解夫婁王 かいふるおう 해부루왕(ヘプルワン)東扶余の初代の王
Hae Buru of Dongbuyeo
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「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 Ⅱ
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●大和朝廷系、神獣「鹿」の神社 VS 鹿を生贄にする諏訪大社他(中国・西域系)
太古から両極端の神社が存在する。
一方は鹿を敬い、神獣とする神社系統
もう一方は、鹿を含めて生贄を捧げる神社系統である
古代は政祭一致の権力体制が主であったと思われるだけに異様である
生贄そのものは、太古の事情として
1.権力者が死亡した場合、冥界でも、不自由なく暮らせるように、従者や一族の一部、奴隷、家畜を生贄にした
2.風水害が多い日本では、水の神が人の命を求めているとして、鎮める為に人柱を供した
3.神への供物(水神に関わらず)
4.見張り役として、犬を生贄にした。「家」という漢字の成り立ちは、ウ冠に犬である。
家や城を守るために犬を生贄にした
........................................................などがある。
しかし、日本では比較的早い時期に、生贄(人柱)風習は廃れる。
特に1.の理由の生贄は、出雲の国の相撲取り(神事の相撲)から人の代わりに埴輪を埋めるよう進言があり、それが採用されたものだと伝えられている。それが為に日本各地に出雲の陶工などが派遣された説もある
仏教が伝来して以降、生贄はまず見られなくなった。
だが、中国などでは生贄は重要な供物で、大陸文化の特徴となった。特に古代王朝では、皇帝や王侯が死亡すると、数千人規模の生贄を捧げたとされ、大半が手足を切り落とされており、胴体を切り離された人骨なども出土している。
多くが捕らえられらた、周辺民族(漢人から見て蛮族)で、無理やり生贄にされたとみられれている
以後も動物の生贄が目立つ
聖書には生贄記述が見られるが、ユダヤ人はモリヤ山で羊を捧げて以降、聖地エルサレム以外で生贄を供えなくなった。
羊の生贄が後世に豊穣のシンボル兎や卵に転化し、これを起源とするキリスト教の復活祭「イースター」では、羊や兎の肉を食したり、羊・兎の形をしたケーキや菓子、卵を食するようになった
アメリカ映画でよく出てくる、イースターバニーのぬいぐるみや、派手なイ-スターエッグの由来である
▼鹿を尊ぶ流れ.....朝廷
鹿を神獣、神の使いとする神社は、奈良などが良く知られている
鹿島神宮、香取神宮、春日大社、厳島神社などがある。
現在神宮と呼ばれる神社は多数あるが、古事記・日本書紀では、伊勢神宮と石上神宮の2社のみである。
平安時代に神宮とされたのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社である。
鹿島神宮、香取神宮は、東征の証として、関東に立てられたと思われる(神武天皇時代の建立とされる)
鹿島神宮を頂点とする、鹿島神社は全国に150社を数える。
鹿島神宮では祭神武甕槌命が鹿に乗ってきたとして、その名もズバリ、鹿島である。
鹿島の神が鹿に乗って通ったのが香取神宮であり、奥に神鹿が飼われている。
福岡、宗蔵大社は、宗蔵三女神を祀る総社であり、厳島神社の祭神である。
宗蔵三女神は、古事記においては、誓約において、天照大神が須佐之男命の十拳剣を譲り受けて生んだとされており、須佐之男命の物実(ものざね)から化生したので須佐之男命の子としている。
水(海)の神とされ、蛇と同体とされ分社は各地に祭られる
春日大社は、藤原氏の氏神として武甕槌命を祀る為、鹿島神社から分詞したもので、武甕槌命が鹿に乗って来たと伝えられる為、鹿を神獣とする。
厳島神社は、藤原氏の創建といわれ、後に平家が信奉した。
武甕槌命という神は、元々物部氏の氏神であり、物部氏はツングース系扶余族の出自と見られている
扶余族は古代満州に分布したツングース系騎馬民族で、鹿をトーテムとし、自らを扶余(フヨ、プヨ=鹿)と称した。
高句麗、新羅、百済を建国した民族で、特に百済は一時期「南扶余」を国号としており、王族名は扶余氏で、首都も扶余だった。
百済(AD.346~AD.660)は滅亡時に、王族以下数千名が日本に亡命している。
AD.631~百済の2王子が人質として日本におり客人扱いだったが、兄の豊璋が白村江の大敗で行方不明になり諸説を巻き起こしている。(豊璋=中臣鎌足、藤原氏百済王朝亡民説)
蘇我氏の出自は不明ながら、系図に高麗の名が見え、新羅系では無いかと考えられている
扶余系と見られる物部氏は、絶頂期に物部守屋が、対立していた蘇我氏の襲撃を受け死亡し急激に勢力が衰えていく。
物部氏と共に中臣(藤原)氏は、天皇家と姻戚であった蘇我氏と対立して劣勢にあったが、大化の改新で中臣鎌足が蘇我氏を討ち形勢逆転、物部氏の氏神を引き継ぐ(鹿島神社から春日大社の分祀)行為は象徴的である。
他に百済系としては、東漢(やまとのあや)氏が有名である
3世紀の東アジア
中国の史書によると、夫余(扶余)の言語は高句麗と同じとされ、沃沮と濊(わい、後の濊貊=わいはく)もほぼ同じとされる(BC.3世紀)
高句麗神話の始祖朱蒙は母親が東扶余の金蛙王の元に送られていたが、卵から生まれた朱蒙が、共に育てられた金蛙王の王子(兄弟)たちの妬みを逃れ、高句麗の地に戻ったとしている。
これは、扶余の金蛙王の庶子(私生児)が朱蒙で、高句麗の祖である逸話と理解されている。
魏書には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」とある。
扶余系狛族が主力となって高句麗が成立したと思われる
濊(わい)族がこれら種族の元で、連合体を形成し、その中の扶余が王族を出した主要種族と考えられている
その為、これら4種族を、「濊系種族」または「夫余系種族」と呼ぶ。
扶余は、高句麗と扶余国の2国家を持ったが、濊貊と沃沮は酋長分立状態で統一国家を持たなかった。
扶余は幾度も分裂・遷移しており、東扶余国はAD.494に滅亡。北扶余は唐代まで存在したようである
後漢書にはAD3世紀頃の様子が記されている。
「南に辰韓,北に高句麗と沃沮,東は大海(日本海),朝鮮の東は皆、濊(わい)の地である。
高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。
同姓結婚は認められない。
前漢のとき、単々嶺の以西は楽浪郡が監督し、東部の七県は都尉が監督したが、
やがて東部の都尉を廃止 し、その地の渠帥を諸侯に任じた。
漢末には高句麗に属した。」
『魏書』には更に、北夫余の後裔である豆莫婁の言語は、室韋,庫莫奚,契丹と同じであることが記されている。
室韋(しつい)は、支族が8世紀以降西に移動して、萌古国(モンゴル)と称し、その中のボルジギン氏が後のモンゴル帝国の中核を構成している為、モンゴルの祖の一つと考えられている
また契丹は、契丹(遼)・西遼など立てた民族で、モンゴル帝国ではモンゴル語を話して中国文字が使えたことから仲介役になっている。
扶余・東扶余は、幾度も鮮卑の猛攻を受け、一度は崩壊しているが、扶余の王子依羅(イリ)が、晋(西晋)帝国の支援を得て再興している。
ところが高句麗系朝鮮史とされる「桓檀古記~大国本震国本紀」によれば、「依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。(扶余の依羅が、数千人を率いて、日本に渡り平定して王となる)」と記述する。
御間城入彦 (ミマキイリヒコ)つまり第10代の崇神天皇だろうと一部で言われているが、この歴史書自体「偽書」とされていて歴史学者の間では無視されているが、韓国の民間では肯定的である
依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。
物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。物部氏は天皇家の外戚として大豪族になったのであるが........
物部氏は、兵馬の担当豪族だったが、扶余or扶余系百済と関連が深いことが分かる
百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていた。
東扶余は5世紀末に滅び、百済・高句麗も7世紀末に相次いで滅ぶ
高句麗の残党は、勿吉(もつきつ)の後裔靺鞨(まつかつ、南部の粟末靺鞨)と結んで、渤海国を7世紀末に建国した。
(この時に渤海に加わらなかった北部靺鞨を、黒水靺鞨という。後に女真と改称し、金・清を建て、満州人-満族と改称した)
渤海の首都、上京竜泉府 敖東城
渤海と日本の航路 8世紀(国土交通省資料)
渤海国の大武芸王は、AD.727年、親書を携えた使いを日本に送る
『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。
わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
少なくとも東アジア諸国の認識を示すものである。
日本はこれを受けて、渤海国と同盟し、日本側の窓口は菅原道真であった。
実際、平壌の高句麗の墳墓群(世界遺産)は、日本のキトラ古墳、高松塚古墳に酷似している。この2つの古墳は、四神獣「青龍・白虎・朱雀・玄武」の壁画を配して天井に北極星を描く道教の様式で7・8世紀のものとされている。
そして高松塚古墳の石室の寸法は高麗尺だという事実がある。
これの意味するところは、中華思想の皇帝の墳墓以外の何者でもない
日本の皇室の墳墓か?、渡来王朝の墓か?
高句麗の墳墓で見つかった相撲の壁画は日本の相撲に酷似している
曲げを結い、塩らしきものを撒いている。まわしに似た衣装。
現在の韓国相撲シムルとは随分様子が違うが、日本の相撲には似ている。
ただ相撲の起源に関しては非常に微妙である
釈迦は嫁取りの為に相撲を取った逸話は有名で彫刻も残る
古代からインドでは相撲が盛んだったからだ
一方で聖書では、ヤコブが神と一晩中相撲を取った逸話がある
愛媛県の大三島にある大山砥神社御田植祭りでは稲の霊との一人相撲の神事が古くから行われているのに酷似する
http://myrcvideos.com/index.php?key=%E4%B8%80%E4%BA%BA%E8%A7%92%E5%8A%9B
相撲自体日本では古来から神事で各地の神社で行われており、出雲の力士などは古来特別な存在で、神事があるとき畿内の都に呼ばれていた
他の地域のものは、相撲というよりもレスリングや格闘技に近く、釈迦の相撲とヤコブの相撲位しか、相撲と呼べるものは見当たらない
また北朝鮮は高句麗墳墓群に、前方後円墳もあるとしているが、これは論争中の事案である
墳墓論争は幾つかある
[韓国との墳墓論争]
韓国との古墳論争は、日本と同じ墳墓が韓国内に幾つかあり、韓国の方が古く日本の出自の証拠としていた問題
しかし、韓国の墳墓より日本の方が古いことが判明している為、今のところ日本の豪族が、古朝鮮に進出していた時代に作られたとする説明のほうが有力な事案である
また日本より古い前方後円墳が見つかっていない事から、日本の独自性主張の根拠となっている
ただ、韓国から古い墳墓が出てきた場合、この説は逆転する可能性があり、発掘競争が続いている。
朱塗りの石室が、日本独自と主張していたら、韓国からも朱塗りの石室が出土した例も有る
この手の騒ぎは多く、韓国メディアが過剰に反応する。
韓国南部の月経洞古墳(前方後円墳)
[北朝鮮との墳墓論争]
前方後円墳の原型とも言われる積石塚墳が今の北朝鮮側に沢山ある。
前方後円墳に似た祭壇を備えているからで、祭壇も墳墓の全景と見るかどうか実に微妙。
また、石積みの墳墓と、日本および中国型の土を盛る墳墓では根本思想が異なるという指摘もあり、何とも言いがたい
似てはいるが、他人の空似としているのが、日本側の態度だが......
前方後円墳を日本の独自性の根拠としていると足元をすくわれる可能性も有る
四国の石積み墳墓は明らかに朝鮮系とする意見もあり、バイカル湖周辺では前方後方墳という前方後円墳に似ていなくも無い墳墓が多数あるから。
これら墳墓は匈奴他、遊牧民族・騎馬民族の墳墓で前方後方墳に似ている
前方後方の墳墓は、日本でも山陰や北陸にある
能登の雨の宮古墳群では、1号墳が前方後方墳(前長64m)、2号墳が前方後円墳(全長65m)と同居しているケースも有り前方後方墳の方が古く、前方後円墳の元の姿と解釈できなくも無い
日本の墳墓でも匈奴墳墓の副葬品に酷似した出土品が出ている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E3%81%AE%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
雨の宮古墳群 1号墳(前方後方墳)
ノインウラ 匈奴墳墓
▼扶余系国家と日本、ヘブル
夫余王の姓は解氏、朝鮮語では解を「へ」と読み、太陽を意味する。
日本語の日(ひ)と語源が同じだと言われ、夫余王は太陽氏(解氏)となる。
扶余の解夫婁(ヘプル)王は、預言に従い東方に遷都し、国号を東扶余とした為、解夫婁王は初代東扶余王となるのである。
解夫婁(ヘプル)王には子供がなく、神に子を授かるように祈っていたら、河畔で金色に輝く赤子を見つけた。蛙のような子供であった事から金蛙(きんあ)と呼び、後に2代目の国王となったので金蛙(きんあ)王と呼ぶ
金蛙王は、河伯なる水神の娘である柳花(りゅうか、ユファ)(朱蒙の母)を引き取る。
天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう/ヘ・モス)が孕ませて、父親の河伯が怒って送った為。柳花は卵を生み、卵から朱蒙が生まれたとする。
朱蒙は、金蛙王の7人の王子と共に育つが、才能が妬まれて苛められたと言う。
この神話は、朱蒙が金蛙王の庶子(私生児)であった事を示す逸話と見られている。
朱蒙を行く末を心配した柳花は、家臣と共に東扶余から脱出させる
朱蒙は、卒本の侯王(扶余という姓)の娘をめとり、高句麗建国(BC.37)。
初代東明聖王となり、2人の王子が生まれる。(朱蒙と東明聖王は別人説も有る)
兄の沸流(フル)と弟の温祚(おんそ/オンジュ)である
世界史を見渡してヘブルと呼ばれたのはヘブライ人(北イスラエル王国=失われた十氏族)しかない。聖書にもヘブル人と記述があり、中国の漢字で「希伯来」をヘブライと誤訳したのが、日本語のヘブライ人という言葉で、原音はヘブルである
また、北イスラエル王国ではフルという名前の者が相当数いて、聖書にもフルが見られる。フルと言う名前は、ヘブル人には、よくある名前。
フルと言う名前が、ポイントで、古代朝鮮史と日本の神話・神社伝承に多数出てくる
百済の建国は、神話、百済史、『北史』、『周書』、『隋書』百済伝と資料が多いが少しずつ食い違う。
大筋としては、扶余から高句麗王朱蒙の最初の子、類利(るいり)が、脱出してきたのを喜び太子とし、同年に東明聖王(朱蒙)死去、王位を継いだ。
その為、腹違いの沸流と温祚の兄弟が高句麗から脱出しそれぞれ、弥鄒忽(ミチュエル)と百済を立てた。
弥鄒忽は、発展せず百済に取り込まれて行き、沸流(フル)は行方不明になる。
韓国の学者の中に沸流は、日本に渡り応神天皇となり東征で日本を制圧したという説を唱えるものがいる
また日本の学者にも騎馬民族征服説を唱える者がいる
日本の氏族の出自記録 「新撰姓氏録」の序文には
「真人は是、皇別の上氏なり、この氏の筆頭は息長真人で誉田天皇より出づ」
と記される。
天皇の姓は、「真氏」であると冒頭に掲げる。
真氏の筆頭は、息長真人(おきながのまひと)で、誉田天皇(ほむた)より出たと言う意味の記述。誉田天皇とは、応神天皇であり、百済の辰王だとする。
日本で、一大ブームを引き起こした説である。
近年謎の神として脚光を浴びているのが猿田彦命である。
邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神である
故郷は伊勢国の五十鈴川の川上。この川は伊勢神宮に流れる。
赤ら顔で「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。
「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。
今も猿田彦の扮装は天狗面である
伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており蛙が神使である
いずれにしても初代東扶余王解夫婁(ヘプル)=ヘブル人(アブラハムの子孫)、沸流(フル)=ヘブル人に多い名前、猿田彦命≒天狗≒ヘブル(ユダヤ人)、金蛙王≒猿田彦命の使の蛙。
奇妙な符合である
▼日ユ同祖論と古朝鮮
また、常々不思議に思っている事は、日本には実に多く半島からの渡来民が押し寄せているが、言語的問題、トラブル事例が見当たらないという点である。
古伝に幾つかあっても良さそうな物だが、全く聞かない
扶余族は、高句麗、百済、新羅の祖である。
中国の史書によれば、扶余系民族、高句麗、沃沮、濊(わい、濊貊=わいはく)もほぼ言葉が同じとされる(BC.3世紀)
同じツングース系でも勿吉(もつきつ、後の靺鞨まつかつ⇒女真⇒満族)とは異なるという。
高句麗は襲撃してきた靺鞨を捕らえて民に加え、沃沮を滅ぼして加えたという。(扶余・靺鞨混成国家)
百済は、支配層の言語が扶余と同じで、民は馬韓語だったと言う。
日本は新羅からも移民を受け入れているし、百済から学者・技術者を受け入れて豪族化している。
特に7世紀後半は、百済、高句麗が相次いで滅び、両国から大量の亡命者を受け入れていて、全国にまたがる。
その中には、渡来して文部大臣に当たる高官についた者もいる
因みに日本書紀によれば、スサノオミコト(牛頭天王)は、高天原を出てしばらく新羅のソシモリ(曽尸茂梨/蘇尸茂利)にいたと記述する。
ソシモリとは牛の頭の意味で、朝鮮半島には牛や牛の頭、牛の角など牛頭天王に由来する地名が数多くある。
更に重大な謎は、日本各地に新羅神社が存在し、新羅の渡来民が多数住んでいたことである
そして、源義光が新羅神社の神前で元服したという重大な事実がある
答えは、言語がほぼ同じで、コミニュケーションに苦労しなかったのではないのか?という事である
日ユ同祖論者は、やたら日本語とヘブライ語の共通点をあげるが、日本語と朝鮮語の共通点を挙げたら、それとは桁外れの共通性が出てくる。
昔から、日本語は孤語だと言うが、実は古代朝鮮語を接続詞でつないだ膠着言語だと最近も指摘した、元官僚の教授がいたが..........
さらに言えば、アイヌ語も古代朝鮮語と夥しい類似点がある言語で、日本語の原型説もある
日ユ同祖論者は、ユダヤ人といえば、欧米に多いスラブ系ハザール人=改宗ユダヤ人/偽ユダヤ人(ユダヤ人の9割を占める)をイメージするようで、アジアに属する真のユダヤ人=スファラディをイメージしないようである
脱亜入欧を明治に掲げて以来、欧米に憧れ、アジアを無視したがる日本人のメンタリティーの発露とも伺える
多くの日ユ同祖論者は、まるで十氏族が突然日本に湧いたかのごとく思考し、海路直接日本に大挙移動しない限り有り得ない様な論理飛躍が目立つ。
或いは、それら十氏族が、日本を目指して大急ぎで大陸半島を駆け抜けたがごとく。
現実的に考えて、もしも十氏族の渡来があるならば、中国・朝鮮を経由しての日本流入である。
それは端的に言って、中国・朝鮮民族の渡来による日本制圧以外の何ものでもないだろうが.......
アミシャブは、日ユ同祖の最大の根拠を神道としている。
日本の日ユ同祖論者もそれに準じて、神道を重視する
神社を調べる場合「延喜式」「神名帳」を古社の手がかりとする場合が多い。
平安時代、10世紀に纏められた全国神社リストであり、2861社を掲載するが、このうち30%以上は渡来人由来の神社である。
10世紀の時点で渡来人と認識されている人を指すもので、それ以前に早くから渡来した人々ではない
早期の渡来人系を含めれば、神社の渡来人系由来の比率はずっと高くなる
神道・神社を深掘りするほど、朝鮮半島・大陸の影が濃くなるのは当たり前である
http://lunabura.exblog.jp/i189/
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