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スクラップ-「慰安婦」「従軍慰安婦」-「「慰安所」の位置情報を含む記事」-2
朝日新聞 1992年01月09日 夕刊 2社 014 00441文字
「歴史の証人に」 元従軍慰安婦、また1人韓国で名乗り
3人の元朝鮮人従軍慰安婦が昨年12月、東京地裁に補償請求訴訟を起こしたが、韓国でも関心が高まり、さらに1人の元慰安婦が韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(尹貞玉共同代表)に名乗り出た。同協議会は今後も予想される申告者と合わせて裁判を起こす方針だ。新しく名乗り出たのは、韓国大邱市に住む文玉珠さん(67)。知人から「個人の問題でなく、民族の歴史的な問題だから証人になるべきだ」といわれ、決心したという。
文さんを訪ねて聞き書きした尹さんによると--。
文さんは1942年、19歳のとき「洗濯や賄いなどの雑役でいい金になる働き口がある」と誘われた。大邱からは20人ぐらい、周辺からのグループも含めて約300人が船で南方へ。文さんら15人ほどがミャンマーへ連れて行かれた。「文原吉子」の日本名で、インド国境方面まで転々とし、1日に最高60人の兵士の相手をさせられた。
日本軍が敗退、傷病兵が激増したため、44年には看護助手の訓練を受けて介護の仕事に回された。46年春やっと帰国できた。
朝日新聞 1992年01月11日 朝刊 2社 030 01319文字
朝鮮人従軍慰安婦問題の主な資料<要旨>
主な資料の要旨は次の通り(カタカナ書き原文を、平がなに直してある)。
◆軍慰安所従業婦等募集に関する件(副官より北支方面軍及中支派遣軍参謀長あて通牒=つうちょう=案)
支那事変地における慰安所設置のため内地において従業婦等を募集するに当たり、ことさらに軍部了解等の名義を利用し、軍の威信を傷つけかつ一般市民の誤解を招く恐れあるもの、あるいは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起(じゃっき)する恐れあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選適切を欠き、募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取り調べを受けるものある等注意を要するもの少なからざるに、ついては将来これらの募集などにあたっては派遣軍において統制しこれに任ずる人物の選定を周到適切にしその実施にあたっては関係地方の憲兵および警察当局との連携を密にし、軍の威信保持上並びに社会問題上遺漏なきよう配慮するよう通牒す。 陸支密第745号 昭和13年3月4日
◆戦時旬報(後方関係)波集団司令部
(6)その他
2、慰安所の状況
1、慰安所は所管警備隊長および憲兵隊監督のもとに警備地区内将校以下のため開業せしめあり
2、近来各種慰安設備(食堂、カフェー、料理屋その他)の増加とともに軍慰安所は逐次衰微の徴あり
3、現在従業婦女の数はおおむね1000名内外にして軍において統制せるもの約850名、各部隊郷土より呼びたるもの約150名と推定す
右のほか第一線において慰安所の設置困難なるものにして現地のものを使用せるもの若干あり
4、慰安所の配当および衛生状態概況別紙のごとし
「別紙」
(区分 場所 人員数 罹病=りびょう=率の順番)
軍直部隊 市内(広東)159人、28%
久納兵団 広東市東部 223人、1%
浜本兵団 広東市北部 129人、10%
兵站(へいたん)部隊 河南 122人、4%
仏山支隊 仏山 41人、2%
飯田支隊 海口 180人
◆歩兵第41連隊陣中日誌 (7月13日分)
方軍参に密第161号
軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒
北支那方面軍参謀長 岡部直三郎
1、(略)最近にいたり山東省方面における交通線の破壊盛んとなり、(略)
2、治安回復の進捗(しんちょく)遅々たる主なる原因は後方安定に任ずる兵力の不足にあることむろんなるも、一面軍人および軍隊の住民に対する不法行為が住民の怨嗟(えんさ)を買い反抗意識を煽(あお)り共産抗日系分子の民衆扇動の口実となり治安工作に重大なる悪影響を及ぼす(中略)強烈なる反日意識を激しくならせしめし原因は各地における日本軍人の強姦(ごうかん)事件が全般に伝播(でんぱ)し実に予想外の深刻なる反日感情を醸成せるに在りという。
3、(略)強姦は単なる刑法上の罪悪にとどまらず治安を害し軍全般の作戦行動を阻害し国家に及ぼす重大反逆行為というべく部下統率の責にある者は国軍国家のため泣いて馬謖(ばしょく)をきり、他人をして戒心せしめ行為の発生を絶滅するを要す。(略)
4、軍人個人の行為を厳重取り締まるとともに一面なるべくすみやかに性的慰安の設備を整え設備のなきため不本意ながら禁を侵す者なからしむるを緊要とす。
朝日新聞 1992年01月11日 夕刊 2社 014 00496文字
軍の従軍慰安所関与、北海道でも資料 陸軍省が「娼婦の誘致」
日本軍が戦時中、従軍慰安所の設置や慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が防衛庁で見つかったが、札幌市の北海道開拓記念館では、陸軍省整備局戦備課が、強制連行された中国人のための「性的欲望考慮」として、朝鮮人、中国人慰安婦の誘致を進めるよう業者に指導した「苦力管理要綱草案」が11日、見つかった。
北海道炭礦汽船が作成した「昭和15年 募集関係雑 労務課」のつづりの中から見つかった8ページの資料で、1940年3月22日付になっている。
同要綱草案では、強制労働させていた中国人を「苦力(クーリー)」と呼び、「内治、外交等に関する諸般の影響を考慮し管理の万全を期す」との方針が書かれ、賃金の支給、宿舎などの衣食住、福利施設、労働条件等が規定されている。
厚生施設の項目に、「性的欲望考慮」として「朝鮮人、支那(しな)人娼婦(しょうふ)の誘致」と書かれている。
この資料は、記念館が81年に資料として北海道炭礦汽船から寄託を受けて保管しているもので、この資料の直前には、戦備課長が差出人となった同汽船あての封書と強制連行労働者の労務管理に関する会議の案内がとじ込まれている。
朝日新聞 1992年01月17日 朝刊 2社 030 00486文字
反響大、3日間で230本 「慰安婦110番」
市民団体が戦時中の朝鮮人従軍慰安婦の情報を求めて3日間開設していた「従軍慰安婦110番」は16日、計約230本の電話を集めて終わった。主催者側も「予想をはるかに超えた反響」と驚き、今後、面接などで詳しく調査し、日本政府に対して補償を求める資料にしたい、という。
毎日70件を超す情報の8割前後は、戦争を経験した60-70歳代の元軍人・軍属だった。半数以上が名前や連絡先を名乗ったが、中には「自宅や職場からはかけにくい」と、公衆電話を使う人もいた。
軍の関与については「司令部から命令され、慰安所の巡回を仕事にしていた」「下士官が慰安所の受付をしていた」など、当然視する意見が目立ち、「ノモンハン近くでは、3カ月おきに『慰安婦専用列車』がやってきて、列車ごと慰安所になった」という目撃談もあった。
また、「売春をいやがる女性に軍人たちが残虐な行為をした」「母が慰安婦だった」と泣きながら訴える人もいた。
今後の補償では、「口先だけではなく、誠意を示すべきだ」と肯定する人が多数派だったが、「一種の職業だったのだから、特別扱いする必要はない」など、疑問をはさむ意見もあった。
朝日新聞 1992年01月18日 朝刊 2社 022 00756文字
御用商人が連れ激戦地転々 従軍慰安婦の実態を元憲兵証言 【大阪】
戦時中、中国の天津憲兵隊に勤務した元憲兵准尉のMさん(81)=広島県在住=が17日、匿名を条件に朝鮮人従軍慰安婦の生々しい実態を朝日新聞記者に証言した。関係書類や写真は昭和20年8月20日、軍の一斉焼却命令で消えた。だが、Mさんは数冊のノートにびっしり書き込んだ体験記を保管。「旧日本陸軍が朝鮮人女性を地域別に割当制で徴発し、5万-10万人を御用船に乗せて中国の中・南部の激戦地に運んだ」など、Mさんがしっかりとした記憶で語る朝鮮人従軍慰安婦は--
<御用船> 旧日本陸軍は昭和12年7月の日中戦争開始ごろから、軍需物資を運ぶために民間の船を御用船として徴発。慰安婦はこれで武器、弾薬とともに中国の中・南部地方の激戦地に運ばれた。名目は「兵隊の現地女性への婦女暴行未然防止」で、戦闘で気持ちの荒れた兵隊の「性処理」とされた。しかし、実際には戦闘中に婦女暴行事件が続発した。
<割当制> 戦況が泥沼状態に陥った昭和17年後半からは、朝鮮半島南部を中心に陸軍・警察が地区別に慰安婦の徴発数を割り当て、男性の日本本土への強制連行と同時に引っ張った。当時、中国には100万人近い日本兵がいて“需要”が増えたというのが理由。
<ワイロ> 内地で食いつめた「不良邦人」らが軍、憲兵隊の腐敗した幹部にワイロを贈って取り入った。こうした商人が一部の朝鮮人を巻き込んで朝鮮人従軍慰安婦を組織し、激戦地を転々と引き回してかせいだ。軍幹部も、部下の婦女暴行事件が続発すれば法律上は軍法会議にかけられる恐れがあり(事実上は野放し)、双方の利害が一致した。
<実数は> 通説では朝鮮人従軍慰安婦の数は7万とか20万人とかバラバラ。だが、「そんな人数を御用船で短期間に運ぶのは困難。実数は5万人ほどで、最大限に見積もっても10万人と思う」
朝日新聞 1992年01月21日 朝刊 声 015 00513文字
慰安婦へ償い、業者にも責任(声)
東京都 藤沼与一郎 (無職 73歳)
戦時中、多くの朝鮮人の従軍慰安婦が戦地にかり出されたことはお気の毒の一語につきます。青春時代に肉体をボロボロにされた、恨みが骨髄に達するのも当然です。
しかし、全員が日本軍部に徴用されたとは言いきれません。従軍慰安婦を集めて商売をした業者もいます。朝鮮人や中国人の業者もいました。また、自ら金のために慰安婦になった人もいます。慰安婦も朝鮮人、中国人のほか、日本軍将校のための日本人女性もいました。
私が参加した中国戦線での体験では、日本軍が町や村落を占領すると、業者がさっそく慰安所を開設し商売をしたのも事実です。慰安婦たちは、部隊のあとを追い、山を越え、川を渡りました。ある時は日本軍の食糧や弾薬の運搬を手伝い、日本兵と同じように戦った慰安婦の方々もいました。兵隊たちは彼女たちにも「殊勲甲」を与えるべきだ、と話したものです。
占領地の治安を守るためであったにせよ、業者の中には金もうけ主義で商売をしたものもあり、こんな業者にも何らかの責任を負わせるべきだ、と思います。
いずれにせよ、二度と帰らぬ青春時代を戦地で泥まみれにされた慰安婦に対しては何らかの償いをするのは当然と思います。
朝日新聞 1992年01月21日 朝刊 解説 005 02898文字
50年の沈黙、扉いま開く 軍関与の資料、反響呼ぶ 慰安婦110番
宮沢首相訪韓の焦点のひとつだった従軍慰安婦問題は、初めて日本政府が公式に謝罪の意を表明したにもかかわらず、補償を求める韓国の国民を納得させることはできなかった。一方で、市民団体が今月14日から3日間開設した「従軍慰安婦110番」には、約230件の情報が寄せられた。
(略)
●慰安婦寄せられた証言
《証言1》 南京の部隊に属し、慰安所に3回ほど行った。順番待ちの最中に古参兵が割り込まないように、別の兵が監視していた。1人15分と決められ、過ぎると「はよせんか。出て来い」と声が飛んだ。帯が結べない着物姿の女性もいた。
一般兵、下士官、将校と、地位ごとに時間帯が違った。いま考えたら、とても恥ずかしい。悪かった。私は軍人恩給をもらっている。彼女たちにもせめて補償すべきだろう。
(男性・76歳、京都府)
《証言2》 大戦末期、海南島の海軍病院で、従軍看護婦をしていた。毎月1度の割合で、慰安婦がトラック3台に乗せられて、性病の検査に来た。1台に70人ぐらいは乗っていた。日本人も、台湾人もいた。
医師が問診するが、梅毒の症状がわかると、看護婦が洗浄した。私は当時19歳だった。1つか2つ上のお姉さんたちに「痛む?」と聞くと「悲しい」「アイゴー」と涙を流した。妊娠している人もいた。
今も看護婦を続けている。患者には、在日韓国・朝鮮人もいる。毎日の応対の中で、ふと、当時を思い出してしまう。
(女性・66歳、川崎市)
《証言3》 韓国側にある小学校で教師をしていた。6年女子の担任をしていた1943年、日本人の校長から「できるだけ体格がよく、家が貧しい者を選べ」と言われ、8人を選んだ。富山の飛行機部品工場へ行ったようだった。
日本に引き揚げてからも、当時の子供たちが気になっていた。4年前、韓国を訪れ、教え子たち数人と会うことができた。でも、送り出した8人は、だれひとり姿を見せなかった。聞くと「慰安婦になった。心も体も傷ついて、行方が知れない」という話だった。
「挺身隊(ていしんたい)」という言葉は、工場の肉体労働も指すという。集まってくれた人たちは、彼女たちが「慰安婦」になった、と誤解しているのだろうか。それとも本当に……。
でも、どちらにしても私が彼女らを戦争に巻き込んだことには変わりない。胸の中のわだかまりは、どうしても消えない。
(女性・71歳、佐賀県)
(略)
朝日新聞 1992年01月21日 夕刊 2社 014 00615文字
慰安所図面を発見、沖縄の民家11部屋 防衛研究所で作家の川田さん
旧日本軍による従軍慰安婦募集資料などが明らかにされる中、沖縄での慰安所設置を命じた命令書や地図、間取りを記した設計図が防衛庁防衛研究所図書館(東京)に所蔵されていることが20日、わかった。
(略)
資料によると、沖縄本島北部・本部町に駐屯していた旧日本軍の真部山第2大隊本部が支隊(平山隊)に出した命令書は「真部山陣地内に兵寮を設置し兵の慰安施設を増強せらる」と記されている。支隊の見取り図もあり、連絡所や病院の裏手に「真部山軍慰安所」の位置が記されている。
また、川田さんの証言によると、「沖縄のどこかは特定できないが、『軍人倶楽部内部改築設計略図』と題した慰安所の図面もあった」という。
(略)
朝日新聞 1992年01月22日 夕刊 2社 014 01294文字
「慰安所司令官」がいた 従軍慰安婦問題で元憲兵ら証言
従軍慰安婦問題は、韓国が日本政府に対して公式に補償を要求する動きに発展したが、国内でも市民団体が証言を集め続けており、朝日新聞社にも投書や電話が相次いでいる。「国家機関として慰安婦を利用した」と話す元憲兵など、直接かかわった男性たちが「軍の関与」について、その重い口を開き始めている。
《国家機関》終戦直前の1945年春、憲兵伍長だった自分は、千葉の九十九里の部隊に上等兵としてもぐり込んだ。本土決戦に備え、陣地の構築の様子や地雷の敷設工事状況など、正確な情報を報告するのが任務だった。一帯には慰安所が3カ所あり、合わせて約60人いた。ほとんど日本人で、朝鮮人も少しいた。
軍隊というところは、都合の悪いことは報告書に書きづらい。そこで「慰安婦を利用しろ」と憲兵隊上層部から指令が出た。8人を選び、客を装って接触した。客としての料金が2、3円だった当時、50円近く握らせ、軍事情報を聞き出してもらうよう頼んだ。約70人の確度の高い情報を得ることができた。慰安婦は、結果的に国家機関の手足になった。
軍隊自体の関与も深かった。「千葉県地区慰安所司令官」という職があり、県下の慰安所を巡回していたのを覚えている。また、軍服の修理などをする班が、慰安婦の下着も作っていた。また、軍は慰安所に対し、物資購入のための証明書を発行した。食料などのヤミ売買が横行する中、何でも定価で買えるように便宜を図った。
日本はくさいものにフタをしてきた。遅すぎるが、補償は当然だ。軍人恩給程度では少なすぎる。
(69歳・東京都千代田区)
《2割引き》中国東北部の部隊に憲兵として送りこまれた。情報を集め、軍の不正を見張るのが仕事だった。朝鮮人慰安婦が敵のスパイだったら大変なので、出身地や両親の仕事、学歴などを報告させた。
慰安所を作るための資材は、軍が2割引きで提供していた。軍と業者の癒着が激しく、安くしすぎることもあった。部隊が南方に移ると、慰安所も一緒について来た。まったく軍の付属機関扱いだった。
日本人の慰安婦も多かった。補償する場合は、日本人も加えるべきだ。
(73歳・東京都町田市)
《配給》中国の河南、河北省付近で、前線から少し離れた陸軍野戦予備病院の外科医をしていた。病院近くの慰安所は、数人が粗末な長屋風の小屋に住み、3畳ほどしかない部屋で暮らしていた。慰安婦用の殺菌薬や避妊具は、すべて病院側で配給していた。衛生部隊の隊長が全部管理していた。慰安所は完全に軍の組織の一部だった。
彼女たちは、暇な時には診療を手伝ってくれた。5年も一緒にいれば、仲良くもなる。私も客の1人だった。年を取った我々がいま告白したところで、家庭争議にもならないだろう。みんなで声を上げるべきだ。何らかの償いは必要だ。
(79歳・東京都小平市)
◇
慰安婦を軍が管理していたことについては、「周辺の遊郭を集め、監督下に置いていた」(慰安係長だった都内の元少尉)、「旧日本陸軍が朝鮮人女性を地域別に割り当てて徴発、御用船で運んだ」(広島の元憲兵准尉)など、これまで数人が体験記を刊行したり、証言したりしている。
朝日新聞 1992年01月31日 朝刊 埼玉 00874文字
2日で24人証言 手記郵送も 従軍慰安婦ダイヤル110番 埼玉
日朝協会県連合会が県内で初めて開設した従軍慰安婦問題「ダイヤル110番」には29、30日の2日間で計24本の電話がかかった。ほとんどが70代の男性からで、約40-50分にわたって自分の体験談を語り、中には「家族にも話していないから」と公衆電話から電話してくる男性もいた、という。4、5件を除き、すべて匿名。「このままだれにも言わず死ぬつもりだった」「話してホッとした」「後は政府が国家賠償をしてくれれば」という声がほとんどだった。
ビルマ戦線に参加したという74歳の男性は、「ビルマには慰安婦の集落があり、昼から10人ぐらいが横に並んで列をつくって待った。慰安婦は寝ているだけだった」などと話した。さらに、この男性は「自分も慰安所を利用したが、慰安婦が強制徴用されていたと知ったのはつい最近。それまでは売春婦だと思っていた」と語った、という。
また、旧満州で従軍看護婦だったという所沢市の70歳の女性は自分の所属部隊名を告げ、「薬とコンドームを配る役目をしていた。その時は何のためかよくわからなかった。部隊には約20人の朝鮮人慰安婦がいた」と語った。
このほか、「敗戦後、日本人の慰安婦は抑留されたが、朝鮮人慰安婦は殺された」(70歳・男性)、「慰安婦の役目を果たせないほど、疲れている女性もいた。反省している。戦友会でみんなの証言を集めて報告する」(79歳・男性)、「私のもらっている軍人恩給の一部を慰安婦にあげたい気持ちだ」(72歳の男性)という声が寄せられた。
また、一方で「戦争中だったのだから、お互いさまではないか」「国内でも東北では娘を売るような時代だった。戦争がすべて悪い」という電話もあった。
岩本正光理事長は「加害者と被害者を同列には論じられないが、国家賠償は従軍慰安婦への賠償と同時に、そのことを悩み続けている日本人のためにも必要だと思う」と話している。
中には、匿名を条件に、当時の日記や資料、手記を郵送するという男性もおり、同会では今後も引き続き証言などを受け付けたい、という。連絡先は同会(048-641-4225)へ。
朝日新聞 1992年01月31日 朝刊 1家 019 00681文字
慰安婦の事実語ろう(ひととき)
朝鮮人の従軍慰安婦の問題が浮上していますが、私は昭和18年8月から19年10月まで満州の牡丹江市内に住んでいました。会社員の夫はソ連との国境近くの老黒山で建設工事に従事していて、そこから牡丹江市内に転属になった建設部隊の兵隊さんがある日、私の家を訪ねて来られました。
その人は藤沢市の農家出身で、以前は国鉄勤務。家族の写真をいつも持っていて「家族が待っているので自分はピーヤ(慰安所)なんかに行きたくない」と話していました。
「戦友は慰安所に皆そろって出かけるので、その間、よければ今後もおじゃましてもよいか」とおっしゃられ、それからは、酒保で買った甘味品や軍配給のお酒を持参し、よもやま話をして時をすごされた。月に1回くらいだったか、外出の日は話のお相手をしたことを思い出します。
当時の事情を承知していた者として、従軍慰安婦についての韓国の方々の抗議は当然のことと思います。申し訳なく、同情を禁じ得ません。日本政府は当初、業者のやったことだとして責任を取らぬ態度でしたが、事実なのです。聖戦といわれた侵略戦争の陰で、日本国のために苦難を受けられた韓国はじめ台湾や旧満州、中国各地の皆様に、私たちは何とおわびしたらよろしいのか、言葉が見つかりません。真実を伝えない教育の曲がった進み方に、これでは日本の将来はどうなるのかと思っています。事実を知る1人として、黙して語らずではすまないという思いでいっぱいです。
男性からは声の上がりにくい問題ではあります。でも、勇気を出して訴えられた方々のために、1日も早い解決を祈ります。
(岐阜市 高橋節子 主婦・72歳)
朝日新聞 1992年02月07日 朝刊 2社 030 00933文字
慰安所料金も定める 軍関与示す新資料発見 防衛研図書館
政府が調査を進めている日中、太平洋戦争中の「朝鮮人従軍慰安婦」関係資料の中で、慰安所の料金を定めたり、慰安婦の派遣まで旧日本軍がかかわっていたことを示す資料が、防衛庁の防衛研究所図書館に多数保管されていたことが6日、明らかになった。
これまで政府が認めていた軍の「関与」以上に、軍が主体となって慰安所や慰安婦を統制していたことがうかがえる。中国人の慰安婦も監督下にあったことがわかる。政府はこれらの資料を4月までに韓国政府に伝えることにしている。
新たに見つかった資料は計47点。伊東秀子代議士(社会)が、これらの資料をもとに、衆院予算委員会で政府側を追及していく。
1944年5月に中国南部の警備隊が定めた「軍人倶楽部(クラブ)利用規定」の中で、「第2軍人倶楽部」を慰安所とし、部隊副官が業務を統轄、監督、指導するとしている。また、部隊の主計官が経理業務を担当、利用料金、営業時間まで定めている。
また、フィリピンの軍政監部の出張所が憲兵分隊に送付した42年11月の資料では、慰安婦の散歩時間が「午前8時ヨリ午前10時マデ」と定められ、散歩区域まで地図で示されていた。
43年1月、南京の第15師団軍医部が作成した「衛生業務要報」には、軍医による慰安婦検診の状況が記され、日本人、朝鮮人、中国人ごとに人数が記入され、中国人も慰安婦に駆り出されていたことが示されている。
台湾軍司令官が陸軍大臣にあてた電報(42年3月)は、東南アジア方面の陸軍を統轄する南方総軍から依頼のあった慰安婦50人をボルネオへ送るため、付き添いの業者3人の渡航認可を申請している。
陸軍省副官名で送付された「支那事変ノ経験ヨリ観(み)タル軍紀振作対策」(40年9月)には、「慰安施設に関し周到なる考慮を払い殺伐(さつばつ)なる感情及び劣情を緩和抑制すること」(原文は旧字・カタカナ書き)とある。また、慰安所設置は、兵士の士気、軍紀の維持などに大きく影響する、などとつづっている。
○吉見義明・中央大学教授(日本現代史)の話 やはり慰安所は軍が全面的に取り仕切っていた。これは「関与」のレベルを超え、責任は免れない。政府は事実をさらに明らかにし、被害者に届く形の謝罪と補償をする必要がある。
朝日新聞 1992年02月20日 朝刊 2社 030 00293文字
「朝鮮人従軍慰安婦」関係資料が新たに9点 衆院予算委
旧日本軍の関与を示す「朝鮮人従軍慰安婦」関係資料が、防衛庁の図書館で新たに9点確認されていたことがわかった。19日の衆院予算委員会で、伊東秀子氏が明らかにした。
資料は、中国大陸などに展開していた連隊などの陣中日誌や内務規定が中心。1938年(昭和13年)に定められた「常州駐屯間内務規定」には、慰安所の使用規定や、中国人、朝鮮人、日本人、と慰安婦の出身地別に料金まで区別していた実態が記されている。
また、「呂集団特務部月報」(40年)は「漢口在住ノ娼婦ハ現在ノ登記人員二百数十名ニ過キサルモ、実数ハ優ニ三千名以上ニ達シアルモノト思料セラル」と、統制や衛生面で注意を呼びかけている。
朝日新聞 1992年02月21日 夕刊 1社 009 00654文字
筑豊炭鉱に「慰安所」 朝鮮人女性を強制連行し設置 福岡 【西部】
福岡県の旧筑豊炭田の炭鉱に、朝鮮半島から強制連行されるなどした女性たちを集めた「接客店」「特殊飲食店」などと呼ばれる慰安所が存在していたことが、筑豊地区の中学教師らでつくる「日朝合同筑豊地区強制連行真相調査会」(約10人)の調べで明らかになった。調査会は悲惨な強制連行の歴史の1つとして、4月に韓国から元従軍慰安婦の文玉珠(ムン・オクジュ)さんを迎えて開く集会で、調査結果を発表することにしている。
同調査会によると、朝鮮人女性が詰めていた接客店・特殊飲食店は、田川郡添田、川崎町にまたがる旧古河大峰鉱に6軒、添田町の旧古河峰地鉱に3軒、川崎町の旧豊州炭鉱に1軒あった、としている。
このほか、日本人女性の接客店も古河大峰鉱に10軒、古河峰地鉱に2軒確認したという。古河大峰鉱には、性病科の病院もあったという。
また、接客店とは別に、朝鮮人男性の独身寮が古河大峰鉱に3カ所、古河峰地鉱と豊州炭鉱に各2カ所、古河大峰鉱には捕虜収容所もあった、としている。
同調査会は2年前に発足、元炭鉱労働者や住民ら約65人から聞き取り調査して、接客店などの所在地を確認したという。
証言者たちは、「朝鮮人女性の接客店は昭和14年ごろからあった。店には4、5人の女性がいた」「朝鮮人女性は、昼間は(民族衣装の)チョゴリを着ていた」「朝鮮の楽器を鳴らして踊っていたのを覚えている」などと話したという。
同調査会は「強制連行の歴史を明らかにするためにも、さらに、田川市郡を中心に接客店などの所在調査を進めていきたい」としている
朝日新聞 1992年03月04日 夕刊 2社 014 00956文字
日本軍資料、台湾側に説明 関係者の証言も相次ぐ 台湾人従軍慰安婦
第2次大戦当時の従軍慰安婦問題で、日本側が台湾当局に、慰安婦の中に台湾人女性70人がいたという資料があることを説明していたことが、4日までに明らかになった。台湾当局・外交部は、台湾側窓口機関である亜東関係協会を通じて、連絡を受けたとしており、日本側の窓口である財団法人・交流協会台北事務所も「情報については、しかるべく伝えられたものと承知している」と認めた。台湾では、婦人団体などが台湾人女性の慰安婦調査を続けているが「看護婦として送られ『慰』の入れ墨をさせられた」といった「証言」が相次いでいる。(台北=津田邦宏)
台湾当局が日本側から説明を受けたのは、防衛庁・防衛研究所図書館で発見された軍当局による「50人の台湾人女性を慰安婦として集め」「さらに20人の追加を了承した」内容などの資料。
外交部は、この資料を踏まえて、日本政府にすでに謝罪と賠償を求めていることを確認している。台湾人女性個人に対するものであり、外交関係の有無は問題にならないとしている。
台湾各地では、台湾人女性の元慰安婦が存在したことが明らかになって以来、婦人団体、新聞社などが専門チームをつくり調査に乗り出している。
台北市博愛路の「台北市婦女救援社会福利事業基金会」には、これまでに元慰安婦の家族、元軍関係者らから8件の電話が寄せられた。台湾南部に住む元慰安婦の家族からの電話では、17、8歳のころ、南洋へ派遣された。腕に「慰」の入れ墨をされ、敗戦まで慰安婦をさせられたという。
元軍属らの電話によると、慰安婦は「特殊看護婦」という名前で台湾海峡・澎湖諸島から東南アジアに送られた。ミャンマーに送られた「特殊看護婦」は、日本語が話せるということで「将校クラブ」に回されたという。
立法院(国会)で「台湾女性慰安婦は2000-3000人。徹底的な調査と、日本に対して謝罪と賠償を求めるべきだ」との提案を行った呉梓議員(国民党)の事務所にも、旧日本軍関係者から手紙が届いた。
手紙によると、日本軍のマニラ占領直後、台湾人女性の慰安所ができ、二十数人がいた。他に、韓国とフィリピン女性の慰安所もあった。慰安所の営業時間は午後1時から6時まで。休暇証明書のある将校は夜も利用できた。将校は軍票5円、下士官3円、兵士2円だった、と書いている。
朝日新聞 1992年03月16日 朝刊 2社 026 00470文字
元慰安婦や遺族、100人以上判明 韓国側の調査 【大阪】
従軍慰安婦問題について日本の市民団体と交流のため来日した韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会の尹貞玉共同代表はこのほど、同協議会に新たに68人の元従軍慰安婦本人、遺家族が名乗り出たほか、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会、釜山のグループ、マスコミなどに連絡してきたケースと合わせると、掘り起こされた元慰安婦とその関係者は100人以上にのぼることを明らかにした。
尹さんによると、元慰安婦は、昨年7月に名乗り出て、12月に東京地裁に提訴した金学順さん(67)、11月に名乗り出た文玉洙さん(67)と合わせて70人になった。
新たな68人のうち27人は死亡、41人が生存している。連行された当時の年齢(数え年)は15歳-18歳が80%、19歳-24歳が20%。慰安婦として働かされた地域は、旧満州(中国東北部)32%、台湾14%のほか、中国大陸の南京、天津、シンガポールなどの東南アジア各地、サイパンなどの太平洋地域、それに日本の大阪、名古屋、九州と、広範囲にわたっている。
協議会としては、さらに詳しく調査し、6月ごろに第2次提訴をする方針という。
朝日新聞 1992年03月29日 朝刊 1社 031 00865文字
元慰安婦の朝鮮人女性が重い体験語る 福岡 【西部】
「私の青春が、人生が、奪われたことを、日本の皆さんに知ってほしい」--第2次大戦中、東南アジアに連行され、従軍慰安婦をさせられた韓国・大邱市在住、文玉珠(ムン・オクヂュ)さん(67)が来日し、28日夜、福岡市南区の市女性センターで、自らの体験を公開の場で初めて証言した。釜山から連行されて以来、半世紀ぶりに語られる重い体験談に約300人が聴き入った。
主催したのは、福岡県内と下関市の市民団体でつくる「文さんを招く実行委員会連絡会」。
文さんは1942年、18歳の時、「食堂で働かないか」とだまされ、ミャンマー(旧名・ビルマ)へ。44年にタイの野戦病院で看護婦になるまで、慰安婦をさせられた。
終戦後はずっと一人暮らしで職を転々とし、左腕には自殺の、左足には爆弾の傷痕が残っている。韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」に、元慰安婦の1人として名乗り出たのは昨年11月のことだ。同協議会によると、韓国の元慰安婦が来日して当時の証言をしたのは文さんが4人目。
この日、桃色のチマ・チョゴリ姿の文さんはゆっくりとマイクの前に座った。「現地に到着して2日後に、客をとれ、と言われ初めて事態が分かった」「平日は1日30-40人、週末は50-70人の相手をさせられた。どんどん体が腫(は)れて痛くなり、そのつらさは言葉ではいえない」
話しながら、何度もハンカチで目をぬぐった。「苦しい生活が続いていますが、だれかが証言せねばと思いこの席に出てきました」「当時聞かされた『大和魂』というものが今も日本に生きているのならば、日本政府は、あのころの事実を認めて補償してほしい」と訴えた。
文さんが来日したのは終戦後初めて。集会が終わったあと、「気持ちが晴れたとも思うが、一方で心も痛む。ソウルから福岡まで飛行機で来ると本当に近かった。こんな近い日本でなぜ、つらい問題を話さないといけないのか。この問題を早く解決させて仲のよい国同士になりたい」と語った。
文さんの集会は、29日に下関市、4月3日に北九州市、同4日に福岡県桂川町でも開かれる。
朝日新聞 1992年03月29日 朝刊 京都 00694文字
「兵士が…」情報相次ぐ 「慰安婦」電話、京都で開設
第2次大戦中の「従軍慰安婦」の実態を明らかにする「おしえてください『慰安婦』情報電話」が、埼玉や東京に続いて28日、京都でも開設された。「ほとんどの兵士が買春していた」「売春を目撃した」など、数多くの情報が寄せられ、これまで分かっている当時の状況を裏付ける結果となった。
この電話を設けたのは、戦争犯罪や女性差別、部落差別などの問題に取り組んでいる13の市民団体でつくる連絡会。10万人いたとも20万人いたとも言われる従軍慰安婦だが、まだ明らかにされていない部分も多い。元朝鮮人従軍慰安婦が昨年12月、政府を相手どって訴訟を起こしたのをきっかけに、政府の責任を追及する動きが強まっているのを受けて調査することにした。
北区小山下総町の府部落解放センターに電話を3台設置。約30人が午前9時から、2人1組で応対した。電話をかけてきたのは9割近くが男性で、そのほとんどが70歳以上だった。
「当時、中国にいたが、20-30人の女性が小屋にいて売春していた」(72歳女性)。
「慰安婦のうち日本人と中国人がそれぞれ3割、朝鮮人が4割いた」(74歳男性)。
「将校は日本人女性、兵卒は朝鮮人というように身分によって分けられていた」などの情報も寄せられた。
今回集めた情報は、冊子をつくるなどして、今後の運動に活用するという。連絡会は「自分の目で見た事実を教えてくれるのはありがたい。ひょっとしたら自分の祖父や父親たちでさえ犯していたかもしれない罪を、我々一人ひとりの手できちんととらえていく必要がある」と話していた。
29、30両日も午前9時から午後11時まで電話414・6366で受け付ける。
朝日新聞 1992年04月13日 夕刊 2社 012 00654文字
韓国の元従軍慰安婦、新たに6人提訴 弁護団「調達の構造鮮明に」
大戦中の「朝鮮人従軍慰安婦」や軍人・軍属ら、韓国の35人が日本政府を相手取り、植民地支配と戦争で被った犠牲の補償として約7億円の支払いを求めている裁判に関連し、さらに6人の元慰安婦が13日、1人当たり2000万円の補償を求める裁判を東京地裁に起こした。
新たに提訴したのは、文玉珠(ムン・オクジュ)さん(68)、沈美子(シム・ミジャ)さん(68)ら。
訴えによると、大邱に住んでいた文さんは1942年、顔見知りの男性から「暖かい国の食堂で働けばもうかる」と誘われて船でビルマに行き、朝鮮人兵から初めて慰安婦になることを知らされた。慰安所は部隊と離れていたが、外出には師団司令部の「証明書」が必要だったという。
また、沈さんは40年、日本の桜を敬わなかったという理由で警官から拷問を受け、気絶している間に福岡県の慰安所に連れて来られた。27人いる女性の中で「7番」と呼ばれ、金も受け取らずに1日平均30人以上の相手をさせられた、としている。
今回の原告には「反日的」「懲罰的」といった理由で慰安所へ連れて来られた女性が目立ち、「日本の慰安婦調達の構造が、より鮮明になった」(弁護団)としている。
現在、韓国内では、遺族も含めると100人以上の元慰安婦が名乗りをあげており、一連の裁判を支援している「日本の戦後責任をハッキリさせる会」などが現地で聞き取り調査などを進め、原告の追加が決まった。高木健一弁護団長は「昨年の1次提訴と併合審理になることを望んでいる」と話している。1次提訴の第1回口頭弁論は6月1日。
朝日新聞 1992年04月15日 朝刊 埼玉 01321文字
菓子の味 「なぜ私たちが犠牲に」(遠き国イルボン:1) 埼玉
従軍慰安婦をはじめ、軍属、BC級戦犯だった韓国・朝鮮人が日本政府に補償を求める提訴が相次いでいる。終戦から半世紀。今まで閉じ込められていた過去を語り始めた人がいる。「残された時間は少ない」という思いが、重い口を開かせている。さまざまな形で戦争に巻き込まれた人びとの肉声を聴いた。
作りかけの刺しゅう、火の気のない小さなストーブ。貝細工が光る黒いタンスと若いころの写真に囲まれて、白髪のハルモニ(おばあさん)が座っていた。
沈美子(シム・ミジャ)さん(68)。従軍慰安婦として受けた犠牲の補償として、日本政府を相手取り、1人当たり2000万円の支払いを求める裁判を東京地裁に起こした原告団の1人だ。
シムさんは、高層住宅が建ち始めたソウル市近郊の小さなアパートの1階に住んでいる。
刺しゅうが得意で、何カ月もかけて屏風(びょうぶ)の絵をかがる。それを売って得たお金などで何とか暮らしている。
●つらい経験話す
この静かな部屋を出て、38年ぶりに日本へ行ったのが2月の末。沖縄や東京の集会でつらい経験を話した。「日本人は親身に聞いてくれ、知らなかった歴史を知ったといってくれた。良心があると思った」
でも、1つだけ怒りに体が震えた質問があった。「あなたたちは、政府からいくらのお金をもらいに来たのですか」
「本当にほしいのはお金ではない、16歳の娘時代だ、と叫びました」
シムさんは女学生の時、福岡に連れてこられて慰安婦となることを強要された。「毎日20回、30回、土曜や日曜日は50回、60回と男たちの相手をさせられました」
鮮明な記憶がある。ある兵隊が、シムさんをふびんに思って、おしるこ屋さんに連れていってくれたことがあった。彼は「たか」といった。
そこで、きれいな着物をきた日本人の女性が恋人と一緒に楽しそうに歌っていた。「どうして、日本の戦争なのにわたしたちが犠牲にならなくてはいけないのか」。切なくて涙が出た。
●終戦でも帰れず
終戦は関東で迎えた。それまで爆撃に脅えていたのに、ある日兵隊がだれもいないことに気付いた。韓国に帰りたかったがお金がない。福岡へ戻った。
数カ所の工場で運動靴の下張りをする仕事やガーゼの製造、絹製品をつくる仕事をしてお金をため、ようやく帰国。31歳の時だった。
整理されたアルバムを開くと、男の子や女の子と一緒に笑っているシムさんが何度も出てくる。
●逃げ出した養子
シムさんは33歳の時に子宮をとった。日本から連れ帰った孤児の女の子と、韓国の孤児院から引き取った男の子を育てたが、2人とも実の母親ではないとわかると家を出てしまった。今は音信がない。
「年をとったら一緒に暮らしてくれるかと思ったけど」。2人には慰安婦だったことは明かしていない。
シムさんが必ず涙を浮かべる話がある。当時、将校らは気に入った慰安婦を愛人として自分と一緒に住まわせていた。美しかったシムさんは4人の将校に引き抜かれた。しかし2、3カ月経つと再び慰安所に戻された。「一生懸命『戻さないで』と頼んだのに、どの人もきいてくれなかった」
栗(くり)の形をしたお茶菓子を出しながら、シムさんは「これは、たかが好きだった」といった。
朝日新聞 1992年04月16日 朝刊 埼玉 01292文字
消えない傷 慰安婦を強要され抵抗(遠き国イルボン:2) 埼玉
金君子(キム・クンジャ)さん(70)=仮名=は胸骨のところに、直径1.5センチくらいの傷がある。中国に連れて来られて、慰安婦となることを強要された時に抵抗し、日本軍兵士に銃剣で突かれたあとだという。
キムさんに会ったのは、ソウル市にある太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所の中の別室だった。人に聞かれるのを恐れて、扉が開くと唇を閉ざす。つらいことを話す時も感情を殺したように低い声で語る。バッグから取り出したちり紙を丸めて、メガネの奥を何度もぬぐった。
●お金がもうかる
キムさんの話によると、1939年17歳の時、日本人の家で子守をしていた友だちに「工場で働けばお金がもうかる」と誘われて、忠清南道の家を出た。
そのころキムさんは、妹と2人の弟の生活を支えていた。母は早くに亡くなり、牧師だった父は「神社に参拝しない」という理由で獄中にあった。「貧しい生活から抜け出たかったのです」
日本人の男に引率されて、10人くらいの女たちと一緒に中国・天津の郊外、「ナツメキョウ」と呼ばれているところに連れていかれた。そこにいた朝鮮から来ていた女性たちの様子をみて、初めてだまされたことがわかったという。「工場へ行くと言われていたのに、どん底に来たな、と思いました」
昼はけが人の世話や洗濯をして、夜は夕飯の片付けが終わったあと、毎日20人から30人の兵隊を相手にしなければならなかった。兵隊たちは部屋の番号が書いてある札を持って並んでいたという。キムさんは「君子(きみこ)」と呼ばれていた。
●アヘンを覚えて
22歳になるまでの約5年間に、キムさんは7回ほど中国のあちこちを転々とした。その間にキムさんは、アヘンを覚えてしまった。「部隊に出入りしていた中国人に『つらいことや痛みが忘れられる』とすすめられたのです」
キムさんは終戦の前に国に戻った。中国人捕虜の教育係だった部隊長が朝鮮人で、しかもキムさんと同じ牧師の子だったため、彼が軍にかけあい「アヘン中毒を治すため」という名目で中国を出られるよう計らってくれたのだ。
「私が朝鮮に着いたのは、1945年の1月か2月だったと思います。部隊長とは釜山の桟橋で別れました。あとから聞いた話では、私がいた部隊の中国人と朝鮮人は、終戦時にほとんど全員が、日本軍に殺されたそうです」
戦後は独りで生きてきた。温泉地の旅館に31歳まで勤めた。そのあとは賄い婦や家政婦をして稼いできた。今も家政婦をしている。「慰安婦にされたことがわかってしまうと雇い手がいなくなる」とカメラを極度に恐れた。
●家や子供もなく
弟や妹とは会っていない。アメリカで成功している弟や嫁いだ妹に迷惑をかけたくない。このまま静かに死んでいくつもりだったが、今は訴訟の原告団に加わるつもりだ。「私は、家もお金も子供もありません。年金ももらっていません。いつまで仕事を続けられるかもわからないので、補償金があれば住む場所は確保できるかも、と思いました」
日本人一人ひとりを恨んではいない、とキムさんはいう。「あのころは戦争で、だれもがあすにも死ぬかもしれなかった。国家が悪かったのです」
朝日新聞 1992年04月21日 夕刊 1総 001 01441文字
中国人連行に絡む慰安所問題で、政府関与の新資料 国立公文書館
1942年(昭和17年)以降の中国人強制連行計画を担当した日本政府の中枢機関である企画院が、閣議決定に伴って作成した「内地移入実施要領」の中で「慰安所について、適当な施策を講じる」と定めていたことなどが21日わかった。「朝鮮人強制連行真相調査団」(金基テツ^団長)が米国立議会図書館所蔵のマイクロフィルムから発見、原本が国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることを朝日新聞社が確認した。問題になっている「従軍慰安婦」とは別に、鉱山などの民間労働現場にも慰安所が置かれ、それに政府自体が深く関与していたことが確認された。おひざもとで眠っていた資料が掘り起こされたことで、政府が進めている現在の調査方法は、再検討を迫られそうだ。
国立公文書館にあったのは「華労移入経過」と題する厚さ約1センチのつづり。終戦後に米国に接収され、74年に返還された。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)や国内の学者らで組織している真相調査団が、中国人の強制連行の実態を調査するために2月末に訪米して見つけた。
「華労移入経過」の中の「華人労務者内地移入に関する件」(原文は旧字とカタカナ、以下同じ)は、42年11月27日付で企画院第3部が作成した、中国人強制連行の大枠を決めた閣議決定文書。
この決定の細部を定めた同日付の企画院第3部決定文書、「華北労務者内地移入実施要領」は、閣議決定文書と同様、「極秘」扱い。その中に、「慰安所並びに娯楽施設に付き適当なる施策を講ずること」「なお慰安所の設置に関しては別途関係庁に於(おい)て協議すべきも之(これ)に要する経費は使用者の負担とすること」と記されていた。
また、同じつづりにある「華人労務者第1次対日供出実施細目(案)」(43年1月8日付、華北運輸労務課作成)には「実労務者200名」という記述のあとに、「使用条件」の一部として「慰安婦」の項目がある。「慰安婦の募集法、経費並びに輸送方法……合法的に同行せしめることとす(6名必要と予想さる)」とし、中国人を慰安婦にして、労働者の数に合わせて調達する計画があったことがうかがえる。
中国側の人材供出機関である「華北労工協会理事長」と、使用側の「日鉄二瀬鉱業所長」などが交わすこととされた「華人労務者第1次対日供出(移入)実施細目」という契約書は、「大日本帝国政府」と欄外に赤く記された用紙が使われ、政府の関与を示している。その中の「供出に関する経費」という項目に、労働者の募集、輸送費などとともに「慰安婦費 9人 17,824、20」と記載されている。
このほか、内務省警保局長から警視総監、各庁府県長官にあてた文書に関連する「実施細目」にも慰安所の項目があるなど、同じつづりの中に、政府の各機関が登場している。
○吉見義明・中央大学教授(日本現代史)の話 いわゆる従軍慰安婦とは別だが、政府が総がかりで事業所に慰安所をつくろうとしていたことが裏付けられた。軍の慰安所と同じ発想だ。まだまだ慰安婦に関する資料はあるだろう。政府は民間の調査の後追いばかりでなく、もっと主体的に資料を発掘し、慰安婦問題のすべてを明らかにすべきだ。
<企画院> 日中戦争のぼっ発を契機として1937年(昭和12年)、国家総動員計画や重要国策を統制するため、当時の企画庁と資源局を統合して生まれた政府機関。内閣総理大臣の管理下にあった。第3部は人口政策や人員動員計画の事務を担当した。43年の軍需省の新設で廃止、吸収された。
朝日新聞 1992年04月22日 朝刊 埼玉 01431文字
憲兵 還暦過ぎてざんげ行脚(遠き国イルボン:5) 埼玉
大宮の自宅から東京・浅草の本願寺まで途中小雨の中の約40キロ。ちょうど9万歩だった。午後8時に家を出てから7時間半、夏の空が白み始めた。10年ほど前の8月15日。
元憲兵Aさん(72)のざんげの行脚だった。「今でもね、彼女たちの顔を思いだすんですよ」。戦争中、Aさんの周りにいた従軍慰安婦の運命は彼の手に握られていた。「いったい何人の女性の一生を台なしにしてしまったのか……」
大宮市生まれ。洋服修理業に就いたあと、戦時中に小学校教員の資格をとった。1943年徴兵され、翌年旧満州のチチハル近くの白城子で憲兵隊の上等兵として着任した。
●兵舎近くに慰安所
仕事は庶務担当。兵隊たちの郵便の検閲をした。が、検閲は手紙だけではなかった。
「遊びの管理も庶務の仕事だったんです」
ちょっとした都市の兵舎のそばには「多くの場合、慰安所があった」。兵隊たちは外出の際には憲兵が出した、慰安婦を相手にできる「証明書」を持って出かけた。兵隊は黒、下士官は青、将校は赤。
憲兵はときに私服で兵隊たちの動きを見張り、「遊び相手の(朝鮮人)女性たちから、兵隊の証明書を回収するのが、大きな仕事でした」。
同じ慰安婦に頻繁に通う兵隊からは、女性を通じての情報の漏洩(ろうえい)の疑惑をかけ、部隊に通報、取り調べをした。
一方で軍の管理が及ばないところでは兵隊は「遊べなかった」。
「慰安婦は明らかに軍の監視、管理下にあったんです」
45年になると前線も敗戦色が濃厚になって来た。中国大陸にいた兵隊や家族は「南下列車(朝鮮半島向け)に乗るのにやっきになっていた」。
部隊長は「慰安婦を置いていくつもりだった」、とAさんは思った。ふびんさ、やり切れなさを感じた。が、「しょせんは一下士官」。
8月10日、朝から小雨。引き揚げ者の警備のため白城子のホテルを巡回していた。
日本兵の妻だろうか。生まれたばかりの子を抱えた女性が人気のないホールに倒れていた。5、6歳の息子がそばにいた。
「『もう帰る気力もない。死ぬからピストルを貸して下さい』って言うんです」
こんぺいとうを男の子にやると、黙ってなめた。駅まで親子をなんとか連れて行った。「おかげで生き返りました。家族のために必ず日本に帰ります」という母親の言葉を聞いた瞬間、Aさんは自分をしばっていた何かから解放されたような気がした。
●部隊長の命令無視
「慰安婦たちにも、彼女らを待っている家族がいる」
駅から真っすぐ慰安所に飛んで帰ると、「みんな帰るんだ」と女性たちに呼びかけた。部隊長の命令を無視して貨物列車に強引に慰安婦数十人を押し込んだ。
機関車の汽笛と構内の騒音が彼女たちの大声でしゃべる朝鮮語をかき消した。Aさんは1人の顔を見ていた。
●シベリアへ抑留に
「実は、僕にもなじみの娘(こ)がいたんですよ」。生死の境を日々目の前にして「だれかに思いを寄せずにいられなかった」。
列車に乗った彼女たちがその後どうなったか。Aさんは知らない。
シベリア抑留を経験して50年に帰国。C級戦犯になり、10年間公職追放に。教壇にたつことはあきらめた。
「一度学校で子どもを教えたかったなあ」
終戦記念日の浅草への行脚は還暦を過ぎてから70歳になるまで数回続けた。最近はめっきり足腰の衰えを、感じる。
それでも、元朝鮮人慰安婦の訪日や訴訟の動きが、Aさんに40余年前のいまわしい青春時代を突き付ける。
「僕のざんげもやめるわけにはいかない」
朝日新聞 1992年04月23日 朝刊 埼玉 01228文字
白衣 トラックに朝鮮人女性(遠き国 イルボン:6) 埼玉
週末、緊張した面持ちの若い兵隊たちは直立不動の姿勢で2つの「小袋」を受け取った。1つには軟膏(こう)が、もう1つには避妊具が入っていた。
「とても事務的な雰囲気でした」
所沢市に住むA子さん(70)は、40余年前の従軍看護婦時代の様子を話した。初めは「何かの特効薬だと思っていた」とも言う。
中国大陸に渡ったのは「お金のため」だった。勤めていた秋田県内の診療所が医師の急逝で閉鎖。看護婦養成学校の先輩から「満州の軍医部に来ないか」と声をかけられた。
両親は離婚し、父親はすでに死んでいた。大陸に行けば給料は3倍。飛びつくように話に乗った。
●「従軍」迷いなく
教育のせいだろうか。「『従軍』という言葉にも迷いはなかった」。自分をかわいがってくれた義母にも相談はしなかった。
死んだ父親の生命保険金を懐に入れて旧満州の牡丹江にたどりついたのは1940年8月。間もなく米国と開戦した。
多くの兵隊がすでに「南方」に旅だっていた。戦況はもう悪いと、思った。
軍医部の庶務担当の仕事だった。
官舎に入る前に一時、古びたアパートに同僚たちと住んでいた。引っ越しをした日の夜に忘れ物を取りに行った。
防寒服を着たまま階段を上がると、大きな声をあげながら腕を引っ張るチマチョゴリを着た女性たちがいた。怖くて逃げた。
不況や冷害のため身売りされた東北の農村の娘たちのことを思い出した、という。
「朝鮮も貧しいんだなあ」という程度の感想しか抱かなかった。
何週間かに一度、トラックの荷台に乗せられた朝鮮人女性たちが軍医部に入って来た。
検診のためだが、A子さんたち看護婦は「検診現場に立ち会うことはなかった」。
●疑問解ける思い
A子さんが、ことの重みを実感したのは最近の朝鮮人慰安婦問題が取りざたされるようになってからだという。
「あの人たちのことだったんだ」と長年の疑問が解ける思いだった、という。
「検診など軍医が慰安婦にかかわっていた可能性は強い」との証言は多い。
「軍医がもっと積極的に証言をすべきだ」との声は日朝協会埼玉県連合会がさきごろ行った「従軍慰安婦110番」に寄せられた証言の中でも少なくなかった。
A子さん自身にしても「故意ではなかったにせよ、慰安婦の管理に携わっていた、と思う」という。
従軍看護婦の仲間たちはいずれも「部隊が転戦するときは自分たちも一緒に」と決意していたという。
ささくれだった軍の中でも、「上官たちは従軍看護婦たちのことを『異性』としては見ていなかったようだ」という。
しかし、今は「あの女性たちがいたために自分の身が守られていたのだろうか」とも思えば「複雑な気持ちは否めない」。
●「私加害者です」
当時は「朝鮮人慰安婦たちは家族を救うために金のために来たと思っていた。が、実際は現地女性の略奪だったことも明らかにされて来ている。自分の経験に口を閉ざしてはいけません」とA子さんは言う。
「私も白衣の加害者ですから」(おわり)
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