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Wednesday, April 25, 2012

Japan at Meiji enlightenment period and Korea part12

http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi023.html
明治開化期の日本と朝鮮(12)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)




朝鮮の定期市場  撮影年代不明

용문오일장・五日市(定期市)
Jianto, Regular market in Korea, taken in unknown year






 昔の韓国農村には、常設の店舗がなく行商人もあまり来ないので、五日毎に開く市場で物の売り買いをした。そして定期的に市の立ついくつか異なった地域を巡回して商売している人を、ジャトルリム(市場まわり)またはジャントルバンイ(ジャントルリムの卑語)と言った。

農家では自分たちが作った作物を、直接市場へ持っていって金に換え、家族達の欲しい物を買うことが出来農閑期にはモスムという作男にこの日に休暇を与え、一日を楽しませる家もあった。少年の頃、市場を見て歩くことは実に楽しかった。「趙膏薬」とかいう薬売りの口上は特に面白く、まくり上げた腕をナイフで傷つけ、その上に膏薬をつけると、それまで流れていた血がピタリと止まるのにはたまげるを得なかった。しかし薬を買ってくれと目の前に持ってきた時は、急いで逃げることにした。

画・文
木丁・金龍煥

索 引

・ 釜山の港は開港して久し
・ 貿易規則は異議無し
・ 合意困難の対立点
・ 沿海岸測量について
・ 貨幣の流通に関して
・ 貿易と関税
・ 歪んだ歴史認識
釜山の港は開港して久し

日朝修好条規によって新たな開港口が設けられることになったが、宮本外務大丞の京城での対談では、その場所を求めて測量することを確認しただけであった。
釜山の港は対馬宗氏の時代から日本との貿易口である。条規付録の取り決めでは草梁公館の敷地の囲いと出入りを制限する門が廃されただけで、実質的には港としての機能は別に新しいものではなかった。

新たな港口の開港に対しての日本側と朝鮮側双方の意向を以下に記述する。

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/1 明治9年8月5日から明治9年8月11日)より抜粋して現代語読みに。人称、括弧は筆者。

講修官との対話
8月7日

宮本「第一に、二ヶ所の港口を開く事に付き、お尋ねあり。
右は元より二十ヶ月との期限もあれば、拙者はその事をご相談致すべき任は受けおらざるなり。もっとも、我が政府にて新開港を急がざるの趣意は、貴国地理も未だ分明ならず。ゆえに先ず大船を入るべき様の港を測量し、貿易便利の所を見立てたる上にあらでは確定し難ければ、これ測量を急ぐ所以なり。依りて大丘、西浦、珍島等各所へ行商することを御談に及びおけり。もし右にて便利なれば別に差し急いで港を開くにも及ばずか。しかし御約束は致しがたし。多く港口を開いて益無きよりはむしろ釜山一ヶ所にても繁盛なる方しかるべきなり。」

趙「御もっともなり。我が国にては二ヶ所の開港は第一の事かと存じおれり。依りてあらかじめ承りおかねばまたそれぞれの手当て方の都合もあればなり。我が国にては何処が宜しきかは知らず。このたび何の御話もこれ無きに付き、怪しく存じてお尋ねに及びたるなり。なるほど釜山一ヶ所にても両国人民貿易のため便利なれば当分足れりとの御言葉はごもっともの事なり。」

(略)

趙「新に開港の儀は我が国にて聊かも嫌うにあらず。しかし、陸地にて行商の事は甚だ厭うところなり。とくと御測量の上、御開港くだされたし。貴官の御見込みにては、すなわち今余計の港を開くより陸地の貿易便利なるべしとの事なれども、我が国にては開港は聊かも苦しからず。ゆえに第一に開港場の事をお尋ね申したるなり。」

宮本「しからば実地測量のため内地を通行する事は苦しからずや。」

趙「いよいよ御見立ての上、御上陸なられることは差支え無し。」



貿易規則は異議無し

貿易規則の方は趙寅熙の言によれば、すでに9日の時点で朝鮮政府の異議が無い事が決定されている。付録の方が未決着なゆえにはっきりと表明されなかったものであるが、11日になってそのことが言明された。

(同 上)

8月11日

趙「先ず貿易規則の件より御返答申すべきや。」

宮本「承るべし。」

趙「貿易規則はすでに双方調議致したり。ゆえに先ず三件の要事(使臣駐留、遊歩規定、行商)を決着いたすべき様我が政府より命じられたれば、このことを御相談願いたし。」

宮本「貿易規則は三件決着の後承るべけれどもすでに貴政府においても御異存無しとの御返答ありたる上は御相談は相受け申すまじ。」

趙「貿易規則は我が朝廷にもすでに許諾を経て講本に依るべしと申し上げたれば別に異議あるにあらず。・・・」
もっとも「米穀の輸出入」のように後から書き改めることを求めたものも数点ある。

合意困難の対立点

さて、以上のものはスムーズに合意に至ったものであるが、もちろん協議では合意に至らなかったものもあった。第一款案の使臣の駐留とその館の設置は合意に至らず削除された。また、第二款案の使臣と眷属随員及朝鮮各港在留の日本管理官が朝鮮国内地を通過するのにも厳しく制限が設けられ、第四款案の遊歩規定では凡そ10分の1(朝鮮里で10里、日本里で1里2丁24間)の距離に縮められ、かろうじて東莱府(日本里で約四里)に往来する事だけは特例として認められた。これは各地での行商も制限された事を意味する。
日朝対談で厳しく対立したのはこの3点である。

この中で遊歩規定に対する対談の一部を抜書きして見る。対談と言うよりも激論である。

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/1 明治9年8月5日から明治9年8月11日、宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/2 明治9年8月13日から明治9年8月24日)より抜粋して現代語に。名称や括弧は筆者による。

宮本・・・遊歩規定の事に付き、各港湾内は未だ決せず、草梁和館界限とはどれほどの所をいうのか。

趙・・・貴国の十里は我が国何里か知らないが、草梁館の例もあればこれに準じるがよいかと。

宮本・・・それではとても話にならない。十里とは人の足で1日ほどである。我が国の人間は健康のために遠足をしたりする。草梁公館のような所に閉じこめられると鬱屈からかえって良くないことを考え出すものだ。十里を行くといっても大商売をするわけではない。歩きながらここで柿を買い瓜を買うぐらいのことで、あまり細かに論じるならかえって害となる。

趙・・・仁川から京城まで百里(日本十里)に当たる。そうすればその範囲は人民が住居するのは難しくなる。国王の命令があっても婦人を持つ者は住居しない。ついに男だけの地となる。人民が安心できないことは政府が強いることはできない。よって坂下ぐらいの遊歩でどうか。この談は甚だ難しいことである。

宮本・・・どうして婦人は嫌がるのか。

趙・・・我が国の婦人は同国人であっても知らない者からは逃避する。まして外国人が常に往来する道ならとても安堵しても住居はしまい。そうすればその地は繁盛しない。

宮本・・・甚だ了解できない。もし日本人が悪事をするなら我が管理官からすぐにこれを罰すべし。悪い事をしない者が通行するのを人民が嫌うというのは想像であろう。しかし拙者の論も想像である。しかし我が国の軍艦が測量のために沿海地方に到った時に婦人は男子のようには来なかったがずいぶん近寄りはした。かつて拙者が江華に到ったときに婦人が避けたことがあった。これを修信使に話したら、江華の時はまだ和戦が決していなかったから恐れて逃げたのであり、今度京城に行かれたら避けることはしないだろう、と言った。また、釜山は昔は家が一軒だけの所であったが、今は三百軒にもなる。五、六十年前から繁盛した所である由。しかもここは日本人が常に往来する所である。もし、我が十里が広すぎるので今少し減らして欲しいとの話なら分るが、先ほどの言葉では分らない。

趙・・・もし御話通りなら十里内は人家は無いものと見られたい。

宮本・・・もちろん我が国がそのように立ち退くのを座視できるわけがない。果たしてこのために港を閉じるほどのことと言うなら御相談申すべきであるが。一昨日言ったように付録の方は本条約ではなく実地旅行の時に差支えがあればまた書き改めるべきであるから。

趙・・・今日はとても落着に至り難い。次の条件をご覧下されたい。


(その後朝鮮政府は朝鮮里で十里、日本里で1里と決議した。)


宮本・・遊歩規定の事は百里(朝鮮里)の所を七十里とか八十里にすると言うなら事情として分るが、十里とするのは話にならない。

趙・・・外国人を見て人民が何をするか分らない。これはあえて朝命で拒むのではなく人民の慣習である。十里のことは朝議で出ている事で自分の専断では答えられない。

宮本・・・清国はもちろん各国ともに旅行切手を所持すれば内地遊歩は勝手次第である。貴国には未だ旧習を脱していない。
ここで、日本の旅行免状を出して見せ、
これは我が国で外国人が旅行するときの免状でありこれを所持すれば自由に遊歩出来る。(十里内はそれが無くても自由である。)

趙・・・前も申すとおり、その範囲内は人民が離散する不安がある。

宮本・・・貴下の述べる事はみな想像説であり証拠は無い。拙官の言うところは実験説である。しかもこれを実施して果たして不可ならば両国で協議の上で改正するものである。

趙・・・我が政府の本意は、貴国とはすでに三百年来の交際ある国である。事が無いようにはかるために貴国人の遊歩する境界を定めるのである。遠方まで行きたいとの談はもっともなれど、我が国はなにぶん人智いまだ開けざるために、貴国人が常に往来されるならそこの人民はことごとく引き払って他方へ移転するしかなく、そうなれば多少の難渋も生まれるかと恐れるのである。・・・

釜山の地図を出して見せて説明しながら、
宮本・・・貴官も最早我が国の人が住居している近傍の村家が別に衰微もせず、かえって富民洞などは盛大に到った事はご了解あるべし。貴政府の御論は想像である。拙者の言は証拠がある。いずれが道理あるかをお考えなされるや。貴官はただ中間にあって取り次ぎをされるばかりでは講修官とは言えない。・・・

趙・・・我が政府から申し付けられた事に付き、拙者がその言葉を疎漏にしては相済まず・・・。

(この後も何度か議題に上がったが議論はいずれも平行線であった。以下は最後の8月22日のものである。)
宮本・・・最初、行歩規定を百里(朝鮮里)と申したのはたいてい日本人の歩行の距離を計って申し進めたのに貴国からこれを御許しなきのみならず、あまつさえ拙者から申し出た変通法も聞かれず、ただ理も非も問わず一概にお断りとばかりにお答え申されども、右はもとより我が国のためのみを謀ってご請求いたすというものではないので、拙者は日本政府の委任を受けた使臣であれば、よんどころなく飽くまで御討論せざるを得ないものである。

趙・・・すでに一昨日もこの御論を承りおり、今日参上いたしたのも拙者に於いて別の考え方があるのではない、ただ主人の道をもってまかり出たまでである。

宮本・・・それなら貴官は規定十里で満足とお考えなされるか。

趙・・・拙者だけではない。我が政府においてしかるべきとの見込みである。すでに政府で決議した上は拙者の力でどのようにしようとも致し方なく、むなしき御論をしても却って失敬と思い、昨日は参上しなかったのである。

宮本・・・貴官にしてそのような御見込みではこれまで段々と弁論申し進めたことも皆無理な事とお考えなされるか。

趙・・・拙者の見込みはすなわち我が政府の見込みなり。拙者はただ御取次ぎ致すのみの事である。

宮本・・・貴政府のことを論ずるのではない。貴官は拙者の所論を無理とお考えなされるかどうか承りたい。

趙・・・我が政府にて不当と思われることは拙者の心でも同様と思われる。

宮本・・・貴意において何事を不相当といたされるか。

趙・・・十里四方で相当である。東莱府、馬山浦などに到ることは不相当と思われる。

宮本・・・我が国の人間が貴国の内を三、五十里のところを経過するのにおいて何の害があるのか。無害の者をお差しとめなられるべき道理はないであろう。

趙・・・差支えるというのは先日来申し上げた通りである。なにぶん外国と交際しない国であるから外国人の来ないところへ貴国の人が来れば我が人民が落ち着かないことを恐れるのである。この議は追々御相談も致すべし。

宮本・・・追々御相談とは今日初めて承った。人民が落ち着かないということは毎々申されるが、けっしてそうではない。その証拠はすでに種々申し出ている。ついては、先日も申し進めたように一度ご同道にて実地に就いて見てはどうか。(釜山草梁のこと)

趙・・・拙者が実際見てどのようにあっても、もとより我が政府が熟知しておることである。
さてこのような御談判に渉っては互いに愛敬の道にあらず。よって他事を御相談いたすべし。

宮本・・・この御論のいまだすんでないのに他事を議すべからず。いや、拙者の諸説は不当なりや。

趙・・・不当と思われる。

宮本・・・何が不当なのか。

趙・・・我が政府に於いて許されざることゆえ、不当と思われる。

宮本・・・貴政府に関するだけにあらず。道理の上に於いて不当と認められるか。かつ、拙者の言が不当ならその訳を承りたい。

趙・・・先日来申し上げている通りのことである。そのような御談判では拙者を御待遇下されるべき道にはあらずと思われる。

宮本・・・貴官を御待遇しないと言うにあらず。しかしながら拙者の言を不当とお考えなされる時は、御弁論いたさずにはおれないのである。

趙・・・我が国に於いて風俗のため宜しからずと思われるゆえにそう申し上げるのである。

宮本・・・風俗に於いてよろしからずとは実に不可解のことである。自国の人は野蛮とお認めなされるのか。

趙・・・我が国の人といえども遠い僻地に参ればその地方の人々を見て驚くぐらいの勢いである。

宮本・・・しばしば申すように釜山草梁公館に来る貴国の人多数あり。それなのに風俗にこだわるとあればそのご弁解にお出でくだされよ。
さて、このような談は追々と難しくなる。貴官においても別に言葉もないから、昨日もご来館ないくらいでは最早貴官とはほんど道が絶えたようである。拙者は我が政府から別段の委任もあれば明朝は貴政府へ参って諸大臣とご面談いたすべし。その時にこれらの件も御談判申すべきにつき、貴官からこの旨ご通達ありたい。

(この翌日23日に急転直下、東莱府だけは十里規定外ながら往来できるとの政府議決があったことを講修官が伝えた。宮本もそれをもって朝鮮提案を受け入れ協議は妥結した。おそらく、宮本の諸大臣に直談判に及ぶとの話を聞いた訓導玄昔運が釜山の実態をもって説得したとも考えられる。)
8月23日

趙・・・その後、我が政府もだんだん心配を繰り返して議論に及び、終におよそ貴意の如く決した。よって今日は嬉しく御談判を終わりたい。

宮本・・・承るべし。

趙・・・各所行商の事は、すでに開港する約束があるので御請求に応じ難いとの廟議につき、しばらく開港に寄せてお取り消し下されたい。また、釜山の遊歩規定の事は馬山浦に到ることはなにぶん調議いたし難いので相止め、東莱までは常に往来できるように決した。なにとぞこのへんで決定を乞う。

宮本・・・各地行商の事はぜひ御差支えあるとあれば強いては申さないが、開港場の測量の時に当たってただ海路のみで上陸を拒まれては不便利なことなので、その近傍の陸路からも来て測量出来ることが御承知あればよろしい。

趙・・・それは先日も申し上げた通り、いずれかの港のお心当たりの場所が出来た上で御上陸実見なられることは差し支えなく、もっともその節は前もって東莱府へ御報知下されたい。

宮本・・・馬山浦へ往来のことは強いてお断りならば致し方のない次第である。ついてはこの上は文章を確定し清書することに懸かるべし。

趙・・・訓導から御請求に及びたる東莱、釜山へ行歩のことについての対談記録は随員の内から御投与くだされるよう願いたい。

宮本・・・もとより承知いたしおり。

趙・・・しからば河上君(日本側記録係)の記録を御遣り下されば大幸なり。

宮本・・後刻、同人から訓導へ渡すべし。

右にて談判相済み・・・。

宮本小一の対談記録やその行動記録などを読むと、とても尋常の人間とは思えない働きぶりが見えてくる。時に寝食も無視し、酷暑の中、随行員たちが次々と病気になって倒れていく中にひとり気を吐き、強靭な精神力で協議を進めていった全くのタフマンである。
森山茂が極めて鋭い弁論もつ外交官とするなら、宮本は拳骨で固めたような言論で、それも正論をもって推し進める人物である。それでいて相手を見下したり失礼な言葉遣いは決してしない。そして「人もよかれ」の思いが強い人間でもある。
彼は後に釜山草梁公館の日本管理官に手紙を出し、従来のように朝鮮の官吏を公館に呼びつけるようなことがあってはならない、朝鮮は日本と対等の独立国であり、失礼があってはならない、と厳しく言い渡している。もっともこれは「呼びつけていた」わけではなく、公館から一歩も外に出る事を朝鮮政府が許さなかったので、来てもらわねば話し合いが出来なかったからだが。
言わねばならない事はガンガンと言い、それでいて紳士然。より礼儀礼節を知り行う人物であった。



沿海岸測量について

付録第九款にもあるように朝鮮沿海岸測量のことは、修好条規第七款の「朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁、從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ、日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ」がその意味する所である。
これは日本だけでなく西洋国もそれを求めていた。英国船がしばしば朝鮮沿岸を測量していたのはそのためである。けっして朝鮮に敵対しその地を奪うなどの下心あっての事ではない(英国公使の弁)。宮本の朝鮮行きを聞いた英国公使は朝鮮政府にその意を伝えてくれるよう依頼していた。
今や各国の船は黄海・日本海(東海ではない)を頻繁に往来し、清国の天津、牛荘、上海などから日本の長崎、函館、またロシアのウラジオストックなどに通行する際に朝鮮沿海を通らざるを得ないからであった。

以下はその時の対談である。(宮本大丞朝鮮理事始末 十/4 慶応4年3月から明治9年9月 p34 英國公使附託ノ事ニ付趙寅熙ト談判ノ要旨)から抜粋、現代語、括弧は筆者。

宮本・・・(英国公使からの依頼を含めて上記のことを懇々と説き、)すでに外国では灯台を設けて暗礁を示す所すらある。

趙・・・貴諭の説は承知した。今我が国で英国船の来ることは別に異議はない。

宮本・・・それなら誠に幸いである。英国船の意向は前に述べた通りである。けっして貴国はこの船に対して粗暴のことをなし給うなかれ。もし粗暴のことあっては後に大なる害を引き起こさん。

趙・・・粗暴のことはなし。すでに地方官がその船に薪水や米を送った旨を届け出た。それをもって御推察あるべし。

宮本・・・誠に然りや。じつに大幸と言うべし。しかし貴国が外国船と見る時は惨酷の取り扱いをすることはすでに海外に聞こえている。今度の条約でそのことを廃止したことは明瞭であるが、英国船に対し暴挙などのことがあっては実に貴国の大事につき、くれぐれも御注意ありたい。

趙・・・承諾した。

宮本・・・これは朝鮮議政府に於いて申し立てようと算段していたのが長談判となってその話が出来なかったので止めたのである。今、貴下に告げる。よろしく政府諸官へも御告知たまわれたい。

趙・・・深く承諾した。

かつて明治8年9月に釜山草梁に入港した英国船に対しての朝鮮側の対応(10月3日)からすれば大変な変わりようである。
宮本は朝鮮政府に対して外国とトラブルを起こさないようにと、すでに2月の黒田全権派遣時に申大臣らとの対談で伝えていたが(日朝修好条規締結余話)、その効あってのことか又は開化派の意見が強くなったからかは分らない。
あるいはまた、修信使が来日した時に英国船から助けられた朝鮮人漂流民を引渡したことも影響しているかもしれない。それは李元春という朝鮮人で、明治8年10月に日本海で漂流していたところを英国船オスカワイル号に助けられ、北海道の英国領事館で保護されて9年1月に東京の英国公使館に送られ、4月に公使が寺島外務卿に照会して日本側に渡して6月に修信使が連れて帰った者である。(「対韓政策関係雑纂/明治九年朝鮮国修信使金綺秀来朝一件 第二巻、英舩ニテ所救ノ朝鮮票流民李元春ヲ信使ニ附与スルニ付キ外務卿ヨリ該使往復書」B03030150000のp23)

しかしこの後も朝鮮各地に建てられている「洋夷侵犯不戦則和主和者賣國賊(野蛮なる外国人が我が国を侵犯するのを戦わない、すなわち和主和者は売国賊である。)」の石碑が撤去されることはなかった。条規付録などの調印が成った後も、宮本はまだ懸念をぬぐいきれなかったが、案の定のちに暴力事件が起こる。それも日本人に対してであったが、そのことは後述したい。


貨幣の流通に関して

日朝両貨幣の流通のことは、

第七款「日本國人民、日本國ノ諸貨幣ヲ以テ朝鮮國人民ノ所有物ト交換シ得ヘシ。又朝鮮國人民ハ交換シ買得タル日本國ノ諸貨幣ヲ以テ日本國ノ諸貨物ヲ買入ルヽ爲メ、朝鮮國指定ノ諸港ニテハ人民相互ニ通用スルヲ得ヘシ。日本國人民ハ朝鮮國銅貨幣ヲ使用運輸スルヲ得ヘシ。兩國人民、私ニ錢貨ヲ鑄造スル者アレハ各其國ノ法律ニ照シテ處断スヘシ。」

と取り決められたが、これは対談の結果、日本原案に貨幣私造の処罰のことを書き加えただけである。朝鮮側はほかに何ら異議を申し入れる事も無かった。



朝鮮の貨幣である当百銭(下)、上の貨幣の100倍の価値で流通させようとした。
そもそも朝鮮では貨幣の信用度が低く、人々はほとんど物々交換で売買をしていたようである。

とりわけ1866年に大院君が景福宮再建のために「当百銭」なるものを鋳造してそれまでの100倍の価値として流通させようとしたものだから、人民はもとより政府内部からも憤懣批判が続出し100倍で流通する事は無かったが、当時の商人がこの貨幣の交換を利用して暴利を得ようとするなど、いよいよ貨幣の信用が落ちただけであった。


Danbekzon, true 100 sen coin (follow), (bad coin)
korean king tried to circulate it in the value of  100 times as the above coin,
originally, money creditworthiness was law in korea,people had been seemed  to almost trades by barters.


興宣大院君(흥선대원군、フンソン デウォングン・大院王(デウォンワン)、1820年12月21日時憲暦嘉慶25年十一月十六日) - 1898年光武2年)2月22日(時憲暦二月初二日))は李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(이하응、イ・ハウン)。父南延君の四男であり、母郡夫人驪興閔氏の子であり、高宗の実父。


Heungseon Daewongun (흥선대원군, 1820–1898) or The Daewongun (대원군),Guktaegong (국태공, ‘The Great Archduke’) or formally Heungseon Heonui Daewonwang (흥선헌의대원왕) and also known to period western diplomats as Prince Gung, was the title of Yi Ha-eung, regent of Joseon during the minority of King Gojong in the 1860s and until his death a key political figure of late Joseon Korea.


当百銭:天保通宝(てんぽうつうほう)の俗称。


かつて宮本は、やはり黒田全権派遣時に申大臣らに対して、貨幣経済の重要性を説き、貨幣価値の事を説いた。
また、朝鮮修信使の来日の時に日本政府は東京紙幣寮を見学させ、さらに大阪造幣局を見学させんと、わざわざ寺島宗則外務卿自らが書面でそのことを勧めたのである。貨幣の品位、その信用度はその国の独立国たると関わると。日本が貨幣を鋳造するのにどう注意しているかを、とくと造幣局見物で知られたい、と。
念の入った勧告書面であったが、何と修信使金綺秀は病気を理由に断ったのである。それが仮病か本当かは知らないが、この後朝鮮が近代貨幣制度の事を理解し取り組む兆しはなかった。

日本としては日本貨幣をもって貿易せざるを得ない。そして後に、朝鮮貨幣よりも日本貨幣を信用したのはほかならぬ朝鮮人自身であった。


貿易と関税

黒田清隆と井上馨曰く。
「要するに上下貧困、いたるところに寂寞たる部落あるのみ」
「彼と強いて貿易せんと欲するも貨幣ある無く、産物、一の貴重すべきなければ、至急繁盛の市を開く時にあらず」
申曰く。
「朝鮮は至って貧国にて物産とても僅かに綿および牛皮等なれば、処々に開港いたすも大抵の益あるまじ。しかしながら此れは私見なり」

寺島宗則曰く、
「輸出入の表の如き微々たる貿易にこれあり、貧困無産の朝鮮國、向来貿易催進の目的、相立ち難し候」(明治九年六月十九日、太政大臣へ伺之通)
「輸出入税を収むる如き拘束法ありては、帆船風便を失うのみならず時日を空しく過ごし且つ税額を課せられるるを恐れ彼の地へ前往を好むもの増殖せざるべし。収税するの場所相立ち難しと存じ候。且つ輸出税は各国貿易品すら是を廃止して我が作業を催進せんと欲する時勢に付き、朝鮮輸出税は今より無論に是を徴せず彼の国より輸入し来る物品と雖も少数且つ多くは実用品にて國害となるべき物品これ無き候。この條また数年の後までは無税に差定められ・・・」(同上)

三條實美太政大臣、訓條で曰く、
「朝鮮官員、貿易のため朝鮮人民より賄賂を求め又は専売を許し、或いは重税を課するなどの事ありと聞く。なお釜山に到り実際を審問し果たしてしからばこの弊害を救い、貿易の妨げとならざるための要領を約束しおくべし」

日朝貿易に関する意見は多方面からあり、様々に検討された。

そもそも、明治9年2月の修好条規第九款に「両国既に通交を経たり。彼此の人民各自の意見に任せ貿易せしむべし。両国官吏毫もこれに関係することなし。又貿易の制限を立て、或るは禁沮するを得す。・・・」とあるように、貿易は両国政府が関与しない完全自由貿易とすることですでに合意していた。
なお当時この九款で朝鮮側が主張したのは、その後の文「もし両国の商民欺罔衒売又は貸借償わざることある時は、両国の官吏厳重に該逋商民を取糺し債欠を追弁せしむべし。但し両国の政府はこれを代償するの理なし。」を加筆するようにということであった。貿易上のトラブルで朝鮮政府自身が補償せねばならないことになることを嫌ってのことである。宮本は「だからこそ政府が関与せずに人民の自由にさせるなら政府に責任はない、貿易に干渉すれば責任が生じる。」と説いたが、それでもなお朝鮮側が不安を感じたので、わざわざ後の文を入れさせたのである。
貿易に干渉しない。つまり関税をかけないことは当初からの確定事項であった。
これには次の3点の目的があった。

・貿易物資が少ない上に当初から関税をかけていたのでは貿易の発展が阻害されるので、それを避けるため。貿易量の増大と共に関税の事は将来考慮する。

・朝鮮官吏の賄賂、不当な重税、また対馬側も輸出入品に重税をかけて不当な利益を得ていたことなどの弊害をなくすために、貿易に政府干渉をさせないこと。またこれによって、貿易量が少ないにも関わらず税関所の設置や税関員の派遣などの経費負担となるのを避ける事が出来る。

・歳遣船等の旧来の貿易に交際礼義が持ち込まれ、それがかえって朝鮮政府に大なる負担となっていたことも含めて、贈与礼と答礼などの儀礼行為が付随することを抑制し、純粋な商行為に向かわせて開化近代化を進めること。
黒田全権派遣時、宮本京城行きの時、ともに朝鮮側からの儀礼贈与は極力排したが、それも両国交際の近代化と朝鮮国開化のためであった。

これは米の輸出入に関わっての事であるが、宮本は、従来の対馬の不当な貿易税利益がかえって対馬の食糧自給の自助努力などを妨げ、自立的な経済の確立が出来なかったと考えていた。
宮本は、米の輸出入に関して訓條にある「公貿易に似たる云々」のことを趙講修官との談判で提案していない。対馬は自助努力をすべきでありまたそれが出来る見通しがあるという判断であった。


さて、以上のような観点から貿易規則は合意していったのであるが、日本側としては、それでももし朝鮮政府が関税をかけることを強いて要求する場合は五分(5%)までは肯諾するようにと、三條太政大臣は訓条で宮本に命じていた。
しかし、朝鮮側は何も要求しなかった。貿易規則が旧来の歳遣船等のような貿易形態とならなかったことにより接待負担が解消されただけで満足したのであろう。
儒教の国朝鮮は実は礼義に縛られて礼義に苦しめられていたのである。

なお、条規付録・貿易規則の細則としてこの関税のことは別文によって取り交わした。
すなわち、宮本小一は調印締結の8月24日付けで、(宮本大丞朝鮮理事始末 一 p24)
「日本側からは朝鮮との輸出入品に一切課税しないと決議した。貿易に関して官吏の特権的利益や賄賂を排除するために、官吏が貿易通商に関与せず、売買自由とその報告も不要であり、貨物出入の把握は海関(貨物検査所)の記録をもってしてそれに替える。」

これに対し、講修官政府堂上 趙寅熙も同日に確認書を送り、(同上 p32)
「貿易は寛裕に務め官吏の私利益や専有などを一切革除し、人民売買に照会不要、貨物の出入りは数年免税を特に許す。」
と記し、別細則の漂流民の処遇とその諸経費償還に関しても同意を併記して、
「・・・右件一一照領、益歎貴意務在交便両國民人、繊悉具備、惟當依此施行、永尊章程、茲庸回覆、敬冀」と、
両国人民の交便として細則が整ったことを賞嘆し、施行するに永く尊ぶ貿易規則であると文を結んでいる。



なお日本政府は、関税収入のない朝鮮政府のために、港税をもうけて日本艦船1隻ごとに船主から朝鮮政府に税金を納めさせ(三條の訓条による追加)、釜山草梁公館の施設の地租税を支払う(井上・黒田の建議による)などの便宜もはかった。当然これは将来開かれるであろう新たな港口での施設にも、相当なる地租税が支払われるという意味も含んでいた。

以上のように、まことに充分なる配慮の行き届いた政策であったと言えよう。

「関税を認めず」という表面上のことだけをあげつらい、「日本による収奪」などと非難する人がいるが、事の内情や経過の詳細を知らない無知から来ているとしか言いようが無い。



歪んだ歴史認識

さて、筆者はここまでの歴史事跡をきままにではあるが篤と勉強してみて、歴史の事跡だけをたどるだけでは歴史認識として決して充分ではないと思うようになった。当時の人々の心をも読み解いてこそ、正否の判断が出来る歴史認識となると。

例えば、政府の政策というのも要するに人が行うのである。そこにどのような意図があり、つまるところ人の気持ちがどう込められていたかも考慮してこそ歴史の事実が明らかになるのではなかろうかと。

もちろん人間のすることであるから、当然誤りもあろう。
「うっかりしていた」「そこまでは考えていなかった」と。
雲揚号事件で言うなら、「うっかりしていた朝鮮政府」「そこまでは考えていなかった日本政府」というのが筆者の結論である。

それを最初から悪意をもってすなわちたくらみを持ってやったとするなら、逆に、「朝鮮政府内部の開化派が工作して日本と事件を起こすことによって日本の圧力を利用し、朝鮮の開化を進めようとした。」とした論までが成り立つ。

歪んだ心で人を見れば、他人の善意すらが歪んで見えるものである。

歪んだと言えば、次の文章、

韓国の高等学校用国定教科書「国史(上・下)」(1995年発行)の日本語訳「韓国の歴史」(明石書店 1997年発行)より抜粋。

Ⅵ-1-(2) 開港と近代社会の開幕

江華島条約と開港

鎖国政策をとる大院君から閔氏一族へと政権が交代すると開放論が生まれてきた。

他方、明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義を急速に推し進めながら海外侵略を企てていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮に門戸開放をせまった。その結果、ついに朝鮮は日本と江華島条約を結び門戸を開放することになった。
江華島条約はわが国が外国と結んだ始めての近代的条約であったが、不平等な条約であった。江華島条約において朝鮮は自主国として日本と同等の権利をもつと規定されたが、それは朝鮮に対する清国の宗主権を否定することによって、日本の朝鮮侵略の道を開こうとしたのであった。そしてこの条約では朝鮮の釜山のほかに二港の開港、日本人の自由な通商活動と朝鮮沿海の自由な測畳をとりきめていた。それは単純な通商交易の経済的目的とは、似て非なるものであって、政治的、軍事的拠点を狙った日本の侵略意図の現れにほかならなかった。
さらに、開港場における日本人の犯罪は日本の領事が裁判するという領事裁判権、すなわち治外法権条項を設定することによって、朝鮮内に居住する日本人の不法行為に対する朝鮮の司法権を排除した。とくに、治外法権、海岸測量権は朝鮮の主権に対する侵害であった。このように日本はかつて日本みずからが開港を余儀なくされ、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等な関係をそのままわが国へ強要したのである。
江華島条約に続いて、別途の措置がとられ、朝鮮国内における日本人外交官の旅行の自由、開港場での日本人居留民の居住地の設定と、日本貨幣の流通、そして日本の輸出入商品に対する非課税と穀物の無制限の輸出などが認められた。これによって朝鮮に対する日本の経済的侵略の足場が築かれた反面、朝鮮は国内産業に対する保護措置をほとんど講ずることができなくなった。

筆者はかくも歪んで悪意に満ちた文言が教科書というものにあるのを他に知らない。歪んだ歴史認識による歪んだ日本観・日本人観を扇動する文章を書いた著者の歪んだ心の奥を見るようである。そして、なんとこれが韓国政府による唯一の教科書と言うのだから。
いやはやこれに比べれば、当時の朝鮮政府の人間の方がよほど素直で美しさすら感じるほどである。

帰国した宮本小一は、次のような報告書を日本政府に提出している。

(宮本大丞朝鮮理事始末 五/2 明治9年9月21日 朝鮮国修好条規附録貿易規則約成之義 p2)
下官義、彼地滞留中、同國政府ヨリノ接待方ハ、日本人自由ニ門外ヘ散行ヲ許サス或ハ公務アル者ノ外、他人ヘ接見セシメサル等未開ノ風習ヲ免レサルコト有リト雖モ、其他ハ総テ鄭重優渥ノ接遇ヲ極メタリ。同國ノ我ガ國ニ對シ友誼アルノ徴ヲ顕ハシタルハ厚ク御想像被降、後来同国トノ交際一層ノ懇遇ヲ与ヘラレ候様奉存候。依テ此段上申候 敬具

明治九年九月廿一日   外務大丞宮本小一 花押

右大臣 岩倉具視殿
外務卿 寺島宗則殿

「私が、彼の国に滞在中、同国政府の接待というものは、日本人が自由に門外を散歩することを許さなかったり、公務ある者以外は他の人々とは会わせないなど、未開の風習を出ないところもありましたけれども、その他は総て鄭重を極めたもてなしでありました。同国が我が国に対して友誼のしるしを顕したことは厚く御想像くだされて、この後の同国との交際にいっそうの厚遇を与えられますことを願い上げます。」

宮本小一外務大丞の、朝鮮に対する素直な気持ちをあらわした文と言えよう。

메이지(明治) 개화 기의 일본과 조선(12) (참조 공문서는 1部를 제외해서 전갱이경력의 사료로부터)


조선의 정기시장촬영 년대(연대)불명색인

·부산(釜山)의 항구는 개항해서 오래간만이다 ·무역 규칙은 이의없슴 ·합의 곤란의 대립 점·연해해안 측량에 대해서 ·화폐의 유통에 관해서 ·무역과 관세·삐뚤어진 역사 인식 부산(釜山)의 항구는 개항해서 오래간만이다

일조 수교 조규에 의해 새로운 개항 입이 마련되어지게 되었지만, 미야모토(宮本) 외무대丞의 교토성에서의 대담에서는, 그 장소를 요구해서 측량하는 것을 확인한 것 뿐이었다.
부산(釜山)의 항구는 쓰시마(對馬) 소(宗)씨의 시대부터 일본과의 무역 입이다. 조규부록의 규정에서는 초량공관의 부지 울타리와 출입을 제한하는 문이 폐지되는것만으로, 실질적으로는 항구로서의 기능은 달리 새 것이 아니었다.

새로운 항구의 개항에 대하여의 일본측과 조선측 쌍방의 의향을 이하에 기술한다.

(미야모토(宮本)대丞조선 이사처리 3/2이사관 강습관 대화서/1 메이지(明治)9년8월5일부터 메이지(明治)9년8월 11일)보다 발췌해서 현대어읽기(예측)에. 인칭, 괄호는 필자.

강습관과의 대화 8월7일

미야모토(宮本) 「첫째로, 2군데의 항구를 여는 것에 나고, 질문 있어.
오른쪽은 물론 20개월과의 기한도 있으면, 졸자는 그 것을 상담해야 할 임무는 받아 있지 않은 되어. 가장, 우리정부에서 신개항을 서두르지 않는다의 취의는, 귀국지리도 아직 분명 안되고. 따라서 우선 큰 배를 들어가야 할 님의 항구를 측량하고, 무역 편리가 있는 곳을 보고 정함된 위로 흠에서는 확정하기 어려우면, 이것 측량을 서두르는 원인이든지. 따라 て대언덕, 니시우라(西浦), 진도(珍島) 등 각처에 행상하는 것을 담에 미쳐 차. 만약 오른쪽에서 편리하면 달리 마주 앉음 급히 항구를 개척하는 것에도 미치치 못하다인가? 그러나 약속은 하기가 더해. 많이 항구를 열려서 이익 없는 꼰 것은 오히려 부산(釜山)1군데 닮아도 번성 되는 분 마땅한 되어. 」

조(趙) 「御 가장 되어. 우리나라에서는 2군데의 개항은 제일인 것인가라고 알아 나り. 따라 て 미리 받아 두지 않으면 또 각각의 수당쪽의 형편도 있으면 되어. 우리나라에서는 어디가 좋다 か은 모르고. 이번에 아무런 이야기도 이것 없음에 부착, 수상하게 알아서 질문에 미쳐된이든지. 정말(과연) 부산(釜山)1군데 닮아도 양국인민무역 때문에 편리하면 당분간 발れり과의 말은 ご 가장이든지. 」

(거의)

조(趙) 「신(新)에게 개항의 의는 우리나라에서 약간도 약하는 것에 있지 않고. 그러나, 육지에서 행상은 매우 싫어하는 곳이든지. 신중히 측량 위, 오히라키(御開)항 내려지고. 다카(貴)관의 전망에서는, 다시 말해 지금 여분의 항구를 개척하는 것 보다 육지의 무역 편리 되어야 하는 것 되더라도, 우리나라에서는 개항은 약간도 괴롭지 않고. 따라서 첫째로 개항장을 질문해된이든지. 」

미야모토(宮本) 「사슴들 ば현장측량 때문에 내지를 통행하는 것은 괴롭지 않고 や. 」

조(趙) 「드디어 보고 정함 위, 상륙 될 수 있는 것은 지장이 있어 없음. 」



무역 규칙은 이의없슴

무역 규칙쪽은 조(趙) 인 히로시(熙)의 말에 의하면, 이미 9일의 시점으로 조선 정부의 이의가 없는 것이 결정되고 있다. 부록쪽이 미결도착な 때문에 확실하게 표명되지 않은 것이지만, 11일이 되어서 그 것이 언명되었다.

(동상)

8월11일

조(趙) 「우선 무역 규칙의 건(件)보다 대답 신 총괄해 오자마자. 」

미야모토(宮本) 「받아야 한다. 」

조(趙) 「무역 규칙은 이미 쌍방조議 하거나. 따라서 우선 3건의 중요한 사정(사신주류, 유보 규정, 행상)을 결착해야 할 님 우리정부에서 명령받아 처져 ば, 이 것을 상담원서 보탬. 」

미야모토(宮本) 「무역 규칙은 3건 결착의 후 받는 べ 차더라도 이미 다카(貴) 정부에 있어서도 반대 의사없슴과의 대답 개미된상은 상담은 상받이 하는 まじ. 」

조(趙) 「무역 규칙은 우리조정에도 이미 허락을 경과해서 강책에 따라야 한다고 말씀 드려 처져 ば 달리 이의 있는 것에 있지 않고. ···」 가장 「미곡의 수출입」과 같이 뒤에서 고쳐 쓰는 것을 요구한 것도 몇점 있다.

합의 곤란의 대립 점

그런데, 이상의 물건은 부드럽게 합의에 이른 것이지만, 물론 협의에서는 합의에 미흡했던 것도 있었다. 제1돈안의 사신의 주류와 그 관의 설치는 합의에 이르지 않고 삭제되었다. 또, 제2돈안의 사신과 권속수행원及조선 각항구재류의 일본 관리관이 조선국 내지를 통과하는것에도 엄격하게 제한이 마련되어져, 제4돈안의 유보 규정에서는 대충 10분의 1 (조선 마을에서 10리, 일본 마을에서 1리 2정 24사이)의 거리로 줄일 수 있어, 간신히 동래부(府)(일본 마을에서 약4리)에 왕래하는 것만은 특례로서 인정을 받았다. 이것은 각지에서의 행상도 제한된 것을 의미한다.
일조 대담으로 엄격하게 대립한 것은 이 3점이다.

이 안에서 유보 규정에 대한 대담의 일부를 발초 기해서 본다. 대담라고 말하는 것 보다도 격론이다.

(미야모토(宮本)대丞조선 이사처리 3/2이사관 강습관 대화서/1 메이지(明治)9년8월5일부터 메이지(明治)9년8월11일, 미야모토(宮本)대丞조선 이사처리 3/2이사관 강습관 대화서/2 메이지(明治)9년8월13일부터 메이지(明治)9년8월 24일)보다 발췌해서 현대어에. 명칭이나 괄호는 필자에게 따른다.

미야모토(宮本)… 유보 규정에 붙고, 각항만내는 아직 결정하지 않고, 초량화(화합)관계 끝은 얼마정도가 있는 곳을 말하는 것인가?

조(趙)… 귀국의 주리(十里)는 우리나라 몇리인가 모르지만, 초량관의 예도 있으면 이것에 준하지만 좋을가라고.

미야모토(宮本)… 그러면 매우 말도 안 된다. 주리(十里)와는 사람의 발로 1일 정도다. 우리나라의 인간은 건강을 위해서 소풍을 하거나 한다. 초량공관과 같은 곳에 갇히면 울적함으로부터 돌아가도 좋지 않은 것을 생각해 내는 것이다. 주리(十里)를 간다고 해도 대장사를 하는 것은 아니다. 걸으면서 여기에서 감을 사 참외를 살 정도로, 그다지 잘게 논한다면 도리어 해가 된다.

조(趙)… 인천(仁川)에서 교토성까지 100리 (일본 주리(十里))에 맞는다. 그렇게 하면 그 범위는 인민이 주거 하는 것은 어려워진다. 국왕의 명령이 있어도 부인을 가지는 사람은 주거 하지 않는다. 결국 남자만의 땅이 된다. 인민이 안심할 수 없는 것은 정부가 강요할 수는 없다. 따라서 사카시타(坂下)정도의 유보로 어떻겠는인가? 이 담은 매우 어려운 것이다.

미야모토(宮本)… 어째서 부인은 싫어하는 것인가?

조(趙)… 우리나라의 부인은 동국인이여도 모르는 사람에게서는 도피한다. 하물며 외국인이 항상 왕래하는 길이라면 매우 안도해도 주거는 하지 않을 것이다. 그렇게 하면 그 땅은 번성하지 않는다.

미야모토(宮本)… 매우 알았어 할 수 없다. 만약 일본인이 나쁜 짓을 한다면 우리관리관에게서 곧 이것을 처벌해야 한다. 나쁜 일을 하지 않는 사람이 통행하는 것을 인민이 싫어한다고 하는 것은 상상일 것이다. 그러나 졸자의 이론도 상상이다. 그러나 우리나라의 군함이 측량을 위해서 연해지방에 이르렀을 때에 부인은 남자와 같이 는 오지 않았지만 상당히 접근하기는 했다. 예전에 졸자가 강화(江華)에 이르렀을 때에 부인이 피한 적이 있었다. 이것을 오사무(修) 신(信)使에 이야기하면, 강화(江華)의 때는 아직 화전이 결코 없었기 때문에 두려워해서 도망친 것이어서, 이번 교토성에 가시면 피하는 것은 하지 않을 것인,라고 말했다. 또, 부산(釜山)은 옛날은 집이 집 한 채만이 있는 곳이었지만, 지금은 300채도 된다. 5, 60년 전으로부터 번성한 곳인 이유. 게다가 여기는 일본인이 항상 왕래하는 곳이다. 만일 우리주리(十里)가 지나치게 넓으므로 지금 조금 줄여주었으면 싶다라는 이야기라면 알지만, 먼저말한 말에서는 모른다.

조(趙)… 만약 이야기대로라면 주리(十里)내는 인가는 없는 것이라고 보여지고 싶다.

미야모토(宮本)… 물론 우리나라가 그렇게 퇴거하는 것을 좌시할 수 있을 까닭이 없다. 과연 이것 때문에에 항구를 닫을 만큼라고 말한다면 상담 해야 하지만. 그저께 말한 것 같이 부록쪽은 본조약이 아니고 현장여행의 때에 지장이 있기가 있으면 또 고쳐 써야 하기 때문에.

조(趙)… 오늘은 매우 낙착에 이르기 어렵다. 다음 조건을 보렴 내려지고 싶다.


(그 후 조선 정부는 조선 마을에서 주리(十里), 일본 마을에서 1리라고 결의했다. )


미야모토(宮本)··유보 규정은 100리 (조선 마을)이 있는 곳을 70리라든가 80리로 한다라고 말한다면 사정으로서 알지만, 주리(十里)로 하는 것은 말도 안 된다.

조(趙)… 외국인을 보아서 인민이 무엇을 할지 모른다. 이것은 굳이 조명에서 거부하는 것이 아니고 인민의 관습이다. 주리(十里)는 아침 議에서 나오고 있는 것으로 자신이 전단해서는 대답할 수 없다.

미야모토(宮本)… 기요시(淸)국은 물론 각국 모두 여행 우표를 소지하면 내지유보는 제멋대로대로다. 귀국에는 아직 구습을 탈출하지 않고 있다.
여기에서, 일본의 여행 면허장을 내 보이고, 이것은 우리나라에서 외국인이 여행할 때의 면허장이며 이것을 소지하면 자유롭게 유보할 수 있다. (주리(十里)내는 그것이 없어도 자유롭다. )

조(趙)… 앞도 하는 대로, 그 범위내는 인민이 흩어지는 불안이 있다.

미야모토(宮本)… 귀하가 말하는 것은 모두 상상설이며 증거는 없다. 졸렬함관이 말하는 곳은 실험설이다. 게다가 이것을 실시해서 과연 불가라면 양국에서 협의 위에서 개정하는 것이다.

조(趙)… 우리정부의 본의는, 귀국과는 이미 300년래의 교제 있는 나라다. 일이 없는 것 같이 헤아리기 위해서 귀국인의 유보하는 경계를 정하는 것이다. 먼 곳까지 가고 싶다라는 담은 가장 되더라도, 우리나라는 다소간(몇분) 사람지헤 아직 열지 않기 때문에, 귀국인이 항상 왕래된다면 거기의 인민은 모조리 퇴거해서 다른 방면에 이전하는 수 밖에 없고, 그러면 다소의 난삽도 생길 것인가라고 두려워하는 것이다. ···

부산(釜山)의 지도를 내 보여서 설명하면서, 미야모토(宮本)… 다카(貴)관도 이미 우리나라의 사람이 주거 하고 있는 근방의 마을가가 달리 쇠미도 하지 않고, 도리어 부민동굴등은 성대하게 이른 것은 이해 있어야 한다. 다카(貴) 정부의 이론은 상상이다. 졸자의 말은 증거가 있다. 어느 것이 도리 있을지를 생각해 행해지자마자. 다카(貴)관은 단지중 늦지 않아서 중개를 할 뿐이어서는 강습관이라고는 말할 수 없다. ···

조(趙)… 우리정부에서 명령할 수 있었던 것에 나고, 졸자가 그 말을 꼼꼼하지 못하게 해서는 상완료 우선 ···.

(이 다음도 몇번인가 의제에 올랐지만 논의는 모두 평행선이었다. 이하는 최후의 8월22일이 것이다. )
미야모토(宮本)… 최초, 도오루(行) 아유미(步) 규정을 100리 (조선 마을)이라고 한 것은 대개 일본인의 보행의 거리를 재서 해 진행시켰는데도 귀국에서 이것을 용서해 없는 뿐만 아니라, 게다가 졸자에게서 자청한 변통법도 들리지 않고, 단지 이유도 비도 막론하고 통틀어서 거절이라는 듯이 대답해 해져들, 오른쪽은 물론 우리나라 때문에만을 궁리해서 청구한다고 하는 것에서는 없으므로, 졸자는 일본정부의 위임을 받은 사신이라면, 부득이하게 어디까지나 토론 하지 않을 수 없는 것이다.

조(趙)… 이미 그저께도 이 이론을 받아 있어, 오늘 조문한 것도 졸자에게 있어서 별도의 사고방식이 있는 것이 아닌, 단지 주사람의 도리를 가져서 물러갔다까지다.

미야모토(宮本)… 그렇다면 다카(貴)관은 규정 주리(十里)에서 만족이라고 생각해 행해질 것인가?

조(趙)… 졸자 뿐만 아니다. 우리정부에 있어서 마땅한과의 전망이다. 이미 정부에서 결의한 이상은 졸자의 힘으로 어떻게 하더라도 할 수 없고, 허무한 이론을 해도 도리어 실례라고 생각하고, 어제는 뵈러 가지 않은 것이다.

미야모토(宮本)… 다카(貴)관으로 해서 그러한 전망에서는 지금까지 조금씩 조금씩 변론 해 진행시킨 것도 모두 무리한 것이라고 생각해 행해질 것인가?

조(趙)… 졸자의 전망은 다시 말해 우리정부의 전망이든지. 졸자는 단지 전할뿐이다.

미야모토(宮本)… 다카(貴) 정부를 논하는 것이 아니다. 다카(貴)관은 졸자의 소론을 무리라고 생각해 행해질 것인가 아닌가 받고 싶다.

조(趙)… 우리정부에서 부당이라고 생각되는 것은 졸자의 마음이라도 같음이라고 생각된다.

미야모토(宮本)… 귀의에 있어서 무슨일을 불상당으로 해질 것인가?

조(趙)… 주리(十里) 사방에서 상당하다. 동래부(府), 마산(馬山) 후미등에 이르는 것은 불상당이라고 생각된다.

미야모토(宮本)… 우리나라의 인간이 귀국의 안을 3, 이카리(五十里)의 곳을 경과하는데도 두어서 아무런 해가 있는 것인가? 무해인을 금지해 될 수 있어야 할 도리는 잔잔해져있을 것이다.

조(趙)… 지장이 있다고 하는 것은 며칠째 말씀 드린 대로다. 다소간(몇분) 외국과 교제하지 않는 나라이기 때문에 외국인이 오지 않은 지방 귀국의 사람이 오면 우리인민이 안착하지 않는 것을 두려워하는 것이다. 이 議는 追⊙상담도 해야 한다.

미야모토(宮本)… 追⊙상담과는 오늘 처음으로 받았다. 인민이 안착하지 않는다라고 하는 것은 매번 해지지만, 결코 그렇지 않다. 그 증거는 이미 종종 자청하고 있다. 그러므로, 요전에도 해 진행시킨 것 같이 1번 동행에서 현장에 대해서 보아서는 어떠한가. (부산(釜山) 초량)

조(趙)… 졸자가 실제로 보아서 어떻게 있어도, 물론 우리정부가 숙지하고 있는 것이다.
그런데 이러한 담판에 걸쳐서는 서로 애교의 길에 있지 않고. 따라서 딴 일을 상담해야 한다.

미야모토(宮本)… 이 이론의 지금 내는 것이지 않은데도 딴 일을 의논하지 말것. 아니, 졸자의 제설은 부당 되자마자.

조(趙)… 부당이라고 생각된다.

미야모토(宮本)… 무엇이 부당한 것인가?

조(趙)… 우리정부에 있어서 용서되지 않는 것 딸 수 있고, 부당이라고 생각된다.

미야모토(宮本)… 다카(貴) 정부에 관계하는 것 만큼 있지 않고. 도리 위에 있어서 부당이라고 인정을 받을 것인가? 동시에, 졸자의 말이 부당이라면 그 이유(번역)을 받고 싶다.

조(趙)… 며칠째 말씀 드리고 있는 대로다. 그러한 담판에서는 졸자를 대우 내려져야 할 길에는 있지 않고고 생각된다.

미야모토(宮本)… 다카(貴)관을 대우하지 않는다라고 말하는 것에 있지 않고. 그렇지만 졸자의 말을 부당이라고 생각해 행해질 때는, 변론하지 않고 걸쳐 입을 수 없는 것이다.

조(趙)… 우리나라에 있어서 풍속 때문에 좋지 않고고 생각되는 고에 그렇게 말씀 드리는 것이다.

미야모토(宮本)… 풍속에 있어서 좋지 않고고는 실로 불가해다. 자국의 사람은 야만이라고 인정해 행해지는 것인가?

조(趙)… 우리나라의 사람이라고 할지라도 먼 벽지에 오면 그 지방의 사람들을 보아서 경악정도의 기세다.

미야모토(宮本)… 자주 하게 부산(釜山) 초량공관에 오는 귀국의 사람다수 있어. 그런데도 풍속에 구애되면 있으면 그 변명에 오시다 내려져라.
그런데, 이러한 담은 追⊙이라고 어려워진다. 다카(貴)관에 있어서도 달리 말도 없기 때문에, 어제도 내관 없는 정도로는 이미 다카(貴)관과는 책ど길이 끊어진 것 같다. 졸자는 우리정부에서 별단의 위임도 있으면 내일아침은 다카(貴) 정부에 와서 제각료와 면담해야 한다. 그 때에 이 건(件)도 담판 해야 하게 붙고, 다카(貴)관에게서 이 취지 통달 있고 싶다.

(이 다음날 23일에 급전 직하, 동래부(府)만은 주리(十里) 규정외이면서 왕래할 수 있다라는 정부의결이 있었던 것을 강습관이 전했다. 미야모토(宮本)도 그것을 가져서 조선 제안을 받아들여 협의는 타결했다. 아마, 미야모토(宮本)의 제각료에게 직접 담판에 미친다라는 이야기를 들은 가르치고 이끎 겐(玄) 옛날 운이 부산(釜山)의 실태를 가져서 설득했다고도 생각된다. )
8월23일

조(趙)… 그 후, 우리정부도 조금씩 조금씩 걱정을 되풀이해서 논의에 달하고, 결국 약 귀의의 와 같이 결정했다. 따라서 오늘은 기쁘게 담판을 끝내고 싶다.

미야모토(宮本)… 받아야 한다.

조(趙)… 각처행상은, 이미 개항하는 약속이 있어서 청구에 따르기 어렵다라는 묘의에 대해서, 잠시동안 개항에 맞춰서 취소해 내려지고 싶다. 또, 부산(釜山)의 유보 규정은 마산(馬山) 후미에 이르는 것은 다소간(몇분) 시라베(調)議 하기 어려우므로 상결정타(멈춤), 동래까지는 항상 왕래할 수 있게 결정했다. 잘 이 근처에서 결정을 바란다.

미야모토(宮本)… 각지행상은 부디 지장이 있어 있으면 있으면 굳이(억지로)는 하지 않지만, 개항장의 측량의 때에 즈음하여 단지 해로만으로 상륙을 거부되어서는 불편리한 것이므로, 그 근방의 육로로도 와서 측량할 수 있는 것이 양해 있으면 좋다.

조(趙)… 그것은 요전에도 말씀 드린 대로, 어느쪽인가의 항구의 짐작의 장소가 생긴 뒤에서 상륙 실제로 봄 될 수 있는 것은 지장이 없고, 가장 그 때는 미리 동래부(府)에 보고 내려지고 싶다.

미야모토(宮本)… 마산(馬山) 후미에 왕래는 굳이(억지로) 거절이라면 하는 수가 없는 바이다. 그러므로 이 위에는 문장을 확정해 청서하는 것에 걸려야 한다.

조(趙)… 가르치고 이끎으로부터 청구에 미쳐된 동래, 부산(釜山)에 도오루(行) 아유미(步)에 관한 대담 기록은 수행원의 안에서 투여 내려지도록 바라고 싶다.

미야모토(宮本)… 물론 승낙해 있어.

조(趙)… 그렇다면 가와카미(河上)군 (일본측기록계)의 기록을 해 주시면 큰 운이든지.

미야모토(宮本)··나중에, 동인에게서 가르치고 이끎에 건네 주어야 한다.

오른쪽에서 담판 상완료 ···.

미야모토(宮本) 소1의 대담 기록이나 그 행동 기록등을 읽으면, 매우 보통인 사람간 (이)라고는 생각되지 않는 일하는 태도가 보인다. 때로 침식도 무시하고, 혹서 안(속), 수행원들이 차례로 병이 나서 쓰러져 가는 중에 혼자 기염을 토하고, 강인한 정신력에서 협의를 진척시켜 간 완전한 터프 맨이다.
모리야마(森山) 시게루(茂)가 지극히 날카로운 변론 가지는 외교관으로 한다면, 미야모토(宮本)는 주먹으로 확고히 한 것 같은 언론으로, 그것도 정론을 가져서 추진하는 인물이다. 그러면서도 상대를 내려다보거나 실례한 말씨는 결코 하지 않는다. 그리고 「사람도 좋아라」의 생각이 강한 인간이기도 한다.
그는 뒤에 부산(釜山) 초량공관의 일본 관리관에게 편지를 보내고, 종래와 같이 조선의 관리를 공관에 불러내는 것 같은 것이 있어서는 안되는, 조선은 일본과 대등한 독립국이며, 실례가 있어서는 안되는,이라고 엄격하게 선고하고 있다. 가장 이것은 「불러내고 있었다」 것은 아니고, 공관으로부터 한 발짝도 밖에 나가는 것을 조선 정부가 용서하지 않았으므로, 오게 하지 않으면 상담을 할 수 없었기 때문이지만.
말하지 않으면 안되는 것은 욱신욱신라고 말하고, 그러면서도 신사 그렇게(그처럼). 보다예의예절을 알아 하는 인물이었다.



연해해안 측량에 대해서

부록 제9돈에도 있는 듯이 조선 연해해안 측량은, 수교 조규 제7돈의 「조선國【노】연해 크고 작은 섬들 암초, 從전심? 【오】經【사레하】지극히 【메테】危險【도나스니】원인【리】, 일본國【노】항해자 자유【니】해안【오】측량【스루오】准【시】」가 그 의미하는 곳이다.
이것은 일본뿐만 아니라 서양국도 그것을 요구하고 있었다. 영국 배가 자주 조선 연안을 측량하고 있었던 것은 그 때문에다. 결코 조선에 적대해 그 땅을 빼앗는등의 속마음 있어서의 것이 아니다 (영국 공사의 변). 미야모토(宮本)의 조선행을 들은 영국 공사는 조선 정부에 그 뜻을 알려 주도록 의뢰하고 있었다.
지금이야말로 각국의 배는 황해·일본해(동해(東海)가 아니다)을 빈번하게 왕래하고, 기요시(淸)국의 텐진, 소장, 상해등으로부터 일본의 나가사키(長崎), 하코다테(函館),또 러시아의 블라디보스톡등에 통행할 때에 조선 연해를 통하지 않을 수 없기 때문이었다.

이하는 그 때의 대담이다. (미야모토(宮本)대丞조선 이사처리 10/4게이오(慶應) 4년3월부터 메이지(明治)9년9월 p34영국國공사부탁【노】것【니】부 조(趙) 인 히로시(熙)【도】담판【노】요지)로부터 발췌, 현대어, 괄호는 필자.

미야모토(宮本)… (영국 공사에게서의 의뢰를 포함시켜서 상기의 것을 간곡히 설득하고,) 이미 외국에서는 등대를 마련해서 암초를 나타내는 곳조차 있다.

조(趙)… 다카(貴) 사토시(諭)의 설(說)은 알았다. 지금 우리나라에서 영국 배가 오는 것은 달리 이의는 없다.

미야모토(宮本)… 그렇다면 정말로 다행이다. 영국 배의 의향은 앞에 말한 대로다. 결코 귀국은 이 배에 대하여 난폭함을 해 주시는 없어라. 만약 난폭함일 있어서는 뒤에 큰 해를 야기하지 않는다.

조(趙)… 난폭함은 없음. 이미 지방관이 그 배에 부엌일이나 미(쌀)을 보낸 취지를 신고했다. 그것을 가져서 추측 있어야 한다.

미야모토(宮本)… 정말로 그렇다나. 실로 큰 운라고 말해야 한다. 그러나 귀국이 외국선과 볼 때는 참가혹의 취급을 하는 것은 이미 해외에 들리고 있다. 이번의 조약으로 그 것을 폐지한 것은 명료하지만, 영국 배에 대하여 폭동등것이 있어서는 실로 귀국의 대사에 대해서, 아무쪼록 주의 있고 싶다.

조(趙)… 승낙했다.

미야모토(宮本)… 이것은 조선 의정부에 있어서 주장하자고 계산하고 있었던 것이 대표담판이 되어서 그 이야기를 할 수 없었으므로 세운 것이다. 지금, 귀하에 고한다. 잘 정부제관에게도 통지 어쩌다가 깨지고 싶다.

조(趙)… 깊게 승낙했다.

예전에 메이지(明治)8년9월에 부산(釜山) 초량에 입항한 영국 배에 대하여의 조선측의 대응 (10월 3일)로 보면 대단한 변하는 방법이다.
미야모토(宮本)는 조선 정부에서 대하여 외국과 트러블을 일으키지 않는 것 같이, 이미 2월의 구로다(黑田) 전권파견시에 신각료들과의 대담으로 전하고 있었지만 (일조 수교 조규체결 여화), 그 효 있어서의 것인가 또는 개화파의 의견이 강해졌기 때문에인가는 모른다.
혹은 또, 오사무(修) 신(信)使가 방일했을 때에 영국 배로부터 도움을 받은 조선인 표류 국민을 넘겨준 것도 영향을 주고 있을 지도 모른다. 그것은 이(李) 모토하루(元春)라고 하는 조선인으로, 메이지(明治)8년10월에 일본해에서 표류하고 있었던 바를 영국 배【오스카와이루】호에 도움을 받아, 홋카이도의 영국 영사관에서 보호되어서 9년1월에 도쿄(東京)의 영국 공사관에 보내져, 4월에 공사가 데라시마(寺島) 외무경에게 조회해서 일본측에 건네 주어서 6월에 오사무(修) 신(信)使가 데려서 되돌아간 사람이다. (「대 한 정책관계 편집/메이지(明治)9년 조선국 오사무(修) 신(信)使김기수 내조 한 사건 제2권, 영국船【니테】소 구원【노】조선 표유랑민 이(李) 모토하루(元春)【오】신使【니】부여【스루니】부【기】외무경【요리】該使왕복서」B03030150000의 p23)

그러나 이 다음도 조선 각지에 세워져 있는 「양이침범 부전 노리카즈(則和) 주화(화합)자賣國도적 (야만인 외국인이 우리나라를 침범하는 것을 싸우지 않는, 다시 말해 화(화합) 주화(화합)자는 매국도적이다.) 」의 석비가 철거될 일은 없었다. 조규부록등의 조인이 이루어진 후도, 미야모토(宮本)는 아직 걱정을 전부 씻을 수 없었지만, 예상대로 이후에 폭력사건이 일어난다. 그것도 일본인에 대하여이었지만, 그 것은 후술하고 싶다.


화폐의 유통에 관해서

일조 양쪽화폐의 유통은,

제7돈 「일본國인민, 일본國【노】제화폐【오】以【데】조선國인민【노】소유물【도】교환【시】득【헤시】. 또 조선國인민【하】교환【시】싸게 구매 통 일본國【노】제화폐【오】以【데】일본國【노】제화물【오】매입【루】⊙爲【메】, 조선國지정【노】제항【니테하】인민상호【니】통용【스루오】득【헤시】. 일본國인민【하】조선國구리화폐【오】사용 운수【스루오】득【헤시】. 兩國인민, 나【니】錢貨【오】鑄造술루(Sulu)자【아레하】각그것國【노】법률【니】데루(照)【시테】處단【스헤시】. 」

과 정할 수 있었지만, 이것은 대담의 결과, 니혼바라(日本原)안에 화폐나造의 처벌을 덧붙여 쓴 것 뿐이다. 조선측은 이외에 (아무런)조금도 이의를 제의할 일도 없었다.



조선의 화폐인 당 100전 (아래), 위의 화폐의 100배의 가치로 유통시키자로 했다.
처음부터 조선에서는 화폐의 신용도가 낮게, 사람들은 대부분 물물교환에서 매매를 하고 있었던 것 같다.

특히 1866년에 대원군이 경복궁재건을 위해서 「당100전」되는 것을 부어 만들어서 그것까지의 100배의 가치로서 유통시키자로 한 것이기 때문에, 인민은 물론 정부내부에서도 분만비판이 속출해 100배로 유통할 일은 없었지만, 당시의 상인이 이 화폐의 교환을 이용해서 폭리를 얻자로 하는등, 드디어 화폐의 신용이 떨어진 것 뿐이었다.

예전에 미야모토(宮本)는, 역시 구로다(黑田) 전권파견시에 신각료들에 대하여, 화폐경제의 중요성을 설득하고, 화폐가치를 설득했다.
또, 조선 오사무(修) 신(信)使의 방일의 때에 일본정부는 도쿄(東京) 지폐기숙사를 견학시켜, 더욱 오사카(大阪) 조폐국을 견학시키지 않는다고, 일부러 데라시마(寺島) 무네노리(宗則) 외무경 스스로가 서면으로 그 것을 권한 것이다. 화폐의 품위, 그 신용도는 그 나라의 독립국된과 관계된다고. 일본이 화폐를 부어 만드는데도 어떻게 주의하고 있을지를, 신중히 조폐국구경으로 알려지고 싶은,이라고.
생각이 들어간 권고서면이었지만, 어떻게 오사무(修) 신(信)使김기수는 병을 이유로 거절한 것이다. 그것이 꾀병인가 정말인가는 모르지만, 이 다음 조선이 근대화폐제도를 이해해 대응하는 조짐은 없었다.

일본으로서는 일본 화폐를 가져서 무역 하지 않을 수 없다. 그리고 뒤에, 조선 화폐보다도 일본 화폐를 신용한 것은 이외 안되는 조선인 자신이었다.


무역과 관세

구로다(黑田) 기요타카(淸隆)와 이노우에(井上) 가오루(馨) 가라사대.
「요컨대 상하 빈곤, 도처에 고요한 부락 있을뿐」 「그와 굳이(억지로) 무역하지 않는다고 바라나 화폐 있는 없고, 산물, 1의 귀중 해야 하는 차면, 시급하게 번성의 시를 열 때에 있지 않고」 신가라사대.
「조선은 이르러서 가난국에서 물산 매우 간신히 면 및 쇠가죽등 되면, 여기저기에 개항하나 대개의 이익 있다 まじ. 그렇지만 이것은 사견이든지」

데라시마(寺島) 무네노리(宗則) 가라사대, 「수출입의 표의 미쳐 미미한 무역에 이것 있어, 빈곤무산의 조선國, 향 다음무역 행사 신(進)의 목적, 상 서 어려움 해 철(후)」 (메이지(明治)9년6월19일, 후토시(太) 세이(政) 각료에게 물음之통) 「수출입세를 오사무(收)むる와 같은 구속법 개미て은, 범선풍편을 잃을뿐만 아니라 시일을 허무하게 보내 동시에 세액을 부과되어 누누이를 두려워해 그의 땅에 전(前)往을 좋아하는 물건 증식하지 않는 べ 해. 수세 하는 것 장소상 서 어렵다고 알아 철(후). 동시에 수출세는 각국무역품조차 옳음을 폐지해서 우리작업을 행사 신(進) 마개라고 바라는 시세에 붙고, 조선 수출세는 지금보다 물론에 옳음을 비추어 보지 않고 그의 나라에서 수입해 오는 물품과 雖도 소수 동시에 대부분은 실용품에서 國해가 되어야 할 물품 올 수 있어 없는 철(후). 이 조(條) 또 몇 년의 뒤까지는 무세에 차이 정해져…」 (동상)

산조 사네토미 후토시(太) 세이(政) 각료, 훈 조(條)에서 가라사대, 「조선 관원, 무역 때문에 조선 인민보다 뇌물을 요구해 또는 전매를 허용하고,혹은 무거운 세금을 부과하는등 개미라고 듣는다. 여전히 부산(釜山)에 이르러 실제를 심문해 과연 하기로부터 ば 이 폐해를 구하고, 무역의 방해로 안되기 때문의 요령을 약속해 두어야 한다」

일조 무역에 관한 의견은 다방면에서 있어, 각양각색이게 검토되었다.

도대체, 메이지(明治)9년2월의 수교 조규 제9돈에 「양국 이미 통호를 경과하거나. 피차의 인민각자의 의견에 맡겨 무역せ 해 むべ 해. 양국관리 추호도 이것에 관계되는 것없슴. 또 무역의 제한을 서라, 어떤은 금령沮 한다 る을 이득을 본다. ···」이라고 있는 듯이, 무역은 양국정부가 관여하지 않는 완전 자유 무역으로 하는 것으로 이미 합의하고 있었다.
여전히 당시 이 9돈으로 조선측이 주장한 것은, 그 후의 문장 「만약 양국의 매매 국민欺그물 망衒판매 또는 대차 변상하지 않는 것 어느 때는, 양국의 관리 엄중하게 該逋매매 국민을 取규명해 채권결을 追변せ 해 むべ 해. 단 양국의 정부는 이것을 대상 하는 것 이유없슴. 」을 가필하게라고 하는 것은 있었다. 무역상의 트러블로 조선 정부자신이 보상하지 않으면 안되게 되는 것을 싫어해서의 것이다. 미야모토(宮本)는 「그렇기때문에 정부가 관여하지 않고 인민의 자유롭게 시킨다면 정부에 책임은 없는, 무역에 간섭할 책임이 생긴다. 」이라고 설득했지만, 그래도 여전히 조선측이 불안을 느꼈으므로, 일부러 뒤(후)의 문장을 넣게 한 것이다.
무역에 간섭하지 않는다. 즉 관세를 걸지 않는 것은 당초부터의 확정 사항이었다.
이것에는 다음 3점의 목적이 있었다.

·무역 물자가 적은 위로 당초부터 관세를 결여되고서는 무역의 발전이 저해되므로, 그것을 피하기 위해서. 무역량의 증대와 함께 관세는 장래 고려한다.

·조선 관리의 뇌물, 부당한 무거운 세금,또 쓰시마(對馬)측도 수출입품에 무거운 세금을 걸어서 부당한 이익을 얻고 있었던 것등의 폐해를 없애기 위해서, 무역에 정부간섭을 시키지 않는 것. 또 이것에 의해, 무역량이 적은 것에도 관계 없이 세관소의 설치나 세관원의 파견등의 경비부담이 되는 것을 피할 수 있다.

·나이 해 배등의 구래의 무역에 교제 레이(禮) 다다시(義)가 가져오게 하고, 그것이 바꾸어서 조선 정부에 큰 부담이 되고 있었던 것도 포함시키고, 증여 예와 답례등의 예의행위가 부수되는 것을 억제하고, 순수한 상행위를 향시켜서 개화 근대화를 진척시키는 것.
구로다(黑田) 전권파견시, 미야모토(宮本) 교토성행의 때,라는 닮아 조선측에서의 예의증여는 극력 배제했지만, 그것도 양국교제의 근대화와 조선국 개화 때문이었다.

이것은 미(쌀)의 수출입에 관련되어서의 것이지만, 미야모토(宮本)는, 종래의 쓰시마(對馬)가 부당한 무역세 이익이 바꾸어서 쓰시마(對馬)의 식량자급의 자조노력등을 방해하고, 자립적인 경제의 확립을 할 수 없었다고 생각하고 있었다.
미야모토(宮本)는, 미(쌀)의 수출입에 관해서 훈 조(條)에 있는 「공공무역을 닮아된 운운」을 조(趙) 강습관과의 담판으로 제안하지 않고 있다. 쓰시마(對馬)는 자조노력을 해야 해서 또 그것을 할 수 있는 전망이 있다고 하는 판단이었다.


그런데, 이상과 같은 관점에서 무역 규칙은 합의해 간 것이지만, 일본측으로서는, 그래도 만약 조선 정부가 관세를 거는 것을 굳이(억지로) 요구할 경우는 5분(5%)까지는 肯 승낙하게, 산조(三條) 후토시(太) 세이(政) 각료는 훈조로 미야모토(宮本)에게 명하고 있었다.
그러나, 조선측은 아무 것도 요구하지 않았다. 무역 규칙이 구래의 나이 해 배등과 같은 무역 형태가 안된 것에 의해 접대 부담이 해소되는것만으로 충족한 것일 것이다.
유교의 나라 조선은 사실은 레이(禮) 다다시(義)에게 붙들어 매여서 레이(禮) 다다시(義)에게 고통받고 있었던 것이다.

한편, 조규부록·무역 규칙의 세칙으로서 이 관세는 별문장에 의해 주고 받았다.
다시 말해, 미야모토(宮本) 소1은 조인 체결의 8월 24일자로, (미야모토(宮本)대丞조선 이사처리1 p24) 「일본측으로부터는 조선과의 수출입품에 일체 과세하지 않는다고 결의했다. 무역에 관해서 관리의 특권적 이익이나 뇌물을 배제하기 위해서, 관리가 무역 통상에 관여하지 않고, 매매 자유와 그 보고도 불필요해서, 화물출입의 파악은 가이(海) 세키(關)(화물검사소)의 기록을 가져서 해서 그것에 간다. 」

이것에 대하여, 강습관 정부당상 조(趙) 인 히로시(熙)도 같은 날에 확인서를 보내고, (동상 p32) 「무역은 히로유키(寬裕)에게 맡아 관리의 사리이익이나 전유등을 일체 가죽(혁) 나누고, 인민매매에 조회 불필요, 화물의 출입은 몇 년 면세를 특히 용서한다. 」이라고 적고, 별세칙의 표류 국민의 처우와 그 제경비상환에 관해서도 동의를 병기하고, 「···우건(件) 1일 데루(照)령, 이익탄식귀의 쓰토무(務) 존재交편(便) 양쪽國국민인, 纖悉구비, 惟當依此시행, 긴尊장 정도, 玆요(庸) 회覆, 다카시(敬)冀」라고, 양국인민의 交편(便)으로서 세칙이 정돈된 것을 칭찬하고, 시행하는 것에 오랫동안 존경하는 무역 규칙이다라고 문장을 잇고 있다.



여전히 일본정부는, 관세수입이 없는 조선 정부를 위해서, 항구세를 마련해서 일본 함선 1척마다 선주에게서 조선 정부에 세금을 물게 해 (산조(三條)의 훈조에 의한 추가), 부산(釜山) 초량공관의 시설의 지조세를 지불한다 (이노우에(井上)·구로다(黑田)의 건의에 의한) 등의 편의도 쟀다. 당연 이것은 장래 열릴 것인 새로운 항구에서의 시설에도, 상당한 지조세가 지불된다라고 하는 의미도 포함하고 있었다.

이상과 같이, 정말로 충분한 배려가 구석구석까지 미친 정책이었다라고 말할 수 있자.

「관세를 인정하지 않고」라고 하는 표면상만을 논하고, 「일본에 의한 수탈」등이라고 비난하는 사람이 있지만, 것의 내정이나 경과의 상세를 모르는 무지로부터 와 있다고밖에 표현이 없다.



삐뚤어진 역사 인식

그런데, 필자는 여기까지의 역사사적을 제멋대로 하게 나오기는 있지만 아쓰시(篤)와 공부해 보아서, 역사의 사적만을 더듬어 가는것만으로는 역사 인식으로서 결코 충분하지 않다고 생각하게 되었다. 당시의 사람들의 마음도 해독해야만, 정부의 판단을 할 수 있는 역사 인식이 되면.

예를 들면, 정부의 정책이라고 하는 것도 요컨대 사람이 하는 것이다. 거기에 어떤 의도가 있어, 결국 사람의 기분이 어떻게 담아져 있었을지도 고려해야만 역사의 사실이 밝혀지는 것이 아닐까라고.

물론 인간이 하는 것이기 때문에, 당연 잘못도 있을 것이다.
「깜박하고 있었다」 「거기까지는 생각하지 않고 있었다」라고.
구름 튀겨 호사건으로 말한다면, 「깜박하고 있었던 조선 정부」 「거기까지는 생각하지 않고 있었던 일본정부」라고 하는 것이 필자의 결론이다.

그것을 처음부터 악의를 가져서 하는 밧줄ち꾀를 가졌다로 한다면, 반대로, 「조선 정부내부의 개화파가 공작해서 일본과 사건을 일으키는 것에 의해 일본의 압력을 이용하고, 조선의 개화를 진척시키자로 했다. 」로 한 이론까지가 성립한다.

삐뚤어진 마음으로 사람을 보면, 남의 선의조차 が 삐뚤어져서 보이는 것이다.

삐뚤어졌다라고 말하면, 다음 문장,

한국의 고등학교용 국정교과서 「국사 (상 ·아래)」 (1995년 발행)의 일본어이유(번역) 「한국의 역사」 (아카시(明石) 서점1997년 발행)보다 발췌.

Ⅵ-1- (2)개항과 근대 사회의 개막

강화도(江華島) 조약과 개항

쇄국 정책을 취하는 대원군에게서 민(閔)씨 일족에게 정권이 교대하면 개방론이 생겨나게 되었다.

다른쪽(타면), 메이지(明治) 이신(維新)이후, 근대 국가의 체제를 갖추어 자본 주의를 급속히 추진하면서 해외침략을 기도하고 있었던 일본은, 구름 튀겨 호사건을 일으켜 조선에 문호개방을 강요했다. 그 결과, 결국 조선은 일본과 강화도(江華島) 조약을 이어 문호를 개방하게 되었다.
강화도(江華島) 조약은 우리나라가 외국과 맺은 시작해서의 근대적 조약이었지만, 불평등한 조약이었다. 강화도(江華島) 조약에 있어서 조선은 자주국으로서 일본과 동등한 권리를 가진다고 규정되었지만, 그것은 조선에 대한 기요시(淸)국의 종주권을 부정함으로써, 일본의 조선 침략의 길을 열리자로 한 것이었다. 그리고 이 조약에서는 조선의 부산(釜山)의 이외에 2항의 개항, 일본인이 자유로운 통상 활동과 조선 연해가 자유로운 測다다미를 정하고 있었다. 그것은 단순한 통상 교역의 경제적째적이다와는, 비슷하나 다르는 것이며, 정치적, 군사적 거점을 노린 일본의 침략 의도의 현상에 다름 아니었다.
게다가, 개항장에 있어서의 일본인의 범죄는 일본의 영사가 재판한다고 하는 영사재판권, 다시 말해 치외 법권 조항을 설정함으로써, 조선내에 거주하는 일본인의 불법 행위에 대한 조선의 사법권을 배제했다. 특히, 치외 법권, 해안측량권은 조선의 주권에 대한 침해이었다. 이렇게 일본은 예전에 일본 스스로가 개항을 할 수 밖에 없어, 미국, 영국등과 맺은 불평등한 관계를 그대로 우리나라에 강요한 것이다.
강화도(江華島) 조약에 이어, 별도의 조치가 채용되어, 조선 국내에 있어서의 일본인외교관의 여행의 자유, 개항장에서의 일본인거류민의 거주지의 설정과, 일본 화폐의 유통,그리고 일본의 수출입상품에 대한 비과세와 곡물이 무제한인 수출등이 인정을 받았다. 이것에 의해 조선에 대한 일본의 경제적 침략의 발판이 쌓여진 반면, 조선은 국내산업에 대한 보호 조치를 대부분 강의할 수 없어졌다.

필자는 이렇게도 삐뚤어져서 악의에 찬 문언이 교과서라고 하는 것에 있는 것을 이외에 모른다. 삐뚤어진 역사 인식에 의한 삐뚤어진 일본 관·일본인관을 선동하는 문장을 지은 저자가 비뚤어진 마음의 안 쪽을 보는 것 같다. 그리고, 어떻게 이것이 한국 정부에 의한 유일한 교과서라고 말하는 것이에서.
어이구 이것에 비교하면, 당시의 조선 정부의 인간쪽이 상당히 순수해서 아름다움조차 느낄 만큼이다.

귀국한 미야모토(宮本) 소1은, 다음과 같은 보고서를 일본정부에 제출하고 있다.

(미야모토(宮本)대丞조선 이사처리5/2메이지(明治)9년9월21일 아침 아키라(鮮)국 수교 조규부록무역 규칙 약 시게유키(成之) 다다시(義) p2)아래관 의, 그땅체류중, 동(同)國정부【요리노】접대쪽【하】, 일본인자유【니】문외【헤】散행【오】아래【사스】 어떤 【하】공무【아루】자【노】외, 남【헤】접견【세시메사루】등 미개【노】풍습【오】免【레사루코토】유【리토】雖【모】, 그 타【하】총【데】정(鄭) 중 매우 뛰어남渥【노】접대【오】지극히 【메타리】. 동(同)國【노】우리【가】國【니】對【시】우의【아루노】보람【오】아키라(顯)【하시타루하】아쓰시(厚)【구】상상 피降, 장래 동국(같은 나라)【도노】교제 일층 【노】懇遇【오】아타에(與) 헤라 레철(후)님奉存철(후). 依【데】此단상신 철(후)경구

메이지(明治)9년9월卄하루 외무대丞미야모토(宮本) 소1화압

태정관 우장관(右大臣) 이와쿠라(岩倉) 도구시님 외무경 데라시마(寺島) 무네노리(宗則)님

「내가, 그의 나라에 체류중, 동국(같은 나라) 정부의 접대라고 하는 것은, 일본인이 자유롭게 문외를 산보하는 것을 허용하지 않거나, 공무 있는 사람이외는 다른 사람들과는 만나게 하지 않는등, 미개한 풍습을 넘지 않는 곳도 있었지만,기타는 전부 정(鄭) 중을 극에 달한 접대이었습니다. 동국(같은 나라)가 우리나라에 대하여 우의의 표를 널리 알린 것은 두껍게 상상 내려져서, 이 다음의 동국(같은 나라)와의 교제에 한층의 후대를 주어지는 것을 기원해 드립니다. 」

미야모토(宮本) 소1외무대丞의, 조선에 대한 순수한 기분을 나타낸 문장이라고 말할 수 있자.



http://www.kntv.co.jp/prog/dra/p0322/story10.html



■第10話


宮女李氏が男児を出産。王室では李氏の処遇をめぐり、論争が起こる。 大院君は李氏に高い品階を与えようとするが、大王大妃や朝廷の重臣らはこれに反発する。 また、王妃閔氏を推す府大夫人や閔升鎬は、大院君が王妃を疎んじていることに不満を募らせる。 大院君は景福宮の工事による財政の逼迫を打開しようと、当百銭という新貨幣を発行するが、貨幣価値は混乱。 大王大妃を筆頭とする豊壌趙氏や安東金氏の勢力は、こうした民衆の不満に乗じ、大院君の独裁に歯止めをかけようと画策する。

景福宮への移居を目前に、工事による財政の切迫度は極限に達していた。 大院君はこの危機を打開しようと、既存の銭の100倍に相当する当百銭(ダンベクゾン)という新貨幣を発行する。 一方、高宗は苦しい立場の中で、李尚宮のもとを訪れて励ましてくれた明成皇后を思い浮かべながら、今まで自分が疎みすぎたと反省し、明成皇后の部屋を訪ねる。

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