「朝鮮解語花史」(李能和著1927・東洋書院、翰林書林)
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이능화
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이능화(李能和 1869∼1943)는 1922부터 조선총독부의 조선사편찬위원회에 소속되어 15년 동안 조선사 편찬에 종사하는 한편, 여러 분야의 종교자료들을 수집, 연구하고 저술하였다.
李能和「朝鮮の巫俗」註野村伸一
目次
0. 解題
1. 本文と註釈の基準
2. 李能和略年譜
3.「朝鮮巫俗考」を読む
4. 李能和「朝鮮の巫俗」・註
付記
本稿は2002年の『日吉紀要言語・文化・コミュニケーション』No.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会発行に掲載した野村伸一「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)「李能和「朝
」鮮の巫俗」註(下)」の解題部分である。近年、真正の朝鮮学をはじめないうちに「現
、
代韓国の学術研究」の紹介がはじまっていることに対して、多少の違和感がある。李
能和や崔南善、孫晋泰など近代朝鮮の先学者の業績のうち、日本人には李能和という
人はとくになじみがないようである。それで、こうしたものを一年かけて連載した。
李能和には個々に間違いは散見するが、仏教、巫俗、道教へと必然的に広がる、その
視野の雄大さと対象への誠実な取り組み、その成果は今なお屹立している。スケール
が大きすぎたというべきなのか、こじんまりとした成果を出すことに忙しい現代研究
者にはいまだにその全貌がつかみきれないでいる。発表した紀要の本文には雑誌『朝
鮮』に掲載された全文の複写と筆写註を載せたが、ここではそれは省略した。
(2003年7月末日野村伸一記)
0.解題
本稿は、近代朝鮮の先駆的な宗教民俗の研究者李能和が1928年から1929年にかけて雑誌『朝鮮』に編輯官(編修官)の肩書で連載した「朝鮮の巫俗」の全文である。それはまた、1927年に雑祀『啓明』第十九期に漢文体で発表された「朝鮮巫俗考」の全訳である。た
」だし、原文と対照すると部分的に違うところもある。この日本文をだれが書いたのかは定かではないが、特に翻訳者名がないこと、また表現においていくらか誤記が多いところをみると、李能和が直接、日本語で書いたのであろう。そうとすれば、たいへんな文章家である。
李能和は1869年生まれで、漢学はもとより、20歳前後には英語を学び、また漢語学校で中国語を学んだあと、フランス語も習得しフランス語の教官を務めた。そして、1905、日語夜学舎で日本語も学び、、、、4カ国後に通じていたという。
年には実に英中仏日のしたがって漢文を書き下すことは十分可能であっただろう。
「朝鮮の巫俗」は、朝鮮においてはじめて巫俗を歴史的に叙述した画期的な論文である。当時、朝鮮総督府には村山智順がいて、朝鮮民族の衣食住や習俗などについて調査をはじめていたが、それが本格的にまとまるのはこの数年のちのことである。すなわち『朝鮮
、の巫覡』は1932年、『釈奠・祈雨・安宅』は1938年である。また赤松智城と秋葉隆の『朝鮮巫俗の研究』も1937年、38年にまとめられた。
朝鮮半島の巫俗の研究は、最近十数年のあいだにフィールドワークを中心とした現地研究がめざましく進展し、今日、韓国内においては、もはや基礎的な現地調査の段階は終えた感がある。しかしながら、これを歴史、特に社会史の上で幅広く考察することはあまりおこなわれていない。たとえば李能和について、巫俗の実態を踏まえた本格的な研究論文
*1
がみあたらない。おそらく今後の巫俗研究は歴史的かつ地域研究的な視野に立って進め、
るほかはなくそのためにも李能和の再読からはじめない限り発展は見込めないであろう。
韓国内では李能和はまだまだよく知られていない。そうしたなかで唯一、関心を示したのは宗教・歴史学の分野の研究者たちであった。すなわち、1903年度に韓国宗教学会では「李能和の宗教史学」という課題をかかげ、一年の研究を経て『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー』(集文堂、1994年)を出版した。ここには8人の研究者による論文が収められていて、これにより李能和の多様な仕事の概略は理解できる。
*1 ただし、徐永大「李能和朝鮮巫俗考校勘」『比較民俗学』第、、
567輯、比較民俗学会、1989-91年は『啓明』に発表された漢文の原文に頭注を加えつつ、簡単なまとめも付したものですぐれた業績である。そこでも述べられているが、李能和の文には誤字、脱字、年期の誤りなどが少なくないので、註釈は不可欠である。このなかには、徐永大の論文「李能和の<朝鮮巫俗考>について」があり、今後の李能和の巫俗論に関してはひとつの踏み台となることはまちがいない。この詳細については、「3.「朝鮮巫俗考」を読む」の項で述べることにする。
ただ、ここであらかじめいうと、歴史学者徐永大による李能和論は全般的に手堅く、納得のいく部分が多いのだが、最後に問題点を6点指摘したところで、わたしは唯一、ひっかかるものを感じた。それは李能和の視点が周辺民俗との比較に流れていき、朝鮮巫俗の特殊性を述べることがほとんど無かったという点である。徐永大は、これを民族史学者申采浩と較べつつ「かなりの違いがみられる」と述べた。そして、朝鮮巫俗の特殊性を強調せず普遍性を論じようとしたことについて、そこには仏教の存在を認めた日本の当局への配
*2
慮、妥協のようなものがあっただろうという。
この李能和の視点は、むしろ今日、より切実に求められるものではなかろうか。朝鮮民族にとっての巫俗はまた東アジアの民衆のものでもあり、そのことが、より広いアジアの文化史のなかでは「独自性」を帯びてくるだろう。それは今後なお、詳細を積み重ねていくことで検証されなければならないが、少なくとも、1920年代に周辺民俗との繋がりのなかで巫俗を論じたことこそはむしろ先駆的であったとみられるのである。
いずれにしても原文が漢文であったということによるのであろう「朝鮮巫俗考」の読
、
*3
まれ方はあまり幸福ではなかった。1976年の李在崑訳、1981年の金烈圭訳(韓国思想全集、三星出版社、そして1990年前後に徐永大の校勘したものがあることはあるが、これ
) らもそれほど広く検討され論じられていない。しかも、再刊されている李在崑訳はかなり不正確な翻訳である。要するに、李能和の巫俗論は名前ばかりは知られているものの、今日の巫俗研究者から忘れられた感がある。韓国においてすら、このようであるから、日本においてはそもそも日本文で書かれた論文があることすら知られていない。
こうした現状をみるとき、何よりもまず忘れられたこの論考を読むことからはじめなければならないだろう。この論文は、一見すると文献資料を羅列しただけのもののようにみ。える。しかし、これをまとめた李能和は、「朝鮮古代の神教の淵源、朝鮮民族の信仰思想、
、及び朝鮮社会の変遷状態を研究せんとする者は先づ巫俗に着眼観察しなければならない」と冒頭にいいきっている。これは王朝五百年の学者のだれひとり手を付けなかった基層文化研究の意義を宣揚したものである。その形式こそは考証学風であるが、優れて近代的な意識のもとにおこなわれた民衆文化の探求であった。
*2
李鍾殷・徐永大・梁銀容・宋錫準・崔俊植・金壽根・金鐸・申光澈『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー、集文堂、1994年、
』43頁。李能和輯述・李在崑訳『朝鮮巫俗考、白鹿出版社、ソウル、1976年。本書はのちに
*3
』東文選書店から再刊されている(1991年)。
ここでは、まず日本語で記されたものを提示することを第一とし、註釈は簡略にとどめた。巫俗に関連する個々の漢語に註を付けるとなると、なお難しい作業が多々含まれているので、多くの部分は記されてあるままにした。今回と次回の2回で、とりあえず日本語の全文を意味の取れるかたちで紹介したいものと考えたのである。
1.本文と註釈の基準
本文と註釈は次の基準によった。
一本文は雑誌『朝鮮』に発表されたままのもので、歴史的仮名遣いを踏襲した。誤字、脱字が少なくないが、それとわかるものには(ママ)を付した。また国王在位年などの年号はできるだけ西暦年号に直して頭註を付けた。紙面の都合で年号以外の註は原則として文末に一括した。
二李能和の本文には漢文の引用が多数あるが、これをそのまま提示した。ただし、意の取りにくいものに関しては註にその大意を記した。
三註釈の大意では、李能和輯述・李在崑訳『朝鮮巫俗考』、白鹿出版社、ソウル、1976年を参照したが、この訳文はかなり恣意的なところがあるので、必ずしもその忠実な翻訳ではない。これを参照した時は「李在崑訳参照」とだけ記した。
四『高麗史』の引用文について大意を記す際には新書苑編集部編輯『北訳高麗史』、新書苑、ソウル、1991年の原文と翻訳文を参照し「北訳」と記した。
五朝鮮王朝実録の大意、年次などを記す際には韓国学データベース研究所『CDーROM国訳朝鮮王朝実録』、ソウルシステム、1997年、ソウルを利用した。これは1971年から1994年まで民族文化推進会によりつづけられた「国訳朝鮮王朝実録」に基づくもので、今日利用されるものとしてはもっとも信頼できるものである。引用の際は「CDーROM」とだけ記した。
六李能和の最初の「朝鮮巫俗考」(原漢文)を参考にするときは「原文」とだけ記した。
2.李能和略年譜
李能和の生涯と業績については、韓国民族文化大百科事典編纂部編『韓国民族文化大百科事典』*4 および前引『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー』*5 所収の李鍾殷「李能和の生涯と学問」に比較的、詳しい記述がみられる。以下はそれによってまとめたものである。
李能和は1869年忠清北道槐山郡で学者の気風のある家に生まれた。書堂で漢学を学んだのち、父親に従って、ソウルにいく。そうして、当時の朝鮮を取り巻く国際情勢に目覚め、英語、中国語、フランス語、日本語を次々と習得していった。1895年には官立法語
、(フランス語)学校に入学してフランス語を学び、同年、農商工部主事として採用されている。また1897年には官立漢城外国語学校に教官として就任し、フランス語を教え、1906年には同校の校長となった。一方、この間、1905年には私立日語夜学舎に入学し、翌年卒業している。
こうして李能和は、1906年ごろまでの間に仏・英・中・日など、4カ国語に通じた。そして1907年には日本の官庁を視察し、この年、国文研究所の委員となった。1909年、法語、英語、日語の学校が統合されて官立漢城外国語学校となると、その学監に任命された。しかし、この学校は、1910年朝鮮併合にともなって閉鎖されたため、こののちはフランス語教育に尽力した。1910年、父親はキリスト教会を設立し、長老職を引き受けているが、李能和自身は、この年、覚皇寺の法席に臨み仏教に帰依している。
1912年には私立能仁普通学校を創立し、3年間その校長を務めた。この学校名は自身の名前の能と夫人の名前の仁を取ってつけたものであった。一方このころから、仏教界の啓蒙運動がはじまっていて、李能和は、その機運のなかで、1915年に僧侶および信徒たちとともに仏教振興会を発足させるのに力を尽くした。そうして、みずからは仏教振興会の幹事に押され、1917年からは理事を務めた。この間に、李能和は『引教相照
、伝道必携百教会通』(朝鮮仏教月報社、仏教書館、1912年)、『朝鮮仏教通史』(1918年)を刊行、また『仏教振興会月報』(1915年)『朝鮮仏教界(』1916年)『朝鮮仏教叢報』(、1917-21
、年)などを編集し、発刊した。これらは仏教の布教および民俗文化守護運動の核となるべく発足した仏教振興会の設立目的を推進するものであった。
1922年には、朝鮮総督府内に朝鮮史編纂委員会(のちに朝鮮史編修会と改称)が組織され、その委員となり、以後25年6月まで朝鮮史の編纂に従事した。この時期に集めたさまざまな資料が論考として発表された。朝鮮史の編纂過程において、李能和は、高句麗と渤海は朝鮮史の一環であると主張し、また建国神話は民族精神を発揮するものなので必ず収載しなければならないと主張したという話が伝わっている。
*4
韓国民族文化大百科事典編纂部編『韓国民族文化大百科事典』17、韓国精神文化研究院、1991年、755ー756頁、李箕永執筆。
*5
この書には巻末に年譜と詳細な著作目録もある。
1930年、当時朝鮮にいた日本人学者たちを中心として青丘学会が発足したが、その時、評議員として推戴され、1939年、この学会が解散されるころまで、その関係はつづいた。また朝鮮総督府宝物古蹟保存会の委員として民族文化の守護関心を示した。1931年、朴勝彬、呉世昌などとともに、啓明倶楽部を設立し、民族精神の啓蒙と発揚に尽力した。また、そのころ、後の東国大学校の前身である中央仏教専門学校において、朝鮮宗教史を講
。義した総督府における朝鮮史編纂が一段落した1938年以後は暫時李王職についた、。1943年、京城で逝去、享年74歳。号は侃亭、尚玄、また無能居士。
発表された主な論考には次のようなものがある。1918年「朝鮮仏教通史、自費出版。
」これは朝鮮仏教史を開拓した名著とされている。つづけて、1922年「朝鮮神教源流考」、1927
*6 *7
年には「朝鮮巫俗考」(啓明』第十九号)につづいて『朝鮮女俗考』『、『朝鮮解語花史』を刊行し、1928年には『朝鮮基督教及外教史』(朝鮮基督彰文社)を刊行した。さらに1930年「朝鮮喪祭礼俗史(朝鮮語の雑誌『朝鮮』147-150号に連載、)
」1936年「朝鮮儒界之陽明学派(青丘学叢』25号)などの論考を残した。
」『
李能和は、主として漢文で論考を表現したが、日本語でも興味深い論文を発表している。その主要なものは次のとおりである。1928年から29年にかけて「朝鮮の巫俗」を雑誌『朝鮮』に8回にわたって連載。また1929年「朝鮮における神話的婚媾」(雑誌『朝鮮』)、「朝鮮における結婚に関する慣習」(雑誌『朝鮮』)、1930年「朝鮮官妓の起源」(雑誌『朝鮮』)、1937年「朝鮮の褓負商とその変遷」(雑誌『朝鮮』、1938」『
)年「李朝時代京城市制(稲葉博士還暦記念満鮮史論叢)などである。
』
なお、朝鮮道教研究の先駆けとされる『朝鮮道教史』は1927年から1933年のころに執筆されたと推定されている。これは草稿として残されていたが、1959年に東国大学校から影印本として刊行された。ちなみに以上のうち『朝鮮解語花史』は、妓生を主題として、その生活に関連する多様な資料を集大成したものであり、これは「朝鮮女俗考」とともに朝鮮女性史の先駆的な名著とされている。これらは1968年に『朝鮮仏教通史「朝鮮基督
』
*8
教及外教史」とともに影印本として再版された。また「朝鮮基督教及外教史」(1928年)は、フランス語で書かれたDalletの『朝鮮教会史』を踏まえつつ、朝鮮王朝時代の文献資料を用いて体系的に朝鮮キリスト教の歴史を述べたものであり、これもまたこの分野の先
*6
『朝鮮女俗考』(東洋書院・翰南書院発行、昭和三年、定価弐圓)。これは漢字とハン
グルを混用したもので、1986年に民俗苑から影印本が刊行されている。本書は李能和著・李在崑訳『朝鮮解語花史、東文選、1992年、ソウルとしてハング
*7
』ル訳されている。
*8
後掲の略年譜を参照のこと。
*9
駆的な研究である。ところで『韓国民族文化大百科事典』では「朝鮮巫俗考」の位置については言及され
、ていない。しかしこれは、先にも述べたように朝鮮の宗教文化の根底に潜む巫俗をはじめて体系的に叙述したもので、やはり貴重な業績である。巫俗は、朝鮮社会が近代の国民国家を形成する際に真っ先に淘汰されてしかるべき旧弊の象徴のようなものであっただけに、多くの啓蒙知識人はこのようなものには見向きもしなかった。そして、それが朝鮮人としてはじめてフランス語を教えたといわれる人*10 、李能和によりなされたことの意味を同時代の日本および朝鮮の学知は本質的には理解できなかった。李能和は朝鮮だけでなくその周辺地域の民衆生活の根柢には巫俗がありつづけたことを多数の文献から証明しようとした。そして、その開かれた視野による民衆文化探求は、発表当時ばかりか、今日にい
、
たっても日本や韓国中国といった硬い国家別の枠組のなかでは十分に認知されていない。何故こういうことになったのか。そのいわれはともかく、今、李能和を読むことによって何がわかるのか、このことについては項を改めてもう一度考えることにする。以上述べたことをさしあたり略年譜に、まとめると次のようになる。
略年譜
1869年忠清北道槐山郡で生まれる。書堂で漢学を学ぶ。1887年ソウル貞洞の英語学堂に入学。2年間修学。1894年漢語学校を卒業。1895年官立法語学校に入学して、フランス語を学ぶ。農商工部主事として採用される。
翌年辞職。1897年官立漢城外国語学校に教官として就任し、フランス語を教える。1905年私立日語夜学舎に入学し、翌年卒業。官立漢城外国語学校を辞任し、官立漢城
英・中・仏・日など、4カ国語に通じる。1906年官立漢城法語学校の校長となる。1907年日本の官庁を視察し、この年、国文研究所の委員となる。1909年官立漢城法語学校の校長を辞任し、官立漢城外国語学校の学監となる。1910年合邦により官立漢城外国語学校は廃校となり、学監を解任される。1912年私立能仁普通学校の校長になる(~1915)
年。この間、仏教振興会で、幹事、月
*9 韓国民族文化大百科事典編纂部編『韓国民族文化大百科事典、韓国精神文化研究院』、年755-756頁(李箕永執筆)参照。
1991 、
*10 同上、755頁。
報編集者として活躍した。同時に、制度、風習、宗教などについての研究に全力を注ぐ。1918年『朝鮮仏教通史』上中下三巻、自費出版、新文館発行。1921年総督府学務局編修官(高等官)待遇。1922年朝鮮史編纂委員会委員になる(25)
年まで。「朝鮮神教源流考(史林』7巻3-5号、8巻1-4号、京都帝大、1922-1923年)
」『1927年「朝鮮巫俗考」(『啓明』第19号)、『朝鮮女俗考』(東洋書院・翰南書院発行)、『朝鮮解語花史(東洋書院・翰南書院発行)
』(雑誌『朝鮮』~7回掲載。
1928年「朝鮮の巫俗」第百五十六号第百六十三号に日本語で第百五十八号には掲載無し。
)
『朝鮮基督教及外教史(朝鮮基督彰文社)刊行。
』1929年「朝鮮の巫俗」(雑誌『朝鮮』第百六十四号、連載8回で完結。内容は「朝鮮巫俗考」とほぼ同一)
。「朝鮮における神話的婚媾」(雑誌『朝鮮』第百六十八号)「朝鮮における結婚に関する慣習」(雑誌『朝鮮』第百六十九号)
1930年「朝鮮官妓の起源」(雑誌『朝鮮』第百七十九号、第百八十号、完結)「朝鮮喪祭礼俗史(朝鮮語の雑誌『朝鮮』147-150号に連載)
」1931年朝鮮総督府編修官に任命される。朴勝彬、呉世昌などと啓明倶楽部を設立し、民族精神の啓蒙と発揚に尽力。1933年このころ「朝鮮宗教史」執筆か(徐永大)『朝鮮道教史(年から1933
』1927年のあいだに執筆か、崔俊植)1936年「朝鮮儒界之陽明学派(青丘学叢』」『25号)「朝鮮の固有信仰」(心田開発に関する講演集、朝鮮総督府中枢院)
『』「朝鮮仏教大観」(心田開発に関する講演集、朝鮮総督府中枢院)
『』
「朝鮮婦人の生活内容」(雑誌『朝鮮』第二百五十六号)
1937年『朝鮮史』第五巻(朝鮮時代中期、光海君-景宗、第六巻(朝鮮時代後期、英)祖-庚午改革)を分担執筆。「朝鮮の褓負商とその変遷」(雑誌『朝鮮』第二百七十一号)
1938年「李朝時代京城市制(稲葉博士還暦記念』
」『満鮮史論叢)1943年4月12日、京城市敦岩町(現、敦岩洞)の自宅で逝去、享年74。
*
1959年『朝鮮道教史(影印本、東国大学校刊)
』
*
1968年『朝鮮仏教通史(影印本、京畿出版社刊)
』『朝鮮女俗考(影印本、博文閣、新韓書林、民俗苑刊)
』
『朝鮮解語花史(影印本、博文閣刊)
』
『朝鮮基督教及外教史(影印本、博文閣刊)
』
*
1972年『朝鮮仏教通史(影印本、宝蓮閣刊)
』
*
1976年李在崑訳『朝鮮巫俗考(白鹿出版社)
』
*
1977年李鍾殷訳『朝鮮道教史(普成文化社刊)
』
*
1978年『李能和全集(韓国学資料叢書、影印本、中央大学校永信アカデミー韓国学
』
研究所)
金サンオク訳『朝鮮女俗考(大洋書籍刊)
』『朝鮮道教史(韓国学資料第5 集、影印本、普成文化社刊)
』
*
1980年尹在英訳『朝鮮仏教通史』三巻、博英社
*
1981年金烈圭訳『朝鮮巫俗考(韓国思想全集、三星出版社)
』
*
1989年姜孝宗訳『百教会通(雲住出版社)
*
1990年金サンオク訳『朝鮮女俗考(東文選刊)
*
1991年李在崑訳『朝鮮巫俗考(東文選刊)
*
1992年李在崑訳『朝鮮解語花史(東文選刊)
』
』
』
』
3.「朝鮮巫俗考」を読む
李能和が日本の雑誌『朝鮮』に発表したものは「朝鮮の巫俗」であったが、原文は「朝鮮巫俗考」である。そして、わたしは、この原文と本文を併せて読んだので、以下では「朝鮮巫俗考」として話を進めていきたい。
李能和の叙述の基本的な態度は、歴史上にみられる文字資料を博く取り出し、それを時間の順に配列することであった。しかし、もちろんそれだけならば『三国史記『三国遺
』事』『朝鮮王朝実録』などの記事を抜粋して並べれば終わってしまうことである。これは、確かに根気のいる仕事ではあるが、比較的容易である。冒頭の七章あたりまではその感がなくもない。
しかし、朝鮮王朝に入ると、巫覡に関連する記述は多種多様になる、そこで第八章からは巫覡の所属官庁、あるいは巫覡にかかわる税制や軍事面への活用などのことを述べた。さらに。第一一、一二章にかけては、おそらく最も多くの読者が注目するとおもわれる事柄すなわち、巫覡への取り締まりの歴史が述べられる。そして、ここまでは、いうならば文字資料の表面に現れた次元の確認である。
わたしは李能和の論述の特徴はそれ以降の章にあると考える。すなわち、第一三章からは巫覡の具体的な儀礼に相当する部分について述べている。これは、いいかえると巫俗儀礼の構造分析である。とはいえ、主として文字資料の上でのことであるから、今日までに得られたさまざまなフィールドワークの結果と対照させなければならないことはいうまでもない。ただ、李能和の指摘したことのなかには今日すでにみられなくなったものもある。例えば一三章の「()空唱」は、今日すでに朝鮮半島においてはみられない。あるいは、箸
1を槁.(柳器)の上に置き、唱えごとをするなどという儀礼の仕方も今日ではみられない。また「一四、巫蠱」の箇所であげられたことも今日ではすでに影をひそめた。
こうしたなかで、一五の「()江南朝鮮」の箇所などは、李能和の視点の意義を高める
2 ものである。「江南」ということばの重要性は思いつきによる提案ではなく、巫歌のなかから摘出されたものなのである。すなわち李能和は、そのことばは「巫言ではありながら、史的研究の価値がある」と明記している。朝鮮の巫俗は、蚩尤の末裔、いわゆる九夷の巫俗と連なる可能性が高いと直観していた。これは、そののちの朝鮮巫俗の研究史のなかから消えてしまった視点である。
このほかにも第一五章では、先駆的な指摘がいくつかみられる。たとえば「()十王」で
6 は。巫歌に十王世界の語があるが、これは道教あるいは仏教化されたものであるといった。しかも冥府の十大王の称は唐末から宋代のころからはじまったものだろうと述べていて、この時代以降の影響を示唆しているのである。このこともまた後の研究者たちはほとんど発展させていない。
さらに「(10)神壇」の箇所は、全体のなかでも最も意味深い構造分析であったといえる。李能和はおそらく個人的に巫覡に面談をしていたとおもわれる。巫のクッには「初
、二三壇の祝式」があるといい、これは「丁度仏事の時上中下三壇の儀式」をするのと同じだということを述べた。わたしは今日のセナムクッと水陸斎について、その構造が対応す
*11
ることを先に述べたことがある。その検証によれば、李能和のこの、1920年代の指摘は正鵠を射ていたといえる。もちろん、仏教の構造に負うところが大きい*12 といったからといって、そのことでただちに朝鮮の巫俗儀礼の独自性が損なわれるわけではない。すなわちパリ公主を中心とした霊魂済度の過程、特にそのトリョン(道場巡り)や白布を裂くことなどの儀礼とその背後の甦りの観念の在り方などには独特のものが反映されているのである*13。
とろで李能和は「朝鮮巫俗考」を発表する以前にすでに『朝鮮仏教通史(、』1918年)
、を著わしていた。それによるのであろう、仏教の巫俗への広がりには自分なりの見通しがあった。そして、その該博な知識を踏まえて、李能和は、僧侶と巫覡の接近すなわち「神仏の混合」はすでに新羅時代からおこなわれていたということを先駆的に述べていた。これもまた注目に値する。すなわち「一五」の(12)の項の末尾において、李能和は次のようにいっている。新羅時代の僧侶は、内殿で焚修をしたが、これは巫の祈祝と同じことである。そして僧侶は民衆の間で歌を作った。現在まで伝わるパンソリの「ノルブ歌」や「兎トッキ打令タリョン」は新羅の僧侶の手によるものではなかろうか。一方、巫の祈祝(つまり巫歌野村註)も「又一種の歌曲に属す」のであり、その曲本は僧侶の手に出たものであろう。そしていう、「僧師の作歌は偈頌から出ていて歌詠は梵唱に習っている。それ故、郷歌および巫歌の倡導を巧みにおこなったのではなかろうか」と*14 。
拙稿「朝鮮文化史における死者霊の供養『日吉紀要言語・文化・コミュニケーション』No.28、
*11
」慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、20002年、178-180頁。
*12
ちなみに日本の古代において巫覡がいかに道教、仏教の影響を強く受けたかということはすでに中山太郎が『日本巫女史』のなかで論じている。特に、八世紀以来、僧尼が巫術をおこなうことが『続日本紀』などにおいて問題とされていたこと、また13世紀ごろには、』1930年、復
法師巫ほうしみこ
が活躍していたこと(中山太郎『日本巫女史、大岡山書店、刻増補版、1984年、411頁)などは、仏教と巫俗の習合を考えるとき、大いに参考となる。ちなみに、中山のこの大著は、李能和の日本語論文の発表された直後、1929年の夏、猛書のなか、亡き妹の霊に駆られるようにして書き進めたとのことである。もとより長い間、温めていた主題ではあっただろうが、あるいは李能和による朝鮮の巫俗史の叙述に刺激されてまとめたのかもしれない。
」頁を参照。
*13
これについては前引の拙稿「朝鮮文化史における死者霊の供養、180-182
*14
ここは原文による。李能和の日本文には省略されている。
これは要するに、新羅の僧侶が民間に出て唱導をおこない、それが一方では巫俗に普及し巫歌として人びとのこころを捉えたという説である。しかも、李能和はパンソリのノルブ歌や兎打令トッキタリョンもそれに由来するという。すなわち僧侶の唱導が一方ではパンソリを産み出したというのである。もちろん証拠はなく、パンソリの春香歌などが資料としてはじめて現れるのは1754年であり(柳振漢『晩華集』)、僧侶の唱導からパンソリ成立までの距離はひじょうに遠いので、一見するとこの説は無理である。しかし、高麗から朝鮮朝初期にかけて依然として俗講が僧侶によりおこなわれていたのも事実である*15 。従って、わたしは李能和説は大いにあり得ると考える*16。ちなみに、この李能和説は、かつて張籌根が卓説として受容したことがある*17 が、そののちの韓国の巫俗研究者はあまり発展させ得ていない。いうまでもなく、新羅の時代すでに、中国では変文がおこなわれていた。敦煌には新羅の僧がいたことも知られている。中国でおこなわれた俗講が新羅の時代に、独特のかたちでみられたということは大いにあり得るのである。そして、さらにいうならば、この流れは日本にも波及して、法体の者の唱導を多数、産み出していったとみられるのである。
李能和の「朝鮮巫俗考」のもうひとつの功績は巫俗のなかに流入してきた、中国の道教に由来する神を取り上げたことである。すなわち、それは「一七城隍」の章で、これまた、歴史的に後付けつつ、高麗時代に受容したものが朝鮮朝において民間信仰化したことを示唆している。李能和は、中国の城隍については格別、掘り下げなかったが、朝鮮における城隍の展開は中国における城隍と同様のものであった。すなわち城隍は元来城市の祭祀を統括する官制の神であったものが、やがて民間のさまざまな願い事を受容してくれる神となっていったのである。その間には生前、特異な能力を発揮した者が死後に城隍にまつら
*15
このことの先駆的な指摘は閔泳珪月印釈譜第二十三残巻」『東方學志』第6輯,1963
「年および同「元高麗俗講僧『東方學志』第」31輯,1982年(ただしこれは台湾における学会の発表要旨)にみられる。
*16
ここで、わたしは註322を訂正しなければならない。そこでは李能和説は無理だと断じた。
*17
張籌根『韓国民俗論攷、啓蒙社、1986年、393頁。同書所収の「叙事巫歌と講唱文
』学」(1973年)「巫仏習合文芸の伝統」(1985年)は中国、日本の唱導とのかかわりのなかで朝鮮の伝承詞章を考察した意欲的な論考であった。特に、済州島のポンプリにみられる俗講との深い関係への言及は興味深い。ただし、その考察はいささか早すぎたのである。時代は冷戦のさなか、それぞれの国の民族文化の確立、主張こそが焦眉の課題であり、東アジアを広く論じ合う雰囲気ではなかった。しかし、今日、張籌根の仕事は見直されるべきであろう。れるなどということもあり、これは中国、朝鮮に共通していた。こうしたことは、中国特に中国南部と朝鮮半島の基層社会に存在した巫俗儀礼の同一性をものがたるものである。これは出発点の城隍とは全く別のものである。そしてこの城隍の祭りの時には演戯が盛んにおこなわれた。これもまた中国と朝鮮では、同様の傾向があった。ただし、李能和はこの演戯の方面に関してはあまり関心がなかったのか、追究しなかった。
「一八京城の巫俗及び神祠」に関連しては、今日ではみられない付根堂、孫閣氏、白岳山貞夫人の廟のことなどが注目される。白岳山貞夫人のところでは『天倪録』を利用
、したが、これは、朝鮮の口頭伝承集であり、当時まだ知識人からはあまり注目されていなかったものである。李能和は、個人的にもかなり関心があったのであろう。この箇所以前にも引用していた。すなわちそれは、士大夫の合理的な世界とは正反対の淫祀、夭祀のことであり、特に白岳山貞夫人は、官僚に祟り、これを予言どおり死にいたらしめた、すさまじい話である。李能和はこれんついて特に評言は付していないが、あり得ることとみていたのではなかろうか。
このほか、家宅神の項においては、実際に調査もしていたのだろう。さまざまな神が列挙されている。この中で特に注目されるのは「(12)痘神」である。朝鮮においてはおよそ400年ほど前から中国から伝来したといわれるが、これにかかると「江南戸口別星司命旗」と書いて、門扉の上にかけるといっている。この神は女神であるということ、そして、特に朝鮮民族の関心が集中し、さまざまな祭り方が生じたことなどを指摘した。
「一九地方の巫風および神祠」の箇所では各地に伝わる古い神まつりの記録を残していて注目される。特に「長山島天妃」の記事は朝鮮から中国に通う船にとって天妃媽祖
、が最も霊験のある神として知られていたことを伝えて興味深い。この島は黄海道に属すものではないとしても*18 、黄海を横切る者にとって媽祖の加護を祈ることは当然の事だったと解される。そしてまた『東国輿地勝覧』やその他歳時記類の引用を通してみると、朝
、鮮王朝の後期においても、女性たちは、存外、神詣でに出歩いていたことが知られる。たとえば、咸鏡道安辺の宣威大王には夫人の神があり、それが端午のときになると地域の人びとの信仰の対象になっていた。あるいは忠清道鎮川の竜王神に対しては、3月3日から4月8日に至る1カ月あまりの間、女性たちが巫覡とともに出かけていって子を祈った。こうしたは光景は、朝鮮王朝における女性の精神世界を考えるときに参考にしなければならない。すなわち一般にいわれるほどイエの内に閉じこもってばかりいたのではなかったとみられるのである。江原道三陟や慶尚道安東における烏金簪神のまつり、あるいは江原道太伯山の神霊に対するまつりなどにおいても女たちの参与はその中心部分を担っていたとおもわれる。
*18 これについては後掲の註502を参照のこと。-13-
この視点で慶尚道の晋州智異山聖母祠の箇所を読むとき、われわれはそこに国の存亡をも左右するほどの力強い聖母をみいだすのだが、これが決して孤立した事例ではないということがわかる。たとえば、慶尚道熊川の熊山神堂の神もまた、その地域においては四方からの会衆によって大いにまつられていた。この山神が女神かいなかは記載はないが、慶尚道にはマゴハルミという原初の巨大な女神伝承もあり、おそらく山の女神の崇拝であっただろう。こうして、いわば地域ごとに無数の聖母がいたと考えてもよいほどなのである。そしてこれを踏まえると、慶尚道において比較的新しくはじまったとおもわれる、風神ヨンドゥンハルマンの信仰もまたやはり女性神の信仰の系譜に連なるものであった。これが全羅道あるいは済州島にまで広がって今日なお恭しくまつられていることはよく知られている。
李能和は、朝鮮の巫俗についての歴史的検証あるいは構造分析を試みた後で付録として、中国と日本の巫俗の概要を記した。そのなかで、遼、金、元、清の巫俗が朝鮮の巫俗と似ているところがあると述べているのは注目される。これについて、李能和はさらに元来その地は朝鮮が支配していたからであるといい『遼史』礼志には、「遼は元朝鮮の属
、地であったから、昔の風俗が尚ほ残存されてゐる」と述べた。多少、朝鮮中心の史観といった感がある。
それはともかく、このことは、一面では高麗時代以降に朝鮮巫俗は中国の強い影響を受
。
けた可能性があるということでもあるこうしたことを考えるための手がかり残した段階、そのいわば序のところで李能和の仕事は終わった。植民地支配、日本中心史観の跋扈という時代の制約を考えれば、これ以上のことを望むのは無理であっただろう。同様に、李能和は日本の巫俗についても言及しようとした。そこでは『和漢三才図会』からの引用を通して、神勅による政治、そしてそれを補うための伊勢斎宮や賀茂斎院の起こりなどにふれ、これらは朝鮮の神市における巫俗と対応するということを述べて終えた。
李能和の巫俗の淵源に関する主張は壇君への思い入れが強く、従って、どうしても男性の支配者とそれを補佐する女巫という構図が原点として強調されがちである。これはその当時の民族史観の風潮を考えればやむをえない点でもあった。そして、ここから先、日本の巫俗を考えることは当時の朝鮮知識人のやるべき仕事ではなかっただろう。そしてそれはほぼ同時代に中山太郎によってなされたのである。
ただ、残念なのは、李能和みずからが提示した江南の巫俗とのつながりを検証することがなされなかったことである。それが、付録のかたちででもなされていたならば、朝鮮巫俗の研究は今日とは異なった展開がありえたかもしれない。それは現実問題としてはわれわれに残された課題なのである。
ところで、徐永大は「朝鮮巫俗考」校勘という貴重な仕事を終えた後で、次のよういっている。すなわち、何年か前に大学院で「韓国宗教文化研究」という講義を引き引き受けたとき「朝鮮巫俗考」を精読した。すると、その重要なことが実感された。特に、90種
、
*19
を越える韓国の文献、28種類の中国の文献を駆使しているところに圧倒されたと。このことは同感する。原資料を駆使し、それによってひとつの主題の歴史や構造を提示するというのは容易なことではない。何よりも、それは単純な議論の展開を許さず、それゆえ統一像を与えにくい難点がある。しかし、李能和はこれを抑制した僅かの評言とともにやり遂げている。
ただし、徐永大もいうように李能和の叙述には誤字、脱字が多い。そして、民族史観の主張はやはり李能和にもあった。これは、当時、朴殷植(1859-1925)、申采浩(1880-1936)、崔南善(1890-1957)といった人たちがいて、壇君以来のいわゆる朝鮮の固有宗教を主張していたこととかかわる*20。それは、日本が国家神道を押し立て、ソウルの南山に朝鮮神宮を立てたこと(1925年)に対するひとつの反応であったのかもしれない。そうであれば、それは、当然の主張であったともいえる。しかし、これは、結局日本の「国学」と同じわだちを踏むことになりかねない。そういう危うさを抱えている。ただ、李能和は幸か不幸か「朝鮮巫俗考」の後、その卓越した学識にもかかわらず、宗教思想の指導者として振る舞うこともなく、比較的静かに学究の徒として晩年を過ごした(その生活はひどく質素で
*21
あったという)。それは李能和にとって結果的にはよかったのではなかろうか。
さて、最後に、この論考の価値と問題点について、前引、徐永大が、次のようにいっているのを指摘しておこう。
1. 韓国の巫俗に対する本格的な研究である。
2. 巫俗関係の記事を膨大な文献資料から抜粋整理することで、この問題に踏み入る際の羅針盤の役割を果たしている。
3. 今日では入手しがたい貴重な資料を含んでいる。
4. その時代の巫俗を伝えている。たとえば、天然痘の神や孫閣氏についての記述であ
る。これらはいずれももっともである。一方、問題点としては次の6点を取り上げた。
*19
徐永大「李能和朝鮮巫俗考校勘」(Ⅲ)『比較民俗学』第7輯、比較民俗学会、1991年、48頁。
*20
前引、李鍾殷・徐永大・梁銀容・宋錫準・崔俊植・金壽根・金鐸・申光澈『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー、』27頁。
*21
李鍾殷によると、李能和はいつも生活に困っていた。本を購入する費用がないので、どこへでもいき必要なことを紙に筆写したのだが、その紙代にも事欠いていた。そのため、遺稿は雑多なものに記されているという(前引、李鍾殷・徐永大・梁銀容・宋錫準・崔俊植・金壽根・金鐸・申光澈『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー』、15頁。
)
1. 誤字が多い。
2. 引用資料名を間違って提示する。
3. 書名は正しくても引用部分に記憶違いがある。
4. 典拠にない資料を引用している。
5. 李能和の公称るいは主張に従いがたい点がある。たとえばパリ公主に関連する叙述
には無理があること。6..普遍性を強調する態度。これについては徐永大はいう「李能和は韓国の巫俗に言
。及しつつ、周辺民族の巫俗との共通性を頻繁に指摘している。例えば韓国の巫と日本の神宮(官?、満州の薩満がすべて儀礼において鈴を用いることを挙げて、これらの根源が
) 同じものではないかといったり、日本の古代の巫祝は神官としてあったので、これは韓国古代の天君や次次雄と互いに似た者であったということなどである。このような指摘は比較研究の結果として、韓国の巫俗を理解するのに必要なことであることは間違いない。だが、『朝鮮巫俗考』では韓国の巫俗の特殊性を指摘することがほとんどなく、この点では、韓国文化の特殊性を浮き彫りにしようとした申采浩などの民族史学者たちとかなり異なる」*22 と。
以上のうち、第6の普遍性と特殊性についての議論には異論がある。李能和が朝鮮の儒学者の態度に対してかなり強い批判的な立場を持っていたことは、例えば、李.光の竈神に対する文を「卑劣が暴露」されているとまでいっている点に明らかである(一八京城
「の巫俗及び神祠(続)」竈王神の項。そうした態度は、むしろ朝鮮の固有文化を主張し)すぎるくらいなのである。でありながら、李能和は、遼、金、元の巫俗史料を取り上げ、かなり細部に至るまで記述した。こうした点は誠実なものであり、なまなかな国学者のよくするところではない。例えば、元の国王の葬列の様子を描いた文などはどうであろうか。葬儀の車にどのような器物を用いたか、いかなる敷物を利用したかなどは、ある意味では瑣末なことである。要点だけ記すならば、葬儀の車には巫がつき従ったと書けば済む。しかし、李能和は、対照のためにはこうした儀礼の細部にこそ意味があることを認識していたのであろう。
李能和の叙述の態度は文化の対照研究にとって基本的なものであり、それはある意味で文献資料を対象にしたフィールドワークのようなものであった。李能和に十分な時間があれば、周辺諸民族の巫俗について、みずからフィールドワークをおこなったに違いない。私は全20章の文章に記された、短いけれども密度の高い引用、またその的確な配列に驚嘆(時には辟易)しつつ「朝鮮巫俗考」を読み終えた。まことに、朝鮮文化の特殊性はこ
*22 前引、李鍾殷・徐永大・梁銀容・宋錫準・崔俊植・金壽根・金鐸・申光澈『わが文化の根源を探る李能和研究ー韓国宗教史学を中心にー、』43頁。
-16
うした地道な対照作業の後に浮き彫りになるに違いない。それはまだはるかに遠い課題である。東アジアの基層文化の核心である巫俗はそれぞれがどういうものであったのか。これを知ってこその「特殊性」の提示でなければ、思い込みや主張が先行する。思い込みにより歯切れよく語り、多くの支持を得るのはたやすい。しかし、李能和の抑制された文体はそれを敢えて採らなかったということをものがたっている。
中純夫 著
朝鮮陽明学の特質について Characters of Choson Korean Yangming
http://www.eastasia.ntu.edu.tw/chinese/data/5-2_05.pdf
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