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Sunday, February 12, 2012

Korea and her Neighbors part3 from inside Kotatsu

http://glabel.s56.xrea.com/kotatu/archives/200505/12-2210.php


朝鮮紀行(3)

[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。

第七章「漢江とその人々」は、怠け者の雇い船頭キムへの不満から始まる。旅行は、南漢江沿いに進む。

仏刹のひとつである壁寺を訪れたりしながら、4月19日にソウル以来の町らしい町である驪州に到着している。この町で、地元民の好奇の目に晒されて、困ったという記述がある。幕末日本を訪れたアーネスト・サトウも『一外交官が見た明治維新』の中で、旅行する際に好奇の目に晒されてなかなか前に進めないので、籠を雇い、道中は一切外に出なかったというような記述を残している。日本も朝鮮も同じ。

驪州の役所で「関子」を見せるも相手にされず、慇懃な役人の態度に多少憤りを感じている。貴族である両班は、そのほとんどをソウルで過ごし、地元の実務は部下に任せっきりであると記している。この地で先祖礼拝というものを見学し、その方法を詳細に記録している。

川陽の村で村人に誘われるままに大邸宅へと招待され、そこでの様子を詳細に記述している。室内にはフランス製の時計がやたらと目につき、西洋の物が溢れており、著者は「西洋かぶれ」として少々非難めいた視線で描写している。旅行者の勝手な思い込みという奴ですね。

第八章「自然の美しさ/急流」は、丹陽を出発し激しい急流でなかなか思うように前進できなかったが、風景がとてつもなく素晴らしいという記述から始まる。この美しい風景は、嶋潭でその極みに達するとある。

本当に彼女の観察眼には驚かされる。急流に飲み込まれて何度かメモを紛失しているようだが、恐ろしく詳細なメモを取りながら旅している様子がうかがえる。その記述は、植生、生態、風土、気候、鉱山物、建築、宗教、農業、商業など多岐に渡りつつ、それぞれが詳細である。

非常に詳細に植生や地理を記述しているが、単調でいまいち読み手としてはつまらない。写真やスケッチをもっとふんだんに挿入して欲しかったりする。彼女のスケッチと写真だけを集めた本は、出版されていないのかな?

続いて、両班について記している。以下に一部を引用する。

朝鮮の災いのもとのひとつに両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分でなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
『朝鮮紀行』-第八章「自然の美しさ/急流」-
この後、両班の非道を細かく記している。

続けて永春の郡庁を訪れた際の様子を記している。これまでにも政府関係の建物や旧跡などを訪れているが、どこも崩れかけており、常に「かつては素晴らしかったであろう」という枕詞がつく。ここの郡庁も同じ。李朝末期で財政的に苦しい為なのか、単に修復するという文化がない為なのかはわからない。

この郡庁でも、横柄な態度で接せられ、以後、役所を訪ねることはなかったとある。相当不満があり、当てにもならないと判断したのでしょうね。ここまで読み進めているなかで、役人達の外国人に対する考え方が書かれていない。日本の攘夷のような雰囲気があったのだろうか?それが、横柄な態度となっているのかな。よくわからない。清国人には、親しみをもって接し、日本人は嫌いという記述はあったが、西洋人についてはどうだったのだろうか。

5月3日に一行は、遡ってきた漢江を下り始める。激流に揉まれながら、上りの3分の1の日数で北漢と南漢の分岐点であるマジュに到達している。この辺りでソウルで両替していた葉銭が底をつき、途中何度も両替を試みるも断られ続け、ソウルに引き返そうかと思ったとある。幸いマギョと呼ばれる町で市が開けれていて、そこで行商人と両替を行っている。交換レートは、1円3,000枚。35円分を両替したとあるので、実に葉銭105,000枚にもなる。

葉銭について簡単に調べてみた。葉銭とは「常平通宝」と呼ばれた硬貨のことで数種類あったようです。「小平」と呼ばれた小ぶりのもので1枚の直径は23.0mm、重さ3.6g、「折二」と呼ばれている小平より大きい物では、直径が29.8mm、重さ6.1gもあった。著者らが両替した葉銭が小平であれば、105,000枚の重量は、378キロにもなる。運搬だけで男6人か馬一頭が必要になるわけである。もし大きい折二の方であったなら重量は、640キロあまりにもなる。ちなみにこの常平通宝は、1905年に大阪の造幣局で作られた新しい貨幣と交換され、その枚数は実に12.9億枚であったらしい。
以上参考サイト:「朝鮮の貨幣」

少し物価を書いておく。平均的な収入についての記述がないのでよくわからない。もっとも貨幣経済はほとんど発達していないようで、主に代価を米、穀物、タバコ、労働なでで支払う物々交換が行われていたと記されている。これだけ価値の低い葉銭しかないのである意味仕方がなかったのかもしれません。または、儒教思想が貨幣経済の発達の邪魔をしていたのかもしれません。今の日本で通貨が1円玉しかないのと同じような状態ですね。持ち運びもさることながら、支払い時に数えるだけでも大変です。

1ドル≒1円≒10ペンス≒2シリング≒葉銭3200枚
綿布、20インチ当たり葉銭20枚
キジ1羽、3~4ペンス、葉銭960~1,280枚
鶏1羽、4ペンス、葉銭1,280枚
1泊3食、葉銭200~300枚
結婚披露宴でのお膳、裕福な場合:5~6円、葉銭16,000~19,200枚、質素な場合:全体で75円、葉銭240,000枚
満州シカの角、1対40~60ドル、葉銭12,800~192,000枚
朝鮮馬1頭、最低50シリング、葉銭80,000枚
牝牛1頭、3~4ポンド、葉銭96,000~128,000枚
猟の調教が施されたハヤブサ、9ドル、葉銭28,800枚
船頭キムの契約は、月30ドル、1日1ドルで葉銭3,200枚
ジャンク1艘、60~80ドル、葉銭192,000~256,000枚
南漢江河畔では少量の金が採れると記し、砂金を採っている様子を目撃している。

朝鮮人が金とトラ、いったいどちらの話題のほうで饒舌になるかは、甲乙つけがたいところである。朝鮮人は金の産出国であることを自慢しており、その吹聴のしかたといったら、まるで土ぼこりが砂金であるかのようである!
『朝鮮紀行』-第八章「自然の美しさ/急流」-
しかし、これだけ金の産出を誇りながら、金の装飾具もなく金貨も存在しないと疑問を抱きつつ、税関報告書を見ると日本向けの砂金の輸出量は侮りがたいと述べている。埋蔵量の大きい金鉱として、平康や大同江から遠くない平安道の金山を記している。この情報量の多さ。彼女は何者なのだろうかと思ってしまう。

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