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Tuesday, August 14, 2012

the secret of Geumwa Dongbuyeo 金蛙の秘密

http://jumong.exblog.jp/4189695/
高句麗東明聖王(朱蒙)Jumong
朱蒙(주몽)동명왕 이야기 동부여의 금와왕은 신하들과

legendary Jumong was said that he was born from an egg, Geumwa also born bizarre.
his name of Geumwa,i guess its weird name, which had been come from his golden body and his pop-eyes like frog.


Geumwa of Dongbuyeo
金蛙王(きんあおう、금와왕、クムワワン)は高句麗建国神話に現れる伝説上の人物であり、扶余王解夫婁(かいふる、ヘプル)の子、東明王(東明聖王、朱蒙)の父。東明王の誕生については東明聖王を参照のこと。

Geumwa was the second ruler (48 BCE – 7 BCE) of Dongbuyeo. (East Buyeo), an ancient kingdom of Korea. His story is recorded in Samguk Sagi, Samguk Yusa and Book of King Dongmyeong.


Birth and background[edit]

Geumwa (金蛙 or 金蝸) was the son of Hae Buru, who was the king of Dongbuyeo. According to the Samgukyusa, Hae Buru was old and without an heir, when he found a gold-colored frog-like (or a gold-colored snail-like) child under a large rock near Lake Gonyeon. Hae Buru named the child Geumwa, meaning golden frog(or golden snail), and later made him crown prince.
Hae Buru established Dongbuyeo when he moved the capital east to Gaseopwon (가섭원, 迦葉原) by the Sea of Japan (East Sea).
Reign[edit]

Jumong's departure[edit]
Geumwa became king after Hae Buru's death. At Ubal river (우발수, 優渤水), south of Mount Taebaek, Geumwa met Yuhwa (유화, 柳花), the disowned daughter of the river god, and brought her back to his palace. She was impregnated by sunlight and conceived Jumong.
Geumwa's seven sons resented Jumong, and so did he. He attempted numerous times to destroy Jumong when he was an egg, but later gave up, as the egg was indestructible. Jumong later ran away to Jolbon, or former Bukbuyeo, where he later established Goguryeo.
Mother of Goguryeo[edit]
Lady Yuhwa, Jumong's mother, died. Geumwa gave her the burial of a Queen Mother[1](Queen Mother of Goguryeo), despite she had never been queen. Jumong sent numerous gifts to Geumwa in gratitude of caring for his mother, and peace was seemingly restored between the two kingdoms.
Death[edit]

Geumwa died, and the throne was passed to his eldest son Daeso. King Daeso attacked Goguryeo during the reign of its second ruler, King Yuri. Goguryeo's third ruler King Daemusin attacked Dongbuyeo and killed Daeso. After internal strife, Dongbuyeo fell, and its territory was absorbed into Goguryeo.
References[edit]

Jump up ^ Samguk Sagi (in Chinese). "王母柳花薨於東扶餘 其王金蛙以太后禮葬之"
wiki


금와왕(金蛙王, 재위:60년~20년)은 부여의 왕으로 성은 해(解), 이름은 금와(金蛙)이다.


부여의 왕 해부루(解夫婁) 때의 재상(宰相) 아란불(阿蘭弗)이 꿈에 천제(天帝)를 만났는데, 천제가 말하기를 "내 자손으로 하여금 이 곳에 나라를 세우게 할 터이니 너희들은 이 곳을 피하여 동해 부근의 가섭원(迦葉原)으로 왕도(王都)를 옮기도록 하여라"라고 하였다. 아란불은 곧 왕에게 권하여 그 곳으로 천도(遷都)를 하고 국호(國號)를 동부여라고 하였다. 단군조선이 기원전 238년경에 멸망으로 해체되면서 여러 부여족 계열의 나라가 세워졌는데 부여족이 세운 나라로 해모수(解慕漱)가 세운「북부여(北夫餘)」와 해부루와 금와(金蛙)가 세운 「동부여(東夫餘)」그리고 추모왕(주몽)가 세운 「졸본부여(卒本夫餘)」로 알려져 있다.

삼국사기 고구려 본기에 부여왕 해부루는 늙도록 아들이 없어서 하늘에 제사를 지내 아들 낳기를 기원하였다. 하루는 그가 탄 말이 곤연(鯤淵)에 이르렀는데, 그 곳에 있던 큰 바위를 보고 말이 눈물을 흘리는 것을 보고, 바위를 굴려보게 하였더니, 금빛이 나는 개구리 모양의 어린아이가 있었다. 해부루가 기뻐하여 "이는 하늘이 내게 준 아이로다."라 말하며 아들로 삼으니, 이가 곧 금와이다. 금와는 해부루의 아들로 생몰년은 알 수 없다. 금와(金蛙)는 금빛이 나는 개구리라는 의미이다. [1]

해부루의 뒤를 이어 부여의 왕이 된 금와는 태백산 남쪽 우발수에서 한 여인을 만났는데, 이가 바로 유화부인이다. 유화는 부모에게 버려져 그곳에 있었는데, 금와가 이를 안타깝게 여겨 궁으로 맞아들였다. 유화가 햇빛을 받아 수태한 뒤에 알을 낳자 이상하게 여긴 금와는 알을 버리게 하였는데 짐승들이 알을 품어주고 짓밟지 않고 피해가는 등 기이한 일이 생기자 유화에게 다시 돌려주었다.

이 알에서 태어난 것이 바로 추모이다. 추모가 장성하자 대소(帶素)를 비롯한 일곱 왕자들이 그를 시기하여 처치할 것을 건의하였으나 금와는 허락하지 않았다. 그리고 추모에게 말을 기르는 임무를 맡겼다. 이후 추모가 대소의 음모를 피해 도피하자 추격대를 파견하였으나 잡지는 못하였다. 추모가 고구려를 건국한 이후인 기원전 24년 유화가 죽자 태후의 예로 장례를 치렀다. 이후 금와가 죽고 대소왕이 뒤를 이었다.

뒷날 태백산(太白山) 남쪽의 우발수(優渤水)에서 하백(河伯)의 딸 유화(柳花)를 데려다가 방에 가두었더니 내리쬐는 햇볕을 받고 잉태하여 알을 낳았는데, 그 알에서 뒤에 고구려의 시조가 된 추모왕(鄒牟王, 주몽(朱蒙)은 어리석다라는 뜻으로 중국이 낮춰부른 이름이라는 견해가 있음[출처 필요])이 나왔다.

금개구리 설화[편집]

삼국사기 고구려 본기에 전하기를 어느 날 곤연(鯤淵)이라는 곳에 이르렀는데, 갑자기 타고 있던 말이 큰 돌 앞에 서서 눈물을 흘렸다. 왕이 이상히 여겨 돌을 굴려 보니 그 곳에서 금빛을 두른 개구리 형상의 아이가 나왔다. 해부루 왕은 이를 하늘이 내린 축복이라 여기고 그 아이의 이름을 금와라 짓고 고이 길렀다. 이후 금와는 자라서 태자가 되었고, 해부루가 죽은 뒤에 왕위를 계승하였다. 설화에서 나오는 곤연이라는 지명은 동부여가 멸망한 이후에는 고구려가 관리하는 졸본의 땅에 있었으며 금와의 일족들은 곤연의 호족(豪族)이었다고 알려져 있다.

동부여 금와왕에 대한 전설이나 설화에 대해서는 동부여금와왕설화 문서를 참고하십시오.



金蛙の秘密


Jumong (Korean: 주몽, Hanja: 朱蒙)
The series examines the life of Jumong Taewang, founder of the kingdom of Goguryeo. Few details have been found in the historical record about Jumong, so much of the series is fictionalized. The fantastic elements surrounding the original Jumong legend (such as those concerning his birth) have been replaced with events more grounded in reality. Jumong is considered part of the Korean Wave (Hallyu), with viewership in Iran exceeding 80 percent.



伝説の朱蒙は卵から生まれた事になっていますがクムワもこれまた奇異な生まれです。金蛙って変な名前だなと思ったら体中が金色で目が出ていて蛙そっくりだったのでクムワと呼ばれるようになったそうです。もちろん人間の母から生まれたのでは無く父王ヘブルが見つけた"人の形をした石"をどけたらクムワがいたという話です(笑)
そんな普通でない生まれだから実子をうまく育てられないの?

中国北東部松花江流域に解夫婁王がおさめる扶余部族の国がありました。どのような成立を経たのか定かではありませんが平原の国なので農耕というよりは遊牧国家だったようです。王の下には大小の勢力を持つ部族がおり、部族の頭は氏族の頭を率いていました。ドラマには登場していませんが部族の頭を大加、氏族の頭を小加と言ったそうです。毎年12月に"迎鼓"という老若男女を問わず楽しむ祭りを開いたようです。朱蒙がプヨンとサボった祭りは"迎鼓"のことだと思います。
年老いて子供のいなかった解夫婁王はある日、狩へ出て金色に輝く子供を拾い皇太子にします。アンランプルという家来の見た"東へ遷都して東扶余とせよ"という夢のお告げで東へ国を移します。ある日"神の子"と名乗るヘモスが現れ北扶余を建てたので扶余は2つに分裂します。
狩に出かけたクムワ王は優渤水(ウボルス)という川のほとりで河伯(ハベク)の長女ユファと出会います。ユファは川で水浴びをしている時に出会った"神の子"と名乗るヘモスと内密に結婚しましたがヘモスが天に戻ってしまい途方にくれていました。結婚のことを知った父に追い出され行く当ても無く困っているユファをクムワは宮殿に連れ帰ります。宮殿に落ち着いてしばらくするとユファは大きな卵を産みました。不吉な兆しと思ったクムワは色々な方法で処分しようとしますが不思議なことが起って処分する事が出来ません。結局ユファの元に戻し数日後、殻が割れ男の子が中から出てきました。男の子は弓の腕前が天下一なので朱蒙と名づけられました。(東扶余では弓の上手な人を朱蒙と呼んでいた)
クムワには7人の王子がいましたが優れた気質の朱蒙を警戒していました。成長した朱蒙には烏伊(オイ)、摩離(マリ)、陜父(ヒョッポ)の3人が従うようになり、礼(イェ)という娘を妻としましたが20になった頃、7人の王子の殺意から逃れるためユファの勧めで朱蒙は東扶余を出ることになります。妊娠している妻に「七つの峠と七つの谷の松の根元に七角形の石がある。と子供が生まれたらそこに隠してある物を探し出して私の元へ来るように」と告げて淹淲水(オモス)川をオマヒョと共に渡り、卒本(チョルボン)にたどり着き紀元前37年高句麗を建国し姓を「高」と改めます。
途中、桂婁(ゲル)族の頭である再思(チェサ)、武骨(ムゴル)、黙居(ムッコ)を家臣に加え、22歳で高朱蒙となった朱蒙は沸流国(ピリュ国)の女性を王妃に迎えます。王妃は沸流(ピリュ)、温祚(オンジュ)の2人の王子を産みます。高句麗の建国から14年目の8月、ユファが亡くなった事を知った朱蒙はクムワに礼をして恩に報います。19年目に見知らぬ瑠璃という若者が訪ねきて息子のしるしである刀を差し出します。彼を太子とし5ヵ月後の建国19年目の9月朱蒙は世を去ります。概算して41歳で亡くなったことになります。
二代目の高句麗王となった瑠璃は朱蒙を龍山(ヨンサン)に葬り東明聖王(トンミョンソン王)とおくり名をして祠堂を建てます。
沸流(ピリュ)、温祚(オンジュ)は臣下となり国を離れオンジュは百済の祖となり、東扶余は瑠璃王の息子無恤(ムヒュル)にテソとその弟が倒されて滅亡します。ムヒュル若干9歳の頃です。
朱蒙に続編の話しが出ていますが主人公はこのムヒュルだそうです。

伝説は以上です。ご存知のように高句麗は現在中国と北朝鮮の領土になっています。近代になってからの発掘調査は行われず歴史的文献も伝説と400年以上後に書かれた現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」があるのみです。中国側からの資料によると漢の武帝が設置した朝鮮4郡のうち「玄菟(ゲント)郡」は、高句麗の封じ込めをねらって設置されたものと考えられています。この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなったということは、逆に高句麗の拡大を暗示していると言えます。中国は高句麗の領域を独立国ではなくあくまでも中国の一地方と捉えているようです。
一小部族であった扶与は強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していったと考えられています。、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地とみられる朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した国です。
一部高句麗と百済が分かれたのは伝説の王室間の話だけでなく、朱蒙でも問題となった塩が貴重だったため国を割るしかなかったからという理由もあったようです。

朱蒙が2人の妃を持っていた事は知っていました。現地放送でも最初の妃はイェスなので伝説のイェと考えてよいでしょう。そして卒本の娘の産んだ王子が百済の祖になる事も知っていました。その王妃はソソノかと思っていたのですが伝説からだとソソノじゃなく沸流の娘じゃないですか!






→このじいさんに娘がいてその人が王妃になるのならソソノはどうなるんでしょう。
哀しい結末なの?


扶余(ふよ、拼音:Fūyú、ハングル:부여、朝鮮語:Buyeo、旧字体:扶餘). 
1世紀 - 494年に中国東北部にあった国家又はその主要構成民族。wiki

http://chumon.meblog.biz/article/1657009.html
Main | 高句麗(コグリョ)について>>
夫余(プヨ)について
朱蒙(チュモン)の主要な舞台となるのが夫余(プヨ)です。

夫余(プヨ)は、満州吉林市一帯を中心に松花江(しょうかこう)流域の平野で成長した国家です。
農耕と牧畜を主にし、特産物としては馬、珠玉、毛皮などが有名です。
ドラマでは、ヨンポ王子がワイロやプレゼントに宝石をあげるシーンが出てきますが、そこからも珠玉は有名のようです。

夫余(プヨ)は1世紀初めには、王号を使用していたようです。
1世紀というと、日本ではまだ弥生時代です。
プヨは、中国と外交関係を結ぶなど発展した国家の姿をみせましたが、北は鮮卑(センピ)族、南は高句麗(これが、コグリョ。後に朱蒙が建国する国です)と接しています。

風の国では、プヨのテソ王がコグリョのユリ王(チュモンの息子)やムヒュルと争いますね。
つまり、地図の位置関係では、中国の満州に近いところに夫余(プヨ)があって、プヨの南にコグリョ(高句麗)があるということです。

プヨは3世紀のおわりごろには、鮮卑族の侵略をうけて衰退し、結局はコグリョ(高句麗)に編入されたというのが歴史的事実です。
そういえば、風の国では、プヨのテソ王が「私にはこどもがいない」とかいってましたが、王妃とかはどうなってたんでしょうかね。

夫余には、王の下に家畜の名前をとった、馬加(マガ)、牛加(ウガ)、猪加(チョガ)、狗加(クガ)がいました。
ドラマでは、王妃は馬加出身でしたね。
ヨミウル神女のあとをついだマウリョン神女も馬加出身でした。

それからテサジャ(大使者)やサジャ(使者)などの役人がいました。

余談ですが、いま、ギャオで朱蒙が放送されていますが、それは韓国語で日本語字幕なので、本来の言葉の発音がわかってとってもよいですよー。

これらの加はそれぞれ別に行政区画である四出道(サチュルド)を治めて、王が直接統治する中央とあわせて五部をつくりました。

加は王を推戴し、水害や干害で五穀がよく実らないときには、その責任を王に問うこともあったようです。
だから、王は夫余宮に神宮を設けて占いをさせたようです。
それは祭天行事といって、天を崇拝し、祭祀を行う儀式です。
ほとんど農業の豊穣と狩猟に成功することを起源としたもののようです。


王を出した代表部族勢力は非常に強く、王宮、城柵、監獄、倉庫などの施設を整えていました。
王が死ぬと、多くの人々を副葬品とともに埋める殉葬の風習があったようです。

夫余の法律では、殺人者は死刑に処してその家族は奴隷にしました。
他人の物を盗んだときには物の代金の12倍を賠償させました。
姦淫した者とあまりに嫉妬深い妻は死刑に処することなどが伝えられています。
この法律は古朝鮮の八条の法と同じもののようです。

プヨの風俗のなかには迎鼓(げいこ)という祭天行事がありました。
これは狩猟社会の伝統を示しているもので、毎年12月に開かれました。
このときに天に祭祀を捧げ、歌や踊りを楽しんだそうですが、囚人を解放したりもしたそうです。

戦争が起きたときには祭天儀式を行いましたが、チュモンのなかでも神宮が祭祀を行っていましたね。
戦争の占いは、牛を殺して、そのひづめで吉凶を占うという方法だったようです。


http://www.moonover.jp/2goukan/ohter/korea/map1.htm
古代朝鮮地図


この地図は、資料として使用した「朝鮮神話伝承の研究」 (依田千百子 瑠璃書房1988)の巻頭付録についていたのをそのまんま転用している。おいおい、そんなんしていいのか…って、たぶん駄目だと思うけど、自分で描くだけの根性と資料が無かったモンで…。

よく出てくる地名に線を引いた全体図。各地名についてご紹介。

■扶余/建国神話(高句麗)に登場する。

■高句麗/新羅/百済/日本史などで習う古代朝鮮の国。ここから多くの渡来人が訪れた時代もあり、現在の日本文化にかなりの影響を及ぼした国々でもある。現在は存在しない。

■済州島/地図の下のほう、朝鮮半島と日本の間あたりに浮かぶ大きな島。大きいといっても、見た感じ琵琶湖とさして変わらないくらい。日本に近いため日本を意識した神話もあり、多くの口伝が残る。

■ウラジオストック/現代人には馴染み深いはず。天気図によく出てくる。ずっとロシアだと思っていたが、朝鮮だったのか…。




http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc37a.htm

BC37年ころ 高句麗の建国


漢の武帝が設置した朝鮮の4郡のうち「玄菟(げんと)郡」は、高句麗の封じ込めをねらって設置されたものと考えられているが、この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなったということは、逆に在地勢力の拡大を暗示している。
現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」では、高句麗の建国をBC37年としている。
高句麗は、もと扶余種族に属する一小部族であったとみられ、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していった。はじめ、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した。
(注:扶余・高句麗ともに、トゥングース系の民族とみられる。トゥングースは、東部シベリア・満州北部に分布する民族で、モンゴロイド・アルタイ語族。粛慎・?婁・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と呼ばれた民族が、トゥングースに属する。
また、扶余は、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地とみられる。)


高句麗の建国伝説
東扶余(ひがしふよ)の金蛙王(きんあおう)が太白山(たいはくざん・現在の白頭山)の南の河べりで女に逢った。名を柳花といい、河伯の娘だと名乗った。王がその女を東扶余へつれてかえると、間もなく大きな卵を生んだ。王は気味わるがって、割ろうとしたが割れない、野原に棄てると鳥たちがかわるがわるに温めた。不思議に思ってひろってこさせ、母親に返した。一人の男の子が生まれ、弓の名人となり、朱蒙(しゅもう)と名乗った。他の王子たちがねたんで殺そうとしたので、気配を知った母は朱蒙を逃がした。
朱蒙は3人の伴を連れて逃げ、鴨緑江を渡ってさらに行ったところでまた3人が伴に加わった。卒本川(そつほんせん)に着いて、ここを都に定め、国名を高句麗として王位についた。家来を集め、周囲の小国を討従えて領土を広げていった。

中国が新の時代
「漢書」王莽伝では、AD8年、王莽が新国を建て四方に使節を出したとき、高句麗は扶余とともに外臣の印綬を与えられその独立が承認されている。
AD12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求したが、高句麗王?(すう)はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち?を切った。

中国が後漢の時代
後漢時代になると、在地勢力を認めて懐柔政策がとられ、郡県支配の中心は遼東郡に移ったものとみられる。
遼東太守の祭?は、鮮卑族を招いて財宝を与え、朝貢するよう説得し、これに応じて朝貢すると朝貢品を上回る賜物を与えた。これを聞いた高句麗は、敵対行為をやめて朝貢したという。

高句麗・扶余を中心に、遼東郡との対立が再び起ってくると、激しい攻防が続いた。
AD105年に高句麗は遼東郡の6県を一時奪ったが撃退され、AD111年には扶余が楽浪郡を攻めた。AD118年には高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻め、AD121~122年には高句麗が馬韓・?貊諸種族とともに遼東郡の玄菟城を攻撃している。このとき扶余は遼東郡について戦った。
AD132年には高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡へ移動していたとみられる。
AD167年に扶余は2万の大軍で玄菟郡を襲ったが失敗。翌AD168年に鮮卑族・?貊族が幽州・并州(現在の中国河北・山西両省北部・内蒙古南部)に侵入したが、翌年には後漢軍が中心勢力であった高句麗を破り、高句麗は再び遼東郡に従属した。しかし、高句麗は3年後に独立し、これを攻撃した遼東郡の軍隊は大敗した。
後漢がAD184年の黄布の乱などで危機に瀕すると、玄菟郡の太守であった公孫氏は事実上独立し、遼東郡をも支配すると、高句麗や烏丸(うがん)を撃って勢力を拡大した。
AD197年、高句麗の王位継承問題で、発岐と延優が兄弟で争った。兄の発岐は遼東郡に支援を求め一応王位についたが、弟の延優は都を現在の通溝から輯安(鴨緑江中流)に移して新しく国を建て高句麗を名乗るようになった。
公孫氏は、AD204年(注:AD205年としている文献もある。)には楽浪郡を分割して帯方郡をつくった。郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようとしたものである。

中国が魏の時代
公孫氏や高句麗が中国の呉と結ぼうとすると、AD238年に中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼした。このとき高句麗は魏に援軍を送っている。楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれた。魏がこの2郡の経営にのりだすと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめた。
魏は、AD244年に、鮮卑族や烏丸族を討って勇名をはせた幽州刺史(長官)毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の王都の丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)を占領した。翌年、毋丘倹は再び高句麗を攻め。沃沮(よくそ)からさらに粛慎(しゅくしん・現在のロシア沿海州)の南部にいたった。高句麗王の東川王はほとんど単身で南沃沮(現在の朝鮮咸鏡南道)までのがれた。

中国が晋の時代
AD265年に魏に代わって晋が建った。
AD274年に晋が幽州の5郡を分割して平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置くと、馬韓・辰韓地方の諸国が晋に朝貢した。
AD285年、遼西まで進出した鮮卑族が扶余国を攻めて占領し、王を自殺させて、1万余人を捕虜にして遼西へ引き上げた。扶余国は東夷校尉らの援助を得て再建することができた。
鮮卑族が遼東郡に勢力を伸ばしたが、高句麗はしきりに遼東郡に出兵し、AD311年に西安平県(現在の遼寧省丹東市付近・鴨緑江河口付近)を陥れると遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡がたち切られた。しかし、このときの晋は匈奴に攻められて都の洛陽を落とされて遼東郡への支援をできる状況ではなく、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族であった。高句麗は、さらに、AD313年に楽浪郡にを侵略し、翌AD314年に帯方郡をも占領するにいたった。
これにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれた。こののち朝鮮半島では、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは新羅と百済に統合していき、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向かっていく。

中国が五胡十六国の時代
中国が混乱の時期となると、高句麗は亡命者を迎え入れて、国政を整え、軍備を拡張した。
遼西郡に基盤をおいた鮮卑族はAD337年に自立して燕国を建て、AD339年には高句麗に侵入した。高句麗は講和を申し入れ、燕に朝貢することになったが、しばしば対立し、AD342年にも燕の侵略を受けて王母・王后・先王の屍まで虜として持ち帰った。高句麗は、度重なる謝罪を行ってAD350年に許され、また、燕から征東大将軍営州刺史楽浪公に冊封された。朝鮮の諸王国が中国王朝から冊封を受ける初めての例となった。
AD369年、高句麗は国力をつけた百済の雉壌(ちじょう)に侵入したが、百済が撃退した。AD371年に、高句麗は再び百済を攻めたが百済の伏兵に敗れ、勢いに乗った百済軍は逆に高句麗の平壌城を攻めて、高句麗王を戦死させ大勝した。
次の高句麗王は、国力の充実に努めた。AD372年、秦から、はじめて仏教が公伝した。同年、大学を建てはじめて儒教の教育も行った。翌AD373年には、律令を頒布している。
この間に、百済(AD346年建国)と新羅(AD356年建国)も力をつけていく。

広開土王以降の概略
高句麗は、広開土王(在位AD391~AD412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大をはかり、高句麗の最盛期を作りだした。広開土王の事跡を記した碑が残っている。
中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、隋は高句麗に対する3度の遠征を行うが失敗し、4度目の計画中に内乱が起こって自滅した。唐は3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させたのち、高句麗の国内事情をみて新羅との連合軍で4度めの攻撃を成功させ、ついに高句麗は滅亡した。
広開土王以降の詳細については、【参考ページ】を参照のこと。



【参考ページ】
391年 高句麗の広開土王(好太王)即位
668年 高句麗の滅亡


参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


http://blog.kajika.net/?eid=996590

扶余・高句麗・百済と新羅の建国神話 古沢襄
2010.05.17 Monday name : kajikablog
古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の歴史は、まだ未解明な部分が多い。ひとつには戦前・戦中の古代朝鮮史の研究が日本人研究者の手に委ねられ、一定の水準を保ちながら、それ以上のものになり得なかった事情がある。

さらには戦後の朝鮮半島が三八度線によって南北に分断され、壁画古墳の発見が戦前とは比較にならないほど進展しながら、統一した歴史解釈に差があることも影響している。たとえば古代朝鮮で最初の統一王朝を為したのは新羅というのが日本や韓国の歴史学会の認識であろう。

しかし北朝鮮では「新羅は百済、高句麗を滅ぼした後も、三韓を統一して、ひとつの主権国家を建設する”主体性”に欠け、その実力もなかった」ということになる。金正日総書記は自力で三国の統一を望み、努力した国は高句麗だけだと主張する。新羅による統一の否定である。

史料が乏しい古代史に歴史認識がからむと、ややっこしいことになる。その点では神話の世界には政治的な思惑が入り込む余地がない。

新羅の建国は紀元前57年と中国の史書・「三国史記」や「三国遺事」には記録されている。朝鮮半島の南東部、今の慶尚北道と慶尚南道のあたりで、「三国史記」の新羅本紀は「斯蘆(しろ)国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史があるとしている。

斯蘆時代の建国神話は、日本の神話とよく似ている。「天神が降臨してきて、后は水神の娘」・・・農耕民族に相応しい太陽と水を崇める古代神話である。日本神話と異なる点は、天神が神聖な器である”卵”に入って降臨する。

「梁書」新羅伝には「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。この点は建国神話の中に「古くから六村があって、それぞれの村に聖地や聖山があった」という伝承と一致している。

辰韓(しんかん)とは、紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃れた秦人が多く、秦韓とも言った。つまり新羅は建国以来、支那との繋がりがあったことになる。

中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。

それでは高句麗の建国神話はどうであろうか。

北朝鮮を訪れた人は高句麗の東明王陵の壮大な碑や立派な記念館に驚く。金日成主席が東明王を崇拝し、高句麗を高く評価していた。北朝鮮人民軍はロシア軍部の支援で建軍されたが、その兵制は高句麗のものを取り入れた。高句麗は男女皆兵の制度をとったアジアでも珍しい国家だったが、北朝鮮も女子の戦力化に力を入れている。

高句麗は朝鮮半島の北半部と中国の旧満州を領土とした大帝国で、朝鮮の歴史上、中国を脅かした唯一の国である。この高句麗は北にあった扶余国の王族が南下して建国したと伝えられている。

東明聖王(とうめいせいおう=紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)。扶余国の金蛙王(きんあおう)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(チョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国したと伝えられている。

高句麗の建国神話は「三国史記」に出ているが、扶余の建国神話や百済の始祖神話と共通するものがある。

ウイキペデイアで高句麗の建国神話を見てみる。

<<朱蒙は河伯(ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそうヘ・モス)が孕ませて出来た子と言う。父の怒りを買って扶余王の金蛙の所へ送られた柳花を金蛙王が屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。

金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。

金蛙王の7人の王子たちとの対立=朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり、弓の達人であったために7人の王子に睨まれた。

朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。王子たちは1匹の鹿しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。

王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。

母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせることを決心した。そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。

亡命と建国=朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。淹淲水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。

そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢の孝元帝の建昭2年(西暦紀元前37年)、新羅祖の赫居世21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗とした。即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山)東南の?人(ヘンイン)国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。

王位の継承=紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。

建国の年=『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。また、『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏の金富軾が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。>>

かなり詳しく記述したが、扶余国と高句麗の関係をみるうえで必要である。

さて、中国の「後漢書」夫余伝に扶余の建国神話がでている。

<<昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。

王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。

そこで東明は南方へ逃走し、掩淲水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。>>

扶余族は中国史料によれば、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されている。高句麗の北方で吉林地方の以北に住んだ高句麗と同族なのであろう。建国神話がそっくりなのは、その証拠となる。

さて百済だが、その建国神話は扶余とつながりを示している。始祖・温祚(おんそ)王は高句麗の始祖・朱蒙の子だったが、朱蒙の長子・解明が扶余から高句麗に来たので、漢江西岸に移り、百済を建国したという。

朝鮮半島の南東部、現在の全羅北道と全羅南道である。このことは扶余に発した高句麗、百済が広い意味で同族だということになり、血脈で中国に近い新羅系と異なるという見方が生まれている。慶尚道生まれの朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領、長女のハンナラ党元代表・朴槿恵氏は新羅系。全羅道生まれの金大中元大統領は百済系である。

この高句麗と百済は、中国の唐と結んだ新羅によって滅ぼされた。660年百済が滅び、668年に高句麗は滅亡している。その唐も907年に滅び、935年に新羅を滅ぼして高麗が朝鮮半島の統一を成し遂げている。高麗の太祖は王建、後高句麗の将軍だったというが、2007年に中国の研究員から朝鮮に移住した漢人の末裔という新説が出されている。


http://temple.iza.ne.jp/blog/entry/461054/
2008/01/26 14:42

韓国ドラマ史上、平均視聴率歴代1位と喧伝されている「朱蒙」をレンタルDVDでみた。

私は、日本の古代史が好きだが、資料を読むうちに、扶余(扶餘)、高句麗、百済の歴史に、興味を持たざるをえなくなってきた。「朱蒙」をみてみようと思ったきっかけの1つは古代史ファンの立場からだ。そしてもう1つの理由は、くだらないドラマの可能性は高いが、それでもブログネタとして、茶化す程度はできると思った。

現在、DVDで12巻26話をみることができる。最初に2巻レンタルした。はじめの2巻は1巻に3話収録、それ以降は2話ずつ収録されている。

2巻程度みておけば、話のネタ程度にはなると思った。しかしすっかりはまってしまい、12巻すべてみてしまった。

恥ずかしながら、どこかミイラ取りがミイラになってしまった気分だ。

しかしこのドラマ、残念ながら?面白い。きわめてよく出来ている。NHK大河「篤姫」より、10倍は面白いし、作品のクオリティも高い。史実がそれなりに反映されている「篤姫」と、99%フィクションの「朱蒙」とでは、ドラマの性格がかなり異なるのも事実だが。

「朱蒙」には、天才的表現、作家性に富んだ表現・オリジナリティ、芸術性などはない。しかし脚本、演出、撮影に職人的なうまさがある。少なくとも「朱蒙」における職人的テクニックに、日本のテレビドラマ製作者は、見習うべきところが多いだろう。

「秘密の会話は、必ず聞かれたらまずい人に盗み聞きされる」「秘密のシーンも、必ず誰かに見られてしまう」といった古典的ドラマ手法をきちんきちんと使ってくる。どれも手垢にまみれた手法だが、そういったものを定石通り、二の矢、三の矢と次々と放ってくる。

またこれは「グラディエーター」からのパクリだなとか、「マトリックス」のパクリだなとか、チャン・イーモウ監督の中国映画「HERO」からのパクリだなと思われるような表現は、無数に散見される。しかしそれらが、けっこう効果をあげていたりする。

「朱蒙」は、作品としての創造性はないのだが、脚本演出に、蓄積されたドラマづくりのノウハウがよくつまっている。これはこれで、立派だと思う。

「朱蒙」は、視聴者を無理矢理泣かせよう泣かせようとしない。最近の日本のドラマは、とにかく視聴者を泣かせようと泣かせようとする。「朱蒙」をみて、日本のドラマ演出のほうが下品だなと思った。たいへん残念なことだ。

またこのドラマ、「スーパー」や「語り」を使わない。特に「語り」は一切ない。語るべきことは、すべてドラマの中で語っている。日本の歴史ドラマは、「語り」に頼りすぎている。それが原因で、ストーリーがよくわからなくなったりする。「語り」など、本質的に興ざめだ。「語り」が多いのは、脚本演出が下手な証拠だ。

そしてこのドラマ、み疲れしない。5話連続でみたこともあったが、まだまだいけると思った。映画やドラマのハラハラドキドキは、度が過ぎると、みていてかなりストレスがたまる。ところが「朱蒙」は、ハラハラドキドキを絶えず用意しつつも、視聴者がストレスを感じない、ちょうどいい塩梅に表現を抑えている。出来そうで出来ない職人技だ。


次のDVD発売は、3月に入ってかららしい。たいへん残念だが、BSフジの「朱蒙」ホームページで27話から38話までのあらすじを読んだ。これで来週の水曜日から、最新放送をみることができる。


朱蒙を本質的に考えてみる。

「朱蒙」は、反「東北工程」ドラマだ。「東北工程」とは、高句麗は中国の一地方だとする中国共産党の主張だ。

朱蒙が建国した高句麗および百済と、現在の韓国人の直接の祖先である新羅は、そもそも話す言葉がまったく違った。それは方言のレベルなどではなく、完全に異なる言語だった。ちなみに同じ扶余系である高句麗と百済は、ほとんど同じだったらしい。

朱蒙は、そもそも韓国語など、話していなかったということだ。朱蒙が実際に使っていたことばを今の韓国人は、ほぼ100%理解できないに違いない。

言語がまったく異なるというのは、民族がまったく別種だからだ。

韓国の中学校国定歴史教科書「入門 韓国の歴史」によると「扶餘の法律は非常にきびしく、人を殺したものは死刑にされ、他人のものを盗んだものは、12倍にして返さねばならなかった」と書いてある。「高句麗の法律も非常にきびしく、重い罪を犯せば、死刑にされ、その家族を奴婢にした。」と書かれてある。新羅に関して、そのような記述はない。

ちなみに魏志倭人伝の邪馬台国の記述に、「その法を犯すと、軽いものはその妻子を没収し、重いものはその一家および宗族を滅ぼす」というのがあった。

韓国人は朱蒙をありがたがっているが、朱蒙が建国した高句麗を滅ぼしたのは、あるいはヨン様が演じた広開土王が君臨した高句麗を滅ぼしたのは、彼らの祖先だ。彼らの祖先とは、新羅人のことをいっている。

そういえば今年の2月新政権発足にあわせ、三足烏(八咫烏)を意匠にした国璽(韓国の国印)を新しく使用するとかいっていた。朝鮮半島における三足烏は高句麗王家の象徴だ。そもそも668年(高句麗が滅亡した年)に三足烏を「殺し」たのは、誰あろう、あんたたちの祖先ではないか!!と声を大にしていいたい。

高句麗のことばは、わからないことだらけだ。現在地名を中心に80語程度、語彙が確認されているにすぎない。その中に数詞が4つ含まれているが、4つとも日本語と音韻の共通性が確認されているという。

滅亡した高句麗語が、もっとも似ているとされる言語は韓国語(新羅語)ではなく、日本語らしい。

1910年の日韓併合を滅亡した高句麗や百済の人々は天国で泣きながら熱狂的に喜んだのではないか。日本の手によって満州国が建国されたとき、滅亡した扶余の人々は、天国から咽び泣くように喜んだのではないか。

扶余、高句麗の故地に、八咫烏が日本から舞い戻ったの構図だったのではないか!

扶余も高句麗も百済も滅び去った今、「朱蒙」の話は、韓国人とはほとんど関係なく、実は日本人の祖先の話なのではないかと、真剣に考えている。朱蒙が実際に話していたことばを今の日本人は、少し聞き取り、理解することができるのではないかとも考えている。

現在の韓国は、扶余系国家ではない。日本は扶余系傍流だったが、本流が滅亡したことで、結果的に扶余系本家になった。


韓国の歴史教科書では、王仁博士は韓国人で、日本に漢字と儒教を教えてあげた人と、得意げに記載されている。しかし王仁博士は、日本と同様、扶余の分家筋にあたる百済人だ。現在の韓国人は、基本的に新羅人の末裔だから、王仁博士とは、何の関係もない赤の他人だ。高句麗や百済を自分たちの歴史というのは、止めてもらいたいものだ。百済に関しては、かろうじて今の国土内の歴史ではある。しかし朝鮮民族(韓民族)の歴史ではない。そもそも高句麗・百済滅亡後、現地に踏みとどまった人より、日本に亡命した人のほうが、多かったのではないか。

中国「東北工程」問題は、本来日本も参戦すべき話だと、私は思う。別に領土を主張するわけではなく、学問の上での話だが。遼寧省(省都は瀋陽)あたりは、日本のパレスチナだろう。

http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum03

「建国」ということ
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時35分 | Permalink
Filed under: 朱蒙


「建国」ということ
朱蒙が生まれ育った「扶余(プヨ)」 という国は歴史上実在した国家であるが、手持ちの世界史参考書(「詳説 世界史研究」 山川出版社)を探してもその記述が一切見られない。「前2世紀前の世界」という地図の中に、わずかに「夫餘」の文字が見られるだけ だ。(「扶余」は夫余、扶餘、夫餘とも表記される)

朱蒙オフィシャルサイトにはこのように記述がある。

扶余(プヨ)
古代朝鮮の部族国家。軍事力によって近隣の諸部族を征服して拡大していった。高句麗の北側、現在の中国黒龍江省あたりが本拠地で、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長した国。

ここでふと素朴な疑問が生じる。扶余が存在した地というのは、現在で言えばほとんど中国の領土だということ。(そして、後に朱蒙が建国した高句麗 も、現在で言えば北朝鮮から中国にかけての地域を領土としていた。)そんな異国の地発祥の歴史ドラマを、なぜ朝鮮半島南側の国家(大韓民国)が作り出し、 そして国民のおよそ半分がその映像に熱狂したのか。

しかし、これは日本人ならではの発想だった。

島国である日本列島に住む日本人は、日本(日本人)=日本列島に住む人という意識が知らぬ間に染み付いている。しかし、大陸に生きる人たちにとっ て、古来、領土・国境は流動的なのが当たり前だったのだ。土地よりも民族、血筋。国家としてのアイデンティティー。民族としてのアイデンティティー。自分 たちの祖先がどこから来て、どういう歴史を育んできたのか。そういった意識については、我々日本人が想像する以上に強いものがあるのだろう。

土地があるから国ではなく、人がひとりいればその場所がすなわち国 (ヘモス談)

だとすれば、この日本にやってきた渡来人、そしてその子孫の中にもそういった意識は根強く残っていったのだろう。日本に住んでいるからではなく、自分たちの祖先がどこからやってきたのか。どういう文化・価値観を継承しているのか。

そのような人達が、日本の歴史の様々な場面で直接的・間接的に影響を及ぼしてきたのが、日本の歴史であるとも言える。そしてまた、日本の歴史の不透明さ、わかりにくさの原因がそこにあるのかもしれない。









http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/koukuri/130101gen.htm

三國史記 卷第十三 高句麗本紀第一  始祖東明聖王  (原文)

始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙 【一云鄒牟 一云衆解】 先是 扶餘王解夫婁老無子 祭山川求嗣 其所御馬至鯤淵 見大石 相對流涙 王怪之 使人轉其石 有小兒 金色蛙形 【蛙 一作蝸】 王喜曰 此乃天賚我令胤乎 乃收而養之 名曰金蛙 及其長 立爲太子 後其相阿蘭弗曰 日者天降我曰 將使吾子孫立國於此 汝其避之 東海之濱有地 號曰迦葉原 土壤膏腴宜五穀 可都也 阿蘭弗遂勸王 移都於彼 國號東扶餘 其舊都有人 不知所從來 自稱天帝子解慕漱 來都焉 及解夫婁薨 金蛙嗣位 於是時 得女子於太白山南優渤水 問之 曰 我是河伯之女 名柳花 與諸弟出遊 時有一男子 自言天帝子解慕漱 誘我於熊心山下鴨邊室中私之 即往不返 父母責我無媒而從人 遂謫居優渤水 金蛙異之 幽閉於室中 爲日所 引身避之 日影又逐而之 因而有孕 生一卵 大如五升許 王棄之與犬豕 皆不食 又棄之路中 牛馬避之 後棄之野 鳥覆翼之 王欲剖之 不能破 遂還其母 其母以物裹之 置於暖處 有一男兒 破殼而出 骨表英奇 年甫七歳 嶷然異常 自作弓矢射之 百發百中 扶餘俗語 善射爲朱蒙 故以名云 金蛙有七子 常與朱蒙遊戯 其伎能皆不及朱蒙 其長子帶素言於王曰 朱蒙非人所生 其爲人也勇 若不早圖 恐有後患 請除之 王不聽 使之養馬 朱蒙知其駿者 而減食令痩 駑者善養令肥 王以肥者自乘 痩者給朱蒙 後獵于野 以朱蒙善射 與其矢少 而朱蒙殪獸甚多 王子及諸臣又謀殺之 朱蒙母陰知之 告曰 國人將害汝 以汝才略 何往而不可 與其遲留而受辱 不若遠適以有爲 朱蒙乃與烏伊摩離陜父等三人爲友 行至淹水 【一名盖斯水 在今鴨東北】 欲渡無梁 恐爲追兵所迫 告水曰 我是天帝子 河伯外孫 今日逃走 追者垂及如何 於是 魚鼈浮出成橋 朱蒙得渡 魚鼈乃解 追騎不得渡 朱蒙行至毛屯谷 【魏書云 至普述水】 遇三人 其一人着麻衣 一人着衲衣 一人着水藻衣 朱蒙問曰 子等何許人也 何姓何名乎 麻衣者曰 名再思 衲衣者曰 名武骨 水藻衣者曰 名默居 而不言姓 朱蒙賜再思姓克氏 武骨仲室氏 默居少室氏 乃告於衆曰 我方承景命 欲啓元基 而適遇此三賢 豈非天賜乎 遂揆其能 各任以事 與之倶至卒本川 【魏書云 至升骨城】 觀其土壤肥美 山河險固 遂欲都焉 而未遑作宮室 但結廬於沸流水上居之 國號高句麗 因以高爲氏 【一云 朱蒙至卒本扶餘 王無子 見朱蒙知非常人 以其女妻之 王薨 朱蒙嗣位】 時朱蒙年二十二歳 是漢孝元帝建昭二年 新羅始祖赫居世二十一年甲申歳也 四方聞之 來附者衆 其地連靺鞨部落 恐侵盜爲害 遂攘斥之 靺鞨畏服 不敢犯焉 王見沸流水中 有菜葉逐流下 知有人在上流者 因以獵往尋 至沸流國 其國王松讓出見曰 寡人僻在海隅 未嘗得見君子 今日邂逅相遇 不亦幸乎 然不識吾子自何而來 答曰 我是天帝子 來都於某所 松讓曰 我累世爲王 地小不足容兩主 君立都日淺 爲我附庸可乎 王忿其言 因與之鬪辯 亦相射以校藝 松讓不能抗

二年 夏六月 松讓以國來降 以其地爲多勿都 封松讓爲主麗語謂復舊土爲多勿 故以名焉

三年 春三月 黄龍見於鶻嶺 秋七月 慶雲見鶻嶺南 其色靑赤

四年 夏四月 雲霧四起 人不辨色七日 秋七月 營作城郭宮室

六年 秋八月 神雀集宮庭 冬十月 王命烏伊扶芬奴 伐太白山東南人國 取其地爲城邑

十年 秋九月 鸞集於王臺 冬十一月 王命扶尉 伐北沃沮滅之 以其地爲城邑

十四年 秋八月 王母柳花薨於東扶餘 其王金蛙以太后禮葬之 遂立神廟 冬十月 遣使扶餘 饋方物 以報其德

十九年 夏四月 王子類利自扶餘與其母逃歸 王喜之 立爲太子 秋九月 王升遐 時年四十歳 葬龍山 號東明聖王

Geumwa;golden frog

http://www.cngui.com/chongwu/2008/200801/4357.html


http://www.ln.xinhuanet.com/ztjn/2009-04/20/content_16298169.htm



Jumong - Korean Drama (Opening)

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