Title 「満州」移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍」
Author(s) 白取, 道博
Citation 北海道大學教育學部紀要 = THE ANNUAL REPORTS ONEDUCATIONAL SCIENCE, 47: 107-139
Issue Date 1986-02
Doc URL http://hdl.handle.net/2115/29294
Right
Type bulletin
Additional
Information
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
f満州J 移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍j
白取道博
The Emigration Youth Troops to Manchuria and the Emigration Policy
Michihiro Shiratori
自次
しはじめに…...・・..…….....…-…・・…...・・一……ー……-…・…・…ぃ………107
H u
II. r満州開拓政策基本姿調理jと「満蒙潟拓青少年義勇箪J.……細川…・………...110
r 1.
116満州現地案J(隠東軍)における「満蒙開拓青少年義勇軍」構想…ーハ……r 2.
......・Jと「満州開拓青年義勇隊訓練所J満蒙開拓青少年義勇軍r 3.
溺州開拓政策基本嬰織jの策定過程.. 110
「満州現地室長J (関東軍)と「拓務省試案J (拓務省)一一
H
・..一…・…121
ill. r満州開拓青年義勇隊訓練所jの配翠………一・・……………………….....・…126
IV. むすび………………...・・....一…
…
・・・.......……………一.......…130
H Hυ..
しはじめに
「満蒙開拓青少年義勇軍J(以下,義勇軍と略記する)とは,馬知の如く,敗戦前日本の中国侵
略の拠点たる「満州J (中国東北部,以下括弧をとる)に対する未成年者の移民である義勇箪
O
は,農業移民を主軸とする満州移民が荷わされていた箪事・治安上の役舗を補充・代位する形で,
1937年度を起点とするほ0カ年100 万戸送出計画」の補完策として案出されたものである11 。
義勇軍i乙関する研究は,それが紛れもなく満州移民政策の一環として遂行されたにもかかわら
ず,満州移民史研究会編『日本子好調主義下の満州移民J(龍渓警舎.1976年)の刊行をひとつの
峰として蓄積されてきた満州移民史研究において非常に立ち後れている21 iもし.r義勇軍開拓
団』ないし,それの前身である『満蒙開拓青少年義勇軍』の存在がなかったならば,日本手伝国主
義の満州移民事業は,一九四三年時点、で,すでに全面的に破綻していたのであるjめとの評価の
重大さに比して,義勇軍l乙関する研究蓄積はまったく過少で、あり,その基本的な政策展開を把握
するに足る実証研究を我々は共有していない。
満州移民史研究にわずかに見出すことのできる義勇軍への論及は,一般の成人移民に付随する,
その系での断片的な記述にとどまっている。例えば,高橋泰隆は,長野県諏訪郡富士見村の分村
移民の出身階層を論じた折,河村出身義勇箪(34名)についてその戸主の経済状態(1名不明)
から次のように言及している。すなわち.r農業を専業とする者は経営規模が大きくかっ自作部分
が大きし、。また乙の層は戸数割においても上位にある。その他の層は農業経営規模と戸数割にお
いてかなり低い下層村民であるといえる。乙のように青少年義勇軍においても移民の主軸が下
層農民であった乙とは明らかで、あるjめと。高橋が作成した表5) ,農業者(専)J14戸,
ζ.. 従えば.r
108 教育学部紀要第47号
O
「農業者(兼)J 8 戸,r開拓民J8 戸,rその他J3 戸である乙の行論からすればJ 主軸jと把
えられているのは専業農家を除く19戸であるしかし,ζの19戸のうち,rその他J3戸は非農
O
業従事者(燦表によれば,r旅館J ・「郵便局麗」・「日傭J)であり,r開拓民J 8戸が在村時lζ農
業に従事していたと推定しでも,高橋の言う「下層農民J は16戸にすぎない。これをもって,義
勇軍の「主軸が下層農民J の子弟であるとすることも可能かもしれないが,我々はむしろ,非農
業従事者や耕作規模が大きく戸数載も上位にあると認定された農家の子弟が少からずいる点に乙
そ控屈せざるを得ない。この点,山影県東田川郡大和村の分村移民iζ捕する調査報告に興味深い
記述を見出すことができる。「大和村農業移民に関する調査J0940年8-9 月調査)は,同村出
身義勇箪(9名)について,表「青少年義勇軍出身農家及経営主ニ対スノレ続柄J 1乙碁き次のよう
に記している。
「耕作面積と戸数割について見ると,その平均は二五・九反及び六・五六月で一戸の臼傭の存
在を除いて,村iζ於ける最下位の階級lζ非ざることを知る。青少年義勇軍の経済的性質の一斑
はここにも見られる。郎ち階級が最下位で文字通り手より口への階級iζ於ては一般的にその子
弟を青少年義勇軍として送出する余裕を有しない。昭和15年度のこの村の小学校卒業者のうち
に1名の青少年義勇軍の応募者の無いことは時局産業部門に於ける労働者需要の織烈を物語る
とともに謹接送出農家の所得増加と結びつかぬ青少〉年義勇軍それ自身の性格のうちに理由を求
められねばならぬ。このζとは移民一般の性格でもある。J6)
これはわずか一村の9 名に関する事例jにすぎないし,向村の経済的諸条件を加味すれば高橋の
う「下層農民jになるのかもしれなし刊。そして,事例を積み上げて行けば,義勇軍の「主軸」
は「下層農民」の子弟として特徴づけられるかもしれないが,その一方で,r主軸J とは異なる
相貌をもって立ち現れる青少年の存在もまた無視し得ない規模になるのではないか。その意味で
今のとζ.. ろ我々は,義勇軍に自らを投じた9万人とも10万人とも雷われる青少年について,rr義勇
箪』の主力は,日本圏内の小作貧農・農村雑業者層の二・三男であり,成人になっても日本国内
で農業経営者として自立し得る展望の全くない人々であったjめとの如く,その応募動機の説明
をも言外に潜めた形で断ずるには少しく鰭賭せざるを得ないのであるもとより,乙れは青少年
O
を取り巻く経済的諸条件を無視する謂ではない。前引した大和村の調査報告は,その隈りで事態
をよく説明し得ていると言えよう。だが我々の関心は,いみじくも向調査報告が記しているよう
に,大和村の「小学校卒業者のうちにー名の青少年義勇軍の応募者の無し、J1940年以降の事態,
すなわち「時局康業部門に於ける労働者需要の激変!じなる状況下での「直接送出農家の所得増加
と結び、っかぬ青少年義勇軍jの動向に症がれるのであるつまり,r1940年以降の青少年義勇軍
O
の渡満数が計画をオーバーする程の実績をあげJ9) ,r太平洋戦争期において,満州移民事業の全
面的崩壊をどうにか防いでいたものが,ほかでもなく,r満蒙開拓青少年義勇軍J から移行した
『義勇隊開拓団』の存在であったJ10) という事態を我々は説明しなければならなし、。しかし,繰
り返すが,その追究の前提として必要な知見を我々は共有していない。義勇軍は移民政策にどの
ように位置づいていたのか,あるいはまた,義勇軍の募集・送出はどのように進められたのか,
それは満州農業移民の主要な送出形態であった分村移民とどのように関わっていたのかといった
間いに対する答えを容易に見出し得ないのが現状なのである。
さて,本稿は,以下の2 点の検討を通じて,義勇軍lζ関する基礎的知見を獲得する乙とを目的
としている。
「満州J 移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍J
第1 ,乙,満州、!移民政策遂行上の諸原目IJを網羅した「満州開拓政策基本要綱J0939年12月22日
閣議決定)が義勇軍についてどのように規定していたのかを,その策定過程に焦点を合わせて,
明らかにすることである
O
「基本要綱」の策定過轄については,すでに浅田喬二の分析があるll)。浅田の分析によって,
f基本要綱jの策定が関東軍主導の下に進み,1"基本要綱」の内容には関東軍の方針を集約した
所謂「満州現地案jがほぼ盛り込まれたことが明らかになっている。ただ,浅田の分析は義勇箪
に焦点を合わせたものではない。そζ.. で,義勇軍lζ員IJ して,Ii詣州現地案jの内容がどのよう
にして「基本要綱J ,
ζ.. 盛り込まれているのかを確認したい12)。その際,浅間がまったく注意を払
っていない,拓務省が立案した「拓務省試案J を「基本要綱J の策定過程に位置づけた上で検討
を進めたい。移民関係機関構想に焦点後合わせて「基本要綱」の策定過程に論及した君島和彦
も,乙の「拓務省試案J,乙は触れていない問。だが,本論で明らかになるように,少くとも義勇
軍については,1"拓務省試案J を位置づけなければ「基本要綱J の規定の成立は理解し得ないの
である
O
第2,
練所」の配置状況の11 ,乙基いて新設・改編された「満州開拓青年義勇波宮J, 1"慕本要綱ζ..
特徴を明らかにすることである。
義勇軍が入所する所講「現地訓練所jの設寵地域を「ソ満国境J と概括することはどく普通に
行なわれている例えば,上笠一郎は,訓練所の分布について「満州留のソビエトとの国境に沿
O
って散悲していて,ほとんど例外がない14)J とし,そのζとを次のように意味づけている。すな
わち,関東軍等が「対ゾ戦への備えとして満蒙開拓青少年義勇軍というものを考え,そのように
処遇していたというζとを意味しているj仰と。しかし,いかなる意味において「対ソ戦への備
えJ であるのかが問題であろう。その点に留意しつつ,訓練所の種類別の配置の特徴を明らかに
し,1"基本要綱Jの設定した訓練所の意義を考察したい。
i
1)本稿は,義勇室経の創設過程について考察した,拙稿(主) Ir満蒙開拓青少年義勇軍』の創設過程j(北海道大
学F教育学部紀要j第45号,1984年12月)を前提として論を進める。
2) 研究史の整理については,満州移民史研究会編『日本帝国主義下の満州移民.1(古屋渓誉会,1976年)の
日立しがきj,金子文夫11970年代における『満州』研究の状出JI)-満州事変から『満州関』の崩壊
1,(.-1沿j(アジア経済研究所『アジア経済jまで一一
一郎f日本資本主義と移民j(社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展望.1,有斐閣,1984年)を
参照のこと。
3) 浅図喬ニ「満州移民史研究の議選についてJ (r一橋論叢j第78巻第3号,1977年9 月,319ページ)。
4) 高橋善寺隆「日本ファシズムと『満州』農業移民J(土地制度史学会『土地制度史学』第71号,1976年4
月,58ページ)。なお,34名を渡満年次で分けると,1938年が18名,1939年が10名,1940年が3名,1941
年が3名である。
5) I 議士気村義勇箪戸主職業別構成j。
なお,原表は,帝国農会『満州、i開拓民送出調まま』第2輯0942王手3 月,28-29ページ)所収の「義勇
箪戸別議査表J である。
6) 1大和村農業移民l乙関する調査j(積雪地方農村経済調査所ri筒州農業移民母村経済実態調査山形祭
東日3J11君巨大和村.1,1941年3月,22-23ページ)。
7)
向調資の「青少年義勇箪出身農家及経営ニ対スル続柄J(表)で耕作面積(日傭1戸を徐く)を見ると,5
反未満がI戸(4.6&:>,10-25反が4戸で,残り3 戸(39.8反,49.5.反,50.1反)が平均鐙を引き上
げている。また戸数寄Jj(日傭1戸を含む)は,会村戸数割平均11.63 円0938年)の倍近い1戸(22.84
1979年11月jのIN 農業移民」の項,正出健
教育学部紀要第47号
円)を除けば8戸の平均は4.52円まで下がる。とl品、え,やはり向調斎の言う如く「最下位の階級lζ
非ざるζ.. とJ は,同村の分村移民を分析した柏木綾rr満州』農業移民政策と『庄内裂』移民一一山
形県大和村移民計画を中心iζ 一一J (社会経済史学会『社会綬済史学J 第42巻第5努.1977年3 月)に
より推知し得るのである。楠木の分析対象i主義勇軍ではなく,成人の全戸移民と単独移民についてであ
る。柚木は,全戸移民(20戸)について,その「八0%が耕地所有と全く関係のない,まさしく『土地
飢餓』農民であり,村内最下位j留に属する貧農ないし半プロ層であったJ (問上書.63ページ)と結論
するにあたり次のように述べているo すなわち.r全戸移民20戸の実に65%は世幣主の職業が農業労働
であり,他賃労働者を加えると80銘となる。20戸中耕作地を有するのは8 戸(56.7 反歩)にすぎず,し
かもすべて小作地であった。また戸数割税も村平均11.63 月(1938年)に対し3 戸の生活扶助受給者
を除く17戸平均で僕1.72円であったJ (向上書.62-63ページ)と。
8) 浅間喬二前掲論文(r一橋論議i第78巻第3号.318ページ)。
9) 浅間喬二「満州農業移民政策の立案過程J (前掲『日本干持層主義下の満州移民J.101ページ)。
10) 向上。
11)浅間喬二向上論文(向上番.57-81ページ)。
12) なお,上笠一郎『満塁発開拓青少年義勇軍J(中公新番.1973年)では,ζ.. の乙とはまったく吟革まされて
、。Lし、な
13) 君島和彦「満州農業移民関係機関の設立過程と活動状況J (向上警.161-172ページ)。
14)前掲『満蒙開拓青少年義勇軍J.124ページ。
15) 向上著書.126ベージ。
買.r満~I\II開拓政策基本要綱
J
と「満蒙開拓青少年義勇軍
J
(拓務J(関東軍)と「拓務省試案J現地案i満州-rの策定過程一j開拓政策基本要綱i満州r 1.
省)一一
本節では,関東軍の傾導の下に進んだ「満州罰拓政策基本要綱J (以下,r慕本要綱J と略記す
る)の策定過程を検討し,r碁本要鱗」における義勇軍構想、の検討にとって留意すべき諸契機を
抽出する。
1938年12月l臼,関東軍は,r移民根本閤策決定ノ為ノ:重要事項検討促進ニ調スlレ件(案)J 及
び「移民根本菌築決定ノ為ノ重要検討事項(案)J (以下,r重要検討事項(案)J と略記する)を
決定し,移民政策の再編i乙着手した。前者は,
留と晃通しを11のおよその手J移民根本国策決定r
記したものであり,後者は,文字通り,r移民根本国策決定J fζ向けて検討すべき移民事業の各
般にわたる事項を網羅したものであった。乙れらによれば,関東軍は,1940年度から「新体制ニ
移行、ン得ノレコトヲ目途Jとして1) 1939年の「八月予算編成期迄ニ具体的成案ヲ確立」するζ.. と
にしていた2)。そして,当面の作業は,1939年初頭に開催すべきf第一次内鮮移民関係機関並ニ
権威者ノ会同協議J fζ向けて,r重要検討事項(案)J を主義礎として年内に素案を作成する乙とで
あった3) 。
「重要検討事項(案)J は,検討項自を,打荷州国側ノ措置J (10項)(日本側ノ措置J(8項),
f日満協力調整J02項)等の如く9つに区分して記していた。ζのうち,r満州国側ノ措置J
の1項に「青年義勇軍J があった。その全文は次のようである。
f青年義勇軍ノ、満州ニ於ケJレ各穣移民ノ基底トシ将又優良ナノレ青少年ノ移住ニヨル爵家ノ生成
発展就中日満不可分関係ノ掌イヒニ資スノレ為特ニ重点ヲ指向スノレモノトシ特ニ左ノ諸点ヲ再検討
「満州j移民政策と「満蒙開拓資少年義勇箪
J
ス
(イ)経営主
体
(ロ}大訓練所ハ訓練本位トシテ経営指導シ其ノ訓練目的ヲ確立
ス
川小訓練所ハ申,乙,丙ノ各種ニ区分シ経営指導
ス
申農業集団移民トシテ定着
乙混住(集合,分散)移民トシテノ臨定施設(但シ集合移民トシテ定着セシムルモノ
アリ)
丙技術者及専門的特殊訓練ヲ加味ス(悶定)
(概ネ全数ノー割ト予定ス
)
(ニ)大訓練所訓練生卒業後ノ措寵振ト適性重量襲及配分要
領
(ホ)諸民族トノ協同訓
練
(べ指導者ノ養成,指導精神ノ維持培養,移行要
領
(卜)都練機関ノ整
備
(チ)プーJ
レ
(リ)小訓練所穣類別ニ依Jレ剖練様式及訓練項目ノ確
立
(ヌ)以上各区分ニ従フ経営様式,土地配分及採算関
係
(刈資金ノ調達ト補助
金
(ヲ}訓練機関ト協和会及行政機
構
(ワ)訓練生ノ知的情操教育並ニ青年訓練関
係
(カ}建物,糧食,衛生其ノ他一切J4)
関東軍指導下の満州拓様委員会を中心として進められた素案概成作業は.1938年末には一応終
了し.r移民根本国策基本要綱j及び「参考資料」が作成された。関東軍は.1939年
l
丹7-
8
日.r臼鮮満移民懇談会
J
を「新京
J
(長春)で開催した。乙の「懇談会」は,素案を関係、各方面
lζ
周知させ.r全体的大綱的意見ノ一致乃至ハ諒解jむを取りつけるためのものであった。そして,
l
月10
民最終的な紫案として「満州開拓線本政策基本要鱗案
J
及び「参考資料案
J
から成る「満
州現地案jが確定した。
「満州現地案」の提示をうけて,日本政府では月比日,対満事務局を構成する各省次宮及
び拓務省関係宮を中心i乙満州側関係者も交えて,日本における審議の手}績について協議した6)
。
対満事務局はその後も検討を重ね.
3
月178.
r満州移民問題今後ノ処理方針ニ関スノレ件」を決定し
たにこれによれば,まず「満州、i現地案」を「基礎資料」として「可及的速ニ成案」を得て,
1939年度初頭に開催する「日満移民間題懇談会
J
における「審議協定」により一応の合意を形成
し,それに碁づいて内閣謹属のf臨時満州移民審議会」で「関係各方聞ノ総意的決定ヲ為スjと
していた。当屈の焦点はr8満移民問題懇談会」に提出する素案の作成にあり,そのため.r可及
的速ニ関係各庁高等官並ニ民間関係者ヲ以テ組織ス
J
レ準備委員会
J
を設置する乙ととした針。日
本側における審議は.,まぼこの手JI境遇りに進む。
f準備委員会
J
は3月2981乙発足した。「準備委員会jは,拓務省が審議日程等を説明した
悶白の第
l
回総会及び関東箪がf満州現地案jを説明した第
2
回総会(
3
月31
日)を経て
4
月
から.
5
つの分科会に分かれて実質的な審議に入った。と乙ろで拓務省は,第
1
郎総会iζ引き続
いて
3
月318
には分科会に移行する予定であった。だが,柘務省(安井誠一郎拓務局長)による
教育学部紀要第47号
「満州現地案Jの説明に納得しない委員の要求に応ずるため,予定を変更して第2 回総会を設定
したのであった91 。第2回総会では,関東軍の三品陵以少佐が「満州現地案Jの説明にあたった
が,そこでd その内容如何の以前に,日本政府案でもなくまた主務省である拓務省案でもない
「満州現地案JなるものをE草案とすることに疑義が呈された。例えば,小野武夫委員(東京帝国
大学農学部講師)と三品少佐との間で,以下のようなやりとりがあった。それは,移民政策にお
ける関東軍の主導性をはからずも示す象徴的なものであった。
水野「現地案ハ,関東軍ノ案デアjレカ。満州国ノ築デアノレカj
三品「事務的ニハ関東軍ノ決定事項ニナッテイルカ\事実ハ軍ニテ基本要綱ヲ作成シ,満州国
ガ之ニ基キ参考資料ヲ作成シタJ
水野「然ラパ何レノ機関ノ案ナルヤJ
三品「満州現地案ト認メラレタイJ
水野「諒得シタ斯種ノ外国案ヲ組上九日本政府召集ノ委員が審議ヲ進ムル方法ノ、不可デア
O
ノレ。臼本業却チ拓務省案ヲ基礎トシテ審議ヲ進メヨ。(中略)近来,日本政府ハ政治上ノ指
導権ヲ失ヒ,満支等出先軍部ニヲi摺ラレテイノレトノ認識ハ諸外国ニ締漫シティノレ。此際,今
次移民会議ガ此種悪評ノ材料ヲ提供スルコトトナッテハ対外的ニモ面白クナイ。拓務省ハ毅
然タル日本案ヲ何故出サヌノカ。現地ニ改議案アラパ,日本ニモ当然ニ有jレベキデノ、ナイカj10)
この議論は,安井拓務局長が,1"外国トイブガ満州、|ハ純然タJレ外国デハナイ。(中略)拓務省ノ
考へハ分科会ニテ時機ヲ見テ申述ベノレ用意モアルj11)と応じて終患したのであるが,少くとも水
野はなお釈然としなかったであろうことは想像に難くない。また,水野とは}3IJの意味で,審議の
前提を問題にした委員もいた。金井元彦委員(企画院書記官)は,1"現地ノ国妨上ノ必要ヨリ(中
略)移民ニ何ガ要求サノレjレカ。之ヲ前提トセネパ審議ヲ進メラレヌJ12) と,審議方訟ではなく,
「満州現地案jの「荊提jを閤うべく発言した。ζれに対し,三品少佐は,以下の如く,移民lζ
対する箪事的要請を明言した。
「移民ニ対シテハ辺境地帯ノ防備ニツキ重大ナノレ価値ヲ期待シテイル。間接的価値トシテハ,
戦時ニ於テ国境地帯ニ日本人ノ家ト人ガ有jレコトガ絶対ニ必要デア
ハ辺境防備ノ日系軍警ノ重大ナJレ慰籍トナjレ。又直接的価値トシテノ\国境地帯及同地帯軍事
施設ノ肪衛,交通路ノ確保,軍事食料確保等ニ重大ナノレ意義ヲ持ツJ13)
関東軍z 満州盟は,後述するように,対ソ戦略体艇の強化のために「北辺振興計画」の策定作
業をこの時期進めており,三品少佐の発言は,1"北辺振興計画jにおける移民の位置づけを彼な
りに表現したものであった。
さきの安井拓務局長の発言にあった「拓務省ノ考へJ は5 月上旬,1"拓務省試案jとして各
分科会に提示された。問案は,1"満州現地案Jと同名の「満州、i開柘根本政策基本要綱案J及び「参
考資料案」から成っていた141。
その後拓務省は,1"満州現地案J 及び「拓務省試案J I乙対する各分科会の審議を踏まえ,満州
側関係者との折衝を経て作成した「詞間合意案」を6月28臼,各分科会に示した。そして6月
30民第3回総会は「両国合意案J 安「準備委員会J 案として、決定した。ζ.. の「両鴎合意案」は,
,平時ニ於テ日本移民村1)
f満州J 移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍j
ri鵡州開拓政策主基本要鱗案j及び「付属書案」並びに「満州開柘政策基本要綱参考資料案jから
成っていた。三者の関係は,安井拓務局長の説明によれば.1付属書ハ基本要綱ト一体ヲナ、ン,
基本要綱ノ内重要ナノレ開題ノ説明書jであり.1参考資料ハ本来付属書中ニ包含スベキ性費ノモ
ノ乍ラ,尚両国ニ於テ研究ノ余地アルモノJであった1針。
7 月4 臼,柘務省及び対満事務時は,臼満双方の関係官庁及び諸国体を忍集し「日満移民懇談
会」を開いた。同懇談会は.1準備委員会jが決定したさきの3 案を承認した16) 。
日本政府は,ζの「満州開拓政策謀本要綱案J を政策化する最後の手続きとして.8 月3 日,
「臨時満州開拓民審議会官制Jを公布し,開案の審議機関を設寵した。8 月16 日の第l回総会か
ら始まった審議は.1諮問第一号J(1現下ノ諸情勢ニ鑑ミ満州開拓民ニ関スノレ根本方策ヲ樹立セ
ントス右ニ関スjレ意見如何~J) 17) に対する答申の作成という形で進んだ。また,さきのf満州、i開
拓政策基本要綱案J 及び「満州開拓政策基本要鱗参考資料案J (1付属書案」は前者に含まれてい
た)は,参考資料として悶審議会に提出された18)。そして,再審議会は,答申番記事のための3
回にわたる特別委員会を経て.10月初日,第2回総会において.1現下ノ諸槽勢ニ鑑ミIレニ溺州
開拓民ニ関スjレ根本方策ノ叶IJ冊満州開拓政策基本要綱ニ依リ之ヲ積誌的ニ遂行スルノ嬰緊ナjレヲ
認ムJ19) との「諮問第一号答申書J安可決した。乙のように「臨時満州開拓民審議会Jは,参考
資料であるf満州開拓政策基本要綱案J を無修正で承認した判。
可決された「諮問第一号答申書Jは,同日00月30日).内閣総理大臣及び拓務大臣宛に送付
された。そして.12月22日,臼本政府は「満州開拓政策基本要綱Jを関議決定し,同日発表した。
また満州国政府も,問要綱を商議(1参議府会議J) 決定の上発表した21) 。
1938年12月に関東軍が提起した「移民根本舗策J の策定作業は,大略以上のような過程を経て,
f満州開柘政策基本要綱」に結実したのであった。
さて,これまで見てきた「基本要綱J の策定過程から.1基本要綱」の内容は,拓務省が「満
州開拓政策基本要綱案J 及び「付属書案J 並びに「満州開拓政策基本要綱参考資料案」を「両国
合意案J として「準備委員会」に提示した時点(1939年6 月28日)で確定していたことがわかる。
そして,これらの立案の基礎には.1満州現地案J(1939年1月)と「妬務省試案jの2案があっ
たのであり.1慕本要綱J fζ練り上げられた移民関係機関の意思を把握するには両案の検討が不
可欠なのである。
成案である「満州開拓政策基本要綱Jは.1基本方針J. r基本要領J(26項). 1処置J(2項)の
3つの部分から成っており,その「付属番jは14件.1満州開拓政策基本要綱参考資料J (以下,
「基本要綱参考資料Jと略記する)は12件にわたる諸事項で構成されている。乙れらにおける義
勇箪関係の主な規定は.r基本要織Jの「基本要領Jの第四項(5 項目)と「付属書Jの「六
満州関商青年義勇隊(満蒙罰拓青少〉年義勇軍)ニ関スル件Jにある
O
先述したように.r満州現地案J は.r満州開拓根本政策要綱案j及びf参考資料案」から成っ
ている。f参考資料案Jは,前者の内容を敷街した37件にわたる倒別案の総称である。「拓務省試
案J も「満州現地案J と閉じく「満州開拓根本政策慕本要綱案jと「参考資料案」から成ってい
るが.1参考資料案J の件数は34件である。第1表(a)は,成案である「基本要繍jの「付属委jと
f慕本要綱参考資料J,現地案J拓務省試案jの「参考資料案」を示したもので
ζ.. 速なる「満州、i . r
ある。もとより,これらの諸案は当初から「付属書Jないし「基本要構参考資料Jの底分に応じ
て立案されたわけではなしまた「慕本要綱jの条項との関係で内容上はそちらに盛り込まれた
部分もあり,これはおよその対応関係を示したものである。義勇軍については.r付属審J の「満
教育学部紀要第47 号
第H 侵(a) r満州調拓政策基本要綱j関係諸案一覧
「満州開拓政策議本要綱j f満州穏拓根本政策室基本姿綱案J 「満州開拓根本政策基本要綱案j
(r拓務省試案J)
〔付属
番
I(f参考資料案J)
1. 日本内地人集合開拓民移住ニI(1) 日本内地人集合燃拓民入綴要
関スJ レ件l綱案
2.開拓農地制度ニ関スJ レ件1(2) 土地制度婆綱案
3.開拓地行政経済機構ニ関スル1(3) 臼本内地人移住地行政経済機
件i構要綱案
4.開拓地医療衛生ノ整備ニ関ス1 (4) 線拓地医療務備要綱案
J レ件
5. 隠拓民共済制度ニ関スノレ件
6. 様州開拓青年義勇隊(満蒙開
拓者少年義勇軍)ニ関スノレ件
7. 跨拓民ノ訓練ニ関スル件
8. 指導員選定及養成ニ関スル件
9 ‘戦鮮人開拓民ニ関スル件
10. 跨拓関係行政機構ノ拡充ニ関
スノレ件
11.満州拓植公社ノ改編及満鮮拓
植会社ノ統合ニ関スJ レ件
12. 開拓事業ノ経費負担ニ関スル
件
(5) 開拓民共済対策婆綱案
(6) 満州開拓青年義勇隊要織案
(満蒙開拓青少年義勇軍)
(7) 開拓民訓練要綱案
(8) 指導員養成要綱案
(9) 鵜鮮人開拓農民要綱案
間開拓関係行政機構ノ拡充姿縞
案
(11) 満州開拓事業ノ経費負担区分
要綱案
(「満州現地案J)
(f参考資料案J)
出土地制度要綱案
(2) 移住地行政経済機構婆網築
(3) 移民地医療繋備婆綱案
(4) 移住者共済対策要綱案
(5) 満州開拓青年義勇隊組織要綱
案
(6) 移民訓練要綱
(7) 指導員補充養成要織
(8) 朝鮮人農業移民要綱案
(9) 移民関係行政機嫌/一元的拡
充要綱案
(10) 満拓改組鮮拓統合委縮案
(11)移民事業/経費負担区分要綱
案
13. 開拓民金融体系調裳ニ関スル(12)
移民金融体系調整婆綱案2)(1
件
14. 開拓地ニ於ケル教育ニ関スノレ(13) 開拓地教育処理主要綱案(13)移民地教育処理要織築
件
〔参考資料〕
1.未利用地ノ開発利用ニ関ス
ル
(1品未利賂地ノ開発利用要綱案1 (14) 未利用地/開発利用婆綱案
件
開拓民金融体系調整要織案
担税要綱案5)(1
3. 開拓農業経営ニ関スル件制農業経営要綱案I6) 農業経営姿織案
(14 既住朝鮮人農民ノ安定輔導ニ間既往朝鮮人農民騎導安定委綱1(1ち既伎鮮農ノ安定輔導要綱案
関スノレ件案じ側原住民間内移動要領案倒)
5. 原住民ノ移住及輔住ニ関スルZ 移住地内原俊民転住輔導要綱案
件「側転業要領
2. 開拓民ノ担税ニ関スル件(15) 担税要綱案
1
6. 先遣隊制度ニ関スル{牛世8) 先遺隊制度婆綱案
先遣隊昔話笈婆綱1) 自
日本ニ於ケノレ満州開拓教育ニ7.(1 満州開拓ニ関スル青少年教育9)
関スル件要綱案
8. 分村分郷計顧ニ関スル件閣)分村分郷計額要綱案
9. 開拓民負債整理ニ関スノレ件目1)満州開拓民負債整理要綱案
10. 開拓民ノ未招致家族扶養ニ関(22) 入植者ノ未招致家族扶養婆綱
スjレ件案
11.女子指導訓練施設ニ関スル件凶)女子指導包!融筋設要綱案
12. 開拓民後援運動ニ関スノレ件凶開拓民後援遂動要綱案(22) 移民後援運動要領案
組満州拓植公社東京支社f満州関拓政策iζ 関する内地側会議委録ム1939 年.r付録J1-184 ページより作成。
州開拓青年義勇隊(満蒙開拓青少年義勇軍)ニ関スル件J ,満州開拓青
ζ.. 照応するものとして.r
年義勇隊組織要綱案J (1満州現地案J) と「満州開拓青年義勇隊要綱案(満蒙開拓青少年義勇箪)J
査
・収集したものであるo 乙れらの複写の利用を快諾して下さった,間会代表の浅田喬ニ駒沢大学経済学
部教授の御厚意lζ 感謝したい
。
2) r移民根本題策決定ノ為ノ重要事項検討促進ニ関スル件(案)JC調拓自興会所蔵)
。
3) 向上
。
4) 前掲『移民根本国策決定ノ為ノ重要検討事項(案)J,9-10ページ
。
5) r移民根本国策決定ニ穏スル懇談会席上軍参謀長/挨拶JC開拓自興会所蔵)
。
「軍参謀長jとは,磯谷廉介関東軍参謀長のことである
。
6)
満州拓犠公社東京支社編『満州開拓政策iζ
関する内地復~会議要録
J
C以下,r会議要録J と略記する)
,
1939年ページ参照
。
7) 1939 年3 月20 日付稲間対満事務局事務官宛竹内対満事務局庶務課長通牒「一部事務官会議決定通知
/
件Jcr対支局設鐙ニ関スJレ件j第23,国立公文書書館所蔵『内閣総環大臣官房総務諜資料J)
。
8) f満州移民問題今後ノ処理方針ニ関スノレ件JC向上)
。
9) 日程の変更を提案したのは陸軍省の小尾哲三委員(主要務局箪務課満州班長)であった。小絡が提案し
た
のは,あくまで「満州現地案Jの具体化を促進するためであったζ.. とは言うまでもない。小尾はJ満州
国側及関東軍共,現地案/円満通過ヲ強ク熱望シテイルコトハ事実デアル。故ニ日本側委員モ首肯シ得
Jレ部分ノ、充分ニ原案ノ実現ニ協力スルノ心機ニテ選進サレ度イJと述べた上で臼程の変更を提起したの
であった(前掲『会議要録J,9 ページ)。
10) 向上番,14ページ。
11)向上。
12) 向上書,15ページ。
13) 向上。
'116 教育学部紀要第47号
14) r拓務省試案jの作成期B は明確ではない。なお,その慕本的な内容は,r準備委員会jの開会前には
出来ていたようである。『会議委録』によれば,拓務省は,両省lζ 「部局課長級/大半ヲメンバードス
lレ委員会jを設け,rニ汚下旬迄ニ現地案へ/一応ノ検討J をなし,それに対する「修補調整案J を作
成したという(同上黍2ページ)。
15) 向上書.124ページ。
16) 向上議,148ベージo
17)臨時満州開拓民審議会『臨時満州開拓民審議会会議録~(以下,r審議会会議録』と略記する),1940年,
17ページ0
18) 向上番,331ページ参照。
19) 向上警,20ページ。
20)ζ の点は,正縫lζ 言えば,一部について修正案が提出されたが条文中には織り込まれなかったという乙
とである。委員の橋本伝友衛門が提出した,r~基本要調理
j
の農業経営方針iζ
関する項尽についての修正
案が答申舎に「付帯決議jとして付記されている(向上書,21ページ参照)。
2
1)満州関拓史復刊委員会編F満州開拓史~,会調拓友協議会,1980年.350-351ページ参照。
2. r満94'1現地案J (関東準)における「満蒙開拓青少年義勇軍J 構想
本節では,r満州現地案J のうち,r満州開拓根本政策慕本嬰綱案J (以下,rt基本要綱案J と略
記する)のf参考資料案J として立案された「満州、!開拓青年義勇縁組織要織案J (以下,r義勇隊
組織要綱案Jと略記する)を中心に検討を進める。なお,その際,義勇隊訓練所指導経営
要綱J(1938年8 月58 ,関東箪司令部決定)に集約されていた関東軍の方針の変化に留意した
まず,r慕本要鱗案jの主な義勇箪関係規定を見ておくっ「基本要綱案J は.r基本方針」と「基
本要領jから成り,その「基本要領J の第5 項l乙「開拓青年義勇隊jがある。「開拓青年義勇隊」
の項の全文は次のようである。
「開拓青年義勇隊ハ満州ニ於ケlレ各種開拓民ノ特ニ開拓農民/基麗トシテ将又優良ナル日本内
地人青少年ノ移住ニヨJレ国家ノ生成発展就中臼満不可分ノ輩化ニ資スノレ為特ヲ指向シ主主
ノ経営指導ニ関シ概ネ在ノ要領ニ従ヒ方策ヲ確立ス
(寸管理運営ノ主体ヲ確定ス
訓練所ハ各穣鵬ヲ通シ一体的統制ノ下ニ指導運営セシム,之カ為満州国政府,協和会及
臼本側関係機関ノ協力合作ニ為ノレ強力ナル指導統制機関ヲ現地ニ設ケ其ノ指導経営ノ適切
ヲ期スjレト共ニ包本側諸機関トノ連絡ニ使ナラシムノレモノトス,尚各穣訓練所ノ経営ニ付
テハ自的,態様ニ応シ右統制機関直営スノレノ外政府地方機関満拓及鉄道総局等ヲシテ之ニ
当ラシムノレモノトス
口訓練所ノ種別,態様ヲ確定
ス
基礎的訓練施設ト実務的訓練施設ト二分チ後者ハ受ニ左ノ如ク区分
ス
(イ)集団開拓農民トシテ当該訓練地ニ定着ヲ呂標トスルモ
ノ
(ロ)訓練終了後他地方へ移住セシムノレコトヲ自標トスノレモ
ノ
(ハ)技術的特殊訓練ニ適応スル者ノ、一般ノ当該施設ニ収容スノレ如ク措寵
ス
G 日本ニ於ケル募集軒続ヨリ訓練所及開拓地定着ニ至ル迄脈絡一貫セjレ指導精神ヲ保持シ
} 。
ー
.、
し
「満州j移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍J
内地訓練,現地各種訓練ヲ実施ス
四議少ぷ義勇隊中各民族ヲ包含シ協関訓練セシムjレヤウ工夫ス
様ノ統一,指導者ノ満州建国精神へノ帰一等ニ付徹底セシム11回指導者ノ養成富
内各種訓練ノ訓練項目,方式ヲ確立ス
(甘訓練所経営ニ要スル経費負担ノ区分ヲ確定ス
(J\) 前各号ノ外訓練所ノ経営ヲ円滑ニ遂行スノレ為必要ナノレ建設,糧食,衛生其ノ他ニ付更ニ
適切ナル措置ヲ講スJ2)
乙の「基本要綱案J の規定は,さきに示した「重要検討事項(案)J と対照すれば明らかなよう
に,それを整序し敷街したもので、あった。ただ,r重要検討事項(案)J では,r開拓青年義勇隊j
ではなくJ 脅年義勇軍J となっていた。関東軍が,とうした二様の呼称を用いたのは,新たな呼称、
を案出しようとしていたことを意味しない。なぜなら,渡満後の呼称として「満州開拓青年義勇
隊jを用いることは,義勇軍創設当初から関東軍の意向としてあったからであるわ。
ζ.. の点に関わって,r臼鮮満移民懇談会J(1939年1 月7 ,8 日)にあらわれた移民の呼称に関
する意見について触れておきたい。その意見とは,宗光彦(第2 次移民団長)が表明したもので,
「移民J という呼称の変更を希望するものであった。すなわち,宗によれば,r今日使用サレテ
居ル満州移民j という呼称は,r通念的JI乙南米移民等と同様に考えられ,それについて「移民其
レ自身ニ於テモ嫌ナ感J を抱いているため,r移民ノ文字ヲ廃シ適当ナ字句ニ訂正願ヒタイJ とい
うζとであっため。山崎芳雄(第1次移民団長)も同様趣旨の意見を述べていた5) 。また宗は,
呼称変更の必要性を強調すべく,r特ニ青少年義勇軍カ1創刊へ来テ義勇隊トナルノミニテモ青少
年ニ精神的ニ大キナ影響カアノレjめとも述べていた。宗は,義勇軍については,渡満後も「満蒙開
拓青少年義勇軍J という呼称を維持することを求めていたわけであるが,ζれは,先lζ見たよう
に関東軍の採ると乙ろとはならなかった。一方,r移民JIζ代わる「適当ナ字句J は,同懇談会に
おいてではないが,案出された。「開拓民J がそれであるo すなわち,r移民根本国策基本要綱j
における「移民J,r移民間J,r農業移民J,r移民政策J 等の字句は,それぞれ「関柘民J,r開拓
国J. r開拓農民J,r開拓政策J 等と改められ,標題も「満州開拓根本政策基本要繍案J との如く
なったのであった7) 。関東軍は,r開拓民jなる字句に,移民要員を確保する上での言わば吸引力
としての有効性を恐らく見出したに違いない。
ところで,さきにも触れたが,成案である「基本要綱Jの主な義勇軍関係規定は5 項自であるつ
次節で明らかになるように,その5 項目はすべて,文言の異問乙そあれ,r基本要綱案Jで提示さ
れていたのである。5項目のうち,4項目は,さきに示した「開拓青年義勇隊J の項の第1-4
項である。残りの1項目は,r開拓青年義勇隊J の項とは別の,r高,工,鉱其ノ他開拓民J I乙関
する条項にある。すなわち,r右特殊開拓民ノ招致ニ付テハ一般農業開拓民トノ関係調整ニ留意
ス,特ニ青少年義勇箪ト技術工見習要員トノ募集訓練等ニ付テノ、統制連繋ノ方途ヲ講スルモノト
スjめとの規定の後半のくだりである。ζこでは,r基本要綱案」と「基本要綱J の規定の照応
関係を篠認するにとどめ次に,r義勇隊組織要綱案jを見ょう
3
「義勇隊組織要繍案J ,ま,r方針jと「要領J から成り,r方針J には次の如くあった。
「青年義勇隊ハ東亜協同体創成ヲ目途トスjレ道義的大陸政策ノ拠点タル満州国ノ生成発展就中
其ノ青年組織ノ中核トシテ将又各種移民ノ基底トシテ日満一体共同ノ根本国策トス
教育学部紀要第47号
右目的達成ノ為青年義勇隊司1\繰所ヲ設置ス9)j(薗点一一引用者)
そして,r要領jは,r一,青年義勇隊訓練所J rニ,訓練所ノ種類並移行要領J r三,基本訓練
所並ニ実務訓練所ノ組織並ニ編成Jr四,訓練内容Jr五,指導者Jr六,訓練生」の6 項目にわ
たっていた10) 。
同案における関東軍の構懇の特徴は以下の5 点iζ集約される。
ζ脅年義勇隊」として組織すべき対象を「内地」の臼本人青少年以外にも拡大したr,!ζ1第
とである。「義勇隊組織要綱案jは,r青年義勇隊ハ日本内地ニ於テ組織サレタlレ青年層ヲ母胎ト
シ結成jするとしつつも,r訓練生jには,r概ネ十六歳ヨリ十九歳迄ノ臼本内地人青年ニシテ内
地訓練課程ヲ修了セJレモノjのほかに.r在満日本内地人ノ子弟ニシテ特ニ詮衡ヲ経タルモノJ ・
「其ノ他訓練ヲ委託セラレタル者J をも含めていた。さらiζは.r暴本要綱案jの第4 項にあ
る「協問訓練jの実施のために,中国人・朝鮮人青少年の入所も考えられていた。「義勇隊組織
要綱案jは.r優秀ナ/レ満鮮人子弟ヲ入所セ、ンメ実同iI練ヲ実施シツY訓練生相互ニ其ノ国民性,
言語ニ親シマシメツツ将来民族協和ノ契子トシテノ機能ヲ培養スノレJと規定していた。乙れは,
日本人移民とそれを軸として統御されている中恩人・朝鮮人との関係の,言わば原慈の如きもの
を形成するζとに他ならない。
第21ζ ,以下のような文言を「青年義勇隊綱領Jとして掲げたことである。
「一,我等ハ天組ノ宏諜ヲ奉体シ満州建国ノ聖業ニ挺身ス
ニ,我等ハ民族躍進ノ先駆者トシテ八紘一宇協和ノ大道ヲ選進ス
三,我等ハ智徳ノ並進ニ努メ軽侮詣激ヲ媛メ五族楽業ノ誼ヲ篤クシ以テ大東亜文化ノ興隆ヲ
期スJ (圏点一一引用者)
これは.1938年11 月iζ満州拓橋公社が作成した「訓練方針(案)J の掲げた「訓練綱領jを,圏
点を付した部分を挿入して改定したものであった11)0 r協和」を強調し.r軽侮詑激ヲ媛メ」ざる
を得ない事態の進行を看取し得る。
「義勇隊組織要綱案jと椙前後して策定されたと思われる「康徳六年度(1939年度一一号|用者)
訓練実施要錨」も.r訓練方針(案)J と同様の「訓練綱領」を掲げているのだ、が12) 両者とも,
いわゆる「義勇軍綱領J(後掲)を前提としていた。その点、で,この「青年義勇隊綱領jの掲詑は
注目すべき乙とであった。
第31ζ ,訓練終了後の措置について,農業移民以外への配分を志向したことである。すなわち,
f義勇隊組織要綱案」は.r訓練所ノ卒業生ハ農業移民トシテ定着セシムルヲ第一義トスルモ卒
業生ノ性能特技ヲモ考慮シ之カ育成ニ努メ広ク産業開発並ニ諸般ノ人的資源ノ養成ヲ目途トスj
と記したのである。乙の点.r青年義勇隊訓練所指導経営要綱J も,訓練終了後は「訓練生ノ特
質,兵役関係,入植地其ノ他諸般ノ関係ヲ考慮シテ機宜ノ措置ヲ講スルj13) との如く,農業移民
としての定着以外の可能性を示唆してはいた。とはいえ,これは,問要綱の設定した訓練所の内
容からすれば\農業移民としての定着を前提とした「機宜ノ措置jと見るべきであろう。その点で,
「産業瞬発並ニ諸般ノ人的資源ノ養成」を明確に志向したことは注目すべき変化であった。
第41ζ ,訓練所として「基本訓練所Jと「実務訓練所jを設定し,後者をさらに甲乙丙の3 穫
に区分したζとである。従来,訓練所は基本的iζ.r建国農民タjレノ基本的訓練J を実施する「大
「満州iJ 移民政策とf満蒙開拓青少年義勇軍J
と,J締所11諒
類であった向。
r大訓練所ノ基本訓練ト一貫シ更ニ農事実擦訓練ヲ徹践J する「小訓練所J の2種
j年で,訓練目的を「基本的国民訓練1は,訓練期間はj続所i照応する「基本部J Iζ棟所11「大訪
の実施とした。「小訓練所JI乙照応する「実務宮Ii線所
j
は3 穫に区分したが,訓練期間はいずれ
も2年とした。「実務訓練所jの区分は,さきの「重要検討事項(案)JIとも示されていたように,
訓練目的・入植形態・施設の態様によるものであった。まず,r甲種実務訓練所jとf乙種実務訪11
11は,従来の川、言J練所
所施設並ニ用地ヲ其ノ鐘移住地トシテ集団的ニ入植定着スヘキ膏年Jを収容するとした。乙乙lと
いう「集団的J の規模は,r一個中隊即チ三00名jであった。乙れに対し:後者は,r農業移民ト
シテ集団,集合,分散ノ各移行要領ヲ以テ入植定着スヘキ青年
j
を収容するのだが,前者と違っ
て「国定的ナル訓練所施設J であった。つまり,r訓練終了後他地方へ移住セシム/レコトヲ目標
トスルモノJcr基本要綱案J) であった。「青年義勇語家訓練所指導経営要綱J がれj、訓練所J につ
いては「為シ得ル組1) 当該地鼠ニ入植定着ヲ行ヒ得lレ様考慮シ其位置施設等ヲ決定スルJ1S) とし
ていた
ζ
とからすれば,司Ii練目的をi弓じくしながら二様の訓練所を設定したのは注目すべき乙と
であった。なお,ζ.. の甲種・乙種の区分は,r基本要縞J の公表を待たずして,その策定作業と
並行する1939年度の訓練所設震計画に適用されるのであるが,乙の区分の設定の意味については
次節で検討する。残る「丙種実務訓練所jは,甲種・乙穫とはまったく異なり,r基本訓練所卒
業生中技術的特技ヲ有スル者ニ対シ専門的特殊部練ヲ実施シ広ク鉱工部門ニ必要ナJレ人的資源ノ
養成ヲ目的jとしていた。また,r其ノ数ノ、全訓練生ノ概ネ一割ヲ予想スjと,訓練生数の目処
を記した乙とも「実務訓練所Jとは奥っていた。
第51ζ ,r青年義勇隊ノ指導訓練ヲ一体的統制ノ下ニ実施J するため,r青年義勇隊訓練本部
〈イ反称)J なる「強力ナル指導統制機関Jcr基本要綱案J) の新設を計画したことである。「義勇臣家
組織要綱案J ,ま,乙の「青年義勇隊訓練本部(仮称)J が「基礎訓練所ヲ直営シ実務訓練所ヲ指
導監督jするとした。また,r実務訓練所jの経営は,甲種はj諸外!拓植公社,乙種は満州僅i政府
地方機関及び南満州、i鉄道株式会社の鉄道総局があたり,丙種は,r政府若クハ技術員ヲ必要トス
lレ機関jがあたるものとした。従来は,訓練所の統轄機関はなく,訓練所の「指導経営jは,r大
訓練所jについては満州拓槌公社があたり,r小訓練所J は,満州、i拓植公社と鉄道総局があたっ
ていた。
以上,r義勇縁組織要綱案jを中心に,r満州現地案jにおける関東軍の構想、を見てきた。次項
で明らかになるように,これは「基本要綱J及びその「付属委jにほとんど盛り込まれる。
練所J と司様.r農事実擦訓練jを目的としていた。前者には,r該訓練
とζろで,
大日本報国青少年義勇軍運動実施要領
r
乙,iの義勇軍関係諸案の中j高州、|現地案rt
(参考案三)J という試案にとどまった案があるo 関東軍は同案を積極的に「基本要構J 1乙益事り込
む;意閣は持っていなかったようで,三品少佐によれば,r思付ノ程度J16)であった。同案は「基本
要綱案j・「義勇隊組織要綱案jのように「基本要綱J・「付属香J に直接速なるものではないけれ
ども,r基本要綱j・「付属書jの基蔵i乙潜在する構想を示すという意味において,間案l乙触れて
おきたい。
f大日本報国青少年義勇軍運動実施要領(参考案三)J17)の主旨は,r既存青年団体ヲ解体J し
て.r大日本青年層組織ノ再編成
j
を図る
ζ
とであった。「大日本報国青少年義勇軍J!c.組織する
対象は10-25歳の男女青少年で,それはf青年義勇隊J(16-25歳,女子は22歳まで),r少年義勇
あ(10-15歳入「学生義勇動(年齢不問)の3 種に区分されていた。そして,開業は,とのf大
120
教育学部紀望書第47号療
日本報国青少年義勇軍J の「実践項目J として以下の6 項目を掲げていた。
「ト→大臼本肇国精神ノ昂揚ヲ期スルト共ニ防共工作ノ実践
化
(コ東亜新秩序建設ニ任スヘキ人格ノ駒
治
臼開拓精神ニ良IJ)レ団体訓練ノ実
施
(間有事対策施設ノ恒久的平常化
国青少年動員訓練実施
円前衛義勇軍並ニ盟邦青少年団体ト内地義勇軍トノ交歓訓練J (欝点一一引用者)
ζ.. 乙lζ明らかなように,r大臼本報国青少年義勇箪」とは,対中国侵略戦争に則応する軍事的
訓練組織であったわけだが,義勇軍は乙のf大日本幸盟国青少年義勇軍」の「前衛義勇軍j として
位置づいていた。「大日本報国青少年義勇軍運動実施要領(参考案三)JIζ含まれた「提唱之辞
(案)J は,義勇軍が「我等前衛部隊ノ後衛タランコトヲ希ムJ という形式でf大日本報国青少年
の結成を訴えるものであったので=ある。
「大日本報国青少年義勇箪運動実施要領(参考案三三)J において,関東軍が「大日本報臨青少年
義勇軍jの「前衛JIこ義勇軍を据えたのは,義勇箪を乙の軍事的訓練組織の範型と考えるからに
他ならない。同案には,r基本要綱案J. r義勇隊組織要綱案jの具体化によって再編すべき
年義勇隊Jrζ対する関東主要の期待を看取し得るのである。
注
1)r脅年義勇隊訓練所指導綬営要綱J については,拙稿m蕗重量開拓務少年義E号室室jの創設過程JU 七、海道
、。L月,所収)を参照された12年1984号,45第j大学『教育学部紀委
2) 前掲『会議要録J,r付録J6-7 ページ
。
3) 前掲揃稿(前掲『教育学部紀要』第45号,218 ページ)参照
。
4) r移民懇談会々議概要j(開拓自興会所蔵),11ページ参照
。
5) 同上番,17ページ参照
。
6) IOJ上童書,11ページ
。
7)ただし,r参考資料案J の諸案では修正されていない(前掲『会議委録ム「付録J11-75ページ参照)
。
なお,呼称の変更は,r準備委員会jで諒承された(向上書,99-104ページ参照、)
。
8) 関上一番,r付録J6ページ
。
9) 向上書.r付録J41ページ
。
10) 向上書,r付録J41-45ページ参照。
なお,以下では,間案の引用個所は特iζ 注記しなし、。
11)
r訓練方針(案)J との異同は,関点部分以外は,第3項のr1i族楽業jが「民族協和J となっている乙
とであるCi都十|妬樋公社『満州開拓青年義男隊訓練方針(案)教学事項(案)J,1938年11 月,2 ペー
ジ参照。なお,ζ.. の文芸警は佐藤秀夫氏の御教示iζ よる)。
12) 満州拓植公社訓練局『康徳六年度訓練実施要領J,1 ページ参照。
ただし,字句iと若干の巽向がある。問委領では,r宏議ヲ奉体シJ が「宏議ヲ奉シJ,r大東亜文化ノ
輿際ヲ期スjが「大東互主文化ヲ期スjとなっている。
なお,同文書の策定年月日は不明である。ただ,全開拓友協議会編『写真集,満蒙開拓青少年義勇箪i
(家の光協会,1975年)の「満蒙開拓脅少年義勇箪略年表J によると.1939 年2 月3 臼の項iζ 「義勇隊
の訓練大綱決定J とある066ページ)。ζ.. れは悶文書の策定のζ.. とかもしれない。
3.
「満州J 移民政策と「満蒙開拓青少年義勇箪j
13) 産業部拓政A)r拓政関係例規集~,1938年,21ページ
。
14)向上
。
15) 向上
。
16) 前掲『会議要録J.53ページ(1939年4 月68 ,r準備委員会J 第4 分科会第1 読会)
。
また,次のような記述を見出すζ.. とができる。
rcC;) 寮母,花嫁,大日本芸少年報通運
動
(満州国〉之ハ単ナル参考案ナリ(質疑ナシ)
J
(1939年4 Fj1 日.r準備委員会J 第l 分科会第l 議会,向上書23ページ
)
17) 全文は,向上書.r付録J47-49ページ参照。以下の引用はすべて間警からである。
r
満蒙開拓青少年義湧憲
J
と「満~IIII
開拓青年義勇隊訓練所
j
本節では.r満州開拓政策基本要織J及びその「付属審jの「六満州開拓青年義勇隊(満蒙
開拓青少年義勇軍)ニ関スlレ件j安検討する。lで述べたように.r基本要綱J 及び「付属書J
の策定過程には.r満州、j現地案JCri満州、!開拓根本政策基本要綱案J及びf満州開拓青年義勇隊組織
要綱案J) の外にそれを基礎に拓務省が立案したf拓務省試案Jcr満州開拓根本政策基本要鱗案j
及び「満州開拓青年義勇隊嬰繊案(満蒙開拓青少年義勇軍)J) がある。「拓務省試案J について
は,検討を進める中で触れる乙とにする。
まず.r基本要締jを見ておとうo r基本要綱jの「基本要領jの規定が「満州現地案Jt乙基づ
いていると前項で-述べた。乙ζ.. で,その乙とを確認するため.r基本要綱jの!開拓青年義勇隊j
の項を以下に掲げる。
「開拓青年義勇隊ハ主トシテ日本内地人青少年ヲ以テ結成シ,民族協和ノ中核トシテ満州国ノ
生成発展ニ寄与スベキ各種開拓民,特ニ関妬農民ノ基底タJレノ資費ヲ宵成訓練シ以テ日満不
可分関係ノ奪化ニ資スノレモノトシ特ニ其ノ重要性ニ鑑ミ之ガ指導経営ニ関スjレ方策ヲ確立ス,
其ノ要領在ノ通トス
H 管理運営ノ主体ヲ確定ス
{イ)満州開拓青年義勇隊訓練本部ヲ新京ニ設置ス
(ロ)訓練本部ハ之ヲ日満両国開拓関係機関ノ協力合作ニナル指導統制機関タラシメ義勇隊
訓練ノ一貫的指導統轄ニ当jレモノトス
い)訓練本部長ノ、日潟両留政府ノ協議決定セル者ヲ以テ之ニ充ツノレモノトス
(ニ)基本訓練所ハ訓練本部経営スlレモ,莫ノ指導訓練,施設,管理等ニ関シテハ前記合
作機能ヲ有効ニ発簿セシムlレ様措麗ス
(ホ)其ノ他ノ訓練所ノ施設,管理及運営ハ夫々適当ナル機関ヲシテ之ニ当ラシムルモノ
トス
口訓練所ノ種別,態様ヲ確定ス
基本訓練所ト実務訓練所トニ分チ,後者ヲ左ノ如ク区分ス
(イ)訓練終了後開拓農民トシテ当該訓練地ニ定着セシムjレコトヲ目標トスルモノ
(ロ)訓練終了後開柘農民トシテ他地方へ移住セシムルコトヲ目標トスルモノ
料技術其ノ他ノ特殊訓練ヲ施スモノ
日日本ニ於ケlレ募集訓練ヨリ現地訓練及定着ニ宝ル迄脈絡一貫セJレ指導精神ヲ保持、ン,
教青学部紀要第47号
内地訓練,現地各種訓練ヲ実施ス
四青年義勇隊中ニ各民族ヲ旬含シ,協同訓練セシムル様工夫ス
回青年義勇隊ト少年工要員ノ募集訓練ニ関シテハ統制連携ノ方途ヲ議ズノレモノトスJI)
第1 項の措置の具体化と全体の文書の整序という点を除けば,前項に示した「満州現地案jの
「基本要綱案jの規定通りであることが明白である。乙の乙とは逆に,ζ.. れらの方針を関東軍が
堅持したいと考えていたということを示している。拓務省はそれを全面的に受け入れたわけであ
る。
次iζ
「付属警J を見ょうo
「付属書jは,冒頭に以下のような文雷を「綱領J として掲げた。
r-,我等ハ天祖ノ宏諜ヲ奉ジ心ヲーニシテ追進シ身ヲ満州建国ノ車業ニ捧ゲ神明ニ誓ッテ
天皇陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス
一,我等ハ身ヲ以テ一徳一心民族協和ノ理想ヲ実践シ道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期
スJ2)cr付属警J六のー)
そして,r満蒙開拓青少年義勇軍ハ右綱領ノ下ニ参加スル十六歳乃翌十九歳ノ日本内地人青少
年ヲ以テ結成スJcr付属書j六の二),r義勇箪ノ、渡満ト共ニ満州開拓青年義勇隊訓練所ニ分レテ
義勇隊ヲ編成スJcr付属番j六の三)と規定しため。
とうしたf綱領
j
の掲記と組織規定の体裁は,r拓務省試案」の反映であった。「拓務省試案
j
の「満州開拓青年義勇隊要嬬案(満蒙開拓青少年義勇軍)Jめにおいて拓務省が意図したのは,
ri高州現地案Jcr義勇隊組織要綱案J) ,「満蒙開拓青少年義勇軍jを位霞づける乙とであったo
ζ..
f拓務省試案jの大略を示せば,同案lま,まず「満蒙開拓青少年義勇軍J の項を立てて「義勇軍
綱領J を掲げ,r義勇軍ノ、日本内地人青少年層ヲ母胎トシ右綱領ノ下ニ参加スノレ十六歳ヨリ十九
歳迄ノ者ヲ以テ結成J するとした上で,r満州現地案jではほとんど閑却された「義勇軍訓練所
j
における「内地訓練J の意義づけを記した。そしてそれとは別に「満州開拓青年義勇隊J の項を
設け,r義勇軍ハ渡満ト共ニ各義勇隊訓練所ニ分レテ義勇隊ヲ{藷hスjレモノトス
j
・「義勇箪ト義
義勇隊ノ綱領及編成ハ一体タノレモノトスjと規定した上で,r義勇隊組織要綱案jの諸条項をほ
ぼ踏襲した案文を掲げていた。f拓務省試案jにいう「義勇軍縮領
j
とは,言うまでもなく,義
勇軍を義勇軍たらしめるものとして巷間に流布していた,上引した「繍領J の第1 項の文書であ
る。また,r義勇箪訓練所J が,加藤完治を所長とする「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所J であ
ることも言うまでもない。
さきに示したように,拓務省の意関すると乙ろは盛り込まれたわけだが,r綱領
j
は2 項にな
っている。「付薦書
j
が,r青年義勇隊綱領J でもなく,r義勇軍綱領J のみでもないようなf綱
領J を掲げるに至った契機は,r拓務省試案jが提出された「準備委員会j第1 分科会の第3 読
会0939年5 月11 臼〉にあった。『満州開拓政策に関する内地側会議要録』によれば,r満州、i現地
案jの「青年義勇隊綱領」を替えた根拠を質問した陸軍省の高橋柳太委員と山口乾治拓務局東亜
第二課長との議論は,次のように帰着したとしづ。
「三酉ノ押問答ノ末,臨席セlレ拓務局長ノ裁定ニテ,内原綱領ヲ第一綱領ト、ン,現地案綱領ヲ
「満州移民政策とf満蒙開拓驚少年義勇軍
j
圧縮シテ単純化セルモノヲ第二綱領トシ,両者ヲ併潟トスJレ事トシテ解決スJ5)
成文化作業の過程はわからないけれども.r付属警J の「縞領jが2項となったのは
ζ
の結果
であったのである。「圧縮シテ単純化
j
したものではあったが.r満州現地案J の「青年義勇隊綱
領jは「付属書JIζ盛り込まれたのである。
と乙ろで.r付属書
j
の組織規定は.r満蒙開拓青少年義勇軍J がすなわち「満州開拓青年義勇
隊J であるという乙とを明示したが.r義勇隊組織要綱案J ではf日本内地ニ於テ組織サレタ
Jレ青年層jはf満州開拓青年義勇隊J の「母胎jではあってもそのすべてではなかった。同案
が乙の「母胎JIζ加えて.r訓練生JIζ含めたものについては.r満州開拓資年義勇隊ニハ満州現
夜ノ青少年ヲモ適宜参加セシメ得Jレ様措置シ,尚訓練所ニ於テハ訓練ノ委託ヲ受ケタル者ニ対シ
之ヲ収容訓練スルコトアルモノトスJ6)cr付属警J 六の四)という規定で,その意図は維持され
ていた。
また,さきに「拓務省試案J が「義勇軍訓練所
j
における「内地訓練J の意義を記していると
述べたが.r付属香J では.r内地訓練J Iζ関する規定があるもののf義勇軍訓練所jは位置づ‘か
なかった。「付属審J は.r内地訓練J について.r心身ヲ鍛錬陶治シ義勇軍タルノ資費ヲ錬磨ス
jレト共ニ渡満ノ準備的訓練ヲ実施スjレヲ以テ目的J7) とすると記したcr付属書j六の二の十→)0
ζの条項はf拓務省試案JI乙依拠したもので,乙れのほかに.r義勇軍ノ指導訓練ノ統一ヲ期ス
ル為行フ内地ニ於ケノレ訓練ノ、大訓練所主義ニ依ノレモノトシ当分満州移住協会ヲシテ義勇軍訓練所
ヲ経営セシムjめという条項が.r訓練ノ統一ヲ期スノレ為訓練所ノ、大訓練所主義ニ依JレモノトスJ9)
cr付属審j六のこの口)との如く盛り込まれていた。「基本要綱jの「内地訓練JIζ関する規定
はζ.. れらに尽き,そとにはf義勇箪訓練所J という文書はまったく見るζ.. とができない。
次iζ,以上の如く規定した「満蒙開妬青少年義勇軍jを収容すべき「満州開拓青年義勇隊訓練
所jについて.r付属誉jがどのように規定したかを見ょう。
「付属書
j
は.r義勇嫁訓練生ハ開拓農民タラシムjレヲ第一義ト為スモ(中略)各種開拓民其
ノ他諸般ノ要員ノ養成ニ付脅意スjレモノトスJlQ)と.r義勇稼組識要綱案J の訓練終了後の措置に
関する条項を改訂して掲げ,各種訓練所の態様を規定したCf付属書j六の三)0 r義勇縁組織要
綱案J で設定された訓練所はすべて盛り込まれていたが,それ以外のものも規定していた。
まず.r基本訓練所J について.r付属書J は「基礎訓練ヲ実施スルト共ニ(中略)満州国一般
事槽ニ通ゼシムルヲ目的jとするとし,乙ζでf訓練生ノ適性特賞ヲ資事費シ,各種開拓民,幹部要
員主主ノ他へノ配分ニ付考慮jするとした11) 。ζ.. 乙lζ 言う「配分J は,次にのべる「実務訓練所J
への移行のみを意味していたわけではなし、。例えば.r基本要織J の公表以前の1939年9 月には,
f陸軍興安箪官学校J への「配分J が行なわれていた。同校はf蒙古人部隊ニ属セシムjレ箪官軍
士タJレベキ者j12) を養成するためのもので、,入校する訓練生は.r興安寧蒙古少年隊幹部要員J13)
になるζとを期待された。乙の時には5つの「大訓練所jから推薦された10名のうち8名が合
格し,詞年9 月末入校した14)。乙うした措置が乙れ以後どのように展開したのかわからないけれ
ども,少なくとも乙の時点においては.r諸般ノ要員ノ養成J の一端を示す事態であった。
「基本訓練終了生J が移行する「実務訓練所jは.r訓練修了後開拓農民トシテ当該訓練地ニ
定着セシムjレコトヲ目標
j
とする「甲種J. r訓練修了後開拓農民トシテ他地方へ移住セシムルコ
トヲ目標J とする「乙種J. そして「開拓農民以外ノ者トシテ特殊訓練ヲ施スヲ目標J とする「丙
積J の3種類であった15)cr付属警J 六の三の口)。ただしr丙種実務訓練所J は更に2つに区
124 教育学部紀要第47号
分された。ひとつは,1重要鉱工部門ニ於ケjレ基幹技術員ヲ養成スjレモノj16) (間前)であり,1義
勇隊組織要綱案J が「鉱工部門ニ必要ナル人的資源、ノ養成ヲ目的トス
j
と規定した訓練所である。
さらにひとつは,1義勇隊組織要繍案J にはなかった,1将来義勇隊又ハ開訪問指導員,医師,教
ノ他トシテ養成スベキ者ニ対シ基礎教育ヲ施シ上級ノ専門的教育ヲ受クルノ基礎ヲ培養スjレ
モノj17) (問自立)である。乙乙lζ言う「指導員」とは,義勇軍の場合は,中隊長のほか教学・農
・教練・庶務・経理・特科の各幹部,移民団の場合は,移民団長のほか農事・畜産・警備・経
理・保健(医師)の担当者の乙とである18)。各種指導員の確保は,移民関係機関にとって終始
「移民事業達成上喫緊ノ事項j19)でありつづけた。また,各移民地lζ必壌の医師や教員も同様で
あった20)。乙の訓練所の設定は,これらの要員を確保する窮余の一策であった。
と
ζ
ろで,I丙種実務訓練所」の設定は,I重要検討事項(案)J 以来の関東軍の方針であり,
それは農業移民以外への配分lζ対する志向の端的な徴誌であった。「義勇隊組織嬰鱗案jを審議し
たf準備委員会J において,乙の「丙種実務部練所jの設定は,義勇軍の性格づけと関わって議
論を呼んだ。第l分科会の第2読会0939年4月11日)においては,期工省の委員を中心lとして,
蒔工業方面への配分を増しi訓練もそちらに重点を寵く乙とを希望する意見が相つぎ,農業移民と
して定着させるという主目的の再考を移民関係機関に促した。これに対し,例えば満州拓組公社
の喜多一雄委員は,そうした形勢を押しとどめる如く,次のように述べていた。
「義勇隊ノ本質ハ宣告迄開拓農民ニ置カネパナラヌ。(中略)彼等(農民の子弟一一引用者)ハ
争ッテ他ノ職業部門ニ流出シタガJレノガ実情デア1) ,若シ此義勇隊モ募集時期等ニ,直チニ
自由ノ職業ニ赴ケ等ト貰言スレノて,農業者タルベキ志望ヲ幾人ガ持続スルカハ疑問デアノレ。
ソコデ(中略)訓練謝よ徐々ニ彼等ニ,農業者的自覚ト其方向へノ熱情ヲ湧起セシメネパ
ナラナイ。(中略)現地ノ事ハ現地ガ最モ知悉シテ居リ,関東軍ガ英一割ヲ協議ノ上諒承シ
テ居ルノタカラ,内地ノ各機関ガ兎ヤ角云ハヌデモ宜イデハナイカ。現地カ真ニ主語青少年
ヲ大量二要求スノレナラ関東軍ガ云ヒ出スダラウJ21)
農業移民として定着させる乙とを「第一義
j
としながら「諸般ノ要員ノ養成
j
をも志向する
ζ
とは,義勇軍組織の内に「農業者的自覚jの動揺を招く可能性を抱え
ζ
むという点で,撞着した措
置であったので、ある。
f付属望書J は,以上の「基本訓練所j・「実務訓練所J のほかに,1特別訓練所jについて規定
した。「特別訓練所
j
は,r心身ノ状態英ノ他ノ事情ニ白リ一時的i収容訓練又ハ特別ノ訓練ヲ必要
トスル者j22) (1付属書J 六の三の日)を入所させるという位置づけの訓練所で,1基本訓練所J.
f実務訓練所Jとは異質のものであった。乙れは「拓務省試案」の規定に基づいており,そとで
は,1訓練生ノ一時的収容又ハ虚弱訓練生ノ療養等ノ特殊ノ目的ノ下ニ設置スノレj23)との如く記し
ていた。「特別訓練所
j
は,r大訓練所
j
の代替訓練所として「短期滞留間ノ訓練若ハ訓練過程ニ
於ケル臨機発生ノ事態ニ対スノレ応急収容J24) のために創設初年度から設置されていた。「義勇隊組
織要綱案
j
は明記していなかったとはいえ,1重要検討事項(案)J はそれをfプール」と表現し
ていたのであり,I特定IJ訓練所Jの必要性は関東軍も認めていたのである。また,さきに触れた
「康徳六年度訓練実施要領Jt1一般ニ伍シ訓練困難ナノレ訓練生jについては「保護教
ζ.. よれば,
育班
j
なるものに編成して訓練を実施するのであるが,同要領は,1保護教育班ハ,将来特ニ独
立訓練所ノ設立ヲ考慮J すると記していた問。つまり,すでに創設2年目の段階で「一般ニ伍シ
ri満州j移民政策とf満蒙開拓青少年義勇軍J
訓練閤難ナノレ訓練生J が無視し得ない規模で存在じていたのであり,しかも移民関係機関は,r独
立訓練所ノ設立ヲ考慮J しなければならないほどそうした訓練生が増加するとの見通しを持って
いたという乙とである。
「基本要綱jの「付属審J は,r満蒙開拓青少年義勇軍jを収容すべき「満州開拓青年義勇隊
訓練所Jを以上の如く規定したのであった。
j主
1)前掲『審議会会議録.1,27-28ページ。
2) 同上欝,37ページ0
3) 悶上。
4) 同案の全文については,前掲『会議要録J,r付録J102-107 ページ参照。以下の引用はすべて問書から
である
。
5) 向上書,101 ページ
0
6) 前掲『審議会会議録.1,39 ページ
。
7) 向上書,37 ページ
。
8) 前掲『会議要録.1,r付録J103 ページ
。
9) 前掲『審議会会議録.1,37 ページ
。
10) 向上
。
11)向上番,37-38 ページ
。
12)r陸軍興安箪官学校綱領要約J0939年10月12日付各支庁長・市町村長・職業紹介所長宛学務部長通牒「
育
少年義勇軍現地訓練生ノ興安箪官学校入校ニ関スノレ件j別記,r北海道庁公報』第2017 号)
。
13) r青少年義勇軍現地訓練生ヲ興安笈官学校ニ入校セシムル件J (向上)
。
14) 満州移伎協会『拓け満蒙』第3 巻第12号,1939年12月,88-的ページ参,照。記事名は,r蒙古E草原lζ
擦
いた八粒の穣義勇寧から興安箪官学校へ入学J (秋出勇太郎・記)である
。
15) 前掲『審議会会議録.1,38ページ
。
16) 向上
。
17)向上
。
18) r付属番J r八,指導員選定及養成ニ関スル件J (向上書,40ページ)参照
。
19) r指導員補充養成嬰織案J (r満州現地案J) (前掲『会議要録.1,r付録J13ページ)
。
20) 例えば「準備委員会J 第3 分科会の第1読会0939年4 月8 日)では,r移民地医療整備委織案J(f満
州
現地案J) に関わって次のようなやりとりがあった。
山口委員「満州ノ医学校及医科学生数並ニ満州国内ノ医師需要数ニ付,説明サレタイJ 小坂技師
「三,四校アルガ,]蚤ジテノ毎年度卒業主主数ニ百名足ラズデアルガ,満州国ガ扇民医療衛生維持ノ為ニ
毎年需要スル医師数ノ、四百名佼テ、アノレ。更ニ移民地ニ年々一五O 名位必要トナルカラ,合計六百足ラズ
要求サレノレ訳デ,医者鍛銭ノ状況ダJ 山口委員「斯様ナ情勢ノ下デ,差当り満州国ノ医学卒業生中,
義勇隊訓練所ニハドノ位配給サレル予定カJ 小坂技師「具体的見透シハ立タヌJ (前掲『会議要録.1,44ページ)。
また,教員については,逸見勝亮「獅範学校『特5JIJ学級』についてJ (北海道大学『教育学部紀要』第
32号,1978年llFl,所収)を参熊のζ.. と
。
21)前掲f会議要録.1,72-73ページ
。
22) 前掲『審議会会議録.1,39ページ
。
23) 前掲『会議要録.1,r付録J106ページ
。
24) r青年義勇綾部練所指導経営要綱J (前掲『妬政関係例規集.1,22ページ)
。
25) 前掲『康徳六年度訓練実施要領.1,44ページ
。
126 教育学部紀婆第47号
111. r満yllll関柘青年義勇隊訓練所jの配寵
1940年4 月1 日,満州国政府は.r満州開拓青年義勇隊訓練本部ニ関スlレ件J(勅令第47号3
月29日公布)に基き.r満州開拓青年義勇隊訓練ノ指導統轄Jを主たる業務とする訓練本部を「新
,総務部(庶務・人事・会計・企扇・弘報iζ線本部長の下11設寵したり。訓練本部には,雷lζ
の各科).管理部(補給・建設の各科).訓練部(教務・教学・教練・農事・保健の各科)の3部
12科のほかね.r督務室J なるものを震いた。「督務J は本部長直属の職員で.r義勇隊訓練所の
訓練綱紀及経営の状況を督察jめするζ.. とを専掌するものであった。1940年度は,乙の訓練本部
の下で,訓練所の新設・改編が進む。
まず,乙れまでの訓練所設置状況を概観しておくと,創設初年震の1938年度には.r大都練
所J が5 カ所.r特別訓練所J が2 カ所.r鉄道自警村部i練所J が10カ所に設置された。翌1939年
度には,乙れらに加えて.r大訓糠所J 及び「特別訓練所J が各l カ所.r甲種小訓練所jが13カ
所.r乙種小訓練所J が6 カ所.r鉄道自警村訓練所J が10カ所に増設された。乙れらの訓練所の
うち.r大訓練所J. r特別訓練所j及び甲乙2穫の「小訓練所J は満州拓植公社(以下,満拓公
社と略記する)が経営し,民社の訓練局(193e年12月設置,それ以前は経営部訓練諜)が管理・
運営を主管した。また.r鉄道自饗村訓練所jは南満州鉄道株式会社(以下,満鉄と絡記する)
が経営するもので,関係業務の主管諜は鉄道総局開業局拓植課0939年4 月設置,それ以前は附
業局康業課)であった。「鉄道自警村Jとは,満鉄が「自ラノ鉄道妨衛及沿線ノ文化,産業ノ開
発jのために「鉄道ノ要点J に1935年以来設寵してきたものでr満州ニ於ケjレ除隊兵J で組織
し「農耕ノ傍ラ交替制ニヨリ(中略)自警村所在駅及間近線路ノ警備jにあたらせるととを目的
としていた九だが満鉄は,義勇軍創設の端緒である「青年農民訴練所(仮称)創設要綱J0937
年7 月15日)の策定を機l乙,それまでの除隊兵による「鉄道自警村J の形成を中止し.r鉄道自
警村JIζ期待した「鉄道防備jの役割jを義勇憲で代替する乙とにしたのであっため。それが.r鉄
道自撃事村訓練所J である。
乙れらの訓練所の建設は,建設・需品業務を担う満拓公社自らが認めるように.1938年度にお
いては.r事業創始ニ伴フ種々予期シ難キ事情ニ因リ実ニ多難ヲ極メ,予定計画ノ、主主ノ変更ヲ余
儀ナクサレJ. 翌年産も.r建設資材ノ調達並其ノ不円滑倍加シタjレト旦ツ夏期ハ主主想外ニ雨量モ
多ク,予定通りノ建設ヲ見ルコト能ハズシテ相当部分ヲ繰延jざるを得ない状態であっため。と
はいえ,ともかくも訓練本部の設置時には.r大訓練所J として4 訓練所0938年度設寵のもの
で乙種に改編された訓練所が2カ所ある).r特別訓練所J として3訓練所.rE戸種小訓練所
j
と
11言13して
練所が設けられていた(第2表)。
1940年度は.46訓練所の新設が.r基本要綱J の規定した種別に従って計顕された。|日f大訓
練所.r乙種小訓練所J として8 訓練所.r鉄道自警村訓練所
j
として20訓練所,計48訓
にあたる基本訓練所及び特別訓練所の新設はなく,すべて実務訓練所であj練所11 ・「特別訪j練所
った。その内訳は,申穣実務訓練所が22カ所,乙穣実務訓練所が21カ所,丙種実務訓練所が3 カ
所であった。!日「甲種小訓練所J にあたる甲種実務訓練所は,従来通り満拓公社が経営した。乙
種実務訓練所は,経営主体の違う2種類の訓練所で構成されていた。ひとつは,満拓公社が主管
してきた!日「乙種小訓練所
j
にあたるもので‘,ζ.. れは「基本要綱jにより省・累が経営するζ.. と
になったのだが,実際の管理・運営は,訓練本部が基本・特別両訓練所と合わせて担当したり。
さらにひとつは.I日「鉄道自警村訓練所J にあたるもので,従来通り満鉄が主管するものであっ
「満州」移民政策と「満蒙開拓青少年義勇寮」
た。乙種実務訓練所の新設計屈のうち11カ所がとの訓練所なのであるが,乙種に区分されている
とはいえ耳目穣のものと言ってよく,呼称の点でも.r満州開拓青年義勇隊満鉄00訓練所J(00
は訓練所の個別名称)との如く区分されていた(以下では,乙穫のうち,満鉄経営のものは満鉄
と記し,他を乙穫と記す)。また,丙種実務訓練所としては,吉林人造石油株式会社が経営する
第2~長年次別訓練所新設数(1938-1940年度)
1938年度1939年度1940年
度
設置数17 31 46
(穣類別)大特別自警幸村大特別甲種乙穣自警村EfI穣乙種満敏之緩)内
種
5 2 10 13 6 10 22 10 11 3
(設置省別〉
黒河1111 4
~t:: 安2121 2161 5 13 2
一江
1131 2171
東安2 3
1
牡丹江1141 2 3 2 30
四
浜Z工
2
吉林3 1 1Ull
君事天1151
l
音量江1
1
罪塁島1181
錦1tl
2
安E
長
興安東2191
興安
北
興安
南
(注)省別は1939年6 月現在の行政区闘による
。
(注)(1)翌年度乙種に改
組
(2) 設置時は龍江省・浜江省iζ 属する
(3) 設霞時は三江省lと属する
(4) 翌年度乙穏に改組
(5) 1941年7 月から新設の8平省lζ属する
(6) 設置時は龍江省iζ 属する
(7) 設鐙時は三江省iζ 属する
(8) 1941年度廃止
(9) 内lカ所は1941年7 月以鋒興安南省lζ濡する
(11) ~設は1939年11月
(注)満州国通信社『満州筒拓年鑑j(康徳7 年版,1940年)166 -170 ページ・(康徳8 年版,1941
年)339 -443 ページ,満州、i拓緩公社『業務概要J (1940王手)168 -171 ページ,満州開拓青年
義勇隊訓練本部監理科『満州開拓青年義勇隊統計年報j(康徳8 度版,1941年)19-21ページよ
り作成。
カ所は翌年度,同省前年度設霞の乙穏に統合される2内0)旺
128 教育学部紀要第47号
「吉林鉱工実務訓練所J. 満鉄が経営する「奉天鉄道実務訓練所J. 訓練本部が経営するf響導訓
練所jの3訓練所が設費された。「吉林鉱工実務訓練所J は.r基本要綱jの発表に先立つ1939年
11月に関所したもので,石炭液化事業関係の「基本技術者jの養成を目的としていため。「奉天鉄
道実務訓練所jは技術部門の満鉄社員を養成するために1940年12月開設された9)。また.r饗導訓
練所
j
は.r高等普通教育ヲ主トシ吏ニ高次ノ専門教育ニ必第ナJレ一般的胸治jを織して将来の
「義勇隊並ニ開拓ノ諸部門ニ於ケJレ指導者J の要員を確保する乙とを自処として.1940年5月設
された問。
乙うして1940年度には,既設分を含めて,渡溺後1年間の訪iI練号をなす基本訓練所が4 カ所,そ
れの代替機能を持つ特別訓練所が3 カ所,乙れらの訓練所から移行する実務訓練所が,甲種目カ
所,乙種18カ所,満鉄31カ所,丙種3 カ所,計94カ所に各種訓練所が設置されるに至った。乙れ
らの訓練所の規模は,収容定員で言えば,基本・特別は.12,000人収容のものを筆頭に7,680人
が1 カ所.6,000人が4 カ所.2,400人が1 カ所とかなり大きし、。甲種及び満鉄はすべて300 人
収容,乙種も300 人収容のものが主であるが4,500人収容はカ所)・1,500人収容(2 カ所)・
1,200人収容(1カ所)・1,000人収容(1カ所)のものもあった。丙種は.r吉林鉱工Jが500人
収容.r奉天鉄道j及び「響導J がそれぞれ300人収容を目処に設寵されていた11)。乙れらは,
訓練生の入退所安繰り返す囲定施設という点、で基本・特別,乙穣,満鉄,丙穫の各習!隙所と甲種
とを~jlIJ
しうる。また,実務訓練所のうち甲種,乙種,満鉄は訓練終了後農業移民として定着さ
せるという点で丙種と区分される。
各種訓練所の省別分布状況は第3表の如くである。満州北部ないし東部への集中が明らかであ
り,とりわけ北安・東安・牡丹江の3 省lζ 訓練所の過半数が設置されているζ.. とがわかる。種類毎iζ
見れば,甲種訓練所は北安省に集中し,乙れに次いで多い東安省,牡丹江省の分を合わせると,乙
れら3省l乙約8筈IJが設置されている。基本及び特別訓練所,乙種訓練所も甲穣と同様の傾向にあ
るが,乙穫の場合は殊lζ 黒河省,牡丹江省への設置が特徴的である。乙れらに対し満鉄訓練所は,
特定の省への集中は見られず,設置地域は分散している。丙穣訓練所は,それぞれ別の省に設寵
されている。浜江省にあるのは「響導訓練所J であるが,乙れは設立当初からf当分姶爾浜特別
訓練所内施設ヲ利用J12)するζ.. とになっていたからである。他の設置省は,残りの2丙種訓練所
を経営ないし主管する吉林人造石油株式会社(吉林市)及び満鉄鉄道総局(奉天市)の所在省で
ある。
これらの訓練所の分布を集団移民(200-300 戸)と集合移民(50-200戸)の入植状況(第
4表)と比較してみよう。集部・集会移民においても,満州北部ないし東部への入植を主要な傾
向として指摘できる。三江省への人権が最も多く,浜江省,東安省,北安省がそれに次いでいる
が,計画では北安省が最大の入植予定地区であった。北安省の入植計画の中核は築関移民であり,
かっ北安省は集団移民の最重点入植地区であったが,入綴数は計画数の約3分のlにとどまって
練終了後農業集団移民として当11 いる。北安省は,訓練所が最も多く設置されており,なかでも司
該地区に定着する甲種訓練所の最大設置省である。さらに集団移民の入植状況と甲種訓練所の分
布とを対比すれば,集団移民の入植数が最も多い三江省とそれに次ぐ浜江省はE戸種訓練所の設
置数は多くなし、。また,集団移民の入植数では下位にある牡丹江省は.Ej3穣訓練所の主たる
省のひとつである。乙うして見れば,甲種訓練所の設護状況には,集団移民の入植状況との相補
関係を見出すことができる。甲種と同様に農業移民としての定着を自的とする乙種及び満鉄の各
部i練所については,義勇軍はl人1戸を成すことになっているので在籍員数が入植戸数と同義で
第3 表訓練所及び訓練生分布状況(1941年3 月末現在)
2基本・特別満鉄(乙穫)内穣1? 中種乙種合計
設霞数(在省籍総数員数比)設置数(在省籍総員数数比)設護数(在省籍総員数数比)設鐙数(翠霊堂)設翠数(謀長登)設震数在籍員数(総数比)
窯府
4)
合計7 10.030 35 9.253 18 9.224 31 8.433 3 1,006 94 37.946 (1∞.0) .
「議主」礎知熔減作「議機璽笥織や岳銚湖峨」
(注)前掲F満州開拓予号年義勇隊統計年報J(康徳8 年度版),19-21ページより作成。ただし,北安省lζ設鐙されたEj3穏には,間警には記載されていないけれども
前掲F満州開拓年鑑J(康徳、8 年度版,340ページ)で設鐙を確認できるものを1 カ所含めた。その訓練所の在籍員数(281人)は1940年12月現筏の数植である。
]-N
∞
教育学部紀要第47号
第1図満州|蚤略図
第2 闘訓練所分布概況(内種を除く)
①主主本・特別
orf1機
・乙機
ム満鉄(乙綬)
(注)r満州開拓農民入纏図J (前掲F満州問妬史J 付録)より作成。
第4 表集団移民・集合移民入植状況(1941年12月現夜)
集国集辺Eコ、
計画戸数
ttTJ
泊、メ口
現夜戸数(割合)計磁戸数(割合)現在戸数(割合)計画戸数(割合)現在戸数(割合)第迄
言十
(談合)
(戸)(予約(戸)(%) (予約
8) 1. (
長良
1可350
( 3.2)
92
350
( 0.6)
92 ( 0.3) 26.3
「議塗」議沼間同織作「畿織率爵謝雨明蜘湖町岬同判」目印]
bv
:lt 安12,100 ( 29. 5) 3.965 ( 16.6) 220 ( 2.0) 142 ( 2.8) 12,320 ( 20.4) 4,107 ( 14.2) 33.3
8,900 ( 18.0)
( 26. 0)
( 13.8) 753 ( 15.0) 10.420 ( 17.2) 6.946 ( 24. 1) 66.6
187 6.
520 1.
江
9) 1.( 1
( 6.5)
( 15.8)
( 9.6)
514 ( 10.2)
5.900
3,767
060 1.
5) 1.( 1
( 6.8)
6.960
4.281 ( 14.8)
5 1.6
( 5.4) 38.4
東安
( 5. 1)
3.200
930 ( 8.45) 375 ( 7.5)
210 1.
130 4.
585 1.
牡丹江
( 12.9) 4,110 ( 17. 3)
200 1.
( 10. 9)
6.400
648 ( 12. 9) 7,600 ( 12. 6) 4,758 ( 16. 5) 62.6
浜江
( 5.9)
989 1.
( 8.3) 2.555 ( 23.2)
2.900
401 1.
( 27.8) 5.455 ( 9.0)
8) 1.( 1
9) 1. (
62.1
29. 1
三仁と
コ
林
3.390
( 2.4) 207 ( 0.9) 680 ( 6.2) 340 ( 6. 7)
200 1.
880 1.
( 3. 1)
547
泰天
( 12. 7)
( 7.7)
8) 1. (
137
( 2.7)
6,300
837 1.
200
6.500 ( 10.7)
974 1.
( 6.8) 30.4
議江
0) 1. (
( 0.5)
500
110
( 13.3) 352 ( 7.0)
960 1.
( 3.2)
460 1.
6) 1. (
23.6
462
間烏
錦弁i 480 ( 4.4) 128 ( 2.6) 480 ( 0.8) 128 ( 0.4) 26. 7
安東100 ( 0.9) 46 ( 0.9) 100 ( 0.2) 46 ( 0.2) 46.0
( 4.2)
8) 1. (
( O. 45) 42 ( 0.8)
2,100
425
50
( 3.5)
2,150
6) 1. (
467
7 1.2
興安:lt 100 ( 0.9) 20 ( 0.4) 100 ( 0.2) 20 ( 0. 1) 20.0
i蚤1t 100 ( 0.9) 44 ( 0.9) 100 ( 0.2) 44 ( O. 2) 44.0
興安東
49.500 (100.0) 23,807 (100. 0)
005 1.1
一一一一」一一
〈注)1941年7 月設置の四平省の分は奉天省iζ 含めた。
(桟)f満州開拓年鑑JI(康徳9 王手版),1942年,177 -186 ベージ及び191-196 ページより作成。
(1∞ 0) 5,034 (100.0) 60.505 000.0) 28.841 (100.0) 47. 7
合計
教育学部紀要第47号
ある点l乙違いないが,入植地が基本的に訓練所開設地と異なるので乙のような比較はできない。
とはいえ,集団・集合移民の入植状況との対比では,黒河省,牡丹江省への設置をひとつの特徴
点として見出し得るであろう。また,集合移民の入植状況と満鉄訓練所の設置地域の広がりとの
間lζ 相関関係を見出し得ないわけではない。集会移民は,入植に関する諸措霞はほぼ集団移民lζ
準じてはいたけれども,入植に際してヲ容易ナラシムノレ為地区ノ選定,施設ノ整備等ニ付
考慮j13) された。つまり入植地は,r交通及治安ノ良好ナjレト共ニ衛生,教育等ノ既施設ヲ容易ニ
利用シ得ラルjレ如キ地区j14)が選定されていたのであって,それはとりもなおさず,満鉄がその
行政権を1937年に満州閣に「移譲J した「鉄道付属地jを中心とする交通・産業上の枢要地を意
味していた。一方の満鉄訓練所は,r定着ヲ容易ナラシメノレ為
j
ではないけれども,r鉄道自警J
を主目的として主要鉄道線の要所に設寵されているわけで,自ずと集合移民と同様に設置省l乙広
がりが出てくるのである。もとより,それは設農地誌が重なり合っている乙とを必ずしも意味し
ていない。例えば,最寄釈との距離を見れば,現在戸数の最も多い吉林省に入植した24個自の平
均は10.4油だが15) 同省の満鉄訓練所4 カ所の平均は4.1km で=あり16) 集合移民に比して鉄道と
の接近度が高い。乙の点は他の訓練所との簡でも看取し得る乙とであって,満鉄訓練所(31 カ所
平均3.2 切,最小1.0 凶,最大16.0km) は,例えばEf3種訓練所(35カ所平均34.0回,最小0.5km,
最大80.0km) や乙種訓練所(18カ所平均30.6km,最小0.5 凶,最大16.0回)とは,最寄釈との近
接度合においても区別されるのである17)。
以上のような訓練所分布状況を主要設誼省の側から概括すれば,各種訓練所の集中する北安省
は,とりわけ甲種訓練所と大規模の基本訓練所の設置によって特徴づけられる。また策安省もほ
ぼ同様の傾向にある。黒河・牡丹江・浜江・吉林の各省は,大規模の盟定訓練所を有する点、で共
通し,就仁札黒河省と牡丹江省は乙種訓練所の設置によって特徴づけられている。
では,乙うした訓練所の分布にはし、かなる意味があるのであろうか。設置省別あるいは種類別
の分布額向には侍らかの企留が震いているはずである。それを探る乙とによって,訓練所の穣別
の設定,就中,r青年義勇隊訓練所指導経営要鱗J策定時の訓練所構想になかった乙種訓練所の
設定の意味を逆に明らかにしたい。当初は訓練所開設地に定着する甲種形態のものを主眼として
いた乙とは既に述べたが,訓練目的を同じくしながら甲乙2種に分岐した乙とは,r訓練所Jその
ものに意味がある乙とを示唆しているのであり,またそれは乙穣訓練所にのみとどまる乙とでは
なかった。そしてそれは,乙の時期の関東箪の対ソ戦略lζ 関わっていた。
関東軍司令部は,r基本要綱」策定作業の開始に前後して,1938年12月10日,r国境方面lζ 於け
る国防的建設に関する嬰望事項J(以下,r要望事項」と略記する)を決定していた18)。乙れは,
f対蘇諸準備の一斑Jとしてf菌防的建設J!乙関する諸施策のf集中徹底化jを図るために.r在
満日本軍隊の増強対蘇作戦諸準備主主他家事の諸要議を勘案」したf重点地fRJ において推進すべ
き施策の要領を記したものであった。f重点地区Jは,甲乙丙の3方面i乙分けて指定されており,
もちろんすべて対ソ閤境接壌地帯であった。すなわち,取方面は牡丹江省と黒河省,乙方面は潤
と興安北省,内方面は三江省であった。そして,r交通通信航空諸機能の整備局IJ新
j
をはじ
めとする各般の施策とならんで移民に関する要領も記されていた。そ乙には,r臼本移民並lζ
良なる鮮人移民及原住民は之を国境接帯lζ 於ても定着せしめーは以て銃後の培養カたらしむると
共に他は以て各種の施策に活用し得しむJ とあり,さらに,r入綴加に付ては局地的l乙軍の駐屯
地,紡禦営造物の関係其イヒ諜報警戒監視等を考慮し各現地につき英実情lζ 適応する様磯定するも
のとすJ とあった。その後,乙のは,r国境建設施策基本要綱案J (1939年2 月13日,
ri酎,tIJ 移民政策と「満室長開拓青少年義勇箪
j
f国境建設審議委員会準備委員会j決定〉に盛り込まれた1九そして,間案は「国境建設審議委
の審議を経て成案として確定し(5 丹11 日).1941年末を目処lζ6 月から実行lζ 移されたの
であった20)。ζ.. の対ソ戦略体制の強化策は.r北辺振興計画J の名を冠して,移民政策及び産業
開発5 カ年計画とならぶ満州閣の「三大国策J!乙定置された21)。
「国境建設施策基本要綱jは,r慕本方針
j
と「基本要領J02項)から成り,各条項は「要望
事項jの文言を,その内容を若干敷街しつつ整序したものであったo r要望事項J の「移民J の項
は「開拓
j
となったが,さきに見た二様の文言はそのまま維持された。ただし,新たな文書も付
け加えられていた。さきの移民の目的を示す文言に続いて,r特ニ従来ノ無住地帯ニ対シテモ開
拓青年義勇隊及一般優良開拓民ノ積極的入植ヲ図リ前記企図ニJII員応シ其ノ強化ニ努ムJ,また入植
地の選定指針を示す文言lζ 続いて,r無住地帯ニ於ケJレ入植ニ付テノ、特ニ慎重ニ之ヲ措置スノレモ
ノトス
j
と記されていた22)0 r無住地帯
j
とは,r原住民jを警察の監視下iζ罷き反j弱抗日運動の
根拠地化を紡ぐための「築家工作J !と伴って生まれるものであった。「無住地帯」への入植は乙
れまでにもなかったわけではないが23>,そ乙への「積極的入植J によって「匪民分離工作J の徹
底すなわち「原住民jの「無住地帯j化の徹底を留ろうとしたのであった。乙の「国境建設施策
基本要繍」の移民関係条項は,r国境建設ニ却応スJレ移民方策要嬬J(1939年2 丹10日)で数街さ
れていた24)。大きく7項にわたって記された要領の第1項には,r日本内地人移民ノ入植ヲ更ニ
積極化スJ として,牡丹江・三江・黒河・輿安北の各省毎の入植指針が掲げられていた己牡丹江
省については,r集団移民ハ一般方針ニ従ヒ可及的入構ノ促進ヲ図JレJ. i集合移民ノ積極的入植
ヲ金関ス
j
など6点、にわたって記しており,訓練所については,r無住地帯其ノ他適当ノ地帯ニ
青年義勇隊ノ実認砧iI練所ヲ可及的多数設置ス」との条項があった2九三江省は,i概ネ牡丹江省
ニ準ズJとなっていた。黒河省については3点記していたが,第1 !乙「青年義勇隊訓練所ノ整備
拡充ヲ期ス
j
としていた。そして,興安北省については,i実情ニ即応スノレ営農方式ヲ考究シ移
民ノ積極的入植ヲ企図ス
j
とのみ記し,訓練所には言及していなかった。
乙れら4 省は「要望事項jの指定した「重点、地区」であったわけであるが,移民の「重点地区」
としては,i北辺振興計画」の実施に際して牡丹江・三江・浜江・龍江の4 省を区画して設置さ
れた東安省と北安省を付け加えなければならなし、(1939年6月1日設讃)26)。地方行政機構及び行
政監爾の改編は,r防衛諸準備投に作戦準備に照応せしむる為j27) に必要な措置として「要望
事項」で提起されていた乙とであった。そして,関東軍がζ.. の時期考案していた対ソ戦の基本的
な展開からして,ζ.. れらの省はf重点地区J とならざるを得なかった。関東軍の対ソ戦構想は,
開戦初動は東部正面(牡丹江省)に主攻勢をかけると共に北部正面(黒河省)及び北東部正面
(三江省,東安省)において助攻作戦を展開し,東部方面の第1段作戦終了後,その間持久守勢
を続けた西部正面(興安北省)において第2段作戦を展開しソとの決戦を行なうという
もので、あった28) 。乙うした作戦構想に却応して,ソ連軍陣地l乙対崎する各種蹄地が構築されてい
た。東部正面札束安省南部から牡丹江省全体の国境沿いに第12 (廠嶺)・第3 (半裁河)・第
11(観月合〕・第2 (緩芥河〉・第10 (鹿鳴台〉・第1 (東容量)の6 国境陣地を中核とする陣地
群があるほか,東安省、にはソ連のイマンlζ 対峠する第4 国境陣地及びピギ、ンスカヤに対持する野
戦陣地(鏡河)が構築され,出品省には第9 国境陣地(五家子)があった。北部正面には,第5
(勝武屯)・第6 (媛環)・第7 (黒河)・第13 (法別投)の4 国境揮地を中核として要所iζ野戦陣
地が構築されており,なかでも孫呉には最後の抵抗拠点の意味を持つ複郭陣地があった。また,
大湿地帯の広がる北東部正面には,第14国境陣地(鳳期)のほか,ソ連軍の江上部隊を想定した
134 教育学部紀要第47号
野戦陣地が松花江沿いにあった。そして西部正面は,興安北省iζ 第8国境樺地(海t立繭),興安南
省北部のノモンハン方面lζ陣地が設げられていた29)。
「重点、地区jの省は,乙うした陣地構築状況によって象徴される戦略上の枢要地であったので
あり,ζ.. の点から訓練所の分布を見れば,それは,見事にf皇軍をして後顧の憂無く,専ら前敵
lζ 当るを得しめんが為J30) の布陣であったという乙とができる。つまり,r後方勤務の為に相当の
警備力安要するの実槽J31) の克臓は,まず、もって戦略上の枢要地において果されねばならなかっ
たのである。訓練所について,ある視察者は次のような印象を述べた。すなわちr青年義勇隊
の訓練所の位霞を決める,所謂適地を決めるのは色々な要素がありませうけれ共,何と云つでも
第5表訓練所施設設置様猿
お竺!!基本乙種いえ)乙種Bl満鉄甲穣
線数総面積線数総面積様数総面積線数総面積棟数総函穣|
〔倉庫施設〕(rrO ( rrf) ( rrf) ( rrf) ( rrf)
倉長草33 3,960 6 720 9 450
弾薬話事5 180 36 10
池庫8 180 30 10 30
自動車庫5 202.4 36.1 40 42
トラクター態96 36
農呉
庫9
穀物産在24
059 1.
536 1.
5 490 98 150
5 240 50 150
野菜貯蔵庫21 3,087 5 735 l 147 147
漬物タンク康21 750 5 175 35
加工倉庫120
駅前倉庫300 50
炊事倉庫50
会料語審80
被
目量
医事
80
在司料医草100
雑α口ロ陸軍54
〔営農施設〕
産量産加工場5 612 5 250 50 150
場20
醸造場347.5 149
精穀場132 90
木工場3 520
鍛工場2 280
蹄鉄工場5 250 50 30 50
〔議会施設〕
作業
960 1.
5
490 98 150 98
日本馬続会6
970. 1 1.
216 300
躍有馬続会25 3. 240 5 648 112.5 150
牛a口b 133 5 60 1 33 100
豚舎22 1,232 10 300 63 100
主手
4口"
5
000 1.
5
000 1.
40
鶏兎4 21 740 5 200 40 100口"
(苦言会j 6 485
(注)訓練所の想定規模は以下の通りである,基本は6,000 人収容(4偲大隊=20俗中隊),乙種(A)
は1.500 人収容(5偲中隊),乙穣(B) ・満鉄・甲種は各300 人収容。
(主主)前掲F満州関拓年鑑J (康徳8 年度版),329-334ページより作成。
「満列、U移民政策とf満蒙開拓青少年義勇軍J 135
今のとζ ろ匪賊iζ 対する治安維持のお役lζ 立っと云ふ乙とが第I目標になって居るやうに儒ひま
した。(中略)そんな訳で訓練所の適地を何処iζ 定めるかと云ふ乙とは,単に建築環境として希
望さるるやうな条件の処を却々得られないといふやうに伺って参りました。従って吾々の常識を
以てしでは想像出来ないやうな難渋の地も棺当御疲いましたj32
lと。視察時期は1938年10-11月
頃で,対象も基本訓練所2カ所(北安省1・東安省10 当時の行政区画では,浜江省・三江省)
第6表訓練所施設設鐙状況(1941年3月務復)
おケ! 基本(4訓練所) 特別(3訓練所) 乙穣(16訓練所)
設置訓練所数総練数設置訓練所数総棟数設資訓練所数総棟数
〔倉庫施設〕
倉康4 131 3 47 7 75
弾薬康3 15 13 28
1由康3 15 2 2 13 30
自動車庫3 22 2 3 13 24
トラクター康3 5 2 4 6
農呉喜重4 108 2 13 12 41
穀物医事4 68 11 25
野菜貯滋庫4 54 3 32 11 33
漬物タンク康2 8 2 2 9 14
加工倉庫2 2
駅前倉康2 2 4 6
炊事倉庫10 14
食料J!I! 10 14
被Z量E在3 11 2 10 14
ム兵器康1
ム薬品J!I! 1
ム種子窓
ムポンプ格納窓4
〔営農施設〕
農産加工場4 48 3 12 30
作業場4 80 2 22 13 43
富豪造場1 2 2 2 2
精穀場3 3
木工場2 5 2 2
鍛工場2 6 2 2
蹄鉄工場12 24
ム修理場
ム乳牛加工場
〔畜舎施設〕
日本馬! 議会4 32 3 9 13 45
j荷馬販会3 42 3 12 14 70
主ド~コb 2 3 2 2 11 25
Eま~ 4 60 3 11 9 32
羊~コb 2 4 2 3 4
鶏兎4仁コb 16 3 4 6
ム乳牛舎2 4 9
(注) ムは設鐙標準lζ 無い施設を示す。
(注) 乙穣訪iI練所の数が16fとなっているのは,前掲第2表で役記したように,訓練所の統廃合による。
(注) 前掲『満州開拓青年義勢隊統計年報J(康徳8年度版). 25-28ページより作成。
教 育 学 部 紀 要 第47号
及び特別訓練所1 カ所(浜江省)の3 カ所に隈られていたけれども,ζ.. の印象は.1940年段階に
おいてもまた他の大半の訓練所についても恐らく妥当するであろう。
さらに,訓練所の配置には,兵結線の短縮・補強という企鴎をも窺う乙とができる。個々の訓
練所について子細に検討する準備はないけれども,訓練所は各種軍需物資の集積所としての機能を
も負っていたと考えられるのである問。第5表は,訓練所の建物施設のうち訓練生宿舎と雑施設を
除いた設置標準を示したものである。食料貯蔵・加工関係施設が,基本及び乙種訓練所の特徴と
なっており,とりわけ収容規模が間程度の乙種田・満鉄・甲穫の問では.r炊事倉庫j・「食料箆J・
「醸造場j・「精穀場jとL、った施設は乙穣訓練所と他のものとを底別させる要素となっている。
f弾薬庫J・「被膿庫jもそうした嬰素である。また,全体lζ 畜舎施設における厩舎の比重が高い
が,基本及び乙種!A)では加えて他の畜舎の規模ら注目される。甲種・満鉄を除いてではあるが,
各種筋設の設置状況(第6 表)を見ると,設寵標準lζ 示された施設はし、ずかの訓練所に設寵され
ているほか,新たな種類の施設も加わっている。設置訓練所数でわかるように,個々の訓練所が
すべての種類の施設を備えているわけではなし、。設置訓練所数の多さはその施設の必要度を示唆
していると考えてよいと思うが,その点では.r弾薬庫J. r油療J. r自動車康J. 厩舎の設置状況
が注目される。これらも含めて,大半の訓練所に設置されている施設は,訓練所生活あるいは各
種訓練の緩関に必要なものと見る乙ともできょうが,しかし.r炊事倉庫J・「会料康J・「被服庫j
などはやはり奥質のものである。各施設の実際の用途は特定できないが,これらは軍事目的に即
応ないし転用し得る可能性を有していた。例えば.r国境建設施策基本要綱J は.r交通通信航空
諸機能ノ整備制新jの筋策の一環として,道路構築の重点である自動車道の整備に伴って「自動
ノサービスステーション(修理施設,保守原材料整備,給油及部品補給ノ溜沢ステーション防
衛及宿治設備等)ノ整備jの必要をうたい.r物資ノ調達及集積Jに関わっては.r畜産ニ関シテ
)。34ともしていたJレ郊キ助成ノ方途ヲ講ズノレjハ特ニ馬産ヲ奨励シ鴎境近ク相当量ノ保有ヲ為、ン得
また.r国境地帯物資調達並ニ配給要綱案j35l (1939年2 月9 日)は.r平戦雨時ヲ通ズル軍需
トハ関東箪ヲ謂フ以下問ジ)ノ充足J のためには「農業生産物ノ積極的増産方策ヲ樹立J する必
要があるとし,その増産品目として「農産部門」では「燕麦,千草,粟(粟稗).大麦,水稲(稲
葉).小麦(小麦粉).競菜,沢庵,味噌,醤油.g入,藁縄,菰J を.r畜産部門jでは「牛,豚,
鶏Jを挙げていた。訓練所の施設構成も,乙うした志向と無縁ではなかったはずで‘あり,間定都
第H 受診iI練所施設建設状況(1940年度)
言十倒竣エ未竣工・未着工竣工ヰE
\\\
棟数(A) 棟数(B) 棟数(B)/(A) %
基本
1,491
134 1,
357 76.1
100.0
乙種805(378) 710(325) 95(53) 88.2(86.0)
特glj 50 50 O
計2.346
894 1,
452 80.7
甲穣648 324 324 50.0
言十
994 2.
2,218 776
74.1
(注)基本4 訓練所,特別2訓練所,G種15訓練所,E戸種12訓練所分。乙穣の()内は,1940年度新
設の8訓練所についての数億である。甲種は,すべて1940年度新設訓練所である。
(注)前掲『満州開拓青年義努隊統計年幸則(康徳8年度版),29ページより作成。
「満州J 移民政策とf満蒙開拓青少年義勇寧」
練所の建設の進捗度合の高さ(第7 表)もその乙とと無関係ではなかったはずである。そして,
乙穣訓練所の分布が,陣地構築地域との相関が強いζ.. ともまた理由のないζ.. とではなかったので
ある36)。
i主
1)r満州開拓青年義勇隊訓練本部ニ関スル件J (満州路拓青年義勇隊訓練本部『満州路拓脅年義勇隊旬報』
第76報,1940年4 fI, 7-8 ページ)参照。
なお,問勅令は1940年12月9 日改正された。改正の主践は,訓練本部を法人とした点であった(拓務
省拓北局『満州関拓政策関係法規ム1942年,174-175ページ所収の向勅令参照)。
2) r機構表J (悶上番,百ページ)参照。
なお,1941年1 月1B 施行の「満州害者拓青年義勇隊訓練本部分科規程jでは,総務部(庶務・会計・
監環),管海部(補給・建設),訓練部(輔導・教務・農事・保健)の3 部9 科となっている〈満州国通
信社ri都1'1開拓年鐙.J(康徳8 年度版),1941年,496-497ページ参照、)。また,それ以後のものと思われ
るが,1iiHIlir満州開拓政策関係法線』所収(178-180ページ)の分科規稜では,総務部・管理部は変ら
ないが,訓練部は鱒導・教学・教練・農事の各科iと分かれ,医務・増鍵の2科を鐙く増健部が設けられ
ている。
3) r督務規程J (前掲『満州開拓年鑑.1(康徳8 年度版),497ベ…ジ)。
4) 満鉄鉄道総局附業局『拓友i第l巻第l号,1940年9 月,11ページ参照。記事名は「開拓事業ト満鉄J
(総局拓植諜・記)である。
5) 前掲t出稼(前掲『教育学部紀要』第45号,198ページ及び219ページ)参照。
6) 満州拓植公社『業務概婆.1,1940年12月,169ベージ参照。
7) 満州、|関の地方行政庁が訓練所会設立する法的根拠は,r省地方費,祭又ハ旗ノ設立スJレ満州開拓青年義
5脅隊実務訓練所ニ関スノレイヰ(勅令第48号,1940年3 月29臼公布)によって与えられた(前掲n荷州開
拓
青年義勇隊旬報』第76報,8 ページ)
。
8) r満州開拓青年義勇隊吉林鉱工実務訓練所設立愛,繍J (1940年1 fJ19日付各支庁長・市町村長宛学務部
長
通燦「満州開拓青年義勇隊吉林鉱工実務訓練所設立ニ関スノレ件J,r北海道庁公報』第2091号)参照
。
9) 前掲『満州開拓年鑑J (康徳8 年度版),362ページ参,~、
。
10) r満州開拓青年義勇隊響導訓練所設立要綱(案)J (前掲F満州、i開拓青年義勇隊旬報』第76報,43-50
ベ
ージ)参照
。
11)満州開拓青年義勇隊訓練本部監理科f満州、i隠拓青年義勇隊統計年報J(康徳8 年度版),1941年,19-21
ベ
ージ参照
。
12) r満州、|開拓青年義勢隊響導訓練所設立要綱(案)J (前掲
F
13) r満州開拓政策基本要綱付属議J r一,日本内地人集合開拓農民移住ニ隠スノレ件J (前掲『審議会会議録.1,
)ο ページ44報,76満州開拓青年義勇隊旬報』第
32ページ)。
14) r日本内地人集合開拓民入積要綱案J (f拓務省試案人前掲『会議要録.1,r付録J97ページ)0
15) r満州開拓年鑑j(康徳9 年度絞),1942年,193-194ページ及び196ページより算出。
16) 前掲『満州開拓青年義勇隊統計年報j(康徳8 年度版),21ページより算出。
17)向上警,19-20ページより算出。
18)
臼井勝美・稲葉正夫編『現代史資料9 日中戦争2.1,みすず言書房,1964年,786-789 ページ所収。以
下の引用はすべて問書からである。
19) r関境建設基本要綱及各分科会素案j(東洋文庫所蔵)参照。
20) 満州国史編纂刊行会編F満州国史総編J (満蒙問抱援護会,1970年)658 ページ,及び片倉表『回想
の満州国j(経淡往来社,1978年)257~259ページ参照。
21)r北辺振興計画Jについては,間部牧夫『満州留j(三省堂,1978年)118-121 ページ,及び松沢哲成
『日本ファシズムの対外侵略j(三一番房,1983年)258~279ページ参照。
22) 前掲F国境建設基本姿綱及各分科会素案』所収。
教育学部紀委第47号
23) 農業移民の入績と「無住地帯
j
との関連については,山田豪-r満州における災溺抗日運動と農業移民
(下のニ)J (歴史科学協議会F歴史評論J 第146 号.1962年10月.72-75ページ)参照。
24) 前掲f国境建設基本要織及分科会素案』所収。
なお,依拠した文書は.r移民J を「開拓」ないし「開拓民J I
ζ.. 修正しである。
25)ζ の項には,修正を示唆する書き込みがある。それを採れば次のようになる。
f無住地帯ノ他適当ノ地謬ニ現地部隊ト空密接ナノレ連係ヲ保持シテ脅年義勇隊並ニ内地人開拓民ノ積極
的入植ヲ図lレJ
26) 高官掲『満州国史総論J.662-663 ページ参照。
27) 前掲『現代史資料9 EI中戦争2J. 788 ページo
28) 紡衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢欝関東家<1>ム朝雲新関社.1969年.241-296ページ参照。
29) 向上警.200-235ページ参照。
30) r努年移民実施要領及理白書J (喜多一雄『満州開拓論J. 明文主主.1944年.272ページ)。
31)同上。
32) 佐藤武夫「北総の移民村及び青年義勇隊訓練所を視察してJ(満州建築協会『満州建築雑誌』第19巻第1
号.1939年I 月.12 ページ)。佐藤はE昇格問大学教授(工学博士)で,向稿は「昭和13年11:fl1O日,満
州建築協会に於て開催されし建築講演会lζ 於ける佐藤博士講演の速記J00ページ)である。
なお,佐藤は視察の限目である建築について.r一寸我々想像が付かないやうな建築でありますJ03
ページ)とも述べた。それは主に訓練生宿舎の乙とであったのだが.r満妬から直接依頼をうけて視察致
しました関係上〈中略).それに対する批判と云ふζ.. とは差控えさせて]漬かねばならぬ事情
j
にある以
上,佐藤は.r一寸少年遠の訓練所の方を見て由った般には移民村が非常に立派に見えるので予想とは
逆のやうな印象も受けたのでありますが,青年義勇隊の方は精神的訓練と云ふ乙とが多分iζ 含まれて居
りますζ.. とから了解しなければならぬと考へ直した撃で御座いましたJ(16ベージ〕と結ばなければなら
こ。Tなかっ
33) 乙の点,防衛庁妨衛研修所戦史家f戦史霊童書関東軍<2>J (朝雲新聞社.1974年)Iζ興味深い記述を
見出すζ.. とができる。
満州の中部以北及びそれに速なるソ連鎖には随所に湿地が存在した。中でも三江省及び東安省には大
湿地帯が広がり,関東軍にとっては,ソ述筆陣地の攻撃の上で湿地帯と国境線である河川(黒竜江,島
蘇翠江)の克服がひとつの課題であった。波地作戦を展開するには,渡河iζ 変るまでの行動のため,補
給路及び各兵団関の連絡路の設定に加え,補給路沿線iζ 前送資材の集穣所の構築が必要であり,さらに
はその前提作業として離水策を講じなければならなかった。東安省方面を担当としていた第5 1l震の構想
について向著書は次のように記している。すなわち.r第五濯の攻勢作戦は,企図秘慶による念、襲をもっ
て基本とした。ために作戦の底辺ともみなされる如上道路,資材集穣所(倉庫)のごときについても,
築造の初動からその着意をもって工事を進める考慮が必要であった。多衆の憲民が入り込んで、の作業で
あるため,工事の実施そのもの全部を秘匿するなど不可能であり,またその必要もない。ソ逮側lζ 対し
至る所IL農漁民fflとおぼしき道路や倉庫が作られつつあるとの印象を与え,かっ仮iζ 宝震が作戦に使用す
るものとしても,兵力及び方面などを秘澄し得るならばそれで十分という考え方であった。道路の造設
などの一切は,辺境問発の一環として実施され,現に開拓民の入様については,満州国側において検討
が進められたJ080ページ)と。
34) 前掲『国境建設基本姿繍及各分科会素案』。
35) 向上綴所収。
36)
因みに『満州と日本人』編集委員会編『われらの青春とは何であったのか一一満蒙の豆拓土は訴える
-J (大湊警湧.1978年)Iζ.. 絞められた元訓練生による座談会においても.r間じ訓練所でも,国境と,
それから内陸部の訓練所では,建物が途うJとの印象が語られている081ページ)。
f満州」移民政策と「満蒙開拓青少年義勇箪」
VI.むすび
以上の検討からあらためて確認すべき乙とは,第1!乙.r満州開拓政策基本要綱Jの策定過躍に
おける「満州現地案J と「拓務省試案J の:意義である。f基本要綱J の立案の基礎には,関東軍が
とりまとめた「満州現地案jの外に,拓務省の手になる「拓務省試案jがあった。「満州現地案
j
の「満州開拓青年義勇隊組織要綱案jにおける関東軍の構想は.rt石務省試案jのf満州開拓根本
政策基本要綱案j及び「満州開拓青年義勇隊要綱案(満蒙開拓青少年義勇箪)J を介して.r基本
J基本要綱rの影響はきわめて限られており.J結実した。「拓務省試案!ζJ及び「付属書j要綱
及び「付属替J の義勇軍関係条項は.r満州現地案
j
を主たる内容とするものであった。
年度には,新設・改編され1940の策定を経て.J「基本要綱ο,訪iI練所配置の特徴である!ζ2第
た訓練所は94~数えた。その大半は.r北辺振興計画J !乙員'J応して,対ソ戦略上の枢要地と目され
る地域に配置されていた。農業移民として定着させるζ.. とを目処として設置した誹練所のうち,
訓練所開設地に集団移民として定着する甲種訓練所は,集団移民の入植計画が進捗していない地
域に多く設置されていた。また,訓練所開設地とは異なる地域へ吉井練生を入植させる乙種訓練所
のうち,満鉄経営の訓練所は.r鉄道自警jの目的に方向づけられ,主要鉄道線iζ沿って散在Lて
いた。そして,乙種訓練所のうち満鉄経営以外のものは,その施設構成から推すに,軍需物資の
集穣所としての機能をうかがわせており,陣地構築地域と強い相関を持った分布を示していた。
なお,史料上の制約から以下のような問題点を残した。
第1!ζ. r基本要綱J の主たる内容を形づくった「満州現地案について,関東軍の立案の動因を摘出する乙とは難しく,移民政策全般との関速において義勇軍の改編構想を意味づける乙と
はできなかった。ために.r基本要綱J との関係においては,規定の推移を追うにとどまった。
第2 !乙,訓練所の配置の検討においては,言iI練所配龍lζ 対する関東軍,移民関係機関の意留の把握は不十分で、あった。乙れらの克臓は今後の課題としたい。
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