http://kekiti.cocolog-nifty.com/blog/cat44201728/index.html
朝鮮通信使 楽団
朝鮮通信使の行列では、道を清める旗の後に打楽器を打ち鳴らす楽士が先導役を果たします。楽士が先導するのは王様の行列の時だけなのが朝鮮王朝のしきたりです。
朝鮮通信使は、王様の書簡を、日本の王(実質的に日本を統治する征夷大将軍)に送り届けるのが一番の目的です。つまり王様の行列と同格なのです。ですから、打楽器群が先導し、後導が二胡や太平蕭、吹螺赤などのメロディ楽器群です。
どのような音楽か聞きたい方は下のWEBサイトの動画で鑑賞してはいかがでしょう。
http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/daechuita.htm 大吹打の動画の人数ほどの行列は、通信使行列ではありません。第1次慶長度の例でいうと、吹笛(指揮者か)1名、吹手12名(上使、副使所属に各6名)です。第2次では吹手は16名になります。上のWEBサイトのような人数はまずありません。朝鮮音楽は、変則拍子ですが行進曲はやはり歩きにくいので2拍子です。上のコンテンツの説明にあるように、現在では演奏される曲は限定されてきています。
日本にはない行列の軍楽隊演奏は日本人にとっては珍しい(大名行列では、したぁにぃーのこえくらいなので)ので多くの見物人が行列を見にきたそうです。
明石藩享保4年の接待記録「朝鮮人明石表通船御用日記」に次のような記録がある。
「9月朔日 御家中触状差出
前半略 妻子等見物ニ罷出候共家内打明不申慥成留守之者差置火之元之儀堅用心加有之候 後略」(明石藩朝鮮国信使接伴記録上巻184頁 明石市教育委員会)
海の上を船で進むのを見るだけで家が空っぽになるのを心配するのですから、陸路の場合はもっとすごいと予想されます。
この図は「羽川藤永筆 朝鮮人来朝図」(神戸市立博物館所蔵)ですが江戸に入った通信使行列を見物している様子を描いたものです。美空ひばりさんの歌にあったように「家を空にしたときに空き巣狙いにやられた家もあった」かもしれません。
右端に軍楽隊が描かれています。太鼓が和太鼓になっています。
http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/autumn2006/newpage2.html
韓国よもやま話 Part4
朝鮮通信使 その三
大阪から淀川をさかのぼった朝鮮通信使の船団は、京の淀で船を下りて長い船旅をおえました。京へむかう道の両側には異国の使節団を一目見ようと、大勢の見物人がつめかけました。
楽隊(部分)
芸能人が多く同行した朝鮮通信使一行のなかで、特に人気をあつめたのは楽隊でした。寛延元年(1624)、三代将軍家光の就任を祝う第三回通信使が来日したおりも、京での宿舎大徳寺には将軍の名代として所司代をはじめ、さまざまな要人が多く訪ねてきました。
楽隊(部分)
そのなかに、天皇の弟と名のる人物が従者をしたがえ、護衛の人たちに守られながら通訳官のいるところにきました。
その後、物めずらしげに見物し、楽隊の演奏を最後まで聞いて帰りました。公家などもおしのびで聞きにくることもたびたびあり、また将軍家光も朝鮮音楽の鑑賞を楽しみにしていました。
楽隊の行列
明暦元年(1655)に来日した第六回朝鮮通信使も、大阪から淀川をさかのぼり、一路京にのぼりました。隊列をととのえ、威儀を正し、軍楽隊を先頭にして行進曲を吹奏しながらすすむと、沿道の両側を埋めつくした観客は、初めて目のあたりにする隣国のエキゾチックな衣装や音楽に歓声をあげました。
洛中洛外図(二条城の前を進む朝鮮通信使)
京都は大阪とならんで幕府の西の拠点でしたので、第一回から三回まで朝鮮通信使は徳川将軍家の名代として畿内を管轄する京都所司代から挨拶を受けました。二回目のときは、将軍秀忠が伏見城滞在のため江戸には行かず、伏見城内で謁見を受けましたが、そのときの秀忠の態度はきわめて丁重で修交実現をよろこぶ感情が率直にあらわされていたといわれています。
朝鮮人街道
京都からは陸路となり、大津をへて、琵琶湖ぞいの浜街道を北上しました。後に「朝鮮人街道」と呼ばれる道です。家康が関ヶ原の戦いに勝ったあと、京にのぼった道なのでえんぎのよい道とされ、ふだんは将軍上洛のときだけ使われて一般の人々の通行は禁じられていました。この道は幕府の最大級のもてなしのコースでした。
琵琶湖図(丸山応震筆)
通信使は1日40キロの行程で江戸にむかいました。琵琶湖は本国に大きな湖のない通信使にとって、出国前より杜甫の詩に詠まれた中国の洞庭湖に比すべき風景と期待していたところでした。近江路には長崎で中国語を釜山で韓国語を学び、対馬藩に仕官して朝鮮外交にあたった雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の生地があります。雨森芳州は現代にも通じるまれに見る国際人でした。
船橋図
彦根を出発した朝鮮信通使の一行は、美濃路に入り往復とも大垣に宿泊します。美濃路には、揖斐、長良、木曾の三大河があり、この川に特別に船を鎖で連結した橋がかけられました。橋の堅固さにはどの使節も感嘆し、費やした労力と金額を想像しました。使用した船は大船44艘、小船230艘、船の上に敷く板は3036枚にのぼり、この船橋は美濃路のハイライトとして、信通使に強烈な
印象をあたえたようでした。
大垣の唐人踊り
通信使が通るところ、さまざまな交流が生まれましたが、大垣でも地元の医師と通信使の医員との筆談による医事問題によって、医療に関連した書物が出版されました。一方朝鮮通信使の滞在によって刺激をうけて秋祭りに登場した朝鮮山車(だし)の曳山行列と唐人踊りは、大垣祭りの呼びものでしたが、現存するのは唐人踊りだけのようです。
朝鮮国書捧呈行列図(部分ー正使)
通信使の次の宿泊地は尾張名古屋、徳川御三家のひとつ61万石の尾張藩は藩をあげての贅をつくしたもてなしをしました。正使ら三使、上々官らの宿舎には東海、北陸から多くの学者、文人、
町人たちが訪れ、夜を徹しての交流がくりひろげられました。
名古屋祭りの唐子車
家康の三回忌から始まった名古屋東照宮の祭礼は盛大な祭りでしたが、行列には、各町から唐人風の衣装をまとった旗持ちや太鼓とかねの楽隊など、通信使にゆかりの行列も登場しました。文政年間(1818-30)につくられた唐子車は、現代の名古屋祭りに引き継がれています。
名古屋祭りの朝鮮通信使の行列
名古屋を出発して東海道を進む朝鮮通信使はまさに外交の一大行列でした。
第一回の朝鮮通信使が通りかかったときは、建設中だった駿府城も、江戸で秀忠と対面して国書の交換をした帰路には完成し、駿府城で家康と和やかな対面をしています。詮議の厳しい箱根の関所をフリーパスで通り過ぎた通信使の一行の眼前に広がった、芦ノ湖と雲の上に姿をあらはす富士山には、「神仙}のおるところ」と感嘆の声をあげています。
いよいよ最終目的地江戸は、朝鮮通信使をむかえるにあたって警備はもちろん、道路、橋の修復、木戸垣根の修繕、一行が通過するとおり筋の清掃と町屋の修繕を命じました。そのころ江戸市中では、南町奉行所の大岡越前守忠相が警備の最終点検と確認を行っていました。
朝鮮国書捧呈行列図(部分)
当日、品川を出発した朝鮮通信使の一行は、幕府から出迎えの先導をうけ、歓迎体制のととのった中、江戸市民たちが正装して待ちかまえる江戸入りとなりました。日本橋をわたり、宿舎である浅草東本願寺へとすすむ通信使の一行は、立錐の余地もない見物する人々の「衣の裾には花がみなぎり、垂れ幕は日に輝く。大阪、京都にくらべて、また三倍を加う。」と感想をのべています。
朝鮮人来朝図
国際的にも国内的にももっとも平和な時代になった江戸時代なかば、江戸はすでに人口100万人の大都市で、市民たちは諸大名の参勤交代行列や、オランダ人、琉球人の行列にも驚かなくなっていました。一方朝鮮通信使の江戸入りにさいしては、「江戸市中の道路は見物客で埋まり、塀を築いたようだ」と朝鮮通信使の正使がその人出の多さに驚いています。
朝鮮国書捧呈行列図(部分)
町屋の軒先に彩色したすだれをたらした見物席は、武士の家族のための桟敷で高い使用料が支払われました。朝鮮通信使一向の到来は、幕府にとってその威信を高めるための行事でしたので、見物が奨励されました。高い席料をはらってまで早くから黒山の人垣がつくられたのは、江戸時代に
おいて、朝鮮だけが心を開いて交わる「通信の国」であったためと言われています。
朝鮮国書捧呈行列図(部分)
朝鮮通信使の行列は、多数の日本人武士を従えた正使、副使をはじめとする使節団に続き、まず踊りや笛や太鼓の演奏があり、5,60人にかつがれた国書を奉じた籠のあと、ふたたびあらゆる楽器を演奏しながら楽隊が登場、しばらく騎馬行列がつづいた最後に朝鮮人と贈り物をつんだ馬が約1000頭つづきました。これらの行列が通りすぎるのに5時間かかったといわれています。
江戸図屏風(入城)
通信使の少なくとも12日から最長30日間の滞在は多忙な日々でした。
本来の目的である国書伝名と饗宴出席、老中との交渉や答礼、馬上才(人馬一体の曲馬)の上演、回答国書の受け取りなど公式行事がつづき、その間をぬって宿舎には文人たちが筆談を求めてやってきあした。
江戸での公私にわたる日朝交流は、この時代の両国の親善を一つ一つつみあげていく基となりました。
江戸図屏風(本丸)
朝鮮王朝の首都、漢城(ソウル)から、はるばる奉じしてきた朝鮮国王の国書は、行列の先頭をきって江戸城内に入ります。江戸城には諸大名が召集され、大名は衣冠束帯、その他は素襖長袴に威儀を正し、本丸大広間から松の間、次の間などに居並んで朝鮮通信使の到着をまちます。やがて
将軍が上段の間に着座します。上意はすべて老中をとおしてつたえられ朝鮮通信使の意向は通訳をとおして対馬藩主宗氏から老中につたえられました。
朝鮮通信使歓待図屏風(部分)
儀式そのものは簡単なもので、国書の伝達がたんたんと進められ、将軍退座のあと、饗宴が開かれ、宴中に能楽が催されてやがて宴はおわります。徳川将軍の回答国書は、担当老中によって通信使の宿舎に届けられ通信使はその内容を確認して国へ持ち帰ります。この他にも老中などの饗宴があり、馬上才の演技が、将軍、諸大名列席の前で披露されました。
朝鮮通信使参入之図(部分)狩野探幽筆
朝鮮通信使は江戸城での公式行事のほか、寛永13年(1636)寛永20年(1643)明暦元年(1655)の3回、日光東照宮遊覧をしています。家光によって改修された東照宮の国賓としての参詣は
当初の予定にないものでしたので、いったんは拒否しました。
しかし明から清への政権交代で、東アジアの情勢下、国難の時代に入っていた朝鮮側は、三代将軍家光の政権安定のための配慮から応じることになりました。
朝鮮通信使参入之図(部分)狩野探幽筆
朝鮮通信使の3回におよぶ日光行きは、江戸時代における将軍との国書交換と並ぶ、重要な外交行事でした。紆余曲折の交渉の結果将軍家光の要望は日光遊覧というかたちで実現し、家光は最大級のもてなしをしました。慶長11年に起きた対馬藩による国書偽造事件の発覚による国際的スキャンダルのダメージも、3回におよぶ朝鮮通信使の日光遊覧によって和らげることができました。
寛永19年(1642)朝鮮より奉納された三具足(日光東照宮)
漢城(ソウル)から江戸、そして日光へは3度、日本列島をほぼ縦断した朝鮮通信使一行は、沿道各地で学問、医学、文化、芸術の民間交流の渦をまきおこした歴史上初めての外交行列でした。秀吉による大儀名文のない戦争、文禄、慶長の役によって打ち砕かれた隣国、朝鮮との友好関係を
願ってはじまった朝鮮通信使は、江戸時代260年間において、12回の来日を果たしています。
最終回は朝鮮通信使の「光と影」を述べたいと思っています。
参考資料
朝鮮通信使絵図集成 辛基秀 講談社
朝鮮通信使の旅日記 辛基秀 PHP研究所
わが町に来た朝鮮通信使参 辛基秀 明石書店
図説朝鮮通信使の旅 辛基秀 明石書店
中尾宏
中尾宏
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