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Wednesday, August 15, 2012

Sorrow of Korea, "a prostitution Nation" over a thousand years

기생 송이
妓生房

http://blog.ohmynews.com/koldstory/477259





1910년대 조선 기생


평양의 기생학교
Kisaeng school in Pyongyang 平壌 (North Korea)



http://tamezou6.iza.ne.jp/blog/entry/657804/
韓国の悲哀、千年にわたる「売春立国」
2008/07/26 13:34


人類史とともに生まれた「巫妓(巫娼)」については、朝鮮史にはとくに明記されておらず、妓生制度の起源についても正史では明らかになっていない。一説では、三国時代の朝鮮で活躍した新羅の真興王が創設した、源花制度が妓生制度の前身であったといわれている。

野史において、名妓として名を残しているのは「天官」ひとりのみである。しかし、李朝時代には妓生の娘・春香の波乱の人生を描いた『春香伝』などの文学作品が生まれ、今日まで愛唱されている黄真伊など妓生の詩人も多くいたことはよく知られている。

李朝時代が毎年、宗主国に貢女や宦官を献上していたのは史実である。西洋の伝道師シャルル・ダレが書いた『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)には、李朝朝鮮は毎年、宮廷慰安婦として「美女三〇〇〇人」を供出していたと書いてある。とはいえ、三〇〇〇人とはあまりにも多すぎると私は思う。

最近では朝鮮史の専門家までが、朝鮮の妓生はただの踊り子や楽師、またはせいぜい日本の芸者のようなものであり、娼妓や売春婦ではないなどと言っている。しかし、史実をいくら「美化」しようとしてもウソはウソだ。これは明らかな歴史の捏造である。

それは、中国の娼妓史と江戸時代の遊廓の歴史を比べてみれば一目瞭然だろう。朝鮮は両斑を中心とする階級社会である。階級制度が定着している社会では、妓生制度も貴族文化にとどまっている。その意味では、隋唐時代の妓生制度も同様だ。

ところが、江戸時代の吉原を代表とする遊廓制度は、大衆文化を背景としている。中国や朝鮮のものとは、まったく性質の異なるものなのである。妓生をただの芸者と主張する学者は、無知というよりもウソつきだ。

妓生は世襲制であった。そして、妓生の全盛期は高麗朝末期から李朝初期だと言われている。朝鮮の妓生は、一牌、二牌、三牌の階級に分けられ、「一牌」の妓生は「薬房妓生」「針房妓生」「教坊妓生」「玉堂妓生」という、宮女に近い官位を与えられていた。今の言い方をすれば、金日成や金正日の「喜び組」に相当し、かなり地位の高い扱いを受けていた。しかし地方の妓生は、もっぱら官吏の接待にあてられ、ほとんど性の奴隷のようであった。「二牌」は一牌になりきれなかった落ちこぼれの集まり、「三牌」は通称「私窩子」つまり私娼として扱われた。ことに、三牌の集落は売春宿になっており、道楽好きな両斑の連中がヒマに飽かせて通った場所である。

一九七〇年代、日本の進歩的文化人が半島の統一勢力と手を組んで、朴大統領の「国家管理売春」「観光(売春)立国」を徹底的に追及したことがある。その後、日本男性の妓生観光が非難され、続いて従軍慰安婦の非難キャンペーンが繰り広げられた。

韓国は、一〇〇〇年以上にわたって宗主国への貢女と宦官の献上という哀史を抱えている。妓生の悲史も、過去の軍妓、辺妓、駐留軍慰安専用の「ウォーカーヒル」つまり「米軍将兵慰安総合遊興村」などから、現在の「頽廃理髪店」に至るまで、脈々と続いてきたのだ。それはつい最近までの歴史であり、韓国は「売春立国」という自慢できない歴史を持っているわけだ。

もし韓国が歴史から真の反省や教訓を得ようとするなら、まず自ら一〇〇〇年以上も続いた売春史や妓生史を国史として学ぶのが本筋だろう。しかし、実際は日本に対して、「過去の一時期」にあったかどうかわからない従軍慰安婦についての記述を、中学の歴史教科書に入れるように強制するばかりである。韓国の子弟に自国の慰安婦史を教えるというのならわかるが、これではあまりにも本末転倒であり、日本にとっては大きなお世話だろう。

黄文雄「韓国は日本人が作った」より

平成十七年五月二十一日
ワック出版
ISBN 4-89831-531-3

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