http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/mokuzi.html
江戸城天守(左隻1の中上) 屏風には、家光の盛時を示す意図から江戸城天守が大きく描き込まれている。この天守は江戸城としては 3度目のものとして、寛永15年(1638)に完成した。基壇から上端までの高さは、約60㍍に及んだ。しかし、明暦 3年(1657)の大火の折に焼失し、以後再建されることはなかった。 |
朝鮮王朝通信使の来訪(左隻2の中下) 江戸時代には、朝鮮王朝から通信史が江戸を12回にわたり訪れた。図は、江戸に到着の後、江戸城中に入る直前の様子を描いている。家光の治世下には3回の来訪があったが、のちには将軍の襲職の祝賀に限られていった。 |
家光とおぼしき人物(右隻3の中上) 屏風の画面内容は、家光の一代記ともいえる構成になっている。このため、家光と比定できる人物が諸処に描かれているが、顔を描いたものはない。ご関心のある方は、何ヵ所に登場するか、数えてみたらどうだろうか。 |
寛永寺(右隻4の中下) 東叡山寛永寺は、京の比叡山延暦寺にならい、江戸城東北の鬼門を守護するために創建された。増上寺とともに、徳川将軍家の菩提寺であった。 寺院や神社の境内地は、江戸の総面積の約15%という広大な土地を占めていた。 |
、『徳川実紀』に大手門と明記してありますって。
・「大猷院殿御実紀(徳川家光)
「(寛永元年12月19日)韓使登営す。出仕の輩五位以上衣冠せり。
正使鄭■、副使姜弘重、従事官辛啓栄、大手門より玄関にいたり殿上に伺候す」
「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。
上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」
・「厳有院殿御実紀」(徳川家綱)
「(明暦元年10月8日)韓使引見あり。三使本誓寺より大手門に至る間、三使の先にその国王李淏が書簡(以下略)」
・「常憲院殿御実紀」(徳川綱吉)
「(天和2年8月27日)朝鮮信使引見あり。
本誓寺より大手の門までは宗対馬守義真、并に小笠原信濃守長勝、内藤左京亮義泰が家人等(以下略)」
・「文昭院殿御実紀」(徳川家宣)
「(正徳元年11月30日)韓使引見あり。三家ならびに国持はじめ諸大名布衣以上の諸有司みなまうのぼる。
かの使臣もこたびは聘礼御改更あるをもて、いままでの聘時には着せざるよそひども正して。
大手門にいたるとき、旗仗并に伶人をとどめ、上官以下みな下馬し(以下略)」
http://ccce.web.fc2.com/si/ttsusin.html
韓国の歴史教科書では、江戸時代に朝鮮の使者が日本の首都に訪問すると江戸の野蛮な市民たちが「文化を教えてくれ!」と哀願したとして、韓国の子供たちに誇らしく伝えられいる。
朝鮮通信使?朝貢団?
江戸図屏風(江戸時代に描かれた江戸の様子)
朝鮮通信使の部分を拡大
イザベラ・バード『朝鮮紀行』より
「朝鮮の災いのもとのひとつに この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。 ~慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、 大勢のお供をかき集められるだけ かき集め引き連れていくことになっている。 本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、 伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。 従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」
さらに拡大2(城に入る朝鮮通信使達)
この絵から分かる朝鮮通信使の真実
①江戸の庶民達は朝鮮人を見世物のように見ている。日本人と違う服を着た珍しい奴等が来たと思って見ていたのだろう
②中央の赤い物がある部分に注目。朝鮮通信使達が日本の将軍へ朝貢するための贈り物を出して準備している。虎の毛皮や陶器など。
③朝鮮通信使達が城へ入る門に注目。裏門である。江戸の城や大きな家には門が多くあり、人の位により、入場できる門が変わる。下の大きな門を見て欲しい。位の高い人はこのような門から入る事になる。
朝鮮通信使達は日本へ朝貢に来る下の民族として日本からの扱いを受けていた。
朝鮮通信使達が城に入っている門が裏門である事を見れば理解できる。
日本の一部の儒教の関係者だけが朝鮮通信使に寄って行った。
しかし他の日本人達は見世物として見ていた。
韓国人は朝鮮通信使に多くの日本人達が「文化を教えてくれ!」と近寄って来たと妄言を言うが、大きな間違えである。
朝鮮通信使は日本へ朝貢するために来ていたのである。日本の将軍が交代する毎に、贈り物を持って、何度も長い距離を歩いて、朝鮮と江戸を往復した事を考えれば理解できる。
조선 통신사 (朝鮮通信使)
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