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Sunday, February 12, 2012

Korea and her Neighbors part1 from inside Kotatsu

http://glabel.s56.xrea.com/kotatu/archives/200505/20-2252.php

朝鮮紀行(7)-満州-

[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。

第十四章「牛荘/満州」は、6月21日に済物浦から肥後丸に乗って山東半島の芝罘へ向かうところから始まる。パスポートや公的私的な紹介状、金銭など一切持たず、身一つでの国外退去であったとある。芝罘のイギリス領事館で現金と当面必要な物を借り受け、遼東半島の付け根の牛荘へと向かう。

6月26日には、遼河の河口付近の牛荘に達している。一文無しなのになぜ牛荘へと移動したのだろうか?単なる知的好奇心なのかな?何とかソウルに戻ろうとしていたのだろうか。この後、2ヶ月間満州に滞在することとなる。

満州についての記述が続く。「辮髪」と共に「纏足」も満州族が漢族に強いた制度だと思っていたが、勘違い。「纏足」は漢族の風習だったのですね。纏足を施した女性は、紫禁城には入れないと記されている。以後、満州についての地理や気候、馬賊、民族構成などの記述が続く。

辮髪について少し。『紫禁城の黄昏(下)』の中の「辮髪を自ら切り落とした皇帝」というくだりで、溥儀が自らの手で自分の辮髪を切り落とすエピソードが紹介されている。映画「ラストエンペラー」にも出てくる有名なシーン。溥儀は、宮廷内の古い伝統や因習を振り切る意思表示としての行動で、宮廷内は大騒ぎになった。しかし、当時すでに溥儀の叔父や親王たちは、すでに辮髪を切っていた。溥儀が切り落とすと、待っていたかのように側近達も切り落とし、1ヶ月もしない間に紫禁城で辮髪をしているのは3名だけになったと記されている。

この辮髪は、満州族が異民族を支配している象徴として全臣民に義務付けていたことであるが、時代が下るにつれてその意味合いに変化が生じたようです。

最初のうちは、漢族にとって、この新しい髪形を受け入れるのがいかにも不本意だったとしても、やがて辮髪を大いに誇るようになったのである。もし隷属のしるしと見なしていたら、そのようなことはとても起こりえなかっただろう。
そして革命の時代になり、辮髪を強制的に切らせられると、人々は大いに苦しみ、敵意を抱くこともしばしばだった。満州ではもちろんのこと、シナ北部や西部の地方でも、辮髪は今なお決して珍しいものではない。一時、強制的に辮髪を切らされた人々が、再び伸ばしはじめた地域もある。
『紫禁城の黄昏(下)』 -第十七章「落ち着かぬ龍:辮髪を自ら切り落とした皇帝」-
『朝鮮紀行』に戻る。満州についての次の記述が気になった。

その歴史といい、大胆にも巨大な隣国を長期にわたって征服していることといい、また異民族との多数の原住部族とがまじったその人口構成、鉱山物・農産物の豊富さ、そしてどこか自由闊達な空気といい、満州は非常に興味深い地域で、二ヶ月すごしたあいだ、この地はわたしの心をとらえて放さなかった。
『朝鮮紀行』-第十四章「牛荘/満州」-
上で少し紹介した『紫禁城の黄昏』という清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めていたイギリス人、R・F・ジョンストンの本も平行して読んでいる。この本の中で、1911年の辛亥革命により清朝が崩壊し共和制の中華民国が成立した時に、皇帝は北京を離れ、満州にもどり、そこで中華民国から独立するという流れが自然であったという趣旨に記述がある。実際には、私利私欲に走る皇帝の取り巻きや宦官たちが皇帝が満州に移ることを強靭に反対し、また強力な後ろ盾がなかったために、満州国建国は1932年まで待たなければならなかった。

中国という地域に対して、日本のようにある程度延々とつづいてきた国家というイメージを持ってしまう。実はこの認識は正しくなく清朝は、満州地域の民族が漢族地域、チベット族地域、ウイグル族地域などに進出し形成していた征服国家と認識する必要がある。帝国主義によって拡張し形成されていた国家と言えるかもしれない。

清朝崩壊後に中華民国がその版図全ての領有を宣言したことを乱暴に大英帝国に例えるなら、インドに大英帝国の首都と王宮を遷した後、インドで反政府運動が起こりイギリスの支配から脱し、インド政府がイギリス本土やオーストラリア、カナダを含む全大英帝国全地域をその領土と宣言したようなものである。

このように考えると、現在の中華人民共和国が清朝の版図を正当な領域であると主張するのには少々無理がある気がする。少なくとも、満州、チベット、ウイグル地域を含める正当性は見当たらない。事実、1911年に清朝が倒れると、1912年にチベット、1934年にウイグルが、それぞれ独立を宣言している。

上記のバードやR・F・ジョンストンの記したものを読む限り、当時の西洋人は上のように捉えていたのではという印象を受けた。

中華民国、中華人民共和国が清朝の版図をもって正当な領域であると主張する背景には、清朝の支配が長期間にわたり、その権力と権威があまりにも強大であったということの裏返しなのかもしれないなどと思ったりもします。

第十五章「満州の洪水/奉天」は、取り立てて気になった部分はない。ここでは初めて大きな病を患い、大洪水の惨状などを記してる。7月3日に牛荘を発って、7月8日に奉天に達している。途中で馬車を雇い奉天へ向かっていたが、悪路を走るために方々に体をぶつけ、転覆事故などを起こしながら奉天に入っている。到着後、腕が骨折しているとわかる。本当に凄いな、このおばぁちゃん。

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