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関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃
関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃02
関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃
関東大震災時に、震災に乗じて赤化テロ・暴動を起こした兇徒(不逞朝鮮人・主義者)がいたことを忘れてはなりません。
こうした暴徒の暴虐行為から自衛し鎮圧するために自警団・警察・軍隊による武力行使がなされました。それは正当防衛と呼ぶべきものですが、戦闘の結果として中には所謂「不逞鮮人」と間違われて死傷した人もいました。
当時の記録を見てみると「不逞(不良の)鮮人」という言葉には「社会主義者・共産主義者(アカ)の朝鮮人で赤化暴力テロを実行した者、あるいはそれに付和雷同し暴虐を行った朝鮮人」という限定した意味が込められています。
彼ら「不逞鮮人」等が行った悪行を「無かったこと」にして、彼らの鬼畜行為、その暴虐行為に対して自衛・応戦したことを「日本人が行った虐殺」呼ばわりするのは明らかに一方的であり公平ではありません。
また当時の日本政府は「朝鮮人・鮮人」という言葉が、あたかも「不逞鮮人」のことを意味するかのように混同して使われて、そのように一般の朝鮮人まで認識されることを恐れていた様子がうかがえます。「三大緊急勅令」でなされた流言蜚語の禁止は言わば「朝鮮人=不逞鮮人←というレッテル貼りになるかのような言説(これをデマとみなす)」の禁止であり、内地人と朝鮮人との間に分裂が生まれることへの警戒でもあると同時に、両者に分裂を作りだす分断工作への対抗でもあったものと思われます。関東大震災時の朝鮮人暴動は事実であるけれども、確かに様々な「デマ」もありました。
そしてその「デマ」は不逞鮮人の暴動に戦慄した日本人がトチ狂って流したのか、混乱が混乱を呼び自然発生したデマなのか、それともさらなる混乱を生み出すため「不逞鮮人」が意図的に流したものなのか、その真相は不明です。
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工藤美代子
関東大震災朝鮮人暴動は「皇太子暗殺」を狙ったテロだった
流言飛語ではなく実話! (歴史通 2012年1月号ワック出版)
より引用
(全文起こし)
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南京虐殺のデマと同じ
平成7年(1995年)に起きた阪神淡路大震災や平成23年(2011年)の東日本大震災時における日本人の規律正しさ、他を思いやる無私の精神は世界の人を驚かせ、称賛の的となりました。大きな略奪も起こらず、整然と行動する罹災者の姿は日本人ならではの美徳です。
しかし、今から88年前の大正12年(1923年)9月1日に関東地方を襲った関東大震災においては、人々は「流言飛語」に惑わされ、何の罪もない朝鮮人を虐殺した---それは日本人の大きな汚点であると言われています。
作家の大江健三郎は「ウルトラナショナリズムの異様な突出」と厳しく批判している。しかし、本当にそれは事実なのでしょうか。
阪神淡路、東日本大震災においてあれほど冷静に行動した日本国民が、関東大震災のときだけ我を失い非人道的な行為に走ったというのでしょうか。虐殺された朝鮮人の数は2,600人とも6,400人とも言われ、果ては23,000人とした文書まで存在します。「南京大虐殺」のデマゴーグを彷彿とさせるではありませんか。
もしかしたら、日本人はとんでもない謀略宣伝の渦に呑まれ、根拠もなくそう信じ込まされてきたのではないでしょうか。
私はあらゆる資料を再検証してその真相を探り「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」(産経出版社2009年)を上梓しました。ここでは、その要点をかいつまんでお話したいと思います。
朝鮮人は何人いたのか
地震発生時刻は9月1日午前11時58分44秒。震源地は相模湾海底、マグニチュード7.9。
軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、大規模な火災の発生によって未曾有の大被害を受けました。
関東全域の被害はおおむね次の通りです。
死者・行方不明者 105,385人 (約10万5千)
家屋全壊 128,000戸
家屋半壊 102,000戸
家屋全焼失 447,000戸
避難人数 190万人以上
そして東京の総被害状況は・・。
死者 58104人 (本所・深川両区の死者 51168人)
全半焼家屋 1,383,849戸
倒壊家屋(焼失しなかったもの) 11842戸
行方不明(大正14年5月現在) 10556人
(内務省調査資料「東京府大正震災誌」など)
では、震災当時の東京における人口、および在日した朝鮮人の人口はどれくらいだったのか。
東京市15区部人口 約226万5千人
郡部人口 約174万人
合計 約405万人
全国に在日した朝鮮人人口80617人
(内務省警保局統計)
このうち、震災時の東京には何人の在日朝鮮人がいたのか。季節労働者や、住所不定者などが多かったため、正確には解りませんが、政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千、学生3千)とされています。(「現代史資料6」朝鮮総督府警務局文書)。横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人。夏休みで帰郷していた学生がこのうち2200人(東京1800、その他400)と推定され、差し引き9800人が東京・横浜附近にいた。これは多くの関係資料が認めるところです。ただし、「多くの虐殺があった」と主張する関係書では、在日の全朝鮮人数、東京および近郊在住の朝鮮人数ともに、これより多めの数字があげられています。
問題は、この1万人弱のうち、「虐殺」があったとすれば、何人が殺されたのか、地震で死んだ朝鮮人は何人なのか、関東を脱出した者は何人いたのか、ということです。
掠奪強姦をくりかえす
朝鮮人襲撃説の発端は、「朝鮮人が震災に乗じて殺人、強姦を行い、井戸に毒を入れるらしい」という情報が横浜から広まったことでした。東京市内にその情報が入ってきたのはおおむね二日の夕刻以降です。しかし、それは本当に今日まで伝えられているような「流言蜚語」だったのでしょうか。実は、無数の目撃談が報じられていたのです。
9月3日・4日の新聞には
「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」
「鮮人、至る所めったぎりを働く二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」
「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警カイ員が発見して直ちに逮捕した」(いずれも「東京日日新聞」)
などの記事が登場します。
横浜では、朝鮮人およそ二千人が掠奪と強姦をくりかえし、軍隊の出動もままならないので、監獄の囚人を解放して、看守の指揮のもとでこれに対抗して大戦闘になり、朝鮮人百余人をたおした、という証言があります(「河北新報」)
また品川では、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した三百人ほどの朝鮮人が押し寄せて爆弾を投げて暴れ、住民が防戦するうち、第三連隊が出動して鎮圧したが、朝鮮人と間違えられて殺された日本人もかなりいたという証言もありました(「北海タイムス」)。
こうした証言はあげれば切りがないほどです。しかし、どの報道も抑え込まれ、「無実の朝鮮人が虐殺された」という主張におおいつくされてしまうのです。
この大地震の発生以前も、まるでその予兆であるかのように、日本は激動のさなかにありました。
大正10年11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺されました。その直後、大正天皇の「御不余」(御不例)の発表と同時に、皇太子裕仁親王を摂政とする詔勅が出されます(ちなみに震災当日、天皇は日光田母沢でご療養中でした)。原内閣のあとを引き継いだ高橋是清内閣も翌年6月、閣内不統一によりわずか半年足らずで瓦解。さらに、後継の加藤友三郎首相は8月24日に急死してしまいます。
次期首相には大地震の4日前の8月28日午後、海軍大将山本権兵衛に二度目の大命が下りました。
朝鮮人の犯罪が多発
天皇の御不例が巷間噂されはじめた大正6年(1917年)10月にはロシア革命が成立して、労働運動の波が朝鮮半島をも席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって、日本本土でも社会主義・共産主義が勢いを得ました。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが大正8年(1919年)3月、韓国における「三・一独立運動」です。暴動は鎮圧されましたが、同年9月12日、テロリストによる総督府爆弾投擲事件が発生。犯行は組織的テロ集団「義烈団ウイヨルダン」の金益相(キムイクサン)によるものとわかり、金は上海で逮捕されました。
独立運動の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満洲の間島(現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備をはじめます。
別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指しました。以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事件、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発します。
地震発生直後から自警団が組織されたのは、そういう社会不安が背景にあったからかもしれませんが、自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、江戸時代の「自身番」からつづく我が国の慣習です。そこへ朝鮮人襲撃の情報が入ってきたのですから自衛に立ち上がるのは当然でしょう。
なぜ「皇太子暗殺」か
この震災のため、11月17日に予定されていた御大典、摂政宮(皇太子)と久宮良子女王の御婚儀も、摂政宮の御要望によって延期となりました。
摂政宮は一刻も早く市内の惨状視察と慰問を兼ねた行幸を実現させたいと側近を急かせていました。けれど、宮中には戒厳令司令部からとくに厳しい規制と警戒が届いていた。朝鮮人の襲撃が万が一にもあってはならないからです。
この年の4月、皇太子は軍艦「金剛」で台湾行啓に赴きましたが、このときすでに「義烈団」のテロ行為が危ぶまれていました。「義烈団」は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていましたが、結果として、厳重な警戒態勢が功を奏し、ぶじ台湾視察から帰国できました。
しかし、「義烈団」をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていたのです。摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていました。
目標達成のため日本国内への侵入をくりかえし、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその庇護を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていたと考えられます。とはいえ、いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策されていました。ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大震災が、まだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたようです。
本所深川あたりから避難してきた罹災者約3千名が集まっていた越中島の糧秣廠(りょうまつしょう)を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は11月27日の御大典だったが、大震災が起こって予定どおり行われるかどうかわからなくなったので、大震災という好機を逸すべからずと決断したとのことでした。同じように「目標は御大典だったが、大震災に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったようです。
朴烈・金子文子逮捕
9月3日、戒厳令発令直後の東京淀橋警察署は朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人金子文子を逮捕した。朴烈は御成婚の折に皇太子をはじめ政治経済界の大物たちを爆殺する計画をたてていました。
こうした大胆な計画の実行と資金調達は組織力や指導部なしに実行することはできません。いかに朝鮮独立運動の志が堅いとはいえ、抗日パルチザンの主力は満洲北辺の間島と上海にいるのですから、内地にも有力な支援組織があると考えるのが当然でしょう。
黒龍会の主宰者内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物です。彼は、それを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮独立運動家の背後にいるのは社会主義者であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者と朝鮮人を扇動し、社会主義者と朝鮮人は気脈を通じ合っていると指摘しました。
その言葉どおり、大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり」と喜んだといいます。(「現代史資料6」)
「義烈団」の団長金元鳳(キムウオンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせました。「義烈団」は保管していた爆弾50個を安東(アンドン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチしています。
市民に厳重な警戒を求めるよう報道を指揮してきた内務省ですが、震災翌日には風向きが変わりはじめます。最初の異変は「東京朝日新聞」の4日付手書き号外に現われました。
「武器を持つ勿れ 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイヂメてはならぬ」
ほぼ同じ内容の「善良な鮮人を愛せよ」という告示が翌朝、他紙にも掲載されます。これらの記事では、朝鮮人の襲撃がなかったとは一言も書いていませんが、戒厳令が発令された以上は軍にまかせて市民は武器を持つな、善良な朝鮮人もいるのだから、そういう者は敵視するなという限定した意味が込められています。
はじめのうちはそのようにゆるやかな表現でしたが、それが一転、強制力をもった指令の形をとるようになりました。9月6日に「三大緊急勅令」なるものが公布され、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰するという強硬手段に出たのです。
ミソもクソも「強制連行」に
同時に一般朝鮮人への保護具体策が次々にとられました。市内の朝鮮人を千葉県習志野、および下志津の兵舎に収容し、衣食住と医療を安定させました。朝鮮人収容能力は1万5千人分にも達しました(これは収容能力であって、実際に収容された人数ではありません)
ところが、それさえ歩かされて「強制連行」されたと主張する史料が多いのです。自動車などあるはずがないではありませんか。市民への食糧、医薬品、警備に使う車さえこと欠き誰もが歩いていたのです。
新聞は手のひらを返したように、「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕」「鮮人に救はれた老婆」などという朝鮮人の“美談”を載せ始めましたが、「道路工事」というのは要するに道路の障害物を取り除く作業です。有料で震災のあとかたづけをする日本人がいたとしたら教えてほしいものです。
こうした一連の措置は、内務相兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平の発案によるものでした。後藤は、「朝鮮人の暴動があったことは事実だが、このまま自警団にまかせて力で押しづぶせば、彼らはそのままでは引き下がらないだろう。その報復の矢先が万が一にも御上(皇室)に向けられたら大変なことになる」と、当時、警視庁官房主事であった正力松太郎に語ったといいます。やはり、皇太子暗殺の懸念が強かったのでしょう。
やむを得なかったとといえばその通りなのですが、こうして朝鮮人の暴動はなかったこと、あるいはデマだった、「流言蜚語」に惑わされたのだ、という虚構にすりかえられていったのです。
死体がないのに「虐殺」
やはり朝鮮人による暴動はあった、それも皇太子暗殺という恐るべき計画が進められていたのだということがはっきりしたうえで、では、どれだけ「朝鮮人虐殺」が行われたというのか、表面に表れてきた数字を見ていくことにしましょう。
多くの朝鮮独立独立運動家が結集していた上海の大韓民国臨時政府が発行する機関誌「独立新聞」が報じた数は6,419人です。これは多くの関係書に翻訳引用され、「虐殺人数の原典」扱いされているものですが、ここには「屍体を発見できなかった同胞」実に2,889人としています。死体が発見されないまま、それを「虐殺された」と主張してカウントするのは道理が通りません。それは「行方不明者」であって、「行方不明だから殺された」というのは非論理的です。震災によって圧死したか、焼死したと考えるのが当然でしょう。
「屍体を発見した」とされる1,274人も、殺害されたのか震災による死体なのかの判断はどうしたのか。どうやって日本人と朝鮮人の死体を見分け、どうやってカウントしたのか、さっぱり要領を得ない。「同胞同志の勘で被害者を集計したものもある」とある調査員自身が告白しています。すべてがこの調子です。
「独立新聞」とは別に、学生を中心とした「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」に所属する崔承万(チェスンマン)の調査によれば、虐殺された人数は「2,607人または3,459人」となっています。「または」という根拠薄弱な表記や、500人、80人、200人といった大雑把な内訳の数字をみただけも、その信憑性を疑わざるを得ません。
ところが、大正時代を代表する民本主義者として著名な吉野作造が主張する2,613人という数字も、崔承万の調査をもとにしているのです。
もう一つ、私は取材の過程でロンドン・ナショナル・アーカイブスから新たな資料を発見しました。それは横浜の英国総領事が郵送で受け取った「朝鮮独立運動の朝鮮人」発行の小冊子とチラシで、そこには関東大震災時に23,059が虐殺されたと記載されています。この途方もない異常な数字は、まさに「南京大虐殺」のプロパガンダさながら。世界に向けて彼らが日本を陥れようとしていたことがうかがえます。
もっとも、「(その内容は)筆者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます」という在京イギリス大使の添え書きがるので、これはまともに受け取られなかったようです。
前述したように、震災直後に東京およびその周辺にいた朝鮮人の総人口は9,800人。そのうち、3,169人が習志野の陸軍廠舎に、2,500人が市内各警察署に、617人が目黒競馬場に、471人が埼玉・栃木の各警察署に、40人が神奈川県庁にそれぞれ収容保護されていました。ここまでで6,797人。その収容中の待遇に不平不満をいいつのり「飯がまずい」「強制連行された」「扱いが乱暴だった」と口々に文句を並べた記録が残されています。しかし、保護された朝鮮人は食糧を与えられ、テントで雨露がしのげました。一方、被災した日本人の大多数は野宿をしたり、食糧も不足し、トイレもない生活を強いられていたことを忘れてはなりません。
さて、戒厳令司令部は自警団等による過剰防衛容疑の日本人367人を起訴しています。その調査に基づいて、殺害された無辜の朝鮮人の人数は233人であると公表されました。さらに、朝鮮人と間違えられて殺害された日本人57名、中国人4名となっています。
東京およびその周辺にいた朝鮮人の人口9,800人からこの無辜の被害者数233人を差し引くと2,770人となります。このなかに、不幸にして震災の犠牲になった者や行方不明者が含まれるはずです。
震災の朝鮮人死者はゼロ!?
東京府全体の死者、行方不明者は7万人余(死者総数は10万5千人余)、下町界隈の死者は実にその80%といわれ、朝鮮人も多く居住していた本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えています。
本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼりました。多くの朝鮮人の家屋はおそらく耐震性も低く、劣悪な環境だったと推察されるので、それより多めの20%を対人口死亡率とし、被災基礎人口9,800人に乗ずると、1,960人という数字が死者、行方不明者として算出されます。
2,770人からこれを引けば810人となり、これがテロリストやその賛同者、または付和雷同して殺害されたおよそその人数と推定していいでしょう。
収容保護された6,797人、政府発表の被殺害者数233人に加えて、「独立新聞」の主張する被殺害者数6,419人を加えてみると、それだけで、13,449人にふくれあがる。都合13,449人の朝鮮人が「殺害ならびに強制連行された」とすると、あの大震災によって死亡した朝鮮人は一人もいないことになってしまいます。
仮に崔承万の調査による2,607人余を加算しても9,613人となり、震災による朝鮮人死者はやはりほとんどいないことになる。
いったい、吉野作造や松本清張、大江健三郎、吉村昭といった「朝鮮人虐殺」を糾弾した学者や作家たちは、この単純な数字のトリックに気づかなかったのでしょうか。
市民の自衛は正義の戦い
日本人と朝鮮人の衝突は不幸な事件であることは事実ですが、もとはといえば、横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団をはじめ、多くのテロリストが目の前に現れたゆえの結果です。ゲリラと呼んでもいいでしょう。自警団は自らの命をかけて、民族独立のためには手段を選ばない、皇太子暗殺さえ計画していた朝鮮人テロリストの襲撃から町を、家族を守ったのです。そうでなければ、組織的な主義主張をもって日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ、町の破滅が国家への破滅へと進んだに違いありません。これは正義の戦いです。
もう「朝鮮人虐殺」という謀略宣伝から日本人は自由になるべきです。
ちなみに、この年の11月23日、摂政宮は新嘗祭において初めての重要な祭祀を執り行いました。この時、警備の武官たちは儀礼用のサーベルではなく、太身の日本刀に替えるよう奈良侍従武官長から命じられています。まだまだ安心は出来なかったのです。
そして12月27日、第48回通常国会の開会式に臨むため議事堂に向かう摂政宮を乗せた車に、一人の男がステッキに仕込んだ散弾銃で皇太子の車に向けて発砲しました。犯人は社会主義にかぶれた難波大助という青年で、過激派朝鮮人とは無関係でした。
この事件をきっかけに、震災特別内閣ともいえる山本内閣は総辞職し、その使命を終えます。我が国の国体そのものを破壊しようとしたコミンテルンの方針の下にテロ集団が押し寄せてきた、というのが実態なのです。
数千人を虐殺した、などという数字の根拠は皆無で、単なる謀略宣伝にしか過ぎないことがおわかりいただけたと思います。
관동 대지진 조선인 폭동은 헛소문이 아니고 실화! 조선인 테러리스트의 습격
관동 대지진 때에, 지진 재해에 타서 적화 테러·폭동을 일으킨 흉도(불령 조선인·주의자)이 있었던 것을 잊어서는 안됩니다.
이러한 폭도의 포학행위로부터 자위해 진압하기 위해서 자경단·경찰·군대에 의한 무력행사가 행해졌습니다. 그것은 정당방위라고 불러야 할 것입니다만, 전투의 결과로서 중에는 소위 「불-逞아키라(鮮)인」이라고 틀려져서 사상한 사람도 있었습니다.
당시의 기록을 보아 보면 「불령(불량의) 아키라(鮮)인」이라고 하는 말에는 「사회주의자·공산주의자(적색)의 조선인으로 적화 폭력 테러를 실행한 사람,혹은 그것에 부화뇌동 해 포학을 한 조선인」-이라고 하는 한정한 의미가 담아져 있습니다.
그들 「불령 아키라(鮮)인」등이 간 악행을 「없었던 것」으로 해서, 그들의 귀축행위, 그 포학행위에 대하여 자위·응전한 것을 「일본인이 간 학살」큰 소리로 부르는 것은 분명히 1-분적이어서 공평하지 않습니다.
또 당시의 일본정부는 「조선인·아키라(鮮)인」이라고 하는 말이, 마치 「불령 아키라(鮮)인」을 의미할 것 같이 혼동해서 사용되고, 그렇게 일반의 조선인까지 인식되는 것을 두려워하다 -て 있었던 모양을 알 수 있습니다. 「3대긴급칙령」에서 행해진 유언蜚단어의 금지는 이른바 「조선인=불령 아키라(鮮)인←이라고 하는 상표(label) 붙이러 될 것 같은 언설 (이것을 헛소문으로 간주한다)」의 금령-止이며, 내지인과 조선인과의 사이에 분열이 생기는 것에의 경계이기도 함과 동시에, 양자에 분열을 만들어 내는 분단 공작에의 대항이었던 것이라고 생각됩니다. 관동 대지진 때의 조선인 폭동은 사실이지만, 확실히 여러가지 「헛소문」도 あ-り 늘었다.
그리고 그 「헛소문」은 불령 아키라(鮮)인의 폭동에 전율 밑 일본인이 미쳐서 흘려보낸 것인가, 혼란이 혼란을 불러 자연 발생 밑 헛소문인가,그렇지 않으면 한층더 혼란을 만들어 내기 위해서 「불령 아키라(鮮)인」이 의도적으로 흘려보낸 것인가, 그 진상은 불분명합니다.
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구도(工藤) 미요코(美代子)
관동 대지진 조선인 폭동은 「황태자암살」을 노린 테러이었던 유언 비어가 아니고 실화! (역사통2012년1월호 왁크 출판)보다 인용(전문 일으켜)
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난징(남경)(Nanjing) 학살의 헛소문과 같다
1995년 (1995년)에 일어난 한신(阪神) 아와지(淡路) 대지진 재해나 2011년 (2011년)의 동일본 대지진 재해 때에 있어서의 일본인의 규율 옳음, 기타를 배려하는 무사의 정신은 세계의 사람을 놀라게 하고, 칭찬의 표적이 되었습니다. 큰 약탈도 일어나지 않고, 정연히 행동하는 이재민의 모습은 일본인만의 미덕입니다.
그러나, 지금부터 88년전의 다이쇼(大正)12년(1923년) 9월1일에 관동(關東)지구를 습격한 관동 대지진에 있어서는, 사람들은 「유언 비어」에 현혹되고, 아무런 죄도 없는 조선인을 학살했다 --- 그것은 일본인의 큰 오점이다라고 말해지고 있습니다.
작가의 오에(大江) 겐자부로(健三郎)는 「울트라내셔널리즘(ultranationalism)이 이상한 돌출」이라고 엄격하게 비판하고 있다. 그러나, 정말로 그것은 사실입니까?
한신(阪神) 아와지(淡路), 동일본 대지진 재해에 있어서 저것 정도 냉정히 행동한 일본 국민이, 관동 대지진의 때만 나를 잃어 비인도적인 행위로 빠졌다고 합니까? 학살된 조선인의 수는 2, 600명 모두 6, 400명 모두 일컬어져, 결국에는 23, 000명으로 한 문서까지 존재합니다. 「난징(남경)(Nanjing)대 학살」의 데마고그(Demagog)를 상기로 시키지 않습니까?
어쩌면, 일본인은 터무니없는 모략선전의 소용돌이에 압도되어, 근거도 없고 그렇게 굳게 믿게 해 온 것이 아닙니까?
나는 모든 자료를 재검증해서 그 진상을 몰래 살피어 「관동 대지진 조선인 학살의 진실」 (산께이(産經) 출판사2009년)을 출판했습니다. 여기에서는, 그 요점을 요약해서 이야기하고 싶다고 생각합니다.
조선인은 몇명 있었던 것인가
지진발생 시각은 9월1일 오전 11시58분44초. 진원지는 사가미만(相模灣) 해저, 매그니튜드(magnitude) 7.9.
연약한 지반에 가옥이 밀집하는 도쿄(東京) 변두리일대는, 지진에 의한 도괴에 머물지 않고, 대규모 화재의 발생에 의해 사상 처음인 대피해를 입었습니다.
간토(關東) 전역의 피해는 대체로 다음과 같습니다.
사망자·행방불명자 105, 385명 (약10만5000)가옥전괴 128, 000호 가옥반괴 102, 000호 가옥 전소실 447, 000호 피난 인원수 190만명이상
그리고 도쿄(東京)의 총피해상황은 ··.
사망자 58104명 (혼조(本所)·후카가와(深川) 양쪽구의 사망자 51168명)전반소 가옥 1, 383, 849호 도괴 가옥(소실하지 않은 물건) 11842호 행방불명(다이쇼(大正)14년5월 현재) 10556명 (내무성조사 자료 「도쿄(東京) 부(府) 다이쇼(大正) 지진 재해지」등)
그러면, 지진 재해 당시의 도쿄(東京)에 있어서의 인구,및 일본에 거주한 조선인의 인구는 어느 만큼이었던 것인가?
도쿄(東京)시 15구부인 구두계약 226만5000명 군부인 구두계약 174만명 합계 약405만명 전국에 일본에 거주한 조선인 인구 80617명 (내무성警다모쓰(保)국 통계)
이 중, 지진 재해 때의 도쿄(東京)에는 몇명의 재일 조선인이 있었던 것인가? 계절 노동자나, 주소부정자등이 많았기 때문, 정확하게는 알지 않습니다만, 정부의 계산에서는 도쿄(東京) 거주자는 약 9000명 (노동자 6000, 학생 3000)로 여겨지고 있습니다. (「현대사자료6」조선 총독부경무국 문서). 요코하마(橫浜) 이외 도쿄(東京) 근현에는 3000명이 살고 있었으므로, 합계1만2000명. 여름방학으로 귀향하고 있었던 학생이 이 중 2200명 (도쿄(東京) 1800,기타 400)이라고 추정되어, 진퇴 9800명이 도쿄(東京)·요코하마(橫浜) 부근에 있었다. 이것은 많은 관계 자료가 인정하는 바입니다. 단, 「많은 학살이 있었다」라고 주장하는 관계서에서는, 재일의 전조선 인원수, 도쿄(東京) 및 근교재주의 조선 인원수 모두, 이것보다 좀 많은 숫자가 들어져 있습니다.
문제는, 이 1만명약 가운데, 「학살」이 있었다로 하면, 몇명이 죽음을 당한 것인가, 지진으로 죽은 조선인은 몇명인가, 간토(關東)를 탈출한 사람은 몇명 있었던 것인가,라고 하는 것은 한다.
약탈 강간을 되풀이한다
조선인 습격설의 발단은, 「조선인이 지진 재해에 타서 살인, 강간을 하고, 우물에 독을 넣을 모양이다」라고 하는 정보가 요코하마(橫浜)에서 널리 퍼진 것이었습니다. 도쿄(東京) 시내에 그 정보가 들어온 것은 대체로 2일의 저녁때이후입니다. 그러나, 그것은 정말로 오늘까지 전해지고 있는 것 같은 「유언蜚단어」이었던 것입니까? 사실은, 무수한 목격 담이 보고되고 있었던 것입니다.
9월3일·4일의 신문에는 「불령 아키라(鮮)인 각처에 방화해 제도에 계엄령을 선포한다」 「아키라(鮮)인, 도처째 끓기를 일하는 200명 제외칼 해서 집합 경관대와 모순된다」 「3일 아침 두사람づれ의 아키라(鮮)인이 우물에 고양이 이리(入)들 ず을 투입하지 않는다로 하는 현장을 警조개원이 발견해서 즉시 체포했다」 (모두 「도쿄(東京) 일일신문(日日新聞)」)등의 기사가 등장합니다.
요코하마(橫浜)에서는, 조선인 대충 2000명이 약탈과 강간을 되풀이하고, 군대의 출동도 뜻대로 되지 않으므로, 감옥의 죄수를 풀고, 간수의 지휘의 밑에서 이것에 대항해서 대전투가 되고, 조선인 100다른 사람을 쓰러뜨린,이라고 하는 증언이 있습니다 (「가와키타(河北) 신보」) 또 시나가와(品川)에서는, 요코하마(橫浜) 방면에서 총이나 일본도로 무장한 300명 정도의 조선인이 몰려 들어서 폭탄을 던져서 난폭하게 굴어, 주민이 방전하는 동안, 제3연대가 출동해서 진압했지만, 조선인과 잘못할 수 있어서 죽음을 당한 일본인도 상당히 있었다고 하는 증언도 있었습니다 (「북해 타임스」).
이러한 증언은 들면 한이 없을 만큼입니다. 그러나, 어느 보도도 눌러져, 「무죄의 조선인이 학살되었다」라고 하는 주장에 덮어버려져버리는 것입니다.
이 대지진의 발생이전도, 마치 그 예조인 것 같이, 일본은 격동의 한창 때에 있었습니다.
다이쇼(大正)10년11월4일, 하라 다카시(原敬) 수상이 도쿄(東京)역에서 암살되었습니다. 그 직후, 다이쇼(大正) 천황의 「불여」 (불예(병환중))의 발표와 동시에, 황태자 유타카(裕) 히토시(仁) 친왕을 섭정으로 하는 조칙이 내놓습니다 (연유하러 지진 재해 당일, 천황은 햇볕논어머니 골짜기에서 요양중이었습니다). 원내각의 뒤를 이어받은 다카하시(高橋) 고레키요(是淸) 내각도 다음해 6월, 각내불통일에 의해 불과 반년못 되어서 와해. 게다가, 후계의 카토유사부로 수상은 8월24일에 급사해버립니다.
차기수상에게는 대지진의 4일전의 8월28일 오후, 해군대장 야마모토(山本) 곤베에(權兵衛)에게 두번째의 대명이 내렸습니다.
조선인의 범죄가 다발
천황의 불예(병환중)이 (거리)시가간 소문이 나지기 시작한 다이쇼(大正)6년(1917년) 10월에는 러시아 혁명이 성립하고, 노동운동의 물결이 한반도(朝鮮半島)도 석권하고, 다이쇼(大正) 데모크라시(democracy)의 풍조에 타고, 일본본토에서도 사회 주의·공산주의가 기세를 얻었습니다.
러시아 혁명의 성공으로부터 코민테른 창립에의 일련의 추세가 민족주의와 하나가 되어서 발화된 것이 다이쇼(大正)8년(1919년) 3월, 한국에 있어서의 「3·1독립 운동」입니다. 폭동은 진압되었습니다만, 같은 해 9월12일, 테러리스트에 의한 총독부폭탄투척 사건이 발생. 범행은 조직적 테러 집단 「의열단 위 요르단」의 돈이익상(【기무이쿠산】)에 의한 것이라고 알고, 금은 상해에서 체포되었습니다.
독립 운동의 중심인물들은 상해에 일단 상륙하고, 만주의 마지마(間島)(현·중국 지린성 동부, 러시아, 북한을 서로 향하는 일대)에서 변경해서 무장 투쟁의 준비를 시작합니다.
별도의 한 무리는 일본을 운동 거점에 정하고, 밀입국해서 조선 독립과 사회 주의 운동의 확대를 목표로 했습니다. 이래, 일본에 있어서의 조선인의 범죄가 신문에 실리지 않는 날은 없다라고 말해도 좋은 정도, 활동 자금조달을 위한 현금강탈 사건, 수상관저의 폭파 습격 미수사건등이 다발합니다.
지진발생 직후로부터 자경단이 조직된 것은, 그러한 사회 불안이 배경으로 있었기 때문일지도 모르겠습니다만, 자신이 사는 마을 내는 가능한 자력으로 지킨다고 하는 전통은, 에도(江戶) 시대의 「자신번」으로부터 계속되는 우리나라의 관습입니다. 거기에 조선인 습격의 정보가 들어온 것이기 때문에 자위에 일어서는 것은 당연하지요.
왜 「황태자암살」인가
이 지진 재해 때문에, 11월17일에 예정되고 있었던 대전, 섭정궁(신사)(황태자)과 구구우(久宮) 요시코(良子) 여왕의 혼예도, 섭정궁(신사)의 요망에 의해 연기가 되었습니다.
섭정궁(신사)는 한시라도 빨리 시내의 참상시찰과 위문을 겸한 출행을 실현시키고 싶으면 측근을 서두르게 하고 있었습니다. 그렇지만, 궁중에는 계엄령사령부로부터 특히 엄격한 규제라고 경계가 전해지고 있었다. 조선인의 습격이 만일에도 있어서는 안되기 때문입니다.
이 해의 4월, 황태자는 군함 「금강」에서 대만 행계에 갔습니다만, 이 때 이미 「의열단」의 테러 행위가 걱정되고 있었습니다. 「의열단」은 대만에서 일찍부터 황태자암살 계획을 짜고, 단원은 모두 권총을 휴대해 폭탄부대도 편성되고 있었습니다만, 결과로서, 엄중한 경계태세가 공을 이루고, ぶじ대만 시찰로부터 귀국할 수 있었습니다.
그러나, 「의열단」을 비롯한 조선인 과격파는 황태자암살을 포기한 것은 아니고, 사실은 섭정궁(신사)의 혼예의 기회를 호시탐탐이라고 노리고 있었던 것입니다. 섭정궁(신사)를 암살하고, 일본의 국체를 뒤흔들 수 있어서 독립 운동의 승리에 결부시키자고 하는 조선 독립 운동가들의 꾀는 정부도 거듭해서 알고, 경계를 강화하고 있었습니다.
목표달성 때문에 일본국내에의 침입을 되풀이하고, 시기를 엿보고 있었던 상해의 대한민국 임시정부와 그 비호를 받은 테러 집단에도 노선을 둘러싼 당파다툼이 있어, 그 결과, 몇 가지에 분열된 집단은 각각에 계획을 짜고, 일본 내지습격을 노리고 있었다고 생각됩니다. 이라고는 해도, 어느쪽의 분파도 목표의 제1는 섭정궁(신사)의 성혼 당일, 그것도 섭정궁(신사) 바로 그것을 목표라고 해서 일제히 폭동을 일으키는 것이 획책되고 있었습니다. 그런데, 테러리스트 집단마저 예상도 하지 않은 대지진 재해가, 아직 준비가 가지런해지지 않는 9월1일에 일어나버렸다. 그들에 있어서도 상정외의 혼란이 생긴 것 같습니다.
혼조(本所) 후카가와(深川)당에서 피난해 온 이재민 약3000명이 모이고 있었던 엣추지마(越中島)의 군량廠(료 소나무 짊어진다)을 폭파하고, 많은 피난민을 살해해서 체포된 조선인 테러리스트의 증언에 의하면, 목표는 11월27일의 대전이었지만, 대지진 재해가 일어날 예정대로 행하여질 것인가 아닌가 모르게 되었으므로, 대지진 재해라고 하는 호기를 놓치지 말것이라고 결단한 것이었습니다. 같이 「목표는 대전이었지만, 대지진 재해에 타서 것을 일으켰다」라고 자백한 테러리스트는 상당히 많았던 것 같습니다.
박열·가네코(金子) 후미코(文子) 체포
9월3일, 계엄령발령 직후의 도쿄(東京) 요도(淀) 다리경찰서는 조선인 무정부주의자 박열과 그 애인 가네코(金子) 후미코(文子)를 체포했다. 박열은 성혼의 때(시기)에 황태자를 비롯해 정치경제계의 거물들을 폭살하는 계획을 세우고 있었습니다.
이러한 대담한 계획의 실행과 자금조달은 조직력이나 지도부없슴에 실행할 수는 없습니다. 아무리(어떻게) 조선 독립 운동의 뜻이 단단하다고는 해도, 항일 빨치산의 주력은 만주 북녘북 변의 마지마(間島)와 상해에 있는 것이기 때문에, 내지에도 유력한 지원 조직이 있다고 생각하는 것이 당연하지요.
흑용회의 주재자 우치다(內田) 료해이(良平)는, 지진 재해 때에 있어서의 조선인의 모략을 재빨리 고발한 인물입니다. 그는, 그것을 정부에 호소한 문장의 안에서, 조선 독립 운동가의 배후에 있는 것은 사회주의자이며, 일본의 적화 운동을 노리는 러시아가 일본의 사회주의자와 조선인을 선동하고, 사회주의자와 조선인은 기맥을 통하고 있다고 지적했습니다.
그 말대로, 대지진 재해의 뉴스를 들은 조선의 과격파노동자집단은 「공산주의를 고취하는 사람及之등에 따라 조직해져된 각종의 노동 단체는, 이번의 지진 재해는 지진의 피해보다 之에 반(伴)ふ화재의 손해가 최막대한 모양 되지만, 화재는 우리들과 뜻을 동(同) 덮는 주의자 동인이 혁명 때문에 방화해된에 따르는 것이든지」라고 기뻐했다고 말합니다. (「현대사자료6」) 「의열단」의 단장 김원봉(【기무온본】)은 지진 재해의 8일후의 9월9일, 일본의 민심동요를 호기라고 잡고, 부하를 모아서 텐진에서 도쿄(東京)에 향시켰습니다. 「의열단」은 보관하고 있었던 폭탄 50개를 안도(安東)(안동·한국 경상북도(慶尙北道)의 일본해에 가까운 도시)에 발송했다고 하는 정보를 경무국이 캐치하고 있습니다.
시민에게 엄중한 경계를 요구하도록 보도를 지휘해 온 내무성입니다만, 지진 재해 다음날에는 풍향이 변하기 시작합니다. 최초의 이변은 「도쿄(東京) 아사히신문」의 4일자 손으로 쓴 호외에 나타났습니다.
「무기를 가지는 금지 조선인은 전부가 나쁜 것이 아니다. 아키라(鮮)인을 부당하게 【이지메】て은 안된다」 거의 같은 내용의 「선량한 아키라(鮮)인을 사랑해라」라고 하는 고시가 다음날 아침, 다른 종이에도 게재됩니다. 이 기사에서는, 조선인의 습격이 없었다고는 한마디도 쓰고 있지 않습니다만, 계엄령이 발령된 이상은 군에 맡겨서 시민은 무기를 가지지 마라, 선량한 조선인도 있는 것이기 때문에, 그러한 사람은 적대시하지 마라라고 하는 한정한 의미가 담아져 있습니다.
처음은 그렇게 완만한 표현이었습니다만, 그것이 일전, 강제력을 가진 지령의 형을 취하게 되었습니다. 9월6일에 「3대긴급칙령」되는 것이 공포되어, 조선인 내습 기사를 유포하면 처벌한다고 하는 강경수단에 나간 것입니다.
된장도 똥도 「강제 연행」에
동시에 일반 조선인에의 보호 구체적인 안이 잇달아 잡아졌습니다. 시내의 조선인을 지바현(千葉縣) 나라시노(習志野),및 시모시즈(下志津)의 병사에 수용하고, 의식주와 의료를 안정되게 했습니다. 조선인 수용 능력은 1만5000인분에도 달했습니다 (이것은 수용 능력이며, 실제로 수용된 인원수가 아닙니다) 곳이, 그것마저 걷게 해서 「강제 연행」되었다고 주장하는 사료가 많습니다. 자동차등 있을 리가 없지 않습니까? 시민에의 식량, 의약품, 경비에 사용하는 차마저 부족해 누구라도 걷고 있었던 것입니다.
신문은 손바닥을 뒤집은 것 같이, 「아키라(鮮)인단 소아이(相愛)회가 무상으로 도로공사 오해를 풀기 위해서 봉사」 「아키라(鮮)인에게 구원 부은 노파」등이라고 하는 조선인의 “미담”을 싣기 시작했습니다만, 「도로공사」라고 하는 것은 요컨대 도로의 장해물을 제거하는 작업입니다. 유료이어서 지진 재해의 뒷정리를 하는 일본인이 있었다로 하면 가르쳐주었으면 싶은 것입니다.
이러한 일련의 조치는, 내무상겸제도부흥 원총재에게 취임한 고토(後藤) 신페이(新平)의 발안에 의한 것이었습니다. 고토(後藤)는, 「조선인의 폭동이 있었던 것은 사실이지만, 이대로 자경단에 맡겨서 힘으로 눌러 づぶせば, 그들은 그대로로는 물러나지 않을 것이다. 그 보복의 화살촉이 만일에도 위(황실)을 향할 수 있으면 큰일 난다」라고, 당시, 경시청관방(官房)주사이었던 정력 마쓰타로(松太郎)에게 함께 이야기 했다고 합니다. 역시, 황태자암살의 걱정이 강했지요.
어쩔 수 없었다고라고 하면 그 대로입니다만, 이렇게 해서 조선인의 폭동은 없었던 것,혹은 헛소문이었던, 「유언蜚단어」에 현혹된 것이다,라고 하는 허구에 살짝 바꿀 수 있어 간 것입니다.
사체가 없는데도 「학살」
역시 조선인에 의한 폭동은 있었던, 그것도 황태자암살이라고 한다 恐るべ와 계획이 진행되고 있었던 것이라고 하는 것이 명확히 한 뒤에서, 그러면, 얼마나 「조선인 학살」이 행하여졌다고 하는 것인가, 표면에 나타나 온 숫자를 보아서 가기로 합시다.
많은 조선 독립 독립 운동가가 결집하고 있었던 상해의 대한민국 임시정부가 발행하는 기관지 「독립신문」이 보도한 수는 6, 419명입니다. 이것은 많은 관계서로 번역 인용되어, 「학살 인원수의 원전」 취급 당하다 있는 것입니다만, 여기에는 「시체체를 발견할 수 없었던 동포」 실로 2, 889명이라고 하고 있습니다. 사체가 발견되지 않은 채, 그것을 「학살되었다」라고 주장해서 카운트하는 것은 도리가 통하지 않습니다. 그것은 「행방불명자」이며, 「행방불명이기 때문에 죽음을 당했다」라고 하는 것은 비논리적입니다. 지진 재해에 의해 압사했는가, 타 죽었다고 생각하는 것이 당연하지요.
「시체체를 발견했다」로 여겨지는 1, 274명도, 살해된 것일지 지진 재해에 의한 사체일지의 판단은 어떻게 한 것인가? 어떻게 일본인과 조선인의 사체를 분별하고, 어떻게 카운트한 것인가, 도무지 요령 부득이다. 「동포동지의 감으로 피해자를 총계한 것도 있다」라고 있는 조사원자신이 고백하고 있습니다. 모두가 이런 식입니다.
「독립신문」과는 달리, 학생을 중심으로 한 「재일본 관동(關東)지구 이재 조선 동포위문반」에 소속하는 최(崔) 쇼(承) 만(【졔슨만】)의 조사에 의하면, 학살된 인원수는 「2, 607명 또는 3, 459명」이 되고 있습니다. 「또는」이라고 하는 근거 박약한 표기나, 500명, 80명, 200명이라고 한 대략적인 내역의 숫자를 본 것 뿐으나, 그 신빙성을 의심하지 않을 수 없습니다.
그런데, 다이쇼(大正) 시대를 대표하는 민본주의자로서 저명한 요시노 사쿠조우(吉野作造)가 주장하는 2, 613명이라고 하는 숫자도, 최(崔) 쇼(承) 만의 조사를 바탕으로 하고 있는 것입니다.
또 하나, 나는 취재의 과정에서 런던·내셔널·아카이브즈(archives)로부터 새로운 자료를 발견했습니다. 그것은 요코하마(橫浜)의 영국 총영사가 우송에서 받은 「조선 독립 운동의 조선인」발행의 소책자와 광고지로, 거기에는 관동 대지진 때에 23, 059이 학살되었다고 기재되고 있습니다. 이 터무니없는 이상한 숫자는, 정말로 「난징(남경)(Nanjing)대 학살」의 프로파간다(propaganda) 마치. 세계를 향해서 그들이 일본을 빠뜨리려고 하고 있었던 것을 알 수 있습니다.
가장, 「(그 내용은) 필자에 의해 현저하게 과장되고 있어, 일본의 당국이 학살을 선동했다고 하는 필자의 지적에는 근거가 없다고 생각합니다」라고 말하는 동경에 있는 영국 대사의 첨서가 る의에서, 이것은 정면으로 받아지지 않은 것 같습니다.
전술한 것 같이, 지진 재해 직후에 도쿄(東京) 및 그 주변에 있었던 조선인의 총인구는 9, 800명. 그중, 3, 169명이 나라시노(習志野)의 육군廠舍에, 2, 500명이 시내 각경찰서에, 617명이 메구로(目黑) 경마장에, 471명이 사이타마(埼玉)·도치기의 각경찰서에, 40명이 가나가와(神奈川) 현청에 각각 수용 보호되고 있었습니다. 여기까지에서 6, 797명. 그 수용중의 대우에 불평불만을 말이 격해져 「밥이 좋지 않다」 「강제 연행되었다」 「 취급이 난폭했다」라고 제각기들 불평(문구)를 늘어놓은 기록이 남겨져 있습니다. 그러나, 보호된 조선인은 식량을 주어져, 텐트로 우로를 능가할 수 있었습니다. 한편, 피재한 일본인의 대다수는 노숙을 하거나, 식량도 부족하고, 화장실도 없는 생활을 강요당하고 있었던 것을 잊어서는 안됩니다.
그런데, 계엄령사령부는 자경단등에 의한 과잉 방위 용의의 일본인 367명을 기소하고 있습니다. 그 조사에 근거하고, 살해된 무고의 조선인의 인원수는 233명이다라고 공표되었습니다. 게다가, 조선인과 잘못할 수 있어서 살해된 일본인 57명, 중국인 4명이 되고 있습니다.
도쿄(東京) 및 그 주변에 있었던 조선인의 인구 9, 800명에게서 이 무고의 피해자수 233명을 빼면 2, 770명이 됩니다. 이 가운데에, 불행하게 해서 지진 재해의 희생이 된 사람이나 행방불명자가 포함될 것입니다.
지진 재해의 조선 뜻밖의 희생자자는 제로!?
도쿄(東京) 부(府)전체의 사망자, 행방불명자는 7만명여 (사망자총수는 10만5000명여), 변두리 부근 일대의 사망자는 실로 그 80%이라고 말하여져, 조선인도 많이 거주하고 있었던 혼조(本所), 후카가와(深川) 일대에서의 사망자, 행방불명자는 5만8000명을 뛰어넘고 있습니다.
혼조(本所)구, 후카가와(深川)구에 있어서의 일본인의 대인입사망율은 약15%에 올랐습니다. 많은 조선 다른 사람의 집집은 아마 내진성도 낮게, 열악한 환경이었다라고 추측되므로, 그것보다 좀 많은 20%을 대인입사망율이라고 해서 피재 기초인구 9, 800명에게 타면, 1, 960명이라고 하는 숫자가 사망자, 행방불명자로서 산출됩니다.
2, 770명에게서 이것을 끌어 들이면 810위인, 이것이 테러리스트나 그 찬동자,또는 부화뇌동 해서 살해된 약 그 사람수라고 추정해도 좋지요.
수용 보호된 6, 797명, 정부발표의 피살해자수 233명에게 더해서, 「독립신문」의 주장하는 피살해자수 6, 419명을 더해 보면, 그것만으로, 13, 449명에게 부풀어 오른다. 형편 13, 449명의 조선인이 「살해 및 강제 연행되었다」로 하면, 저 대지진 재해에 의해 사망한 조선인은 한사람도 없게 되어버립니다.
만일 최(崔) 쇼(承) 만의 조사에 의한 2, 607명여를 가산해도 9, 613위인, 지진 재해에 의한 조선 뜻밖의 희생자자는 역시 대부분 없게 된다.
도대체(일체), 요시노 사쿠조우(吉野作造)나 마쓰모토 세이쵸(松本淸張), 오에(大江) 겐자부로(健三郎), 요시무라(吉村) 아키라(昭)라고 한 「조선인 학살」을 규탄한 학자나 작가들은, 이 단순한 숫자의 트릭을 알아차리지 않았습니까?
시민의 자위는 정의의 싸워
일본인과 조선인의 충돌은 불행한 사건인 것은 사실입니다만, 원래는, 요코하마(橫浜)에서 몰려 들어 온 조선인의 일단을 비롯해, 많은 테러리스트가 눈앞에 드러난 때문의 결과입니다. 게릴라라고 불러도 좋지요. 자경단은 자기의 목숨을 걸고, 민족독립을 위해서는 수단을 가리지 않는, 황태자암살마저 계획하고 있었던 조선인 테러리스트의 습격으로 도시를, 가족을 지킨 것입니다. 그렇지 않으면, 조직적인 주의주장을 가져서 일본을 대혼란에 빠뜨리자로 하는 테러리스트들에게 깔아 눕힐 수 있어, 도시의 파멸이 국가에의 파멸에 진행한 것에 틀림 없습니다. 이것은 정의의 싸움입니다.
이미 「조선인 학살」이라고 하는 모략선전으로부터 일본인은 자유로워져야 합니다.
덧붙이자면, 이 해의 11월23일, 섭정궁(신사)는 니이나매사이(新嘗祭)에 있어서 처음의 중요한 제사를 거행했습니다. 이 때, 경비의 무관들은 예의용의 사벨(saber)이 아니고, 후토시(太) 몸의 일본도에 갈도록 나라(奈良) 시종무관장으로부터 명령받고 있습니다. 아직 안심은 할 수 없었습니다.
그리고 12월27일, 제48회 통상국회의 개회식에 참석하기 위해서 의사당을 향하는 섭정궁(신사)를 태운 차에, 한사람의 남자가 지팡이(stick)에 가르친 산탄총에서 황태자의 차를 향해서 발포했습니다. 범인은 사회 주의에 탄 난바(難波) 다이스케(大助)라고 하는 청년으로, 과격파 조선인과는 무관계이었습니다.
이 사건을 계기로, 지진 재해 특별내각이라고도 말할 수 있는 야마모토(山本) 내각은 총사직하고, 그 사명을 마칩니다. 우리나라의 국체 바로 그것을 파괴하자로 한 코민테른의 방침 밑에 테러 집단이 몰려 들어 온,이라고 하는 것이 실태입니다.
몇천명을 학살한,등이라고 하는 숫자의 근거는 전무해서, 단순한 모략 선전하러밖에 지나지 않는 것이 알아 줄 수 있었다고 생각합니다.
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