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【論文】
きぬがさ1-傘鉾と風流傘の源流
段上達雄
【要旨】
「きぬがさ(蓋)」は日本における祭礼行列や民俗芸能にともなう傘鉾や浮立傘の源流であり、古代中国やインド、そして日本の遺跡や遺物、絵画資料などから、権力や権威の威儀具であった蓋の伝播状況を明らかにしていく。
【キーワード】
蓋・きぬがさ・車馬・蓋車・スツーパ・家屋文鏡・蓋形埴輪
はじめに
私はこれまで日本における祭礼行列や民俗芸能にともなう傘鉾や風流傘を調査してきたが、その調査の過程で、傘鉾や風流傘の源流ともいえる「きぬがさ(蓋)」がいについても興味を持って調べるようになった。その探索の中で、アフロ・ユーラシア大陸各地に華開いた古代国家での「傘」の広がりに驚くこととなった。ここでは「傘」文化の深遠さについて、その一端を明らかにすること、それと同時に傘鉾や風流傘を考える上で、欠くことのできない「傘」の前史をまとめることができればと思い、この拙文を記すことにした。多くの御叱責と御指導を賜り、より一層研究が進むことを念願する次第である。
さて、今では傘という道具は世界中で雨除け、日除けとして日常的に用いられている。平成19年度の「財務省統計」によれば、日本に輸入された洋傘は合計119,052,722本で、そのうち長傘は99,487,606本、折りたたみ傘は18,796,196本であった。日本の総人口に匹敵するほどの洋傘が輸入されており、そのうち6,000万本強がビニール傘であるという。また、電車や列車などでの忘れ物第一位を守り続けているのは傘である。傘はきわめて平凡で実用的な道具であると認識されている。しかし、「象徴」という視点で見つめ直すと、そこには奥深くて豊かな世界が広がってくる。
古代ギリシャ・ローマ、中国、そしてインドなどでは傘が用いられていた。傘のような独特な形状の道具が旧大陸各地で多発的に発明されたとは考えにくい。T.S.クロフォードは「傘が発明されたのはほぼまちがいなくエジプトで、最初は流行品というよりも宗教や儀式で遣われる標章だった。紀元前1200年になると、王族の高い階層が庶民に影を投げかけていることを示すために、そして、とりわけ、王が天空に覆われていることを象徴するために、気の利いた、込み入ったデザインの傘が最高位の貴人にさしかけられた」と述べている.。また、「傘を使う習慣はエジプトからアッシリアに広まり、アッシリアでも、当初は、傘を頭上にかかげさせるのが王の特権で、たいていは儀式にともなう行列のあいださしかけられた」と記し、傘はエジプトからアジアへ伝播したこと、そして、古代の傘は貴人に差し掛けるために用いられたと述べている。紀元前12世紀頃のエジプトは、第19王朝から第20王朝の時代で、有名なラムセス2世統治前後である。最初は日除けであったものが、王権を示す象徴的な役割を持つようになり、それがメソポタミヤに伝播したものと思われる。それがヨーロッパやアジア各地に伝播したのであろう。
古代日本に伝わった「蓋」は2系統ある。ひとつは古代中国で発達した蓋で、もうひとつはインドで発達して仏教と共に中国を経由して伝来した蓋である。この2系統の蓋について次に見てゆきたい。
(1)古代中国の蓋
中国の蓋がいの始まりは黄帝に始まるという。平安中期に作られた辞書『倭名類聚抄』にも「華蓋かがい。黄帝が蚩尤しゆうを征した時、帝の頭上に五色の雲あり。その形に因んで造るところ也」と記されている。黄帝とは三皇のひとり、あるいはそれを継いだ五帝の最初といわれる伝説上の人物であり、蚩尤は獣身で銅の頭に鉄の額を持つなどといわれ、超能力をもつ怪物である。華蓋とは飾りの付いた華やかな蓋のことであるが、このような発生伝説をもつということは、かなり古くから中国で華蓋が使用されてきたと推測される。長沙子弾庫楚墓出土帛画蓋を描いた中国最古の資料は「長沙子弾庫楚墓出土帛画」であろう。1973年に湖南省博物館が長沙市城東南の子弾庫で古墓を発掘し、そこから1枚の帛画が出土した。この古墓は戦国時代(B.C.403~221)の楚のもので、他の出土遺物から戦国時代中期から晩期の交替期のものと推定され、棺内に残された骨から被葬者は40歳前後の男性と判明している。この帛画は「人物御龍図」と名付けられており、長さ37.5㎝、幅28㎝の絹布で、上端に細い竹を横にわたし、その竹の中央に吊り下げるための紐が結んであった。画面中央に壮年の男性が左を向いて立ち、二本の手綱で龍を御している。男性は長袍を着て高い冠を被り、腰に剣を佩びている。左向きの龍は頭と尾を高く挙げて「龍舟」の形となり、その尾の附近には鳥がとまり、画面左下に1匹の魚が描かれている。人物像の上に宙に浮いて蓋が描かれている。そして蓋には中央と左右に飾り紐が下がっている(向かって左側は破損のため不明瞭)が、柄は描かれていない。この帛画だけでは、蓋中央から吊り下げる垂下式蓋なのか、柄付きの蓋の省略なのか、いずれとも判断しがたい。蓋の飾り紐は左方向に進む龍舟にあわせて、右側になびいており、男性が龍の首から延びる手綱を持つことなどから、蓋、男性像、龍船はそれぞれ上下に間隔があいているが、一体のものであることは間違いない。長沙馬王堆出土帛画次に注目されるのは「長沙馬王堆1号墓出土帛画」である。1972年から1974にかけて長沙市郊外の馬王堆で前漢初期の漢墓が発掘された。2号墓、3号墓も発掘され、馬王堆漢墓の学術的価値は高く評価されている。2号墓は紀元前186年に没した長沙国丞相利蒼の墓で、1号墓は利蒼の妻である。3号墓の被葬者は彼らの子(30前後の男性)で、出土した木牘から紀元前168年に埋葬され、1号墓は3号墓の数年後に造築されたものであるという。1号墓には保存状況がきわめて良好な女性の遺体が残り、『老子』や『戦国策』などの古典、地図類、医書など、多数の遺物が出土しているが、その中でも注目されるのは棺を覆う彩絵帛画である。一号墓帛画は幅92㎝で全長205㎝あり、縦長のT字型をしているが、上部左右の袖部は小さい。この中段に被葬者である婦人が描かれている。杖をついた老婦人が左を向いて立ち、その後ろに三人の侍女が付き従い、前方には何かを捧げ持って跪いている男性2人が描かれている。この老婦人は被葬者の女性と考えられている。これらの人物群像の上部に、翼を広げた不気味な鳥が描かれ、その鳥の上に宙に浮くように蓋が描かれている。蓋中央上部には大きな花の形をした飾りが立ち、蓋の左右には一羽ずつ鳥がとまっている。蓋の下部には4つの同心三重の半円形が描かれているが、これは蓋の周囲に垂らした幕を数カ所でとめて巻き上げている状況を描いたものと思われる。
「長沙馬王堆3号墓出土帛画」は1号墓の帛画と比較すると全体に損傷が見られ、その保存状況はかんばしくないが、その内容はほぼ同一である。特に差異があるのは、墓主人が男性である点にある。中段に冠を被り剣を佩びて紅袍を着た男性が左向きで立っている姿が描かれている。男性の直後には柄付きの蓋を差し掛ける幼い侍女、その後ろには先端に飾りの付いた長い杖状の道具を持つ侍女、そしてその背後には4人の侍女が並んでいる。
これらの人物群像の上には翼を広げた鳥と蓋が描かれている。
曽布川寛氏によれば、長沙子弾庫楚墓と長沙馬王堆遺図2:長沙馬王堆1号墓出土帛画跡出土の帛画は、いずれも墓主人が龍舟に乗って昇仙する姿を表しているという。そして昇仙するには、竜舟や竜車に乗って昇るものであるという。また、子弾庫楚墓帛布の蓋は「あまり上等ではなく」と述べ、それに対して馬王堆1号墳帛布の蓋は「いっそう豪華に作られている」という。
このような昇仙の姿を書き記したものに『山海経』がある。『山海経』は著者こそ不明であるが、最も古い部分は戦国時代に書かれ、その後3世紀の漢代に至るまで書き足されていった古代中国の地理書である。この『山海経』海外西経に「大楽の野は夏后啓(禹の子、夏王朝2代目の王)がここで九代(楽名)を舞った。双竜に乗り雲蓋は三層、左手に翳をもち、右手に環をもち、玉.を佩びている」と記されている。また、時代は新しくなるが、『漢書』「王莽伝」に「或るひと云えらく、黄帝、時に華蓋を建て登遷すと。莽乃ち
華蓋の九重なるを造り、高さ八丈一尺、金.羽葆あり」(ある人が黄帝は華蓋を建てて天
に昇ったといった。そこで王莽は九重の華蓋を造ったが、それは高さ19.5m.ほどあり、黄金の蓋頭がついており、鳥の羽で覆っていた)と記されている。
古代中国では二輪馬車に蓋を立てていた。蓋を立てた二輪馬車は、昇仙時の竜舟や竜車のイメージを形作った母型かもしれない。漢代画像石の蓋漢代の画像石には、漢代の貴族たちの生活や歴史故実、神話などが彫られている。その画像石には蓋を立てた馬車が刻まれていることが多い。その代表として、「山東嘉祥宋山小祠堂の西壁画像石」を取り上げてみよう.。画面は上下4段に区切られ、横長の画面4枚によって構成されている。最上段は「西王母の仙人世界図」で、崑崙山にいてすべての女仙を支配する西王母が画面中央に座し、両脇に羽の生えた女仙、左側に臼を竪杵で搗く兎と蟾蜍せんじょ(ヒキガエル)などが描かれている。2段目は「周公輔成王図」である。中央に少年の成王が台上に立つ。成王に向かって跪いている右手の人物は周公旦で、その2人の左右に臣下の姿が描かれている。ここで注目されるのは、左手の人物が垂下式の蓋を少年王の上にかざしていることである。蓋部分は大きく湾曲して形作られているが、両端に房飾りがつけられており、斜めに突き出された吊り柄は上部で湾曲して、蓋部を吊り下げている。3段目は「提彌明殺犬救趙盾図」である。晋の大臣趙盾ちょうとんがその君主である霊公から宴席で暗殺されようとした時、家臣の提彌明ていびめいが気づいて霊公が放った犬を拳で叩き殺している隙に、趙盾は逃げることができたという歴史故事である。最下段は「祠主車馬出行図」である。この墓上祠堂の被葬者(祠主)が1頭立ての二輪馬車に乗って出行する状況を描いたもので、騎馬の2名が先導し、左手の人物が出迎えている。馬車には柱(柄)が立てられ、蓋(車蓋)が御者と祠主を覆っている。蓋部前方から紐のようなものが垂れ、馬車の後方に向かってなびいている。
同一の画像石に垂下式蓋、それに馬車に立てられた柄付きの蓋が刻まれている。これによって、前漢期には2種の蓋があったことが判明する。後漢時代の銅.車車蓋のついた.車(しょうしゃ小型馬車)を青銅で製作した副葬品がある。1969年に甘粛省武威市雷台の東漢墓(後漢時代〈25~220年〉の墓)から銅車馬儀仗隊列と銅奔馬が出土している。儀仗隊列の中の「銅.車」は一頭立ての先導車で、車台に柄付きの蓋が立っており、馬車右側に冠を被った男性(御者)が座している。馬車のふたつの轅えん(ながえ)は前方上方に大きく湾曲し、車軛(しゃあくくびき)
しゃぎ
と車.がつく。蓋は丸みをおび、細
長い柄は輿軾よしょく(しきみ。馬車前部の横木)の中央に挿し込まれている。この銅.車は全長40.7㎝、幅41㎝、輪径24.9㎝である。秦始皇帝陵出土銅車馬この漢代の.車よりも古い車蓋付きの車馬(中国では馬車を車馬という)が発見されている。1980年、秦始皇帝陵の墳丘西側の坑から、実物の二分の一の大きさをもつ青銅製の銅車馬2両が出土した。この2両の銅車馬はいずれも写実的で、きわめて精緻に製作されていた。
一号銅車馬は「立車」といい、車内に立った御者が4頭の馬の手綱をさばいている。車上の右側に乗った御者は背に長剣を帯び、右に盾と鞭、左に弩を置く。足下の矢箙という箱には予備の矢が納められていた。これらの武器の表面には天空を表す雲紋が描かれている。一号銅車馬(馬も含む)の全長は225㎝で、全高152㎝、蓋の直径は122㎝。御者の身長は91㎝ある。実物はこの2倍であった。蓋の周辺は現在の傘のように下に向かって下がっており、蓋には傘骨が22本あり、103.6㎝の柄が付いている。蓋の内側には細かい.龍紋が描かれている。.龍は一本足の伝説上の獣で、龍や鳳と組み合わせられて天空を表現するという。
二号銅車馬は「..車」とか「安車」という。二号銅馬車も四頭の馬が牽くが、一号銅車馬よりも車体は大型で形態も大きく違う。車体後部は横幅78㎝、奥行き88㎝で、ほぼ正方形の箱形であり、後部に出入口を設け、左右に引き窓、前方部に引き上げ窓がつく。壁面上部には.龍文、下部には幾何学文が描かれている。車体前部に小さな箱状の御者台がつき、正座した御者1名が収まっている。屋根(蓋)は楕円形の亀甲を連想するような隅丸の長方形をしており、幅129.5㎝、長さ178㎝ある。骨組みは36本あり、構造的には傘に似ているが、蓋が楕円形であるため、傘骨状の骨組みは四隅では大きく屈曲している。蓋には流雲紋と龍鳳が描かれている。二号銅車馬の全長(馬も含む)は317㎝、全高106.2㎝、車輪径59㎝である。蓋車『三国志』「蜀書巻二先主伝」に次のような幼少時の劉備の逸話が記載されている。
「先主少孤、與母販履織席為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘、遙望見童童如小車蓋、往來者皆怪此樹非凡、或謂當出貴人。先主少時、與宗中諸小兒於樹下戲、言「吾必當乘此羽葆蓋車」叔父子敬謂曰「汝勿妄語、滅吾門也」(先主〈劉備〉は幼い頃に父を失ったため、母と共に草履を販売し、蓆を織るのを家業としていた。屋敷の東南の角の垣根に高さは五丈(約15m)余りもある桑の木が生えていた。遠くから眺めると鬱蒼として小さな車蓋のように見えた。往来する人々はみな、この木のただならぬことを感じ、貴人が現れるだろうと言う人もいた。先主は幼い時、木の下で一族の子供たちと戯れながら「吾はこの羽葆蓋車に必ず乗ってみせる」と言った。それを聞いた叔父劉子敬は「汝はでたらめを言って吾が一門を滅ぼすな」と言った)
羽葆蓋車とは美しい羽根で飾られた蓋の付いた皇帝(後漢)の乗る車馬のことで、これに乗ってみせると言うことは、もちろん皇帝になってみせるということである。これは、行幸中の秦始皇帝を見た項羽が「彼に取って代わるべし」と叫んで、叔父項梁に口をふさがれたという逸話と同音異曲であり、事実とは思えない。しかし、先述した「王莽伝」の金.羽葆のついた華蓋と同じく、蓋の素材などで身分が表示されていたことを物語るものであろう。歩輦図古代中国で成立した蓋は、貴人の象徴としてその後も使用され続けた。蓋の事例は極めて多く、ひとつひとつを取り上げることはできないので、要所ごとに紹介しよう。
唐代の大画家である閻立本(?~673)による「歩輦図」には、7世紀の蓋の様子が描かれている。634年、唐の太宗(在位626~649)が、輦(輿)に座って吐蕃の使節(宰相禄東賛、チベット名ガル・トンツェン・ユルスン)と会見する様子を描いている(縦38.5㎝×横129.6㎝)。太宗の周囲には9名の宮女がおり、それぞれ輦、蓋、翳(団扇)などを持っている。太宗の背後に差し掛けられた蓋の布は朱色で、非常に長い柄がついている。蓋の平面は四角形で、蓋布を支える湾曲した骨も明瞭に描かれており、四隅にはそれぞれ飾り紐が垂れ下がっている。
輦に乗った太宗が他の人物より大きく描かれているが、これは身分の高い主人公を目下の者よりも大きく描写するきまりがあったためである。莫高窟壁画甘粛省敦煌市近郊の敦煌莫高窟は、前秦支配下の4世紀中頃から千年にわたって造立されてきた仏教遺跡である。この莫高窟第159窟の壁画に蓋が登場する。この壁画は「吐蕃賛普図」といい、吐蕃(チベット民族)の貴人の上に垂下式の蓋が差し掛けられている。吐蕃が敦煌を支配したのは、西暦781年から851年にかけてのことである。垂下式の蓋が貴人の権威を表徴していることは間違いない。欽定四庫全書中国最後の王朝である清朝において記録された蓋について見てゆこう。『欽定四庫全書』は乾隆年間(1736~95)に編纂された一大叢書であるが、その中の「明集禮巻四十四」に、さまざまな蓋と共に傘状の威儀具が図解付きで掲載されている。これは前代の明朝での威儀具の集成といえる。
蓋としては「黄蓋こうがい」「大繖だいさん」「華蓋」「曲蓋」「紫方繖」「紅方繖」が載せられている。これらはすべて傘部周辺に幕をぐるりと吊り下げており、日本の風流傘や傘鉾、それに蓋とほぼ同形であるといえる。また、垂下式の蓋状の儀仗(威儀具)として「羽葆幢」「龍頭棹繍.」「信旛しんはん」「告止旛」「傳教旛」「黄.」「絳引旛」がある。そして、蓋状の屋根をつけた二輪車として「玉輅ぎょくろ」「金輅」「象輅」「革輅」「木輅」が記されている。これらの二輪車は四隅に柱が立ち、内部に椅子が設置されるなど、さまざまな装飾が施された大型の二輪車である。ただ、いずれも天井部はドーム状に湾曲しており、これによって古代の蓋車の系譜を引いているのではないかと推測することもできる。
図8:黄蓋図9:大繖図10 :華蓋
図11:曲蓋図12:紫方繖図13:紅方繖
図14:羽葆幢図15:龍頭棹繍.図16:傳教旛
図17:絳引旛図18:玉輅
(2)インド仏教における蓋
仏陀と仏塔仏教を開いた釈迦(ゴータマ・シッダルタ。B.C.463~383、またはB.
C.560~480)の入滅後、しばらく釈迦像は存在しなかった。彫像でも絵画でも、仏陀自体の姿を具象化することはなく、菩提樹、法輪、仏足跡などの象徴的事物に置き換えられて表現された。当時の直接的な崇拝対象は仏舎利や仏塔(stupa.スツーパ)であった。仏像が造立され始めたのは、ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ王国(現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部)においてで、紀元1世紀頃から始まる。
本来、仏塔には仏舎利(釈迦の遺骨)が納められていた。釈迦の遺体はクシナーガラ城東郊のマクタバンナ・チャイトヤ(天冠寺)に安置された後、荼毘に付された。仏舎利は信者の人々によって手厚く祀られていたが、釈迦の教えを信奉する王族なども仏舎利を求めるようになり、そのため分舎利戦争と呼ばれる8国(8部族)間の紛争をも巻き起こしたが、仏舎利を均等に配分することで決着を見て、各地に仏舎利を奉安して供養するための仏塔が建立されることとなった。分骨した8基の仏舎利塔、それに分配時に用いた容器を蔵置した瓶塔、それに荼毘の時に残った灰を安置した灰塔など、この時に計10基の仏塔が建立されたという。しかし、その仏滅時の仏塔の実体は現在でも明らかではない。その後、ウマリア朝のアショカ王(B.C.367~232在位)によって八万四千塔の造立が行われた。8塔に安置されていた仏舎利は、ナーガ(龍王)が守護して開くことができなかったラーマグラーマの塔を除く7塔から取り出され、領土内に新たに造立した84,000基の仏塔に分配し、改めて供養したという。サンチーの仏塔この時期の仏塔は各地に残存し、その代表ともいえるのが、サンチーの大塔である。インドのマディヤ・プラディーシュ州の州都ボパールの北方67㎞の小高い丘の上にサンチー(Sanchi)の仏教遺跡がある。広大なデカン高原を見渡すことのできる場所である。サンチーは11世紀まで繁栄を続けたが、インド仏教の衰退にともなって廃墟となってしまったが、1912年にインド政府考古調査局(ASI)が調査を行い、資料に基づき可能な限り正確に修復を行った。サンチーの仏教遺跡の中心は半球状のスツーパ3基で、周辺には多くの僧院跡などが残っている。これらのスツーパは現存するインド最古のスツーパであるという。
3塔のうち最大の第1塔(大塔)はアショカ王が造立したもので、現在は全高16.5m、直径36.6mある。紀元前3世紀に造立された当初は、現在の仏塔の半分ぐらいの大きさの煉瓦造りであったが、その後の王朝や信者の寄進によって、紀元前2世紀には石材を用いて今のように増築された。紀元前1世紀頃に仏塔を取り巻く石柵である欄楯やらんじゅん東西南北4門の塔門(toranas.トラナ)が付け加えられた。大塔の頂上には三層の石造傘蓋が立っている。その周囲を平頭という矩形の石囲いがあり、スツーパ本体は半球状である。仏塔の周囲を時計廻りに廻る繞道にょうどうは上下2道あり、上の繞道への階段は南側に設けられている。参拝者は北塔門から欄楯内の繞道に入って3周する。これは釈迦を葬る時に500人の比丘たちが右肩を釈迦の遺体に向けて3回廻ったことに由来するという。
第2塔は大塔から西方約500m離れた丘陵の山腹にある簡素な仏塔である。紀元前2世紀頃に仏陀の十大弟子のために造立されたもの。直径15mで、欄楯は設置されているが、塔門は始めからなく、傘蓋もない。
第3塔は大塔の北東北35mほどの近接地にあり、直径15m、紀元前2世紀頃の造立で、塔門は1門だけである。欄楯は現存しないが、石段で登る繞道がついており、一重の傘蓋が立てられている。
サンチーの第1塔と第3塔には、三層と一層の違いはあるが、傘蓋(chatra.チャトラ)が設けられている。傘蓋は王侯貴族に差し掛けられ、権力の象徴として用いられていた。それが仏塔の上に設けられ、宗教的権威を表すものとして用いられるようになったのである。仏舎利を納めた仏塔は、仏像成立以前の仏陀信仰の主対象である。三層の傘蓋が立つ第1塔が仏舎利、すなわち仏陀の遺骨を祀り、一層の傘蓋の立つ第3塔は仏陀の二大弟子、サーリブッダ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)を祀り、傘蓋のない第2塔は仏陀の十大弟子を祀るという。規模の違い
写真2:スワヤンブナート写真3:ボダナート
や欄楯、塔門などの付属施設によって、信仰対象の差別化を図っていたことは間違いない
が、傘蓋の層数によっても違いを表していたと考えても良いのではないだろうか。
仏塔と仏ネパールのカトマンドゥ盆地で見た仏塔として、カトマンドゥの西方2㎞の丘
の上に立つスワヤンブナート、東方約7㎞にそびえる世界最大のスツーパといわれるボダ
ナート、それにカトマンドゥ盆地の西南の丘上のキルティプルのチランチェ・スツーパな
どがある。最後のキルティプルのスツーパは小型ではあるが、アショカ王が創建した84,000 基の仏塔のひとつであると伝えている。インドで成立
した仏塔は、中国を経由して日本へと伝来する。半球型の仏
塔とその上の傘蓋は、それぞれ伏鉢、九輪として日本の
仏塔に引き継がれている。
密教の仏尊のひとつに「白傘蓋仏頂(シタータパトローシュニーシャ)」がある。如来の肉髻を神格化したもので、仏を表す象徴物である三昧耶形は、白傘蓋仏頂の場合は白傘蓋である。その尊像は『尊勝仏頂軌』巻上には、五智宝冠を被り、左手に白傘蓋が乗った蓮華を持ち、右手の掌を揚げていると記されている。
また、『一字仏頂輪王経』巻第一によれば、金色の体で、左手を胸に当てて白傘蓋が乗った蓮華を持ち、右手は半開きの蓮華を持つという。この白い傘蓋は古代インドにおいては王権の象徴であったという。
傘蓋はインドにおいて王権から宗教的権威の象徴へと変化
し、仏教とともに日本にもたらされたのである。図21:相輪(薬師寺三重塔)
(3)古代日本の蓋
家屋文鏡日本では古墳時代には既に蓋が伝来していた。
奈良県北葛城郡河合町の馬見古墳群の中に佐味田宝塚古墳がある。4世紀末から5世紀初頭に築造された前方後円墳で、墳丘全長は111.5m、後円部直径は60mある。明治14年(1882)に約36面の銅鏡など、多数の副葬品類が出土した。
その銅鏡の1枚が「家屋文鏡」(宮内庁書陵部蔵)である。直径22.9㎝の鏡の裏面に4棟の建物が表されている。日本製の鏡で、当時の家屋の形状が判明する貴重な銅鏡であるが、ここに蓋が描かれているのには注目させられる。
A 棟は竪穴式住居である。屋根上部は切妻で、下部は円錐状の屋根本体である。左側中段に斜めに突き出ている部材は、跳ね上げられた扉と考えられる。その下部には柵が設けられ、ここに蓋が斜めに立てかけられている。この建物は4棟の中で最も大きく描かれているのが特徴である。
B 棟は高床式倉庫で、妻ころびの激しい切妻形の屋根をのせ、3本の柱を描いている。右手に階がかけられており、階下の柱間には山形が3つずつ描かれている。これは蓆のようなものを垂らして雑物の収納に用いたものと考えられている。
C 棟は高床式住居で、寄棟形の屋根をのせ、4本の柱を描いている。右手に手摺り付きの階、左側には柵が設けられ、建物の床下地面中央から蓋が斜めに立てかけられている。B 棟と同様に階下の柱間には連続して山形が描かれ、床下収納を表すと考えられる。
D 棟は壁構造のある平地住居で、C棟の床を取り除いたような形状をしている。
図22 :家屋文鏡の家屋図の描き起こし(堀口捨吉博士の復元的模写)
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平井聖(建築史家。1929~)の説によれば、A棟は集落の人々が集まる施設(竪穴)、B棟は集落の穀倉(高床)、C棟は貴人のすまいである衣笠の描かれた高床の住居、D棟は集落を構成する一般の人びとの平地住居であるという。
平井氏が、A棟を一般的な竪穴式住居ではなく、集会施設であると考えた最大の理由は蓋の存在であろう。C棟のように権力や権威を示す蓋が立てかけられた高床式住居を貴人の住居とすることは、多くの人たちの賛同は得やすい。
それではA棟のように一般人の住居と考えられる竪穴式住居になぜ蓋が存在するのか。平井氏はA棟は集会所であるという。すなわち政治の場である。当時の政治は宗教的権威をもとにした神権政治であったと考えられるので、そのような宗教的権威を表す標識として蓋が用いられたのではなかろうか。
A棟とC棟のいずれの蓋も長い柄がついており、傘上には飾りが2本立つ。そして傘直下の柄から垂れるように2本の短い線が描かれ、なんらかの飾りを垂下していたものと考えられる。古墳時代の蓋に華やかな装飾がつけられていたことは間違いない。蓋形埴輪埴輪は3世紀後半から6世紀後半の古墳に建てられた土器の一種である。弥生時代後期後葉の吉備地方で作られた弥生墳丘墓の特殊器台や特殊壺が、埴輪の起源であるという。古墳時代前期初頭、3世紀中葉から後葉になると、前方後円墳の築造にともなって円筒埴輪が作られるようになる。4世紀前葉になると、家形埴輪や蓋形埴輪、盾形埴輪などの器財埴輪、それに鶏形埴輪などの形象埴輪が登場する。4世紀後半になると、埋葬施設のある墳頂部に家形埴輪を据え、その周囲に盾形埴輪や蓋形埴輪を立て並べ、その周囲をさらに円筒埴輪で囲むという整然とした配置が行われるようになる。そして、古墳時代中期中葉、5世紀中頃には巫女などの人物埴輪や犬や馬などの動物埴輪が出現する。考古学では、家形埴輪は被葬者である首長の生前の邸宅、あるいは死後の世界での邸宅を意味するという。そして、蓋形埴輪は首長の権威の象徴であると解釈されている。
蓋形埴輪は全国各地で出土している。その中には単純なドーム状の笠部だけのものもあるが、多くの蓋形埴輪には笠部の上に巨大な立ち飾り部がつくものが多い。
日本に伝来した蓋は、当初から華やかな飾りがついたものであったと考えられる。
三重県松阪市宝塚町・光町に宝塚1号墳が所在する。宝塚1号墳は全長111mの伊勢国最大の前方後円墳であり、古墳時代中期初頭の5世紀初頭頃に築造されたものである。松阪市と市教育委員会は平成11年度(1999)に保存整備事業に伴う発掘調査を実施した。この調査によって、家形・囲
形・蓋形・靫形・甲冑形・大刀形・円筒な図23 :蓋形埴輪の概念図
ど多数の埴輪が出土しているが、特に注目されるのが船形埴輪である。これは全長140㎝、全高90㎝にも達する巨大な船形埴輪で、船形埴輪としてはこれまで発見された中で最大である。また、船内に大刀1基、威杖2基、蓋1基などが立てられているのが特徴である。大刀は威厳を示し、威杖は王者の持ち物であり、蓋は権威を象徴すると解釈されている。
滋賀県守山市播磨田町の八ノ坪遺図24:宝塚1号墳出土の船形埴輪跡では、平成6年(1994)から7年にかけての発掘調査において旧河川道跡から蓋(衣笠)の木製の立ち飾りが出土している。一緒に出土した土器から、古墳時代前期、4世紀のものであるという。これは蓋の実物資料であると共に、立ち飾り部が木製であったことが分かる貴重な資料であるといえる。青蓋車『日本書紀』巻第十五に次のように「蓋車」が書き記されている。
をけのみこ
「(清寧天皇)三年(482)の春正月の丙辰の朔に、小楯等、億お計け・弘計を奉りて、摂津国に致る。臣・連をして、節を持ちて、王の青蓋車を以て、宮中に迎へ入れまつらしむ」
億計王とその弟の弘計王は、西暦456年に父の市辺押磐皇子(履中天皇の子)が雄略天皇によって殺害されると、兄弟共に逃亡し、まず丹波国与謝郡に身を隠し、後に播磨国明石に身を潜めた。兄弟は丹波小子と称し、縮見屯倉首のもとで牛馬の飼育に携わった。清寧天皇二年、播磨国司であった伊予来目部小楯が明石郡に新嘗の供物を供えに訪れた時、縮見屯倉首の新築祝いの関に出席した。その宴の席で弟の弘計王が歌に託して王族の身分を明かした。その報に接した、子のいない清寧天皇は大いに喜び、翌年には2王子を青蓋車で宮中に迎え入れ、4月には億計王が皇太子となった。清寧天皇が崩御した後、兄弟で皇位を譲り合ったが、西暦485年に弟の弘計王が即位して顕宗天皇となった。しかし、わずか3年間の在位で崩御したため、兄の億計王が即位して仁賢天皇となった。
それでは、この「青蓋車」とはどのような車両だったのだろうか。
『後漢書』「孝桓帝紀」第七に次のような青蓋車の記事が載せられている。
「本初元年(146)、梁太后は帝を徴して夏門亭に到ると、将に女弟を以て妻とした。質帝が崩ずる事態に会うと、太后は遂に兄の大将軍梁冀とともに策を禁中に定め、閏月の庚寅に梁冀を使いとして持節させ、王の青蓋車を以て帝を迎えて南宮に入れると、其の日のうちに皇帝に即位した。時に年は十五、太后は猶も朝政に臨んだ」
また、『後漢書』「孝献帝紀」巻第二十六の初平二年(191)夏四月の項にも次のような青蓋車の記載がある。「是において董卓は金華青蓋車に乗るようになり、時の人は号して竿摩車かんましゃとしたが、こ
れは逼上しひつじょうていることを言ったのである也」
『三国志』最大の敵役董卓が、皇帝の乗り物である金華青蓋車を使用するようになり、人々はこれを上に逼せまる(僭越の沙汰である)と言ったというのである。
「孝桓帝紀」に「王の青蓋車」と記されたように、この蓋車は王位にある貴人が乗る車馬であった。字句通りに考えれば、青い色の蓋が立つ二輪馬車であったと思われる。しかし、「王の青蓋車」という表記法は『日本書紀』と同じである。また、億計王と弘計王を迎えに行く話は「孝桓帝紀」の話と同音異曲であり、『日本書紀』のその一節が『後漢書』を参考に書かれたことは間違いないと思われる。
日本では馬車などの車両はほとんど発達せず、広く普及することはなかった。はたして当時の日本で青蓋車のような馬車が使用されたのだろうか。
馬車に関係する考古資料がわずかながら存在する。長崎県壱岐市の原の辻遺跡は、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模な環濠集落遺跡である。平成12年(2000)、弥生時代中期から後期(B.C.1世紀~A.D.2世紀)の土器溜から、青銅製の車軸頭と推定される馬車具の一部が出土している。これは漢代(B.C.202~A.D.220)の楽浪郡(現代の平壌市周辺)で製作されたもので、大きさは高さ2.1㎝、胴最大径3.7㎝で、24.の重量がある。ミニチュア馬車の車軸頭で、宝器として用いられたと推定されている。しかし、残念ながら、この遺物では日本に車馬が伝来していたことを証明することにはならない。
平成11年(2000)11月から始まった奈良県桜井市大字池内・山田地区の圃場整備事業に伴う事前調査において、埋没していた小立古墳が偶然発見された。全長34.7mの帆立貝式前方後円墳で、出土遺物から5世紀後半の築造と考えられている。この古墳は谷奥から流出した大量の土砂で埋没したが、この堆積した土砂の中から車輪が出土した。タイヤ部に相当する輪木の約半分近くが出土し、同時にスポーク部に当たる輻や部が3本、車軸留めと思われる木製品が4分の1ほど出土した。アカガシで作られた輪木は、外側の大羽と内側の小羽を組み合わせたもので、.孔に輻を通す構造になっている。車輪が埋まっていた砂層から7世紀後半の土器片が出土していることから、車輪も同時期のものと推測されている。この車輪の構造から、当時きわめて優れた車輪製造技術が日本に伝来していたことは間違いないであろう。
現在のところ、日本国内での車馬の存在を示す遺物は7世紀後半までしか遡らないようである。5世紀後半、中国や朝鮮半島では車馬が盛んに使用されていたことから、日本に車馬が伝わっていなかったとは言い切れない。日本の一部とはいえ、蓋車が使用された可能性を完全に否定することはできないと思われる。
注
(1)T. S.クロフォード『アンブレラ傘の文化史』別宮貞徳・中尾ゆかり・殿村直子訳、八坂書房、2002.8.26 。
(2)八丈一尺は一丈が10尺なので、81尺となる。森浩一によれば、新王朝の1尺は
24.1㎝であるといい、それを当てはめれば、華蓋の全高は19.52 m となる。
参考文献
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曽布川寛『崑崙山への昇仙』中公新書635、中央公論社、1981.12.20。
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信立祥『中国漢代画像石の研究』同成社、1996.3.31 。
・『
中国甘粛省文物展』(展示図録)、新潟県・中華人民共和国甘粛省発行、1990。
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鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』講談社学術文庫1656、講談社、2004.5.10。
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仲嶺真信「いわゆる天蓋についての再検討-仏教美辞湯津における天蓋を中心にして-」『芸術学論叢2007・№17』別府大学文学部芸術文化学科、2007.2.28。
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河田貞『仏舎利と経の荘厳』日本の美術280、至文堂、1989.9.15。
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木村徳国『古代建築のイメージ』NHKブックス336、日本放送出版協会、1979.2.20。
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潘.茲『敦煌の石窟美術』中公新書589・中央公論社・1980.9.25。
図・写真
図1・3・4・5・6・19・20・24=筆者作図図2=『崑崙山への昇仙』より図7=『敦煌の石窟美術』より図8~18=『欽定四庫全書』より図21=近藤豊『古寺細見』大河出版・1969より図22=『古代建築のイメージ』より図23=九州前方後円墳研究会編『九州の埴輪その変遷と地域性』2000より写真1=『中国漢代画像石の研究』より写真2・3=筆者撮影写真4=保坂三郎『古代鏡文化の研究2日本原史・奈良』雄山閣出版株式会社・1986より。
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