수로왕
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'09.6.19(土)金海金さん・許さん 大集合 ②
つづき
案内板によると、
首露王陵(史跡第73号)の規模は直径22m、高さ6mの円形封土墳で、陵碑、床石、文武人石、馬羊虎石などが備わっているそうだ。
この説明によると、写真の動物手前から、馬・羊・虎の石で、その奥に見えている2体が文武人石ということだ。
三国遺事の駕洛国記には、199年に158歳で亡くなると、宮廷の東北側の平地に宮を建てて葬儀をした後、周りの300歩の敷地を首露王廟と定めたと記録されているそうだ。
これは、現在の首露王陵が平地にあることと、陵域が設定されていた点で一致しているのだそうだ。
どう考えても158歳まで生きたというのは合点がいかないのだが、とにかくそう伝えられているそうだ。
首露王陵の広い敷地内には、この王陵のほかにもいくつかの建物がある。
↓↓↓ 숭선전(崇善殿)は、首露王と王妃の位牌を祀ってあるところ。
↓↓↓ 숭안전(崇安殿)は、駕洛国の2代目から9代目までの王と王妃の位牌を祀ってあるところ。
崇安殿の前には、2代目 道王、3代目 成王、4代目 徳王、5代目 明王、6代目 神王、7代目 恵王、8代目 荘王、9代目 粛王 の名前が刻まれた石が配されている。
崇善殿では、毎年陰暦3月15日と9月15日に 「春秋祭礼」(道無形文化財第11号)を執り行うそうで、そのときには全国の金海金氏と許氏と儒林など、1万名以上がここに集うのだそうだ。
つづく
http://bell.jp/pancho/travel/korea-2/ookaya_oryo_tenjikan.htm
大伽耶国の支配層を埋葬した池山洞(チサンドン)古墳群は、高霊邑を囲む主山の稜線に沿って繋がっている。その中の第44号墳は「殉葬墳」であったため、発掘調査後ドーム形の展示館に復元して一般に公開するとともに、学術研究の貴重な資料として活用している。
池山洞44号古墳の埋葬主体は細長の大型竪穴式石槨(長さ9.4m)だが、全部で32基の大小殉葬槨が主人の槨を囲むように配置されていた。
見 所
復元された殉葬墓
ドーム形の展示館の中央にドーンと配置されているのは、復元された第44号墳である。大型石槨と封土をめぐる外護列石との間に小さな規模の石槨(殉葬槨)が多数発掘されていて、殉葬の風習があったことがわかる。ドームの周壁には、池山洞古墳から出土した土器や、金冠、冠飾り、各種装身具、武器類などが展示してある。
■所在地:韓国慶尚北道高霊
池山洞古墳群
池山洞伽耶古墳群
遠くから眺めると、高霊邑を屏風のように囲んでいる主山(ジュサン)の稜線に沿って多数の円墳が築かれているのが目に入る。5世紀から6世紀に築造された池山洞(チサンドン)古墳群である。
池山洞古墳群は伽耶諸国の盟主であった大伽耶(おおがや)国の王陵で、史跡第79号に指定されている。古墳の大きさは様々で、高く登れば登るほど峰墳が大きくなり、頂上には直径20m以上の大古墳が密集している。
1977年から発掘が行われており、当時の文化と社会をうかがわせる特徴的な高霊式土器や鉄製武器類、甲冑と馬具、金銅冠などの遺物が多数発掘されている。
高霊式土器は全体的に、新羅土器に比べて曲線美がある。高霊式の特徴的な地域色をもつ土器は5世紀に入ってから作られるようになり、各地域に拡散していく。我が国に伝わったものは須恵器の祖となった。
支配者の権威を表す冠も新羅のもとの違う形をしている。新羅冠は帯輪に出字形の立飾りを立てる樹枝形であるのにたいして、池山洞32号墳出土の冠は両側に角が立つ胄形をしていて、このころの大伽耶の支配層の性格が武士的側面が強かったことを示している。甲冑およびその付属品一式が一緒に出土していて、墓の主人公が生前使っていた物がそのまま副葬されたと思われる。その甲冑と同じ携帯の物が日本列島でも出土している。
こうした出土品は、わが国と大伽耶と交流があったことを物語っている。それは経済的な交易関係をベースとした交流が主で、我が国からは塩などを持ちこみ、鉄あるいは鉄製品と引き換えていたと思われる。伽耶地方北部はかって鉄資源が豊富だった地域で、その資源をバックに高霊地域で強大化した国が大伽耶である。韓半島南部に大きな変化をもたらした4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗の南下政策以後、大伽耶は伽耶諸国の中で最強の国となった。
池山洞古墳群の中には、殉葬墓が含まれていた。第44号墳および45号墳は円墳中央に竪穴式石室(主石室)を設け、これを囲んで10~30基の小石室・石棺からなる殉葬墓を配置していた。このうち第44号墳は発掘によって内部構造と遺物を確認収容した後、ドーム形の展示館に復元し、一般に公開している。
殉葬する習俗は、洛東江下流域の伽耶地域では、4世紀代に北方遊牧民族系の文物をもつ「金海型木槨墓」に現れ始め、この時から人及び馬・鳥を犠牲として殉葬するようになった。新羅でも伽耶と同じく殉葬が行われていたが6世紀初めに禁止された。大伽耶でもおそらく6世紀前半には禁止されたものと思われる。
大伽耶(だいかや)国と大伽耶連盟
88オリンピック高速道路の「海印」インターチェンジから再び高速道路に乗り東に向かうと、次のインターチェンジが洛東江の中流域に位置する「高霊(コリョン)」である。高霊には、かって大伽耶(だいかや)連盟の盟主だった大伽耶国の王都があった。
伽耶とは、三世紀に朝鮮半島南部にあった弁韓12カ国が母体となって独立的な伽耶連盟を形成した複数の小国の総称である。出典によってさまざまな呼び方をされている(伽耶、加耶、迦羅、加良、駕洛、伽洛、任那)。これらの小国は、三国(高句麗、百済、新羅)のように一つの統一した王権国家として成長できないまま7世紀半ばに新羅に併合されてしまう。基本的には、三国時代に百済や新羅が領土を拡大していくのに対して、それに取り込まれずに残っていた韓民族のいくつかの小国の汎称であると理解してよい。地理的には韓半島南端の慶尚南・北道の西部地域に存在した。
六伽耶の位置
13世紀末に禅宗の高僧一然が撰述した『三国遺事』には、伽耶の主要な構成国として五伽耶の名をあげている。阿羅(あら)伽耶(現在の咸安)、古寧(こねい)伽耶(咸昌)、大伽耶(高霊)、星山(せいざん)伽耶(星州)、小伽耶(固城)である。この五伽耶に金官国(または駕洛国)(金海)を加えて六伽耶と呼ぶこともある。日本で「任那」と呼んできた国は、伽耶諸国の一つである金官国のことを指す。
伽耶諸国がいつ頃成立したかは不明であるが、上記の『三国遺事』に引用されている『駕洛国記』には、次のような金官国の始祖神話が紹介されている。
後漢の光武帝の建武18年(A.D.42)3月上旬の巳の日のことである。亀旨(きじ)という山の上空から天の声があり、紫の縄が天から垂れてきた。縄の先に紅布で包まれた金の盒子(ごうす)があり、その中に六つの卵があった。首長の一人がその卵を家に持ち帰ると、次の日の夜明けには卵が童子になっていた。童子は10日余りで背丈九尺になった。最初に卵から童子になった者を「首露」といい、満月の日に即位して国を大駕洛と称した。残りの五人はそれぞれ五伽耶の主になった、という。
伽耶諸国は、5世紀半ば以前は金海の伽耶国を中心として、それ以降は高麗の大伽耶国を中心として大伽耶連盟を構成していた。高句麗・百済・新羅・倭の四方からの圧迫に対して対決していく必要性から、また、これらの国からの影響を受けつつ、大伽耶連盟を成立させたとされている。
中国の史書は、大伽耶国の荷知王が建元元年(479)、南斉に使者を送って貢ぎ物を献じ、南斉は輔国将軍・本国王に叙した、と伝えている。その頃が大伽耶連盟の絶頂期であったと思われる。6世紀に入ると、百済と新羅によって連盟傘下の小国が蚕食されるようになる。先ず、5世紀末から6世紀初めにかけて全羅南道南部まで領域を拡大した百済は、その後方向を東に転じて上コモンと下コモンを侵し、516年5月頃までには、この地を確保した。そこからさらに進んで、蟾津江の河口にあった大伽耶の外港・多沙津を目指し、522年頃までに多沙国を奪った。
大伽耶は、百済の進出に対抗するために、新羅と婚姻関係を結んでいる。『三国史記』には、法興王九年(522)春三月、伽耶国王(異脳王)が使者を派遣して結婚を要請してきた。法興王は、伊サン・比助夫(ひじょふ)の妹を送った、と記す。しかし、524年には新羅が金官国へ侵攻し、また529年には新羅従者の変服問題で大伽耶国が従者を放還するという事件が起きた。これにより新羅との婚姻同盟が破綻した。
531年、安羅からの救援要請を幸いとして、百済は安羅に進駐した。一方、新羅軍は卓淳や喙己呑(とくことん)も攻撃し、532年には金官国に迫ってきた。金官国王の金仇亥(きんきゅうがい。仇衡王)は妃や子供達とともに国の財宝を持って新羅に投降した。こうして金官国は滅んだ。新羅の法興王は礼をもって金仇亥を待遇し、上等の位を授け、また本国を食邑にした。ちなみに、金仇亥の末子の武力は、新羅で角干まで昇進した。武力の孫が新羅統一の英雄・金■信(きんゆしん)である。
538年に泗比城に遷都した百済は、540年高句麗の牛山城を攻撃して、対高句麗戦で反攻に転じた。そこで、541年、百済は新羅との間に済羅同盟を締結した。この同盟関係はその後10年ほど続く。その間に、百済の聖王は任那復興会議を541年4月と544年11月に開いている。新羅に占領された金官・卓淳・喙己呑(とくことん)の三国を旧に復するのが目的だった。しかし、期待された成果は得られなかった。
551年、百済は新羅とともに高句麗に侵入し、漢城の地を回復し、さらに進軍し平壌を討って六郡の地を得た。だが、次の年に新羅は百済の東北の辺境を奪い取り、西海岸領有という長年の夢を達成した。553年にはここに軍事的拠点として新州を設置した。554年、新羅の同盟破棄に怒った百済の聖王は大伽耶の兵と連合して新羅の管山城を攻撃した。しかし、王は狗川(沃川付近)で、新羅の伏兵の奇襲を受けて殺され、各軍も大敗してしまった。
562年、新羅の真興王は異斯夫(いしふ)に命じて大伽耶を討たせた。こうして、大伽耶国は滅亡した。大伽耶連盟の中の重要な国であった安羅も同じ運命をたどった。その他の小国も同様に陥落されてしまった。『日本書紀』は欽明天皇23年の条に、新羅が任那を討ち滅ぼしたと、この史実を伝えている。さらに、その注には、このとき滅んだのは合計で十国で、加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞サン国、稔礼(にむれ)国の名を挙げている。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/tabiachikochi/korea/kayasiragi.html
大伽耶・新羅の旅
金海市 首露王陵
慶尚南道 金海市西上洞
釜山のホテルを車で出発して、朝9時にここ首露王陵に着いた。歴史の旅の始まりである。
朝早すぎて、だあれもいない。
魔除けの門、古代日本はこれに倣って神社の鳥居を発想したのだろう。
石亀も私たちを迎えてくれている。
首露王陵
首露王は金官伽耶の始祖とされる王であるが、金の卵から生れたという。
その由来が「駕洛国記」という文献に記されているのでその一部を紹介しよう。この駕洛とは伽耶と同じ意である。
・・・
『三国遺事』 「駕洛国記」
後漢の世祖、光武帝の建武18日壬寅(42年)三月、禊浴の日に、彼らが住んでいた村の北側にある亀旨に、みんなを呼ぶ怪しげな声がした。
村の衆二、三百人がそこへ集って行くと、人の声は聞こえるが、姿は見えない。
その声は、「ここに人がいるか?」と聞く。九干らが「われわれがおりまする」というと、また「ここはどこなのか?」と聞く。
「亀旨であります」と答えると、声はまたこういった。
「皇天が、私にいいつけてここにこさせ、国を新しく建てて、私をここの君主になれといわれたので、いまここに降りてきた。
お前たちは、峰の頂上の土を掘りながら、つぎのように歌いなさい。
亀よ亀よ 頭出せ ださずんば やいてたべるぞ
このように歌いながら舞い踊れば、それで大王を迎えて、喜び踊ることになるのだ」。
九干どもは、いわれたとおりに、みんなが楽しげに歌いながら舞った。
しばらくたってから空を仰いでみると、紫色の紐が天から垂れてきて地面についた。
紐の端をみると、紅いふろしきがあり、その中に、金色の合子(盆)が包まれていた。
それをひらいてみると、なかに黄金の卵が六つはいっていて、太陽のように丸い。みなのものがそれをみて驚きながら喜び、百拝した。
しばらくしてふたたびそれを包み、かかえて我刀干の家に持ち帰り、床のうえに安置してから、みな解散した。
十二時を過ぎ、翌日の夜明け方に、大勢のものが集ってきて、盆を開いてみると、六個の卵が化けて男の子になっていた。
顔だちが麗しかった。床に坐らせてからみなが拝賀し、心をこめて敬った。
日に日に大きく育ち、十余日たつと、背丈が九尺にもなって、あたかも殷の天乙(湯王)のようであり、
顔は竜に似てあたかも漢の高祖のようであり、眉の八彩は唐高(堯)のようであり、目に瞳が二つづつあるのは虞舜のようであった。
その月の十五日に即位した。初めて現れたということで諱を首露といった。あるいは首陵ともいい(首陵は亡くなってからの謚号である)、
国を大駕洛、または伽耶国と称したが、これは六伽耶の一つであり、残りの五人もおのおの帰って行って五伽耶の主となった。
・・・・・
卵が六つ降りて来て最初に生れたのが首露王、六つそれぞれが六伽耶の王となった。
六伽耶の誕生であるが、中央集権的な国家ではなく、分権的な連盟体国家であろう。
首露王の金官伽耶が大伽耶とも呼ばれ、連盟体の盟主国なのである。西暦42年の建国で、532年新羅に併合されてしまう。
「駕洛国記」によれば、首露王は42年3月3日に卵から生まれ、3月15日王位に就き、199年3月20日158歳で亡くなったという。
この高齢は日本の『記紀』にも似る。うちの神武天皇も127歳で亡くなった。昔の人はえらい長生きやなあ。
蓮華台石
駕洛国時代の寺院跡にあったもので、ここに移設した。が、上部は日本植民地時代になくなったという。
「駕洛国記」に記されていた「黄金の卵六つ」を模している。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/tabiachikochi/korea/kime/shurohi.html
大伽耶・新羅の旅
金海市 首露王妃陵
慶尚南道金海市山洞
陵碑には、
「賀洛国首露王妃 普州太后許氏陵」 と刻される。
王妃はインド・アユタ国の公主とされ、名を許黄王といい、189年3月1日157歳で亡くなったという。
許王妃は生前10人の子どもを授かり、太子である長男は王位を継承し、第二代居登王になる。次男は母の姓の許を継いで金海許氏の始祖となる。
それから以後韓国では、現代になっても、金海金氏と許氏は結婚しない風習が残るという。
・・・・・
墳丘のそばに「婆娑石塔」が立つ。
婆娑石塔
金海市中心部にあった虎渓寺からここに移設されたと伝わる。
西暦48年に、王妃がインドから渡来したとき、風と波を静めるために船に載せてきたものという。
この婆娑石は韓国では産しない石だそうだ。
・・・・・
http://www.pusannavi.com/miru/1145/
http://www.marupu.com/main/script/area_script.html?num=922
<神魚像>
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