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Wednesday, August 8, 2012

Asahi newspaper fabricated Nanking Mssacre,Miyakonojo foot unit 23

1 名前:水道水φ ★[] 投稿日:2012/07/18(水) 19:55:43.95 ID:???

http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000641207180001

都留文科大名誉教授・笠原十九司さん
2012年07月18日


■「南京大虐殺」否定の発言
――今年は南京事件(南京大虐殺)から75年。そもそも、なぜ南京で、だったのでしょう。
事件は日中戦争の始まった1937年、旧日本軍が、上海から国民政府の首都・南京を攻略するなかで起きました。軍中央は当初、戦線を拡大しない方針でしたが、現地最高司令官の松井石根(いわ・ね)大将=東京裁判で死刑=らが「南京を制圧すれば中国は屈服する」と、独断で兵を進めたのです。
――無理な作戦だった。
上海から南京までの距離は約300キロ。東京から名古屋の手前までぐらい。この間、後方から装備や食料の補給はなく、兵たちは略奪を繰り返した。そのなかで住民の殺害や強姦(ごう・かん)も横行しました。
軍は南京を包囲し、37年12月10日の総攻撃開始から4日目に、中国の防衛軍を打ち破って占領した。しかし食料がないのですから、捕虜を収容できません。捕虜の人道的な扱いなどを取り決めたハーグ陸戦法規を無視し、既に戦闘を放棄した中国兵を次々と殺害しました。治安が回復するのは翌38年の3月。それまで一般市民を巻き込み、殺戮(さつ・りく)を繰り返しました。事件の背景には中国人への差別意識があり、日本兵のストレスのはけ口になったとみられます。
――河村たかし名古屋市長ら、事件の存在自体を否定する発言が繰り返されます。
政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」との見解を出しており、学問的にはもちろん、政治的にも、すでに論争は決着していると思います。しかし最近は現職閣僚以外の国会議員や大学教授のほか、河村市長らのような自治体の首長が否定の発言をしている。
従軍慰安婦の問題と同じく、否定論をふりまくことは被害者を二重に苦しめます。それが、どんなに国際的に恥ずかしく、日本の評価をおとしめているか。なぜ、そこに思いが至らないのか。南京事件は、人権の問題であり、日本の民主主義にかかわる問題なのです。
――社会も、事件への認識が薄いのでは。
現場が国外であり、政府は当時、報道を制限し、国民に事件を知らしめないようした。ユダヤ人を大量殺害したドイツとは違い、戦後も事実の解明や責任追及をあいまいにした。このため国民の間に歴史認識が定着せず、論争が「どっちもどっち」といった泥仕合に思われてきたのです。それはそれで、否定派の思うツボです。
学校教育でも、歴史が受験のための暗記教科になりがち。歴史は本来、過去に学ぶ学問です。国際化の時代だからこそ、戦争の悲惨さとともに、過去の加害責任という負の歴史を知ることは必須です。県内には幸い、甲府市に「山梨平和ミュージアム」があります。先生方には、こういった施設をぜひ活用してほしいと思います。

《キーワード》
南京事件(南京大虐殺) 旧日本軍が1937年12月、中華民国国民政府の首都・南京を制圧するなか、多数の捕虜や市民らを殺害するなどした事件。犠牲者数について、中国側は「30万人」と主張。日本側では「4万~20万人」とする研究者が多く、笠原名誉教授は「十数万~20万人」とみる。それぞれ事件の対象区域や期間の定義が異なり、史料の数字も、どう評価するかで判断が分かれている。

《略歴》
かさはら・とくし 都留文科大名誉教授(中国近現代史)。1944年、群馬県生まれ。東京教育大(現・筑波大)大学院修士課程中退。84年、恩師で教科書検定裁判の原告・家永三郎氏を支援するため、研究者やジャーナリストらと「南京事件調査研究会」をつくり、東京高裁の控訴審で証言した。著書に「南京事件」(岩波新書)など。

《取材を終えて》
◇反日の理由、冷静に
「否定論者の主張の誤りとトリックを解説する、学問的には非生産的な『論争』は、早く卒業したいと思っている」。笠原さんは著書「南京事件論争史」(平凡社新書、2007年刊)で、こう述べている。
ネット上では「売国奴」「自虐派」などと、ののしりの言葉を浴びてきた。南京事件について多数の著作を手がける一方で、学位論文に手が回らず、博士号の取得(学術博士、東京大学)は、ようやく3年前だった。それでも発言してきたのは、「加害の事実を確認することが、被害者と真の和解を果たせる道だ」との思いからだ。
日中国交正常化40周年の昨今、中国では反日デモが起き、尖閣諸島の領有問題をめぐっては中国政府も強硬だ。しかし中国は隣国であり、経済面でもお互いに緊密な存在だ。私には親しい知人もいる。それだけに、歴史的な事実を含め「反日」の理由や自らの足元を冷静に見つめたいと、改めて思った。(岩城興)


40 名前: ◆AXELAbWoWw [] 投稿日:2012/07/18(水) 20:20:18.01 ID:FQiJpEx8 [1/2]
朝日 虐殺に加わった兵士の日記と写真を発見!!動かぬ証拠だ!!
都城23連隊(以下都城) そんなことした記憶はない。誰だそれ、日記を見せてくれ。
朝日 日記は見せられない、個人情報だ。
都城 調べてみたが、該当する人物は一人、そいつはカメラも持ってなかったし、日記も書いていない。
朝日 ・・・

都城 日記の件告訴するぞ
朝日 それだけは勘弁して、首になる。
都城 お詫び文を全国紙に載せろ
朝日 日記と南京大虐殺は無関係との記事を載せる。

その後地方紙にちょろっと記事が出た、「無関係だって抗議が来てました」ただそれだけw

都城 ワレ、ふざけてるんか?
朝日 全国紙に謝罪文出すなんて言ってないもんねーw



以上事実に近い話です。



http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/asahi-hodo/23rentai.html

都城23連隊と南京大虐殺

― これが朝日新聞の実態 ―


わが国の報道機関は旧日本軍を糾弾できるとなると、一読してどうかなと思えるような「証言」や「資料」に飛びつき、大報道に仕立てあげることに血道をあげてきました。
この都城歩兵第23連隊にかかわる朝日報道も、冷静な目で見ればおかしなことの多い内容なのですから、「事実」かどうかを確かめる手順さえつくせば、ダボハゼのように飛びつかなかったはずなのです。なにせ、朝日社内では日本軍を断罪することが「正 義」であり、ときに花形記者への道、出世の近道と考えられているのでしょうから、たまったものではありません。社内で出世を意識した「点取り虫」がウヨウヨ(?)していたからこそ、この種の報道が絶えることはなかったし、今もつづいているのです。
この事件は宮崎支局の取材によるものですが、支局長はおそらく全国版に掲載されるという栄誉をものにし、自らの成績があがったと小躍りしたことでしょう。でなければ、23連隊側から全国版に訂正報道を掲載するよう詰め寄られた支局長が、「その責任は重々感じています。然し首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです」 といって、深々と両手をついて頭を下げることなどしなかったはずですから。
朝日新聞は書かれた個人や団体に対して絶対といってよいほど誤りを認めず、他のメディアの報道などで騒ぎが大きくなると渋々と認め、いかに小さな訂正記事で誤魔化すかに腐心するのです。それは、役人、官僚の国民個人に対してとる対応と酷似し、組織内で自らの地位を確保するための自己防衛なのだろうと思います。



1   南京戦に加わった兵士の「日記」

1984(昭和59)年8月4日付、朝日新聞(西部本社版・夕刊、下写真)は、以下のようなセンセイショナル内容で報道、また翌日付の全国版でも少し短くしたものが掲載されました。
ご覧のように、


日記と写真もあった 南京大虐殺   悲惨さ写した三枚  宮崎の元兵士 後悔の念をつづる
との見出しを立てています。











まずリードの全文をお目にかけます。
〈 日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して4日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵(当時23)の虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真3枚が見つかった。
広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になると見られる。 〉

お読みのとおり、「日記」と「写真」が「南京大虐殺」にかかわる貴重な資料として最大級の評価を与えた報道でした。とくに、「アウシュビッツ」 と比較した下りは、朝日のこの「事件」についての見方を知るうえで注目しておくべきと思います。また、「歴史的資料になると見られる」という表現は、「南京大虐殺」を立証する「歴史的資料になって欲しい」という願望をこめたものに違いありません。
この「日記」は、1937(昭和12)年の元日から大みそかにいたるまで、「毎日、ペンで」詳細に記録されたものだといいます。本文から主要と思われるところは以下に引用します。
〈 今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約2000名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に蜿々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子 〉 (12月15日)
〈 今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。これでたたらなかったら因果関係とかなんとかいうものは(意味不明)ということになる。〉(12月21日)

こうした日々が「1週間も続き精神的にもまいった28日」には次のように書いてあるといいます。
〈 人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる。・・・ 〉(12月28日)
そして、
〈 この兵士は帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した。家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。死ぬ前には当時の戦友や家族に「罪のない人間を殺したたたりだ」ともらしていた 〉
などというのです。

記事を書いた中村 大別・宮崎支局長は、「自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念を見せている。さらに虐殺が日常化していることもわかる」 などの「解説」をつけ、大阪市大の広川助教授のコメントをつけて報道は終わっています。

この記事を読んだほとんどの読者は、日本軍の底知れない残酷ぶり、兵士のメチャクチャぶりを信じたことでしょうし、3枚のなかの1枚という、ナマ首の並んだ左の写真を見て、日本軍への嫌悪感を一層つのらせたことでしょう。
この写真、今となっては珍しくもないお馴染みのものですが、1984(昭和59)年当時は、衝撃を与えるに十分なものだったのです。
なお、「明らかな誤字以外は原文のまま」に日記から引用したとあります。よく読みますと、「あろう」「思われる」(朱字で表したところ)は新かな遣いで書かれたものです。ちょっと変なので、後述します。



2   都城23連隊、立ち上がる

報道は事実無根と立ち上がった23連隊戦友会と朝日との2年半におよぶ闘争の顛末は「都城二十三聯隊会だより」(中傷記事総集編、1987年3月18日号。下左写真)に詳しく報告されています。


また、南京戦に将校(中尉)として参戦した吉川 正司 (23連隊会顧問)は、「朝日新聞との闘い・われらの場合」として、「文藝春秋」(1987年5月号、左写真)ほかに経過を公表しています。
あまり馴染みはないかもしれませんが、日刊紙「世界日報」はこの問題に関する展開を逐一報じました。また、南京事件研究家・阿羅 健一も現地に行き、調査結果を「朝日新聞の降服」(「正論」1986年4月号)として報告しています。
私は吉川氏をはじめ、2、3人と電話で話したくらいで、23連隊(第6師団)とのかかわりは少ないのですが、基本的な資料は提供していただきました。
以下、上にあげた資料などを参考にしながら話をすすめます。

(1)  寝耳に水の報道内容
23連隊の行動を簡単に記します。
1937(昭和12)年12月12日、南京城西南角の城壁を破壊して城内に突入、13日に城内を掃討して清涼山付近まで進出しました。13日以降、第2、第3大隊など主力は西南に位置する水西門の東南市街地(城内)に駐屯、第1大隊は12月21日まで水西門外(つまり城外)に駐屯・警備に任じ、12月22日に城内に移駐します。翌13年1月初め、南京を離れ蕪湖(ぶこ。南京城の南方、揚子江岸の街)へと移駐しました。
吉川 正司中尉は23連隊・連隊砲中隊の中隊長代理としてこの戦いに加わり、次のように書いています。
〈 突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内には敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。連隊はそれ以降、主力をもって水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し警備にあたったが、翌13年1月3日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。従って、朝日の記事内容はまさに根耳に水であった。 〉(文藝春秋、昭和62年5月号)

連隊の調査から虐殺現場を見ていないのは他の参戦者も同じでした。となれば、「日記」を書いたのは誰かということに話は落ち着きます。そこで、当時23歳、北郷村出身の上等兵で、「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という記事を手がかりに捜すのですが、該当者はみつかりませんでした。
そこで、寺の過去帳に目をつけて調べると、49年に腎臓病で死亡した元兵士に行きあたったものの、夫人は「日記」をつけたことはなく、写真機の持てる身分ではなかったという返事で、人捜しは暗礁に乗り上げてしまいます。

(2)  連隊と朝日の会談
こんななか、連隊側と朝日宮崎支局との1回目の会談(1984年9月22日)が行われました。朝日は記事を書いた中村 大別支局長 、連隊側は中山 有良・事務局長ら5名が加わります。
連 隊   「(日記には)23連隊の何中隊と書いてあったのか」
支局長   「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連 隊   「その兵士の名前は」
支局長   「いや! それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連 隊   「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわからんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長   応答なし。

連隊側は、参戦中に毎日、日記をつけていること自体がおかしい、しかもインクを使うなど考えられないなど、疑問点を指摘しながら上のようなやりとりがつづき、連隊側は「南京大虐殺」とは無関係であることを、「全国版」に掲載するよう申し入れました。

(3)  2回目の会談
5ヵ月後、2回目の会談(1985年2月4日)が行われ、連隊側は「今日は是非とも歩兵23連隊は南京大虐殺とは無関係との記事を掲載して頂くために参上いたしました」と切りだします。この間、連隊側は「日記」の持ち主ではないかと思われる人物(宇和田 弥市・第1中隊上等兵、1973=昭和48年病没 )を割り出していました(下記の注参照)。
中村支局長は「先般来から日記が本件のポイントだとのご指摘になっておられるから今日は、その日記をお目に掛けます」といい、ナイロンの袋から日記帳を取り出すと、手に持ったままテーブルから10歩くらい、離れた位置まで後退、立ったまま胸の位置で日記帳の真ん中あたりを広げて見せたのです。
連隊会の1人が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長は「近寄ってはいけません。書体が分かると誰れが書いたか分かりますから」 といい、寄せつけません。
5メートルも離れていては日記帳だかどうかの判断もできなかった、と連隊側がいうのも当然のことでしょう。
問題はこの「日記」の真贋です。「歴史的資料になる」と報じたのですから、日記が本物かどうかの検証作業に積極的に協力するべきなのです。もし、朝日の心配が「情報源の秘匿」 にあるのなら、名前を伏せることを条件に、専門家の手に委ねる手もあるでしょう。この日の会談は相当、とげとげしいものになったことを連隊側は記録しています。
「・・なぜ朝日新聞は日本軍の悪口を嘘の証言やデッチあげの資料で書かねばならんのですか。朝日を経営している人は果たして日本人なのですか。いや日本人ではないロシア人か中国共産党さもなくば赤旗と兄弟・・・」と連隊側が発言、これに対し支局長は「赤旗と兄弟、聞きずてならん。天下の朝日新聞社に向ってなんですか。出て行って下さい。あなたとはもう話はせん。出て行ってください」といった具合でした。
(注) 1978(昭和53)年に発行された『都城歩兵第二三連隊戦記』(同委員会)の編集時、宇和田弥市上等兵の日記が第1中隊の編纂代表者・山路 正義のもとにとどけられました。とどけたのは同じ第1中隊の戦友で、宇和田夫人から借りたとのことです。日記から2ヵ所が戦記に載りましたが、朝日に報道された所とは違っていました。
山路は「朝日が指摘している虐殺などのことは書いてなかった」としていますが、事実とは考えにくいと思います。後述するように宇和田日記の写真によって、虐殺について書かれていたことは証明されているからです。したがって、書いてあったものの同戦記に載せなかっただろうと思います。
なお、吉川 正司中尉は戦記編纂の最高責任者でしたが、全体を監修する立場にあったため、「宇和田日記」について知らなかったとしています。

(4)  3回目の会談
4日後の2月8日、連隊は宮崎支局へ「抗議文」を提出しました。内容は、記事が事実に反するとした根拠を列挙したうえで、「23連隊は南京大虐殺と無関係」とした記事を「全国版、地方版」に掲載するよう要求、受け入れられなければ「由々しき事態の生ずるおそれがある」とし、言外に訴訟(あるいは不買運動)に踏み切ることを匂わせたものでした。
約1週間後の2月14日、中村支局長から連隊の中山事務局長に、「今日ご来社下さい。ただし、中山さん一人でおいで下さい。他人には聞かれたくない相談がありますから」との連絡あります。そこで、中山事務局長が支局におもむくと、支局長は気持ちの悪いくらいに低姿勢で会議室へ案内します。
支局長   「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、『お詫び』だけはご勘弁くださいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります 」
中 山   「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから、その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長   「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭を下げる)」

2人の間で種々のやりとりがあった後、「お詫びとか記事取消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版  で、南京大虐殺とは無関係との旨を報道すること」で、双方が合意しました。

(5)  背  信
1985(昭和60)年2月24日付けで、〈 「南京虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」 〉 とした短い記事が地方版で報じられました。全文は次の通りです。
〈 日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。
中山事務局長によると、12年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されていることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。 〉




ところが各地に住む戦友から、何日付けの新聞に「連隊は無関係」という報道があったのかとの問い合わせがつづきました。
中山事務局長は「世界日報」の記者と同行し、再び宮崎支局を訪れました。早速、中山は切り出します。

中 山   「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」
支局長   「全国版? 全国版に載せてありません」
中 山   「載せてない? それじゃ約束が違います」
支局長   「約束をした覚えはありません」
中 山   「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか」
支局長   「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」

そして、中村支局長は 「 あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」 と言い放ったのです。
また、同行した「世界日報」記者の「取材の手続き、手順は十分に踏んだのか。記事にするまでにその信憑性について、社内外での検討は十分に行われたのか」との質問に、支局長は、
「南京虐殺については、西部本社また東京本社などでも、この問題を専門にしている記者が本多勝一氏をはじめかなりいる。従って、そういった記者とも相談し、十分に資料も突き合わせて書いた。・・」 「日記は遺族に返した。当方にはコピーがある。遺族が名前の公表を拒否している以上、公開は出来ない。私としては体を張ってニュース源を守らねばなりません」と答えています。
中 山   「卑怯ですねあなたは。あの時私に、一人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
こうして、連隊と朝日との抗争が再燃したのです。



3  ニセ写真と判明

ところが、わずか1週間後の12月28日、南京大虐殺の動かぬ証拠であると大見得をきった「なま首の写真」が、ニセ写真 であることを世界日報は報じました。
さらに朝日が報じた写真と同じ写真の持ち主が現れるなど、ニセ写真であることが動かせなくなったことを同紙はつたえ、追い打ちをかけます(1986年1月13日付、左写真 )。



写真所持者の佐藤 進は、1931(昭和6)年、当時の朝鮮で売られていたものだといい、「せいぜい1枚5銭だった。ちょっと変わっている写真だったので買った。同年輩の兵隊仲間ならこの写真を持っている人もいるでしょう」と証言します。
また写真の上部には、「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」 と説明書きがついていました。「鉄嶺」は奉天(現在の瀋陽)に近い旧満州の地方都市ですから、南京とはなんの関係もありません。
ここに至って週刊誌などがデッチ上げ写真と朝日攻撃を開始します。朝日は姑息にも1月10日、突然中村支局長を更迭していまいました。連隊側からすれば、抗議をする相手を外されたわけです。更迭の理由を朝日側に問えば、おそらく「定期異動」だとかなんだとか理由をつけて言い逃れたことでしょう。


ここまで追いつめらた朝日は、1月21日、「全国版」 にわずか14行の「おわび」記事(左写真)を掲載しました。
「改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」
この「おわび」、狡猾ではないでしょうか。
そもそも、「写真」と「日記」は遺族から提供されたものでしょう。それも「 生前写真を見ては思い悩んでいる時もあった」とする家族の話を記事にしていたのですから、「写真」と「日記」は不可分の関係にあるはずです。
その一方の「写真」がニセと判明した以上、当然「日記」についても怪しいと考えるのが常識というものです。ですが、「日記」の真贋について一言も触れていません。



4   「日記」にこれだけの疑問

(1)  西部本社、日記を読み上げる
1986年1月25日、宮崎支局の会議室で連隊側と朝日西部本社(3人)との間で会談が持たれました。
「日記」もウソに違いないのだから、これについても詫びがなければ和解できないという連隊側に対して、朝日は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」としたうえ、「日記」提供者の氏名公表も断わります。
押し問答の末、「日記は見せられないが、ご指摘のヵ所を読み上げることはできる」と朝日が答えたため、連隊側の指定する月日の部分が読みあげられました。連隊はテープにとったとのことですが、聞き取り困難なところもあったようです。
以下、読み上げられた宇和田日記の記述はおかしいと主張する連隊側の根拠を見ていくことにしますが、その前に「宇和田日記」そのものに対する連隊側の疑問点を掲げます。

(2)  連隊が指摘する「日記」そのもへの疑問
以下の疑問点は、連隊が文書または口頭で朝日側へ提示したものを、私がまとめたものです。連隊側はこれらの疑問点から日記は復員後、筆の立つ宇和田上等兵か軍事知識のある別の誰かが書いたものではないかと推定していました。

・  「日記」は昭和12(1937)年、博文社発行の「当用日記」が使用されているが、縦19センチ、横13センチ、厚さ2~3センチ、約400ページでかなりの重量がある。このようにかさのはる日記は兵士が背負う背嚢(はいのう)、雑嚢(ざつのう)に収容する余地はまったくない。また、出征直前の軍装検査で当用日記の所持者は一人もいなかった。
なお、当用日記は一般に市販されていて誰でも手に入れることができました。
・  杭州湾上陸時、兵士は胸まで海水に浸かって陸地に上がった。当用日記をどうやって濡れからまぬがれたのか。
・  日記は昭和12年の元旦から12月31日まで毎日、詳細に記入されていたというが、戦場で毎日記入できるはずはない。というのは、部隊が移動する間や一地区にとどまって警備につくなど比較的余裕のある期間なら毎日つけられぬでもない。しかし、戦闘時となれば話は別である。戦闘期間は露営が主で、たまに部落に泊まることもある。夕方部落に到着しても兵は食糧の徴発や炊事、また翌日の準備に追われ寝るまで休むヒマもない。中隊長の部屋でさえ作戦命令、戦闘報告書などを書くのに灯があれば良い方で、兵の部屋までは行きわたらない。
・  宇和田上等兵と同じ第1中隊に生存する所属者も、彼が日記をつけているのを目撃していない。
・  鉛筆書きならともかく、インクで1年間も日記を書くなど不可能というほかない(インクは雨で滲んでしまう)。また、インク瓶を持って戦場に行くなど考えられないことである。農村出の一兵士が当時、カメラを買うことはなかった。

(3)  おかしな「日記」の記述
次に朝日が読み上げた日記記述に対する連隊の指摘をご覧に入れます。

①  動員命令が出た7月27日
まず、1937(昭和12)年7月27日分は次のとおりです。この日は蘆溝橋事件(7月7日)が始まって間もない頃で、同連隊はまだ都城にありました。動員命令により門司港を出帆するのは1週間後の8月3日のことです。
〈 午后3時になると、師団からの電報により動員令下達さるとの達しあり、即ち将校集合のラッパ音により週番司令より達せられ、各中隊にはそれぞれ週番士官より通達あり 〉

この記述、おかしいし、どうしてこのような間違いをおかしたのか不自然なのです。
まず、師団から電報が来たことを一上等兵がその日に知ることなど出来るはずがないのです。また午後3時とありますが、将校は午後5時までが勤務時間ですので当然、兵営内にいます。ですから、動員という重要な命令は連隊長が将校全員に直接下すはずであって、週番司令 ⇒ 週番士官 ⇒ 各中隊という経路で通達したというのはとんでもない間違いなのです。というのは、週番制度について、この日記の筆者は大きな誤りをしています。
「週番司令」というのは、連隊にあっては大尉または古参の中尉(中隊長級)が連隊長や将校の帰営した午後5時以降、兵営内の警備等のため、1週間交替でその任務に就きました。ですからこの時間帯で、「週番司令」は兵営内における最高位者になります。「週番士官」は中隊付き将校(准尉や見習い士官も含む)が就き、主な任務は兵員数確認のために朝夕の点呼をとり、週番司令に報告することでした。また週番士官の補佐役として「週番下士官」「週番上等兵」もそれぞれの任務に就きました。
このことは毎日行われていることですから、兵士の体に染み込んでいますので、間違いようもないのです。ですから日記の記述は明らかにおかしく、「日記」そのものに大きな疑問を突きつけることになってきます。


②  11月4日、5日 ・・・ 杭州湾上陸直前
〈 ・・・の命により、軍は上海南方80里の・・・地区に先ず第5師団をもって敵前上陸敢行。F第1線 を占領し、次いでわが師団が上陸の予定との由 〉(11月4日、・・・は不明)
〈 午前7時、既に第5師団 は大成功裡に上陸を敢行、午前11時金山衛城を占領との情報到る。我らの能代丸は正午金山衛城沖に錨泊、・・・ 〉(11月5日、・・・は略)

11月4日の記述を見ますと、「わが師団」(第6師団)より先に第5師団が敵前上陸を敢行したと記してあります。軍隊経験を持たない私たちは、何の疑問を持つことなく読み過ごしてしまうでしょう。ですが、軍隊経験があればすぐにおかしいと気がつきます。というのは、将校でもない一般兵士が他の師団の動向、この場合は第5師団ですが、この師団が自分の師団より先に敵前上陸したことを知るなど、ありえないからです。
一般兵士の知る範囲は自分の所属する小隊かせいぜい中隊どまりで、他の中隊の動きなど教えてくれませんから、ウワサは飛び交うでしょうが、ウワサ以上のことは知る術もないのです。ですから、まだ乗船中の日記筆者が5師団が成功のうちに上陸したことを、その日に知って日記に書くなどできるわけがありません。
吉川(連隊砲中隊の中尉)は前記「文藝春秋」に次のように記しています。
〈 私の連隊は第6師団に属していたが、他にどこの部隊が来ていたかなど中隊長の私でさえ知る由もなかった。先述したように、私は(昭和)49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。 〉
もう一つ、連隊側が指摘することを記しますと、11月4日のところに「F第1線」とあります。このFは「敵」を意味し、将校たちが図上演習する際の略語だそうです。日記を読み上げる朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読み、聞く連隊側もピンとこなかったといいます。このように将校にしかなじみのない言葉が上等兵の日記に出てくること自体がおかしいと吉川をはじめ連隊側は指摘するのです。

③  12月15日以降
冒頭で紹介したように、朝日は12月15日の日記から「約2000名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。・・処置なきままに、色々の方法で殺して仕舞ったらしい・・・」、また21日の項から「今日もまた罪のないニーヤを突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。・・・」などと、「原文のママ」と断って引用しています。
そして、「こうした日々が1週間も続き精神的にもまいった28日にはこう書いている」として、「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる」を引用、このような行為が常態化したなどと報じました。
私が日記を変だと思ったのはささいなことでした。それは「思われる」と書いてあることです。当時は「思われる」と書かずに「思はれる」と書くのが当たり前でした。なかにはかな遣い(旧かな遣い)を誤り、結果として「新かな遣い」になっている例もあります。例えば「あらう」と書くところを「あろう」と書く例です。ですが、「思はれる」を「思われる」と書く例は珍しいと思ったからです。ですから、日記は戦後も大分経って書かれたことは十分ありうると思ったのです。
さて、吉川中尉は次のように反論します。
「15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備隊を突破しない限り、水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない」
少し補足します。



日記の持ち主・宇和田上等兵が所属する第1大隊第1中隊は、12月15日には水西門外(城外)にあり、連隊主力は城内に駐留していました。南京の西の正門である水西門の西約2キロの所に江東門という小さな街があります。現在は「南京虐殺記念館」が建っている所として有名ですが、明の時代には江東門が正門だったとのことです。水西門と江東門との間2キロは、舗装された自動車道でした。
日本軍は江東門に45連隊(第6師団、鹿児島)第3大隊を、水西門との中間に独立山砲兵第2連隊を配置しました。このため、2キロの道路の両側は人馬で一杯だったのです。となれば、2000名もの投降兵が事実ならば、また彼らを色々な方法で殺害したのが事実ならば、ほかの記録、目撃証言があってもおかしくないでしょう。しかしそのような事実はでてきていません。
ただ、次のことを書き加えておきます。先に記したように、23連隊は城壁南西部の攻撃に参加しましたが、この時第2大隊長であった坂元 昵 は、「(12月)9日~12日の4日間の歩兵第23連隊正面の遺棄死体は約2000、捕虜24名」(偕行社発行、『南京戦史』231ページ)と述べています。
宇和田日記は15日の出来事ですし、坂元談の方は戦闘における遺棄死体ですから、両者に関係はないでしょう。なお、坂元は86歳という高齢をおして今回の問題に積極的に関わっていました。
「さらに決定的なことを言えば」と吉川正司中尉は加えます。宇和田上等兵が所属した第1中隊は、大隊主力とともに12月22日には城内に移駐しているのに、その部隊の兵士が21日以降も虐殺が続いていたかのように記述しているのはまったくおかしいと。また、宇和田上等兵と同じ第1大隊に所属する第3中隊長・折小野 末太郎大尉の日記(「南京戦史 資料集1」に所収)にそれらしき記述がないことも他から指摘されています。


5   真実隠蔽を画策した朝日

以上の理由から、連隊は日記は後日(復員後)になって宇和田本人が書いたか、あるいは軍事知識のある何者かが日記の余白に追加記述したのではとないかと考えていました。
このことをハッキリさせるには、日記の筆跡が宇和田本人のものかどうかを鑑定すれば決着がつくはずです。連隊は宇和田上等兵の筆跡を入手していました。

(1)  「日記」保全を申し立て
朝日側から和解嘆願の電話が何度もかかったと聞いていますが、連隊側は拒否します。そして、「日記」が所在不明になったら取り返しがつかない、日記保全が第一と考えた連隊側は、小倉簡易裁判所に日記の保全申し立てを行いました。
裁判所は連隊側の主張を認め、朝日は「日記」を見せるよう判決を下しましす。ですが、喜んだのもつかの間、朝日は「守秘義務への配慮が万全ではない」 として、福岡地裁小倉支部に抗告します。
連隊側の苦悩は深まります。吉川正司はその苦悩を「文藝春秋」に次のように書いています。
〈 最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏は89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになった。 〉

金銭上の問題も追っかけます。朝日はこれまでと同じように露骨な引き伸ばし戦術に出、本裁判となれば10年はかかるかもしれない。それまで、命が持つがどうか。
あれやこれやで、朝日西部本社の幹部と話し合い、連隊は南京事件と無関係との記事を全国版に掲載することを条件に、朝日側と和解する道を選んだのです。





そして、1986年1月23日付けの全国版に“ 証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊会が表明 ” と見出しをつけた小さな記事(左写真)が載りました。
これをもって、25ヶ月にわった23連隊の闘いは終止符をうちました。はたして、23連隊の名誉は回復されたのでしょうか。また、間違った報道であったことがどの程度、読者につたわったのでしょうか。
〈 問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。しかし、朝日新聞社が連隊側の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久に残る。 〉
と吉川正司中尉は締めくくっています。

(2)  いかがわしい“守秘義務”
「問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう」と吉川は書きましたが、「陽の目を見た」とまではいかないものの、その一端が顔を覗かせたのでした。
一般論でいえば、報道関係者の取材源秘匿は義務であるとの考えは妥当と思います。そうしなければ、ことの真実を明らかにできる重要な証言、証拠などの入手が困難となり、結果として一般国民が誤った判断を強いられるからです。
今回の場合、朝日宮崎支局に「日記」と「写真」を持ち込んだ宇和田上等兵の家族(子息または夫人)が、「10年間は身元を絶対に明かさないように」と要請したことなどを理由に、名誉を傷つけられたとする連隊側に日記を見せようとしませんでした。小倉簡裁で真実を明らかにするために「見せるよう」との判断があったにもかかわらずにです。
ですが、朝日が小倉簡裁の判決に対し抗告した理由、「守秘義務への配慮が万全ではない」と主張しうるためには、守秘する正当な理由、つまり「日記」の記述と「写真」が重要な点で事実、または事実だと推定できることが欠かせない条件です。でなければ、「守秘義務」を根拠にどのようにでも情報の選択し、ときにはでっち上げ、読者・視聴者を一定の方向に誘導することが可能になってしまいます。
「写真」は早い時点で「ニセモノ」と見破られ、その写真と一体である「日記」そのものについて、また日記記述についても、連隊をはじめ関心のある人たちから説得力のある疑問が数多く指摘されました。となれば、「日記」の持ち主(あるいは届けた人物)を明らかにするしない別にして、日記コピーを連隊側に見せ、第3者を入れるなりして日記の信頼性を検証できたはずで、またそうしなければならなかったはずです。
ですから、朝日が筆跡鑑定を恐れたとする連隊側の解釈が的を射たものと私は理解します。朝日は「真実を明らかにする」ことから卑劣にも逃げたのです。新聞社という組織も他の組織と同様、大きくなればなるほどお役所と同様、組織に逆らってまで真実を明らかにすべしとする「お人好し」はごく僅かだということを、私たちは理解しなければならないのだと思います。




(3)  宇和田日記の一部が表面に
朝日が「守秘義務」をタテに頑強に拒否した「日記」の一部が表面に出てきました。
2007年7月に出版された『南京事件 増補版』 (秦郁彦、中公新書、2007年)に、この「宇和田弥市日記」に言及があり、その一部が写真で紹介せれています。『南京事件』は1986(昭和61)年2月初版で、この後の事件に関わる動きを「南京事件論争史」として書き加え、増補版となったものです。
写真にあるのは12月21日分(左下写真)で、「今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。・・」としたところです。



実は1986年の初版に「宇和田弥市上等兵の日記」と明記の上、朝日報道(1984=昭和59年8月5日付)から「今日逃げ場を失ったチャンコロ約2000名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。・・処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。」を秦は引用し、論を進めています。
そして増補版での写真です。となれば、朝日は「守秘義務」を履行したとはとても言えません。なにせ、報道後1年半で表に出てしまっていたのですから。
秦教授が朝日筋からコピーを手に入れたのは、教授に直接確かめたわけではありませんが、もろもろの理由から間違いないのではと思っています。
問題だと思うのは、増補版に吉川正司中尉の論文「朝日新聞との闘い・われらの場合」を紹介しているものの、「日記」の真贋について言及のないことです。やはり見解を明らかにすべきでしょう。でなければ、読者は「宇和田日記」を頭から信じる以外なくなってしまうのですから。

ここまで見てきたとおり、朝日の無責任な報道と誤りを認めようとしない体質が、嫌というほどこの事件によって明らかになりました。となれば、このわずか3ヵ月後に起こった、「毒ガス写真事件」 報道という暴走も起こるべくして起こったのです。なにせ朝日の日本軍叩きという大方針と記者それぞれの思惑と記者に根ざした体質からきたものでしょうから。



― 2011年 1月20日より掲載 ―  (追 記) この項は2005年5月7日に掲載したものですが、省略が多く少々雑だと気になっていました。そこで、今回大幅に加筆しました。




Tokushi Kasahara (笠原 十九司 Kasahara Tokushi?, born 1944) is a Japanese historian. He is a professor emeritus at Tsuru University and his area of expertise is modern Chinese history.
가사하라 도쿠시(笠原十九司, 1944년 ~ )


Apology over misused photograph


The photograph in question
On the first page of chapter 3 of his 1997 book Nankin Jiken ("The Nanjing Incident"), Kasahara published a photograph with the caption “Chinese women from the Jiangnan region who are being abducted by the Japanese army” from a 1938 copy of the Riguan Baohang Shilu, a publication of the Politburo of the Military Committee of the ROC, that he had seen at the Hoover Institution’s East Asia Collection at Stanford University. However, it was pointed out by Ikuhiko Hata that the photograph was originally published in the Asahi Graph on 10 November 1937 and actually said it was “a group of girls of the ‘Rising Sun’ village who are returning to the village from farm work with the assistance of our troops”.
Kasahara personally apologized for not noticing that this picture taken by an Asahi Shimbun photographer had been misused by the Riguan Baohang Shilu.[3][4] Accepting this, his publisher Iwanami Shoten temporarily ceased putting the book in exhibits and published on the same page a written apology entitled “to all readers.” With Kasahara’s consent they swapped it with a photo from the book Morase Moriyasu Shashinshū: Watashi no Jūgun Chūgoku Sensen ("The Collected Photographs of Moriyasu Morase: My Service on the Front Line in China") of an old woman who says that she was raped by Japanese soldiers, and they agreed to replacements of the first edition.

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