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武道・スポーツ科学研究所年報・第11号・平成17年度
東アジアにおける武術の交流と展開
(1)
(2)
魚住孝至(代表)、吉田鞆男、大保木輝雄、阿部年晴、
田中 守、高橋克也、大石純子、仙土克博、朴周鳳
*国際武道大学 **獨協医科大学 ***埼玉大学
****八洲学園大学 *****新陰流研究会
******早稲田大学大学院
本プロジェクトは、日本文化史を専門とする魚住が代表者となり、古流剣術を継承・研究する吉田氏とその門人の仙土氏、剣道を専門とする大保木氏、田中氏、朝鮮武術に詳しい大石氏、日本の新陰流を研究する朴氏、哲学が専門だが中国武術の造詣もある高橋氏、文化人類学が専門の阿部氏の面々が参加した共同研究である。
各自の専門性を活かして、日本の武道のあり様と性格を深く研究するとともに、朝鮮や中国の武術も視野に入れ、各々の社会的・文化的背景も含めて比較して、日本の武道の文化としての特性を捉えることを目指した。
二〇〇三年度に発足以来、全体会議は計十二回行ったが、これ以外に吉田氏を中心に個別の研究会や報告書作成の会議を多数行なった。研究会では、軸となる日本の武道の性格について、特に古流剣術の術技に即して考えてきたが、刀を前提とした古流剣術と竹刀打ちをする撃剣、さらには近代剣道との違い、武士と刀に対する民俗的な心性、東アジアの各地域の比較文化論等も討議してきた。
今年度は、五月に昨年度までの研究会の成果を総括するとともに、本年度の計画について話し合った。七月には、大石氏が朝鮮の『武芸図譜通志』(一七九〇)の材料の一つと見られるが、日本ではあまり知られていない『武芸諸譜翻訳続集』(一六一〇)について発表し、またゲスト・スピーカーに林伯原氏を招いて中国の『紀效新書』(一五五二/八八)と『武芸図譜通志』の関係について発表をしてもらい、討議した。九月には、魚住、吉田、大保木、朴の各氏が韓国に赴き、ソウル大学校の羅永一准教授や韓国伝統武術の復元を図っている崔炯國氏に会い、水原華城での復元武術の演武を撮影し、また豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本から朝鮮に帰化した「降倭」の武人・「沙也可」金忠善を記念した鹿洞書院も訪れ、韓国武術の資料を収集するとともに、伝統社会の民俗も含めて調査した。十一月には韓国調査の報告と吉田氏の日本の剣術の性格について発表があった。三月の最後の研究会では、これまでの議論を総括するとともに今後の展開を話し合った。
今年度の報告書には、今までの議論をまとめた魚住の覚書と吉田氏の研究会での発表論文を掲載する。東アジアに視点を置いた比較武術論はまだ覚書で、今後厳密に検討、研究しなければならないが、日本の武道の大まかな特色づけが一応出来たのではないかと思っている。
また日本の武道文化が形成されてくる様を具体的に見るために、過去二年間の報告書では、中国・朝鮮の武術書にも載せられている陰流の組太刀「燕飛」とそれを展開させた新陰流の「三学」について、その仕様を記した古文書『新陰流表討太刀目録』(一六八五)を翻刻・注解するとともに、この叙述に基づき伝承の技を検証した演武の写真を掲載して、古流剣術の真正な形の術技に迫ろうとした。今年度は、陰流から新陰流への展開と新陰流が発展して社会に定着し、今日に伝わるまでの過程を魚住が概説するとともに、新陰流の極意と言われる「轉」についての吉田氏の論を掲載することにする。
東アジアにおける武術の交流と展開 覚書
魚住 孝至
はじめに.問題意識
我々のプロジェクト研究のテーマは、「東アジアにおける武術の交流と展開」である。このテーマに関係する問題領域は非常に広いが、ここでは、十六世紀半ばから十九世紀にかけて、日本、中国、朝鮮、琉球の間の武術の交流とそこから展開したそれぞれの武術文化を問題にしたい。いずれの地域においても、武術の歴史は古くからあり、また交流もあったはずだが、今日の武術につながっているのは、十七世紀からの近世以降の歴史だからである。そして十九世紀からは、それぞれの社会でも内部からの変革の動きが顕著になるとともに、欧米列強の圧力が次第に顕著となり、それぞれの社会が流動化するので、それ以前の伝統文化としての武術のあり様を探ろうとするのである。
ここで「東アジアにおける武術の交流」というのは、十六世紀後半に東シナ海で「倭寇」が猛威を揮う中で、その攻撃から防衛するために、倭寇が行っていた日本の剣術が中国・朝鮮で研究され、それぞれの武術文化の形成に影響を与えたことを念頭に置いている(注1)。日本の倭寇から得たとする陰流の目録が、中国の軍事書『紀效新書』(一五八八)や『武備志』(一六二一)などに載せられている。それも単に記録として載せたのではなく、十六世紀末には、この剣術を破る戦法を考案するためであり、実戦的であった。『紀效新書』は朝鮮で翻訳され、朝鮮武術にも大きな影響を与えている。
その後日本では、十六世紀末に統一政権が出来、倭寇が禁じられたが、豊臣政権は日本を統一した勢いを以って朝鮮に二十万の大軍を送って侵略し、李朝朝鮮と援軍を送った中国・明に、大きな軍事的・政治的打撃をもたらした。しかし十七世紀に入り徳川政権に代わると、しばらく統制貿易を行うが、やがて交易・交流を厳しく制限・管理した海禁的状況の中で独自の文化を展開させた。一方、中国では、十七世紀に入ると各地に内乱が起って明王朝も末期の様相を示し始める。そしてこの世紀初頭に東北部に興った満州族の清が中国本土に侵入し、終には一六四四年明を滅ぼして中国本土を支配するに至る。清は、満州族を支配階級とし、漢民族に弁髪などを強制するが、政治制度自体は中国化して、科挙による官僚制に拠った中央集権体制をしき、十七世紀末には中国全土を支配し安定するに至る。他方、朝鮮では、十六世紀末、日本軍に国土を蹂躙されたが、民衆の抵抗と明の援軍により辛くも李朝は存続することになった。けれども十七世紀初期には清の度重なる侵略でその支配下に入ったが、中国で漢民族の明が滅ぶと、むしろ自国こそ中華の文化を継ぐものであるとするようになる。また十五世紀に中継貿易で栄えた琉球王国は、十七世紀初頭、薩摩藩の侵略にさらされるが、中国との朝貢関係は持続させて、日中に両属しつつも一応王国としての独立を維持して、琉球文化を展開させるのである。東アジアでは、ヨーロッパ諸国の貿易への進出もあって十六世紀後半から大変動が生じたのであるが、十七世紀後半にはいずれの社会も安定するようになり、それ以降十九世紀まで、各地域ではそれぞれの伝統社会が展開していったのである。
十七世紀後半以降の近世社会の中では、日本、中国、朝鮮、琉球で、それぞれ独自な武術文化が展開した。武術のおける交流は、十七世紀初期に中国拳法が柔術の成立に影響を与えたと言われる他は、日本と大陸間で交流はほとんどなかった。そして日本では、剣術流派を中心に武士としての心掛けの涵養に大きな意味を置いた「武道」と呼ばれる独特の文化の原型が形成されている(注2)。中国では、明末の「北虜南倭」と呼ばれる、北方での遊牧民族、南部沿岸での倭寇との抗争の中で、旧来の武術が革新され、主に武官によって武術書が残されている。中国では、軍隊武術と民間武術に分かれるが、民間武術の中で、今日につながる多くの門派が生まれている。中国と朝鮮の間では、明末に日本の侵略に対して共同で戦ったので、その分密な交流はあったが、清が中国を支配して以降、交流は限定的であった。琉球の手(空手)は、琉球王国及び薩摩藩の厳しい禁武政策下、中国拳法の影響を受けて秘密裏に展開したと言われている。
したがってプロジェクト研究の主眼は、十六世紀の武術の交流を踏まえつつ、十七世紀以降のそれぞれの地域での展開した武術、すなわち「東アジアにおける武術の展開」を問題にすることである。比較文化論的視座が重要であるが、相互の比較をする軸として、まず日本の武道の性格を明らかにすることが目指された。何故なら日本の武道は、明確な文化の形を取り、後への影響も大きく、何より我々自身の拠って立つ所だからである。それ故、このプロジェクト研究の核となるのは、日本の武道文化を、それが独自の形を取って来る以前から、東アジアという広い視座から見直して、何故日本において武道文化が成立したのか、そして武道文化の基本的な性格は何であるのかを明らかにすることである。
(注1)十六世紀、日本では中央権力の統制が失われ、中国は明が海禁政策をとる中で、日本から朝鮮、琉球、中国の島嶼によった民間貿易が盛んであった。その中で武力で中国沿岸部を攻撃し略奪を働く「倭寇」と呼ばれる集団が跳梁した。特に一五四八年から六六年まで激発した「後期倭寇」は、日本人は約二割程度で、中国人・朝鮮人の「海寇」が多数を占めた。当時は国籍などもちろんなく、彼らは海洋民として、東シナ海を自由に航行し、中国沿岸部を集団で襲撃していたのである。ほとんど裸体で刀を差し、弓矢で攻撃した後、刀を振り回して切り込んでくる、というのが、倭寇の典型的なイメージとされた。この倭寇の討伐に当たった明の武官・戚継光の『紀效新書』十四巻本(一五八八刊)には、一五六一年の「陣上に得た」「倭夷の原本」として、「影流之目録」を載せている。これは、陰流の組太刀「猿飛」の断簡で、「猿飛」「猿回」「山陰」の技名を影印しているが、これがそのまま『武備志』にも再掲載されている。
(注2)「武道」は、厳密に言えば近代日本で西欧的なスポーツに対して伝統を再構成して成立した運動文化を指す名称であるが、近代以降の武道は、すでにスポーツ化しており、伝統的な独自性を失っているので、近代以降の武道の母体となった近世の武術・武芸を問題にする。近世日本の武術・武芸は、流派として長期間の修練を要する専門的な技法の体系と稽古法を持ち、歴史的な伝承があり、しかも技術習得には精神的な意味づけがされ、武士によって修練されたものであり、明らかに独自の文化となっていた。当時「武道」とは呼ばれていなかったが、近世に展開した武術・武芸が、今日の武道の土台であるので、これを「原義としての武道」として問題にするのである。近代以降に展開した武道は、ここでは「広義の武道」として区別し、その内容については次の段階で研究することにする。
一.東アジア社会の比較と日・中・朝の武術の特徴
まず比較文化論の視座を持って、日本、中国、朝鮮における社会と武術のあり様の違いを概観しておきたい(琉球については、ここでは言及しない)。
中国・朝鮮では、文官の官僚が主導する中央集権国家の中で、武術は軍隊武術と民間武術に分かれ、国家による軍隊武術が展開した一方で、民間武術は宗教団体や秘密結社との結びつきが警戒され、自由な展開は禁じられていた。いずれの社会でも、儒教が正統イデオロギーとされていたので、武に対する蔑視が広く見られ、武術は教養人・知識人層からはほとんど無視されていた。武官は、武科挙によって選ばれたので、科目にある弓や馬、刀術などを修めるための学校(「武塾」)もあったが、それ以外の武術は警戒された。傭兵制のため、その訓練として、集団の実戦性に貫かれた軍隊武術が展開した。そのため武官によって編纂された軍事・武術書以外、伝書がほとんどなく、武術鍛練に精神的な意味付けをすることはなかった。
中国では、特に明代後期の十六世紀半ばから「北虜南倭」で、北には遊牧民の侵入があるとともに、南の海岸線は倭寇に襲来されたので、実戦的な軍事力の増強が問題で、武術が軍隊訓練にも取り入れられた。また民間武術でも多くの門派が生まれ、近代・現代につながる門派も生まれていた。門派では、拳、槍、棍が同時に訓練されていた。武術書も、倭寇討伐にあたった将軍たちを中心に、今までの武術を統合、網羅した書も著された。唐順之(一五〇六.六〇)は『武編』、兪大猷は『剣経』、戚継光(一五二八.八七)は『紀效新書』十八巻(後十四巻)をそれぞれ著したが、これらは練兵の過程で生まれた実戦的な軍事教本であった。『紀效新書』十四巻本には、一五六一年に倭寇討伐の中で得たという陰流の目録の断編が影印されている(注3)。戚は、倭寇の剣に対して、剣を払い落すための狼筅の武具も考案し、六人一組で戦う戦法を編み出し、それを訓練して、倭寇の掃討に大きな功績を残した。また民間では、少林寺の武僧出身の程宗猷『単刀法選』は、「倭の真伝を得た」という「浙師劉雲峰」に習った剣術を図解し、本編二十二勢、続刀勢図十二勢の図と説明を載せている(注4)。茅元儀は『武備志』二百四十巻を編集したが、その中に『紀效新書』にあった影流目録を再録するとともに猿が「猿飛」を遣う絵七図、また「朝鮮勢法」二十四図も載せている(注5)。
けれども倭寇の襲来が収まり、十七世紀半ば明末から清初にかけて、軍隊で小銃と大砲が発達したこと、さらに清が重視した騎兵では双手の剣は不適であるので、日本の剣術に関する研究は低調となり、やがて剣術は少数民族のものを除いてほとんど消滅している。倭寇の剣術は、以降の中国武術にそれほど影響を残さなかったと言える。
十七世紀半ば、満州族によって支配された清代になると軍隊武術は展開したが、民間武術の自由な展開は禁止されていた。そうした中で、武術は明代から発達した門派の中で、拳法、槍、棍などが展開していた。それらは、一方では職業芸人的な華法化した演武と、他方では道教的な養生・健康法的意味づけをされて一般に展開していったものがあった。また少数民族や特定地域では、自衛手段であることもあって、武術は行われていたが、その民族や地域を越えて広まることはなかった。
朝鮮では、一五九二年の豊臣秀吉の朝鮮侵略により、戦国の合戦に慣れた二〇万もの日本の軍隊が蹂躙したので、大きな犠牲が出て、国土は荒廃した。戦闘では、当時の最先端であった小銃の威力が大きかったが、鋭利な日本刀による剣術も、朝鮮の軍民にとって脅威であった。日本の軍隊の占領各地で「義兵」がゲリラ戦を行った他、中国・明からは、五万の援軍が送られてきた。
この戦争で、朝鮮王朝は、軍隊に剣・槍の訓練の必要性を痛感し、明派遣の将軍からそれらを教授してもらうとともに、倭寇討伐の練兵法を記した『紀效新書』の翻訳を試みた。韓.の『武芸諸譜』(一五九八)はその内の六技を訳すとともに、兵士にも理解しやすいように動き方を示す図譜を入れた(注5)。ただ訳した『紀效新書』は、影流目録入手以前の十八巻本であったので、後には倭剣が載った本の訳もなされ、崔起南の『武芸諸譜翻訳続集』(一六一〇)が作られた(注6)。
二次、六年間にわたる侵攻の中で、日本の将兵の中には朝鮮側に寝返った「降倭」が五千名もいたが、彼らは厚遇された朝鮮側で戦うとともに、小銃の扱い方から制作法、また日本剣術を朝鮮側に教えたようである(『宣祖実録』)。
侵攻した日本軍は、補給に苦しみ、義兵によっても苦戦に陥っていたので、一五九八年の秀吉の死を機に撤収した。十七世紀に入ると、北方から満州族の清が浸入、三度戦って、李朝朝鮮は終にその支配に屈することになった。けれども清が中国本土を支配するようになると、朝鮮には小中華意識が芽生え、儒教の支配力はより強くなった。
李朝では文官と武官が両立する両班制度が確立したが、武を貶める儒教の正統イデオロギーの強い支配のもとでは、文官が常に優位であり、武術の発展はあまり見られなかった。ただ降倭の将を中心にした朝鮮の小銃の練度は高く、清がロシアと衝突した際に、要請され派遣された朝鮮の小銃隊は、数に勝るロシアの軍を敗走させている。
朝鮮の武術には、中国における門派や日本の流派に相当する伝統的に確かなものは見当たらない。武術書としても、『武芸図譜通志』(一七九〇)がほとんど唯一挙げられるのみである(注7)。これは、十八世紀末の伝統文化見直しの気運の中で編纂されたもので、中国武術と日本の武術、さらに朝鮮の伝来とする武術二十四種を並べて図解したものである。東アジアの武術がまとめて見られるので、比較武術論としてよく引用されるが、この書の成立過程は複雑で、それらの内容がどこまで中国・日本・朝鮮の武術の実態を伝えたものかは慎重に考えなければならない。
『武芸図譜通志』の基になったのは、上述のように十六世紀末の『紀效新書』の翻訳から成った『武芸諸譜』の六技である。影流目録も載せて倭剣に詳しい本を翻訳した崔起南『武芸諸譜翻訳続集』も続けて作られたが、これとの関係は不明である。その後、一世紀半の後、大規模な戊申の乱の影響が残る中で、軍隊の訓練の教材とすべく、英祖の命で官修の『武芸新譜』(一七五九)が作られた。この書で『武芸諸譜』の六技に新たに十二技が付け加えられたが、「竹長槍」、「鋭刀」、「提督剣」、「拳法」、「鞭棍」など九技は中国から伝わったもの、「倭剣」と対人的に描く「交戦」は日本から伝わったもの、また朝鮮伝来の「本国剣」が載せられたと言われる(『武芸図譜通志』「兵技総叙」)が、今日『武芸新譜』の原本が見つからないので、詳しいことは不明である。そして三〇年後に正祖の命で『武芸図譜通志』(一七九〇)が編纂された。『武芸新譜』の十八技に、「騎槍」、「馬上月刀」、「撃球」など馬上での六技が中国文献に基づいて加えられ、計二十四技の説明と図譜が載せられている。
『武芸図譜通志』で注目されるのが「倭剣譜」と「交戦譜」である。これらは「軍校・金體乾」が使臣に随って日本に入った時に「剣譜を得、その術を学んだ」ものに拠るとして、「土由流」、「運光流」、「千柳流」、「柳彼流」の四流の剣譜と図譜が載せられている。金體乾は「粛宗」の使節という記述があるので、一六八二年の朝鮮通信使に随行した時のことのようだが(注8)、この四流が日本の何流に当たるものか不明で、またここに載せられてものが、どこまで日本の流派の剣術を正確に伝えているか問題である。
また朝鮮の「本国剣」が載せられているが、朝鮮の三国時代の新羅の花郎を起源とすると説明しているが、実際には中国の『武備志』に載せられた「朝鮮勢法」に拠った記述のようである(注9)。
今日の韓国伝統武術と言われるものは『武芸図譜通志』に記されたものに由来しているものがほとんどであるが、元来この書自体が翻訳を基に複雑な過程を経て編纂されたものだったのである。二世紀のタイムラグを経て、依然として翻訳を基にして勅命による武術書を編纂し、ほとんどこれが伝統武術の唯一のテキストであるというのは、朝鮮においては武術の独自な発展があまり見られなかったことを示していると考えられる。
これに対して日本では、武力を持った武士が支配階級としてあり、武術ははるかに尊重されていた。十六世紀後半に戦国大名が割拠する状況から、鉄砲(小銃)が伝来するやたちまち国産化されて大量生産され、鉄砲と槍の集団戦法によって合戦の形態も一変した。個人の剣術が実戦性を大幅に失ったまさにこの時代に、剣術の流派が形成されてくる。鉄砲と槍を装備した常備軍を作り上げ、中央を抑えた織田信長は統一する途上で倒されたが、後を継いだ豊臣秀吉は関白という古代以来の朝廷の権威を利用して、戦国大名同士の合戦を禁じる惣無事令を公布、違反した大名を滅ぼし、臣従した大名には領国を保証して、終に一五九〇年、日本統一を成し遂げた。豊臣政権は、全国にほぼ一律の検地を行って生産高を把握した石高制を敷き、諸大名に臣従を誓わせ、軍事的指揮権を持っていた点では統一政権ではあったが、半面大名が領国を支配し経営することをそのまま認めていたという点では、戦国を凍結しただけという性格も持っていた。豊臣政権は、検地で耕作者を直接把握するとともに、刀狩りをして武士以外の者が太刀を帯刀することを制限し、さらに身分法令で武士と庶民が流動化することを禁じ、兵農分離を行って下剋上を停止させようとした。当時刀は成年男子の独立の印として、庶民も広く帯刀していたが、これ以後、刀は武士の象徴としての意味を帯びるようになる(注10)。
豊臣政権は、日本統一から朝鮮侵略へと進んで失敗し、自らの基盤を崩したが、これに取って代わった徳川家康は、武家の棟梁である征夷大将軍となって、幕府を開いて諸大名を臣従させた。徳川政権は、天下を二分した合戦の勝利を出発点としたので、反対勢力を一掃して要地を抑え、家臣を大名に取り立て、広大な直轄地を持って権力を強化したが、諸大名の領国の政治・経済には手出しせず、各藩が独立国家であった点では、依然戦国を凍結した封建制であった。兵農分離は一層徹底され、武士は城下町に集住して、士農工商の身分制はより強固になった。人口の5、6%である武士階級が政治を独占した。十七世紀初頭で、全国規模の合戦は終息し、以後二五〇年にわたって「徳川の平和」(パクス・トクガワーナ)が続いたが、武士はタテマエとしては戦闘者であり、いざという時の覚悟は求められたが、実質は幕府や藩の組織の中で官僚として務めることになった。
こうした武士社会の中で、武術は独特の文化の形をとって展開していった。十五世紀後半から一世紀以上続いた戦国時代に、武術は次第に専門・特化して流派が生まれた。十六世紀中葉には、弓術、馬術、剣術、槍術、薙刀、柔術、泳法など多岐にわたって流派が成立していた。初期の流派は実戦的であり、合戦での戦いに応じた総合武術としての性格も持っていたが、流派として、独自の技法とその教授法を持ち、組織化されていた。十七世紀に入ると、支配階級になった武士の間で、兵法師範として社会的な位置づけも明確になって、流派武術は展開していった。その間に、武術は実戦本意のものから、武士としての人格形成の意味合いを持つようになり、単なる術ではない、武士の生き方をも含意する〝武道.となったのである。
武道が成立した背景には、中国・朝鮮とは異なった日本の様々な特殊事情があった。日本は四囲を海で囲まれ、対外戦争や異民族が浸入してくる危険がほとんどなかったため、この時期には国土を防衛する軍隊はなく、国内の戦争に終始し、その内戦が収まって以降、兵はほぼ治安の維持に専念していた。日本の合戦は伝統的に武士の個々の戦いの集積となる傾向が強く、武士の個の意識が非常に高かった。近世になって平和が続いたが、武士は元来武力で権力を握ったのであり、藩組織も軍制のタテマエの上に成り立っており、いざという時に戦う者たることが観念上は絶えず強調され反芻されていた。各藩の軍備は幕府による厳しい統制下にあり、鉄砲や大砲の火器の装備は制限されていた。兵農分離が徹底された中で、武士が常時帯びる刀は、階級的表徴であるとともに、個々の武士の独立心の表れでもあった。科挙の試験で選ばれた中国・朝鮮の官僚とは異なり、武士は生まれながらにして武士であった。武士にとってブッキシュな教養よりも、いざという時の勇気が重んじられた。個々の武士の武装は自弁で、武道は武士の〝noblesse oblige.としての性格を持っており、組織に埋め込まれた家臣が独立した戦士の心性を涵養する場であった。武士たちは流派の道場で自発的に訓練していた。十九世紀に藩校が一般化するまで、公的機関としての武術学校はなかった。流派の免状が何かの資格になる訳でもなかったが、彼らは武士たる限り、武士たらんとして道場に入門したのであり、代々続くコミュニティの中で黙々と修し、武術だけではなく、武士としての作法も教養も学んだのである。
流派は独自の技術体系を持ち、独自の理論を持っていたが、前提となる刀に対する思いは共通していた。「わけのぼる麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」と、目指すところは共通するとの思いがあった。これは剣術の流派間だけでなく、柔術や弓術、槍術などの流派、さらには様々な芸道にまで共通だとする観念さえあったのである。流派の中で、伝書が数多く作られた。日本では、すでに十五世紀から歌道や能楽などの芸道の中で、流派の伝統があり、伝書の形式もあった。そして禅仏教の浸透もあって、観念的な形而上学への不信が強く、かえって個々の具体的な芸の絶えざる修練の中に形而上的なものを体験する通路を見出すという傾向があった。
そうした独特の精神風土の中で、十七世紀前半、将軍や大名周辺にいた武術家によって、流派武術の鍛錬の精神的な意味づけを説いた書物が作られた。『兵法家伝書』や『五輪書』などは、武術が単なる術ではなく、武士としての心構えの根底を形成する〝武道.であることを強調した。けれども官製の武術編纂書は作られなかった。幕府も藩も終に流派を統制・統合することもなかった。そもそも流派武術が、兵士の訓練に直接採用されるということもなかった。流派武術の中心は剣術であったが、それは実戦性よりも、いざという場合の個の覚悟が問われる泰平下の社会の中で、武士の独立心から刀の個人芸への強い志向を持っていたことによると思われる。武道文化は、武士としての人格形成の意味を担っていたのである。
中国・朝鮮・日本では、社会構造の違いと武術の位置づけの相違があるが、それらが基になって、それぞれの武術の展開の仕方も全く異なった展開を見せたのである。
今、十六世紀から十八世紀にかけて展開した中国と朝鮮の武術と日本の武道の性格を比較すると、次のような傾向が指摘できるであろう。
中国武術の特質
1.軍隊武術と民間武術に分岐し、相互に依存・影響しながら展開した。
2.実戦性、軍隊的合理性が重視され、集団戦法が中心であった。鉄砲・大砲の導入後は銃火器が発達した。
3.軍隊武術では、武芸は低い位置づけで、武具に応じて様々に展開した。武科挙の科目中心に武塾はあったが、私塾は厳しく監視された(宗教・秘密結社と結びつくのを警戒)。
4.民間武術では、多くの門派が成立し、各門派の内で、拳・槍・棍などを修練した。刀と剣の伝承は非常に少なかった。
5.武術伝書はほとんどない。民間武術には知識人層は関わらず、政権の監視があった。少数民族や地方・村単位での伝承では、伝書作成の必要性がなかった。荘子的、道教的な神秘化はあっても、精神性が理論的に論じられることはなかった。伝書資料は、武官が総括的に書いた『武編』、『剣経』、『紀效新書』などに統合された。これらの書が、以後の各種武術の根本伝書となる。
朝鮮武術の特質
1.中国武術の影響が圧倒的である。十六世紀末の日本軍の侵略時に中国の将軍からの武術教授と中国武術書の翻訳を基礎として、中国武術から移入したものが多かった。
2.軍隊武術が中心。兵士の訓練に適するように簡略化し、図解した図譜を多用する。
3.武芸は低い位置づけで、武具に応じて分化している。軍隊訓練という実戦的な価値に貫かれている。
4.中国の門派、日本の流派に類する民間の伝統ある武術団体は見当たらない。
5.武術書は翻訳を基にするが一定の朝鮮化が施されている官修の編纂書が中心。図譜でやり方を図解する。対人の形(套路)は「倭剣譜」のみである。
日本武道の特質
1.支配層としての武士が武芸を自発的に修練する。封建制のタテマエの中で武芸鍛錬は武士の務めとされた。しかし、公的な学校がなく、また武芸を公的に評価するシステムもなかった。
2.実戦性より個としての武士の人格修養の性格を持っていた。鉄砲と集団戦の時代から刀へと退行する。刀の象徴性もあって、剣術が武士にとっての中心的武芸であり、流派も多い。柔術にしても相手が刀を持っていることを前提とする。
3.流派は専門技術に特化、他の武芸を包含していない。個々の武士が他の武芸の他流派に入って修練した。実戦的な訓練は、各自で工夫すべきものとされていた(抜刀の基本は個々が自宅で行うこととして、道場に持ち込まれず。また武士の家には、いざという時の心得として、半弓や鑓がいつでも取り出せる箇所に隠されていた)。
4.流派の道場は侍のコミュニティの中心であったが、公立の学校ではない。自弁の武具としての刀は個の独立の象徴で、個の覚悟が問われる。
5.武術伝書は個々の流派内で作られた。流派を統合した公的機関のものは、作成されなかった。伝書は流派の形や教育システムを書く目録が中心で、流派の心得を書く。基本的には対人的訓練であり、図譜的な動作の図解はなかった。武芸者自身がその精神的意味づけを書いた文献もあった。武士は江戸に参府するので、地方的な割拠とはならなかった。
以上の比較から明瞭になるのは、日本の武道の特殊性である。武道は、日本の社会では支配階級であった武士層が彼ら自身の文化として成立させたと見てよいものであろう。
では、実際に日本の武道は、どのような歴史的過程を経て形成されたものか、次に日本の武道の成立と定着過程を問題にする。
(注3)『紀效新書』十四巻本(范中義校釈 中華書局・北京・二〇〇一)。影流目録は巻四「長刀習法」に影印される(同書八三頁)。『紀效新書』は江戸期日本でも有名であった。荻生徂徠『鈐録』で中国の軍法を論じるのは本書による。武術論としても江戸中期、平山子龍が翻刻している。
(注4)笠尾恭二『中国武術史大観』(福昌堂・一九九四)三三八.五四頁に絵を載せ、かなり詳しく解説している。
(注5)『武備志』巻八十六に掲載。『武備志』は『中国兵書集成』第二十七.三十六巻(解放人民出版・北京・一九八九)に翻刻、剣術は第三十巻に掲載される。
(注6)『武芸諸譜』の影印版が、『原本武芸図譜通志』(ソウル・東文選・一九九八)に併載されている。
(注7)『武芸諸譜翻訳続集』啓明大学校出版部・ソウル・一九九九
(注8)『武芸図譜通志』の影印版は注6参照。
(注9)山本(大石)純子「『武芸図譜通志』にみられる刀剣技の成立に関する一考察」『武道学研究』第二三巻一号.一九九〇参照。
(注10)注9の山本論文参照。
(注11)藤木久志『刀狩り』二〇〇五・岩波新書、参照。
二.日本の武道の成立の歴史│流派剣術の成立に即して
日本の武道は、上述のように、十六世紀に専門に特化した流派の形で継承・発展していった(注12)。弓術、馬術、剣術、槍術、薙刀、柔術、砲術、泳法など多岐にわたって流派が成立したが、それらの中でも中心的で、広く行われていたのは剣術であった(注13)。それ故、日本の武道文化の成立のあり様を剣術流派に即して見ることにする。
日本では剣術は古くから発達していたが、十六世紀半ば、戦国の合戦に鉄砲が導入され、刀がその実戦性を大幅に失う頃から、かえってそれぞれの術の原理に貫かれた流派剣術が形成されてくる。大きく見れば、日本に統一政権が生まれ、兵農分離がなされ、支配階級として身分制社会が確立する中で、流派剣術はほぼ四代かかって理論化され、教育システムを確立して、十七世紀前半に武道文化として成立したのである。そして以後、武士社会の中で道場を中心に定着・伝承されていくことになる。
1.流派剣術の成立
十世紀ころにはすでに片刃の日本刀の製法は確立され、平安後期から鎌倉にかけ、弓・馬・剣・槍は、まさに武士の中心的な武器であったから、剣術の遣い方の訓練はそれなりに行われていたはずであるが、十五世紀以前の剣術については、ほとんど伝説的なことしか分からない。
念流を興したと言われる慈音(一三五一.一四〇八)、その弟子の中條兵庫助長英、鹿島の太刀と総称される飯篠長威斎(一四〇五.八八)、松本備前守政信(一四七七.一五二四)、陰流を開いた愛洲移香斎(一四五一.一五三八)などの名前が伝わっているが、流派と言ってもその剣術の内容はほとんど不明である。彼らの段階では、明らかに実戦的で総合的な武術であったと思われる。
十六世紀後半、これらの流れの中から、明確な意識で流派を形成する天才たちが出てくる。
鹿島の太刀からは、塚原ト伝(一四八九.一五七一)が、鹿島の神前に参籠して「一の太刀」を編み出し、新当流を開いた。陰流の流れから、上泉伊勢守秀綱(一五〇八.八二)が「轉」を取り出して新陰流を開いた。念流の流れから、伊藤一刀斎が「切落し」を根本とする一刀流を開いた。いずれもそれまでの流れにあった太刀から原理となる太刀筋を取り出し、他流の太刀も取り入れて、教習課程を体系化して、独自の流派を創始したのである。彼らは、諸国武者修行と称して、自らの流派を広めていった。ト伝も上泉も、将軍の上覧に供して「天下一」という称号を得ている。流派の成立には、実戦的な強さだけではなく、文化的な権威づけも必要だったのである。
十六世紀末、日本で統一政権が生まれる前後に、兵法師範という役職が出来、流派が社会的に位置づけられるようになる。流祖の直弟子であった第二世代の者たち、新当流の松岡兵庫助、新陰流の疋田豊五郎、柳生宗厳、一刀流の小野忠明らは、有力大名に招かれ、その兵法師範となる者もいた。この時期、まだ合戦が起こる緊張感ある中で、実戦性が求められるとともに、流派としての整備も進められたのである。
十七世紀初頭は幕藩体制の形成期で、多くの大名家が取り潰される一方、藩の新設や領国の移動、領地が拡大した大名家もあったので、兵法師範職をめぐり激しい競争もあった。流派の創始から第三世代の者たちは、最初から流派の教育の中で訓練され、武芸者として生きんとして他流の武芸者と競っていた。特に牢人武芸者の間では諸国武者修行も盛んであった。家康は、将軍家兵法師範に新陰流の柳生宗矩、一刀流の小野忠明を、尾張徳川家の兵法師範に柳生兵庫助を据えた。各藩とも、有力な流派の有名武芸者を兵法師範にした。
剣術も、甲冑を着けたことを前提とした介者剣術から、着流しの素肌剣術になって、技がより精妙になった。幕藩体制が確立して、合戦や実戦の可能性がほぼ無くなった状況になると、改めて剣術の意味づけが問題になる。一六三〇年から四〇年代、師範職について社会的に認知された者が、晩年に剣術の理論化と意味づけを書いた書を著した。柳生宗矩『兵法家伝書』、宮本武蔵『五輪書』、柳生兵庫助『始終不捨書』などである。これらは、流派の技法を踏まえながら自己の経験に基づいて理論化したものであり、武士の個としての修練する意味を明確に説いている。
『兵法家伝書』は、沢庵宗彭の禅の教えと導入して「剣禅一致」の思想を、将軍家兵法師範という権威も与って大いに広めた。宗矩の教えは、柔術の起倒流の茨木又左衛門にも取り入れられるなど、江戸時代の武術全体にも大きな影響を及ぼした。これに対して『五輪書』は、明治末期になって初めて一般に公開されたが、その合理的な技術論から「空」へと通じる個の修練の姿勢は、近代から現代の剣道にも影響を与えている。
十七世紀半ばになると、兵法師範家は各藩に定着・受け継がれることになったが、流派の教授法を整備し、流派の伝承や記録も整理して、武士文化として定着することになる。柳生十兵衛は『月の抄』で、祖父・宗厳と父・宗矩の教えを記し、柳生連也は『新陰流目録口伝書』で曽祖父・宗厳と父・兵庫助の教えを書き留めている。また一刀流では古藤田俊忠が『一刀斎先生剣法書』を著したが、流祖・一刀斎に習った祖父以来の教えに新陰流の宗矩に学んだ心法論も加えている。柳生連也は、取り上げ遣いの形を工夫し、尾張の柳生新陰流の伝承の形を作り、また小野忠常と忠於は、一刀流の忠明以来の組太刀二十五本に三倍以上の組太刀を加え、一刀流の伝授方式を確定した。以後、これらの流派では、幕末までこの伝授形式が受け継がれたことを考えると、ほぼ四代かかってここに流派が確立・定着したと言ってよいのである。
2.流派剣術の定着
十七世紀後半から十九世紀初頭までは、基本的に流派剣術が道場で継承されていた。もちろんこれらの主流であった流派から新流派が生まれたが、木剣による組太刀によった技法が根本的に変わることは無く、教授法や強調点が変わったと言えるものであった。
武士社会は世禄制で、ほぼ親の世代と同様の役職についた。城下町では同じ家格の者は同じ地域に住んでおり、代々七歳にもなると同じ「道場」に通って、武士としての修練を積んだ。道場は、公的な学校ではなかったが、そのコミュニティで定着・継承されていた。年長の者が若い者に教え、道場の当主を前の世代や先輩格の弟子たちが補佐する形で継承されていた。武士はタテマエとして、観念として戦闘者であることが求められていたから、道場で武術、とりわけ剣術を修練することは、〝noblesse oblige.でもあった。道場で、身心の鍛練をするとともに、武士としての作法と教養、そして覚悟も養成されたのである。
天下泰平の中で、剣術が実際に使われる場面は、武士の体面が傷つけられた時に生じる喧嘩などの場合しかなかったが、それでもいざという時の覚悟は常に強調されていた。流派剣術の技法は既に決まった形で行われていた。この時代に顕著であったのは、武道の心を強調することである。柳生宗矩が『兵法家伝書』で導入した沢庵の禅の教えは『不動智神妙録』として一般にも流布した。十七世紀後半、新陰流の三代目の弟子の門に学んだ針ヶ谷夕雲は、参禅し五十歳で豁然大悟して、それまでの剣術を「畜生心」のよるとして否定して、「自性本然」に目覚めることこそ大事とする無住心剣を興した。
知識人による剣術論も出る。十七世紀末、儒者として著名な熊沢蕃山(一六一九.九一)は『芸術大意』で、技芸を追求する中で心の変容を遂げて「道」へと導かれると説いた。この蕃山の教えを受けた丹羽佚斎樗山は十八世紀に一般向けに剣術の心構えを荘子の寓意で説いた『天狗芸術論』(一七二九刊)を著し、剣術が心の修練であることを理論化した。これら心法論の流れは、江戸後期の白井亨を介して、幕末から明治初期の山岡鉄舟(一八三六.八八)にまで流れることになる。鉄舟は、樗山の『猫の妙術』を愛読し、撃剣修練の末、開悟して剣道の理念を説くようになるのである。
流派剣術も長く続くと、伝来のものを形だけ見栄えよく行う華法化も見られるようになってきた。そこで十八世紀後半から、防具が改良され、竹刀による打ち込み稽古が工夫されるようになった。
3.撃剣の展開と流派剣術との違い
防具をつけ、竹刀で自由に打ち合う撃剣は、十九世紀に広く普及するようになった。撃剣は、流派の伝統の中で形稽古で習得したものを実地に試すためというのが、当初の意義づけであったが、たちまち竹刀で打ち合う試合に重点が移行していった。防具をつけ、実際に打ち合うので、分かりやすく、強さも実感でき、娯楽性も有していたので、競技への志向は強まった。間もなく他流との試合も行われるようになった。特に下級武士・豪農層で流行し、北辰一刀流、鏡心明智流、天然理心流等、撃剣を主とする町道場の新流派が次々と成立していった。
撃剣が急速に広まった背景には、江戸後期の社会が解体的状況に入ってきており、養子制度や下級武士の株の売買、下級武士の登用制度などにより、身分制社会の流動化が下級武士と豪農層・町人との間で生じていたことがあった。元来、下級武士と豪農層には立派な武士に対する憧れが基盤にあった上に、下級武士の登竜門になったのが、洋学、会計算用の実学と並んで剣術であったこともあって、江戸の撃剣の町道場が隆盛した。他方撃剣が広まっても、「撃剣などは百姓がするものだ」として、武士の誇りを高く持ちながら、流派剣術を続けていた者があったことにも注意しなければならない。
幕末になると、撃剣はますます盛んになり、他流と試合う中で、藩を越えた情報交換も行われた。幕府も講武所を設けて、撃剣諸流を集めた。撃剣でならした豪農出身者が士分に取り立てられ、浪士組、新選組となって不穏の京都の治安維持に動員されたこともあった。
撃剣は、流派剣術から生まれたのであり、流派剣術を全面的に廃した訳ではなく、撃剣を行う者も流派の形を修めていたが、それ以前の流派剣術とは、技法も稽古の仕方も違い、行う者の社会層も道場に対する意識も明らかに異なったものであった。刀と竹刀では刀法・動法が大きく違い、撃剣では試合する競技性が顕著になるので、その伝播は早く、流派や地域を越える大衆性も持っていた。そうした違いにもかかわらず、撃剣は、根底に刀に憧れる心性に根差したものであったため、流派剣術が展開した象徴性、精神性を標榜していた。撃剣に見られる武道の性格の変容は、ある面では近代化への準備ともなった。実際、この撃剣の伝統をそのまま受け継いで、近代の剣道が成立することになる(注14)。
以上、近世剣術の展開の歴史を概観しただけでも、十九世紀から急速に展開した撃剣は、それ以前の剣術とは性格を異にすることが分かる。したがって、ここでは剣術の成立と定着期を主に問題にして、日本の武道の性格をより深く心性に立ち入って把握しておくことにしたい。
(注12)武士一般ではなく、特殊な集団の中で技術の伝承であった勧進相撲、忍術、逮捕・捕縛術などは、ほとんど流派の形態を採らなかった。また砲術は流派を成したが、身体的な訓練よりも使用する兵器に依存する割合が圧倒的で、個人の技法取得よりも集団訓練の意味合いが大きいので、ここでの考察外とする。
(注13)日夏繁高著『本朝武芸小伝』(一七一六刊)には、百五十人の有名武芸者の伝記がある。彼らは流祖になる者故、武芸の種別毎に分類すると、当時に考えられていた流派の傾向が窺える。
兵法 六、 諸礼 十一、 射術(弓術)三〇、 馬術 十一、 刀術(剣術)五七、 槍術 二一、 砲術 九、 小具足 四、 柔術 三
また『武術系譜略』(一七六七刊)は、流祖とそこから分派した者と流派が載せている。流祖と分派者も一流に数えると、以下である。
兵法 九、 弓術 十四、 馬術 四、 槍術 三〇、 剣術 九五、
小具足・柔術 十四、 砲術・火術 十三
『武術流祖録』(一八四三)で、重複する流派を除くと、以下となる。
兵学 七、 射術(弓術) 十四、 馬術 七、 刀術(剣術)七〇、
柔術 二〇、 砲術 十九、 槍術 二七、 薙刀 三、
これらの書は、それぞれ制約はあるとしても、剣術が武道の中心であったことは、間違いないことを示す。
剣術のみに限ると、三上元龍編『撃剣叢談』(一七九〇)は、まだ撃剣の流派を含んでいないが、八十一流派を挙げる。山田次朗吉著『日本剣道史』(一九二五)は、撃剣も含め四二五の流派名を挙げ、「剣道興って五百有余年、流派は流派を生み、其数五百以上を算するに至った」と述べている。
(注14)近代剣道の展開は、十九世紀の撃剣の広範な隆盛に拠っている。明治維新による武士階級の解体により、流派剣術は由緒ある師範家などを除いては、その代でほぼ消滅した。そうした中で、尾張柳生家系統は、江戸後期の中興のお蔭で、かなり正確に継承されている稀有な例である。明治初期には、「文明開化」の中で、幕末に隆盛であった撃剣も、ほとんど存亡の危機に陥った。撃剣興行会なども試みられたが、西南戦争における抜刀隊の活躍もあって警察剣道として撃剣は残り、また学校教育への導入も図られた。十九世紀末の日清戦争に勝利し、武道団体の大日本武徳会も結成されたが、二十世紀初頭の日露戦争の勝利後は、日本の伝統の見直しの中で、いち早く近代化した柔道とともに近代的に再編されて、剣道として学校教育の中で展開することになるのである。
三.日本の武道の性格(理念型的な把握)
日本の武道文化の核になった流派剣術の特性を、その背景や成立させた心性に立ち入って考察しておきたい。流派剣術で言われた教えや意味づけは今日の剣道でもよく引用されることがあるが、注意しなければならないのは、流派剣術は、今日の剣道はもちろん、そのルーツである撃剣ともかなり異なったものであることである。当時の剣術のあり様を、ここでは3つの観点から、その背景にも立ち入りつつ理念型的に構成してみる(注15)。
1.刀についての心性
武士の名誉と独立の象徴が刀であった。短刀は庶民も普通に所持していたが、特に長刀は武士に制限されていた。したがって武術の中でもとりわけ剣術は、支配層としての武士が「人の上に立つべき者の作法」として心得ておくべきものとされ、剣術の鍛練は、武士が自らを武士たるものとする陶冶の手段となった。武士には、万一の場合、死の覚悟が要求された。刀は、道具ではなく、武士の象徴であり、内面化されて神聖な〝内なる刀.として尊重された。戦国後期の武士の意識を語る『甲陽軍鑑』は、武士の心掛けを次のように言っている。
「奉公人の行儀作法、面々が腰にさす刀・脇差の如くに仕れと仕置きなされよ。子細は、刀・脇差をよくとぎて、その上によく刃を附けて差すは、人きらんと申す事なれども、常は鞘をせねば差され申さず候。」(注16)
武士たる者は刀を絶えず磨いているが、いつもは鞘の内に収めている。こうした刀に対する意識が前提となって発達した剣術は、決して単なる武術ではなかった。刀で打ち合うのではない。(竹刀で打ち合い稽古をする撃剣とは異なる。)常に切れる刀が前提であったから、打ち合う以前の〝叡智.が発達したと言ってよい。打ち合う以前に相手を制する、あるいは相手に挑む隙のないだけの内面的な強さを内に持つように鍛練することが求められた。これには技術的に即座に動き得る体の鍛練と相手との間合いと体勢から次の動きと〝気.を読むとともに、一刀に懸ける覚悟と気迫が必要なのである。
例えば江戸初頭、二十歳代に六十余度の実戦勝負をした宮本武蔵(一五八二.一六四五)は、三十代から「道理」を追求し、〝道.に達した五十歳以後は、相手に技を出させずに勝っていたという。武蔵の『五輪書』が述べるのは、相手が技を出そうとするやそれを制する構えを取って、相手に攻撃させない「枕のおさへ」であり、至極は、自然とまわりを圧する閑かなる威風が身についているので、相手に挑もうとする気を一切起こさせもしない「巌の身」となることであった。そうなるべく絶えず自らを磨いていく。「千鍛万練」を続けて、「おのずから実の道に入る」「空」の境に開かれるというのが、武蔵が理想とした「兵法の道」であった(注17)。
こうなれば、剣術で鍛錬すべきことは、単なる術の強さだけではなく、心の強さ、覚悟を核とした武士としての生き方に及ぶことになる。かくして剣術の鍛練は、武士の生き方となる〝道.を志向するものとなる。武蔵も含めて流派剣術が目指したものは、まさにこうした〝剣道.であった。武蔵がその生涯で剣術から剣道へと大きく飛躍できたのも、こうした〝剣道.という意識がすでに展開していたからであった。
2.流派剣術の内実
.技法の性格
流派剣術では、自由に動き回って隙が生じたところを打つということをしない。防具がなく、木剣で打ち合うことが危険で出来なかったという以上に、その目指す思想が違っていた。肉体的な訓練ではなく、技巧で勝つのでもなく、技の「理合」を学ぼうとした。「理合」は、打太刀から打ち込み、それに仕太刀が応じる組太刀の形として示されている。組太刀の形は、実戦をシュミレーションした技というのではない。相手との空間的であるとともに時間的な「間合」が問題であり、自分に有利な「間合」を取って、当然の如くに勝てる技の理念と言うべきものである。稽古は、流派の組太刀を繰り返し稽古する中で、この「理合」を体得することが目指されている。
組太刀の稽古を主とするのは、日本の剣術の大きな特徴である。中国・朝鮮では、基本的に一人で一連の動きを形として稽古する「套路」(「勢」)が主である。套路によって肉体的・技法的に素早い動きが習得できれば、相手がどのように攻めてこようと対処できるとするものであり、基本的には一人の動き方だけを問題にしているのである。朝鮮の『武芸図譜通志』の中で、中国・朝鮮の武術は全て一人の動き方を示すが、日本の剣術の場合のみ、「交戦譜」として組太刀が紹介されている。「理合」を主とする日本の流派剣術は、最初から組太刀という対人的な形でしか稽古し得ないのである。
日本の剣術は、身体的な動きに限定して見ても、日常的な身体の遣い方とは質的に異なる動法を目指しており、肉体的能力の訓練ではないと言える。力を抜き、全身一体で柔構造で遣う、多次元に同時進行する身体動法を求めている(注18)。それは絶えず相手との「間合」をはかり、呼吸を読んで、「理合」に基づいた技であるからである。
「理合」の中には、武術的な勝負を追求する以上のものが問題になってくる。組太刀の稽古の中で強調されるのは、絶対に後ろに下がらない。ぎりぎりまで待って、相手に技を尽くさせてから打って勝つということである。ほんのわずかな「間合」、すなわち空間的、時間的な差で勝つ。自らも相手に打たれる間合いに入って打つ。この稽古の中で、「覚悟」が養成される。組太刀は理念的な太刀筋を示すと言ってよいが、同時にこの一本でいくという術者の覚悟も表わしている。組太刀の形の中で攻防の仕方は決まっているといっても、形稽古において、その都度それぞれの自己の覚悟の程が表れている。「刃に向かう生身の人間の覚悟」が表れると言ってよいのである(次稿、吉田氏発表原稿参考)。
.勝負法の究極
剣術は試合の勝負が基本であるが、各流派間で試合があったのは、安土桃山から江戸初頭までであった。刀や木剣でする試合は命が懸かる危険なもので、遺恨を生み門弟や同門を巻き込んだ騒擾になる危険性を孕んでいたから、幕藩体制が確立した十七世紀中葉以降、他流試合が禁じられていた。防具を付け、竹刀で安全に打ち合う撃剣が工夫されたのは十八世紀後半で、一般化するのは十九世紀初期からであった。打たれても平気な甲冑は昔からあり、袋しないが十六世紀末からあったことを考えると、撃剣の工夫に百年以上を要し、かつ撃剣が一般化してからでも武士にはこれを蔑視する風があったことは、日本の剣術が決して試合勝負を事としていなかったことを示している。
剣術の勝負はもちろん打ち勝つことにあるが、勝てばよいという訳ではなかった。江戸時代には、武士の美学がベースにあって、勝つためにきたない手段を弄することは貶められた。戦国時代の合戦や実戦勝負では多くあっただまし討ちや、相手を欺くトリッキーな策で勝つこと、さらには技巧を尽くして勝つことも、江戸時代の流派剣術では戒められていた。武士であれば、堂々と戦え、決して技芸だけの「芸者になるな」と言われていた。相手を研究し、戦術を研究するよりも、一刀にかける覚悟が問題にされた。相手の太刀の間合いに入って、技を尽くさせてぎりぎりのところで技を返す。この点でも勇気と覚悟が要る。それ故、組太刀の形稽古の中で、当人の覚悟が試された。現に遣う太刀にどのような覚悟が現れているかを見る。師匠が免許皆伝を認定するのも、技巧であるより、こうした覚悟であった。
しかも勝負の究極は「戦わずして勝つ」ことである。互いに覚悟を秘めた武士であることを前提とし、相手を敬した。戦う以前の〝叡智.も発達していた。刀で行う勝負には命が懸かる。一刀で勝負は決まるのであり、覚悟があり閑かな強みを秘めた相手に勝負を挑むことは危険である。戦う前に相手の技量を見抜くことは重要であり、むやみに戦わない。喧嘩になることでも、最後の一線まで堪忍をする。しかし一旦刀を抜けば、死を覚悟して戦う。武士の社会では、こうしたことが前提とされていたが故、勝負を超えた人としての強みが求められたのである。こうなると、剣術は技を磨くが、究極のところ技を脱することになる。組太刀の形の中に、技の消滅点が組み込まれていることも日本の武術の大きな特色の一つである(中国・朝鮮の形にはこのようなものは見当たらない)。
.形から入る教育論
西欧で発達したスポーツでは、運動形態を分析し、その基礎となる身体能力に還元して肉体トレーニングから始め、競技の技術は個々人が工夫して個性的なやり方を組み上げることが多いが、東アジアの武術では、一連の運動を「形」として決めて、その形を繰り返し稽古して、その運動形態をまず身体的に覚えさせる方法を取ることが多い。東アジアの武術の形は、伝統的に受け継がれていることが多く、何故そのようなやり方をするのか理論的に説明されず、まず模倣から入るように教えられる。伝来の形をまず習って身体遣いを変え、技法がすっかり身についた後に、個性的な技が生まれるとされる。
しかも中国・朝鮮では、既述のように、一人で一連の動きを形として稽古する「套路」(「勢」)が主であるが、日本の武術では二人が組となる打太刀・仕太刀の組太刀や取り・受けの組稽古を主とする。
中国・朝鮮の套路では、素早い動き方を身に付け、相手が来たらそれを繰り出し、戦う形式であるが、日本の組太刀の場合には、個人としての動きの素早さよりも、相手との空間的・時間的な〝間合.が決定的に重要であり、そのため二人で組んで打ち合う組太刀の形で鍛練されていた。組太刀は、打太刀が打ち込むのに対して、仕太刀がいかにかわしながら、どう勝つのか、攻防の決まった形の中で、速さや間合を徐々に高度なものに変えながら稽古するのである。こうした組太刀の中で、相手の気の読み方、気の抑え方、間合、拍子等を覚えていく。
日本の武道では、形の〝守・破・離.が強調されている(注19)。初心者は、まず形を教えられる通りに〝守.って細部に至るまで正確に学び、その技法を十分に身に付ける。その技法と身体遣いが自得されたならば、形を〝破.ってさまざまに異なるやり方も試みる。この段階では、まだ形を破るという点で、形にとらわれているが、さまざまな模索の中で、最も自然に行われるものが精選されてくる。そしてその者自身にとっては自然な、しかし他からみれば個性的な技がいつしか生まれてくる。こうした修練の積み重ねの中で、技だけではなく、その者の人格がいつしか陶冶されたものとなっている。かくて形を〝離.れるのである。
こうした思想は、武道の形成期からあった。新陰流の流祖・上泉伊勢守秀綱は、「諸流の奥源を究め」れば「魚を得て筌(魚を取るための籠)を忘れる」と言い、「諸流の位、別になきのみ、千人に英たり、万人に傑たる」ことを目指すと宣言していたのである(影流目録・一五六四・次稿参照)。
形は技を習得するための手段にすぎない。日本の武道のみが、形に消滅点を持っているというのも、こうした形を人格陶冶の手段とする教育論があったからである。
.意味づけと修行論
江戸初頭には、剣術の意味は武術ではないことを強調しなければならなかった。それ以前はともかく合戦があり、自力救済が原則とされる社会の中では百姓も絶えず自己武装しなければならなかった。それが統一政権が出来て一般の武装解除をし、身分制を導入した幕藩体制下の天下泰平の中で、身分ごとに生活空間も生活様式も異なる職分社会となって安定したのである。その社会の変化に対応して、『兵法家伝書』や『五輪書』などは、剣術が単に打ち勝つことを事とする武術ではなく、武士として鍛練に務むべきものであることを強調していた。けれども武家支配が安定し、流派剣術も定着すると、武士たる者が剣術を学ぶことは当然のようになってくる。もはや剣術を修練する意味を高唱する必要がなかった。剣術を何故学ぶか、江戸中期以降の武士たちが改めて問うことはほとんどなかったと思われる。
武士社会の中で七歳にもなれば剣術を学ぶ。家庭や周りの大人が教える。そして城下町のコミュニティの中にある道場に行き仲間入りをする(注20)。もちろん熱心な者もいれば、そうでない者もいる。上手くなる者もいれば、下手な者もいる。けれども武士は帯刀している限り、いつ何時戦わねばならぬか分からない、というのがタテマエとしてあった。武士としての名誉が傷つけられる事態が出来すれば即座に反撃しなければならなかった、というより、人生を常時戦いが生起する場として見るように仕付けられたと言うべきである。いつでも覚悟が出来ている人間であることが求められた。しかもその覚悟は、日々の生活態度に表れてしまう。それ故、武士は誇りを持って、自らの修練に専念したのである。
武士は現実には組織の中で厳しく管理されていたが、いざとなれば自ら責任を取って切腹する覚悟を内に持つことで独立心を保っていた。切腹が許されず打ち首に処せられるのが武士としての最大の侮辱とされたのは、この独立心が否定されるからである。権力に裁かれる以前に自ら裁く。法に背かずとも、武士としての責任を取らんとして潔く切腹する。死ぬという恐怖を凝視しながら、決して臆することなく従容として自裁できる勇気を示す切腹は、当人の覚悟の程を示す最高の舞台でもあった。自決に薬物や小銃を使うのではなく、刀で自らの腹を切って死ぬ。心臓を刺したり頚動脈を切るのではなく、死ぬには苦痛を伴っても腹を切るのは、腹(肚)は覚悟の座と見なされていたからであるが、同時に苦痛に耐えて自制できる強さを示すからである。しかし腹を切るだけでは絶命せず失血死では見苦しいので、介錯が刀で首を打ち落とす。これも技術が要るが、専門の首切り役人ではなく、切腹する者が介錯者を頼むことになっていた。介錯を依頼されるのは、それだけの覚悟と信頼が寄せられることであり、武士として名誉とされた(注21)。万一介錯を頼まれても立派に務めるためにも剣術の鍛練は求められたのである。
「武士道と云は、死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)は、こうした文脈の中で言われることである。こうした武士社会にあって、剣術は武士としての心得なのであった。
代々同じ家の者同士が同じ城下町の流派の道場に通って、鍛練する。武士としてそこで生活している限り、剣術に引退はないとされていた。
年齢が進めば肉体的には衰える。しかし剣術で問題になるのは、身体と心の一体のあり様であり、相手との空間的・時間的な間合で勝負することである。新陰流では「轉」と呼んでいたが、これを体得していれば、老齢になっても、壮年の者を打ち負かすことが出来る。実際に打ち込む以前に、打てる間合と相手の体勢を見て取って、隙がなければ打ち込むことが出来ない。そうした打ち合う以前の〝叡智.を磨くのである。それ故、剣術修練を積むにつれ、身体的な鍛練から次第に心法的なものへと重点が移って行く。そして実際に打ち合うことから、次第に打ち合う以前の所作、さらに生活態度が問題とされる。技よりも当人の覚悟が問われるようになる。人に打ち勝つよりも、自分に打ち克つことが問題になる。自分で実際に修練を積まなければ開かれないあり様と境地があるのであり、常に新たな課題が立ち表れてくる。こうして修練は生涯極まりないものとなり、「修行」と言われるべきものとなるのである。
そうした意味づけがあればこそ、日本の剣術伝書は、技術論は比較的簡単で、むしろ心法論を強調するようになっていった。流派剣術のあり様が定着した江戸中期以降の剣術伝書は、禅の境地との一致を論じたり、儒教的な道徳論を掲げたり、あるいは荘子的な技術を脱する自在な境地を目指すと言ったりしたのである。
3.日本の「武道」が背景にもつ思想
武術はどの社会にもある。元来人を殺傷する武術が、人格形成的な意味を持った「道」となったのは、日本の武家社会において上述のような心性の上で技術も修練の仕方も意味づけも独特な形で展開したからである。しかし、それが成立するためには、基底においてより深い思想的な背景があったと考えられる。
日本において「道」という語は、中世社会の中で独特の含蓄を持つ言葉になっていた。仏教、特に禅の修行で使われる「仏道」、歌道から能楽、茶の湯などで使われる「芸道」が展開する中で、「道」は、専門の分野を示す意味とともに、その分野の人が歩むべき道をも意味し、さらにはその修する中で達せられる真実をも含意するようになった(注22)。この伝統を受け継いで、江戸初期、「兵法の道」が言われた。流派剣術でも、芸道の修し方や伝授と伝書の形式の影響は強く、また禅を理論的な拠り所とすることもあった。そして単なる武術ではなく、武士の生き方を示すものとして「道」が言われていたのである。
刀が武士の象徴であった江戸時代の社会の中で、剣術の展開は他の武術に影響を及ぼした。起倒流柔術には直接的な影響が見られるが、他に柔術においても、弓術においても、武士の心性を涵養するものとしての位置づけは広く見られる。ここに剣術を中心として、日本独特の〝武道.という文化が形成されたと思われる(注23)。
江戸初期には、儒教(朱子学)が本格的に導入される中で、真実の生き方という意味で「道」が言われていた。江戸中期、儒教が浸透する中で、「士道」も盛んに言われ、対抗的に戦国武士の心組みを強調して「武士道」が言われるようになった。これらは武士の生き方を多分に観念的に論じているが、流派剣術で言われる「道」は、はっきりとした身体的な修行を核とした武士としての生き方である。江戸中期には中国の『荘子』も受容されたので、技の究極において「道」(タオ)に触れると言われることもあった。けれども中国的な「タオ」では、形而上学的で、宇宙(コスモス)を貫通する意味が強いが、日本ではそれを得る「修行」の通路であることに力点が置かれ、「道」を形而上学的に展開するのではなく、修する人間の生き方を問題にしていた。
日本の芸道や武道で言われる「道」は、その分野の専門的な事柄を身体的に会得するとともに、会得する過程において、同時に知る自分自身をも内から変えて行く。その変えられた自己がさらにその事柄の一層深く広い会得を生み、その知がまた自己を変えて行く。身体的というより、身心を挙げて修する中で、知・情・意が集中され、自己の全人的な統一が、身体的な行の内に生まれるようになる(注24)。しかもその都度その場で絶えず新たな技が求められるのであり、修行する者は、それに全身全霊集中しながら、絶えず過程にとどまる自己を自覚している。
生き方を抽象的な観念で論じるのではなく、実際に技を行う中で、自己の内面を磨いていく。最初は身体的な心得が主であるものが、次第に身心一体の技が求められ、精神集中が強調され、精神的な修養に力点が移っていく。技の中に心の表れを見る。技巧的な技ではなく、心技が問われ、上達する程に技にも風格、品位が問われる。技を磨き、それとともに自己の内面を同時に練らなければ、達し得ない世界である。ここに至って初めてその人ならではの個性が出てくる。
先に述べた形の「守・破・離」も、こうした自己の内面の練りによって可能になるのである。形から入って、形から出る。しかも、相対的な技の世界から、技にとらわれぬ自在な境に達する。陶芸でも釉薬をかける一瞬は「〝十五秒プラス六十年.と見たらどうか」、「結局六十年間体で鍛えた業に無意識の影がさしている思い」がする(陶芸家・濱田庄司『無盡蔵』の言葉)。それまでの身心の、いや全身全霊の修行の積み重ねがあって初めて自在な境にも達せられるのである。形から離れるだけではなく、最後は消滅していくことにもなる。
そして最後は「空」が標榜される。柳生宗矩、柳生兵庫助、宮本武蔵のいずれもが「空」を極致に掲げている。「空」は何事も限定されないとともに、あらゆる場面に顕現するものである。技の場面だけではなく、その人の行い全てに自在境の片鱗が顕われる。こうなれば日常生活すべてが修するものとなり、生涯深めていくものと考えられるようになる。技から入って徹底して修する中で、自己の内的修養も同時になされるのであり、終には技から脱する境に達するのである。
「一芸に秀でれば、万事に通じる」と言われ、「わけのぼる麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」と、流派を越え、さらには分野も越えて、芸道や武道に通じるとされることも、こうしたことが想定されているからであろう。一事に専念し徹底して修することが、いつしか真なる生き方を導くものとなるのである。
日本の芸道や武道で言われる「道」は、こうして修行を通して「真実」に触れる道とされる。「真実」は、抽象的、形而上学的にあるのではなく、具体的な行為の中で触れられるのであり、しかもそうした行為で顕現されるものとされるのである。こうした元来の根底的な真理観を論理的に言い表したものが、「色即是空、空即是色」であり、この意味で「空」が標榜されるのではないか。
武道は、身体的な修行を明確に打ち出し、芸道のような作品や職人のような匠の仕事を残さず、その都度その場での技が問われるだけに、日本の「道」の伝統を典型的に示す例だと思われる。
原義としての〝武道.が成立したのは、江戸の武家社会という特殊条件によることが大きかった。けれどもこうした「道」において自己の内面の修養を行うということの意味は、現代にも必要とされるものであろう。否、生き方の型が失われ、科学的・技術的な見方が浸透した管理社会の中で、生きる意味すらなかなか見出しがたい現代なればこそ、身体的な修行の中で個としての自己を深めていくことは、より切実に求められることであると思われる。しかし技法も勝負法も修練法も全く異なる現代の武道が、どのような〝人間学的な意味.を持っているのかは慎重に考えなければならない問題である。
原義としての〝武道.が、その後どう展開したのか、近代化され、さらに現代化される中で、いかに変質していったのかを跡づけることは、次の段階での問題である。実態は全く異なった武道でありながら、原義としての〝武道.の中で言われた言葉を、「理念」としてそのまま標榜することもある。グローバリゼーションの中で、かえって伝統の見直しが叫ばれる中で、「伝統」が作り出されることもあり得る。
東アジアで長い時間をかけ成立・展開してきた日本の〝武道.が、現代のグローバルな世界において、人類にとっていかなる文化的遺産となるのかは、大問題であるが、それを問うためにも、まず原義としての〝武道.のあり様を見定める必要があろう。
以上、論じた流派剣術を通して見た日本の武道のあり様は理念型的な構成によるものである。本当にこのように言えるのか否かは、流派剣術の技と稽古を具体的に見ることによって確かめることにする。次稿で、新陰流の形成と定着過程とその技の内容と思想を明らかにすることで、ここで理念型として書いたものを、確証することを試みたい。
(注15)明確に表現されていないでも、それを表現にもたらすことによって、一挙に見通しが出来ることがある。その性格づけは通時的なものゆえに、様々な時代から例をとる。実態としてあったかどうかではなく、何が志向されていたのか、その望ましい方向を理念型として取り出すことを目指すのである。
(注16)『甲陽軍鑑』第四十品。武田信玄の重臣・高坂弾正の言葉として言われる。『甲陽軍鑑』(新人物往来社・一九六五)下巻六一頁。
(注17)宮本武蔵に関して詳しくは拙著『宮本武蔵│日本人の道』(ぺりかん社・二〇〇二)参照。
(注18)甲野善紀・前田英樹共著『剣術の思想』(青土社・二〇〇一)は、近代になって日本人の動き方が歩行からスポーツまで大きく変わったことを論じている。また新陰流系の駒川改心流を継ぐ黒田鉄山『気剣体一致の「改」』(BABジャパン・二〇〇〇)も古流剣術の身体技法がスポーツ的な動き方と根本的に異なることを明確にしている。野口裕之「動法と内観的身体」(『体育の科学』第四三巻七号・一九九三)は、伝統的身体運動(「動法」)が、精神的な「内観」と間主体的な「感応」と一体となって、日本人の躾から日常所作、農耕の動作、舞や茶の湯の所作、禅、さらには俳句などで求められる「身体で感じる」ものまで、日本文化を深い次元で支えてきたものであったことを論じている。
(注19)「守・破・離」は、茶道の江戸千家を興した川上不白の言葉とされる。この言葉は、剣道でもよく言われる。実際的には、「守」の面のみが強調されているが、理念としては、教えを「破」り、それから「離」れて独自なものを創造することが求められている。源了圓『型』(創文社・一九八九)参照。
(注20)柳生厳長氏は、日清戦争後、五歳から稽古を始めたが、当時の道場には四十歳代から八十翁まで数十人がおり、一週三日の稽古定日には必ず十数名が顔を出しており、幼い厳長氏は稽古日には高弟から、他の日には父に教えられたという(『正伝新陰流』一七五頁)。また吉田鞆男氏は、六歳の時、父・重成氏とその先輩にあたる神戸金七氏から、手ほどきを受けたという。戦後になっていたが、尾張の吉田家では、依然として武士たる者の作法が言われていた。
(注21)柳生連也は、高弟で国家老であった寺尾土佐守直政が藩主に殉死する際に介錯を頼まれ、見事な腕前を示して近国にまで評判になったという(『正伝新陰流』一九八頁)。また『葉隠』の山本常朝も従兄弟に介錯を頼まれたことを名誉として記している。
(注22)こうした「道」の思想の展開についての簡単なトレースは、拙著『宮本武蔵│日本人の道』「おわりに」参照。
(注23)江戸中期には、こうした含意で、安陪立「剣道」や起倒流「柔道」が言われた。この起倒流の流れの末に属する嘉納治五郎は、近代的に再構成して作り上げ、修身・勝負・体育の意味を持つので従来の柔術と違うとして「柔道」と命名したが、元来起倒流で「柔道」と言う時に含意していたものは、プラグマティックな嘉納の説明以上にはるかに精神的なものを持っていた(原丈二・魚住孝至「起倒流が唱える「柔道」の意味」〔『国際武道大学研究紀要』第十八号・二〇〇二〕所収〕参照)。
明治中期に「柔道」の成功をみた撃剣は「剣道」を称し、弓術は「弓道」を称するようになる。そして大正初期にこれらを総合する名称として「武道」が多分に行政用語として使用されるようになった。これが今日につながっているのである。
(注24)西谷啓治「行について」(『西谷啓治著作集第二〇巻』〔創文社・一九九〇〕所収)参照。
剣術に見る「武道」の思想
吉田鞆男
我々が問題とする「武道」は、近代スポーツではない。一種の「人間学」として民間に受け入れられ、育まれた「武道思想」である。新陰流三代の柳生兵庫助がそれを学ぶことは「修身斉家治国平天下」となるとし、また宮本武蔵が「道理」にかない「おのずから天理にかなう」としたものであり、一定の〝人間学.が求められる。「道」の思想と無縁ではない。
ならば、武士達が学んだ武術の中の〝人間学.的要素は、如何なる形で存在するか。その点について、新陰流、一刀流を見ることにした。(新陰流については既報)
*剣術を取上げるのは、刀の刃を目前にした人間の在り方、すなわち〝生死関頭の場の調べ.をテーマにしているからである。
新陰流や一刀流について調べを進める中で、所謂〝武術.又は〝刃物を持った切合.とか〝格闘技.といった要素はすべて覆い隠され、各流儀の理念が、切合の形を借りて表現されていることが浮き彫りになってきた。云い換れば、格闘技としての訓練はそこには無く、「刃に向かふ生身の人間の覚悟」が、繰り返し行なわれる約束通りの手順(組太刀)の中で、身に浸み込まされ、より強められていく。組太刀の中で、敵の太刀にかかわらず自分の歩を進める。刃の中に入っていく。そこにその人の〝個.が浮き彫りになる。
覚悟の認識は、流儀各々の刀法とその組太刀を以ってなされる。その組太刀は、その流が理念とする一つの太刀筋から成る。その理念の一太刀は、数ある組太刀を一貫するものであり、一刀流にては「切落し」、新陰流にては「轉」である。
Simulationではない。打太刀、仕太刀共に相手の太刀筋の中に身を置くことにより、互いの切磋を心掛けている。その有様は一種の「対話」といえる。そのような対話を通して流儀の思想│考え方│を学習することになる。
太刀筋に命を乗せて、又は命を付けて〝水月.を越えていくことを学習する。しかも刀法を修していきながら、最後に技を捨て、脱却する姿も示す。剣術は人間を修する〝方便.なのである。
補足
ここで論じたものは、道場で稽古した者の立場で言っている。「見たのである」(物をじかに見て、用うべき様に用い、茶道を成立させる根本にある直観を言った柳宗悦「茶道を想う」の言葉)という立場から言っている。
残された問題点としては以下のことが挙げられる。
.この出発点の「一種の人間学」というところを別の立場から問題にする。それは、人を殺す術にかえって人間修練の道を見るという一見したところ〝矛盾.を媒介しているものを問題にすることであるが、文化人類学、倫理学、哲学、歴史や民俗学などの立場から、それぞれの専門からの考察することが望まれる。
*論理的には〝矛盾.であるが、武士は殺傷性を職とするという大前提を考えると、武士にとって殺傷性が道になるというのは矛盾ではなかったと考えられる。ただその殺傷性の合理的な追求(銃や大砲など)ではなく、人間のフィジカルな動く範囲の修練を発達させた文化であった点に大きな特徴がある。
.剣術については、このように言えたとしても、これが日本の武道だと言い切ってよいかは、問題であろう。
.刀における〝個.を問題にしたが、このような「形から入る」という教育論は日本の芸能に関しても言われる。西洋とは別の個のあり様かも知れない。
.このような刀による人間学的な要素は、非サムライの民間にどう広がったのか。撃剣が江戸後期に盛んになったのは、背後に刀に精神性を見出す民俗的心性があったからではないか。
(二〇〇五年十一月研究会発表原稿)
新陰流の形成と定着│日本の武道の成立過程を探る
魚住孝至
新陰流は、近世武道の中心的な位置を占める。特に江戸・柳生家は将軍家兵法師範で大名となり、尾張・柳生家は御三家筆頭の尾張徳川家の兵法師範を占めたので、江戸時代にはその権威は絶大なものがあった。元来『紀效新書』に倭寇の剣術として記録されている実戦的な「陰流」を基盤にしながら、武士の人格形成に資する武道の性格を持つ「新陰流」へと展開していったのであるから、日本武道の成立の様を具体的に見るために新陰流は格好の材料である。しかもこの流派は、展開の各段階で確かな文献を数多く残しており、現在に至るまで確かな伝承が受け継がれている稀有の流派である。
ここでは、五段階に分けて、新陰流の形成と定着の過程を概観するとともに、この流派の技を貫く思想を明らかにすることを試みることにする。
1.陰流から新陰流への展開│上泉伊勢守秀綱
流祖・上泉伊勢守秀綱(信綱)(一五〇八.八二)は、その末裔の家伝によれば、藤原秀郷の支流で京都の一色家の流れであり、曽祖父・義秀から上州に下った名門であった(注1)。上野の小城主としてあり、長野氏の配下にあったが、永禄七年(一五六四)、甲斐から攻め寄せた武田信玄との箕輪の戦いに敗れ、信玄の招きを断り、以後兵法者として立つことを決意し、上方に上った。この折、柳生宗厳と出会ったが、弟子の意伯と二度立ち合って敗れた宗厳は、新陰流に入門した。さらに上泉は入京して、将軍・足利義輝、さらに正親町天皇の台覧を得、兵法「天下一」の称号を得たのである。
上泉は、永禄九年(一五六六)の影目録の第一「燕飛」の序(注2)で次のように言う。
「中古、念流、新当流、亦また陰流有り。其の外は計るにたえず。予は諸流の奥源を究め、陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す。」
上泉は、諸流を学んだ中から、特に陰流に「奇妙」を見出し、新陰流を作ったというのである。上泉が、いつから新陰流を称するようになったかは明瞭ではないが、柳生家の伝承では上泉三十代のことであった(注3)というので、一五四〇年代であったと見られる。
新陰流を興すことになった「奇妙」は、この目録では次のように説明されている。
「敵に随って轉変して一重の手段を施すこと、恰も風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し。懸を以て懸と為し、待を以て待と為すは常の事也。懸、懸に非ず、待、待に非ず。懸は意、待に在り、待は意、懸に在り。」
これが上泉のよる「轉」の説明である。敵である打太刀が打ち懸かるところを、転じて一拍子で勝つ。それは敵が打ち懸かるのに、こちらも負けじと懸かる訳ではない。打ち懸かる中でも、相手の打ちを待つ心があり、体勢として相手の打ちを待つように見えても、心はすでに打ち懸かるものでなくてはならないとするのである。
けれども「轉」は、実際の技ではどのように遣うものであるのかが問題である。
上泉は、新陰流の勢法の中に、陰流の「燕飛」六本を残している。その「燕飛」の太刀名は、『紀效新書』十四巻本に影印された「影流」の断簡にある三つの名と一致する。新陰流の組太刀の中でも「燕飛」のみは、木剣を使用し、六本を続遣いするので、新陰流の技とは明らかに区別している。上泉の目録では、「燕飛」の次に、自ら工夫した組太刀「三学」五本を学ぶように構成している。「三学」は、袋しないで、一本ずつ区切って遣うが、太刀遣いとしては「燕飛」と共通するところも多く見られる。「三学」は新陰流の根本太刀とされている。
したがって、「燕飛」と「三学」の組太刀を比較すれば、そこに上泉が「抽出し」たという「奇妙」が何であったかが、技に即して推定できるはずである。
「燕飛」と「三学」の太刀遣いについては、前々回と前回に『討太刀目録』の表現に即しながら、元来の実際の太刀遣いを推定した(注4)。
例えば「燕飛」の二本目「猿廻」と「三学」の一本目「一刀両段」の太刀遣いを比較すると、ともに仕太刀は脇構えから体を、相手の太刀筋を軸に回転し、相手の太刀をかわすとともに、打ち込むところが見られる。足を横にさっと開く(流儀の言葉で「扇を使う」)とともに、肩の位置も上体を縦に回しつつ、相手の太刀をかわすとともに、自らの太刀を引き上げる動作をし、直ちに打ち込めるようにしているのである。この点から言えば、仕太刀は、体を横に開くとともに縦にも回し、身を立体的に転じることで、打太刀の打ちをかわすと同時に打ち込むのである(注5)。
ここには、目録に言うように相手の打ちに負けずと打ち合う(「懸を以て懸と為す」)のではなく、「敵に随って轉変して一重の手段を施す」ことが見られる。
この二本だけではなく、「燕飛」六本と「三学」五本の組太刀の間には、それぞれ要所のところで、相手の太刀筋を軸に回転するところが見られる。「轉」が新陰流の極意と言われるのも、まさに実際に技の中で、こうした転ずる動きが根幹にあるからであろう。
新陰流の勢法は、上泉の目録では、「燕飛」六本、「三学」五本、「七太刀」六本、「九箇」九本、「天狗抄」八本であるが、この内、「燕飛」は上述のように陰流の太刀で、「九箇」と「天狗抄」も他流の太刀であるという。「七太刀」は鹿島神道流の「七太刀」との関連があるもののようである。それだけに新陰流の根本とする組太刀「三学」に見られる「轉」が重要であると言える。
上泉においては、上述の組太刀以外に「殺人刀」「活人剣」があったようである。「殺人刀太刀、活人剣太刀、此の両剣は我家の至要也」と丸目蔵人宛ての目録(永禄十年発給)に記しているが、これらの太刀がいかなるものかは不明である。後に柳生兵庫助は「当流にかまへ太刀を皆殺人刀と云。かまへなき処をいづれのをも皆々活人剣と、又かまへ太刀を残らず截断してのけ、なき処を用るに付て其生るにより活人剣と云」(柳生連也筆録『新陰流兵法目録』注6)と解説している。これと同じであるか否かは確かではないが、少なくともこの尾張柳生家に伝わる「活人剣」は「轉」の太刀遣いを根本にしたものである。
上泉は「轉」によって今までの剣術とは根本的に異なる位相に立ったと自覚していたようである。先の目録の序で、次のように述べている。
「予は諸流を廃せずして、諸流を認めず、寔に魚を得て筌を忘るる者か。然るときは、諸流の位、別に莫きのみ。千人に英、万人に傑たるにあらざれば、いかでか予が家法を伝えんや。古人豈道はずや、龍を誅する剣、蛇に揮はずと。」
上泉には実戦的な諸流の剣術から、そのエッセンスを得て新たな武へと昇華したという自負があったようである。「英傑」のみが伝えるべき、争いに使う(「蛇に揮う」)ものではなく、より高尚なもの(「龍を誅する」)ものだと言うのである。
上泉は名門の出で、教養人であり、禅語も使った堂々たる漢文体の目録を残した。しかも打ち合っても安全なように袋しないを考案した。上泉は、もはや海賊が使うような実戦的な剣術ではなく、剣を道として位置づけようとしたと思われる。上泉は将軍、さらには天皇から「天下一」の称号を得たが、まさに天下の剣たる自覚を深めて、実戦剣術を超えるものとして、新陰流という新たな剣の道を創始したのである。
2.柳生新陰流の展開│柳生石舟斎宗厳
新陰流は、上泉の直弟子たちによって発展させられた。ただ上泉の鷹揚な性格によるものか、弟子たちは、それぞれの仕方で展開し、必ずしも新陰流を名乗っているわけではない。疋田豊五郎は疋田流、丸目蔵人佐はタイ捨流、奥山休賀斎は神影流をそれぞれ称しており、柳生宗厳は新陰流を称しているが、独自の工夫を加えており、実質的には柳生新陰流と通称されている(注7)。第二世代になって、このように多様な展開を見せたが、新陰流として後々まで大きな影響をもたらしたのが、柳生宗厳に始まる新陰流であった。
柳生石舟斎宗厳(一五二九.一六〇六)は、古くからの大和の柳生庄の領主であったが、若くから新当流等を学び、畿内随一との評判を取った者であった。永禄七年(一五六四)、上泉は上京の途中に新当流免許の伊勢国主・北畠具教の紹介により、柳生庄を訪れた。宗厳は、上泉の弟子の意伯と二度立合って破れ、潔斎して新陰流に入門を願ったという(『討太刀目録』奥書、注8)。上泉は、その後上洛し、将軍・天皇に新陰流の技を上覧に供している。宗厳は、新陰流の太刀の工夫に努め、翌八年に上泉から「一国一人」の印可状を授けられたが、「無刀」の課題を与えられた。上泉は元亀二年(一五七一)関東へ帰るが、その際宗厳に会って、「自分も若ければ、この「無刀」の工夫に専念するのだが」と語ったという(同上奥書)。
宗厳は、天正元年(一五七三)に松永久秀の配下で織田信長と戦って敗れ、以後柳生庄で閑居二十年、自らの兵法の完成に心血を注いだと言われる。この間、天正十三年(一五八五)には、豊臣秀吉の検地で柳生の隠田が見つかり本領没収の憂き目にもあっている。それ故、「世をわたるわざなきゆへ 兵法を隠れ家とのみ たのむ身ぞ憂き」「兵法の勝ちをとりても 世の海をわたりかねたる 石の舟かな」(『宗厳兵法百首』、注9)などの思いで、新陰流兵法に専念する日々であったと思われる。
柳生家にとっても、また新陰流にとっても、大きな転機になったのは、文禄三年(一五九四)、宗厳が徳川家康に招かれて技を披露したことである。この時剣術を学んで自信もあった家康自らが立ち合ったが、無刀の宗厳に太刀を取られ後ろへ倒された。「上手なり、向後師たるべし」と景則の刀を授け、入門の誓詞を出したという(『玉栄拾遺』、注10)。これ以後五男の宗矩が家康の下に出仕することになった。
慶長五年(一六〇〇)の関が原の戦いの折には、宗矩は家康の命で戦いの直前に大和に帰りこの地の領主層が徳川方に付くよう説得して功があり、この戦いに勝って覇権を握った家康から柳生旧領を受け、さらに翌年千石加増され、世子・秀忠よりも誓詞を受けた。
慶長八年(一六〇三)二月、家康は征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開くことになる。柳生家でも、この年、孫の兵庫助は加藤清正の熊本藩に、その弟・権右衛門は伊達政宗の仙台藩に招かれ、一族発展の兆しが見えた。
宗厳は、慶長六年に能楽師で弟子であった金春七郎へ『新陰流兵法目録事』を授けていたが、八年、熊本に下る孫の兵庫助に『新陰流截相口伝書事』と『没茲味手段口伝書』を授けている。この二巻は、宗厳の長年の工夫が集約されて記されており、以後、柳生一統の新陰流の根本の心得となることになる(注11)。
『新陰流兵法目録事』は、新陰流の絵目録で、太刀名にそれぞれ一場面の絵を付けている。後に宗矩の弟子がそれぞれの絵にその組太刀の仕方を説明文を書き加えているが、元来は絵目録のみである。絵はないが同じ太刀名の目録を、その二年後に兵庫助にも授けている。同様の太刀目録を宗矩も受け継いでおり、『兵法家伝書』の太刀目録はほぼ同じ内容である。宗厳の目録は、柳生系統の新陰流の根本の目録なのである。
宗厳の目録の基にあるのは上泉のものである。「燕飛」は宗厳の目録にはないが、その勢法を伝えている(注12)。宗厳発給の目録では、「三学」、「九箇」、「天狗抄」までは上泉の発給目録と同じであるが、「天狗抄」の次に奥義の六箇条を掲げる。この中には「活人刀」も入れ、「高上」「極意」「神妙剣」とするので、おそらく上泉の「活人剣」を取り入れて極意の剣としたのであろう。この六本の組太刀は次々と前の太刀の使い方に勝つように仕組まれており、「神妙剣にて極意に勝ち、これに極る也」とされている(柳生十兵衛『月の抄』、注13)。
宗厳の目録は、さらに「八箇必勝」「二十七箇条截相」を付け加えている。
「二十七箇条截相」は「序」「破」「急」で上・中・下段の各三本ずつである。吉田鞆男氏によれば、「八箇必勝」は「二十七箇条截相」の「急」の九本で、現実の組太刀は八本であり、最後の九本目はなく、太刀の消滅するところを示すと言う。尾張柳生系統ではこの八本が「八箇必勝」であり、「八箇必勝」は「印可之太刀」(『討太刀目録』)で、「轉」を使うという。
こうして宗厳の工夫によって、新陰流の組太刀は、「燕飛」から始まり「三学」を学んだ上で、他流の剣も応用的に学び、極意の太刀も次々に高まり、上・中・下段のどこでも勝ちつけ、最後に技が消滅するところまで示す一貫性を持つものとして完備したのである。
また『新陰流截相口伝書事』と『没茲味手段口伝書』は、「身懸五箇之大事」や「三箇大事」「三拍子之事」「三見大事」など心得を箇条書きしている。大抵は項目のみの箇条書きだが、例えば「五箇之大事」が「第一、身を一重に成すべき事」「第二、敵のこぶし、吾肩にくらぶべき事」等、具体的に書かれているように、実際に具体的な口伝で教えられていたものであろう。上泉にはなかった技をなす上での具体的な教えをしたのである。また「心下作りの事」「兵法病気を去る事」等、精神的な注意もある。そして特に「 手裏見」として「心ハ万境ニ随テ轉ズ 轉ズル処実ニ幽ナリ」と書いている。宗厳は、新陰流の極意とされる「轉」を根幹に置いていたのである。
このように宗厳は、新陰流の勢法を整備するとともに、心得るべき口伝書を書いていたのである。彼自身は、兵法師範とはならなかったが、その身代わりとして息子を最高実力者家康の下に出仕させ、後の柳生の基礎を築いたと言える。
将軍となった家康の師範であり、息子の宗矩は、二代将軍・秀忠の師範、孫たちは、加藤清正、伊達政宗など有力大名の師範となったから、宗厳の中で君主の剣との意識が強く働いていたであろうことは想像にかたくない。『截相口伝書事』の最後は「務英雄知心是極一刀」としている。「英傑」の語は上泉の目録にもあったが、新陰流が現実的に将軍や大大名も学ぶものとなったことで、宗厳において単なる実戦の剣術ではなく、英雄の心を知るべく務める剣の道だとする意識が強まったのである。
3. 柳生新陰流の発展│柳生宗矩と柳生兵庫助
柳生宗矩(一五七一.一六四六)は、文禄三年(一五九四)以来、父・宗厳に代わって家康に仕えたが、慶長五年(一六〇〇)の関が原の戦いの際に大和の領主を味方に引き入れる軍功を上げた翌年、世子・秀忠の兵法師範を命じられている。さらに元和六年(一六二〇)、将軍世子・家光の兵法師範となった。若い家光からは、再三極意を書き上げよとの命で、元和八年『玉成集』、「新陰流兵法円太刀目録外物」、同九年「兵法截相心持の事」、寛永三年(一六二六)「新陰流兵法心持」「外の物の事」と口伝書を度々呈上している(注14)。そして大御所・秀忠が亡くなり、将軍家光の親政となった寛永九年九月『兵法家伝書』三巻を呈上したのである(注15)。
『兵法家伝書』は、第一巻「進履橋」は新陰流の太刀目録であり、宗矩による説明が少し加えられているが、「三学」「九箇」「天狗抄」「六箇条」「二十七箇条」と宗厳の目録のままであり、心得を書いた第二巻「殺人刀」は宗厳の『新陰流截相口伝書』にある項目に説明を加える形で、第三巻「活人剣」は宗厳の『没茲味手段口伝書』に載せる項目と「無刀の巻」を解説する形で述べている。論じる項目自体は基本的に宗厳のものにそのまま拠りながらも、その内容の説明には禅僧・沢庵宗彭の教えを入れた独自の心法的な展開を見せている。
宗矩は「一々の立相の習、口伝にあり、書顕はし難し」(『兵法家伝書』岩波文庫p11)として技の仕様は書いていない。「轉」についても直接言及する箇所はないが、宗矩は「打にうたれよ、うたれて勝つ心持」(同書p41)を強調する。「とかく敵うたねば、かつ事はならぬ也。敵が我をうつても、我にあたらぬつもりをよくおぼえねば、卒爾に又うたるゝ事もならぬ事也。其段を能くけいこしすまして、おそろしげもなく、敵の身へちかづきて、うたせて却而勝つなり」(同書p47)と言う。このように敵の太刀の下に入って打たせ、それをかわして自らが打つというのは、明らかに「轉」の技を考えているのである。
宗矩は「心は万境に随つて轉ず、轉ずる処実に幽なり」の偈も引用して解説している。「敵が太刀をふりあぐれば、其太刀に心が転じ、右へまはせば右へ心が転じ、左へまわせば左へ転ずる、是を万境に随つて轉ずと云ふ也」、「其所に心があとを残さずして、…先へ転じ、そつともとまらぬ処を、轉ずる処実に幽なりと心得べし」(同書p109.110)と解説している。宗矩は、技の触れずに、専ら心の転じることのみに焦点をあてて「心とむな」と強調する。それ故、「兵法の、仏法にかなひ、禅に通ずる事多し。中に殊更著をきらひ、物ごとにとどまる事をきらふ」(p111)と言うのである。このように宗矩が説いた「剣禅一致」の思想は、将軍家兵法師範の権威もあって江戸時代大いに広まり、大きな影響を及ぼすことになった。
宗矩は上泉にあった「殺人刀」「活人剣」の語を使って、「人をころす刀、却而人をいかす剣也」、「乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」(同書p119)と説く。治まりたる世には、実戦的な術ではなく、武士の人格形成に資するものであらねばならぬとする考えが強かったのである。
宗矩は、『兵法家伝書』を呈上した寛永九年十二月に大名を監視する惣目付となったこともあって、大名で入門する者が多く、その家臣も含め門弟三千人に及ぶと言われる。こうして江戸柳生系の新陰流は江戸初期の武士社会に大いに普及したと言ってよいが、その心法偏重のあり方には、例えば合戦経験がある細川忠興などからは「新陰は柳生殿(宗矩)よりあしく成申候」という批判もあったのである。(同書解説p183)
柳生兵庫助利厳(一五七九.一六五〇)は、宗厳の長男・厳勝の二男で、合戦で鉄砲による負傷で足が不自由になった父に代わり、幼時から祖父・宗厳より厳しく仕込まれて「祖父作り」と言われていた。慶長八年(一六〇三)に熊本の加藤清正の下へ仕官したが、翌年致仕し、以後諸国を武者修行したと言われる。慶長十年六月、三年ぶりに柳生庄に戻った兵庫助に宗厳は『没茲味手段口伝書』に「今日迄は子共一類に一人も相伝無レ之也。貴所に可二相伝一者也」と書き加えて渡し、柳生家の大太刀、上泉からの印可状、影目録等一切を譲って、新陰流の第三代を正式に継がせた。兵庫助はその後も、諸国武者修行をし、慶長十四年には新当流の長刀・槍を主とする穴沢浄見の後継者、棒庵から「唯授一人」の免状も授与されている。兵庫助の武者修行は、近畿、中国、北陸あたりを巡り、また折々は江戸にも下って宗矩と会ったようである(注16)。
大坂の陣後の元和元年(一六一五)、家康は兵庫助を駿府へ召出し、尾張にすえた十男・義直の兵法師範に委嘱した。家康は子供の教育に配慮して剣術を学ばせた(注17)が、特に尾張藩六十四万九千五百石は、御三家筆頭で西日本の抑えであり、十五歳になる義直に兵法の実力並びなきとの評が高かった兵庫助を当てたのである。
兵庫助は、義直の指導に専念、元和六年(一六二〇)には義直に印可を与え、自身の手になる『始終不捨書』を授けて新陰流第四世を継がせている(注18)。以後、尾張藩では兵法に優れた藩主には伝書とともに一流を相伝し、その藩主から柳生家の次の継承者に伝書とともに一切を伝授する形式を取るようになる(注19)。
『始終不捨書』は、上泉以来の新陰流の心得を兵庫助が見直し、新たな教えを確立しようとした書である。序で「治国平天下」の剣たることを宣言した後、「十禁習の事」「十好習の事」「十問十答」「八箇之位独稽古之次第」を書き、さらに目録形式に心得を並べ、「風・水・心・意・空」として最後を締めている。
この書の最初は特に基本の心得を明確に書き記そうとしているが、そこで「昔の教ノ如ク…悪シ」と相伝の教えを批判し、「今ハ…」と少し変えた教えを説いていることである。
兵庫助は二十六歳まで祖父・宗厳の下で新陰流の剣を徹底的に仕込まれている。しかし以後十二年間諸国武者修行をし、他流の剣の免許も受けていた。技はよく出来、誰にも負けぬ自信もあった。しかも時代は、甲冑を着けた時代の介者剣術から着流しでより精妙な技が求められる素肌剣術に完全に移行していた。それ故、伝来の「沈なる身」を否定し、「直立たる身」の教えを説くことになった。しかし、新陰流では、上泉から宗厳時代もすでに素肌剣術的な技であったことを思えば、別の要因もあったと考えられる。第一、新陰流は江戸の将軍家の御流儀であり、尾張徳川家で全く同じことを教えることは憚られたと思われる。それに尾張六十五万石の藩主に教えるのに、相手を窺うような「沈なる身」は不適に思われたであろう。それ故、よけいに「直立たる身」を教えなければならなかったのではないか。兵庫助が、上段から太刀を遣う「雷刀」を好んだという(長岡房成『兵法口伝書解』:次節参照)のも、まさに藩主の剣であるからであったと思われる。
『始終不捨書』では、特に「轉」の教えは特に強調していないが、技の心得で「昔の教」を否定しているのは「堅マリツマル」「堅ル」「狭キ」ことを嫌った故であり、「放レテ開ク心持」や他の場合を考えてのことであり、「轉」が相手に対して自在に転じることであったとすると、実質上「轉」を展開した教えであったとも言えるものである。
『始終不捨書』では昔の教えを否定し、今の教えに転換する面が強調されているにも関わらず、宗厳からの教えは正確に伝えんとしていた。
兵庫助は、藩主の指南とともに、息子の利方、連也等を中心に新陰流の剣を厳しく仕込んでいた。将軍家を支える御三家筆頭の尾張藩の剣は、常に他に勝るものでなければならなかったのである。
兵庫助は、寛永十四年(一六三七)の『新陰流兵法目録口伝書』で、相伝の教えと自らの見解をもう一度反芻している。これは、すでに兵法に非凡な才を見せつつあった十三歳の連也に筆録させた紙数四十八枚のものである(注19)。これには「三学」「九箇」「天狗抄」「極意六箇条」「八箇必勝」の組太刀の相伝の心得、さらに宗厳の『截相口伝書』と『没茲味手段口伝書』についての相伝の心得(「本曰」)と自らの見解(「厳云」)を併載している。ここでは、『始終不捨書』ほど相伝との相違を強調しているわけではない。
上述のように藩主には雷刀の遣いを好んで教えていたようであるが、息子の利方の『新陰流表討太刀目録』を見ると、兵庫助は相伝の太刀遣いを正確に伝えようとしていたようである。
4. 流派としての整備│江戸柳生家と尾張柳生家
十七世紀中葉には、江戸柳生家でも尾張柳生家でもそれぞれ力量ある者が現れ、それぞれ将軍家と尾張徳川家の兵法師範として、流派を整備し定着をさせていった。
江戸の柳生十兵衛三厳(一六〇七.五〇)は、宗矩の嫡男で、早くから新陰流を仕込まれ、十三歳時から将軍世子・家光の稽古相手となったが二十一歳の時致仕し、以後十二年間、柳生にも戻り、祖父の門人達からも家伝の法を聞き研鑽を積んだという。寛永十三年(一六三六)に御書院使番として再出仕し、父・宗矩と禅僧・沢庵に師事して深め、寛永十九年(一六四二)の『月の抄』には、宗厳と宗矩の教えを書きとめている(注20)。この書は、新陰流の組太刀に関しては目録だけでその仕様は記さず、習の目録として宗厳の『截相口伝書』の載せる心得の語を注釈するかのように、「老父云」「父云」として宗矩の教えを書き、また「亡父ノ目録ニハ」「亡父ノ録ニ」として宗厳の記述を引用している。「私云」として示す自身の見解はわずか一箇所しかなく、ほぼ祖述に終始している。そして最後には宗矩の弟子であった茨木又左衛門の「起倒流乱目録」を載せ、「和尚之御物語ニ」として沢庵の話、さらに陰流の愛洲移香から流祖・上泉の伝承も載せて、新陰流の理論と伝承の定着を図ったと見てよい書である。
宗矩を継いだ三厳は、慶安三年(一六五〇)に四十四歳で急逝したので、江戸柳生は弟・宗冬(一六一三.七五)が継ぐことになった。宗冬は明暦二年(一六五六)に四代将軍家綱の兵法師範となり、ついで館林の綱吉(後の五代将軍)の入門誓紙を受け、大名間にも多くの門人を獲得した。また寛文八年(一六六八)、加増を受けて総高一万石となり、江戸柳生家は大名に復した。以後、江戸柳生家は大名家として明治維新まで続くことになる。
なお江戸柳生家の技法については、宗厳が発給した『新陰流兵法目録事』(一六〇一)に、この目録を受け継いだ金春七郎の子孫の依頼によって、目録の「三学」「九箇」「天狗抄」各本と極意六箇条の内の三本の絵の空白部にその組太刀がどのような仕様であるのかの説明を、宝永四年(一七〇七)に柳生宗矩の弟子で当時八十一歳であった松平伊勢守入道源信定が書き加えたもの(宝山寺文書)がある。信定の年令から推定して、ここに記されているのは、寛永後期、一六三〇年代の宗矩時代の技法であると考えられる。
これに対して尾張柳生家では、兵庫助の息子の利方と連也厳包が尾張の新陰流を整備している。
慶安二年(一六四九)兵庫助は隠居を許され、家督は利方が継ぐとともに、新陰流の伝書一切は弟・連也に譲り渡された。
柳生連也斎厳包(一六二五.九四)は、既述のように十三歳で、父・兵庫助の聞書『新陰流兵法目録口伝書』(以下、『兵法口伝書』と略す)を筆録したが、十八歳の寛永十九年(一六四二)には江戸に居た義直に呼び寄せられ、その側に仕えた「四、五十人、皆三本ヅツ仕相致シ候ガ、連也師ハ一本モ負ケ申サレズ候」(『連也翁一代記』一八四六)であったという。連也は、この年新陰流第五世を継いでいる。慶安三年(一六五一)には、病床の将軍家光に呼び寄せられ、兄の利方とともに「燕飛」「三学」「九箇」他、「小太刀」「無刀」を上覧に供し、翌日も再度召し出されて、嘉賞された(同上書)。連也の兵法の高名は尾張藩の誇りであったというが、天下の誰に何時立合いを申し込まれても負けるわけにはいかないと、女性を近づけず独身を貫いて兵法に精進したという。
連也は尾張新陰流では特別な存在である。将軍御前の演武の際、江戸柳生の宗冬と立ち合って勝ったとの逸話もあるが、確かな資料はなく、後世に作られた話のようである。新陰流の技の上で重要であるのは、「三学」と「九箇」の「取り上げ遣い」(「高揚勢」)を考案工夫したと言われる点と、従来は小太刀を片手で使う「転」の組太刀(以後「小転」と呼ばれる)に、太刀を両手で遣う「大転」の組太刀を工夫したとされる点である。特に取り上げ遣いは、尾張柳生系の新陰流の根本的な技として、今日でも最初に習うことになっている。そして相伝の「三学」「九箇」は、「下から遣い」として、その後に習うことになる。したがって、連也が初学のために取り上げ遣いを考案したと言われるのである。
しかしながら、連也が取り上げ遣いを考案工夫したという確かな史料があるわけではない。連也の考案とはっきり書いているのは、長岡房成の『刀
録・勢法篇』であるが、これは連也没後から百四十年も後の成立で、房成自身が何を根拠にそう記したのか不明である。房成自身『兵法口伝書解』では次のように書いている。
「雷刀は如雲斎(兵庫助)の教に好める処にて、相雷刀も此頃より始まりて盛んなり。因りて連也翁、「三学」「九箇」を相雷刀の勝ちに多くかへて大きく使ふことにせり」
この記述によれば、すでに父・兵庫助が、上段に取る「雷刀」を好んだので、打太刀・仕太刀とも上段に取る「相雷刀」も兵庫助時代から始まって盛んになっていた。そうした背景があったので、連也が「三学」と「九箇」を相雷刀にする取り上げ遣いの勝ちに変えたというのである。
そもそも「三学」と「九箇」は、新陰流にとって根本的な組太刀である。その組太刀を連也が相伝のものと異なる取り上げ遣いをいきなり考案したというのは考えにくいが、兵庫助時代から上段に取る遣い方が行われていて、それを基にして連也が取り上げ遣いとして明確なものとして位置づけたというのであれば理解出来る。
兵庫助は介者剣術の「沈なる身」から素肌剣術の「直立たる身」の兵法への変更させようとしており、さらに江戸の将軍家とは全く同一の勢法を使うことは憚られ、かつ教えるのは六十五万石の藩主である。下から打ち出すのでなく、堂々と上からストーンと打ち下ろす太刀筋を好んで教えるのは、いかにもありそうである。兵庫助は『始終不捨書』で相伝の「昔の教え」を多く否定しながら、『兵法口伝書』では相伝の教えを伝えていた。尾張では新陰流の道統は、柳生家と藩主と交互に伝える形式を取っていたから、連也は藩祖・義直より伝授されて、次に二代目藩主・光友へ伝授し、さらに光友から甥の厳延へと受け継がれた。それ故、藩主を教えるのに、上段からの相雷刀を遣うことが慣例になってくれば、相雷刀で一貫させる組太刀を定めようとするのは自然である。しかも柳生家を継ぐ者やその周辺には宗厳以来の遣い方も伝えておこうとすると、それとは区別して「下から遣い」として残そうとするであろう。こうして「取り上げ遣い」と「下から遣い」という現在の二形式の組太刀が制定されたのではないか。
取り上げ遣いが連也以降に制度化されたことは、連也の兄・利方の『討太刀目録』には、取り上げ遣いを示す仕様がないことからも、明らかである。
また取り上げ遣いは「初学」のためのものだと言われているが、実技に即して考えてみると、これもそうとは言えない面がある。
取り上げ遣いは、確かに打ち込んでくる打太刀の太刀を上から真直ぐに「十字勝ち」にするのは分かりやすいが、実は打太刀が厳しく打ち込んでくれば、取り上げ遣いは一旦上段に振り上げるため、一拍子遅れるので、仕太刀が打太刀に打ち勝つためには、すでに間合いを勝っていなければならない。ここで身を転ずることによって初めて、距離を変えずに相手の打ちをかわすとともに自らの太刀を打ち込むことが出来るのである。そう考えれば、まさに身を転ずる「轉」がなければ成り立たない技なのである。(今日「轉勝ち」と言われているのは、「十字勝ち」、あるいは「一拍子勝ち」の「合ツシ勝ち」のことを指すとされている。取り上げ遣いの所作を決まったものとして演武するのであれば、上から真直ぐに打ち付ける「十字勝ち」がなぜ「轉勝ち」と言われるのかは理解出来ないが、本来は身を転じる「轉」があればこそ「十字勝ち」が出来るから「轉勝ち」と呼ばれたと考えられる。)
そう考えると、取り上げ遣いが「初学のため」という理由づけも後から付与されたものではないかと考えられる。江戸期には先のように藩主が学ぶもので、かつ将軍家への憚りがあったが、それがなくなった明治以後は、「三学」と「九箇」に二つの形式があることの説明として、「初学のため」という理由づけが言い出されたのであろう。確かに取り上げ遣いでは「十字勝ち」は行いやすいが、厳しく打ち込まれた場合にもきちっと「轉」を使って「十字勝ち」することは難しいのである。
もう一つ、連也が「大転」の組太刀を工夫したとされる点について。これも相伝の組太刀の如く片手で小太刀を遣って相手の間に入り込むことが、藩主に相応しいとはされなかったことが大きいのではないか。これについては、それまでの組太刀が太刀を遣うため、太刀の方がやりやすいという利点もある。それで太刀を遣って「大転」が工夫され、対して相伝のものは「小転」と呼ばれるようになった。もちろん「轉」を学ぶための組太刀としては「小転」の方がより近間に入ってより精妙に身を転ずることが必要となる。おそらく「大転」なども、兵庫助時代には、相雷刀と同じく、応用的な「砕き」として行われていたのではないか。連也の時代には「砕き」も明確に勢法として定めるようになったのでないかと考えられる。
連也は亡くなる直前、父・兵庫助からの聞書『兵法口伝書』を自らの念持仏であった摩利支天像に密封して、決して解封することなきように、もし解封すれは目が潰れるとまで遺言している。なぜこのような遺言をしたのか。『兵法口伝書』を見れば、宗厳以来の相伝の仕様と兵庫助の考え方の違い、また連也以降の仕様との違いも明瞭になる。けれどもその違いが明らかになれば、今度は新陰流の伝統という権威は危うくなる。けれども父・兵庫助が明確に筆録させたものを自ら処分はできない。そのぎりぎりの選択が先の遺言であったのではないか。連也の工夫も「轉」に則った展開ではあるが、一見した所相伝のものとはかなり変わったものになっている。それが理解できない可能性もあるので、『兵法口伝書』を知らさずに今の勢法を稽古すればよい。けれどももし力量ある者が出てくれば、その形の違いにも拘わらず、本質は一貫していることが理解できるはずだ。これだけの禁を破って解封する程の者は、それだけの者であるはずだ。そのように考えたのであれば、連也は自らをカリスマに仕立て上げる必要も感じたはずである。将軍家の上覧に招かれ、数々の仕合の逸話もあり、独身で兵法三昧であるとの評も高い。そのカリスマ性を持つ者であれば、取り上げ遣いを考案工夫したと言っても通用する。連也は、「死に顔は人に見せず、火葬にして灰は南海に流して位牌・石碑を作るな」とも遺言している。それは、尾張柳生家の伝統の根幹に関わる秘密に属することを、自らがカリスマとなって隠そうとしたからかも知れない。
連也以前の兵庫助に遡る新陰流の刀法を書いているのが、連也の兄・柳生利方著の『討太刀目録』(一六八五)である。利方は、兵庫助の下での修練し、藩主嫡男に指南し、また将軍家光の前で連也と演武した経歴がある。「燕飛」については上泉伊勢守の孫の上泉孫四郎に習ってもいる。その利方が、連也を継いで尾張藩の兵法師範となった息子の厳延に、相伝の新陰流の組太刀のやり方を書き残そうとしたのである。この書は、兵庫助の伝来の尾張の遣い方の仕様の基準として、代々尊重されてきたものである。
この『討太刀目録』には、「位積り、身構え悪るければ、すなわち当たる」という表現が多い。また打太刀の打ち方により別の打ち方もする。間合や身構えが悪ければ当たる厳しい稽古であり、決まった形ではなく変化も多かったようである。
十七世紀後半、江戸柳生でも尾張柳生でもともに流祖から第四世代にあたる者たちから、流派がこうして定着していった。これ以降、社会的な地位も確立し、代々兵法師範職を受け継ぎ、道場で伝承していくことになる。特に尾張柳生では藩主と柳生家が交互に相伝伝承していたのであり、柳生家に出入りする弟子たちが新陰流をともに伝えていっていた。柳生家は六百石、長岡家二百石、吉田家百五十石など、上級武士たちが武士のプライドを持って修練していたのである。
5.江戸後期│尾張柳生系統の再編
江戸柳生の『新秘抄』(一七一六)は、宗在の弟子で、新陰流を学ぶこと三十年という佐野嘉内が著したもので、「三学」「九箇」「天狗抄」「猿飛」(「燕飛」)「丸橋」(「小転」)の組太刀の由来と遣い方を書いている。
『玉栄拾遺』八巻は、家臣の萩原信之が、柳生家の由来・系譜・事蹟を記録したもので、宝暦三年(一七五三)までの記述が見られる。特に宗厳・宗矩の項には、三好長慶・松永禅正・織田信長等の諸将からの書状を引用し、また新陰流の説明では日夏繁高著『本朝武芸小伝』(一七一六刊)や『武備志』所載の「影流」目録断簡も載せ記述する。萩原自身の考察は「臣按ずるに」と書き、また欄外にも付記している。けれども新陰流の技についての記述はない。藩主・大名家としての歴史を調査・整理したもので、流派としてのものではない。江戸柳生家の関心が、どこにあったかが推察される。
将軍家は、三代家光は新陰流の稽古に熱心であり、その息子の家綱、綱吉なども将軍家の兵法として修めていたが、八代の吉宗は紀伊から急遽入っただけに新陰流を特に学んだという風はない。柳生家系譜に「御相手」と書かれるのは五代綱吉から十一代家斉まで飛んでいる。そうした将軍家の志向に伴い、江戸柳生家も兵法師範であるより、専ら大名としての務めが重要であった。しかも五代俊方で、宗矩の血統は絶え、松平越中守定重の男子が養子となって俊平を名乗る。それも三代で絶え九代目を継いだ俊豊は、松平甲斐守保光の子であった。
もちろん江戸柳生家でも新陰流の相伝は代々続いており、その中で技の本来の伝承を見直そうとする機運もあった。十二代将軍・家慶の「御相手」となった俊豊は『「燕飛」聞書』『新陰流兵法「三学」』(写本・吉田家蔵)を記している。
対して尾張柳生家は、御三家筆頭の尾張藩主の兵法師範であっただけに、新陰流の技の伝承により自覚的に取り組んでいた。
尾張柳生の伝来の技に大きな変更をもたらした連也は、上述のように兵庫助からの聞書『兵法口伝書』を摩利支天像の中に厳封し、「解封する者は、神罰をこうむって盲目となるべし」と遺言したため、この書の内容は、連也没後八十年間も全く知られることはなかった。尾張新陰流八代となる厳春(一七四一.一八〇八)は、安永二年(一七七三)に意を決して解封し、この内容を知ることによって、柳生流の中興を果たした。
厳春の書『陰流書』は、連也の『口伝書』を写すとともに、自己の所存も一部書き加えている。注目されるのは、「轉」について書いた次の箇所である。
「つら..轉の道を考るに、仕太刀は一尺余の小太刀を以て向ふ。打太刀二尺余の大太刀にて片手払に打ち、その拳をかたん事なかなか及び難き事也。仕太刀その及びがたく勝ちがたきをよく知る故に、我身を捨て相討ちにせん事を専らにして打ち込む時は、その大太刀を持って勝ちやすき討太刀さへ得切らずして跡へ引き、その引くにしたがひ追い込まれて、打太刀のまけになる事有り。ここを以て考えれば、打太刀は大太刀を持て居れば無底に勝たんと思ふ欲あり、仕太刀は小太刀にて勝ちがたき所をよく知る故に、勝ちは捨て置きて相打ちにせんと心掛る所、自然と欲をはなるる所なるべし。…さりながら、相寸なれば心安く無難にかたんと思ふ心出来る也。それ故負けまじき所にもまくる。いつも轉の心にて相討ちをのみ心掛ければ、昇達するの近道ならん。殊に相討ちを心掛けて自然と欲すくなくなるは、何によつて稽古せしぞと源を尋ぬれば、轉の徳也。」(注21)
厳春は、「轉」を心の欲が無くなることに焦点を当てて考えていたようである。ただ技として、実際にどのような指導をしていたのかは不明である。
尾張の伝書を厳密に解釈して、伝来の技をもう一度全面的に見直し、教習課程を整備して今日に直結する中興を果たしたのが、長岡房成(桃嶺と号す)であった。
長岡房成(一七六三.一八三八)は、厳春の弟子で兵法に達したが、厳春が文化五年(一八〇八)に亡くなると、柳生家は年若い当主が立ったので、厳之、厳久、厳政と三代続けて補佐することになった。
房成は『新陰流兵法口伝書外伝』(一八二〇)の序で次のように述べる。
「房成十八、九歳の頃、不捨書(『始終不捨書』)と枝葉書とを受けて読み、それより截相書(『截相口伝書』)、没茲味書(『没茲味手段口伝書』)、宗矩の書等を受けて、吾が道業として読み、つぶさに父師に聞ける。因て今その聞く所の旨を集めて本書の外伝となす也。外伝とは、予、連也翁の口伝書(『兵法口伝書』)を内伝とするが故也。」(注22)
房成は、宗厳、兵庫助、利方、連也の書を、一語一句詳しく注解している。その中には江戸の宗矩の『兵法家伝書』にも言及している。さらに江戸の柳生道場の稽古を見て研究している。伝来の書に見える組太刀の遣い方について、房成当時のやり方とは異なることを明確に意識しながら、相伝の勢法(組太刀)を「本伝」とし、それを核にしながら、初学のためと実戦的に学ぶために稽古の太刀を「試合勢法」二二〇本(「子刀」を含む)を制定し、「外伝」とした。制定したといっても、房成が勝手に考案したわけではない。新陰流相伝の勢法(「本伝」)の「砕き」であり、房成は『刀
録・勢法篇』で、各本にきちっとした説明を加えたのである。試合勢法には「変」を称するものが多く、また後半には「向槍勢」「撃両敵勢」「撃介者」など実戦的なもの、他流を入れたものもある(注23)。
房成は「試合勢法」を制定した理由を次のように述べている。
「初学試合に当たって、勝ちを制するの法を知らずして邪路に陥る者多し。因りて房成、古今の必勝轉勢を本とし、先哲の教を以て質し、大略試合勢法を作為し、以て方を同志の初学の与ふ。然れども作為する所、悉く以て其の善なる者のみを択ぶにあらず。或は其の博に備うる者有り。…初学をして勝ちを取るの方、其の変窮まり無きを知らしめんが為に、玉石共に挙ぐる也。其の善なる者は、轉勢也。」(注25)
「試合勢法」は、初学に学ばしめんために、玉石混交の技を組み入れたが、その善なるものは「轉」に基づくというのである。
以後尾張柳生では、「三学」取り上げ遣いから始めて、「本伝」と「試合勢法」を組み合わせて教えられたという。
尾張は「二十七箇条」の形では行っていなかったが、その意とするところは「試合勢法」の内の「六十四勢法」の中にある。「八箇必勝」は、実は江戸柳生家の「二十七箇条截相」の最後の九本(急の太刀)であるが、「右急ノ太刀都合九本、全ク轉ニシテ一拍子ニ勝ツ者也。予ガ試合勢法之内ニ挙グル者ト同シ故ニ、是モ轉ノ勝口ヲ示ス者ト思フベシ」。
吉田鞆男氏は、これを「少なくとも柳生家に伝承されている轉の勝口には〝一拍子の勝.(合ッシ打ち)と〝身を転ずる勝口.の二面性がある。大転・小転などは、尾張柳生が最も大事としているところのひとつで前者の典型である」(次稿参照)と解説している。
房也は、この引用から、「八箇必勝」を貫くものが「轉」であることを、図らずも語っているのである。
十九世紀に撃剣が一般化しても、尾張柳生系統では「撃剣は百姓がするものだ」として、房成が整備した勢法の稽古をひたすら行っていた。房成が補佐した厳政から二代後の厳周が二十四歳の時明治維新を迎えたが、それ以後も、尾張柳生系統は大日本武徳会には入らず、伝来の法を守って、伝書を研究、稽古に努めていたのである。
6. 新陰流の術技伝承と文献による検証
明治になると、文明開化の大きな流れの中で、江戸時代の流派剣術は大抵は消滅していった。江戸柳生系統も技の伝承は途絶えている。しかし尾張柳生は、新陰流の術技を明治を越えて今日まで代々伝承してきている。けれども伝承が過去のものを正確に伝えているかは検証しなければならない。術技は伝承が無ければ分からない。術技のやり方を書いた文献の叙述から検証する必要がある。
尾張柳生系統では、長岡房成がすでに宗厳から連也以前の相伝の伝書を厳密に解釈することで、伝来の術技に迫ろうとしていた。その精神は受け継がれている。神戸金七氏は、戦争で伝承が断ち切られることを憂えて、出征した若者が帰郷する時に見るようにと尾張柳生家相伝の伝書を必死に書写していた。多くの命が失われた中で、かろうじて尾張の地に帰還を果たした吉田重成氏は、その伝書をさらに写しながら、一語一語解釈していた。そして江戸柳生系の伝書も集めていた。重成氏とその息鞆男氏は、尾張系の『討太刀目録』と江戸系の『新陰流兵法目録事』説明文(宝山寺文書)に拠って、現在の伝承の技を検証して、流祖時代に遡る組太刀の仕様を研究したのである(注26)。
既述のように、『討太刀目録』は兵庫助の息子・利方が打太刀側から書いた文献だが、『新陰流兵法目録事』の説明文は宗矩の弟子・松平信定の説明で仕太刀側から書いているので、同じ組太刀について違う系統の仕様を合わせて見ることが出来るからである。しかも文献の成立年代では『討太刀目録』は一六八五年、『新陰流兵法目録事』説明文は一七〇七年で二十二年の違いがあるが、記した者の生年では、利方の元和七年(一六二一)生まれに対して、松平信定は寛永三年(一六二六)生まれで、僅か五年しか差がないのである。両者を合わせれば、彼らが父や師から学んだ十七世紀中葉の新陰流の組太刀の仕様(遣い方)を窺うことが可能になると考えられる。
その吉田氏の研究の結果が、次稿の「新陰派の真髄「轉」」である。流派を受け継ぎ伝書に精通された立場で論じられているが、その要旨を大まかにまとめれば以下のようである。
上泉が陰流に見出した「奇妙」は、「燕飛」と「三学」の組太刀に表れるはずである。そこで上泉の組太刀に遡るため『討太刀目録』と宝山寺文書を合わせて検討すると、両者の組太刀の核として共通することは、「相手に太刀筋を軸にして、身を転じつつ太刀を切り出す」こと、「転じつつ、一拍子で十字に勝つ」こと、つまり打太刀の打ちに対して、仕太刀は転じつつ「立体的」に勝つていることが窺える。これが元来の「轉」だと思われる。
ところが柳生家、特に尾張の連也以降では、「轉」は、「身を転じる」ことと「一拍子の勝ち」(「真っ直ぐ十字勝ち」、「合ッシ勝ち」とも言われる)することとの二面性に分かれる。特に連也以降の「取り上げ遣い」を合わせた現行の新陰流では、「身を転じる」ことは「燕飛」で習わせ、「三学」から「九箇」、「天狗抄」、「八箇必勝」の組太刀では、専ら「一拍子の真向十字勝ち」することを「轉勝ち」としている。太刀を上段に取り上げて「真直ぐに十字勝ち」することだけが強調されると、「務英雄知心是極一刀」という組太刀では、仕太刀が必敗となるが、それが道場の「公案」、すなわち問題である。手段を弄さず、英雄の心で一刀を振り必敗する時、あらためて「轉ずる」ことの大事さを逆説的に気づくことにもなるのである。
本プロジェクトの報告書では、一昨年は『討太刀目録』の「燕飛」を翻刻・注解し、その表現に基づき実際の組太刀の試演の写真を掲載した。昨年は「三学」について、『討太刀目録』と『目録事』の説明文を合わせ、かつより古い三文献と参考文献も参照しつつ、「三学」の元来の組太刀の試演の写真も掲載した。
両者を合わせると、先に吉田氏が論じられるように、打太刀の打ちに対して、横に体を開き、肩を回して身を転じることが、相手の太刀をかわして打ち落とさせるとともに、自らの打ちの振りかぶりとなって、打ちおろしていることが随所に見られる。
ここでは、尾張伝承の取り上げ遣いは特に示さなかったが、伝承の演武と先の研究に基づく演武を比較すると、吉田氏が指摘されることが確かに認めることが出来る。
本稿で五段階に分けて見てきた新陰流の展開の過程を考えると、「轉」が新陰流を貫くものであったこと、しかもそれが現在に至るまでの過程で、尾張では兵庫助から連也の段階で「雷刀(上段)」を取るようになるとともに、「下から遣い」として伝来のものは残していたこと、そして江戸後期の長岡房成の段階で両者を受け継ぎつつ、それらへの導入と応用的な「砕き」が「試合勢法」として整備され、今日につながることが明確になったのである。
まとめ 新陰流に見る日本武道の性格
新陰流は、日本の武道の形成を中核的に担った流派剣術である。流祖上泉は、倭寇も使ったという陰流を基にしながら、その実戦武術から「轉」という原理を取り出し、それを基に技を体系化して新陰流を創始したのである。上泉は、上洛して将軍家から「天下一」という称号を得るとともに、目録の序では流派の拠って立つ立場を明確に宣言し、他流の太刀も取り入れた勢法を制定した。上泉を継いだ柳生宗厳は、「無刀」の工夫を加えて新陰流の勢法を整備し、組太刀が消滅するところまで示した。宗厳は、自ら仕込んだ息子や孫が社会的にも認められる中、遣う心得を記した伝書も遺した。江戸幕府が創成される中、宗矩は江戸の将軍家の、兵庫助は尾張徳川家の兵法師範となり、以後柳生の両家は、他の流派の模範となり、剣術のみならず、武術全般にわたって大きな影響を及ぼすことになる。
新陰流は、その流派の成立の仕方が、まさに日本武道の形成の典型であっただけではなく、将軍家と御三家筆頭の兵法師範として、日本の武道文化の形成を主導したと言ってよいのである。
新陰流の勢法が根本とするのは、相手の太刀筋を軸として転じる(「轉」)ことで、相手の太刀の下に踏み込んで相手に技を尽くさせつつ勝つものである。「切り結ぶ刀の下ぞ地獄なれ ただ切り込めよ 神妙の剣」(宗厳が兵庫助に与えた「極秘口伝」の道歌;原文はカタカナ書き)。相手の太刀の下に踏み込むには、覚悟が要る。この組太刀を稽古する中で覚悟を養成しようとしたのである。
新陰流は、流祖上泉の時から、「龍を誅する剣、蛇に揮はず」と、実戦武術よりも、人格修養に重きを置いていた。技巧ではなく、堂々たる太刀を志向した。「予が家法を伝」えるのは「千人に英、万人に傑」たる人物とされた。宗厳は「務めて英雄の心を知る是極一刀」を言う。江戸の将軍家を補佐する藩主に教えた尾張の新陰流では、英傑としての覚悟を強調する中で、下から遣うより、上段から真直ぐに打ち込む刀法が好まれた。兵庫助から連也に至る間に、「一拍子の真直ぐな十字勝ち」が強調され、「取り上げ遣い」が行われるようになり、「身を転じる」面は見えにくくなった。けれども「轉」を根本とすることは変わっていない。元来のものが見えにくくなったが、まさに「務めて英雄の心を知る是極一刀」の組太刀を「公案」として稽古する中で原理的な「轉」に気づくようになるのである。時代を経る中で、形は多少変わることがあっても、新陰流は「轉」で一貫していたことが結論として言えるのである。
以上のように見てくると、新陰流において、前稿の比較武術論で見た日本の武道の根本的な性格が、具体的に見て取れると言ってよいであろう。
(注1)諸田政治『上毛剣術史 中 剣聖 上泉信綱詳伝』(煥乎堂・一九八四)参照。この書は、上泉の子孫の家に伝わった文書に基づいた論である。
(注2)尾張柳生家蔵の絵目録。宛名はない。「燕飛」「参学」「七太刀」「九箇」の四巻が一組として伝わっている。その表題の「新陰流」の「陰」を「影」に訂正されているので、「影目録」と通称されている。「燕飛」序の原本の写真と翻刻は、柳生厳長『正伝新陰流』(講談社・一九五七)二四九頁.五四頁。原本は漢文であるが、以下その書き下しを引用する。
(注3)柳生厳長氏は三十五歳ころと推定している。前掲『正伝新陰流』十五頁。
(注4)『新陰流表討太刀目録』「燕飛」の巻 解題・翻刻、および「燕飛」組太刀試論(本年報第九号・二〇〇四・三七〇頁.三五九頁)。「三学」解題・翻刻、および「三学」組太刀試論(本年報第十号・二〇〇五・三八七頁.三五四頁)。
(注5)注4の「燕飛」・「三学」組太刀試論参照。またこの二本の組太刀の比較については、朴周鳳・魚住孝至「新陰流の組太刀の研究│柳生家伝来の古文献と伝承の形に基づいて」(国際武道大学研究紀要第二〇号・二〇〇四・四七.六二頁)で図解をしながら詳しい説明した。
(注6)寛永十四年(一六三七)に柳生兵庫助が宗厳の『没茲味手段』を解説したもの。本稿3.4.参照。引用は、『正伝新陰流』三一〇頁に拠る。
(注7)柳生家の文献は、すべて「新陰流」であり、柳生新陰流というのは通称に過ぎないが、新陰流の中でも独自な性格を持つものであるので、ここではこの通称を使うことにする。
(注8)尾張柳生二代・柳生利方が奥書に書いている伝承による。これは柳生家の最古の伝承である。本年報第9号『新陰流表討太刀目録』奥書 解題・翻刻・注解 三七七.三七一頁参照。
(注9)慶長六年(一六〇一)竹田七郎に伝授。今村嘉雄編『史料柳生新陰流』(新人物往来社・一九九五)下巻 二四五.五七頁
(注10)柳生家の伝承をまとめた書。本稿5.参照。引用は、『史料柳生新陰流』上巻 五九頁。
(注11)『新陰流兵法目録事』は、宝山寺蔵の絵目録。『史料柳生新陰流』上巻一八八.二一六頁に写真と翻刻掲載。但し絵の中に書かれている説明は元来はなく、後に松平信定が書き加えたもの。本稿4.参照。
『截相口伝書』と『没茲味手段口伝書』は、柳生延春『柳生新陰流道眼』(島津書房・一九九六)に写真と翻刻が掲載されている。
(注12)宗厳は「燕飛」は元来他流(陰流)のものとして目録には載せなかったようだが、尾張柳生家の『討太刀目録』にはその仕様が詳細に書かれている。
(注13)『月の抄』で相伝の組太刀を簡単に紹介した中にある。『史料柳生新陰流』下巻 一六.七頁。
(注14)宗矩は家光に呈上した書は、『史料柳生新陰流』上巻に所収されている。注目されるのは、寛永三年までの段階では、合戦でのかなり具体的な心得も教えており、また六年後の『兵法家伝書』に見られる心法論はほとんど見られないことである。
(注15)『兵法家伝書』は、渡辺一郎校注の岩波文庫・一九八六から引用する。
(注16)兵庫助の諸国武者修行については、柳生厳長『正伝新陰流』一三五.一四五頁参照。棒庵の印可状の翻刻も見られる。
(注17)家康が秀忠夫人に宛てた教訓状によれば、特に晩年の家康は権力を持つ者の子供が我儘にならず、かつ人の長なるために教育に心を砕き、剣術などの心得を知るとともに、その修練を通じて堪忍を覚えさせようとしていたようである。徳川義宣解説『徳川家康の教訓』(徳川黎明会・一九八三)四.七頁参照。
(注18)兵庫助が藩主義直に授けた『始終不捨書』は不明だが、慶安二年(一六四九)に連也に譲ったものの影印が柳生延春『柳生新陰流道眼』(島津書房・一九九六)に掲載されている。
(注19)本書は尾張柳生では『兵法口伝書内伝』と通称され、重視されることになる。筑波大学武道文化研究会『新陰流関係史料』上巻(一九九九)に所収。
(注20)『月の抄』は『史料柳生新陰流』下巻八.八〇頁に所収。
(注21)『陰流書』前掲『新陰流関係史料』上巻一一七頁。この書の成立年代は不明。
(注22)『新陰流兵法口伝書外伝』は神戸金七書写本(吉田家所蔵本)による。
(注23)『刀
録』は、神戸金七書写本(吉田家所蔵本)による。この箇所は渡辺忠敏編集『増補改訂 新陰流兵法太刀伝』(新陰流兵法転会・一九八七)九六頁にも紹介されている。
(注24)「試合勢法」は、『刀
録・勢法篇』の巻三に載せられる「六十四勢法」は、「相雷刀八勢」、「中段十四勢」、「下段八勢」、「後雷刀(大転変)十三勢」、「続雷刀二十一勢」は「初学のため」と言われるが、尾張の最も尾張らしい技がある。試合勢法の太刀名は、名前からだけでもその技の内容が分かるように「相雷刀挫城郭勢」などの名称を付けているが、実際は何本目と数えて、いろんな場合に応用出来るようにしていたという。房成が『刀
録』に載せる「試合勢法」の詳しい名称は、加藤純一「尾張藩新陰柳生流の勢法について」〔『日本武道学研究.渡辺一郎教授退官記念論集』島津書房・一九八八 所収〕参照。また「試合勢法」の主な組太刀の仕様は、前掲『新陰流兵法太刀伝』に簡単に紹介されている。
(注25)『刀
録・勢法篇』序。前掲『新陰流兵法太刀伝』九六頁。
(注26)尾張柳生系では、江戸時代より江戸柳生系の技も同時に研究していた。文書として見ることができたかは確かめられないが、「試合勢法」の中にも、「一刀変」のように明らかに流祖に遡るような術技も認められる。
新陰流の真髄「轉」
吉田 鞆男
上泉伊勢守信綱が陰流より「奇妙を抽出して」新陰流を樹てた(永禄九年・影目録)とすれば、その「奇妙」は新陰流の真髄部分に継承されているものと考える。手掛りは陰流の面影を残すとされる「燕飛」と新陰流の冒頭に示されている「三学圓太刀」の組太刀である。
上泉の繪目録には説明がないため、それに最も近い時期の新陰流の組太刀の仕様を見ることにした。すなわち宝山寺伝書(『新陰流兵法目録事』)と如流斎『討太刀目録』(『新陰流表討太刀目録』)から分析をはじめた(既報)。
現行の「燕飛」の仕様を基にして『討太刀目録』に記されている「燕飛」を分析する中で、極めて特徴的なことが窺い得る。それは、打太刀・仕太刀双方が相手の太刀筋へ踏み込みながらも、相手の太刀筋を軸にして恰もたわむれる様にして、身を転じつつそれぞれの太刀を切り出していることである。
この身を転じて勝口を執る刀法は、柳生家に於いてより凝縮された形で表現されてくる。印可の太刀とされる「八箇必勝」の太刀(実は江戸柳生家の「廿七ヶ条截合」の最後の九本(「急の太刀」)であるが、「右急ノ太刀都合九本、全ク轉ニシテ一拍子ニ勝ツ者也。予ガ試合勢法之内ニ挙クル者ト同シ故ニ、是モ轉ノ勝口ヲ示ス者ト思フベシ」(桃嶺師・長岡房成)。少なくとも柳生家に伝承されている「轉」の勝口には〝一拍子の勝.(合ッシ打ち)と〝身を転ずる勝口.の二面性がある。「大転」・「小転」などは尾張柳生が最も大事としているところのひとつで、前者の典型である。しかし、十字勝・合ッシ勝の勝口だけを「轉」とは云えない。同様の勝口はある種一般的な勝方といえるからである。
前述の宝山寺伝書及び如流斎『討太刀目録』に基づく吟味からは、現行の所作(取上ゲ遣ヒと下カラ遣ヒ)とは異なる勝様が窺える。すなわち、転じながら一拍子の勝口を取る形が窺えるのである。現行の所作だけでは説明し切れないが、この元来の勝口に戻して考えてみると、「奇妙」から「轉」への系譜がかなりの確度で説明し得る。
現行の新陰流では、身を転じる刀法は「燕飛」によって習わせ、「三学」以下「極意六ヶ條」・「八箇必勝」までの「本伝」(伝来の組太刀)では、専ら一拍子の真向十字勝ちを以って「轉勝ち」として習うことになっている。このことは初期の段階では「燕飛」の勝口を色濃く残した刀法、換言すれば流れに隨って勝口を執る立体的表現であったものが、柳生家においては一種の究極性を求める中で、直線的且つ点的表現に移行していったことを示すものといえる。
因みにこの図は、勝は十字にして、その十字の生ずる場は動きに応じて前後左右に移行するも全て十字を旨とすることを意味し、〝手裏見.とは敵の拳(手の内・柄中)に目附けを置くことを表わす。この図には、「心随万境転々処実能幽。随流認得性無喜亦無憂」の句が附される。(天正七年柳生宗厳より丹下総七郎宛伝書)、ここでも、転じつつ勝口を十字に成すことの意が示されている。上泉に近い時期の柳生の考え方が示されていて興味深いものである。〝目付を切留め.という宝山寺伝書(「三学・一刀両段」)の叙述は、まさに手裏見にして初期の「轉勝ち」を示すといえる。
ここで「轉」の稽古風景のひとつに触れてみたい。
柳生の大事の意としている〝務英雄知心是極一刀.は、「轉」の典型である。
この字句は宗厳の『截相口伝書事』の最後の一行にある。「轉」の意を吟べるものとして、尾張柳生の「外伝」(「試合勢法」)の中に同じ名称の組太刀が在る。所作は単純。上段より片手袈裟掛けにくる筋に対して、脇構へより(下カラ遣ヒの一刀両段の如く)上段に上げてから真向から敵の拳に十字に勝つ。通常は仕太刀が勝つように打太刀が「身・積・位」を塩梅しながら稽古する。換言すれば、打太刀からまともに打たれると、一旦上段に上げると、太刀筋の性質上どうしても物理的に一拍子遅れるため、必敗を喫する。現行の尾張柳生の仕様には、打太刀がいっぱいに打込むと、仕太刀が必敗になるような組太刀が多くある。殊に最大事とする脇構へからの「轉」太刀を使う組太刀に、この必敗傾向が顕著である。このような矛盾とも思へることが生じるのは、教えと実益が必ずしも同じでないことに加えて、「轉」の有する二面性のうち、真っ直ぐ十字勝を執る一面性が強調されているためである。(前述)
この矛盾を孕んだ「轉」を、打太刀が打ち込んでくる〝そこへ踏み出せ.、〝そこへ出ろ.とのみ教えられつつ、繰返し学習することになる。この種の矛盾は道場から与えられる、謂わば命題であり、公案である。その間打太刀は拍子の塩梅を〝きつめ.にしつつ仕太刀の〝轉.を引き出すことになる。このような対話を通じ、仕太刀は「轉」の思いを薄紙を重ねる如く、自己の内に積み重ねる。実は「是極一刀」は、宝山寺伝書及び打太刀目録に示されている本来の「一刀両段」のことである旨を認識するようになる。流儀を一貫する「轉」の意と、「八箇必勝」に至るまでに凝縮してきた柳生家の工夫の跡を辿ることになる。「是極一刀」に「務英雄知心」が冠せられる意味は、手段を弄さず英傑たるに努め、真意を知るを専らにし、その心にて一刀を振るのみと、いうこと。この教えに育まれた気宇にこそ、「蛇に揮」う如き業事(ワザゴト)を賎しみ、「龍をも誅する剣」(上泉・影目録)を以って「修身・斉家・治國・平天下」(柳生兵庫助『始終不捨書』)を説く新陰流の意を継承した柳生の自負と面目が窺える。
二〇〇五年度 特定研究プロジェクト「東アジアにおける武術の交流と展開」
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図1 新陰流の成立│上泉伊勢守と直弟子
念流│┘ ┐│疋田豊五郎(疋田流)
─ ─
新当流┴ ┬│丸目蔵人佐(タイ捨流)
─ ─
陰流│├│上泉伊勢守秀綱│┼│上泉秀胤
─
新陰流 ┬│奥山休賀斎(神影流)
─
┌│柳生宗厳(柳生新陰流)
311
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表1 新陰流の組太刀目録(柳生宗厳発給の目録)
(Ⅰ)
(「燕飛」6本)
〔目録には記さず〕
(燕飛、猿回、山陰、月影、浦波、浮舟)
Ⅱ
「三学」5本
一刀両段、斬釘截鉄、半開半向、右旋左転、長短一味
Ⅲ
「九箇」9本
必勝、逆風、十太刀、和ト、捷径、大詰、小詰、八重垣、村雲
Ⅳ
「天狗抄」8本
括弧内は、『討太刀目録』と『目録事』説明文の名称
高林房(花車・乱甲)、風眼房(明身・乗太刀)、太郎房(善待・小村雲)、栄意房(手引・切詰)、智羅天(二刀・虎乱留)、火乱房(二刀打物・虎乱打留)、修羅房(乱剣・乱剣)、金比羅房(二人懸・陰之霞)
Ⅴ
奥義 6本
添截乱截、無二剣、活人刀、向上、極意、神妙剣
Ⅵ
「二十七箇条截相」
27本
序 上段三 中段三 下段三
破 折甲二 刀棒三 打合四
急 上段三 中段三 下段三
Ⅶ
「八箇必勝」
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図2 柳生家の系譜(明治維新まで。太字は本文で論じた者、弟子は括弧付き)
┐│十兵衛三厳
─
(江戸)┐│宗矩│┼│宗冬││宗在│┤│俊方││俊平││俊峯││俊則││俊豊││俊章││俊能│┤│俊順
─ ─ ─ ─
─ ┌│(松平信定) ┌│(佐野嘉内) ┌│俊郎
柳生宗厳│┴
─
─
(尾張)┌│兵庫助│┤│利方││厳延││厳儔││厳春│┤│厳之││厳久││厳政││厳蕃││厳周
─ ─
┌│連也厳包 ┌│(長岡房成)
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305
304
表2 新陰流の主要伝書一覧
1
上泉伊勢守秀綱
新陰流目録(「影目録」)4巻
永禄9年(1566)
2
柳生石舟斎宗厳
新陰流目録事
慶長6年(1601)
截相口伝書
慶長8年(1603)
没茲味手段口伝書
慶長8年(1603)
3
柳生宗矩
新陰流兵法心持
寛永3年(1626)
兵法家伝書
寛永9年(1632)
4
柳生兵庫助
始終不捨書
元和6年(1620)
(述・連也筆録)
新陰流兵法口伝書
寛永14年(1637)
5
柳生十兵衛三厳
月の抄
寛永19年(1642)
6
柳生宗冬
宗冬兵法聞書
寛永10年(1633)
7
柳生利方
新陰流表討太刀目録
貞享2年(1685)
8
松平信定(宗矩弟子)
新陰流目録事(説明文)
宝永4年(1707)
9
佐野嘉内(宗在弟子)
柳生流新秘抄
正徳6年(1716)
10
柳生厳春
陰流書
天明(1781)以降
11
長岡房成(厳春弟子)
新陰流口伝書・解
文化(1804)以降
12
長岡房成
刀
録・勢法篇
文政12年(1829)
303
302
301
表3 試合勢法の構成(『刀
録・勢法篇』太刀名を略記)
本伝 大転
3
小転変
13
増補
2
外雷刀
31
(11)
「六十四勢法」
「一刀変」他
8
相雷刀
8
(5)
小転変雷刀
13
(2)
中段
14
(1)
撃両敵勢
5
下段
8
(4)
向槍・向偃月刀勢
16
(4)
後雷刀
13
(1)
打欲奪刀者雷刀他
4
(3)
続雷刀
21
(1)
閤地矮車他
4
(1)
〔計
64
(13)〕
木刀向真刀勢
1
(2)
*( )は子刀
撃介者逆風他
9
(13)
300
図3 尾張柳生系統の明治以降の主な伝系
┐│下條小三郎││大坪指方
─
─ ┐│渡辺忠敏││忠成
─ ─
柳生厳周│┼│柳生厳長│┼│柳生延春││耕一
─ ─
─ ┬│吉田重成││鞆男
─ ─
┌│神戸金七│├│加藤伊三郎
299
298
297
296
手裏見
295
294
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