のことをかなり誇りにしていた。」金史良は無産者階級に同情や愛情を抱いている反面、両班としての家柄を誇らしげに語っていたという。
3 北朝鮮における政治粛清は四段階に分けられる。第一段階、南労党派粛清(1952―1955 年)、第二段階、ソ連派粛清(1953―1956 年)、第三段階、延安派粛清(1956―1958 年)、第四段階、パルチザン派粛清(1966―1969 年)。(金甲哲他『南北韓体制の強固化と対決』、ソファ出版、1996 年、28 頁。)

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2008 年、「光の中に」や「七絃琴」などの作品を収めた『金史良作品集』(知識古典千行社)と、「土城廊」、「尹主事」、「郷愁」などの作品を収録した『金史良作品と研究』(亦楽)が出版された。2009 年、金史良に関する論文を収めた金学蕫の著書『在日朝鮮人文学と民族』(国学資料院)が発刊された。
韓国では、日本帝国の政策文学への加担者という批判と、迂回的な書き方で消極的抵抗を行なったという好意的な省察が並存している。
まず、政策文学への加担者という批判は後期の作品批評によく現われている。ルポルタージュ「海軍行」、「駑馬万里」、「海が見える」、長編小説「海への歌」などの後期作品は、朝鮮語による作品である。ここで、「海軍行」の一節を引用してみよう。
鎮海というところは、仙境ともいうべきところで、空は澄み、海青く、畳々たる山は青々として風さえもかぐわしい。広い道の両側にふとい桜の木が立ち並び、その木蔭を三三五五と列をなして歩く海軍軍人の白い服装がこのうえもなく調和して、いっそう身が清められるような感じを引き起こす。
「海軍はやはり頼もしくて美しい」
こういう印象を、われわれはみな胸深く抱きとめた4。
また、次のような箇所も取り上げることができる。
美しく見えるこの水兵服ほど、帝国海軍の旺盛なる攻撃精神を表わしたものはあるまい。(中略)水兵服を身につけた水兵は、かれ自身すでにひとつの砲弾なのである。だが、ひとり海軍にとどまろうか、スパルタの三百の勇士はおろか、三百万、三千万、いや皇軍全体が、一億国民全体が、すべて肉弾となる固い覚悟をもっているのである5。金史良が民族主義作家と呼ばれるのは、強要された言語を逆手に取って厳しい状況下にあった植民地朝鮮の現実を描き、加害者の蛮行を告発したからであった。しかし、太平洋戦争の末期に至っては、母国語による政策文学に加担せざるを得なくなったという韓国側の研究者たちの批判が高まっている。
4 『金史良全集Ⅳ』、前掲書、117 頁。
5 同書、123 頁。

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だが、後期の作品の背景はかなり複雑である。1943 年7 月、「海軍特別志願兵令」が公布され、8 月1 日の施行開始により、朝鮮海軍特別志願兵制度が制定された。これに伴い、鎮海警備府にまず朝鮮総督府の海軍志願者訓練所が設置された。朝鮮民衆への海軍に対する知識普及を徹底させるため、国民総力朝鮮連盟では、小説家、詩人、画家などを朝鮮の海軍関係学校などに派遣した。金史良もその一員として鎮海海軍訓練所に派遣された。当時加えられた様々な制限(政策強迫)のため、朝鮮民衆の独立決起を描いた作品はほとんど出版することができなかった。
こうした背景の中で書かれた「海軍行」はいわゆる「視察報告」であった。「海軍行」は視察団員としての金史良の体験や見聞などを記したものである。しかし、「帝国海軍」や「皇軍」に対する賛美からは、それまで日本の統治権力に批判的姿勢を堅持してきた金史良の思想的な混乱がよく表われている。この意味で「海軍行」は、植民地末期に及んで金史良の思想がいかに変貌していったのかを示唆する作品であると考えられる。
こうした背景を踏まえ、一部の韓国側の研究者は金史良の文学作品を迂回的な書き方による消極的抵抗であると評している。一例を上げてみよう。朝鮮語で書かれたものだが、金史良は『海への歌』を1943 年12 月から1944 年10 月まで『毎日新報』に連載していた。
この小説は、1866 年のシャーマン号の大同江侵入事件から第二次大戦勃発直後まで、ある島の一族の80 年間の歴史を取り上げたものである。最後に、一族の後裔が海軍志願兵制度により航空兵となる場面が置かれているところから、金史良の転向を示す作品とみなされてきた。しかし、韓国の文芸批評家である金在勇や郭亨徳らは、このテクストは東亜侵略を行なう西洋に対して立ち上がる志士の一族の運命を辿るものであって、日本帝国主義を肯定していると見るのはいささか極端な判断であると指摘した。しかも戦時下の新聞連載ということに伴う様々な制約の中で、金史良には自由な言動が保証されていなかったとみなしている。
植民地期の朝鮮半島の政治、文化的状況から見れば、完全なる抵抗文学は存在しえなかった。日本の朝鮮合併以来、朝鮮総督府の行政、司法、教育組織は、朝鮮半島を隅々まで効率的に支配したのである。それ故、植民地期の朝鮮文学を取り巻いていた状況、作品が生産・消費される環境は、植民地文化支配政策によって統制されていた。また、植民地期に公的に活動していた朝鮮人作家や知識人階層は、特に日中戦争以後の植民地末期には、植民地体制を維持しようとする支配権力に何らかの形で「協力」的に関わるようになっていた。金史良も例外ではなかった。

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韓国における金史良研究がかなり遅れていた理由は、大きく三つの点から整理することができる。第一は言語問題である。これは北朝鮮と同じく翻訳の問題や民族感情の問題から理解できる。第二は思想問題である。金史良は北朝鮮出身であり、共産主義者である。解放後は北朝鮮に帰郷し、朝鮮戦争の時には朝鮮人民軍の従軍作家として活動した。第三は政治問題である。朝鮮半島の南北分断の歴史や分断文学史に起因する諸制約から、金史良の文学作品は忌避の対象となり、評価が与えられなかった。
以上が、日本、北朝鮮、韓国における金史良研究の概要及び評価である。ダブル・バインドに追い込まれた植民地時代作家の作品が、後世の読み手によって評価が分かれることの意義を問い質すことは重要な作業である。
近年においては、韓国出身の鄭百秀や南富鎮が日本で金史良研究を行ない、その成果には目覚ましいものがある。鄭の著書『コロニアリズムの超克』(草風館、2007 年)は、金史良の作品分析を通じて韓国の「植民地経験」と「脱植民地化」の相互因果関係を明らかにした画期的なポストコロニアリズム文化論である。
南の『近代文学の朝鮮体験』(勉誠出版、2001 年)と『文学の植民地主義―近代朝鮮の風景と記憶』(世界思想社、2005 年)は、植民地体験の原風景がいかに継続・内面化され、自己の記憶として甦ってくるかについて様々な角度から考察している。鄭とは違い、南は金史良作品の中から幾つかのキーワードを選択し、他の文学作品と比較しつつ議論を展開している。二人の著書の方法論的な共通点は、金史良作品を通してポストコロニアリズム文化論の新たな可能性を追求したところにある。二人の著者は、その後の金史良文学研究に対して新しい視点や研究方法を示唆したと考えられる。日本、韓国、北朝鮮における金史良研究は活発に継続されている。本論では、こうした
従来の金史良研究を踏まえ、新たな研究方法を模索していきたいと思う。


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第四節 研究目的及び研究方法
金史良文学は、言わば「親日文学」/「抵抗文学」、「在日朝鮮人文学」/「日本文学」、
「在外同胞文学」/「韓国文学」、「マイナー文学」/「メジャー文学」という二元論的な
思考形式の中で研究されてきた。本論文は、こうした従来の思考形式に対するアンチの姿
勢を主張するために、「リゾーム」(「根茎」〔rhizome〕)という言葉を用いることにする。
本論文の研究課題は「金史良文学のリゾーム性」に光を当てることである。金史良の作
品は日本語で創作されたにもかかわらず、そこには朝鮮の現実が見事に描かれている。し
たがって、「親日文学」とも「抵抗文学」とも簡単に片付けることができない金史良の作品
は、そうした二項対立的な図式を越えたところに位置しているものと思われる。幾つかの
テクスト分析を通じて二項対立図式には収まらない金史良文学の「リゾーム性」を論ずる
のが、本論文の主要目的である。
従来の二分法的な思想は、言語をはじめとする文学・文化的諸現象を「樹木
トゥリー
」のイメー
ジに重ね合わせ、それらを網羅的、体系的に把握しようと努めてきた。「トゥリー」は、二
項的な論理にしたがって増殖し、知を位階的に形成し続けてきた「権力」の象徴である。
ドゥルーズ/ガタリは、こうした二分法的なプロセス、位階構造を成す「トゥリー」のイメ
ージに対して、「リゾーム」というイメージを提示した。
「リゾーム」はドゥルーズ/ガタリ哲学の根源的概念の一つである。一言で言えば、「リ
ゾーム」とは権力に対抗する思考形態を表現するイメージである。「リゾーム」には、中心
がない、もしくは中心が無数にある、どこでも中心になりうるという反権力的な思考形態
を映し出すイメージである。「日本文学」にも「韓国文学」にも「朝鮮文学」にも完全に帰
属することができなかった周縁文学としての金史良文学を、こうした脱中心的なイメージ
の中で分析することが、先行研究とは異なるところである。金史良文学は「トゥリー」状
の文学的な制度体系の制約を乗り越え、反系譜的・非序列的な読みを許容する。したがっ
て、本論文は位階的・権力的な構造を強化する装置として機能している文学的な制度体系
に批判的な視点を提示するものである。
さらに、「リゾーム」は越境のイメージも提示している。本論文では、主に言語の越境、
作家の越境について注目する。「リゾーム・タイプの方法が言語活動を分析できるのは、そ
れを中心からずらして他のさまざまな次元、さまざまな領域に移すことによってのみであ

- 13 -
る6」。金史良にとって、日本語で書かないことは不可能であり、日本語で書き続けること
も不可能である。彼は支配者の言語の他者性、異質性を露な形で表現しなければならなか
った。つまり、金史良文学は言語(日本語=国語)の中で異邦人のように存在するしかな
かった。支配的言語によって創作された金史良文学は、常に内的な構造解体の契機を孕ん
でいる。金史良文学は特定の言説の内部にとどまっているが、それは決して系譜的な体系
に従うものではなかった。
金史良の日本語文学作品の中に見られる朝鮮語発音のルビ、隠語、特殊記号などの言語
的交錯がその一例である。したがって、本論文では「書くこととは、リゾームを作り出す
ことだ7」と述べるドゥルーズ/ガタリの言葉を援用し、言語の内に棲みつく二元論の間を
逃走的に通り抜けようとする。金史良は言語(日本語=国語)と対抗することで、「リゾー
ム」的エクリチュールを創出し、朝鮮人日本語作家の書法を編み出したのである。こうし
た言語の越境による創作を、本論文では「リゾーム」的な創造行為とみなしている。
一方、作家の越境も「リゾーム」のイメージを提示している。金史良の越境は二つの意
味を示唆する。まず、作家自身の実践的な越境の軌跡である。植民地朝鮮に生まれ、日本
へ渡って作家活動を始める。その後平壌に帰郷し、ドイツ語教師として働く。さらに、中
国延安の朝鮮義勇軍に加わり、解放後北朝鮮で作家活動を続ける。金史良の越境は様々な
逃走線を生み出している。こうした逃走線は「リゾーム」の一部分をなしている。留学、
拘禁、脱出、帰郷、突破、従軍、落伍など、金史良の様々な越境の軌跡によって逃走線が
引かれ、「リゾーム」状の生が形成される。
もう一つは、作家の思想的な越境である。朝鮮の保守的な士大夫家庭に生まれたが、母
親の影響の下でアメリカ留学を目指していた金史良。平壌高等普通学校に在学中、反日同
盟運動に参加し、「日本には失望しているので8」アメリカに渡り、英語で小説を書くこと
を希望した。少年期の金史良にとって、日本は単なる失望を与える存在というより、激し
い憎しみの対象であった9。とはいえ、退学処分を受けた金史良は日本へ渡り、佐賀高等学
校を経て東京帝国大学に入学し、さらに日本で本格的な創作活動を行なうことになる。そ
の間、金史良は思想犯予防拘禁法(1936 年、1941 年)により警察署に拘禁される。民族主
6 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラト―』宇野邦一他訳、河出書房新社、1994 年、
20 頁。
7 同書、24 頁。
8 安宇植『金史良―その抵抗の生涯』、岩波新書、1972 年、18 頁。
9 小説「光の中に」が芥川賞候補作に選ばれ、参加した授賞式のことを知らせるため母親に宛てて書かれ
た金史良の手紙を参照せよ。後に「母への手紙」という題目で1940 年4 月「文藝首都」に掲載された。

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義者から共産主義者へ、日本語作家になることの拒絶から日本文壇へのデビューまで、金
史良の思想的転換は極めて大きい。日本語に対する批判から、その宗主国語を逆手に使う
ことによって植民地朝鮮の悲惨な実状を広くアピールしたいという創作動機が生ずるまで、
金史良は非常に矛盾めいた状態に身を置いていた。しかし、そうした思想の越境は流動的
なものであり、可変的なものであった。金史良の作品には、複数の思想が絡み合っている
ことは確かである。植民地的な近代化が強要された時代を生きた金史良の思想は、被植民
者としての立場を否定しようとする側面と、近代化に妥協しようとする側面を矛盾的に抱
え込んでいる。こうした現実対応の感覚は金史良の文学全般において自己矛盾、自己分裂
的要素として現われ、様々な思想の混合体として言説化されることになった。
「リゾーム」の主要な特性を要約してみるなら、「任意の一点を他の任意の一点に連結す
る10」ことである。さらに、「常に分解可能、連結可能、反転可能、変更可能で、多数の入
口、出口をそなえ、さまざまな逃走線を含む地図になぞらえられる11」。本論文では、「リ
ゾーム」という言葉を導入することによって、周縁文学、もしくは越境文学である金史良
文学の多様なイメージを浮き彫りにすることにする。つまり、文学制度的な体系からの脱
中心化、言語の越境、作家の越境など、「リゾーム」状の思考形態に着目しながら作品を分
析していくことにする。また、どこへでも思考の逃走線を引けるように、本論文の最後に
は新たな「リゾーム」への入口を示唆しておくことにする。
一方、金史良の日本語文学は、解放・自由の世界、抑圧や強要の存在しない「光」の世
界を目指す果敢な越境文学者の文学であったと見なすことができる。その意味で、金史良
の文学作品は、現在の読み手にも多様な解釈の世界を提示してくれるものと思われる。本
論では、文学・文化認識をめぐり、植民地主義の遺物に挑戦するような現代の文学批評理
論を積極的に援用し、テクスト分析を試みることにする。具体的には、真の主体として発
言することのできなかった植民地時代の朝鮮人たちに焦点を合わせることにする。
本論においては次の二点を考慮しつつ、金史良のテクスト分析を行うことにする。
支配者の文化価値を内面化し、獲得しようとする被支配者が支配者との完全な同化を成
しとげることは不可能である。植民地朝鮮には、支配者側との同化に完全に抵抗した被支
配者は一人もいなかったが同時に、支配者側と完全に同化し、被支配という条件を乗り越
えた被支配者も一人もいなかった。植民地的な主体は、常に同化と差別が共存する、ある
10 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ、前掲書、34 頁。
11 同書、34 頁。

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いは、協力と抵抗、親日と反日が共存する閉ざされた回路の中でしか発現しえなかったの
である。
特に、植民地末期の暴力的な言語・文化同化政策に抵抗し、朝鮮語・朝鮮文化の優れた
価値を主張した朝鮮の知識階層は、ほぼ全員といっていいほど、日本留学経験者であるか、
日本語・日本文化を媒体にする植民地高等教育機関での修学経験者であった。こうした点
からしても、植民地の朝鮮は、日本の支配を正当化する様々な植民地主義的価値を内面化
し、それに順応しながら、被植民者自らの文化を主張するという精神によって支えられて
いたことがわかる。
次に、植民地時代を生きた主体の主体性について考えてみよう。植民地的主体は、二項
対立的な視点に基づく、一般化された歴史認識によっては捉えることができない。すなわ
ち、被害と加害、協力と抵抗、あるいは親日と反日の狭間にあるものを見出す作業こそが、
植民地的主体の理解に必要不可欠なものとなるであろう。
公正に偏頗的な視点はもっとも公正であり、偏頗的に公正な視点はもっとも不公正であ
る。歴史に対する記述や解釈は決して絶対的な客観性を持ち得ない。金史良文学やその歴
史背景について考察する本論は偏頗的な視点から出発する。だが、不公正な視点が公正を
もたらすプロセスを文学テクストの分析を通して明らかにすることこそが本論の研究目的
である。

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第一章 「光の中に」
第一節 「植民地近代」というテクストの外部
1910 年の朝鮮併合以来、日本は着々と朝鮮12への植民地政策を推進してきた。ほぼ半世
紀に亘って行なわれた日本による朝鮮支配には、過去の一エピソードとして見過ごすこと
のできない重大な意味が孕まれている。すなわち、日本の植民地支配は、近現代の朝鮮半
島の文化形成に決定的な影響を及ぼしたのである。
朝鮮植民地支配については、政治的・歴史的な問題をめぐり未だに多くの論争がなされ
ている。同時に、多岐にわたる研究によって植民地政策の様々な側面が明らかになりつつ
ある。朝鮮の歴史の中でも特別な経験として植民地時代に注目し、それを未来への教訓と
して生かしていこうとするのは当然の課題であろう。
朝鮮人にとっては、日本帝国による朝鮮植民地統治は日本がもたらした近代文化への接
触、及び戦時体制期における日帝ファシズムによる抑圧と収奪という二重の被植民経験で
あった。結局、日帝の軍事ファッショ的な統制政策は、生活全般に対する干渉としてあら
われ、集団的なイデオロギーの注入によって、新たな共同体としての認識を経験させるも
のとなった。
1930 年代に入ると、満州事変、日中戦争、太平洋戦争という戦争の長期化のため、ファ
シズムの形が対植民地政策においても以前とは異なるようになった。より強力な戦時協力
や動員を強制するために、植民地では安定した統治基盤を作り上げることが必要となった
のである。 したがって、志願兵制度の実施や創氏改名、徴兵制度などという動員政策を取
り急ぎ実施しつつ、朝鮮人に対する普通教育・義務教育を拡大し、諸々の社会教育施設を
拡充していく必用性があったのである。
これらの過程を日本側は「内鮮一体」を通した同化政策の実現として捉えていた。一方、
朝鮮側にとって、それは実生活における人的・物的収奪、様々な義務や強要を押し付ける
抑圧として感じ取られたのである。
戦争を契機に1938 年国家総動員法が公布され、国民精神総動員運動が展開するなか支配
12 1910 年、朝鮮半島の「大韓帝国」であった国号が朝鮮併合によって「朝鮮」と変わり、朝鮮総督府
が設置され、日本の朝鮮植民地支配が始まった。当時の植民地性や近代性をさらに明らかに再現するため
に、本論では以下「朝鮮」という言葉を用いて近代の朝鮮半島を表現することにする。つまり、「朝鮮語」、
「朝鮮文学」、「朝鮮人」、「朝鮮文化」などの用語もこのような認識を踏まえて用いることにする。

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政策にも変化がもたらされた。つまり、戦時政策の強化や朝鮮人を戦争に直接・間接的に
参加させるきっかけとなったのである。このような戦時総動員体制という時代的背景は、
朝鮮を軍需生産力の基地として活用するという植民地支配において重要な一面を占めてい
る。それはすなわち、朝鮮での人的・物的剰余資源を植民母国へ流出させることを意味し
ていた。当時の朝鮮は法的・政治的に何の保護もされず、朝鮮の「豊か」で「安い」労働力
は日本側にとって好都合であったと言われている13。また、地理的にも巨大な市場であっ
た満州14および中国国境と接していたため、朝鮮が日本にとっては格好の植民地であるこ
とに議論の余地はなかったであろう。
このような歴史背景の中、植民地初期の知識人の思想では、「文明」とともに「抗日」が
大きな比重を持つようになり、国民主権・立憲主義に基づく近代国家が志向されるように
なっていった。しかし、戦争末期にいたって、知識人内部には両極化の傾向が現われた。
後世の批評によれば、「親日」と「抵抗」という二項対立的な枠組みとしてまとめることが
できる。その「親日」と評価されている知識人たちは、「民族主義や社会主義から脱して日
本主義への道を15」主張していた。これらの知識人は、朝鮮の独立を不可能と見なした。
従って、被植民者として差別を受けるより、日本臣民になって同等の待遇を求めようとし
た。言わば、「内鮮一体」の主旨をそのまま受け取り、実現しようとした。「親日」知識人
たちは、差別を克服するために「他者化」を求めてきた。彼らにとって、「同化」はある意
味で差別からの「脱出」でもあった。
とすれば、植民地時代の文学作品を「親日文学」/「抵抗文学」という二元論的に分け
る思考は危険性を孕んでいる。なぜなら、二分化された思考は、常にある種の利益や権力
に再利用される危機に直面しているからである。実際、「協力」と「抵抗」は二律背反的な
ものというよりは、相互浸透的なものである。即ち、植民地朝鮮の文化空間には、支配者
の文化価値を獲得しようとする志向性(協力)と、被支配者の土着文化に回帰しようとす
る志向性(抵抗)という、外見的には相反するかのように見えるが、内実的には共謀関係
13 カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子』(小谷まさ代訳、草思社、2004)を参照せよ。
14 「満州」とは、1932 年から1945 年の間、中国東北部に存在した日本帝国の傀儡国である。中国国民
党政府からの分離独立宣をもとに成立したが、実は日本の関東軍が積極的に関与した傀儡国家であり、
日本の植民国家であったとされている。現在の中国東北地区および内モンゴル自治区北東部は、歴史上
おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。第二次世界大戦末期の1945 年8 月9 日、
ソビエト連邦による侵攻を受け、8 月15 日の日本降伏により崩壊した。その後、満洲地域は旧ソ連の
支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還される。中国や台湾では、満洲国を歴史的な独立国と
見なさず、否定的に「偽満州国」と表記することもある。しかし、本論においては当時の歴史背景を強
調するために、「満州」という用語を使用する。
15 ....《..... ....》, ......, 2003 .。(金在勇他『親日文学の内的論理』、力
楽図書出版社、2003 年、5 頁。)

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にある複雑な心理傾向が常に共存していたのである。
本論において、金史良文学を取り上げる理由の一つは、そのような「抵抗」と「協力」
という思想の狭間に彼の作品が位置づけられているからである。
金史良が登場する1939 年頃の日本文壇では、農民文学、報告文学(戦争文学)、生産文
学、地方文学などの社会文学と、私小説を擁護する純文学との対立が鮮明であった。従っ
て、日本文学においてほとんど描かれることのなかった朝鮮人の民族感情を正面から取り
扱っているということが、金史良の小説に注目する最大の眼目となっていた。
金史良は常に両面的な評価を受けている作家である。金史良を抵抗作家として取り上げ
ているのは、主に日本側の研究者たちである。磯貝治良の『始原の光―在日朝鮮人文学論』
や川村湊の『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』などは、金史良を被植民地
朝鮮の悲惨な暗黒面を描き出すことによって、日本帝国の植民地支配・圧政を暴き出した
抵抗の民族作家として捉えている。
金史良を在日朝鮮人の日本語作家の原点、あるいは始原の光として取り上げるのは、
その抵抗のゆえである。失なわれゆく「朝鮮的なるもの」の維持と回復が、こんにちの
在日朝鮮人作家の文学を色濃く規定し、問われつづけているとき、金史良の存在は、た
いへん大きい16。
金史良の「光の中に」は、まさに被植民地朝鮮の悲惨な暗黒面を描き出すことによっ
て、日本帝国主義による植民地支配の圧政を暴き出した17。
金史良は日本にいて、日本語しか書けない状況下で、日本語によって必死の抵抗をし
た。彼は「日本文学」(「親日文学」と言っても良い)を強制する社会から逃亡すること
によって(この場合、逃亡も闘争からの逃避ではなく闘争のための手段であった)文学
を守った18。
初期の作品である「光の中に」、「天馬」、「草深し」、「土城廊」などの小説は、日本語と
いう宗主国語を逆手に使うことによって植民地朝鮮の悲惨な実状を広くアピールしたと評
16 磯貝治良『始原の光―在日朝鮮人文学論』、創樹社、1979 年、8 頁。
17 川村湊『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』、平凡社、1999 年、35-36 頁。
18 林浩治『在日朝鮮人日本語文学論』、新幹社、1991 年、236 頁。

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価されている。さらに、これらの作品は日本の研究者たちによって「抵抗文学」の一例と
して取り上げられている。無論、小説の中には抵抗する人物が描かれているわけではない。
また抵抗のメッセージも書かれていない。しかし、当時の時代状況から見れば、「悲惨な実
状」を描くこと自体が精一杯の抵抗行為であったのかもしれない。例えば、1936 年『堤防』
第2 号に発表した「土城廊」。1940 年に金史良はこの処女作である小説を改作し、『文芸首
都』2 月号に再掲載した。この作品では、特に日本人の地代収金員の存在を消すなど、日
本の支配に対する直接的な言及を避ける方向への改作が行われている。
「土城廊」は三人称の語りによって、平壌を舞台に最下層土幕民を描いている。金史良
の第一創作集『光の中に』のあとがきには、次のような一節がある。
「土城廊」は私の一等最初の作品で名実共に処女作とも云へよう。高等学校二年の時
に書いてゐながら、言葉に自信が持てず机の奥にひつこめてゐたのを、東京の大学へ出
て来て同人誌「堤防」へのせて好評を得た。それは本書所載の内容とは大部違つてゐて、
そこには社会に対する私の激しい意欲や情熱も幾分活寫されてゐたやうであるが、後で
「文芸首都」へ再録するにあたつて大改訂に及んだのである19。
金史良は、1936 年に発表した「土城廊」には「社会に対する私の激しい意欲や情熱も幾
分活寫されていた」と語っている。すなわち、最初の作品では抵抗意識がより明白に描か
れていたのである。しかし、『文芸首都』の強いられた「大改訂」によって、1940 年再掲
載した「土城廊」はその内容が「大部違つて」しまったと彼は嘆いているのである。
植民地期の朝鮮半島の政治、文化的状況から見れば、完全なる抵抗文学は存在しえなか
った。朝鮮合併以来、朝鮮人日本語作家を取り巻いていた状況は、植民地文化支配政策に
よって統制されていた。「土城廊」の改作からも窺えるように、当時の朝鮮人作家たちは支
配者に抵抗する人物を描くことができなかった。この場合、朝鮮民衆の「悲惨な実状」を
描くことは、まさに作家の抵抗意識を反映する一種の方法であると理解できる。すなわち、
完全なる抵抗文学が存在しえない状況の中で、こうした書き方は抵抗文学の手法でもあっ
た。
無論、日本の文化的侵略や言語抹殺政策などが朝鮮の作家にどのような影響を与えたか
をまず考えなければならないだろう。また、被圧迫民族側の作家としての苦悩や葛藤、母
19 『金史良全集Ⅳ』、前掲書、67 頁。

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国(語)の読者を持ちながらも日本語で創作しなければならなかった越境作家としての金
史良の文学的立場が一体どのようなものであったかも考慮しなければならない。
金史良にとって日本とは他者であり、日本語とは他者の言語である。従って、他者の言
語を用いて他者に抵抗する越境作家としての金史良作品を内外両面から分析する必要があ
る。植民地的主体の現実的条件とは、支配者の文化を否定するとしてしても、あるいは、
被支配者の土着文化を肯定するとしても、まずは支配者側が提供する文化を学習しなけれ
ばならないということである。つまり、支配者の「もの」を用いて、支配者に対抗すると
いうことである。
金史良の初期作品の主人公たちは、常に民族アイデンティティを模索している。だが、
言葉や文化や血縁の同質性を根拠とする民族アイデンティティが、本質的でも不変的でも
ない近代イデオロギーの産物に過ぎないとしたら、民族アイデンティティの模索はどう理
解すべきなのか。一言で言えば、彼らの民族アイデンティティは、他者(帝国日本)によ
る抑圧と圧迫から生み出されたのである。
ここで注意すべきことは、抵抗民族の民族主義と抑圧する側の民族主義を同一視しては
いけないということである。ある意味で、被抑圧民族の抵抗は民族主義の確立から始まる
しかない。つまり、抵抗民族のナショナリズムは受動的に発生するのである。彼らにとっ
て民族主義の確立は、生きる場を守るための必然的な行為である。
一方、韓国の批評家たちは金史良を親日作家として扱う傾向が強い。崔光錫の論文「金
史良文学に見られる親日性研究」や秋錫敏の論文「金史良における親日文学への傾斜―後
期の作品を中心に」などは、金史良文学を帝国日本に対する植民地協力文学の一例として
捉えている。
金史良の後期の作品である「ナルパラム」(日)や「海軍行」、『駑馬万里』(朝)など
は、帝国日本に対する植民地朝鮮人の戦争協力や、朝鮮青年の支援兵の入隊を督励する
ために書かれた政策文学(戦時文学)の一例として捉えられる20。
金史良が民族主義作家と呼ばれるのも、強要された言語を逆手にとって厳しい状況下
でありながらも植民地朝鮮の現実を描き、加害者の蛮行を告発したからであろう。しか
し、彼のそのような文学的立場は長く続かなかった。太平洋戦争の末期に至っては、母
20 崔光錫「金史良文学に見られる親日性研究」『日語教育』第36 集、韓国日本語教育学会、2006 年。

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国語で祖国の若者を日帝の侵略戦争の現場に赴かせる、言わば政策文学に加担せざるを
得なくなったのである。すなわち、民族主義作家としての名声をもって文学に足を踏み
出した彼も、結局は日帝の政策文学への加担者という立場に追い込まれて行ったのであ
る21。
韓国の場合、民族主義の過去と現在をつなぐキーワードは「親日」と「反日」である。
特に、今日の韓国文化の大きな部分は、過去の植民地の遺産を清算し、新たな国民文化を
樹立しようとする共同体の集団的欲望に囚われている。2009 年11 月、韓国の民族問題研
究所と親日人名辞典編纂委員会は8 年間の編纂作業を終え、「親日人名辞典発刊報告大会」
を開いて『親日人名辞典』を公刊した。全3 冊、3000 頁に達するこの辞典は、民族問題研
究所が編纂する「親日問題研究叢書」の人名編で、日本帝国植民統治と戦争に協力した人
物4370 人余りの主要な親日的行為や解放以後の行跡などを紹介している。つまり、日本に
よる植民地被支配の経験は、現在においてもなお、単なる克服すべき、清算すべき過去の
記憶ではない。この記憶は、進行形であると同時に、未来形でもある。
周知の通り、現代韓国では「親日」=「売国」、「反日」=「愛国」という分断が新たな
国民国家建設にあたってのスローガンとしてしばしば登場してきた。それは、親日派を排
除して民族国家の正統性を樹立するという目的から発するものであった。しかし、このよ
うな動きに抗する内部からの指摘もあった。つまり、植民地的近代の認識をめぐって、「植
民地近代化=経済発展22」を認める研究が増えてきている。従って、親日派批判の言説は、
「民主化を遂行するにあたっての政治的困難を克服し、社会の既得権を解体するためのヘ
ゲモニー的効果を生み出している23」という指摘もある。このような対立は、植民地体制
と近代性の関連をめぐる論争にまで発展している24。
韓国の近代文学評論家である金哲は、ナショナリズムと近代文学は、ともに植民地時代
の産物であると指摘した。金哲はその著書『腹話術士達―小説に読まれる植民地朝鮮』で、
「現在われわれが読んだり書いたり話したりする韓国語や韓国文学は、日本帝国植民地時
21 秋錫敏「金史良における親日文学への傾斜」『日語日文学』第20 集、大韓日本語文学会、2003 年。
22 ... 〈......... ... ....〉, 《... ..》98 ., 1997 .。(安秉直「韓国
近現代史研究の新しいパラタイム」『創作と批評』98 号、1997 年12 月、52 頁。)
23 趙寛子『植民地朝鮮/帝国日本の文化連環』、有志舎、2007 年、69 頁。
24 松本武祝「朝鮮における『植民地的近代』に関する近年の研究動向―論点の整理と再構成の試み」(『ア
ジア経済』43 巻9 号、2002 年9 月)では、近年の研究動向が三つの枠組み(①植民地期と解放後の近代
を連続的にとらえること、②日常生活のレベルでの権力作用を分析すること、③民族主義言説のヘゲモニ
ー的効果を批判的に相対化すること)によって要約されている。

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代に基本的な枠組みが形成され、位置づけられた。つまり、植民地は近代であり、近代は
植民地である25」と述べている。
こうした発言には、1890 年から1900 年代初頭の植民地時代の変化を強調するという金
の立場が明示されている。しかし、「植民地は近代であり、近代は植民地である」という一
節には、修辞的な解釈の可能性を遮る「植民地=近代」という短絡的な構図の危険性が孕
まれている。
さらに、金は『「国民」という奴隷』において、「植民地民族主義は、自己の敵(帝国主
義)から学びながら成長してきた。…… 学べば学ぶほど、敵の姿に近づくしかない26」
と述べている。また、彼が植民地主義に対する民族主義の従属性を明確にする理由は、論
文「更生の道、あるいは迷路」にうかがうことができる。「植民地の中での近代的知識の生
産は、植民地宗主国へ全面的に依存するしかない27」。
金哲によるなら、韓国の民族主義は被害と抑圧の記憶を、自己同一性を確立するための
主要な心理的機制として働かせてきた。すなわち、被害者としての歴史的経験や記憶は、
韓国の近代民族を構成する上で革新的な情緒的資質となったというのである。これは、西
欧的近代を唯一の完成されたモデルとして想定し、それに照らし合わせて「未開」な自己
の姿を慨嘆する劣等感や敗北感にほかならない。
金哲のこうした植民地時代の朝鮮の知を帝国との従属的な関係性から位置づけようとす
る主張は、論文「欠如としての国文学」にみることができる。
日本帝国の多民族主義的な支配の下で、朝鮮民族の自己確立とは、帝国領域から民族
の「特殊」な領域を分節しつつ、「民族主体」を明らかにすることなのだ。要するに、帝
国がラングであれば、民族はパロールなのである。この領域をめぐって発生するヘゲモ
ニーの闘争、それこれが言わば「民族運動」なのだ。… つまり分節化を通じて確立さ
れる民族のアイデンティティは、より根源的な構造、すなわち帝国の存在を不問に付し
つつ、その代わりに民族領域の自律性及び特殊性が保障されることによって確保するも
25 ..《.....- ... .. ... ..》, ......, 2008 .(金哲『腹話術士達―小説
に読まれる植民地朝鮮』、文学と知性社、2008 年、9 頁。)
26 ..《〈..〉... ..》, .., 2005 .。(金哲『「国民」という奴隷』、サムイン、2005 年、
37 頁。)
27 ..〈... . .. ..〉《.......》28 ., ......., 2005 .。(金哲「更生
の道、あるいは迷路」『民族文学史研究』28 号、民族文学史学会、2005 年、343 頁。)

- 23 -
のである28。
帝国がラングであれば、民族はパロールであると金は述べている。さらに言うなら、潜
在的な規則体系として帝国を定義することにより、その具体的な実践表現方式として民族
を取り上げることができるという論理なのだ。ここで、金は「帝国」という言葉の意味を
「日本帝国」に限定している。これは、「日本帝国」をラングとして定義しようとするもの
であるが、このことはどう見ても不適切な試みなのである。
植民地下の民族主義が、植民者から学び、植民者を模倣したものであるという見解に対
しては異論がない。とはいうものの、植民地体制に抵抗し、屈従以外の道を探ろうとした
様々な模索が、日本帝国主義の模倣にすぎないという見解には異論を唱えざるを得ない。
金は、民族主義や民族的な自己探求としての朝鮮学の姿を暴露しようとする「内的批判」
に傾いたあげく、結局は民族主義を日本帝国主義の従属的な派生物として捉えることにな
ったのである。
金の主張の持つ第一の問題点は、当時の状況を「帝国日本」対「植民地朝鮮」という構
造の内側に設定し、その外部の領域は一切考慮しなかったというところにある。第二の問
題点は、植民地体制の中で働いている行為者たちを、帝国日本の支配構造の中に囚われた
従属的な存在としてのみ捉えようとする傾向にある。つまり、彼の論理は、朝鮮の思想や
知的営み、そして人々の苦悩に満ちた生き方を、民族や国家という体制の中で裁断しよう
とする知識人の権力的な言説にほかならないのだ。
また韓国近代歴史評論家である尹海東は、その著書『近代を読み直す』で「あらゆる近
代は、当然植民地近代である29」と述べている。もう一人の韓国近代文学評論家である黄
鍾淵は、論文「文学という譯語―『文学とは何を』あるいは韓国近代文学論の成立に関す
る考察」の中で次のように指摘している。
民族文学論の素材は無論民族に内在するものであるが、それを民族文学として認識す
る思考も民族に内在すると見なすことは検証が必要かもしれない。民族文学論は、近代
的民族を「発明」するあらゆる政治的・文化的な技術と同じく自発的に形成されない。
28 ..〈... ...〉《..》1 ., .........., 2006 .。(金哲「欠如としての国文
学」『間』1 号、国際韓国文学文化学会、2006 年、35―37 頁。)
29 ....《... .. ...》. 1 ., ....., 2006 .。(尹海東他『近代を読み直す』第1
巻、歴史批評社、2006 年、31 頁。)

- 24 -
エティエンヌ・バリバールは、民族形式の発生を資本主義的な世界市場の序列的編成に
関連付けて説明した。「ある意味であらゆる近代的民族は、植民地化の産物である。それ
は、常に植民地化されたり、植民地化させたり、あるいは植民地になると同時に植民地
を持つことになっていた」。つまり、民族文学の言説を含むすべての民族のテクノロジー
は、植民主義の産物かもしれない30。
引用された文章の最後では「かもしれない」と婉曲的に表現されているが、黄鍾淵の立
場はほとんど確信に近い。しかし、黄鍾淵はバリバールの言葉を不適切に誤用したと思わ
れる。バリバールは、近代の国民国家が台頭する要因を論ずるために、まずマルクス主義
的な接近方法を批判した。さらに、世界体制の不平等な関係の中でなされた競争が民族国
家形成を促したと主張した。黄鍾淵が引用した一節にある「ある意味で」という表現は修
辞的誇張もしくは比喩にすぎない。植民地化されたり、あるいは植民化させたりした地域
にのみ、民族主義が生まれたという主張は許容不可能であろう。
16 世紀から近代植民地経営の歴史を持つスペインの場合を例として取り上げてみよう。
一時期はアメリカ大陸に最大の植民地を保有していたスペインの歴史において、民族主義
は非常に希薄な形で現われた。1807 年にはナポレオンに支配され、1820 年代にはアメリカ
大陸の植民地の大部分を失うことになる。19 世紀中庸、カタルニア地方とバスク地方で民
族主義の動きが生じたが、それはスペイン国家の一体性に亀裂を生じさせるものとなった
31。
黄鍾淵は、民族的自己認識や表現を植民性の系譜学の中で規定しようとするあまり、朝
鮮半島における三・一運動の「万歳」行為に対しても独特な推論を提示した。その著書『卑
劣なもののカーニバル』は、三・一運動の「万歳」は、1889 年に日本帝国憲法が公布され
た時、明治天皇を祝うために為された「万歳」を模倣したものであると指摘している。さ
らに、日本語の「万歳」は英語の《hooray》を模倣したものであると述べ、「このような万
歳意識の裏に流れる模倣の心理は、民族国家の理念に対して何か重要な暗示を与えている
32」と述べている。
30 ... 〈..... ..-《.... ..》 .. ........ ... ..
..〉《......》, 1997 .。(黄鍾淵「文学という譯語―『文学とは何を』あるいは韓国近代文学
論の成立に関する考察」『東岳語文学会』、1997 年、473 頁。)
31 レイモンド・カー『スペイン史』、金元中他訳、カチ出版、2006 年、246―257 頁。
32 ...《... .. ...》, ...., 2001 . 。(黄鍾淵『卑劣なもののカーニバ

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しかし、黄の「万歳模倣説」は歴史事実を歪曲している。さらに言えば、これは非常に
深刻な歪曲である。まず、「万歳」は漢文文化圏で生まれた用語である。この用語が初めて
使用されたのは、中国である。その起源については、様々な説があるが、比較的信憑性の
ある資料を取り上げてみよう。
「万歳」という用語は、前漢(紀元前206 年―208 年)王朝の第六代皇帝である景帝の
時から使われ始めたという。『史記』には、景帝が弟である梁孝王に向かって「千秋万歳の
後、王に伝えん」と言ったとする記録がある。これは、自分の死後に皇帝の位を孝王に継
がせようという意味であった。ここでいう「万歳」とは、「千秋万歳」の後半を取ったもの
であり、皇帝の位は天から授かったものであるから、皇帝は万年もその位に在るという意
味である33。
中国において使用されたこの言葉は、皇帝以外に対しては使われなかった。諸侯の長寿
を臣下が願う時には「千歳」という表現を用いていた。つまり、臣下の寿命は千年であり、
その位に千年も在るという意味である。明朝時代になると、「九千歳」という言葉も生まれ
た。宦官である魏忠賢(本名李進忠)は、当時の天啓帝に代わって政務を壟断し、尭天舜
徳至聖至神と名乗り、自分の一党の者に自分に対して「九千歳」と唱和させることを強い
た34。
中国の王朝において生まれたこの言葉が朝鮮王朝で使用され始めたのは、1380 年である
と指摘した先行研究もある。韓国国文学研究者である金興圭は、論文「韓国近代文学研究
と植民地主義」において次のような具体的歴史資料を提出した。
「三呼萬歳」、「呼萬歳」、「山呼萬歳」、「嵩呼萬歳」の形態で旧聞化された用例だけで
も『朝鮮王朝実録』に三十回、十九世紀初頭以前の人物文集に七五回が散見される。『朝
鮮王朝実録』の初用例は、高麗.王六年(一三八〇年)八月に倭寇35が南海岸を侵犯し
た時、李成桂の部隊が敵を打ち破って祝賀の宴を張ると「兵士たちがみな万歳の声をあ
げた」というものである。一九〇九年七月五日、純宗が東籍田に出て麦刈りの儀式を行
なった。その後「官吏や庶民たちが一斉に万歳歓呼の声をあげた」というのが、『朝鮮王
ル』、文学村、2001 年、97―98 頁。)
33 陳周鵬『漢代歴史研究概論』、人民教育出版社、1979 年、187 頁。
34 同書、193 頁。
35 倭寇:13 世紀から16 世紀にかけて、朝鮮および中国大陸沿岸に出没し、略奪行為や密貿易を行った
海賊集団に対する朝鮮及び中国側の呼称である。ここでは、韓国研究者の論文の一節を引用するため、
そのまま韓国側の表現に従う。日本におけるこの言葉の適切性に対しては、説明や解釈を省略する。

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朝実録』に記録された最後の事例である。
太祖実録総序、辛.六年八月、純宗実録二年七月五日参照36
とすれば、三・一運動の「万歳」行為は、日本の模倣ではない。三・一運動は植民地支
配に対する抵抗行為であり、君主に対する忠誠の言葉「万歳」を「朝鮮独立」という共同
体主権確立の夢に結びつけた決定的な事件であった。その意味で、当時の示威者たちは高
宗とともに王朝的秩序に対する歴史の葬儀を済ませたことになる。このような脈絡を無視
して、三・一運動の「万歳」を英語の《hooray》や日本語の「万歳」の模倣にみる黄の発
想には憂慮を覚えざるを得ない。
黄はさらに、「個人の場合にせよ、集団の場合にせよ、主体の欲望とは模倣された欲望、
つまり他者の欲望であり、これこそ民族主体のアイロニーである37」と述べている。無論、
「主体の欲望」とは「模倣された欲望」であり、「他者の欲望」であるという指摘には異論
がない。とはいうものの、そうした欲望対象への考察が歴史事実の歪曲から出発すること
に対しては反論せざるを得ない。黄は、あらゆる反植民地運動や民族言説を帝国主義が発
信する一方的な回路の中での反射鏡として取り上げようとした。黄の論考は、西欧中心主
義の欲望論に重点を置きすぎているため、主張の正当性を大きく欠くものとなっている。
西欧的近代を朝鮮近代の母胎として考えるこうした一連の先行研究は、すべて「植民地
近代化論」に基づいて議論を展開している。「植民地近代化論」とは、日本の帝国主義は確
かに暴力的で苛酷な支配を行なったが、朝鮮を近代化したことも認めなければならないと
いう議論である。これについて趙景逹は、「この議論は確固とした近代主義に立脚し、突き
詰めていけば帝国主義を擁護する方向に帰着せざるを得ないという問題を持っている38」
と指摘している。一方、近年「植民地近代化・
論」への批判として、「植民地近代性・
論」が登
場した。趙は同書で続いて、「植民地近代性論」は「植民地近代化論」と違って近代を是と
するのではなく、それを批判する立場からなされる議論であり、したがって従来ありがち
であった支配と抵抗という二項対立的図式が批判され、植民地権力のヘゲモニーが成立し
たと述べている39。
36 ... 〈......... .....〉《... ..》, ... ..., 2010 .。(金興圭
「韓国近代文学研究と植民地主義」『創作と批評』、創作と批評社、2010 年、308 頁。)
37 黄鍾淵、前掲書、『卑劣なもののカーニバル』、98 頁。
38 趙景逹『植民地朝鮮の知識人と民衆』、有志舎、2008 年、1 頁。
39 同書、1 頁を参照せよ。

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「植民地的近代性」という概念を改めて考えてみるとき、近代性と植民地性が相互浸透
的なものであるかぎりにおいて、植民地的近代性も近代性の一部を構成するものと考える
ことができる。もちろん、植民地的近代性は非常に微妙で複雑なものであるが、それは植
民地支配の具体的状況のなかで西洋的近代性と対比される形で概念化されるものである。
のみならず、植民地的近代性はそれ自体、歴史の具体的状況において二重性を帯びるもの
として理解することができる。ひとつは植民地化を容認することによって歴史主体形成の
意味を軽視する「主体構成過程を欠いた近代性」であり、もうひとつは植民地化に抗しつ
つ、負の側面から「主体構成過程を歩む近代性」である。つまり侵略勢力や植民地権力に
よって日常的に主体化の契機が歪曲される中で、歴史主体としての自己の方向性をどこに
見出していくかということが問題となる。すなわち、昨今の植民地近代性に関わる研究の
特徴は、植民地における近代という現実の中に、特殊な近代ではなく、近代そのものを見
出し、そこから今日につながる「近代」への批判的視座を再構築しようとする点にある。
一例として取り上げられるのが、鉄道をめぐる論争である。日本から移植された鉄道は、
日本側からすれば、朝鮮半島の軍事的占領や経済的搾取、及び中国大陸での陸上運送を円
滑化させるために設置された装置に他ならなかった。しかし韓国にとっては、近代化や植
民地化への流れの中で、二つの相対立する集団意識を作り出す結果となっている。つまり、
一方は被支配や搾取の状況を乗り越え、新たな未来を切り開く近代文明の象徴として鉄道
を認識した。しかし、他方では、支配者の暴力や搾取を強化し、朝鮮半島の土着文化の価
値を否定する契機として認識されてきた40。こうした近代化や植民地化をめぐる内部論争
は、韓国文化の自己分裂もしくは自己統合を表面化させる言論装置に他ならない。
ここで、近代性と植民地性をめぐる議論を取り上げたのは、テクストの時代背景をさら
に詳しく把握するためである。本論は、作家論ではなく、テクスト分析を主な課題として
いる。とはいえ、作者の置かれた背景がどこまでテクストに浸透しているのかということ
は、テクスト分析にも直接的な影響を及ぼすことになる。特に、植民地という特殊な歴史
空間は決して無視できないテクスト分析の前提である。つまり、小説に登場する主人公た
ちに内在する「声」を引き出すためには、テクストの虚構空間にちりばめられた歴史的出
来事やそれらをめぐる後世の議論を取り上げなければならないのである。
植民地朝鮮を独立させたエネルギーとしての民族主義と、現在の日韓関係をはじめ国際
関係を律する一原理としての民族主義は、時代の隔たりを超えて共存しているといえる。
40 鄭百秀『コロニアリズムの超克』(草風館、2007 年)を参照せよ。

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つまり、「親日」と「反日」は国家主義と民族主義の狭間で歪んだ関係を維持せざるを得な
かったのだ。韓国が、国民国家として独立を宣言してから半世紀以上経った今日、民族主
義は韓国の人々の大半に浸透している。それは近代になって諸国から導入された多様な思
想が、植民地時代以降、確実に根付くことがなかったからである。韓国の民族主義は歴史
的必然ではなく、社会・歴史的産物である。つまり、自由主義の根をもつ西欧の進歩・保
守と違い、韓国の保守・進歩は民族主義に過度に依存し、その力を発揮しているのである。
したがって、韓国の激烈な民族主義は保守・進歩論争という思想的な不毛性を生み出し
た。こうした二元論的な立場は、文学作品の批評にもっとも鮮明に表われている。金史良
の作品は、「親日文学」でも「抵抗文学」でもない。それは「金史良文学」であるとしか言
いようがないのである。既に多くの朝鮮作家たちが日本の「内鮮一体」の政策に賛同を示
す形で日本語作品を書いている中、もっとも自覚的に二重言語の間を往来した金史良文学
について考えることは新たな意味を持つと考えられる。彼もまた、「内鮮文学」への押し付
けが厳しかった時期に、「ムルオリ島」(1942 年1 月)や「太白山脈」(1943 年2 月から10
月にかけて)を『国民文学』に連載するというぎりぎりのところまで追い詰められた。だ
が、最後にはそこから逃げ出すのである。
日本語による創作にもかかわらず、そこには朝鮮の現実が見事に描かれている。したが
って、「親日文学」とも「抵抗文学」とも簡単に片付けることができない金史良の日本語に
よる文学は、二項対立的な概念を越えたところで、「金史良文学」としての意義を持つと思
われる。
植民地的主体にとっては、協力/抵抗の完全なる分離こそが幻想であったかもしれない。
植民地的主体の経験が「内部」的なものであるとするなら、そのような歴史を認識してい
る後世の視点は「外部」的なものと言えるだろう。つまり、歴史認識とは「外部」で事後
的に構成されたものである。しかし、「外部」は常に既に「内部」に襞のように折り畳まれ
ているというドゥルーズの主張のように、言語には既に歴史や社会が折り込まれているは
ずである。とするならば、植民地的主体の経験は過去の歴史事実だけではない。そのよう
な記憶や経験は、常に言語化され、現前化されている。
したがって、植民地的主体の位置を把握し、確定することよりも、当時の人々が被った
主体変容のプロセスを明らかにすることの方が重要である。植民地朝鮮住民は、日本帝国
の強要にどのように対応していたのだろうか。すなわち、植民地主義的体系を内面化し、
それに従属していくか抵抗していくかといった、植民地的主体の成立プロセスこそが、現

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時点で問題化されなければならないことであるだろう。
結論から言えば、そのプロセスは、流動的であり、決定不可能である。なぜだろうか。
その理由は、対象化不可能であるにもかかわらず、問題提起が不可避であるという植民地
文化研究の特徴そのものにある。そこで、本論では受容と拒否の間に、様々な形で引き裂
かれていた被植民者によるテクストを取り上げ、具体的な分析を試みることにしよう。
まず、金史良の代表作である「光の中に」の読みから始めるとしよう。

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第二節 「名前」という出来事
「社会的空間と個人の内的空間の間に、作家が彼の自由と形式を求める第三の領域ある
いは仲介的領域がある。それはもちろん言語空間である41」。このような認識のもとに、ト
ニー・ターナーはその著書『言語の都市』の中で、既存の言語表現に対し抵抗を試み、新
しい文体的形式の創造によってアイデンティティを希求していく一群の作家群像を描き出
した。ターナーは、主に作家の社会における自己実現という問題、つまり言語に媒介され
る抑圧と抵抗の物語を扱っている。それは1930 年代の言語を通じて思想統制を行おうとす
る全体主義イデオロギーの勃興から、「言語の牢獄」から逃れられないとするポストモダニ
ズム的な言語哲学の問題にまで及んでいる。しかしながら、人間における言語の優位性を
認めるという点で、明確な批評意識を持つことはできなかった。
ここでターナーの著書を取り上げたのは、言語空間の中で自己のアイデンティティを模
索しようとする試みを、金史良文学にも見出すことができるからである。金史良のテクス
トの主人公たちは、常に言語によって自己同一性を求め、既存の社会秩序に抵抗しようと
する。そして、そうした主人公たちは、居場所を得られないゆえの鬱屈を、民族アイデン
ティティの揺らぎに帰している。つまり、自己の不幸の始まりは、民族アイデンティティ
の拘束に起因すると考えているのである。さらに言えば、「名前」の呼び方により、異なる
民族アイデンティティが成立してしまうという葛藤の中でもがき苦しんでいるのだ。
金史良の作品の中には「名前」をめぐる問題を扱った小説がいくつかある。1940 年度の
芥川賞候補作に選ばれ、日本での本格的な作家活動のきっかけになった「光の中に」には、
「南ナ

」と「南
ミナミ
」の間で揺れ動く主人公の心理的な変遷が描かれている。また、「天馬」に
は自分は玄龍ではなく、「玄の上龍之介」であると泣き叫ぶ朝鮮人小説家が登場する。「光
冥」では、日本人の妻を持ち、自分が朝鮮人であることをひたすら隠し通している清水と
名乗る人物が登場する。さらに、金史良の日本での最後の小説である「親方コブセ」では、
李山、朴沢、崔本といった朝鮮人労働者たちが数多く登場する。
本節では、主に「光の中に」に登場する「南」という名前をめぐる民族アイデンティテ
ィの問題を取り上げ、物語世界の一つの様相に光を当ててみたいと思う。
南は、帝大学生を中心とする隣保事業団体のS 協会で、江東区の工場街の若者や子供た
41 トニー・ターナー『言語の都市』、佐伯彰一他訳、白水社、1980 年、19 頁。

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ちに英語を教える朝鮮出身の大学生として登場する。物語の観察者である南は、S 協会で
英語を教え、協会の中では「ミナミ」という日本名で呼ばれている。つまり、日本人とし
て認識されている。周りの人々が「私」を呼ぶ呼び方について、南は内心非常に気にして
いる。ここで対象化されているのは、南の意識である。自分の名字の呼ばれ方によって、
他者の目に映る自己像が変わっていく。「ナン」という呼ばれ方と「ミナミ」という呼ばれ
方は単に言語的な読み方の違いではない。「ナン」という朝鮮名字の呼び方の中には、被支
配民族という屈辱が、「ミナミ」という日本風の呼び方の中には、支配民族・本土民族とい
う意味が含まれている。
そう云えば私はこの協会の中では、いつの間にか南
みなみ
先生で通っていた。私の苗字は御
存じのように南な

と読むべきであるが、いろいろな理由で日本名風に呼ばれていた。私の
同僚たちが先ずそういう風に私を呼んでくれた。私ははじめはそんな呼び方が非常に気
にかかった。だが後から私はやはりこういう無邪気な子供たちと遊ぶためには、却って
その方がいいかも知れないと考えた。それ故に私は偽善をはる訳でもなく又卑屈である
所以でもないと自分に何度も云い聞かせて来た。そして云うまでもなくこの子供部の中
に朝鮮の子供でもいたならば、私は強いてでも自分を南な

と呼ぶように主張したであろう
と自ら弁明もしていた42。
「はじめはそんな呼び方が非常に気にかかった」と南は意識している。ここで「そんな
呼び方」とは、協会の先生たちが「ミナミ」と呼び始めることを指している。しかし南は
それに対して、自分は「ナン」という朝鮮人であることを明かすことはない。「ミナミ」へ
の違和感は持ちながらも、自分が「ナン」であることを打ち明けようとしないのだ。意志
と行動の矛盾、即ち意志と態度がずれていく過程とも言えるが、それはこの出来事が生じ
るまで、隠されたまま南の意識の中に潜在してきたのである。
南は常に反省している。その反省過程の中には、「反省する自己」と「反省の対象となっ
た自己」という形で、一種の自己分裂の経験を見出すことができる。この場合、反省する
自己と反省される自己とはなぜ同じ自己を示していると言えるのであろうか。分裂した自
己の間での同一性を無条件に前提するわけにはいかないはずである。この反省の構造の中
で登場する「私」は分裂的であると同時に同一的であり、同一的でありつつ分裂的である。
42 金史良『光の中に―金史良作品集』、講談社、1999 年、13 頁。

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「私は偽善をはる訳でもなく又卑屈である所以でもないと自分に何度も云い聞かせて来
た」。この語りから、「ミナミ」として呼ばれる南の意識は、「偽善」と「卑屈」に囚われて
いたことが確かめられるのである。「ナン」という名字の持つ植民地朝鮮出身の南が、日本
風に「ミナミ」と呼ばれる状況に直面して囚われる「偽善」と「卑屈」の心理は、いわば
不可分離の相互内包的な錯綜状態とも言うべきものであった。「無邪気な子供たちと遊ぶた
めに」という前提は、植民地住民の共同体的イデオロギーからすれば、確かに「善」であ
ろう。しかし、南にとって、それを行動に移すことはただの純粋な「善」ではなく、「偽善
をはる」ことであった。つまり、「善」を「偽る」ことに過ぎないのだ。そして、「ナン」
と名乗ろうとする動機には、民族意識という内面的欲動の当為性が作用している。さらに
言えば、そこには被支配民族としての抵抗・反発が無意識的に働いている。
ところが、こうした民族意識から出発した「ナン」という呼称への欲求は、「ミナミ」と
呼ばれる現実的状況の中で常に混乱し、分裂させられる。「ナン」という呼称を主張しよう
とする欲求は、周りの呼び方に同化するという「卑屈さ」によって抑圧されてしまうから
である。即ち、「偽善」の中には既に「卑屈」の契機が介入している。この「卑屈」を単な
る人間的な恥と考えることはできるだろうか。このような「卑屈さ」は、支配・被支配と
いう現実の中で、被支配者が自分たちに与えられている差別の条件(「ナン」という朝鮮人
に対する社会的な差別)を払拭し、支配者側の価値(「ミナミ」という日本人に対する待遇)
を欲望する際、誰もが経験せざるを得なかった自己拘束的な性格のものではなかったであ
ろうか。周りの呼び方に対して「卑屈さ」を覚えるということは、他者との関わりの中で
成立する自己意識の働きに他ならないからである。
南という名字を持つ「私」は、「ミナミ」と呼ばれる特殊の状況にあったからこそ、「ナ
ン」との分裂を正面から体験することができたと言える。自分がいくら「ナン」と呼ぶべ
きであると思い込んでいても、周りから「ミナミ」と呼ばれている限り、「ナン」という名
字と自己との同一性は保証されない。また「ナン」と呼ばれたいという欲望に囚われてい
る限り、「ミナミ」と呼ばれる世界では名前と自己との同一性が見出されることはない。こ
の瞬間の「私」の意識は、「ナン」でもなく、「ミナミ」でもないという確定不可能の状況
に向かい合うことになる43。
名前とは、人が生まれてから付与されるものであり、社会的な制度によって要求される
ものである。それは「私」のものでありながらも、他者なしには「私」のものになり得な
43 鄭百秀、前掲書を参照せよ。

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いものである。名前をめぐっては、常に他者という力が作用しているのだ。
「ナン」という名前には、朝鮮人という民族への同一性、朝鮮語という民族言語への同
一性などが深く関与している。また「ミナミ」という名前には、日本人社会、日本語、あ
るいは植民地状況といった要因が複雑に関わっている。両者は結局両立不可能である。そ
の結果衝突を起こし、自己の分裂をもたらす。自分の同一性がどちらの名前の側にあるの
かが判然としない場所で、南の意識は危機に直面しているのだ。その瞬間の南は、「ナン」
でもなく、「ミナミ」でもない。自分と名前との同一性が確認できない不安な場所とは、「ナ
ン」あるいは「ミナミ」という名前の存在拘束から切り離された外部を意味している。
ところが、或る晩のこと子供たちと騒いでいる所へ、私の生徒の一人が真蒼にひきつ
ったような顔をしてはいって来た。それは自動車の助手をしながら夜になると英語や数
学を習いに来る李という元気な若者であった。彼は戸を閉めると挑みかかるような調子
で私の前に立ちはだかった。
「先生」それは朝鮮語だった。
私ははっと思った44。
この呼びかけは、物語にとっていかなる構成的機能を担っているのだろうか。この短い
テクストは、この「先生」という朝鮮語の呼びかけによって始まる。
ここで南を朝鮮語で「先生」と呼んだのは、朝鮮人の青年李である。李の突然の出現よ
りも、彼の朝鮮語での呼びかけにこの小説のすべての鍵が隠されている。さらに言うなら、
この出来事にはもっとも根源的な問題が刻まれていることを見逃してはならない。
まず、注目すべきことは、「先生」という声が突然聞こえてきた瞬間、南は自分が朝鮮語
で呼ばれていることを感じて「はっと思った」ということである。「先生」である南が「先
生」と呼ばれることに「はっと」思うこと、そこにこの小説の提起する根源的な問題があ
る。この呼びかけが朝鮮語でなされたということが何より問題なのだ。李という朝鮮人の
青年が、朝鮮人である南を、朝鮮語で「先生」と呼ぶ。ここにはいかなる問題が潜在して
いるのであろうか。なぜこの呼びかけがすべての出来事の起源になるのであろうか。
「先生」という朝鮮語での呼びかけ、この物語の開始を告げる出来事としての呼びかけ
によって、それまで南の意識の中に潜在していたすべての矛盾が再現されることになる。
44 金史良、前掲書、14 頁。

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まず、春雄と南の関わりがこの呼びかけによって明らかとなる。春雄は南に出会った瞬
間から朝鮮人ではないかと疑いの念を抱きながら、南の周りに付きまとっていた。南が「ミ
ナミ」という日本名で呼ばれることに、少年は強い違和感を抱いていたかもしれない。朝
鮮人の母親を持つ春雄にとって、南は「母なるもの」に代わる無意識的な懐旧の対象であ
った。李による「先生」という朝鮮語での呼びかけによって、南の身分が確認できた春雄
は特異な愛情表現を示しながら一段と強く付きまとってくる。
春雄は「ミナミ」と呼ばれる南の顔に「ナン」という朝鮮人の顔を感じ、自分との同質
感を抱いていたはずである。したがって、南という名字がどのように呼ばれるかというこ
とは、南と春雄が出会い、相反目し、そして和解していくという物語の展開において重要
な契機として機能しているのだ。
南という名前は、日本人と朝鮮人が共有する名前であるが、同時にまた分裂を内包する
名字として設定されている。言い換えれば、名前は南が帰属すべき共同体を示すと同時に、
南がその共同体に所有されていることも示している。名前と言語によって、南の民族アイ
デンティティを表わすことは実際上不可能である。「私の同僚たちが先ずそういう風に私を
呼んでくれた」という一節に見られるように、南な

という朝鮮人が「日本語」を使うことに
よって彼の民族性は隠蔽されてしまっている。「ナン」が同僚たちによって「ミナミ」にな
るという現実から、名前は主体の自己同一性を記することができない記号であることがわ
かる。
「光の中に」は、自分に与えられた名前の呼び方によって、また自分の使用言語によっ
て、主体の主体性が変化するという事態を明確に描き出している。このように、「名前」と
いう出来事の外部と自己意志という内面の相互関係についての分析から、主体性の追求や
挫折、抵抗の中で生きてきた植民地朝鮮人の姿を把握することができる。
また、「光の中に」が発表された翌年である1940 年、「創氏改名」という朝鮮住民の日本
名への変更が社会問題化した。つまり、「光の中に」は、「南」という「私」を設定するこ
とによって、朝鮮人に日本式の氏に切り替えることを強制した「創氏改名」それ自体を風
刺しているのである。「名前」という出来事が含む諸問題は、植民地住民全体が経験したは
ずの自己意志と行動との分裂を具体的に示しているのである。
特に、「光の中に」は南が「ミナミ」から「ナン」へ回帰するという物語の展開において、
「創氏改名」とは明確な対立を示している。では、「創氏改名」とは一体何であろうか。
「創氏改名」とは、1940 年2 月11 日に朝鮮総督の発した制令第19 号「朝鮮民事令中改

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正の件」と制令第20 号「朝鮮人の氏名に関する件」に基いて実施された朝鮮人の家族制度
と名前に関する同化政策である。
さらに言えば「創氏改名」とは、「日本の朝鮮植民地支配の過程で、日本から持ち込まれ
た『氏』の制度が、朝鮮伝来の『姓』の制度と衝突し、朝鮮社会に激しい摩擦を引き起こ
したもの45」である。これは、「日常生活や慣習上の問題ではなく、法律上の家族制度・国
民登録制度に関する問題なので、用語としては法令用語を使う必要がある46」。
朝鮮の家族制度は、日本とは異なり、家の称号である氏ではなく、父系の血統をあらわ
す姓を根幹として成立している。朝鮮人の姓は、結婚しても変わることがないというのが
慣習である。「創氏改名」により、別姓の朝鮮人夫婦は同姓を名乗るよう強いられた。つま
り、日本の家族制度が朝鮮に持ちこまれたということである。
「創氏改名」とは日本名を強制する政策ではない。それは、家族名としての氏を新たに
設けることであり、先祖伝来の姓に変更はなかった。それでは創氏改名令を発した日本の
意図は一体何であったのか。それは朝鮮の家族制度を否定し、日本の家族制度を導入する
ことにあった。つまり、朝鮮の伝統文化・伝統家族制度を抹殺し、朝鮮の民族性を否定し
ようとするものであった。
さらに言えば、朝鮮民族の共同体意識や伝統的倫理観の源でもあるこの姓という家族制
度を、天皇を宗家とする日本の氏中心の家族制度に切り替えることが「創氏改名」の本質
的な趣旨であった。つまり、朝鮮人の社会的、法律的存在としてのアイデンティティだけ
ではなく、情緒の層にまで達している自己同一性の根をもとから断ち切ろうとした政策だ
ったのである。
この法令は日本の建国記念日である1940 年2 月11 日から六カ月以内に「朝鮮人は日本
人の氏を創る」として、植民地全地域で実施されたが、「皇国臣民」に同化を求める植民地
住民の間では1930 年代後半から既に話題とされていた。また、実施の段階でも、法的には
任意であったが、実際には改名者数を皇民化のバロメーターと見なすという総督府の有形
無形の圧力があり、学校教育、就職などで様々な不利益を招かないためには創氏改名する
しかなかったといわれている47。
にもかかわらず、「創氏改名は強制ではなかった」という植民地支配を正当化しようとす
る発言が絶えなかったのは周知の通りである。とりわけ、1982 年の日本の歴史教科書の検
45 金英逹『創氏改名の研究』、未来社、1997 年、7 頁。
46 同書、8 頁。
47 宮田節子「天皇制教育と皇民化政策」『帝国日本とアジア』、吉川弘文館、1994 年、159―164 頁。

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定に端を発したいわゆる「教科書問題」における日本文部省の見解は以下のとおりである。
創氏改名を強制したという記述については、これは法令上強制ではなく、任意の届け
出によるという建前であり、六カ月間に届け出があったのが約八割に上ったことから、
かなり無理があったことは確かだとしても、二割がこれに応じなかったことは、やはり
法令上の強制でなかったことを示している48。
また2003 年5 月、当時自民党政調会長であった麻生太郎が講演で、「創氏改名は、朝鮮
の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ49」と発言したことが問題と
なった。麻生は各方面からの批判を受け、「韓国国民に対して率直におわび申し上げる」と
語ったが、「わかりやすく説明しようとして言葉が足りなくなり、真意が伝わらなかった」
と発言を取り消すことはなかった50。
また、杉本幹夫はその著書『「植民地朝鮮」の研究』において、創氏改名にかなりの強制
があったことは事実と認めながらも、それをもっとも熱心に遂行したのは、朝鮮人ジャー
ナリストに煽られた朝鮮人地方官僚だったと指摘した。つまり、強要の責任を朝鮮人官僚
に転嫁する見解を示しているのである。
「創氏改名」の本質を歪曲するこうした言説は、意図的なごまかしであると同時に、歴
史的事実に対する「無知」に由来するものでもある。
「創氏改名」の強制には、二種類の形態があったと言える。
まずは、法的強制である。これは、「氏の創設」すなわち「創氏」そのものが選択ではな
く、法律によって一律に強制されたということである。法律名が「姓名」から「氏名」に
変えられたことも同様である。「姓」は朝鮮人にとって民族のシンボルである。その誇り高
き表象が本名から通名にされてしまったのである。これこそ、「創氏改名」における民族性
抹殺の眼目であったと言わなければならないだろう。
二つ目は、行政的圧力である。創氏届や改名許可申請が法律上はあくまで任意であった
からこそ、様々な政策的暴力によって改名が強要されたのである。このための法的誘導装
置としては、他姓氏の申請禁止や、氏名変更許可の要件とされた「正当の事由」が「日本
風の名前への改称」であったことなど、皇民化の落とし穴に誘い込む巧妙な罠がしかけら
48 宮田節子他『創氏改名』、明石書店、1992 年、2 頁。
49 麻生太郎の発言を報じる新聞記事(『毎日新聞』、2003 年6 月1 日朝刊)
50 水野直樹『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で』、岩波書店、2008 年、8 頁。

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れていた51。
すなわち、「創氏改名」は植民地朝鮮で強化された「内鮮一体」、「皇国臣民化」政策の典
型であり、朝鮮人に徴兵制を適用するための準備でもあった。それはまた、日本が植民地
支配の基本方針としていた朝鮮人同化政策を象徴するものでもあった。
以上から明らかなように、「創氏改名」は1940 年代の主要な社会的関心事となっていた
のである。「光の中に」は、このような時代背景の中で間接的に「創氏改名」の問題を取り
上げている。にもかかわらず、この小説が芥川賞の候補作として選ばれたのはなぜであろ
うか。当時の芥川賞選考委員たちの評52から主なものを取り上げてみよう。
「実はまだ三作とも読んでいないのですが、最近半島の作家志望者が実に多いやうで
すが、さういふ人たちは国語で小説を書くべきか、朝鮮語で書くべきか(中略)さうい
ふことに関連して『光の中に』は是非読んでみたいと思っています。」 ―中村地平
「金史良の『光の中に』は、半島人の入り組んだ微妙な気持ちの平暗を、さまざまな
境遇の半島人を、それを現すのに適当な題材に依って、何より巧みに書かれてある。」
―宇野浩二
「金史良氏の『光の中に』は、朝鮮の人の民族神経と云ふものが主題になってゐた。
この主題は、これまで誰もこのようにハッキリと描いてゐないやうで、今日の時勢に即
して大きい主題だと思った。」 ―滝井孝作
「是に比べると、候補第二席作品『光の中に』は、実はもって私の肌合に近く、親し
みを感じ、且つまた内鮮人問題を捉へて、其示唆は寧ろ国家的重大性を持つ点で、尤に
授賞に価するものと思われ。」 ―久米正雄
「金史良氏はいいことを書いてくれた。民族の感情の大きい問題に触れて、この作家
の成長は大いに望ましい。文章もよい。しかし、主題が先立って、人物が註文通りに動
き、幾分不満であった。」 ―川端康成
51 金英逹、前掲書、34―35 頁を参照せよ。
52 『芥川賞全集』第2 巻、文芸春秋、1982 年、400―406 頁を参照せよ。

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選考委員の共通した意見は、時局との関わりの中でこの小説を評価していることである。
「半島人の入り組んだ微妙な気持ちの平暗」を、「適当な題材に依って、何より巧みに書か
れてある」という評がそれである。つまり、当時は太平洋戦争を間近にひかえ、朝鮮の重
要性が新たに認識され始めていたのである。「ほとんど無視されてきた朝鮮と朝鮮文学への
関心が盛んになり、雑誌などでは様々な朝鮮特集が組まれた53」とされているのもこの時
期である。「光の中に」が芥川賞の候補作になった背景には、このような時局的な諸相が大
きく作用していたと言えるだろう。
前述したように、この小説は「創氏改名」の政策とは相容れない内容で構成されている。
にもかかわらず候補作として選ばれた理由について、韓国の近代文学評論家南富鎮は「日
本と朝鮮においての時局認識に対するズレがあった54」からであると述べている。さらに、
「朝鮮で実施された創氏改名については、日本の新聞紙上にはあまり紹介されておらず、
現に芥川賞選考委員たちもそれについてはあまり知らなかった55」と主張している。
まず、日本人文学者たちが当時の時局を「あまり知らなかった」という南の指摘につい
ては、疑問を持たざるを得ない。金英逹の『創氏改名の研究』、水野直樹の『創氏改名―日
本の朝鮮支配の中で』や宮田節子の『創氏改名』などの先行文献を参照してみれば、当時
の日本の新聞紙上にも「創氏改名」の政策に関する記事が紹介されていたことがわかる。
「創氏改名」への認識がなかったという南の主張にしたがうなら、それが日本人文学者た
ちの意図された「無知」であったのか、それとも時局に対する根本的な無知であったのか
という問題に直面してしまうことになる。
さらに、南は次のように「光の中に」の内容を解釈している。
朝鮮人の「私」と日韓混血児の山田少年によって浮き彫りにされる差別問題を扱い、
両者ともに最終的にはそれを乗りこえ、真の自己認識と相互理解に達する時局的な作品
として解釈できるのである。(中略) 内鮮結婚によって生まれた山田少年が差別を乗り
越えて「母なるもの」としての「朝鮮的なるもの」を認めていく過程は、そのまま「内
鮮一体」を支える論理としても解釈できる。選考委員もおおむねこういう解釈によって
53 朴春日「韓国ブームの虚像と実像」『増補近代日本文学における朝鮮像』、未来社、1985 年、8 頁。
54 南富鎮『近代文学の朝鮮体験』、勉誠出版、2001 年、51 頁。
55 同書、51 頁。

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評価したものと思われる56。
ここで言われる、「差別を乗りこえ、真の自己認識と相互理解に達する時局的な作品」と
いう解釈にも賛同することができない。具体的なテクスト分析は後に行なう予定であるが、
結論から言えば「光の中に」は矛盾や葛藤を抱いた主人公に対し何の解決も与えてはいな
い。南においても、春雄においても、民族差別は乗り越えられないものであり、民族アイ
デンティティの確立も流動的で曖昧なものとして残されている。
南の名前の問題に立ち戻って考えてみよう。南が「ミナミ」と呼ばれる場合と、「ナン」
と呼ばれる場合、両者はそれぞれ「日本人」と「朝鮮人」を象徴するものであるというの
が一般論である。しかし、それは「日本人」と「朝鮮人」の民族的な対立というよりも、
むしろ「日本文化」と「朝鮮文化」との対立である。一言でいえば、「伝統」の対立なのだ。
「内鮮一体」や「創氏改名」という一連の同化政策も、朝鮮人の根本的な「伝統文化」を
抹殺し、日本化しようとする制度にほかならない。このように、日本帝国は「伝統」とい
う「内部」からの同化を強制してきたのである。一方、朝鮮の人々は常に自己内部の葛藤
や矛盾から脱することができなかった。朝鮮の知識人である南においても、日本の混血児
である春雄においても、この想像上の民族や伝統文化の枠から完全に逃れることはできな
かった。小説の結末部分には、こうした主体の確立不可能性や流動性を明確な形で見出す
ことができる。
また、作者である金史良は、「光の中に」が芥川賞候補作に選ばれたのち、「母への手紙」
という形式でその感想を述べていた。
私はもともと自分の作品でありながら、「光の中に」にはどうしてもすっきり出来ない
ものがありました。嘘だ、まだまだ自分は嘘を言っているんだと、書いている時でさへ
私は自分に言ったのです。後になりその事についていろいろと先輩や友人達から指摘さ
れるのです。私は黙っているしかありませんでした。(中略)これからはもっとほんとう
のことを書かねばならないぞと自分に何度も云ひました57。
「どうしてもすっきり出来ないもの」とは、自分自身に「嘘」をつくこととして認識さ
56 南富鎮、前掲書、51 頁。
57 「母への手紙」(『文芸首都』、1940 年4 月)、『金史良全集Ⅳ』、河出書房新社、1973 年、105―107 頁。

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れていたのである。このような認識はいったい何に由来するのであろうか。南富鎮は、こ
れについて「『光の中に』では『ほんとうのこと』をそのまま書けなかった58」からである
と指摘している。では、その「ほんとうのこと」とはいったい何であろうか。朝鮮民族と
しての自己同一性を主張すること、もしくは「国語」としての日本語(文学)の強制に対
抗して沈黙することが、「ほんとうのこと」なのであろうか。金史良の場合、「ほんとうの
こと」を「書けなかった」という表現は、「書かなかった」という事実を暗示している。民
族的抵抗について「書けなかった」という作者の受動的な行為は、「書かなかった」という
能動的自発性を内包している。無論、被支配民族作家の書く自由を奪い取った統制・抑圧
の植民地朝鮮という時代背景が、もっとも大きな要因として作用したということは言うま
でもない。
言い換えるなら、金史良を含む当時の民族作家にとって、「ほんとうのこと」を「書く」
という選択肢はもともと存在しなかったのである。しかし、迂回的なエクリチュール実践
を続けた金史良の作品は、現在に至るまで多様な解釈を許容している。
安宇植は、その著書『評伝金史良』において、抵抗作家として金史良を評価している。
彼は、金史良の「民族に対する良心」や「彼に負わされた民族的責任」への「自覚の高ま
り」が、この種の自己への「不満をつよく抱かしめた」と指摘している59。中国抗日地区
へ脱出した金史良の経歴を考えるならば、安の見解はある程度認めなければならないだろ
う。とはいうものの、「民族的良心」や「民族的責任」という抽象的な概念で、一人の作家
を評するのはかなり観念的すぎるように思われる。特に、当時の知識人階層の近代的なイ
デオロギーを無視して、植民地性だけを強調するような解釈は望ましくない。安の金史良
評価は、民族アイデンティティへの肯定的な意識をその根拠としている。つまり、このよ
うな民族性を前提とする解釈のせいで、金史良のテクストの主人公たちは、自己の民族ア
イデンティティへの帰属意識の中で葛藤するしかなくなってしまうのだ。
南における民族アイデンティティとはいったい何であろうか。また、民族アイデンティ
ティを強要する後世の評論家によって、南のアイデンティティはどのように形成されてい
くのであろうか。
民族主義が近代国民国家の産物として批判されてから既に久しい時間が経過している。
にもかかわらず、民族主義が未だに強固な形で存続していることも事実である。国民国家
58 南富鎮、前掲書、55 頁。
59 安宇植『評伝金史良』、草風館、1983 年、90 頁。

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の内的同質性を素朴に前提とするような民族アイデンティティは存在しないのも同然であ
る。つまり、民族アイデンティティは、権力者の目的達成に手を貸す一方で、その権力構
造に反逆する勢力を勇気づけるという両様の役割を果たしてきたのだ60。
ここで、近年の主な民族アイデンティティ論を整理する作業が必要となる。
まず、アントニー・スミスは『ナショナリズムの生命力』において、集合的な文化現象
として民族アイデンティティを捉えた。彼は、民族アイデンティティについて歴史社会学
の立場から接近し、政治的共同体としての国家がその前提にあると指摘した61。ここでは、
民族アイデンティティという概念の核心となる同一性の原理や帰属意識に着目することで、
国家への同一化プロセスを射程に入れた帰属意識の形成問題に論点を絞ることができるだ
ろう。
次に、文化装置という視角から民族アイデンティティを捉えたのは、ベネディクト・ア
ンダーソンの『想像の共同体』である。アンダーソンによれば、民族アイデンティティに
は人々の「存在の日常的宿命性62」があり、文化装置を媒介にした意識の作用としての側
面がある。この視点は、民族アイデンティティの形成について考える場合の制度的プロセ
スの解明に有効であると思われる。
また、アンソニー・ギデンスの『国民国家と暴力』の中には、「人々が一体感をいだく集
合体の中に包み込まれたいという一人ひとりの欲求63」について言及したところがある。
こうした個人の志向性に着目した指摘こそ、民族アイデンティティの議論に欠かせない視
点であると思われる。彼にとって、民族アイデンティティの構成要素は一組の制度化され
た習わしではなく、むしろ一連の感情や態度である。つまり、常に「故国」への愛着と言
われるような感情の要素がなければ、民族アイデンティティも形成されえないということ
である。
概念として民族アイデンティティを捉える場合、共同体への帰属感情・意識を通して自
己を確認し、承認することができる。また、想像的な意味を付与する概念としての民族ア
イデンティティは、帰属の基準をどこに設定するかによって方向が異なってくる。すなわ
60 イマニュエル・ウォーラ―スティンは、その著書『ポストアメリカ―世界システムにおける地政学と
地政文化』(丸山勝訳、藤原書店、1991 年)において「民族主義も国際主義も、この世界システムの中で
権力を握る人たちの目的達成に手を貸す一方で、このシステムに反逆する勢力を勇気づけるという、両様
の役割を果たしてきた」と語っている。
61 アントニー・D.スミス『ナショナリズムの生命力』、高柳先男訳、晶文社、1998 年、39―40 頁。
62 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、白石さや・白石隆訳、NTT 出版、1997 年、34 頁。
63 アンソニー・ギデンス『国民国家と暴力』、松尾精文他訳、而立書房、1999 年、247 頁。

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ち民族アイデンティティとは、歴史・文化によって決定される集団・個人の帰属意識であ
ると同時に、他者との関係の中で規定される流動的な自己意識でもある。
したがって、「光の中に」の南は民族アイデンティティによって区別・固定されることな
く、それを横断しながら、変化、変形し続ける主体として捉える64ことができるだろう。
つまり、民族アイデンティティの概念とは、統一されたものではなく、次第に断片化され、
分割されていくものなのである。南の民族アイデンティティは決して単数ではない。それ
は多様で、交差・矛盾する立場をしばしば横断するような形で構成されていく。また、民
族アイデンティティは、根源的な歴史化に従いつつ、絶えず変化・変形の過程に直面して
いるのである。
さらに言うなら、南にとって重要なのは、彼が他者によってどのように表象されている
のかという問題である。南の民族アイデンティティの揺らぎはそこから始まる。つまり、
民族アイデンティティは、南の表象の外側からではなく、内側から構成されるのである。
周りの呼びかけ、「ミナミ」にせよ、「ナン」にせよ、他者と出会う場所には南の「名前」
という自己同一性が存在する。また、「名前」という自己同一性を民族アイデンティティと
して捉える場合、南の主体性は他者との関係の中で作り上げられた自己意志にほかならな
い。つまり、民族アイデンティティを脱構築してしまうものが、南の主体性なのである。
南の民族アイデンティティが理念の問題であるとするならば、彼の主体性は行為という場
において考察されなければならない。
最後に、南という「名前」について一つ付け加えておきたい。創氏改名の際、南という
呼び名はそのまま日本名とすることができた。それは、当時創氏改名を立案した朝鮮総督
が南次郎であったため、南総督との姻戚関係を装えば、立場を有利にすることができたか
らである。さらに、「南総督赴任の際には、論者の祖先である南氏宗親会では誰よりも総督
64 ここで、スチュアート・ホールのアイデンティティ概念を援用することにする。「アイデンティティは
決して単数ではなく、さまざまで、しばしば交差していて、対立する言説・実践・位置を横断して多様に
構成される。アイデンティティは根源的な歴史化に従うものであり、絶えず変化・変形のプロセスのなか
にある。」(12 頁)、「『われわれは誰なのか』『われわれはどこから来たのか』が問題なのではない。重要
なことは、われわれは何になることができるのか、われわれはどのように表象されてきたのか、他者によ
る表象が自分たち自身をどのように表象できるかにどれほど左右されているのかということである。した
がって、アイデンティティは表象の外側ではなく、内側で構成される。」(12 頁)、「私は『アイデンティ
ティ』という言葉を、出会う点、縫合の点という意味で使っている。つまり、『呼びかけ』ようとする試
み、語りかける試み、特定の言説の社会的主体としてのわれわれを場所に招きいれようとする試みをする
言説・実践と、主体性を生産し、『語りかけられる』ことのできる主体としてわれわれを構築するプロセ
スとの出会いの点、<縫合>の点という意味である。」(15 頁)、スチュアート・ホール「誰がアイデンテ
ィティを必要とするのか」宇波彰訳、スチュアート・ホール他編『カルチュラル・アイデンティティの諸
問題-誰がアイデンティティを必要とするのか』、宇波彰監訳、大村書店、2000 年。

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の赴任を歓迎し、門中祖先儀礼への参加と寄付を願った65」という韓国評論家南富鎮の言
葉にも、「名前」をめぐる民族アイデンティティの確立がいかに虚構的な出来事であるかを
確認することができる。スチュアート・ホールの「誰がアイデンティティを必要とするの
か」という問いかけに対しては、「誰でもアイデンティティを必要とされている」と応える
ことができるだろう。
65 南富鎮、前掲書、62 頁。

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第三節 「父親」の息子
もう一人の主人公である春雄の父親は、自称暴力団の組員である。テクストの中で春雄
の父親は「半兵衛」と呼ばれている。「自分はいかにも最猛者のように云いふらした」が、
「どうやらその連中の中でも『足らず者』という意味で、半兵衛と呼び捨てにされて66」
いたのである。ただし、この人物は南の回想シーンに登場するだけで、現実的な場面には
登場しない。にもかかわらず、「半兵衛」は物語全般において、非常に重要な媒介者の役割
を演じている。一言で言えば、彼は悪党である。南の記憶、李の証言、春雄の母親の入院、
春雄の呟きなどの現実的な出来事から、卑屈な暴君である「半兵衛」の顔が浮かび上がっ
てくる。
おおよそ三〇代半ばになる半兵衛は、日露戦争前後に朝鮮で生まれ、植民地社会との間
に何らかの亀裂が生じたため、日本に流れ込んだ人物であることが推察できる。
テクストにおいて、南は春雄と父親の観察者としての役割を演じている。ここで注目す
べきことは、南の眼に映る春雄と半兵衛の性格、行動、外観は、ほぼ同じ表現によって語
られているという点にある。すなわち、南の視線は二人の父子関係を暗示すると同時に、
父親と息子という「血」による同一性を暗黙のうちに強調する機能を果たしているのだ。
南は、「実に不思議な67」という表現を用いて春雄を紹介しはじめる。「始終いじめられ
ているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる」し、「又誰かが転んだ
りすれば待ち構えたようにやんやと騒ぎ立てた68」。これは、留置場で会った半兵衛の行動
描写とまったく同じなのである。「一人の卑怯な暴君69」である半兵衛は、「みなに恐れら
れながらも陰では非常に憎まれていた」し、「そのかわり新入者や弱い者に対してはひどい
乱暴をしていた70」。
つまり、春雄の他の子供たちとのやりとりや行動は、半兵衛の留置場の中でのそれに酷
似している。二人とも自分より弱い者に対しては「邪魔」をしたり、「乱暴」をしたりして
いるというところから、「卑怯」という性格的な共通点を見出すことができる。
66 金史良、前掲書、36 頁。
67 同書、10 頁。
68 同書、10 頁。
69 同書、36 頁。
70 同書、36 頁。

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さらに、外見描写においても、春雄は「見るから薄髪の方で耳が大きく、目が心持ち白
味がかって少々気味が悪い71」と描写されている。また、南は半兵衛を「皺びた馬面に大
きな目がでれりとして薄気味悪い男72」であったと想起している。つまり、「気味悪い」と
いう同じ言葉を用いて父子の関係を暗示しているのである。さらに、「どの子供よりも、身
装がよごれていて、もう秋も深いというのにまだ灰色のぼろぼろになった霜降りをつけて
いた73」と春雄の身なりを描写している。反面、半兵衛は留置場の中で「お前のシャツ貸
せ!」と南を脅迫し、「洋服のボタンをはずしかけた74」。このような行為は、半兵衛の身
装がずいぶん「よごれて」いて、「ぼろぼろ」になっていることを示唆している。つまり、
南という観察者によって、春雄と半兵衛はそっくりの父子として描かれている。ここで、
南が二人の父子関係に気づいたときの心理描写を取り上げてみよう。
私ははっと驚いて目を瞠み

った。えびのように体をちぢかめて自分の右腕を枕にし目を
半ば開いたまま寝ついている山田春雄の寝姿。私は思わず口に手をあてて声をかみ殺し
た。
「あっ、半兵衛の子だ!」とうとう私は思い出したのだった。今まで目の前にちらつ
きながらどうしても思い起せなかった、半兵衛。「半兵衛の子だ!」
私は顛倒せんばかりに驚いた。あ――これは又何ということであろう。私はこういう
恰好をして寝ている半兵衛をどれ程長い間見て来たのか知れない。だらしなげにぽかん
としている口や、大きな目に老人のような隈がふちをえがいている様までも、父に丸う
つしではないか。その子が又そっくり同じ様子をして私の傍に寝ているのだ。(中略)
そして私は今ようやく彼のことを思い出したのだった。私は何という迂闊
うかつ
さであろう。
苗字の符合からしてもそれ位はとうに感附いていそうなものではないか。最初に山田春
雄を見た瞬間から、私の眼の前には半兵衛の映像がかすかながらの光芒をもってちらつ
いていた筈だった。だが私はそれが半兵衛であることに気附くことが出来なかった。或
は春雄に対する愛情からして、ひそかにそれが半兵衛であることを私は怖れていたのか
も知れない75。
71 同書、10 頁。
72 同書、35 頁。
73 同書、10 頁。
74 同書、35 頁。
75 同書、34―39 頁。

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「えびのように体をちぢかめて自分の右腕を枕にし目を半ば開いたまま寝ついている山
田春雄の寝姿」から、南は自分と二カ月余りも同じ留置場に寝起きていた半兵衛をふと思
い出した。「だらしなげにぽかんとしている口や、大きな目に老人のような隈がふちをえが
いている様」まで、半兵衛にそっくりの春雄を見ながら、南は驚きを禁じ得なかった。春
雄の寝姿を見て彼の父親を思い出すという設定には、父親と息子の「血」の同一性が示さ
れている。
春雄は、無意識的・意識的に自分の父親を理解し、経験してきた。つまり、「父なるもの」
を内化し、それと自己を同一視していたのである。同一視とは、ある意味でいえば正常な
自我防衛である。「エディプス的状況において同一視は、誤った行動に対する厳罰の恐怖か
ら生じた不安に抵抗すること76」である。父親がいかに暴力的な行動を起こしてきたのか
を経験しつつ成長した春雄の場合、そうした「父なる」暴力性はいつの間に彼の内部に取
り入れられてしまったのである。自分より弱い子供たちを邪魔したり、殴ったりする行為
も、父親からの体験が歪曲した形で表われたものである。したがって、父親(あるいは父
親の一部)は春雄に取り入れられ、そっくりの様相を呈していた。つまり、春雄は自分自
身と父親の心像を、二人の関係の中で内在化するのである。春雄への父親の再投影は、春
雄をどう取り扱うべきかという問題に対し影響を与えている。
半兵衛は、自分の嫁が朝鮮人と交際することをとても嫌がっている。刃物で嫁を刺した
のも、朝鮮服を着ている朝鮮人老婆のところへ行くことに腹を立てたからである。半兵衛
の「朝鮮なるもの」への盲目的な拒否は、春雄の行動にも窺うことができる。南が朝鮮人
であることを知った春雄は、ますます意地悪く南に付きまとってくる。また、南の前で急
に何でもないことに対して怒り、傍の小さな女の子を「残忍な程までに腕をふり廻して打
った77」りする。さらに、泣きながら逃げていく女の子を追いかけながら、「朝鮮人ザバレ、
ザバレ―78」と喚き立てる。この「ザバレ」という言葉は、捕えろという意味の朝鮮語で、
当時植民地朝鮮に移住した日本人がよく使った言葉である。春雄が殴った女の子は、無論
朝鮮人でない。すなわち、春雄は朝鮮人である南に見せるために、朝鮮語で「ザバレ」と
喚き立てていたのである。また小説の最後において、南に自分の夢を語る春雄も、また自
76 アンドリュー・サミュエルズ編『父親―ユング心理学の視点から』、小川捷之監訳、紀伊國屋書店、1987
年、61 頁。
77 金史良、前掲書、18 頁。
78 同書、18 頁。

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分の母親が朝鮮人であることを語ってくれる半兵衛も、ともに朝鮮人である南に心を開い
ている。言うまでもなく、春雄の行為は父親である半兵衛のそれにそっくりなものである。
このように、テクストの隅々にまで春雄と父親の同一性を暗示する表現がちりばめられて
いるところに「光の中に」の特徴は存在するのである。
では、父親と息子の関係はいかに捉えることができるのであろうか。父親と息子の関係
を考察するためには、まったく異なる二つの方法がある。すなわち、父子の争いと、父子
による協調である。この二つの見方が共存しているのが、フロイトのエディプス・コンプ
レクス理論の特徴である。争いと協調との相互作用は、いかなる種類の人間や文化にとっ
ても決定的なものである。父親と息子が争ったり競ったりするのは、変化、進歩、改善、
そして変革に象徴される文明を示しているのである。
フロイトに従えば、「自我理想・超自我」は「世代から世代へと受け継がれてきた一切の
不変的な価値の担い手79」なのである。フロイトの「人間論」・「文明論」は、系統発生と
個体発生とを対応させているところに特徴がある。「文明」の出発点を画する人類史におけ
る「父親殺し」(エディプス・コンプレクスとその解消)は、個体の歴史に対応させると、
男根期の終りに訪れる「エディプス期」に対応しているという。言い換えれば、人類は個
体発生的な「エディプス期」に対応する段階で、系統発生的に「父親殺し」という「エデ
ィプス期」をむかえていたのである。
この「父親殺し」という「犯罪行為」と同時に、息子たちは「羨望と恐怖」を伴う模範
であった父親を「食べてしまうという行為」(一体化・同一化)によって父親の偉大なもの
を自己の中にとりこんだ(模倣)。エディプス・コンプレクスや、「同一視」によるその解
消ということが、人類の歴史的規模においてなされたのである。
子供たちは「自分たちの権力欲と性的要求の大きな障害となっている父親を憎んだので
あるが、彼らはまたその父親を愛し讃美もしていた80」。権力欲や性的欲求に駆られた末、
父親を殺したい、父親と「一体化」したいという願望が実現すると、最後には悔恨やそれ
に照応する罪意識が生じてくる。
「父親殺し」という「犯罪行為」は人類の文明化の始源であるとして、フロイトはこう
語っている。「この犯罪行為から社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まったの
79 『フロイト著作集1』、人文書院、1971 年、441 頁。
80 『フロイト著作集3』、人文書院、1969 年、266 頁。

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である81」。フロイトによるなら、「高貴」なもの、「道徳的」なもの、「超個人的」なもの
の歴史的起源は、人類史的規模で行なわれた「父親殺し」というエディプス・コンプレク
スとその解消にあるとされている。そして人類の「父親殺し」というこの歴史的経験が、
個体におけるエディプス・コンプレクスとその解消、「自我理想・超自我」の形成に関する
「遺伝因子」となって人類に受け継がれていくと考えられているのである。
また、フロイトは人類の運命(系統発生)と個人の運命(個体発生)との接点を次のよ
うな言葉で表現している。「自我理想は、その形成の歴史によって、個人の中の系統発生的
獲得物、古代の遺産ときわめてゆたかに結合している82」。
「父親殺し」という「人間種属の運命」が、個体の「自我理想」の形成によって受け継
がれ、「自我の中で個人的に体験される」。個の「自我理想」は「系統発生的獲得物」とき
わめて豊かに結合している。フロイトにあっては、人間の個と類(の運命)は「自我理想・
超自我」を媒体として結びついているのである。
ここで、「父親殺し」を体験したのは半兵衛である。半兵衛の父親は、春雄と半兵衛の「異
常」な父子関係を説明するために、テクストの根底に据えられている不在の媒介者である。
半兵衛は、自分の父親的機能の基盤として役立つ。半兵衛の父親は日本人、そして母親は
朝鮮人である。つまり、彼は「完全なる日本人」ではない。半兵衛の人格形成から見れば、
父親は彼にとって恐怖の存在に違いなかった。その父親の暴力を体験しながら、半兵衛は
父親を模倣してきた。つまり父親と同じようになろうとする。あるいは、同じようになる
ことによって「父親殺し」を完成しようとする。この場合、同一視は一種の自己防衛にな
り得る。さらに言えば、同一視は無意識的なままにとどまり、半兵衛は常に自分を父親と
比較して自分を傷つける。したがって、半兵衛が父親になったとき、その傷が与えたもの
は、暴力性、絶望、自信喪失などの否定的なものであり、また半兵衛は、その否定的なも
のを「遺伝」という形で息子である春雄に担わせたのである。こうして半兵衛は、彼の「力
強い」父親の生まれ変わりとなるのだが、その極端な内化の支配から逃れる方法が、フロ
イトの言う「父親殺し」に喩えられる同一視のプロセスなのである。すなわち、父親を殺
したいという願望と、父親と「一体化」しようという願望が実現する時点で、半兵衛は「生
まれ変った」のである。言い換えれば、失われた父親は息子の中で生き続けている。
半兵衛が自分の母親を代弁する朝鮮人と敵対的・否定的な関係を持っているのは、無意
81 同書、265 頁。
82 『フロイト著作集6』、人文書院、1970 年、282 頁。

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識のうちに攻撃者(父親を代弁する社会構造)への同一視という防衛を働かせているから
である。つまり、自分を攻撃する(フロイトによればエディプス・コンプレクス)者の立
場に立ってしまえば、そこには恐怖の対象が存在しなくなると考えるからである。しかし、
攻撃者の位置に身を置くことは、攻撃を引き継ぐことにつながり、自己表現は攻撃者のそ
れを思い起こさせるようなものとなる。一言でいえば、父親の立場に立つために、その父
親を「殺し(同一視)」、内化・継承するのである。
春雄の朝鮮人忌避現象も、このような同一視の再現にほかならないだろう。春雄は、朝
鮮人を嫌がっている半兵衛の要求を満足させるような立場を強いられた。このことが、自
らのアイデンティティを確立させ、最終的には分壊させる内在的な要因となる。
春雄は自分の父親に対して恐怖感を持ち、距離を置こうとする。テクストでは、父親に
対するこうした拒否や恐怖は二度表現されている。一つは、南と春雄の会話部分にある。
母親の見舞いに半兵衛が行ったのかと聞く南に対して、春雄は「行くもんか」と「やや反
抗的に云った83」。もう一つは、南の部屋で春雄が譫言のように「父ちゃんが今度は僕を片
附けるんだって84」と呟く場面である。このような父親に対する恐怖感は、春雄の人格形
成と緊密に関連していると言える。とすれば、父親の暴力には一体いかなる隠喩が託され
ているのだろうか。
「父親」という観念は父親に対し、権威・権力・行動力を行使するアリバイを与えてき
た。文学テクストにおいても、父親は権威もしくは権力の持ち主として象徴される場合が
多い。春雄にとっても、父親は恐怖の対象であり、権力者なのである。
父親は、外から受けた抑圧をそのまま貞順や春雄に振り向けてきた。さらに、父親の暴
力は一方的であり、抵抗もできない恐るべきものであった。それゆえ、貞順や春雄にとっ
ての解放とは、社会にはびこる差別からの解放と同時に、父親によって支配されてきた家
からの解放を意味している。
テクストにおいて、少年は父親に似た様相を示しつつも、根本的なところでは対立して
いる。それは、二人が最後に登場する空間設定からも読み取ることができるだろう。春雄
は「開かれた公園」の中で、父親は留置場の暗い「閉じられた部屋」で、最後の登場を果
たしている。これが、父親と息子の差異を示唆する比喩的な場面設定なのである。二人の
差異は、「光」という希望の有無によって形成された。春雄の希望が「光」に、そして父親
83 金史良、前掲書、31 頁。
84 同書、39 頁。

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の絶望が「闇」に喩えられているのである。さらに言えば、「開かれた」空間としての公園
は自己の不遇意識から解放された状態を、「閉じられた」空間としての留置場はその不遇意
識に囚われている状態を、それぞれ表象していることがわかる。「光の中に」出て行きたい
という願望から確認できるように、「今ここ」の意識は場所の隠喩によって示されているの
だ。
だが、テクストは春雄の父親に希望の「光」を与えることを放棄してはいない。そもそ
も半兵衛という人物に救いはなかった。つまり、半兵衛に救いがないこと、そして救いを
求めないことは、彼が決して救いを信じることができないことを意味している。さらに言
えば、半兵衛にとって救いを求める行為は、より一層彼を不幸にするだけである。不幸、
つまり自意識から生じる精神の不幸は、救いという方法では解決されないだろう。すなわ
ち、「私であるから」という不幸を救うものは何もないのだ。「私であるから」、つまり「完
璧な日本人でないから」、「混血だから」という根本的な自己意識から来る不幸は、この時
代多くの「半兵衛」を生み出したのである。
テクストは父子の居場所に重なっている時間性を通して彼を救おうとしている。春雄が
「もうだんだんと夕暮になって来る85」公園に立っていることに対して、父親は「折しも
さし込んで来た夜明け86」の留置場の中で横になっている。「夜明け」という時間の中に父
親を登場させたのは、何かの新たな始まりを示唆している。つまり、「夜明け」という言葉
は、父親の新しい「出発」もしくは「希望」の暗喩的な表現として理解できるであろう。
父親に対しても、春雄に対しても、「光」はテクスト全体を通じてほのかに投げかけられ
ている。父子の関係性を様々な場面において強調するのは、植民地における民族統合的な
イデオロギーの実情を鮮明に暴露するためである。父子の奇形的な同一性は、言うまでも
なく、民族差別や階級差別が社会秩序と化している奇形的な帝国を象徴している。
にもかかわらず、春雄はしっかりした自分の夢を持っている。父親という拒否できない
暴力的な存在を同一的に内在化しつつも、そこから逃げ出そうとする欲動を常に働かせて
いる。春雄を「開かれた」場所に置くことで小説を締め括ったのも、自己生成的な春雄の
動きを肯定的に捉えるためであると思われる。とするなら、春雄の夢とは一体何であろう
か。また、テクストにおいてその夢はいかなる機能を果たしているのであろうか。
85 同書、55 頁。
86 同書、38 頁。

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第四節 沈黙の言語―「舞踊」
「僕、舞踊家になるんだよ」彼はいきなり明るい声で叫んだ。
「ほう」私は驚いて彼を見つめた。一時に彼の体が光彩を放ち出した様に思われた。
「舞踊家になるのか」ふとこれは実に素晴しい舞踊家になれるかも知れないぞと考え
た。
「そうか」
「うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど明るいところでは駄目だよ。舞踊は電気を消
して暗い所でやるもんさ。先生は嫌いかい?」
「ううん、それはきっと素晴しいことだろうな。そう見れば君は体も実にいいぜ」私
は夢想

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