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これも仮面踊りの寸劇の連続だが、登場する主要仮面はムンドンイ両班(ヤンバン)、紅白両班、曲がり両班、あばた両班、元両班、次両班、マルトギ(下男)、上座(上位の僧)、ハルミ(老婆)などが出演し、山台都監ノリの嶺南派ともいうべきだ。仮設舞台の上で仮面をかぶり、踊りと漫才のやりとりで劇を進めていく。農楽のケンガリ伴奏で踊るのも、この劇の重要な要素になっている。
第1幕はムンドンイが踊りながら自嘆歌を歌い、2幕目は元両班、紅白両班、アバタ両班、曲がり両班らが下僕のマルトギを呼びつけて、懲らしめるつもりだったがかえってマルトギに嘲弄される。
私は中学時代を東莢で過したが、今は釜山直轄市に編入され、どこまでが東莢だったのか、全然見分けがつかないほど変わってしまった。
東莢野遊は、1月15日、綱引きが終わったあと行われる。市場通りの広場に仮設舞台が設けられ、数百の提灯の下では、農楽に合わせて、仮想した群衆が踊り狂う。
舞台に出る仮面は、他地方の5大劇と全く同じで、踊りや劇のすじも近隣地方のものとにている。楽器はケンガリ、チン、長鼓、プク(太鼓)や各種ピリ(笛)など能楽器が主で、パガジ(ひょうたん)で作った仮面をかぶって、舞台上で両班や権力階級を下品な台詞や唱で諷刺する。仮面の中には、歌や台詞を言うときには長い下あごが動くように作られたものもある。この絵は、使用人のマルトギが、ケンガリを叩く両班に踊らされている図である。
画・文
木丁・金龍煥
3幕は、ヨングノ(官庁の下僕)とビビ両班の争いで、4幕目はハルミ(老婆)と弟子のカクシ(花嫁)間の一夫多妻の三角関係議論に負けて憤死したハルミを乗せた喪興が出る。
そして最後に砲手が獅子を殺すというのが、統営五広大のパターンである。
画・文
木丁・金龍煥
駕山、統営は、距離的にそれほど離れていないにもかかわらず、駕山五広大は嶺南型民俗仮面劇として、昔から駕山里にだけ伝えられてきた。
この村は、朝鮮朝末期までは漕倉があったところで、当時から300戸を越える大集落であった。そして1年1回の洞祭「天龍祭」には、必ず五広大ノリを上演したというから、統営とは近距離でありながら、古い伝統を持つ五広大ノリが2つもあったわけだから珍しいことだ。内容は統営とほとんど似ているが、ここでは第1幕に五方神将舞という踊りが、いきなり舞われるのが特徴的だ。
それに、最も古い儀式舞が舞われているのは、恐らく全国的にもここだけではないかといわれている。この図は営奴と獅子の争いを描いたものだが、劇の内容では営奴が獅子になって営奴を取って食べるという、ややこしい内容である。
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木丁・金龍煥
河回というのは、壬辰乱(文禄役)時の名宰相、柳成龍の後裔が住んでいる今の慶北安東地方の両班村をいう。ここは河がコの字型に迂回しているので、河回という名がついたそうだ。
この地方のソナン祭は、17歳の少女祭神を祀るもので、10年に1回ずつ行われる。旧正月1日の早暁、祭主と演者の広大がソナン堂に上り、鈴がついた降神竹に祭神を移して下山し、準備された舞台で6場面の仮面劇を演じソナン神を慰める。
その翌朝早く、祭主と広大が再びソナン堂に上り、祭の終わったことを告げた後で帰路に村の入り口で婚礼の儀式を行い、17歳の未婚の処女のソナン神に最後の別れを告げるという。このお祭りは農作物の豊作を祈る意味があるそうだ。
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韓国には昔から伝わる太鼓や剣の踊りが多い。壬申乱の時、日本軍を迎撃した李舜臣将軍の率いる三道水軍統制営(総司令部)が統営沖の閑山島に設置されて以来、統営は軍港として栄えたが、勝戦舞はそれ以来統営に伝承されてきた踊りで、一名「ブクチュム」(鼓舞)といわれる踊りである。
もともと高麗時代宮中の儀式用に始った踊りで、朝鮮朝末期まで続き檀園の「平壌監司坐起図」などの風俗画にも描かれている。踊りは、花冠をかぶった4人の舞姫が、太鼓を中心に周りをぐるぐる廻りながら、左右交互に手にした撥で太鼓を打つ。
この時は唱詩という打令調の歌を歌いながら「チファジャ、チファジャ、チョッタ」という合いの手を入れる。この踊りは日本植民地時代も存続し毎年忠武公李舜臣将軍の誕生日と春秋祭の当日、閑山島制勝堂で舞われたという。
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木丁・金龍煥
新羅末期に中国から伝来した。大きな法会などで坊さんが仏の功徳を褒めたたえる歌のことである。「唄」(ペ)の字は「唱」と同じ意味の梵語から作った漢字で他に梵音、梵声とも呼ばれており、これを歌う坊さんを「魚丈」という。
韓国では、新羅の真鑑禅師優れた魚丈を輩出したが朝鮮朝末期ソウル近郊の永度寺と同じく、ソウルの白蓮寺に奇しくも同じ名前の二人の満月という名唱魚丈がいた。それで、東満月、西満月といって二人の満月を区別したそうだが、その配下からは数多くの有名な魚丈がたくさん出たという。
前に私がソウルに行った時、よく明洞の雑踏の中で薄汚い坊さんが、チン(鐘)をたたいて立っているのを見て、最近は坊さんの物貰いも多くなったのかと思ったが、実は梵唄保有者で韓国無形文化財の一人、朴喜徳禅師の願行姿であることを知り、恐縮したことがあった。
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顎の長い大きな赤ら顔の面をかぶって踊るこの舞は、勇ましく荘厳で神秘な踊りだ。昔新羅49代の憲康王がどこかえ行幸の折、奇怪な踊りをする偉人(インド人)を見つけ宮中に連れ帰り、宮中の行事に踊らせたのが処容舞の始まりだという。別の一説には、憲康王が行幸の帰りに開運浦で連れ帰った踊りの上手い竜王の息子が処容で、彼は自分の妻を犯した魔神の前で踊りと歌を持って辟邪の機能を発揮したということから、宮中の専属舞踊手になったという説もある。いずれにしても衣裳や踊りの所作から見ても、宮中や官衛の保護のもとに伝承されてきたのには間違いなく踊りの中に荘厳さと気品がうかがえる。
舞踊手の人数によって、五方処容舞などと呼ばれるが、特色は踊り手がみな男ということと、踊りながら「新羅盛代昭盛代」とか「山河千里国」などの唱詩を歌うことである。
画・文
木丁・金龍煥
剣を持って踊る剣舞は、各民族の伝承の踊りに多く見ることが出来る。韓国でも、上古時代は不明だが、三国史記に新羅品日将軍の息子官昌が仮面姿で剣舞を踊ったことが記されているのが、剣を持って踊った最も古い記録だという。剣舞は、昔から宮中の進宴儀軌か官衛の大宴会などで主に行われていたが、宮中剣舞の方は伝承が途絶えてしまい官衛で演じられた踊りだけが今は晋州と統営(忠武市)に民間剣舞として伝承されているという。両市とも壬申倭乱にゆかりの深い都市である。
剣舞はこのほかに民間亨宴にも伝えられ、また巫儀式には巫堂(巫女)たちが独特の剣の舞を踊っている。
彼女たちの素朴な剣舞こそ、あるいは韓国剣舞の原型かもしれない。
晋州剣舞は8人の踊り手で舞い、打令調の伴奏に合わせて勇壮に舞うのが特徴で、重要無形文化財に指定されている。
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韓国の鶴の踊りは、獅子踊りと共に、動物の仮面をかぶって踊る代表的な動物舞踊である。古く高麗時代より宮中儀式として処容舞と共に演じられてきたそうだが、朝鮮朝末期にはその伝承が全くたたれていた。
それを、日帝時代の初期、名鼓手で古典舞踊家でもあった韓成俊翁が、この伝統を取り戻して鶴の舞を舞台化し、ソウルを始め国内各劇場を巡演した。その後、日本にもやってきて、東京の日比谷公会堂で公演したことがあった。
この時20代の私は東京に住んでいたので、この故国の舞踊を見に行ったことがあった。2羽の鶴が舞台に出て、餌を突っついたり、跳ねたり、飛んだりしながら舞台中央にしつらえた蓮の花を模した蓮筒をくちばしで突っついて開けると、その中から美しい女の子が出てくるという踊りであった。
鶴の舞は政府より無形文化財に指定され、韓制俊の娘、韓英淑がその技能保持者であったが、この原稿を整理中の1989年10月、この世を去った。冥福を祈る。
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木丁・金龍煥
横笛の王様ような大笛は長さ77センチで、穴が13あり、国楽三笛の中では最大の横笛である。
新羅の神文王時代にあった万波息笛という楽器が、この大笛のことをいうのではないかという。
統一新羅時代、三弦三竹音楽では、大笛は中笛、小笛と共に郷楽に使われ、以後高麗、朝鮮朝と時代を経るにつれて郷楽のほか民族音楽の主要楽器として用いられるようになった。
大笛は雙骨竹という竹の下部の幹で作られ、低音を出す低吹、高音の力吹と共に太い筒から出るバリトンの清雅な音は、正楽を大笛で独奏すると、その音色と性能は独自な効果をあらわし、聞く人の胸を打つというのだ。正楽の中でも大笛によく乗る曲は「平調会相」で、特にその序曲「上霊山」は隣の人が1人死んでもわからないぐらい聞く人を無我の境地に誘うという。
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木丁・金龍煥
正月とか秋夕(旧盆)などのお祭に集まった若者達が、手に小鼓を持って庭を行ったり来たりしながら歌う歌を「ソンソリ」打令という。
これは昔、仏道修行に専念するお寺を助ける目的で、寺堂牌という女達が民家からお布施をもらうため念仏を合唱しながら市場を渡り歩いていたのに由来したものだった。
しかし朝鮮朝になって仏教が衰退すると、男寺党という男の歌い手が寺堂牌にかわり、唄っていた念仏もいつの間にか山打令に変わってしまった。
山打令というのは、歌詞に山川草木の自然をうたった内容で、リズムが軽快だ。これがいつのまにか民間に広がり、南道ソンソリ・サンタリョン(山打令)、京畿ソンソリ・サンタリョングというふうに地方別に別れ、今は京畿の方が重要無形文化財に指定されている。
朝鮮朝末期には、京畿派ソンソリ名唱が、ソウルの往十里、麻浦、果川などに多かったという。
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