Lady Purple
무라사키 시키부(紫式部, 973년경 ~ 1014년 및 1025년경)
石山寺
大津市石山寺
瀬田川の右岸、伽藍山を背に石山寺はある。
伽藍山は、珪灰石の岩が露出していて、石山寺という名の由来らしい。
創建は古く、聖武天皇の勅願により、良弁が天平十九年この地に聖武天皇の念仏仏を安置しる堂宇を建立したことに始まる。
本堂
毘沙門堂
御影堂
多宝塔
本堂背後にあるこの多宝塔、国宝である。現存最古のものという。私の世代はこの多宝塔が4円の通常切手だったことを覚えている。
夜のライトアップされた多宝塔も美しい。
正月初詣で賑わう石山寺、本堂の如意輪観音さままでが遠い。正月餅飾りは独特の飾り付け、干菓子もきれい。
石山寺と古典文学
紫式部『源氏物語』
『石山寺縁起絵巻』に、
巻四に、
「紫式部は、右少弁藤原為時朝臣が女、上東門院の女房にて侍りけるに、一条院の御叔母、選子内親王より珍しからん物語や侍ると、女院へ申されたりけるを、式部に仰せられて、作らせられければ、この事を祈り申さむとて、当寺に七か日籠り侍りけるに、水海の方、遙々と見渡されて、心澄みて様々の風情、眼に遮り、心に浮かみけるを、とりあへぬ程にて、料紙などの用意も無かりければ、大般若の料紙の内陣にありけるを、心の中に本尊を申し受けて、思ひあへぬ風情を書き続ける。彼の罪障懺悔の為に、大般若経を一部書きて、奉納しける。今に当寺にありとぞ。此の物語書きけるところをば源氏の間と名付けて、其の所変はらずぞ有るなる。彼の式部をば日本紀の局とて、観音の化身とも申し伝へ侍り。」
紫式部は物語を作るため、この石山寺の七日間籠ったという。寛弘元年(1004)のことである。参籠から幾日か経って、八月十五日の満月の夜、月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮んだという。内陣にあった大般若経の料紙に、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋ひしく・・・」と、書き始めた。
『源氏物語』は桐壺の巻から起筆されたのではなく、この十五夜の月を眺めて都を恋しく思う光源氏の場面から始まった。これが須磨の巻となってまとめられていく。
という、起筆伝説が中世以降語り継がれてきたが、源氏物語成立論などを研究する学者にはまったく無視をされる伝説ではある。
縁起絵巻にいう「源氏の間」はいまも本堂の一部屋に在るが、その窓には金網が張ってあり、いかにも無粋。蚊とか蛾が入ってきて式部の執筆のじゃまをしないようにとの配慮だろうが。
境内には筆をもつ式部の像もある。
この起筆伝説により、後世紫式部の昔を偲ぶ十五夜の月見の歌会が幾度となく催されたという。月見亭である。
『万葉集』を学ぶ私は、源順の「左右」が印象的だ。同じく、『石山寺縁起絵巻』巻2に、
康保の比、廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源順勅をうけたまはりて、万葉集をやハらげて點し侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、當寺にいのり申さむとてまいりにけり。左右といふもじのよみをさとらずして、下向の道すがら、あむじもてゆく程に、大津の浦にて物おほせたる馬に行きあひたりけるが、口付のおきな、左右の手にておほせたる物をゝしなをすとて、をのががどちまでより、といふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍けるとぞ。
『万葉集』が編集されて200年経った平安中期、漢字ばかりで書かれた『万葉集』を読める人はほとんどいなくなっていた。天暦五年(951)村上天皇の勅命で、「梨壺の五人」といわれる人たちに訓読するようにといわれた。そのひとり源順は、歌中の「左右」という文字がどうしても読めなかった。その苦境も仏が頼り、石山寺に参詣したという。たちどころに観音さまが教えてくれたわけではない。帰り道、大津の浜辺で、荷車の馬主が荷物が落ちそうになっているのにのんびり片手で荷を押える馬方に向かって、「何してんのや!真手(左右の手・両手)でやらんか!」、どなった。「そうか!そうだ!」。左右を「まで」と読めた。
源順、馬上で飛び上がって喜んだ。その弾みで馬から落ちて、地面に「まで」をついた。・・・そんなことは書いていない。
『万葉集』の例をあげると、
國遠 直不相 夢谷 吾尓所見社 相日左右二
国遠み 直(
ただ
には逢はず 夢(いめ)にだに 我れに見えこそ 逢はむ日までに
『更科日記』の作者菅原孝標の女も二度石山寺を訪ねている。『石山寺縁起絵巻』巻3には、
『更科日記』の石山寺の件りは、
今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知り果て、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出でらるれば、今はひとへに、ゆたかなる勢ひになりて、双葉の人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月の二十余日、石山に参る。
雪うち降りつつ、道のほどさへをかしきに、逢坂の関を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひ出でらるるに、そのほどしも、いと荒らう吹いたり。
逢坂の関のせき風吹くこゑは むかし聞きしにかはらざりけり
関寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり、荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり。
打出の浜のほどなど、見しにも変らず。暮れかゝるほどに詣で着きて、斎屋におりて、御堂にのぼるに、人声もせず、山風おそろしうおぼえて、おこなひさしてうちまどろみたる夢に、「中堂より麝香給はりぬ。とくかしこへ告げよ」と言ふ人あるに、うちおどろきたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす。
またの日も、いみじく雪降り荒れて、宮にかたらひ聞こゆる人の具し給へると物語して心ぼそさをなぐさむ。
三日さぶらひて、まかでぬ。
・・・・・・・
二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら雨ぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしき物と聞きて、蔀を押し上て見れば、有明の月の谷の底さへくもりなく澄みわたり、雨と聞えつるは、木の根より水の流るる音なり。
谷川の流れは雨と聞こゆれど ほかより異なる有明の月
『蜻蛉日記』の作者右大将藤原道綱の母も石山寺に参詣している。『石山寺縁起絵巻』巻2には、
『蜻蛉日記』の石山詣での件りはちょっと長いので、別頁で紹介。クリック
和泉式部も、敦道親王との関係がうまくいかず、むなしい気持を慰めるために石山寺に籠った。『石山寺縁起絵巻』に和泉式部は載らない。『更級日記』や『蜻蛉日記』は、家族の安寧を願い、これからの人生をまじめにお願いする参詣なのに、色恋沙汰の多い和泉式部の参詣は、呆れられていたのかもしれない。石山寺に籠っていても、メールの交換ばかり。
『和泉式部日記』の石山詣でも別頁で紹介。クリック
『枕草子』には(204段)、
寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釋迦佛の御住みかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀。
『梁塵秘抄』には、
観音験を見する寺 清水 石山 長谷の御山 粉河 近江なる彦根山 間近く見ゆるは六角堂
験仏の尊きは 東の立山 美濃なる谷汲の 彦根寺 志賀 長谷 石山 清水 都に間近き六角堂
『今昔物語集』 「石山観音、為利人付和歌末語」
『蜻蛉日記』 石山詣で
さらば、いと暑きほどなりとも、げにさいひてのみやはと思ひ立ちて、石山に十日ばかりと思ひ立つ。
忍びてと思へば、はらからといふばかりの人にも知らせず、心ひとつに思ひ立ちて、明けぬらんと思ふほどに出で走りて、賀茂川のほどばかりなどにて、いかで聞きあへつらん、追ひてものしたる人もあり。有明の月はいと明かけれど、会ふ人もなし。河原には死人も臥せりと見聞けど、恐ろしくもあらず。粟田山といふほどにゆきさりて、いと苦しきを、うち休めば、ともかくも思ひわかれず、ただ涙ぞこぼるる。人や見ると、涙はつれなしづくりて、ただ走りて、ゆきもてゆく。
山科にて明けはなるるにぞ、いと顕証なるここちすれば、あれか人かにおぼゆる。人はみな、おくらかし先立てなどして、かすかにて歩みゆけば、会ふ者見る人あやしげに思ひて、ささめき騒ぐぞ、いとわびしき。
からうじていき過ぎて、走り井にて、破子などものすとて、幕引きまはして、とかくするほどに、いみじくののしる者来。いかにせむ、たれならむ、供なる人、見知るべき者にもこそあれ、あないみじ、と思ふほどに、馬に乗りたる者あまた、車二つ三つ引きつづけて、ののしりて来。「若狭守の車なりけり」といふ。立ちも止まらでゆき過ぐれば、ここちのどめて思ふ。あはれ、程にしたがひては、思ふことなげにても行くかな、さるは、明け暮れひざまづきありく者の、ののしりてゆくにこそはあめれと思ふにも、胸さくるここちす。下衆ども車の口につけるも、さあらぬも、この幕近く立ち寄りつつ、水浴み騒ぐ。振舞のなめうおぼゆること、ものに似ず。わが供の人、わづかに、「あふ、立ちのきて」などいふめれば、「例もゆききの人、寄るところとは知りたまはぬか。咎めたまふは」などいふを見るここちは、いかがはある。
やり過ごして、いまは立ちてゆけば、関うち越えて、打出の浜に、死にかへりていたりたれば、先立ちたりし人、舟に菰屋形引きてまうけたり。ものもおぼえずはひ乗りたれば、はるばるとさし出だしてゆく。いとここち、いとわびしくも苦しうも、いみじうもの悲しう思ふこと、類なし。
申の終りばかりに、寺の中につきぬ。斎屋に物など敷きたりければ、行きて臥しぬ。ここちせむかた知らず苦しきままに、臥しまろびてぞ泣かるる。夜になりて、湯などものして、御堂に上る。身のあるやうを仏に申すにも、涙に咽ぶばかりにて、言ひもやられず。夜うち更けて、外のかたを見出だしたれば、堂は高くて、下は谷と見えたり。片崖に木ども生ひこりて、いと木暗がりたる。二十日月、夜更けていとあかけれど、木蔭にもりて、ところどころに、来しかたぞ見えわたりたる。見おろしたれば、麓にある泉は、鏡のごと見えたり。高欄におしかかりて、とばかりまもりゐたれば、片崖に、草の中に、そよそよ、しらみたるもの、あやしき声するを、「こはなにぞ」と問ひたれば、「鹿のいふなり」といふ。などか例の声には鳴かざらむと思ふほどに、さし離れたる谷のかたより、いとうら若き声に、はるかにながめ鳴きたなり。聞くここち、そらなりといへばおろかなり。思ひ入りて行なふここち、ものおぼえでなほあれば、見やりなる山のあなたばかりに、田守のもの追ひたる声、いふかひなく情なげにうち呼ばひたり。かうしもとり集めて、肝を砕くこと多からむと思ふに、はてはあきれてぞゐたる。さて、後夜行なひつれば下りぬ。身よわければ、斎屋にあり。
夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいとのどかにて、霧たちわたり、川のあなたは絵にかきたるやうにみえたり。川づらに放ち馬どものあさりありくも、遙かに見えたり。いとあはれなり。二なく思ふ人をも、人目によりて、とどめおきてしかば、出で離れたるついでに、死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、まづこのほだしおぼえて、恋しう悲し。涙のかぎりをぞ尽くし果つる。をのこどもの中には、「これよりいと近かなり。いざ、佐久奈谷見には出でむ」、「口引きすごすと聞くぞ、からかなるや」などいふを聞くに、さて心にもあらず引かれいなばやと思ふ。
かくのみ心尽くせば、ものなども食はれず。「しりへのかたなる池に蕺といふもの生ひたる」といへば、「取りて持て来」といへば、持て来たり。笥にあへしらひて、柚おし切りて、うちかざしたるぞ、いとをかしうおぼえたる。
さては夜になりぬ。御堂にてよろず申し、泣き明かして、あかつきがたにまどろみたるに、見ゆるやう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかくと見る。ふとおどろかされて、仏の見せたまふにこそはあらめと思ふに、ましてものぞあはれに悲しくおぼゆる。
明けぬといふなれば、やがて御堂より下りぬ。まだいと暗けれど、湖の上、白く見えわたりて、さいふいふ、人二十人ばかりあるを、乗らんとする舟の、差掛のかたへばかりに見くだされたるぞ、いとあはれにあやしき。御燈明たてまつらせし僧の、見送るとて岸に立てるに、たださし出でにさし出でつれば、いと心細げにて立てるを見やれば、かれは目なれにたらむところに、悲しくやとまりて思ふらむとぞ見る。をのこども、「いま、来年の七月まゐらむよ」と呼ぶばひたれば、「さなり」と答へて、遠くなるままに、影のごと見えたるもいと悲し。
空を見れば、月はいと細くて、影は湖の面にうつりてあり。風うち吹きて湖の面いと騒がしう、さらさらと騒ぎたり。若きをのこども、「声細やかにて、面痩せにたる」といふ歌をうたひ出でたるを聞くにも、つぶつぶと涙ぞ落つる。いかが崎、山吹の崎などいふところどころ見やりて、葦の中より漕ぎゆく。まだものたしかにも見えぬほどに、遙かなる楫の音として、心細くうたひ来る舟あり。ゆきちがふほどに、「いづくのぞや」と問ひたれば、「石山へ、人の御迎へに」とぞ答ふなる。この声もいとあはれに聞こゆは、言ひおきしを、おそく出でくれば、かしこなりつるして出でぬれば、たがひていくなめり。とどめて、をのこどもかたへは乗り移りて、心のほしきにうたひゆく。瀬田の橋のもとゆきかかるほどにぞ、ほのぼのと明けゆく。千鳥うち翔りつつ飛びちがふ。もののあはれに悲しきこと、さらに数なし。さてありし浜べにいたりたれば、迎への車ゐて来たり。京に巳の時ばかりいきつきぬ。
これかれ集まりて、「世界までなど、言ひ騒ぎけること」などいへば、「さもあらばれ、いまはなほ然るべき身かは」などぞ答ふる。
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