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Tuesday, August 7, 2012

interview with Yun Mihyang,挺対協

韓国挺身問題対策協議会 한국정신대문제대책협의회
尹美香(Yun Mihyang)

Korean Council for women drafted for military Sexual slavery by Japan




interview with Yun Mihyang,挺対協
http://www.ytn.co.kr/_pn/0833_201103020735595587



위안부 문제 [윤미향, 한국정신대문제대책협의회 대표]
기사나도한마디
2011-03-02페이스북 보내기트위터 보내기미투데이 보내기싸이월드 공감네이트온 보내기마이피플 보내기뉴스스탠드 설정하기목록 보기인쇄하기폰트크게폰트작게


[앵커멘트]

20년 전, 1991년 8월14일 김학순 할머니는 스스로 정신대였다고 고백했습니다.

처음으로 자신의 이름과 얼굴을 밝히고 일본군 위안부의 참상을 폭로한 것입니다.

김 할머니는 공개 증언 후 6년만에 돌아가셨습니다.

고통속에 평생을 살아 온 다른 할머니들도 차례차례 세상을 떠나고 있습니다.

하지만 위안부 할머니들에 대한 일본 정부 차원의 사과와 피해 보상은 여전히 이뤄지지 않고 있습니다.

YTN 포커스, 3.1절을 맞아 한국정신대문제대책협의회 윤미향 대표를 모시고 위안부 문제를 자세히 살펴봅니다.

윤 대표님, 어서 오십시오.

[질문1]

먼저 한국정신대문제대책협의회란 단체는 언제, 어떤 계기로 만들어졌습니까?

[질문2]

그런데 우리 사회에서 위안부 문제가 이슈화된 지는 20년 밖에 안됐죠, 앞서 말씀드렸듯이 1991년 내외신 기자앞에서 김학순 할머니가 처음으로 공개 증언을 해서 국제사회도 위안부 피해자들에 대해 비로소 관심을 갖게 됐다고 봐야 할까요?

[질문3]

아시아태평양전쟁 당시 일본군 위안부로 강제 동원된 피해 여성들, 정신대 규모 어느 정도였습니까?

[질문4]

위안부의 실상에 대해 처음으로 공개 증언했던 김학순 할머니, 4년전에 돌아가셨죠.

김 할머니처럼 그동안 세상을 떠나신 분들이 적지 않으리라고 봅니다.

현재 생존해 있는 위안부 할머니들은 몇분이나 되고 평균 연령은 어느 정도인지요?

이 분들의 건강 상태는 어떤지요?

[질문5]

여기서 호칭 정리를 좀 했으면 하는데요.

태평양 전쟁 때 일본군에 끌려가 성노예 생활을 한 피해 여성들을 일컫는 표현이 크게 두가지인데요.

'정신대'와 '종군 위안부'라는 두 단어가 있는데 어떤 차이가 있고, 또 어떻게 부르는 게 바른 표현일까요?

한국정신대문제대책협의회, '정대협'이라는 단체 이름은 바꿀 필요가 없을까요?

[질문6]

정대협의 활동 가운데 가장 먼저 떠오르는 것은 역시 매주 수요일 낮 12시 일본대사관 앞에서 여는 수요 집회인데요.

어떻게 시작됐고 지금까지 몇 차례나 열렸습니까?

혹시 춥거나 더운 날씨, 또는 명절이나 공휴일이라고 해서 거른 적은 없는지요?

[질문7]

수요 집회가 오는 12월 14일이 되면 1,000회를 맞이한다고요.

1,000번째 수요 시위에 맞춰서는 어떤 행사를 계획하고 계십니까?

[질문8]

수요 시위 말고도 그 동안 정대협에서 펼쳐온 활동이 많이 있을 텐데요.

중점적으로 어떤 일을 해왔고, 어떤 성과가 있었는지 소개해주시죠.

[질문9]

정대협이 추구하는 궁극적인 목표는 위안부 피해자에 대한 일본 정부의 공식 사과, 법적 배상, 크게 두 가지라고 할 수 있겠죠.

먼저 배상 문제부터 살펴볼까요.

일본 정부는 1965년 한일 청구권 협정으로 일제강점기의 모든 피해 배상은 종결됐다는 입장인데요.

그래서 피해자들이 일본 정부를 상대로 낸 소송도 번번이 기각되고 있는 것으로 알고 있는데 조그만 진전이라도 없는지요?

위안부 문제 해결을 위한 입법 촉구 움직임도 다양하게 이뤄지고 있는 것 같던데요.

일본에서 민간 차원으로 '아시아평화국민기금'을 조성했는데요.

위안부 피해자 보상 문제 해결에 도움이 된다고 보십니까?

[질문10]

지난 1993년 고노 요헤이 당시 관방장관이 정부 각료로는 처음으로 위안부의 존재를 인정하는 발언을 했지만 매우 이례적인 일이었고, 일부 진보 정치인들도 위안부 피해자들의 정부 보상을 거론했습니다.

하지만 일본 정부는 아직 제대로 된 사죄를 하지 않고 있습니다.

금전적 보상 차원이든, 명예 회복 차원이든, 일본 정부의 공식 언급이 선결 조건일텐데요, 어떤 내용이 꼭 포함되어야 할까요?

[질문11]

미국을 비롯해 세계 각국의 의회나, 국제 단체에서도 일본에 사죄나 배상을 권고하는 결의안이 발표됐지만, 일본 정부는 계속 묵묵부답입니다.

최소한 진실규명이라도 이뤄져야 하는데요.

하지만 법적 구속력이나 집행력이 없기 때문에 한계가 있다는 지적이 많습니다?

[질문12]

우리 위안부 할머니들, 대부분 고령이기 때문에 앞으로 사실 날도 많이 남질 않았습니다.

위안부 문제은 정말 시급히 해결되어야 할 과제인데요.

우리 정부에 하시고 싶은 말씀도 많죠?

[질문13]

서울 서대문 독립공원 안에 '전쟁과 여성인권 박물관'을 건립하는 것도 정대협의 주요 사업이라고 들었는데요.

잘 진척되고 있는지요?

착공식까지 마쳤는데도 일부 독립유공단체들의 반발로 사업이 어려움을 겪고 있다고 하던데요?

위안부 문제가 공론화된 지 20여 년이 흘렀습니다.

하지만 피해 할머니들의 아픔은 여전히 치유되지 않고 있습니다.

할머니들은 말합니다.

"일본 정부는 우리들이 모두 죽는 날만을 기다리고 있는 것 같다"고요.

그런데 할머니들의 더 큰 걱정은 우리들에게 잊혀지는 것이 아닐까요.


http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/yun.htm


「みんな連れていって、大使館に行って!」
-しかし、結局朴頭理(パク・ドゥリ)ハルモニは、日本大使館の前に行くことができませんでした。
尹美香(ユン・ミヒャン・韓国挺身隊問題対策協議会事務総長) 



2月19日、日曜日夕方で、久し振りに家族が一緒に食事をしようと向かい合って座った。お母さんが自分のために時間を全く割いてくれないといつも不満な娘も、今日はお母さんとお父さんと一緒に夕食を食べられるので喜んでいる。

ところで…スプーンいっぱいのご飯も口に入れないううちに、携帯電話のベルが鳴る。発信者が「ミンギョン(朴頭理ハルモニ孫娘)のお母さん」になっている。瞬間何か不吉な気がした。なにが起きたのだろうか。

ミンギョンのお母さんが、私に一日に何回も電話をかけ始めてから、4カ月くらいになるだろうか。ある日病院にお母さんを見舞いにいくと、ろ朴頭理ハルモニが尹美香を訪ねて行けといったという。それで、私が誰なのか知らないので、介護人からもらった名刺を見て、電話を初めてかけたという。

それからというものは、娘さんは夜でも朝でも、数えきれないくらい私の電話のベルを鳴らした。最初、私には娘さんに対する先入観があった。ハルモニが、娘のためにいつも心配をしていたからだ。

しかし、通話をして、直接会って対話をしながら、その先入観を捨てることにした。いくら孝行娘ではなかったとしても、男の子よりははるかに娘がよりいいと思うようになった。何よりもハルモニが、こうなったことに最も心を痛めているのが娘だろうと思ったし、本当にお母さんが好きなんだと感じることもできた。ただ、その方法が拙いだけだった。

電話をとると、受話器のむこうでとても差し迫った声が伝わってくる。「お母さんが息をしない。お母さんが何も言わない。オンマー(お母さん)オンマー」とずっと泣き声の混ざった言葉を繰り返していた。

対話が不可能だと思って電話を切り、集中治療室に電話をかけた。担当の看護師の答えは、ハルモニがやがて臨終を迎えそうだという。そして、私に来てほしいという。

今日も家族との夕食はだめになった。もはや、夕食は重要なことではなかった。30分をどのように運転をして行ったのか、アクセルをどの程度踏んだのかも、分からない。病院に向かいながら、朴頭理ハルモニのこの2年間の闘病生活が、とても胸痛く迫ってきた。

ハルモニは2年前、最初に老人専門病院に入院する時は、気力が落ちていたが、まだ元気だった。そのハルモニが老人専門病院に入院して数日後に、病院のミスで生命に危険があるほど大きな火傷をおった。

それで、ハルモニは安養メトロ病院に移って手術を受けた。それが安養メトロ病院との最初の縁だった。その時から、こうして2年以上をこの病院で過ごされることになるとは思いもしなかった。ハルモニは、火傷をおったところを全て手術を受けて治療して、健康を回復された。

最初にメトロ病院に行った時には、ハルモニが回復する見込みがないと言われた。火傷の程度がひどくて、床擦れまでできたという。しかし、ハルモニは打ち勝ったのだ。

しかし、まだ一人で歩いて通うこと不可能だったので、ナヌムの家に戻ることができなかった。結局、退院して、医療事故を起こした老人専門病院に戻らざるをえなかった。しかし、事故はすでに予見されたていたように思う。認可の老人専門病院に移った後、また何日も経たずに、ハルモニが再び火傷をして、安養メトロ病院に移ったという電話がきた。

最初も二番目も、火傷の原因はホット(hot)パックを直接足にのせたたことで、それで足に火傷をしたという。誰よりも朴頭理ハルモニは神経が鋭敏な方なのに、あの熱いホットパックを足にのせれば、とてつもなく熱かったに違いない。今でも理解できないのは、それを少しでもハルモニが事前に知っていたら、自分で片づけてしまっていただろうに、なぜそれが不可能だったかという点だ。そのように足に火傷をおうまで、ハルモニは何の抵抗も出来なかったのかという点だ。

ハルモニは、再び安養メトロ病院に移り、二回目の火傷の手術と治療を受けた。そして、車椅子に乗って病院の1階ロビーまで散歩に出るほど元気になった。その時期に、私は水曜デモでハルモニの状況を報告して、本当に朴頭理ハルモニは起き上がりこぼしのようだと所感を述べた。

本当にそうだった。病院では難しいだろうと言ったが、それをあざ笑うかのように、ハルモニはそんなに元気になったのだ。しかし、この時もハルモニはナヌムの家に戻れなかった。それで、また老人専門病院に移った。

ところで、やはり今回も事故は予見されたことだったのか。今回はベッドから落ちて、大腿部を骨折した。骨が折れたのだ。ハルモニは、また安養メトロ病院に移り、また手術をしなければならなかった。

手術後数日経って、手術した骨がはずれて、また手術をしなければならなかった。2年の間に、ハルモニは4度の手術をしたのだ。しかし、私が立ち入るには、色々と事情が複雑だった。ハルモニはナヌムの家の入所者だった。

そのため、ナヌムの家と老人専門病院、娘さんの三者が、ハルモニの病院費一切を老人専門病院で負担させることにして、代りに家族は民・刑事上、行政的な問題提起を全くしないという合意の覚書を作ったという。腹が立ったが、すでにそのように覚書に印鑑を押したというので、どうしようもなかった。

私は、ただハルモニが寂しくないように、しばしば訪ねて行って一緒に遊び、あんまをしてあげ、おむつがなくなれば、おむつを買うお金をあげ、ウェットティシュがなくなれば買って、ハルモニが好きな果物と牛乳を買ってハルモニ食べさせてあげて、それが私ができることだった。

2005年12月23日、クリスマスを前にしてハルモニを訪問した時、病院側から、もうハルモニの病気をみな治療したので、退院をしてもかまわないが、どうするかと聞かれた。今や私が前に出るほかないと考えた。周辺から朴頭理ハルモニに関して、挺身隊対策協はなぜじっとしているかとの声も聞こえた。

娘さんに電話をし、ハルモニをどのようにするつもりかと言うと、ナヌムの家では迎えにくいと娘さんに伝えたという。それで、老人専門病院に行くほかはないとナヌムの家で話したという。

しかし、娘さんは強く反対していた。話合った結果、私が住んでいる水原(スウォン)の環境もとても良く、看病人のシステムがうまくいっている療養院に迎えることにした。

社会福祉士の中に、大学生時代挺隊協でボランティアをした女性もいて、とても気に入って、療養院に相談をしたところ、ハルモニの住所が水原市(スウォンシ)に移されれば可能だという。娘さんと相談すると、娘さんも喜んだ。それで、ハルモニの住所を私の家に移すということに娘さんも同意した。しかし、数日後娘さんの気持ちが変わった。心が痛かったのだ。

自分のお母さんが後何年生きられるのか考えると、お母さんに自分が直接作ったご飯を食べさせあげたくなったという。娘さんの言葉に真実が感じられたし、お母さんに対する情がこもっていた。正月が終わったら、ハルモニは娘さん家に行くことになった。このことは、ハルモニにも伝えた。

ハルモニがあんなに喜んだ姿は、病院入院後初めてだった。ミンギョンとサンホ(ハルモニの孫)をいつも見れるということも、多分ハルモニには大きい希望だっただろう。孫たちに対する愛情が、どこの誰よりも強かったからだ。

しかし....。ハルモニは退院を数日前にして、食べ物もよく召し上がれなくなって、足の指も腐っていき、からだの兆候がおかしかった。検査の結果、胆嚢管が詰まり、顔に黄疸が出で、食べ物も召し上がれなくなっていた。

ハルモニのからだは、また再び手術を受けなければならなかった。別の管を胆嚢に入れなければならなかったからだ。そのようにして、手術に手術を重ね、また手術して、結局は、そもまで認識もできなかった癌がからだに広がって、ハルモニの肺をふさぎ、息を引きとられてしまった。

30分後に到着した病院、ハルモニはすでに息をひきとっておられ、ベッドの上にそのまま横になっていた。娘さんはお母さんがまだ死んでないと言って、ハルモニをしきりにもんでいる。しかし、ハルモニは本当に逝かれて、いなかった。あらゆる傷跡と苦痛と過去の歴史のくびきの痕跡であったからだだけを残して、自由に解放の空間に向かって発って、いなかった。

6時20分に臨終されたと看護師が知らせた。娘さんは、世の中に私一人残して、なぜ一人で行くのかとハルモニを送ろうとしない。娘さんは、ハルモニが最後に自分に言った言葉は、「水曜日に日本大使館に行きなさい。デモをしに生きなさい。あそこに行って尹美香に会いなさい」というものだったと言いながら、それが遺言だとは思いもしかったと言い、また泣いた。

ハルモニを見舞いに行く度に、「私を連れて行って。私を連れて大使館に行って。あそこに行って死のう」と言った。その度に、私はハルモニの足がよくなったら、私が車で迎いにきて、大使館に行こうと言っていた。

それが、最も後悔される。車椅子に乗れてるようになった時に、ハルモニを一度迎えて日本大使館の前にお連れすべきだったとの後悔は今でも私の胸を痛くする。

「今回は回復されるのは、難しいと思います」という病院側の予想をあざ笑うかのように、ハルモニはいつも起き上がりこぼしのように起き上られたので、必ず大使館の前にお連れできるだろうと、そのように考えていた。しかし、私のこういうゆるい心を叱るかのように、ハルモニは行く道を急いで、逝ってしまったのだ。

朴頭理ハルモニの告別式は、市民社会葬で行われた。ハルモニが2年以上暮らした安養(アンヤン)市の市民諸団体が積極的に手伝い、ハルモニ行く道がひょっとして寂しいのではと、連日弔問客の足が絶えなかった。福岡から花房恵美子さんも来た。

安養の市民団体は、朴頭理ハルモニの葬式問題にだけ関心を持って参加したのでなく、日本軍「慰安婦」問題の解決のための活動にも積極的な意志を見せた。3月15日の第700回水曜デモにも積極的に参加することに決議してくれた。

千万ウォンを越す葬儀費用も、安養地域から葬儀委員として参加した人たちが全ての会費を出してくれて、弔問客たちの香典、挺対協関係者の後援支援金などで不足が出なかった。

挺対協のありがとうの挨拶に、安養地域の市民団体は、むしろ朴頭理ハルモニが安養地域の市民運動に大きな役割を果たして下さったと言ってくださり、さらにありがたく思う。安養で過去事清算運動が結集できずにいる時、一つにまとめる役割をしたというのだ。そのように、ハルモニは残っている人たちに大小の変化を与えた。

今でも朴頭理ハルモニの娘さんは、電話をよくかけてくる。「お母さんに会いたい。そんな時には、いつも尹美香に電話するから、ちょっと聞いて下さい」と言う。

私も本当に朴頭理ハルモニに会いたい。週末になれば、自動車のキーを持って、ハルモニの病院に行くために家から出て行くことを想像する。病床で起き上がりこぼしのようにベッドの欄干をつかんでむくっと起き上がって座り、病室に入ってくる人々に嬉しそうに両手広げ、口を大きく開けた私の好きな姿も目の前に鮮明に現れる。

私は、すでにあの世の中へ行ってしまったハルモニのからだを捕まえて約束した。ハルモニの意思、ハルモニの希望を数多くの若者たちのからだの中で実践にして溶かして差し上げると。必ず解決して差し上げると申し上げた。

朴頭理ハルモニは逝ったが、ハルモニがあのように要求された「私も連れて行って。大使館に行って死のう」という言葉の中に感じられるハルモニの強烈な闘争の意志を毎週水曜日、水曜デモで受け継いでいくだろう。放棄せずに、先に逝かれたハルモニたちがしばらく目をとじて、耳をふさいでいる間に…



http://japanese.joins.com/article/048/156048.html?servcode=100&sectcode=140


【噴水台】恥ずかしくてつらい慰安婦の話、映画にして世界の観客の胸を張り裂けさせよう(1)
2012年07月23日12時04分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment71hatena0
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映画が終わっても席を立てず流れる字幕を最後までぼうぜんと眺めているならば、その映画は良い映画だ。 映画が終わっても席を立てず流れる字幕を最後までぼうぜんと眺めているならば、その映画は良い映画だ。

久しぶりにそのような映画を見た。サンフランシスコの娘の家の居間に座ってポップコーンの代わりにえびせんをつまみながら見た「金陵十三釵」。英文タイトルは「The Flowers of War」だ。

チャン・イーモウ(張芸謀)監督の映画で内心期待したが序盤部はスケールが以前には及ばず物足りなかった。だが、中盤部に行くほど胸がよじれ気まずくなり頭ががんとした。それは私の体のどこかに刺される場所があるという証拠だ。

1937年12月、南京を陥落した日本軍兵士が中国の民間人、特に女性ならば片っ端から強姦して殺害した南京大虐殺を基に作った映画だ。

女性さえ見れば「娘だ」と大声を張り上げ駆け寄る日本軍兵士を見てMBCドラマ「黎明の瞳」で“慰安婦”役を務めたチェ・シラも思い出し、ピョン・ヨンジュ監督の挺身隊女性のドキュメンタリー映画「低い声」も思い浮かんだ。「1日に30~40人を相手にし、逆らえば死ぬほど殴られたり腕と脚を切断され…」とても私の口で、私の手で伝えることも大変な「日本軍慰安婦」の実像。





【噴水台】恥ずかしくてつらい慰安婦の話、映画にして世界の観客の胸を張り裂けさせよう(2)
2012年07月23日12時04分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment61hatena0
まさか忘れるわけはないがただ哀れと思っただけだが、実際にそのおばあさんが映画の中のあの幼い年齢であのようにされたと考えると突然血が沸いた。結局中国人が作った映画が私に火をつけたわけだ。

軍隊慰安婦。日本軍が占領する所ごとにあまりにも強姦をするため彼らを慰安しようと募集し始めたというが、韓国女性が一番多いという。野原で野草を摘んでいて引きずられて行き、友人の家で遊んで家に帰る道に拉致され、働き口を与えると詐欺を働いておびき出し。そうしておいて自発的志願とのことだ。14歳の女の子が慰安婦になろうと?

慰安婦少女像。くい事件で騒々しかったが数日前には雨が降る日に傘を差し出した警察官が話題となった。日本大使館前の水曜デモもずっと進行中だ。挺身隊の女性が全員亡くなってもこうしたデモ、こうした関心は続くだろうか。

映画を作ろう。外交的な問題で制作会社が見つからなければみんな一緒に「大~韓民国」と言いながら資金集めをすれば良く、チャン・イーモウより立派な監督も広がり、制作技術・俳優もすべて最高だ。国連人権委員会で慰安婦の代わりに「日本人性奴隷」と表現したが世界的に受け入れられる勝算も大きい。口を開くことさえ恥ずかしく苦しい話。映画にしよう。世界的な映画祭をターゲットにスペクタクルな画面、涙のストーリー、K-POPスターの踊りと歌すべてをなんとなく楽しんでみたらいつのまにかすべての観客の胸が張り裂ける、そんな映画。

戦争を起こし韓国を植民地にした日本軍人が戦うときになぜ韓国の若い女性が彼らを慰安しなければならなかったのか。その返事は映画を見た観客に聞こう。

オム・ウルスン客員コラムニスト




http://japanese.joins.com/article/501/149501.html?servcode=A00&sectcode=A10


「慰安婦の死を待つのと同じ」…東京大名誉教授が日本政府を非難
2012年03月26日16時49分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment136hatena0
「慰安婦問題の早期解決のために韓国・日本政府の共同声明発表を提案する」。

和田春樹東京大学名誉教授(74)は15日、国民大学日本研究所セミナーで慰安婦問題の解決法を提示した。 和田教授は日本を代表する進歩学者で、日本の韓国強制併合100年を迎えた2010年、韓日碩学100人の「強制併合条約無効化宣言」を引き出した。 日本政府が慰安婦被害者支援のために推進した「アジア女性基金」(2007年解散)の専務理事も務めた。

和田教授は「日本は当初、『慰安婦問題は1965年の請求権協定で解決された』と述べたが、それだけではいけないという考えでアジア女性基金を提示した」とし「日本は今になって『1965年の請求権協定で解決した』という答弁を繰り返すだけで、韓国政府が要求する外交交渉を拒否することはできないはず」と指摘した。 また「日本政府は慰安婦問題協議のための予備セッションにも出るべきだ」と促した。

韓国の日本軍慰安婦被害女性は計234人。 このうち生存者は64人だけだ。 和田教授は「この女性たちが生存している間、この問題を解決しなければならない」とし「被害者が望むのは立法解決だが、これは日本国内の反発のため展望が不透明な状況」と説明した。 これとともに「立法解決が難しければ、韓日首脳間の共同声明を発表することを検討しなければならない」と主張した。 共同声明の内容は謝罪と補償だ。 しかし過去のような首相の謝罪は意味がないというのが和田教授の考えだ。 和田教授は「1993年に慰安婦と過去の植民地支配に対する謝罪の立場を込めた河野洋平元官房長官の‘河野談話’に基づくべき」と述べた。 反省・謝罪には被害者に対する補償措置が伴わなければならない。 和田教授は「補償も名目が重要だ。 過去に日本側が提示した慰労金、同情金ではなく、(被害者に配慮した)良い名称を探す必要がある」と述べた。

先月、駐韓日本大使館前に設置された「慰安婦少女像」については、「いつかは(少女像が)他の場所に移されることを望むが、今の状況では(設置が)可能」と話した。 和田教授は「水曜デモが1000回を超える間、日本大使館はこの女性たちに扉(対話)を開かなかった。 これはその女性が亡くなるのを待っているのと変わらない」と述べ、日本政府の対応を非難した。



http://www.truetruth.org/know/know_04.htm









군위안부 문제가 청산해야 할 민족수난기의 중요한 문제로 떠오른 것은 1980년대 후반에 와서다. 당시 이화여자대학교 영문학과의 윤정옥 교수는 군위안부 문제를 사회적 여론으로 이끌어내는데 선구적 역할을 하였다. 윤정옥 교수는 1970년 경부터 군위안부 자료를 수집하였고, 1980년에는 군위안부로 일본에 끌려갔다가 귀국하지 못한 배봉기 할머니를 방문하였는데 이것이 군위안부 운동의 출발점인 셈이다.
당시 오끼나와에 거주하고 있던 배봉기 할머니가 한국여성이며, 군위안부 피해자라는 사실이 밝혀지면서 이 문제가 국내에서 제기되었다. 한편 1988년 서울 올림픽을 앞두고 많은 일본인들이 한국을 ‘기생관광’지로 여기고 찾기 시작하였다. 이는 한국 정부의 홍보에도 힘입은 바 있는 부끄러운 일이다. 이에 교회여성연합회와 이화여대 일부 학생들이 국제공항에 나가 “기생관광반대 시위”를 벌이기도 하였다. 이 때 과거 역사 속의 ‘정신대’ 문제가 곤론되었고, 그에 관한 학술 심포지엄도 교회여성연합 주최로 개최되었다. 그 때 윤정옥 교수가 그동안의 조사를 발표하고 점차 이 문제에 대한 사회적 관심을 환기시켜 나갔다.

그 후 윤정옥 교수는 일본, 태국, 파푸아뉴기니아를 답사하고 1988년 군위안부의 발자취를 찾기 위해 일본을 횡단하였다. 이러한 그의 부단한 노력은 1990년 1월 윤정옥 교수의 일본답사기가 [한겨레신문]에 연재되면서 세상에 모습을 드러내게 되었다. 이어 그해 5월 노태우 대통령의 방일에 즈음하여 이화여자대학교 여성학과 대학원생들의 적극적인 노력으로 군위안부 문제에 대한 성명서가 발표되었다. 여기에는 한국여성단체연합회, 한국교회여성연합회, 여대생대표자협의회가 참여하였다. 이러한 움직임은 군위안부 문제를 일제시기 민족의 수난사로 받아들이는데 그치지 않고 여성에 대한 폭력의 일환으로서 여성운동의 큰 줄기의 하나로 군위안부 문제가 자리매김하는 계기가 되었다. 이렇게 군위안부 문제는 해방 후 약 50년이 지나서야 규명해야할 우리역사의 중요한 이슈로 떠오른 것이다.


군위안부 문제 해결을 위한 의지가 무르익으면서 운동에 견인차가 되는 단체들이 생겨났다. 그 대표적인 단체가 ‘한국정신대연구소', ’한국정신대문제대책협의회', '나눔의 집'이다. 이밖에도 지방에 있는 여성단체 및 시민모임들의 노력으로, '일본군위안부문제의 올바른 해결을 위한 민족운동부산본부', '경남 정신대문제대책을 위한 시민연대모임', '대구여성회 정신대문제 대책위원회', '정신대할머니와 함께하는 시민모임(대구경북)', '훈할머니돕기 불교후원회(대구)' 등이 결성되어 활발한 운동을 펼치고 있다. 아래에 대표적인 단체 몇 개만 예를 들어 그 활동을 살펴본다.
<한국정신대연구소>

한국정신대연구소는 정신대 문제 전반에 대해 연구/조사하는 국내 유일의 연구단체이다. 1990년 5월 여성계에서 군위안부 문제에 대한 일본의 사죄와 보상을 촉구하는 성명서를 발표한 후 그 해 7월 당시 이화여대 영문학과 교수인 윤정옥 교수를 중심으로 [정신대연구반] (현재 연구소의 전신)이 만들어지게 되었다. 윤정옥 교수와 이화여대 여성학과 대학원생 4명이 참여한 이 모임은 군위안부 문제에 대한 본격적인 연구작업을 착수하면서 군위안부 문제에 대한 자료 수집과 국내 답사를 통해 피해자와 피해사례를 찾는 작업을 했다.
현재 한국정신대연구소는 위안부 관련문서를 찾아내는 일과 더불어 국내외 군위안부 피해자를 발굴하여 증언을 채록하는 작업을 집중적으로 하고 있으며 이를 바탕으로 다양한 연구를 하고 있다.

<한국정신대문제대책협의회>(약칭 정대협)

1990년 11월 발족식을 갖고 구성되었다. 군위안부 문제에 관심을 갖고 있는 여성단체를 비롯한 여러 사회단체들이 회원자격으로 소속되어 있다. 정대협은 군위안부 문제를 국내외에 알리고 일본정부를 상대로 피해자들에 대한 보상을 촉구하는데도 중추적 역할을 하였다. 또한 일본정부에서 군위안부 문제의 진상을 부정하는 망언을 계속하자 더 이상 우리 정부가 방관해서는 안 된다는 강한 요구의 하나로 1993년 '일제하 군위안부 피해자 생활안정 지원법'을 국회에서 통과시키게 하였다.
현재 정대협은 군위안부 피해자들에 대한 지원활동 뿐 아니라, 국제기구 등에 군위안부 문제의 진상과 그 심각성을 알리고 여론을 조성하여 군위안부 문제를 해결하는데 큰 역할을 하고 있다.

<나눔의 집>

나눔의 집은 군위안부 피해자들의 공동거주지라는 의미를 넘어 수요집회의 적극적인 참여, 국내외 피해자 발굴 등 군위안부 문제의 진상을 국내외에 알리는데도 큰 역할을 하고 있다.
나눔의 집은 군위안부 피해자 문제가 사회의 중요한 이슈로 떠오른 속에서도 피해자에 대한 지원대책이 전혀 만들어지지 않았던 1992년에 불교 조계종의 적극적인 노력으로 만들어지게 되었다. 1992년 6월 서울 서교동에서 시작된 나눔의 집은 공동생활을 원하는 할머니, 거동이 불편해 누군가 돌보아야 하는 할머니, 가족이 없어 혼자사는 할머니들이 이룬 공동체이다. 현재의 나눔의 집은 독자가가 터를 기증하여 1995년 12월부터 경기도 광주 퇴촌면에 정착하게 된 것이다. 그리고 역사기념관이 지어져 진실을 알리는 역사교육의 장으로 활용되고 있다.




이 문제에 대한 한국 정부의 대응을 살펴본다.
먼저 한일간의 식민지 지배 배상 요구는 1965년 박정희 집권 당시인 제3 공화국에서 이른바 김종필-오히라(大平正芳) 각서와 한일기본조약으로 일단락되었다고 주장되는 점이다. 이것이 이후 이 문제를 해결하기 위한 정부의 노력에 계속 커다란 걸림돌로 작용한다.
1990년 5월 노태우 대통령의 방일 때 ‘일본의 전쟁 책임문제’가 한국 내에서 거론되면서 강제 연행자의 명부 작성을 일본 정부에 협조 요청하였으나 일본 정부는 65년 “일한청구권, 경제협력협정”에 이미 모든 보상을 다 끝냈다며 ‘보상에 대신하는 어떤 조치’를 생각해보겠다고 답하였다. 또 1991년 12월 6일, 동경 지방재판소에 피해 배상 소송을 제기한 군위안부 출신 원고측이 “한일 협정에도 개인의 청구권은 소멸되지 않는다고 하여, 정부간의 교섭에서는 안 된다 하더라도 한국 국민 개인은 일본 정부에 보상을 요구할 수 있다”고 주장하였으나 일본의 가또 관방장관은 “정부 관계기관이 관여했다는 자료가 발견되고 있지 않아 대처하기 곤란하다”고 입장을 밝혔다.

91년 9월 정부는 ‘정신대 실태조사대책위원회’를 구성하였고, 12월 외무부는 일본 대사에게 이 문제에 대한 사실을 밝힐 것을 요청하였다. 동시에 미야자와 일본 총리의 92년 1월 방한 예정에 앞서 한국 정부는 이 문제를 공식적으로 제기하기로 방침을 정한 후 91년 12월 도쿄에서 개최된 한일아주국장회의에서 일본에 우선 철저한 진상 규명을 강력히 요구하였다. 그리고 미국, 일본, 영국, 네덜란드 등 10개국 해외주재 공관에 관계자료를 조사하도록 지시하였다. 그 후 미국국립문서보관소에서 일본군이 위안부 모집, 수송, 관리 등에 개입한 사실을 입증하는 문서를 발견하였다. 이 문서는 인도-버마 전선의 미 전시정보국 심리전 팀이 미얀마의 미트키나에서 일본군이 도망칠 때 붙잡힌 조선인군위안부 20명과 위안소 관리자 2명을 심문하여 작성한 조서이다. 비슷한 시기에 일본의 주오대 요시미 요시아키(吉見義明) 교수가 일본 방위청 방위연구소에서 찾아낸 공문서 등이 이 문제에 대한 중요한 자료가 되어 일본을 압박하였다.

결국 92년 1월에 이뤄진 한일정상회담에서 노태우대통령의 문제 해결을 위한 요청에 따라 일본의 반성과 사과가 있었다. 이어서 이상옥 외무장관이 “이 문제는 당시 청구권 교섭에서 논의되지 않았다”고 말하고 이때(92년 1월) 정부는 ?정신대문제실무대책반?을 설치, 계속 협의하며 전국의 시 군 구청에 피해자 신고센터를 설치하고, 2월 25일부터 6월25일 사이에 신고를 받았다. 그 결과 총 390건 중 근로정신대 235명, 군위안부 155명이 신고하였고 그 중 생존자는 각각 139명과 74명이었다. 이후에도 이같은 피해자의 신고와 증언은 계속 이어졌으며, 한일 역사교과서에 사실을 올바로 기록, 교육하여 과거에 대한 올바른 인식을 갖고 밝은 미래의 한일 관계를 가꾸어 가도록 정부도 노력할 것을 밝혔다.
93년 3월 김영삼 정부는 진실 규명과 사과는 받되 배상 청구는 않겠다고 한 후 피해자 생활안정 지원금과 영구임대주택 우선입주권 등을 지급하였다. 95년에는 교육부 산하 광복 50주년 기념사업위원회에서 “청산하지 못한 일제 시기의 문제 학술 세미나”를 개최하기도 하였다. 이후 98년 5월 김대중 정부는 피해자들에게 한꺼번에 3,150만원의 생활지원금을 지불하였으며 위안소에 관련한 일본인에 대한 입국 금지 조치를 내리기도 하였다.

국회에도 [정신대진상소위원회]를 만들어 96년 6월 이미경의원 외 여성의원 8명이 이 문제를 공식적으로 제기하였고 97년 2월 정대협과 함께 일본을 방문해 해결을 촉구하였다. 5월에는 “한일역사교과서의 문제점과 올바른 기술 방향”을 주제로 간담회를 개최하였고, 2002년 발행되는 중고교 역사교과서에 본 내용을 포함하기 위해 노력하기로 하였다. 그리고 29명의 의원이 ?일본군위안부문제 연구모임?을 발족하고 일본에 국제법적 책임을 요구할 것도 검토하였으며, 일본의 ?여성을 위한 아시아 평화국민기금?에 대하여 90%가 넘는 270명의 의원이 반대 서명을 하였고 그 결과를 일본 총리와 의회에 전달하였다. 동시에 전범자 출입국 규제 방안 및 국회결의안을 채택하였다.
김대중 정부에서 매월 생활지원금이 50만원으로 인상되었으나, 대일 관계에서 이 문제에 대한 특별한 관심을 표명한 바가 없이 소극적인 태도로 일관하고 있다. 이같은 대일 노선은 노무현 새정부에서도 변함이 없고 다만 여성부에서 이 문제에 대한 지속적인 관심과 지원을 놓지 않고 있어 그나마 다행이다.


정대협이 일본정부에 내건 우리의 요구는
1. 일본정부는 진상을 구명하고 정당하게 배상하라
1. 일본정부는 전범사실을 인정하고 전범자를 처벌하라
1. 일본정부는 위령탑 등을 건립하고 진심으로 사죄하라
1. 일본정부는 역사교재에 진실을 알리고 바르게 교육하라 등이다.
이에 대해 일본정부는 계속 무시하는 자세를 취해왔다.

일본정부가 처음으로 이 문제에 대한 공식적 입장을 표명한 것은 1990년 6월 참의원 예산위원회에서 사회당 모또오까 쇼지(本岡昭次)의원이 위안부의 조사를 정부에 요청한 것에 대한 답변이었다. 이 때 노동성 직업안정국장은 ?종군위안부에 대해서는 옛날사람들의 이야기를 종합해보니 민간업자가 그러한 분들을 데리고 있었던 것 같고 그 관계에 대해서는 실정을 밝히지는 못한다?고 대답하여 일본군의 관여를 전면 부정하였다.
그러나 1991년 여름, 김학순할머니가 위안부정책의 피해자임을 밝히고 그 해 12월에 일본정부를 상대로 소송을 제기하게 되었다. 또 그 직후인 92년 1월에는 요시미 요시아키(吉見義明)교수가 일본 방위청 방위연구소 도서관에서 발견한 위안소 관련 자료가 공개됨으로써 일본정부는 더 이상 군의 관여를 부정할 수 없어 부분적으로 인정하고 형식적 사과를 하기에 이른다.
이어 1992년 7월과 다음해 8월에는 위안부문제에 관한 조사결과를 발표하였다. 제1차 발표에서는 위안부의 모집, 위안소의 설치, 경영, 감독 등 제목만을 나열하고 있을 뿐 구체적인 실상에 대한 언급은 없었다. 제2차 발표에서는 방위청, 법무성, 외무성, 문부성에서 발견 된 자료를 비롯하여 국립 공문서관, 국회도서관, 미국 국립공문서관에서 발견된 자료들이 포함되어 있었다.

제2차 조사결과의 발표와 함께 관방장관이 담화를 발표하였다. 거기서는 위안소가 당시의 군 당국의 요청에 의해 설영된 것이며 위안소의 설치, 관리 및 위안부의 이송에 대해서는 구일본군이 직접 또는 간접으로 관여한 사실을 인정하였다. 또 위안부 모집에 대해서는 군의 요청을 받은 업자가 주로 이것을 담당하였으나, 그 경우도 감언 강압에 의하는 등, 본인들의 의사에 반하여 모여진 사례가 수많이 있고 또 관헌 등이 직접 여기에 가담한 경우도 있었던 것이 밝혀졌다고 하여 군의 관여와 동원의 강제성을 인정하였다. 특히 식민지 조선에서의 위안부 동원을 들어, 그것이 큰 비중을 차지한 것과 그 모집, 이송, 관리 등도 감언, 강압에 의하는 등 대체로 본인들의 의사에 반하여 행해졌다고 하여 불충분하나마 강제성을 인정하기에 이르렀다. 또한 이 문제가 다수 여성의 명예와 존엄을 깊이 상처 준 문제?이며 그 피해자들에 대해 진심으로 사과와 반성의 뜻을 밝힌다고 하였다.

그러나 두 번에 걸쳐서 발표된 자료는 위안부정책의 전체상을 밝히기에는 너무도 적으며 부분적인 것에 지나지 않았다. 구 내무성 자료, 후생성 등의 자료는 전혀 조사가 미치지 않았으며 정부 및 방위연구소 도서관에도 아직 방대한 양의 자료들이 존재하는 것이 알려지고 있다. 그럼에도 불구하고 일본정부는 이 두번의 발표로 조사를 마무리하였으며 진상구명을 위한 적극적 노력을 보이지 않고 있다.
한편 한국인 피해자들에 대한 보상문제에 관해서는 샌프란시스코 평화조약 및 1965년의 한일협정으로 이미 해결되었다는 입장을 취하고 있다. 그리하여 일본 수상이 내한할 때 위안부문제로 형식적으로 사과는 하지만 한국 피해자측이 요구하고 있는 개인배상에 대해서는 계속 거부하는 자세를 보여 왔다.
또 1994년 2월 한국인 피해자와 운동단체가 일본 검찰청에 위안부정책에 관여한 일본군 관계자의 처벌을 요구하는 고소장을 도쿄지방검찰청에 제출하려고 하였으나 수령조차하지 않았다.

1994년 여름에 출범한 사회당 무라야마총리 시절에는 위안부문제에 관해 폭넓은 국민참가의 길을 모색하기로 하고 이후 여당 3당으로 ?전후 50년문제프로젝트를 발족시켜 그 산하에 종군위안부등 소위원회를 설치하였다. 이 위원회의 조사를 토대로 하여 1995년 7월, 여성을 위한 아시아 평화 국민기금을 설립한다. 이것은 위안부문제에 관해서 도의적 입장에서 책임을 져야 한다는 취지 아래 만들어진 것이다. 그러나 기금정책은 일본정부의 법적 책임을 회피하고 이 문제를 종결시키고자 하는 의도아래서 진행되고 있다고 할 수 있으며 피해각국의 운동단체와 피해자들의 맹렬한 반대를 사고 있다.
또한 일본 정부는 1992년부터 유엔 인권위원회에서 위안부문제에 관한 토의가 시작되자 이 문제는 유엔 창설전의 문제이며 유엔은 그러한 문제에 대해서 아무 권한도 없다고 주장하고 이후 유엔에서 나온 어떠한 조치에 대해서도 거부하는 자세로 일관하고 있을 뿐이다.

1998년 4월 위안부에 대해 승소 판결이 나온 시모노세키재판에서는 재판소가 현행 헌법상 위안부처럼 극단적 인권침해일 경우 보상 입법의 의무가 일본정부에 있음에도 불구하고 국회가 그동안 입법의무를 게을러왔다는 견해를 밝혔다. 이에 대해 일본정부는 국회에는 헌법상 입법의무가 없다고 주장하고 항소하였으며 기존의 태도를 바꾸지 않았다. 이 재판은 대법원까지 가서 기각됨으로써 1심의 유죄 판결조차 백지화하고 말았다.


1992년부터 유엔 인권위원회에서 위안부문제에 관한 토의가 시작되었고 1993년 6월의 빈(Vienna) 유엔 세계인권회의에서 전시하 성노예 문제에 관하여 과거도 포함하여 모든 문제에 유엔이 대응한다는 것을 확인하였다. 이같은 유엔과 국제 사회에서의 이 문제에 대한 대응을 살펴본다.

일본군위안부 문제는 국제법적으로는 '인도에 반한 죄'이며, ‘전쟁범죄’이다. 국제사회는 세계사에서 다시는 이러한 범죄가 일어나서는 안 된다는 점에 주목하여, 다각적으로 이 문제의 해결을 위한 활동을 벌여 왔다. 국제여성운동, 인권운동, 평화운동을 위한 세계의 시민단체와 UN, ILO 등의 국제기구에서 이 문제를 다루고 전범인 일본정부에게 압력을 가하고 있다.
국제사회의 움직임으로 먼저 일본, 한국, 필리핀, 대만, 태국, 홍콩, 일본 6개국(이후 태국이 빠지고 인도네시아가 참여)의 시민단체들의 연대활동을 들 수 있다. 이들 국가의 시민단체들은 1992년 제1회 아시아연대회의를 개최한 후 매년 참가국을 돌며 연대회의를 열고, 서로 정보를 교환하며, 유엔 등 국제 장에서 협력하고 있다.

무엇보다 중요한 것은 UN의 움직임이다. 이 문제의 해결을 위해 UN이 갖는 의미는 매우 중요하다. UN이라는 권위 있는 국제기구가 내리는 판단이 일본정부에게 강력한 힘을 갖기 때문이며, 또한 UN을 무대로 세계의 시민단체들이 연대를 할 수 있기 때문이다. 정대협이 1992년 이 문제를 유엔 인권위원회에 제기한 이래, 필리핀, 일본의 단체들도 인권위 산하의 소수 민족차별 및 보호 소위원회, 그리고 다시 인권 소위 밑의 현대형 노예제 실무회의에 매년 참석하는 한편, 세계인권대회(1993년 비엔나)와 세계여성회의(1995년 베이징)에도 참석하여, UN에서 이 문제를 조사하고 올바른 해결 방안을 세워줄 것을 요청했다. 이러한 활동의 결과로 인권위 여성폭력문제 특별보고관 라디카 쿠마라스와미는 ‘전쟁 중 군대 성노예 문제에 관한 조선민주주의공화국, 대한민국, 일본에서의 조사보고서’를 1996년에 제출, 이 보고서에서 일본 정부는 위안소 설치가 국제법 위반이었음을 인정하고 이에 대한 법적 책임을 질 것, 피해자가 고령이므로 빠른 시일 내에 해결할 것, 즉 진상구명, 공식사죄, 역사교육, 책임자 처벌 등의 필요성을 강력히 권고했다.

다른 한편 1998년과 1999년에 인권소위원회에서도 게이 맥두갈 위원이 ‘전쟁중 여성에 대한 폭력’ 에 대한 보고서에서 무력분쟁시의 조직적 강간, 성노예, 기타 노예관행에 관한 맥두걸보고서를 발표하여 다시 한번 세계에 주지하였다. 이러한 유엔의 권고는 일본 정부에 큰 타격을 주었으나, 여전히 책임 있는 해결에까지 이르고 있지는 않다.
이밖에 상설중재재판소(PCA)에서 이 문제를 다루도록, 정대협과 일본 단체들이 시도했으나 일본 정부의 동의가 필요한 절차에서 좌절했다. 국제법률가협회(ICJ)도 한국, 일본, 필리핀, 북한을 방문하여 조사한 후, 1994년 매우 설득력 있는 보고서를 제출하여, 일본정부에게 피해자에 대한 적절한 조치를 취할 것을 요구했다.

1995년부터는 국제노동기구(ILO)에 한국 및 일본의 노동조합들이 군위안부 동원이 ILO의 강제노동금지규약 위반임을 호소하기 시작했다. 이 활동은 곧 효과를 나타내 조약 및 기준 적용 전문가 위원회의 1996년, 1997년 보고서에 위안부 동원 및 착취가 강제노동금지규약의 위반이며 일본 정부는 이에 대한 적절한 보상을 촉구하라는 내용이 실렸다. 1999년 보고서에는 다시 그 규약 위반 사실을 확인한 위에 피해자가 고령이므로 빠른 시일 내에 피해자가 원하는 방식의 배상을 실시할 것을 촉구했다.
그래도 꼼짝 않는 일본 정부에 대해 민간들이 법정을 열어 단죄함으로서 세계여론에 호소하자는 움직임도 구체화한 바 있다. 이는 베트남 전쟁 범죄를 논의하기 위해 모인 러셀 법정을 모델로 한 것으로, 일본 및 아시아 피해국의 시민단체들이 연대, 협력하고 세계적인 학자, 변호사, 운동가와 함께 2000년 12월에 도쿄에서 ?일본군성노예 전범 국제 여성법정?이 개최된 것이다.
이밖에도 미국과 캐나다를 비롯한 세계 각국의 우리 교포들이 모임을 만들어 이 문제 해결을 위해 활동하고 있으며, 미국의 주요 대학 등에서 학위논문 등의 형태로 연구가 계속되고 있다.




한국을 비롯한 피해국들의 사죄와 배상 요구에 대해 일본정부가 고심하여 내놓은 안이 1995년 ‘여성을 위한 아시아평화국민기금’(이하 국민기금)이다. 정대협의 회원단체 모두가 이 기금에 반대하였으며 그에 상응하는 운동으로 국민모금운동을 시작하였다. 일본의 ‘국민기금’을 무력화시키고 일본정부의 법적 배상이 되기까지 우리 정부와 국민이 할머니들을 위해 모금활동을 하기로 하고 이를 위해 별도의 조직을 만들 필요가 있다고 논의되었다. 준비과정을 거쳐 1996년 10월 18일 ‘강제연행당한 일본군 ‘위안부’ 문제 해결을 위한 시민연대’(이하 시민연대) 발대식을 하였다. 이 모임에는 정대협 회원단체 뿐 아니라 참여연대, 경실련, 환경운동연합 등 굵직한 시민단체들은 거의 다 참여하였다.

이 모금활동에는 국내 최초로 주간지인 [한겨레21]뿐 아니라 한국일보, 방송사인 SBS와도 함께 하였다. [한겨레21]에서 이 ‘온겨레 돕기운동’을 시작한 배경에는 유엔 인권위원회가 피해자에게 사죄하고 배상하라는 권고했음에도 불구하고 ‘국민기금’으로 위로금을 지급해서 해결하려는 일본의 태도에서 비롯한 것이다. 직접적인 제안은 이 문제를 올바로 해결하고 승화시켜 동아시아의 새로운 삶의 길을 열자고 한 김영호(경북대 교수)였다. 그는 [한겨레 21] 제124호(1996년 9월 5일자)에서 “정신대 할머니들을 돕는 국민적 성금운동과 21세기를 위한 동아시아 마샬 플랜을 제안”했다. 이 글을 보면 ‘국민기금’을 거부한 할머니들의 결단에 감동해서 국민들이 성금을 모아드리고 그 운동에 지식인들이 앞장서야 하고 이미 몇몇 지식인들은 원고료나 강연료를 받지 않고 모금에 보낼 것을 결의했다고 한다.

이효재 정대협 공동대표도 그 다음호의 특별기고에서 “민간단체를 내세워 정부의 법적인 책임을 회피하려는 일본정부의 계략을 뜨거운 성금운동으로 분쇄하고 정신대할머니 돕기 운동을 아시아 시민연대운동으로 이끌자”고 호소했다. 이런 지식인들의 움직임에 이 잡지 편집진에서 먼저 성금을 모으면서 이 운동을 시작했다.
?한겨레21?의 1996년 10월 31일부터 1997년 5월 15일까지 7개월 동안의 특별한 노력에 힘입어 이번 모금은 초등학생부터 각 대학 총학생회와 동아리 단위의 모금은 물론 종교단체에서도 참여하였고 대학교수와 일본의 시민들과 단체에서도 참여한 것으로 이 문제의 공감대를 확산한 좋은 계기였다.
총 5억 5천원 1십1만원을 모은 시민연대는 이 돈을 ‘국민기금’을 받은 할머니들을 제외한모든 피해자들에게 나누어드리고 1997년 5월 28일 해산하였다. 이런 적극적인 운동에 힘입어 1998년 5월 한국정부가 국민기금에 상응하는 돈을 지급하게 된 것이다.



[人in문화광장] 윤미향_한국정신대문제대책협의회 대표 인터뷰

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