java

Friday, August 24, 2012

"not pleasant" honeymoon in Korea of a newlyweds German,1904

http://ameblo.jp/campanera/entry-10276522003.html
2009-06-08 13:03:53

100年前に韓国を訪れたドイツ人「韓国人は、怠惰で、貪欲で、粗雑で愚鈍な人々だった」
テーマ:李氏朝鮮時代
1904年ドイツ人夫婦の「愉快ではない」韓国新婚旅行

【新刊】ルドルフ・ツァベル著、イ・サンヒ訳『ドイツ人夫婦の韓国新婚旅行1904』(サルリム)

1904年2月、28歳のドイツ人ジャーナリスト、ルドルフ・ツァベルは、日本に向け旅立った。中国の義和団事件を取材した経験を持つ極東専門記者の彼は、日露戦争を取材して欲しいという要請を受けた。20歳の娘との結婚を控えていたツァベルは、急いで結婚式を挙げ、新婚旅行を兼ねた取材旅行に出発した。

日本の横浜に到着したが、戦場に向かうのは容易ではなかった。日本の当局は取材の許可を引き伸ばし続けていた。許可を待つ間、ツァベルは妻と共に韓国へ「新婚旅行」に出かけることにした。釜山に2週間滞在した後、汽船に乗って今度は元山へ向かった。新婚のドイツ人夫婦は元山に15日間ほど留まり、安辺、平康、鉄原を経てソウルまで旅行した。
碧眼の若いジャーナリストの目に映る韓国人は、怠惰で、貪欲で、粗雑で愚鈍な人々だった。

「韓国人は、取引において極めてしみったれていることで有名だ。口数が多い上に、数文の金をめぐって猛獣のように争い、葉銭数枚を受け取るために喜んで3日間を無駄にする。この人々を信頼することは極めて難しかった」「酒に酔った韓国人が街中で横になっているのはありふれた光景で、女性問題から殺人が起こることも稀ではないという。見ての通り、平均的な韓国人の姿はあまり愉快なものではなかった」

ツァベルが見た韓国のかつての姿は、今われわれが見てもあまり愉快なものではないが、それを単純に帝国主義者の視線だとみなしてしまうことはできないようだ。ツァベルは、文化相対主義的な視角で韓国を観察してもいるからだ。ツァベルは、胸をむき出しにした田舎の女性を見て、このように書いた。「素肌を露わにすることは無条件に礼節の感覚に背く、と力説するのも難儀なことだ。礼節の感覚というものも、一次的には風習と流行の産物であるだけに、全世界の人々に全く同じ礼節の感覚を期待することはできない。ヨーロッパだけを取り上げてみても、流行に大きく左右されるのが、まさにこの礼節の感覚だ」

稀にではあるが、韓国人の優秀さを賞賛する部分もある。「川を利用して田に水を引き込むこの村の住民の腕前は、実に凄かった。感嘆すべき灌漑施設と言う他はなく、韓国の農夫の勤勉さがうかがわれる部分だ」

ジャーナリストとしての鋭い感覚が光っている部分が、「韓国独立の歴史」というタイトルを付けた最後の章だ。「中国・日本・韓国など東アジア文明三国」「日本は、韓国の独立を支持するというお定まりの古い嘘をつき、韓国の土地で自分勝手に振舞うようになった」といった認識は、著者が客観性を維持しようとした努力をうかがわせる。19世紀末から20世紀初めにかけて韓国を訪れた西洋人の記録は幾つもあるが、単純な感想よりも事実をきちんと記録しようとする態度を高く評価できる一冊だ。

李桓洙(イ・ハンス)記者
http://www.chosunonline.com/news/20090607000006

>川を利用して田に水を引 き込むこの村の住民の腕前は、

日本では江戸時代でもあしぶみ水車使ってたんだが どうやったんだろう?
足踏み水車は腕前関係ないし

チマチョゴリの真実

18世紀以降、朝鮮の女性向け民族衣装「チマチョゴリ」に変化が起きた。この頃から「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが習慣化したのだ。
「乳出しチョゴリ」である。
当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では「長男を生まない女性に価値はない」との考えが支配的なためかこのような風習が広まったのだ。
当時の朝鮮人の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのである。
この習慣は1950年代まで続いた(第二次世界大戦が終了したのは1945年である)。

現代の韓国人の大半がこの習慣を忘れてしまっている。
わずか50年前まで続いた習慣にも関わらずである。
50年前の習慣すら忘れてしまう韓国人の歴史観は嘘に満ちている。

韓国人の主張の例1「韓国5000年の歴史」
→実際の朝鮮半島の歴史は衛氏朝鮮から始まるので2200年程度である。神話と歴史の区別がつかないのが韓国人である。

韓国人の主張の例2 「日本は朝鮮通信使から先進文化をもらった」
→朝鮮通信使が江戸時代の日本の発展ぶりに驚愕する様子は、当時朝鮮通信使の一人であった金仁謙氏の著書「日東壮遊歌」に記録されている。これは紛れもない朝鮮側の記録であるにも関わらず韓国人はこの記録を無視している。

韓国人の主張の例3 「日本帝国の支配は過酷だった」
→絶望的に貧しい朝鮮王朝は自主的な近代化が不可能であった。日本は朝鮮半島の近代化を促進し、朝鮮人の生活は向上した。その証拠に人口も約二倍に増えたし、日本は朝鮮半島に投資した巨額の資金を韓国に請求していない。

このように韓国人の歴史観は嘘と捏造に満ちている。
私は「乳出しチョゴリ」を非難するつもりはない。
このような習慣はただの価値観の違いであり、これも文化である。
乳出しが恥ずかしいと言う価値観は西洋の価値観にすぎない。

問題なのは、インターネット上で「乳出しチョゴリ」の写真が広まったとき、韓国人が「こんな破廉恥な習慣は我が国にはない。中国人や日本人の捏造だ」と言ったことである。
この韓国人の態度は、自国の50年前の習慣すら知らない韓国人の歴史観が如何に信用できないかを証明しているようなものである。

以下に「乳出しチョゴリ」に関する絵画や写真を掲載する。
「乳出しチョゴリ」が捏造ではないことがよく分かるだろう。
加えて当時の朝鮮王朝が如何に貧しかったかも理解できる。
http://jeogori.web.fc2.com/

韓国の深い闇

スペルウェール号事件
李氏朝鮮の外交記録の『備辺司謄録』孝宗4年12月1日には次のように記されている。「領議政(大臣)曰く『この鹿皮は、役立つものを選んで、別の用途に使えばよい。そして代価は木綿を与え、彼らの冬の材料にすれば便当だろう』。国王曰く『それでよろしい』」。

1653年8月、後世に語り継がれるべき海難事件が起きた。スウィフトはこれを『ガリバー旅行記』を書くさい参考にしたといわれる。事件は台湾から長崎に向かうヤハト船(Yacht,オランダ語で3本マストの帆船)スペルウェール号が台風の遭遇し、済州島に漂着したことから始まった。
乗組員は全員オランダ人で64人だった。積荷は日本への輸出商品で次のようなものだった。
木香 20007斤
明礬 20037斤
鹿皮 30000枚
台湾産鮫皮 19952枚
山羊皮 3078枚
粉砂糖 92000斤(400箱)
暗礁に乗り上げたとき、船は沈没、28人が犠牲となり36人が海岸にうちあげられた。だが、すぐさま朝鮮役人の発見するところとなった。朝鮮人は直ちに船を焼き屑鉄をとり、積荷を奪った。36人は翌年5月ソウルに連行された。冒頭の『備辺司謄録』にある大臣と国王の会談記録はその間の盗品処理の問答である。
また「別の用途」とは、清への朝貢に充てることをさす。清国は李氏朝鮮を属国として扱い、毎年3回朝貢物を取り立てた。その中には宦官・貢女の献納も含まれるなど厳しいもので、またすでに国内の鹿は取り尽くされていた。

漂流オランダ人のリーダーはヘンドリック・ハメルで、のちに『朝鮮幽囚記』を残した。そこの中でハメルはソウルで国王、大官の宴会に呼ばれ、踊り・歌を強要されたと書いている。そして、オランダ人は、朝鮮人の扱いにたまりかね、脱出の機会をうかがうようになった。1655年4月、清国の勅使(チュッサ)がソウルを訪問したとき、2人のオランダ人は勅使(清国官吏)に直訴したのだ。だが、清国官吏は朝鮮国王を難詰したが賄賂をおくられ、何も問うことがなかった。

1656年、朝鮮人はこの二人を刑死させたあと、残りのオランダ人を全羅道に配流することに決めた。それまでの、米と燕麦、布は、わずかな米のみの支給に減額された。

オランダ人は藁編みや乞食をして糊口をしのがねばならなかった。更に1660年から3年連続の飢饉が全羅道をおそった。全羅道配流のとき33人いた一行は、この飢饉が終わるまでに22人に減少した。ハメルは国王や全羅総督に日本への送還を哀願したが聞き入れられなかった。

1666年、一行は16人になっていた。ハメルは他の7人とともに、乞食をしてためた金で船を買い脱出することにした。8月3日夜、全羅道左水営から船出、東南の方向、長崎に向かった。だが、翌日に見慣れぬ島影に到着、二三日逃げるように島を巡ると8月7日発見された。8人は祈るように「長崎・オランダ」を叫んだ。

刀をさした身なりのよい役人と手振りで話しようやく、意が通じたようだった。ハメルは「五島の住民や大官からはあらゆる好意が示されましたが、彼らはそれにたいして何も要求しなかった。私達は何も持ち合わせがありませんでしたので、若干の米を贈ろうとしましたが、彼らは受け取ることを辞退しました」と書いている。

一行は2隻の大きな船にのせられ、9月14日、13年遅れて、目的地長崎に到着、オランダ商館長フォルヘルの歓迎をうけた。だが幕府は残りの抑留されている8人についても、朝鮮から奪い返さねばならないと考えた。

『李朝実録』顕宗7年10月庚午の条。「倭からつかわされた橘成陳(対州藩宗氏の家来)が言ってきた。『10余年前、オランダ人36名が物資を積んで耽羅に漂着した。耽羅の人はそれを全て奪い、全羅道にオランダ人を散らばして置いた。そのうち8人は密かに逃れ、江戸差配の場所に来泊した。(中略)オランダは即ち日本の属郡であって来貢する者である。朝鮮がその貨を奪い、その人を留めることは誠信の道であろうか』」。朝鮮国王は屈服した。こうして在留を希望した一人を除いて7人が長崎に戻された。

その後、生きながらえ日本に戻った15人は、遅くとも1669年度中に故国オランダ、アムステルダムに帰ることができた。オランダ東インド会社は16年分の給与をハメルに支払ったという。
7別宮暖朗   甦れ美しい日本 第037号  
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244336159/

弱いものにはとことんひどい仕打ちをする韓国人と逆に憐れんで助けの手を差し出す日本人。
100年も前から酷い民族性を発揮していた韓国人。
一時的とは、こんなのをよくもまあ、日本人にしてしまったものだ。
時代の流れとは言え、併合当時の日本人の苦労がうかがい知れますね。



韓国を救った日本。

http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/index.html日韓併合前後 朝鮮半島写真館

http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/OldKorea.html日韓併合前後

http://aikokuseigijuku.com/koreaphoto/k-006.html 写真

No comments:

Post a Comment