인왕산 In-wang san
http://diep.u-gakugei.ac.jp/output/006034005/Data.htm
仁王山登山と韓国の首都
1995年
朴 星奇(高等学校)
日韓合同授業研究第1回交流会
ソウルの風水地理
人間は昔からそれぞれ住んでいる環境にふさわしく住居地を決めてきた。そうした住居地は昔も今もそれぞれの生活環境に密接な影響を与え,受けたのはもちろんだ。わが国の社会は伝統的に農耕社会を成した。従って,住居地域もこうした農耕社会の特徴と関連して変化してきた。主に狩りや採集経済に依存していた旧石器時代には主に住居地域が山間の洞穴地域に密集していた。しかし,新石器時代になり農耕時代になり始めてから住居地は川や海岸に変わり始めた。この時から典型的な農耕時代にふさわしい住居形態が現れ始める。そうした,一般的にわが国社会で典型的な住居形態と称されるいわゆる背山臨水の地形は,はるかに後代になって始まった紀元前8世紀ごろの青銅器時代からと考えられる。
背山臨水の地形は農耕社会で長い間,人々の典型的な住居地として地位を保った。農業を天下の根本とする朝鮮時代の首都だったソウルもやはりこうした背山臨水を基本とする風水地理説により地位を保った所だ。
1389年,威北島回軍で政権を掌握した李成桂は1392年,ついに改革を主張した新進士大夫勢力の支持で朝鮮王朝を開く。そして,それまでの開城を中心とする反対勢力を結集するために遷都を断行する。ここが以後,政治,経済,文化の中心となる今の漢陽である。背山臨水、左青龍,右白虎に代表される風水地理説を元にした漢陽の構造はどうなっていただろうか。
とても大きな盆地から成るここを取りまく山がある。シベリアの冷たい風を防いてくれる役割をするのが,いわば仁寿峰,白雲台,万景台の3つの峰から成る三角山と呼ばれる北漢山であり,その東側にアチャ山が位置を占め,西側には母岳山が位置する。そしてまた,南側に冠岳山が位置するが,このように回りを取り囲んでいる4つの山をわれわれは外四山と呼ぶ。そして,外四山の内側に内四山に該当する別の四つの山が存在する。左青龍に該当する山が東大門近くの駱山で,右白虎が少し前に一般人に公開され始めた仁王山である。南朱雀に該当するのはソウル名物の一つである南山タワーがある南山で,北玄武に該当する山が朝鮮の正殿だった景福宮の北側,今の青瓦台の後ろの山である北岳山に該当する。朝鮮王朝が開かれ遷都をし,当時,朝延はこうした都を取りまく城をつくったが,これが総延長18キロに及ぶソウル城郭だ。この城郭は内四山の上に1398年に完工した。そして,朝廷はこの城郭に外に出入りできる門をつくった。この出入口は,正方向を志向する場所に四つの大門をつくり,その間に四つの小さい門をつくったが,これがまさにいわゆる四大門であり,四小門である。この四門の名称は当時,朝鮮が儒教が国是で,儒教理念を挿入して命名した。南側に該当する門が礼を尊ぶ崇禮門で,西側に該当する門が義を篤実にせよという敦義門だ。東側に該当する文字である仁を入れて門の名前を付けるのに朝廷は一度,悩んだ。すなわちソウルの風水地理が東側,つまり左青龍に該当する地勢が弱いことだ。他の三つの山がそのまま地勢を成している半面,駱山はまるで村の単純な丘の地勢が弱いのである。そして,こうした地勢を盛り上げるため門の名前を,間に文字一つを入れる。「助辞の之」の文字を入れ興仁之門とした。そして,それでも足りなくて城郭を外側からもう一度囲んだ甕城の形態でつくった。北側に該当する門が粛精門で,これは山に連なっており,利用する人々が少なく,大門という名前も得られず,北門という名前で耐えねばならなかった。特に,末期には風紀びん乱を理由にこの門は閉鎖され,今も依然,「国家元首の安危」という名目で閉鎖されている。
この四大門の間に四つの門があるが,これが四小門である。東北側の東小門,すなわち恵化門,東南側の南小門,すなわち屍口門だった光煕門,南西側の昭義門,そして義州に通じる東北側の彰義門がそれだ。さらに,名門ごとに出入りできる外交使臣らが決められていた。南大門では主に中国の使臣らが,東北側の東小門である恵化門では女真や契丹の使臣たち,そして南東側の光煕門では日本の使臣らが出入りしたという。
こうしたソウル城郭は1900年代,日帝の統監府時代に再開発という名目で壊され,今は南山一帯と成均館大学近くの恵化門一帯,そして北岳山の一部分だけが残っている。漢陽はこうした山だけでつくられた都ではなかった。
今度は,山でなく川を見よう。今,ソウルの中心地になった漢江が悠々と,のびのびと北から南に流れている。外国にふれたことのない筆者だが,聞いた話では,このように都市の中心に悠々と流れるところはないという。今は,20個あまりの橋を河の北と南を結んでいる。この川をときどき渡るときに,この余裕と景色の美しさはたえようがない。さわやかな朝日,だんだんと沈んでいく夕陽,そして夜には美しい月光が射して,しあわせを感じさせる場所だ。漢江に沿って,昔は多くの東屋が立っていた。アックジョン(狎鴎亭)という地名も実は世朝の王位簒奪で一躍権勢をふるうようになった韓命会の東屋があった場所だ。まだ一度もいったことのない玉水洞の頂上にある東屋に上ってみたいといったら,ぜいたくだといわれるかも知れない。
とにかく,この川は重要な役割をした。少なくとも日本の帝国主義侵略政策の一環として,(韓国に)よいこともしたという名分を提供している新作路と鉄道がしかれる前まで全国の郵送手段の中心は水上交通であった。そしてその中心は漢江だ。わが国最大の耕作地帯である三南地方で収穫された米はカンキョンや木浦で集められ,西海を経てソウルに運ばれた。北から下がってくる禮成江,臨津江がであう場所が江華島であり,ここから少し上がるとまさしく麻浦の渡し場に至る。こう考えれば,近代史において,多くの場所の中でも江華島が経験しなければならなかった試練を推し図ることができる。次は川にそって東側にさかのぼってみよう。広い渡し場で船に乗ってさかのぼってみると,河の北側と南側に分かれる。ここがふたつの河の出合って分かれるところ,両水里である。ここから北側にのぼると,春川をへて,湯口、麟蹄,金剛山まで交通が続いている。南漢江の川縁にそっていくと,驪州を過ぎて,忠州,堤川に至る。つまり,この漢江を通じて南側の終わりはもちろん,内陸の奥深くわれわれの土地の隅々まで続いている立派な交通手段としての役割をしたということができる。今や,両岸はコンクリート一色の殺伐とした空間になってしまったが,それでも相変わらず漢江は悠々とわれわれの心の中に流れている。
西大門刑務所
80年代前半までさえもわれわれには独立門としてよく知られた橋に1993年度,もう一つの名所とはいえない名所が登場した。これがまさしく“西大門刑務所独立公園"である。1896年独立協会で,独立精神を鼓吹するために中国の使臣を応接するために,たてた迎恩門を取り壊して,その場所に立てたのがこの独立門である。
そしてこの独立門の横に1905年のいわゆる乙巳保護条約(日本では日韓保護条約)として美化された日帝の統監府政治の一環としてこの土地に治安を維持するために,大規模な獄舎を建設し始めたのが1908年だ。その後,この西大門刑務所には1945年解放を迎えるまで日本人たちの立場でいう「この土地の治安を乱した」数多くの愛国の志士,独立闘士たちが投獄され,獄中の苦しみを味わったり,帰らぬ人となったりしたところだ。
この後も,政府はここを刑務所として使用した後,アンヤン(安養)に刑務所を移転し,当時のいくつかの獄舎と記録を保管し,公園とした。当時の事務室には独立運動と関係した資料,そして独房の模型などが展示されている。しかし当日は休館のため,内部を見学することはできないので,外側の他の場所だけ見学することになった。
刑務所に入ると,すぐ左側に柳寛順烈士など女性を分離収監していた地下獄舎がある。残っている数少ない獄舎には直接入ることはできないが,外の窓を通して内部をある程度は見ることができる。映画の中でしか見たことのない監房の姿を,直接中に内ってみてみたいが,それはできなかった。うしろがわには,ハンセン氏病患者を隔離するために監房も別に設置されていた。残っている建物の内,左側のすみにある建物が死刑執行場である。絞首刑が行われ,その死体はもう一度違う受刑者たちが見れば動揺するかもしれないと恐れ,執行地の後ろ側に出ているトンネルを通して,後門の真下まで運搬され,そこから外に出されていた。
高さ3メートルにものぼるカベ。
今はいわ公園という名目で多くの人の休息の地となってもいる。歴史は無情なのか,1908年から過ぎていった多くの人たちの苦痛と溜息と,恨とわだかまりを知らないように熱い8月の太陽の光の下は青い芝生と日陰の人々は皆暑さにまいった様子だった。そこで,「ああ,そうだったか。」という一言の言葉しか,他の何者も探すことができなかった。我々の歴史もここを訪ねた理由は本当に歴史の現状を見て,その時,その人たちの心情で感じてみて,もう一度今日を見てみようということだったが,単純な現実感以外には別に感じることができないのが事実だった。胸で切々と共有することができなくて,ことばで表現するのがどんなに愚かなことか。この短い舌でどうにかして彼らの切実で気の遠くなるような恨の多いやりきれない心情を感じることができるのか、一言一言に,かれらの天を引き裂くような叫びが聞こえて来るようでこの上なく心が重かった。
しかし,西大門刑務所を初めとして今もやはりそうだが、過去に今よりももっと大変だった次期に熾烈に一生懸命に生きていった方たちの足跡を見ながら,感じた点はいつも“一生懸命生きなければならない"ということだ。わたしが生きている今よりもっと大変だった切実な時代にも,勇気と希望を失わず,もっと熾烈に生きていらっしゃった方たち。彼らをみながら,ひとりでに頭が垂れるわけは,彼らがまさしく信念を持って一生懸命妥協しないで生きていった方たちだからである。
たいへんなことが起きろたびごとに,ほかでもない光州の望月洞を訪ねるというある人の心のように,ここ,西大門刑務所に入ると,生意気で多くの方々に悪口をいうようなことに成るかも知れないが,本当に一生懸命生きなければならないという考えと,この方立ちに感謝しようという心で自ずから頭を垂れるようになる。
仁王山
西大門〔ソデムン〕刑務所の見学を終えた一行は,再び2グループに分かれて見学を続けた。一グループは現在のソウルの姿を見るために市内見学を,もう一グループはソウル全体を眺望することができる仁王山登山をすることになった。
仁王山は高さ280m,ソウル西側に位置する右白虎にあたる山で,18kmに及ぶソウルの城郭の一部分を占めている。朝鮮時代には,この山では虎が出たと伝えられるほどで,鬱蒼とした森であったろうと考えられるが,今は,軍部隊と何棟かのマンションが散在している。
むせ返るような暑さにもかかわらず,この山に登ろうとしたのは,実のところ,日帝がこの地の精気を抑えるために打ったという「鉄の杭」を見るためだった。しかし,私の知るところ,仁王山で「鉄の杭」を見たという記録はなく,ただここが持っているソウルの風水地理における重要性を一度直接,自分の目で確認してもらいたかったのである。
仁王山の正式名称は,漢字で「仁王山」であった。しかし,日帝がこの地を占領して以降,中の「王」の字に「日」の字が付け加えられ,「旺」の字とされ、「仁旺山」と標記されていた。恥ずかしいことだが解放後50年が過ぎた今になって,日帝の残滓の清算作業の一環として,1995年から多くの地名と共に仁王山も本来の名前である「仁王山」を取り戻すことになったのである。
仁王山は,ソウル城郭の跡が残っている数少ない場所である。穀物と大地の神に祭事を行った社稷壇がある史跡公園を通って登ると,檀君を祭った社堂があり,ここからさらに1O分ほど行くと,今度はソウル城郭を直接横に見ながら登ることができる。上がってみると,左側に国師堂の扇岩が見える。これはちょっと見ると,僧が緇衣を着たように見える。この国師堂の岩にまつわる話をすると,漢陽を首都と決めるとき,無学大師がこの岩を城の中に置こうとしたのだが,鄭道伝がこの岩を城の中に置けば,儒教の代わりに仏教が盛んになると反対し,結局城の外に押し出されてしまったということである。
仁王山だけではなく,ソウルはすでに風水地理においても見たように,山にとり囲まれた盆地地形である。そして,その山々は岩石でできている場合が多い。代表的な場所は北漢山の白雲台である。ともかくソウルは,このようないわゆる巨石文化が存在するところである。このような巨石文化には,その象徴性において始められたいろいろな民間信仰が共に存在していた。そのような民間信仰は,これと共に,女性の恨とも連関して,この地にいろいろないわくを残している。仁王山においてもこのような痕跡を見ることができるが,頂上の少々手前に休憩場所となっている大きい岩の下で,ろうそくの灯をともして祈った痕跡がある。このように,至るところにいまだ生きている一般庶民の息遣いを感じることができる。巨石文化の象徴は,現代社会で縮こまっている男性たちに勇気を与えるような堅固さを表しているのでもあるが,反面,まさに過去の女性たちが経験しなければならなかった受難史を象徴的に表してくれてもいる。
仁王山は,祝日の翌日は自然保護のためという理由で公開されていない。あいにくこの日は祝日の翌日で頂上まで登ることはできなかった。しかし,眼下にソウル市内が見下ろせるところで,ソウルの地形や歴史についてもう一度いろいろと学ぶことになった。前日に説明した風水地理上の地形を確認することができたし,よく「漢江の奇跡」と称されるソウルの街並みを一望の下にすることができた。足元に見える朝鮮時代の故宮であった景福宮と勤政殿に直接行ってこれにまつわる話などをすることはできなかったが,この他のいろいろな場所についてもまとめ,包括的かつ概括的に説明することができた。また,都市の真ん中にこのようなすばらしい風光を備えたところがあるという事実は,一行にとって真夏の暑さをしばし忘れさせるものであった。
もともとの心づもりでは,頂上でもう少し時間をとって,ゆっくりといろいろな説明や話をしたかったが,時間もないということで,一行は予定通り,大学路のレセプション会場へ場所を移すことになった。
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